雷 海野十三 Guide 扉 本文 目 次 雷      1  山岳重畳という文字どおりに、山また山の甲斐の国を、甲州街道にとって東へ東へと出てゆくと、やがて上野原、与瀬あたりから海抜の高度が落ちてきて、遂に東京府に入って浅川あたりで山が切れ、代り合って武蔵野平野が開ける。八王子市は、その平野の入口にある繁華な町である。  ──待って下さい、その八王子を、まだ少し東京の方へゆくのである。そう、六キロメートルも行けばいいが、それに大して賑かではないけれど、近頃頓に戸口が殖えてきた比野町という土地がある。  それは梅雨もカラリと上った七月の中旬のこと、日も既に暮れてこの比野の家々には燭力の弱い電灯がつき、開かれた戸口からは、昔ながらの蚊遣りの煙が濛々とふきだしていた。  丁度その頃、一人の見慣れない紳士が、この町に入ってきた。その風体は、およそこの田舎町に似合わしからぬ立派なもので、パナマ帽を目深に被り、右手には太い藤の洋杖をつき、左手には半ば開いた白扇を持ち、その扇面を顔のあたりに翳して歩いていた。彼はなんとなく拘りのある足どりをして道の両側に立ち並ぶ家々の様子に、深い警戒を怠らないように見えた。  町は狭かった。だから彼は間もなく町外れに出てしまった。  闇の中に水田は、白く光っていた。そしてそこら中から、仰々しい殿様蛙の鳴き声があがっていた。彼の紳士は、ホッと溜息を漏らすと、帽子を脱いだ。稲田の上を渡ってくる涼しい夜風が紳士の熱した額を快く冷した。 「……思ったとおりだ。……今に見て居れ」  紳士は、町の方をふりかえると、低い声で独り言を云った。  彼は、恐ろしい殺人計画を、自分だけの胸中に秘めて、この比野の町へ入りこんできたのだった。紳士と殺人計画! 一体彼は何者なのであろうか?  折から、同じ道を、向うの方からこっちへ近づいてくる人影があった。人数は二人、ピッタリと身体を寄せ合って、やってくる。なにかボソボソと囁きあっているが、話の意味はもちろん分らない。だがたいへん話に熱中していると見え、路傍に紳士が立っているのにも気づかぬらしく、通りすぎようとした。 「……モシ、ちょっと。……」  と紳士が暗闇から声をかけると、 「うわッ……」  というなり、二人の男は、その場に立ち竦んでしまった。そのときカランカランと音がして、長い竹竿が二人の足許に転がった。 「ちょっとお尋ねするが、この村に、大工さんで松屋松吉という人が住んでいたですが、御存知ありませんかナ」 「えッ……」  といって二人は顔を見合わせた。 「どうです。御存知ありませんかナ」  と紳士が重ねて尋ねると、そのうちの一人が、ひどくおんぼろな衣服の襟をつくろいながら、オズオズと口を開いた。 「ええ、松吉というのは、儂のことですが、そう仰有る貴方は、どなたさんで……」 「ナニ、あんたが松吉さんだったのか。これは驚いた」と、紳士はギクリと身体を顫わせた。「もう忘れてしまったかネ、こんな顔の男を。……」  そういいながら、紳士はポケットから紙巻煙草を一本抜きだして口に銜えると、シュッと燐寸を擦って火を点けた。  赤い燐寸の火に照らしだされた不思議な紳士の顔を穴のあくほど見詰めていた松吉は、やがて大きく眼を見張り、息をグッと嚥むようにして叫んだ。 「ホウ、立派になってはいるが、お前さんはたしかに北鳴四郎……。もう、七年になるからナ。お前さんがこの町を出てから。……」  北鳴と呼ばれた紳士は、感激深げに、しきりと肯いた。 「そうだ、七年になる。あのとき僕はちょうど二十歳だったからネ」 「……しかし、よくまアそんなに立派に出世をして、帰って来られて、お目出たい。……それに引きかえ、儂のこのひどい恰好を見て下さい。穴に入りたいくらいだ。お前さんをうちの二階に置いてあげてた頃は、自分の貸家も十軒ほどあって……」と、中年をすぎたこのうらぶれた棟梁は、手の甲で洟水をグッと抑えた。 「もういい、それよりも松さんに、ちと頼みたい事がある。お前さんばかりを頼ってきたのだ」 「おお、そうか。では、ゆっくり話を聞くとしよう」といって、俄かに傍の連れに心づき、その風体のよくない男を脇に呼ぶと、北鳴には憚るような低い声で、なにかボソボソ囁いた。対手の男はどうしたわけか不服そうであったが、やがて松吉が、やや声を荒らげ、 「ヤイ化助。これだけ云って分らなきゃ、どうなりと手前の勝手にしろ」  と肩を聳かせた。すると化助といわれた男は、ギロりと白い眼を剥いたまま、道の真中に転がっていた竹竿を拾いあげ、それを肩に担ぐと、もう一度松吉の方をジロリと睨んで、それからクルッと廻れ右をして、元来た道へトボトボと帰っていった。 「松さん。お前さんたち、今夜なにか用事があったんだろう」 「イヤなに、大した用事でもないんだ……」  そういった松吉は、気持が悪いほど、いやに朗かな面持をしていた。      2  翌日から、比野町では、大評判が立った。  一つは、七年前に町を出ていった北鳴少年が、ものすごい出世をして紳士になって帰郷してきたこと。もう一つは、村での物嗤いの道楽者松屋松吉が、北鳴四郎の取巻きとなって、どこから金を手に入れたか、おんぼろの衣裳を何処かへやり、法被姿ながら上から下まで垢ぬけのしたサッパリした仕事着に生れ代ったようになったことだった。  町の人は、寄ると触ると、二人の噂をしあった。 「おう、あの北鳴四郎は、すごい財産を作ってなア、そしていま博士論文を書いているということだア」 「どうも豪いことだのう。あいつは内気だったが、どこか悧巧なところがあると思ったよ。それにしても、四郎はあの爪弾きの松吉を莫迦に信用しているらしいが、今に松吉の悪心に引懸って、財産も何も滅茶滅茶にされちまうぞ」 「瀬下の嫁ッ子は、どう考えているかなア」 「ああ、お里のことかネ。……お里坊も考えるだろうな。四郎があんなに立身出世をするなら、英三のところへなんか嫁にゆくのでなかったと……」 「フフン、そんなことはお里の親の方が考えて、今になって失敗ったと思ってるよ。こうと知ったらお里を四郎から引放さんで置くんじゃったとナ」 「もう後の祭だ。あの慾深親父も、今更どうしようたって仕方がないだろう」 「いや、あの親父も相当なもので、町長の高村さんに頼みこんで、四郎との仲をこの際どうにか取持ってくれと泣きついているそうだ」 「町長は、どういっとる?」 「どういっとるも、こういっとるもない。高村町長はお里と英三の婚礼の媒酌人じゃ。四郎の前に出るには、ひょっとこのお面でも被ってでなければ出られまい」  そのひょっとこの面が入用だといわれた高村町長が、向うからお面もつけずに畦道をやって来たものだから、水田に草むしりをしていた人たちは吃驚した。しかもその後には、凱旋将軍の北鳴四郎と、松屋松吉とが従っていたから、その驚きは二重三重になった。  町長は白い麻の絣に、同じく麻の鼠色した袴をはき、ニコニコした笑顔を、うしろにふりむけつつ、 「……この町から博士が出るなんて、考えても見なかった名誉なことじゃ。わしはなんなりと四郎……君のために便宜を図るを厭わぬつもりじゃ。遠慮なく、申出て下され」 「いや私が珍しく帰って来たからといって、そんなに歓待して頂こうとは期待していません。ただ今申したとおり、この夏中数ヶ所に撮影用の櫓を建てて廻る地所を貸して頂くことだけには、特に便宜を与えて下さい」 「それくらいのことは何でもない、もっともっと、用を云いつけて下され。何しろ町の名誉にもなることじゃから……」  と、町長は手を取らんばかりに、北鳴四郎に厚意を寄せるのだった。すべては昨夜、町長のところに贈った思いがけなく莫大な土産品のなせる業だった。  北鳴は、町長の言葉が信じられないという風に、わざと黙っていた。  そのとき松吉は、傍にある真新しい半鐘梯子を指して、北鳴に云った。 「これを御覧なすって。これがこの一年間、儂にさせて貰った只一つの仕事なんで……。こういう具合に、町の奴等は、儂に仕事を呉れねえで、虐待しやすで……」  と、町長の方をグッと睨んだ。すると町長は、俄かに笑顔を引込め、松吉のいったことが聞えぬげに空嘯いた。 「おお、これが松さんの仕事かネ」と北鳴は、梯子を下の方から上の方へ、ずっと眼を移していったが、そのとき何う思ったものか、カラカラと笑いだした。 「……何を笑うんで……」 「何をって、君……」と、北鳴はまたひとしきり笑い続けたのち、「……梯子の上にある避雷針みたいなものも、松さんの仕事かネ」 「もちろん、儂がつけたんだが……あの雷避けの恰好が可笑しいかネ」  それは背の高い杉の二本柱の天頂に、まるで水牛の角を真直にのばしたような、ひどく長くて不恰好な銅の針がニューッと天に向って伸びているのだった。その銅針の下には、お銚子の袴のような銅製の円筒がついていて、これが杉の丸太の上に、帽子のように嵌っていた。 「これは避雷針かい、それとも雷避けのお呪いかい」 「もちろん、避雷針だよ。銅だって、一分もある厚いやつを使ってあるんで……。それにあの針と来たら、少し曲ってはいるが、ああいう風にだんだんと尖端の方にゆくにつれて細くするには、とても骨を折った。……それを嗤うというのは、可笑しい」 「うん、見懸けだけは、松さんが云ったとおり立派さ。だがこれでは近いうちに、この梯子の上に、きっと落雷するよ」 「冗談云っちゃいけない。四郎……さんは、そりゃ豪くなったことは豪くなったろうが、この建築にかけては、儂の方が豪いよ」 「梯子は建築だろうが、避雷針は電気の学問だ。それについては、私の方がずっと知っているよ。落雷するといったら、落雷することに間違いはない。夕立がやってきたとき、この梯子に登っている者を見たときは、すぐに降りるように云ってやらにゃいけない」  二人の争論を聞いていた高村町長は、横から口を出して、 「オイ松吉。北鳴さんは、博士にもなろうという方じゃないか。ちと口を慎むがいい。それに、お前の仕事のなっとらんことは、この町で知らぬ者はないぞ。わしはこの火の見梯子をお前に請負わせるようになったと聞いて強く反対したのじゃが……」  松吉は、苦がりきって、ひとりでスタスタと歩きだした。      3  翌朝から、北鳴の依頼によって、松吉の請負い仕事が始った。それは比野町の勢町というところに、高さ百尺の大櫓を二ヶ所に建てるという大仕事だった。 その工費は全部で六百円。この仕事が済めば松吉の懐中には、少なくも三百円の現金が残るはずだった。その上、北鳴の実験が済んでしまえば、この櫓に使った杉の丸太は、すべて松吉の所有になる約束だったから、なんのことはない、人夫の手間以外は、まる丸儲けの形だった。 「やあ、北鳴の四郎さんじゃありませんか。これはお久しゅう」  といって、工事を指図している北鳴のところへ近づいてきた商人体の老人があった。 「ああ、私は北鳴ですが貴方は誰方でしたかナ」  といって、北鳴は藤の洋杖の頭についたピカピカする黄金の金具を撫でながら、訝しそうに応えた。だがその言葉の語尾は、なんとなく怪しく慄えを帯びていた。 「……ああ、お忘れになったも無理はない。私は五年前からひどい腎臓を患うたもので、酒と煙草とを断ち、身体は痩せるし顔色は青黒くなるし、おまけに白髪が急に殖えてきて……とにかく姿は変りましたが、稲田仙太郎ですわい」 「稲田仙太郎?……ああ稲田のお父っさんでしたか」 「稲田のお父っさん?……おお、よく云って下すった。お父さんと今でも呼んで呉れますかい。それでは貴方はこの私を憎んではいなさらぬのだナ。ああ私はどんなにか安心をしましたわい。……北鳴さん、立派になられたなア。こんなに立派になられようとは、遉の私も全く思いがけなかった」 「はッはッはッ。なにを仰有います。……」  北鳴は身を後へ反らせながら、晴れやかに笑った──つもりだったが、その高らかな声の中に依然たる空虚な響の籠っているのが隠せなかった。 「……聞けば、博士論文を書くため、この町へ帰って来られたそうだが、この高い櫓も、その博士論文の実験に使うとかいう話を聞きました。私の家の二階からは、丁度この二つの櫓が、よく見えるので……どっちも私の家から丁度同じ位の距離ですナ……それで御機嫌伺いかたがたやって来ましたが、仕事のお閑には、ぜひ家へ寄って下さい。婆も、貴方に一度お目に懸って、是非一言お詫びがしたいといっていますわい」 「お詫びなどと、そんな話はよしましょう。……しかしお薦めに従い、近いうちにお邪魔に上りますよ」  そういう話のうちに、さっき西空に投げだしたような黒雲があったと思ったが、それがいつの間にやらグングンと黒い翼を拡げてしまって、誰が見ても相当物凄い夕立の景色になってきた。サッと一陣の涼風が襟首のあたりを撫でてゆくかと思うと、ポツリポツリと大粒の雨が降って来た。  櫓を組みかけた工事場では、縄を腰簑のように垂らした人夫が丸太棒の上からゾロリゾロリと下りてくるのが見られた。傍に繋がれた馬は轅を外されて、人家の軒の方に連れてゆかれようとしている。そこへ工事監督の松吉がバラバラと駈けてきた。 「ねエ、北鳴の旦那。……これはちょうど夕立が来ますから、皆を休ませますよ」 「休ませちゃ困るな。まだ三十尺も出来てないじゃないか」と北鳴は苦がい顔をした。「よしッ、今日一杯に百尺の櫓が出来れば、百両の懸賞を出す」 「えッ、百両」と松吉が驚く。 「ほう、百両の懸賞!」と稲田仙太郎も共に驚いた。なんという思い切ったことをする北鳴だろう。ワンワン金が唸っている彼の懐中が覗いてみたいくらいだった。 「じゃ、やりましょう。……オイ皆、休んじゃいけないぞ。後で一杯飲ませるから、なんでも彼でも、今日中に組みあげてしまうんだ」  しかし人夫はなかなか動こうとしなかった。この土地は、甲州地方に発生した雷の通り路になっていた。折柄の雷のシーズンを迎えて、高い櫓にのぼるには、相当の覚悟が必要だった。  人夫の逡巡のうちに、いよいよ疾風がドッと吹きつけてきた。黒雲は、手の届きそうな近くに、怒濤のように渦を巻きつつ、東へ東へと走ってくる。  ピカリッ!  一閃すると見る間に、向うの野末に、太い火柱が立った。落雷だ。 「……どうです、北鳴さん。私の家はすぐそこですから、夕立の晴れるまで、ちょっとお寄りなすって雨宿りをせられてはどうです」  稲田老人は、北鳴四郎の洋服を引張らんばかりにして云った。 「ええ、ではちょっと御厄介になりますかな」 「ああ、それは有難い。……ささ、そうなされ」  北鳴は、松吉を激励して、工事場を出ようとした。そのとき外からアタフタと駈けこんで来た男があった。 「オイ松さん。松さんは居ないか」 「おお化の字。儂はここに居るが……何か用か」 「やあ松さん、たいへんだ。お前の建てた半鐘梯子に雷が落ちたぞ。バラバラに壊れて、燃えちまった。下に繋いであった牛が一匹、真黒焦になって死んでしまったア」 「ええッ。……」  呆然たる松吉の方を、それ見たかといわん許りの眼つきで睨んで、北鳴四郎は沛然たる雨の中を、稲田老人と共に駈けだしていった。      4  いまは瀬下英三に嫁入った娘お里の、曾ての情人北鳴四郎を、稲田老人夫妻は二階へ招じあげて、露骨ながらも、最大級の歓待を始めたのだった。  そこには、酒の膳が出た。近所で獲れる川魚が、手早く、洗いや塩焼になって、膳の上を賑わしていた。 「折角ですが、酒はいただきませぬ」 「まあ、そう仰有らずに、昔の四郎さんになってお一つ如何」  と老婆は執拗にすすめる。 「いや、博士論文が通るまでは、酒盃を手にしないと誓ったので、まあ遠慮しますよ」 「へえ、四郎さんが、博士になりなさるか。……」  と、老婆は稲田老人と目を見合わせて、深い悔恨の心もちだった。お里の今の婿の英三は、一向に栄えない田舎医者。老人の腎臓を直したのが、関の山、毎日自転車で真黒になって往診に走りあるいているが、宝の山を掘りあてたという話も聞かなければ、博士はおろか、学士さまになることも出来ないらしい。いずれ親譲りがある筈だった財産というのも、近頃親の年齢甲斐もない道楽で、陽向に出した氷のようにズンズン融けてゆくという話である。その当て外れした心細さに引きかえ、曾ては仲を裂きまでした北鳴が、こうして全身から後光の出るような出世をして、二千円や三千円の金は袖に入れているという風な豪華さで、さらに博士まで取ろうとしている。老人たちにとって、それは痛くもあり、且つは羨しいことであった。なんとかして機嫌をとって置いて、何とかして貰いたいものをと、彼等の慾心は勘定高いというにはあまりにも無邪気だった。 「……そこで四郎さん。あの高い櫓を拵えてどんなことにお使いなさるですか」  と、老夫人は団扇の風を送りながら訊いた。 「ホウ、それそれ。わしもそれを伺おうと思っていたところだ。……」  と稲田老人も膝をすすめる。 「……あの櫓のことですか」と、二人の顔を見て北鳴はニヤリと笑った。二階の欄干をとおして、雨中に櫓を組む人夫の姿が、彼の眼底に灼きつくように映った。 「はッはッはッ。あれを見て、貴方がたはどんな風にお考えですか。いやさ、どんな感じがしますかネ」 「どんな感じといって、……別に……」  と、老人夫妻はその答に窮したが、そのときの気持を強いて突き留めてみれば、この二階家から同じ距離を置いて左右に二個所、目障りな櫓を建てられ、なんとなく眩暈のするような厭な気分が湧くという外になかった。しかしそんな非礼な言葉を、この福の神に告白して、その御機嫌を損ずる気は毛頭なかったのである。 「あれは、赤外線写真でもって、活動写真を撮るためなんですよ」 「へえ活動ですか。……何の活動を……」 「それはつまり甲州山岳地方に雷が発生して近づいてくる様子を撮るのです。この写真機というのが私の発明でしてネ。従来の赤外線写真では出来ない活動を撮ります」 「ははア、雷さまのことだから、高い櫓が要るのですナ。しかし二本も櫓を建てたのはどういう訳ですか」 「櫓が二つあるというわけは……」と、北鳴四郎はちょっとドギマギした風に見えた。「それはつまり、相手が雷のことですから、櫓には避雷針を建てますが、いつ雷にやられるとも限らない。それで一方が壊されても、他の方が助かって、目的の活動が撮れるようにというわけです」 「なるほど。……して、その活動は誰が撮るのですか」 「それは私です。私只一人が、あの櫓にのぼって撮ります」 「ほほう、それは危い」 「ナニ大丈夫です。……私はネ」  そんな話の間に、雨は急に小やみになってきた。雲間がすこし明るく透いてきた。雲足は相変らず早く、閃光もときどきチカチカするが、雷鳴はだいぶん遠のいていった。どうやら今日の夕立は、比野の町をドンドン外れていったらしい。  そこへお手伝いが上って来て、下へ松吉が訪ねて来たという知らせだ。幸い雨は上ったことだし、北鳴四郎は辞去を決して、二階を下りていった。老人夫婦は残念そうに、その後について、送ってきた。  松吉は土間に突立っていた。 「北鳴の旦那。避雷針の荷が今つきました。ちょっと見て頂きとうござんす」 「そうか。荷は皆下ろしたかネ」  松吉は大きく肯いた。  北鳴は、土間に下りながら、そこに積まれた夥しい油の缶に目をつけた。 「ああ、これは危険だねエ。稲田さん、いつこんな油の商売を始めたんです」 「へへへへ。──これはもう二年になりますネ。東京から商人が来ましてネ。しきりにこの商売を薦めていったもんです。資本はいらないから始めてみろ、商売がうまく行けば、信用だけでドンドン荷を送るというので、つい始めてみましたが、……たいへんよく気をつけてくれるので、まあそう儲りもしないが、損もしないという状態で……」 「これはサンエスの油ですネ。そして笹川扱いだ」 「ほう、よく御存知ですナ。……博士になる人は豪いものだ、何でも知ってなさる」  北鳴は、また気味のわるい笑みをニッと浮べて、稲田夫婦をふりかえった。 「こういう油類を扱っているのなら、屋根に避雷針をつけないじゃ危険ですよ。もし落雷すれば階下から猛烈な火事が起って、貴女がたは焼死しますぞ」 「ええ、そうだと申しますネ。娘夫婦も前からそれを云うのですが、そのうちに避雷針を建てることにしましょう」 「それがいいですよ。しかしこの松さんには頼まぬがいい。この人の避雷針は、肝心な避雷針と大地とを繋ぐ地線を忘れているから、さっきの火の見梯子の落雷事件のように、避雷針があっても落雷して、何にもならぬのです。私は、こんど建てたあの櫓の上に、理想的に立派な避雷針をたてるつもりですから、是非見にいらっしゃい」  稲田夫婦は、それをしきりに感謝していた。 「いいですネ。早く避雷針をお建てなさい」  と、北鳴は重ねて云った。 「北鳴の旦那の櫓の上に避雷針が建てば、この近所の家は、一緒に雷除けの恩を蒙るわけでしょうかネ」  北鳴には、松吉の質問が聞えたのか聞えなかったのか分らないがそれに応えないで、すっかり雨のあがった往来に出ていった。      5  それから二日後のことだった。  その日は、稀に見る蒸し暑い日だったが、午後四時ごろとなって、比野町はその夏で一番物凄い大雷雨の襲うところとなった。それは御坂山脈のあたりから発生した上昇気流が、折からの高温に育まれた水蒸気を伴って奔騰し、やがて入道雲の多量の水分を持ち切れなくなったときに俄かにドッと崩れはじめると見るや、物凄い電光を発して、山脈の屋根づたいに次第次第に東の方へ押し流れていったものだった。  ゴロゴロピシャン! と鳴るうちはまだよかった。やがて雷雲が全町を暗黒の裡に、ピッタリと閉じ籠めてしまうと、ピチピチピチドーン、ガラガラという奇異な音響に代り、呼吸もつがせぬ頻度をもって、落雷があとからあとへと続いた。  その最中、町では大騒ぎが起った。 「おう、火事だ。ひどい火勢だッ」 「これはたいへんだぞ。勢町の方らしいが、あの真黒な煙はどうだ。これは油に火が入ったな」  篠つく雨の中を、消防組の連中が刺子を頭からスポリと被ってバラバラと駈けだしてゆくのが、真青な電光のうちにアリアリと見えた。手押喞筒の車が、いまにも路の真中に引くりかえりそうに激しく動揺しながら、勢いよく通ってゆく。 …… 「おう、火事は何処だア」 「勢町だア。稲田屋に落雷して、油に火がついたからかなわない。ドンドン近所へ拡がってゆく……」 「そうか、油に火が入ったのだと思った。蒸気喞筒はどうした」 「油に水をかけたって、どうなるものかアと騒いでいらあ。……」  それから暫くたって、また別のニュースが町の隅々まで拡がっていった。 「稲田屋のお爺イとお婆アとが、焼け死んだとよオ。……」 「そうかい。やれまあ、気の毒に……。逃げられなかったんだろうか」 「逃げるもなにも、雷に撃たれたんだということだ。たとい生きていても、階下に置いてあった油に火がつけば、まるで生きながらの火葬みたいなものだ。どっちみち助からぬ生命だ」  北鳴四郎が云った言葉が箴をなして、稲田老人夫婦は、悲惨なる運命のもとに頓死をしてしまった。惨劇の二時間がすんで、午後六時ともなれば、人を馬鹿にしたように一天は青く晴れわたり頭上には桃色の夕焼雲が美しく輝きはじめた。  油店からの火災も、附近数百を焼いただけで、それ以上延焼することもなく幸いに鎮火した。調査の結果によると比野町での落雷は意外に少く、僅か七ヶ所を数えるだけで、多くは電柱に落ち、人家に落雷したのは彼の稲田屋一軒だったとは、町の人々の予想に反した。  殊に人々を驚かせたのは、稲田屋の近くの高い櫓の上に、ズブ濡れとなっていた北鳴四郎が何の被害も受けなかったことだった。人々はたしかに幾度となく、櫓の上にピチンピチンと音がして、細いは細いながら閃光がサッと舞い下りるのを目撃した。あのとき櫓の上に人間が居たとしたら当然雷撃を蒙ったろうと思われるのに、町の客人、北鳴四郎が平然としてあの高櫓の上に頑張っていたとは、まるで嘘のような話だった。  夜に入って、北鳴は稲田屋の惨事を見舞いのために、人々の集っているところに訪ねてきた。そして二つの白い棺の前に恭しく礼拝したのち、莫大な香奠を供えた。彼がそのまま帰ってゆこうとするのを、人々はたって引留めた。そして口々に、彼の幸運話を聞かせてくれるようにと無心したのだった。 「私のことなら、別に不思議はありませんよ」と北鳴は云った。「避雷針を持っている者は、誰だって、ああいう風に平気で安全でいられますよ。但し、これだけはハッキリ申して置きますが、避雷装置は完全でなければならないということです。先日、私はこの町で、恰好だけは仰々しく避雷針の形をして居り、その実、一向避雷針になっていない不完全避雷針を見ました。皆さん、本当の避雷装置というのは、あの尖がった長い針を屋根の上に載せて置くだけでは駄目です。あの針は、雷を引き寄せるだけの働きしか持っていないのです。あの針は、太い撚り銅線を結びつけ、その撚り銅線を長く下に垂らし、地面の下に埋め、なおその先に、一尺四方以上の大きな金属板をつけて置かなくちゃあ、避雷装置になりません。なぜって、その銅線は、針のところへ引き寄せた雷をそのまま素早く地中に流してやる通路なのです。つまり雷の正体は、電気なのですからね。その通路が完全に出来ていなければ、折角針に引き寄せた雷は、仕様ことなしに、柱や壁を伝わって地中へ逃げるから、それで柱や壁が燃えだしたり、その傍にいた人畜は電撃をうけて被害を蒙るのです。私の場合は、そういった避雷装置が完全に出来ていたので、櫓の上の四尺四方ほどの板敷の上に、平気の平左で雨に打たれていたというわけなんですよ。これで万事お分りでしょうネ」  聞いていた人々は、聞いている間だけは北鳴の話していることがよく分った。しかし彼の話が一旦終ってしまうと、なんだか模糊としてきて、分ったような分らぬような気持になってきた。本当に分ったのは、小学校の先生と、そして年のゆかぬ中学生ばかりだったといってもよいくらいだった。  そのときだった。外から大きな花束を抱いて入って来た二人の男女があった。 「まあ皆さん、すみませんわネ。亡くなった両親のために、こんなにお集りいただいて……」  と、二十五、六にもなろうという楚々として立ち姿の美しい婦人が挨拶をした。筆で描いたような半月形の眉の下に、赤く泣き腫れた瞼があって、云いは云ったが、その心の切なさをギュッと噛んだ可愛い唇に辛うじて持ち耐えているといった風情だった。この女こそは噂の主、今は亡き稲田老夫婦の遺児お里に外ならなかった。──奥のかた霊前では、既に立ち去ろうとした北鳴四郎が、ばつの悪そうな、というよりも寧ろ恐怖に近い面持をして、落著かぬ眼を四囲にギロギロ移していた。      6 「奥に四郎さんが来ていますよ」  と、お里に注意をした者があった。 「まあ、四郎さんが……」  その昔の情人、北鳴四郎がこの町に帰ってきているとは、予て町の人々からうるさいほど噂には聞いていたが、思いがけなく、この奥に四郎が居ると聞かされて、お里は吾れにもなくポーッと頬を赤らめた。とたんに両手に抱えていた花束が、急にズッシリと重くなったのを感じた。  だが、その瞬間、お里の心は静かな湖水の水のように鎮まっていった。昔は昔、今は今である。今は夫英三に仕える心の外に、何物もない。何者にも恐れることはないのだ。恐らく四郎は、あの日、彼を裏切った自分や、露骨な妨害を試みた亡き両親などに復讐の念を抱いて、この町へ帰ってきたのだろう。しかしそれは今更、詮ないことだ。恨みといえば、恨みは彼女自身にあったかも知れない。なぜあのとき、四郎はもっと率直に、そしてもっと大胆に振舞ってはくれなかったのだろう。英三との縁談が降って湧いたとき、なぜ自分を唆かして、共にこの町から逃げようとはしなかったのだろう。お里に云わせると、四郎は温和な悧巧な美少年だったけれど、あまりにも心が弱かったし、女のように拗ねたがる男であったし、そして自らは知らぬらしいが見栄坊でもあった。彼は、そのために、決断力が足りなくて、そして自分で恋を捨てたようなものだった。彼は博士になるという話だが、人間放れのした博士には当然なれるかも知れない。しかし一人として血の通った女を手に入れることは出来ないであろうと思った。──彼女は、もうこうなれば、彼から恨みがましい言葉を聞いたときには、なにもかもその場に勇敢にぶちまけて、彼の卑屈な性根を叩きのめし、揚句の果に死んでしまってもいいと決心をした。  そこでお里は、重い花束を左手に持ちかえて、しずしずと奥の方へ進んでいったのであった。 「ほんとに四郎さんだったわネ。……ずいぶん暫くでしたのねえ。……」  四郎は木乃伊のように硬くなっていた。 「やあ、お里ちゃん。暫くでしたネ。……ところで今度は、御両親たちは飛んだ御災難で……」 「ええ、飛んだことになりまして。……」  四郎の言葉には、すこし余所余所しいところがあるばかりで、一向恨みがましい節も見えなかった。お里はこれを感ずると、それまでの張りつめた気が急に緩んで、全く弱い女になりきってその場に泣き崩れた。  すこし遅れて入って来た英三は、この場の光景に、ムラムラと憤懣の気持を起した様子で、 「おお貴方が北鳴君ですか。僕がお里の亭主の英三です」  と、叩きつけるように云った。  それを聞くと同時に、四郎の顔から、今までの含羞や気弱さが、まるで拭ったように消え去った。彼は、くそ落付に落付いて挨拶を交わした。 「やあ……。申し遅れましたが、私が高層気象研究所の北鳴です。こんどは御両親が飛んだことで。……それに貴方も、類焼の難に遭われたとかで、なんともはや……」  この静かな挨拶に、英三とても自らの僻んだ性根に赭くなって恥入ったくらいだった。  火を噴くかと思われた恋敵同士の会見が、意外にも穏かに進行していったので、一座は思わずホッと安心の吐息をした。それからのちも北鳴は、憎いほど謙遜と同情の態度を失わず、英三とお里とを反って恐縮させた上、最後に、彼等夫婦が想像もしていなかったような好ましい提言をした。それはこの比野町の西端に、新築の二階家があって、それを抵当流れで実は建築主から受取ったものの、自分はこの町に住むつもりはないので、空き家にして放っておくより法がない有様である。もし差支えなかったら、焼け出されたのを機会にといっては失礼だが、家賃なしでそこに住んでいてくれぬか。家が荒れるのが助かるだけでも自分は嬉しいのだがと、四郎は誠実を面に現わして説明した。  この思いがけない申出に、行き所に悩んでいた英三夫妻は内心躍りあがらんばかりに喜んだがともかくその場は明答を保留することとした。そして再会を約して、穏かな一失恋者を門口まで送っていったのであった。  四郎は外に出ると、暗闇の中でニヤリと薄気味の悪い笑いを口辺に浮べた。 「……今に見て居れ。……沢山驚かせてやるぞ!」  彼は口の中でそれを言って、獣かなにかのように低く唸った。──そして彼は、スタスタと歩を早めて、町外れの松吉の住居さして急いだのであった。  その頃、松吉は家の中で、まるで熟柿のようにアルコール漬けになってはいたが、その本心はひどく当惑していた。その原因は、膳を距てて、彼の前に座を占めている真々川化助に在った。      7  化助は、深酔に青ざめた顔をグッと松吉の方に据え直しながら、ネチネチと言葉を吐くのであった。 「おう……俺を見忘れたか。手前なんかに胡魔化される俺と俺が違わあ……どうだ、話は穏かにつけよう。あの青二才から捲き上げた金を五十両ほど黙って俺に貸せッ」  松吉は、顔一杯を顰めて、グニャリとした手をブランブランと振りながら、 「こら化助。お前はとんだ思い違いをしているぞ。この儂は、まだ鐚一文も、四郎から受取っちゃ居ねえのだ。これは本当だ」 「嘘をつけッ、このヒョットコ狸め! 誰がそれを本当にするものかい」 「……だから手前は酔っているんだ。……お前も知ってのとおり、四郎に請負った仕事は、たった一ヶ所だけ済んだばかりだ。約束どおり、あと二ヶ所の約束を果さなきゃ、四郎の実験は尻切れ蜻蛉になるちゅうで、つまりソノ……お金は全部終らなきゃ、儂のところへは、わたらぬことになっとるじゃア! な、分ったろう」 「うまく胡魔化しやがる。……それは、ほ、本当かい」 「本当だとも、あと二ヶ所だ。……それが全部済んだら、きっと呑ましてもやるし、今云った金子も呉れてやる。……」 「呉れてやるとは、ヘン大きくお出でなすったなア……だ。……じゃ松テキ、その約束を忘れるなよ。忘れたり、俺を袖なんぞにして見ろ。そのときは警察に罷り出で、おおそれながら、実は松テキの野郎と長い竹竿を持ちまして、町内近郊をかくかく斯様でと。……」 「コーラ、何と云う。……」  松吉は矢庭に化助の後にとびかかって、その口を押えようとする。化助は、何を生意気なと後を向いて噛みついてくる。そこで膳部も襖も壁もあったものではない落花狼藉!  そこへヒョックリと、北鳴四郎が入ってきた。 「松吉さんは、御在宅かネ」 「ホーラ、誰か来た」というので、まず立ち上って狼狽を始めたのは前科四犯の真々川化助だった。彼はグッタリしている松吉を助け起してその胸ぐらを一と揺ぶりして、呼吸のあるのを確めた上、裏口から飛鳥のように逃げだした。 「……松さんは、居ないのかア。……」  四郎は、また怒鳴ったが、どうやらそれはわざとらしかった。 「……へえい。松吉は居りますです」  はだけた前から膝小僧の出ているやつを、一生懸命に隠そうとしながら、松吉は狼藉をつくした一間の真中に、声のする方を向いて畏まった。酔もなにも、一度に醒めてしまった恰好だった。  そこへ北鳴四郎が、ヌッと這入ってきた。 「おい松さん。酒は仕事が済めばいくらでも呑ませる。それまでは呑むなといっといたじゃないか」 「へへい。……へえい。……」  と、松吉はペコペコ頭を下げ続けた。 「……さあ、明朝から、いよいよ次の仕事だ。それについて話をしたいが、そんなに酔っていては、話どころの騒じゃない。……私は家に待っているから、醒めたところで直ぐ来い。いいか、今夜はいつまでも起きているからネ」  そういうと、恐縮しきっている松吉を尻目にかけて、北鳴は宿の方へ帰っていった。  それから小一時間経った後のこと、松吉はまだ少しフラフラする足を踏みしめながら、服装だけは一張羅の仕事着をキチンと身につけて、恐る恐る北鳴の宿に伺候した。 「オイ、本当にもう大丈夫か。酔っとりはしないというのだな」 「へえ、もう大丈夫でして。……」  と、松吉はまたペコペコ頭を下げた。 「では、もっとこっちへ寄れ。……明日からの仕事の櫓だ」  松吉は、ペコリとお辞儀をして、近よるどころか、少し後へ下った。  北鳴の示した図面によると、今度の二基の櫓は、比野町の西端、境町の水田の上に建てることになっていた。構造は前と同じようなものであった。しかし材料はすべて、新しいものを使い、例によって、明日一杯ぐらいに建ててしまえという命令だった。松吉は確かに承知した旨、回答した。  その後で、松吉は酔っていないのを証明するために、北鳴と雷問答を始めたのだった。 「ねえ、北鳴の旦那。今年は、雷が非常に多くて、しかも強く、町の上にポンポン落ちるような気がしますが、どうしたわけでしょうナ」  北鳴はジロリと横目で松吉を睨み、 「お前が、妙ちきりんな避雷針を建てたりするからだ」 「……でも旦那」と、彼は膝を進めて「そういっちゃなんですが、旦那の櫓も、上に避雷針をのっけて、妙に高い高価な銅線を地中に引張り込んでサ、あれは何とか写真の活動写真を撮るためだといいなさるが、むしろ村にゃ似合わない素晴らしい避雷針を建てたようなものですよ。儂は思いますよ。避雷針があると、かえって雷を引き寄せて、落雷が多くなるとネ。それも、素敵な避雷針は、なお強く、雷を呼び寄せる。……」  北鳴四郎は、苦がり切った面を、松吉の方に向け、 「素人に、何が分る。雷は、お前たちの手にはどうにもなりゃしない」 「では、雷には玄人の旦那には、雷が手玉に取れるとでも云うのですかネ。そんなことがあれば、仕事の上に大助かりだね。教えて貰いたいものだ」 「莫迦を云いなさい。……私には勿論のこと、誰にもそんなことが分っているものか」  と四郎は強く打ち消した。しかし彼はそれを云った後で、なぜか妙に怯えたような眼をしていた。      8  英三とお里は、北鳴の好意によって、境町の新築の二階家へ引越していった。そこで新しい木の看板を懸け、階下を診察室と薬局と、それから待合室とに当て、二階を夫妻の住居に選んだのだった。それは全く、何とも云えない爽々しい気分であって、二人は夢のように悦び合った。これならば、門をくぐる患者も殖えることであろうと思われた。 「オイお里。……どう考えても、北鳴氏は親切すぎやしないかねえ」 「アラいやアね。また始まった。一体貴郎は幾度疑って、幾度信じ直せば気がすむんでしょ。……すこし気の毒になってきたわ」 「なアに、疑っているというほどではないよ。……それは親切でなくて、僕たちが幸運で、お誂え向きのところへ嵌ったといった方がいいかもしれない。とにかく、この家は素敵だぜ」  まだ子供のない二人は、いつも新婚夫婦のように若々しくて、仲がよかった。 「オイオイ、ちょいと上って来てみろ、妙な櫓が建つ!」  と英三は階下の細君に向って叫んだ。 「アラ櫓ですって。……」  お里は驚いた顔つきで、トントンと急な階段をのぼってきた。 「まあ本当だわ。右と左と、同じような櫓ですわネ」 「どこかで見たような櫓だネ」 「どこかで見たって、ホホホ、もち見た筈よ。だって、里のお父さんの家の二階から見えたと同じような櫓ですわ」 「そうそう、憶い出した。……すると、あれは矢張り、北鳴氏の実験に使うものなんだネ。ほう、妙な暗合だ」 「赤外線を採集して映画を撮るんだということですけれど、それなら櫓は一つでよかりそうなものだわ。二つは要らないでしょうにネ。変だわネ」  お里も、町長の高村翁と同じような疑問を懐いていた。 「うん、そうだ。赤外線写真と云えば、君の兄さんも、しきりにあれに凝っていたっけ」 「そうよ、雅彦兄さんは、赤外線写真が大の自慢よ。……そうだ、そういえばあたし兄さんのところへ、手紙を出すのを忘れていた」 「なんだ。またかい、忘れん坊の名人が。……」  二人はそこで声を合わせて笑った。彼等の背後に、恐ろしい悪魔が、爛々たる眼を輝かせ、鋭い牙を剥いていようとは、古い言葉だが、神ならぬ身の、それと知る由もなかった。  英三夫妻の移った二階家から、丁度等しい距離を置いて左と右とに、同じ様な高さ百尺の櫓が、僅か一日のうちに完成した。  四郎は工事場をあっちへブラブラ、こっちへブラブラと歩きまわっていたが、非常に嬉しそうに見えた。 「北鳴の旦那。……」と、肩の重荷をまた一つ下ろした筈の松吉が、浮かぬ顔で、彼を呼び止めた。 「なんだ、松さん。……素晴らしい出来栄えじゃないか」 「ねえ旦那。儂は今度は、なんだか自暴に気持が悪くて仕方がない。なんだかこう、大損をしたような、そしてまた何か悪いことがこの櫓に降って来るような気がして、実に厭な気持なんで……。最後の、三番目の仕事までは、旦那がなんといったって、儂は暫く休みますぜ」 「なんだ、気の弱い奴だ。この櫓に、どうして悪いことが起るものか、そんな馬鹿げたことは金輪際ないよ」 「イヤ、儂はだんだん妙な気がしてくる」と松吉は俄かに青ざめながら「どうも変だ。この櫓の上に、物凄い雷が落ちて、真赤な火柱が立つ。……それが目の前に見えるようなので。……ああッ……」  と云うと、松吉はフラフラと眩暈を感じてよろめいた。 「なんと無学な奴は困ったものだ」と北鳴は松吉の腕を支えた。「この櫓には、学問で保証された立派な避雷針がついているんだ。神様が悪魔になったって、この櫓に落雷などしてたまるものかい。はッはッはッ、莫迦莫迦しい」      9  二度目の櫓は建ったが、北鳴四郎はそれを利用することなくして、来る日来る日を空しく送った。それは、折角待ちに待った雷雲が一向に甲州山脈の方からやってこないためだった。  その間に、松吉はひどく神経質になり、而もたいへん嫌人性になって、彼の穢しい小屋の中に終日閉じ籠っていた。  その間にも、前科者の化助は、毎日のようにやって来て、松吉から金を絞り取ってゆこうと試みた。松吉は泣かんばかりになり、化助を追い払うことに苦しんだが、そのうちに松吉がどう化助をあしらったものか、バッタリ来なくなってしまった。  遉の北鳴も、雷の遅い足どりを待ち侘びて、怺え切れなくなったものか、櫓の上から活動写真の撮影機の入った四角な黒鞄を肩からブラ下げてブラリと町に出、そこに一軒しかない怪しげなるカフェの入口をくぐって、ビールを呑んだりした。  そのうちに、このカフェから、妙な噂が拡がっていった。それは元々、つい一両日前からこのカフェの福の神となった化助の口から出たことであったけれど、北鳴のさげている鞄には撮影機が這入っているにしてはどうも軽すぎるという話だった。撮影機が入っているなどと北鳴が嘘をついているのだろうという説と、そうではなくて、北鳴の持っている撮影機のことだから、さぞ優秀な品物で、軽金属か何かで拵えてあり、それでたいへん軽いのだろうと説をなす者もあった。しかしとにかく、北鳴の鞄は解ききれぬ疑問を残して、町の人々の噂の中に漂っていた。  それは丁度、二度目の櫓が建って七日目のこと、四郎がジリジリと待ったほどの甲斐があって、朝来からの猛烈な温気が、水銀柱を見る見る三十四度にあげ、午後三時というのに、早くも漆を溶かしたような黒雲は、甲州連山の間から顔を出し、アレヨアレヨと云ううちに氷を含んだような冷い猛烈な疾風がピュウピュウと吹きだした。  雷の巣が、そのまま脱けだしたかと思うような大雷雲が、ピカピカと閃く電光を乗せたまま、真東指してドッと繰りだして来たところは、地方人の最も恐れをなす本格的の甲州雷だった。午後三時半には、比野町は全く一尺先も見えぬ漆黒の雲の中に包まれ、氷柱のように太い雨脚がドドドッと一時に落ちてきた。それをキッカケのように、天地も崩れるほどの大雷鳴大電光が、まるで比野町を叩きつけるようにガンガンビンビンと鳴り響き、間隔もあらばこそ、ひっきりなしにドドドンドドドンと相続いて東西南北の嫌いなく、落ちてくるのだった。  北鳴四郎は、勇躍して高櫓の上に攀じのぼった。彼は避雷針下の板敷の上に、豪雨に叩かれながら腹匍いになった。小手を翳して仰げば、避雷針は一間ほど上に、厳然と立っていた。そこには太い撚り銅線がシッカリと結びつけられて居り、その銅線は横にのびて、櫓の横を木樋の中に隠れて居る。銅線はその木樋の中を貫通して、百尺下に下り、それから地中に潜って、雷の通路を完成している筈だった。だから彼の身体は、落雷に対して、全く安全であった。  彼は、雨の中に身体をゴロンと寝がえりうつと、開こうともせぬ黒鞄の陰から、下の方を睨んだ。ハッキリとは見えないが、遥か下に、英三とお里の住む二階家が雨脚の隙間からポーッと見えた。──そのとき彼の容貌は、にわかに悪鬼のように凄じく打ちかわり、板敷の上にのたうちまわって哄笑した。 「うわッはッはッはッ。……見ていろ! お前たちもこれから直ぐに稲田屋の老ぼれたちの後を追わせてやるぞ。雷に撃たれてから気がつくがいい。赤外線映画を撮るなどとは、真赤な偽りで、ただこの雷よせの櫓を作りたかったためなんだ。天下に誰が、この俺の考えた奇抜な殺人方法に気が付くものか。ああ俺は、七年前の恨みを、今日只今、お前たちの上にうちつけてやるのだ。うわッはッはッはッ」  その物凄い咆哮に和するかのように、流れるような雨脚とともに、雷鳴は次第次第に天地の間に勢を募らせていった。 「おお、荘厳なる雷よ! さあ、万丈の天空より一瞬のうちに落下して、脳天をうち砕き、脾腹をひき裂け!」  彼はこの世の人とも思われぬ、すさまじい形相をして、恐ろしい呪いの言葉を吐いた。  そのときだった。  紫電一閃!  呀っと叫ぶ間もなく、轟然、地軸が裂けるかと思うばかりの大音響と共に、四郎の乗っている櫓は天に沖する真赤な火柱の中に包まれてしまった。  北鳴四郎の身体は、一瞬のうちに一抹の火焔となって燃え尽してしまったのである。      ×   ×   ×  丁度その頃、お里の兄の雅彦は、下り列車が比野駅構内に入るのも遅しとばかり、ヒラリとホームの上に飛び下りた。それから、改札口を跳び越えんばかりにして、駅の出口に出たが、なにしろ物凄い土砂降りの最中で、声をかぎりに呼べど、俥もなにも近づいて来ない。彼は地団太を踏みながら、その手には妹から来た手紙をシッカリ握りしめていた。 「ああ、妹たち夫婦は、この雷鳴の中に、もう死んだに違いない」彼は呻くように云った。「北鳴四郎というやつは、八つ裂にしてもあき足らぬ悪漢だ。彼はおれの書いた落雷の研究報告を悪用して、あの恐るべき殺人法を思いついたのだ。目的物の近傍に、高い櫓を二基組み、その上に避雷針を建てる。すると近づいた雷雲は、もちろん二基の避雷針の上にも落ちるが、丁度二基の中間にある目的物の上にも落ちる。その目的物に避雷装置があればいいが、もしそれがなければ恐ろしい落雷が起る! それはおれの研究の逆用じゃないか! そんな恐ろしい計画のもとに、両親が殺されたとは、この手紙を見るまで、どうして想像ができたろう。いや慨くのは後でもいい。今はたった一人の愛すべき妹とその夫が、全く同じ手で殺害されようとしているのだ。……ああ、おれはもう、この雷鳴の済むまで待ってなどいられないんだッ」  そう叫ぶとともに、雅彦は大雷雨の中に、豹のように躍りだしていった。彼は自分の身にふりかかる危険などは考えていられなかった。ただ一途に、愛すべきたった一人の同胞であるお里を救うの外、なんの余念もなかった。  果して彼は目的地点で、何を発見したろうか。  無残なるお里と、その夫英三の惨死体だったであろうか?  いや、そうではなかった。それは全く思いがけない懐しい妹の笑顔だった。もちろん英三も共に無事だった。悪い籤を引き当てたのは、実にこの奇抜な殺人計画をたてた悪人北鳴四郎があるばかりだった。兄弟は、夢とばかりに抱きあって、悦びにあふれてくる泪を、せきとめかねた。  それにしても、なぜ北鳴四郎は雷撃にあって死んだのだろう。  それには恐ろしい因縁ばなしがあった。彼は、その攀じのぼっていた高櫓の避雷針が、完全に避雷の役目を果たして呉れることと思い違いをしていたのだった。もちろんその櫓を建てたときには、避雷装置は十分完全なものだった。しかしあの豪雨の前日になって、その二基の避雷装置は急に不完全なものと成り下ったのだった。それは何故だったろう?  それは化助の仕業に外ならなかった。しかしそれをそうさせたのは、この櫓を組んだ松屋松吉だった。彼は神経性になってイライラしているとき、頻々と化助の金ねだりに逢って、遂に思いあまった末、あの櫓の避雷針と大地とを繋ぐ長い撚り銅線を外せば、百円近い金になることを教えたのだった。それを聞いた化助は躍り上って悦び、四郎の居ない間に、樋の中に隠れている部分の銅線をすっかり盗み去ったのである。だからあの大雷雨のとき、四郎の頭上に聳えていた針は、完全なる避雷針ではなかったというわけである。──雷が、高さが百尺もあるお誂え向きのこの二基の櫓に落ちたことは極めて合理的だった。  斯くして、皮相なる科学は、遂に深刻なる人間性の前に降伏した。  高村町長は、自分の家が第三番目の落雷殺人の計画に挙げられていたと知って、気絶しそうなほど驚いた。  松吉はもうすっかり健康を取戻しているが、彼は未だに、避雷針に接地線を繋ぐことは、これ邪道中の邪道と信じて疑わない。だから若し彼に避雷装置の工事を頼むような羽目になった人は彼の帰った後で別の電気屋を呼び、逞しい接地線を、避雷針の下から地中まで長々と張って貰うように命令しなければならない。 底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房    1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行 初出:「サンデー毎日 秋期特大号」毎日新聞社    1936(昭和11)年9月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:花田泰治郎 2005年5月6日作成 2007年9月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。