真景累ヶ淵 三遊亭圓朝 鈴木行三校訂 Guide 扉 本文 目 次 真景累ヶ淵 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 二十三 二十四 二十五 二十六 二十七 二十八 二十九 三十 三十一 三十二 三十三 三十四 三十五 三十六 三十七 三十八 三十九 四十 四十一 四十二 四十三 四十四 四十五 四十六 四十七 四十八 四十九 五十 五十一 五十二 五十三 五十四 五十五 五十六 五十七 五十八 五十九 六十 六十一 六十二 六十三 六十四 六十五 六十六 六十七 六十八 六十九 七十 七十一 七十二 七十三 七十四 七十五 七十六 七十七 七十八 七十九 八十 八十一 八十二 八十三 八十四 八十五 八十六 八十七 八十八 八十九 九十 九十一 九十二 九十三 九十四 九十五 九十六 九十七 一  今日より怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして、余り寄席で致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃って居りましたが、今日になって見ると、却って古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ばす事ではございませんから、或は流違いの怪談ばなしがよかろうと云うお勧めにつきまして、名題を真景累ヶ淵と申し、下総国羽生村と申す処の、累の後日のお話でございまするが、これは幽霊が引続いて出まする、気味のわるいお話でございます。なれども是はその昔、幽霊というものが有ると私共も存じておりましたから、何か不意に怪しい物を見ると、おゝ怖い、変な物、ありゃア幽霊じゃアないかと驚きましたが、只今では幽霊がないものと諦めましたから、頓と怖い事はございません。狐にばかされるという事は有る訳のものでないから、神経病、又天狗に攫われるという事も無いからやっぱり神経病と申して、何でも怖いものは皆神経病におっつけてしまいますが、現在開けたえらい方で、幽霊は必ず無いものと定めても、鼻の先へ怪しいものが出ればアッと云って臀餅をつくのは、やっぱり神経が些と怪しいのでございましょう。ところが或る物識の方は、「イヤ〳〵西洋にも幽霊がある、決して無いとは云われぬ、必ず有るに違いない」と仰しゃるから、私共は「ヘエ然うでございますか、幽霊は矢張有りますかな」と云うと、又外の物識の方は、「ナニ決して無い、幽霊なんというは有る訳のものではない」と仰しゃるから、「ヘエ左様でございますか、無いという方が本当でげしょう」と何方へも寄らず障らず、只云うなり次第に、無いといえば無い、有るといえば有る、と云って居れば済みまするが、極大昔に断見の論というが有って、是は今申す哲学という様なもので、此の派の論師の論には、眼に見え無い物は無いに違いない、何んな物でも眼の前に有る物で無ければ有るとは云わせぬ、仮令何んな理論が有っても、眼に見えぬ物は無いに違いないという事を説きました。すると其処へ釈迦が出て、お前の云うのは間違っている、それに一体無いという方が迷っているのだ、と云い出したから、益々分らなくなりまして、「ヘエ、それでは有るのが無いので、無いのが有るのですか」と云うと、「イヤ然うでも無い」と云うので、詰り何方か慥かに分りません。釈迦と云ういたずら者が世に出て多くの人を迷わする哉、と申す狂歌も有りまする事で、私共は何方へでも智慧のある方が仰しゃる方へ附いて参りまするが、詰り悪い事をせぬ方には幽霊という物は決してございませんが、人を殺して物を取るというような悪事をする者には必ず幽霊が有りまする。是が即ち神経病と云って、自分の幽霊を脊負って居るような事を致します。例えば彼奴を殺した時に斯ういう顔付をして睨んだが、若しや己を怨んで居やアしないか、と云う事が一つ胸に有って胸に幽霊をこしらえたら、何を見ても絶えず怪しい姿に見えます。又その執念の深い人は、生きて居ながら幽霊になる事がございます。勿論死んでから出ると定まっているが、私は見た事もございませんが、随分生きながら出る幽霊がございます。彼の執念深いと申すのは恐しいもので、よく婦人が、嫉妬のために、散し髪で仲人の処へ駈けて行く途中で、巡査に出会しても、少しも巡査が目に入りませんから、突当るはずみに、巡査の顔にかぶり付くような事もございます。又金を溜めて大事にすると念が残るという事もあり、金を取る者へ念が取付いたなんという事も、よくある話でございます。  只今の事ではありませんが、昔根津の七軒町に皆川宗悦と申す針医がございまして、この皆川宗悦が、ポツ〳〵と鼠が巣を造るように蓄めた金で、高利貸を初めたのが病みつきで、段々少しずつ溜るに従っていよ〳〵面白くなりますから、大した金ではありませんが、諸方へ高い利息で貸し付けてございます。ところが宗悦は五十の坂を越してから女房に別れ、娘が二人有って、姉は志賀と申して十九歳、妹は園と申して十七歳でございますから、其の二人を楽みに、夜中の寒いのも厭わず療治をしては僅かの金を取って参り、其の中から半分は除けて置いて、少し溜ると是を五両一分で貸そうというのが楽みでございます。安永二年十二月二十日の事で、空は雪催しで一体に曇り、日光おろしの風は身に染みて寒い日、すると宗悦は何か考えて居りましたが、  宗「姉えや、姉えや」  志「あい……もっと火を入れて上げようかえ」  宗「ナニ火はもういゝが、追々押詰るから、小日向の方へ催促に行こうと思うのだが、又出て行くのはおっくうだから、牛込の方へ行って由兵衞さんの処へも顔を出したいし、それから小日向のお屋敷へ行ったり四ツ谷へも廻ったりするから、泊り掛で五六軒遣って来ようと思う、牛込は少し面倒で、今から行っちゃア遅いから明日行く事にしようと思うが、小日向のはずるいから早く行かないとなあ」  志「でもお父さん本当に寒いよ、若し降って来るといけないから明日早くお出でなさいな」  宗「いや然うでない、雪は催して居てもなか〳〵降らぬから、雪催しで些と寒いが、降らぬ中に早く行って来よう、何を出してくんな、綿の沢山はいった半纒を、あれを引掛けて然うして奴蛇の目の傘を持って、傘は紐を付けて斜に脊負って行くようにしてくんな、ひょっと降ると困るから、なに頭巾をかぶれば寒くないよ」  志「だけれども今日は大層遅いから」  宗「いゝえそうでは無い」  と云うと妹のお園が、  園「お父さん早く帰っておくれ、本当に寒いから、遅いと心配だから」  宗「なに心配はない、お土産を買って来る」  と云って出ますると、所謂虫が知らせると云うのか、宗悦の後影を見送ります。宗悦は前鼻緒のゆるんだ下駄を穿いてガラ〳〵出て参りまして、牛込の懇意の家へ一二軒寄って、すこし遅くはなりましたが、小日向服部坂上の深見新左衞門と申すお屋敷へ廻って参ります。この深見新左衞門というのは、小普請組で、奉公人も少ない、至って貧乏なお屋敷で、殿様は毎日御酒ばかりあがって居るから、畳などは縁がズタ〳〵になって居り、畳はたゞみばかりでたたは無いような訳でございます。  宗「お頼み申します〳〵」  新「おい誰か取次が有りますぜ、奥方、取次がありますよ」  奥「どうれ」  と云うので、奉公人が少ないから奥様が取次をなさる。 二  奥「おや、よくお出でだ、さア上んな、久しくお出でゞなかったねえ」  宗「ヘエこれは奥様お出向いで恐れ入ります」  奥「さアお上り、丁度殿様もお在宅で、今御酒をあがってる、さア通りな、燈光を出しても無駄だから手を取ろう、さア」  宗「これは恐入ります、何か足に引掛りましたから一寸」  奥「なにね畳がズタ〳〵になってるから足に引掛るのだよ……殿様宗悦が」  新「いや是は何うも珍らしい、よく来た、誠に久しく逢わなかったな、この寒いのによく尋ねてくれた」  宗「ヘエ殿様御機嫌好う、誠に其の後は御無沙汰を致しましてございます、何うも追々月迫致しまして、お寒さが強うございますが何もお変りもございませんで、宗悦身に取りまして恐悦に存じます」  新「先頃は折角尋ねてくれた処が生憎不在で逢わなかったが何うも遠いからのう、なか〳〵尋ねるたって容易でない、よくそれでも心に掛けて尋ねてくれた、余り寒いから今一人で一杯始めて相手欲しやと思って居た処、遠慮は入らぬ、別懇の間ださア」  宗「ヘエ有難い事で、家内のお兼が御奉公を致した縁合で、盲人が上りましても、直々殿様がお逢い遊ばして下さると云うのは、誠に有難いことでございますが、ヘエ、なに何う致しまして」  奥「宗悦やお茶を此処に置くよ」  宗「ヘエ是は何うも恐れ入ります」  新「奥方宗悦が久振で来たから何でも有合で一つ、随分飲めるから飲まして遣りましょう、エヽ奥方勘藏は居らぬかえ、エ、ナニ何か一寸、少しは有ろう、まア〳〵宗悦此方へ来な、却って鯣ぐらいの方が好い、随分酔うものだよ、さアずっと側へ来な、奥方頼みます」  奥「宗悦ゆるりと」  と云うので、別に奉公人が有りませんから、奥様が台所で拵えるのでございます。  新「宗悦よく来た、さア一つ」  宗「ヘエ是は恐れ入ります、頂戴致します、ヘエもう…おッと溢れます」  新「これは感心、何うもその猪口の中へ指を突込んで加減をはかると云うのは其処は盲人でも感服なもの、まア宗悦よく来たな、何と心得て来た」  宗「ヘエ何と云って殿様申し上げるのはお気の毒でげすが、先年御用達って置いたあの金子の事でございます、外とは違いまして、兼が御奉公を致しましたお屋敷の事でございますから、外よりは利分をお廉く致しまして、十五両一分で御用達ったのは僅か三十金でございますが、あれ切り何とも御沙汰がございませんから、再度参りました所が、何分御不都合の御様子でございますから遠慮致して居るうちに、もう丁度足掛け三年になります、エ誠に今年は不手廻りで融通が悪うございます、ヘエ余り延引になりますから、ヘエ何うか今日は御返金を願いたく出ましてございます、ヘエ何うか今日は是非半金でも戴きませんでは誠に困りますから」  新「そりゃア何うもいかん、誠に不都合だがのう、当家も続いて不如意でのう、何うも返したくは心得て居るが、種々その何うも入用が有って何分差支えるからもうちっと待てえ」  宗「殿様え、貴方はいつ上っても都合が悪いから待てと仰しゃいますがね、何時上れば御返金になるという事を確かり伺いませんでは困ります、ヘエ慥かに何時幾日と仰しゃいませんでは、私は斯ういう不自由な身体で根津から小日向まで、杖を引張って山坂を越して来るのでげすから、只出来ぬとばかり仰しゃっては困ります。三年越しになってもまだ出来ぬと云うのは、余り馬鹿々々しい、今日は是非半分でも頂戴して帰らんければ帰られません、何ぼ何でも余り我儘でげすからなア」  新「我儘と云っても返せぬから致し方がない、エヽいくら振ろうとしても無い袖は振れぬという譬の通りで、返せぬというものを無理に取ろうという道理はあるまい、返せなければ如何いたした」  宗「返せぬと仰しゃるが、人の物を借りて返さぬという事はありません、天下の直参の方が盲人の金を借りて居て出来ないから返せぬと仰しゃっては甚だ迷惑を致します、そのうえ義理が重なって居りますから遠慮して催促も致しませんが、大抵四月縛か長くても五月という所を、べん〴〵と廉い利で御用達申して置いたのでげすから、ヘエ何うか今日御返金を願います、馬鹿々々しい、幾度来たって果しが附きませんからなア」  新「これ、何だ大声を致すな、何だ、痩せても枯れても天下の直参が、長らく奉公をした縁合を以て、此の通り直々に目通りを許して、盃でも取らすわけだから、少しは遠慮という事が無ければならぬ、然るを何だ、余り馬鹿々々しいとは何ういう主意を以て斯の如く悪口を申すか、この呆漢め、何だ、無礼の事を申さば切捨てたってもよい訳だ」  宗「やア是は篦棒らしゅうございます、こりゃアきっと承りましょう、余りと云えば馬鹿々々しい、何でげすか、金を借りて置きながら催促に来ると、切捨てゝもよいと仰しゃるか、又金が返せぬから斬って仕舞うとは、余り理不尽じゃアありませんか、いくら旗下でも素町人でも、理に二つは有りません、さア切るなら斬って見ろ、旗下も犬の糞もあるものか」  と宗悦が猛り立って突っかゝると、此方は元来御酒の上が悪いから、  新「ナニ不埓な事を」  と立上ろうとして、よろける途端に刀掛の刀に手がかゝると、切る気ではありませんが、無我夢中でスラリと引抜き、  新「この糞たわけめが」  と浴せかけましたから、肩先深く切込みました。 三  新左衞門は少しもそれが目に入らぬと見えて、  新「何だこのたわけめ、これ此処を何処と心得て居る、天下の直参の宅へ参って何だ此の馬鹿者め、奥方、宗悦が飲酔って参って兎や角う申して困るから帰して下さい、よう奥方」  と云われて奥方は少しも御存じございませんから手燭を点けて殿様の処へ行って見ると、腕は冴え刃物は利し、サッという機に肩から乳の辺まで斬込まれて居る死骸を見て、奥方は只べた〴〵〴〵と畳の上にすわって、  奥「殿様、貴方何を遊ばしたのでございます、仮令宗悦が何の様な悪い事がありましても別懇な間でございますのに、何でお手打に遊ばした、えゝ殿様」  新「ナニたゞ背打に」  と云って、見ると、持って居る一刀が真赤に鮮血に染みて居るので、ハッとお驚きになると酔が少し醒めまして、  新「奥方心配せんでも宜しい、何も驚く事はありません、宗悦が無礼を云い悪口たら〳〵申して捨置き難いから、一打に致したのであるから、其の趣を一寸頭へ届ければ宜しい」  ナニ人を殺してよい事があるものか、とは云うものゝ、此の事が表向になれば家にも障ると思いますから、自身に宗悦の死骸を油紙に包んで、すっぽり封印を附けて居りますると、何にも知りませんから田舎者の下男が、  男「ヘエ葛籠を買って参りました」  新「何だ」  男「ヘエ只今帰りました」  新「ウム三右衞門か、さア此処へ這入れ」  三「ヘエ、お申付の葛籠を買って参りましたが何方へ持って参ります」  新「あゝこれ三右衞門、幸い貴様に頼むがな実は貴様も存じて居る通り、宗悦から少しばかり借りて居る、所が其の金の催促に来て、今日は出来ぬと云ったら不埓な悪口を云うから、捨置き難いによって一刀両断に斬ったのだ」  三「ヘエ、それは何うも驚きました」  新「叱っ、何も仔細はない、頭へ届けさえすれば仔細はない事だが、段々物入りが続いて居る上に又物入りでは実に迷惑を致す、殊には一時面倒と云うのは、もう追々月迫致して居ると云う訳で、手前は長く正当に勤めてくれたから誠に暇を出すのも厭だけれども、何うか此の死骸を、人知れず、丁度宜しい其の葛籠へ入れて何処かへ棄てゝ、然うして貴様は在処の下総へ帰ってくれよ」  三「ヘエ、誠に、それはまあ困ります」  新「困るったって、多分に手当を遣りたいが、何うも多分にはないから十金遣ろうが、決して口外をしてはならぬぞ、若し口外すると、己の懐から十両貰った廉が有るから、貴様も同罪になるから然う思って居ろ、万一この事が漏れたら貴様の口から漏れたものと思うから、何処までも草を分けて尋ね出しても手打にせんければならぬ」  三「ヘエ棄てまするのはそれは棄ても致しましょうし、又人に知れぬ様にも致しますが、私は臆病で、仏の入った葛籠を、一人で脊負って行くのは気味が悪うございますから、誰かと差担いで」  新「万一にも此の事が世間へ流布してはならぬから貴様に頼むのだ、若し脊負えぬと云えばよんどころない貴様も斬らんければならぬ」  三「エヽ脊負います〳〵」  と云うので十両貰いました。只今では何でもございませんが、其の頃十両と申すと中々大した金でございますから、死人を脊負って三右衞門がこの屋敷を出るは出ましたが、何うしても是を棄てる事が出来ません、と申すは、臆病でございますから少し淋しい処を歩くと云うと、死人が脊中に有る事を思い出して身の毛が立つ程こわいから、なるたけ賑やかな処ばかり歩いて居るから、何うしても棄てる事が出来ません、其の中に何処へ棄てたか葛籠を棄てゝ三右衞門は下総の在所へ帰って仕舞うと、根津七軒町の喜連川様のお屋敷の手前に、秋葉の原があって、その原の側に自身番がござります。それから附いて廻って四五間参りますると、幅広の路次がありまして、その裏に住って居りまするのは上方の人でござりますが、此の人は長屋中でも狡猾者の大慾張と云うくらいの人、此の上方者が家主の処へ参りまして、  上「ヘイ今日は、お早うござります」  家主女房「おや、お出なさい何か御用かえ」  上「ヘエ今日は、旦那はんはお留守でござりますか、ヘエ、それは何方へ、左様でござりますか、実はなア私は昨夜盗賊に出逢いましたによって、お届をしようと思いましたが、何分届をするのは心配でナア、世間へ知れてはよくあるまいから、どうもナア、その荷物が出さえすればよいと思うて居りました、実は私の嬶の妹がお屋敷奉公をしたところが、奥さんの気に入られて、お暇を戴く時に途方もない結構な物を品々戴いて、葛籠に一杯あるを、何処か行く処の定まるまで預かってくれえというのを預けられて、家に置くと、盗賊に出逢うて、その葛籠が無くなったによって、私はえらい心配を致しまして、もし、これからその義理ある妹へ何うしようと、実は嬶に相談して居りますると、秋葉の傍に葛籠を捨てゝ有りますから、あれを引取って参りとうござりますが、旦那はんが居やはらんければ、引取られぬでござりましょうか」  女房「おや〳〵然うかえ、それじゃアね、亭主は居りませんが、總助さんに頼んで引取ってお出なさい」  上「ヘイ有難うござります、それでは總助はんに頼んで引取りを入れまして」  と横着者で、これから總助と云う町代を頼んで、引取りを入れて、とう〳〵脊負って帰って来ました。 四  上「ヘエ只今總助はんにお頼み申して此の通り脊負うて参りました」  家主女房「おや大層立派な葛籠ですねえ」  上「ヘエ、これが無うなってはならんと大層心配して居りました、ヘエ有難うござります」  女房「何うして其処に棄てゝ行ったのでしょう」  上「それは私が不動の鉄縛と云うのを遣りましたによって、身体が痺れて動かれないので、置いて行ったのでござりましょ、エヽ、ヘイ誠に有難いもので、旦那がお帰りになったら宜しゅうお礼の処を願います、ヘエ左様なら」  とこれから路次の角から四軒目に住んで居りますから、水口の処を明けて、  上「おい一寸手を掛けてくれえ」  妻「あい、おや立派な葛籠じゃアないか」  上「どうじゃ、ちゃんと引取りを入れて脊負うて来たのじゃから、何処からも尻も宮も来やへん、ヤ何でもこれは屋敷から盗んで来た物に違いないが、屋敷で取られたと云うては、家事不取締になるによって容易に届けまへん、又置いていった泥坊は私の葛籠だと云って訴える事は出来まへん、して見ればどこからも尻宮の来る気遣はないによって、私が引取りを入れて引取ったのじゃ、中にはえらい金目の縫模様や紋付もあるか知れんから、何様にも売捌が付いたら、多分の金を持って、ずっと上方へ二人で走ってしまえば決して知れる気遣はなしじゃ」  妻「そうかえ、まあ一寸明けて御覧な」  上「それでも葛籠を明けて中から出る品物がえらい紋付や熨斗目や縫の裲襠でもあると、斯う云う貧乏長屋に有る物でないと云う処から、偶然して足を附けられてはならんから、夜さり夜中に窃と明けて汝と二人で代物を分けるが宜ワ」  妻「然うだねえ嬉しいこと、お屋敷から出た物じゃア其様な物はないか知らぬが、若し花色裏の着物が有ったら一つ取って置いてお呉れよ」  上「それは取って置くとも」  妻「若しちょいと私に揷せそうな櫛笄があったら」  上「それも承知や」  妻「漸々運が向いて来たねえ」  上「まあ酒を買うて」  と云うので是から楽酒を飲んで喜んで寝まする。すると一番奥の長屋に一人者があって其処に一人の食客が居りましたが、これは其の頃遊人と云って天下禁制の裸で燻って居る奴、  ○「おい甚太〳〵」  甚「ア、ア、ア、ハアー、ン、アーもう食えねえ」  ○「おい寝惚けちゃアいけねえ、おい、起きねえか、エヽ静かにしろ、もう時刻は好いぜ」  甚「何を」  ○「何をじゃアねえ忘れちゃア仕様がねえなア、だから獣肉を奢ったじゃアねえか」  甚「彼の肉を食うと綿衣一枚違うというから半纒を質に置いてしまったが、オウ、滅法寒くなったから当てにゃアならねえぜ、本当に冗談じゃアねえ」  ○「おい上方者の葛籠を盗むんだぜ」  甚「ウン、違えねえ、そうだっけ、忘れてしまった、コウ彼奴ア太え奴だなア、畜生誰も引取人が無えと思ってずう〳〵しく引取りやアがって、中の代物を捌いて好い正月をしようと云う了簡だが、本当に何処まで太えか知れねえなア」  ○「ウン、彼奴は今丁度食い酔って寝て居やアがる中に窃と持って来て中を発いて遣ろうじゃアねえか、後で気が附いて騒いだってもと〳〵彼奴の物でねえから、自分の身が剣呑で大きく云う事ア出来ねえのさ」  甚「だがひょっと目を覚してキャアバアと云った時にゃア一つ長屋の者で面を知ってるぜ」  ○「ナニそりゃア真黒に面を塗って頬冠をしてナ、丹波の国から生獲りましたと云う荒熊の様な妙な面になって往きゃア仮令面を見られたって分りゃアしねえから、手前と二人で面を塗って行って取って遣ろう」  甚「こりゃア宜いや、サア遣ろう、墨を塗るかえ」  ○「墨の欠ぐれえは有るけれども墨を摺ってちゃア遅いから鍋煤か何か塗って行こう」  甚「そりゃア宜かろう、何だって分りゃアしねえ」  ○「釜の下へ手を突込んで釜の煤を塗ろう、ナニ知れやアしねえ」  と云うので釜の煤を真黒に塗って、すっとこ冠りを致しまして、  ○「何うだ是じゃア分るめえ」  甚「ウン」  ○「ハ、ハヽ、妙な面だぜ」  甚「オイ〳〵笑いなさんな、気味が悪いや、目がピカ〳〵光って歯が白くって何とも云えねえ面だぜ」  ○「ナニ手前だって然うだあナ」  とこれから窃と出掛けて上方者の家の水口の戸を明けてとう〳〵盗んで来ました。人が取ったのを又盗み出すと云う太い奴でございます。  甚「コウ、グウ〳〵〳〵〳〵寝て居やアがったなア、可笑しいじゃアねえか、寝て居る面は余り慾張った面でも無えぜ」  ○「オイ、表を締めねえ、人が見るとばつがわりいからよ、ソレ行燈を其方へ遣っちまっちゃア見る事が出来やあしねえ、本当にこんな金目の物を一時に取った程楽みな事アねえぜ、コウ余り明る過ぎらア、行燈へ何か掛けねえ」  甚「何を掛けよう」  ○「着物でも何でも宜いから早く掛けやナ」  甚「着物だって着る物がありゃア何も心配しやアしねえ」  ○「何でも薄ッ暗くなるようにその襤褸を引掛けろ、何でも暗くせえなれば宜いや、オ、封印が附いてらア、エヽ面を出すな、手前は食客だから主人が見てそれから後で見やアがれ」  甚「ウン、ナニ食客でも主人でも露顕をして縛られるのは同罪だよ」  ○「そりゃア云わなくっても定ってるわ」  と云うので是から封印を切って、  ○「何だか暗くって知れねえ」  甚「どれ見せや」  ○「しッしッ」 五  甚「兄い何を考えてるんだ」  ○「何うも妙だなア、中に油紙があるぜ」  甚「ナニ、油紙がある、そりゃア模様物や友禅の染物が入ってるから雨が掛ってもいゝ様に手当がして有んだ」  ○「敷紙が二重になってるぜ」  と云いながら、四方が油紙の掛って居る此方の片隅を明けて楽みそうに手を入れると、グニャリ、  ○「おや」  甚「何だ〳〵」  ○「変だなア」  甚「何だえ」  ○「ふん、どうも変だ」  甚「然う一人でぐず〳〵楽まずに些と見せやな」  ○「エヽ黙ってろ、何だか坊主の天窓みた様な物があるぞ」  甚「ウン、ナニ些とも驚く事アねえ、結構じゃアねえか」  ○「何が結構だ」  甚「そりゃアおめえ踊の衣裳だろう、御殿の狂言の衣裳の上に坊主の髢が載ってるんだ、それをお前が押えたんだアナ」  ○「でも芝居で遣う坊主の髢はすべ〳〵してるが、此の坊主の髢はざら〳〵してるぜ」  甚「ナニざら〳〵してるならもじがふらと云うのがある、きっとそれだろう」  ○「ウン然うか」  甚「だから己に見せやと云うんだ」  ○「でも坊主の天窓の有る道理はねえからなア、まア〳〵待ちねえ己が見るから」  とまた二度目に手を入れると今度はヒヤリ、  ○「ウワ、ウワ、ウワ」  甚「おい何んだ」  ○「何うも変だよ冷てえ人間の面アみた様な物がある」  甚「ナニ些とも驚くこたアねえやア、二十五座の衣裳で面が這入ってるんだ、そりゃア大変に価値のある物で、一個でもって二百両ぐれえのがあるよ」  ○「ウン、二十五座の面か」  甚「兄い、だから己に見せやと云うんだ」  と云われたから、今度は思い切って手を突込むとグシャリ、  ○「ウワア」  と云うなり土間へ飛下りて無茶苦茶にしんばりを外して戸外へ逃出しますから、  甚「オイ兄い、何処へ行く、人に相談もしねえで、無暗に驚いて逃出しやアがる、此の金目のある物を知らずに」  と手を入れて見ると驚いたの驚かないの、  甚「ウアヽヽ」  と此奴も同じく戸外へ逃出しました。すると其の途端に上方者が目を覚して、  上「さアお鶴起んかえ時刻は宜いがナ、起んか」  と云うとお鶴と云う女房が、  鶴「お止しよ眠いよ」  上「おい、これ、起んかえ」  鶴「お止しよ、酒を飲むと本当にひちっくどい、気色が悪いから厭だよ、些とお慎しみ」  上「何をいうのじゃ葛籠を」  鶴「葛籠、おや然う」  と慾張って居りますから直ぐに目を覚して、  鶴「おや無いよ、葛籠が無いじゃアないか」  上「アヽ彼の水口が明いとるのは泥坊が這入ったのじゃ、お長屋の衆〳〵」  と呶鳴りますから、長屋の者は何事か分りませんが吊提燈を点けて出て参りますと、  上「貴方御存じか知りまへんが最前總助はんを頼んで引取りました葛籠を盗まれました、あの葛籠は妹から預かって置いた大事の物で、盗賊に取られたのを漸う取り遂せたら又泥坊が這入って持って行きましたによって、同じお長屋の衆は掛り合で御座りますナア」  △「ナニ掛り合の訳は有りません、路次の締りは固いのだがねえ、でも源八さん葛籠を取られたと云うのだがどうしましょう」  源「どうしましょうって彼奴は長屋の交際が悪くって、此方から物を遣っても向から返したこたア無いくらいだから、其様に気を揉むこたア無いけれども、仕方がねえから大屋さんを起すが宜い」  ●「アノ奥の一人者の内に食客が居るから、彼処へ行って彼の人に行って貰うが宜うございましょう」  △「じゃア連れて来ましょう」  と吊提燈を提げて奥へ行くと、戸袋の脇から真黒な面で目ばかりピカ〳〵光る奴が二人這出したから、  △「ウワアヽヽ何だこれおどかしちゃアいけない」  と云う中に、二人とも一生懸命で路次の戸を打砕して逃出しました。  △「アヽ何だ、本当にモウ何うも胸を痛くした、こりゃア彼奴が泥坊だ、私は大きな犬が出たと思って恟りした、あゝこれだ〳〵これだから一人者を置いてはならないと云うのだが、家主が人が善いから、追出すと意趣返しをすると云うので怖がって置くのだが宜くない、此処にちゃんと葛籠があるわ、上方者だと思って馬鹿にして図々しい奴だ、一つ長屋に居て斯んな事をするのは頭隠して尻隠さず、葛籠を置いて行くから直ぐに知れて仕舞うんだ、何か代物が残って居るかも知れねえから見てやろう、ウワアお長屋の衆」  と云うから驚いて外の者が来て見ると、葛籠が有るから、  ●「おゝ彼処に葛籠がある、好い塩梅だ、おや、中に、ウワア、お長屋の衆」  と来る奴も〳〵皆お長屋の衆と云う大騒ぎ。すると二つ長屋の事でございますから義理合に宗悦の娘お園が来て見ると恟りして、  園「是は私のお父さんの死骸何うしたのでございましょう、昨日家を出て帰りませんから心配して居りましたが」  △「イヤそれは何うもとんだ事」  というので是から訴えになりましたが、葛籠に記号も無い事でございますから頓と何者の仕業とも知れず、大屋さんが親切に世話を致しまして、谷中日暮里の青雲寺へ野辺送りを致しました。これが怪談の発端でござります。 六  引続きまして申上げまする。深見新左衞門が宗悦を殺しました事は誰有って知る者はござりません。葛籠に記号もござりませんから、只つまらないのは盲人宗悦で、娘二人はいかにも愁傷致しまして泣いて居る様子が憫然だと云って、長屋の者が親切に世話を致します混雑の紛れに逃げました賭博打二人は、遂に足が付きまして直に縄に掛って引かれまして御町の調べになり、賭博兇状と強迫兇状がありました故其の者は二人とも佃島へ徒刑になりました。上方者は自分の物だと言って他人の物を引入れました廉は重罪でございますけれども格別のお慈悲を以て所払いを仰せ付けられまして其の一件は相済みましたが、深見新左衞門の奥方は、あゝ宗悦は憫然な事をした、何うも実に情ないお殿様がお手打に遊ばさないでも宜いものを、別に怨がある訳でもないに、御酒の上とは云いながら気の毒な事をしたと絶えず奥方が思います処から、所謂只今申す神経病で、何となく塞いで少しも気が機みません事でございます。翌年になりまして安永三年二月あたりから奥方がぶら〳〵塩梅が悪くなり、乳が出なくなりましたから、門番の勘藏がとって二歳になる新吉様と云う御次男を自分の懐へ入れて前町へ乳を貰いに往きます。と云うものは乳母を置く程の手当がない程に窮して居るお屋敷、手が足りないからと云うので、市ヶ谷に一刀流の剣術の先生がありまして、後に仙台侯の御抱えになりました黒坂一齋と云う先生の処に、内弟子に参って居る惣領の新五郎と云う者を家へ呼寄せて、病人の撫擦りをさせたり、或は薬其の外の手当もさせまする。其の頃新五郎は年は十九歳でございますが、よく母の枕辺に附添って親切に看病を致しますなれども、小児はあり手が足りません。殿様はやっぱり相変らず寝酒を飲んで、奥方が呻ると、  新「そうヒイ〳〵呻ってはいけません」  などと酔った紛れにわからんことを仰しゃる。手少なで困ると云って、中働の女を置きました。是は深川網打場の者でお熊と云う、年二十九歳で、美女ではないが、色の白いぽっちゃりした少し丸形のまことに気の利いた、苦労人の果と見え、万事届きます。殿様の御酒の相手をすれば、  新「熊が酌をすれば旨い」  などと酔った紛れに冗談を仰しゃると、此方はなか〳〵それ者の果と見えてとう〳〵殿様にしなだれ寄りましてお手が付く。表向届けは出来ませんがお妾と成って居る。するともと〳〵狡猾な女でございますから、奥方の纔訴を致し、又若様の纔訴を致すので、何となく斯う家がもめます。いくら言っても殿様はお熊にまかれて、煩って居る奥様を非道な事をしてぶち打擲を致します。もう十九にもなる若様をも煙管を持って打つ様な事でございますから、  新五郎「あゝ親父は愚な者である、こんな処にいては迚も出世は出来ぬ」  と若気の至りで新五郎と云う惣領の若様はふいと家出を致しますると、お熊はもう此の上は奥様さえ死ねば自分が十分此処の奥様になれると思い、  熊「わたしは何うも懐妊した様でございます、四月から見るものを見ませぬ酸ッぱい物が食べたい」  何のと云うから殿様は猶更でれすけにおなり遊ばします。追々其の年も冬になりまして、十一月十二月となりますと、奥様の御病気が漸々悪くなり、その上寒さになりましてからキヤ〳〵さしこみが起り、またお熊は、漸々お腹が大きくなって身体が思う様にきゝませんと云って、勝手に寝てばかり居るので、殿様は奥方に薬一服も煎じて飲ませません。只勘藏ばかりあてにして、  新「これ〳〵勘藏」  勘「ヘエ、殿様貴方御酒ばかり召上って居て何うも困りますなア奥様は御不快で余程御様子が悪いし、殊には又お熊様はあゝやって懐妊だからごろ〴〵して居り、折々奥様は差込むと仰しゃるから、少しは手伝って頂きませんじゃア、手が足りません、私は若様のお乳を貰いに往くにも困ります」  新「困っても仕方がない、何か、さしこみには近辺の鍼医を呼べ、鍼医を」  と云うと、丁度戸外にピー、と按摩の笛、  新「おゝ〳〵丁度按摩が通るようだ、素人療治ではいかんから彼れを呼べ〳〵」  勘「ヘエ」  と按摩を呼入れて見ると、怪し気なる黒の羽織を着て、  按摩「宜しゅう私が鍼をいたしましょう、鍼はお癪気には宜しゅうございます」  というので鍼を致しますと、  奥方「誠に好い心持に治まりがついたから何卒明日の晩も来て呉れ」  と戸外を通る揉療治ではありますが、一時凌ぎに其の後五日ばかり続いて参ります。すると一番しまいの日に一本打ちました鍼が、何う云うことかひどく痛いことでございましたが、是は鍼に動ずると云うので、  奥方「あゝ痛、アいたタ」  按摩「大層お痛みでございますか」  奥方「はいあゝ甚く痛い、今迄斯んなに痛いと思った事は無かったが、誠に此の鳩尾の所に打たれたのが立割られたようで」  按摩「ナニそれはお動じでございます、鍼が験ましたのでございますから御心配はございません、イエまア又明晩も参りましょうか」  奥方「はい、もう二三日鍼は止めましょう、鍼はひどく痛いから」  按摩「直き癒ります、鍼が折れ込んだ訳でもないので、少しお動じですからナ、左様なら御機嫌よろしゅう」  と僅の療治代を貰って帰りました。すると奥方は鍼を致した鳩尾の所が段々痛み出し、遂には爛れて鍼を打った口からジク〳〵と水が出るようで、猶更苦しみが増します。 七  新左衞門様は立腹して、  新「どうも怪しからん鍼医だ、鍼を打ってその穴から水が出るなんという事は無い訳で、堀抜井戸じゃア有るまいし、痴呆た話だ、全体何う云うものかあれ限り来ませんナ」  勘「奥方がもう来ないで宜いと仰しゃいましたから」  新「間が悪いから来ないに違いない、不埓至極な奴だ、今夜でも見たら呼べ」  と云われたから待って居りましたが、それぎり鍼医は参りません。すると十二月の二十日の夜に、ピイー〳〵、と戸外を通ります。  新「アヽあれ〳〵笛が聞える、あれを呼べ、勘藏呼んで来い」  勘「ハイ」  と駈出して按摩の手を取って連れて来て見ると、前の按摩とは違い、年をとって痩こけた按摩。  新「何だこれじゃア有るまい、勘藏違って居るぞ」  按摩「ヘエお療治を致しますか」  新「何だ汝ではなかった、違った」  按摩「左様で、それはお生憎様でございますが何卒お療治を」  新「これ〳〵貴様鍼をいたすか」  按摩「私は俄盲人でございまして鍼は出来ません」  新「じゃア致方が無い、按腹は」  按摩「療治も馴れません事で中々上手に揉みます事は出来ませんが、丈夫な方ならば少しは揉めます」  新「何の事だ病人を揉む事はいかぬか、それは何にもならぬナ、でも呼んだものだから、勘藏、これ、何処へ行って居るかナ、じゃア、まア折角呼んだものだからおれの肩を少し揉め」  按摩「ヘエ誠に馴れませんから、何処が悪いと仰しゃって下さい、経絡が分りませんから、こゝを揉めと仰しゃれば揉みます」  と後へ廻って探り療治を致しまするうち、奥方が側に居て、  奥方「アヽ痛、アヽ痛」  新「そう何うもヒイ〳〵云っては困りますね、お前我慢が出来ませんか、武士の家に生れた者にも似合わぬ、痛い〳〵と云って我慢が出来ませんか、ウン〳〵然う悶えては却って病に負けるから我慢して居なさい、アヽ痛、これ〳〵按摩待て、少し待て、アヽ痛い、成程此奴は何うもひどい下手だナ、汝は、エヽ骨の上などを揉む奴が有るものか、少しは考えて遣れ、酷く痛いワ、アヽ痛い堪らなく痛かった」  按摩「ヘエお痛みでござりますか、痛いと仰しゃるがまだ〳〵中々斯んな事ではございませんからナ」  新「何を、こんな事でないとは、是より痛くっては堪らん、筋骨に響く程痛かった」  按摩「どうして貴方、まだ手の先で揉むのでございますから、痛いと云ってもたかが知れておりますが、貴方のお脇差でこの左の肩から乳の処まで斯う斬下げられました時の苦しみはこんな事では有りませんからナ」  新「エ、ナニ」  と振返って見ると、先年手打にした盲人宗悦が、骨と皮許りに痩せた手を膝にして、恨めしそうに見えぬ眼を斑に開いて、斯う乗出した時は、深見新左衞門は酒の酔も醒め、ゾッと総毛だって、怖い紛れに側にあった一刀をとって、  新「己れ参ったか」  と力に任して斬りつけると、  按摩「アッ」  と云うその声に驚きまして、門番の勘藏が駈出して来て見ると、宗悦と思いの外奥方の肩先深く斬りつけましたから、奥方は七転八倒の苦しみ、  新「ア、彼の按摩は」  と見るともう按摩の影はありません。  新「宗悦め執ねくもこれへ化けて参ったなと思って、思わず知らず斬りましたが、奥方だったか」  奥「あゝ誰を怨みましょう、私は宗悦に殺されるだろうと思って居りましたが、貴方御酒をお廃めなさいませんと遂には家が潰れます」  と一二度虚空をつかんで苦しみましたが、奥方はそのまゝ息は絶えましたから如何とも致し方がございませんが、この事は表向にも出来ません。殊には年末の事でございますから、これから頭の宅へ内々参ってだん〴〵歎願をいたしまして、極内分の沙汰にして病死のつもりにいたしました。昔は能く変死が有っても屏風を立てゝ置いて、お頭が来て屏風の外で「遺言を」なんどゝ申しますが、もう当人は夙に死んでいるから遺言も何も有りようはずはございません。この伝で病気にして置くことも徃々有りましたから、病死の体にいたして漸くの事で野辺送りをいたしました。流石の新左衞門も此の一事には大きに閉口いたして居りました。すると其の年も明けまして、一陽来復、春を迎えましても、まことに屋敷は陰々といたして居りますが、別にお話もなく、夏も行き秋も過ぎて、冬のとりつきになりました。すると本所北割下水に、座光寺源三郎と云う旗下が有って、これが女太夫のおこよと云う者を見初め、浅草竜泉寺前の梶井主膳と云う売卜者を頼み、其の家を里方にいたして奥方に入れた事が露見して、御不審がかゝり、家来共も召捕吟味中、深見新左衞門、諏訪部三十郎と云う旗下の両家は宅番を仰せつけられたから、隔番の勤めでございます。すると十一月の二十日の晩には、深見新左衞門は自分は出ぬ事になりましたから、  新「熊や今晩は一杯飲んでらく〳〵休める」  と云うので御酒を召上ったが、少し飲過ぎて心持がわるいと小用場へ徃ってから、  新「水を持て、嗽をしなければならん」  と云うので手水鉢のそばで手を洗って居りますると、庭の植込の処に、はっきりとは見えませんが、頬骨の尖った小鼻の落ちました、眼の所がポコンと凹んだ頬から頤へ胡麻塩交の髯が生えて、頭はまだらに禿げている痩せかれた坊主が、  坊「殿様〳〵」  と云う。  新「エヽ」  と見るやいなや其の儘トン〳〵〳〵〳〵と奥へ駈込んで来て、刀掛に有った一刀を引抜いて、  新「狸の所為か」  と斬りつけますと、パッと立ちます一団の陰火が、髣髴として生垣を越えて隣の諏訪部三十郎様のお屋敷へ落ちました。 八  新左衞門はハテ狐狸の所為かと思いました。すると其の翌日から諏訪部三十郎様が御病気で、何をしてもお勤が出来ませんから、二人して勤めべき所、お一方が病気故、新左衞門お一方で座光寺源三郎の屋敷へ宅番に附いて居ると、或夜彼の梶井主膳と云う者が同類を集めて駕籠を釣らせ、抜身の鎗で押寄せて、おこよ、源三郎を連れて行こうと致しますから深見新左衞門は役柄で捨置かれず、直に一刀を取って斬掛けましたが、多勢に無勢で、とう〳〵深見を突殺し、おこよ源三郎を引さらって遠く逃げられました故、深見新左衞門は情なくも売卜者の為に殺されてお屋敷は改易でございます。諏訪部三十郎は病気で御出役が無かったのだが公辺のお首尾が悪く、百日の間閉門仰付けられますると云う騒ぎ、座光寺源三郎は勿論深見の家も改易に相成りまして、致し方がないから産落した女の児を連れて、お熊は深川の網打場へ引込み、門番の勘藏は新左衞門の若様新吉と云うのを抱いて、自分の知己の者が大門町にございますから、それへ参って若様に貰い乳をして育てゝ居るという情ない成行、此の通り無茶苦茶に屋敷の潰れた跡へ、帰って来たのは新五郎と云う惣領でございますが、是は下総の三右衞門の処へ参って少しの間厄介に成って居りましたが、素より若気の余りに家を飛出したので淋しい田舎には中々居られないから、故郷忘じがたく詫言をして帰ろうと江戸へ参って自分の屋敷へ来て見ると、改易と聞いて途方に暮れ、爰と云う縁類も無いから何うしたらよかろうと菩提所へ行って聞くと、親父は突殺され、母親は親父が斬殺したと聞きまして少しのぼせたものか、  新五「これは怪しからん事、何たる因果因縁か屋敷は改易になり、両親は非業の死を遂げ、今更世間の人に顔を見られるも恥かしい、もう迚も武家奉公も出来ぬから寧そ切腹致そう」  と、青松院の墓所で腹を切ろうとする処へ、墓参りに来たのは、谷中七面前の下總屋惣兵衞と云う質屋の主人で、これを見ると驚いて刄物をもぎとって何う云う次第と聞くと、  新五「これ〳〵の訳」  というから、  惣「それなら何も心配なさるな、若い者が死ぬなんと云う心得違いをしてはいけぬ、無分別な事、独身なれば何うでもなりますから私の家へ入らっしゃい」  と親切に労わって家へ連れて来て見ると、人柄もよし、年二十一歳で手も書け算盤も出来るから質店へ置いて使って見るとじつめいで応対が本当なり、苦労した果で柔和で人交際がよいから、  甲「あなたの処では良い若い者を置当てなすった」  惣「いゝえ彼は少し訳があって」  と云って、内の奉公人にもその実を言わず、  惣「少し身寄から頼まれたのだと云ってあるから、あなたも本名を明してはなりません」  と云うので、誠に親切な人だから、新五郎もこゝに厄介になって居ると、この家にお園という中働の女中が居ります。これは宗悦の妹娘で、三年あとから奉公して、誠に真実に能く働きますから、主人の気に入られて居る。併し新五郎とは、敵同士が此処へ寄合ったので有りますが、互にそういう事とは知りません。  園「新どん」  新「お園どん」  と呼合いまする。新五郎は二十一歳で、誠に何うも水の出端でございます。又お園は柔和な好い女、  新「あゝいう女を女房に持ちたい」  と思うと何ういう因果因縁か、新五郎がお園に死ぬほど惚れたので、お園の事というと、能く気を付けて手伝って親切にするから、男振は好し応対も上手、其の上柔和で主人に気に入られて居るから、お園はあゝ優しい人だと、新どんに惚れそうなものだが、敵同士とはいいながら虫が知らせるか、お園は新五郎に側へ来られると身毛立つほど厭に思うが、それを知らずに、新五郎は無暗に親切を尽しても、片方は碌に口もききません。主人もその様子を見て、  惣「お園はまことに希代だ、あれは感心な堅い娘だ、あれは女中のうちでも違って居る、姉は何だか、稽古の師匠で豐志賀というが、姉妹とも堅い気象で、あの新五郎は頻りとお園に優しくするようだが」  と気は附いたけれども、なに両人とも堅いから大丈夫と思って居りまするくらいで、なか〳〵新五郎はお園の側へ寄付く事も出来ませんが、ふとお園が感冐の様子で寝ました。すると新五郎は寝ずにお園の看病をいたします。薬を取りに行ったついでに氷砂糖を買って来たり、葛湯をしてくれたり、蜜柑を買って来る、九年母を買って来たりしてやります。主人も心配いたして、  惣「おきわ」  きわ「はい」  惣「お園は何も大した病気でもないから宿へ下げる程でもなし、あれも長く勤めておることだから、少しの病気なれば、医者は此方で、山田さんが不都合なら、幸庵さんを頼んでもいゝが、何だね、誠にその、看病人が無くって困るね」 九  きわ「私が折に園の部屋へ見舞に参りますと、直ぐ布団の上へ起きなおりまして、もうなに大きに宜しゅうございますなどゝ云って、まことに快い振をして居るから、お前無理をしてはいけないから寝ておいでと申しましても、心配家でございますから私も誠に案じられます」  惣「そりゃア誠に困ったものだ、誰か看病人が無ければならん、成程己も時に行って見ると、ひょいと跳起きるが、あれでは却ってぶり返すといかんから看病人に姉でも呼ぼうか」  きわ「でも仕合せに新五郎が参っては寝ずに感心に看病致します、あれは誠に感心な男で、店がひけると薬を煎じたり何か買いに行ったり、何も彼も一人で致します」  惣「なに新五郎がお園の部屋へ這入ると、それはいかん、それは女部屋のことはお前が気を附けて小言を云わなければなりません、それは何事も有りはしまいが」  きわ「有りはしまいたって新五郎はあの通りの堅人ですし、お園も変人ですから、変人同士で大丈夫何事もありはしません」  惣「それはいかん、猫に鰹節で、何事がなくっても、店の者や出入の者がおかしく噂でも立てると店の為にならぬから、きっと小言を云わんければならぬ」  きわ「それじゃア女中部屋へ出入を止めます」  と云って居る所へ、何事も存じません新五郎が帰って来て、  新「ヘエ只今帰りました」  惣「何処へ往った」  新「番頭さんがそう仰しゃいますから、上野町の越後屋さんの久七どんに流れの相談を致しまして、帰りにお薬を取って参りましたが、山田さんがそう仰しゃるには、お園さんは大分好い塩梅だが、まだ中々大事にしなければならん、どうも少し傷寒の性だから大事にするようにと仰しゃって、今日はお加減が違いましたからこれから煎じます」  惣「お前が看病致しますか」  新「ヘエ」  惣「お前の事だから何事もありますまいがネけれどもその、お前もそれ廿一、ね、お園は十九だ、お互に堅いから何事も無かろうが、一体男女の道はそういうものでない、私の家は極く堅い家であったけれども、やっぱりこれにナ許嫁が有ったが、私がつい何して、貰うような事で」  きわ「何を仰しゃる」  惣「だから堅いが堅いに立たぬのは男女の間柄、何事もありはしまいが、店の若い者がおかしく嫉妬をいうとか、出入の者がいやに難癖を附けるとか、却って店の示しにならぬからよろしくないいかにも取締りが悪い様だからそれだけはナ」  新「ヘエ薩張心付きませんかったが、店の者が女部屋へ這入っては悪うございますか、もうこれからは決して構いませんように心づけます、決して構いません」  惣「決して構わんでは困ります、看病人が無いから決して構わんと云ってはお園が憫然だから、それはね、ま構ってもいゝがね、少しそこを何うか構わぬ様に」  何だか一向分りませんが少しは構ってもよいという題が出ましたから、新五郎は悦びながら女部屋へ往って、  新「お園どん山田様へいってお薬を戴いてきたが、今日はお加減が違ったから、生姜を買ってくるのを忘れたが今直に買って来て煎じますが、水も只では悪いから氷砂糖を煎じて水で冷して上げよう、蜜柑も二つ買って来たが雲州のいゝのだからむいて上げよう、袋をたべてはいけないから只露を吸って吐出しておしまい、筋をとって食べられるようにするから」  園「有難う、新どん後生だから女部屋へ来ないようにしておくんなさい、今もおかみさんと旦那様とのお話もよく聞えましたが、店の者が女部屋へ這入ってきては世間体が悪いと云っておいでだから、誠に思召は有難いが、後生だから来ないようにして下さい」  新「だから私が来ないようにしよう構わぬと云ったら、旦那が来なくっちゃア困る、お前さんが憫然だから構ってやってくれと仰しゃったくらい、人は何といっても訝しい事がなければ宜しいから、今薬を煎じて上るから心配しないで、心配すると病気に障るからね」  園「あゝだもの新どんには本当に困るよ、厭だと思うのにつか〳〵這入って来てやれこれ彼様に親切にしてくれるが、どういう訳かぞっとするほど厭だが、何うしてあの人が厭なのか、気の毒な様だ」  と種々心に思って居ると、杉戸を明けて、  新「お園どんお薬が出来たからお飲みなさい、余り冷すときかないから、丁度飲加減を持って来たが、後は二番を」  園「新どん、お願いだから彼方へ行って下さいな、病気に障りますから」  新「ヘエ左様でげすか」  と締めて立って行く。  園「どうも、来てはいけないと云うのに態と来るように思われる、何だか訝しい変な人だ」  と思って居ると、がらり、  新「お園どんお粥が出来たからね、是は大変に好いでんぶを買って来たから食べてごらん、一寸いゝよ」  園「まア新どんお粥は私一人で煮られますから彼方へ行って下さいよ、却って心配で病気に障るから」  新「じゃア用があったらお呼びよ」  園「あゝ」  というので拠なく出て行くかと思うと又来て、  新「お園どん〳〵」  とのべつに這入って来る。すると俗に申す一に看病二に薬で、新五郎の丹精が届きましたか、追々お園の病気も全快して、もう行燈の影で夜なべ仕事が出来るようになりました。丁度十一月十五日のことで、常にないこと、新五郎が何処で御馳走になったか真赤に酔って帰りますると、もう店は退けてしまった後で、何となく極りが悪いからそっと台所へ来て、大きい茶碗で瓶の水を汲んで二三杯飲んで酔をさまし、見ると、奥もしんとして退けた様子、女部屋へ来て明けて見ると、お園が一人行燈の下で仕事をしているから、  新「お園どん」  園「あらまア、新どん、何か御用」 十  新「ナニ、今日はね、あの伊勢茂さんへ、番頭さんに言付けられてお使にいったら、伊勢茂の番頭さんは誠に親切な人で、お前は酒を飲まないから味淋がいゝ、丁度流山ので甘いからお飲りでないかと云われて、つい口当りがいゝから飲過ぎて、大層酔って間がわるいから、店へ知れては困りますが、真赤になって居るかえ」  園「大変赤くなって居ます。アノお店も退け奥も退けましたから、女部屋へお店の者が這入っては、悪うございますから早くお店へ行ってお寝みなさい」  新「エヽ寝ますが、まア一服呑みましょう」  園「早くお店へ行って下さいよ」  新「今行きますが一服やります」  と真鍮の潰れた煙管を出して行燈の戸を上げて火をつけようと思うが、酔って居て手が慄えておりますから灯が消えそう、  園「消してはいけませんよ、彼方へ行ってお呉んなさい」  新「ハイ行きますよ、なに火が附きました、時にお園どん、お前の病気は大変に案じたが、本当にこう早く癒ろうとは思わなかった、山田さんも丹精なすったし私も心配致しましたが、実に有難い、私は一生懸命に池の端の弁天様へ願掛けをしました」  園「有難うございます、お前さんのお蔭で助かりました、もうお店が退けましたから早くお出でよ、新どん」  新「行きますよ、此の間ね、お前さんの姉様豊志賀さんが来てね、たった一人の妹でございますから大事に思うが、こんな稼業をして居り、家も離れているから看病も届きませんでしたが、お前さんが丹精して下すって本当に有難い、その御親切は忘れません、お前さんの様な優しい人を園の亭主に持し度いと思いますとこう云ってね、お前の姉さんが、流石は芸人だけあって様子のいゝ事を云うと思ったが、余程嬉しかったよ」  園「いけませんネ、奥も先刻お退けになりましたからお店へお出でなさいよ」  新「行きますよ、お園どん誠に私は本当に案じたがね」  園「有難うござますよ」  新「弁天様へ一生懸命に二十一日の間私が精進して山田様も本当に親切にしてくれたがね、私は真赤に酔っていますか」  園「真赤でございますよ、彼方へお出でなさいよ」  新「そんなに追出さんでもいゝやね、お園どん、伊勢茂の番頭さんが、流山の滅法よい味淋をお前にと云うので私は口当りがいゝから恐ろしく酔った、私はこんなに酔った事は初めてゞ私の顔は真赤でしょう」  園「真赤ですよ、先刻お店も退けましたから早くお出でなさいよ」  新「そんなに追出さなくてもいゝやね、お園どん〳〵」  園「何ですよ」  新「だがお園どん、本当にお前さんは大病で、随分私は大変案じて一時は六ヶしかったから、私は夜も寝なかったよ」  園「有難うございますが、そんなに恩にかけると折角の御親切も水の泡になりますから、余り諄く仰しゃると、その位なら世話をして下さらんければいゝにと済まないが思いますよ」  新「そう思っても私の方で勝手にしたのだからいゝが、ねえお園どん〳〵」  園「何ですよ」  新「私の心持はお前さん些とも分らぬのだね、お園どん、本当に私は間が悪いけれどもね、お前さんに私は本当に惚れて居ますよ」  園「アラ、嫌な、あんな事をいうのだもの、お内儀に言告ますよ」  新「言告るたって……そんなことを云うもんじゃアない、お前は私が来ると出て行け〳〵と、泥坊猫みた様に追出すから、迚もどう想ってもむだだとは思うが、寝ても覚めてもお前の事は忘れられないが、もう是からは因果と思ってふッつり女部屋へは来ませんが、けれども私を憫然と思って、一晩お前の床の中へ寝かしておくんなさいよ、エお園どん」  園「アラ厭なネ、私とお前さんと寝れば、人が色だと申します」  新「イヽエ私もそれが知れゝば失敗って此家には居られないから、唯一寸並んで寝るだけ、肌を一寸触てすうっと出ればそれで断念める、唯ごろッと寝て直ぐに出て行くから」  園「そんな事を云ってごろりと寝て直ぐに出て行くったって、仕様がないねえ、行って下さいよ」  新「そんな事を云わずに」  園「いやだよ、新どん」  新「お願いだから」  園「お願いだって」  新「ごろり一寸寝るばかりだ、永らく寝る目も寝ずに看病したろうじゃアないか、其の義理にも一寸枕を並べて、直ぐに出て行くから」  園「仕様がございませんね」  と云うが、永らく看病してくれた義理があってみれば無下に振払う事も出来ず、  園「新どん唯一寸寝る許りにしておくんなさいよ」  新「アヽ一寸一度寝るばかりでも結構、半分でもよろしい」  と云うのでお園の床へ這入りますると、お園は厭だからぐるりと脊中を向けて固くなっているから、此方も床へ這入りは這入ったが、ぎこちなくって布団の外へはみ出す様、お園はウンともスンとも云わないから、何だか極りが悪いので酔も醒て来て、  新「お園どん、誠に有難う、お前がそんなに厭がるものを無理無体に私がこんな事をして済まないが、其の代り人には決して云わない、私は是程惚れたからお前の肌に触れ一寸でも並んで寝れば私の想いも届いたのだから宜しいが、此家に居ては面目なくて顔が合せられず、又顔を合せては猶更忘れられないし、こんな心では御恩を受けた旦那様にも済まないから、私は此家を今夜にも明日にも出てしまって、私の行方が知れなくなったら、私の出た日を命日と思って下され、もう私は思い遺す事もないから死でしまいます」  とすうッと出に掛る。口説上手のどんづまりは大抵死ぬと云うから、今新五郎は死ぬと云ったら、まア新どんお待ちと来るかと思うと、お園は死ぬ程新五郎が厭だから何とも申しませんで、猶小衾を額の上までずうッと揺り上げて被ったなり口もきゝませんから、新五郎は手持無沙汰にお園の部屋を出ましたが、是が因果の始りで、猶更お園に念がかゝり、敵同士とは知らずして、遂に又お園に恋慕を云いかけまするという怪談のお話、一寸一息吐きまして、 十一  深見新五郎がお園に惚れまするは物の因果で、敵同士の因縁という事は仏教の方では御出家様が御説教をなさるが、どういう訳か因縁と云うと大概の事は諦めがつきます。  甲「どうしてあの人はあんな死様をしただろうか」  乙「因縁でげすね」  甲「あの人はどうしてあア夫婦中がいゝか知らん、あの不器量だが」  乙「あれはナニ因縁だね」  甲「なぜかあの人はあアいう酷い事をしても仕出したねえ」  乙「因縁が善いのだ」  と大概は皆因縁に押附けて、善いも悪いも因縁として諦めをつけますが、其の因縁が有るので幽霊というものが出て来ます。その眼に見えない処を仏教では説尽してございまするそうで、外国には幽霊は無いかと存じて居りました処が、先達て私の宅へさる外国人が婦人と通弁が附いて三人でお出になりまして、それは粋な外国人で、靴を穿いて来ましたが、其の靴をぬいで隠から帛紗を取出しましたから何の風呂敷包かと思いますと、其の中から上靴を出してはきまして、畳の上へ其の上靴で坐布団の上へ横ッ倒しに坐りまして、  外「お前の家に百幅幽霊の掛物があるという事で疾より見たいと思って居たが、何卒見せて下さい」  という事。是は私がふと怪談会と云う事を致した時に、諸先生方が画いて下すった百幅の幽霊の軸がございますから、是を御覧に入れますと、外国人の事でございますから、一々是は何という名で何という人が画いたのかと云う事を、通弁に聞いて手帖に写し、是れは巧い、彼れは拙いと評します所を見ると、中々眼の利いたもので、丁度其の中で眼に着きましたのは菊池容齋先生と柴田是眞先生の画いたので、是は別して賞められました。そのあとで茶を点れて四方八方の話から、幽霊の有無の話をしましたが、  外「私は日本の語にうといから通弁から聞いて呉れ」  と云う。私も洋語は知りませんから通弁さんに聞くと、通弁さんの云うに、  通「お前の宅にこれだけの幽霊の掛物を聚めるには、幽霊というものが有るか無いかを確と知っての上でかように聚めたのでございましょう」  と云う問でございました。所が有るか無いかと外国人に尋ねられて、私も当惑して、早速に答も出来ませんから、  圓「日本の国には昔から有るとのみ存じていますから、日本人には有るようで、貴方のお国には無いと云うことが学問上決して居るそうですから無いので、詰り無い人には無い有る人には有るのでございましょう」  と、仕方なしに答えましたが、此の答は固よりよろしくない様でございますが、何分無いとも有るとも定めはつきません。先達ある博識先生に聞きますと 「幽霊は有るに違い無い、現在僕は蛇の幽霊を見たよ」  と仰しゃるから、  圓「どういう訳か」  と聞くと、蛇を壜の中へ入れてアルコールをつぎ込むと、蛇は苦しがって、出よう〳〵と思って口の所へ頭を上げて来るところを、グッとコロップを詰めると、出ようと云う念をぴったりおさえてしまう。アルコール漬だから形は残って居ても息は絶えて死んで居るのだが、それを二年許り経って壜の口をポンと抜いたら、中から蛇がずうッと飛出して、栓を抜いた方の手頸へ喰付いたから、ハッと思うと蛇の形は水になって、ダラ〳〵と落て消えたが、是は蛇の幽霊と云うものじゃ。と仰しゃりました。併し博識の仰しゃる事には、随分拵事も有って、尽く当にはなりませんが、出よう〳〵と云う気を止めて置きますと、其の気というものが早晩屹度出るというお話、又お寺様で聞いて見ますると気息が絶えて後形は無いが、霊魂と云うものは何処へ行くか分らぬと申すこと、天国へ行くとか地獄極楽とか云う説はあっても、まだ地獄から郵便の届いた試しもなし、又極楽の写真を見た事もございませんから当にはなりませんが、併し悪い事をすると怨念が取付くから悪事はするな、死んで地獄へ行くと画の如く牛頭馬頭の鬼に責められて実にどうも苦みをする、此の有様は如何じゃ、何と怖い事じゃアないか、と云うので、盆の十六日はお閻魔様へ参詣致しますると、地獄の画が掛けてあるから、此の画を見て子供はおゝ怖い、悪い事はしまいと思う。昔は私共も彼の画を見ると、もう決して悪い事はしまいと思いまして、女は子が出来ないと血の池地獄へ落ちて燈心で竹の根を掘らせられ、男は子が出来ないと提灯で餅を搗かせられると云う、皆恐ろしい話で、実に悪い事は出来ませんものでございます。又因縁で性を引きますというは仏説でございますが、深見新左衞門が斬殺した宗悦の娘お園に、新左衞門の悴新五郎が惚れると云うはどういう訳でございましょうか、寝ても覚めても夢にも現にも忘れる事が出来ませんで、其の時は諦めますと云って出にかゝったが、お園が何とも云わぬから仕方がない、杉戸を閉てゝ店へ往って寝てしまいましたが翌日になって見ると、まさか死ぬにも死なれず、矢張顔を見合せて居ります。其の中に土蔵の塗直しが始まり、質屋さんでは土蔵を大事にあそばすので、土蔵の塗直しには冬が一番持がいゝと云うので、職人が這入ってどし〳〵日の暮れるまで仕事をして、早出居残りと云うのでございます。職人方が帰り際には台所で夕飯時には主人が飯を喫べさせ、寒い時分の事だから葱鮪などは上等で、或は油揚に昆布などを入れたのがお商人衆の惣菜でございます。よく気をつけてくれまするから、台所で職人がどん〳〵這入って御膳を食べ、香の物がないといって、襷を掛けて日の暮々にお園が物置へ香の物を出しにゆきました。此の奥に土蔵が有ってその土蔵の脇は物置があり、其の此方には職人が這入って居るから荒木田があり、其の脇には藁が切ってあり、藁などが散ばっている間をうねって物置へ往って、今香の物を出そうとすると、新五郎が追っかけて来たから、見ると少し顔色も変って何だか気違じみて居る。もっとも惚れると云うと、馬鹿気て見えるものでございますが、  新「お園どん〳〵」  園「アラ、びっくりした、新どん、何でございます」 十二  新「アノお園さん、私はね、此の間お前と枕を並べて一度でも寝れば、死んでも宜い、諦めますと云いました」  園「そんなことは存じませんよ」  新「存じませんと云ったって覚えてお居でだろう、だがネ私はきっと諦めようと思って無理に頼んでお前の床へ這入って酔った紛れに一寸枕を並べたばかりだが、私はお前と一つ床の中へ這入ったから、猶諦めが付かなく成ったがね、お園どん、是程思って居るのだから唯一度ぐらいは云う事を聴いてもいゝじゃアないか」  園「何だネ新どん、気違じみて、お前さんも私も奉公して居る身の上でそんな事をして御主人に済みますか、其の事が知れたらお前さんは此の家を出ても行処が無いじゃアありませんか、若し間違があったならば、私は身寄も親類も無い行処の無いという事は何時でも然う云っておいでだのに、大恩のある御主人に済みませんよ」  新「済まないのは知って居るが、唯一度で諦めて是ッ切り猥らしい事は云う気遣ないから」  園「アラおよしよ」  新「お前こんなに思って居るのに」  と夢中になりお園の手を取ってグッと引寄せる。  園「アレお止し」  と云ううち帯を取って後へ引倒しますから、  園「アレ新どんが」  と高声を出して人を呼ぼうと思ったが、そこは病気の時に看病を受けました事があるから、其の親切に羈されて、若し私が呶鳴れば御主人に知れて、此の人が追出されたら何処へも行く処も無し気の毒と思いますから、唯小声で、  園「新どんお止しよ〳〵」  と声を出すようで出さぬが、声を立てられてはならんと、袂を口に当てがって、  新「此方へお出で」  と藁の上へ押倒して上へ乗掛るから、  園「アレ新どん、お前気違じみた、お前も私もしくじったら何うなさる、新どん、新どん」  ともがくのを、無理無体に口を押え、夢中になって上へ乗掛ろうとすると、  園「アレ新どん〳〵」  ともがいているうちに、お園がウーンと身を慄わして苦しみ、パッと息が止ったから恟りして新五郎が見ると、今はどっぷり日が暮れた時で、定かには分りませんが、側にある苆が真赤に血だらけ、  新「何うしたのか」  と思って起上ろうとすると、苦し紛れに新五郎の袖に手をかけ、しがみ付いたなりに、新五郎と共にずうッと起たのを見ると真赤、  新「お園どん何うしたのだえ」  と襟に手をかけて抱起すと、情ないかな下にあったのは苆を切る押切と云うもの、是は畳屋さんの庖丁を仰向にした様な実に能く切れるものでございますが、此の上へお園の乗った事を知らずに、男の力で、大声を立てさせまいと思い、口を押えてグックと押すから、お園はお止しよ〳〵と身体を踠くので、着物の上からゾク〳〵肋へかけて切り込みましたから、お園は七転八倒の苦しみ、其の儘息の絶えたのを見て、新五郎は、  新「アヽ南無阿弥陀仏〳〵〳〵、お園どん堪忍しておくれ、全くお前と私は何たる悪縁か、お前が厭がるのを知りながら私が無理無体な事を云いかけて、怖ろしい刃物のあるを知らずにお前を此所へ押倒して殺してしまったから、もう私は生きてはいられない、お園どん確かりしておくれ、私が死んでもお前を助けるから」  と無理に抱起して見ましたが、もう事が切れて居る。  新「ハア、もう是は迚もいかぬな」  と夢の覚めた様な心持で只茫然として居りましたが、もう迚も此処の家には居られぬ、といって今更何処といって行く処も無い新五郎、エヽ毒喰わば皿まで舐れ、もう是までというので、屎やけになる。若い中にはあることで、新五郎は暗に紛れてこっそり店へ這入って、此の家へ来る時差して来た大小を取出し、店に有合の百金を盗み取って逐電いたしましたが、さて行く処がないから、遥々奥州の仙台へ参り、仙台様のお抱になって居る、剣客者黒坂一齋と云う、元剣術の指南を受けた師匠の処へ参って塾に這入り、剣術の修業をして身を潜めて居りましたが、城中に居りましたから、頓と跡が付きません。なれども故郷忘じ難く、黒坂一齋の相果てゝからは、何うも朋輩の交際が悪うございますから、もう二三年も経ったから知れやしまいと思って、又奥州仙台から、江戸表へ出て来たのは、十一月の丁度二十日でございます。先ず浅草の観音様へ参って礼拝を致し、是から何処へ行うか、何うしたらよかろうと考える中に、ふと胸に浮んだのは勇治と云う元屋敷の下男で、我が十二歳ぐらいの頃まで居たが、其の者は本所辺に居ると云う事で、慥か松倉町と聞いたから、兎も角も此の者を尋ねて見ようと思い、吾妻橋を渡って、松倉町へ行きます。菅の深い三度笠を冠りまして、半合羽に柄袋のかゝった大小を帯し、脚半甲がけ草鞋穿で、いかにも旅馴れて居りまする扮装、行李を肩にかけ急いで松倉町から、斯う細い横町へ曲りに掛ると、跡からバラ〳〵〳〵と五六人の人が駈けて来るから、是は手が廻ったか、しくじったと思い、振返って見ると、案の如く小田原提灯が見えて、紺足袋に雪駄穿で捕者の様子だから、あわてゝ其処にある荒物屋の店の障子をがらりと明けて、飛上ったから、荒物屋さんでは驚きました。  女房「何ですねえ、恟りしますね」  と云うと、  新「ハイ〳〵〳〵」  と云ってブル〳〵慄えながら、ぴったり後を締めて障子の破れから戸外を覗いて居ります。 十三  女「まア何処の方です、突然人の家へ這入って、草鞋をはいたなりで坐ってサ、何うしたんだえ」  新「是は〳〵何うも誠に相済まぬが、今間違で詰らぬ奴に喧嘩を仕掛けられ、私は田舎武士で様子が知れぬから、面倒と思って、逃ると追掛けたから、是は堪らんと思って当家へ駈込みお店を荒して済みませんが、今覗いて見れば追掛けたのではない酒屋の御用が犬を嗾かけたのだ、私は只怖いと思ったものだから追掛けられたと心得たので、誠に相済みません」  女「困りますね、草鞋を脱いで下さい、泥だらけになって仕様がございませんね、アレ塩煎餅の壺へ足を踏みかけて、まアお前さん大変樽柿を潰したよ」  新「誠に済まないが、ツイ踏んで二つ潰したから、是は私が買って、あとは元の様に積んで置きます、あの出刃庖丁は何でげすな」  女「あれは柿の皮を剥くのでございますよ、何うも困りますね、だが買って下さればそれで宜うございますが、けれども貴方草鞋をおとんなさいナ」  新「何うか、樽柿は幾個でも買いますが、何うかお茶でも水でも下さい」  女「お茶は冷うございますが、ナニ沢山買って下さらないでも、潰れただけの代を下さればようございます」  新「えゝ御家内此処は何と云う処でございますえ」  女「此処は本所松倉町でございます」  新「あゝ左様かえ、少しお聞き申すが、前々小日向服部坂の屋敷に奉公を致して居った勇治と云う者が此の近処に居りませんか、年は今年で五十八九になりましょうか、慥か娘が一人あって其の娘の夫は*喿掻と聞きましたが」 *「壁下地の小竹をとりつける職人」  女「貴方は、なんでございますか、深見新左衞門様の若様でございますか」  新「えゝ何あのお前は勇治を御存知かえ」  女「ハイ私は勇治の娘でございますよ、春と申しまして」  新「はあ然う」  春「私はね、もうねお屋敷へ一度参った事がございますがね、其の時分は幼少の時で、まアお見違申しました、まだ貴方のお小さい時分でございましたからさっぱり存じませんで、大層お立派におなり遊ばしたこと、お幾才におなり遊ばした」  新「今年二十三になります」  春「まアお屋敷もね、何だか不祥な事になりまして、昨年私の親父も亡なりましたが、お屋敷はあゝなったが、若様は何うなされたかお行方が知れぬが、ひょっとして尋ねていらっしゃったら、永々御恩を受けたお屋敷の若様だから何んなにもして上げなければならん、と死際に遺言して亡なりましたが、貴方が若様なれば何うか此方へ一晩でもお泊め申さんでは済ませんから」  新「やれ〳〵是は〳〵左様かね、図らず勇治の処へ来たのは何より幸で、拙者は深見新五郎であるが、仔細あって暫く遠方へ参って居たが、今度此方へ出て参っても何処と云って頼る処も無し、何処か知れぬ処へ奉公住を致したいが、請人がなければならんから当家で世話をして請人になってくれんか」  春「お世話どころじゃアございません、是非ともお世話を為なければ済みません、まア能く入らっしゃいました、貴方それじゃアまア脚半や草鞋をお取りなすって、なに御心配はございません、今水を汲んで来ます、ナニその汚れた処は雑巾で拭きますから、まア合羽などはお取りなさいまし」  と云うから新五郎はホット息を吐きます。すると、  春「まア此方へ」  と云うので何か親切に手当を致し、大小は風呂敷に包み箪笥の抽斗へ入れてピンと錠を卸し、  春「貴方これとお着かえなさいましな」  新「イヤ着換は持って居るから」  と包の中から出して着物を着かえ、  新「何うか空腹であるから御飯を」  春「ハイ宜しゅうございます、貴方御酒を召上るならば取って参りましょう、此の辺は田舎同様場末でございますから何にもよいものはありませんが、貴方鰻を召上りますなら鰻でも」  新「鰻は結構、私が代を出すから何か買って貰いたい」  春「そんなら跡を願いますよ」  と是からガラリ障子を明けて戸外へ出ました。すると此の女房は、実は深見新五郎が来たら是々と、亭主に言付けられているから、亭主の行って居る処へ行って話をする。此の亭主は石河伴作と云う旦那衆の手先で、森田の金太郎と云う捕者の上手、かねて網を張って待っていた処だから、それは丁度好いと、それ〴〵手配をしたが、併し剣客者と聞いているから刃物を取上げなければならんが、何うしたものだろうと云うと女房が聞いて、刃物は是々してちゃんと箪笥の抽斗へ入れて錠を卸して仕舞って、鰻を誂えに行くつもりにして来たと云う。  金「そんなら宜しい」  と云って直に鰻屋の半纏を引掛けて若者の姿で金太郎が遣って来て、  金「エヽ鰻屋でございます」  と云うと、此方は気が附きませんから、  新「ハイ大きに御苦労」  金「お誂えが出来ました、あゝ山椒の袋を忘れた」  と云いながら新五郎の受取に来る処を飛上って、  金「御用だ神妙にしろ」  と手を取って逆に捻伏せられたから起る事が出来ません。 十四  金「手前は深見新五郎だろう、谷中の下總屋でお園を殺し、主人の金を百両盗んで逐電した大泥坊め」  新「イヤ手前は左様なものではござらん」  とは云ったが、あゝ残念なことをした、それでは此処の女房もぐるであったと見える、刃物を仕舞われたから是はもう迚も遁れぬ。と思いました。いゝ悪党なれば、斯う云う時の為に懐にどすといって一本匕首をのんで居るが、それ程商売人の泥的ではありませんから、用意をいたしておりません。もう天命究まったと思うと、一寸指の先へ障りましたのは、先刻ふと女房に聞いた柿の皮を剥く庖丁と云う鯵切の様な物が、これが手に障ったのを幸と、  新「左様な覚はない、人違でござる」  と云って、起上りながらズンと金太郎の額へ突掛けたから、  金「アッ」  と後へ下って傷口を押えると、額から血がダラ〳〵流れて真赤になり、真実の金太郎の様になります。続いて逃たらと隠れていた捕者の上手な富藏と云う者が、  富「神妙にしろ、御用だ」  と十手を振上げて打って掛るやつを取って抉ったから、ヒョロ〳〵とひょろついて台所の竈でボッカリ膝を打って、裏口へ蹌踉出したから、しめたと裏口の戸をしめ、辛張をかって置いて表を覗くと人が居る様子だから、確り鑰を掛けて燈光を消し、庖丁の先で箪笥の錠をガチ〳〵やって漸く錠を明け、取出した衣類を身に纒い、大小を差して、サア出ようと思ったが、迚も表からは出られませんから、屋根伝いにして逃げようと、階子を上って裏手の小窓を開けて見ると、ずうっと棟割長屋になって物干が繋がって居て、一軒毎に一間ばかりの丸太がありそれへ小割が打って物干竿の掛る様になっているから、此の物干伝いに伝わって行けば、何処へか逃げられるとは思ったが、なか〳〵油断は出来ませんから、長物を抜いて新五郎が度胸をすえ、小窓から物干へ這出して来ます。すると捕手の方も手当は十分に附いているから、もし此の窓から逃出したら頭脳を打破ろうと、勝藏と云う者が木太刀を振上げて待って居る所へ、新五郎は斯う腹這になって頸をそうッと出した。すると、  勝「御用だ」  ピュッーと来るやつを、身を退き身体を逆に反して、肋の所へ斬込んだから、勝藏は捕者は上手だが物干から致してガラ〳〵〳〵どうと転がり落ちる。其の間に飛下りようとする。所が下には十分手当が届いているから下りる事が出来ません。すると丁度隣の土蔵が塗直しで足場が掛けてあって笘が掛っているから、それを潜って段々参ると、下の方ではワア〳〵と云う人声、もう然うなると、人が十人居ても五十人も居る様に思われますから、新五郎は窃と音のしない様に笘を潜り抜けて、段々横へ廻って参り、此の空地へ飛下り、彼方の板塀を毀して、向の寺へ出れば逃れられようと思い、足場を段々に下りまして、もう宜かろう、と下を見ると藁がある。しめたと思ってドンと其処へ飛下りると、  新「ア痛タ……」  と臀餅をつく筈です、其の下にあったのは押切と云う物で、土踏まずの処を深く切込みましたから、新五郎ももう是までと覚悟しました。跛になっては、迚も遁れる事も出来ませんから、到頭縄に掛って引かれます。  新「あゝ因縁は恐しいもの、三年跡にお園を殺したも押切、今又押切へ踏掛けてそのために己が縄に掛って引かれるとは、お園の怨が身に纒って斯の如くになること」  と実に新五郎も夢の覚めた様になりましたが、是が丁度三年目の十一月二十日、お園の三回忌の祥月命日に、遂に新五郎が縄目に掛って南の御役宅へ引かれると云う、是より追々怪談のお話に相成ります。 十五  引続きまして真景累が淵、前回よりは十九年経ちましてのお話に相成りますが、根津七軒町の富本の師匠豐志賀は、年卅九歳で、誠に堅い師匠でございまして、先年妹お園を谷中七面前の下總屋と云う質屋へ奉公に遣って置きました処、図らぬ災難で押切の上へ押倒され、新五郎の為に非業の死を遂げましたが、それからは稽古をする気もなく、同胞思いの豊志賀は懇に妹お園の追福を営み、追々月日も経ちまするので気を取直し、又矢張稽古をする方が気が紛れていゝから、と世間の人も勧めまするので、押っ張って富本の稽古を致す様になりましたが、女の師匠と云う者は、堅くないとお弟子がつきません。彼処の師匠は娘を遣って置いても行儀もよし、言葉遣いもよし、真に堅いから、あの師匠なら遣るが宜い、実に堅い人だ、と云うので大家の娘も稽古に参ります。すると、男嫌いで堅いと云うから、男は来そうもないものでございますが、堅い師匠だと云うと、妙に男が稽古に参ります。 「師匠是は妙な手桶で、台所で遣うのには手で持つ処が小さくって軽くって、師匠などが水を汲むにいゝから、私が一つ桶屋に拵えさして持って来た」  とか、又朝早く行って、瓶へ水を汲んで流しを掃除しようなどと手伝いに参ります。中には内々張子連などと申しまして、師匠が何かしてお世辞の一言も云うと、それに附込んで口説落そうなどと云う連中、経師屋連だの、或は狼連などと云う、転んだら喰おうと云う連中が来るのでありますから、種々親切に世話を致します。時々浚いや何か致しますと、皆此の男の弟子が手伝いに参りますが、ふと手伝いに来た男は、下谷大門町に烟草屋を致して居る勘藏と云う人の甥、新吉と云うのでございますが、ぶら〳〵遊んで居るから本石町四丁目の松田と云う貸本屋へ奉公に遣りましたが、松田が微禄いたして、伯父の処へ帰って遊んでいるから、少し烟草を売るがいゝと云うので、掴煙草を風呂敷に包み、処々売って歩きますが、素より稽古が好きで、閑の時は、水を汲みましょうお湯を沸しましょうなどと、ヘエ〳〵云ってまめに働きます。年二十一でございますが、一寸子抦の好い愛敬のあると云うので、大層師匠の気に入り、其の中に手少なだから私の家に居て手伝ってと云うと、新吉も伯父の処に居るよりは、芸人の家に居るのは粋で面白いから楽みも楽みだし、芸を覚えるにも都合がいゝから、豊志賀の処へ来て手伝いをして居ります。其の年十一月二十日の晩には、霙がバラ〳〵降って参りまして、極寒いから、新吉は食客の悲しさで二階へ上って寝ますが、五布蒲団の柏餅でもまだ寒いと、肩の処へ股引などを引摺込んで寝まするが、霙はざあ〳〵と窓へ当ります。其の内に少し寒さが緩みましたかして、夜が更けてから雨になりまして、どっとと降って参ります。師匠は堅いから下に一人で寝て居りますが、何だか此の晩は鼠がガタ〳〵して豐志賀は寝られません。  豐「新吉さん〳〵」  新「ヘエ何でげすね」  豐「お前まだ眼が覚めていますかえ」  新「ヘエ、私はまだ覚めて居ります」  豐「そうかえ私も今夜は何だか雨の音が気になって少しも寝られないよ」  新「私も気になって些とも寝られません」  豐「何だか誠に訝しく淋しい晩だね」  新「ヘエー訝しく淋しい晩でげすね」  豐「寒いじゃアないか」  新「何だかひどく寒うございますね」  豐「なんだね同じ様なことばかり云って、誠に淋しくっていけない、お前さん下へ下りて寝ておくれな、どうも気になっていけないから」  新「そうですか、私も淋しいから下へ下りましょう」  と五布蒲団と枕を抱えて、危い階子を下りて来ました。  豐「お前、新吉さん其方へ行って柏餅では寒かないかえ」  新「ヘエ、柏餅が一番宜いんです、布団の両端を取って巻付けて両足を束に立って向の方に枕を据えて、これなりにドンと寝ると、好い塩梅に枕の処へ参りますが、そのかわり寝像が悪いと餡がはみ出します」  豐「お前寒くっていけまい、斯うしておくれな、私も淋しくっていけないから、私のネこの上掛の四布蒲団を下に敷いて、私の掻巻の中へお前一緒に這入って、其の上へ五布蒲団を掛けると温かいから、一緒にお寝な」  新「それはいけません、どうして勿体ない、お師匠さんの中へ這入って、お師匠さんの身体から御光が射すと大変ですからな」  豐「御光だって、寒いからサ」  新「寒うございますがね、明日の朝お弟子が早く来ましょう、然うするとお師匠さんの中へ這入って寝てえれば、新吉はお師匠さんと色だなどと云いますからねえ」  豐「宜いわね、私の堅い気象は皆が知って居るし、私とお前と年を比べると、私は阿母さんみた様で、お前の様な若い子みたいな者と何う斯う云う訳は有りませんから一緒にお寝よ」  新「そうでげすか、でも極りが悪いから、中に仕切を入れて寝ましょうか」  豐「仕切を入れたって痛くっていけませんよ、お前間がわるければ脊中合にして寝ましょう」  と到頭同衾をしましたが、決して男女同衾はするものでございません。 十六  日頃堅いと云う評判の豐志賀が、どう云う悪縁か新吉と同衾をしてから、不図深い中になりましたが、三十九歳になる者が、二十一歳になる若い男と訳があって見ると、息子のような、亭主のような、情夫の様な、弟の様な情が合併して、さあ新吉が段々かわいゝから、無茶苦茶新吉へ自分の着物を直して着せたり何か致します、もと食客だから新吉が先へ起きて飯拵えをしましたが、此の頃は豐志賀が先へ起きてお飯を炊くようになり、枕元で一服つけて  豐「さア一服お上りよ」  新「ヘエ有難う」  豐「何だよヘエなんて、もうお起きよ」  新「あいよ」  などと追々増長して、師匠の布子を着て大胡坐をかいて、師匠が楊枝箱をあてがうと坐ってゝ楊枝を遣い嗽をするなどと、どんな紙屑買が見ても情夫としか見えません。誠に中よく致し、新吉も別に行く処も無い事でございますから、少し年をとった女房を持った心持でいましたが、此家へ稽古に参りまする娘が一人ありまして、名をお久と云って、総門口の小間物屋の娘でございます。羽生屋三五郎と云う田舎堅気の家でございまするが、母親が死んで、継母に育てられているから、娘は家に居るより師匠の処に居る方がいゝと云うので、能く精出して稽古に参ります。すると隠す事程結句は自然と人に知れるもので、何うも訝しい様子だが、新吉と師匠と訳がありゃアしないかと云う噂が立つと、堅気の家では、其の様な師匠では娘の為にならんと云って、好い弟子はばら〳〵下ってしまい、追々お座敷も無くなります。そうすると、張子連は憤り出して、 「分らねえじゃアねえか、師匠は何の事だ、新吉などと云う青二歳を、了簡違いな、また新吉の野郎もいやに亭主ぶりやアがって、銜煙管でもってハイお出で、なんと云ってやがる、本当に呆れけえらア、下れ〳〵」  と。ばら〳〵張子連は下ります。其の他の弟子も追々其の事を聞いて下りますと、詰って来るのは師匠に新吉。けれどもお久ばかりは相変らず稽古に来る、と云うものは家に居ると、継母に苛められるからで、此のお久は愛嬌のある娘で、年は十八でございますが、一寸笑うと口の脇へ靨と云って穴があきます。何もずぬけて美女ではないが、一寸男惚のする愛らしい娘。新吉の顔を見てはにこ〳〵笑うから、新吉も嬉しいからニヤリと笑う。其の互に笑うのを師匠が見ると外面へは顕わさないが、何か訳が有るかと思って心では妬きます。この心で妬くのは一番毒で、むや〳〵修羅を燃して胸に燃火の絶える間がございませんから、逆上せて頭痛がするとか、血の道が起るとか云う事のみでございます。と云って外に意趣返しの仕様がないから稽古の時にお久を苛めます。  豐「本当に此の娘は何てえ物覚が悪い娘だろう、其処がいけないよ、此様なじれったい娘はないよ」  と無暗に捻るけれども、お久は何も知らぬから、芸が上ると思いまして、幾ら捻られてもせっせと来ます。それは来る訳で、家に居ると継母に捻られるから、お母さんよりはお師匠さんの方が数が少いと思って近く来ると、猶師匠は修羅を燃して、わく〳〵悋気の焔は絶える間は無く、益々逆上して、眼の下へポツリと訝しな腫物が出来て、其の腫物が段々腫上って来ると、紫色に少し赤味がかって、爛れて膿がジク〴〵出ます、眼は一方腫塞がって、其の顔の醜な事と云うものは何とも云いようが無い。一体少し師匠は額の処が抜上って居る性で、毛が薄い上に鬢が腫上っているのだから、実に芝居で致す累とかお岩とか云うような顔付でございます。医者が来て脈を取って見る。豊志賀が、是は気の凝でございましょうか、と云うと、イヤ然うでない是は面疔に相違ないなどゝ云うが、それは全く見立違いで、只今の様に上手なお医者はございません時分で、只今なら佐藤先生の処へ行けば、切断して毒を取って跡は他人の肉で継合わせると云う、飴細工の様な事も出来るから造作はないが、其の頃は医術が開けませんから、十分に療治も届きません。それ故段々痛が烈しくなり、随って気分も悪くなり、終にはどっと寝ました。ところが食は固より咽喉へ通りませんし、湯水も通らぬ様になりましたから、師匠は益々痩るばかり、けれども顔の腫物は段々に腫上って来まするが、新吉はもと師匠の世話になった事を思って、能く親切に看病致します。  新「師匠〳〵、あのね、薬の二番が出来たから飲んで、それから少し腫物の先へ布薬を為よう、えゝおい、寝て居るのかえ」  豐「あい」  と膝に手を突いて起上りますると、鼠小紋の常着を寝着におろして居るのが、汚れッ気が来ており、お納戸色の下〆を乳の下に堅く〆め、溢れたように痩せて居ります。骨と皮ばかりの手を膝に突いて漸くの事で薬を服み、  豐「ほッ、ほッ」  と息を吐く処を、新吉は横眼でじろりと見ると、もう〳〵二眼と見られない醜な顔。  新「些とは快かえ」  豐「あい、新吉さん、私はね何うも死度いよ、私のような斯んなお婆さんを、お前が能く看病をしておくれで、私はお前の様な若い奇麗な人に看病されるのは気の毒だ〳〵と思うと、猶病気が重って来る、ね、私が死んだら嘸お前が楽々すると思うから、本当に私は一時も早く楽に死度いと思うが、何うも死切れないね」  新「詰らない事を云うもんじゃアない、お前が死んだら私が楽をしようなどゝそんなことで看病が出来るものでは無い、わく〳〵そんな事を思うから上せるんだ、腫物さえ癒って仕舞やア宜いのだ」  豐「でもお前が厭だろうと思って、私はお前唯の病人なら仕方もないけれども、私は斯んな顔になって居るのだもの」  新「斯んな顔だって腫物だから癒れば元の通りになるから」  豐「癒ればあとが引釣になると思ってね」  新「そんなに気を揉んではいけない、少しは腫が退いたようだよ」  豐「嘘をお吐きよ、私は鏡で毎日見て居るよ、お前は口と心と違って居るよ」  新「なに違うものか、私は心配して居るのだ」  豐「あゝもう私は早く死度い」  新「お廃しよ、死たい〳〵って気がひけるじゃアないか、些とは看病する身になって御覧、何だってそんなに死度いのだえ」  豐「私が早く死んだら、お前の真底から惚れているお久さんとも逢われるだろうと思うからサ」 十七  新「あゝいう事を云う、お前は何ぞと云うとお久さんを疑って、ばんごと云うがね、私とお久さんと何か訳があると思って居るのかえ」  豐「それはないわね」  新「ないものを兎や角云わなくっても宜いじゃアないか」  豐「ないからったっても、私と云うものがあるから、お前が惚れているという事を、口にも出さず、情夫にもなれぬと思うと、私は本当に気の毒だから私は早く死んで上げて、そうして二人を夫婦にして上げたいよ」  新「およしな、そんな詰らぬ事を、仕様がないな、本当にお前も分らないね、お久さんだって一人娘で、婿を取ろうと云う大事な娘だのに、そんな訳もない事を云って疵を附けては、向の親父さんの耳にでも入ると悪いやね、あの娘のお母さんは継母で喧しいから可愛そうだわね」  豐「可愛そうでございましょう、お前はお久さんの事ばかりかわいそうで案じられるだろうが、私が死んでもお前は可愛そうだと思う気遣はないよ」  新「あ、あゝいう事を、お前仕様がないね、よく考えて御覧な、全体私は家の者じゃアないか、仮令訳があっても隠すが当然だろう、それを訳のない者を疑って、ある〳〵と云うと、世間の人まで有ると思って私が困るよ」  豐「御尤でございますよ、でも何うせあるのはあるのだね、私が死ねば添われるから、何卒添わして上げたいから云うのだよ、新吉さん本当に私は因果だよ、私は何うも死切れないよ」  新「あゝ云う事を云う、何を証拠に…えゝそれはね……彼様な事を…又あゝいう事を……お前そう疑るからいけない、此の頃来たお弟子ではなし、家の為になるからそれはお前、お天気がいゝとか、寒うございますとか、芝居へおいでなすったか位のお世辞は云わなければならないやね、それも家の為だと思うから云おうじゃアないか、あれサ仕様がないね、別に何も……此の間も見舞物を持って来たから台所へ行って葢物を明けて返す、あれサそれを、あゝいう分らぬ事を云う仕様がねえなア」  とこぼして居る所へ這入って来たのは何も知らないお久でございます。何か三組の葢物へおいしいものを入れて、  久「新吉さん、今日は」  新「ヘエ、お出なさい、此方へお這入りなすって、ヘエ有難う、まア大きに落付ました様で」  久「あのお母さんが上るのですが、つい店が明けられませんで御無沙汰を致しますが、慥かお師匠さんがお好でございますから、よくは出来ませんが何卒召上って」  新「有難うございます、毎度お前さんの処から心にかけて持って来て下すって有難う、錦手の佳い葢物ですね、是は師匠が大好でげす、煎豆腐の中へ鶏卵が入って黄色くなったの、誠に有難う、師匠が大好、おい師匠〳〵あのねお久さんの処からお前の好な物を煮て持って来ておくんなすったよ、お久さんが来たよ」  豐「あい」  とお久と云う声を聞くと、こくり起上って手を膝について、お久の顔を見詰めて居ります。  久「お師匠さんいけませんね、お母さんがお見舞に上るのですが、つい店が明けられませんで、些とはお快ゅうございますか」  豐「はい、お久さん度々御親切に有難うございます。お久さん、お前と私とは何んだえ」  新「何を詰らない事を云うのだよ」  豐「黙っておいでなさい、お前の知った事じゃアない、お久さんに云いたい事があるのだよ、お久さん私とお前とは弟子師匠の間じゃアないか、何故お見舞にお出でゞない」  新「何を云うのだよ、お久さんは毎日お見舞に来たり、何うかすると日に二度ぐらいも来るのに」  豐「黙っておいで、其様にお久さんの贔屓ばかりおしでない、それは私が斯うしているから案じられて来るのじゃア無い、お久さんはお前の顔を見たいから度々来るので」  新「仕様がないナ詰らぬ事を云って、お久さん堪忍してね、師匠は逆上して居るのだから」  久「誠にいけませんね」  とお久は少し怖くなりましたから、こそ〳〵と台所から帰ってしまいました。  新「困るね、えゝ、おい師匠何うしたんだ、冗談じゃアねえ、顔から火が出たぜ、生娘のうぶな娘に彼様な事を云って、面目無って居られやアしない」  豐「居られますまいよ、顔が見たけりゃア早く追駈けてお出で」  新「あゝいう事を云うのだもの」  豐「私の顔は斯んな顔になったからって、お前がそういう不人情な心とは私は知りませんだったよ」  新「何を云うのだね、誠に仕様がねえな、些と落付いてお寝よ」  豐「はい寝ましょうよ」  新吉は仕方がないから足を摩って居りますと、すや〳〵疲れて寝た様子だから、いゝ塩梅だ、此の間に御飯でも喫べようと膳立をしていると這出して、  豐「新吉さん」  新「何だい、肝を潰したねえ」  豐「私が斯んな顔で」  新「仕様がねえな冷るといけないからお這入りよ」  と云う塩梅、よる夜中でも、いゝ塩梅に寝附いたから疲れを休めようと思って、ごろりと寝ようとすると、  豐「新吉さん〳〵」  と揺り起すから新吉が眼を覚すと、ヒョイと起上って胸倉を取って、  豐「新吉さん、お前は私が死ぬとねえ」  と云うから、新吉は二十一二で何を見ても怖がって尻餅をつくと云う臆病な性でございますから、是は不人情のようだが迚も此処には居られない、大門町へ行って伯父と相談をして、いっその事下総の羽生村に知って居る者があるから、其処へ行ってしまおうかと、種々考えて居る中に、師匠は寝付いた様子だから、その間に新吉はふらりと戸外へ出ましたが、若い時分には気の変りやすいもので、茅町へ出て片側町までかゝると、向から提灯を点けて来たのは羽生屋の娘お久と云う別嬪、  久「おや新吉さん」 十八  新「これはお久さん何処へ」  久「あの日野屋へ買物に」  新「思いがけない処でお目にかゝりましたね」  久「新吉さん何方へ」  新「私は一寸大門町まで」  久「お師匠さんは」  新「誠にいけません、此の間はお気の毒でね、あんな事を云って何うもお前さんにはお気の毒様で」  久「何う致しまして、丁度好処でお目に掛って嬉しいこと」  新「お久さん何処へ」  久「日野屋へ買物に」  新「本当にあんな事を云われると厭なものでね、私は男だから構いませんが、お前さんは嘸腹が立ったろうが、お母さんには黙って」  久「何ういたしまして、私の方ではあゝ云われると、冥加に余って嬉しいと思いますが、お前さんの方で、外聞がわるかろうと思って、誠にお気の毒様」  新「うまく云って、お久さん何処へ」  久「日野屋へ買物に」  新「あの師匠の枕元でお飯を喫ると、おち〳〵咽喉へ通りませんから、何処かへ徃ってお飯を喫べようと思うが、一人では極りが悪いから一緒に往っておくんなさいませんか」  久「私の様な者をおつれなさると外聞が悪うございますよ」  新「まア宜いからお出でなさい、蓮見鮨へ参りましょう」  久「ようございますか」  新「宜いからお出でなさい」  と下心があると見え、お久の手を取って五目鮨へ引張り込むと、鮨屋でもさしで来たから訝しいと思って、  鮨「いらっしゃい、お二階へ〳〵、あの四畳半がいゝよ」  と云うのでとん〳〵〳〵〳〵と上って見ると、天井が低くって立っては歩かれません。  新「何だか極りが悪うございますね」  久「私は何うも思いません、お前さんと差向いでお茶を一つ頂く事も出来ぬと思って居ましたが、今夜は嬉しゅうございますよ」  新「調子のいゝことを」  女「誠に今日はお生憎様、握鮓ばかりで何にも出来ません、お吸物も、なんでございます、詰らない種でございますから、海苔でも焼いて上げましょうか」  新「あゝ海苔で、吸物は何か一寸見計って、あとは握鮓がいゝ、おい〳〵、お酒は、お前いけないねえ、しかし極りが悪いから、沢山は飲みませんが、五勺ばかり味醂でも何でも」  女「畏まりました、御用がありましたらお呼びなすって、此処は誠に暗うございますが」  新「何ようございます、其処をぴったり〆めて」  女「ハイ御用があったらお手を、此の開きは内から鎖鑰が掛りますから」  新「お前さんとさしで来たから、女がおかしいと思って内から鎖鑰が掛るなんて、一寸*たかいね、お久さん何処へ」 *「たかい目が高いの略」  久「日野屋へ来たの」  新「あ然う〳〵、此の間はお気の毒様で、お母さんのお耳へ這入ったら嘸怒りなさりやアしないかと思って大変心配しましたが、師匠は彼の通り仕様がないので」  久「何うも私共の母なども然う云っておりますよ、お師匠さんがあんな御病気になるのも、やっぱり新吉さん故だから、新吉さんも仕方がない、何様にも看病しなければならないが、若いから嘸お厭だろうけれども、まアお年に比しては能く看病なさるってお母さんも誉めて居ますよ」  新「此方も一生懸命ですがね、只煩って看病するばかりならいゝけれども、何うも夜中に胸倉を取って、醜な顔で変な事を云うには困ります、私は寝惚て度々恟りしますから、誠に済まないがね、思い切って斯うふいと何処かへ行って仕舞うかと思って、それには下総に些の知己が有りますから其処へ行こうかと思うので」  久「おやお前さんの田舎はあの下総なの」  新「下総と云う訳じゃアないが些と知って居る……伯母さんがあるので」  久「おやまあ。私の田舎も下総ですよ」  新「ヘエお前さんの田舎は下総ですか、世には似た事があるものですね、然う云えば成程お前さんの処の屋号は羽生屋と云うが、それじゃア羽生村ですか」  久「私の伯父さんは三藏と云うので、親父は三九郎と云いますが、伯父さんが下総に行って居るの、私は意気地なしだから迚も継母の気に入る事は出来ないけれども、余りぶち打擲されると腹が立つから、私が伯父さんの処へ手紙を出したら、そんな処に居らんでも下総へ来てしまえと云うから、私は事によったら下総へ参りたいと思います」  新「ヘエ然うでございますか、本当に二人が情夫か何かなれば、ずうっと行くが、何でもなくっては然うはいきませんが、下総と云えば、何んですね、累の出た処を羽生村と云うが、家の師匠などはまるで累も同様で、私をこづいたり腕を持って引張ったりして余程変ですよ、それに二人の中は色でも何でもないのに、色の様に云うのだから困ります、何うせ云われるくらいなれば色になって、然うしてずうっと、二人で下総へ逃ると云うような粋な世界なら、何と云われても云われ甲斐がありますが」  久「うまく仰しゃる、新吉さんは実があるから、お師匠さんを可愛いと思うからこそ辛い看病も出来るが、私のような意気地なしの者をつれて下総へ行きたいなんと、冗談にも然う仰しゃってはお師匠さんに済みませんよ」  新「済まないのは知ってるが、迚も家には居られませんもの」  久「居られなくっても貴方が下総へ行ってしまうとお師匠さんの看病人がありません、家のお母さんでも近所でも然う云って居りますよ、あの新吉さんが逃出して、看病人が無ければ、お師匠さんは野倒死になると云って居ります、それを知ってお師匠さんを置いて行っては義理が済みません」  新「そりゃア義理は済みませんがね、お前さんが逃げると云えば、義理にも何にも構わず無茶苦茶に逃げるね」  久「えゝ、新吉さん、お前さんほんとうに然う云って下さるの」  新「ほんとうとも」  久「じゃアほんとうにお師匠さんが野倒死をしても私を連れて逃げて下さいますか」  新「お前が行くと云えば野倒死は平気だから」  久「本当に豊志賀さんが野倒死になってもお前さん私を連れて行きますか」  新「本当に連れて行きます」  久「えゝ、お前さんと云う方は不実な方ですねえ」  と胸倉を取られたから、フト見詰めて居ると、綺麗な此の娘の眼の下にポツリと一つ腫物が出来たかと思うと、見る間に紫立って膨れ上り、斯う新吉の胸倉を取った時には、新吉が怖いとも怖くないともグッと息が止るようで、唯だ無茶苦茶に三尺の開戸を打毀して駈出したが、階子段を下りたのか転がり落たのか些とも分りません。夢中で鮨屋を駈出し、トットと大門町の伯父の処へ来て見ると、ぴったり閉って居るからトン〳〵〳〵〳〵、  新「伯父さん〳〵〳〵」 十九  勘「オイ騒々しいなア、新吉か」  新「えゝ一寸早く明けて、早く明けておくんなさい」  勘「今明ける、戸が毀れるワ、篦棒な、少し待ちな、えゝ仕様がねえ、さあ這入んな」  新「跡をピッタリ締めて、南無阿弥陀仏〳〵」  勘「何だって己を拝む」  新「お前さんを拝むのではない、ハア何うも驚きましたネ」  勘「お前のように子供みたいにあどけなくっちゃア困るね、えゝ、オイ何故師匠が彼程の大病で居るのを一人置いて、ヒョコ〳〵看病人が外へ出て歩くよ、済まねえじゃアないか」  新「済まねえが迚も家には居られねえ、お前さんは知らぬからだが其の様子を見せたいや」  勘「様子だって、何んな事があっても、己が貧乏して居るのに、汝は師匠の家へ手伝いに往ってから、羽織でも着る様になって、新吉さん〳〵と云われるのは皆豊志賀さんのお蔭だ、その恩義を忘れて、看病をするお前がヒョコ〳〵出歩いては師匠に気の毒で仕様がねえ、全体師匠の云う事はよく筋がわかっているよ、伯父さん誠に面目ないが、打明けてお話を致しまするが、新吉さんと去年から訝しなわけになって、何だか私も何う云う縁だか新吉さんが可愛いから、それで詰らん事に気を揉みまして、斯んな煩いになりました、就ては段々弟子も無くなり、座敷も無くなって、実にこんな貧乏になりましたも皆私の心柄で、新吉さんも嘸こんな姿で悋気らしい事を云われたら厭でございましょう、それで新吉さんが駈出してしまったのでございますから、私はもうプッヽリ新吉さんの事は思い切りまして、元の通り、尼になった心持で堅気の師匠を遣りさえすれば、お弟子も捩を戻して来てくれましょうから、新吉さんには何んな処へでも世帯を持たせて、自分の好いた女房を持たせ、それには沢山のことも出来ませんが、病気が癒れば世帯を持つだけは手伝いをする積り、又新吉さんが煙草屋をして居ては足りなかろうから、月々二両や三両位はすけるから、何卒伯父さん立会の上、話合で、表向プッヽリと縁を切る様にしたいから何卒願います、と云うのだが、気の毒でならねえ、あの利かねえ身体で、*四つ手校注に乗って広袖を着て、きっとお前が此家に居ると思って、奥に先刻から師匠は来て待って居るから、行って逢いな、気の毒だあナ」 *「四つ手かごの略。戸はまれに引戸ものあれど多くは垂れなり。」  新「冗談云っちゃアいけない、伯父さんからかっちゃアいけません」  勘「からかいも何もしねえ、師匠、今新吉が来ましたよ」  豐「おやマア大層遅く何処へ行っておいでだった」  勘「新吉、此方へ来なよ」  新「ヘエ、逢っちゃアいけねえ」  と怖々奥の障子を明けると、寝衣の上へ広袖を羽織ったなり、片手を突いて坐って居て、  豐「新吉さんお出なすったの」  新「エヽド何うして来た」  豐「何うして来たってね、私が眼を覚して見るとお前がいないから、是は新吉さんは愛想が尽きて、私が種々な事を云って困らせるから、お前が逃げたのだと思って気が付くと、ホッと夢の覚めたようであゝ悪い事をして嘸新吉さんも困ったろう、厭だったろうと思って、それから伯父さんにね、打明けて話をして、私も今迄の心得違いは伯父さんに種々詫言をしたが、お前とは年も違うし、お弟子は下り、世間の評判になってお座敷もなくなり、仮令二人で中よくして居ても食方に困るから、お前はお前で年頃の女房を持てば、私は妹だと思って月々沢山は出来ないが、元の様に二両や三両ずつはすける積り、伯父さんの前でフッヽリ縁を切るつもりで私が来たんだよ、利かない身体で漸と来たのでございます、何卒私が今まで了簡違いをした事は、お前腹も立つだろうが堪忍して、元の通りあかの他人とも、又姉弟とも思って、末長くねえ、私も別に血縁がないから、塩梅の悪い時はお前と、お前のお内儀さんが出来たら、夫婦で看病でもしておくれ、死水だけは取って貰いたいと思って」  勘「師匠、此の通り誠に子供同様で、私も誠に心配して居る、またお前さんに恩になった事は私が知って居る、おい新吉冗談じゃアねえ、お師匠さんに義理が悪いよ、本当にお前には困るナ」  新「なアニ師匠お前が種々な事を云いさえしなければいゝけれども…お前先刻何処かの二階へ来やアしないかえ」  豐「何処へ」  新「鮨屋の二階へ」  豐「いゝえ」  新「なんだ、そうすると矢張りあれは気のせえかしらん」  勘「何をぐず〳〵云うのだ、お前附いて早く送って行きな、ね、師匠そこはお前さんの病気が癒ってからの話合だ、今其の塩梅の悪い中で別れると云ったって仕様がねえ、私も見舞に行きたいが、一人の身体で、つまらねえ店でも斯うして張ってるから、店を明ける事も出来ねえから、病気の癒る間新吉を上げて置くから、ゆっくり養生して、全快の上で何うとも話合をする事にね、師匠……ナニお前送って行きねえ、師匠、お前さん四つ手でお出なすったが、彼じゃア乗りにくいと思って今*あんぽつをそう言ったから、あんぽつでお帰りなさいよ、エ、何だい」 *「町人の用うるかごの一種四つ手より上等にして戸は引戸」  駕籠屋「此方から這入りますか駕籠屋でげすが」  勘「ア駕籠屋さんか、アノ裏へ廻って、二軒目だよ、其の材木が立掛けて有る処から漬物屋の裏へ這入って、右へ附いて井戸端を廻ってネ、少し…二間ばかり真直に這入ると、己の家の裏口へ出るから、エ、なに、知れるよ、あんぽつぐらいは這入るよ」  駕「ヘエ」  勘「じゃア師匠、私が送りたいが今云う通り明ける事が出来ないから、新吉が附いて帰るから、ね、師匠、新吉の届かねえ処は、年もいかねえから勘弁して、ね、私が附いてるからもう不実な事はさせません、今迄の事は私が詫びるから……冗談じゃアねえ……新吉、お送り申しな、オイ今明るよ、裏口へ駕籠屋が来たから明けて遣りな、おい御苦労、さア師匠、広袖を羽織っていゝかえ」  豐「ハイ伯父さんとんだ事をお耳に入れて誠に」  勘「宜いからさア掴まって、いゝかえ、おい若衆お頼申すよ、病人だから静かに上げておくれ、いゝかえ緩くりと、此の引戸を立てるからね、いいかえ」  と云うので引戸を〆めてしまうと、  新「じゃア伯父さん提灯を一つ貸して下さいな、弓張でもぶらでも何でも宜いから、え、蝋燭が無けりゃア三ツばかりつないで、え、箸を入れてはいけませんよ、焙ればようございます」  男「御免なさい」  トン〳〵。  勘「ヘエ、何方でげす」  男「新吉さんは此方ですか、新吉さんの声の様ですね、え、新吉さんかえ」  勘「ヘエ何方でげすえ、ヘエ…ねえ新吉、誰かお前の名を云って逢いたいと云ってるから明けねえ」  新「おやお出でなさい」  男「おやお出でじゃアねえ、新吉さん困りますね、病人を置いて出て歩いては困りますね、本当に何様に捜したか知れない、時にお気の毒様なこと、お前さんの留守に師匠はおめでたくなってしまったが、何うも質の悪い腫物だねえ」 二十  新「何を詰らない事を、善六さん極りを云ってらア」  善「極りじゃアねえ」  新「そんな冗談云って、いやに気味が悪いなア」  善「冗談じゃアねえ、家内がお見舞に徃った処が、お師匠さんが寝てえると思って呼んで見ても答がねえので、驚いて知らせて来たから私も行き彦六さんも皆来て、何う斯うと云った処が何うしても仕ようがねえ、新吉さん、お前が肝腎の当人だから漸く捜して来たんだが、あのくらいな大病人を置いて出歩いちゃアいけませんぜ」  新「ウー、ナン、伯父さん〳〵」  勘「何だよお前、御挨拶もしねえで、お茶でも上げな」  新「お茶どころじゃアねえ、師匠が死んだって長屋の善六さんが知らせに来てくれたんだ」  勘「何を馬鹿な事を云うのだ、師匠は来て居るじゃアねえか」  新「あのね、御冗談仰しゃっちゃアいけません、師匠は先刻から此方へ来て居て、是から私が送って帰ろうとする処、何の間違いでげしょう」  善「冗談を云っちゃアいけません」  彦「是は何だぜ、善六さんの前だが、師匠が新吉さんの跡を慕って来たかも知れないよ、南無阿弥陀仏〳〵」  新「そんな念仏などを云っちゃアいけないやねえ」  善「じゃアね新吉さん、彦六さんの云う通りお前の跡を慕って師匠が来たかも知れねえ」  新「伯父さん〳〵」  勘「うるさいな、ナニ稀代だって、師匠は来てえるに違えねえ、今連れて行くんじゃアねえか」  と云いながらも、なんだか訝しいと思うから裏へ廻って、  勘「若衆少し待っておくんなさい」  新「長屋の彦六さんがからかうのだから」  勘「師匠〳〵」  新「伯父さん〳〵」  勘「えゝよく呼ぶな、何だえ」  新「若衆少し待っておくれ、師匠〳〵」  と云いながら駕籠の引戸を明けて見ると、今乗ったばかりの豊志賀の姿が見えないので、新吉はゾッと肩から水を掛けられる様な心持で、ブル〳〵慄えながら引戸をバタリと立てゝ台所へ這上りました。  勘「何んて真似をして居るのだ、ぐず〳〵して何だ」  新「伯父さん、駕籠の中に師匠は居ないよ」  勘「エヽ居ねえか本当か」  新「今明けて見たら居ねえ、南無阿弥陀仏〳〵」  勘「厭だな、本当に涙をこぼして師匠が己に頼んだが、お前が家を出なければ斯んな事にはならねえ、お前が出て歩くから斯んな事に、オイ表に人が待って居るじゃアねいか己れが出よう」  と云うので店へ出て参りまして、  勘「お長屋の衆、大きに御苦労様で、実は新吉は、私に拠ない用事があって、此方へ参って居る留守中に師匠が亡なりまして、皆さん方が態々知らして下すって有難うございます、生憎死目に逢いませんで、貴方がたも誠にお困でございましょう、実に新吉も残惜しく思います、何れ只今私も新吉と同道で参りますから、ヘエ有難う、誠に御苦労様で」  長屋の者「左様で、じゃアお早くお出でなすって」  勘「只今私が連れて参ります、誠に御苦労様、馬鹿」  新「其様に叱っちゃアいけません、怖い中で叱られて堪るものか」  勘「己だって怖いや、若衆大きに御苦労だったが、待賃は上げるがもう宜しいから帰っておくんなさい」  駕籠屋「ヘエ、何方かお乗りなすったが、駕籠は何処へ参ります」  勘「駕籠はもう宜しいからお帰りよ」  駕「でも何方かお女中が一人お召しなすったが」  勘「エヽナニ乗ったと見せてそれで乗らぬのだ、種々訳があるから帰っておくれ」  駕「左様でげすか、ナ、オイ駕籠はもう宜いと仰しゃるぜ」  駕「いゝったって今明けてお這入んなすった様だった、女中がネ、然うでないのですか、何だか訝しいな、じゃア行こうよ」  と駕籠を上げに掛ると、  駕「若し〳〵、お女中が中に這入って居るに違いございません、駕籠が重うございますから」  新「エヽ、南無阿弥陀仏〳〵」  勘「オイ駕籠屋さん、戸を明けて見な」  駕「左様でげすか、オヤ〳〵〳〵成程居ない、気の故で重てえと思ったと見える、成程何方も入らっしゃいません、左様なら」  勘「これ新吉、表を締めなよ手前のお蔭で本当に此の年になって初めて斯んな怖い目に遇った、家は閉めて行くから一緒に行きな」  新「伯父さん〳〵」  勘「何だよ、いやに続けて呼ぶな、跡の始末を附けなければならねえ」  と云うので是から家の戸締りをして弓張を点けて隣へ頼んで置いて大門町から出かけて行きます。新吉は小さくなって慄えながら仕方なしに提灯を持って行く、  勘「さア新吉、然う後へ退っては暗くって仕様がねえ、提灯持は先へ出なよ」  新「伯父さん〳〵」  勘「なぜ然う続けて呼ぶよ」  新「伯父さん、師匠は全く私を怨んで来たのに違いございませんね」  勘「怨んで出るとも、手前考えて見ろ、彼までお前が世話になって、表向亭主ではねえが、大事にしてくれたから、どんな無理な事があっても看病しなければならねえ、それをお前が置いて出りゃア、口惜いと思って死んだから、其の念が来たのだ、死んで念の来る事は昔から幾らも聞いている」  新「伯父さん私は師匠が死んだとは思いません、先刻逢ったら、矢張平常着て居る小紋の寝衣を着て、涙をボロ〳〵翻して、私が悪いのだから元の様に綺麗さっぱりとあかの他人になって交際います、又月々幾ら送りますから姉だと思ってくれと、師匠が膝へ手を突いて云ったぜ、ワア」  勘「ア、何だ〳〵、エヽ胆を潰した」  新「ナニ白犬が飛出しました」  勘「アヽ胆を潰した、其の声は何だ、本当に魂消るね、胸が痛くなる」  と慄えながら新吉は伯父と同道で七軒町へ帰りまして、是れから先ず早桶を誂え湯灌をする事になって、蒲団を上げ様とすると、蒲団の間に揷んであったのは豊志賀の書置で、此の書置を見て新吉は身の毛もよだつ程驚きましたが、此の書置は事細かに書遺しました一通で是には何と書いてございますか、此の次に申し上げます。 二十一  ちと模様違いの怪談話を筆記致しまする事になりまして、怪談話には取わけ小相さんがよかろうと云うのでございますが、傍聴筆記でも、怪談のお話は早く致しますと大きに不都合でもあり、又怪談はネンバリ〳〵と、静かにお話をすると、却って怖いものでございますが、話を早く致しますと、怖みを消すと云う事を仰しゃる方がございます。処が私は至って不弁で、ネト〳〵話を致す所から、怪談話がよかろうと云う社中のお思い付でございます。只今では大抵の事は神経病と云ってしまって少しも怪しい事はござりません。明かな世の中でございますが、昔は幽霊が出るのは祟りがあるからだ怨の一念三世に伝わると申す因縁話を度々承まわりました事がございます。豊志賀は実に執念深い女で、前申上げた通り皆川宗悦の惣領娘でございます。此処に食客に参っていて夫婦同様になって居た新吉と云うのは、深見新左衞門の二男、是も敵同士の因縁で斯様なる事に相成ります。豊志賀は深く新吉を怨んで相果てましたから、其の書遺した一通を新吉が一人で開いて見ますると、病人のことで筆も思う様には廻りませんから、慄える手で漸々書きましたと見え、その文には『心得違いにも、弟か息子の様な年下の男と深い中になり、是まで親切を尽したが、其の男に実意が有ればの事、私が大病で看病人も無いものを振捨てゝ出る様なる不実意な新吉と知らずに、是まで亭主と思い真実を尽したのは、実に口惜しいから、仮令此の儘死ねばとて、この怨は新吉の身体に纒って、此の後女房を持てば七人まではきっと取殺すから然う思え』と云う書置で、新吉は是を見てゾッとする程驚きましたが、斯様な書置を他人に見せる事も出来ません、さればと申して、懐へ入れて居ても何だか怖くって気味が悪いし、何うする事も出来ませんから、湯灌の時に窃とごまかして棺桶の中へ入れて、小石川戸崎町清松院と云う寺へ葬りました。伯父は、何でも法事供養をよく為なければいかないから、墓参りに往けよ〳〵と云うけれども、新吉は墓所へ行くのは怖いから、成たけ昼間往こうと思って、昼ばかり墓参りに往きます。八月二十六日が丁度三七日で、其の日には都合が悪く墓参りが遅くなり、申刻下りに墓参りをするものでないと其の頃申しましたが、其の日は空が少し曇って居るから、急ぎ足で参ったのは、只今の三時少し廻った時刻、寺の前でお花を買って、あの辺は井戸が深いから、漸くの事で二つの手桶へ水を汲んで、両方の手に提げ、お花を抱えて石坂を上って、豊志賀の墓場へ来ると、誰か先に一人拝んで居る者が在るから誰かと思ってヒョイと見ると、羽生屋の娘お久、  久「おや〳〵新吉さん」  新「おや〳〵お久さん、誠に何うも、何うしてお出でなすった、恟りしました」  久「私はね、アノお師匠さんのお墓参りをして上げたいと心に掛けて、間さえあれば七日〳〵には屹度参ります」  新「そうですか、それは御親切に有難う」  久「お師匠さんは可哀相な事でして、其の後お目に掛りませんが、貴方は嘸お力落しでございましょう」  新「ヘエ、もう何うも落胆しました、是は大層結構なお花を有難う、何うも弱りましたよお久さん」  久「アノお前さん此の間蓮見鮨の二階で、私を置放しにして帰ってお仕まいなすって」  新「えゝナニ急に用が出来ましてそれから私が慌てゝ帰ったので、つい御挨拶もしないで」  久「何だか私は恟りしましたよ、私をポンと突飛ばして二階からドン〳〵駈下りて、私はまア何うなすったかと思って居りましたら、それ切りでお帰りも無し、私は本当に鮨屋へ間が悪うございますから、急に御用が出来て帰ったと云いましたが、それから一人ですから、お鮨が出来て来たのを折へ入れて提げて帰りました」  新「それは誠にお気の毒様で、然う見えたので……気の故で見えたのだね……眼に付いて居て眼の前に見えたのだナ彼は……斯んな綺麗な顔を」  久「何を」  新「エヽ何サ宜うございます」  久「新吉さんいゝ処でお目に掛りました、私は疾からお前さんにお話をしようと思って居りましたが、私の処のお母さんは継母でございますから、お前さんと私と、何でも訳があるように云って責折檻をします、何でも屹度新吉さんと訳が有るだろう、何にも訳がなくって、お師匠さんが彼様に悋気らしい事を云って死ぬ気遣いは無い、屹度訳があるのだろうから云えと云うから、いゝえお母さんそんな事があっては済みませんから、決して然う云う事はありませんと云うのも聴かずに、此の頃はぶち打擲するので、私は誠に辛いから、いっそ家を駈出して、淵川へでも身を沈めて、死のうと思う事が度々ございますが、それも余り無分別だから、下総の伯父さんの処へ逃げて行きたいが、まさかに女一人で行かれもしませんからね」 二十二  新「それじゃア下総へ一緒に行きましょうか」  と又怖いのも忘れて行く気になると、  久「新吉さん本当に私を連れて行って下さるなら、私は何様にも致します、屹度、お前さん末始終然う云う心なら、彼方へ行けば、伯父さんに頼んで、お前さん一人位何うにでも致しますから、何卒連れて行って」  と若い同士とは云いながら、そんなら逃げよう、と直に墓場から駈落をして、其の晩は遅いから松戸へ泊り、翌日宿屋を立って、あれから古賀崎の堤へかゝり、流山から花輪村鰭ヶ崎へ出て、鰭ヶ崎の渡を越えて水街道へかゝり、少し遅くはなりましたが、もう直に羽生村だと云う事だから、行くことにしよう、併し彼方で直に御飯をたべるも極りが悪いから、此方で夜食をして行こうと云うので、麹屋と云う家で夜食をして道を聞くと、これ〳〵で渡しを渡れば羽生村だ、土手に付いて行くと近いと云うので親切に教えてくれたから、お久の手を引いて此処を出ましたのが八月二十七日の晩で、鼻を撮まれるのも知れませんと云う真の闇、殊に風が吹いて、顔へポツリと雨がかゝります。あの辺は筑波山から雲が出ますので、是からダラ〳〵と河原へ下りまして、渡しを渡って横曾根村へ着き、土手伝いに廻って行くと羽生村へ出ますが、其所は只今以て累ヶ淵と申します。何う云う訳かと彼方で聞きましたら、累が殺された所で、與右衞門が鎌で殺したのだと申しますが、それはうそだと云う事、全くは麁朶を沢山脊負わして置いて、累を突飛ばし、砂の中へ顔の滅込むようにして、上から與右衞門が乗掛って、砂で息を窒めて殺したと云うが本説だと申す事、また祐天和尚が其の頃脩行中の事でございますから、頼まれて、累が淵へ莚を敷いて鉦を叩いて念仏供養を致した、其の功力に依って累が成仏得脱したと云う、累が死んで後絶えず絹川の辺には鉦の音が聞えたと云う事でございますが、これは祐天和尚がカン〳〵〳〵〳〵叩いて居たのでございましょう。それから土手伝いで参ると、左りへ下りるダラ〳〵下り口があって、此処に用水があり、其の用水辺にボサッカと云うものがあります。是は何う云う訳か、田舎ではボサッカと云って、樹か草か分りません物が生えて何だかボサッカ〳〵致して居る。其所は入合になって居る。丁度土手伝いにダラ〳〵下りに掛ると、雨はポツリ〳〵降って来て、少したつとハラ〳〵〳〵と烈しく降出しそうな気色でございます。すると遠くでゴロ〳〵と云う雷鳴で、ピカリ〳〵と時々電光が致します。  久「新吉さん〳〵」  新「えゝ」  久「怖いじゃアないか、雷様が鳴ってね」  新「ナニ先刻聞いたには、土手を廻って下りさえすれば直に羽生村だと云うから、早く行って伯父さんに能く話をしてね」  久「行きさえすれば大丈夫、伯父さんに話をするから宜いが、暗くって怖くって些とも歩けやしません」  新「サ此方だよ」  久「はい」  と下りようとすると、土手の上からツル〳〵と滑って、お久が膝を突くと、  久「ア痛タヽヽ」  新「何うした」  久「新吉さん、今石の上か何かへ膝を突いて痛いから早く見ておくんなさいよ」  新「どう〴〵、おゝ〳〵大層血が出る、何うしたんだ、何の上へ転んだ、石かえ」  と手を遣ると草苅鎌。田舎では、草苅に小さい子や何かゞ秣を苅りに出て、帰り掛に草の中へ標に鎌を突込んで置いて帰り、翌日来て、其処から其の鎌を出して草を苅る事があるもので、大かた草苅が置いて行った鎌でございましょう。お久は其の上へ転んで、ズブリ膝の下へ鎌の先が這入ったから、夥しく血が流れる。 二十三  新「こりゃア、困ったものですね、今お待ち手拭で縛るから」  久「何うも痛くって耐らないこと」  新「痛いたって真暗で些とも分らない、まアお待ち、此の手拭で縛って上げるから又一つ斯う縛るから」  久「あゝ大きに痛みも去った様でございますよ」  新「我慢してお出でよ、私が負い度いが、包を脊負ってるから負う事が出来ないが、私の肩へ確り攫まってお出でな」  と、びっこ引きながら、  久「あい有難う、新吉さん、私はまア本当に願いが届いて、お前さんと二人で斯う遣って斯んな田舎へ逃げて来ましたが、是から世帯を持って夫婦中能く暮せれば、是程嬉しい事はないけれども、お前さんは男振は好し、浮気者と云う事も知って居るから、ひょっとして外の女と浮気をして、お前さんが私に愛想が尽きて見捨てられたら其の時は何うしようと思うと、今から苦労でなりませんわ」  新「何だね、見捨てるの見捨てないのと、昨夜初めて松戸へ泊ったばかりで、見捨てるも何も無いじゃアないか、訝しく疑るね」  久「いゝえ貴方は見捨てるよ、見捨てるような人だもの」  新「何でそんな、お前の伯父さんを便って厄介になろうと云うのだから、決して見捨てる気遣はないわね、見捨てれば此方が困るからね」  久「旨く云って、見捨てるよ」  新「何故そう思うんだね」  久「何故だって、新吉さん私は斯んな顔になったよ」  新「えゝ」  と新吉が見ると、お久の綺麗な顔の、眼の下にポツリと一つの腫物が出来たかと思うと、忽ち腫れ上ってまるで死んだ豊志賀の通りの顔になり、膝に手を突いて居る所が、鼻を撮まれるも知れない真の闇に、顔ばかりあり〳〵と見えた時は、新吉は怖い三眛、一生懸命無茶苦茶に鎌で打ちましたが、はずみとは云いながら、逃げに掛りましたお久の咽喉へ掛りましたから、  久「あっ」  と前へのめる途端に、研澄ました鎌で咽喉を斬られたことでございますから、お久は前へのめって、草を掴んで七転八倒の苦しみ、  久「うゝン恨めしい」  と云う一声で息は絶えました。新吉は鎌を持ったなり  新「南無阿弥陀仏〳〵〳〵」  と一生懸命に口の中で念仏を唱えまする途端に、ドウ〳〵と云う車軸を流すような大雨、ガラ〳〵〳〵〳〵〳〵と云う雷鳴頻りに轟き渡るから、知らぬ土地で人を殺し、殊に大雨に雷鳴ゆえ、新吉は怖い一三眛、早く逃げようと包を脊負って、ひょっと人に見られてはならぬと慄える足を踏締めながらあせります。すると雨で粘土が滑るから、ズルリ滑って落ちると、ボサッカの脇の処へズデンドウと臀餅を搗きまする、とボサッカの中から頬冠をした奴がニョコリと立った。此の時は新吉が驚きましたの驚きませんのではない。  新「ア」  と息が止るようで、後へ退って向を見透すと、向の奴も怖かったと見えて此方を覗く、互に見合いましたが、何様真の闇で、互に睨みあった処が何方も顔を見る事が出来ません。新吉は電光の時に顔を見られないようにすると、其の野郎も雷が嫌いだと見えて能く見る事も致しません。電光の後で闇くなると、  男「この泥坊」  と云うので新吉の襟を掴みましたが、是は土手下の甚藏と云う悪漢、只今小博奕をして居る処へ突然手が這入り、其処を潜り抜けたが、烈しく追手が掛りますから、用水の中を潜り抜けてボサッカの中へ小さくなって居る処へ、新吉が落ちたから、驚いてニョコリと此の野郎が立ったから、新吉は又怪物が出たかと思って驚きましたが、新吉は襟がみを取られた時は、もう天命極まったとは思ったが、死物狂いで無茶苦茶に掻毟るから、此の土手の甚藏が手を放すと、新吉は逃げに掛る途端、腹這に倒れました。すると甚藏は是を追駈けようとして新吉に躓づき向の方へコロ〳〵と転がって、甚藏はボサッカの用水の中へ転がり落ちたから、此の間に逃げようとする。又後から、  甚「此の野郎」  と足を取ってすくわれたから仰向に倒れる処へ、甚藏が乗掛って掴まえようとする処を、新吉が足を挙げて股を蹴たのが睾丸に当ったから、  甚「ア痛タ」  と倒れる処を新吉が掴み付こうと思ったが、イヤ〳〵荷物を脇へ落したからと荷物を探す途端に、甚藏の面へ毟り付いたから、  甚「此の野郎」  と組付いた処を其の手を取って逆に捻ると、ズル〳〵ズデンと滑って転げると云う騒ぎで、二人とも泥ぼっけになると、三町ばかり先へ落雷でガラ〳〵〳〵〳〵〳〵ビューと火の棒の様なる物が下ると、丁度浄禅寺ヶ淵辺りへピシーリと落雷、其の響に驚いて、土手の甚藏は、体は大兵で度胸も好い男だが、虫が嫌うと見え、落雷に驚いてボサッカの中へ倒れました。すると新吉は雷よりも甚藏が怖いから、此の間に包を抱えて土手へ這上り、無茶苦茶に何処を何う逃げたか覚え無しに、畑の中や堤を越して無法に逃げて行く、と一軒茅葺の家の中で焚物をすると見え、戸外へ火光が映すから、何卒助けて呉れと叩き起しましたが、其の家は土手の甚藏の家、間抜な奴で、新吉再び土手の甚藏に取って押えられると云う。是から追々怪談になりますが、一寸一息つきまして。 二十四  一席引続きましてお聞に入れますは、累が淵のお話でございます。新吉は土手の甚藏に引留められ、既に危い処へ、浄禅寺ヶ淵へ落雷した音に驚き、甚藏が手を放したのを幸い、其の紛れに逃延びましたが、何分にも初めて参った田舎道、勝手を心得ませんから、たゞ畑の中でも田の中でも、無茶苦茶に泥だらけになって逃げ出しまして、土手伝いでなだれを下り、鼻を撮まれるも知れません二十七日の晩でございますが、透して見ると一軒茅葺屋根の棟が見えましたから、是は好い塩梅だ、此処に人家があったと云うので、駈下りて覗くと、チラ〳〵焚火の明が見えます。  新「ヘエ、御免なさい〳〵、少し御免なさい、お願いでございます」  男「誰だか」  新「ヘイ、私は江戸の者でございますが、御当地へ参りまして、此の大雨に雷鳴で、誠に道も分りませんで難儀を致しますが、少しの間お置きなすって下さる訳には参りますまいか、雨の晴れます間でげすがナ」  男「ハア大雨に雷鳴で困るてえ、それだら明けて這入りなせい、明る戸だに」  新「ヘエ左様でげすか、御免なさい、慌てゝ居りますから戸が隙いて居りますのも夢中でね、ヘイ何うも初めて参りましたが、泊で聞き〳〵参りました者で、勝手を知りませんから難儀致しまして、もう川へ落ちたり田の中へ落ちましたりして、漸々の事で此方まで参りましたが、何うか一晩お泊めなすって下されますれば有難い事で」  男「泊めるたって泊めねえたって己の家じゃアねえ、己も通り掛って雷鳴が嫌いで、大雨は降るし、仕様が無えが、此処ナ家へ駈込んで、主は留守だが雨止みをする間、火の気が無えから些とばかり麁朶を突燻て燃して居るだが、己が家でなえから泊める訳にはいきませんが、今主が帰るかも知んねえ、困るなれば、此処へ来て、囲炉裡の傍で濡れた着物を炙って、煙草でも呑んで緩り休みなさえ」  新「ヘエ貴方の家でないので」  男「私が家では無えが、同村の者だが雨で仕様がねえから来ただ」  新「左様で、此方の御主人様は御用でも有ってお出掛になったので」  男「なアに主は十日も廿日も帰らぬ事もある、まア上りなさえ」  新「有難うございますが泥だらけになりまして」  男「泥だらけだって己も泥足で駈込んだ、此方へ上りなさえ、江戸の者が在郷へ来ては泊る処に困る、宿を取るには水街道へ行がねえば無えからよ」  新「はい水街道の方から参ったので、有難うございます、実に驚きました、酷い雨で、此様に降ろうとは思いませんでした、実に雨は一番困りますな」  男「今雨が降らんでは作の為によく無えから、私の方じゃア降も些とはよいちゃア」  新「成程そうでしょうねえ、雷鳴には実に驚きまして、此地は筑波近いので雷鳴は酷うございますね」  男「雷も鳴る時に鳴らぬと作の為によく無えから鳴るもえゝだよ」  新「ヘエー、然うでげすか、此方の旦那様は何時頃帰りましょうか」  男「何時帰るか知れぬが、まア、何時帰ると私等に断って出た訳で無えから受合えねえが、明けると大概七八日ぐれえ帰らぬ男で」  新「ヘエ、困りますな、何う云う御商売で」  男「何うだって遊人だ、彼方此方二晩三晩と何処から何処へ行くか知れねえ男で、やくざ野郎サ」  新「左様で、道楽なお方でございますので」  男「道楽だって村じゃア蝮と云う男だけれども、又用に立つ男さ」  と悪口をきいて居る処へ、ガラリと戸を明けて帰って来たが、ずぶ濡で、  甚「あゝ酷かった」  男「帰ったか」  甚「ムヽ今帰った、誰だ清さんか、今帰ったが、松が賀で詰らねえ小博奕へ手を出して打って居ると、突然に手が這入って、一生懸命に逃げたが、仕様がねえから用水の中へ這入って、ボサッカの中へ隠れて居た」  清「己は今通り掛って雨に遇って逃げる処がねえのに、雷様が鳴って来たから魂消てお前らが家へ駈込んで、今囲炉裡へ麁朶ア一燻したゞ」  甚「いゝや何うせ開ッ放しの家だアから、是は何処の者だ、何だいお前は」  清「此家な主人で、挨拶さっせえ、是は江戸の者だが雨が降って雷鳴に驚き泊めてくれと云うが、己が家でねえからと話して居る処だ、是が主人だ」  新「左様で、初めまして、私は江戸の者で、小商を致します新吉と申す不調法者、此地へ参りましたが、雷鳴が嫌いで此方様へ駈込んだ処が、お留守様でございますから泊る訳にはいかぬと仰しゃって、お話をして居る処で、よくお帰りで、何卒今晩一晩お泊め下されば有難い事で、追々夜が更けますから、何卒一晩何様な処でも寝かして下されば宜しいので」  甚「好い若え者だ、いゝや、まア泊って行きねえ、何うせ着て寝る物はねえ、留守勝だから食物もねえ、鍋は脇へ預けてしまったしするから、コロリと寝て明日行きねえ、己と一緒に寝ねえ」  新「ヘエ、有難う存じます」  清「己ア帰るよ」  甚「まア〳〵宜いやな」  清「己ア帰るべい、何か、手が這入ったか」  甚「困ったからボサッカの中へ隠れて居たので、お前帰るならうっかり往っちゃアいけねえ、今夜ボサッカの脇に人殺しが有った」  清「何処に」  甚「己がボサッカの中に隠れて居ると、暗くって分らぬが、きゃアと云う声がノウ女の殺される声だねえ、まア本当に殺される声は今迄知らねえが、劇場で女が切殺される時、きゃアとかあれイとか云うが、そんな事を云ったってお前には分らねえが、凄いものだ、己も怖かった」  清「怖かねえ、女をまア、何てエ、人を殺すったって村方の土手じゃアねえか、ウーン怖かなかんべえ、ウーン何うした」  甚「何うしたって凄いやア、うっかり通って怪我でもするといけねえから、其の野郎は刀や何かで殺す程の者でもねえ奴で、鎌で殺しゃアがったのよ、女の死骸は川へ投り込んだ様子、忌々しい畜生だ、此の村へも盗人に這入りやアがるだろうと思うから、其の野郎の襟首を取って引摺り倒した、すると雷が落ちて、己はどんな事にも驚きゃアしねえが雷には驚く、きゃアと云って田の畔へ転げると、其の機に逃げられたが、忌々しい事をした」 二十五  清「怖かねえナ、然うか怖かなくて通れねえ」  甚「気を付けて行きねえ」  清「まだ居るかなア」  甚「もう居やアしめえ、大丈夫だ、美人なら殺すだろうが、お前のような爺さんを殺す気遣いはねえ」  清「じゃア己帰る、エヽ、じゃア又些とべえ畑の物が出来たらくれべえ」  甚「何か持って来て呉れても煮て食う間がねえから、左様なら、ピッタリ締めて行ってくれ、若者もっと此方へ来ねえ」  新「ヘエ」  甚「お前江戸から来るにゃア水街道から来たか、船でか」  新「ヘエ渡を越して、弘教寺と云うお寺の脇から土手へ掛って参りました」  甚「此方へ来る土手で能く人殺しに出会さなかったな」  新「私は運よく出会しませんでした」  甚「まア斯う、見ねえ、是はノ、其の女を殺した奴が投り出した鎌を拾って来たが、見ねえ」  と鎌の刄に巻付けてあった手拭をぐる〳〵と取って、  甚「此の鎌で殺しゃアがった、酷い雨で段々血は無くなったが、見ねえ、血が滅多に落ねえ物とみえて染込んで居らア、磨澄した鎌で殺しゃアがった、是で遣りゃアがった」  新「ヘエー誠に何うも怖ない事でげすナ」  甚「ナニ」  新「ヘエ怖い事ですねえ」  甚「怖いたって、此の鎌で是れで遣りゃアがった」  新「ヘエ」  と鎌と甚藏を見ると、先刻襟首を取って引摺り倒した奴は此奴だな、と思うと、身体が慄えて顔色が違うから、甚藏は物をも言わず新吉の顔を見詰めて居りましたが、鎌をだしぬけに前へ投り付けたから、新吉は恟りした。  甚「おい〳〵余り薄気味がよくねえ、今夜は泊って行きねえ」  新「ヘイ大きに雨が小降になりました様子で、是で私はお暇を致そうと存じます」  甚「是から行ったって泊める処もねえ小村だから、水街道へ行かなけりゃア泊る旅籠屋はねえ、まア宜いやナ、江戸子なれば懐かしいや、己も本郷菊坂生れで、無懶でぐずッかして居るが、小博奕が出来るから此処に居るのだが、お前も子柄はよし、今の若気でこんな片田舎へ来て、儲かる処か苦労するな、些とは訳があって来たろうが、お前が此処で小商でも仕ようと云うなら己が家て居に貰いてえ、江戸子てエ者は、田舎へ来て江戸子に遇うと、親類にでも逢った心持がして懐かしいから、江戸と云うと、肩書ばかりで、身寄でも親類でもねえが其処ア情合だ、己は遊んで歩くから、家はまるで留守じゃアあるし、お前此処に居て留守居をして荒物や駄菓子でも并べて居りゃア、此処は花売や野菜物を売る者が来て休む処で、何でもポカ〳〵捌るが、おいお前留守居をしながら商売して居てくれゝば己も安心して家をお前に預けて明るが、何も盗まれる物はねえが、一軒の主だから、おいお前此処でそうして留守居をしてくれゝば、己が帰って来ても火は有るし、茶は沸いて居るし、帰って来ても心持がいゝ、己ア土手の甚藏と云う者だが、村の者に憎まれて居るのよ、それがノ口をきくのが江戸子同士でなけりゃア何うしても話が合わねえ、己は兄弟も身寄もねえし、江戸を喰詰めて帰れる訳でもねえから、己と兄弟分になってくんねえ」  新「有難う存じますな、私も身寄兄弟も無い者で、少し訳があって参りました者でございますが、少し頼る処が有って参りました者で、此方へ参ってから、だしぬけに亡なりましたので」  甚「死んだのかえ」  新「ヘエ其処が、ヘエ何で、変になりましたので、ヘエ、何処へも参る処は無いのでございますから、お宅を貸して下すって商いでもさして下されば有難い事で、私は新吉と申す者で、何分親分御贔屓にお引立を願います」  甚「話は早いがいゝが、其処は江戸子だからのう、兄弟分の固めを仕なければならねえが、おいお前田舎は堅えから、己の弟分だと云えば、何様間違が有ったってもお前他人にけじめを食う気遣ねえ、己の事を云やア他人が嫌がって居るくれえだからナ、其方の強身よ、さア兄弟分の固めをして、お互にのう」  新「ヘイ有難うございます、何分どうか、其の替り身体で働きます事は厭いませんから、どんな事でも仰しゃり付けて下さればお役には立ちませんでも骨を折ります」  甚「お前幾才だ」  新「ヘエ二十二でございます」  甚「色の白え好男だね、女が惚れるたちだね、酒が無えから兄弟分の固めには、先刻一燻したばかりだから、微温になって居るが、此の番茶を替りに、己が先へ飲むから是を半分飲みな」  新「ヘエー有難うございます、恰ど咽喉も乾いて居りますから、エヽ有難うございます、誠に私も力を得ました」  甚「おい兄弟分だよ、いゝかえ」  新「ヘエ」  甚「兄弟分に成ったから兄に物を隠しちゃアいけねえぜ」  新「ヘエ〳〵」  甚「お互に悪い事も善い事も打明けて話し合うのが兄弟分だ、いゝか」  新「ヘエ〳〵」  甚「今夜土手で女を殺したのはお前だのう」  新「イヽエ」  甚「とぼけやアがるなエ此畜生、云いねえ、云えよ」  新「な、何を被仰ので」  甚「とぼけやアがって此畜生め、先刻鎌を出したら手前の面付は変ったぜ、殺したら殺したと云えよ」  新「何うもトヽ飛んでもない事を仰しゃる、私は何うもそんな、外の事と違い人を殺すなぞと、苟にも私は、どうも此方様には居られません、ヘエ」  甚「居られなければ出て行け、さア居られなければ出て行きや、無理に置こうとは云わねえ、兄弟分になれば善い悪いを明しあうのが兄弟分だ、兄分の己の口から縛らせる気遣ねえ、殺したから殺したと云えと云うに」  新「何うもそれは困りますね、何もそんな事を、何うも是は、何うも外の事と違いますからねエ、何うもヘエ、人を殺すなぞと、そんな私ども、ヘエ何うも」  甚「此畜生分らねえ才槌だな、間抜め、殺したに相違ねえ、そんな奴を置くと村の難儀になるから、手前を追出す代りに、己の口から訴人して、踏縛って代官所へでも役所へでも引くから然う思え」 二十六  新「何うも私はもうお暇致します」  甚「行きねえ、己が踏縛るからいゝか」  新「そんな、何うも、無理を仰しゃって、私が何んで、何うも」  甚「分らねえ畜生だナ、手前殺したと打明けて云えよ、手前の悪事を、己は兄分だから云う気遣はねえ、お互に、悪事を云ってくれるなと隠し合うのが兄弟分のよしみだから、是っぱかりも云わねえから云えよ、云わなければ代官所へ引張って行くぞ、さア云え」  新「ヘエ、何うも、ち…些とばかり、こ…殺しました」  甚「些とばかり殺す奴があるものかえ、女を殺して手前金を幾ら取った」  新「幾らにも何も取りは致しません」  甚「分らねえ事を云うな、金を取らねえで何んで殺した、金があるから殺して取ったろう、懐に有ったろう」  新「金も何も無いので」  甚「有ると思ったのが無えのか」  新「ナニ然うじゃアございません、あれは私の女房でございます」  甚「分らねえ事を云う、ナニ此畜生、女房を何んで殺した、外に浮気な事でもして邪魔になるから殺したのか」  新「ナニ然うじゃア無いので」  甚「何う云う訳だ」  新「困りますナ、じゃア私が打明けてお話致しますが、貴方決して口外して下さるな」  甚「なに、口外しねえから云えよ」  新「本当でげすか」  甚「為ないよ」  新「じゃア申しますが実は私はその、殺す気も何もなく彼処へ参りますと、あれがその、お化でな」  甚「何がお化だ」  新「私の身体へ附纒うので」  甚「薄気味の悪い事を云うな、何が附纒うのだ」  新「詳しい事を申しますが、私は根津七軒町の富本豊志賀と申す師匠の処へ食客に居りますと、豊志賀が年は三十を越した女でげすが、堅い師匠で、評判もよかったが、私が食客になりまして、豊志賀が私の様な者に一寸岡惚をしたのでな」  甚「いやな畜生だ惚気を聞くんじゃアねえ、女を殺した訳を云えよ」  新「それから私も心得違いをして、表向は師匠と食客ですが、内所は夫婦同様で只ぶら〳〵と一緒に居りました、そうすると此処へ稽古に参ります根津の総門内の羽生屋と申す小間物屋の娘がその、私に何だか惚れた様に師匠に見えますので」  甚「うん、それから」  新「それを師匠が嫉妬をやきまして、何も怪しい事も無いのにワク〳〵して、眼の縁へポツリと腫物が出来まして、それが斯う膨れまして、こんな顔になり其の顔で私の胸倉を取って悋気をしますから居られませんので、私が豊志賀の家を駈出した跡で師匠が狂い死に死にましたので、死ぬ時の書置に、新吉と夫婦になる女は七人まで取殺すと云う書置がありましたので」  甚「ふうん執念深え女だな、成程ふうん」  新「それで、師匠が亡なりましたから、お久と云う土手で殺した娘が、連れて逃げてくれと云い、伯父が羽生村に居るから伯父を尋ねて世帯を持とうと云うので、それなら田舎へ行って、倶に夫婦になろうと云う約束で出て参ったので」  甚「出て来てそれから」  新「先刻彼処へ掛ると雨は降出します、土手を下りるにも、鼻を撮まれるも知れません真の闇で、すると、お久の眼の下へポツリと腫物みたような物が出来たかと思うと、見て居るうちに急に腫れ上りましてねえ、ヘエ、貴方死んだ師匠の通りの顔になりまして、膝に手を付きまして私の顔をじいッと見詰めて居ました時は私は慄っと致しましたので、ヘエ怖い一生懸命に私が斯う鎌で殺す気も何もなく殺してしまって見ると、其様な顔でも何でもないので、私がしょっちゅう師匠の事ばかり夢に見るくらいでございますから、顔が眼に付いて居るので、殺す気もなくお久と云う娘を殺しましたが、綺麗な顔の娘が然う云うように見えたので、見えたから師匠が化けたと思って、鎌でやったので、ヘエ、やっぱり死んだ豊志賀が祟って居りますので、七人まで取殺すと云うのだから私の手をもって殺さしたと思うと、実に身の毛がよだちまして、怖かったの何のと、其の時お前さんが来て泥坊、と襟首を掴んだから一生懸命に身を振払って逃げ、まア宜いと思うと、一軒家が有ったから来たら、やっぱり貴方の家へ来たから、泡をくったのでねえ」  甚「ふうんそれじゃア其の師匠は手前に惚れて、狂死に死んで、外の女を女房にすれば取殺すと云う書置の通り祟って居るのだな」  新「祟って居るったって私の身体は幽霊が離れないのでヘエ」  甚「気味の悪い奴が飛込んで来たな、薄気味の悪い、鎌を手前が持って居るから悪いのだ」  新「鎌も其処に落ちて有ったので、其処へお久が転んだので、膝の処へ少し疵が付き、介抱して居るうち然う見えたので、それで無茶苦茶にやったので、拾った鎌です」  甚「そうか、此の鎌は村の者の鎌だ、そんならそれで宜いや、宜いが、おい幾ら金を取ったよう」  新「金は取りは致しません」  甚「女を連れて逃げる時、お前の云うにア小間物屋の娘だお嬢さんだと云うのだ、連れて逃げるにゃア、路銀がなければいかねえから幾らか持出せと智慧を付けて盗ましたろう」  新「金も何も、私は卵塔場から逃げたので」  甚「気味の悪い事ばかり云やアがって、何んで」  新「私は師匠の墓詣りに参りますと、お久も墓詣りに参って居りまして、墓場でおやお久さんおや新吉さんかと云う訳で」  甚「そんな事は何うでもいゝやア」  新「それから逃げて私は一分三朱と二百五十六文、女は三朱と四十八文ばかり有ったので、其の外にはお花と線香を持って居るばかり、それから松戸で一晩泊りましたから、些とばかり残って居ります」  甚「一文なしか」  新「ヘエー」 二十七  甚「詰らねえ奴が飛込みやアがったな、仕方がねえ、じゃアまア居ろ」  新「ヘエ何うぞ置いておくんなすって、其の事は何うか仰しゃってはいけませんから」  甚「厄介な奴だ、畜生め、銭が無くて幽霊を脊負って来やアがって仕様がねえ、其処へ寝ろ」  と仕方が無いから其の夜は寝ましたが、翌朝から土鍋で飯は焚きまして、お菜は外から買って来まして喰いますような事で、此処に居ます。甚藏はぶら〳〵遊び歩きます。すると、此処から村までは彼是れ四五丁程もある土手下で、花や野菜物を担いで来たり、肥桶なぞをおろして百姓衆の休所で、  農夫「太左衞門何処へ行くだ」  太「今帰りよ」  農「そうか」  太「此間勘右衞門の所へ頼んで置いた、些とベエ午房種を貰うベエと思ってノウ」  農「然うか、何とハア此の村でも段々人気が悪くなって、人の心も変ったが、徳野郎あれはあのくれえ太え奴はねえノ」  太「あの野郎何でも口の先で他人を瞞して銭を借る事は上手だが、大けえ声では云えねえが、此処な甚藏は蝮野郎でよくねえ怖かねえ野郎でのう」  太「今日は大分婆ア様が通るが何処へ行くだ」  農夫「三藏どんの処で法事があるで、此間此処に女が殺されて川へ投り込まれて有って、引揚げて見たら、守の中に名前書が這入って居たので、段々調べたら三藏どんが家の姪に当る女子で、母様が継母で、苛められて居られなくって尋ねて来ただが、些とは小遣も持って居ただが、泥坊が附いて来て突落して逃げたと云う訳で、三藏どんは親切な人で、引揚げて届ける所へ届けて、漸く事済んで、葬りも済んで、今日は七日でお寺様へ婆ア様達を聘って御馳走するてえので、久し振で米の飯が食えると云って悦んで往きやしッけ、法蔵寺様へ葬りに成っただ」  太「然うか、それで婆ア様ア悦んで行くのだ、久しく尋ねねえだが秋口は用が多えで此の間買った馬は二両五粒だが、高え馬だ、見毛は宜いが、何うも膝頭突く馬で下り坂は危ねえの、嚏ばかりして屁ベエたれ通しで肉おっぴり出す程だによ、婆ア様に宜しく云って下せえ、左様だら」  新吉は内で此の話を聞いて居りましたが、お久を葬むったと云うから参詣しなければ悪いと思い、  新「もし〳〵」  農「あゝ魂消た、何処から出ただ」  新「私は此処に居るので」  農「誰も居ねえと思ったが何だか」  新「只今お聞き申しましたが土手の脇で殺されました女の死骸は、何と云うお寺へ葬りになりました、三藏さんてえお方が追福なさると聞きましたが、何と云うお寺へ葬りましたか」  農「法蔵寺様てえ寺で、累の葬ってある寺と聞けば直に知れます」  新「ヘエー成程」  農「何だね、なに其様な事を聞くのか」  新「私は無尽のまじないに、なにそう云う仏様に線香を上げると無尽が当ると云うので、ヘエ有難う存じます」  と、是から段々尋ねて、花と線香を持って墓場へ参りました。寺で聞けば宜しいに、己が殺した女の墓所、事によったら、咎められはしないか、と脚疵で、手桶を提げて墓場でまご〳〵して居る。  新「これだろう、これに違いない、是だ〳〵、花を揷して置きさえすれば宜しい、何処へ葬っても同じだが、因縁とか何とか云うので、お久の伯父さんを便って二人で逃げて来て、師匠の祟りで殺したくもねえ可愛い女房を殺したのだが、お久は此処へ葬りになり、己は、逃げれば甚藏が訴人するから、やっぱり羽生村に足を止めて墓詣に来られる。是もやっぱり因縁の深いのだ。南無阿弥陀仏〳〵、エヽと法月童女と、何だ是は子供の戒名だ」  と、頻りにまご〳〵して居る処へ、這入って来ました娘は、二十才を一つも越したかと云う年頃、まだ元服前の大島田、色の白い鼻筋の通った二重瞼の、大柄ではございますが人柄の好い、衣装は常着だから好くはございませんが、なれども村方でも大尽の娘と思う拵え、一人付添って来たのは肩の張ったお臀の大きな下婢、肥っちょうで赤ら顔、手織の単衣に紫中形の腹合の帯、手桶を提げてヒョコ〳〵遣って来て、  下女「お嬢様此方へお出でなさえまし、此処だよ、貴方ヨ待ちなさえヨ、私能く洗うだからねえ、本当に可哀想だって、己ア旦那様泣いた事はないけれども、お久様が尋ねて来て、顔も見ねえでおッ死んでしまって憫然だって泣いただ、本当に可哀想に、南無阿弥陀仏〳〵〳〵」  新「これだ、えゝ少々物が承りとうございます」  下女「何だかい」  新「ヘエ」  下女「何だかい」  新「真中ですとえ」  下女「イヽヤ何だか聞くのは何だかというのよ」  新「ヘエと成程、この何ですかお墓は慥か川端で殺されて此の間お検死が済んで葬りになりました娘子様の御墓所でございますか」  下女「御墓所てえ何だか」  新「このお墓は」  下女「ヘエ此の間川端で殺されたお久さんと云うのを葬った墓場で」  新「ヘエ左様で、私にお花を上げさして拝まして下さいませんか」  下女「お前様知って居る人か」  新「イヽエ無尽の呪咀に樒の葉を三枚盗むと当るので」  下女「そう云う鬮引が当るのか、沢山花ア上げて下さえ」  新「ヘエ〳〵有難う、戒名は分りませんが、あとでお寺様で承りましょう、大きに有難う」  と、ヒョイと後へ下りそうにすると、娘が側に立って居りまして、ジロリと横目で見ると、新吉は二十二でも小造りの性で、色白の可愛気のある何処となく好い男、悪縁とは云いながら、此の娘も、何うしてこんな片田舎にこんな好い男が来たろうと思うと、恥かしくなりましたから、顔を横にしながら横眼で見る。新吉も美い女だと思って立止って見て居りました。 二十八  新「もしお嬢さん、このお墓へお葬りになりました仏様の貴方はお身内でございますかえ」  娘「はい私の身寄でございます」  新「ヘエ道理でよく似ていらっしゃると思いました、イエ何、あのよく似たこともあるもので、江戸にも此様事が有りましたから」  下女「あんた、何処に居るお方だい」  新「私はあの直き近処の者でげす、ヘエ土手の少し変な処に一寸這入って居ります」  下女「土手の変な処てえ蒲鉾小屋かえ」  新「乞食ではございません、其処に懇意な者が有って厄介になって居るので」  下女「そうかネ、それだら些と遊びにお出でなさえ、直き此の先の三藏と云うと知れますよ、質屋の三藏てえば直き知れやす」  娘は頻りに新吉の顔を横眼で見惚れて居ると、何う云う事でございますか、お久の墓場の樒の揷して有る間から一匹出ました蛇の、長さ彼れ是れ三尺ばかりもあるくちなわが、鎌首を立てゝズーッと娘の足元まで這って来た時は、田舎に馴れません娘で、  娘「あッ」  と飛び退いて新吉の手へすがりつくと、新吉も恟りしたが、蛇はまた元の様に、墓の周囲を廻って草の茂りし間へ這入りました。娘は怖いと思いましたから、思わず知らず飛退く機みで、新吉の手へ縋りましたが、蛇が居なくなりましたから手を放せばよいのだが、其の手が何時迄も放れません。思い内に有れば色外に顕われて、ジロリ、と互に横眼で見合いながら、ニヤリと笑う情と云うものは、何とも申されません。女中は何も知りませんから、  下女「お前さん、在郷の人には珍らしい人だ、些とまた遊びに来て、何処に居るだえ、エヽ甚藏が処に、彼の野郎評判の悪い奴で、彼処に、そうかえ些と遊びにお出でなさえ、嬢様お屋敷奉公に江戸へ行ってゝ、此の頃帰っても友達がねえで、話しても言葉が分んねえてエ、食物が違って淋しくってなんねえテ、長く屋敷奉公したから種々な芸事がある、三味イおっ引たり、それに本や錦絵があるから見にお出でなさえ、此の間見たが、本の間に役者の人相書の絵が有るからね…雨が降って来た」  新「其処まで御一緒に」  娘「何うせお帰り遊ばすなれば私の屋敷の横をお通りになりますから御一緒に、あの傘を一本お寺様で借りてお出でよ」  下女「ハイ」  と下女がお寺で番傘を借りて、是から相合傘で帰りましたが、娘は新吉の顔が眼先を離れず、くよ〳〵して、兄に悟られまいと思って部屋へ這入って居ります。新吉の居場処も聞いたがうっかり逢う訳に参りません、段々日数も重ると娘はくよ〳〵欝ぎ始めました。すると或夜日暮から降出した雨に、少し風が荒く降っかけましたが、門口から、  甚「御免なさい〳〵」  三「誰だい」  甚「ヘエ旦那御無沙汰致しました」  三「おゝ甚藏か」  甚「ヘエ、からもう酷く降出しまして」  三「傘なしか」  甚「ヘエ傘の無いのでびしょ濡になりました、何うも悪い日和で、日和癖で時々だしぬけに降出して困ります…エヽお母様御機嫌よう」  三「コウ甚藏、お前もう能い加減に馬鹿も廃めてナ、大分評判が悪いぜ、何とかにも釣方で、お前の事も案じるよ、大勢に悪まれちゃア仕方がねえ、名主様も睨んで居るよ」  甚「怖かねえ、からもう憎まれ口を利くから村の者は誰も私をかまって呉れません、ヘエ、御免なすって、えゝ此の間一寸嬢さんを見ましたが、えゝ彼はあのお妹御様で、いゝ器量で大柄で人柄の好いお嬢でげすね、お前さんが時々異見を云って下さるから、何うか止してえと思うが、資本は無し借金は有るし何うする事も出来ねえ、此の二三日は何うにも斯うにも仕様がねえから、些と許り質を取って貰いてえと思って、此方様は質屋さんで、価値だけの物を借りるのは当然だが、些とくどいから上手を遣わなければならねえが、質を取ってお貰え申してえので」  三「取っても宜い何だイ」  甚「詰らねえ此様な物で」  と三尺の間へ揷んで来た物に巻いて有る手拭をくる〳〵と取り、前へ突付けたのは百姓の持つ利鎌の錆の付いたのでございます。  三「是か、是か」  甚「へえ是で」  三「此様な物を持って来たって仕様がねえ、買ったって百か二百で買える物を持って来て、是で幾許ばかり欲しいのだ」  甚「二十両なくっては追附かねえので、何うか二十両にね」  三「極りを云って居るぜ、戯けるナ、お前はそれだからいけねえ、評判が悪い、五十か百で買える物を持って来て二十両貸せなんてエ強迫騙りみた様な事を云っては困る、此様な鎌は幾許もある、冗談じゃアねえ、だから村にも居られなくなるのだよ」  甚「旦那、只の鎌と思ってはいけねえ、只の鎌ではねえ、百姓の使うただの鎌とお前さん見てはいけねえ」  三「誰が見たって百姓の使う鎌だ、錆だらけだア」  甚「錆びた処が価値で、能っく見て、錆びたところに価値が有るので」  三「何う」  と手に把って見ると、鎌の柄に丸の中に三の字の焼印が捺してあるのを見て、  三「甚藏、是は己の家の鎌だ、此の間與吉に持たして遣った、是は與吉の鎌だ」  甚「だから與吉が持ってればお前さんの処の鎌でしょう」  三「左様」  甚「それだから」  三「何が」  甚「何がって、旦那此の鎌はね、奥に誰も居やアしませんか」  三「誰も居やアせん」  甚「此の鎌に就いて何うしてもお前さんが二十両私にくれて宜い、私の親切をネ、鎌は詰らねえが私の親切を買って」  二十両何うしてもくれても宜い訳を話を致しますが、一寸一息吐きまして。 二十九  引続きまして申上げました羽生村で三藏と申すは、質屋をして居りまして、田地の七八十石も持って居ります可なりの暮しで、斯様に良い暮しを致しますのは、三右衞門と云う親父が屋敷奉公致して居るうち、深見新左衞門に二拾両の金を貰って、死骸の這入りました葛籠を捨てまして国へ帰り、是が資本で只今は可なりに暮して居る。一体三藏と云う人は信実な人で、江戸の谷中七面前の下總屋と云う質屋の番頭奉公致して、事柄の解った男でございますから、  三「コウお前そう極りで其様な分らねえ事を云うが、己だから云うが、いゝか、何が親切で何う云う訳が有ったって草苅鎌を持って来て二十両金を貸せなどと云って、村の者もお前を置いては為にならねえと云う、此の間何と云った、私は此の村を離れましては何処でも鼻撮みで居処もございませんから、元の如く此の村に居られる様にして呉れと云うから、名主へ行って話をして、彼れは外面は瓦落〳〵して、鼻先ばかり悪徒じみて居りますが、腹の中はそれほど巧のある奴では無いと、斯う己が執成して置いたから居られる、云はゞ恩人だ、それを背くかお前、何で鎌を、何う云う訳で親切などと下らぬ事を云うんだえ」  甚「それなら打明けてお話申しますが此の間松村で一寸小博奕へ手を出して居るとだしぬけに御用と云うのでバラ〳〵逃げて入江の用水の中へ這入って、水の中を潜り込んで土手下のボサッカの中へ隠れて居ると、其処で人殺しがあり、キアッと云う女の声で、私も薄気味が悪いから首を上げて見たが暗くって訳が分らず、土砂降だが、稲光がピカ〳〵する度時々斯う様子が見えると、女を殺して金を盗んだ奴がある、宜うがすか、判然分りませんが、其の跡へ私が来て見ると、此の鎌が落ちて居る、此の鎌で殺したか、柄にベッタリ黒いものが付いて有るのは血じみサ、取上げて見ると丸に三の字の焼印が捺して有る、宜うがすか、旦那の家の鎌、ひょっとして他の奴が、此の鎌が女を殺した処に落ちて有るからにゃア此の鎌で殺したと、もしやお前さんが何様な係り合になるめえ物でもねえと思い、幸い旦那の御恩返しと思って、私が拾って家へ帰って今迄隠して居た、宜うがすか、お前さんの処で死骸を引取って己の家の姪と云うので法事も有ったのだから、お前さんの処で女を殺して物を取った訳はねえが、悪い奴が拾いでもすると、お前さんは善い人と思っては居るが、そう村中みんなお前さんを誉る者ばかりじゃアねえ、其の中には五人や八人は彼様になれる訳はねえと、工面が良いと憎まれる事も有りましょう、それから中には悪く云う奴もある私と斯う中好く、お前さんは江戸に奉公して江戸子同様と云うので、甚藏や悪い事はするナ、と番毎に斯う云ってお呉んなさるは有難えと思って居るが、私がお前さんに平生お世話に成って居りますから、娘を殺して金を取るような人でねえ事は知って居りますが、宜うがすか、お前さんと若し私が中が悪くって、忌々しい奴だ、何うかしてと思って居れば、私が鎌を持って、斯うだ此の鎌が落ちて有った是は三藏の処の鎌だと振廻して役所へでも持出せば、お前さんの腰へ否でも縄が付く、然うでないまでも、十日でも二十日でも身動きが出来ねえ、然うすりゃア年をとったお母様はじめ妹御も心配だ、其の心配を掛けさせ度くねえからねえ、然う云う馬鹿があるめえものでもねえのサ、私などは随分遣り兼ねえ性質だ、忌々しいと思えば遣る性質だけれども、御恩になって居るから、旦那が殺したと思う気遣もねえけれども、理屈を付ければまア何うでもなるのサ、彼様に身代のよくなるのも、些とは悪い事をして居るだろうぐらいの話をして居る奴もあるから、殺した跡で世間体が悪いから、死骸でも引取って、姪とか何とか名を付けて、とい弔いをしなければ成るめえと、さ、訝しく勘繰るといかねえから、他人に拾われねえ様に持って来たのだから、十日でも二十日でも留められて、引出されゝば入費が掛ると思って、只私の親切を二十両に買っておくんなさりゃア、是で博奕は止るから、ねえモシ旦那え」  三「コレ〳〵甚藏、然う汝が云うと己が殺して死骸を引取って、葬りでもした様に疑って、訝しくそんな事を云うのか」  甚「お前さん私が然う思うくれえなら、鎌は振廻して仕舞わア、大きな声じゃア云えねえが、是は旦那世間の人に知れねえように、私が黙って持って居るその親切を買って二十両、ね、もし、鎌は詰らねえが宜うがすか、お前さんと中が悪ければ、酷い畜生だなんて遣り兼ねえ性質だが、旦那にゃア時々小遣を貰ってる私だから、何とも思やアしねえがネ、厭に世間の人が思うから鎌を拾って持って来た、其の親切を買って、えゝ旦那、お前さん否と云えば無理にゃア頼まねえが、私は草苅鎌を二十両に売ろうと云う訳ではねえのサ、親切ずくだからネ、達てとは云わねえ、そうじゃアねえか、此の村に居てお前の呼吸が掛らなけりゃア村にも居られねえ、其の時はいやに悪い仕事をして逃げる、そうなりゃア何うでも宜いやア、ねえ、否でげすか、え、もし」  と厭に絡んで云いがゝりますも、蝮と綽名をされる甚藏でございますから、うっかりすれば喰付かれますゆえ、仕方なく、  三「詰らぬ口を利かぬが宜いぜ、金は遣るから辛抱をしねえよ」  とただ取られると知りながら、二十両の金を遣りまして甚藏を帰しますと、其の夜三藏の妹お累が寝て居ります座敷へ、二尺余りもある蛇が出ました。九月中旬になりましては田舎でも余り蛇は出ぬものでございますが、二度程出ましたので、墓場で驚きましたから何が出ても蛇と思い只今申す神経病、  累「アレー」  と駈出して逃る途端母親が止め様とした機、田舎では大きな囲炉裏が切ってあります、上からは自在が掛って薬鑵の湯が沸って居た処へ双に反りまして、片面から肩へ熱湯を浴びました。 三十  お累が熱湯を浴びましたので、家中大騒ぎで、医者を呼びまして種々と手当を致しましたが何うしてもいかんもので、火傷の痕が出来ました。追々全快も致しましょうが、二十一二になる色盛の娘、顔にポツリと腫物が出来ましても、何うしたら宜かろうなどと大騒ぎを致すものでございますのに、お累は半面紫色に黒み掛りました上、片鬢兀るようになりましたから、当人は素より母親も心配して居ります。  累「あゝ情ない、この顔では此の間法蔵寺で逢った新吉さんにもう再び逢う事も出来ぬ」  と思いますと是が気病になり、食も進まず、奥へ引籠ったきり出ません、母親は心配するが、兄三藏は中々分った人でございますから、  三「お母様、えーお累は何様な塩梅でございますねえ」  母「はアただ胸が支えて飯が喰えねえって幾ら勧めても喰えねえ〳〵と云う、疲れるといかねえから些と食ったら宜かんべえと勧めるが、涙ア翻して己ア此様な顔に成ったから駄目だ、何うせ此様な顔になった位えなら、おッ死んだ方が宜え。と其様な事べえ云ってハア手におえねえのサ、もっと大え負傷アして片輪になる者さえあるだに、左様心配しねえが宜えと云うが、彼は幼っけえ時から内気だから、ハア、泣ことばかりで何うしべえと思ってよ」  三「困りますね私も心配するなと云い聞せて置きますが、何う云うものか彼処へ引籠った切りで、気が霽れぬから庭でも見たら宜かろうと云うと、彼処は薄暗くって病気に宜うございますからと云いますが詰らん事を気に病むから何うも困ります」  と話をして居ります。折から、お累は次の間の処へ参りましたから、  母「おゝ此方へ出ろとよう、出な」  三「あ、漸と出て来た」  母「此方へ来てナ、畑の花でも見て居たら些たア気が霽れようと、今兄どんと相談して居たゞ、えゝ、さア此処へ坐ってヨウ、よく出て来いッけナ、心配してはいけぬ、気を晴らさなければいかねえヨウ、兄どんの云うのにも、火傷しても火の中へ坐燻ったではねえ、湯気だから段々癒るとよ、少しぐれえ薄く痕が付くべえけれども、平常の白粉を着ければ知れねえ様になり段々薄くなるから心配しねえがえゝよ」  三「お前お母さんに斯う心配を掛けて、お母様がお食を勧めるのにお前は何故喫べない、段々疲れるよ、詰らん事をくよ〳〵してはいけませんよ、お前と私と是れから只た一人のお母様だから孝行を尽さなければならないのに、お前がお母様に心配を掛けちゃア孝行に成りません、顔は何様なに成ったって構わぬ、それならば片輪女には亭主がないと云うものでも有るまい、何様な跛でもてんぼうでも皆な亭主を持って居ります、えゝ火傷したくらいで気落して、お飯も喫べられないなんて、気落してはなりません、お母様が勧めるからお食りなさい、喫べられないなんて其様な事はありませんよ」  母「喫べなせえヨウ、久右衞門どんが、是なれば宜かろうって水街道へ行って生魚を買って来たゞ、随分旨い物だ常なら食べるだけれど、やア食えよウ」  三「お喫りなさい何う云う様子だ、容体を云いなさい、えゝ、何か云うとお前は下を向いてホロ〳〵泣いてばかり居て、お母様に御心配かけて仕様がないじゃアありませんか、え、十二三の小娘じゃアあるまいし、よウ、えゝ、何う云うものだ」  母「そんなに小言云わねえが宜えってに、其処が病えだからハア手におえねえだよ、兄どんの側に居ると小言を云われるから己が側へ来い、さア此方へ来い、〳〵」  と手を引いて病間へ参ります。三藏も是は一通りの病気ではないと思いますから。  三「おせな」  下女せな「ヒえー」  三「何の事た、立って居て返辞をする奴が有るものか」  せな「何だか」  三「坐りな」  せな「何だか、呼るのは何だかてえに」  三「コレ家のお累の病気は何うも火傷をした許りでねえ、心に思う処が有るのでそれが気になってからの煩いと思って居るが、汝お久の寺詣に行った帰りは遅かったが、年頃で無理じゃアねえから他処へ寄ったか、隠さずと云いな」  せな「ナアニ寄りは為ません、お寺様へ行ってお花上げて拝んで、雨降って来たからお寺様で借べえって法蔵寺様で傘借りて帰って来ただ」  三「汝なぜ隠す」  せな「隠すにも隠さねえにも知んねえノ」  三「主人に物を隠すような者は奉公さしては置きません、なぜ隠す、云いなよ」  せな「隠しも何うもしねえ、知んねえのに無理な事を云って、知って居れば知って居るって云うが、知んねえから知んねえと云うんだ」  三「コレ段々お累を責めて聞くに、実は兄様済まないが是々と云うから、なぜ早く云わんのだ、年頃で当然の事だ、と云って残らず打明けて己に話した、其の時はおせなが一緒に行って斯う〳〵と残らず話した、お累が云うのに汝は隠して居る、汝はなぜ然うだ、幼い中から面倒を見て遣ったのに」  せな「アレまア、何て云うたろうか、よウお累様ア云ったか」  三「皆な云った」  せな「アレまア、汝せえ云わなければ知れる気遣えねえから云うじゃアねえよと、己を口止して、自分からおッ饒舌るって、何てえこった」  三「皆ないいな、有体に云いナ」  せな「有体ッたって別に無えだ、墓参りに行って年頃二十二三になる好い男が来て居て、お前さん何処の者だと云ったら江戸の者だと云って、近処に居る者だがお墓参りして無尽鬮引の呪えにするって、エー、雨降って来たから傘借りてお累さんと二人手え引きながら帰って来て、お累さんが云うにゃア、おせな彼様な好い男は無いやア、彼様な柔しげな人はねえ、己がに亭主を持たせるなれば彼ア云う人を亭主に持度いと云って、内所で云う事が有ったけえ、其の中に火傷してからもう駄目だ彼の人に逢いたくもこんな顔になっては駄目だって、それから飯も喰えねえだ」  三「然うか何うも訝しいと思った、様子がナ、汝に云われて漸く分った」  せな「あれ、横着者め、お累様云わねえのか」  三「なにお累が云うものか」  せな「彼だアもの、累も云ったから汝も云えってえ、己に云わして己云ったで事が分ったてえ、そんな事があるもんだ」  三「騒々しい、早く彼方へ往けよ」  とこれから村方に作右衞門と云う口利が有ります、これを頼んで土手の甚藏の処へ掛合いに遣りました。 三十一  作「御免なせえ」  甚「イヤお出でなせえ」  作「ハイ少し相談ぶちに参りましたがなア」  甚「能くお出なせえました」  作「私イ頼まれて少し相談ぶちに参ったが、お前等の家に此の頃年齢二十二三の若え色の白え江戸者が来て居ると云う話、それに就いて少し訳あって参った」  甚「左様で、出ちゃアいけねえ引込んで居ねえ」  新吉は薄気味が悪いから蒲団の積んで有る蔭へ潜り込んで仕舞いました。  甚「ヘエ、な、何です」  作「エヽ、今日少しな、訳が有って三藏どんが己が処え頭を下げて来て、偖作右衞門どん、何うも他の者に話をしては迚も埓が明かねえ、人一人は大事な者なれども、何うも是非がねえから無理にも始末を着けなければなんねえから、お前等をば頼むと云うまアーづ訳になって見れば、己も頼まれゝば後へも退けねえ訳だから、己が五十石の田地をぶち放っても此の話を着けねばなんねえ訳に成ったが其の男の事に付いて参っただ」  甚「ヘエーそうで、其の男と云うなア身寄でも親類でもねえ奴ですが、困るてえから私の処に食客だけれども、何を不調法しましたか、旦那堪忍しておくんなえ、田舎珍らしいから、柿なんぞをピョコ〳〵取って喰いかねゝえ奴だが、何でしょうか生埋にするなどというと、私も人情として誠に困りますがねえ、何を悪い事をしたか、何云う訳ですえ」  作「誰が柿イ取ったて」  甚「食客が柿を盗んだんでしょう」  作「柿など盗んだ何のと云う訳でねえ、そうでねえ、それ、お前知って居るが、三藏どんの妹娘は屋敷奉公して帰って来て居た処、お前等ア家のノウ、其の若え男を見て、何処かで一緒になったで口でもきゝ合った訳だんべえ、それでまア娘が気に、彼ア云う人を何卒亭主に為たいとか内儀になりてえとか云う訳で、心に思っても兄さまが堅えから八釜しい事云うので、処から段々胸へ詰って、飯も食べずに泣いてばかり居るから、医者どんも見放し、大切の一人娘だから金えぶっ積んでも好いた男なら貰って遣りてえが、他の者では頼まれねえが、作右衞門どん行ってくれと云う訳で、己が媒妁人役しなければなんねえてえ訳で来ただ」  甚「そんなら早くそう云ってくれゝば宜いに、胆を潰した、私は柿でも盗んだかと思って、そうか、それは有難え、じゃア何だね、妹娘が思い染めて恋煩いで、医者も見放すくれえで、何うでも聟に貰おうと云うのかね、是は有難え、新吉出や、ア此処へ出ろ、ごうぎな事をしやアがった、此処へ来や、旦那是は私の弟分で新吉てえます、是は作右衞門さんと云うお方でな、名主様から三番目に坐る方だ、此の方に頭を押えられちゃア村に居憎いやア、旦那に親眤になって置きねえ」  新「ヘエ初めまして、私は新吉と申す不調法者で、お見知り置かれまして御贔屓に願います」  作「是はまず〳〵お手をお上げなすって、まず〳〵、それでは何うも、エヽ石田作右衞門と申して至って不調法者で、お見知り置かれやして、此の後も御別懇に願えます」  甚「旦那、其様な叮嚀な事を云っちゃアいけねえ、マア早い話が宜い、新吉、三藏さんと云ってな、小質を取って居る家の一人娘、江戸で屋敷奉公して十一二年も勤めたから、江戸子も同し事で、器量は滅法好い娘だ、宜いか、其のお嬢さんが手前を見てからくよ〳〵と恋煩いだ、冗談じゃアねえ、此畜生め、えゝ、こう、其の娘が塩梅が悪いんで、手前に逢わねえじゃア病に障るから貰えてえと云う訳だ、有難え、好い女房を持つのだ、手前運が向いて来たのだ」  新「成程、三藏さんの妹娘で、成程、存じて居ります、一度お目に掛りました、然う云って来るだろうと思って居た」  甚「此畜生、生意気な事を云やアがる、増長して居やアがる、旦那腹ア立っちゃアいけねえ、若えからうっかり云うので、大層を云って居やアがらア、手前己惚るな、男が好いたって田舎だから目に立つのだ、江戸へ行けば手前の様な面はいけえ事有らア、此様な田舎だから少し色が白いと目に立つのだ、田舎には此様な色の黒い人ばかりだから、イヤサお前さんは年をとって居るから色は黒いがね、此様な有難え事はねえ、冗談じゃアねえ」  新「誠に有難い事でございます」  作「私もヤアぶち出し悪かったが、お前様が承知なら頼まれげえが有って有難えだ、然うなれば私イ及ばずながら媒妁する了簡だ、それじゃア大丈夫だろうネ、仔細無えね」  甚「ヘエ仔細有りません、有りませんが困る事には此の野郎の身体に少し借金が有るね」  作「なに借財が」  甚「ヘエ誠に何うもね、これが向が堅気でなければ宜いが、彼ア云う三藏さん、此の野郎が行きそう〳〵方々から借金取が来て、新吉に〳〵と居催促でもされちゃア、此の野郎も行った当坐極りが悪く、居たたまらねえで駈出す風な奴だから、行かねえ前に綺麗薩張借金を片付ければ私も宜し、宜うがすか、私が請人になって居るからね、其の借金だけは向で払ってくれましょうか」  作「でかく有れば困るが何のくれえ」  甚「何のくれえたって、なア新吉、彼方へ縁付いてから借金取が方々から来られちゃア極りが悪いやア、其の極りを付けて貰うのだから借金の高を云いねえよ、さ、借金をよう」  新「ヘエ借金は有りません」  甚「何を云うのだ」  新「ヘエ」  甚「隠すな、え借金をよう」  新「借金はありません」  甚「分らねえ事を云うな、此の間もゴタ〳〵来るじゃアねえか」 三十二  甚「手前此処に居るのたア違わア、三藏さんの親類になるのだ、それに可愛いお嬢さんが塩梅が悪くって可哀想だから貰うと云うのだ、手前を貰わなければ命に障る大事な娘の貰うのだから、借金が有るなれば有ると云って、借金を片付けて貰えるからよ、然うして仕度して行かなければならねえ、借金が有ると云え、エヽおい」  新「ヘエ、成程、ヘエ〳〵成程、それは気が付きませんでした、成程是は、随分借金は有るので、是で中々有るので」  甚「有るなれば有ると云え、よう幾らある」  新「左様五両ばかり」  甚「カラ何うも云う事は子供でげすねえ、幾らア五拾両、けれども、エヽと、二拾両ばかり私が目の出た時返して、三拾両あります」  作「ほう、三拾両、巨えなア、まア相談ぶって見ましょう」  とこれから帰って話をすると、  三「相手が甚藏だから其の位の事は云うに違いない、宜しい、其の代り、土手の甚藏が親類のような気になって出這入されては困るから、甚藏とは縁切で貰おう」  と云い、甚藏は縁切でも何でも金さえ取ればいゝ、と話が付き、先ず作右衞門が媒妁人で、十一月三日に婚礼致しました。田舎では妙なもので、婚礼の時は餅を搗く、村方の者は皆来て手伝をいたします。媒妁人が三々九度の盃をさして、それから、村で年重な婆アさんが二人来て麦搗唄を唄います。「目出度いものは芋の種」と申す文句でございます。「目出度いものは芋の種葉広く茎長く子供夥多にエヽ」と詰らん唄で、それを婆アさんが二人並んで大きな声で唄い、目出度祝して帰る。これから新吉が花婿の床入になる。ところが何時までたっても嫁お累が出て来ませんので、極りが悪いから嫌われたかと思いまして、  新「もう来そうなもの」  と見ると屏風の外に行燈が有ります。その行燈の側に、欝いで向を向いて居るから、  新「何だね、其処に居るのかえ、冗談じゃアない、極りが悪いねえ、何うしたのだえ、間が悪いね、其処に引込んで居ては極りが悪い、此方へ来て、よう、私は来たばかりで極りが悪い、お前ばかり便りに思うのに、初めてじゃアなし、法蔵寺で逢って知って居るから、先刻お前さんが白い綿帽子を冠って居たが、田舎は堅いと思って、顔を見度いと思っても、綿を冠って居るから顔も見られず、間違じゃアねえかと思い、心配して居た、早く来て顔を見せて、よう、此方へ来ておくれな」  累「こんな処へ来て下すって、誠に私はお気の毒様で先刻から種々考えて居りました」  新「気の毒も何もない、土手の甚藏の云うのだから、訳も分らねえ借金まで払って、お兄いさんが私の様な者を貰って下すって有難いと思って、私はこれから辛抱して身を堅める了簡で居るからね、よう、傍へ来てお寝な」  累「作右衞門さんを頼んで、お嫌ながらいらしって下すっても、私の様な者だから、もう三日もいらっしゃると、愛想が尽きて直きお見捨なさろうと思って、そればっかり私は心に掛って、悲しくって先刻から泣いてばかり居りました」  新「見捨てるにも見捨てないにも、今来たばかりで、其様な詰らんことを云って、私は身寄便もないから、お前の方で可愛がってくれゝば何処へも行きません、見捨てるなどと此方が云う事で」  累「だって私はね、貴方、斯んな顔になりましたもの」  新「エ、あの私はね、此様な顔と云う口上は大嫌いなので、ド、何んな顔に」  累「はい此の間火傷を致しましてね」  と恥かしそうに行燈の処へ顔を出すのを、新吉が熟々見ると、此の間法蔵寺で見たとは大違い、半面火傷の傷、額から頬へ片鬢抜上りまして相が変ったのだから、あっと新吉は身の毛立ちました。  新「何うして、お前まア恐ろしい怪我をして、エヽ、なに何だか判然と云わなければ、もっと傍へ来て、え、囲炉裡へ落ちて、何うも火傷するたって、何うも恐ろしい怪我じゃアないか、まアえゝ」  と云いながら新吉は熟々と考えて見れば、累が淵で殺したお久の為には、伯母に当るお累の処へ私が、養子に来る事になり、此の間まで美くしい娘が、急に私と縁組をする時になり、此様な顔形になると云うのも、やっぱり豐志賀が祟り性を引いて、飽くまでも己を怨む事か、アヽ飛んだ処へ縁付いて来た、と新吉が思いますると、途端に、ざら〳〵と云う、屋根裏で厭な音が致しますから、ヒョイと見ると、縁側の障子が明いて居ります、と其の外は縁側で、茅葺屋根の裏に弁慶と云うものが釣ってある。それへずぶりと斜に揷して有るは草苅鎌、甚藏が二十両に売付けた鎌を與助と云う下男が磨澄して、弁慶へ揷して置いたので、其の鎌の処へ、屋根裏を伝わって来た蛇が纏い付き、二三度搦まりました、すると不思議なのは蛇がポツリと二つに切れて、縁側へ落ると、蛇の頭は胴から切れたなりに、床の処へ這入って来た時は、お累は驚きまして、  累「アレ蛇が」  と云う。新吉もぞっとする程身の毛立ったから、煙管を持って蛇の頭を無暗に撲つと、蛇の形は見えずなりました。怖い紛れにお累は新吉に縋り付く、その手を取って新枕、悪縁とは云いながら、たった一晩でお累が身重になります。これが怪談の始でございます。 三十三  新吉とお累は悪縁でございますが、夫婦になりましてからは、新吉が改心致しました、と申すのは、熟々考えれば唯不思議な事で、十月からは蛇が穴に入ると云うに、十一月に成って大きな蛇が出たり、又先頃墓場で見た時、身の毛立つ程驚いたのも、是は皆心の迷で有ったか、あゝ見えたのは怖い〳〵と思う私が気から引出したのか、お累も見たと云い殊に此の家は累が淵で手に掛けたお久の縁合、其の家へ養子に来ると云うは、如何なる深き因縁の、今まで数々罪を作った此の新吉、是からは改心して、此家を出れば外に身寄便も無い身の上、お累が彼様な怪我をすると云うのも皆私故、これは女房お累を可愛がり、三藏親子に孝行を尽したならば、是までの罪も消えるであろうと云うので、新吉は薩張と改心致しました。それからは誠に親切に致すから、三藏も、  三「新吉は感心な男だ、年のいかんに似合わぬ、何にしろ夫婦中さえ宜ければ何より安心、殊に片輪のお累を能く目を掛けて愛してくれる」  と、家内は睦しく、翌年になりますと、八月が産月と云うのでございますから、先高い処へ手を上げてはいかぬ、井戸端へ出てはならぬとか、食物を大事に為なければならんと、初子だから母も心配致しまする。と江戸から早飛脚で、下谷大門町の伯父勘藏が九死一生で是非新吉に逢いたいと云うのでございますが、只今の郵便の様には早く参りませんから、新吉も心配して、兄三藏と相談致しますと、たった一人の伯父さん、年が年だから死水を取るが宜いと、三藏は気の付く人だから、多分の手当をくれましたから、暇を告げ出立を致しまして、江戸へ着いたのは丁度八月の十六日の事でございます。長屋の人が皆寄り集って看病致します。身寄便もない、女房はなし、歳は六十六になります爺で、一人で寝て居りますが、長屋に久しく居る者で有りますから、近所の者の丹精で、漸々に生延びて居ります処、  男「オヤ新吉さんか、さア〳〵何卒お上りなすって、おかね、盥へ水を汲んで、足をお洗わし申して、荷や何かは此方へ置いて、能くお出なすった、お待申しておりました、さア此方へ」  新「ヘエ何うも誠に久しく御無沙汰致しました、御機嫌宜しゅう、田舎へ引込みましてからは手紙ばかりが頼りで、頓と出る事も出来ません、養子の身の上でございますからな、此の度は伯父が大病でございまして、さぞお長屋の衆の御厄介だろうと思い実は彼方の兄とも申し暮しておりました、急いで参る積でございますが何分にも道路が悪うございまして、捗取りませんで遅う成りました」  男「何う致しまして、大層お見違え申す様に立派にお成りなすって、お噂ばかりでね、伯父さんも悦んでね、彼も身が定まり、田舎だけれども良い処へ縁付き、子供も出来たってお噂ばかりして、実に何うも一番古くお長屋にお住いなさるから、看病だって届かぬながら、お長屋の者が替り〳〵来て見ても、あゝ云う気性だから、お前さんばかり案じて、能くマア早くお出なすった、さア此方へ」  新「ヘエ、是はお婆さん、其の後は御無沙汰致しました」  婆「おやまア誠に暫く、まア、めっきり尤らしくおなりなすったね、勘藏さんも然う云って居なすった、彼も女房を持ちまして、児が出来て、何月が産月だって、指を折って楽みにして、病気中もお前さんの事ばかり云って、外に身寄親類はなし、手許へ置いて育てたから、新吉はたった一人の甥だし、子も同じだと云って、今もお前さんの噂をして、楽みにしておいでなさるからね、此度ばかりはもう年が年だから、大した事はない様だが、長屋の者も相談してね、だけども養子では有るし、お呼び申して出て来て、何だ是っぱかりの病気に、遠い処から呼んでくれなくも宜さそうなもんだなどと云って、長屋の者も余りだと、新吉さんに思われても、何だと云って、長屋の者、行事の衆と種々相談してね、私の夫の云うには、然うでない、年が年だからもしもの事が有った日にゃア、長屋の者も付いて居ながら知らして呉れそうなものと、又新吉さんに思われても成らんとか何とか云って、長屋の者も心配して居て、能くねえ、何うも、然うだって、大層だってね、勘藏さんがねえ、彼もマア田舎へ行って結構な暮しをして、然うだって、前の川へ往けば顔も洗え鍋釜も洗えるってねえ、噂を聞いて何うか見度いと思って、あの畑へ何か蒔いて置けば出来るってねえ、然うだって、まアお前さんの気性で鍬を把って、と云ったら、なアに鍬は把らない、向は質屋で其処の旦那様に成ったってね、と云うからおやそう田舎にもそう云う処が有るのかねえなんてね、お噂をして居ましたよそれにね」  男「コレサお前一人で喋って居ちゃアいけねえ、病人に逢わせねえな」  婆「さア此方へ」  新「ヘエ有難う」  と寝て居る病間へ通って見ると、木綿の薄ッぺらな五布布団が二つに折って敷いて有ります上に、勘藏は横になり、枕に坐布団をぐる〳〵巻いて、胴中から独楽の紐で縛って、括り枕の代りにして、寝衣の単物にぼろ袷を重ね、三尺帯を締めまして、少し頭痛がする事もあると見えて鉢巻もしては居るが、禿頭で時々辷っては輪の形で抜けますから手で嵌めて置ますが、箝の様でございます。  新「伯父さん〳〵」  勘「あい」  新「私だよ」  男「勘藏さん、新吉さんが来たよ」  勘「有難え〳〵、あゝ待って居た、能く来た」  新「伯父さんもう大丈夫だよ、大きに遅くなったがお長屋の方が親切に手紙を遣して下すったから取敢ず来たがねえ、もう私が来たから案じずに、お前気丈夫にしなければならねえ、もう一遍丈夫に成ってお前に楽をさせなければ済まないよ」  勘「能く来た、病気はそう呼びに遣る程悪いんじゃアねえが、年が年だから何卒呼んでおくんなせえと云うと、呼んじゃア悪かろうの何だの彼だのと云って、評議の方が長えのよ、長屋の奴等ア気が利かねえ」  新「これサ、其様な事を云うもんじゃアねえ、お長屋の衆も親切にして下すって、遠くの親類より近くの他人だ、お長屋の衆で助かったに、其様な事を云うもんじゃアねえ」 三十四  勘「お前はそう云うが、ただ枕元で喋るばかりで些とも手が届かねえ、奥の肥ったお金さんと云うかみさんは、己を引立って、虎子へしなせえってコウ引立って居てズンと下すから、虎子で臀を打つので痛えやな、あゝ人情がねえからな」  新「其様な事を云うもんじゃアねえ、何でもお前の好きな物を食べるが宜い」  勘「有難え、もうねえ、新吉が来たから長屋の衆は帰ってくれ」  新「其様な事を云うもんじゃアねえ」  長屋の者「じゃア、マア新吉さんが来たからお暇致します、左様なら」  新「左様ですか、何うも有難うございます、お金さん有難うお婆さん有難う、ヘエ大丈夫で、又何うか願います、ヘエ、なにお締めなさらんでも宜しゅう、伯父さん長屋の人がねエ、親切にしてくれるのに、彼様な事を云うと心持を悪くするといかねえよ」  勘「ナアニ心持を悪くしたって構うものか、己の頑固は知って居るしなあ、能く来た、一昨日から逢いたくって〳〵堪らねえ、何卒して逢いてえと思って、もう逢えば死んでも宜いやア、もう死んでも宜い」  新「其様な事を云わずに確かりして、よう、もう一遍丈夫になって駕籠にでも乗せて田舎へ連れて行って、暢気な処へ隠居さしてえと思うのだ、随分寿命も延々するから彼方へお引込みよう」  勘「独身で煙草を刻んで居るも、骨が折れてもう出来ねえ、アヽ、お前嫁に子供が出来たてえが、男か女か」  新「何だか知れねえ是から生れるのだ」  勘「初めては女の児が宜い、お前の顔を見たら形見を遣ろうと思ってねえ、己は枕元へ出したり引込ましたりして、他人に見られねえ様に布団の間へ揷込んだり、種々な事をして見付からねえように、懐で手拭で包んだりして居た」  新「まだ〳〵大丈夫だよ伯父さん、だけれども形見は生きているうち貰って置く方が宜い、形見だって何をお前がくれるのだか知れねえが、何だい、大事にして持つよ」  勘「是を見てくんねえ」  と布団の間から漸く引摺出したは汚れた風呂敷包。  勘「これだ」  新「何だい」  と新吉は僅少の金でも溜めて置いて呉れるのかと思いまして、手に取上げて見ると迷子札。  新「何だ是は迷子札だ」  勘「迷子札を今迄肌身離さず持って居たよ、是が形見だ」  新「是はいゝやア、今度生れる子が男だと丁度いゝ、若し女の子か知らないが、今度生れる坊のに仕よう」  勘「坊なぞと云わねえでお前着けねえ」  新「少し篐がゆるんだね、大きな形をしてお守を下げて歩けやアしねえ」  勘「まア読んで見ねえ」  新「エヽ読んで」  と手に取上げて熟々見ると、唐真鍮の金色は錆びて見えまする。が、深彫で、小日向服部坂深見新左衞門二男新吉、と彫付けてある故、  新「伯父さん是は何だねえ私の名だね」  勘「アイ、そのねえ、汚れたね其の布団の上へ坐っておくれ」  新「いゝよう」  勘「イヽエ坐ってお呉れ、お願いだから」  新「はい〳〵さア私が坐りました」  勘「それから私は布団から下るよ」  新「アヽ、下りないでも宜いよ、冷るといけねえよ」  勘「何卒お前に逢ってねえ、一言此の事を云って死にてえと思って心に掛けて居たがねえ、お前様は、小日向服部坂上で三百五十石取った、深見新左衞門様と云う、天下のお旗下のお前は若様だよ」  新「ヘエ、私がかえ」  勘「ウムお前の兄様は新五郎様と云ってね、親父様はもうお酒好でねえ、お前が生れると間もなく、奥様は深い訳が有ってお逝去になり、其の以前から、お熊と云う中働の下婢にお手が付いて、此の女が悪い奴で、それで揉めて十八九の時兄様は行方知れず、するとねえ、本所北割下水に、座光寺源三郎と云う、矢張旗下が有って、其の旗下が女太夫を奥方にした事が露われて、お宅番が付き、そのお宅番が諏訪部三十郎様にお前の親父様の深見深左衞門様だ、すると梶井主膳と云う竜泉寺前の売卜者がねえ、諏訪部様が病気で退いて居て、親父様が一人で宅番して居るを附込んで、駕籠を釣らして来て源三郎とおこよと云う女太夫を引攫って逃げようとする、遣るめえとする、争って鎗で突かれて親父様はお逝去だから、お家は改易になり、座光寺の家も潰れたがね、其の時にお熊は何でもお胤を孕んで居たがね、屋敷は潰れたから、仕方がねえので深川へ引取、跡は御家督もねえお前さんばかり、ちょうどお前が三歳の時だが、私が下谷大門町へ連れて来て貰い乳して丹精して育てたのさ、手前の親父や母親は小さいうち死んで、己が育てたと云って、刻煙草をする中で丹精して、本石町四丁目の松田と云う貸本屋へ奉公に遣りましたが実は、己はお前の処に居た門番の勘藏と申す、旧来御恩を頂いた者で、家来で居ながら、お前さんはお旗下の若様だと慦い若い人に知らせると、己は世が世なら殿様だが、と自暴になって道楽をされると困るから、新吉々々と使い廻して、馬鹿野郎、間抜野郎と、御主人様の若様に悪たい吐いて、実の伯父甥の様にしてお前さんを育てたから、心安立が過ぎてお前さんを打った事も有りましたが、誠に済まない事を致しました、私はもう死にますから此の事だけお知らせ申して死度いと思い、殊にお前さんは親類縁者は無いけれども、たゞ新五郎様と云う御惣領の若様が有ったが、今居れば三十八九になったろうけれども行方知れず覚えて居て下さい、鼻の高い色の白い好い男子だ、目の下に大きな黒痣が有ったよ、其の方に逢うにも、お前さんがこの迷子札を証拠に云えば知れます、アヽもう何も云う事は有りませんが、唯馬鹿野郎などと悪態を吐きました事は何卒真平御免なすって、仏壇にお前様の親父様の位牌を小さくして飾って有ります、新光院様と云って其の戒名だけ覚えて居ります、其の位牌を持って往って下さい」 三十五  新「然うかい、私は初めて伯父さん聞いたがねえ、だがねえ、私が旗下の二男でも、家が潰れて三歳の時から育てゝくれゝば親よりは大事な伯父さんだから、もう一度快くなって恩報しに、お前を親の様に、尚更私が楽みをさしてから見送り度いから、もう一二年達者になってねえ、決して家来とは思わない、我儘をすれば殴打擲は当然で、貰い乳をして能く育てゝくれた、有難い、其の恩は忘れませんよ、決して家来とは思いません、真実の伯父さんよりは大事でございます」  勘「はい〳〵有難え〳〵、それを聞けば直に死んでも宜い、ヤア、有難えねえ、サア死にましょうか、唯死度くもねえが、松魚の刺身で暖けえ炊立の飯を喫べてえ」  新「さア〳〵何でも」  と云う。当人も安心したか間もなく眠る様にして臨終致しました。それからはまず小石川の菩提所へ野辺送りをして、長く居たいが養子の身の上殊には女房は懐妊、早く帰ろうと、長屋の者に引留められましたが、初七日までも居りませんで、精進物で馳走をして初七日を取越して供養をいたし、伯父が住いました其の家は他人に譲りましたから、早々立ちまして、せめて今夜は遅くも亀有まで行きたいと出かけまする。折悪しく降出して来ました雨は、どう降で、車軸を流す様で、菊屋橋の際まで来て蕎麦屋で雨止をしておりましたが、更に止む気色がございませんから、仕方がなしに其の頃だから駕籠を一挺雇い、四ツ手駕籠に桐油をかけて、  新「何卒亀有まで遣って、亀有の渡を越して新宿泊りとしますから、四ツ木通りへ出る方が近いから、吾妻橋を渡って小梅へ遣ってくんねえ」  駕籠屋「畏まりました」  と駕籠屋はビショ〳〵出かける。雨は横降りでどう〳〵と云う。往来が止りまするくらい。其の降る中をビショ〳〵担がれて行くうち、新吉は看病疲れか、トロ〳〵眠気ざし、遂には大鼾になり、駕籠の中でグウ〳〵と眠て居る。  駕籠屋「押ちゃアいけねえ、歩けやアしねえ」  新「アヽ、若衆もう来たのか」  駕「ヘエ」  新吉「もう来たのか」  駕「ヘエ、まだ参りません」  新「あゝ、トロ〳〵と中で寝た様だ、何処だか薩張分らねえが何処だい」  駕「何処だか些とも分りませんが、鼻を撮まれるも知れません、たゞ妙な事には、なア棒組、妙だなア、此方の左り手に見える燈火は何うしてもあれは吉原土手の何だ、茶屋の燈火に違えねえ、そうして見れば此方にこの森が見えるのは橋場の総泉寺馬場の森だろう、して見ると此処は小塚ッ原かしらん」  新「若衆〳〵妙な方へ担いで来たナ、吾妻橋を渡ってと話したじゃアねえか」  駕「それは然う云うつもりで参りましたが、ひとりでに此処へ来たので」  新「吾妻橋を渡ったか何だか分りそうなものだ」  駕「渡ったつもりでございますがね、今夜は何だか変な晩で、何うも、変で、なア棒組、変だなア」  駕「些ッとも足が運べねえ様だな」  駕「妙ですねえ旦那」  新「妙だってお前達は訝しいぜ、何うかして居るぜ急いで遣ってくんねえ、小塚ッ原などへ来て仕様がねえ、千住へでも泊るから本宿まで遣っておくれ」  駕「ヘエ〳〵」  と又ビショ〳〵担ぎ出した。新吉はまた中でトロ〳〵と眠気ざします。  駕「アヽ恟りすらア、棒組そう急いだって先が一寸も見えねえ」  新「あゝ大きな声だナア、もう来たのか若衆」  駕「それが、些とも何処だか分りませんので」  新「何処だ」  駕「何処だか少しも見当が付きませんが、おい〳〵、先刻左に見えた土手の燈火が、此度ア右手に見える様になった、おや〳〵右の方の森が左になったが、そうすると突当りが山谷の燈火か」  新「若衆、何うも変だぜ、跡へ帰って来たな」  駕「帰る気も何もねえが、何うも変でございます」  新「戯けちゃア困るぜ冗談じゃアねえ、お前達は訝しいぜ」  駕「旦那、お前さん何か腥い物を持っておいでなさりゃアしませんか、此処ア狐が出ますからねえ」  新「腥い物処か仏の精進日だよ、しっかりしねえな、もう雨は上ったな」  駕「ヘエ、上りました」  新「下しておくれよ」  駕「何うもお気の毒で」  新「冗談じゃアねえ、お前達は変だぜ」  駕「ヘエ何うも、此様な事は、今迄長く渡世しますが、今夜のような変な駕籠を担いだ事がねえ、行くと思って歩いても後へ帰る様な心持がするがねえ」  新「戯けなさんな、包を出して」  と駕籠から出て包を脊負い、  新「好い塩梅に星が出たな」  駕「ヘエ奴蛇の目の傘はこゝにございます」  新「いゝやア、まア路を拾いながら跣足でも何でも構わねえ行こう」  駕「低い下駄なれば飛々行かれましょう」  新「まアいゝや、さっ〳〵と行きねえ」  駕「ヘエ左様なら」  新「仕様がねえな、何処だか些とも分りゃアしねえ」  と云いながら出かけて見ると、更けましたから人の往来はございません。路を拾い〳〵参りますと、此方の藪垣の側に一人人が立って居りまして、新吉が行き過ると、  男「おい若えの、其処へ行く若えの」  新「ソリャ、此処は何でも何か出るに違えねえと思った、畜生〳〵彼方へ行け畜生〳〵」  男「おい若えの〳〵コレ若えの」  新「ヘエ、ヘエ」  と怖々其の人を透して見ると、藪の処に立って居るは年の頃三十八九の、色の白い鼻筋の通って眉毛の濃い、月代が斯う森のように生えて、左右へつや〳〵しく割り、今御牢内から出たろうと云うお仕着せの姿で、跛を引きながらヒョコ〳〵遣って来たから、新吉は驚きまして、  新「ヘエ〳〵御免なさい」  男「何を仰しゃる、これは貴公が駕籠から出る時落したのだ、是は貴公様のか」  新「ヘエ〳〵、恟り致しました何だかと思いました、ヘエ」  と見ると迷子札。  新「おや是は迷子札、是は有難う存じます、駕籠の中でトロ〳〵と寝まして落しましたか、御親切に有難う存じます、是は私の大事な物で、伯父の形見で、伯父が丹精してくれたので、何うも有難うございます」  男「其の迷子札に深見新吉と有るが、貴公様のお名前は何と申します」  新「手前が新吉と申します」  男「貴公様が新吉か、深見新左衞門の二男新吉はお前だの」  新「ヘエ私で」  男「イヤ何うも図らざる処で懐かしい、何うも是は」  と新吉の手を取った時は驚きまして、  新「真平何うか、私は金も何もございません」  男「コレ、私をお前は知らぬは尤も、お前が生れると間もなく別れた、私はお前の兄の新五郎だ、何卒して其方に逢い度いと思い居りしが、これも逢われる時節兄弟縁の尽きぬので、斯様な処で逢うのは実に不思議な事で有った、私は深見の惣領新五郎と申す者でな」 三十六  新「ヘエ、成程鼻の高い好い男子だ、眼の下に黒痣が有りますか、おゝ成程、だが新五郎様と云う証拠が何か有りますか」  新五郎「証拠と云って別にないが、此の迷子札はお前伯父に貰ったと云うが、それは伯父ではない勘藏と云う門番で、それが私の弟を抱いて散り散りになったと云う事を仄かに聞きました、其の門番の勘藏を伯父と云うが、それを知って居るより外に証拠はない、尤も外に証拠物もあったが、永らく牢屋の住居にして、実に斯様な身の上に成ったから」  新「それじゃアお兄様、顔は知りませんが、勘藏が亡なります前、枕元へ呼んで遺言して、是を形見として貴方の物語り、此処でお目に掛れましたのは勘藏が草葉の影で守って居たのでしょう、それに付いても貴方のお身形は何う云う訳で」  新五郎「イヤ面目ないが、若気の至り、実は一人の女を殺めて駈落したれど露顕して追手がかゝり、片足斯くのごとく怪我をした故逃げ遂せず、遂々お縄にかゝって、永い間牢に居て、いかなる責に逢うと云えど飽くまでも白状せずに居たれど、迚も免るゝ道はないが、一度娑婆を見度いと思って、牢を破って、隠れ遂せて丁度二年越し、実は手前に逢うとは図らざる事で有った、手前は只今何処に居るぞ」  新「私はねえ、只今は百姓の家へ養子に往きました、先は下総の羽生村で、三藏と云う者の妹娘を女房にして居ります、三藏と申すのは百姓もしますが質屋もし、中々の身代、殊に江戸に奉公をした者で気の利いた者ですが、貴方は牢を破ったなどゝとんだ悪事をなさいました、知れたら大事で、早く改心なすって頭を剃って衣に着替え、姿を変えて私と一緒に国へお連れ申しましょう、貴方何様なにもお世話を致しましょうから、悪い心を止めてください、えゝ」  新五郎「下総の羽生村で三藏と云うは、何かえ、それは前に谷中七面前の下總屋へ番頭奉公した三藏ではないか」  新「えゝ能く貴方は御存知で」  新五郎「飛んだ処へ手前縁付いたな、其の三藏と言うは前々朋輩で、私が下總屋に居るうち、お園という女を若気の至りで殺し、それを訴人したは三藏、それから斯様な身の上に成ったるも三藏故、白洲でも幾度も争った憎い奴で其の憎い念は今だに忘れん、始終憎い奴と眼を付けて居るが、そういう処へ其の方が縁付くとは如何にも残念、其の方もそういう処へは拙者が遣らぬ、決して行くな、是から一緒に逃去って、永え浮世に短けえ命、己と一緒に賊を働き、栄耀栄華の仕放題を致すがよい、心を広く持って盗賊になれ」  新「これは驚きました〳〵、兄上考えて御覧なさい、世が世なれば旗下の家督相続もする貴方が、盗賊をしろなぞと弟に勧めるという事が有りましょうか、マア其様な事を言ったって、貴方が悪いから訴人されたので、三藏は中々其様な者ではございませぬ」  新五郎「手前女房の縁に引かされて三藏の贔屓をするが、其の家を相続して己を仇に思うか、サア然うなれば免さぬぞ」  新「免さぬってえ、お前さんそれは無理で、それだから一遍牢へ這入ると人間が猶々悪くなるというのはこれだな、手前の居る処は田舎ではありますが不自由はさせませんから一緒に来て下さい」  新五郎「手前は兄の言葉を背き居るな、よし〳〵有って甲斐なき弟故殺してしまう覚悟しろ」  新「其様な理不尽な事を云って」  新五郎「なに」  と懐に隠し持ったる短刀を引抜きましたから、新吉は「アレー」と逃げましたが、雨降揚句で、ビショ〳〵頭まではねの上りますのに、後から新五郎は跛を引きながら、ピョコ〳〵追駈けまするが、足が悪いだけに駈るのも遅いから、新吉は逃げようとするが、何分にも道路がぬかって歩けません。滑ってズーンと横に転がると、後から新五郎は跛で駈けて来て、新吉の前の処へポンと転がりましたはずみに新吉を取って押え付ける。  新五郎「不埓至極の奴殺してしまう」  と云うに、新吉は一生懸命、無理に跳ね起きようとして足を抄うと、新五郎は仰向に倒れる、新吉は其の間に逃げようとする、新五郎は新吉の帯を取って引くと、仰向に倒れる、新吉も死物狂いで組付く、ベッタリ泥田の中へ転がり込む、なれども新五郎は柔術も習った腕前、力に任して引倒し、  新五郎「不埓至極な、女房の縁に引かれて真実の兄が言葉を背く奴」  と押伏せて咽喉笛をズブリッと刺した。  新「情ない兄さん…」  駕籠屋「モシ〳〵旦那〳〵大そう魘されて居なさるが、雨はもう上りましたから桐油を上げましょう」  新「エ、アヽ危うい処だ、アヽ、ハアヽ、此処は何処だえ」  駕「ちょうど小塚ッ原の土手でごぜえやす」  新「えい、じゃア夢ではねえか、吾妻橋を渡って四ツ木通りと頼んだじゃアねえか」  駕「ヘエ、然う仰しゃったが、乗出してちょうど門跡前へ来たら、雨が降るから千住へ行って泊るからと仰しゃるので、それから此方へ参りました」  新「なんだ、エヽ長え夢を見るもんだ、迷子札は、お、有る〳〵、何だなア、え、おい若衆〳〵、咽喉は何ともねえか」  駕「ヘエ、何うか夢でも御覧でごぜえましたか、魘されておいでなせえました」  新「小用がたしてえが」  駕「ヘエ」  新「星が出たな」  駕「ヘエ、好い塩梅星が出ました」  新「じゃア下駄を出しねえ」  駕「是で天気は定まりますねえ」  新「好い塩梅だねえ、おや此処はお仕置場だな」  と見ると二ツ足の捨札に獄門の次第が書いて有りますが、始めに当時無宿新五郎と書いて有るを見て、恟りして、新吉が、段々怖々ながら細かに読下すと、今夢に見た通り、谷中七面前、下總屋の中働お園に懸想して、無理無体に殺害して、百両を盗んで逃げ、後お捕方に手向いして、重々不届至極に付獄門に行うものなりとあり。新吉はこれぞ正夢なり、妙な事も有るものだと、兄新五郎の顔が眼に残りしは不思議なれど、勘藏の話で想ったから然う見えたか、何にしても稀有な事が有れば有るものだ、と身の毛だちて、気味悪く思いますから、是より千住へ参って一晩泊り、翌日早々下総へ帰る。新吉の顔を見ると女房お累が虫気付きまして、オギャア〳〵と産落したは男の子でございます。此の子が不思議な事には、新吉が夢に見た兄新五郎の顔に生写しで、鼻の高い眼の細い、気味の悪い小児が生れると云う怪談の始めでございます。 三十七  引続きまして真景累が淵と外題を附しまして怪談話でございます。新吉は旅駕籠に揺れて帰りましたが、駕籠の中で怪しい夢を見まして、何彼と心に掛る事のみ、取急いで宅へ帰りますると、新吉の顔を見ると女房お累は虫気付き、産落したは玉のような男の児とはいかない、小児の癖に鼻がいやにツンと高く、眼は細いくせにいやに斯う大きな眼で、頬肉が落ちまして瘠衰えた骨と皮ばかりの男の児が生れました。其の顔を新吉が熟々見ると夢に見ました兄新五郎の顔に生写しで、新吉はぞっとする程身の毛立って、  新「然うなれば此の家は敵同士と、夢にも兄貴が怨みたら〳〵云ったが、兄貴がお仕置に成りながらも、三藏に怨みを懸けたと見えて、その仇の家へ私が養子に来たと夢で其の事を知らせ、早く縁を切らなければ三藏の家へ祟ると云ったが、扨は兄貴が生れ変って来たのか、但しは又祟りで斯う云う小児が生れた事か、何うも不思議な事だ」  と其の頃は怨み祟りと云う事があるの或は生れ変ると云う事も有るなどと、人が迷いを生じまして、種々に心配を致したり、除を致すような事が有りました時分の事で、所謂只今申す神経病でございますから、新吉は唯だ其の事がくよ〳〵心に掛りまして、  新「あゝもう悪い事は出来ぬ、ふッつり今迄の念を断って、改心致して正道に稼ぐより外に致し方はない、始終女房の身の上小児の上まで、斯う云う祟りのあるのは、皆是も己の因果が報う事で有るか」  と様々の事を思うから猶更気分が悪うございまして、宅に居りましても食も進みません。女房お累は心配して、  累「御酒でもお飲みなすったらお気晴しになりましょう」  と云うが、何うも宅に居れば居る程気分が悪いから、寺参りにでも行く方が宜かろうというので、寺参りに出掛けます。三藏も心配して、  三「一緒に居ると気が晴れぬ、姑などと云う者は誠に気詰りな者だと云うから、一軒家を別にしたら宜かろう」  と羽生村の北坂と云う処へ一軒新たに建てまして、三藏方で何も不足なく仕送ってくれまする。新吉は別に稼もなく、殊には塩梅が悪いので、少しずつ酒でも飲んではぶら〳〵土手でも歩いたり、また大宝の八幡様へ参詣に行くとか、今日は水街道、或は大生郷の天神様へ行くなどと、諸方を歩いて居りますが、まア寺まいりの方へ自然行く気になります。翌年寛政八年恰ど二月三日の事でございましたが、法蔵寺へ参詣に来ると、和尚が熟々新吉を見まして、  和尚「お前は死霊の祟りのある人で、病気は癒らぬ」  新「ヘエ何うしたら癒りましょう」  和尚「無縁墓の掃除をして香花を手向けるのは大功徳なもので、これを行ったら宜かろう」  新「癒りますれば何様な事でも致しますが、無縁の墓が有りましょうか」  和尚「無縁の墓は幾らも有るから、能く掃除をして水を上げ、香花を手向けるのはよい功徳になると仏の教えにもある、昔から譬えにも、千本の石塔を磨くと忍術が行えるとも云うから、其様な事も有るまいが功徳になるから参詣なさい」  と和尚さんが有難く説きつけるから、新吉は是から願に掛けて、法蔵寺へ行っては無縁の墓を掃除して水を上げ香花を手向けまする。と其処が気の故か、神経病だから段々数を掃除するに従って気分も快くなって参ります。三月の二十七日に新吉が例の通り墓参りをして出に掛ると、這入って来ました婦人は年の頃二十一二にもなりましょうか、達摩返しと云う結髪で、一寸いたした藍の万筋の小袖に黒の唐繻子の帯で、上に葡萄鼠に小さい一紋を付けました縮緬の半纏羽織を着まして、其の頃流行った吾妻下駄を穿いて這入って来る。跡からついて参るのが馬方の作藏と申す男で、  作「お賤さん是が累の墓だ」  賤「おやまア累の墓と云うと、名高いからもっと大きいと思ったら大層小さいね」  作「小さいって、是が何うも何と二十六年祟ったからねえ、執念深え阿魔も有るもので、此の前に助と書いてあるが、是は何う云う訳か累の子だと云うが、子でねえてねえ、助と云うのは先代の與右衞門の子で、是が継母に虐められ川の中へ打流されたんだと云う、それが祟って累が出来たと云うが、何だか判然しねえが、村の者も墓参りに来れば、是が累の墓だと云って皆線香の一本も上げるだ、それに願掛が利くだねえ、亭主が道楽ぶって他の女に耽って家へ帰らぬ時は、女房が心配して、何うか手の切れる様に願えますと願掛すると利くてえ、妙なもので」  賤「そうかね、私はまア斯うやって羽生村へ来て、旦那の女房さんに、私の手が切れる様に願掛をされて、旦那に見捨てられては困るねえ」  作「なに心配しねえが宜いだ、大丈夫、内儀さんは分った者で、それに若旦那が彼ア遣って堅くするし、それに小さいけれども惣吉様も居るから其様な事はねえ、旦那は年い取ってるから、たゞ気に入ったで連れて来て、別に夢中になるてえ訳でもねえから、それに己連れて来たゞと云って話して、本家でも知ってるから心配ねえ、家も旦那どんの何で、貴方が斯うしてと云って、旦那の誂えだから家も立派に出来たゞのう」  賤「何だか茅葺で、妙な尖った屋根なぞ、其様な広い事はいらないといったんだが、一寸離れて寝る座敷がないといけないからってねえ、土手から川の見える処は景色が好いよ」  作「好うがすね。ヤア新吉さん」  新「おや作さん久しくお目に掛りませんで」  作「塩梅が悪いてえが何うかえ」  新「何うも快くなくって困ります」  作「はア然うかえ能くまア心に掛けて寺参りするてえ、お前の様な若え人に似合わねえて、然う云って居る、えゝなアに彼は名主様の妾よ」  新「ウン、アヽ江戸者か」 三十八  作「深川の櫓下に居たって、名前はおしずさんと云って如才ねえ女子よ、年は二十二だと云うが、口の利き様は旨えもんだ、旦那様が連れて来たゞが、家にも置かれねえから若旦那や御新造様と話合で別に土手下へ小さく一軒家え造って江戸風に出来ただ、まア旦那が行かない晩は淋しくっていけねえから遊びに来うと云うから、己が詰らねえ馬子唄アやったり麦搗唄は斯う云うもんだって唄って相手をすると、面白がって、それえ己がに教えてくれろなどと云ってなア、妙に馬士唄を覚えるだ、三味線弾いて踊りを踊るなア、食物ア江戸口で、お前塩の甘たっけえのを、江戸では斯う云う旨え物喰って居るからって、食物ア大変八釜しい、鰹節などを山の様に掻いて、煮汁を取って、後は勿体ないと云うのに打棄って仕まうだ、己淋しくねえように、行って三味線弾いては踊りを踊ったり何かするのだがね彼処は淋しい土手下で、余り三味線弾いて騒ぐから、狸が浮れて腹太鼓を敲きやアがって夜が明けて戸を明けて見ると、三匹位え腹ア敲き破ってひっくり返って居る」  新「嘘ばっかり」  作「本当だよ」  賤「一寸〳〵作さん、何にも見る処が無いから、もう行こう」  作「えゝ参りましょう」  賤「一寸作さん今話をして居た人は何所の人」  作「彼れは村の新吉さんてえので」  賤「私は見たような人だよ」  作「見たかも知んねえ江戸者だよ」  賤「おや然うかい、一寸気の利いたおつな人だね」  作「えゝ極柔和しい人で、墓参りばかりして居てね、身体が悪いから墓参りして、何でも無縁様の墓ア磨けば幻術が使えるとか何とか云ってね、願掛えして」  賤「おや気味の悪い、幻術使いかえ」  作「今是から幻術使いになるべえと云うのだろう」  賤「然うかえ妙な事が田舎には有るものだねえ、何かえ江戸の者で此方へ来たのかえ」  作「ヘエ上の三藏さんてえ人の妹娘お累てえが、お前さん、新吉が此方へ来たので娘心に惚れたゞ、何うか聟に貰えてえって恋煩いして塩梅が悪くなって、兄様も母親様も見兼ねて金出した恋聟よ」  賤「然うかえ、新吉様と、おや新吉さんというので思い出したが、見た訳だよ私がね櫓下に下地子に成って紅葉屋に居る時分、彼の人は本石町の松田とか桝田とか云う貸本屋の家に奉公して居て、貸本を脊負って来たから、私は年のいかない頃だけども、度々見て知って居るよ、大層芸者衆もヤレコレ云って可愛がって、そう〳〵中々愛敬者で、知って居るよ」  作「アヽマア新吉さん〳〵、おい此方へ来なせえ、アノ御新造様がお前を知って居るてねえ」  新「何方様でげすえ」  賤「ちょいと新吉さんですか、私は誠にお見違れ申しましたよ、慥か深川櫓下の紅葉屋へ貸本を脊負ってお出でなすった新吉さんでは有りませんか」  新「ヘエ、私もねえ先刻からお見掛け申したような方と思ったが、若も間違ってはいけねえと思って言葉を掛けませんでしたが、慥かお賤さんで」  作「それだから知って居るだ何処で何様な人に逢うか知んねえ、嘘は吐けねえもんだ」  賤「私は此の頃此方へ来て、斯ういう処にいるけれども、馴染はなし、洒落を云ったって向に通じもしないし、些とも面白くないから、作藏さんが毎晩来て遊んでくれるので、些とは気晴しになるんだが、新吉さん本当に好い処で、些とお出でなさいな、ちょうど旦那が遊びに来て居るから、変な淋しい処だけれども、閑静で好いから一寸お寄りな」  新「ヘエ有難うございます、私はね此方へ参りまして未だ名主様へ染々お近付にもなりませんで、兄貴が連れてお近付に参ると云って居りますが、何だか気が詰ると思ってツイ御無沙汰をして参りませんので」  賤「なに気が詰る所じゃア無い、さっくり能く解った人だよ、私を娘の様に可愛がって呉れるから一寸お寄りな、ねえ作さん」  作「それが好い、新吉さんお出でよ、何でもお出で」  と勧められるから新吉は、幸い名主に逢おうと行きましたが、少し田甫を離れて庭があって、囲は生垣になって、一寸した門の形が有る中に花壇などがある。  賤「さア新吉さん此方へ」  惣「大層遅かったな」  賤「遅いったって見る処がないから累の墓を見て来ましたが、気味が悪くて面白くないから帰って来たの」  作「只今」  惣「大きに作藏御苦労、誰か一緒か」  賤「彼の人は新吉さんと云って私が櫓下に居る時分、貸本屋の小僧さんで居て、その時分に本を脊負って来て馴染なので、思い掛けなく逢いましたら、まだ旦那様にお目に掛らないから、何卒お目通りがしたいと云うから、それは丁度好い、旦那様は家に来て居らっしゃるからと云って、無理に連れて来たので」  惣「おや〳〵そうか、さア此方へ」  新「ヘエ初めまして、私はえゝ三藏の家へ養子に参りました新吉と申す不調法者で、何卒一遍は旦那様にお目通りしたいと思いましたが、掛違いましてお目通りを致しません、今日は好い折柄お賤さんにお目に掛って出ましたが、ついお土産も持参致しませんで」  惣「いゝえ、話には聞いたが、大層心掛の善い人だって、お前さん墓参りに能く行くってね」  新「ヘエ身体が悪いので法蔵寺の和尚様が、無縁の墓へ香花を上げると、身体が丈夫になると云うから、初めは貶しましたが、それでも親切な勧めだと思って参りますが、妙なもので此の頃は其の功徳かして大きに丈夫に成りました」  惣「うん成程然うかえ、能く墓参りをする、中々温順やかな実銘な男だと云って、村でも評判が好い」  賤「本当に極くおとなしい人で、貸本屋に居て本を脊負ってくる時分にも、一寸来ても、新吉さん手伝っておくれなんて云うと、冬などは障子を張替えたり、水を汲んだり、外を掃除したり、誠に一寸人柄は好しねえ、若い芸者衆は大騒ぎやったので、新吉さん遠慮しないで、窮屈になると却って旦那は困るから、ねえ旦那、初めてゞすからお土産などと云ったんだけれども止めましたが、初めてですからお金を一寸少しばかり遣って下さいな」  惣「お金を、幾ら」  賤「幾らだって少しばかりは見っともないし、貴方は名主だからヘエ〳〵あやまってるし、初めてですから三両もお遣んなさいよ」  惣「三両、余り多いや一両で宜かろう」  賤「お遣りなさいよ、向は目下だから、それに、旦那あの博多の帯はお前さんに似合いませんから彼の帯もお遣りなさいよう」  惣「帯を、種々な物を取られるなア」  と是が始りで新吉は近しく来ます。 三十九  お賤は調子が宜し、酒が出ると一寸小声で一中節でもやるから、新吉は面白いから猶近しく来る。其の中に悪縁とは申しながら、新吉とお賤と深い中に成りましたのは、誰れ有って知る者はございませんけれども、自然と様子がおかしいので村の者も勘付いて来ました。新吉は家へ帰ると女房が、火傷の痕で片鬢兀ちょろになって居り、真黒な痣の中からピカリと眼が光るお化の様な顔に、赤ん坊は獄門の首に似て居るから、新吉は家へ帰り度い事はない。又それに打って代って、お賤の処へ来ると弁天様か乙姫の様な別嬪がチヤホヤ云うから、新吉はこそ〳〵抜けては旦那の来ない晩には近くしけ込んで、作藏に少し銭を遣れば自由に媾曳が出来まするが、偖悪い事は出来ぬもので、兄貴は心配しても、新吉に意見を云う事は出来ませんから、お累に内々意見を云わせます、意見を云わないと為にならぬ向が名主様だから知れてはならぬという、それを思うから、女房お累が少し意見がましい事をいうと、新吉は腹を立てゝ打ち打擲致しまするので、今迄と違って実に荒々しい事を致しては家を出て行きまするような事なれども、人が善いから、お累は心配する所から段々病気に成りまして、遂には頭が破られる様に痛いとか、胸が裂ける様だとか、癪という事を覚えて、只おろ〳〵泣いてばかりおります。兄貴は改って枕元へ来て、  三「段々村方の者の耳に這入り、今日は老母の耳にも這入って、捨てゝは置かれず、私が附いて居て名主様に済まない、殊に家の物を洗いざらい持出して質に置き、水街道の方で遊んで、家へ帰らずに、夜になればお賤の処へしけ込んでおり、お前が塩梅が悪くっても、子供が虫が発っても薬一服呑ませる了簡もない不人情な新吉、金を遣れば手が切れるから手を切ってしまえ」  と兄が申しまする。所がお累は 「何うも相済みませんが、仮令親や兄弟に見捨てられても夫に附くが女の道、殊には子供も有りますから、お母様やお兄様には不孝で有りますが、私は何うも新吉さんの事は思い断られません」  と、ぴったり云い切ったから、  三「然うなれば兄妹の縁を切るぞ」  と云渡して、纏めて三十両の金を出すと、新吉は幸い金が欲いから、兄と縁を切って仕舞って、行通いなし。新吉は此の金を持って遊び歩いて家へ帰らぬから、自分は却って面白いが、只憫然なのは女房お累、次第〳〵に胸の焔は沸え返る様になります。殊に子供は虫が出て、ピイ〳〵泣立てられ、糸の様に痩せても薬一服呑ませません。なれども三藏の手が切れたから村方の者も見舞に来る人もござりません。新吉は能い気になりまして、種々な物を持出しては売払い、布団どころではない、遂には根太板まで剥して持出すような事でございますから、お累は泣入っておりますが、三藏は兄妹の情で、縁を切っても片時も忘れる暇は有りません故、或日用達に参って帰りがけ、旧来居ります與助と云う奉公人を連れて、窃っと忍んで参り、お累の家の軒下に立って、  三「與助や」  與「ヘエ」  三「新吉が居る様なれば寄らねえが、新吉が居なければ一寸逢って行きたいから窃と覗いて様子を見て、新吉が居ては迚も顔出しは出来ぬ」  與「マア大概留守勝だと云うから、寄って上げておくんなさえ、ねえ、憫然で、貴方の手が切れてから誰も見舞にも行かぬ、仮令貴方の手が切れても、塩梅が悪いから村の者は見舞に行ったっても宜えが、それを行かぬてえから大概人の不人情も分っていまさア、何うか寄って顔を見て遣っておくんなさえ、私もお累さんが小せえうちから居りやすから、訪ねてえと思うが、訪ねる事が出来ねえが、表で逢っても、新吉さんお累さんの塩梅は何うで、と云うと、何だ汝は縁の切れた所の奉公人だ、くたばろうと何うしようと世話にはならねえ、と斯う云うので、彼の野郎彼様な奴ではなかったが、魔がさしたのか、始終はハア碌な事はねえ、お累さんに咎はねえけれどもそれえ聞くと遂足遠くなる訳で」  三「何たる因果でお累は彼様な悪党の不人情な奴を思い断れないというのは何かの業だ、よ、覗いて見なよ」  與「覗けませんよ」  三「なぜ」  與「何うも檐先へ顔を出すと蚊が舞って来て、鼻孔から這入って口から飛出しそうな蚊で、アヽ何うもえれえ蚊だ、誰も居ねえようで」  三「然うか、じゃア這入って見よう」  と日暮方で薄暗いから土間の所から探り〳〵上って参ると、煎餅の様な薄っぺらの布団を一枚敷いて、其の上へ赤ん坊を抱いてゴロリと寝ております。蚊の多いに蚊帳もなし、蚊燻しもなし、暗くって薩張り分りません。  三「ハイ御免よ、おッ、此処に寝て居る、えゝお累〳〵私だよ兄だよ…三藏だよ」  累「は……はい」 四十  三「アヽ危ない、起きなくってもいゝよ、そうしていなよ、然うしてね、お前とは縁切に成って仕舞ったから、私が出這入りをする訳じゃアないが、縁は断れても血筋は断れぬと云う譬えで何となく、お前の迷から此様な難儀をする、何うかしてお前の迷が晴れて新吉と手が切れて家へ帰る様にしたいと思って居るから、もう一応お前の胸を聞きに来たので、新吉も居ない様子だから話に来た、エヽちょうど與助が供でね、あれもお前が小さい時分からの馴染だから、何うぞ一目逢って来度いと云って、與助此方へ這入りな」  與「ヘエ有難う、お累さん與助でござえますよ、お訪ね申してえけれども、旦那にも云う通り、新吉さんが憎まれ口イきくので、つい足イ遠くなって訪ねませんで、長え間塩梅が悪くってお困りだろう、何様な塩梅で、エヽ暗くって薩張分りませんが、些とお擦り申しましょう、おゝおゝ其様なに痩もしねえ」  三「それは己だよ」  與「然うかえお前さんか、暗くって分らねえから」  三「何しろ暗くって仕様がない、灯を点けなければならん、新吉は何処へ行ったえ」  累「はい有難う、兄さん能く入らしって下さいました、お目に掛られた義理ではありませんが、何卒もう私も長い事はございますまいから、一眼お目に掛って死にたいと存じましても、心がらでお招び申す事も出来ない身の上に成りましたも、皆お兄様やお母様の罰でございますが、心に掛けておりました願いが届きまして、能く入らしって下さいました、與助能く来てお呉れだね」  與「ヘエ、来てえけれどもねえ、何うも来られねえだ、新吉が憎まれ口きくでなア、実にはア仕様がねえだ、蚊が多いなア、まア」  三「新吉は何処へ行った、なに友達に誘われて遊びに行ったと、作藏と云う馬方と一緒に遊んで居やアがる、忌々しい奴だ、蚊帳は何処にある、蚊帳を釣りましょう、なに無いのかえ」  累「はい蚊帳どころではございません、着ております物を引剥いて持出しまして、売りますか質に入れますか、もう蚊帳も持出して売りました様子で」  三「呆れますな何うも、蚊帳を持出して売って仕舞ったと、この蚊の多いのによ」  與「だから鬼だって、自分は勝手三眛して居るから痒くもねえが、それはお累様ア憎いたって、現在赤ん坊が蚊に喰殺されても構わねえて云うなア心が鬼だねえ」  三「與助や家へ行って蚊帳を取って来て呉んな、家の六畳で釣る蚊帳が丁度宜い、あれは六七の蚊帳だから、あれで丁度よかろう、若しあれでなければ七八の大きいので宜い病人の中へ這入って擦る者も広い方が宜いから」  與「直き往って来ましょう」  三「早く往って」  與「ヘエ、お累様直往って参りますよ」  と親切な男で、飛ぶようにして蚊帳を取りに行きました。  三「暗くっていかぬから灯を点けましょう、何処に火打箱はあるのだえ、何所に、え、竈を持出して売ったア、呆れます何うも、家ではお飯も喰わねえ了簡、左様云う悪い奴だ」  と段々手探りで台所の隅へ行って、  三「アヽ茲に在った〳〵」  と漸く火打箱を取出しましてカチ〳〵打ちまするが、石は丸くなって火が出ない、漸くの事で火を附木に移し、破れ行燈を引出して灯を点け、善々お累の顔を見ると、実に今にも死のうかと思うほど痩衰えて、見る影はありませんから、兄三藏は驚きまして、  三「あゝお累、お前是は一通りの病気ではない余程の大病だよ、此の前に来た時は此様なに瘠てはいなかったが、何も食べさせはせず、薬一服煎じて呑ませる了簡もなく、出歩いてばっかり居る奴だから、自分には煮炊も出来ずお前が此様な病気でも見舞に来る人もないから知らせる人もなし、物を食べなけりゃア力が附かないから、是では仮令病気でなくとも死にます、見れば畳も持出して売りやアがったと見えて、根太が処々剥がれて、まア縁の下から草が出ているぜ、実に何うも酷いじゃアないか、えゝおい、彼の非道な新吉を何処までもお前亭主と思って慕う了簡かえ、お前は罰があたって居るのだよ、私がお母様にお気の毒だと思って種々云うと、お母様は私への義理だから、何の親同胞を捨てゝ出る様な者は娘とは思わぬ、敵同士だ、病気見舞にも行ってくれるな、彼様な奴は早く死ねばいゝ、と口では仰しゃるけれども、朝晩如来様に向って看経の末には、お累は大病でございます、何卒お累の病気全快を願います、新吉と手を切りまして、一つ処へ親子三人寄って笑顔を見て私も死度うございます、何卒お護りなすって下さいまし、と神様や仏様に無理な願掛をなさるも、お前が可愛いからで、親の心子知らずと云うのはお前の事で、さア今日は新吉とフッヽリ縁を切ります諦めますとお前が云えば、彼様な奴だから三十両か四十両の端金で手を切って、お前を家へ連れて行って、身体さえ丈夫になれば立派な処へ縁附ける、左も無ければ別家をしても宜い、彼奴に面当だからな、えゝ、今日は諦めますと云わなければなりませんよ、さア諦めたと云いなさい、えゝ、おい、云えないかえ、今日諦めなければ私はもう二度と再び顔は見ません、もう決して足踏は致しません、もう兄妹の是が別れだ、外に兄弟があるじゃアなし、お前と私ばかり、お前亭主を持たないうち何と云った、私が他へ縁付きましても、子というは兄さんと私ぎりだから、二人でお母様に孝行しようと云ったじゃアないか、して見れば親の有難い事も知っているだろう、さア、お前の身が大事だからいうのだよ、返答が出来ませんかよ、えゝお累、返答しなければ私は二度と再び来ませんよ」 四十一  累「はい〳〵」  と利かない手を漸と突いてガックリ起上り、兄三藏の膝の上へ手を載せて兄の顔を見る眼に溜る涙の雨はら〳〵と膝に翻れるのを、  三「これ〳〵たゞ泣いていては却って病に障るよ」  累「はいお兄様どうも重々の不孝でございました、まア是迄御丹精を受けました私が、お兄様のお言葉を背きましては、お母様へ猶々不孝を重ねまする因果者、此の節のように新吉が打って変って邪慳では、迚も側には居られません、少しばかり意見がましい事を申せば、手にあたる物でぶち打擲致しますから、小児が可愛くないかと膝の上へ此の坊を載せますと、エヽうるせえ、とこんな病身の小児を畳の上へ放り出します、それほど気に入らぬ女房なれば離縁して下さい、兄の方へ帰りましょうと申しますと、男の子は男に付くものだから、此の與之助は置いて行けと申します、彼様な鬼の様な人の側へ此の坊を置きましては、見す〳〵見殺しに致しまするようなものと、つい此の小僧に心が引かされて、お兄様やお母様に不孝を致します、せめて此の與之助が四歳か五歳に成ります迄何卒お待ち遊ばして」  三「其様な分らぬ事を云っては困りますよ、お前何うも、四歳か五歳になる迄お前の身体が保ちゃアしませんよ、能く考えて御覧、子を捨てる藪はあるが身を捨てる藪はないと云う譬の通りだ、置いて行けと云うなら置いて行って御覧、乳はなし、困るからやっぱりお前の方へ帰って来るよ、エヽ、私の云う事を聴かれませんか、是程に訳を云ってもお前は聴かれませんかえ、悪魔が魅入ったのだ、お前そんな心ではなかったが情ない了簡だ、私はもう二度と再び来ません、思えばお前は馬鹿になって了ったのだ、呆れます」  と腹が立つのでは有りませんが、妹が可愛い紛れに荒い意見をいうと、お累は取詰めて来まして癪を起し、  累「ウーン」  と虚空を掴んで横にぱったり倒れましたから、三藏は驚きまして、  三「エヽ困ったなア、少し小言を云うと癪を起すような小さい心でありながら、何う云うもので、此様なに強情を張るのだろう、新吉の野郎め、困ったな、水はねえかな、何卒これ、お累確かりしてくれよ、心を慥かに持たなければならんよ、此の大病の中で差込が来ては堪らん、確かりして」  と一人で手に余る処へ、帰って来たは與助、風呂敷包に蚊帳の大きなのを持って、  與「旦那取って来ました」  三「蚊帳を取って来たか、今お累が癪を起して気絶してしまった」  與「えゝまア、そりゃ、お累さん〳〵何うしただ、これお累さん、あゝまア歯ア喰いしばって、えらい顔になって、是はまア死んだに違えねえ、骨と皮ばかりで」  三「死んだのじゃアねえ今塞じて来たのだが、アヽこれっ切りに成るかしら、あゝもうとても助かるまい」  與「助からねえッてえ可哀そうに、これマア迚も駄目だねえ、お累さん私イ小せえうちから馴染ではござえませんか、私イ今ア蚊帳取りに行く間待っても宜かんべえがそれにマア死んでしまうとは情ねえ、彼様な悪徒野郎が側に附いて居るから、近所の者も見舞にも来ず、薬一服煎じて飲ませる看病人も無い、此様なになって死ぬのは誠に情ねえ訳で、何うして死んだかなア」  三「其様に泣いたって仕様があるものか、命数が尽きれば仕方がねえ、其様に女々しく泣くな、男らしくもねえ、腹一杯親同胞に不孝をして苦労を掛けて是で先立つたア此様な憎い奴はねえ、憫然とは思わない、悪いと思え、泣く事はねえ、泣くな」  與「泣くなって、泣いたって宜かんべえ、死んだ時でも泣かなきゃア泣く時はねえ、私い憫然でなんねえだよ、斯んな立派な兄さんがあっても、薬一服煎じて飲ませねえで憫然だと思うから泣くのだ、お前さんも我慢しずに泣くが宜え」  三「まア水でも飲まして見ようか」  與「まだ水も何も飲ませねえのかえ」  三「オイ己が水を飲ませるから其処を押えて、首を斯うやって、固く成って居るからの、力一ぱい、なに腕が折れると、死んで居るから構やアしねえ、宜いか、今水を飲ませるから、ウグ〳〵〳〵〳〵」  與「何だか云う事が分んねえ」  三「いけねえ、己が飲んでしまった」  與「仕様がねえな、含んでゝ喋れば飲込むだ、喋らずに」  と漸く三藏が口移しにすると、水が通ったと見えて、  累「ウム」  という。  三「アヽ與助、漸く水が通った」  與「通ったか、通れば助かります、お累様ア、確かりして、水が通ったから確かりして、お累さん〳〵」  三「お累確かりしろ、兄さんが此処に附いて居るから確かりしろよ」  與「お累様確かりおしなさえよ、與助が此処へ参って居りますから、お累様、確かりおしなさえよ」  累「ア…………」  三「其方へ退きなさい、頭を出すから、アヽ痛い」  與「大丈夫己来たからよう、アヽ好い塩梅だ気が付いた、アヽ……」  三「何だ手前気が付きゃアそれで好いや、気が付いて泣く奴があるものか」  與「嬉し涙で、もう大丈夫だ」  三「もう一杯飲むかえ、さア〳〵水を飲みなさい」 四十二  累「ハイ……気が付きました、何卒御免なされて下さい」  三「私が余り小言を云ったのは悪うございました、ついお前の身の上を思うばっかりに愚痴が出て、病人に小言を云って、病に障る様な事をして、兄さんが思い切りが悪いのだから、皆定まる約束と思って、もう何にも云いますまい、小言を云ったのは悪かった、堪忍して」  與「誰エ小言云った、能くねえ事た、貴方正直だから悪い、此の大病人に小言を云うってえ、此の馬鹿野郎め」  三「何だ馬鹿野郎とは」  與「けれども小言を云ったって、旦那様もお前様の身を案じてねえ、新吉さんと手が切れて家へ帰れるようにしたいと思うから意見を云うので、悪く思わねえ様に、よう〳〵」  三「蚊帳を持って来たから釣りましょう、恐ろしく蚊に喰われた、釣手があるかえ」  累「釣手は売られないから掛って居ります」  三「そうか」  と漸く二人で蚊帳を釣って病人の枕元を広くして、  三「あのね、今帰り掛けで持合せが少ないが、三両許りあるから是を小遣に置いて行きましょう、私も諦らめてもう何も云いません、若し小遣が無くなったら誰か頼んで取りによこしなよう、大事にしなよう、蚊帳を釣ったから、もういゝ、何も、もう其様な事を云うなえ、サ、行きましょう〳〵」  與「ヘエ参りましょう、じゃアねえ、お累さん行きますよ、旦那様が帰るというから私も帰るが、大事にしてお呉んなさえよ、よう、くよ〳〵思わなえが宜え、エヽ何うも仕様がねえ、帰りますよ」  三「ぐず〳〵云わずに先へ出なよ、出なったら出なよ、先へ出なてえに」  と兄が立ちに掛ると、利かない手を突いて漸くに這出して、蚊帳を斯う捲ってお累が出まして、行きに掛る兄の裾を押えたなり、声を振わして泣倒れまする。  三「其様にお前泣いたり何かすると毒だよ、さア蚊帳の中へ這入りな、坊が泣くよ、さア泣いているから這入んな」  累「お兄様只今まで重々の不孝を致しました、先立って済みませんが、迚も私は助かりません、何卒御立腹でもございましょうがお母様に只た一目お目に掛って、お詫をして死にとう存じますが、お母様にお出下さる様に貴方からお詫をなすって下さいませんか」  三「もうそんな事をおいいでないよ、お母様もまた是非来たがって居るのだからお連れ申す様にしましょう、其様な事をいわずにくよ〳〵せずに、さア〳〵蚊帳の中へ這入って居なよ」  與「大丈夫だよ、お母様ア己が連れて来るよ、其様な事を云うと悲しくって帰れねえから這入ってお呉んなさえよ、ア、赤ん坊が泣くよ、憫然に本当に泣けねえ」  三「アヽ鼻血が出た、與助、男の鼻血だから仔細はあるまいけれども、盆凹の毛を一本抜いて、ちり毛を抜くのは呪だから、アヽ痛え、其様に沢山抜く奴があるか、一掴抜いて」  與「沢山抜けば沢山験くと思って」  三「えゝ痛いワ、さあ〳〵行きますよ」  と名残惜いが、二人とも外へ出ると生憎気になる事ばかり。  三「アヽ痛」  與「何うかしましたかえ」  三「下駄の鼻緒が切れた」  與「横鼻緒が切れましたか、ヘエ」  三「與助何うも気になるなア、お累の病気はとても助かるまいよ」  與「ヘエ助かりませんか、憫然にねえ、早くお母様アおよこし申す様にしましょうか」  三「何しろ早く帰ろう」  と三藏が帰ると、入違えて帰って来たのは深見新吉。酒の機嫌で作藏を連れてヒョロ〳〵踉けながら帰って来て、  新「オイ作藏、今夜行かなければ悪かろうなア」  作「悪いって悪くねえって行かねば己叱られるだ、行って遣って下せえ、出掛に己ア肩叩えてなア、作さん今夜新吉さんを連れて来ないと打敲くよ、と云って斯う脊中ア打ったから、なに大丈夫だ、一杯飲んで日が暮れると来るから大丈夫だと云って、声掛けて来ただ」  新「いつも行く度に向で散財して、酒肴を取って貰って、余り気が利かねえ、些とは旨え物でも買って行こうと思うが、金がねえから仕方がねえ」  作「金エなくったって、向でもって小遣も己に呉れて、何うもハア新吉さんなら命までも入れ上げる積りだよ、と姉御が云ってるから、行って逢ってお遣りなせえよ」  新「明日はまた大生郷辺で一杯遣って日を暮さなければ成らねえ、仕方がねえから今日は家に寝ようと思って」  作「家に寝るって、己が困るから行ってよう」  新「コウ〳〵見ねえ〳〵」  作「何だか」  新「妙な事がある、己の家に蚊帳が釣ってある」  作「ハテ是は珍らしいなア、是は評判すべえ」 四十三  新「其様な余計な憎まれ口をきくなえ、今行違ったなア三藏だ、己が留守に来やアがって蚊帳ア釣って行きやアがったのだな、斯んな大きな蚊帳が入るもんじゃアねえ、蚊帳を窃と畳んで、離れた処え持って行って質に入れゝば、二両や三両は貸すから、病人に知れねえ様に持出そう」  作「だから金と云うものは何処から来るか知れねえなア、取るべえ」  新「手前ひょろ〳〵していていけねえ、病人が眼を覚すといけねえから」  と云うが、酔っておりますから階子に打突って、ドタリバタリ。是では誰にでも知れますが、新吉が病人の頭の上からソックリ蚊帳を取って持出そうとすると、お累は存じて居りますから、  累「旦那様お帰り遊ばせ」  新「アヽ眼が覚めたか」  累「はい、貴方此の蚊帳を何うなさいます」  新「何うするたって暑ッ苦しいよ、今友達を連れて来たが、狭い家にだゞっ広い大きな蚊帳を引摺り引廻して、風が這入らねえのか、暑くって仕様がねえから取るのだ」  累「坊が蚊に螫われて憫然でございますから、何卒それだけはお釣り遊ばして」  新「少し金が入用だからよ、これを持って行って金を借りるんだ、友達の交際で仕様がねえから持って行くよ」  累「はい、それをお持遊ばしては困りますから何卒お願いで」  新「お願いだって誰がこんな狭い家へ大きな蚊帳を引摺り引廻せと云った、茲は己の家だ、誰が蚊帳を釣った」  累「はい今日兄が通り掛りまして、手前は憎い奴だが如何にも坊が憫然だ、蚊ッ喰だらけになるから釣って遣ろうと申して家から取寄せて釣ってくれましたので」  新「それが己の気に入らねえのだ、よ、兄と己は縁が切れて居る、手前は己の女房だ、親同胞を捨てゝも亭主に附くと手前云った廉があるだろう、然うじゃアねえか、え、おい、縁の切れた兄を何故敷居を跨がせて入れた、それが己の気に入らねえ、兄の釣った蚊帳なれば猶気に入らねえ、気色が悪いから是を売って他の蚊帳にするのだ」  累「何卒お金子がお入用なれば兄が金を三両程置いて参りましたから、是をお持ち遊ばして、蚊帳だけは何卒」  新「金を置いて行った、そうか、どれ見せろ」  作「だから金は何処から出るか知んねえ、富貴天にあり牡丹餅棚にありと神道者が云う通りだ、おいサア行くべえ」  新「行くったって三両許りじゃア、塩噌に足りねえといけねえ、蚊帳も序に持って行って質に入れ様じゃアねえか」  作「マア蚊帳は止せよ、子供が蚊に喰われるからと姉御が云うから、三両取ったら堪忍して遣って、子供が憫然だから蚊帳は止せよ」  新「何だ弱え事を云うな」  作「弱えたって人間だから、お内儀さんが塩梅の悪いのに憫然ぐれえ知って居らア、止せよ」  新「憫然も何も有るもんか、何を云やアがるのだ此ン畜生、蚊帳を放さねえか」  累「それは旦那様お情のうございます、金をお持ち遊ばして其の上蚊帳までも持って行っては私は構いませんが坊が憫然で」  新「何だ坊は己の餓鬼だ、何だ放さねえかよう、此畜生め」  と拳を固めて病人の頬をポカリ〳〵撲つから、是を見て居る作藏も身の毛立つようで、  作「止せよ兄貴、己酒の酔も何も醒めて仕舞った、兄貴止せよ、姉御、見込んだら放さねえ男だから、なア、仕方がねえから放しなさえ、だが、敲くのは止せよ」  新「なに、此畜生め、オイ頭の兀てる所を打つと、手が粘って変な心持がするから、棒か何か無えか、其処に麁朶があらア、其の麁朶を取ってくんな」  作「止せよ〳〵、麁朶はお願いだから止せよ」  新「なに此畜生撲るぞ」  作「姉御麁朶を取って出さねえと己を撲るから、放すが宜え、見込まれたら蚊帳は助からねえからよ」  新「サア出せ、出さねえと撲るぞ、厭でも撲るぞ、此度ア手じゃアねえ薪だぞ、放さねえか」  累「アヽお情ない、新吉さん此の蚊帳は私が死んでも放しません」  と縋りつくのを五つ六つ続け打にする。泣転がる処を無理に取ろうとするから、ピリ〳〵と蚊帳が裂ける生爪が剥がれる。作藏は、  作「南無阿弥陀仏〳〵、酷い事をするなア、顔は綺麗だが、怖かねえ事をする、怖えなア」  新「サア此の蚊帳持って行こう」  作「アレ〳〵」  新「なに」  作「爪がよう」  新「どう、違えねえ縋り付きやアがるから生爪が剥がれた、厭な色だな、血が付いて居らア、作藏舐めろ」  作「厭だ、よせ、虫持じゃア有るめえし、爪え喰う奴があるもんか」  新「此の蚊帳持って往ったら三両か五両も貸すか」  作「貸くもんか」  新「爪を込んで借りよう」  作「琴の爪じゃアあるめえし」  とずう〳〵しい奴で、其の蚊帳を肩に引掛けて出て行きます。お累は出口へ斯う這出したが、口惜しいと見えて、  累「エヽ新吉さん」  と云うと、  新「何をいやアがる」  とツカ〳〵と立ち戻って来て、脇に掛って有った薬鑵を取って沸湯を口から掛けると、現在我が子與之助の顔へ掛ったから、子供は、  子供「ヒー」  と二声三声泣入ったのが此の世のなごり。  累「鬼の様なるお前さん」  新「何をいやアがるのだ」  と持って居た薬鑵を投げると、双に頭から肩へ沸湯を浴せたからお累は泣倒れる。新吉は構わずに作藏を連れて出て参りましたが、斯う憎くなると云うのは、仏説でいう悪因縁で、心から鬼は有りませんが、憎い〳〵と思って居る処から自然と斯様な事になります。 四十四  新吉は蚊帳を持って出まして、是を金にして作藏と二人でお賤の宅へしけ込み、こっそり酒宴を致して居ります、其の内に段々と作藏が酔って来ると、馬方でございますから、野良で話を為つけて居りますから、つい声が大きくなる。  新「おい作、手前酔うと大きな声を出して困る、些と静かにしろ」  作「静かにたって、大丈夫だ人子一人通らねえ土手下の一軒家田や畑で懸隔って誰も通りゃアしねえから心配ねえよ」  賤「いゝよ、私はまた作さんの酔ったのは可笑しいよ余念が無くって、お前さん慾の無い人だよ」  作「慾が無い事アねえ、是で慾張って居るだが、何方かというと足癖の悪い馬ア曳張って、下り坂を歩くより、兄いと二人で此処え来て、斯う遣って酔って居れば好いからね、先刻は己ア酔が醒めたね」  新「止せえ、先刻の話は止せよ」  作「止せたってお賤さん、お前マア新吉さんは可愛いゝ人だと思って居るから、首尾して、他人にも知んねえように白ばっくれて寄せるけれども、新吉さんが此処え来るってえ心配は是りア己が魂消た事がある、今日ね」  新「そんな詰らねえ事をいうな手前は酔うとお喋りをしていけねえ」  作「お喋りったって、一杯飲んで図に乗っていうのだ、エヽ、おい、それでねえ、マア一杯飲んで帰った処が、銭イなえと云うから、無くったって好いや、何でもお賤さんの処へ行ってお呉んなせえというと、いつも行って馳走になって小遣貰って帰るべえ能でもねえじゃアねえか、何卒己も偶にア旨え物でも買って行って、お賤に食わしてえって、其処はソレ情合だからそんな事を云ったゞが、いゝや旨え物持って行くたって無えものはハア駄目だ、お賤さんの方が、旨え物拵れえて待って居るから今夜呼んで来てくんなせえよと、己が頼まれたから構わねえじゃアねえかと云っても、金が無ければてえので家へ帰ると、家に蚊帳が釣って有るだ」  新「よせ〳〵、そんな話は止せよ」  作「話したって宜かんべえ、それで其の蚊帳質屋へ持って行こうって取りに掛ると、女房は塩梅が悪いし赤ん坊は寝て居るし」  新「コレよせ、よさねえか」  作「云ったって宜え、そんなに小言云わねえが宜え、蚊帳へ縋り付いて、己ア宜えが子供が蚊に喰われて憫然だから何卒よう、と云ってハア蚊帳に縋り付くだ、それを無理に引張ったから、お前生爪エ剥したゞ」  新「おい冗談じゃアねえ、折角の興が醒めらア、止せ、擽ぐるぞ」  作「擽ぐッちゃアいけねえ」  新「お喋りはよせ」  作「宜えやな」  新「冗談云うな、喋ると口を押えるぞ」  作「よせ、口を押えちゃアいけねえ、エ、おいお賤さん、其の爪を己がに喰えって、誰が爪エ食う奴が有るもんかてえと、己が口へおッぺし込んだゞ、そりゃアまア宜えが、お前薬鑵を」  新「冗談はよせ」  作「いゝや、よせよ擽ぐってえ」  新「寝ッちまいな〳〵」  と無理に欺して部屋へ連れて行って寝かしてしまいました。それから二人も寝る仕度になりますと、何う云う事か其の晩は酒の機嫌でお賤がすや〳〵能く寝ます。雨はどうどと車軸を流す様に降って来ました。彼是八ツ時でもあろうと云う時刻に、表の戸をトン〳〵。 「御免なさい〳〵」  新「お賤〳〵誰か表を叩くよ、能く寝るなア、お賤〳〵」  賤「あいよ、あゝ眠い、何うしたのか今夜の様に眠いと思った事はないよ」  新「誰か表を叩いて居る」  賤「はい、何方」 「一寸御免なすって、私でございます」  新「何だ庭の方から来たようだぜ」  賤「今明けますよ、何方でございますか名を云って下さらないでは困りますが」 「ヘイ新吉の家内、累でございます」  賤「え、お内儀が来たとさア、はい只今」  新「よしねえ、来る訳はねえ、病人で居るのだもの」  賤「お前逢って」  新「来る気遣ねえよ」  賤「気遣がないったって、お内儀が迎いに来たのだから嬉しそうな顔付をしてさ」  新「冗談じゃアねえ、嬉しい事も何もあるもんか、来る気遣ねえよ」  賤「只今開けますよ、大事な御亭主を引留めて済みませんねえ」  と仇口をきゝながら、がらりと明けますと、どん〳〵降る中をびしょ濡になって、利かない身体で赤ん坊を抱いて漸々と縁側から、  累「御免なさい」  と這入ったから、  新「何だって此の降る中を来たのだなア何うしたのだ」  累「貴方がお賤さんでございますか、駈違ってお目に掛りませんが、毎度新吉が上りまして、御厄介様になりますから、何卒一度はお目に掛ってお礼を申し度いと存じておりましても、何分にも子供はございますし、私も疾うより不快でおりました故、御無沙汰を致しました」  賤「誠にまア何うも降る中を夜中にお出なすって、そんな事を仰しゃっては困りますねえ、新吉さんも江戸からのお馴染でございますから、私は此方へ参っても馴染も無いもんでございますから、遊びにお出なすって下さいと、私が申しました、それから旦那も誠に贔屓にして、斯うやってお出なさるが、御亭主を引留めて遊ばしたと云えば、お前さんも心持が快くは有りますまいけれども、是に付いては種々深い訳がある事でございますが、それは只今何も云いません、新吉さん折角迎いにお出でなすったからお帰りよ」  新「帰ることはねえ、おい、お前冗談じゃアねえ、そんな形をして来て見っとも無い、亭主の恥を晒しに来る様なものだ、エ何だなア、おい、此の降る中を、お前なんだ逆上せて居るぜ、*たじれて居るなア」 *「のぼせて気が変になる。むちゅうになって気ちがいじみる」 四十五  累「はい、たじれたか知りません、私は何うなっても宜しゅうございますが、貴方の児だから殺とすも何共勝手になさいだが、表向には出来ませんから、此の坊やアだけは今晩夜が明けないうち法蔵寺様へでも願って埋葬を致したいと存じます、誰も宅へ参り人はなし、私が此の病人では何う致す事も出来ませんから、何卒一寸お帰りなすって、お埋葬だけをなすって、然うして又此方へ遊びに入らしって下さい、お賤さん、私が申しますと宅が立腹致しますから、何卒あなたから、今夜だけ帰って子供の始末を付けてやれと仰しゃって」  賤「はい、お帰りよ新吉さんよう」  新「帰れたって夜中に仕様がねえ」  賤「夜中だって用があって迎いに来たのだからお帰りよ、旨く云って居ても本木に優る梢木は無いという事だからねえ、お内儀に迎いに来られゝば心持が宜いねえ、旨く云ったってにこ〳〵顔付に見えるよ」  新「何がにこ〳〵、冗談じゃアねえ、帰らねえ、おい」  累「はい、何卒お前さん坊の始末を」  新「始末も何もねえ、行かねえか」  賤「其様に云わずにお前お帰りよ、折角お迎いにお出なすったに誠にお気の毒様、大事な御亭主を引留めてね、さアお帰りよ、手を引かれてよ」  新「何を云うのだ、帰らねえか」  と、さア癇癪に障ったから新吉は、突然利かない身体の女房お累の胸倉を取るが早いか、どんと突くと縁側から赤ん坊を抱いたなりコロ〳〵と転がり落ち、  累「あゝ情ない、新吉さん、今夜帰って下さらんと此の児の始末が出来ません」  と泥だらけの姿で這上るところを突飛ばすと仰向に倒れる、と構わずピタリと戸を閉てゝ、下し桟をして仕舞ったから、表ではお累がワッと泣き倒れまする。此の時雨は愈々烈しくドウドッと降出します。  新「エヽ気色が悪い、酒を出しねえ」  賤「酒をったって私は困るよ、彼様な酷いことをして、一寸帰ってお遣りよ」  新「うまく云ってやアがる、酒を出しねえ、冷たくっても宜いや」  と燗冷しの酒を湯呑に八分目ばかりも酌いで飲み、  新「お前も飲みねえ」  と互に飲んで床につくと、何ういう訳か其の晩は、お賤が枕を付けると、常になくすや〳〵能く寝ます。小川から雨の落込んで来る音がどう〳〵といいます。夜は深けて一際しんと致しますと、新吉は何うも寝付かれません。もう小一時も経ったかと思うと、二畳の部屋に寝て居りました馬方の作藏が魘れる声が、  作「ウーン、アア……」  新「忌えましい奴だな、此畜生、作藏〳〵おい作や、魘れて居るぜ、作藏、眼を覚まさねえかよ、作藏、夢を見て居るのだ」  作「エ、ウウ、ウンア」  新「忌えましい畜生だ、やい」  作「ヘエ、あゝ」  新「胆を潰さア、冗談じゃアねえ寝惚けるな、お賤が眼を覚さア」  作「寝惚けたのじゃアねえよ」  新「何うした」  作「己が彼処に寝て居るとお前、裏の方の竹を打付けた窓がある、彼処のお前雨戸を明けて、何うして這入ったかと見ると、お前の処の姉御、お累さんが赤ん坊を抱いて、ずぶ濡れで、痩せた手を己の胸の上へ載せて、よう新吉さんを帰しておくんなさいよ、新吉さんを帰しておくんなさいよと云って、己が胸を押圧れる時の、怖えの怖くねえのって、己はせつなくって口イ利けなかった」  新「夢を見たのだよ、種々な事で気を揉むから然う云う夢を見るのだ、夢だよ」  作「夢で無えよ、あゝ彼処の二畳の隅に樽があるだろう」  新「ウン」  作「樽の上に簑が掛けてある」  新「ウン、ある」  作「簑の掛けてある処に赤ん坊を抱いて立って居るよう」  新「よせ畜生、気の故だ」  作「気の故じゃア無え、あゝ怖かねえ、あれ〳〵」  新「おい潜り込んで己の処へ這入って来ちゃアいけねえ、仕様がねえなア」  とん〳〵、 「御免なさい〳〵」  新「誰だい」  作「また来た、あゝ怖っかねえ〳〵」  新「誰だい」  男「えゝ新吉さんは此方にお出なさいますか、ちょっくら帰って、家は騒ぎが出来ました、お累さんが飛んだ事になりましたから方々捜して居たんだ、直に帰って下せえ」  作「誰だか」  新「誰だか見な」  作「怖くって外へは出られねえ、皆此処に居るだけれども、中々歩く訳にいかねえ、足イすくんで歩かれねえ」 四十六  新「何方でございます」  とガラリと明けて見ると村の者。  男「やア新吉さん、居たか、あゝ好かった、さア帰って、気の毒とも何とも姉御の始末が付かねえ、何うも捜したの捜さねえのって直ぐ帰らないではいけねえ、届ける所へ届けて、名主様へも話イしてね、困るから、さア帰って」  と云われ、新吉は何の事だかとんと分りませんが、致し方なく夜明け方に帰りますると、情ないかな、女房お累は、草苅鎌の研澄したので咽喉笛を掻切って、片手に子供を抱いたなり死んで居るから、ぞっとする程凄かったが、仕方がないから気が狂ってなどと云立て、先ず名主へも届けて野辺送りをする事になりました。それからは懲りて三藏も中々容易に寄り付きません。新吉もお累が死んで仕舞った後は、三藏から内所で金を送る事もなし、別に見当がないから宿替をしようと、欲しがる人に悉皆家を譲って、時々お賤の処へしけ込みます。其の間は仕方がないから、水街道へ参って宿屋へ泊り、大生郷の宇治の里へ参って泊りなどして、惣右衞門が留守だと近々しけ込みます。世間でもかんづいて居るから新吉は憎まれ者で、誰も付合う人がない。横曾根辺の者は新吉に逢っても挨拶もせぬようになりました。新吉はどん〳〵降る中を潜っと忍んでお賤の処へ来ました。  新「おい〳〵お賤さん」  賤「あい新吉さんかえ」  新「あゝ明けておくれな」  賤「あい能くお出だね、傘なしかえ」  新「傘は有ったが借傘で、柄漏がして、差しても差さねえでも同じ事でずぶ濡だ、旦那の病気は何うだえ」  賤「お前がちょい〳〵見舞に来てくれるので、新吉は親切な者だ心に掛けてちょく〳〵来て呉れるが感心だって、悦んで居るが、年が年だからねえ、何だって五十五だもの、病気疲れですっかり寝付いて居るからお上りよ」  新「そうかえ夜来るのも極りが悪い様だが、実は少し小遣が無くなって、外へ泊る訳にいかねえから、看病かた〴〵来たのだが、能く御新造さんが承知で旦那を此方へよこして置くね」  賤「なに碌な看病もしないけれども、お宅では気に入らないと云ってね、気に入った処で看病をして貰う方がよいと人が来ると憎まれ口を利くから、お内儀さんも若旦那も此の二三日来ないから、私一人で看病するのだから実は困るよ、困るけれども其の代りには首尾がよくって、種々旦那に話して置いた事もあるのだからね、遺言状まで私は頼んで書いて貰って置いたから、今能く寝付いて居るし、遊んでおいでな、揺ぶっても病気疲れで能く寝て居るから、茲で何を云っても旦那に聞える気遣は無し、他に誰も居ないから、真に差向いで話しするがね、私は旦那に受出されて此処へ来て、お前とは江戸に居る時分から、まア心易いが、私の方で彼様事を云出してから、お前も厭々ながらお内儀まであゝ云う訳になって苦労さした事も忘れやアしないから、私は何処迄もお前に厭がられても縋りつく了簡だが、若しお前に厭がられ、見捨てられると困るが、見捨てないというお前の証拠が見度いわ」  新「見捨てるも見捨てないも実はお前己だって身寄頼りもない身体、今は斯うなって誰も鼻撮みで新吉と云うと他人は恐気を振って居るのだ、長く此処に居る気もないから、寧そ土地を変えて常陸の方へでも行こうか、上州の方へ行こうか、それとも江戸へ帰ろうかと思う事も有るが、お前が此処に居る中は何うしても離れる事は出来ないが、村中で憎まれてるから土手に待伏でもして居て向臑でも引払われやアしねえかと心配でのう」  賤「私も一緒に行って仕舞い度いが、今旦那が死掛って居るから、旦那が死んで仕舞えば行かれるが、今直には行けない、大きな声では云えないけれども、私は形見分の事も遺言状に書かして置いたし、お前の事も書かしてね、其処は旨く行って居るけれども、旦那が癒ればまだ五十五だもの、其様にお爺さんでもないから、達者になりゃア何時迄も一緒に居て、ベン〳〵とおん爺の機嫌を取らなければならないが、新吉さん無理な事を頼む様だが、お前私を見捨てないと云う証拠を見せるならば今夜見せてお呉れ」  新「何うしよう」  賤「うちの旦那を殺してお呉れな」 四十七  新「殺せって其様な事は出来ねえ」  賤「なぜ〳〵なぜ出来ないの」  新「人情として出来ねえ、お前の執成が宜いから、旦那は己が来ると、新吉手前の様に親切な者はねえ、小遣を持って行け、独身では困るだろう、此の帯は手前に遣る着物も遣ると、仮令着古した物でも真に親切にして呉れて、旦那の顔を見ては何うしても殺せないよ」  賤「殺せます、だから新吉さん、私はお前が可愛いと云う情のない事を知って居るよ」  新「情がないとは」  賤「情が有るなら殺してお呉れよ」  新「情が有るから殺せないのだ」  賤「何を云うのだね、じれったいよ、お出でったらお出でよ」  然うなると婦人の方が度胸の能いもので、新吉の手を引いて病間へ窃っと忍んで参りますと、惣右衞門は病気疲れでグッスリと寝入端でございます。ブル〳〵慄えて居る新吉に構わず、細引を取って向の柱へ結び付け、惣右衞門の側へ来て寝息を窺がって、起るか起きぬか試に小声で、  賤「旦那〳〵」  と二声三声呼んでみたが、グウ〴〵と鼾が途断れませんから、窃と襟の間へ細引を挟み、また此方へ綾に取って、お賤は新吉に眼くばせをするから、新吉ももう仕方がないと度胸を据えて、細引を手に捲き付けて足を踏張る。お賤は枕を押えて、  賤「旦那え〳〵」  と云いながら、枕を引く途端、新吉は力に任して、  新「うーム」  と引くと仰向に寝たなり虚空を掴んで、  惣「ウーン」  賤「じれったいね新吉さん、グッと斯うお引きよ、もう一つお引きよ」  新「うむ」  と又引く途端新吉は滑って後の柱で頭をコツン。  新「アイタ」  賤「アヽじれったいね」  と有合せた小杉紙を台処で三帖ばかり濡して来て、ピッタリと惣右衞門の顔へ当てがって暫く置いた。新吉はそれ程の悪党でもないからブル〳〵慄えて居りまする。濡紙を取って呼吸を見るとパッタリ息は絶えた様子細引を取って見ると、咽喉頸に細引で縊りました痕が二本付いて居りますから、手の掌で水を付けては頻りに揉療治を始めました。すると此の痕は少し消えた様な塩梅。  賤「さアもう大丈夫だ、新吉さんお前は今夜帰って、そうしてこれ〳〵にするのだから、明日お前悟られない様に度胸を据えて来てお呉れよ」  といって新吉を帰して、すっぱり跡方の始末を付けて、直に自分は本家へ跣足で駈込んで行きまして  賤「旦那様がむずかしくなりましたからお出なすって、まだ息は有りますが御様子が変ったから」  というと驚きまして、本家では悴惣二郎から弟息子の惣吉にお内儀さん村の年寄が駈けて来て見ると間に合いません間に合わない訳で、殺した奴が知らしたのでございますから。是非なく是から遺言状をというので出して見ると、其の書置に、私は老年の病気だから明日が日も知れん、若し私が亡い後は家督相続は惣二郎、又弟惣吉は相当の処へ惣二郎の眼識を以て養子に遣って呉れ、形見分は是々、何事も年寄作右衞門と相談の上事を謀る様、お賤は身寄頼りもない者、無理無体に身請をして連れて来た者であるから、私が死ねば皆に憎まれて此の土地にいられまいから、元々の通り江戸へ帰して遣ってくれ、帰る時は必ず金を五十両付けて帰してくれ、形見分はお賤に是々、新吉は折々見舞に来る親切な男なれども、お賤と中がよいから、村方の者は密通でもしている様に思うが、彼は江戸からの親しい男で、左様な訳はない、親切な者で有る事は見抜いているから、己が葬式は、本葬は後でしても、遺骸を埋めるのは内葬にして、湯灌は新吉一人に申し付ける、外の者は親類でも手を付ける事は相成らぬ。という妙な書置でございますが、田舎は堅いから、其の通りに先ずお寺様へ知らせに遣り、夜に入り内葬だから湯灌に成りましても新吉一人、湯灌は一人では出来ぬもので、早桶を湯灌場に置いて、誰も手を付けては成らぬというのだから、  新「皆さん入らしっては困りますよ、遺言に背きますから」 「実にお前は仕合せだ」  と年寄から親類の者も本堂に控えて居る。是から早桶の蓋を取ると合掌を組んだなり、惣右衞門の仏様は斯う首を垂れて居るのを見ると、新吉は現在自分が殺したと思うとおど〳〵して手が附けられません。殊に一人では出来ないがと思って居る処へ、土手の甚藏という男、是は新吉と一旦兄弟分に成りました悪漢。  甚「新吉〳〵」  新「兄いか」  甚「一寸顔出しをしたのだが、本家へ行ったらお内儀さんが泣いているし、誠にお愁傷でのう、惜しい旦那を殺した、えゝ此の位え物の解ったあんな名主は近村にねえ善い人だが、新吉、手前仕合せだな、一人で湯灌を言付けられて、形見分もたんまりと、エおい、おつう遣っているぜ」  新「却って有難迷惑で一人で困ってるのだ」  甚「困るたって新吉、一人で湯灌は馴れなくっては出来ねえ、おい、それじゃアいかねえ、内所で己が手伝って遣ろうか」  新「じゃア内所で遣ってくんねえ」 四十八  甚「弓張なざア其方の羽目へ指しねえな、提灯をよ、盥を伏せて置いて、仏様の腋の下へ手を入れて、ずうッと遣って、盥の際で早桶を横にするとずうッと足が出る、足を盥の上へ載せて、胡坐をかゝせて膝で押えるのだ、自分の胸の処へ仏様の頭を押付けて、肋骨まで洗うのだ」  新「一人じゃア出来ねえ」  甚「己は馴れていらア、手伝って遣ろう」  新「何う」  甚「何うだって盥を伏せるのだよ、提灯を其方へ、えゝ暗え心を切りねえ、えゝ出しねえ、出た〳〵オヽ冷てえなア、お手伝いでござえ、早桶をグッと引くのだ」  新「何う」  甚「何うたってグッと力に任して、えゝ気味を悪がるな」  新「あゝ出た〳〵」  甚「出たって出したのだ、さア胡座をかゝせな、盥の上へ、宜し〳〵そりゃ来た水を、水だよ、湯灌をするのに水が汲んでねえのか、仕様がねえなア、早く水を持って来ねえ」  と云うから新吉はブル〳〵慄えながら二つの手桶を提げて井戸端へ行く。  甚「旦那お手伝でげすよ」  と抱上げて見ると、仏様の首がガックリ垂れると、何う云うものか惣右衞門の鼻からタラ〳〵と鼻血が流れました。  甚「おや血が出た、身寄か親類が来ると血が出るというが己は身寄親類でもねえが、何うして血が出るか、おゝ恐ろしく片方から出るなア」  と仰向にして仏様の首を見ると、時過ったから前よりは判然と黒ずんだ紫色に細引の痕が二本有るから、甚藏はジーッと暫く見て居る処へ手桶を提げて新吉がヒョロ〳〵遣って来て、  新「兄い水を持って来たよ」  甚「水を持って来たか此方へ入れて戸を締めなよ」  新「な何だ」  甚「此処へ来て見やア、仏様の顔を見やア」  新「見たって仕様がねえ」  甚「見やア此の鼻血をよ」  新「いけねえなア、其様なものを見たって仕様がねえ、悪い悪戯アするなア」  甚「悪いたって己がしたのじゃアねえ、自然に出たのだ新吉咽喉頸に筋が出て居るな、此の筋を見や」  新「エ、筋が有ったっても構わねえ、水を掛けて早く埋めよう、おい早く納めよう」  甚「納められるもんかえ、やい、是りゃア旦那は病気で死んだのじゃアねえ変死だ、咽喉頸に筋があり、鼻血が出れば何奴か縊り殺した奴が有るに違えねえ」  新「何だ人聴が悪いや、大きな声をしなさんな、仏様の為にならねえ」  甚「手前も己も旦那には御恩があらア、其の旦那の変死を此の儘に埋めちゃア済まねえ、誰か此の村に居る奴が殺したに違えねえから、敵を捜して、手前も己も旦那の敵を取って恩返しを仕なけりゃア済まねえ、代官へでも何処へでも引張って行くのだ、本堂に若旦那が居るから若旦那に一寸と云って呼んで……」  新「何だな其様な事をして兄い困るよ、藪を突付いて蛇を出す様な事をいっちゃア困らアな、今お経を誦げてるから、エーおい兄い、それはそれにして埋めて仕舞おう」  甚「埋められるもんかえ、それとも新吉、実は兄い私が殺したんだと一言云やア黙って埋めて遣ろう」  新「何を詰らねえ事を、な何を、思い掛けねえ事をいうじゃアねえか何だって旦那を」  甚「手前が殺したんでなけりゃア外に敵が有るのだから敵討をしようじゃアねえか、手前お賤と疾うから深え中で逢引するなア種が上って居るが、手前は度胸がなくっても彼の女ア度胸が宜から殺してくれエといい兼ねゝえ、キュウと遣ったな」  新「何うも、な何だってそれは、何うも、エおい兄い外の事と違って大恩人だもの、何ういう訳で思い違えて其様な事を、え、おい兄い」  甚「何をいやアがるのだ、手前が殺さなけりゃア殺さねえで宜いやア、手前と己は兄弟分の誼が有るから打明けて殺したと云やア黙って口を拭いて埋めるが、外に敵が有れば敵討だ、マア仏様を本堂へ持って行こう」  新「これドヽ何うも困るナアおい兄い、え、兄い表向にすれば大変な事に成るよ」  甚「え、成ったって宜いや、不人情な事をいうな、手前が殺したなら黙って埋るてえのだ、殺したら殺したと云いねえ、殺したか」  新「仕様がねえな、何うも己が殺したという訳じゃアねえが、それは、困って仕舞ったなア、唯だ一寸手伝ったのだ」  甚「なに手伝った、じゃアお賤が遣ったか」  新「それには種々訳が有るので、唯縄を引張ったばかりで」  甚「それで宜しい、引張ったばかりで沢山だ、お賤が引くなア女の力じゃア足りねえから、新吉さん此の縄を締めてなざア能く有る形だ、宜しい、よし〳〵早く水を掛けやア」  とザブリ水を打掛けて其の儘にお香剃の真似をして、暗いうちに葬りに成りましたから、誰有って知る者はございませんが、此の種を知っている者は土手の甚藏ばかり、七日が過ると土手の甚藏が賭博に負けて素っ裸体になり、寒いから犢鼻褌の上に馬の腹掛を引掛けて妙な形に成りまして、お賤の処へ参り、  甚「え、御免なせえ」  と是から強請になる処、一寸一息吐きまして。 四十九  土手の甚藏がお賤の宅へ参りましたのは、七日も過ぎましてから、ほとぼりの冷めた時分行くのは巧の深い奴でございます。丁度九月十一日で、余程寒いから素肌へ馬の腹掛を巻付けましたから、太輪に抱茗荷の紋が肩の処へ出て居ります、妙な姿を致して、  甚「ヘエ御免なせえ、ヘエ今日は」  賤「ハイ何方え」  甚「ヘエお賤さん御免なさえ、今日は」  賤「おや、新吉さん土手の甚藏さんが来たよ」  新「えゝ土手の甚藏」  新吉は他人が来ると火鉢の側に食客の様な風をして居るが、人が帰って仕舞えば亭主振って居りますが、甚藏と聞くと慄っとする程で、心の中で驚きましたが、眼をパチ〳〵して火鉢の側に小さく成って居りますと、  甚「誠に続いて好い塩梅にお天気で」  賤「はい、さア、まア一服お喫りなさいよ」  甚「ヘエ御免なさえ、斯ういう始末でねえお賤さん、御本家へもお悔に上りましたが、旦那がお亡なりで嘸もう御愁傷でございましょう、ヘエ私も世話に成った旦那で、平常優しくして甚藏や悪い事をすると村へ置かねえぞと、親切に意見をいって、喧しい事は喧しいけれども、時々小遣もおくんなすってね、善い人で、惜まれる人は早く死ぬと云うが、五十五じゃア定命とは云われねえ位で嘸お前さんもお力落しで、新吉此処に居るのか手前、え、おい」  新「兄い此方へお上りなさい」  甚「お賤さん、新吉がお前さんの処へ来て御厄介で、家は彼様な塩梅に成って此方より外に居る処が無えから、宜い事にして、新吉が寝泊りをして居るというのだが、私も新吉もお賤さんもお互に江戸子で、妙なもので、村の者じゃア話しが合わねえから新吉と私は兄弟分になり、兄弟分の誼で、互に銭がねえといやア、ソレ持ってけというように腹の中をサックリ割った間柄、新吉の事を悪くいう奴が有ると、何でえといって喧嘩もする様な訳で、ヘエ有難う、カラもう何うも仕様がねえ、新吉、物がヘマに行ってな、此の通り人間が馬の腹掛を借りて着て居る様に成っちゃア意気地はねえ、馬の腹掛で寒さを凌ぐので、ヘエ有がとう、好いお宅でげすねえ、私は初めて来たので」  賤「然うですか、なに好い家を拵えて下すっても仕方がござりませんよ、斯う急に、旦那様がお逝去に成ろうとは思いませんでねえ、何時までも此処に住んで居る了簡で居りましたが、旦那が亡なられては仕方が有りません。他に行く処はなし、まア生れ故郷の江戸へ帰る様な事に成りますが、本当に夢の様な心持で、あゝ詰らないものだと考え出すと悲しく成ってね」  甚「そうでしょう、是は何うも実になア、新吉お賤さんは何の位え力落だか知れやアしねえ、ナア、ヘエ有難う良いお茶だねえ、此様な良い茶を村の奴に飲したって分らねえ、ヘエ有難う、お賤さん誠に申し兼ねた訳でげすがねえ、旦那が達者でいらっしゃれば黙って御無心申すのだが、此の通りの始末で、からモウ仕様がねえ、何うかお願いでございますが些と許り小遣をお貰え申し度が、何うか些と許り借金を返して江戸へでも帰りてえ了簡も有るのですが、何うか新吉誠に無理だがお賤さんに願ってねえ、姉さんお願いでげすが些とばかり小遣をねえ」  賤「はい困りますねえ、旦那が亡なりまして私は小遣も何もないのですが、沢山の事は出来ませんが、真の志ばかりで誠に少しばかりでございますが」  甚「イヽエもう」  賤「真の少しばかりでお足しには成りますまいが、一杯召上って」  甚「ヘエ有難う、ヘエ」  と開けて見ると二朱金で二個。  甚「是はお賤さんたった一分で」  賤「はい」  甚「一分や二分じゃア借りたって私の身の行立つ訳は有りませんねえ、借金だらけだから些と眼鼻を付けて私も何うか堅気に成りてえと思ってお願い申すのだが、それを一分ばかり貰っても法が付かねえから、少し眼鼻の付く様にモウ些とばかり何うかね」  賤「おや一分では少ないと仰しゃるの、そう、お気の毒様出来ません、私どもは深川に居ります時にも随分銭貰いは来ましたが、一分遣れば大概帰りました、一分より余計は上る訳にゃア参りません、はい女の身の上で有りますからねハイ、一分で少ないと仰しゃれば、身寄親類ではなし上げる訳は有りませんが、そうして幾ら欲いと仰しゃるのでございますえ」  甚「幾らカクラてえお強請申すのでげすから貰う方で限りはねえ、幾ら多くっても宜いが、お賤さんの方は沢山遣りたくねえというのが当然の話だが、借金の眼鼻を付けて身の立つ様にして貰うにゃア、何様な事をしても三拾両貰わなけりゃア追付かねえから、三拾両お借り申してえのさ、ねえ何うか」  賤「何だえ三拾両呆れ返って仕舞うよ、女と思って馬鹿にしてお呉れでないよ、何だエお前さんは、お前さんと私は何だエ、碌にお目に掛った事も有りませんよ、女一人と思って馬鹿にして三拾両、ハイ、そうですかと誰が貸しますえ、訝しな事をいって、なん、なん、なん何をお前さんに三拾両お金を貸す縁がないでは有りませんか」 五十  甚「それは縁はない、縁はないがね、縁を付けりゃア付かねえ事も有りますめえ、ねえ新吉と私は兄弟分、ねえ其の新吉が此方様へ御厄介に成って居るもの其の縁で来た私さ」  賤「新吉さんは兄弟分か知りませんが、私はお前さんを知りません、新吉さん帰ってお呉んなさいヨウ、呆れらア馬鹿〳〵しい、人を馬鹿にして三拾両なんて誰が貸す奴が有るものか、三拾両貸す様な私はお前さんに弱い尻尾を見られて居れば仕方がないが、私の家で情交の仲宿をしたとか博奕の堂敷でも為たなら、怖いから貸す事も有るが、何もお前さん方に三拾両の大金を強請られる因縁は有りません、帰ってお呉れ、出来ませんよ、ハイ三文も出来ませんよ」  甚「然う腹を立っちゃア仕様がねえ、え、おい、だがねえお賤さん、人間が馬の腹掛を着て来る位えの恥を明かしてお前さんに頼むのだ、私も此の大の野郎が両手を突いて斯んな様アしてお頼み申すのだから能々の事、宜いかね、それにたった一分じゃア法が付かねえ、私の様な大きな野郎が手を突いてのお頼みだね、此の身体を打毀して薪にしても一分や二分のものはあらアね、馬の腹掛を着て頼むのだから、お前さん三拾両貸して呉れても宜かろうと思う」  賤「何が宜いのだえ、何が宜いのだよ、何もお前さん方に三拾両の四拾両のと借りられる縁が有りません、悪い事をした覚えは有りません、博奕の宿や地獄の宿はしませんから貸されませんよ」  甚「じゃア何う有ってもいけねえのかえ」  賤「帰ってお呉んなさい」  甚「そうか無理にお借り申そうという訳じゃアねえ、じゃア帰りましょう、新吉黙って引込んで居るなえ此処へ出ろ、借りて呉れ、ヤイ」  新「其様な大きな声をしてはいけねえやな兄い仕方がねえな、お賤さん仕方がねえ貸しねえ」  賤「何だえ、お前さんは心易いか知りませんが、私は存じません、何様な事が有っても出来ませんよ、帰ってお呉んなさい」  甚「何う有っても貸せねえってものア無理にゃア借りねえ、じゃア云って聞かせるが、コレ女だと思うから優しく出りゃア宜い気に成りやアがって、太え事をしやアがって、色の仲宿や博奕の堂敷が何程の罪だ、世の中に悪い事と云うなア人殺しに間男と盗賊だ」  賤「何をいうのだ」  甚「なに、何うしたも斯うしたもねえ、新吉此処へ出ろ、エヽおい、咽喉頸の筋が一本拾両にしても二十両が物アあらア」  新「マア黙って兄い」  甚「何でえ篦棒め、己が柔和しくして居るのだから文句なしに出すが当然だ、手前等が此の村に居ると村が穢れらア、手前等を此処え置くもんか篦棒め、今に逆磔刑にしようと簀巻にして絹川へ投り込うと己が口一つだから然う思ってろえ」  新「おい、其様な事を人に」  甚「人に知れたって構うもんかえ」  新「マア〳〵待ちねえ、知らねえのだお賤さんは、一件の事を知らねえのだよ、だから己が何うか才覚して持って行こう、今夜屹度三拾両持って行くよ」  甚「間抜め、黙って引込んで居る奴が有るもんか、そんなら直に出せ」  新「今は無いから晩方までに持って行くよ」  甚「じゃア屹度持って来い」  新「今に持って行くから、ギャア〳〵騒がねえで、実は、己がまだお賤に喋らねえからだよ、当人が知らねえのだからよ」  甚「コレ、博奕の仲宿とは何だ、太え女っちょだ」  新「そんな大きな声を」  甚「屹度持って来い、来ねえと了簡が有るぞ」  新「何ごと置いても屹度金は持って行くよ、驚いたねえ」  賤「おい新吉さん、何んだって彼奴にへえつくもうつくするのだよ、お前がヘラ〳〵すると猶増長すらアね」  新「何うしてもいけないよ、貸さなけりゃア成らねえ」  賤「何で彼奴に貸すのだえ」  新「何だって、いけねえ事に成って仕舞った、旦那の湯灌の時彼奴が来やアがって、一人じゃア出来ねえから手伝うといって、仏様を見ると、咽喉頸に筋が有るのを見付けやがって、ア屹度殺したろう、殺したといやア黙ってるが云わなけりゃア仏様を本堂へ持って行って詮議方するというから、驚いて否応なしに種を明した」  賤「アレ〳〵あれだもの、新吉さん、それだもの、本当に仕方がないよ、彼までにするにゃア、旦那の達者の時分から丹精したに、彼の悪党に種を明して仕舞って何うするのだよ、幾ら貸したって役に立つものかね、側から借りに来るよ彼奴がさ」  新「だけれども隠すにも何も仕様がない、本堂へ持って行かれりゃア直に悪事が露れるじゃアねえか、黙って埋めて遣るから云えというので」  賤「本当に仕様がないよ、何処へでも持って行けと云えばいゝじゃアないか」  新「然ういうと直に彼奴が持って行くよ」  賤「持って行ったっていゝじゃアないか、何処までも覚えは有りませんと私も云い張ろうじゃアないか」  新「云い張れないよ、彼奴ア中々の奴でそれに彼アいう時は口が利けないからねえ、脛疵だからお前のいう様な訳にゃアいかねえ、金で口止めするより外に仕方はないよ」  賤「でも三拾両貸すと、ばんごと〳〵来ては大きな声で呶鳴ると、何で甚藏が呶鳴るかと他人の耳にも這入り、目明が居るから、おかしく勘付かれて、あいつが縛られて叩かれると喋るから、何の道新吉さん仕方がない、土手の甚藏を何うかして殺してお仕舞いよう」 五十一  新「何うして〳〵中々彼奴ア己より強い奴で、滅法力が有るから、彼奴は撲たれても痛くねえってえので、五人位掛らねえじゃアおっ付かねえ」  賤「何うか工夫が有るだろうじゃアないか」  新「工夫が中々いかないよ」  賤「ちょいと〳〵新吉さん耳をお貸し」  新「エ、うんうん成程是は旨え」  賤「だからさア、それより外に仕方がないよ、悟られるといけない、悪党だから悟られない様に確かり男らしくよ」  と何か囁やき、新吉が得心して、旦那の短い脇差をさして、新吉が日が暮れて少したって土手の甚藏の家へ来て、土間口から、  新「はい御免」  甚「サア上りゃア、マア下駄を穿いたなりで上りゃア、草履か、構わねえ、畳がねえから掃除も何もしねえから其の儘上りゃ」  新「兄い、先刻の様に高声であんな事を云ってくれちゃア困るじゃアねえか、己はどうしようかと思った、表に人でも立って居たら」  甚「何故、いゝじゃアねえか、己が面を出したら黙って金を出すかと思ったら、まご〳〵して居やアがって、手前お賤に惚れていやアがる、馬鹿、彼女めいゝ気に成りやアがって、呶鳴り付けるから仕方なしに云ったんだ、此畜生金え持って来たか」  新「彼れから後でお賤に話をして実は是々で明したと云ったら、それは済まない事を云った、知らなかったから誠に悪い事を云ったが、甚藏さんに悪く思わねえ様に然ういってくれというのだ」  甚「手前湯灌場の事を云ったか」  新「云ったよ、云ったら驚いてお賤は甚藏さんに済まなかった、然ういう訳なら何故早く私に然う云わないで、だが土手の甚藏さんに茲で三拾や四拾や上げても焼石に水で駄目だから、纏まった金を上げようから、何うかそれで堅気になり、此方も江戸へ行って小世帯を持つから、お互に此の事は云わねえという証拠の書付でも貰って、たんとは上げられないが百両上げるから、百両で堅気に成ったら宜かろうと云うので、長く彼様な事をしていても甚藏さんも詰らねえじゃアないか、兄弟分の友誼で此の事はいわないと達引いて呉れるなら、生涯食える様に百両遣ろうというのだ、百両貰って堅気に成りねえ」  甚「然うか、有難え、百両呉れゝば生涯お互えに堅気に成りてえ、己も馬鹿は廃めてえや」  新「然う極めてくんねえ」  甚「じゃアまア金さえ持って来りゃア」  新「今茲にはねえ」  甚「何をいうんだ馬鹿」  新「マア人のいう事を聞きねえ、旦那が達者のうちお賤に己が死んだら食方に困るだろうから、死んでも食方の付く様にといって、実は根本の聖天山の手水鉢の根に金が埋めて有るから、それを以てと言付けて有るのだ、えゝ二百両あると思いねえ、聖天山の左の手水鉢の側に二百両埋めて有るのだから、それを百両ずつ分けて江戸へ持って行って、お互に悪事は云わねえ云いますめえと約束して、堅気になって、親類になろうじゃアねえか」  甚「然うか、新吉、旦那もお賤にゃア惚れて居たなア、二百両という金を埋めて置いて是で食えよとなア、若旦那にもいわねえで金を埋めて置くてえのは金持は違わア」  新「早く堀らねえと彼処の山は自然薯を堀りに行く奴が有るから、無暗に遣られるといけねえ」  甚「じゃア早く」  新「鋤か鍬はねえか」  甚「丁度鋤が有るから」  と有合の鋤を担いで是から二十丁もある根本の聖天山へ上って見ると、四辺は森々と樹木が茂って居り、裏手は絹川の流はどう〳〵と、此の頃の雨気に水増して急に落す河水の音高く、月は皎々と隈なく冴えて流へ映る、誠に好い景色だが、高い処は寒うございますので、  甚「新吉此処は滅法寒いナア」  新「なに穴を堀ると暖かくなって汗が出るよ、穴を堀りねえ」  甚「余計な事をいうな」  新「此処だ〳〵」  と差図を致しますから、  甚「よし〳〵」  といいながら新吉と土手の甚藏がポカ〳〵堀りまする、所が金は出ません、幾ら堀っても金は出ない訳で固より無い金、びっしょり汗をかいて、  甚「新吉金は無えぜ」  新「無いね」  甚「何をいうんだ、無駄っ骨を折しやアがって金は有りゃアしねえ」 五十二  新「左と云ったが、ひょっとしたら向って左かしら」  甚「何を云うんだ仕様がねえな此畜生咽喉が渇いて仕様がねえ、斯んなにびっしょりに成った」  新「己も咽喉が渇くから水を飲みてえと思っても、手水鉢は殻で柄杓はから〳〵だが、誰もお参りに来ないと見えるな、うんそう〳〵、此方へ来な、聖天山の裏手に清水の湧く処がある、社の裏手で崖の中段にちょろ〳〵煙管の羅宇から出る様な清水が溜って、月が映っている、兄い彼処の水は旨えな」  甚「旨えが怖くって下りられねえ」  新「下りられねえって何うかして下りられるだろう、待ちねえあの杉だか松だか柏だかの根方に成って居る処に藤蔓に蔦や何か縄の様になってあるから、兄い此奴に吊下って行けば大丈夫だが己は行った事がねえからお前行ってくんねえな」  甚「此奴ア旨え事を考えやアがった、新吉の智慧じゃアねえ様だ、此奴ア旨え、柄杓は有るか」  と手水鉢の柄杓を口に啣えて、土手の甚藏が蔦蔓に掴まって段々下りて行くと、ちょうど松柏の根方の匍っている処に足掛りを拵えて、段々と谷間へ下りまして、  甚「アヽ斯うやって見ると高いナア、新吉ヤイ〳〵水は充分あらア」  新「早くお前飲んだら一杯持って来て呉んねえ」  甚「手前下りやアな、持って行く訳にアいかねえ、ポタ〳〵柄杓が漏らア、カラ〳〵になっていたからナア、アヽ旨え〳〵甘露だ、いゝ水だ、アヽ旨え、なに持って行くのは騒ぎだよ」  新「後生だから、お願いだから少しでも手拭に浸して持って来て呉んねえ咽喉が干っ付きそうだから」  甚「忌えましい奴だな、待ちャア」  と一杯掬い上げて澪れない様に、平に柄杓の柄を啣えて蔦蔓に縋り、松柏の根方を足掛りにして、揺れても澪れない様にして段々登って来る処を、足掛りの無い処を狙いすまして新吉が腰に帯したる小刀を引抜き、力一ぱいにプツリと藤蔓蔦蔓を切ると、ズル〳〵ズーッと真逆さまに落ちましたが、何うして松柏の根方は張っているし、山石の角が出張っておりますから、頭を打破って、落ちまするととても助かり様はございませんが、新吉は側にある石をごろ〳〵谷間へ転がし落しました、其のうちむら〳〵と雲が出て月が暗く成りましたから、それを幸いに新吉は脇差を鞘に納めて、さっさと帰って来て、  新「おゝ〳〵お賤さん〳〵明けてお呉れ〳〵」  賤「誰だえ」  新「己らだよ」  賤「ア新吉さんかえ、能く帰って来てお呉れだねえ、案じていたよさアお這入り」  新「アヽびしょ濡だ、何か斯う単物か何か着てえもんだ」  賤「袷と単物と重ねて置いたよ、さア是をお着、旨く行ったかえ」  新「すっぱり行った」  賤「私の云った通り後から石を投ったのかえ」  新「投った〳〵、気が付いたから後から石を二つばかり投った、あれが頭へ当りゃア直に阿陀仏だ」  賤「いゝね、今脊中を拭くから一服おしよ、熱い湯で拭く方が好いから」  と銅盥へ湯を汲んで新吉の脊中を拭いてやり、  賤「袷におなり」  新「大きにさば〳〵した」  と其のうち此方へ膳を持って来て酒の燗を付け、月を見ながら一猪口始めて、  賤「もう是で二人とも怖い者はないよ」  新「何うも実に旨え事を考えて、一寸彼奴も気が付かねえが、藤蔓に伝わって下りろといった時に、手前の智慧じゃアねえ様だといった時、胸がどきりとしたが、真逆さまになって落る上から側に在った石をごろ〳〵、あの石で頭を打破ったに違えねえが、彼奴は悪党の罰だ。己が悪党の癖に」  是から二人で中好く酒盛をしているうち空は段々雲が出て来て薄暗くなり、  賤「もう寝ようじゃアないか」  というので戸締りをしに掛りましたが、  新「また曇って来たぜ、早く仕ねえ」  賤「今お待ち」  と床を敷く間新吉は煙草を喫んでいると、戸外の処は細い土手に成って下に生垣が有り、土手下の葮蘆が茂っております小溝の処をバリ〳〵〳〵という音。  新「何だか音がするぜ」  賤「お前様は臆病だよ、少し音がすると」  新「デモ何だかバリ〳〵」  賤「なアに犬だよ」  新「何だか大変にバリ付くよ、何だろう」  と怖々庭を見る途端に、叢雲が断れて月があり〳〵と照り渡り、映す月影で見ると、生垣を割って出ましたのは、頭髪は乱れて肩に掛り、頭蓋は打裂けて面部から肩へ血だらけになり、素肌へ馬の腹掛を巻付けた形で、何処を何う助かったか土手の甚藏が庭に出た時は、驚きましたの驚きませんのではござりませぬ、是から悪事露見という処、一寸一息吐きまして。 五十三  引続きお聴きに入れました新吉お賤は、我罪を隠そうが為に、土手の甚藏を欺いて根本の聖天山の谷へ突落し、上から大石を突転がしましたから、もう甚藏の助かる気遣は無いと安心して、二人差向いで、堤下の新家で一口飲んで、是れから寝ようと思って雨戸を締めようという所へ、土手の生垣を破って出たのは土手の甚藏、頭脳は破れて眉間から頤へ掛けて血は流れ、素肌に馬の腹掛を巻付けた姿で庭口の所へ斯う片足踏出して、小座敷の方を睨みました其の顔色は実に二タ眼とは見られぬ恐しい怖い姿でござりますから、新吉お賤は驚いたの驚かないの、ゾッと致しました。座敷へ上ってキャア〳〵騒がれては大変と思いましたが、新吉はもとよりそれ程悪徒という程でも有りませんから、たゞ甚藏の見相に驚きぶる〳〵慓えているから、  賤「新吉さんお前爰にいてはいけないよ、どんな事が有っても詮方がないから土手へ連れて行って彼奴を斬払っておしまいよ」  新「斬払えたって出れば殺される」  賤「大丈夫だよ、戸外へ連れて行って堤の上で」  とぐず〴〵云っているうちずか〴〵と飛込んで縁側へ片足踏かけました甚藏は、出ようとする新吉の胸ぐらを把って  甚「己、いけッ太え奴、能くも彼の谷へ突落しやアがったな、お賤も助けちゃア置かねえ能くも己を騙しやアがったな、サア出ろ、いけッ太え奴だ、お賤の女も今見ていろ」  と堤の上へ引摺って行こうとする、此方は出ようとする、向は引くから、ずる〳〵と土手下へ落ちたから、  新「ウム、後生だから助けて、兄い苦しい、己の持っている金は皆お前に、これさ兄い、何も彼もみんなお前にやるから何うか堪忍して、然ういう訳じゃアねえ、行間違いだから」  甚「糞でも喰え、なに痛えと、ふざけやアがるな」  と力を入れて新吉の手を逆に把って捻り、拳固を振り上げてコツ〳〵撲ったから痛いの痛くないのって、眼から火の出るようでございます。  新「兄い助けて呉れ〳〵」  と喚きますのを、  甚「うぬ助けるものか、お賤のあまッちょも今後からだ」  と腰から出刄庖丁を取出して新吉の胸下を目懸けて突こうとすると、新吉は仰向に成って、  新「己が悪かった堪忍して、兄い後生だから助けてよう」  というも大きな声を出しては事が露顕しようと思いますから、小声で助けて呉んねえと呼ぶばかりでございます。すると何処から飛んで来ましたかズドンと一発鉄砲の流丸が、甚藏が今新吉を殺そうと出刃庖丁を振り翳している胸元へ中りましたから、ばったり前へのめりましたが、片手に出刃庖丁を持ち、片手は土手の草に取つき、ずーと立上ったが爪立ってブル〳〵っと反身に成る途端にがら〳〵〳〵〳〵と口から血反吐を吐きながらドンと前へ倒れた時は、新吉も鉄砲の音に驚き呆気に取られて一向訳が分らないから、身分が殺された心がしましてたゞ南無阿弥陀仏〳〵と申しましたが、暫くして漸くに気が付き起上りまして四辺を見廻し、  新「アヽ何処から飛んで来たか鉄砲の流丸、お蔭で己は助かったが猟師が兎でも打とうと思って弾丸が反れたか、アヽ僥倖命強かった、危ない処を遁れた、誰が鉄砲を打ったか有難いことだ」  併し猟夫が此の様子を見て居りはせぬかと絹川の方を眺めますれど、只水音のみでございまして往来は絶えた真の夜中でございます。此方の庭の生垣の方からちらり〳〵と火縄の火が見える様だから、油断をせず透して見ますると、寝衣帯の姿で小鳥を打ちまする種が島を持って漸くに草に縋って登って来たのはお賤、  賤「新吉さんお前に怪我は無かったかえ」  新「お賤、手前はマア何うした」  賤「私はモウ途方に暮れて仕舞って、お前に怪我をさしてはならないから何うしようかと思っても、女が刃物三昧しても彼奴には敵わないし、何うしようかと考えたら、ふいと気がついたんだよ、此の間ね旦那が鉄砲を出して小鳥をうつ時手前もやって見ろッてんでね、やっと引金に指を当る事だけネ教わって覚えたので、時々やって見た事がある、今も丸が込めて有る事を思い出したから、直に旦那の手箱の中から取出してね、思い切って遣って見たんだけれども、好い塩梅に近くで発しただけに狙いも狂わず行って、お前に怪我さえ無ければ私はマア有難い斯んな嬉しい事は無いよ」  新「何しろ何うせ此の事が露顕せずにはいねえ、甚藏を撲殺して仕舞ってお前と己と一緒に成っていられる訳のものじゃアねえから、今のうち身を隠してえものだ」  賤「アヽ私もね茲にいる気はさら〳〵無いから、形見分のお金も有るのだけれども、四十九日まで待ってはいられないから、少しは私の貯えも有るから、それを持って二人で直に逃げようじゃアないか」  新「ウム、少しも早く今宵の内に」  というので、是から衣類や櫛笄貯えの金子までも一ト風呂敷として跡を暗まし、明近い頃に逐電して仕舞いました。また甚藏の死骸は絹川べりにありましたが、夜が明けて百姓が通り掛って騒ぎ、名主へも届けたが、甚藏は平素悪まれもの、何うか死んで呉れゝばいゝと思っていた処、甚藏が絹川べりで鉄砲で撃殺されているというのを村の人達が聞込んで、アヽ是からは安心だ、甚藏が死ねば村の者が助かるまでよと歓び、其の儘名主様へ届けて法蔵寺に葬ったが、投込み同様、生きている中の悪事の罰で、勿論悪徒ですから誰の所業と詮議して呉れる者も有りません。新吉お賤の逃去りましたのは固より不義淫奔をしていて名主様が没ると、自分達は衣類や手廻りの小道具何や彼やを盗んでいなく成ったに相違ない。彼は素より浮気をしていた者の駈落だから左もあるべしと、是も尋ねる者もないので何事も有りませんが、名主惣右衞門の変死は誰有って知る者は無い。肝腎の知っている甚藏が殺されましたから、惣右衞門は全く病死したのだと心得て居りますが、中には疑がっている者も有りまして、様々いうが、マア名主の跡目は忰惣次郎、誠に柔和温順の人でお父さんは道楽のみを致しましたが、それには引きかえ惣次郎は堅くって内気ですから他に出たことも無い人でございますが、或時村の友達に誘われまして水街道へ参って、麹屋という家で一猪口やりました、其の時、酌に出た婦人が名をお隅と申しまして、齢は廿歳ですが誠に人柄の好い大人しやかの婦人でございます。 五十四  水街道あたりでは皆枕附といいまして、働き女がお客に身を任せるが多く有りますが、此のお隅は唯無事に勤めを致し、余程人柄の好い立振舞から物の言い様、裾捌まで一点の申分のない女ですから、惣次郎は麹屋の亭主を呼んで、是は定めし出の宜しい者だろうと聞合せますと、元は谷出羽守様の御家来で、神崎定右衞門という人の子で、お父様と一緒に浪人して此の水街道を通り、此の家に泊り合せると定右衞門が生憎病気で長く煩らって没なり、後で薬代や葬式料に困って居ります故、宿の主人が金を出して世話を致しましたから恩報じかた〴〵此の家に奉公致し、外に身寄親類もない心細い身の上でございますから、何分願います、外の女とは違いまして真面目に奉公を致して居りますもの、贔屓にして下さいというので、惣次郎の気に入りまして、度々遊びに来る、其の頃の名主と申しては中々幅の利いた者ですから、名主様の座敷へ出る時は、働き女でも芸妓でも、まア名主様に出たよなどと申して見得にしたものでございます。惣次郎もお隅には多分の祝義を遣わし折節は反物などを持って来て遣る事も有るから、男振といい気立といい柔和温順で親切な名主様と、お隅も大切に致し、何うも有難いと思い、或日の事、  隅「私は外に参る処もない身の上でございますから、何分御贔屓なすって下さい」  というので、惣次郎も近々来る中に、不図した縁で此のお隅と深くなりました事で、今迄堅い人が急に浮れ出すと是は又格別でございまして、此の頃は家を外に致す様な事が度々でございますから、お母様も心配する、弟御もございますが、是はまだ九歳で、何も役にたつ訳でもございませぬから、お母様も種々心配なさるが、常に堅い人だから、うっかり意見がましい事もいわれませんので控えている。すると其の翌年寛政十年となり、大生郷村の天神様から左りに曲ると法恩寺村という、其の法恩寺の境内に相撲が有ります。此の相撲場は細川越中守様御免の相撲場ということで、木村權六という人が只今以て住んで居ります、縮緬の幕張りを致して、田舎相撲でも立派な者で近郷からも随分見物が参ります、此処に参っている関取は花車重吉という、先達私古い番附を見ましたが、成程西の二段目の末から二番目に居ります。是は信州飯山の人で十一の時初めて羽生村へ来て、名主方に二年ばかり奉公している其の中に、力もあり体格もいゝので、自分も好きの処から、法恩寺村の場所へ飛入りに這入ると、若いにしては強い、此の間は三段目の角力を投げたなどゝ賞められましたから、自分も一層相撲に成ろうと、其の頃の源氏山という年寄の弟子となったが、是より花車が来たといえば土地の者が贔屓にして見物に来る。惣次郎も何時も多分の祝義を遣わしましたが、今度もお隅を伴れて見物しようと思い、相撲は附けたり、お隅に逢いたいからそこ〳〵支度を致しますと、母が心配して  母「アノ帰るなら今夜は些と早く帰って貰え度え、明日は少し用が有るからのう」  惣次郎「少しは遅く成るかも知れません、若し遅くなれば喜右衞門どんに何彼と頼んで置いたから御心配は無いが、万一して花車も一抔やり度いなどゝ云うと、些とは私も遣り度い物も有りますから、又帰る迄に着物でも持たして遣りとうございますし、そんな事で種々又相談も致しますから、若し遅く成りましたら、何うかお先にお寝みなすって下さいまし」  母「ハイ遅くならば先きに寝てもいゝだけれど、まア此の頃は他へ出ると泊って来る事もあり、今迄旦那様が達者の時分にはお前が家を明けた事はねえ、あんな堅え若旦那様はねえ、今の世は逆さまだ、親が女郎を買って子が後生を願うと云う唄の通りだ、惣次郎様の様なあんな若旦那ア持ちながら、惣右衞門どんはいゝ年いして道楽するなどと村の者がいうから、鼻が高えと思ったが、旦那殿が死んで仕舞って見ると、今ではお前の身代だから、まア家の為え思ってお前も今迄骨折って呉れただが、去年あたりから大分泊りがけに出かけるものだから、村の者も今迄は堅え人だったが、何う言う訳だがな泊り歩くが、役柄もしながらハアよくねえ事たア年老った親を置いて、なんて悪口を利く者もあるで、成だけ他人には能く云わしたいが、是は親の慾だからお前の事だから間違えはなかんべえが、成たけまア帰れるだら帰って貰えてえだ心配だからのう」  惣次郎「イエなに、然う御心配なれば参らんでも宜しゅう、是非参り度い訳ではありません、花車も来た事だから聊かでも祝義も遣り度いと思いましたが、そういう訳なら参らんでも宜しいので、新右衞門も同道する積りでしたが、左様なれば往かないでも先方で咎めるでもなし、怒りもしますまい、それでは止めましょう」  母「そういえばハア困るべえじゃアねえか、行くなアとはいわねえが、出れば泊りがけの事も有るし、帰らねえ事も有るから、それで私が案じるからいうので、行くなアとはいわねえ、行っても能から早く帰って来うというのだ、お前は今迄親に暴え言をいい掛けた事はねえが、此の頃は様子が異って意見らしい事をいえば顔色が違うからいうだ、私は段々年を取り惣吉はまだ子供なり、役には立たねえから、お前も堅くって今まで人に云われる事もなかっただから、間違えはなかろうけれども、若え者の噂にあんなハア美くしい女子があるから家へ帰るは厭だんべえ、婆様の顔見るも太儀だろうなどという者もあるから、そんな事を聞くと心配で成んねえもんだから、少しも能く思わせてえのが親の慾でござらア、行くなという訳ではねえ往ってもいゝから帰れたら早く帰って来うというと胆いれてそんたら往くめえなどと、年寄ればハア然うお前にまでいわれて邪魔になるかと思って早くおっ死度えなどと愚痴も出るものでのう」 五十五  惣次郎「イエ左様なれば早く帰って参ります、思わず言過ぎて何うも悪いことを申しまして今夜は早く帰って参ります、大きに余計な御心配を懸けまして誠に済みません」  母「然うなれば宜しい、機嫌を直して往くがいいよ、これ〳〵多助や」  多「ハイ」  母「汝行くか」  多「ヘエ、関取が出るてえから行って見ようと思って」  母「汝口が苛いから人中へ入って詰らねえ口利いては旦那様の顔に障るから気イ付けて能く柔和しく慎しんで往てこうよ」  多「ヘエ、畏りました、私が行けば大丈夫だ、そんなら往って参ります、左様なら」  と、惣次郎は是から水街道の麹屋に行って彼のお隅を連れて、法恩寺村の場所に行こうと思ったが、今日は大した入りだというから、それよりは花車を他へ招んで酒を飲ました方が宜しい、それに女連で雑沓の中で間違でも有っては成らぬ、殊にお隅を連れて行くは心配でもあり役柄をも考えたから、大生郷の天神前の宇治の里という料理屋へ上り、此処の奥で一猪口遣っていると、間が悪い時は仕方のないもので、彼のお隅にぞっこん惚れて口説いて弾かれた、安田一角という横曾根村の剣術家、自から道場を建てゝ近村の人達が稽古に参る、腕前は鈍くも田舎者を嚇かしている、見た処は強そうな、散髪を撫付けて、肩の幅が三尺もあり、腕などに毛が生えて筋骨逞しい男で、一寸見れば名人らしく見える先生でございます。無反の小長いのを帯し、襠高の袴をだゞッ広く穿き、大先生の様に思われますが、賭博打のお手伝でもしようという浪人者を二人連れて、宇治の里の下座敷で一口遣っていると、奥に惣次郎がお隅を連れて来ている事を聞くと、ぐッぐッと癪に障り、何か有ったら関係を付けようと思っている。此方では御飯が済んだから帰り掛に花車の家に往こうというので急いで出る、お隅も安田が来ているのを認めましたから気味が悪く早く帰ろうと思うので、奥から出て廊下へ来ると、何うしても其処を通らなければ出られないから、安田はわざと三人の刀の鐺を出して置きますと、長い刀の柄前にお隅が躓づきましたのを見ると、  安「コレ〳〵待て、コレ其処へ行く者待て」  惣「ヘエ〳〵私でございますか」  安「手前何処の者か知らんけれども、人の前を通る時に挨拶して通れ、殊にコレ武士の腰に帯して歩く腰の物の柄前に足をかけて、麁忽でござると一言の謝言も致さず、無暗に参ることが有るか、必定心有ってのことだろう」  惣「ヘイ頓と心得ませんで…お前疎忽だからいけない、お武家様のお腰の物に足をかけて何のことだね、ヘイ何うも相済みませんでございました、つい取急ぎまして飛んだ不調法を致しました、当人に成代りましてお詫を申上げます、何分御勘弁を願います」  安「なに詫を申すなら何処の者か姓名も云わず、人に物を詫びるには姓名を申せ、白痴め」  惣「ヘエ、手前は羽生村の惣次郎と申す何も弁まえませぬ百姓でございます」  安「なに、羽生村の惣次郎、うむ名主だな、イヽヤ名主だ、羽生村にて外に惣次郎と云う名前の者は無い様だ、名主役をも勤むる者が人の前を通る時には御免なさいとかお先きに参るとか何とか聊か礼儀会釈を知らぬ事も有るまい、小前の分らぬ者などには理解をも云い聞けべき名主役では無いか、それが殊に武士の腰の物を足下にかけて黙って行くと云う法が有るか、咎めたらこそ詫もするが、咎めずば此の儘行き過ぎるであろう、無礼至極の奴、左様ではござらんか仁村氏」  仁「是はお腹立の処御尤も是は何も横合から指出て兎や角いうではないが、けれども斯ういう席だから、何も先生だって大したお咎をなさる訳でもあるまいが、今仰せの如く名主役をも勤むる者が、少しは其の辺の心得がなくては勤まらぬ、小前の者が分らん事でもいう時は、呼寄せて理解をも云い聞けべきの役柄だ、然るにずん〳〵行くという法はない、是は、イヤ先生御立腹御尤もだ是は幾ら被仰っても宜しい、お腹立御尤もの次第で」  惣「重々御尤もで相済みません、御尤至極でござります、どうか御勘弁を願います」  安「只勘弁だけでは済むまい、苟にも武士の魂とも云う大切の物、手前達は何か武士が腰に帯して居る物は人斬庖丁などゝ悪口をいうのは手前の様な者だろうが、人を無暗に斬る刀でないわ、えゝ戦場の折には敵を断切るから太刀とも云い、片手撲りにするから片刀ともいい、又短いのを鎧通しとも云う、武士たるものが功名手柄を致す処の道具、太平の御代に、一事一点間違を致せば直にも切腹しなければならぬ大切の腰の物じゃ、それを人斬庖丁など悪口をいいおるから挨拶もせずに行ったのだ、それに違いなかろう、ナア」  連の男「是は先生至極御尤も、怪しからんこと、何だ、え、何うもその、武士たるべき者の腰に帯するものを人斬庖丁などゝは以ての外だ、太平なればこそよいが、若し戦場往来の時是をエヽ、太刀とも唱える、片刀ともいう、今一つ短いのは何でしたッけ、うむ鎧通しともいう、一事一点間違があれば切腹致すべき尊い処の腰の物、それを何だ無礼至極、どの様に仰しゃっても宜しい」  惣「重々恐入りましたが何分御勘弁になります事なれば、どの様にお詫を致して宜しいか頓と心得ませんが」  安「刀を浄めて返せ、浄まれば許して遣わす」  惣「どの様に致せば浄まります事か、百姓風情で何も存じませんで」  安「知らんという事が有るか、浄めて返さんうちは勘弁罷り相成らぬ」  惣次郎もつく〴〵困りましたが、お隅は平素から一角は酒の上が悪く我儘なのを知っております、また女が出ると柔かになる事も存じているから、却って斯う云う時は女の方が宜かろうと思って、後の方からつか〳〵と進み出まして、  隅「先生誠に暫く」  安「何んだ」 五十六  隅「麹屋の隅でございますが、只今私が旦那様のお供をして来て、つい例の麁忽者で駈出して躓きまして、足で蹴たの踏んだのという訳ではありませんが、一寸足が触りましたので、貴方と知っていれば宜しいのに、うっかり足が出ましたので、それ故先生様の御立腹で誠に私がお供に来て済みませんから、不調法でございますが何卒御勘弁なすって下さいな決して蹴たの踏んだのという訳でもなし、お供をして来て不調法が有っては、羽生村の旦那様に済みませんし、あの私の麁忽者の事は先生も御存じで入らっしゃいますから、お馴染甲斐に不調法の処は重々お詫を致しますから御勘弁を」  安「黙れ、なに馴染がどうした、馴染なら如何に無礼致しても済むと思うか、手前には聊か祝義を遣わした事も有るが、どれ程の馴染だ、又拙者は料理屋の働女に馴染は持たん、無礼を働いても馴染なら許して貰えると思うか、鼻を殺ぎ耳を斬って馴染だから御免とそれで済むか無礼至極な奴、女の足に刀を踏まれては猶更汚れた、浄めて返せ」  仁「是は先生至極御尤、御尤もだが酒も何もまずくなったなア、是はどう云う身分柄か知らんが馴染だから勘弁という詫の仕様はないが、誰かあゝお隅か妙な処で出会したなア、先生〳〵麹屋の隅でございます、能く来たなア、え隅か、是は何うも詫まれ〳〵、重々何うも済まぬ、先生〳〵お隅でございます、貴公知らなんだ、あはゝゝゝどうも麁相はねえ詫びるより外に仕方がない、詫びて勘弁ならんという事は無い、重々恐入ったと詫びろ、能く来た、あの先生、先生〳〵勘弁してお遣りなさいお隅でござる」  安「な何を戯言、勘弁相ならん」  と猶更額に筋を出して中々承知しませんから、惣次郎もまさか其の儘に逃出す訳には往かず、困り果てゝおりますと、奥の離座敷の方に客人に連れられて参って居たは花車重吉、客人は至急の用が出来て帰りましたから、花車は遥に此の様子を聞いて、惣次郎とは固より馴染なり兄弟分の契約を致した花車でございますから心配しておりまする。  多「もし旦那様〳〵」  惣「何だ」  多「関取がねえ奥に来ているだ、大きに心配しているだが、ちょっくら旦那にお目に掛りてえというが」  惣「なに花車が、それは宜かった関取に詫をして貰おう、一寸」  安「これ〳〵逃出す事はならぬ」  惣「いえ逃げは致しませんが、主意を立てましてお詫を申上げます暫く御免を」  というのでこそ〳〵と後にさがる。此の隙に宇治の里の亭主手代なども交る〳〵詫びますけれども一向に聞入れがありません。  惣「関取は此方かえ」  花車「はい」  惣「誠にどうも此処で逢うとは思わなかった」  花「えゝ今皆聞きました、何しろ相手が悪いがねえ、何か是には仔細があってだアと鑑定しているが、何しろ筋の悪い奴で、是は私がねエなり代って詫びて見ましょう」  惣「何卒、関取なら愛敬を売るお前だから厭でもあろうが、先の機嫌を直す様に」  花「案じねえでもいゝよ」  多「私イ宿を出る時に間違えでも出かすとなんねえから、名前に掛るからってお内儀に言付かって汝行って詰らねえ口い利いて間違え出かしてはなんねえと、気い付けられたんだが、こうなっては私や出先で済まねえ事だから関取頼むぞえ」  花「心配しねえでもいゝよ、私が請合った宜しい」  と落着払って花車、齢は二十八でありますが至って賢い男、大形の縮緬の単衣の上に黒縮緬の羽織を着て大きな鎖付の烟草入を握り、頭は櫓落しという髪、一体角力取の愛敬というものは大きい形で怖らしい姿で太い声の中に、何となく一寸愛敬のあるものでのさり〳〵と歩いて参りまして、  花「はい御免なさい、先生今日は」  安「何だ、誰だい」  花「はい法恩寺の場所に来ております花車重吉という弱い角力取で、何卒お見知り置れて皆様御贔屓に願います」  安「はい左様か、私は相撲は元来嫌いで遂ぞ見に往った事も無いが、関取何ぞ用でござるかい」  花「はい只今承りますれば、羽生村の旦那が、貴君方に対して飛んだ不調法をしたと申す事だが、何分にもお聞済みがないので、私は馴染の事でもあるに由って、重吉手前は顔売る商売じゃ、なり代って詫びてくれいって頼まれまして、見兼て中に這入りましたがねえ、重々御立腹でもございましょうが、斯ういう料理屋で商売柄の処でごた〳〵すれば、此家も迷惑なり、お互に一杯ずつも飲もうと思うに酒も旨うない、先生も旨うない訳だから、成り代ってお詫しますから、花車に花を持たせて御勘弁を願います」  安「誠にお気の毒だが勘弁は致されんて、勘弁致し難い訳があるからで、勘弁しないというは武士の腰物を女の足下に掛けられては此の儘に所持もされぬから浄めて返せと先刻から申して居るのだ」  花「それは然うでありましょう、併し出来ない処を無理に頼むので、出来難い処をするが勘弁だア、然うじゃアありませんか」  安「無理な事は聴かれませんよ、お前が仲に這入っては尚更勘弁は出来ぬではないか」  花「はア私が這入って、なぜね」  安「花車重吉という有名の角力取が這入っては勘弁ならん、是が七十八十になる水鼻を半分クッ垂して腰の曲った水呑百姓が、年に免じて何卒堪忍して下されと頭を下げれば堪忍する事も出来ようが、立派な角力取、天下に顔を売る者に安田一角が勘弁したとあれば力士に恐れて勘弁したと云われては、今井田流の表札に関わるから猶更勘弁は出来んからなあ」  花「それは困りますねえ、それじゃア物に角が立ちます、先生私は天下の力士でも何でもないわ、まア長袖の身の上で、皆さんの贔屓を受けなければならん、裸体で、お前さん取まわし一つでもってから大勢様の前に出て、まア勝つも負るも時の運次第でごろ〳〵砂の中へ転がって着物を投って貰い勝ったとか負けたとかいう処が愛敬じゃア、然うして見れば皆様の御贔屓を受けなければならん、貴方が勘弁して下されば、それ花車彼奴は愛敬者じゃア、先生が勘弁出来ない処を花車を贔屓なればこそ勘弁したといえば、それで私は先生のお蔭で又売出します、然うじゃアございませんか、勘弁しておくんなさい」  安「堪忍は出来ぬ」  花「出来ぬでは困ります」  安「イヤ勘弁出来ぬ、武士に二言はないわ」 五十七  花車「そんな事云うて対手が武士か剣術遣なれば兎も角も、高が女の事だからよ、大概にしろよ」  安田「大概にしろよとは何だ」  花「これは言損なった、これは角力取はこういう口の利きようでうっかり云った、勘弁しろよう」  安「勘弁しろよとは何だ」  花「ほいまた言損なった」  安「勘弁しろよとは何だ、手前も大名高家の前に出てお盃を頂く力士では無いか、挨拶の仕様を存ぜぬ事はない、大概にしろの勘弁しろよのという云い様があるか、猶更勘弁ならん、無礼至極不埓な奴だ」  と側にある飲冷しの大盃を把ってぽんと放ると、花車の顔から肩へ掛けてぴっしり埃だらけの酒を浴せました。  花「先生お前さん酒を打掛けたね、じゃアどうあっても勘弁出来ないと極めたか、それでは仕方がないが、先生私も花車とか何とか肩書のある力士の端くれ、人に頼まれ、中に這入って勘弁ならん、はアそうでございますかと指をくわえて引込む事は出来ぬ、私は馬鹿だ智慧が足りねえから挨拶の仕様を知らぬ、何卒こうせいと教えて下せえ、お前のいう通り行りましょう、ねえ、どうなとお顔を立てようから斯うしろと教えて下せえ」  安「これは面白い、予の顔を立てる、主意を立てるなれば勘弁致す、無礼を働いたお隅と云う女は不届至極だから、彼の婦人を惣次郎から貰い切って予に引渡して下さい、道場に連れて参って存じ寄り通りにする」  花「それは出来ない、彼は御存知の水街道の麹屋の女中で、高い給金で抱えて置く女だ、今日一日羽生村の名主様が借て来たんだ、それを無礼した勘弁出来ないといって道場へ連れて行く、はいと云って遣られぬ、私にしても然うです、道場へ引かれゝば煮て喰うか焼いて喰うか頭から塩をつけて喰われるか知れねえものを、それは出来ぬ、出来ない相談、それじゃア仕様がねえわ」  安「それじゃアなぜ主意を立てるといった、お前は力士、たゞの男とは違う、一旦云った事を反故にする事はない、武士に二言はない、刀に掛けても女を貰いましょう」  花「是は仕様がねえ、じゃア、まアお前さんが剣術遣だから刀に掛けても貰おうというだら私は角力取だから力に掛けても遣る事は出来ぬと極めた、それより外は出来ませんわ」  というと一角も額に青筋を張って中々聴きません。此の家へお飯を喫べに這入った人達も驚きましたが中には角力好で江戸の勇み肌の人も居りまして、  客「どうだもう帰ろうじゃアねえか、因業な武士だ彼の畜生」  客「ウム己達が彌平どんの処へ来るたって深しい親類でもねえが、場所中関取が出るから来ているのだが、本当に好い関取だなア、体格が出来て愛敬相撲だ一寸手取で、大概角力取が出れば勘弁するものだが、彼奴め酒を打掛けやアがって酷い事しやアがる」  客「相手の武士は三人だ、関取がどっと起って暴れると根太が抜けるよ」  客「斯うしようじゃアねえか、折を然ういっても間に合うめえし残して往っても無駄だから、此の生鮭と玉子焼とア持って行こう」  などゝ横着な奴は手拭の上に紙を布いて徐々肴を包み始めた。  花「じゃア先生こうしましょう、此処の家でごたすたいった処が此の家へ迷惑かけて、外に客があるから怪我でもさしてはなりません、戸外に出て広々とした天神前の田甫中でやりましょう、私も男だ逃げ隠れはしません」  安「面白い出ろ」  というので三人づんと起った。  客「喧嘩だア〳〵」  と他の客はバラ〳〵逃げ出したが、代を払って行く者は一人もない、横着者は刺身皿を懐に隠して持って行く者もあり、中には料理番の処へ駈込んで、生鮭を三本も持って逃出す者もあり、宇治の里では驚きましたが、安田一角は二人の助けを頼みとして袴の股立ちを取って、長いのを引抜き振翳したから、二人の武士も義理で長いのを引抜き三人の武士が長い閃つくのを持って立並んでいるから、近辺の者は驚きました。惣次郎は猶更心配でございますから、  惣「関取お前に怪我をさせては親方に済まぬから」  花「いゝよ、親方も何もない、お前さん彼方へ行って下せえよ、己が引受けたからは世間へ顔出しが出来ませんから退く事は出来ない、何卒事なく遣る積りで、お前さんは心配をしねえでいゝよお隅さんを連れて構わず往って下さい、多助さんも行って下さい、旦那様が茲にいては悪いから帰って下さえ」  惣次郎は帰れたッて帰られませんし、此の儘にはされず、怖さは怖しどうしようかとおど〳〵して居ると、花車はスッと羽織と単物を脱ぎましたが、角力取の喧嘩は大抵裸体のもので、花車は衣服を脱ぐと下には取り廻しをしめている、ウーンと腹を揺り上ると腹の大きさは斯様になります、飴細工の狸みた様で、取廻しの処へ銀拵えの銅金の刀を帯し白地の手拭で向鉢巻をして飛下りると、ズーンと地響きがする、腕なぞは松の樹の様で腹を立ったから力は満ちて居る、スーと飛出すと見物人は「ワアー関取しっかりしろ」という。安田一角は袴の股立を取って、  安「サア来い」  と長いのを振上げている、此の中へ素裸で、花車重吉が飛込むというところ、一寸一ト息吐きまして。 五十八  引続きまして角力と剣術遣の喧嘩で、角力という者は愛敬を持ちました者でございまして、只今では開けた世の中でございますから、見識を取りませんで、関取衆が芸者の中へ這入って甚句を踊り、或は錆声で端唄をやるなどと開けましたが、前から天下の力士という名があり、お大名の抱えでありますから、だん〳〵承って見ますると、菅原家から系図を引いて正しいもので、幕の内と称えるは、お大名がお軍の時、角力取を連れて入らしって旗持にしたという事でございます、旗持には力が要りますので力士が出まする者で、お見附などの幕の内には角力取が五人ぐらいずつ勤めて居ります。其の幕の内に居たから幕の内という、お弁当を喫って居るのが小結という、然ういう訳でもありますまいが、見た処は見上げる様で、胸毛があって膏薬の痕なぞがあって怖らしい様でありますが、愛敬のあるものでございます。一寸起って踊りますと、重い身体で軽く甚句などを踊りますと姉さん達は、綺麗じゃアないか可愛いじゃアないか、踊る姿が好い事、あれで角力を取らないと宜い事などと、それでは角力でも何でもありません。芝居でも稻川秋津島などゝいうといゝ俳優が致します、極むかし二段目三段目ぐらいに立派な角力がありましたが、花車などは西の方二段目の慥か末から二三枚目におりました、其の頃愛敬角力で贔屓もあります角力上手でございますから評判が宜い、今に幕の内に登るという噂がありまして、花車重吉は誠に固い男、殊には羽生村の名主の家に三年も奉公して、角力になりましてからは大して惣次郎も贔屓にして小さい時分からの馴染で、兄弟分の約束をして酒を飲み合った事もありますから恩返しというので割って中へ這入りましたが、剣術遣は重ね厚の新刀を引抜いて三人が大生郷の鳥居前の所へびらつくのを提げて出ましたから、大概な者は驚いて逃げるくらいでありますが、逃げなどは致しません、ズッと出て太い手をついて斯う拳を握り詰めますると、力瘤というのが腕一ぱいに満ちます、見物は今角力と剣術遣との喧嘩が有るというので近村の者まで喧嘩を見に参る、田甫の処畦道に立って伸上って見ている。  花「先生此処は天神前で、私はお前さんと喧嘩する事は、斯うなったからは私は引に引かれぬから、お前さん方三人に掛られた其の時は是非が無え事じゃが、御朱印付の天神様境内で喧嘩してもお前さんも立派な先生、私も角力の端くれ、事訳知らぬ奴じゃ、天神様の社内を穢した物を知らぬといわれてはお互に恥じゃ、ねエ死恥かきたくねえから鳥居の外へ出なせえ」  是は理の当然で、  安「うん宜しい、よく覚悟して…鳥居外へ参ろう」  と三人出たから見物は段々後へ退る、抜刀ではどんな人でも退る、豆蔵が水を撒くのとは違う、怖かないからはら〳〵と人が退きます。  見物「何うだ本当に力士てえ者は感心じゃアねえか、たった一人に三人掛りやアがって、大概に彼奴勘弁しやアがるが宜い、何だしと詫言したら恥じゃアあるめえし畜生、関取確かりやって、己アお前の角力を見に来たので、お前が喧嘩に負けると江戸へ帰れねえ、冗談じゃアねえ剣術遣を踏殺せ」  安「何だ」  見物「危険だ、確かりやって呉れ」  花「逃げも隠れもしねえ、長崎へ逃げようと仙台へ逃げようと花車重吉駈落は出来ぬから卑怯な事はしねえが、茲でお前さんに切られて死ねばもう湯も茶も飲めません、喧嘩は緩くら出来ますから一服やる間暫らく待って」  安「なに、これ喧嘩する端に一服やるなどと、何だ愚弄するな」  花「心配ありません末期の煙草だ、死んだら呑めませんワ、一服やりましょう、誰か火を貸しておくんなせえ」  見物の中から煙草の火をあてがう奴がある。パクリ〳〵脂下りに呑んで居る。  花「まア緩くり行りましょう、エ先生逃げ隠れはせぬぜ」  とパクリ〳〵と吸って居る。見物は、  見物「気が長えじゃアねえか、喧嘩の中で煙草を呑んで沈着いて居る豪えじゃアねえか」  見物「豪えばかりでねえ、己が考えじゃア関取は怜悧だから、対手は剣術者遣で危ねえから怪我アしても詰らねえ、関取が手間取っているうち、法恩寺村場所へ人を遣ったろうと思う、若し然うだと二拾人も角力取が押て来れば踏潰して了う、然うだろうよ」  花「サア先生喧嘩致しますが、私も一本帯しているから剣術は知らぬながらも切合を致すが、私が鞘を払ってからお前様方斬ってお出でなせえ」  安「尤も左様だ、卑怯はしない、サア出ろ」  花「ヘエ出ます、まア私も此の近辺で生立った者じゃアが、此の大生郷の天神様の鳥居といったら大きな者じゃア」  と見上げ  花「これまア私が抱えても一抱えある鳥居、此の鳥居も今日が見納めじゃア」  と鳥居を抱えて、  花「大きな鳥居じゃアないか」  と金剛力を出して一振すると恐ろしい力、鳥居は笠木と一文字が諸にドンと落ちた。剣術遣が一刀を振上げて居る頭の処へ真一文字に倒れ落ちたから、驚きましたの驚きませんのと、胆を挫がれてパッと後へ退る。見物はわい〳〵いう。其の勢いに驚き何のくらいの力かと安田は迚も敵わぬと思って抜刀を持ってばら〳〵逃ると、弥次馬に、農業を仕掛けて居た百姓衆が各々鋤鍬を持って、  百姓「撲殺してしまえ」  とわい〳〵騒ぐから、三人の剣客者は雲霞と林を潜って逃げました。 五十九  花車「ハ、逃げやアがった弱え奴だ、サア案じはねえ、私が送って行きましょう」  と脱いだ衣服を着て煙草入を提げ、惣次郎を送って自分は法恩寺村の場所へ帰った。角力は五日間首尾能く打って帰る時に、  花「鳥居の笠木を落したから、旦那様鳥居を上げて下さらんでは困る」  と云うので惣次郎が金を出して鳥居を以前の通りにしました、其の鳥居は只今では木なれども花車の納めました石の鳥居は天神山に今にあります。場所をしまって花車は江戸へ帰らんければならんから、帰ってしまった後は惣次郎は怖くって他へは出られません、安田一角は喧嘩の遺恨、衆人の中で恥を掻いたから惣次郎は助けて置かぬ、などと嚇しに人に逢うと喋るから怖くって惣次郎は頓と外出を致しません、力に思う花車がいないから村の者も心配しております。余り家に許り蟄しておりますから、母も心配して、惣次郎が深く言交した女故間違も出来、其の女の身の上はどうかと聞くに、元武士の娘で親父もろ共浪人して水街道へ来て、親の石塔料の為奉公していると聞き、其の頃は武士を尊ぶから母は感心して、然ういう者なれば金を出して、当人が気に適ったならどうせ嫁を貰わんではならんから貰い度いと、水街道の麹屋へ話してお隅を金で身受して家へ連れて来てまず様子を見るとしとやかで、器量といい、誠に母へもよく事えます故、母の気にも適って村方のものを聘んで取極をして、内祝言だけを済まして内儀になり、翌年になりますと、丁度この真桑瓜時分下総瓜といって彼方は早く出来ます。惣次郎の瓜畑を通り掛った人は山倉富五郎という座光寺源三郎の用人役であって、放蕩無頼にして親には勘当され、其の中座光寺源三郎の家は潰れ、常陸の国に知己があるから金の無心に行ったが当は外れ、少しでも金があれば素より女郎でも買おうという質、一文なしで腹が空って怪しい物を着て、小短いのを帯して、心の出た二重廻りの帯をしめて暑くて照り付くから頭へ置手拭をして時々流れ川の冷たい水で冷して載せ、日除に手を出せば手が熱くなり、腕組みをすれば腕が熱し、仕様がなくぶらり〳〵と参りました。  富「あゝ、進退茲に谷まったなア、どうも世の中に何がせつないといって腹の空るくらいせつない事はないが、どうも鳥目がなくって食えないと猶更空るねえ、天草の戦でも、兵糧責では敵わぬから、高松の水責と雖も彼も兵糧責、天草でも駒木根八兵衞、鷲塚忠右衞門、天草玄札などという勇士がいても兵糧責には叶わぬあゝ大きな声をすると腹へ響ける、大層真桑瓜がなっているなあ、真桑瓜は腹の空いた時の凌ぎになる腹に溜る物だが、うっかり取る処を人に見られゝば、野暴の刑で生埋にするか川に簀巻にして投り込まれるか知れんから、一個揉ぎって食う事も出来ぬが、大層なって熟しているけれども、真桑瓜を黙って持って行くはよろしくないというが、一寸此処で食う位の事は何も野暴しでもないからよかろう、一つ揉ぎって食おうか」  と怖々四辺を見ると、瓜番小屋に人もいない様だから、まア好い塩梅と腹が空って堪らぬから真桑瓜を食しましたが、庖丁がないから皮ごと喫り、空腹だから続けて五個ばかり喫べ、それで往けば宜しいのに、先へ行って腹が空ってはならんから二つ三つ用意に持って行こうと、右袂へ二つ左袂へ三つ懐から背中へ突込んだり何かして、盗んだなりこう起つと、向の畑の間から百姓がにょこりと出た時は驚きました。  百姓「何んだか、われは何んだか」  富「ヘエ、誠にどうも厳しい暑さでお暑い事で」  百「此の野郎め、まア生空遣やアがって、此処を瓜の皮だらけにしやアがった、汝瓜食ったな」  富「どう致しまして、腹痛でございますから押えて少し屈んでおりましたが、暑気に中っておりますので、先から瓜の皮はありますが、取りは致しませぬて」  百「此の野郎懐へ入れやアがって、生空つかやアがって、瓜盗んでお暑うございますなどと此の野郎」  ポカリ撲倒しますと、  富「あ痛たゝ」  と蹌ける途端に袂や懐から瓜が出る。其の内に又二三人百姓が出て来て、忽ち山倉は名主へ引かれ、間が悪い事に名主の瓜畑だから八釜しく、庭へ引かれ、麻縄で縛られますと、廃せばよいに名主惣次郎は情深い人だから縁側へ煙草盆を持ち出して参って、  惣「此奴かノ真桑瓜を食ったのは」  男「ヘエ此の野郎で、草むしりに出ておりますと、瓜畑の中からにょこりと起ちアがったから、何するといったら厳しいお暑さなんてこきアがって、誰もいやすめえと思って、瓜の皮があるから盗んだんべえと撲つと懐からも袂からも瓜が出たゞ何処の者か江戸らしい言葉だ」  惣「お前が真桑瓜を盗んだか」 六十  富「ヘエ〳〵恥入りました事で、手前主名は明し兼ねまするが、胡乱と思召すなれば主名も申し上げまするが、手前事は元千百五十石を取った天下の旗下の用人役をした山倉富右衞門の忰富五郎と申す者主家改易になり、常陸に知己がある為是へ金才覚に参って見るに、先方は行方知れず、余儀なく、旅費を遣い果してより、実は食事も致しませんで、空腹の余り悪い事とは知りながら二つ三つ瓜を盗みたべました処をお咎めで、何とも恥入りました事で、武士たる者が縄に掛り、此の上もない恥で、どうか憫然と思召してお許し下されば、此の後は慎みまする、どうかお情をもってお許しを願いたく存じます」  惣「真桑瓜を盗んだからといって何も殺しはしない、真桑瓜と人間とは一つにはならん、殺しはせんが、茲で助けても、是から何処へ行きなさる、当所がありますかえ」  富「ヘエ〳〵、何処といって当も何もないので、といってすご〳〵江戸表へ立帰る了簡もございません、空腹の余り悪いと知りながら斯様なる悪事をして恐れ入ります」  惣「じゃア茲で許して上げても他へ行って腹が空ると、また盗まなければならん、私の村で許しても外では許さぬ、今度は簀巻にして川へ投り込むか、生埋にするか知れぬから、私が茲で助けても親切が届かんでは詰らん、お前さんの言葉の様子では武家に相違ない様だが、私の処は秋口で書物などが忙がしいが、どうだね、許して上げますが、私の家に恩報しと思って半年ばかり書物の手伝いをしていて貰い度いがどうだね」  富「ヘエどうも恐入りました事で、斯様なるどうも罪を犯した者をお助け下さるのみならず、半年も置いてお養い下さるとは、何ともどうも恐れ入りました、此の御恩は死んでも忘却は致しません、何の様なる事でも実に寝る眼も寝ずに致しますから、何卒お助けを願います」  惣「よろしい、縄を解け」  と解かしまして、  惣「お腹が空いたろう、サア御膳をお喫り」  とサア是から富五郎が食ったの食わないのって山盛にして八杯ばかり食置をする気でもありますまいが沢山食べました。書物を遣らして見ると帳面ぐらいはつけ、算盤も遣り調法でべんちゃらの男で、百姓を武家言葉で嚇しますから用が足りる、黒の羽織なぞを貰い、一本帯して居る、其のうち  富「古い袴が欲しい、小前の者を制しますには是でなければ」  などとべんちゃらをいう。惣次郎の顔があるから富さん〳〵と大事にする。段々臀が暖まると増長して、素より好きな酒だから幾ら止めろといっても外で飲みます。すると或日の事で、ずぶろくに酔って帰ると、惣次郎はおりません。母は寺参りに往ってお隅が一人奥で裁縫をしている。  富「只今帰りました」  隅「おやまア早くお帰りで、今日は大層酔って何処へ」  富「ヘエ、水街道から戸頭まで、早朝から出まして一寸帰りに水街道の麹屋へ寄りましたら能く来たというので、彼の麹屋の亭主が一杯というので有物で馳走になりまして大きに遅くなりました」  隅「大層真赤に酔って、旦那様はまだお帰りはありますまい、お母様は寺参りに」  富「左様で、御老体になりますとどうもお墓参りより外楽みはないと見えて毎日いらっしゃいますが恐入ります、また旦那様の御様子てえなねえ、誠にド、どうも恐入りますねえ、あんたはお家で柔和しやかに裁縫をなすっていらっしゃるは、どうも恐入りますねえ、ド、どうも富五郎どうも頂きました」  隅「大層真赤になって些とお寝みな」  富「中々寝度くない、一服頂戴、お母様はお寺参り、また和尚さんと長話し、和尚様はべら〳〵有難そうにいいますね、だが貴方がお裁縫姿の柔和しやかなるは実に恐れ入りますねえ」  隅「少しお寝みよ、富さん」  富「ヘエ〳〵寝度くないので、貴方は段々承ると、然るべき処の、お高も沢山お取り遊ばしたお武家の嬢様だが、御運悪く水街道へいらっしゃいまして、御親父様がお歿れになって、余儀なく斯ういう処へ入らしって、其の内彼いう杜漏な商売の中にいて貴方が正しく私は武士の娘だがという行いを、当家の主人がちゃんと見上げて、是こそ女房という訳で、此方へいらしったのだが、貴方だってもまア、私の考えが間違ったか知れんが、武士たる者の娘が何も生涯という訳ではなし、此の家は真の腰掛で、詰らんといっては済みませんが、けれども貴方生涯此家にいる思召はありますまい、手前それを心得て居るが、拙者も止むを得ず此処にいる、致し方がないから、半年も助ろ、来年迄いろよ、有難うと御主命でね、長く居る気はありません、貴方も真の当座の腰掛でいらっしゃるが口に出せんでも心中に在るね、内祝言は済んでも別に貴方の披露もなし披露をなさる訳もない、貴方も故郷懐しゅうございましょう、故郷忘じ難し、御府内で生れた者はねえ、然うではございませんかね」  隅「それはお前江戸で生れた者は江戸の結構は知っているから、江戸は見度いし懐かしいわね」  富「有難い、其のお言葉で私はすっかり安心してしまった、それがなければ詰らんで、ねえ武士の娘、それそこが武士の娘、手前ども少禄者だけれども、此処にへえつくしているが世が世なればという訳だが…お母様はまだ…法蔵寺様へお参りに入しったので…ですがねえ貴方、此家にこう遣って腰掛けで居るは富五郎心得ております、故郷は忘じ難し、江戸は懐かしゅうございましょう」  隅「あいよ、懐かしいは当然だわね」 六十一  富「ド何うも有難い、それさえ聞けば私は安心致すが、誰でも然うで私も早く江戸へ行き度いが、マアお隅さん私が少し道楽をして出まして、親類もあるけれども、私が道楽を行ったから私の身の上が定まらんでは世話は出来ぬというので、女房でも持って、斯ういう女と夫婦になったと身の上が定まれば、御家人の株位は買ってくれる親類もあるが、詰らん女を連れて行っては親類では得心しませんが、是はこう〳〵いう武士の娘、こういう身柄で今は零落て斯う、心底も是々というので、私が貴方の様なる方と一緒に行って何すれば親類でも得心致します、お前さんの御心底から器量は好し、こういう人を見立てゝ来る様になったら富五郎も心底は定まった、然うなれば力になって遣ろうというので、名主株位買ってくれますよ、構わずズーッと」  隅「何処へ」  富「何処って、だが、貴方ア腰掛で居る、故郷は何うしても懐かしゅうございましょう」  隅「何だか分りません、一つ言をいって故郷の懐かしい事は知れて居ります」  富「まア、宜しい、それを聞けば宜しい一寸〳〵」  隅「何だよ」  富「いゝじゃアありませんか二人でズーッと」  隅「いけないよ、其様な事をして」  富「それ、然ういうお堅いから二人で夫婦養子にどんな処へでも可なり高のある処へ行けます、お隅さん」  と何と心得違いしたか富五郎、無闇にお隅の手を取って髯だらけの顔を押付ける処へ、母が帰って来て、此の体を見て驚きましたから、傍にある麁朶を取って突然ポンと撲った。  富「これは痛い」  母「呆れかえった奴だ」  隅「よくお帰りでございまして」  母「今帰って来たゞが、彼の野郎ふざけ廻りやアがって、富五郎茲へ出ろ」  富「ヘエ、これは恐入りました、どうも些ともお帰りを知らんで、前後忘却致し、どうも何とも誠にどうも、何で御打擲ですか薩張分りません」  母「今見ていれば何だお隅にあの挙動は何だ、えゝ、厭がる者を無理にかじり付いて、髯だらけの面を擦り付けて、お隅をどうしようというだ、お隅は何だえ、惣次郎の女房という事を知らずにいるか、汝知っているか、返答ぶて」  富「どうも、私前後忘却致し、酔っておりまして、はっというとお隅さんで、恐入りました、無暗に御打擲で血が出ます」  母「頭ア打砕いても構わねえだ、汝恩を忘れたか、此の夏の取付に瓜畑へ這入って瓜イ盗んで、生埋にされる処を、家の惣次郎が情け深えから助けて、行く処もねえ者に羽織イ着せたり、袴ア穿かして、脇へ出ても富さん〳〵といわれるは誰がお蔭か、皆惣次郎が情深えからだ、それを惣次郎の女房に対して調戯って縋付いて、まア何とも呆れて物ういわれねえ、義理も恩も知らねえ、幾ら酔ぱらったって親の腹へ乗る者ア無えぞ呆れた、酒は飲むなよ好くねえ酒癖だから廃せというに聴かねえで酔ぱらっては帰って来やアがって、只た今逐出すから出ろえ、怖ねえ、お前の様な者ア間違を出かします、こんな奴は只た今出て行け」  富「お腹立様では何ですが、お隅様に只今の様な事をしたは富五郎本心でしたと思召しての御立腹なれば御尤もでございます」  母「尤もと思うなら出て行け」  富「私は大変酔ってはおりますが富五郎も武士でげす、御当家の旦那様に助けられた事は忘却致しません、あゝ有難い事であゝ簀巻にして川へ投り込まれる処を助けられ、斯の如く面倒を見て下すって、江戸へ帰る時は是々すると仰しゃって、実に有難い事で、江戸へ行っても御当家の御恩報じお家の為になる様心得ております」  母「そう心得ておるなればなぜお隅にあゝいう挙動エする」  富「其処を申します、其処が旦那様のお為を思う処、旦那様は世間見ずの方、江戸へも余り入らしった事もない、殊にはあなた様は其の通り田舎気質の結構な方、惣吉様は子供衆で仔細ないが、お隅様も結構な方でございますが、前々承れば、水街道の麹屋で客の相手に出た方、縁あって御当家へいらっしゃったが、お隅様のまえで申しては済みませんが、若しお隅様が不実意な浮気心でもあっては惣次郎様のお為にもならぬと思って、どういう御心底か一寸只今気を引いた処、どうもお隅様の御心底是には実に恐れ入りました、富五郎安心しましたが、処をどうも薪でもってポンと頭をどうも情ない思召しと思う」  母「あゝ云う言抜を吐きゃアがる、気い引て見たなどゝ猶更置く事は出来ねえから出て行け」  隅「お母様お腹立でございましょう、御気性だから、富さん、お前は酒が悪いよ、お酒さえ慎めば宜しい、旦那様のお耳に入れない様にするから」  富「エ、もう飲みませんとも」  母「まアお前彼方へ引込んで、私が勘弁出来ぬ、本当なればお隅が先へ立って追出すというが当然だが、こういう優しげな気性だから勘弁というお隅の心根エ聞けば、一度は許すが、今度彼様挙動エすれば直ぐ追出すからそう思え」  富「恐入りました」  と是からこそ〳〵部屋へ這入って、と見ると頭に血が染みました。  富「お隅は万更でもねえ了簡であるのに、あゝ太え婆アだ」  なに自分が太い癖に何卒してお隅を手に入れ様と思ううち、ふと思い出して胸へ浮んだのは、噂に聞けば去年の秋大生郷の天神前で、安田一角と花車重吉の喧嘩の起因はお隅から、よし彼奴を力に頼んでと是れからべら〳〵の怪しい羽織を着て、ちょこ〳〵横曾根村へ来て安田一角の玄関へ掛り、  富「お頼み申す〳〵」 六十二  門弟「どうーれ、何方から」  富「手前は隣村に居る山倉富五郎と申す浪人で、先生御在宅なれば面会致し度態々参りました、是は此方様へほんのお土産で」  門「少々お控えなさい、先生」  安田「はい」  門「近村の山倉富五郎と申す者が面会致し度いと、是は土産で」  安「山倉とは知らぬが、此方へお通し申せ」  門「此方へお通りなすって」  富「成程是は結構なお住居で、成程是は御道場でげすな…ようがすな御道場の向うが…丁度是から畑の見える処が…是はどうもまた違いますな」  安「さア〳〵是へ、何卒、是は〳〵」  富「えゝ、山倉富五郎と申す疎忽者此の後とも御別懇に」  安「拙者が安田一角と申す至って武骨者此の後とも、えー只今はお土産を有難う」  富「いゝえ詰らん物で、ほんのしるしで御笑納下さい、大きに冷気になりましたが日中は余程お暑い様で」  安「左様で、今日はまた些とお暑い様で、よくお出でゝ、えー何か御用で」  富「はい少々内々で申し上げ度い事が有って、彼の方は御門弟で」  安「はい」  富「少々お遠ざけを願います」  安「はい、慶治御内談があって他聞を憚ると仰しゃる事だから、彼方へ行っておれ、えー用があれば呼ぶから」  慶「へえ左様で」  富「え、もうお構いなく、先生お幾歳でげす」  安「手前ですか、もういけません、何で、四十一歳で」  富「へえお若うげすね、御気力がお慥かだからお若く見える、頭髪の光沢も好し、立派な惜しい先生だ、此方に置くのは惜しい、江戸へ入らっしゃれば諸侯方が抱えます立派なお身の上」  安「何の御用か承り度い」  富「手前打明けたお話を致しますが、只今では羽生村の名主惣次郎方の厄介になっておる者でござるが、惣次郎の只今女房という訳でない、まア妾同様のお隅と申す婦人、彼は御案内の水街道の麹屋に奉公致した酌取女、彼の隅なるものに先生思召があったのでげすな、前に惚れていらしったのでげすな貴方」  安「これは初めてお出でゞ、他人の女房に惚れているなどといや挨拶の仕様がない、麹屋にいた時分には贔屓にした女だから祝儀も遣って随分引張って見た事もあるのさ」  富「恐れ入ったね、それが然う云えぬもので恐入りました、其処が大先生で、えーえらい」  安「何しにお出でなすった、安田一角を嘲哢なさりにお出でなすったか、初めてお出でゞ左様なる事を仰しゃる事がありますか」  富「御立腹ではどうも、中々左様な訳ではない、手前剣道の師とお頼み申し、師弟の契約をしたい心得で罷り出ましたので、実は彼のお隅と申すは同家にいるから、段々それまア江戸子同士で、打明けた話をするとお前さん此処に長くいる気はあるまい、此処は腰掛だろう、故郷忘じ難かろう、私と一緒に江戸へ、というと、私も実は江戸へ行き度い、殊に江戸には可なりの親類もあり、仮令名主でも百姓の家へ縁付いたといわれては親類の聞えも悪い、然うなればといって御新造という訳ではなし、へえ〳〵云って姑の機嫌も取らなければならんから実は江戸へ行き度いというから、然うなれば何故一角先生の処へいかぬ、向は何でも大先生、弟子衆も出這入り、名主などは皆弟子だから、彼処へ行って御新造になれば江戸へ行っても今井田流の大先生、彼処の御新造になれば結構だになぜ行かぬというと、夫には種々義理もあって、親父の借金も名主惣次郎が金を出してくれた恩もあるから、先生の処へ行かれもしないというから、それなら先生が斯うと云ったらお前行く気があるかと云ったら、私は行き度いが、先生には色々綾があるから行かれないというから、然うなれば私が行って話し、私も江戸へ帰る土産に剣道を覚えて帰り度い、よい師匠を頼もうと思っていた処だというので、然うなればと頼まれて参ったので、先生彼を御新造になさい、どうでげす」  安「お帰んなさい、何だお前は、これ汝は何だ、惣次郎方の厄介になっている者なれば、惣次郎がどうかして安田を馬鹿にして遣れというので来たな、初めて逢って他人の女房を貰えなどと、はい願いますと誰がいう、殊に惣次郎には、去年の秋聊かの間違で互に遺恨もあり、私も恨みに思っている、其の敵同士の処へ来て女房に世話をしましょうなどと、はい願いますと誰がいう、白痴め、帰れ〳〵」  富「成程是は至極御尤も、どうもお気分に障るべき事を申したが、まア」  安「騒々しい、帰れったら帰れ」  富「まア〳〵重々御尤も、是には一つの訳がある、ようがすか、手前が打明けた話を致しましょう、手前も武士で二言はない手前は本所北割下水で千百五十石を取った座光寺源三郎の用人山倉富右衞門の忰富五郎、主人は女太夫を奥方にした馬鹿ですから家は改易、仕方なし、手前は常陸に知己があるから参ったが、ふとした縁で惣次郎方の厄介、処が惣次郎人遣いを知らず、名主というを権にかって酷い取扱いをするは如何にも心外で、手前は浪人でも土民なぞにへえつくする事はない、残念に心得ているが、打明話を致すが、江戸に親類どもゝある身の上、江戸へ帰るにも何か土産がないが、実は今まで道楽をして親類でも採上げませんから、貴方の内弟子になってお側で剣道を教えて頂いて、免許目録を貰って帰ると、親類でも今まで放蕩をしても田舎へ行って、是々いう先生の弟子になってと書付を持って帰れば、それが価値になって何処へでも養子に行かれる、処が、御門人にといっても、月々の物を差上げる事も出来ません身の上でございますが、それを承知で貴方の弟子に取って下さるなれば、私は弟子入の目録代りに、御意に適ったお隅を、御新造に、長熨斗を付けて持って来ましょう」 六十三  安田「是は面白いぞ、惣次郎という主のある者をどうして持って来られます」  富「惣次郎が有ってはいけませんが、惣次郎を一ト刀に斬って下さい」  安「黙れ、馬鹿をいうな、帰れ、帰れ、汝は惣次郎と同意して手前の気を引きに来たな、うゝん帰れ〳〵」  富「これは成程、至極御尤もですが、まア」  安「騒々しい行け〳〵」  富「じゃア有体に申します、正直なお話を致しますが、貴方の遺恨ある角力取の花車重吉が来て、法恩寺村の場所が始まるので、去年の礼というので、明晩になりますと、惣次郎が金三十両遣ると、ようがすか、用をしまうのは日の暮方まで掛りましょう、帳合などを致しますからな、用が終って飯を食ってはどうしても夜の六つ過になります、其処で三拾両持って出掛ける、富五郎がお供でげす、ずうっと河原へ出て、それから弘行寺の松の林の処へ出て黒門の処までは長い道でございますから其処へ出て来ましたら、貴方は顔を包んで芒畳の影に隠れていて、手前が合図に提灯を消すと、途端に貴方が出てずぷりと遣り、惣次郎を殺すと金が三十両あるから持って宅へ帰り、構わず寝て入らっしゃい、まアさお聞きなさい、手前は面部へ疵を付けて帰って、今狼藉者が十四五人出て、旦那も切合って私も切合ったが、多勢に無勢敵わぬ、早く百姓をというので大勢来て見ると、貴方は宅へ帰って寝て居る時分だから分らぬてえ、気の毒なといって死骸を引取り、野辺送りをしてしまってから、ようがすか、其の後は旦那様が入らっしゃりませんでは私がいても済みません、殊には彼アいう処へお供をして、旦那が彼アなれば猶更どうも思い出して泣く許りでございますから、江戸表へという、惣次郎が死ねばお隅さんも旦那様がいなければ此の家にいても余計者だから私も江戸へ帰るという、江戸へ行くなれば一緒にというので、お隅を連れて来てずうっと貴方の処へ長熨斗を付けて差上げる工風、富五郎の才覚、惚れた女を御新造にして金を三拾両只取れるという、是迄種を明してこれでも疑念に思召すか、えゝどうでげす」  安「成程是は面白い、それに相違ないか」  富「相違あるもないも身の上を明してかくお話をして、是をどうも疑念てえ事はない、宜しい手前も武士で金打致します…今日はいけません…木刀を帯して来たから今日は金打は出来ませんが、外に何の様なる証拠でも致します」  安「じゃア明晩酉刻というのか」  富「手前供を致します、彼処は日中も人は通りませんから、酉刻を打って参り、ふッと提灯を消すのが合図」  安「よろしい、相違なければ」  と約束して帰りました。安田一角は馬鹿でもない奴なれども、お隅にぞっこん惚れているから、全く然ういう了簡で連れて来るのではないかと思い、是から胸に包んで翌日仕度をして早くから家を出て、諸方を廻って、夜に入って弘行寺の裏手林芒畳へ蹲んで待っている事とは知りません、此方は富五郎が、お隅を手に入れるに惣次郎が邪魔になりますが、惣次郎は剣術も心得ておりますから、自分に殺す事が出来ぬから、一角を欺して惣次郎を殺させて後、お隅を連出して女房にしようという企でございます、実に悪い奴もあるものでございます。富五郎は書物が分りませんから眼を通してと、惣次郎へ帳面を見せ、態と手間取るから遅くなります。是から夜食を食べて支度をして提灯を点けて出かけようとする、何か虫が知らせるかして母親もお隅も遣りたくない、  隅「何だか遅いから、明日先方から参りますから今日はお止めなさいな」  惣「なアに直ぐ帰るから」  隅「そうでございますか、富五郎お前一緒にどうか気を付けておくれよ」  富「ヘエ大丈夫、どんな事があっても旦那様にお怪我をさせる様な事はございません、手前も剣道を心得ておりますから」  と空を遣って惣次郎の供をして出掛けましたが、笠阿弥陀を横に見て、林の処へ出て参りますと、左右は芒畳で見えませんが、左の方の土手向うは絹川の流れドウ〳〵とする、ぽつり〳〵と雨が顔にかゝって来る。  惣「富五郎降って来たようだ」  富「大した事もありません、恐れ入りましたが一寸小用を致しますから」  惣「小便をするなれば提灯は持ていて遣る、これ〳〵何処へ行く提灯を持って行っては困る」  という中富五郎はふっと提灯を吹消しました。  惣「提灯が消えては真暗でいかぬのう」  富「今小用致しますから」  という折から安田一角は大松の蔭に忍んでおりましたが提灯が消えるを合図にスックと立って透し見るに、真暗ではございますが、晃つく長いのを引抜いてこう透して居ります。  惣「富や、おい富〳〵、何んだかこそ〳〵して後にいるのは、富や〳〵」  という声を当にして安田一角が振被る折から、向の方から来る者がありますが、大きな傘を引担いで、下駄も途中で借りたと見えて、降る中を此処に来合わせましたは、花車重吉という角力取でござります。是からは芝居なればだんまり場でございます。 六十四  引き続きお聞に入れまするは、羽生村の名主惣次郎を山倉富五郎が手引をして、安田一角と申す者に殺させます。是は富五郎が惣次郎の女房お隅に心底惚れておりましても、惣次郎があるので邪魔になりますから、寧そかたづけて自分の手に入れようという悪心でござりますが、田舎にいて名主を勤めるくらいであるから惣次郎も剣術の免許ぐらい取って居ります。富五郎は放蕩無頼で屋敷を出る位で、少しも剣術を知りませんから、自分で殺す事は出来ません、茲で下手でも安田一角という者は、剣術の先生で弟子も持っているから、丁度お隅に惚れているのを幸い、一角を*おいやって惣次郎を殺し、惣次郎の歿い後にお隅を無理に口説いて江戸へ連れて行って女房にしようという企を考え、やまで嚇して上手に見えるが田舎廻りの剣術遣だから、安田一角が惣次郎より腕が鈍くて、若し惣次郎が一角を殺すような事になれば、此の企は空しくなるというので、惣次郎が常に帯して出ます脇差の鞘を払って、其の中へ松脂を詰めて止めを致して置きました、実に悪い奴でございます。惣次郎は神ならぬ身の、左様な企を存じませんから富五郎を連れて、彼の脇差を帯して家を出て、丁度弘行寺の裏林へ掛りますと、富五郎がこそ〳〵匐って行くようですから、なぜかと思って後を振り返える、とたんに出たのは安田一角、面部を深く包み、端折を高く取って重ね厚の新刀を引き抜き、力に任せてプスーリ一刀あびせ掛けましたから、惣次郎もひらりと身を転じて、脇差の柄に手を掛け抜こうとすると、松脂をつぎ込んでから一日たって居るので粘って抜けない、脇差の抜けませんのにいら立つ処を又た一刀バッサリと骨を切れるくらいに切り込まれて、向へ倒れる処を、又一刀あびせたから惣次郎は残念と心得て、脇差の鞘ごと投げ付けました、一角がツと身を交すと肩の処をすれて、薄の根方へずぽんと刀が突立ったから、一角は血を拭いて鞘に収め、懐中へ手を入れて三十両の金を胴巻ぐるみ盗んで逃げようとすると、向の方から蛇の目の傘を指し、高足駄を穿いて、花車重吉という角力が参りました時には、一筋道で何処へも避けることが出来ません、一角は狽えて後へ帰ろうとすれば村が近い、仕方がないからさっさっと側の薄畳の蔭の処へ身を潜め、小さくなって隠れて居ります。此方は富五郎はバッサリ切った音を聞いて、直に家へ駈けて行く、其の道すがら茨か何かで態と蚯蚓腫れの傷を拵えましてせッ〳〵と息を切って家へ帰り *「けしかけるおだてるそゝのかす」  富「只今帰りました」  という。処が富五郎ばかり帰ったから恟りして、  隅「おや富さんお帰りかい何うかおしかえ」  富「ヘエもう騒動が出来ました、あの弘行寺の裏林へ掛ったら悪漢が十四五人ででで出まして、二人とも懐中の金を出せ身ぐるみ脱いで置いて行けと申しましたから、驚いて旦那に怪我をさせまいと思いまして、松の木を小楯に取りまして、不埓至極な奴だ、旦那を何と心得る、羽生村の名主様であるぞ、粗相をすると許さんぞというと、大勢で得物〳〵を持って切って掛るから、手前も大勢を相手に切り結び、旦那も刀を抜いて切り結びまして、二人で大勢を相手にチョン〳〵切結んでおりましたが、何分多勢に無勢旦那に怪我があってはならぬと思って、やっと一方を切り抜けて参りました、此の通り顔を傷だらけにして…早くお若衆早く〳〵」  と誠しやかにせえ〳〵息を切っていいますから、お隅は驚いて、それ早く〳〵というので、村の百姓を頼んで手分をして、どろ〳〵押して参りましたが、もう間に合いは致しません、斬った奴は疾に家へ帰って寝ている時分、百姓衆が大勢行って見ると、情ない哉惣次郎は血に染って倒れておりますから、百姓衆も気の毒に思い、死骸を戸板に載せて引き取り、此の事を代官へ訴え、先ず検視も済み、仕方なく野辺送りも内葬の沙汰で法蔵寺へ葬りました。是程の騒ぎで村の者は出掛けて追剥の行方を詮議致し、又四方八方八州の手が廻ったが、殺した一角は横曾根村に枕を高く寝ておりまするので容易に知れません。惣次郎と兄弟分になった花車重吉という角力は法恩寺村にいて、場所を開こうという処へ此の騒ぎがあるのに、とんと悔みにも参りませんから、母も愚痴が出て  母「あゝ家の心棒がなくなれば然うしたもんか、情ないもの」  と愚痴たら〴〵。そうこうすると九月八日は三七日でござります、花車重吉が細長い風呂敷に包んだ物を提げて土間の処から這入って参りまして、  花「はい御免なせい」  多「いやお出でなさえまし」  花「誠に大分御無沙汰致しました」  多「家でもまア何うしたかってえねえ、一寸知らせるだったが、家がまア忙しくって手が廻らないだで、まア一人で歩いてることも出来なえから誠に無沙汰アしましたが、旦那様ア殺された事は貴方知って居るだね」  花「誠にまア何とも申そう様はございません、知って居りましたが旦那と私とは別懇の間柄だから、私が行って顔を見ればお母様やお隅さんに尚更歎きを増させるような者だから、夫故まア知っていながら遅くなりました、多助さん、飛んだ事になりましたね」  多「飛んだにも何にも魂消てしまってね、お内儀様はハア年い取ってるだから愚痴イいうだ、花車は内に奉公をした者で、殊に角力になる時前の旦那様の御丹精もあるとねえ、惣次郎とは兄弟じゃアねえか、それで此の騒ぎが法恩寺村迄知んねえ訳ア無え、知って来ないは不実だが、それとも知んねえか、江戸へでも帰った事かとお内儀さんあんたの事をば云って、ただ騒いでいるだ、どうか行って心が落ち着くように気やすめを云って下さえ、泣いてばいいるだからねえ」  花「はい、来たいとは思いながら少し訳があって遅く参りました、まア御免なせえ」  多「さア此方へお這入り」  というので風呂敷包を提げたなり奥へ参ります。来てみると香花は始終絶えませぬから其処らが線香臭うございます。  多「お内儀さん法恩寺の関取が参りましたよ」  母「やア花車が来たかい、さア此方へ這入っておくんなせえ」  花「はい、お内儀さん何とも此の度は申そう様もございません、さぞ御愁傷様でございましょう」 六十五  母「はい只どうもね魂消てばいいます、お前も知っている通り小せえ時分から親孝行で父様アとは違って道楽もぶたなえ、こんな堅い人はなえ、小前の者にも情を掛けて親切にする、あゝいう人がこんなハア殺され様をするというは神も仏もないかと村の者が泣いて騒ぐ、私もハア此の年になって跡目相続をする大事な忰にはア死別れ、それも畳の上で長煩いして看病をした上の臨終でないだから、何たる因果かと思えましてね、愚痴い出て泣いてばいいます、それにお隅は自分の部屋にばい這入って泣いて居るから、此間もお寺へ行ったら法蔵寺の和尚様ア因果経というお経を読んで聴かせて、因果という者アあるだから諦めねばなんねえて意見をいわれましたが、はアどうも諦めが付かなえで、只どうも魂消てしまって、どうかまアこういう事なら父アんの死んだ時一緒に死なれりゃア死にたかったと思えますくらいで」  花「はい、私もねえお寺詣りには度々参ります、それも一人で、実は人に知れない様に参りました、是には深い訳のあることで、私が不実で来ないと思って定めて腹を立てゝお出でなさるとは知っていますが、少し来ては都合の悪い事があって来ませぬ、お前さん私は今まで泣いたことはありません、又大きな身体をして泣くのは見っともねえから、めろ〳〵泣きはしませんけれども、外に身寄兄弟もなし、重吉手前とは兄弟分となって、何んでもお互に胸にある事を打ち明けて話をしよう、力になり合おうといっておくんなさいました、其のお前さん力に思う方に別れて、実に今度ばかりは力が落ちました、墓場へ行って花を上げて水を手向けるときにも、どうも愚痴の様だけれども諦めが付かないでついはア泣きます、まア何んともいい様がありません、嘸お前さんには一と通りではありますまい、お察し申しております、お隅さんも嘸御愁傷でしょう」  母「はい私の泣くのは当り前のことだが、あのお隅は人にも逢わなえで泣いてばいおるから、そう泣いてばいいると身体に障るから、些と気い紛らすが宜え、幾ら泣いても生返る訳でなえというけれども、只彼処へ蹲んで線香を上げ、水を上げちゃア泣いてるだ、誠にハア困ります」  花「はいお隅さんを一寸茲へお呼びなすって下さい」  母「お隅やちょっくり此処へ来うや、関取が来たから来うや」  隅「はい〳〵」  母「さア此処へ来や、待ってるだ」  隅「関取おいでなさい」  花「はいお隅さんまア何んとも申そう様はありません、とんだことになりました、嘸ぞお力落しでございましょう」  隅「はい、もうね毎日お母さんと貴方の噂ばかり致しまして、どうしておいでなさいませんか、何かお心持でも悪いことがありはしまいか、よもや知れない事もあるまいが、何か訳のある事だろうと、お噂を致しておりましたが実に夢の様な心持でございましてねえ、それは貴方とは別段に中が好くってねえ、旦那が毎も疳癪を起しておいでなさる時にも、関取がおいでなさいますと、直に御機嫌が直って笑い顔をなさる、こうやって関取が来ても旦那様がお達者でいらしったら嘸お喜びだと存じまして、私は旦那の笑顔が目に付きます」  母「これ泣かないが宜え、そう泣かば病に障るからというのに聞かなえで、彼の様に泣いてばいいるから、汝が泣くから己がも共に悲しくなる、泣いたって生返る訳エなえから諦めろというだ、ねえ関取」  花「ヘエ、御愁傷の処は御尤でございますが、お隅さん、旦那をば何者が殺したという処の手掛は些とはございますか」  隅「もう関取の処へ早く行き度いというのが、御用があって二日ばかり遅くなりましたから、是から富五郎を供に連れて関取にお目に掛りに参ると仰しゃるから、今日は大分遅いから明日になすったら好かろうといっても、是非今日はといって、何ういう事か大層急いてお出でになりました、処が丁度弘行寺の裏林へ通り掛りますと、十四五人の狼藉者が出まして、得物〳〵を持って切り付けましたから、旦那はお手利でございますから直に脇差を抜いて向うと、富五郎も元は武士で剣術も存じておりますから、二人で十四五人を相手に切り結んだけれども、幾ら旦那が御手練でも向は大勢でございますから、仕方なく、富五郎が旦那にお怪我をさしてはならぬとやっと切り抜け駈け付けて来ました、直に村の若い衆も大勢参りましたけれども、其の甲斐もなくもう間に合いませんで、誠に情ないことでございます」  花「じゃア富五郎さんが一緒に附いて行って弘行寺の裏林へ掛った処が十四五人狼藉者が出て取巻いたから、旦那も切結び、富五郎も切り合ったという処を誰も見た者はないので、富五郎が帰って其の事を話したのですね」  隅「左様でございます」  花「うん、富五郎という人は内におりますか」  隅「お母さん、今日は富五郎は何処かへ使いに参りましたか」  母「今何まで使に遣ったゞ、何処まで行ったかのう、又水街道の方へ廻ったか知んなえ、じき横曾根まで遣ったがね」  花「御新造さん、留守かえ、そんなら話をしますが、あの富五郎という奴は、べちゃくちゃ世辞をいう口前の好い人だね、実は私はね、人には云わないが旦那の殺されたばかりの処へ通り掛った処が、丁度廿五日で真暗だ、私がずん〳〵行くと、向から頭巾を被った奴が来やアがる様子だから、はて斯んな林に胡散な奴がおる、ことに依ったら盗賊かと思うたから、油断せずに透して見ると、其奴が脇道へ曲って、向へこそ〳〵這入って行くから、何でもこれは怪しいと思うて、急いで来ると、私の下駄で蹴付けたのは脇差じゃ、はて是は脇差じゃが何うして此処に在るかと思うて、見ると向からワイ〳〵とお百姓が来まして、高声上げて、あゝ情ないもう少し早かったらこんな事にはならぬ、無惨なことをした、情ないことをしたというから、こいつしまった、そんなら頭巾を被った奴が旦那を殺したと思って、其の事を皆の中で話をしようかと思ったが、旦那と私と深い中のことは知って居るし、若し角力が加勢をすると思って、遠く逃げてしまわれたら手掛りはないから、是は知らぬ積りで家へ帰ったが好いと思うて、其の脇差を提げて帰ってからは何処へも出ず、外の者にも黙ってろ知らぬ積りでいろといい付けて来ずにいましたが、今日は斯うして脇差を持って来ました」  母「あれやまア、どうも不思議なこんだ、殺された処へ通り掛って脇差い拾ったって、其の斬った奴は何様奴だかね」  花「お隅さん、それはね此の脇差はどうしたのか知れないが、ちょっくり抜けない、私の力でもちょっくり抜けない、何でも松脂か何か附いてると見えて粘ば〳〵してるから、ひっついて抜けないが、これは旦那の不断差す脇差で私も能く知っております」  母「あれやまアどうも、お前が知ってるのが手に這入るのは不思議だねえ」 六十六  隅「お母様、もう少し関取が早かったら助かりましたものを」  花車「此の通り抜けない、抜けないから脇差を投り付けたのを盗賊が置いて行ったか、其処は分らんが、今富五郎が私も切り合い旦那も切合ったが、相手が大勢で敵わんというので駈付けて来て知らしたというのは、それはどうも私は胡散なことと思う、仮令相手が多かろうが少なかろうが、旦那様が危いのを一人措いて逃げて来るという訳はないねえ、然うじゃないか、大切な主人と思えばどこ迄も助けるには側にいなければならぬ、それを措いて来るとは、怖いから逃げたとしか思えない、旦那が脇差を抜いて切合ったというが抜けやしない、ねえ、どうしても抜けない刀を抜いて切合ったという道理がないから、どうも富五郎という奴が怪しい、という訳は、お隅さん、去年の秋大生郷の天神前で喧嘩を仕掛けた奴がお隅さんが麹屋に居た時分お前さんに惚れて居て冗談をいった奴がある、処がお隅さんは堅いから、いう事を聞かんで撥付けたのを遺恨に思うているということを知っている、事に依ったら安田一角が旦那を切って逃げやアしないかと考えた、就ては山倉富五郎という野郎は、口前は好い奴だが心に情のない慾張った奴だから、事に依ったら一角にお出で〳〵をされて鼻薬を貰うて、一角の方に付いて、彼奴が手引をして殺させやアせんかと思う、それ此の通り抜けぬのに抜いて切合ったというのが第一おかしいじゃないか」  母「あれやまア其処らには気が付かんで、只まア魂消てばいいました、ほんにそうかもしんねえよ、其の頭巾冠ったのはどんな恰好だっきゃア」  花「それは暗だから確り分らんが、一角じゃないかと私の心に浮んだ、斯うしておくんなさい、私は黙って帰るが、富五郎が帰ったら、今日花車が悔みに来て種々取こんだ事があって遅くなった、就ては他へ二百両ばかり貸したが、どう掛合っても取れないから、どうかして取ろうと中へ人を入れたが、何分取れないが、若し富五郎さんが間へ這入ったら向の奴も怖いから返すだろう、若しお前の腕から二百両取れたら半分は礼に遣るが、どうか催促の掛合に往ってくれまいかと、花車が頼んだが行って遣らんかといえば、慾張ているから屹度遣って来るに違いない、法恩寺村の私の処へ来たら富五郎さん〳〵というて富五郎を側に寄せ、腕を押えてさア白状しろ、一角に頼まれて鼻薬を貰って、惣次郎さんを殺したと云え、どうだ〳〵いわなけりゃア土性骨を殴して飯を吐かせるぞ、白状すれば、命は助けて遣るというたら、痛いから白状するに違いない、実は是れ〳〵〳〵〳〵であると喋ったら旨いもんで然うしたら富五郎はくり〳〵坊主にして助けても好し、物置へ投り込んでも好いが、愈々一角と決ったらお隅様は繊細い女、お母様は年を取って居り、惣吉様はまだ子供だから私が先へ行きます、一角の処へ行って、偖先生大生郷の天神前で、飛んだ不調法を致しましたが何卒堪忍しておくんなさいと只管詫びる、然うすれば斬ることは出来ぬからうっかり近寄る近寄ったら両方の腕を押えて動かさぬ、さア手前が惣次郎を殺した事は富五郎が白状した、敵を取るから覚悟をしろと腕を押えた処へ、お前様が来て小刀でも錐でも構わぬからずぶ〳〵突ついて一角を殺すが好いどうじゃ」  隅「本当に有難いこと、嘸旦那様が草葉の蔭でお喜びでございましょう、関取私は殺されてもいゝから旦那様の敵を取って」  母「何分にもよろしくねがえます」  花「余り敵〳〵と云わないがいゝ、私は先へ帰りますから」  と脇差を元の如く包んで帰りました。後へ入り替って帰りましたのは山倉富五郎、  富「ヘエ只今帰りました」  母「富や、大層帰りが遅かったね」  富「なに帰り掛けに法蔵寺様へ廻りまして、幸い好い花がありましたからお花を手向けましたが、お墓に向いましてなア、実に残念でございまして、何だか此間まで富〳〵と仰しゃったお方がまアどうも、石の下へお這入りなすったかと存じましたら胸が痛くなりまして、嫌な心持で、又家へ帰って貴方がたのお顔を見ると、胸が裂ける様な心持、仏間に向って御回向致しますると落涙するばかりで、誠にはや何んとも申そう様はありません」  母「まア能く心に掛けて汝が墓参りするって、嘸草葉の蔭で喜んでいるベエ」  富「どうも別に御恩返しの仕方がありませんから、お墓参りでもするより外仕方がありません、仏様にはお念仏や花を手向けるくらいで、御恩返しにはなりませんが、それより外に仕方がありません、ヘエ」  隅「あの富さん先刻花車関が悔みに参りましたよ」  富「おや〳〵〳〵左様でござりましたか、ヘエ成程何うなすったか、御存じないのかと思いましたが」  母「ナニ知ってたてや、知ってたけれども早く来て顔を見せたら、深え馴染の中だで思出して歎きが増して母様が泣くべえ、それに種々用があって来ねえでいたが悪く思ってくれるなって、大い身体アして泣いただ」  富「そうでげしょう、兄弟の義を約束した方でございますから嘸御愁傷でげしょうお察し申します」  母「就てねえ、あの関取が他へ金え二百両貸した処が、向の奴がずりい奴で、返さなえで誠に困るから、どうか富さんを頼んで掛合って貰えてえ、富さんの口前で二百両取れたら百両礼をするてえいうだ、どうだい、帰ったばかりで草臥て居るだろうが、行って遣ってくんろよ」  富「ヘエ成程関取が用立った処が向の奴が返さんのですか、なに直ぐ取って上げましょう、造作もありません、百両……百両……なアに金なんぞお礼に戴かぬでも御懇意の間でげすから直ぐに行って参ります」  と止せばよいのに黒い羽織を着て、一本帯して、ひょこ〳〵遣って来ましたのが天命。  富「はい御免なさい、関取のお宅は此方でげすか、頼みます〳〵」  弟子「おーい此処だい」  花「これ〳〵一寸此処へ来い、富五郎という人が来たら奥へ通して己が段々掛合いになるのだで、切迫詰って彼奴が逃げ出すかも知れないから、逃げたらば表に二人も待ってゝ、逃やがったら生捕って逃がしてはならぬぞ、えゝ、初めは柔和な顔をして掛合うから」  弟子「逃げたら襟首を押えて」  花「こう〳〵そんな大きな声を、此方へお這入りなさいといえ」 六十七  弟子「此方へお這入んなせい」  富「御免を蒙ります」  花「さア富さん此方へ、取次も何もなしにずか〳〵上って好いじゃないか、さア此方へ来て下さい」  富「えー其の後は存外御無沙汰を、えー毎も御壮健で益々御出精で蔭ながら大悦致します、関取は大層評判が好うげすから場所が始まりましたら、是非一度は見物致そうと心得ていましたが、御案内の通りさん〴〵の取込で、つい一寸の見物も出来ません、併し御評判は高いものでござります、昨年から見ると大した事で、お羨しゅう、実に関取は身体も出来て入っしゃるし、殊には角力が巧手で、愛敬があり、実に自力のある処の関取だから、今に日の下開山横綱の許しを取るのはあの関取ばかりだといって居ます」  花「余計な世辞は止して下せい、私は余計な世辞は大嫌いだから」  富「いや世辞は申しません、これは譬えの通り人情で、好きなものは一遍顔を見た者には、知らぬ人でも勝たせたいと思うのが人間の情でげしょう、況して旦那とは兄弟分でこうやって近々拝顔を得ますから、場所中は、どうか関取がお勝になる様にと神信心をしていますよ」  花「それは有り難い、仮令虚言でも日の下開山横綱と云って貰えば何となく心嬉しい、やア、お茶を上げろよ、さア此方へ」  富「関取、さぞ御愁傷で」  花「やアお互のことで、嘸お前さんもお力落しでございましょう」  富「イヤ此度は実に弱りまして、只もうどうも富五郎は両親に別れたような心持が致しますなア」  花「然うでございましょう、私も実は片腕もがれた様だといいましょうか」  富「然うでげしょう、私も実に弱りましたね」  花「就いて富さん、お前さんが供に行ったのだとねえ」  富「左様」  花「どんな奴でございますえ、切った奴は」  富「それはもう何んとも残念千万、弘行寺の裏林へ掛ると、面部を包んで長い物をぶち込んだ奴が十四五人でずっと取り巻いて、旦那が金を三十両持っているのを知って、出せ身ぐるみ脱いで置いてけというから、旦那に怪我をさせまいと思って、旦那を何と心得る、旦那は羽生村の名主様だぞ、若し無礼をすれば引縛って引くから左様心得ろというと、なに、と突然竹槍をもって突いて来るから、私も刀を抜いて竹槍を切って落し、杉の木を小楯に取ってちょん〳〵〳〵〳〵暫く大勢を相手に切合いました、すると旦那も黙っている気性でないから、すらり引抜いて一生懸命に大勢を相手にちゃん〳〵切合いましたから、刀の尖先から火が出ました、真に火花を散すとはこの事でしょう、けれども多勢に無勢と云う譬えの通りで、迚も敵わぬから、旦那に怪我があってはならぬと、危うい処を切抜けて駈込んで知らせたから、そら早くというので大勢の若い衆がどっと来て見ましたが、間に合いません、実に残念で、どうも」  花「お前さん供をしたから、嘸残念だったろうねえ」  富「実にどうも此の上ない残念で」  花「そこで、何んですかい、向は十四五人で、其の内一人か二人捕まえるとよかったね」  富「処が向が大勢でげすから、此方が剣術を知っていても、大勢で刃物を持って切付けるから敵いません」  花「じゃア旦那が刀を抜いて切合った処をお前さんは見ただろうねえ」  富「そりゃア見ましたとも、旦那はお手利でげすからちょん〳〵〳〵〳〵切合いました」  花「それに相違ないねえ」  富「相違も何もありません、現在私が見ておったから」  花「うん然うかえ、富さん、もっと側へお出でなさい、今日は一抔飲みましょう」  富「それは誠に有難いことで、時に何かお頼みがあるという事でげすが早速取立てましょう、なに造作もないことで」  花「それに付いて種々話があるのだがもっと側へ」  富「じゃア御免を蒙って」  花「さて富さん、人と長く付合うには嘘を吐いてはいかないねえ」  富「それは誠に其の通り信がなくてはいけませぬねえ」  花「今お前のいったのは皆嘘と考えて居る、旦那様が脇差を抜いてちょん〳〵切合い、お前も切結んだと、そんな出鱈目の事をいわずに正直なことをいってしまいねえ」  富「な何んだ、これは恐入ったね、どうも怪しからん事を、ど、どういう訳でな何んで」  花「やい、それよりも正直に、慾に目が眩んで一角に頼まれて恩人の惣次郎を私が手引で殺させましたといっちまいねえ」  富「これは怪しからん、怪しからん事があるものだね、関取外の事とは違います、私は一角という者は存じませぬ、知りもしない奴に仮令どの様な慾があっても、頼まれて旦那様を殺させたろうという御疑念は何等の廉を取って左様なことを仰しゃる、と関取で無ければ捨置けぬ一言、手前も元は武士でござる、何を証拠に左様な事を仰せられるか、関取承りたいな」  花「嘘つくない、正直にいってしまいな、手前が鼻薬を貰って、一角に頼まれて旦那を引き出したといってしまえば、命許りは助けてやる、相手は一角だから敵を打たせる積りだが、何処迄も隠せば、拠なくお前の脊骨を殴して飯を吐かしても云わせにゃならん」  富「これはどうも怪しからん、関取の力で打たれりゃア飯も吐きましょうが、ど、どういう訳で、怪しからん、なな何を証拠に」  花「そんなら見せてやろう、是は其の時旦那の帯して行った脇差だろう、これを帯して出た事は聞いて来たのだ、さどうだ」  富「左様どうして是を」  花「是は手前が刀を抜いてちょん〳〵切合ったという後で丁度其の側を通り掛って此の刀を拾うたが、些とも抜けない、此の抜けない脇差をどうして抜いて切合ったかそれを聴こう」  富「それア、それア私が転倒致した」  花「何が転倒した」  富「それは私は大勢を相手に切結んでおり、夜分でげすから能く分りませぬが、全く鞘の光を見て抜身と心得ましたかも知れませぬが、私が手引をして…是は怪からん事でげす、どうも左様な御疑念を蒙りましては残念に心得ます」  花「そら〳〵手前のいうことは皆間違っていらア、鞘の光を見て抜身で切合ったと思ったというが、鞘ごと切れば鞘に疵がなけれアならねえ、芒尖から火花を散したというが鞘ごと切合ってどうして火花が出るい」  富「じゃア全く転倒致したのでげす、全く向同士ちょん〳〵切合って火花が出たのでげしょう、大勢の暗撃で向同士…どうも左様な手引をして殺したという御疑念は手前少しも覚がございません」  花「なに云わなけりゃア脊骨を殴して飯を吐せても云わせるぞ」  富「アヽ痛い〳〵痛うござります、アヽ痛い、腕が折れます、ア痛い」  花「さ、云って了え、云わなければ殴すぞ」  富「アヽ痛うござります」  花「やい能く考えて見ろ、実は大恩があるのに済みませぬが、旦那は私が手引をして殺させました、其の申訳の為に私は坊主になって旦那の追善供養を致しますといえば、お内儀様に命乞をして命だけは助けて遣るから、一角が殺したと云ってしまえよ」  富「云って了えと仰しゃっても、あゝ痛い痛うございます、だから私は申しますがね、あ痛い是はどうも恐入ったね、あゝ痛い、腕が折れます、あゝ申します〳〵、申しますからお放し下さい然う手をぐっと関取の力で押えられると骨が折れてしまいますから、アヽ痛いどうも情ないとんだ災難でげす、無実の罪という事は致し方がないなア、関取能くお考えください、私は恥をお話し致しますよ、昨年夏の取付きでげしたが、瓜畑を通り掛りまして、真桑瓜を盗んで食いまして、既に縛られて生埋になる処を、旦那様が通り掛って助けて家に置いて下さるお蔭で以て、黒い羽織を着て、村でも富さん〳〵といわれるのは全く旦那の御恩でげす、其の御恩のある旦那を、悪心ある者の為に手引をして殺させるという様な事は、どの様なことがあっても覚えはござりませぬが、アヽ痛たゝゝアヽ痛うござります、腕が折れてしまいます」  花「なに痛いと、腕を折ろうと脊骨を折ろうと己の了簡だ、己が兄弟分になった旦那を、殺した奴を捜して敵を討たにゃならぬ、手前一人に換えられないから云わなけれア殺してしまう、それとも殺させたといえば助けて遣るが、云わないか此の野郎」  と松の木の様な拳を振上げて打とうと致しました時には、実に鷲に捕まった小鳥の様なもので、逃げるも退くも出来ません、此の時に富五郎がどう言訳を致しますか、一寸一息つきまして。 六十八  富五郎が花車に取って押えられましたは天命で、己が企みで、惣次郎の差料の脇差へ松脂を注ぎ込んで置きながら、其の脇差を抜いて惣次郎がちょん〳〵切合ったという処から事が顕われて、富五郎は何といっても遁れ難うございます。殊に相手は角力取り、富五郎の片手を取って逆に押えて拳を振上げられた時には、どうにもこうにも遁途がありませぬ、表の玄関には二人の弟子が張番をしていて、若し逃げ出せば頸を取って押えようと待っておりますから、此の時は富五郎が真青になって、寧そ白状しようかと胸に思いましたが、其処は素より悪才に長けた奴。  富「関取、御疑念の程重々御尤も、もうこうなれば包まず申します、申しますからお放し下さい」  花「申しますと、云ってしまえばそれでよい」  富「云ってしまいます、是迄の事を残らずお話し致します、致しますが関取、そう手を押えていては痛くって〳〵喋ることが出来ません、こうなった以上は遁げも隠れも致しませぬ、有体に申すから其の手を放して下さい、あゝ痛い」  花「云ってしまえばよい、さア残らず云ってしまえ」  と押えた手を放しますと、側に大きな火鉢がありまして、かん〳〵と火が起っております。それに掛っている大薬鑵を取って、  富「申上げまする」  といいながら顛覆しましたから、ばっと灰神楽が上りまして、真暗になりました。なれども角力取等は大様なもので、胡坐をかいたなり立上りも致しません。  花「何をするぞ」  という内に富五郎は遁出しましたが、悪運の強い奴で、表へ遁げれば弟子が頑張っているから直に取って押えられるのでございますが、裏口の方から駈出し、畑を踏んで逃げたの逃げないの、一生懸命になってドン〳〵〳〵〳〵遁げましたが、羽生村へは逃げて行かれませぬから、直に安田一角の処へ駈込んで行って、  富「ハ、ハ、先生〳〵」  安「なんだ、サア此方へ」  富「は…ア水を一杯頂戴」  安「なんだ、ナニ水をくれと、どうしたんだ、喧嘩でもしたか」  富「いいえ、どうも喧嘩どこではございませぬ、脊骨をどやして飯を吐かせるて、実にどうも驚きました」  安「誰れが飯を吐いたか」  富「なに私が吐くので、先生運好く此処まで逃げたが、もう此処にもおられぬので、直に私は逃げますから、路銀を二三十金拝借致し度い」  安「どうしたか、そう騒いではいかない」  富「どうも先生、これ〳〵でげす」  と一部始終の話をしますると、相手は角力取ですから一角も不気味でございますが、  安「然うか、驚くことはない、私が殺したという事を云いはしまい」  富「何で…それはいいませぬ、足下とちゃんとお約束を致した廉がありますから、仮令脊骨をどやされて骨が折れてもそれは云わん、云わぬに依ってこんな苦しい目を致したから、可哀そうと思って二三十金ください、直に私は逃げますから」  安「何んだ、何んにも怖いことはない」  富「怖いことはないと仰しゃるが、足下知らないからだ、何うも彼奴の力は無法な力で、只握られたばかりでもこんなに痣になるのだもの」  安「じゃア貴公に路銀を遣るから逃げるがよい」  富「足下も早く、直に跡から遣って来ますよ」  安「遣って来ても云いさえせんければ宜しい」  富「理不尽に…」  安「幾ら理不尽でも白状せぬのに踏込んでどうこうという訳にはいかぬ」  富「無法に打ちますよ」  安「なに打たれはせぬ、仔細ない」  富「仔細ないと仰しゃるが、私の跡を追掛けて来て富五郎はいるか、慝まったろう、イエ慝まわぬ、居ないといえばじゃア戸棚に居ましょうというので捜しましょう、そうで無いにしても表で暴れて家を揺ると家が潰れるでしょう、奴の力は大した者だから、やアというと家に地震が揺って打潰されて了います、何にしても家にいると面倒だから迯げて下さい、え、先生」  安「じゃア路銀を遣るから先へ逃げな」  富「迯げるなら一緒に迯げたいものです」  安「一緒に迯げては人の目に立ってよくない、己が手紙を一本付けるから之を持って、常陸の大方村という処に私の弟子があるから、其処へ行って隠れておれば知れる訳は無いから、ほとぼりが冷めたら又出て来い、私は一足後から、ナニ暴れても仔細ない、逢い度いといえば余義ない用事が出来て上総へ行ったとか、江戸へ行ったとか、出鱈目を云っておれば取り附く島が無いから仕方が無い、貴公は先へ行きな」  富「じゃア路銀を頂戴、私はすぐ行きます」  安「そう急がずに」  と落着いて手紙一本書いて、路銀を附けて遣ると、富五郎は其の手紙を持って人に知れぬ様に姿を隠し、間道〳〵と到頭逃げ遂せて常陸へ参りました。安田一角も引続いて迯げる、花車重吉は、  花「おのれ迯げやアがったか」  と直に後を追掛けましたけれども、羽生村では此方へは来ないというから、サテ怪しいと諸方を尋ねたが何分手掛りがありません。一角の様子を聞くと是は私用があって上総まで出たというので、頓と手掛りが無い、風を食って二人とも迯げてしまったから、もう帰る気遣いはないが、安田一角の家は其の儘になって弟子が一人留守番に残っている。どういう訳か分らぬが何でも怪しいから取て押えんければならぬが、それには先第一富五郎をどうかして押えなければならぬと心得、  花「残念な事をしました、これ〳〵これ〳〵で押えた奴を迯げられました」  というと、お隅も母も残念がって歎きますけれども致方がない。翌月の十月の声を聞くと、花車は江戸へ参らなければならぬから、花車重吉が暇乞に来て、  花「私はこれ〳〵で江戸へ参りますが、何事があっても手紙さえ下されば直に出て来て力に成って上げますから、心丈夫に思ってお出でなさい」  と二人にいい聞かして、花車重吉は江戸へ帰りました。跡方は惣吉という取って十歳の子供とお隅に母親と、多助という旧来此の家にいる番頭様の者ばかりで、何と無く心細い。十一月の三日の事で、空は雪催しで、曇りまして、筑波下しの大風が吹き立てゝ、身を裂れるほど寒うございます。  母「あゝ寒いてえ、年イ取ると風が身に泌みるだ、そこを閉ってくんろよ、何んだか今年に成って一時に年イ取った様な心持がするだ、酷く寒いのう、多助やぴったり其処を閉ってくんろよ」  多「なにあんた、そんなに年イ取った〳〵といわなえがいゝ、若え者でも寒いだ、何だかハア雪イ降るばいと思う様に空ア雲って参りました」  母「其処を閉って呉んろよ、お隅は何処へか行ったか」  隅「はい」  と部屋から着物を着換え、乱れた髪を撫付けて小包を持って参りましたから、  母「このまア寒いのに何処へか行くかイ」  隅「はい、改めてお願いがござります」 六十九  隅「不思議な御縁で、水街道から此方へ縁付いて参りました処が、旦那様もあゝいう訳でおかくれになりました、旦那がおいでならお側で御用を達して、仮令表向の披露はなくとも、私も今迄は女房の心持で働いておりましたけれども、斯様なって旦那のない後は余計者で、却って御厄介になる許りでございますし、江戸には大小を帯す者も親類でもございますから、何卒江戸へ参り度いと思いまして、私もべん〳〵と斯うやっても居られません今の内なら、何うか親類が里になって縁付く口も出来ましょうと思いまして、私は江戸へ帰りますから、どうか親子の縁を切って、旦那はいなくっても貴方の手で離縁に成ったという証拠を戴きませぬと、親類へも話が出来ませぬから、御面倒でも一寸お書きなすって、誠に永々お世話さまになりまして」  母「それアはア困りますな、今お前に行かれてしまうと心細えばかりでなく、跡が仕様が無えだ、惣吉は年イ行かなえで、惣次郎のなえ後はお前が何も彼もしてくれたから任して置いて、己アまア家内の勝手も知んなくなったくれえだね、何うかまアそんなことを云わずに、どうかお前がいてくれねえば困りますから」  隅「有難う存じますけれども、どうも居られませぬ、居たって仕方がありませんもの、ほんの余計者になりましたから、どうか御面倒でも…今日直ぐと帰ります、水街道の麹屋に話をして帰りますから」  母「そりゃアハア間違った訳じゃアねえか、お前は今迄まア外の女と違って信実な者で、己ア家へ縁付いても惣次郎を大切にして、姑へは孝行尽し、小前の者にも思われる位えで、流石お武家さんの娘だけ違ったもんだ、婆様ア家は好い嫁え貰ったって村の者が誰も褒めねえ者はなえ、惣次郎が無え後も僅かハア夫婦になった許りでも、亭主と思えば敵イ打たねえばなんなえて、流石侍の娘は違った者だと村の者も魂消て、なんとまア感心な心掛けだって涙ア溢して噂アするだ、今に富五郎や安田一角の行方は関取が探してどんな事をしても草ア分けて探し出して、敵イ打たせるって是迄丹精したものを、お前がフッと行ってしめえば、跡は老人と子供で仕様がなえだ、ねえ困るから何うか居てくんなよ」  隅「嫌ですねえ、江戸で生れた者がこんな処に這入って、実に夫婦の情でいましたけれども、斯うなって見ると寂しくっていられませぬもの、田舎といっても宿場と違って本当に寂しくって居られませんからねえ、何卒直に遣って下さいな、此処に居たって仕方が有りません、江戸へ行けば親類は武士でございますから、相当な処へ縁付けて貰います、私も未だそう取る年でもございませぬから、何時までもべん〳〵としてはいられませぬ、お前さんはどうせ先へ行く人、惣吉さんは兄弟といった処が元をいえば赤の他人でございますからねえ、考えて見ると行末の身が案じられますから」  母「じゃアどうあっても子供や年寄が難儀イぶっても構わなえで置いて行くというかい、今迄敵イ討つといったじゃアなえか、今それに敵イ討たなえで縁切になって行くとア訝しかんべい、敵イ討つといった廉がなえというもんじゃア無えか」  隅「初りは敵を討とうと思いましたけれども、誰が敵だか分らぬじゃアありませんか、善々考えて見ますと、富五郎を押えて白状さして、愈々一角が殺したと決ったら討とうというのだが、屹度富五郎、一角ということも分らず、それも関取が附いていればようございますが、関取もいず、して見れば敵が分っても女の細腕では敵に返討になりますからねえ、又それ程何方にも此方様に義理はありません、漸く嫁いて半年位のとで、命を捨てゝ敵を討つという程の深い夫婦の間柄でもありませんから、返討にでもなっては馬鹿〳〵しゅうございますから、敵討はお止にして江戸へ帰ります」  母「魂消たなアまア、それじゃア何だア今迄敵イ討つと云ったことア水街道の麹屋でお客に世辞をいう様に、心にもなえ出鱈まえをいったのだな、世辞だな」  隅「いゝえ世辞ではない、関取を頼みにして大丈夫と思っていましたが、関取もいなければ私は厭だもの、そんな返討になるのは詰りませぬからねえ」  母「呆れたよまア、何と魂消たなア、汝がそんな心と知んなえで惣次郎が大い金え使って、家い連れて来て、真実な女と思って魅されたのが悔しいだ、そういう畜生の様な心なら只た今出て行けやい、縁切状を書えてくれるから」  隅「出て行かなくって、当り前だアね」  多「お隅さんまア待っておくんなさえ、お内儀さん貴方人が善いから直き腹ア立つがお隅さんはそんな人でなえ、私が知っているから、さてお隅さん、此処なア母様ア江戸を見たこともなし、大生の八幡へも行ったことアなえという田舎気質の母様だから、一々気に障る事アあるだろうが、実はこういう事があって気色が悪いとか、あゝいう事をいわれてはならぬという事があるなら、私がに話いしておくんなさえ、まア旦那が彼アなってからは力に思うのはお前様の外に誰もないのだ、惣吉様だって彼の通り真実の姉様か母様アの様に思って縋っているし、敵の行方は八州へも頼んでえたから、今に関取が出て来れば手分えして富五郎を押えて敲いたら、大概敵は一角に違えねえと思ってるくらいだから、機嫌の悪い事が有るなら私にそういって、どうか機嫌直してくださえ、ねえお隅さん」  隅「何をいうのだね、お前は何も気を揉むことはないやね、お母さんも呆れて出て行けというから離縁状を貰っておくんなさい、私は仇打は出来ません、仕方なしに仇を打つと云ったので実は義理があるからさ、よく〳〵考えて見れば馬鹿げている、それ程深い夫婦でもありませぬからねえ」  多「それじゃアお隅さん、本当に旦那の敵い打つてえ考えもなえ、惣吉さんもお母様も置いて行くというのかア」  隅「左様さ」  多「魂消たね本当かア」  隅「嘘にこんなことがいえるものか、今日出て行こうというのだよ」  多「呆れたなア、そんだら己えいうが」  隅「何をいうの」 七十  多「旦那が麹屋へ遊びに行った時酌に出て、器量は好し、人柄に見えるが、何処の者だというと、元は由ある武士の娘で、これ〳〵で奉公しております、外の女ア皆枕付でいる中に私は堅気で奉公をしようというんだが、どうも辛くってならねえて涙ア澪して云うだから、旦那が憫然だというので、金えくれたのが初まり、それから旦那が貰え切ってくれべいといった時、手を合せて、誠に然うなれア浮びます助かりますと悦んだじゃアなえか、それに又旦那様ア斬殺されたというのも、早え話が一角という奴がお前に惚れていたのを此方へ嫁付いたから、それを遺恨に思って旦那ア殺したんだ、して見れアお前が殺したも同し事じゃアなえか、それを弁えなえでお母様や惣吉さんを置いて出れば、義理も何も知んねえだ、狸阿魔め」  隅「何だい狸阿魔とは、失礼な事をお云いで無い、そりゃア頼みもしましたから恩も義理もあるには違いないけれども、それだけの勤めをして御祝義を戴いたので当然の事だアね、それから私を貰い切って遣るから来い、諾といって来ただけの事だから、旦那が殺されたって、敵を討つ程の義理もないじゃアないか、表向披露をした女房というでもなし、いわば妾も同様だから、旦那がいなけりゃア帰りますよ」  多「此の阿魔どうも助けられなえ阿魔だ、打つぞ、出るなら出ろ」  隅「なんだい手を振上げてどうする積りだい、怖い人だね、さ打つなら打って御覧、是程の傷が出来ても水街道の麹屋が打捨っては置かないよ」  多「ナニ麹屋……金をくれた事アあるけど麹屋がどうした」  隅「此の間お寺へ行くといって、路銀を借りようと思って麹屋へ行って話をして、江戸へ行けば親類もありますから、江戸へ行きたいと思いますが、行くには少し身装も拵えて行きたいから、まア此処で、三年も奉公して行きますからお願い申しますといって、証文の取極めをして、前金も借りて来てあるのだから、是から行って麹屋で稼ぎ取りをして行こうと思うのだ、もう私の身体は麹屋の奉公人になっているのだから、少しでも傷が附けば麹屋で打捨っておかないよ、願って出たら済むまい、さ、打つなら打って御覧」  多「呆れたア、此奴何うも、お内儀様此間お寺へ墓参りに行く振いして麹屋へ行って証文ぶって来たてえ、此の阿魔こりゃア打てねえ、えゝ内儀様、義理も人情も、あゝこれエ本当に何うも打てねえ阿魔だ」  母「やア、もう宜いワイ、恩も義理も知んなえ様な畜生と知らずに、惣次郎が騙されて命まで捨る事になったなア何ぞの約束だんばい、そんな心なら居て貰っても駄目だから、さア此処え来う、離縁状書えたから持たしてやれ」  多「さア持ってけ、此の阿魔ア、これエ打てねえ奴だ」  隅「持ってかなくってどうするものか」  とお隅は離縁状を開いて見まして、苦笑いをして懐へ入れ、  隅「有難い、アヽこれでさっぱりした」  多「ア、さっぱりしたと云やアがる、どうも悪い口い敲きやアがるなア此の阿魔」  隅「なんだねえ、ぎゃア〳〵おいいでない、長々御厄介様になりました、お寒さの時分ですから随分御機嫌よう」  多「えゝぐず〳〵云わずにサッサと早く行かなえかい」  隅「行かなくって何うするものか、縁の切れた処にいろっても居やアしない」  と悪口をいいながらつか〳〵と台所へ出て来ますと、惣吉は取って十歳、田舎育ちでも名主の息子でございますから、何処か人品が違います、可愛がってくれたから真実の姉の様に思っておりますから、前へ廻ってピッタリ袂に縋って、  惣「姉様ア、お母アが悪ければ己があやまるから居てくんなよ、多助があんなこと云っても、あれは誰がにもいう男だから、己があやまるから、姉さん居てくんなえ、困るからヨウ」  隅「何んだい、其方へお出でよ、うるさいからお出でよ、袂へ取ッつかまって仕ようが無いヨウ、其方へお出でッたらお出でよ」  多「惣吉さん、此方へお出でなさえ、今迄坊ちゃんを可愛がったなア、世辞で可愛がった狸阿魔だから、側へ行かないが好え」  母「惣吉や、此処え来う、幾ら縋っても皆世辞で可愛がったでえ、心にもない世辞イいって汝がを可愛がる振いしたゞ、それでも子供心に優しくされりゃア、真実姉と思って己があやまるから居てくんろというだ、其処えらを考えたって中々出て行かれる訳のものでアなえ、呆れた阿魔だ、惣吉此処え来い」  多「此方いお出でなさえ、坊ちゃん駄目だから」  隅「来いというから彼方へお出でよ、今までお前を可愛がったのもね、お母さんのいう通り拠なく兄弟の義理を結んだからお世辞に可愛がったので、皆本当に可愛がったのじゃアないよ、彼方へお出で、行っておくれ、行かないか」  多「あれ坊っちゃんを突き飛しやアがる、惣吉さんお出でなさえ…此奴ア…又打てねえ…さっ〳〵と行けい」  隅「行かなくってどうするものか」  とお隅は土間へ下り、庭へ出まして門の榎の下に立つと、ピューピューという筑波颪が身に染みます。  隅「あゝもう覚悟をして思い切って愛想づかしを云わなけりゃア為にならんと思って彼迄にいって見たけれども、何も知らない惣吉が、私の片袖に縋って、どうぞ姉さん私があやまるから居ておくれ、坊が困るといわれた時には、実はこれ〳〵と打ち明けて云おうかと思ったが、慦じい云えばお母さんや惣吉の為にならんと思って思い切って、心にもない悪体を云って出て来たが、是まで真実に親子の様に私に目を掛けておくんなすった姑に対して実に済まない、お母さん、其のかわり屹度、旦那様の仇を今年の中に捜し出して、本望を遂げた上でお詫びいたします、あゝ勿体ない、口が曲ります、御免なすってください」  と手を合せ、耐え兼てお隅がわっと声の出るまでに泣いております。  多「まだ立ってやアがる、彼処に立って悪体口をきいていやアがる、早く行け」  隅「大きな声をするない、手前の様な土百姓に用はないのだ、漸っとサバ〳〵した」  と故意と口穢いことを云って、是から麹屋へ来て亭主に此の話をすると、  亭「能く思い切って云った、よし、己がどこ迄も心得たから、心配するな、先ず手拭でも染めて、すぐ披露をするが好い、これ〳〵これ〳〵拵えて」  というので、手拭等を染めて、残らず雲助や馬方に配りました。  亭「今までとは違ってお隅は拠ない訳が有って客を取らなくっちゃアならん、皆と同じに、枕付で出るから方々へ触れてくれ」  というと、此の評判がぱっとして、今までは堅い奉公人で、殊に名主の女房にもなった者が枕付で出る、金さえ出せば自由になるというので大層客がありまして、近在の名主や大尽が、せっせとお隅の処へ遊びに来ますけれども、中々お隅は枕を交しません。お隅の評判が大変になりますると、常陸にいる富五郎が、此の事を聞きまして、  富「しめた、金で自由になる枕附きで出れば、望みは十分だ」  と天命とはいいながら、富五郎が浮々とお隅の処へ遊びに参るという、これから仇打になりまするが、一寸一息。 七十一  お隅は霜月の八日から披露を致しまして、客を取る様になりました。なれどもお隅は貞心な者でございますから、能いように切り脱けては客と一つ寝をする様なことは致しません、素より器量は好し、様子は好し、其の上世辞がありまするので、大して客がござります。丁度十二月十六日ちら〳〵雪の降る日に山倉富五郎が遣って参りましたが、客が多いので何時まで待ってもお隅が来ません、其の内に追々と夜が更けて来ますが、お隅は外の客で来ることが出来ませぬから、代りの女が時々来ては酌をして参り、其の間には手酌で飲みましたから、余程酒の廻っている処へ、隔の襖を明けて這入った人の扮装はじゃがらっぽい縞の小袖にて、まア其の頃は御召縮緬が相場で、頭髪は達磨返しに、一寸した玉の附いた簪を揷し散斑の斑のきれた櫛を横の方へよけて揷しており、襟には濃くり白粉を附け、顔は薄化粧の処へ、酒の相手でほんのりと桜色になっております、帯がじだらくになりましたから白縮緬の湯巻がちら〳〵見えるという、前とはすっぱり違った拵えで、  隅「富さん」  富「イヤこれはどうも、どうも是は」  隅「私ゃアね富さんじゃないかと思って、内々見世で斯う〳〵いう人じゃアないかというと然うだというから、早く来度いと思うけれども、長ッ尻のお客でねえ、今やっと脱けて来たの、本当に能く来たね」  富「これはどうも、甚だ何うも御無沙汰を、実は其の不慮の災難で御疑念を蒙むりました、それ故お宅へ参ることも出来ない、こんな詰らぬ事はないと存じて、存じながら御無沙汰を、只今まで重々御恩になりました貴方が、御離縁になって、此方へ入らっしゃった事を聞いて尋ねて参りました、どうも妙でげすねえ、御様子がずうッと違いましたね」  隅「お前さんも知ってる通りべん〳〵とあゝやっていたっても、先の見当がないし、そんならばといって生涯楽に暮せるといった処が、あんな百姓家で何にも見る処も聞く事もなし、只一生楽に暮すというばかりじゃア仕様がないから、江戸へ行こうと思って、江戸には親類が有って大小を帯す身の上だから、些とも早く頼んで身を固め度いと思って離縁を頼むと、不人情者だって腹を立って、狐阿魔だの狸阿魔だのというから、忌々しいから強情に無理無体に縁切状を取って出て来ましたの、江戸へ行くにも、小遣がないもんだから、こんな真似をして身装も拵えたり、金の少しも持って行き度いと思って、遂に斯んな処へ落ちたから笑っておくんなさい」  富「笑う処か誠にどうも、なに必ず私は買いに来たという訳ではありませんから、決して御立腹下さるな、そんな失敬の次第ではないが、何ういう訳で羽生村をお出遊ばしたかと存じて御様子を伺おうと思って参った処が、数献傾けて大酩酊」  隅「まア是から二人で楽々と一杯飲もうじゃアないか、早く来て久振りで、昔話をしたいと思っても、長ッ尻のお客で滅多に帰らぬからいろ〳〵心配して、やっとお客を外して来たの、まア嬉しいこと、大層お前若くなったことね」  富「恐入ります、あなたの御様子が変ったには驚きましたねえどうも、前とはすっかり違いましたねえ」  隅「さお酌致しましょう」  富「これはどうも、まア一寸一杯、左様ですか」  隅「私は大きな物でなくっちゃア酔わないから、大きな物でほっと酔って胸を晴したいの、いやな客の機嫌気褄を取って、いやな気分だからねえ、富さん今夜は世話をやかせますよ」  富「大きな物で、え湯呑で上りますか、御酒は些とも飲らなかったんですが、血に交われば赤くなるとか、妙でげすなア、お酌を致しましょう、これは妙だ、どうも大きな物でぐうと上れるのは妙でげすな、是は恐入りましたな」  隅「私は酔って富さんに我儘な事をいうけれども、富さんや聞いておくれな」  富「うゝんお隅さん必ず御疑念はお晴しなすって、惣次郎さんを私が手引して殺させたというので花車の関取が私の背中をどやして、飯を吐せるというから、私は驚いて、あの腕前では迚も叶わぬから一生懸命逃げたんだが、あのくらい苦しいことはありませぬ、それ故御無沙汰になって、あなたが枕附で客をお取りになるという事を聞いて、今日口を掛けたのは相済みませぬが、実はどういう訳かと存じて只御様子を伺いたいというので参っただけで」  隅「まアそんな事は好いじゃアないか、今夜私は酔うよ」  富「お相手をいたしましょう」  隅「お相手も何もいるものか」  と大きな湯呑に一杯受けて息も吐かずにぐっと飲んで、  隅「さア富さん」  富「私はもう数献…えお酌でげすか、置注ぎには驚きましたね…それだけは…妙なものでげすな、貴方はお酒はもとから上りましたか」  隅「なに旦那の側にいる時分には謹んで飲まなかったんだが、此家へ来てから戴く様になりました」  富「へえ有難う、もう……お隅さんどうか御疑念をね…これだけはどうか…私は詰らん災難で、私が何ぼ何でも、一角は知らない奴、逢った事もない奴に何で此の如く、な、御疑念が掛るか、私も元は大小を帯した者、此の儘には捨置けぬと、余程争いましたが、関取が無暗に打つというから、あの力で打たれては堪らぬから逃げると云う訳で、実に手前詰らぬ災難でげして……」  隅「好いじゃ無いか、私に何も心配はありゃアしないやね、羽生に居る時分には、悔しい、敵打をするというから私も連れて然ういったけれども、もう彼処を出てしまやア、何にも義理はないから私に心配はいらないが、只聞きたいのは富さん忘れもしない羽生にいる時、お前が酔って帰ったことがあったろう、其の時お前が旦那のいない所で私の手を掴まえて、江戸へ連れて行って女房にして遣ろう、うんといえば私が身の立つようにするが、江戸へ一緒に行って呉れぬかと云っておくれの事があったねえ、あれは本当の心から出て云ったのか、私が名主の女房になってたから、お世辞に云ったのか聞きたいねえ」 七十二  富「これは恐れ入りました、こりゃア何うも御返答に差支える……こりゃア恐入ったね、富五郎困りましたね…………おや〳〵またいっぱいになった、貴方そばから置き注ぎはいけません………余程酔って居るからもう御免なさい……あれはお隅さん、貴方が恩人の内宝になっているから、食客の身として、酔ったまぎれで、女房になれ……江戸へ連れて行こうといったのは実に済まない……済まないが、心にないことは云われん様な者で、富五郎深く貴方を胸に思っているから酔った紛れに口に出たので、どうも実に御無礼を致しました、どうか平に御免を……」  隅「あやまらなくっても宜いじゃアないか、本当にお前が心に思ってくれるといえば嘘にも嬉しいよ、富さん、私もね、何時までもこんな姿をしていたくない……江戸へ知れては外聞が悪いからねえ……江戸へ行くったって親類は絶えて音信がないし、真実の兄弟もないから何だか心細くって、それには男でなければ力にならぬが、こういう汚れた身体になったから、今更いけない、いけないけれどもお前がねえ、私の様な者でも連れて行って女房にすると云っておくれなら、私も親類へ行って、この人も元はこれ〳〵のお侍でございましたが、運が悪くってこういう訳になったからといって頼むにも、二人ながら武士の家に生れた者だから、親類へも話が仕好い、よう富さん、本当にお前、私がこういう処へ這入ったからいけないかえ……前にいったことは嘘かえ」  富「こりゃアなんとも恐れ入ったね……旨いことを仰しゃるなア……又一ぱいになった、そう注いじゃあいけない……えゝ…本当にそんな事をする気遣いは無いて…どうか御疑念の処は…私は困るよ……どうも理不尽に私を疑って、脊骨をどやすというから、驚いて、言訳する間は無いから逃げたのだが、神かけて富五郎そんな事はないので……」  隅「そんな心配は無いじゃアないか、何だねえ、お前、私がこんな身の上になっていても、敵とか何とか云って騒ぐと思ってるのかえ、私は表向き披露をした訳でもなし、敵を討つという程な深い夫婦でもない、それ程何も義理はないと思うから、悪体を吐いて出たのだもの」  富「そりゃア義理はありましょうが、私はあなたが、あんな愚痴婆の機嫌を、よく取ってお在でなさると思っていました。あなたがこれを出るのは本当でげす、御尤もでげすねえ」  隅「だからさ、お前がいやなら仕方がないけれども、本当なら、お前の為にどんな苦労をしても、いやな客を取っても、張合があると思っているのさ、それには、判人がないといけないから、お前が判人になって、そうして私が稼いだのをお前に預けるから、私を江戸へ連れて行っておくれな」  富「本当ですか」  隅「あら本当かって、私が嘘をいうものかね、悪らしいよ」  富「あゝ痛い、捻ってはいけない、そういう……又充溢になってしまった……いけないねえ……だが、お隅さん、本当に御疑念はお晴らしください、富五郎迷惑至極だてねえ」  隅「どうも、うるさいよ、未だ何処まで疑るのだね、そんなに疑るなら証拠を出して見せようじゃないか、そら、是が羽生村から取って来た離縁状と、是はお客に貰った三十両あるのだよ、お前が真実女房に持ってくれる気なら、此のお金と離縁状を預けるがお前も確な証拠を見せておくれよ、富さん」  富「本当ですか、本当なら私だって、親類もあるから、お前さんと二人で行って、話しをすればすぐだね、そりゃア、小さくも御家人の株ぐらいは買ってくれるだろう、お隅さん本当なら、生涯嘘はつかないねえ」  隅「まア嬉しいじゃアないか、富さん本当かい」  富「そりゃア本当」  隅「有難いねえ、じゃア証拠を見せておくれな」  富「別に証拠はない」  隅「だから悪らしいよ」  富「悪らしいってあれば出すけどもないもの、じゃア外に仕方がないから斯うしよう、そう話がきまれば、此処に永く奉公さして置きたくないからね、どこまでも金の才覚をして早く江戸へ行こう、富五郎浪人はしていても、百や二百の金は直に出来るから」  隅「そう、そんなに入らないが、路銀と土産ぐらい買って行きたいねえ」  富「こう仕よう」  隅「だって急にお前に苦労させては済まないから、此処で私が二年も稼いでから」  富「なに宜い、いゝから、斯うしよう、一角を騙して百両取ろう」  隅「おや一角さんは何処にいるの」  富「うん、まあいゝや、お隅さん本当に御疑念の処は」  隅「又そんなことを、本当にお前は悪らしいよ、じゃアお前は一角となれあって殺したことがあるから、私がどこまでも仇を狙っていると疑るのだろう、そんな疑りがあって、私を女房にしようというのは余程分らない、恐い人だね、もう止しましょう、書付まで見せて、生涯身を任して力になろうと思う人がそう疑ってはお金も書付も渡されないから。止しにしましょう」  富「そういう訳ではない、決して疑る訳ではない、決して疑る訳では無いがね」  隅「だからさ疑る心が無ければ、一角さんは何処にいると云ったって好いじゃないか、どうして騙して金を取るのか、それをお云いよ」  富「うーん、それは一角がお前に惚れているのだから」  隅「そうかい」  富「前から惚れてる、それだから一角の処へ行って、お前がこう〳〵でございますから貴方御新造にしてお遣りなさい、就ては内証に百両借金がありますから、之を払って遣れば直に此処へ来られる訳だ、出して下さいといえば是非金を出す…いゝえ出るに極っているのだから、出したら借金を払ってお前と二人で、ねえ、江戸へ行こう、こいつが宜いじゃないか」  隅「どうも嬉しいことねえ、一角さんは何処にいるの」  富「うーン、それ」  隅「おかしいねえ、もう夫婦になってお前は亭主だよ、添ってしまって、今夜一晩でも枕を交せば大事な生涯身を任せる亭主だもの、前の亭主の敵といって、刄が向けられますか、私も武士の娘、決して嘘はつきませぬよ」 七十三  富「こりゃア驚いた、流石は武士の御息女、嬉しいな…又充溢になってしまった……こりゃア有難い、それじゃア云おうねえ、実は私は、お前にぞっこん惚れていたが、惣次郎があっては仕様がない、邪魔になるといっても、富五郎の手に負いない、所が幸い安田一角がお前に惚れているから、一角をおいやって弘行寺の裏林で殺させて置いて、顔に傷を拵えて家へ駈込んだが、あの通り花車が感付きやアがって、打つというから、此方は殺されては堪らぬから、逃げてしまった、全く一角が殺しは殺したんだが、実は私がおいやって遣らしたのだ」  隅「私もそう思ってたけれどもね、羽生にいる時は義理だから敵といっていたけれども、こう出てしまえば義理も糸瓜もない他人だアね、あんな窮屈な処にいるのはいやだと思って出たんだが、富さんこうなるのは深い縁だねえ、どうしても夫婦になる深い約束だよ」  富「是は妙なもんだね、不思議なもので、羽生村にいる時から私が真に惚れゝばこそ色々な策をして、惣次郎を討せたのも皆お前故だねえ」  隅「一角さんは何処にいるの」  富「一昨日の晩三人で来て前の家は策で売らしてしまったから、笠阿弥陀堂の横手に交遊庵という庵室がありましょう、二間室があって、庭も些とあり、林の中で人に知れないからというので其処を借りていて、今夜私に様子を見て来いというので、私が来たのだから、こう〳〵といえば、えゝというので百両出す、なに大丈夫だ、其れで借金を片付けて行って了やア彼奴は何ともいえない、人を殺した事を知って居るから何ともいえやアしないから、烟に巻かれてしまわア、追掛けようといっても彼奴江戸へ出られる奴でないから大丈夫」  隅「そう、本当に嬉しいねえ、真底お前の了簡が知れたよ」  富「これ程お前を思ってるのに其れを疑ぐるということはない、誠に詰らぬこと…」  隅「此処で寝るといけないから彼方へおいでよ、彼方に床が取ってあるから、さ此のお金と書付を」  富「やアそんなもの」  隅「落ことすといけないからお出し」  と、金と書付を引たくって、無暗に手を引いて、細廊下の処を連れて行くと、六畳ばかりの小間がありまして、其処に床がちゃんと敷いてある。  隅「さ、お寝と云ったらお寝、あら俯伏しちゃいけないから仰向けにお成り」  と仰向に寝かし、枕をさして、  隅「さ、寒いから夜具を」  富「あゝ有難い、こっちイ這入って寝なよ」  隅「今寝るが、寒いから掻巻を」  富「好いよ、雪は何うしたえ」  隅「なに雪は降っているよ、夫婦の固めに雪が降るのは縁が深いとかいう事があるねえ」  富「うーん、そりゃア深雪というのだ」  隅「富さん、私はいう事があるよ」  富「どう」  隅「あら顔を見られると恥かしいから被っておいでよ」  とお隅は掻巻を富五郎の目の上まで被せて其の上へ乗りました。  隅「私は馬乗りに乗るわ」  富「何をするのだ、息が出なくって苦しい、何をする、切ないよ」  隅「本当に富さん不思議な縁だね」  といいながら隠してあった匕首を抜いて、  隅「惣次郎を殺したとは感付いていたけども、お前が手引で…一角の隠れ家まで…こういう事になるというのは神仏のお引合せだね」  富「実に神の結ぶ縁だねえ」  隅「斯ういう事があろうと思って、私は此の上ない辛い思いをして、恩ある姑や義理ある弟に愛想尽しを云って出たのも全くお前を引寄せる為、亭主の敵罰当りの富五郎覚悟しろ、亭主の敵」  と富五郎の咽喉へ突込む。  富「うーん」  というのを突込んだなり呑口を明ける様にぐッぐッと抉ると、天命とはいいながら富五郎はばた〳〵苦しみまして、其の儘うーんと呼吸は絶えました様子。お隅はほっと息を吐き、匕首の血を拭って鞘に納め、  隅「南無阿弥陀仏〳〵」  と念仏を唱え、惣次郎の戒名を唱えて回向を致します。お隅は沈着いた女で、直に硯箱を取出し、事細かに二通の書置を認めて、一通は花車へ、一通は羽生村の惣吉親子の者へ、実は旦那の仇を討ち度い許りで、心にもない愛想尽しを申して家を出て、麹屋へ参って恥かしい身の上になりましたが、幸いに富五郎が来て、これ〳〵の訳と残らず自分の口から申して、一角の隠家もこれ〳〵と知れましたから、女ながらも富五郎は首尾能く打留めたから、今夜直ぐに一角の隠家へ踏込んで恨みを晴し、本望を遂げる積り、なれども女の細腕、若し返り討になる様な事があったならば、惣吉が成人の上、関取に助太刀を頼んで旦那と私の恨を晴らして下さい、敵は一角に相違ない事は富五郎の白状で定りましたという、関取と母親の方へ二通の書置を残して傍に掛っている湯沸しの湯を呑み、懐へ匕首を隠して庭の方の雨戸を明けると、雪は小降になった様でもふッ〳〵と吹っかける中を跣足で駈出して、交遊庵という一角の隠家へ踏込みまするというお隅仇打のお話を次回に。 七十四  申し続きまする累ヶ淵のお話で、お隅が交遊庵という庵室に隠れている一角の処へ斬り込みまするという、女ながらもお隅は一生懸命でござりまして、雪の降る中を傘もなしに手拭を冠りまして跣足で駈けて参って、笠阿弥陀堂から右に切れると左右は雑木山でござります、此の山の間を段々と爪先上りに登って参りますると、裏手は杉檜などの樹木がこう〳〵と生い茂って居りまする処へ、門の入口の処に交遊庵の三字を題しました額が掛っております。門の締りは厳重になっておりまするなれども、家へは近うござります、何処か外から這入口はなかろうかと横手に廻って見ても外に入口はない様子、暫く門の処に立って内の様子を窺っていると、丁度一角が寝酒を始めて、貞藏という内弟子を相手にぐび〳〵と遣りましたから、門弟も大分酩酊致しておりまする様子。  隅「御免なさいまし、御免なさいまし、一寸此所を明けて下さいまし、あの、先生は此方にいらっしゃいますか」  というと戸締りは厳重にしてあり、近いといっても門から家までは余程隔って居りますが、雪の夜で粛然としているから、遥に聞える女の声。  安「貞藏〳〵誰か門を叩いている様子じゃ」  貞「いや大分雪が降って参りました、私先程台所を明けたらぷっと吹込みました、どうして中々余程の雪になりましたから、此の夜中殊に雪中に誰も参る筈はございませぬ」  安「でも、それ門を叩く様子じゃ」  貞「いゝえ大丈夫」  安「いや左様でない…それそれ見ろ…あの通り…それ叩くだろう」  貞「へえ成程えゝ見て参りましょう、えゝ少々御免遊ばして、大層酩酊致しました、ひょろ〳〵致して歩けませぬ、えゝ少々…なに誰だい、誰か門を叩くかい…誰だい」  隅「はい、あの安田一角先生は此方にいらっしゃいますか」  貞「安田と、安田先生ということを知って来たのは誰だい」  隅「はい私は麹屋の隅でございますが、一寸先生にお目に掛り度いと存じまして、わざ〳〵雪の降る中を参りましたが、一寸此処をお明け遊ばして下さいませんか」  貞「あ、少々控えていな」  とよろよろしながら一角の前へ来て、  貞「へえ先生」  安「来たのは誰だ」  貞「麹屋のお隅が、先生にお目に掛ってお話し申し度い事があって、雪の降る中を態々参ったといいます」  安「隅が来たか、はて、うっかり明けるな、えゝ彼は此の一角を予て敵と附狙うことは風説にも聞いていたが、全く左様と見える、うっかり明けて、角力取などを連れてずか〳〵這入られては困るから能く気を附けろ、えゝ全く一人か、一人なら入れたっても好いが」  貞「これ、お隅、何かえ、お前誰か同伴がありますかい、大勢連れてお出でかい、角力取は来ましたのかい」  隅「いゝえ私一人でございます、一寸此処を明けて下さいませんか、お前さん貞藏さんじゃアありませんか」  貞「なに貞藏、己の名を知ってるな、うん成程知ってる訳だ、私が水街道へ先生のお供にいった事があるから、今明けるよ、妙なもんだなア、おう好い塩梅にこれ雪が上って来た、大層積ったなア、おゝおゝ、ふッ、足の甲までずか〳〵踏み込む様だ、待ちな今明けるぞ、待ちな、閂がかって締りが厳重にしてあるから、や、そら、おや一人で傘なしかい」  隅「はい少しは降っておりましたが、気が急きましたから、跣足で参りました」  貞「おゝ〳〵私はやっと此処まで雪を渉って来たのだが、能く夜中に渡しの船が出たねえ」  隅「はい、あの、船頭は馴染でございますから、頼んで渡して貰って、漸とのことで参りました」  貞「それはえらい、さア此方へ、先生たった一人で渡を渡って跣足で参ったと云うので」  安「それは思い掛けない、なに傘なしで、それはそれは、雪中といい、どうも夜中といい、一人でえらいのう、誠にどうも、さア此方へ」  隅「先生誠に暫くお目に掛りませんで」  安「いや誠にこれは、うーん己は無沙汰をしております、暫く常陸へ参った処が、彼方で些と門弟も出来たから、近郷の名主庄屋などへ出稽古を致して、久しく彼方にいて、今度又此方へ来た処が、先に住った家は人に譲ったから、まア家の出来るまで、当期此の庵室におる積りで、だが手前能く尋ねて来たねえ」  隅「誠にどうも御無沙汰を致しまして」  安「此の夜中雪の降る中を踏分けて何うして来た」 七十五  隅「あの今日富五郎が来ましてね、何か先生に頼まれた事があると云って、私の処へ客になって来まして、お酒に酔って何だか種々な事を云いますの、けれども其の様子がさっぱり分りませんから、其の事に付いて先生にお目に掛らなければ様子が分りませんから」  安「それはどうも、富五郎が行ったかい、貞藏、富五郎が往ったって」  貞「だから私が先生に申上げて置きました、彼奴は誠にあゝいう処ばかり遊びに参るのが好きでげす、全体道楽者でげすからなア、彼奴余程婦人好でげすよ」  安「で、富五郎が往って何ういう話し振の、まア一抔飲め」  隅「有難うございます、まアお酌を」  安「イヤ一抔飲め」  隅「左様でございますか、貞藏さん、お酌を、恐れ入ります」  貞「いや久し振りでお酌をする、私の名を心得ているから妙でげすな、久しい前に一度先生のお供を致しましたが、其の時逢った一度で私の名まで覚えているというのは、商売柄は又別なものでげす、お隅さん相変らず美しゅうございますな」  安「これお隅、手前名主の手を切って麹屋の稼ぎ女になったとか、枕附で出るとかいう噂があったが嘘だろうな」  隅「いゝえ嘘ではございません、誠にお恥かしゅうございますけれどもべん〳〵とあゝ遣ってもいられませんから、種々考えました処が、江戸には親類もありますから、何卒江戸へ参り度いと思いまして、故郷が懐かしいまゝ無理に離縁を取って出ましたが、手振り編笠、姑が腹を立って追出すくらいでございますから、何一つもくれませぬ、それ故少しは身形も拵えたり、江戸へ行くには土産でも持って行かなければなりませぬ、それには普通の奉公では埓が明きませんから、いや〳〵ながら先生お恥かしい事になりました」  安「オヽ左様か、じゃア自ら稼いで苦しみ、金を貯めてなにかい身形を拵えて江戸へ行こうと云う訳か、どうも能く離縁が出たのう」  隅「それが向で出さないのを此方から強情に取りましたので、先生誠に久し振でございますねえ」  安「ウンそれは妙だなア」  貞「これは先生妙でげすな、貴方の方でお呼び遊ばさぬのにお隅さんが此の雪の降る中を尋ねて来るなんて、自然にどうも貴方の…実に感服でげすなア」  安「なにそう云う訳でもなかろう、何か是には訳があって来たんだろう、なにかい富五郎がどういう事を云ったい」  隅「はい、富さんの云うには、べん〳〵とこんなア卑しい奉公をするよりも、一角先生の御新造にならないかといいますから、馬鹿なことをお云いでない、一旦名主の家へ縁付いたのだから、披露はしないでも、今度行けば再縁をする訳じゃアないか、それだから先生は決して御新造になさる訳はない、妾にすると仰しゃればまだしもの事だけれども、御新造にというのは訝しいじゃアないかというと、いゝえ全くお前さえよければ先生は御新造になさる思召しがあるのだから、お前がたって…頼みたいと思うなら、骨を折って宜いように執成すから了簡を決めろといいますから、それは誠に思掛ない有難いこと、私の様な者を先生が仮令妾にでもなすって下さるなら、私は本当に浮ぶ訳で、べん〳〵とこんな処にいたくないから、屹度執成しておくれかというと、お酒が始まって、すると彼の人の癖で直に酔ってしまって、まア馬鹿らしいじゃアありませんか、先生に取持つ代りにおれの云う事を聞けといって口説き始めたんでございますよ」  安「こりア怪からん奴だ、どうだい貞藏」  貞「でげすから彼は先生いけませぬ、先生は彼奴を御贔屓になさいますが、全体よくない奴で、そういう了簡違いな奴でげすからなア、一体先生が余り贔屓になさり過ぎると思っていましたが、どうも御新造に取持とうという者、いわば仲人が一旦自分のいう事をきかして、それから縁付けると、そんな事がありましょうか、だから彼れはもう、お置きなさらん方が宜い、お為になりませぬからなア、彼奴が来てから私は彼奴に使われるような訳で、先生もう彼奴はお止し遊ばした方がようございますよ」  安「お隅、それからどうしたい」  隅「それで、私が馬鹿な事をおいいでないと云うと、そんな詰らんことを云わんでも宜いじゃアないかといいますから、宜いじゃアないかって、お前さんのいう事を聞いた上で先生の処へ妾に行けるか行けないか考えて御覧、富さん酔うにも程がある、冗談は大概におしよと云って居りましたら、終には甚く酔って来まして、短かいのを抜いて、いう事を聞かなければ是だと嚇し始めましたから、私も勃然として、大概におしなさい、お前は腕ずくで強淫をする積りか、馬鹿な事をする怖い人だ、いやだよと云って行こうとすると、そうはやらぬと私の裾を押えて離さない処へ、お兼さんやお力さんが出て参りまして取押える拍子に、お兼さんが指に怪我をするやら、金どんも親指に怪我をしまして、漸くの事で宥めて刄物を抉取ったんでございますが、全く先生の処から来たのなら、明日の朝先生が入らっしゃるであろう、其の上当人も酒が醒めるだろうから、まア縛って置くが好いというので縛って置きました」 七十六  安「こりゃアどうも怪しからん、白刃を振っておどすなぞとは、えゝ貞藏」  貞「どうも怪しからん、彼奴はいけません、彼奴一体そういう質の奴でげす、何うも怪しからん、抜刀で口説くなんて、実に詰らん訳でげすなア、だから先生もう彼奴はお止しなすって家に置かぬ方が宜しい、何うもそういう……」  安「お隅、貴様はなにか主人に話をして来たか」  隅「はい何ともいいませんけれども、お力さんに頼んで置きまして、何しろ先生の御様子を聞かなければ分らない、誠に恥かしいことでございますけれども、先生の処へ行って御様子を聞いて、そうして先生に宥めて戴き度いと思って出て参りました」  安「左様か、雪の夜ではあるし、是から行くといっても大変だがあんな馬鹿にからかわないが宜いよ」  隅「なにもう明日でも宜うございますけれども、私は是から一人で帰るのは辛くって、参る時は一生懸命で来ましたが、帰るとなると怖くっていけませんが、どうかお邪魔様でも今夜一晩泊めて下さる訳にはいきますまいか」  安「うん、それは宜い、泊って往くなら、なア貞藏」  貞「是は先生御恐悦でげすなア、お隅さんの方から泊って宜いかと云うのは、こりゃア自然のお授かりでげすな」  安「なにお授かりな事があるものか、のうお隅、だが貴様には何うも分らぬことが一つある、というのは惣次郎の女房になって何ういう間違いかは知らんけれども、安田一角が惣次郎を殺害致したというので、私を夫の敵と狙って、花車重吉を頼んで何処までも討たんければならぬと云って、一頻り私を狙って居るという事を慥に人を以て聞いたそう云う手前が心で居たものが、又た此処に来て、一角の女房になろうとは些と受取れぬじゃないか、のう貞藏」  隅「いゝえ、ねえ貞藏さん考えて御覧、羽生村に居るうちは義理だから敵を討つとか何とか云いましたけれども、なにもねえ元々私が麹屋に奉公をして居て、あの時分枕付ではありませんが、彼の名主に受出されて行って、妾同様表向の披露をした訳でもなし、ほんの半年か一年亭主にしただけでございますから、母親の前や村の人や角力取の前で義理を立って、敵を討つといいは云いましたが、よく〳〵考えてみた処が、貴方が屹度殺したということが分りもしない、こんな的もないのに敵を討つといったっても仕方がない訳だから、寧そ敵討という事は止めてしまおう、それにしては何時までもべん〳〵としてもいられませんから、思い切って暇を貰って出たのでございますから、もう今になれば些ともそんな心は有りゃアしません、ねえ、貞藏さん」  貞「成程是りゃア本当でげしょう、先生は人を殺す様な方でないし、只お前さんへ執心が有った処から角力取と喧嘩、ありゃア一体角力の方がいけないよ、変に力が有ってねえ、あれだけは先生甚く野暮になりますな」  安「詰らん疑念を受けて飛んだ災難と思ったが、此方に居ては面倒だから暫く常陸へ行って居たんだが、手前全くか」  隅「本当でございますから疑りを晴して一献戴きましょう」  安「手前飲めるか」  隅「はい、何だか寒くっていけません、跣足で雪の中を駈けて来たもんですから、足が氷の様になっていますもの」  安「うーん中々飲める様になったのう」  隅「勤をして居て仕方なしに相手をするので上りましたよ」  安「ふん妙だのう貞藏」  貞「是は〳〵お隅さん貴方御酒を飲りますか、お酌を致しましょう」  隅「はい有難うございます」  と大杯に受けたのをグイと飲んで、  隅「貴方何だか真面目でいけないから、私がお酌を致しましょう」  と横目でじっと一角の顔を見ながら酌をする。一角は素より惚れている女が酌をしてくれるから快く大杯で二三杯傾けると、下地の有った処でござりますからグッスリ酔が廻って来ます、貞藏も大変酩酊致しまして、  貞「私もう大層戴きました、お隅さん私は御免を蒙りまして、長く斯ういう処にいるべきものでありませんから、左様なら先生御機嫌よう」  隅「まアお待ちなさいよ、先生がお酔いなすったから、おや〳〵次の方に床が取ってありますねえ」  貞「いゝえ私床を取って置いて、先生がぐっと召上ってしまうと直にお寝という都合にして置きました、えゝ誠に有難う」  隅「じゃア先生一寸貞藏さんを寝かして来ますからお床の中に居てねえ、寝てしまってはいけませんよ」  安「なに貞藏などは棄てゝ置けよ」  隅「いゝえ、そうで有りません、ひょっとして貴方が私の様な者でも娶んで下さいますと、禍いは下からといって、あゝいう人に胡麻を摺られると堪りませんからねえ」  安「なに心配せんでも宜い、じゃア己此処に、なに寝やあせんよ、おゝ酔った、貞藏隅が送って遣るとよ」  貞「いや是は恐れ入ります、じゃア先生御機嫌よう、お隅さんようございます」  隅「いゝえ、よくないよ、そら〳〵危ない、何処へ、彼方がお台所かえ」  と蹌る貞藏の手を取って台所の折廻った処の杉戸を明けると、三畳の部屋がござります。  隅「さ、貞藏さん此処かえ、おや〳〵お床が展べてあるの」  貞「いゝえ私の床は参ってから敷っぱなしで、いつも上げたことはないから、ずっと遣るとこう潜り込むので、へえ有難う」  隅「恐ろしい堅そうな夜具ですねえ」  貞「えゝなに薄っぺらでげすが、此の上へ布団を掛けます、寒けりゃア富五郎のが有りますから其れを掛けてもいゝので、へえ有難う」  隅「さア仰向におなり、よく掛けて上げるから」  貞「是は恐れ入ります、へえ恐れ入ります、御新造に掛けて戴いて勿体至極もない」  隅「さ、掛けますよ、寒いから額まですっかり掛けますよ、そう見たり何かすると間が悪いわね、さ、襟の処を」  貞「あゝ有難う」  隅「どうも重たいねえ」  貞「へえ有難う暖かでげす」  隅「何だか寒そうだこと、何か重い物を裾の方に押付けると暖かいから」  というので台所を捜すと醤油樽がある、丁度昨日取ったばかりの重いやつを提げて来て裾の方に載せ、沢庵石と石の七輪を掻巻の袖に載せると、  貞「アヽ有難う、大層暖かで、些と重たいくらいでげす」  といったが是は成程重たい訳、石の七輪や沢庵石や醤油樽が載っておりますから、当人は押付けられる様な心持。  貞「へえ有難う、暖かでげす」  といったぎりぐう〳〵と好い心持に寝付きました。 七十七  お隅はそっと奥の様子を見ると、一角が蹌けながら、四畳半の床の上に横になった様子でございますから、そっと中仕切の襖を閉って、台所の杉戸を締め、男部屋の杉戸を静に閉って懐中から出して抜いたのは富五郎を殺害して血に染まった儘の匕首、此の貞藏があっては敵討の妨げをする一人だから、先ず貞藏から片付けようというので、仰向に寝て居る貞藏の口の処へどんと腰を掛けながら、力任せに咽喉を突きましたから、  貞「ワーッ」  といったが掻巻と布団が掛って居りますから、苦む声が口籠って外へ漏れませぬ。一抉り抉ると足をばた〳〵〳〵とやったきり貞藏は呼吸が絶えました。お隅はほっと息を吐いて掻巻の袖で匕首の血を拭って鞘に納め、そっと杉戸を明けて台所へ来て、柄杓で水をぐっと呑み、はッはッという息づかい、もう是れで二人の人を殺しましたなれども、夫の仇を討とうという一心でござりますから、顔色の変ったのを見せまいと、一角の寝床へそっと来て、顔を横に致しまして、  隅「先生〳〵もうお寝みなすったか」  安「うーん貞藏は寝たか」  隅「はい能く寝ました、大層酔いましてねえ」  安「酔っても宜いから、あんな奴に構うな、寝ろよ」  隅「寝ろって夜具がありません、私は食客でございますから此処に坐っています」  安「そんな詰らぬ遠慮にはおよばぬ、全く疑念が晴れて、己の女房になる気なら真実可愛いと思うから、手前に楽をさして真実尽すぞ」  隅「誠に有難いこと、勿体ないけれども、そんなら此の掻巻の袖の方から少し許り這入りまして」  安「いや少し許りでなくって、たんと這入れ」  隅「それじゃア御免なさいまし」  と夜着の袖をはねて、懐中から出した匕首を布団の下に揷んで、足で踏んで鞘を払いながら、  隅「じゃア御免遊ばせ、横になりますから」  安「さア這入れ」  と一角が夜着の袖を自ら揚げる処を、  隅「亭主の敵」  と死物狂いに突掛るという。お話二つに別れまして麹屋では更に斯様な事は存じません。暁方になってお隅がいない処から家中捜しても居ない、六畳の小間が血だらけになっているから掻巻を撥ると、富五郎が非業な死に様、傍の処に書置が二通あって、これにお隅の名が書いてあるから、亭主は驚きまして、直に是を開いて読んで見ると、富五郎の白状に依って夫の敵は一角と定まり、女ながらも富五郎は容易く仕止めたから、直に一角の隠れ家交遊庵へ踏込んで、首尾よく往けば立帰って参りますが、女の細腕、若し返り討になりました時は、羽生村へ話をして此の書置を遣り、又関取へもお便りなすって、惣吉成人の後関取を頼んで旦那と私の敵を討たして下さい、証拠は富五郎の白状に依って手引をした者は富五郎、斬った者は一角と定まりました、夫故に今晩交遊庵に忍び入ります、永々お世話様になりました、有難い。という重ね〴〵の礼まで書残してあるから、それッというので、麹屋の亭主は大勢の人を頼んで恐々ながら交遊庵に参ったのは丁度夜の暁方、参って見ると戸が半ば明いて居ります、何事か分りません、小座敷には酒肴が散かって居り、四畳半の部屋に来て見ると情ない哉お隅は返り討に逢って非業な死に様。  主「あゝ気の毒なこと、可哀そうに、でも女一人で往くのは実に不覚であった」  もう今更どうも仕方が無いが一角はというと、一角は此処を遁れて行方知れず二畳の部屋を明けて見ると沢庵石だの、醤油樽だの七輪の載せてある夜具の下に死んで居る者が一人ござりますから、是から直に麹屋から慥に証拠があって敵討をしようと思って返討に成ったという事を訴えになり、直にお隅の書置を羽生村へ持たせて遣りました時には、母も惣吉も多助も 「アヽ左様とは知らずに犬畜生の様な恩知らずの女と悪んだのは悪かった、あゝいう愛想尽しをいったのも、全く敵が討ちたいばっかりでお隅が家を出たのであったか、憫然なことをしたが、お隅が心配して命を棄てたばかりに敵は一角と定まり先ず富五郎は討止めたが、一角の為に返り討になって死んだといえば悪いは一角、早く討ち度い」  と思いまするが、何しろ年を取った母と子供の惣吉許りでございますから、関取を頼んでと、もう名主役も勤まりませんから、作右衞門という人に名主役を預けて置き、花車重吉が上総の東金の角力に往ったということを聞きましたから、直に其所に行こうというので旅立の支度を致し、永く羽生村の名主を致して居りましたから金は随分ござります、これを胴巻に入れたり、襦袢の襟に縫附けたり、種々に致して旅の用意を致します、其の内に荷拵えが出来ると、これを作右衞門の蔵へ運んで預けると云う訳で、只今まで名主を勤めて盛んであったのが、ぱったり火の消えた様でござります。 七十八  母「多助や」  多「ヘエ」  母「作右衞門が処え行って来たかい」  多「ヘエ行って参りました、蔵の方にゃ預かる者があるから心配しなえが好え、何時でも帰ったら直ぐに出すばいて、蔵の下は湿るから湿なえ高え処に上げて置くばいといってね、作右衞門どんも旧来の馴染ではア何うか止め度いと思うが、敵を討ちに行くてえのだから止められねえッて名残イ惜がってるでがんす、村の者もねえ皆御恩になったゞから渡口まで送り度えといってますが、あなたそういうから年い取った者ア来ないで好えといって置きましたが、私だけは戸頭まで送り度えと思って支度ウしました」  母「汝も送らなえで好いから若え者を止めて呉んろよ、汝が送ると若え者も義理だから戸頭まで送りばいと云って来るだ、そうすりゃア送られると送られる程名残い惜いから、汝も送らなえでも好いよ」  多「だけンどもはア村の者は兎も角も私はこれ十四歳の時から御厄介になって居りまして、お前様のお蔭でこれ種々覚えたり、此の頃じゃアハア手紙の一本位書ける様になったのア前の旦那の御厄介でがんすから、お家がこうなって遠い処え行くてえ事たら私も附いて行かないばなんねえが、婆様塩梅が悪うござえまして、見棄てちゃアなんねえというから、あなたのお心へ任して送りはしねえが、切めて戸頭まで送りてえと思って居ります、塚前の彌右衞門どんは死んだかどうか知んねえが、通り道から少し這入るばかりだから、ちょっくり塚前へも寄ったが宜い」  母「それもどうするかも知んなえが、汝は送らなえが好いよ」  多「でも戸頭まで送るばいと思って居ります」  母「送らんで宜いというに何故そうだかなア、汝ア死んだ爺様の時分から随分世話も焼かしたが家の用も能く働いたから、何ぞ呉れ度えと思うけれども何も無えだ、是ア惣次郎が居る時分に祝儀不祝儀に着た紋附だ、汝も是れから己ア家が無くなれば一人前の百姓に成るだから、祝儀不祝儀にゃアこういう物も入るから、此の紋附一つくればいと云う訳だよ、それから金も沢山呉れ度えが、茲に金が七両あるだ、是ア少し訳があって己が手許にあるだから是を汝がにくればい、此の紬縞ア余り良くなえが丹精して捻をかけて織らした紬縞で、ちょく〳〵阿弥陀様へお参りに往ったり寺参りに着て往った着物だから、是を汝がに呉れるから仕立直して時々出して着るが好え、三日でも旅という譬えがあるが、子供を連れて年寄が敵討に行くだから、一角の行方が知んなえば何時帰って来るか知んなえ、長え旅で死ななえともいわれなえ、是ア己が形見だから、己が無え後も時々これを着て己がに逢う心持で永く着てくんろ、よ」  多「はい、私戸頭まで送るばいと思ったに…どうも是れいりません…形見……形見なんて心細えこといわずにの、あんたも惣吉さんも達者で帰って、もう一度名主役を惣吉さんが勤めなえば私の顔が立ちませんから、どうか達者で帰っておくんなさえよ、惣吉さん今迄とア違うから、母様に世話ア焼せねえ様に、母様ア大事にしなえばなんねえよ、惣吉さん、好いかえ、今迄の様なだだいっちゃアなりませんよ、いゝかえ、どうか私は戸頭まで」  母「送らんで好えというに汝が送るてえば皆若え者も送りたがるから、誰か来たじゃなえか」  作「ヘエ御免」  多「やア作右衞門どんが」  母「さア此方へお這入りなさえ」  作「誠にどうも、魂消て、どういう訳で急に立つことになったか、村の者もどうか止め度えというから、馬鹿アいうな、止められるもんか、今度ア物見遊山でなえ、敵討に行くだというと、成程それじゃア止められねえが、まア名残い惜いってね、若え者ば皆恩になってるだから心配ぶっております、留守中は役にア立たないがお帰りまでア慥に荷物は皆蔵へ入れて置きましたが、何卒まア早く帰ってお出でなさる様に願え度えもんで」  母「はい、お前方も旧い馴染でがんしたけんども、今度が別れになります、はい有難うござえます、多助や誰か若え者が大勢来たよ」  多「やア兼か、さア此方へ這入れ、お、太七郎此方へ」  太「はい有難う、誠にまアどうも明日立つだって、魂消て来たでがんす、どうもこれ名残い惜くって渡口まで送るという者が沢山ござえます」  母「ありゃまア、送らねえでも好えよ、用がえれえに」  太「なに用はなえだから皆送り度えと思えまして、名残い惜いが寒い時分だから大事にしてねえ」  母「はい有難う、又祝いの餅い呉れたって気の毒なのう、どうか婆様ア大事にして」  太「ヘエ婆アもどうかお目に掛り度えといっております」  母「おゝ誰だい、さア此方へ這入りな」  甲「ヘエ、誠にはア、魂消まして、どうかまア止め度えといったら止めてはなんねえって叱られた、随分道中を大事に」  九「ヘエ御免」  母「誰だい」  九「九八郎で、誠にどうもさっぱり心得ませんで、急にお立だと云うこッて、お名残い惜ゅうござえます」  母「おや〳〵上の婆様、あんた出で来なえで好えによ」  婆「はい御免なさえ、誠にまアどうも只お名残い惜いから、どうぞ碌に見えない眼だが、ちょっくりお顔を見てえと思ってお暇乞に参りました、明日立つだッて、なんだかあっけなえこったって、私の嫁なんざア泣えてばいいるだ、随分大事になえ」  母「はい有難うござえます、お前も随分大事にして、毎も丈夫で能くねえ」  乙「ヘエ誠にどうもお力落しでがんす」  丙「おい〳〵何だってお力落しなんていうんだ」  乙「でも飛んだ事だと云うじゃアなえか」  丙「馬鹿いえ、敵討にお出でなさるのに力落しという奴があるか」  乙「ヘエ誠にそれはアお目出度えこって」  丙「これ〳〵お目出度えでなえ」  乙「なんでも好いじゃアなえか」  という騒ぎで、村中餅を搗きましたり、蕎麦を打ったり致して一同出立を祝するという、惣吉仇討に出立の処は一寸一息。 七十九  さて時は寛政十一年十二月十四日の朝早く起きまして、旅仕度を致しますなれども、三代も続きました名主役、仮令小村でも村方を離れて知らぬ他国へ参りますものは快くないもので、殊には年を取りました惣右衞門の未亡人が、十歳になる惣吉という子供の手を曳いて敵討の旅立でありますから、村方一同も止める事も出来ず、名残を惜んでおります、皆小前の者がぞろ〳〵と大勢川端まで送って参ります。  母「さア作右衞門さんこれで別れましょうよ、何処まで送っても同じ事たからこれで」  作「だけんども船へ乗るまで送り申し度いと皆こういっている」  母「だけんども却って船に私乗っかって、皆が土手の処にいかい事皆が立っていると、私快くねえ、名残惜くって皆が昨宵から止められるのでね、誠に立度くござえませんよ、何卒お前が差図して帰しておくんなさいましよ」  作「はい、それじゃア皆な是れにてお別れとしましょうよ、えゝ送れば送られる程御新造は心持い悪いてえからよう」  村方の者「左様ならまア随分お大事に」  村方の者「左様ならハアお大事に」  村方の者「左様ならお大事に、早くお帰りなさいましよ」  作「何卒早くお帰りをお待ち申しますよ」  母「さアよ多助どうしたもんだ、汝其所に立っているから皆立っていべえじゃアねえか、汝から先き帰ろというに」  多「おれだけは戸頭まで送る」  母「送らねえでも宜えてえに」  多「送らねえでも宜えたって、村の者と己とは違う、己はあんた十四の時から側にいるので、何所まで送っても村の者は兎や角云う気遣ねえから送り申しますよ」  母「あゝいう馬鹿野郎だもの、汝が送ると云えば皆が送ると云うから汝帰れてえに、昨宵いったこと分らなえか」  多「ヘエ、じゃア御機嫌よく行っておいでなせえ、惣吉様道中でお母様に世話やかしてはいけませんよ、今までは草臥れゝば多助が負って上げたが、もう負って上げる者はねえよ、エヽ気の毒でもあんた歩いてまいらなえばならんだ、永旅だから我儘してお母様に心配かけてはなりませんよ、大事に行っておいでなさえましよ」  惣「うーん、大丈夫だよ、多助も丈夫で」  多「こんな別れの辛い事ア今迄ねえね」  母「別れエ辛えたッておっ死ぬじゃアなし、関取がに逢って敵い討って目出度く帰って来たら宜えじゃアねえか」  多「それまア楽みにするだが、あんた昨宵も人間は老少不定だなんていわれると心持よくねえからね」  母「これで別れましょうよ」  多「左様なら気い付けてね、初めから余りたんと歩かねえようにしてねえ、早く泊る様にしなければなんねえ、寒い時分だから遅く立って早く宿へ着かなけんばいけませんぞ…アヽ押ねえでも宜え危えだ、前は川じゃアねえか、此処へ打箝ったらどうする…何卒大事に行って来てお呉んなせえましよ…なに笑うだ、名残い惜いから声かけるになんだ馬鹿野郎、情合のねえ奴だ、笑やアがって……あれまア肥料桶担げ出しやアがった、桶をかたせ、アヽ桶を下して挨拶しているが……あゝ兼だ新田の兼だ、御厄介になった男だからなア、あの男も……惣吉様小せえだけんども怜悧だから矢張名残い惜がって、昨宵も己らは行くのは厭だけんども母様が行くから仕方がねえ行くだって得心したが、後を振返り〳〵行く………見ろよ…………あゝ誰か大え馬ア引出しやアがって、馬の蔭で見えなくなった、馬を田の畦へ押付けろや…あれまア大え庚申塚が建ったな、彼れア昔からある石だが、あんなもの建てなけりゃアいゝに、庚申塚が有って見えやアしねえ、庚申塚取除せ」  村方の者「そんなことが出来よかえ」  と伸上り〳〵見送って暇を告げる者はどろ〳〵帰る。此方は後に心が引かされるから振返り〳〵、漸々のことで渡を越して水街道から戸頭へさして行きます。すると其の翌年になりまして花車重吉という関取は行違いになりましたことで、毎年春になると年始に参りますが、惣次郎の墓詣をしたいと出て来ましたが、取急ぎ水街道の麹屋へも寄らず、直に菩提所へ参りまして和尚様に逢うと、是れ〳〵といい、つい話も長くなりましたが、墓場に香花を沢山あげて、  花車「あゝお隅様情ない事になった、敵を打つなれば私に一言話をして呉れゝばお前様にこんな難儀もさせまいに、今いうは愚痴だが、だが能くお前が死んで呉れた許りで敵は安田一角という事が分りましたから、惣吉様に助太刀して屹度花車がお前様の恨を晴します、アヽ入違いになり上総の東金へ行きなすったか、嘸情ない事だと思いなすったろうが、私はこれから跡追掛てお目に掛り、何処に隠れ住うとも草を分けても引摺り出して屹度敵を討たせますから」  と活ている者に物をいう様に分らぬ事を繰返し大きに遅れたと帰ろうとすると、ばら〳〵降出して来て、他に行く処もないから水街道の麹屋へ行こうとすると、和尚様は 「少し破れてはいるがこれをさして、穿きにくかろうがこの下駄を」  というので下駄と傘を借りて、これから近道を杉山の間の処からなだれを通って、田を廻ってこう東の方へ付いて行くと、大きな庚申塚が建てゝ在って、うしろには赤松がこう四五本ありまして、前には沼があり其の辺に枯れ蘆が生えております、ずうッと見渡すばかりの田畑、淋しい処へばら〳〵降っかけて来る中をのそり〳〵やって来ると、突然に茂みからばら〳〵と出た武士が、皆面部を包み、端折を高くして小長い大小を落し差しにしてつか〳〵と来て物をもいわず花車の片方の手を一人が押える、一人は前から胸倉を押えた、一人は背後から羽交責に組付こうとしたが、関取は下駄を穿いており、大きな形で下駄穿だから羽交責処ではない、漸く腰の処へ小さい武士が組付きました。 八十  花車は恟りしたが、左の手に傘を持って居り、右の手は明いて居りましたが、おさえ付けられ困りました。  花車「なんだい、何をなさる」  武士「我々は浪人者で食方に困る、天下の力士と見かけてお頼み申すが、路銀を拝借したい」  花「路銀だって、あんた、私はお前さん角力取で金も何もありはしないが、困りますよ、そんなことして金持と見たは眼違いで、金も何もない、角力取だよ」  武「金がなければ気の毒だが帯して居る胴金から煙草入から身ぐるみ脱いで行って貰い度い」  花「そんなこといって困りますよ、身幅の広いこんな着物を持って行ったって役に立ちはしません、煙草入だって、こんな大きな物持って行ったって提げられやあせん、売ったって銭にもならぬに困りますよ、然う胴突いては困るよ〳〵」  といいながら段々花車は後へ下ると、後の見上げる様な庚申塚の処へこう寄り掛りました。前の奴は二人で、一人は右の腕を押え、一人は胸倉を取って押える、後の奴はせつない、庚申塚と関取の間にはさまれ、 「もっと前に」  といっても同類の名をいうことが出来ない。此の三人は安田一角の廻し者、花車を素っぱだかにしてなぶり殺しに致すようにすれば、是れだけの手当を遣るということに疾うより頼まれて居る処、出会って丁度幸い、いゝ正月をしようという強慾非道の武士三人、漸と捕まいたが、花車は怜悧ものだから、此奴らは悪くしたら廻し者だろうと思い、  花「まアそんなに押えられては困りますね、待ちなさい上げますよ、達ってと云えば上げますよ〳〵」  武「呉れぬといえば許さぬ、浪人の身の上切取強盗は武士の習い、云い出しては後へ引かぬからお気の毒ながら切り刻んでもお前の物は残らず剥ぐぜ、遁れぬ事と諦めて出しな、裸体はお前の商売だ、裸体で行くのは何でもないわ」  花「だから上げるけれども、待ちなさいよ」  と左の手に持って居た傘をぽんと投出し前から胸倉を取って押えて居る一人の帯を押えて、  花「お前さん、そう胸倉を押していては私は着物を脱ぐことが出来ぬから、胸倉を緩めて、裸体になりますよ、私も災難じゃア、寒くはないから、私に裸体になれてえばなりますから、胸倉を押えていては脱げませんから緩めて」  前の奴のうっかり緩める処を見て、  花「なにをなさる」  といいながら一人の奴の帯を取ってぽんと投げると、庚申塚を飛越して、後の沼の中へ、ぽかんと薄氷の張った泥の中へ這入った。すると右の手を押えた奴は驚きバラ〳〵逃げ出した。  花「悪い奴じゃ、こんな村境の処へ出やアがって追剥をしやアがって悪い奴じゃ、今度此辺アうろ〳〵しやアがると打殺すぞ、いや後に誰れか居やアがるな、此奴組付て居やアがったか」  武「誠にどうも恐入った」  花「誠にも糞もいらん、これ汝の様な奴が出ると村の者が難儀するから此の後為ないか」  武「為る処ではござらぬ、誠にどうも」  花「悪いことするな、是からは為ないかどうだ此の野郎」  と押付けると、  武「うーん」  と息が止った。  花「野郎死にやアがったか、くたばったか、野郎死だか、アヽ死にやアがった、馬鹿な奴だ」  と捻り倒すと、尾籠のお話だが鼻血が出ました。  花「みっともねえ面だなア、此奴も投込んで遣れ」  と襟髪を取って沼へ投り込み、傘を持ってのそり〳〵水街道の麹屋へ帰るという、角力取という者はおおまかなもので。扨お話は二つに分れて此方は惣吉の手を引き、漸々のことで宿屋へ着きましたなれども、心配を致しました揚句で、母親がきり〳〵癪が起りまして、寸白の様で、宿屋を頼んでも近辺に良い医者もございませんから、思う様に癒りません、マア癒るまではというので、逗留致して居りました。其の内に追々と病気も癒る様子なれども、時々きや〳〵痛み、固い物は食われませんから、お粥を拵えてこれを食い、其のうち年も果て正月となり、丁度元日で、元日に寝ていては年の始め縁起が悪いと、田舎の人は縁起を祝ったもので、身体が悪いくせに我慢して惣吉の手を引いて出立致し、小金ヶ原へ掛り、塚前村の知己の処へ寄って病気の間厄介になろうと、小金の原から三里許り参ると、大きな観音堂がございますが、霙がぱら〳〵降出して来て、子供に婆様で道は捗取りません、とっぷり日は暮れる、すると頻に痛くなりました。  惣吉「母様また痛いかえ」  母「アヽ痛い、あゝあのお医者様から貰ったお薬は小さえ手包の中へ入れて置いたが、彼処え上げて置いたが、あれ汝持って来たか」  惣「あれ己置いて来た」  母「困るなア、子供だア、母様塩梅悪いだから、薬大事だからてえ考えもなえで」  惣「だって、己もう宜いてえから、よかんべえと思って何も持って来なかった」  母「困ったなア、あゝ痛い〳〵」  惣「母様雪降って来た様だから、此処に居ると冷てえから、此の観音様の御堂に這入って些と己おっぺそう」  母「そうだなア、押してくれ」  惣「あい」  母「おゝ、大え観音様のお堂だ、南無大慈大悲の観世音菩薩様少々此処を拝借しまして、此処で少し養生致します。さア惣吉力一ぺえ押せよ」  惣「母様此処な処かえ」  母「もっとこっち」  惣「もっと塩梅が悪くなると困るよう、しっかりしてよう、多助爺やアを連れて来ると宜かった」  と可愛らしい紅葉の様な手を出して母の看病をして、此処を押せと云われて押しても力が足りません。  母「あゝ痛い〳〵、そう撫ても駄目だから拳骨で力一ぺえおっぺせよ、拳骨でよ、あゝ痛い〳〵」 八十一  女「何だか大層呻る声が聞えるが……貴方かえ」  母「へえ、旅の者でござえますが、道中で塩梅が悪くなりましてね、快くなえうち歩いて来ましたから、原中え掛って寸白が起って痛うごぜえますから、観音様のお堂をお借り申しました」  女「それはお困りだろう、お待ち、どれ〳〵此方へ這入りなさい」  と観音堂の木連格子を明けると、畳が四畳敷いてございます。其の奥は板の間になって居ります、年の頃五十八九にもなりましょう、色白のでっぷりした尼様、鼠木綿の無地の衣を着て、  尼「さア此方へお這入りさア〳〵擦って上げましょう憫然に、此の子が小さい手で押しても、擦っても利きはしない、おゝ酷く差込んで来る様だ」  母「有難うごぜえます、痛くって堪らねえでね、宿屋へ一寸泊りましたが癒らねえで」  尼「こう苦むに子供を連れて何処まで……なに塚前まで、是から三里ばかりで近くはない、薬はお持ちかえ」  母「はい、薬は有ったが惣吉がにいい付けて置いたら、慌てゝ、包の中へ入れて置いたのを置いて参りまして」  尼「薬がなくっては困ったもの、斯ういう時は苦い物でなければいけない、だらすけが宜いが、今此の先にねえ、あの榎の出て居る家が有る、あれから左の方へ構わず曲って行くと、家が五六軒ある、其処の前に丸太が立って、家根の上に葮簀が掛って居て、其処に看板が出てあったよ、癪だの寸白疝気なぞに利く何とか云う丸薬で、*黒丸子の様なもので苦い薬で、だらすけみたいなもので、癪には能く利くよ、お前ねえ、知れまいかねえ、行って買って来ないか、安い薬だが利く薬だが、先刻通った時榎があって、一寸休む処が有って、掛茶屋ではないが、あれから曲って一町ばかり行くと四五軒家があるが、何うか行って買って来て、私が行って上げたいが手が放されないから」 *「漢方医の調剤する腹痛の丸薬。こくがんし」  惣「有難う」  尼「茲にお銭があるから是を持って行っておいで、心配せずに」  惣「じゃア母様私が薬買って来るから」  母「よくお聞き申して早く行って来うよ」  惣「はい、御出家様お願え申しますよ」  尼「あいよ心配せずに行っておいで、憫然に年もいかぬに旅だからおろ〳〵して涙ぐんで、いゝかえ知れたかえ、先刻通った四五町先の榎から左に曲るのだよ」  惣「あい」  とおろ〳〵しながら、惣吉は年は十だが親孝心で発明な性質、急いで降る中を四五町先を見当にして参りました。先刻通りました処は覚えて居りまして、榎の所から曲ると成程四五軒家がある、其処へ来て、  惣「此辺に癪に利く薬でだらすけという様な薬は何処で売って居ますか」  と聞くと、  男「此辺に薬を売る処はない、小金まで行かなければない」  惣「小金と云うのは」  男「小金までは子供で是からは迚も行かれない、其の中には暗くなって原中で犬でも出れば何うする、早くお帰り」  と云われ心細いから惣吉は帰って観音堂へ駈上って見ると情ないかな母親は、咽喉を二巻程丸ぐけで括られて、虚空を掴んで死んで居る。脊負った物も亦母が持って居た多分の金も引浚って彼の尼が逃げました。  惣「アヽお母様、何うして絞殺されたかねえ」  と頸に縛り付けてある丸ぐけを慄えながら解いて居る処へ、通り掛った者は、藤心村の観音寺の和尚道恩と申しまして年とって居りますが、村方では用いられる和尚様、隣村に法事があって男を一人連れて帰りがけ、  和尚「急がんじゃアいかん」  男「何だかヒイ〳〵という声が聞える様に思うだ」  和「ヒイ〳〵と」  男「怖かねえと思って、此処はね化物が出る処だからねえ」  和「化物なぞは出やせん」  男「けれども原中でヒイ〳〵という声が訝しかんべえ」  和「何も出やアしない」  男「あれ冗談じゃアねえ、だん〳〵、あれ〳〵」  和「彼れは観音様のお堂だ、彼処に人が居るのではないか、暗くって見えはせん提灯出しな」  と提灯を引ったくって和尚様が来て見ると、縊り殺された母に縋り付いて泣いて居る。  和「どういう訳か」  と聞くと泣いてばかり居て頓と分りません。漸くだまして聞くと是れ〳〵という。  和「飛んだ事だ」  と直に供の男を走らして村方へ知らせますと、百姓が二三人来て死骸と共に惣吉を藤心村の観音寺へ連れて来て、段々聞くと、便る処もない実に哀れの身の上でありますから、  和「誠に因縁の悪いので、親の菩提の為、私が丹精して遣るから、仇を討つなぞということは思わぬが宜い、私の弟子になって、母親や兄さんの為に追善供養を吊うが宜い」  と此の和尚が丹精して漸く弟子となり、頭を剃りこぼち、惣吉が宗觀と名を替えて観音寺に居る処から、はからずも敵の様子が知れると云うお長いお話。一寸一息吐きまして。 八十二  扨一席申上げます、久しく休み居りました累ヶ淵のお話は、私も昨冬より咽喉加答児でさっぱり音声が出ませんから、寄席を休む様な訳で、なれども此の程は大分咽喉加答児の方は宜うございますが、また風を引き風声になりまして、風声と咽喉加答児とが掛持を致して居りますると云う訳でもござりませんが、何時までもお話を致さずにも居られませんから、此の程は漸く少々よろしゅうございますから、申し残りの処を一席お聞きに入れます。さてお話が二つに分れまして、ちょうど時は享和の二年七月廿一日の事でございまする。下総の松戸の傍に、戸ヶ崎村と申す処がございまして、其処に小僧弁天というのがありまするが、何ういう訳で小僧弁天と申しますか、敢て弁天様が小さいという訳でもなし、弁天様が使いに往く訳でもないが、小僧弁天と申します。境内は樹木が繁茂致しまして、頓と掃除などを致したことはなく、破れ切れた弁天堂の縁は朽ちて、間から草が生えて居り、堂の傍には落葉で埋もれた古井があり、手水鉢の屋根は打っ壊れて、向うの方に飛んで居ります。石塚は苔の花が咲いて横倒しになって居りまする程の処、其の少し手前に葮簀張があって、住いではありません、店の端には駄菓子の箱があります、中にはお市、微塵棒、達磨に玉兎に狸の糞などという汚ない菓子に塩煎餅がありまするが、田舎のは塩を入れまするから、見た処では色が白くて旨そうだが、矢張こっくり黒い焼方の方が旨いようです。田舎の塩煎餅は薄っぺらで軽くてべら〳〵して居りまする、大きな煎餅壺に一杯這入って居りまする、それから鳥でも追う為か、渋団扇が吊下り、風を受けてフラ〳〵煽って居りまする、これは蠅除であると申す事で。袖無を着た婆アさまが塵埃除の為に頭へ手拭を巻き附け、土竈の下を焚き附けて居りまする。破れた葮簀の衝立が立ってあり、看板を見ると御休所煮染酒と書いてありまするのは、いかさま一膳飯ぐらいは売るのでござりまする。丁度其の日の申刻下り、日はもう西へ傾いた頃、此の茶見世へ来て休んでいる武士は、廻し合羽を着て、柄袋の掛った大小を差し、半股引の少し破れたのを穿いて、盲縞の山なしの脚半に丁寧に刺した紺足袋、切緒の草鞋を穿き、傍に振り分け荷を置き、菅の雪下しの三度笠を深く冠り、煙草をパクリ〳〵呑んで居りますると、門口から這入って参りました馬方は馬を軒の傍へ繋いで這入って来ながら、  馬「婆さま、お茶ア一杯くんねえ、今の、お客を一人新高野まで乗けて来た」  婆「おめえさまは何時もよい機嫌だのう」  馬「いゝ機嫌だって、機嫌悪くしたって銭の儲かる訳でもねえから仕ようがねえのよ」  といいながら彼の縁台に腰を掛けていたる客人を見て、  馬「お客さん御免なせえ、あんた何方へおいでゝごぜえやすねえ、もうハア日イ暮れ掛って来やしたから、お泊は流山か松戸泊が近くってようごぜえましょう、川を越してのお泊は御難渋ようだが、今夜は何処へお泊りか知りやせんが、廉くやんべえかな」  士「馬は欲しくない」  馬「どうせ帰り馬でごぜえやす、今ね新高野までお客ウ二人案内してね、また是から向へ往くのでごぜえやすが、手間がとれるから、鰭ヶ崎の東福寺泊りと云うのだが、幾らでもいゝから廉く遣るべえじゃアねえか」  士「馬は欲しくないよ」  馬「欲しくねえたって廉かったら宜えじゃアねえか」  士「廉くっても乗り度くないというのに」  馬「そんな事を云わずに我慢して乗ってッて下せえな」  士「うるさい、乗り度くないから乗らんというのだ」  馬「乗り度くねえたって乗ってお呉んなせえな、馬にも旨え物を喰わして遣りてえさ、立派な旦那様、や、貴方ア安田さまじゃありやせんか」  士「誰だ」  馬「おゝ先生かえ、誠に久しく会わねえ、まア本当に思えがけねえ、横曾根村にいた安田先生だね」  士「大きな声をするな、己は少々仔細有って隠れている身の上だが、突然に姓名をいわれては困る、貴様は誰だ」  馬「誰だって先生、一つ処にいた作藏でごぜえやすわね」  士「なに作藏だと、おゝ然う〳〵」  作「えゝ誠にお久しくお目に懸りやせんが、何時もお達者で若えねえ、最早慥か四十五六になったかえ」  士「汝も何時も若いな」  作「己アもう仕様がねえ、貴方実はね私も先刻から見た様な人だと思ってたが、安田一角先生とは気が附かなかったよ」  士「己の名を云ってくれるなというに」  作「だッて、知んねえだから気イ附かずに云ったのさ、併し何うも一角先生に似て居ると思ったよ」  安「これ名を云うなよ」  作「成程善々視れば先生だ、何でも隠し事は出来ねえねえ、笠ア冠っているから知れなかったが安田先生だった」  安「これ〳〵困るな、名を云うなと云うに」  作「つい惘然いうだが、もう云わねえ様にしやしょう、実に思え掛けねえ、貴方今何処にいるだ」  安「少し仔細あって此の近辺に身を隠しているが、汝何うして彼方を出て来た」  作「仕様がねえだ、己アこんなむかっ腹を立てる気象だが、詰らねえ事で人に難癖え附けられたから、此所ばかり日は照らねえと思って出て来たのさ」  安「汝は慥か森藏の宅に厄介になっていたじゃアねえか」  作「はい、森藏といっちゃア彼処では少しは賭博打の仲間じゃア好い親分だが、何てってももう年い取ってしまって、親分は耄碌していやすから、若え奴等もいけえこといやすから、私も厄介になってると、金松と云う奴がいて、其奴か毀れた碌でもねえ行李を持っていて、自分の物は犢鼻褌でも古手拭でも皆其ん中え置くだ、或時己が其の行李を棚から下してね、明けて見ると、財布が這入ってゝ金が一分二朱と六百あったから出して使ってしまうと、其奴がいうには、此の行李の中へ入れて置いた財布の金が無え、手前取ったろうというから、己ア取りゃアしねえが只黙って使ったのだというと、此の泥坊野郎と云うから私が合点しねえ、泥坊とは何んだ、何ういう理窟で人の事を泥坊と云うのだ、只汝が金え出して使ったばかりで、黙って人の物を出して使ったって泥坊と云う理合が何処に在るかと、喧嘩をおっ始めたというわけさ」  安「矢張泥坊の様だな」 八十三  馬「親分のいうには、泥坊に違えねえとッて己の頭ア打擲って、汝の様な解らねえものアねえと、親分まで共に己に泥坊の名を附けただが、盗んだじゃアねえ只無断で使ったものを泥坊なんぞという様な気の利かねえ親分じゃ仕様がねえと思って、おッ奔って了ったが仕様がねえから今じゃア馬小屋見てえな家を持って、こう遣って、馬子になって僅な飲代を取って歩いてるんだが、ほんの命を繋いでるばかりで仕様がねえのさ、賭博打の仲間へ這入る事も出来ねえから、只もう馬と首引きだ、馬ばかり引いてるから脊骨へないらが起るかと思ってるよ、昔馴染に、小遣を少しばかりおくんなさえな」  安「そんなら汝は風来で遊んでるのか」  作「遊人という訳でもねえが、馬を引いてるから、賭博を打って歩く事も出来ねえのさ」  安「少し汝に話があるから婆アを烟草でも買いに遣ってくれねえか」  作「はア宜うごぜえやす、婆さま、旦那さま烟草買ってくんろと仰しゃるから買って来て上げなよ、此の旦那は好んでなけりゃア気に入るめえ、唯の方ではねえ安田一角先生てえ」  安「これ〳〵」  作「はア宜うござえやす、立派な先生だから悪い烟草なんぞア呑まねえから、大急ぎで好のを買って来なせえ……あんた銭有りますかえ」  安「さ、これを」  作「サ婆さま是で買って来て上げな」  安「使い賃は遣るよ」  婆「はい畏りました、直にいって参りまする」  と婆さんは使賃という事を聞いて悦んで、烟草を買いに出て参りました。後は両人差向で、  安「汝馬を引いてるのが幸いだ、己は木卸へ上る五助街道の間道に、藤ヶ谷という処の明神山に当時隠れているんだ」  作「へー、あの巨大え森のある明神さまの、彼処に隠れているのかえ、人の往来もねえ位の処だから定めて不自由だんべえ、彼処は生街道てえので、松戸へ通ン抜けるに余程近えから、夏になると魚ア車に打積んで少しは人も通るが何だってあんな処に居るんだえ」  安「それには少し訳があるのだ、己も横曾根にいられんで当地へ出たのだ」  馬「何だか名主の惣次郎を先生が打斬たてえ噂があるが、えゝ先生の事たから随分やり兼ねえ、殺ったんべえ此の横着もの奴、そんな噂がたって居難くなったもんだからおっ走って来たんだろう」  安「そんな事はねえが武士の果は外に致方もなく、旨い酒も飲めないから、どうせ永い浮世に短い命、斬り取り強盗は武士の習だ、今じゃア十四五人も手下が出来て、生街道に隠れていて追剥をしているのだ」  作「えゝ追剥を、えれえウーン怖ねえウーン、おれ剥ぐなよ」  安「汝なぞを剥いでも仕様がないが、汝は馬を引いてるんだから、偶には随分多分の金を持ってるよい旅人が、佐原や潮来辺から出て来るから、汝其の金のありそうな客を見たら、なりたけ駄賃を廉くして馬に乗せ、此処は近道でございますと旨く騙かして生街道へ引張り込み、藤ヶ谷の明神山の処まで連れて来てくれ、併し薄暗くならなくっちゃア仕事が出来ねえから、宜い加減に何処かで時を移すか、のさ〳〵歩けば自然と時が遅れるから、そうして連れて来て呉れゝば、多勢で取巻いて金を出せといえば驚いてしまう、汝は馬を置っ放してなり引張ってなり逃げてしまいねえ、そうして百両金があったら其の内一割とか二割とか汝に礼をしようから、おれの仲間にならねえか」  作「そんなら礼が二割といえば百両ありゃア二十両己にくれるのか」  安「そうよ」  作「うめえなア、只馬を引張って百五十文ばかりの駄賃を取って、酒が二合に鰊の二本も喰えば、後に銭が残らねえ様な事をするより宜いが、同類になって、若し知れた時は首を打斬れるのかよ」  安「そうよ」  作「ウーン、それだけだな、己はもうこれで五十を越してるんだから百両で二十両になるのなら、こんな首は打斬られても惜くもねえから行るべえか」  安「汝馬を引いておれの隠家まで来い、あの明神山の五本杉の中に一本大きな楠がある、其の裏の小山がある処に、少しばかり同類を集めているんだ」  馬「じゃア彼のもと三峰山のお堂のあった処だね、よくまア彼様な処にいるねえ、彼処は狼や蟒が出た処なんだから、尤も泥坊になれば狼や蟒を怖がっていちゃア出来ねえが、そうかえ」  一角は懐から金を取出し作藏に渡しながら、  安「これは汝が同類になった証拠の為、少しだが小遣銭に遣るから取って置け」  作「え、有難え、これは五両だね、今日は本当に思え掛けねえで五両二分になった」  安「なぜ」  作「不思議な事もあるものだ、今日はね、あのもさの三藏に逢ったよ、羽生村の質屋で金かした婆ア様が死んだって、其の白骨を高野へ納めるてえ来たが、今日は廿一日だから新高野山へお参りをするてえので、與助を供に伴れて、己が先刻東福寺まで送ってッたが、昔馴染だから二分くれるッて云ったが、有難うござえやす、実に今日は思え掛けねえ金儲けが出来た」  安「其の五両を取って見ると、もう同類だから是切り藤ヶ谷へ来ずにいて、若し汝の口から己の悪事を訴人しても汝は矢張り同罪だ、仮令五両でも貰って見れば同類だから然う思え」  作「己も覚悟を極めて行るからには屹度遣りやすよ、それは宜いが、あんた直に独りで往くか、馬に乗って往かないか、歩いて往く、そうか、左様なら……あゝ其方へ往ってア損だから、其の土橋を渡って真直においでなせえ、道い悪いから気い付けて往きなさえ、なア安田先生も剣術遣いだから、どうして剣術遣いじゃア飯ア喰えねえ、あの人は旧時から随分盗賊ぐれえ遣ったかも知んねえ、今己がに五両呉れたは宜いが、是を取って見れば同類に落すといったが、困ったな、あゝもう往ってしまったか、立派な男だ、婆アさまは何処まで烟草を買えに往ったんだろう尤も要らないのだ、人払えの為に買えに遣ったんだが余り長えなア」  と独言をいっている後から、  男「おい作」  作「え、誰だえ己を呼ばるのア誰だ」  男「お、己だ、久しく逢わねえのう」 八十四  作「誰だ、人が何処にいるのだ」  と云いながら、方々見廻し、振返って見ると、二枚折の葮の屏風の蔭に、蛇形の単物に紺献上の帯を神田に結び、結城平の半合羽を着、傍の方に振分の小包を置き、年頃三十ばかりの男で、色はくっきりと白く眼のぱっちりとした、鼻筋の通った、口元の締った美い男で、其の側に居るのは女房と見え、二十七八の女で、頭髪は達磨返しに結び、鳴海の単衣に黒繻子の帯をひっかけに締め、一杯飲んで居る夫婦連の旅人で、  男「作や、此方へ這入んねえ」  といいながら、葭屏風を明けて出て来た男の顔を見て、  作「イヤア兄いか、何うした新吉さん珍らしいなア、久し振りだ、これは何うも珍らしい、実に思え掛けねえ」  新「汝、大きな声で呶鳴って居たが相変らずだなア」  作「おやお賤さん、誠にお久し振でござえやした」  賤「おや作藏さんお前の噂は時々していたが、相変らず宜い機嫌だね」  作「本当にお賤さん、見違える様になった、少しふけたね、旅をしたもんだから色が黒くなったが、思え思った新吉さんととう〳〵夫婦になって彼処をおッ走ったのかえ、今まア何処にいるだえ」  新「彼方此方と身の置き処のねえ風来人間で仕方がねえが、是も皆人に難儀を掛け、悪い事をした報と思って諦めているが、何商売を仕度くも資本がないのだ、汝まぶな仕事を安田と相談していたが、己も半口載せねえか」  作「お前あの事を聞いたか、是ハア困ったなア、実は銭がねえで困るから這入る真似しただア、だが余り這入り度はねえんだ」  新「旨くいってるぜ、併し三藏は何処へ往ったんだ」  作「三藏かえ、彼はね婆さまが死んだから其の白骨を本当の紀州の高野へ納めに往くって、祠堂金も沢山持ってる様子だ、お累さんもあゝいう死様をしたのも矢張お前ら二人でした様なものだぜ」  新「汝是から新高野へ馬を引いて往くのなら矢張帰りは此処を通るだろう」  作「鰭ヶ崎の方へ廻るのだが此方へ来ても宜い」  新「そうか、おい作」  作「え何んだ」  新「一寸耳を貸せ」  作「ふーん、怖い事だな」  新「汝馬を引いて先方へ往って、三藏を此処迄乗せて連れて来たら、何か急に用が出来たと云って、馬を置っ放して逃げてしまってくれねえか、併し馬を置いて往かれちゃア三藏に逢って仕事をする邪魔になるから、引いてってくれ、其の代り金を三十両やらア」  作「え、三十両本当に己ア金運が向いて来た、じゃア金をくんろえ、してどういう理窟だ」  新「三藏とは一旦兄弟とまでなったが、お累が死んでからは、互えに敵同志の様になったのだ」  作「敵同志だって汝が三藏を怨むのアそりゃア兄い些と無理だんべえ、成程お賤さんの前もあるから、そういうか知んねえが、三藏を敵と思えば無理だぞ、お前が養子に往っても男振が宜いもんだから、お賤さんに見染められ、互えに死ぬの生るのと騒ぎ合い、お累さんを振捨てゝお賤さんとこういう事になったから、お累さんも上せて顔が彼様に腫れ出して死んで了ったのだから、却って三藏の方でお前を怨んでいるだろうが、何もお前の方で三藏を悪み返すという理合はあんめえぜ」  新「汝は深い事を知らねえからそんな事をいうんだが、何でも構わねえ、己が三藏に逢って、百両でも二百両でも無心をいって見ようと思うのだ」  作「三藏殿がお前に金を貸す縁があるかえ」  新「貸しても宜い訳があるのだよ」  作「三十両呉るなら遣附けやしょう」  新「若し與助の野郎が邪魔でもしたら、汝打擲ってくれなくっちゃアいけねえぜ」  作「與助爺なんざアヒョロ〳〵してるから川の中へ投ぽり込んで了うがそれも矢張金づくだがね」  新「強請事をいわずに遣って呉れ、其の代り首尾よく遣って利を見た上で汝に又礼をしよう」  作「それじゃア三藏に貸してくれといっても貸さねえといえば礼はねえか、困ったな、じゃア後の礼の処は当にはならねえな」  新「まア其様なものだが、多分旨く往くに違えねえ、若しぐず〳〵して貸さねえなんどゝいったら、三藏與助の二人を殴っ殺して川の中へ投り込んでしまう積りだ、己も安田の提灯持位えは遣る了簡だ」  作「お賤さん新吉さんが彼様な事を云うぜ」  賤「お前度胸をお据え仕方がないよ、私も板の間稼ぎぐらいは遣るよ」  作「アレマア彼様な綺麗な顔をしていながら、あんな事をいうのも皆新吉さんが教えたんだろう、己はどうせ安田の同類にされたから、知れゝば首は打斬れる様になってるんだから仕方がねえ、やるべえ〳〵、おゝ婆アが帰って来やアがった」  新「それじゃア手前馬を引いて早く往け」  作「ハイ、そんなら直に馬ア引いて新高野へ三藏を迎えに参りやしょう」  と出て行きました。これから新吉お賤も茶代を払って其処を立出でました。其の内もう日はとっぷりと暮れましたが、葮簀張もしまい川端の葦の繁った中へ新吉お賤は身を隠して待って居ると、向から三藏が作藏の馬に乗って参りました。  作「與助さん貴方もう何歳になるねえ、まだ若えのう、長く奉公してるが五十を一つ二つも越したかえ」  與「そうでねえ、もう六十に近くなったから滅切年を取って仕舞った」  作「羽生村の旦那ちょっくら下りてお呉んなせえ」  三「なんだ」  作「なんでも宜いから」  三「坂を上ったり下りたりするので己も余程草臥れたが、馬へ乗って少し息を吐いたが、馬へ乗ると又矢張腰が痛いのう」  作「旦那誠に御無心だが、私はね、少し用があるのを忘れて居たが、実は此の先へ往って炭俵を六俵積んで来て呉れと頼まれてるんだが、どうしても積んで往かねばなんねえ事があるだ、誠にお気の毒だが此処で下りて下せえな、もう此処から先は平な道だから歩いても造作ねえんですが」  三「それじゃア何でもいゝ汝が困るなら下りて歩いて往こう」  と云いながら馬から下りる。  作「私は少し急ぎますから御免なせえ」  と大急ぎで横道の林の蔭へ馬を引込みました。 八十五  日はどっぷりと暮れ、往来も止りますと、戸ヶ崎の小僧弁天堂の裏手の草の茂みからごそ〳〵と葦を分けながら出て来た新吉は、ものをもいわず突然與助の腰を突きましたから堪りません、與助は翻筋斗を打って、利根の枝川へどぶんと水音高く逆とんぼうを打って投げ込まれましたから、アッといって三藏が驚いている後から、新吉が胴金を引抜いて突然に三藏の脇腹へ突込みました、アッといって倒れる処へ乗掛り、胸先を抉りましたが、一刀や二刀では容易に死ねません、死物狂い一生懸命に三藏は起上り、新吉の髻をとって引き倒す、其の内與助は年こそ取って居りまするが、田舎漢で小力もあるものでございますから、川中から這い上って参りながら、短いのを引き抜き、  與「此の野郎なにをしやアがる」  と斬って掛る様子を見るよりお賤は驚き、新吉に怪我をさせまいと思い、窃と後から出て参り、與助の髻を取って後の方へ引倒すと、何をしやアがるといいながら、手に障った石だか土の塊りだか分りません、それを取って突然お賤の顔を打ちました。お賤は顔から火が出た様に思い「アッ」といって倒れると、乗し掛り斬ろうとする処へ、馬子の作藏が與助の傍から飛び出して、突然足を上げて與助を蹴りましたから堪りません、與助はウンといって倒れました。新吉は刀を取直して又た一刀三藏の脇腹をこじりましたから、三藏も遂に其の儘息が絶えました。すると手早く三藏の懐へ手を入れ、胴巻の金を抜き取って死骸を川の中へ投げ込んで仕舞い、  新「お賤〳〵」  賤「アイ、アヽ痛い、どうも酷い事をしやアがった、石か何か取って、いやという程私の顔を打ちやアがった」  新「手出しをするからだ、黙って見ていればいゝに」  賤「見て居ればお前が殺されて仕舞ったのだよ、與助の野郎がお前の後から斬りに掛ったから、私が一生懸命に手伝ったのだが、もう少しでお前斬られる処だったよ」  新「そうか、夢中でいたから、ちっとも知らなかった」  賤「與助をよく蹴倒したのう」  作「え、なに己だ、林の蔭に隠れていたが、危ねえ様子だから飛び出して来て、與助野郎の肋骨を蹴折って仕舞った、兄い無心処じゃねえ突然に行ったんだな」  新「汝はもう帰ったのかと思った」  作「林の蔭に隠れていて、何うだかと様子を見ていたのよ」  新「誰か人は来やアしねえか、汝気を附けて呉れ」  作「大丈夫だ、誰も来る気遣はねえが、割合を貰え度えなア」  新「汝はよく嘘を吐く奴だな、三藏が高野へ納める祠堂金を持ってるというから、懐を探して見たが、金なんぞ持っていやアしねえ、漸く紙入の中に二両か三両しかありゃアしねえ」  作「冗談じゃアねえぜ、そんな事があるもんか」  新「だって汝嘘を吐いたんだ」  作「なに己が嘘なんぞ吐くものか、此の野郎殺して置いて其の金を取って仕舞ったに違えねえ、そんな事をいっても駄目だ」  新「なに本当だよ」  作「死骸はどうした」  新「川の中へ投り込んでしまった」  作「嘘をいえ、戯けずに早くよこせよ、戯けるなよ」  新「なに戯けやアしねえ」  といわれ、作藏は少し怒気を含み、訛声を張上げ、  作「手前の懐を改めて見よう、己だって手伝って、姐さんを斬ろうとする與助を己が蹴殺して、罪を造っているんだ、裸体になって見せろやい、出せってばやい」  といいながら新吉に取縋る。  新「遣るよ、遣るから待てというに、戯けるな、放せ」  作「なんだ、人を欺して、金え出せよう」  新「遣るから待てよ、遣るというに、お賤、その柳行李の中に少し許り金が這入ってるから出して作藏に遣んな、三藏の懐には無えんだから沢山は遣れねえ、十両ばかり遣ろう」  と気休めをいいながら隙を覘ってどんと作藏の腰を突くと、どぶりと用水へ落ちましたが、がば〴〵と直に上って参りまする処を見て、ずーんと脳を割附けると、アッ、といってがば〴〵と沈みましたが、又這上りながら、  作「斬りやアがったなア此の野郎」  と云う声がりーんと谺がして川に響きました。尚も這上ろうとする処を、また一つ突きましたから、仰むけにひっくりかえりましたが、又這上って来るのを無暗に斬り附けましたから、馬方の作藏は是迄の悪事の報いにや遂に息が止ったと見え、其の儘土手の草を攫んだなり川の中へのめり込んで仕舞いました。  賤「お前まア恐ろしい酷い事をするねえ」  新「此の野郎はお饒舌をする奴だから、罪な様だが五両でも八両でも金を遣るのは費だから切殺して仕舞ったが、もう此処にぐず〳〵してはいられねえ」  賤「私はどうも殴れた処が痛くって堪らないよ」  新「何んだか暗くって判然分らねえ」  といいながら透して見ると、石だか土塊だか分りませんが、機みとはいいながら打たれた痣は半面紫色に黒み掛り、腫れ上っていましたから、新吉がぞっとしたと申すは、丁度七年後の七月廿一日の夜、お累が己を怨み、鎌で自殺をした彼の時に、蚊帳の傍へ坐って己の顔を怨めしそうに睨めた貌が、実に此の通りの貌だが、今お賤が思い掛ない怪我をして、半面変相になるというのも、飽までお累が己の身体に附纒って祟をなす事ではないかと、流石の悪党も怖気立ち、ものをも言わず暫くは茫然と立って居りましたが、お賤は気が附きませんから、  賤「お前早く人の来ない中に何処かへ往って泊らなくっちゃアいけない」  といわれ、漸々心附き、これからお賤の手を取って松戸へ出まして、松新という宿屋へ泊り、翌日雨の降る中を立出でて本郷山を越し、塚前村にかゝり、観音堂に参詣を致し、図らずお賤が、実の母に出逢いまするお話は一息つきまして。 八十六  申続きました新吉お賤は、実に仏説で申しまする因縁で、それ程の悪人でもございませんでしたが、為る事為す事に皆悪念が起り、人を害す様な事も度々になりまする。扨二人は松戸へ泊り、翌廿二日の朝立とうと致しますると、秋の空の変り易く、朝からどんどと抜ける程降りますから立つ事が出来ませんで、ぐず〴〵して晴れ間を待っている中に丁度午刻過になって雨が上りましたから、昼飯を食べて其処を立ちましたなれども、本街道を通るのも疵持つ脛でございまするから、却って人通りのない処がよいというので、是から本郷山を抜け、塚前村へ掛りました時分は、もう日が暮れかゝり、又吹掛け降に雨がざア〳〵と降って来ましたから、  新「アヽ困ったもんだ」  と云いつゝ二三町参りますと傍の林の処に小さい門構の家に、ちらりと燈火が見えましたから、  新「兎も角も彼処へ往って雨止みをしよう」  といいながら門の中へ這入って見ると、木連格子に成っている庵室で、村方の者が奉納したものか、丹で塗った提灯が幾つも掛けてあります。正面には正観世音と書いた額が掛けてあります。  新「お賤」  賤「あい」  新「こんな処に宿屋はなし、仕方がないから此の御堂で少し休んで往こう、お賽銭を上げたらよかろう、坊さんがいるだろう」  といいながら格子の間から覘いて見ると、向に本尊が飾って有りまする。正観世音の像を小さいお厨子の中へ入れてあるのですが、余り良い作ではありません、田舎仏師の拵えたものでございましょう、なれ共金箔を置き直したと見え、ぴか〴〵と光って居りまする、其の前に供えた三つ具足は此の頃納まったものか、まだ新しく村名が鏤り附けてあり、坊さんが畠から切って来たものか黄菊に草花が上って居ります、すると鼠の単物を着、腰衣を着けた六十近い尼が御燈明を点けに参りましたから、  新「少々お願いがございますが、私共は旅のもので此の通りの雨で難渋致しますが、どうか少々の間雨止を仕度いと存じますが、お邪魔でも此の軒下を拝借願い度いものでございまする」  尼「はい、御参詣のお方でございますかえ」  新「いえ通り掛りの者ですが、此の雨に降りこめられました、尤も有験な観音様だと聞いておりますからお参りもする積りでございまする」  尼「吹掛け降りですから其処に立ってお出でゞは嘸お困りでございましょう、すぐ前に井戸もありまするから足を洗って此方へ上って、お茶でも飲みながら雨止をなすっていらっしゃいまし」  新「有難う存じます、えお賤、金か何か遣れば宜いから上んねえ、じゃア御免なさい、誠に有難う存じます」  尼「其処に盥もありますから、小さい方を持って往って足を洗ってお出でなさい」  新「へえ」  と是れから足を洗い、  新「誠にお蔭様で有難うございます」  と上りましたが、新吉もお賤もあつかましいから、囲炉裡の側へ参り、  新「お蔭様で助かりました」  賤「誠にどうもとんだ御厄介さまでございました」  尼「おや〳〵御夫婦連で旅をなさいますの、藤心村まで出るとお茶漬屋ぐらいはありますが、此の辺には宿屋がございませんから定めてお困りでしょう、遠慮なしにもっと囲炉裡の側へお寄んなさい」  新吉は何程か金子を紙に包んで尼の前へ差出し、  新「是は誠に少し許りでございますが、お蔭で助かりましたから、お茶代ではありませんが、どうかこれで観音様へお経でもお上げなすって下さいまし」  尼「いえ〳〵それは決して戴きません、先刻貴方は本堂へお賽銭をお上げなすったから、それでもう沢山でございます、御参詣の方は皆お馴染になって、他村のお方が来ても上り込んで、私の様な婆でも久しく話をして入らっしゃいますのですから御心配なく寛りとお休みなすって入らっしゃいまし」  と云われ、新吉はお賤の顔を見ながら小声にて、  新「だって、きまりが悪りいな、これはほんの私の心許りでございますから、貴方後でお茶請でも買って下さいまし」  尼「いえ私は喰物は少しも欲しくはありませんお賽銭を上たからもうお金などは宜うございますよ」  新「そんな事をいわずに何卒取って置いて下さいまし」  尼「そうでございますか、又気になすっては悪いし、折角の思召ですから戴いて置きましょう、日が暮れると雨の降る時は寒うございます、直に本郷山が側ですから山冷がしますから、もっと其の麁朶をお焚べなさいまし」  新「へい有難う存じます」  といいながら松葉や麁朶を焚べ、ちょろ〳〵と火が移り、燃え上りました光で、お賤が尼の顔を熟々見ていましたが、  賤「おやお前はお母アじゃないか」 八十七  尼「はい、どなたえ」  賤「あれまア何うもお母アだよ、まア何うしてお前尼におなりだか知らないが、本当に見違えて仕舞ったよ、十三年後に深川の櫓下の花屋へ置去にして往かれた娘のお賤だよ」  と云われて尼は恟りし、  尼「えゝ、まアどうも、誠に面目次第もない、私も先刻から見た様な人だと思ってたが、顔貌が違ったから黙ってたが、どうも実に私は親子と名乗ってお前に逢われた義理じゃアありませんが、頭髪を剃って斯んな身の上になったから逢われますものゝ、定めて不実の親だと腹も立ちましょうが、どうぞ堪忍して下さいあやまります」  賤「それでも能く後悔してね」  尼「此の通りの姿になって、まア此の庵室に這入って、今では毎日お経を上げた後では観音様へ向って、若い時分の悪事を懺悔してお詫び申していますけれども、中々罪は消えませんが、頭髪を剃って衣を着たお蔭で、村の衆がお比丘様とか尼様とか云って、種々喰物を持って来て呉れるので、何うやら斯うやら命を繋いでいるというだけのことで、此の頃は漸々心附いて、十六の時置去にしたお賤はどうしたかと案じていても、親子で有ながら訪ねる事も出来ないというのは皆罰と思って後悔しているのだよ」  賤「どうもね本当に、それでも能くまア法衣を着る了簡になったね」  といいながら、新吉に向い、  賤「お前さんにも話をした深川櫓下の花屋の、それね……お前さんの様な親子の情合のない人はないけれ共能くまア後悔してお比丘におなりだね」  尼「比丘なんぞになり度い事はないが、是も皆私の作った悪事の罰で、世話のして呉れ人もなくなり、段々老る年で病み煩いでもした時に看病人もない始末、あゝ何うしたら宜かろう、あゝ是も皆罰ではないかと身体のきかない時には、真に其の後悔というものが出て来るものでのうお賤、して此のお方はお前の良人かえ」  賤「あゝ」  新「いつでも此女から話は聞いていました、一人お母様があるけれ共生死が分らない、併し丈夫な人で、若い気象だったから達者でいるかとお噂は能くしますが、私は新吉と云う不調法ものでございますが、今から何分幾久しゅう願います」  尼「此のお賤は私の方では娘とも云えません、又親とは思いますまい、憎くってねえ、あゝ実にお前に会うのも皆神仏のお叱りだと思うと、身を切られる程つらいと云う事を此の頃始めて覚えました、云わない事は解りますまいが、私は此の頃は誰が来ても身の懺悔をして若い時の悪事の話を致しますと、遊びに来る老爺さんや老婆さんも、おゝ〳〵そうだのう、悪い事は出来ないものだと云って、又其の人達が若い時分の罪を懺悔して後悔なさる事があるから、私が懺悔をしますと人さまもそれに就て後悔して下されば私の身の為にもなろうと思って、逢う人毎に私の若い時分の悪事を懺悔してお話を致します、私も若い時分の放蕩と云うものは、お賤は知りませんが中々一通りじゃアありませんでしたよ」  新「お母さん、なんですか、お前さんは元と何処の出のお方でございます、多分江戸子でしょう」  尼「いえ私の産れは下総の古河の土井さまの藩中の娘で、親父は百二十石の高を戴いた柴田勘六と申して、少々ばかりは宜い役を勤めた事もある身分でございましたからお嬢様育ちで居たのですが、身性が悪うございまして、私が十六の時家来の宇田金五郎という者と若気の至りで私通をし、金五郎に連れられて実家を逃出し江戸へ参り、本郷菊坂に世帯を持って居りましたが丁度あの午年の大火事のあった時、宝暦十二年でございましたかね、其の時私は十七で子供を産んだのですが、十七や十八で児を拵える位だから碌なものではありません、其の翌年金五郎は傷寒を煩らって遂に亡なりましたが、年端もゆかぬに亭主には死別れ、子持ではどうする事も出来ませんのさ、其の子供には名を甚藏と附けましたが、何に肖かったのか肩の処に黒い毛が生えて、気味の悪い痣があって、私も若い時分の事だから気色が悪く、殊に亭主に死なれて喰い方にも困るから、菊坂下の豆腐屋の水船の上へ捨児にして、私は直ぐ上総の東金へ往って料理茶屋の働き女に雇われて居る内に、船頭の長八という者といゝ交情となって、また其処をかけ出して出るような事に成って、深川相川町の島屋と云う船宿を頼み、亭主は船頭をし、私は客の相手をして僅かな御祝儀を貰って何うやら斯うやらやって居る中に、私は亭主運がないと見え、長八がまた不図煩いついたのが原因で、是も又死別れ、どうする事も出事ないから心配して居ると、島屋の姐さんのいうには、迚もお前には辛抱は出事まいが、思い切って堅気にならないかと云われ、小日向の方のお旗下の奥様がお塩梅が悪いので、中働に住み込んだ処が、これでも若い時分は此様な汚ない婆アでもなかったから、殿様のお手が附いて、僅な中に出来たのは此のお賤」 八十八  尼「此娘も世が世ならばお旗下のお嬢さまといわれる身の上だが、運の悪いというものは仕方がないもので、此のお賤が二歳の時、其のお屋敷が直に改易に成ってしまい、仕様がないから深川櫓下の花屋へ此の娘を頼んで芸妓に出して、私の喰い物にしようと云う了簡でしたが、又私が網打場の船頭の喜太郎という者と私通をして、船で房州の天津へ逃げましたがね、それからというものは悪い事だらけさ、手こそ下して殺さないでも口先で人を殺すような事が度々で、私の為に身を投げたり首を縊って死んだ男も二三人あるから、皆其の罰で今斯う遣って居るのも、彼の時に斯ういう事をしたから其の報いだと諦め、漸々改心をしましたのさ、仕方がないから頭髪を剃こかし破れ衣を古着屋で買ってね、方々托鉢して歩いて居る中、此の観音様のお堂には留守居がないからお比丘さん這入って居ないかと村の衆に頼まれるから、仮名附のお経を買って心経から始め、どうやら斯うやら今では観音経ぐらいは読めるように成ったが、此の節は若い時分の罪滅しと思い、自分に余計な物でもあると困る人にやって仕舞うくらいだから、何も物は欲しくありません、村の衆が時々畠の物なぞを提げて来てくれるから、もう別にうまい物を喰度いという気もなし、只観音様へ向ってお詫事をして居るせえか、胸の中の雲霧が晴れて善に赴いたものだから、皆さんがお比丘様〳〵と云って呉れ、此の観音様も段々繁昌して参り、お比丘さんにお灸を据えて貰えのお呪をして貰い度のといって頼みに来るから、私も何も知らないが、若い時分から疝気なら何処が能いとか歯の痛いのには此処が能いとか聞いてるから据えて遣ると、向から名を附けて観音様の御夢想だなぞと云って、今ではお前さん何不足なく斯う遣って居ますが今日図らずお前達に逢って、私は尚お、観音様の持って入らっしゃる蓮の蕾で脊中を打たれる様に思いますよ、まだ二人とも若い身の上だから、是から先き悪い事はなさらないように何卒気をお附けなさい、年を老ると屹度報って参ります、輪回応報という事はないではありませんよ」  と云われ新吉は打萎れ溜息を吐きながらお賤に向い、  新「何うだえお賤」  賤「私も始めて聞いたよ、そんならお母さんお前がお屋敷へ奉公に上ったら、殿様のお手が附いて私が出来たといえば、其のお屋敷が改易にさえならなければ私はお嬢様、お前は愛妾とか何んとか云われて居るのだね」  尼「お前はお嬢様に違いないが、私は追出されてでも仕舞う位の訝しな訳でね」  新「へい其の小日向の旗下とは何処だえ」  尼「はい、服部坂上の深見新左衞門様というお旗下でございます」  といわれて新吉は恟りし、  新「エヽ、そんなら此のお賤は其の新左衞門と云う人の胤だね」  尼「左様」  新「そうか」  と口ではいえど慄と身の毛がよだつ程恐ろしく思いましたは、八年前門番の勘藏が死際に、我が身の上の物語を聞けば、己は深見新左衞門の次男にて、深見家改易の前に妾が這入り、間もなく、其の妾のお熊というものゝ腹へ孕したは女の子それを産落すとまもなく家が改易に成ったと聞いて居たが、して見ればお賤は腹違いの兄弟であったか、今迄知らずに夫婦に成って、もう今年で足掛七年、あゝ飛んだ事をしたと身体に油の如き汗を流し、殊には又其の本郷菊坂下へ捨児にしたというのは、七年以前、お賤が鉄砲にて殺した土手の甚藏に違いない、右の二の腕に痣があり、それにべったり黒い毛が生えて居たるを問いし時、我は本郷菊坂へ捨児にされたものである、と私への話し、さては聖天山へ連れ出して殺した甚藏は矢張お賤の為には血統の兄であったか、実に因縁の深い事、アヽお累が自害の後此のお賤が又斯う云う変相になるというのも、九ヶ年前狂死なしたる豊志賀の祟なるか、成程悪い事は出来ぬもの、己は畜生同様兄弟同志で夫婦に成り、此の年月互に連れ添って居たは、あさましい事だと思うと総毛立ちましたから、新吉は物をも云わず小さくかたまって坐り、只ポロ〳〵涙を落して居りました。 八十九  尼「とんだ面白くもない話をお聞かせ申したが、まア緩くりお休みなさい」  新「実に貴方の話を聞いて、私も若い時分にした悪事を考えますと身の毛がよだちますよ」  尼「お前さん何をいうのです、若い時分などと云ってまだ若い盛りじゃアないか、是から罪を作らん様にするのだ」  新「お母様、私は真以て改心して見ると生きては居られない程辛いから、私を貴方の弟子にして下さいな、外に往き処もないから、お前様の側へ置いて下されば、本堂や墓場の掃除でもして罪滅しをして一生を送り度いので、段々のお話で私は悉皆精神を洗い、誠の人になりましたから、どうか私をお弟子にして下さいまし」  尼「よくね、私の懴悔話を聞いて、一図にアヽ悪い事をしたと云って、お前さんのような事を仰しゃるお方も有りますが、其の心持が永く続かないものですから、そんな事を云わなくっても、只アヽ悪い事をしたと思えば、其所が善いので」  新「お賤、お前とは不思義の悪縁と知らず、是まで夫婦になって居たけれ共、表向盃をしたという訳でもないから、夫婦の縁も今日限りとし、己は頭髪を剃って、お前のお母さんだが、己はお母さんとは思わない、己を改心させてくれた導きの師匠と思い、此のお比丘さんに事えて、生涯出家を遂げる心に成ったから、もう己を亭主と思って呉れるな、己もまたお前を女房とは思わねえから、何卒そう思って呉れ」  賤「おい何をいうんだ、極りを云ってるよ、話を聞いた時には一図に悪い事をしたと思うが、少し経つと直に忘れて仕舞うもの、一寸精進をしても、七日仕ようと思っても三日も経つともう宜かろうと喰べるのが当前じゃアないか」  新「今迄の魂の汚れたのを悉皆洗って本心になったのだから、もう己の傍へ寄って呉れるな」  賤「おや新吉さん何をいうのだよお前どうしたんだえ」  新「お前はまア本当に………どうして羽生村なんぞへ来たんだなア」  賤「新吉さん、お前何をいうのだ、来たって、あゝいう訳で来たんじゃアないか、それが何うしたんだえ」  新「お前は何も解らねえのだ、アヽ厭だ、ふつ〳〵厭だ、どうぞ後生だから己の側へ寄ってくんなさんな」  といわれてお賤は少しムッとした顔付になり、  賤「あゝ厭ならおよしなさい、だが私もね、お前と二人で悪い事を仕度くもないが、喰い方に困るものだから一緒にしたが、昨日私が斯んな怪我をして、恐ろしい顔になったもんだから、他の女と乗り替える了簡で、旨くごまかして、私を此寺へ押附け、お前はそんな事をいって逃げる心だろう」  新「決してそういう訳じゃアないが、お前どうして女に生れたんだなア」  賤「何を無理な事をいうの、女に生れたって、気違じみ切って居るよ」  新「お前に口を利かれても総毛立つよ」  尼「喧嘩をしてはいけません、私もお賤の為には親だから死水を取って貰い度いが親子でありながらそうも云われず、又お賤も私の死水を取る気はありますまい」  新「まだ此のお賤は色気がある、此畜生奴、本当にお前や己は、尻尾が生えて四つん這になって椀の中へ面ア突込んで、肴の骨でもかじる様な因果に二人とも生れたのだから、お賤手前も本当にお経でも覚えて、観音さまへ其の身の罪を詫る為に尼に成り、衣を着て、一文ずつ貰って歩く気になんな、今更外に仕方がないからよ」  賤「なんだね厭だよ、そんな事が出来るものか」  新「そう側へ寄って呉れるなよ、どうか私の頭髪を剃って下さい」  尼「まア〳〵三四日此寺に泊っておいでなさい、又心の変るものだから、互に喧嘩をしないで、私はお経をあげに往ってくるから、少し待っておいでなさい」  新「私も一緒に参りましょう」  賤「おい新吉さんお前本当にどうしたんだえ、私は何うしてもお前の傍は離れないよ」  新吉はもう誠に仏心と成りまして、  新「お前はまだ色気の有る人間だ、己は真に改心する気に成った」  賤「本当にお前どうしたんだよ」  と云いながら取り縋るのを、新吉は突放し、  新「此ん畜生奴、己の側へ来ると蹴飛すぞ」  といわれお賤は腹の中にて、私の顔貌が斯んなに成ったものだから捨てゝ逃げるのだと思うから油断を致しませんで、此寺に四五日居りまする中に、因果のむくいは恐ろしいもので、惣右衞門の忰惣吉が此の庵室を尋ねて参るという処から、新吉はもう耐え兼ねて、草苅鎌を以て自殺致しますという、新吉改心の端緒でございます。 九十  偖て申し続きました深見新吉は、お賤を連れて足かけ五年間の旅中の悪行でございまする、不図下総の塚前村と申しまする処の、観音堂の庵室に足を留る事に成りました。是は藤心村の観音寺という真言寺持でございまして、一切の事は観音寺で引受けて致しまする。村の取附にある観音堂で、霊験顕著というので信心を致しまする者があって種々の物を納めまするが、堂守を置くと種々の悪い事をしていなくなり、村方のものも困って居る処で、通り掛った尼は身性も善いという処から、これを堂守に頼んで置きました。是へ新吉お賤が泊りましたので、比丘尼は前名を熊と申す女に似気ない放蕩無頼を致しました悪婆でございまするが、今はもう改心致しまして、頭髪を剃り落し、鼠の着物に腰衣を着け、観音様のお堂守をして居る程の善心に成りまして、新吉お賤に向って、昔の懴悔話をして聴かせると、新吉が身の毛のよだつ程驚きましたは、門番の勘藏の遺言に、お前は小日向服部坂上の深見新左衞門という御旗下の次男だが、生れると間もなくお家改易になったから、私が抱いて下谷大門町へ立退いて育てたのだが、お家改易の時お熊という妾があって、其の腹へ出来たは女という事を物語ったが、そんなら七ヶ年以来夫婦の如く暮して来たお賤は、我が為には異腹の妹であったかと、総身から冷い汗を流して、新吉が、あゝ悪い事をしたと真以て改心致しました。人は三十歳位に成りませんければ、身の立たないものでございまする。お賤は二十八、新吉は三十になり、悪い事は悉く仕尽した奴だけあって、善にも早く立帰りまして、出家を遂げ、尼さまの弟子と思って下さい、夫婦の縁は是限りと思って呉れお賤汝も能く考えて見ろ、今までの悪業の罪障消滅しの為に頭を剃りこぼって、何の様な辛苦修行でもし、カン〳〵坊主に成って今迄の罪を滅さなくっちゃア往く処へも往かれねえから、己の事は諦めて呉れとはいいましたが、汝は己の真実の妹だとはいい兼て居り、尼が本堂へ往けば、お熊比丘尼の後に附いて参り、墓場へ往けば墓場へ附いて往く、斎が有ればお供を致しましょうと出て参り、兎角にお賤の傍へ寄るを嫌いますから、お賤は腹の中にて、思いがけない怪我をして半面変相になり、斯んな恐ろしい貌に成ったから、新吉さんは私を嫌い、大方母親が此の庵主に成っているから、私を此処へ置去りにして逃げる心ではないかと、まだ色気がありますから愚痴許りいって苦情が絶えません。新吉の能く働きまする事というものは、朝は暗い内から起きて、墓場の掃除をしたり、門前を掃いたり、畠へ往って花を切って参って供えたり、遠い処まで餅菓子を買いに往って本堂へ供えたり、お斎が有るとお比丘さんの供をして参り、仮名振の心経や観音経を買って来て覚えようとして居りますのを見て、  尼「誠に新吉さんは感心な事では有るが、一時に思い詰めた心はまた解れるもの、まア〳〵気永にしているが宜い、只悪い事をしたと思えばまだお前なんぞは若いから罪滅しは幾らも出来ましょう」  と優しくいわれるだけ身に応えまする。ちょうど七月二十一日の事でございまする、新吉は表の草を刈って居り、お賤は台所で働いて居りまする処へ這入って参りましたのは、十二三になる可愛らしい白色なお小僧さんで、名を宗觀と申して観音寺に居りまする、此の小坊主を案内して来ましたは音助という寺男で、二人連で這入って参り、  音「御免なせえ」  新「おいでなさい、観音寺様でございまするか」  音「上の繁右衞門殿の宅で二十三回忌の法事があるんで、己ア旦那様も往くんだが、何うか尼さんにもというので迎えに参ったのだ」  新「今尼さんは他のお斎に招ばれて往ったから、帰ったらそう云いましょう」  音「能く掃除仕やすねえ、墓の間の草ア取って、跨えで向うへ出ようとする時にゃアよく向脛を打ッつけ、飛っ返るように痛えもんだが、若えに能く掃除しなさるのう」  新「お小僧さんはお小さいに能く出家を成さいましたね、お幾歳でございまする」  宗「はい十二に成ります」 九十一  新「十二に、善いお小僧さんだね、十一二位から頭髪を剃って出家になるのも仏の結縁が深いので、誠に善い御因縁で、通常の人間で居ると悪い事許りするのだが、斯う遣って小さい内から寺へ這入ってれば、悪い事をしても高が知れてるが、お父様やお母さんも御承知で出家なすったのですか」  宗「そうじゃアありません、拠なく坊さんに成りました」  新「拠なく、それじゃアお父さんもお母さんも、お前さんの小さい中に死んで仕舞って、身寄頼りもなく、世話の仕手もないのでお寺へ這入ったという事もありまするが、そうですか」  音「なにそういう訳じゃアなえが、此のまア宗觀様ぐらえ憫然な人はねえだ」  新「じゃアお父さんやお母さんは無いのでございますか」  宗「はい、親父は七年前に死にました」  といいながらメソ〳〵泣出しました。  音「泣かねえが宜えと云うに、いつでも父様や母様の事を聞かれると宗觀様は直に泣き出すだ、親孝行な事だが、出家になるのは其処を諦める為だから泣くなと和尚様がよくいわっしゃるが、矢張り直に泣くだが、併し泣くも無理はねえだ」  新「へえ、それは何ういう因縁に成って居りますのです」  音「ねえ宗觀様、お前の父様は早く死んだっけ」  宗「七年前の八月死にました」  音「それから此の人の兄様が跡をとって村の名主役を勤めて居ると、其処へ嫁子が這入って何んともハヤ云い様のなえ程心も器量も善い嫁子だったそうだが、其所に安田八角か、え、一角とか云う剣術遣が居て其の嫁子に惚れた処が、思う様にならねえもんだから、剣術遣の一角が恋の遺恨でもってからに此の人の兄さんをぶっ斬って逃げたとよ、其奴に同類が一人有って、何んとか云ったのう、ウン富五郎か、其の野郎が共謀になって、殺したのだ、すると此の人の宅の嫁子が仮令何んでも亭主の敵い討たねえでは置かねえって、お武家さんの娘だけにきかねえ、なんでも仇討ちをするって心にもねえ愛想づかしをして、羽生村から離縁状を取り、縁切に成って出て、敵の富五郎を欺して同類の様子を聴いたら、一角は横堀の阿弥陀堂の後の林の中へ来ているというから、亭主の仇を討ちぶっ切るべえと思って林の中へ這入ったが、先方は何んてッても剣術の先生だ女ぐれえに切られる事はねえから、憫然に其の剣術遣えが、此の人の姉様をひどくぶっ切って逃げたとよ、だから口惜しくってなんねえ、子心にも兄さんや姉さんの敵が討ちてえッて心易い相撲取が有るんだ…風車か…え…花車、そうかそれが、力量アえれえから其の相撲取をたのむより仕様がねえと、母親は年い老ってるが、此の人をつれて江戸へ往くべえと出て来る途で、小金原の観音堂で以てからに塩梅が悪くなったから、種々介抱して、此の人が薬い買えに往った後で母親さんを泥坊が縊り殺し、路銀を奪って逃げた跡へ、此の人が帰ってみると、母様は喉を締められておっ死んでいたもんだから、ワア〳〵泣てる処へ己ア旦那が通り掛り、飛んだことだが、皆因縁だ、泣くなと、兄さんと云い姉さんと云い母さままでもそういう死ざまをするというのは約束事だから、敵討なぞを仕様といわねえで兎も角も己ア弟子に成って父さまや母さまや兄さん姉さまの追善供養を弔ったが宜かろうと勧めて、坊主になれといってもならねえだから、和尚様も段々可愛がって、気永に遣ったもんだから、遂には坊様になるべえとッて漸く去年の二月頭をおっ剃ったのさ」  新「ヘエ、そうでございますか、何んですか、此のお小僧さんのお宅は何方でございますと」  音「え岡田郡か……岡田郡羽生村という処だ」  新「え、羽生村、へえ其の羽生村で父さんは何というお方でございます」  音「羽生村の名主役をした惣右衞門と云う人の子の、惣吉さまというのだ」  と云われ新吉は大きに驚いた様子にて、  新「えゝ、そうでございますか、是はどうも思い掛けねえ事で」  音「なんだ、お前さん知ってるのか」 九十二  新「なに知って居やア仕ませんがね、私も方々旅をしたものだから、何処の村方には何という名主があるかぐらいは知って居ます、惣右衞門さんには、水街道辺で一二度お目に掛った事がございますが、それはまアおいとしい事でございましたな」  というものゝ、音助の話を聞く度に新吉が身の毛のよだつ程辛いのは、丁度今年で七年前、忘れもしねえ八月廿一日の雨の夜に、お賤が此の人の親惣右衞門の妾に成って居たのを、己と密通し、剰え病中に縊り殺し、病死の体で葬りはしたなれ共、様子をけどった甚藏奴は捨てゝは置かれねえとお賤が鉄砲で打殺したのだが土手の甚藏は三十四年以前にお熊が捨児にした総領の甚藏でお賤が為には胤違いの現在の兄を、女の身として鉄砲で打殺すとは、敵同士の寄合、これも皆因縁だ、此の惣吉殿のいう事を聞けば聞く程脊筋へ白刄を当てられるより尚辛い、アヽ悪い事は出来ないものだと、再び油の様な汗を流して、暫くは草刈鎌を手に持ったなり黙然として居りました。  音「あんた、どうしたアだ、塩梅でも悪いか、酷く顔色が善くねえぜ」  新「ヘエ、なアに私はまだ種々罪があって出家を遂げ度いと思って、此の庵室に参って居りまするが、此のお小僧さんの様に年もいかないで出家をなさるお方を見ると、本当に羨ましくなって成りませんから、私も早く出家になろうと思って、尼さんに頼んでも、まだ罪障が有ると見えて出家にさせて呉れませんから、斯う遣って毎日無縁の墓を掃除すると功徳になると思って居りまするが、今日は陽気の為か苦患でございまして、酷く気色が悪いようで」  音「お前さんの鎌は甚く錆びて居やすね、研げねえのかえ」  新「まだ研ぎようを本当に知りませんが、此間お百姓が来た時聞いて教わったばかりでまだ研がないので」  音「己ア一つ鎌をもうけたが、是を見な、古い鎌だが鍛が宜いと見えて、研げば研ぐ程よく切れるだ、全体此の鎌はね惣吉どんの村に三藏という質屋があるとよ、其家が死絶えて仕舞ったから、家は取毀して仕舞ったのだ、すると己ア友達が羽生村に居て、此方へ来たときに貰っただアが、汝使って見ねえか宜く切れるだが」  と云いながら差出す。  新「成程是は宜い、切れそうだが大層古い鎌ですね」  と云いながら取り上げて見ると、柄の処に山形に三の字の焼印がありまするから驚いて、  新「これは羽生村から出たのですと」  音「そうさ羽生村の三藏と云う人が持って居た鎌だ」  と云われた時、新吉は肝に応えて恟り致し、草刈鎌を握り詰め、あゝ丁度今年で九ヶ年以前、累ヶ淵でおひさを此の鎌で殺し、続てお累は此の鎌で自殺し、廻り廻って今また我手へ此の鎌が来るとは、あゝ神仏が私の様な悪人をなに助けて置こうぞ、此の鎌で自殺しろと云わぬばかりの懲めかあゝ恐ろしい事だと思い詰めて居りましたが、  新「お賤一寸来ねえ、お賤一寸来ねえ」  賤「あい、何んだよ、今往くよ」  と此の頃疎々しくされて居た新吉に呼ばれた事でございますから、心嬉しくずか〳〵と出て来ました。  新「お賤、此処においでなさるお小僧さんの顔を汝見覚えて居るか」  と云われお賤はけゞんな顔をしながら、  賤「そう云われて見ると此のお小僧さんは見た様だが何んだか薩張解らない」  新「羽生村の惣右衞門様のお子で、惣吉様といって七歳か八歳だったろう」  賤「おやあの惣吉様」  新「此の鎌は三藏どんから出たのだが、汝のめ〳〵と知らずに居やアがる」  と云いながら突然お賤の髻を捉って引倒す。  賤「あれー、お前何をするんだ」  というも構わず手元へ引寄せ、お賤の咽喉へ鎌を当てプツリと刺し貫きましたから堪りません、お賤は悲鳴を揚げて七顛八倒の苦しみ、宗觀と音助は恟りし、  音「お前気でも違ったのか、怖かねえ人だ、誰か来て呉れやー」  と騒いで居る処へお熊比丘尼が帰って参り、此の体を見て同じく驚きまして、  尼「お前は此間から様子が訝しいと思ってた、変な事ばかりいって、少したじれた様子だが、何んだって科もないお賤を此の鎌で殺すと云う了簡になったのだねえ、確かりしないじゃいけないよ」 九十三  新「いえ〳〵決して気は違いません、正気でございますが、お比丘さん、お賤も私も斯う遣って居られない訳があるのでございます、お賤汝は己を本当の亭主と思ってるが、汝は定めて口惜しいと思うだろうが、汝一人は殺さねえ、汝を殺して置き、己も死なねばならぬ訳があるんだ、汝は知るめえが、あゝ悪い事は出来ねえものだ、此の庵室へ来た時にはお前さんの懴悔話を聞くと若え時に小日向服部坂上の深見という旗下へ奉公して、殿の手がついて出来たのがお賤だと仰しゃったが、私も其の深見新左衞門の次男に生れ、小さい時に家は改易と成ったので町家で育ったもの、腹は違えど胤は一つ、自分の妹とも知らないで七年跡から互に深く成った畜生同様の両人、此の宗觀様のお父様は羽生村の名主役で惣右衞門というお方でしたが、お賤を深川から見受けして別に家を持たせ楽に暮させてお置きなすったものを私は悪い事をするのみならず、申すも恐ろしい事だが、惣右衞門様をお賤と私とで縊り殺したのでございます、さ、斯う申したら嘸お驚きでございましょう、誰も知った者はありません、病死の積りで葬って仕舞ったが、人は知らずとも此の新吉とお賤の心には能く知って居りまする、畜生のような兄弟が斯うやって罪滅しの為夫婦の縁を切って、出家を遂げようと思いました処へ宗觀様がおいでなすって、これ〳〵と話を聞いて見れば迚も生きては居られません、此の鎌は女房のお累が自害をし、私が人を殺めた草苅鎌だが、廻り廻って私の手へ来たのは此の鎌で死ねという神仏の懲めでございまするから、其のいましめを背かないで自害致しまする、私共夫婦のものは、あなたの親の敵でございます、嘸悪い奴と思召ましょうから何卒此の鎌でズタ〳〵に斬って下さいまし、お詫びの為め一と言申し上げますが、お前さんの兄さん姉さんの敵と尋ねる剣術遣の安田一角は、五助街道の藤ヶ谷の明神山に隠れて居るという事は、妙な訳で戸ヶ崎の葮簀張で聞いたのですが、敵を討ちたければ、其の相撲取を頼み、其処へ往って敵をお討ちなさい、安田一角が他の者へ話しているのを私が傍で聴いて居たから事実を知ってるのでございます、お賤、汝と己が兄弟ということを知らないで畜生同様夫婦に成って、永い間悪い事をしたが、もう命の納め時だ、己も今直に後から往くよ、お賤宗觀様にお詫を申し上げな」  賤「あい〳〵」  と血に染ったお賤は聴く毎にそうであったかと善に帰って、よう〳〵と血だらけの手を合せ、苦しき息の下から、  賤「惣吉様誠に済まない事をしました、堪忍して下さいまし、新吉さん早く惣吉さんの手に掛って死度い、あゝ、お母さん堪忍して下さい」  と苦しいから早く自殺しようと鎌の柄に取り縋るを新吉は振り払って、鎌を取直し、我左の腹へグッと突き立て、柄を引いて腹を掻切り、夫婦とも息は絶々に成りました時に、宗觀は、  宗「あゝ、お父さんを殺したのはお前たち二人とは知らなかったが、思い掛けなくお父さんの敵が知れると云うのは不思議な事、また兄さんや姉さんを殺した安田一角の隠れ家を知らせて下され、斯んな嬉しい事はありませんから決して悪いとは思いません、早く苦痛のないようにして上げ度い」  と云いながら後をふりかえると、音助はブル〳〵して腰も立たないように成って居ました。  宗「お父さんや兄さん姉さんの敵は知れたが、小金原の観音堂でお母さんを殺した敵はいまだに分らないが、悪い事をする奴の末始終は皆斯ういう事に成りましょう」  というのを最前から聞いていましたお熊比丘は、袖もて涙を拭いながら宗觀の前へ来て、  尼「誠に思い掛けない、宗觀様お前さんかえ」  宗「へえ」  尼「忘れもしない三年跡の七月小金原の観音堂でお前さんのお母さんを縊り殺し、百二十両と云う金を取ったは此のお熊比丘尼でございますよ」  宗「エヽこれは」  と宗觀も音助も恟くり致しました。絶え〴〵に成っていました新吉は血に染った手を突き、耳を欹て聞いております。  尼「私も種々悪い事をした揚句、一度出家はしたが路銀に困っている処へ通り合せた親子連の旅人小金原の観音堂で病に苦しんで居る様子だから、此の宗觀様をだまして薬を買いに遣った跡で、お母様を縊殺したは此のお熊、私はお前様のお母様の敵だから私の首を斬って下さい」  と新吉が持っていました鎌を取って、お熊比丘尼は喉を掻切って相果てました。其の内村の者も参り、観音寺の和尚様も来て、何しろ捨ては置かれないと早速此の由を名主から代官へ訴え検死済の上、三人の死骸は観音堂の傍へ穴を掘って埋め、大きな墓標を立てました。是が今世に残っておりまする因果塚で、此の血に染った鎌は藤心村の観音寺に納まりました。扨宗觀は敵の行方が知れた処から、還俗して花車を頼み、敵討が仕度いと和尚に無理頼みをして観音寺を出立するという、是から敵討に成ります。 九十四  塚前村観音堂へ因果塚を建立致し、観音寺の和尚道恩が尽く此の因縁を説いて回向を致しましたから、村方の者が寄集まって餅を搗き、大した施餓鬼が納まりました。斯くて八月十八日施餓鬼祭を致しますと、観音寺の弟子宗觀が方丈の前へ参りまして、  宗「旦那様」  道「いや宗觀か、なんじゃ」  宗「私はお願いがありますが、旦那さまには永々御厄介に相成りましたが、私は羽生村へ帰り度うございます」  道「ウン、どうも貴様は剃髪する時も厭がったが、出家になる因縁が無いと見える、何故羽生村へ帰り度いか、帰った処が親も兄弟もないし、別に知るものもない哀れな身の上じゃないか、よし帰った処が農夫になるだけの事、実何うしても出家は遂げられんか」  宗「はい私は兄と姉の敵が討ちとうございます」  道「これ、此間もちらりと其の事も聞いたから、音助にも宜う宗觀にいうてくれと言附けて置いたが、敵討という心は悪い心じゃ、其の念を断らんければいかん、執念して飽くまでも向を怨むには及ばん、貴様の親父を殺した新吉夫婦と母親を殺したお熊比丘尼は永らく出家を遂げて改心したが、人を殺した悪事の報いは自滅するから討つがものは無い、己と死ぬものじゃから其の念を断つ処が出家の修行で、飽く迄も怨む執念を断らんければいかん、それに貴様は幾歳じゃ、十二や十三の小坊主が、敵手は剣術遣じゃないか、みす〳〵返り討になるは知れてある、出家を遂げれば其の返り討になる因縁を免れて、亡なられた両親やまた兄嫂の菩提を吊うが死なれた人の為じゃ、え」  宗「ハイ毎度方丈様から御意見を伺っておりまするが、此の頃は毎晩〳〵兄さんや姉さんの夢ばかり見ております、昨夜も兄さんと姉さんが私の枕元へ来まして、新吉が敵の隠家を教えて知っているに、お前が斯う遣ってべん〴〵と寺にいてはならん、兄さん姉さんも草葉の蔭で成仏する事が出来ないから敵を討って浮ばして呉れろと、あり〳〵と枕元へ来て申しました、実に夢とは思われません、してみると兄様や姉様も迷っていると思いますから、敵を討って罪作りを致しますようでございますけれども、どうか両人の怨みを晴して遣り度うございます」  道「それがいかん、それは貴様の念が断れんからじゃ、平常敵を討ち度い、兄さんは怨んではせんか、姉さんも怨んではせんか、と思う念が重なるに依って夢に見るのじゃ、それを仏書に睡眠と説いて有る、睡は現眠はねむる汝は睡ってばかり居るから夢に見るのじゃ、敵討の事ばかり思うているから、迷いの眠りじゃ、それを避ける処が仏の説かれた予ていう教えじゃ、元は何も有りはせんものじゃ、真言の阿字を考えたら宜かろう、此の寺に居て其の位な事を知らん筈は無いから諦めえ」  宗「ハイ、何うしても諦められません、永らく御厄介に成りまして誠に相済みません、敵討を致した上は出家に成りませんでも屹度御恩報じを致しますから、どうかお遣んなすって下さいまし、強って遣って下さいませんければお寺を逃出し黙って羽生村へ帰ります」  道「いや〳〵そんならば無理に止めやせん、皆因縁じゃからそれも宜かろう、やるが宜かろうが、確かりした助太刀を頼むが宜い、先方は立派な剣術遣い、殊に同類も有ろうから」  宗「はい親父の時に奉公をしたもので、今江戸で花車という強いお相撲さんが有りますから。其の人を頼みます積りで」  道「若し其の花車が死んでいたら何うする、人間は老少不定じゃから、昨日死にましたといわれたら何うする、人間の命は果敢ないものじゃが、あゝ仕方がない、往くなら往けじゃが、首尾好く本懐を遂げて念が断れたらまた会いに来てくれ」  と実子のような心持で親切に申しまする。  宗「これがお別れとなるかも知れません、誠にお言葉を背きまして相済みません」  道「いや〳〵念が断れんと却って罪障になる、これは小遣に遣るから持って往け」  と、三年此の方世話をしたものゆえ実子のように思いまして、和尚は遣りともながるのを、強ってというので、音助に言付け万事出立の用意が整いましたから立たせて遣り、漸く五日目に羽生村へ着致しましたが、聞けば家宅は空屋に成ってしまい、作右衞門という老人が名主役を勤めており、多助は北阪の村はずれの堤下に独身活計をしているというから遣って参り、  宗「多助さん〳〵、多助爺やア」  多「あい、なんだ坊様か、今日は些とべえ志が有るから、銭い呉れるから此方へ這入んな」  宗「修行に来たんじゃアない、お前は何時も達者で誠に嬉しいね」  多「誰だ〳〵」  宗「はいお前忘れたかえ、私は惣吉だアね、お前の世話に成った惣右衞門の忰の惣吉だよ」 九十五  多「おい成程えかくなったねえ、まア、坊様に成ったアもんだから些とも知んねえだ、能くまア来たあねえ」  と嬉し涙に泣き沈み漸々涙を拭いながら、  多「あゝ三年前にお前さまが宅を出て往く時はせつなかったが、敵討だというから仕方がねえと思って出して上げたが後で思え出しては泣いてばかりいたが、作右衞門様の世話でもって、何うやら斯うやら取附いて此処にいやすが、お前様を訪ねてえっても訪ねられねえだが、お母様は小金原で殺されてからお前様が坊様に成ったという事ア聞いたから、チョックラ往きてえと思っても出られねえので無沙汰アしやしたが、能くまア来て下せえやした、本当に見違えるような大く成ったね」  惣「爺やア、私は和尚様に願い無理に暇を戴いて、兄さんや姉さんの敵が討ちたくって来たが、お父様お母様の敵は知れました」  とお熊比丘尼の懺悔をば新吉夫婦が細やかに聞き、遂に三人共自殺した処から、村方の者が寄集まって因果塚を建立した事までを話すと、多助も不思議の思いをなして、是から作右衞門にも相談の上敵討に出ましたが、そういう処に隠れて泥坊をしているからには同類も有ろうから、私とお前さんと江戸へ往って、花車関を頼もうと頓て多助と惣吉は江戸へ遣って参り、花車を便りて此の話を致して頼みました。此の花車という人は追々出世をして今では二段目の中央まで来ているから、師匠の源氏山も出したがりませんのを、義に依てお暇を下さいまし、前に私が奉公をした主人の惣右衞門様の敵討をするのでございますからと、義に依っての頼みに、源氏山も得心して芽出度出立いたし、日を経て彼の五助街道へ掛りましたのが十月中旬過ぎた頃もう日暮れ近く空合はドンヨリと曇っておりまする。三人はトットと急いで藤ヶ谷の明神山を段々なだれに登って参りますると、樹本生茂り、昼でさえ薄暗い処殊には曇っておりまするから漸々足元が見えるくらい、落葉の堆れている上をザク〳〵踏みながら花車が先へ立って向を見ると、破れ果てたる社殿が有ってズーッと石の玉垣が見え、五六本の高い樹の有る処でポッポと焚火をしている様子ゆえ、彼処らが隠れ家ではないかと思いながら傍の方を見ると、白いものが動いておりまするが、なんだか遠くで確と解りません。  花「多助さん確かりしなせえ」  多「もう参ったかねえ、私はね剣術も何にも知んねえが此の坊様に怪我アさせ度くねえと思うから一生懸命に遣るが、あんたア確かり遣って下せえ」  花「私イ神明様や明神様に誓を立てゝるから、私が殺されても構わねえが、坊様に怪我アさせ度ねえ心持だから、お前度胸を据えなければいかんぜ」  多「度胸据えてる心持だアけんども、ひとりでに足がブル〳〵顫えるよ」  花「気を沈着けたが好え」  多「気イ沈着ける心持で力ア入れて踏張れば踏張る程足イ顫えるが、何ういうもんだろう、私イ斯んなに身体顫った事アねえ、四年前に瘧イふるった事が有ったがね、其の時は幾ら上から布団をかけても顫ったが、丁度其の時のように身体が動くだ」  花「ハテナ、白い物が此方へころがって来るようだが何だろう、多助さん先へ立って往きなよ」  多「冗談いっちゃアいけねえ、あの林の処に悪漢が隠れているかも知れねえから、お前さん先へ往ってくんねえ」  と云いながら、やがて三人が彼の白い物の処へ近附いて見ると、大杉の根元の処に一人の僧が素裸体にされて縛られていまして、傍の方に笠が投げ出して有ります。 九十六  花「おい多助さん」  多「え」  花「憫然に、坊様だが泥坊に縛られて災難に逢しゃッたと見え素裸体だ」  多「なにしても足がふるえて困る」  花「そう顫えてはいけねえ」  と云いながら彼の僧に近づき、  花「お前さん〳〵泥坊のために素裸体にされたのですか」  僧「はい、災難に逢いました、木颪まで参りまする途中でもって馬方が此道が近いからと云うて此処を抜けて参りますと、悪漢が出ましたものじゃから、馬方は馬を放り出した儘逃げて了うと、私は大勢に取巻かれて衣服を剥がれ、直ぐ逃がして遣ると此方の勝手が悪い、己ら達が逃げる間此処に辛抱していろと申して、私は此の木の根方へ縛り附けられ、何うも斯うも寒くって成りません、お前さんたちも先へ往くと大勢で剥がれるから、後へお返りなさい」  花「なにしろ縄を解いて上げましょう、貴僧は何処の人だえ」  僧「有難うございます、私は藤心村の観音寺の道恩というものです」  と聞くより惣吉は打驚き駈けて参り、  惣「え、旦那様か、飛んだ目にお逢いなされました」  道「おゝ〳〵宗觀か、お前此の山へ敵討に来たか」  惣「はいお言葉に背いて参りました、多助や、私が御恩に成った観音寺の方丈様だよ」  多「え、それはマア飛んだ目にお逢いなせえやしたね」  道「酷い事をする、人の手は折れようと儘、酷く縛って、あゝ痛い」  と両腕を摩りながら、  道「中々同類が多勢居る様子じゃから帰るが宜い」  花「なにしても風を引くといけないから、それじゃア斯うと、私の合羽に多助様お前の羽織を和尚様にお貸し申そう、さア和尚様、これをお着なさい、それから多助様此処を下りて人家のある処まで和尚様を送ってお上げなさい」  多「己此処まで惣吉様の供をして、今坊様を連れて山を下りては四年五年心配打った甲斐がねえ」  花「惣吉様が永らく御厄介に成った方丈様だから連れてって上げなさいな」  多「敵も討たねえで、己山を下りるという理合はねえから己ア往かねえ、坊様に怪我アさせてはなんねえから」  花「そんな事をいわずに往っておくんなせえ」  惣「爺やア、どうか和尚様をお送り申してお呉れ、お前が往かなけりゃア私が送り申さなければならないのだから、往っておくれな」  多「じゃア何うしても往くか、己此処まで来て敵も討たずに後へ引返すのか、なんだッて此の坊様はおっ縛られて居たんだナア」  とブツ〳〵いいながら道恩和尚の手を引いて段々山を下り、影が見えなくなると樹立の間から二人の悪漢が出て参り、  甲「手前たちは何だ」  花「はい私共は安田一角先生が此方にお出なさると聞きまして、お目にかゝり度く出ましたもので」  乙「一角先生などという方はおいでではないワ」  花「私共はおいでの事を知って参りましたものですが、一寸お目にかゝり度うございます」  乙「少し控えて居ろ」  と二人の悪漢は、互に顔を見合せ耳こすりして、林の中へ這入って、一角に此の由を告げると、一角は心の中にて、己の名を知っているのは何奴か、事に依ったら、花車が来たかも知れないと思うから、油断は致しませんで、大刀の目釘を霑し、遠くに様子を伺って居りますと、子分がそれへ出て、  甲「やい手前は何者だ」 九十七  花「いえ私は花車重吉という相撲取でございますが、先生は立派なお侍さんだから、逃げ隠れはなさるまい、慥かに此処にいなさる事を聞いて来たんだから、尋常に此の惣吉様の兄さんの敵と名のって下せい、討つ人は十二三の小坊主様だ、私は義に依って助太刀をしに参ったものだから、何十人でも相手になるから出てお呉んなせい」  といわれ、悪漢どもは、あゝ予て先生から話のあった相撲取は此奴だなと思いましたから、直に一角の前へ行きまして此の事を告げました。一角も最早観念いたしておりまするから、  安「そうか、よい〳〵、手前達先へ出て腕前を見せてやれ」  といわれ、悪漢どもも相撲取だから力は強かろうが、剣術は知るめえから引包んで餓鬼諸共打ってしまえ、とまず四人ばかり其処へ出ましたが、怖いと見えまして、  甲「尊公先へ出ろ」  乙「尊公から先へ」  丙「相撲取だから無闇にそういう訳にもいかない、中々油断がならない、尊公から先へ」  丁「じゃア四人一緒に出よう」  と四人均しく刀を抜きつれ切ってかゝる、花車は傍に在った手頃の杉の樹を抱えて、総身に力を入れ、ウーンと揺りました、人間が一生懸命になる時は鉄門でも破ると申すことがございます。花車は手頃の杉の樹をモリ〳〵〳〵と拗り切って取直し、満面朱を灌ぎ、掴み殺さんず勢いにて、  花「此の野郎ども」  といいながら杉の幹を振上げた勇気に恐れ、皆近寄る事が出来ません。花車は力にまかせ杉の幹をビュウ〳〵振廻し、二人を叩き倒す、一人が逃げにかゝる処を飛込んで打倒し、一人が急いで林の中へ逃げ込みますから、跡を追って参ると、安田一角が野袴を穿き、長い大小を差し、長髪に撫で附け、片手に種ヶ島の短銃に火縄を巻き附けたのを持って、  安「近寄れば撃ってしまうぞ、速かに刀を投出して恐れ入るか、手前は力が強くても此れでは仕方があるめえ」  と鼻の先へ飛道具を突き附けられ、花車はギョッとしたが、惣吉を後へ囲んで前へ彼の杉の幹を立てたなりで、  花「卑怯だ〳〵」  と相撲取が一生懸命に呶鳴る声だから木霊致してピーンと山間に響きました。  花「手前も立派な侍じゃアねえか、斬り合うとも打合うともせえ、飛道具を持つとは卑怯だ、飛道具を置いて斬合うとも打合うともせえ」  一角もうっかり引金を引く事が出来ませんから威しの為に花車の鼻の先へ覘いを附けておりますから、何程力があっても仕様がありません、進むも退くも出来ず、進退谷まって花車は只ウーン〳〵と呻っておりまする。多助は彼の道恩を送っていきせき帰って来ましたが、此の体を見て驚きましてブル〳〵顫えております。すると天の助でございますか、時雨空の癖として、今まで霽れていたのが俄かにドットと車軸を流すばかりの雨に成りました。そう致しますと生茂った木葉に溜った雨水が固まってダラ〳〵と落て参って、一角の持っていた火縄に当って火が消えたから、一角は驚いて逃げにかゝる処を、花車は火が消えればもう百人力と、飛び込んで無茶苦茶に安田一角を打据えました、これを見た悪漢どもは「それ先生が」と駈出して来ましたが側へ進みません、花車は傍を見向き、  花「此の野郎共傍へ来やアがると捻り潰すぞ」  という勢いに驚いて樹立の間へ逃げ込んで仕舞いました。  花「サア惣吉様遣ってお仕舞いなせえ、多助様、お前助太刀じゃアねえか確りしなせえ」  惣吉は走り寄り、  惣「関取誠に有難う、此の安田一角め兄さん姉さんの敵思い知ったか」  多「此の野郎助太刀だぞ」  と惣吉と両人で無茶苦茶に突くばかり、其のうち一角の息が止ると、二人共がっかりしてペタ〳〵と坐って暫らくは口が利けません。花車は安田一角の髻を取り、拳を固めてポカ〳〵打ち、  花「よくも汝は恩人の旦那様を斬りやアがった、お隅様を返討にしやアがったな此の野郎」  といいながら鬢の毛を引抜きました。同類は皆ちり〴〵に逃げてしまったから、其の村方の名主へ訴え、名主からまたそれ〴〵へ訴え、だん〳〵取調べになると、全く兄姉の仇討に相違ないことが分り、花車は再び江戸へ引返し、惣吉は十六歳の時に名主役となり、惣右衞門の名を相続いたし、多助を後見といたしました。花車が手玉にいたしました石へ花車と彫り附け、之を花車石と申しまして今に下総の法恩寺中に残りおりまする。是で先ずお芽出度累ヶ淵のお話は終りました。 (拠小相英太郎速記) 底本:「定本 圓朝全集 巻の一」近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫    1963(昭和38)年6月10日発行 底本の親本:「圓朝全集卷の一」春陽堂    1926(大正15)年9月3日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号は原則としてそのまま用いました。同の字点「々」と同様に用いられている二の字点(漢数字の「二」を一筆書きにしたような形の繰り返し記号)は、「々」にかえました。 また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。 底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「彼の」と「彼」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。 また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「*」は注釈記号です。その内容は底本では上部欄外に書かれています。 ※表題は底本では、「真景累ヶ淵」となっています。 入力:小林繁雄 校正:かとうかおり 2000年4月18日公開 2016年4月21日修正 青空文庫作成ファイル: 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