爆薬の花籠 海野十三 Guide 扉 本文 目 次 爆薬の花籠    祖国近し  房枝は、三等船室の丸窓に、顔をおしあてて、左へ左へと走りさる大波のうねりを、ぼんやりと、ながめていた。  波の背に、さっきまでは、入日の残光がきらきらとうつくしくかがやいていたが、今はもう空も雲も海も、鼠色の一色にぬりつぶされてしまった。 「ああ」  房枝は、ため息をした。つめたい丸窓のガラスが、房枝の息でぼーっと白くくもった。  なぜか、房枝は、しずかな夕暮の空を、ひとりぼっちで眺めるのがたまらなく好きだ。そしていつも心ぼそく吐息をついてしまうのである。  彼女は、両親の顔も知らない曲馬団の一少女だった。  彼女が、今抱えられているミマツ曲馬団は主に、外国をうってまわるのが、本筋だった。一年も二年も、ときによると三年も、外国の町々を、うってまわる。そうかと思うと、急に内地へまいもどって「新帰朝」を看板に、同胞のお客さまの前に立つこともあった。こんどは少しわけがあってわずか半年ぶりの、あわただしい帰朝だった。そうでなければ、ミマツ曲馬団は、まだまだメキシコの町々を、鉦と笛とで、にぎやかにうちまわっていたことだろう。  房枝が、曲馬団の一行とともに、のりこんでいたこの雷洋丸は、もうあと一日とすこしで、なつかしい祖国の港、横浜に入る予定だった。  だが、いま房枝はそんなことはどうでもよかったのだ。丸窓の外に、暮れていくものしずかな、そして大きな夕景の中に、じっと、いつまでもいつまでも、とけこんでいれば、よかったのであった。房枝にとって、それは、母のふところにだかれているような気がしてならなかった。 「あたしのお父さま、お母さま。日本へかえったら、こんどこそ、めぐりあえるでしょうね」  房枝は、唇をかすかにうごかし、小さなこえで、そういってみた。 (だめ、だめ。君の両親は、もうこの世の中に、生きてはいないのだ)  そういって、顔見知りの警官が、気の毒そうに、頭を左右にふるのが、まぼろしの中に見えた。 「まあ、やっぱり、房枝のおねがいごとは、だめなんでしょうか」 (そうとも、そうとも。もう、あきらめたまえ) 「ああ」  彼女のまぶたに、あついものが、どっとわいてきた。そして、頬のうえを、つつーッと走りおちた。目を、ぱしぱしとまたたくと、丸窓の外に、黒い太平洋は、あいかわらず、どっどっと左へ流れていた。房枝のわびしい魂はどうすることも出来ないなやみを包んで、いつまでも、波間にゆられつづける。 「うわーっ、腹がへった。食堂のボーイは、なにをしているんだろうな」 「三等船客だと思って、いつも、一番あとにまわすのだ。けしからん」  房枝の気持は、とつぜん、彼女のうしろに爆発した仲間の荒くれ男のことばに、うちやぶられた。  彼等は、かいこだなのように、まわりの壁に、上中下の三段につった寝台のうえで、ねそべっていた。ある者は、古い雑誌を、もう何べん目か、よみかえしていたし、またある者は、ひとりでトランプを切って、運命をうらなっていたりした。この船室は、十八人室で、ミマツ曲馬団の一行で、しめていた。 「おい、房公!」  丸窓にしがみついて、後向きになっていた房枝が、あらあらしいこえで呼ばれた。  房枝は、そのこえをきくと、からだが、ぴりぴりとふるえた。「トラ十」という通り名でよばれて皆から恐れられているらんぼう者の曲芸師丁野十助だった。 「こら、房公。きこえないふりをしているな。こっちにはよくわかっているぞ。おい、食堂へいって、おれの飯をさいそくしてこい。あと五分間しか待てないぞと、きびしくいってくるんだ」  房枝も、やはり曲芸の方だった。綱わたりや、ブランコで、売りだしていたトラ十の丁野十助も、同じようなものをやって、お客のごきげんを、うかがっていたが、ちかごろ、房枝の方にお客の拍手が多くなったのをみて、いやに房枝に、ごつごつあたるようになった。  房枝は、だまって、丸窓をはなれた。そして、指さきで涙をちょっとおさえて、ばたばたと食堂の方へかけだしていった。 「ちえっ、あいつめ、十五になって、いやになまいきな女になりやがった」  と、トラ十は、房枝のあとを見送り、きたないことばを吐いた。  だれかが寝台のうえから、ハーモニカをふきはじめた、調子はずれのばかにしたような、間のぬけたふき方であった。  トラ十は、目をぎろりと光らせて、その方へ、ぐっと太いくびをねじった。 「ハーモニカを、やめろ! 胃袋に、ひびが入らあ」    曾呂利青年  房枝が、三等食堂へ、いきつくかいきつかないうちに、がらんがらんと、食事のしらせが、こっちの船室まで、きこえた。  トランプをしていた者は、トランプを毛布のうえにたたきつけ、古雑誌を読んでいたものは折目をつけてページをとじ、いずれも寝台からいそいでとび下り、食堂の方へ走って行った。団員の娘たちは、あとで、いたずらをされないように、編物の毛糸を、そっと毛布の下にかくしていくことを忘れなかった。  一番あとから、この部屋を出ていった顔の青い若者があった。彼は、すこぶる長身であったが、松葉杖をついていた。右足が、またのあたりから足首まで、板片をあて、繃帯で、ぐるぐると、太くまいてあった。 「曾呂利本馬さん。手を貸してあげましょうか」  通路で、房枝が向こうから駈けてきて、その足のわるい青年に、こえをかけた。曾呂利本馬という妙な名が、その青年の芸名だった。 「なあに、大丈夫」  と、曾呂利青年は、うなずき、 「ねえ、房ちゃん、いつもいうとおり、僕なんかにかまわないがいい」  そういって、彼は、あぶなっかしい足どりで、食堂の入口をまたいだのだった。  この気の毒な曾呂利青年を、房枝がなにかと世話をしてやると、そのたびに、トラ十が、目をむいて、口ぎたなく叱りつけた。 (おい房公。お前、手を出すな。その曾呂利本馬てえ野郎は、正式の団員じゃないぞ。メキシコのどぶ川の中で、あっぷあっぷしていた奴を、おせっかいの団長が、えりくびとって引上げてやったのさ。それからこっち、いつの間にやら、ミマツ曲馬団のすみっこで、こそこそうごめいている奴さ。とんちきな芸名までもらいやがって、歯のない牝馬のうえにのっかったと思うと、もうあれ、あのとおり、自分の足を、ひんまげてしまった。ざまあみろというんだ。正式の団員でもない野郎の世話なんかすると、このおれさまが、だまっちゃいないぞ!)  と、今日も、朝っぱらから、トラ十は、船室で、ほえたてていた。  たしかに正式の団員ではなかったが、この気の毒な曾呂利に、房枝は、同情をよせていた。そばで、トラ十の雑言をきいている房枝の方が、腹が立って、しらずしらず顔が青くなるほどだった。  曾呂利が、一つ男らしく立って、口先だけでも、トラ十をがーんとやりかえすといいと思うのだったが、曾呂利本馬は、いつも無口で、小学一年生のように、えんりょぶかく、よわよわしい性格のように見え一度もやりかえしたことはなかった。  房枝は、ふんがいのあまり、こっそりと、本馬にいうときがあった。 (ねえ、曾呂利さん。あたしには、あんたがどうしても、弱虫に見えないの。男なら、なぜ一つ、思いきり、きびしく、いってやらないの。あんた、わざと、強いのをかくしているんじゃない?)  と、ませた口で、年上の青年をなじると、曾呂利青年は首をふって、 (いやいや、僕は、だめですよ。悪口をいわれても、仕方のない人間なんです。ほうっておいてください)と、目を伏せていう。 (そう。ほんとうに、力なしの、弱虫なの、じゃあ、あたしが、これから加勢してあげるわ) (いやいや、めっそうもない。房ちゃんは、僕なんかに、かまわないがいい)  そういって、曾呂利青年は、足がわるいのに、一番高い上段の寝台へのぼり、もう息をひきとりそうな老犬のように、小さくなって、寝てしまうのだった。  夕暮の空の下では、房枝は、一時、両親を恋うるセンチメンタルな可憐な少女にかわるが、ふだんは、すさまじい世渡りにきたえられて、十五歳の少女とは見えないほど、きびきびした少女だった。  房枝は、松葉杖をついた曾呂利のあとから、三等食堂の中へ入っていった。  ひろい食堂は、電灯も明るく、食慾のさかんな三等船客が、もう一ぱい、つめかけていた。皿やナイフの音が、かしましくするだけで、だれも、むだ口をきく者がなく、一生けんめいに皿の中のものを、胃袋へつめこんでいた。  トラ十も、さかんにぱくついているので、曾呂利青年や房枝の入ってきたのも知らぬげであった。 「おい、ソースだ、ソースだ。ソースのびんがないぞ」  トラ十が、たくましいこえで、どなった。 「ソースのびんは、目の前にあるじゃないか」  ようやく、食事はだいぶん進んだらしく口をきく客もでてきた。 「目の前? うそをつけ。目の前には、ソースのびんなんかないぞ」  トラ十は、どなりかえしたが、そのとき、おやという表情で、目をみはった。ソースのびんは見えないが、彼の目の前には、うつくしい大きな花籠があった。何というか、色とりどりの花を、一ぱいもりあげてある。どう見ても、三等食堂には、もったいないくらいの、りっぱな花籠だった。 「ほら、ソースのびんは、その花籠のかげに、あるじゃないか」 「なるほど」  と、トラ十は、うめくようにいって、ソースのびんをとったが、彼の目は、なぜか、このりっぱな花籠のうえに、ピンづけになっていた。    警報  この雷洋丸の無電室は、船長以下の幹部がつめかけている船橋よりも、一段上の高いところにあった。  それは、ちょうど午後七時五十分であったが、この無電室の当直中の並河技士は、おどろくべき内容をもった無電が、アンテナに引っかかったのを知って、船橋に通ずる警鈴を押した。  すると、間もなく、扉があいて、一等運転士が、自身で電文をうけとりにとびこんできた。 「警報がはいったって、その電文はどれだ」  無電技士は、だまって、机の上の受信紙一枚とって、一等運転士に手渡した。  一等運転士は、紙上に走り書きされた電文を、口の中でよみくだいたが、とたんに、さっと顔色がかわった。 「おう、防空無電局からの警報だ。なんだって。国籍不明の爆撃機一機が一直線に北進中。その針路は、午後八時において、雷洋丸の針路と合う。雷洋丸は直ちに警戒せよ」 「ほう、これはたいへんだ」  一等運転士は、青くなって無電室をとび出した。もう怪飛行機は、こりごりである。メキシコを出港してからこっち、どういうわけか、この雷洋丸は三回も、怪飛行機のため夜間追跡をうけている。こんどで四度目だ。先月他の汽船が、やはり追いかけられ、一発の強力爆弾で沈められたことがある。それ以来、怪飛行機の追跡には、おそれをなしているのだ。防空無電局は「国籍不明の爆撃機」といって来ている。気味のわるいこと、おびただしい。なにしろこっちは非武装の汽船だから、どうしようもない。 「船長、また怪飛行機です!」  一等運転士は船橋へかけあがると、大声でさけんだ。 「えっ!」  と、船橋にいあわせた幹部船員は、おどろいて、一等運転士の方を、ふりむいた。 「すぐ灯火管制にうつらねばなりませんが、こうだしぬけの警報では、ちょっと時間がかかりますが、いかが?」 「ただちに、電源の主幹を切って、消灯だ!」  船長は電文を見終って、はっきり命令を出した。 「えっ、主幹を切りますか」 「早くやれ!」船長のはらは、すわっていた。  これから消灯または遮光の命令を出して、おおぜいの手で、船内の方々をくらくさせていたのでは、おそくなる。ことに、海を航行している汽船は、空中から、すこぶる見えやすい。船長の考えとしては、船の安全のために一秒でも早く灯火管制をやりとげるためには、こうするのがいいと思ったのである。  命令は、ただちに、発電室に伝えられた。 「電灯用主幹、全部開放!」  あっという一瞬間に、船内の電灯は、全部消えてしまった。どこもかしこも、たちまち、まっくらやみだ。  ただ機関室などの大事なところは、夜光塗料が、かすかに青白く光って、機械の運転に、やっとさしつかえのないようには、なっていた。  食事半ばの、三等食堂などは、文字どおり、暗黒の中にしずんでしまった. 「あっ、どうした。電灯をつけろ」 「停電で、飯がたべられるか」 「電灯料の支払いが、たまっているのだろう。ざまをみやがれ」  やひなまぜっかえしに、一座は、たちまちどっと笑いくずれた。皿をたたく者がある。ソースのびんをひっくりかえした者がある。だれやらマッチをすったものがあるが、とたんに、ふき消されてしまった。 「ただ今、怪しい飛行機が近づきました。明りを消してください。マッチをすってはいけません」  室内の高声器から、とつぜん警戒警報が伝えられた。 「それみろ! もう、マッチをすっちゃ、いけねえぞ」だれかがさけんだ。  そのうちに、丸窓が、がたんと閉まる音がきこえた。 「もういいか」 「一番、二番もよろしい」 「五番、六番もよろしい」船員たちは、おちついて、暗闇の中に、こえをなげあっている。 「ようし。それで全部、窓は閉まった。予備灯点火!」 「おうい」釦が、おされたのであろう。五つばかりの、小さい電球に明りがついた。  人々は、はっと、よろこびのこえをあげて、一せいに、明りの方に、ふりむいた。  そのとき、房枝も、明りをみた。そして、その次に、あのうつくしい大きい花籠を、卓子のうえに、さがしたのだった。  どうしたわけか、花籠は、卓子のうえから消えていた。房枝は、おやと、思った。  そのまま、だれも花籠のことをいいださなかったなら、房枝も、やがてきっと、その大きな花籠のことを、わすれてしまったことであろう。ところが、ひきつづいて、とんでもないさわぎが、まき起ったのだ。    大音響 「おう、いやだ、いやだ。これは血じゃないかな」  とつぜん、ひとりの男が席からとびあがった。それは、同じ曲馬一団の黒川という調馬師だった。  彼が、指をさししめす卓子のうえには、どうも人の血らしいものが、たくさん地図のような形に、白布をそめていた。そして、なおもその附近には、手の形らしい血痕が、いくつも、べたべたと白布のうえについていた。そこは、ちょうど、あのうつくしい花籠がおいてあった前あたりであった。 「おお、これは血にちがいない。ぷーんと、あのにおいがするぜ」 「ほんとだ。だれの血だろう」どやどやと席をたって集ってきた三等船客や、船のボーイたちは、とつぜんふってわいたような怪事件の席をかこんで、くちぐちにさわぎたてた。 「どうも、へんだ」例の黒川という最初の発見者が、きょろきょろと、あたりを見廻した。 「おい、トラ十。トラ十は、どこへいった」彼は、なおもきょろきょろと、あたりを見廻したのだった。 「おい、トラ十が、どうしたんだ」仲間の一人が、黒川の肩をたたいた。 「なぜって、お前、トラ十が、急にいなくなったんだ。室内の電灯が、消えるまでは、ちゃんと、おれの横に腰をかけていたんだがなあ。どうも、へんだ」 「トラ十のことなんか、どうでも、いいじゃないか」黒川は、つよく、かぶりをふって、 「いや、どうでもよくないことはない。なぜってお前、あの血は、トラ十が坐っていた席に流れているんだぜ」 「えっ、あの席には、トラ十が坐っていたのか。そいつはたいへんだ! 早く、それをいえばよかったんだ」  さわぎは、ますます大きくなっていった。そのさわぎをすぐ知らせたものがあったと見えて、事務長が、かけつけた。  事務長も、黒川の話をきいて、おどろいた。そして、すぐさま、トラ十こと丁野十助のありかを、手わけして、探させたのであった。  電灯が消えてから、まだ、ものの二十分ぐらいしかたたないのに、トラ十は、どこへいったか行方がわからなかった。 「まさかと思うんですけれどねえ。事務長さん」と、黒川は、いった。 「まさか、どうしたというんですか」  事務長は、太った体を、黒川の方にむけた。 「つまり、まさか、トラ十は、だれかに殺されたんじゃないでしょうか。そして、殺した犯人は、暗闇を幸い、死体をひっかついで、海の中へ放りこむなんか、したんじゃありませんかね」 「ほう、探偵小説には、よく、そんな筋のものがありますがねえ」  と、事務長は、まじめくさって、そんなことをいった後で、 「まさか、ねえ」と、反対の意をあらわして、黒川の顔を見たのだった。 「でも」と、黒川は、なおも疑いの色を眉のあいだにうかべ、「それから、もう一つへんなことがあるんですぜ、さっき、トラ十の前にあった美しいりっぱな花籠が、どこへいったか、一しょに、卓子のうえから見えなくなった!」  ほうと、おどろきのこえがまわりの人々の口から出た。黒川の指さした消えた花籠のことを、彼らも思いだしたからであろう。  房枝も、もちろん、人垣の間から、一生けんめいに、黒川たちの話に、きき耳を立てていた。 「なんだ、ばかばかしい」と事務長は、笑いだした。 「じゃあ、その丁野十助さんが、花籠を抱えて、どっかへ出かけたんじゃありませんかね。たとえば、水をさすためだとか、あるいは、どこかへ持っていって、飾るために」 「じゃあ、なぜ、そこに、人の血が流れて、のこっているのですか。わしには、わけがわからない」  黒川は、ますます疑いにとじこめられつつ、恐怖の色をうかべた。  房枝も、黒川と同じように、トラ十の身のうえに、一種の不安を感じないではいられなかった。  彼女は、自分のすぐ横に、足のわるい曾呂利青年が、これもねっしんに、きき耳をたてているのを発見して、これに話しかけた。 「曾呂利さん。お聞きになって。トラ十が、どうかしたんじゃないんでしょうか」 「さあ」と、曾呂利は、興味ありげに、首をかしげたが、「だれか、怪しい者が、まじっているようですね。さっきも、マッチをつけたとき、すぐ、マッチを消せと、叱りつけた者がありましたよ。しかも、警戒警報だから、明りを消しなさいと、この部屋の高声器が叫ぶよりも、まだ前のことなんですからねえ。そのへんのことが、たいへん謎にみちていますねえ」  曾呂利青年は、ふだんの無口にもにず、しっかりした口調でいった。 「まあ、そんなことが、あったかしら。あたし、気がつかなかったわ」  と、房枝は、曾呂利の顔を、あらためて見直しながらいった。  そのときであった。とつぜん、甲板の方で、どーんという大きな音がして、部屋の壁が、ぴりぴりと震動した。  いったい、それはなんの音だったろうか。  ねらわれているこの汽船雷洋丸の中に、ついに起った怪事件の真相は?  らんぼう者のトラ十は、どうしたのであろうか。あやしい花籠は、どこにあるか?    闇の甲板  とつぜん、甲板の方で、どーんという大きな音がしたものだから、船客たちは、きっと、顔色をかえた。ミマツ曲馬団の一行も、びっくり仰天! 「あっ、あの物音はなんだ」 「今の音は、爆弾でも落ちたのかな。この船は、しずめられちまう! おい、どうしよう」 「どうしようたって、仕方がないじゃないか。そのときは、この汽船につかまってりゃ、それこそ海の底まで、ひっぱりこまれる」 「おい、じょうだんじゃないぞ。われわれは、どうすればいいんだ」 「どうにも仕方がないさ。いずれそのうち、鼻の穴と口とに海水がぱしゃぱしゃあたるようになるだろう。そのときはなるべく早く、泳ぎ出すことだねえ」 「泳げといっても、お前がいうように、そうかんたんにいくものか。ここから何百キロ先の横浜まで、泳いでわたるのはたいへんだ」  などと、さわぎたてる。  あやしい血痕のことについて、この三等食堂へかけつけ、取りしらべをしていた事務長は、しらべをやめて、ろうかの方へ走り去った。 「おい、お前たち、そんなくだらんことをしゃべるひまがあったら、甲板へ上って、この汽船がどうなったのか、ようすを見てこい!」  隅っこの席で、ゆうゆうとまだ飯をくっているカナリヤ使の老芸人鳥山が、どなった。 「ああ、そうだ。じゃあ、大冒険だが、ちょっといって、見てこよう」 「待て、おれもついていってやる」  若い団員が二人、猿のようにすばやく、昇降階段をよじのぼっていった。  甲板の方できこえた爆音のような大きな音は、一発きりで、あとはきこえなかった。もっとつづけさまに、爆撃されるだろうと、ふるえあがった船客たちは、このとき、ようやく人心地に戻った。 「おや、爆撃は一発でおしまいで、もう怪飛行機はにげていったか」 「ちがうよ。爆弾なんか落しやしない。あの飛行機は、ただこの船の上を飛んで、われわれをおどかしていっただけだ」  房枝も、そのころ、ようやくわれにかえったのだった。ふと気がついて、あたりを見廻すと例の謎の青年曾呂利本馬が、テーブルに頬杖ついて、こわいような顔で、なにか考えこんでいる様子であった。  房枝は、こえをかけた。 「曾呂利さん。なにを考えこんでいるの」  曾呂利は、はっとしたようすで、顔をあげた。かれの目は、きらりとするどく光っていた。だが、その目が房枝の目にぶつかったとたんに、ちょっとあわてる色が見えた。 (この人、ゆだんのならない人だわ)  と、房枝は、曾呂利青年に、きついうたがいをかけないわけにはいかなかった。 「ああ、房枝さん。僕たちはとんでもない怪事件の中に、まきこまれてしまいましたよ」  曾呂利本馬は、小声で、ささやくようにいった。 「とんでもない怪事件ですって、やっぱり、トラ十は殺され、美しい花籠は盗まれてしまったのですか。あの人は、ふだんから、にくまれているから、あたりまえよ」  すると、曾呂利が、いそいで房枝のことばをとがめた。 「あたりまえだなんて、そんなことを、かるがるしく、いってはいけません。へんなうたがいが房枝さんにかかってくるかもしれません」 「でもあたし、トラ十を殺した犯人じゃないから、いいわ」 「なるほど」と、曾呂利はうなずいたが、房枝の方へ、さらにすりよって、 「房枝さん、ここに今、もう一つ、あやしいことが起っているのですが、あなたは、それに気がつきませんか」  曾呂利は、もう一つ、あやしい事件が、すでに起っているというのだ。 「え? 飛行機のことですの」 「うむ、それもありますが、それはまた別にして、僕のいうあやしいことというのは、われわれミマツ曲馬団の中のことです」 「まあ。あたしたちの中に、まだ、あやしい事件が起っているとおっしゃるの。それは、なんですの。曾呂利さん、早くおしえてよ」    しのばれる名探偵  曾呂利青年は、妙なことをいいだしたものである。房枝は、この話をきいているうちに、いらいらしてきた。 「ねえ、早くおしえてよ。曾呂利さん」  曾呂利青年は、さらにこえを低くして、 「あなたは、まだほんとうに気がついていないのですね。その怪しい事件というのは、ほかでもありません。団長の松ヶ谷さんが、やっぱりさっきから、行方不明になっていることです」 「えっ、松ヶ谷団長が?」と、房枝は、意外なことをきいて、びっくりした。 「曾呂利さん。あなたはどうして、そんなことを、お知りになったの」  誰が、そんなことを知っているだろうか。それを知っているのは、この謎の青年、曾呂利本馬だけではないか。房枝はさっきから、この曾呂利青年に、たしかにあやしい節があるとにらんでいたので、ことばするどく問いかけた。  しかし曾呂利は、あんがいおちついた態度で、 「いやなに、僕は、べつに団長の船室へいって、それをたしかめたわけではないのですが、ただそういう気がするのです」 「うそ、うそ。曾呂利さんは、ずるいわ。ほんとうのことを、おっしゃらないのね」 「今いっているのは、ほんとうのことですよ。だって、誰にだって、そういうふうに考えられるではありませんか」と、事もなげに、いってのけ、 「ねえ、いいですか。トラ十のことで、これだけ、皆がさわいでいるのに、かんじんの松ヶ谷団長がちっともあらわれないではありませんか。あの耳の早い、そして人一倍に口やかましい団長が、なぜ、ここへとんでこないのでしょう」 「あら、そうね」 「ね、わかるでしょう。ミマツ曲馬団の中に起ったトラ十事件のさわぎをよそにして、ここへかけつけないところを思うと、これはどうも、団長も、行方不明になっているのじゃないかと思うのです」 「まあ、曾呂利さん。あなたはこれまで、青い顔をした、いくじのない方だと思っていたけれど、今日は、とても、すばらしいのね。まるで名探偵そっくりだわ」 「房枝さんは口が上手だね。そんなに僕をひやかすのは、よしにしてください」 「いや、ほんとうのことをいっているのよ。あたしいつだか、新聞だったか、本だったかで読んだのですけれど、帆村荘六という名探偵があるでしょう。その名探偵帆村荘六のことを、今思い出したのよ。そう名探偵は、背が高くて、青い顔をしていて、唇をへの字にまげるのがくせなんですって」と、いいながらも、房枝は、目の前にいる曾呂利本馬が、ひどく帆村荘六に似ていることに気がつくと、なんだか、おそろしくなった。 「房枝さん。そんなばかばかしい話はもうよしにしましょう」  そういっているときだった。ろうかのむこうに、がたがたと、高い足音がきこえ、こっちへ、急いでくる様子だった。食堂へとびこんできたのをみると、それは、さっき甲板へ様子を見にいった連中だった。 「おい皆、船は大丈夫だから、安心しろ」 「えっ、大丈夫か。沈没するような心配はないか」 「うん、沈没なんかしやせんよ。さっきの爆弾は、左舷の横、五、六メートルの海中で炸裂したんだそうだ、それだけはなれていりゃ、大丈夫だ」 「へえ、そうかね。こっちの船体に異状がないと聞いて、大安心だ」 「なにしろ、灯火管制中だから、明りをつけて検査するわけにはいかないが、船腹の鉄板が、爆発のときのひどい水圧で、すこしへこんだらしい。しかし、大したことはないそうだ」  報告は、なかなかくわしい。 「爆発は、もう、それっきりなんだろう」 「そうだ」 「じゃあ、あとはもう心配なしだな」  と、一同は、ほっとためいきをついた。 「それから、もう一つ、へんな話をきいたぞ。甲板に立っていた船員の一人が、あの爆発のときに、たおれたんだそうだ。ほかの者が、それを見つけて抱きおこした。爆発の破片で、からだのどこかを、やられたんだろうと思ってしらべてみた。すると、別にどこもやられていない。そのとき、へんだなあと思うことが一つあった。お前たちは、それが分かるか、そのへんだなあという一件が」 「そんなこと、分かるものか。早くしゃべれ」 「それは、奴さんのたおれた場所に、きれいな花が、ばらばらと落ちていたんだ。だから、奴さん、爆弾にやられたんじゃなくて、花束でもって、なぐられたんじゃないかって、誰かそういっていたよ」 「へーえ、花束でなぐられて目をまわしたというわけか。まさか、はははは」  房枝も、さっきから、この話を、じっときいていたが、ここでおかしくなって、つりこまれたように笑った。  そのとき、気がつくと、曾呂利本馬の坐っていた席が、いつの間にやら、空になっていた。    ニーナ嬢  この雷洋丸の一等船客に、一きわ目立って、姿のうつくしい、外国人の令嬢がいた。その名をニーナ・ルイといって、国籍は、メキシコと届けられていた。  ニーナ嬢は、いつもすっきりした軽い服に、豹の皮のガウンを着て、食堂へ入っていったり、またAデッキの籐椅子にもたれて、しきりに口をうごかしているのが、とくに船客の目をひいた。  ニーナ嬢は、一人旅ではなかった。伯父さんだという師父ターネフと、二人づれの船旅であった。  師父ターネフは、もちろん宣教師で、いつも裾をひきずるような長い黒服を着、首にまいたカラーは、普通の人とはあべこべに、うしろで合わせていた。いかにも行いすました宗教家らしく、ただ血色のいい丸顔や、分別くさくはげかかった後頭部などを見ると、たいへん元気にみえ、なんだか、その首を連隊長か旅団長ぐらいの軍服のうえにすげかえても、決しておかしくはないだろうと思われた。  そのニーナ嬢が、階段のところで、曾呂利本馬と、鉢合せをした。  ニーナ嬢は、うすぐらい階段を、急いで上からおりて来る。曾呂利は、松葉杖をついて、階段を四、五段のぼっていた。ニーナ嬢が、勢よくというより、少しあわて気味に足早におりて来たため、あっという間に、二人は下にころげおちた。  からだが不自由な曾呂利は、後頭部を床にうちつけて、しばらくは、気がとおくなっていた。  ニーナ嬢の方は、すぐさま起き上った。そして、いまいましいという表情で、たおれている曾呂利を、靴の先で蹴とばしておいて、そのまま行きすぎようとした。が、そのとき、彼女は、何おもったのか、また戻ってきて、さっきとは別人のようなふるまいで、曾呂利を抱きおこした。 「うーん」  曾呂利が、彼女の腕の中で、うなりごえをあげた。  ニーナ嬢は、ハンケチをだして、曾呂利の額をふいてやった。そして、 「ごめんなさい。ごめんなさい。わたくし、たいへん、あやまりました」 「……?」  曾呂利は、ちょっとうす目をあけたが、またすぐ目をつぶった。 「ごめんなさい。わたくし、あやまりました。おわびのため、このお金、さしあげます」  ニーナ嬢は、どこに持っていたのか、紙幣を一枚、曾呂利の手に握らせ、 「どうか、ごめんください。そして、わたくしのため、このことは、誰にもいわない、よろしいですか。きっと、きっと、誰にもいわない。わたくしと、ここで衝突したこといわない。あなたいいません! いわないこと、約束してくれますか。それを守ってくれるなら、あとでまた、お礼のお金をさしあげます」  ニーナ嬢は、ねっしんに、そして早口で、曾呂利をかきくどいた。  曾呂利は、かすかにうなずいた。 「よろしいですね。わたくし、あなたを信用します。お礼のお金、あとできっとさしあげます。あっ!」  ニーナ嬢は、とつぜん、おどろきのこえをあげた。階段の上に、誰かのわめきごえがきこえたからである。 「約束、きっと、守るのです!」  ニーナ嬢は、最後にもう一度、命令するかのように、曾呂利の耳にのこすと、曾呂利をそこに寝かしたまま、とぶように立ち去ったのであった。  階段の上から、あらあらしい足音とともに、二、三人の船員がおりてきた。 「やっぱり、こっちじゃないかな」 「どうも、こう暗くては、探せやしない」  船員たちは、おりてくると、そこに曾呂利がたおれているのを発見して、おどろいてかけより、 「おう、あなた。ここへ誰か来なかったでしょうか。この階段を、あわてて上からおりてきたものはありませんか」  曾呂利をだき起そうともせずに、いきなり質問だ。  曾呂利は、首をふって、 「誰も、見えませんでしたね。僕は、松葉杖を階段からつきはずして、落ちたんです」  と、わりあい、しっかりしたこえでいった。曾呂利は、ニーナとの約束を守ったのである。というよりも、うそをついたのである。彼は、ニーナ嬢から握らされた紙幣に、良心を売ったのであろうか。    疑問の空襲  曾呂利が、医務室につれこまれるところを、ちょうどそこを通りかかった房枝が、見かけた。 「まあ、曾呂利さん。足のわるいのに、ひとりで出かけたりするから、また、どうかしたんだわ」と、つづいて、彼女も、曾呂利のあとから、医務室に入った。  曾呂利は、診察用の肘かけ椅子に、腰をかけさせられていた。  船医が、すぐやってきて、曾呂利が痛みを訴える後頭部をかんたんに診察した。 「なあに、大したことはありませんよ。湿布してあげましょう」  船医は、看護婦を呼んで、湿布のことを命じているとき、入口の扉をあけて、船長が入ってきた。 「やあ、ドクトル。赤石は、その後、どうです」  赤石とは、れいの爆発事件のとき、甲板でたおれた船員の名だ。 「やあ、船長。赤石君は、奥に寝かせてあるが、もうすこし様子を見ないと、なんともいえませんねえ」 「うむ、そうすると、会って、こっちが聞きたいことを聞くわけには、いかんですかな」 「まあちょっと待ってください。もう三十分ぐらいは」 「そんなに、容体があぶないのかね」 「何ともわからんですよ、それは。すこし、ここに来ているらしいので、警戒しているのです」と、船医は、自分の頭を指さした。  船長は、困ったという表情で、 「じつは、本船の上を、怪しい飛行機が飛んだことについて、赤石に聞いてみないと、事実がはっきりしない点があるのでね」 「赤石君にきかないでも、外の人だけで、わからないのですかね、私も聞いたが、あれだけはっきりした爆発音だから、それでも分かりそうなものだが」 「いや、ドクトル。どうも、それだけのことじゃないらしいんでね、それで困っとる」  と、船長は、口を大きくむすんで、 「第一、空襲らしいというのに、本船の者で、誰も飛行機の近づく爆音を聞いたものがないのが、おかしい。もちろん、飛行機の姿も見えなかった」 「船長。爆弾がふってきたんだから、それでもう、飛行機の襲来だということは、たしかではありませんか」 「いや、それが、そうかんたんにきめられないのだ。それに、赤石のたおれていたとこに、ばらばらと落ちていたうつくしいきり花だが、こんなものがどうして、あんなところにあったか、これは赤石に聞かないと、わからないことなんだ」  と、船長は、手に握っていた数本のきり花を、机のうえに投げだすようにおいた。 「たったこれだけの花ぐらいのことを、そう気にすることはないでしょう」 「いや、これは、その一部なんだ。もっとたくさんある」  船長は、いよいよ苦りきって、 「もっと、困ったことがある。今しらべてみてわかったんだが、あの爆発事件の最中に、この船内から、二人の船客が、姿を消したんだ。二人ともミマツ曲馬団の人たちで、一人は団長の松ヶ谷さん、もう一人は、トラとよばれている丁野十助という曲芸師だ。船内を大捜査したが、たしかにこの二人の姿が見あたらない。それから、三等食堂の血染のテーブル・クロスの事件ね」 「ああ、あの血染事件の血液検査を、やることになっているが、こういう次第で、手が一ぱいですから、あとで、なるべく早くやります」 「とにかく、わしの直感では、この船は、横浜へ入るまでに、どうかなってしまうのじゃないかと思う。単なる空襲事件ではない。もっと何かあるのだ。今、手わけして、探してはいるがね。ねえ、ドクトル、あんたも、なにかいい智恵をひねりだしてくださいよ」  船長は、苦笑していった。  そのとき、房枝の手をひっぱるものがあった。房枝は、船長とドクトルの対話に、気をとられていたが、手をひっぱられたので、その方をみると、それは曾呂利がやったのだ。 「ねえ房枝さん。そこへ船長さんがもってきた花を、私に見せてください」 「まあ、あなたが見て、どうなさるの」といったが、房枝は、テーブルのうえから、花をとって、曾呂利に渡した。  曾呂利は、その花を手にとって自分の鼻に押しあてた。そのとき、彼の目が、急に生々と輝きだした。 「ほう、この花は、非常に煙硝くさい。おや、それに、なめてみると、塩辛いぞ、海水に浸っていたんだ。すると、この花は、船の上にあった花ではない、海の中にあった花だ。これは、ふしぎだ」  曾呂利は、まるでなにか怪物につかれた人のようにぶつぶつと口の中でひとりごとをいった。しかし房枝は、その一言半句も聞きのがさなかった。そして、曾呂利の顔を、穴のあくほど見つめていたが、はっとした面持で、 (この人は、どうしても、帆村荘六という名探偵にちがいないと思うんだけれど。なぜ、曾呂利本馬などと、名をかえているのでしょう)  と、ふしん顔。  そのとき、電話のベルが鳴った。看護婦が出ると、船長に急用だという。そこで船長が、かわって電話機をとりあげたが、一言二言いううちに、船長は、おどろきのこえをあげた。 「えっ、見つかったか。ふーん、そりゃ、たいへんだ。今すぐ、わしは、そこへいく」  なにが見つかったというのだろう。  それをきいて、曾呂利本馬が、すっくと立ち上った。松葉杖なしで、曾呂利がつっ立ったのである。    石炭庫の中 「おい、見つかったそうだ、ミマツ曲馬団の松ヶ谷団長が、石炭庫の中で」  船長は、おどろくべきことばをのこすと、すぐさま医務室をとびだした。 「えっ、団長さんが、見つかったんですって、まあ、よかったわ」  と、房枝は、よろこびの色をうかべて、曾呂利本馬の方をふりかえった。  行方不明をつたえられた二人のうち、一人は見つかったのだ。ことに、松ヶ谷団長が、このまま、行方不明だったら、このミマツ曲馬団は、これから満足な興行ができないであろう。やがて、一座は解散となって、団員たちは、ばらばらになってしまうにきまっている。ああ、そんなことになれば、房枝のような孤児を、だれが面倒みてくれるであろうか。団長が見つかったという知らせに、房枝が、ほっと安心の吐息をもらしたのも、わけのあることだった。 「あ、曾呂利さん」  曾呂利の方をふりかえった房枝は、いぶかしそうに、彼にこえをかけた。  曾呂利本馬は、足がわるく、おまけに、ニーナ嬢につきあたられて、後頭部をいやというほどうったので、ふらふらの病人であるはずのところ、彼が、足もともしっかり、すっくと立ち上っていたのを見て、房枝は、たいへんふしぎに思ったのである。 「曾呂利さん。もうおなおりになったの」 「いや、あいかわらず痛むのですけれど、今、団長が見つかったときいたものだから、おどろいて、思わず立ち上がったんですよ」と、彼は、いいわけしながら苦笑した。 「いやな曾呂利さんね。そんならんぼうなことをなさると、いつまでも丈夫になれないわ。ねえ、ドクトルさん」  ドクトルは、看護婦相手に、船員赤石の容体を見守っていたが、 「そうですよ。若い人は、どうもらんぼうをするので、いかんですよ。いくら丈夫でも、人間の体力には、かぎりがある。それをふみこすと、体をこわしてしまう。曾呂利さん、房枝さんのいうのが、ほんとうだ」  曾呂利は、肘かけ椅子に腰をおろし、たいへんよわった顔で、あたまをかいた。  そこへ、また電話がかかってきた。看護婦が出ると、こんどは、船長のとこへかかってきたのではない。船長から船医のところへ、かかってきたのである。 「あ、ドクトルだね、たいへんだ。すぐ来てくれたまえ。場所は、第一石炭庫。見つけだした松ヶ谷団長は、顔にひどい怪我をしている。そして、なんだか、様子がへんだ。妙なことを口走っている。うごかせそうもないから、すぐに来てくれたまえ」  と、船長のこえは、うわずっていた。  船医は、薬や注射器をもってすぐかけつけると返事をした。そして、看護婦をいそがせて、自分は鞄をもち、看護婦には、洗滌器などの道具をもたせて、あたふたと、医務室を出ていった。  あとには、赤石と曾呂利と房枝の三人きりとなってしまった。  そのとき房枝も、そわそわしていたが、団長の様子が気になるとみえ、彼女もまたそこを出ていった。あとには、赤石と曾呂利の二人きりとなった。  船員赤石は、死んだようになって、ベッドに寝ている。眼をあいているのは、曾呂利一人だった。  その曾呂利青年は、しばらくあたりの様子をうかがっていたが、誰も近づく者がないのを見すますと、肘かけ椅子から、すっくと立ち上った。彼の右足は、膝のうえから下を、板切ではさみ、そのうえに、繃帯でぐるぐるとまいていて、いかにも痛そうであったが、ふしぎにも、このとき、彼は、室内をすたすたと歩きだしたのであった。そして手をのばして、赤石の倒れていたという疑問の花をつかむと、部屋の片隅にある顕微鏡の前にいった。もしもこのとき、誰かが、この曾呂利青年のあやしい行動を見つけた者があったとしたら、きっと、部屋にとびこんで、このにせ怪我人の曾呂利を、やにわにとりおさえたことであろう。  彼は、爆薬で黒くよごれた花片をむしりとると、器用な手つきで、それを顕微鏡にかけて、のぞきこんだのであった。  数秒間、彼は、石像のようになって、顕微鏡をのぞいていたが、やがて顔をあげると、 「おお、これはたしかに、今大問題になっているBB火薬だ! これはたいへんだぞ」と、思わず、口走った。  いよいよ怪しき曾呂利青年だ。  今や、曾呂利青年の正体は、読者の前に、明らかにされなければならない。曾呂利本馬とは、真赤ないつわり、彼こそは、理学士の肩書のある青年探偵、帆村荘六その人だったのである。  おお、あの有名な名探偵、帆村荘六。  彼はなぜか一芸人として、このミマツ曲馬団に加わっていたが、雷洋丸上にしきりに起る怪事件にだまって見ていられず、ひそかに探偵の歩をすすめていたのだった。  そういうことが分かれば、曾呂利本馬として、これまでにたびたびおかしな振舞があったが、それは探偵のための行動であったのだ。    BB火薬  曾呂利本馬は、もう解消して、名探偵帆村荘六は、顕微鏡からはなれた。  彼は、きりりとした顔で、またしばらく、あたりの様子をうかがっていたが、まだ誰も、この医務室に近づく者がないことをたしかめると、後へふりむいて、卓子のうえから、一本の試験管をとった。  なにをするのであろうか?  帆村探偵は、そのガラスでつくった試験管の中へ、BB火薬らしいもので黒くなった花片を、しきりにむしりとって、つめこんだ。  それから、薬品のならんだ棚から、ある薬品の入った壜をとると、栓をぬいて、無色の液体をすこしばかり試験管につぎこんだ。 (こうしておけば、大丈夫、保つだろう──)  彼は、試験管にコルクの栓をした。それから、器用な手つきで、封蝋を火のうえで軟かくすると、コルクの栓のうえを封じた。それで作業は終ったのであった。  それがすむと、こんどは肘かけ椅子のところへもどり、右足の繃帯を、くるくるとときはじめた。  足をはさんでいる板切が、むきだしにあらわれた。 (ここへ入れておけば、安心だ)  彼は、試験管を、板切の間にさしこんだ。それからふたたび繃帯を、元のように、ぐるぐると巻きつけたのであった。  それが終ると、彼はほっとしたような顔つきになって、肘かけ椅子に、ぐったりともたれて、大きな息をついた。  とたんに、廊下にあわただしい足音がしたと思ったら、医務室の扉があいて、看護婦がもどってきた。  あぶないところであった。  看護婦が、もうすこし早く、この部屋へもどってくれば帆村探偵は、たちまち、怪しい行動を、見られてしまうところだった。 「どうしたんですか、看護婦さん」  と、帆村探偵は、なにげない様子で肘かけ椅子にもたれたままたずねた。 「あら、あなたをほったらかしにしておいて、どうもすみません。松ヶ谷さんが、石炭庫の中でたいへんなのよ」  看護婦は、手術の道具を、下へおろすのにいそがしい。が、手よりも口の方は、もっとよく動く。 「あたし、こんなおどろいたこと、はじめてですわ。松ヶ谷団長さんの顔ったら、たいへんよ。顔中すっかり火傷をしてしまって、それに眼が、ああ、もうよしましょう、こんなことをいうのは」 「眼が、どうしたのですか」 「あの様子では、もう永久に、物が見えませんわ、かわいそうに……。盲目になっては、猛獣をつかうことができないでしょう。お気の毒だわね。ミマツ曲馬団は、メキシコで見物にいって、とても冒険が多いので、感心しちゃったけれど、団長さんがあれでは、もうだめだわ」と、看護婦はしきりに残念がる。 「団長は、一体、石炭庫の中でなにをしていたのですか」と、帆村探偵は、こえをかけた。 「それが、たいへんなのよ。石炭の中に、団長さんが埋まっていたのよ。火夫が、石炭をとりに来て、石炭の山にのぼると、真暗な奥から、うめきごえがきこえたんですって、びっくりして、仲間をよびあつめ、もう一度いって、奥をしらべてみると、誰だかわからない人間が、石炭の間から顔を出して歌をうたっていたんですって」 「歌をうたっていた?」 「そうなのよ、へんでしょう。顔がすっかり焼けただれているのに、歌をうたっているのよ。診察に行かれた先生もおどろいていらしたわ。普通の人間なら、もう死んでいるところですって」 「ひどいことをやったものですね。一体、誰が、そんなことをやったのでしょうね」 「さあ、あたし、そんなことは知らないわ。誰かにうらまれたのじゃないかしら、曲馬団の団長なんて、団員を、とてもいじめるのでしょう。ライオンや虎を打つ鞭でもってぴゅうぴゅうとたたくのでしょう」 「さあ、どうですかなあ」  帆村探偵は、松ヶ谷団長が、見かけによらない人情にあつい人であることを知っていた。だから、団長は団員からうらまれるようなことは、なかったであろうと思った。問題は、BB火薬にあるのではなかろうか。それから、もう一つ、彼の心に思い出されるのは、美人ニーナ嬢の怪行動だ。ニーナ嬢にぶつかったのは、石炭庫へ下る途中の通路であった。  BB火薬とニーナ嬢!  BB火薬というものは、昨年始めてメキシコのある化学研究所でつくられた、おそるべき強力なる爆薬であった。そのつくり方はもちろん、こういう火薬があるということまで極秘になっていたはずのものだった。それが、どうしたわけか、ある一部へ秘密が洩れ、別なところで、製造が始められたと、帆村は聞いていた。その問題のBB火薬が、雷洋丸の上で発見されたのである。  帆村の眼底には、消せども消せども、なぜかBB火薬と並んでニーナ嬢の顔が浮かび上がってくるのであった。    虚報 「船長。今も申しましたとおり、防空無電局では、あの時刻に、そんな怪飛行機追跡中だなんて警報を出したおぼえはないといっているのです。嘘ではなさそうです。するといよいよこれは、どうも、ただごとではありませんよ」  と、一等運転士がいった。船長室で、二人は向きあって額をあつめて、協議中であった。  船長は、海図から頭をあげ、 「まったくおかしなこともあるものだな。あの警報がうそだったとは、ふしぎだ。いや、奇怪至極だ」  と、いって、しばらく考えていたが、 「すると、本船の左舷横、五、六メートルのところに落ちたあの爆弾のことは、どう考えるかね」 「さあ、それですよ。船長」  と、一等運転士は、顔を一そう、船長の方に近づけ、 「どうも私は、あのミマツ曲馬団というやつが怪しいと思うのですが、団員の中に、わるい者がまじっていて、ダイナマイトかなんかをもってて、甲板から海中へなげたのではないでしょうか」 「甲板から海中へダイナマイトをなげた? ふふん、なるほどね」  と、船長は眼をつぶった。 「しかし、ダイナマイトを、なぜ海中へなげたのかな。まさか、魚を捕るためじゃあるまい」 「船長、あの曲馬団の連中を、片っ端から、しらべて見てはどうでしょうか。そうすれば、松ヶ谷団長をやっつけたり、丁野十助を血痕だらけにしてしまった悪い奴が、見つかるかもしれません」 「そうだなあ。しかし、一人一人、しらべていたのでは、なかなからちがあかない。怪しい奴を見当つけて、それから先へしらべてみたら、どうか」 「さんせいですね。それについて、船長。私は、あの団員の中にいる曾呂利本馬という背の高くて、右足を繃帯でまいている男が、特に怪しいと思うのですがねえ。まず、あいつを引っぱってきてはどうでしょうか」 「曾呂利本馬? ふふん、ああこの船客か」  と、船長は、船客名簿をくりながら、指さきで、曾呂利の名をおさえた。 「曾呂利などとは、ふざけた名前だ。こいつから先しらべることはさんせいだ。さっそく、ここへ引っぱって来たまえ」 「はあ、承知しました」  船長が許可したものだから、ただちに手配がなされ、曾呂利本馬、実は帆村探偵が、船長室に連れてこられた。 「おいおい、そんなに手あらくしてはいけない、この方はお客さまなんだから」  船長は、水夫をいましめた。 「いや、この人は、どうしても来ないといって足のわるいくせに、あばれるもんですから、つい、こうなるのですよ」 「いけない、いけない。まあ、曾呂利さんとやら、ゆるしてください」  と、船長は、さすがにていねいだった。だが、船長は曾呂利を一目見るより、これは只者でないと、にらんでしまったので、ゆだんなく彼のうえに、気をくばる。 「船長。これは失敗でしたよ。私をあのように、にぎやかにここへ引っぱりこむなんて、よくありませんでしたよ」 「あなたが、船員に反抗せられたのが、いけなかったのでしょう」 「いや、反抗はしませんでしたよ。船員のいったことは、うそです。おかげをもって、私は、たいへん危険に、さらされることになりました」  そういって曾呂利は、なにかを気にしている様子であった。船長と一等運転士は、それを見て、ますますうたがいを彼のうえにかけた。 「まあ、おちついて、この椅子にかけてください。わしは船長として、ぜひあなたからききたいことがあるのです。正直に答えてくれますか」 「船長さん。私をおしらべになるのは、むだですよ。それよりも、すぐさま、船内大捜査をなさることです。殊に、貨物をいちいちしらべるのです。それと同時に、無電をうって、東京の検察局の援助を乞われるのがよろしい」 「なにを、ばかなことを」 「いや、その方が、いそぎます。『本船ハ危機ニ瀕ス、至急救援ヲ乞ウ』と、無電を」  といっているとき、廊下の方に、だーンと大きな銃声、とたんに一発の弾が、ひゅーっとうなりを発して、室内にとびこんできた。 「あっ、やられた」  と、帆村探偵は叫んで、椅子からとびあがると、背中をおさえて、どうと下にたおれた。そのとき、船長室の電灯が、大きな音をたててこわれ、室内はまっくらとなった。  何者が、うったのであろうか?    若い紳士  銃声はなおも三発、室内に向けてうちこまれた。  銃声をきいて、船員たちは、びっくり仰天、とぶようにして船長の方へ。 「船長、船長!」  かけつけた船員が、まっくらな室内にとびこむと、こえをかけたが、返事はなかった。 「船長、どうしました船長!」  船員は、こえをからして叫んだ。 「おうい。船長はここにいる」 「おお、船長。無事ですか。いま、灯をつけます」 「天井の電灯は、こわれた。卓子のうえのスタンドをつけてくれ」 「はい」  スタンドが、ついた。室内はほの明るくなった。そのとき船長は、書類箱のうしろからはいだしてきた。 「あ、船長、どうされました」 「うん、ピストルでうたれたのだ。おお、ここに一等運転士がたおれている。誰か手をかせ」 「やあ、一等運転士」  たすけ起すと、一等運転士は気がついた。肩のところを銃弾でうたれ、ほんのちょっとの間、気をうしなっていたのだ。 「大丈夫だ、おれは」と、彼は肩をおさえて立ち上った。 「ピストルをうった奴をさがしだせ。その窓からうったのだ」  といって、彼は、あたりをふしぎそうに見まわしていたが、 「おや、船長、いませんよ」 「いないとは、誰が!」 「訊問中の曾呂利が」 「おお、曾呂利君が、銃声がきこえたとたんに、あっと叫んでたおれたのを見たよ。どこか、そのへんに、たおれていないか」 「さあ」  一等運転士は、船員たちにも命令して、そのへんをさがさせた。  しかるに、曾呂利本馬の姿は、どこにも発見されなかったのである。 「へんだなあ。どこへいってしまったんだろう」 「うん、たしかに、弾があたって、たおれたのを見たのじゃが」  たおれた曾呂利本馬、いや帆村探偵の姿は、どこかに、かき消すように失せてしまったのであった。  そのとき、外が、そうぞうしくなった。しきりに船員がののしっている。 「おい、一等運転士。あれは、どうしたのか」と、船長はあごで外をさした。  一等運転士は、肩口をおさえたまま、外にとびだした。  するとそこには、船員と水夫とが、一人の若い女をおさえつけていた。 「ああ、一等運転士。この女です。ピストルをうったのは」 「なにっ」 「窓から、中をのぞいていたのです。私が、懐中電灯でてらしつけると、にげだしました。やっと、捕えたのですが、附近に、このピストルが落ちていました」 「ふーん、それはほんとうか。見れば、まだ年の若い娘のようだが、おや、君はミマツ曲馬団の」と、一等運転士はあきれ顔であった。  房枝だ!  狙撃犯人として、そこに捕えられていたのは、房枝だったのである。  そんなことがあって、いいであろうか。  房枝は、まっ青になって、肩をふるわせている。 「ちがいます。あたくしじゃありません。ピストルをうつなんて、そんなことのできるあたしではありません」 「そうでもなかろう。曲馬団の娘なら、ピストルなんか、いつもぽんぽんとうっているではないか」 「いいえ、ちがいます。ピストルのことは、なにも知らないのです。ただ」 「ただ?」 「ただ、曾呂利さんが、船長室へ引っぱりこまれたので、心配になって、ここへ上ってきたのです」 「それから、ピストルを出して、あたしの肩をうったのだろう」  と、一等運転士は、いたそうな顔をして、房枝をにらんだ。  そのとき、人々をかきわけて、背の高い、そして色眼鏡をかけた一人の若い紳士が、すすみ出た。 「ピストルをうったのは、その娘さんではない。別の女です」 「おや、誰です、あなたは、見かけない方だが」  と一同の眼は、とつぜん現れた若い紳士の顔にあつまった。  房枝も、自分をかばってくれるその紳士の顔を見たが、おどろきのあまり、あっと叫ぼうとして、あやうくこえをのんだ。    動かぬ証拠 「私が誰であろうと、そんなことは、二の次の問題です」  とその見なれない青年紳士は、一等運転士たちを制し、 「それよりも、ピストルをうったのは、この娘さんではないのですから、そんなに手あらくしないで、まず娘さんのからだを、自由にしてあげてください」  と、彼は、しっかりしたこえで、房枝をかばった。  だが、船員たちには、なんのことだかわけがわからない。房枝は、たしかに船長室の窓の外に立っていたし、しかも、ピストルを手ににぎっていたのである。だから房枝が、やったことは明らかだ。それにもかかわらず房枝がやったのではないというその青年紳士こそ、気がどうかしているのではないかと、みな彼をあやしんだ。 「あなたは、誰だか知りませんが、後へ下っていてください。私たちはれっきとした証拠があるから、この怪しからん女を、とりおさえているのだ」  一等運転士は、ピストルでうたれた肩口をおさえつつ、気丈夫にもきっぱり叫んだ。 「れっきとした証拠ですって。れっきとした証拠なら、こっちにもありますよ。ただし、この少女がピストルをうたないという証明になる証拠なんです」  と、青年紳士は、あくまで、房枝をかばうつもりと見える。 「あなたは、まるで探偵みたいな口をききますねえ。われわれも、ほんとうの証拠があるのに耳をかさないというわけではないのです。あなたに自信があるなら、いってごらんなさい」 「では、いいましょう。なあに、かんたんなことなんです」  と、青年紳士は窓のところへよった。なにをするかと、一同が目をみはっていると、窓の枠のところを指し、 「ここをごらんなさい。窓わくの、ここのところが、黒くいぶっています。これはピストルをうったとき、火薬の煙で、こんなにいぶったのです。この事実は、一等運転士をはじめ、どなたもみとめますねえ」  そういわれて、一等運転士は、他の船員たちの方をふりかえった。誰か、青年紳士のことばに反対する人があるかと思ったからだ。しかし、誰も彼も、青年紳士のしっかりした言葉に息をのまれて、ただ、互いに顔を見あわせているばかりだ。 「このことは、皆さん、異議がないようですね。窓わくのここのところがいぶっていれば、どういうことが分かるか。結論を先にいいますと、ピストルをうった犯人は、背が非常に高いということです。ピストルをうつときには、このいぶったところが、ほぼ犯人の肩の高さになるのですから、ほら、ここが肩だとすると、私よりも十センチ以上も高いたいへん背の高い人物だということがわかる。いかがですな」  と、かの青年紳士は、一同を見まわした。 「な、なるほど」と、叫んだ者もあった。 「この房枝嬢は、ごらんのとおり、日本人としても、背の高い方ではない。だから、房枝嬢がやったのではないことが分かりましょう。房枝さん、ここへ来て、ピストルをこのいぶったところへつけ、射撃のしせいをやってみてください」  房枝は、いわれるまま、ピストルをも一度にぎって、そのとおり試みたが、ピストルは目よりもずっと高いところにある。 「どうです、皆さん。これでは、室内の人物を狙いうつことはできません。弾は天井へあたるだけです」 「なるほど、これは明らかな証明だ。いや、よくわかりました。この女の方がやったのではないことだけは、はっきりしました」  と、一等運転士は、わるびれもせず、自分の考えのあやまりだったことをわびて、房枝のうたがいをといた。  房枝は、やっと、ほっとした。 「で、あなたは、一体どなたですか」  と、一等運転士は、せきこんで、青年紳士に尋ねた。 「私? 私は、ピストルに狙われた本人ですよ。ミマツ曲馬団で曾呂利本馬と名のっていましたが、実はこういうものなんです」  と、一等運転士に、そっと身分証明書を見せた。  それには、探偵帆村荘六の身分が、はっきりしるされてあったので、一等運転士は、あっとばかりおどろいてしまった。    帆村は誇らず  名探偵帆村荘六は、曾呂利本馬の仮面をとりさって、ここに、すっきりした姿を、雷洋丸上にあらわしたのであった。  一等運転士は、さっそく、このおどろくべきことを報告するために、船長室へもどった。船長はどこへいったかそこには見えなかったので、彼は船橋の方へ船長をさがしにいった。  水夫たちは、なにがなにやら、はっきりわからないが、この青年紳士の、あざやかな腕前にすっかり感心したのであった。そして、一等運転士から命じられたとおり、今はかえって、帆村荘六の身辺をまもって立つという変り方であった。  房枝は、早くも、一切のことをさとってしまった。ことに、一等運転士が、身分証明書を見たとき、「ほ、帆村荘六!」と、叫んだのを聞いてしまったのだ。 (やっぱり、そうであったか。名探偵帆村荘六に、どこか似ていると思ったら、似ているはずだ、その本人なんだもの)  房枝は、思わず、曾呂利本馬、ではない帆村荘六のそばにかけよったが、うれしいやら、ちょっときまりがわるいやらで、 「帆村さん。どうもすみません。あたしを、救ってくだすって」  といっただけで、あとは口がきけなかった。  が、とにかく、よかった。いつも人にいじめられてばかりいた曾呂利本馬! 病身らしい青白い顔の曾呂利本馬! 脚をけがして、繃帯をまいている気の毒な曾呂利本馬! 房枝がいつもかわいそうで仕方のなかったその曾呂利が、ここで一変して、アラビヤ馬のような精悍な青年探偵帆村荘六になったのである。もうこうなったうえは、彼のため、房枝は胸をいためることはいらなくなったのである。房枝の身も心もかるくなった。 「おや、僕の本名をよびましたね。化けの皮がはがれては、もう仕方がありませんね。とにかく、いろいろと話がありますが、いつも房枝さんに、かばってもらったことについて、たんとお礼をいいますよ」 「あたしこそ、今日は救っていただいて、すみませんわ」 「なあに、あれくらいのことがなんですか。いつも房枝さんに、かばってもらった御恩がえしをするのは、これからだと思っています。僕は、いそがしいからだですから、間もなく房枝さんの傍をはなれるようになるかもしれませんが、僕の力が入用のときは、いつでも、何なりといってきてください」  と、帆村荘六は、房枝の手に、一枚の名刺をにぎらせたのであった。  房枝が、その名刺をみると、彼が丸ノ内に探偵事務所をもっていることが分かった。東京に不案内の彼女であったから、分からないことは、これから何でもかでも、帆村荘六にきくことにしよう。帆村から、すこしぐらい、うるさがられてもいいであろう。名探偵かは知らないが、今まで半年あまりも、彼とは同じ団員として、同じ釜の飯をたべているという形だったんだから。 (ああそうだ。そのうち折をみて、帆村さんに、あたしの両親の行方とその安否をしらべてもらおうかしら。ああ、それがいい。あたしは、いい人とお友だちになったものだ!)  房枝は、急に前途に、明るい光明がかがやきだしたように思った。行方しれない両親のことについては、ぜひ帆村の力をかりにいきたいと、房枝はこのときに決心したのであったが、まさか、そのときには、そののち帆村探偵に、どんなにたいへんなやっかいをかけることになるかは、想像してもいなかった。なにしろ、そのときは、彼女が、これから上陸してからのち、どんな怪事件にまきこまれるかについて、すこしも知らなかったわけだから、知らないのもむりではない。  そのとき、一等運転士の知らせで、船長がとぶようにやってきた。この船について、最高の責任のある船長は、航海中は、特に船橋のことを注意していた。そこは、この船の脳髄のようなところであるから、大切なのである。船長は、なにか変ったことの起るたびに、なるべく早く船橋に来て見ることにしていたのである。 「おう、帆村さん、といわれましたな。いろいろ気をつかわせてすみませんねえ。とにかく、改めてお話をうかがいたいから、どうぞ船橋へ。こんどは、十分警戒は厳重にしますから、もうピストルでうたれるような心配はありません」  船長は、あらたまった口調で、帆村探偵にあいさつしたのであった。  帆村は、船長の申出を承諾した。 「はい、どこへでもまいります。さっきも御注意しましたとおり、早く手配をしないと、もう間に合いませんぞ」  おちつきのある中にも、帆村探偵は、雷洋丸に危機の近づいていることを、言葉を強めて重ねて船長に注意するのであった。    一輪ざし  房枝の目が、自分のあとをじっと追っているのを、知っていた帆村だったが、今は、房枝と語っているときではなかったので、彼は、船長の案内にしたがって、船橋へのぼっていった。  夜の航海ほど、気味のわるいものはない。くらやみの海面から、いつ、どのような無灯の船がぬっと現れ、行手を横断しないとはかぎらないのであった。宿直員は全身の神経をひきしめて、たえず行手を警戒しているのだった。 「船長」と、当直の二等運転士が、よんだ。 「おい、なんだ」 「今、無電室から、報告がありました。今夜はどういうものか、ひっきりなしに、本船へ無電がかかってくるそうです。非番のものまでたたき起して、送受信にとてもいそがしいと、並河技師からいって来ました」 「うーん、そうか。横浜入港が明日だから、それで無電連絡がいそがしいのだろう」 「いえ、いつものいそがしさではないのです。ひっきりなしに、本船を呼びだし、あまり重要でもなさそうな長文の無線電信をうってくるのだそうです。たしかにへんです」 「そうか。でも、無電で呼びだされりゃそれを、受信しないわけにもいかないじゃないか。万国郵便条約に反するようなことは、できないからな」  と、船長はいって、そばに待っている帆村探偵をふりかえり、椅子をすすめたのであった。  帆村は、さっきから、当直の報告に、じっと耳をかたむけていたが、このとき、大きくうなずくと、 「船長。そういう意味のない長文の無電は、切った方がよろしいですよ」 「おやおや、あなたも、そういう意見ですか。しかし万国郵便条約」 「お待ちなさい。本船はみえざる敵に狙われているのですよ。へんな長文の無電をうってくるのは、そのみえざる敵が、今夜のうちに、本船をどうかしようと思って、本船に働きかけている証拠なのだと思います。条約違反の罰金をはらってもいい、はやく無電連絡を切るのがいいです」 「ほう、なかなか過激な説ですなあ」  と船長は、苦笑をした。しかし帆村のすすめたように、無電連絡を切れとは命じなかった。船長は、まさか後にのべるような大惨事が起ろうとは思っていなかったので、このときは、万国郵便条約を尊重することばかり忠実であって、帆村のことばには、耳をかたむけなかったのである。 「さあ、話を本筋にもどしましょう。帆村さん、あなたが身分をかくして本船にのりこまれたのは、どういうわけですか。なにもかもいっていただきましょう。われわれも、それにたいして十分の援助をいたします」  と、船長は、切り出した。 「ああ、船長さん。私のことなんか、二の次にしてください。わたくしとしては、べつに、あなたがたから救をもとめるつもりはありません」  帆村は、きっぱりいった。 「でも、あなたはピストルでうたれようとした。あなたを狙っている者が、船中にいるのではありませんか。どうかえんりょをなさらぬように」 「えんりょではありません。わたし自身のことよりも、私は本船の運命を心配しているのです。さっきもいいましたが、はやく附近航行の他の汽船に応援を求められたがいいですぞ。そして直ちに、船内大捜査をはじめるのです。しかし間に合うかどうかわかりません。船長さん、本船は明日、ぶじ横浜入港ができるかどうか、私は疑問に思うのです」 「そ、そんなばかなことがあってたまるものですか」  と、船長は、他の船員の手前もあって、帆村の予言をつよくうち消した。 「しかし、帆村さん。そのほか、本船についてあやしい節があったらぜひおしえてください」  帆村は、船長の顔を、しばらく、じっと見ていたが、やがて決心の色をあらわし、 「そうおっしゃるなら、申しましょう。まずことわっておきますが、私は、本船にこんな事件が起きようとは、ぜんぜん知らなかったのです。もしはじめから知っていれば、私はこんな危険な船に乗りこみはしなかったのです」  と、帆村は彼が海外で重大任務をはたして今かえり道にあることをほのめかし、 「船長。この船には、ねらわれている者と、ねらっている者とが乗りこんでいるにちがいありませんよ」 「えっ、なんと」 「船長を、おどかすつもりはありませんが、たしかにそうです。しかも、どっちがねらわれているのか、ねらっているのか分かりませんが、とにかくそのどっちかがおそろしいこと世界一といってもいい者だと思います」 「そんなことが、どうして分かります」 「あの爆発事件のとき、どんな爆薬が使われたかを、私は調べてみましたが、それはどうやらメキシコで発明された極秘のBB火薬らしいのです。この火薬の秘密が、何者かの手によって外へ洩れて大問題になっているのです」 「ほう、BB火薬? どうしてそれと分かったのですか」 「いや、そういうことを調べるのは、私の仕事なんですからねえ」と帆村はいって、 「ミマツ曲馬団のトラ十の行方が知れるか、それとも松ヶ谷団長が正気にかえるかすれば、かなり事件の内容は明らかになり、誰が、そのおそるべき怪物であるかはっきりしましょう。また船員赤石も、何か参考になることを知っているでしょう」 「すると、このおそるべき怪物というのは、この船に今もちゃんとのっているわけですね」 「たぶん、そうでしょうね」 「え、たぶんですか。それはいったいどんな人間でしょう。外国人ですかねえ」 「さあ、外国人だろうと思うが日本人だか分かりませんが、とにかくここに一つ、はっきり名前を申し上げていい容疑者がある!」 「それが分かっているのですか。早くおしえてください」 「お待ちなさい」  帆村は、とつぜん席を立って、船橋の入口の扉を、注意ぶかく明けて外を見た。誰か外から、こっちをうかがっている者はいないかと思ったのであるが、外には、張番の水夫が二人、とつぜん現れた帆村の方を、びっくりしてふりかえったばかりだった。  では、大丈夫?  帆村は、元の席に戻って、口を開こうとしたが、ふと壁の方に目をうつすと、 「おや! あんなところに、一輪ざしの花が」  と、一声さけんで、バネ仕掛の人形のようにとびあがった。平生おちつきはらっている帆村としては、めずらしい狼狽ぶりだ!    予言的中  一輪ざしには、まっ赤なカーネーションと、それに添えてアスパラガスの青いこまかな葉がさしこんであった。それは、精密な器械類のならぶこの船橋内の息づまるような気分を、たぶんにやわらげているのだった。  帆村は、このやさしい一輪挿の花に、目をつけたのだった。  船長をはじめ、一同も、帆村が顔色をかえて立ち上ったので、それにつられて、腰をうかしたが、 「し、静かに!」  と、帆村は、一同を手で制した。そのとき、帆村の手には、どこにかくし持っていたのか、一挺の丈夫な柄のついたナイフがにぎられていた。  帆村は、しのび足で、花活のところに近づくと、目を皿のようにして、花活のまわりをしらべていたが、やがて、大きくうなずくと、ナイフをもちなおし、ぷつりと、花活のうしろに刃をあてて引いた。 「これでいい」  帆村探偵は、花活のうしろから、切断された二本の針金をつまみだした。 「船長。ゆだんがならぬといったのは、このことです。もうちょっとで私たちの話を、すっかり盗みぎきされるところでした」 「ええっ。それは、盗み聞きの仕掛だというのですか」 「そうです。ここへ来て、よくごらんなさい。花活の中には、マイクが入っています。ほら、このとおりです」  と、帆村が、花をぬいて、花活を逆さにすると、中からマイクがころがりだした。マイクについていた二本の電線は、きれいに切られていた。それは、帆村のナイフで切られたあとだった。 「ふーん、怪しからん。いったい、だれが、こんなぬすみ聞きの仕掛を、ここへ取りつけたか。さっそくきびしく、とり調べなくちゃ」  船長は、顔色をかえた。帆村は、これをなだめて、 「船長。そんなことを、今さら調べていては、もうおそいのです。きっき私の申した手配を、すぐされるように」 「うむ、手配はやりましょう。が、おそるべき人物というのはだれですか。早くそれをいってください。すぐ取りおさえますから」  船長は、せきこんだ。帆村は、 「はたして、それが怪人物であるかどうか、まだ私には、はっきりしませんが、とにかくこの船の特別一等の船客で、ニーナ嬢という美しい婦人は、十分に怪しい節があります」 「ニーナ嬢? ああ、ニーナ嬢ですか。こいつは意外だ。あれは、メキシコの実業界の巨頭の令嬢です。そしてニーナ嬢自身は、慈善団体の会長という身分になっている」 「慈善団体であろうが、なんであろうが、とにかく、嬢については怪しむべき節が、いろいろある。さっき、私をピストルでうったのは、ニーナ嬢なんですからねえ」 「え、ニーナ嬢が、あなたや、私たちをうったのですか。これはまた、意外中の意外だ」 「ニーナ嬢は、ある事からして、私を生かしておけないと思ったのでしょう。もうあれ以上、私は曾呂利本馬の姿をしていることは危険なので、こうして、服装を改めたのです」  帆村の話は、すじが立っていた。船長もようやく帆村の言葉に、すがりつく気持ちができた。 「よろしい。直ちにニーナ嬢に監視員をつけましょう」  船長の言葉は、どうも生ぬるい感じがあった。でも、船長としては、それが大決心であったのだ。彼は誰を呼び出すつもりか、自ら電話機の方へよって手をのばした。とその時、とつぜん船長も帆村も、そこに居合わせた一同、はげしい振動におそわれた。今まで、静かな航海をつづけていた雷洋丸に、帆村の心配していた大事件が突発したのだ。  警笛が、ぶーッと鳴りだした。  宿直の二等運転士のところへ電話がかかって来た。彼は、おどろいて、電話機をにぎったまま椅子から立ち上った。 「えッ、第一船艙が爆破した? ほんとか、それは。大穴があいて海水が浸入! 防水扉がしまらないって? 機関部へ水が流れ込んでいる。エンジンはどうした。機関部も故障だというのか。船長? 船長は、ここにいられるが」  雷洋丸の第一船艙におこった爆発事件! そして、運わるく防水扉はしまらないで、浸入した海水は、洪水のように機関部へ流れこんでいくという。  船長が、電話をかわった。 「おい、どうした。そこは機関部か。なに、機関長だと、それで、どうした。極力手をつくしているが、非常に危険だというのか。よろしい、分かった。すぐ避難命令を出す。そっちは一つ死力をつくして、がんばってくれ!」  電話機を下においた船長の顔は、まったく、一変していた。眉の間には、つよい決意の色があらわれていた。 「総員、甲板へ。それから、無電で、救難信号を出すんだ。早く」  船長は、てきぱきと、次から次へ命令を出した。  しばらくして、船長は、帆村探偵のことを思い出して、彼の名を呼んだ。  しかし帆村探偵の姿は、もうそこにはなかった。彼は風のように、いつともしれずこの部屋を出ていったのであった。  雷洋丸の船腹の損傷は、意外に大きく船は見る見る左へ傾いた。機関部もやられてしまって、船内の電灯は一時消えた。甲板には、救命艇の位置へいそぐ船客たちが、互いにぶつかり転り踏みつけあい、くらがりの中に、がやがや立ちさわいでいるばかりだ。  沈没までに、あと二十分とは、もたない。  房枝は、どこにいる。ニーナ嬢は、なにをしている。帆村探偵は、どこへいったのであるか?  このさわぎの中に、くらがりのマストのうえで、獣のように、からからと声をたてて笑いつづける者があった。誰も、さわぎの最中のこととて、この怪人物に気づく者はなかったが、この人物は、意外も意外、それは死んだとばかり思っていたトラ十であったではないか。    沈没迫る  ああ。なんという不運な雷洋丸よ!  もうあと一日たてば、母国の横浜港にはいれるところまで、もどってきたのだ。ところが、とつぜん、この大遭難である。これを不運といわないで、どうしようぞ。  なぜ、第一船艙が、とつぜん爆発したのであろうか?  そんなことを、いま、しらべているひまはない。なぜといって、いま雷洋丸はぐんぐんと左舷へかたむいていく。  船客たちは、てんでに、なにかしら、わめきつづけている。なにしろ、船内の電灯は、はやく消えて、たよりになる光は、船員の手にしている手提ランプと、わずかに電池灯ばかりである。  それだけでは、足もとまで、とても光がとどかない。しかも、足もとに踏まえている甲板は、ひどく左舷へかたむき、船首の方は、もはや海水に、ぴしゃぴしゃ洗われている。だから、気味のわるいことといったらない。  船員は、声をからして、しきりに、救命ボートへ、船客をのせているが、これは老人や女子供が先であった。なにしろ、船がいきなり左へかたむいてしまったので、右舷の救命ボートは、下へおろせなくなった。だから、右舷のお客さまたちは、のるにもボートがなく、しかたなしに左舷のボートのあるところへあつまってきた。そこで、さわぎは、ますます大きくなり、船員が声をからしてせいりをするが、なかなかうまくいかない。 「まだ、大丈夫ですから、さわいじゃいけません。老人と子供とを先に」 「おい君、老人をつきのけて、ボートへはいりこむなんて、ずるいぞ」 「もしもし、あなたは、あとです。若い人だから」 「わたくしは、特別一等の船客であります。ボートへのりこむけんりが、あるのです」  そういって、いやにいばった外国人があった。それは、師父ターネフであった。ターネフのうしろでは、例のうつくしい姪のニーナ嬢が、そわそわしながら、しきりにあたりに気をくばっている様子。 「なんといっても、だめ、だめ。老人の方と子供衆が、先ですぞ」  と、船員は正しいことを、いいはる。 「わたくし、姪のニーナをつれています。ニーナは、かよわい女です。そして、彼女は、国際的に高い地位を持った淑女です。ニーナを、はやくボートにのせるのが、礼儀です。日本の船員、礼儀を知りませんか」  師父ターネフは、やっきとなって、ボートの中へ、わりこもうとつとめている。 「ニーナ嬢は、子供さんでもないし、お婆さんでもないでしょう」 「気高い淑女です」 「男であろうが、女であろうが、若い人は、あとにしてもらいます。もう、これ以上、問答無用です。あなたは、うしろへさがってください」  と、船員は、師父ターネフに対し、このあわただしい際にも、一通り話のすじみちをたててターネフの横車をおしもどしたのであった。 「日本の船員、礼儀を知りません。あなたがた、いまに、思い知ること、ありましょう」  と、師父ターネフは、捨台辞をのこして、うしろへ下った。 「師父、ボートは、だめなの」 「うん、だめだ。われわれは、別の道をひらくしかない」 「困ったわねえ。とにかく、このままでは、汽船とともに沈んでしまうわよ。なんとかして、船をはなれなければ。あの連中は、来てくれるはずだというのに、なにをしているのでしょうね」 「たしか、もうそのへんに、来ているはずなんだがねえ。仕方がない。マストのうえへよじのぼって、懐中電灯で信号をしてみよう。ニーナ、おいで」  師父とその美しい姪とは、傾斜した甲板を走りだした。    仮面の師父  師父ターネフは、水夫長のような身軽さをもって、マストの縄梯子をよじのぼっていった。  ニーナは、その下に立って、警戒の役目をつとめているようすだ。  師父は、縄梯子をどんどんのぼっていった。そのころ、船艙から出た火は、もう甲板のうえまで、燃えうつって、赤い炎があたりをあかあかと照らしだした。  師父は、縄梯子を途中までのぼると、懐中電灯をとりだして、ぽっと明りをつけた。そして信号をしようと、手にもちなおしたとき、彼は、 「あッ!」  と、叫んだ。それは、懐中電灯をもった彼の手を、上の方から何者かが、ぐっとつかんだからである。 「あッ、何者だ。なにをする。手をはなせ」  と、師父は、英語で叫んだ。そのとき師父は、マストのうえから、下をむいて笑っている怪しい東洋人の顔を眺めて見た。それはトラ十だった。 「あははは。ターネフ極東首領こんなところで、怪しげなる信号をしては困りますねえ」  と、トラ十は、流暢な英語で、やりかえして、歯をむきだしてげらげらと笑った。  ターネフ首領!  師父は、ぎょっとしたようすだ。 「なにをいう。首領だなどと、でたらめをいうな。わしは神に仕える身だ」 「神につかえる身だって。へへん、笑わせやがる。神につかえる身でいながら、さっきはなんだって、おれを爆死させようとしたのかい」 「なにをいいますか。あなたは気が変になっている」 「気が変なのはお前たちの方だ。知っているぞ。花籠の中に、おそろしい爆薬をしかけて、おれの前へおいたじゃないか。あの停電のときだよ。ぷーんと、いい匂いのするやつがおれの前へ持って来やがったから、多分それは若い女にちがいない。どうだ。これでも知らないと白ばっくれるか」 「おどろいたでたらめをいう人だ」 「とにかくお気の毒さまだ。こっちはそれとかんづいたから、おれが死んだと見せるために、かねて用意の血のはいった袋の口をあけて、おれの席のまわりを血だらけにしてやった。それからおれはすぐ花籠をつかんで甲板に出て、それを海の中へ捨てたとたんに、どかンと爆発よ。おれは無事だったが、かわいそうにおれのあとを追ってきた松ヶ谷団長と船員がひとり、ひどい傷をうけたよ。お前たちはおどろいて、暗闇の中で松ヶ谷団長を更になぐりつけ、死にそうになったやつを石炭庫へかくした」  師父ターネフは、ほんとうにおどろいたか、もう口がきけなかった。 「あははは、ターネフ首領。この汽船は、もうあと四、五分で沈みますよ。取引は、早い方がいい。信号をさせてもいいが、あなたがポケットに持っている重要書類を、そっくりこっちへ渡してもらいましょう」 「なに、重要書類。そ、そんなものを持っておらん」 「おい、ターネフ首領。お前さんは、ものわかりのわるい人だねえ」  と、トラ十は、はきだすようにいって、 「あの重要書類のことを、おれが、知らないと思うのかね。お前さんは、なにをするために、師父などに化けて、日本へのりこむのかね。そのわけを、ちゃんと書いてある重要書類袋を、こっちへ早く渡しなせえ。青い封筒に入って、世界骸骨化本部の大司令のシールがぽんとおしてあるやつさ」 「……?」  師父は、おどろいたのか、だまっている。 「おい、ターネフ首領。どうするつもりだい。汽船は、どんどん沈んでいくぜ。もうすこしすれば、第二の爆発が起って、この汽船は、まっ二つに割れて、真暗な海にのまれてしまうのさ。信号をしたくはないのかね。『計画ハ、クイチガッタ、我等ハココニアリ、至急スクイ出シ、タノム』と、信号したくはないのかね。ほら、下をごらん、甲板をもう波が、あんなに白く、洗っているよ」  トラ十の、毒々しいことばがきいたのか、師父は、このとき、急にすなおな口調になって、 「しかたがない。われわれの命にかえられないから、青い封筒入の重要書類を君に渡そう。だから、この手をはなしてくれ」 「おっと、おっと。その手には乗るものか。もう一方の手で、青い封筒を出せよ」 「そんなことをすれば、縄梯子から、おちる」 「大丈夫だ。お前さんの右手は、こうしておれがしっかり持っているから、大丈夫さ」  師父は、今はもうやむを得ないと思ったものか、左手をつかって、上着のポケットの中から、青い封筒をとりだした。トラ十は、上からそれをひったくった。 「これでよし。さあ、手をはなしてやる」 「いったい、君は何者だ。名前をきかせてくれ」 「おれのことなら、これまで君がやって来た、かずかずの残虐行為について、静かに胸に手をあてて思出したら、分るよ。それで分らなきゃ、世界骸骨化本部へ、問いあわせたがいいだろう。お前たちの仕事のじゃまをするこんな面がまえの東洋人といえば、多分わかるだろうよ」  そういったかと思うと、トラ十のからだは、猿のように縄梯子の裏にとびついて、するすると下におりていってしまった。    怪人物  沈みかかった雷洋丸のマストの上におけるこの怪しい会見のことは、二人以外だれも知る者がなかった。  雷洋丸は、それからのち、トラ十の予言したとおり、第二の爆発がおこり、正しくいって、七分の後に、暗い海の下にのまれてしまった。  救難信号をうったが、あまりにも早い沈没のため、あいにくどの船も、間にあわなかった。かくて、船客や船員の約半数は、海の中にほうりだされた。  帆村探偵はどうしたであろうか。房枝はどこにいるか。  また、師父ターネフやニーナ嬢は、いったいどうしたであろうか。  師父ターネフといえば、この人は、トラ十のため、ついに仮面を叩きおとされたようである。トラ十は、師父のことを、ターネフ極東首領とよんだ。  ターネフ極東首領!  ターネフ首領とは、ほんとうに、そういう位にある人物であろうか。そしてそれはどんなことをする役目の人物であろうか。  ターネフが何国人であるか、それは分っていない。分っているのは今から二十年ほど前に、ターネフの名が、秘密結社「世界骸骨化クラブ」の会員として記録されたことである。  世界骸骨化クラブとは、いったい何であろうか。  これはおそろしい陰謀を抱く者の集りだ。この光明にみちたわれら世界人類の生活を、ことごとく破壊し去って、みじめな苦しい地獄の世界へ追いやり、人類に希望を失わせ、そして人類の最後の一人を骸骨にするまでは、この破壊行動をやめないという実におそろしい悪魔どもの集りなんだ。  なぜ、彼らは、そんなおそろしい陰謀を抱くようになったのだろう。これは結局、気が変な者どもの作った宗教だ。その宗教においては、神のかわりに、悪魔に祈るのだ。世の中から光明をうばい去り、暗黒と混乱と苦悩とを人類生活の上へよぶのだ。そして、一人でも多くの人類が苦しみ、なげき悲しみ、そして死んで行けば、それが彼らのいただく悪魔神を、よろこばせることになるのだと思っている。  とても、ふつうの心では考えられない。なにしろ気が変な者どもの集りだから、こんなとんでもない陰謀をつくりあげるのだ。  彼らは、不正なことで、巨額の富を集めた。今また集めている最中である。そしてこんど極東方面の平和を破壊するその手始めとして、日本における生産設備を大破壊することが、最高会議で決められた。そして本部の大司令は、ターネフを極東首領に任命し、こんど日本へ特派することになったのだ。  極東首領ターネフ。彼はこの二十年間に、骸骨化クラブの会員として、主脳部たちからたいへん信任を得たが、彼がこれまで活動していたのはメキシコ国内であって、もう十四年になる。こんどの指令によって、彼はここにメキシコ生活をうち切り、姪だと称するニーナ嬢をつれて、日本へ渡ることになったのだ。  ここまでいえば、誰にも分るだろうが、彼ターネフ首領こそ、派遣される国では、まことにゆだんのならない人物なのである。同伴のニーナ嬢についても、また語るべき別の話があるが、とにかく美しき彼女も、ただ者ではない。それは、ことさらここにことわるまでもあるまい。  あぶない、あぶない。このようなおそるべき人物が、虫一つ殺さぬ顔をして、ぞくぞくと日本へのりこんでくるのであった。彼らはこれから一体、なにを始めようとするのであろうか。まことに気味のわるい話である。  雷洋丸の遭難によって、船内におこったかずかずの怪事件は、疑問をのこして、一時あずかりとなった。  房枝は、幸いにボートにのりこむことができた。そして救助にのりつけた汽船のうえにうつされ、ぶじ横浜に上陸することができた。  ターネフとニーナは、いつの間にか、自国の汽船にすくいあげられ、これもぶじに、横浜上陸となった。  帆村探偵は、どうしたであろうか。彼は、最後まで、船にふみとどまっていたため、雷洋丸が、艫を真上にして沈没したのちは、海中へなげだされ、暗い海を、板切にすがって漂流をはじめた。    漂流  帆村は、しっかと、板切につかまって、波のまにまに、どこまでも、漂流していった。  海上はたいへん、なぎわたって、波浪も高からず、わりあいしのぎよかったのは、帆村にまだ運のあったせいであろう。  彼は、命よりも大事な例の箱を、しっかり背中に、ななめに背おっていた。  海は、いつまでも暗かった。まるで、時刻が、この海ばかりを、忘れ去ったかのように思われた。  帆村は、だんだん疲を感じてきた。そしてついには、うとうとと眠気をもよおしてきた。 (これは、たいへん、うっかり眠ろうものなら、お陀仏になってしまうぞ!)  と思ったので、彼は、船にいるとき、とくべつに、服のうえから腹にまきつけてきた帯をとき、命とすがる板切のわれ目に帯をとおして、しっかりと結び、他の端を、われとわが左手首にしばりつけ、ざぶりと波に洗われることがあっても、からだと板切とは、決して放れないように、用意をしたのであった。  この用意があったおかげで、彼は、いくたびか、眠りこけて、ざぶりと海中に、からだをしずませることはあったが、そのたびに、はッと気がつき、帯をたよりに、命の板切のうえにとりつくことができた。  長い夜が、ようやく暁の微光に白みそめた。風が出はじめて、海上に霧はうごき、波はようやく高い。今夜あたり、一あれ来そうな模様である。帆村探偵には、あらたな心配のたねができた。  夜が明けてみると、昨夜中、命をあずけてとりついていた板切というのが、船具の上にかぶせておく屋根だったことがわかった。  帆村は、時間とともに、だんだんとおくまでのびていく視界のひろがりに元気づきながら、どこかに行きすがりの船影でもないかと、やすみなく首を左右前後にまわした。  すると、目についたものがある。一艘の小さい和船であった。誰か、そのうえに乗っているのが、わかってきたので、帆村は、ただよう板切、船具おおいのうえによじのぼり、手を口のところへ、メガホンのようにあてがって、おーいおーいとよんだ。  そのこえが、相手に、きこえたのであろう。やがて、朝霧の中から、ぽんぽんという発動機の音がして、その和船が帆村の方へやってきた。 「おーい、こっちだ。その船に、のせてくださーい」  和船は、いったん帆村の方に、一直線に近づくと見えたが、そばまで来ると、急に、針路をかえた。 「おーい、たのむ。のせてくださーい」  和船は、逃げるわけでもなく、用心ぶかく、帆村のまわりをぐるぐるまわりだした。  帆村は、しきりに手をあげて、和船をのがすまいと、呼んでいるうちに、彼は船のうえにのっている人物をみて、「おや、あれは、トラ十のようだが」と首をひねった。  しばらくすると、それは帆村の思ったとおり、トラ十にちがいないことがわかった。トラ十は、ついに船を帆村のところへ持ってきたのである。 「なアんだ、お前は曾呂利本馬じゃねえか」  と、トラ十は、けげんな顔で、船のうえから、帆村を見下ろした。 「そうだ、曾呂利だ。こんなところで、仲間にあおうとは思いがけなかった。おねがいだ。その船にのせてくれよ」  と、帆村は、たのみこんだ。トラ十は、まだ幸いにも、帆村の身分を知らず、ミマツ曲馬団の曾呂利青年と思っているらしい。 「ふん、助けてくれか。そうだな、お前なら、助けないわけにもいくまい。しかし、ことわっとくが、この船じゃ、おれは船長なんだぞ。万事おれさまの命令に従うなら、むかし仲間だったよしみに、ちっとばかりのせてやらあ」  トラ十は、もったいぶっていった。    怪しい紙切 「やあ、ありがとう。トラ十兄い、恩にきるぜ」と、帆村がいえば、 「ふん、お前までが、トラ十トラ十といいやがる。これからは丁野船長とよべ。そういわなきゃ、おれはお前に、船から下りてもらうぜ」 「いや、わるかった。船長、どうか一つたのむ。たすけてくれ」 「ふん、じゃあ、のれ」  トラ十に、いばりかえられながら、帆村探偵は、やっと和船のうえの人となった。 「曾呂利よ。お前は、よっぽど運がいい若者だ」  と、トラ十はエンジンのところにすわりこんで、ひやかすようにいった。 「トラ十、いや丁野船長。お前、よくまあ、こんなりっぱな船を手に入れたもんだなあ。いったいどこで、手に入れたんだい」  帆村探偵は、服のしずくをおとしながら、そういうと、 「な、なんだって」  と、トラ十は、急にこわい目つきになり、 「そ、そんなことは、お前らの知ったことか。よけいな口をきくな」  と、帆村を叱りつけた。  それからしばらく、二人はだまりこんでしまった。  帆村が、じっとみていると、トラ十は、霧の中の海を、また北にむけて舵をとっているのであった。それは、朝日の位置からして、方角がちゃんとわかった。  そのトラ十は、ときどき、霧の中をとおして、日の光を仰ぎつつ、胃袋のあたりを、ジャケツのうえからおさえるのであった。なにか彼は気にしていることがあるらしい。 「おい、曾呂利よ」 「へーい」 「へーい」というへんじが、トラ十の気に入った。 「お前、艫の方をむいて船がとおらないかみていてくれ。おれが、よしというまで、こっちを向いちゃならねえぞ。いいか」 「へーい。しょうちしました」  帆村探偵は、いいつけられたとおり、艫の方を向いた。  トラ十は、それをみるより、にわかにそわそわしだした。彼は、細長い腕を、ジャケツの中にさしこんだ。やがて手にとりだしたのは、くしゃくしゃになった青い封筒であった。  それは、師父ターネフからうばった、重要書類入の袋であった。  トラ十は、帆村の方を注意ぶかく睨んだ。 「やい、やい、やい。いいつけたとおり、艫の方へまっ直に向いていねえか。こっちを向いたら面を叩きわるぞ」 「へーい」  なにをいわれても、帆村は、へーいであった。トラ十はそこでやっと安心のていで、片手をつかって青い封筒をやぶった。中には、数枚の紙切がはいっていた。トラ十は、しきりにその中をのぞきこんでいたが、 (おやッ!)という表情。  取出した紙切を、一枚一枚あらためてみたが、それは、ことごとく白紙であった。なんにも書いてなかった。白紙の重要書類というのがあるであろうか。 「ちえ、うまうま、きゃつのため、一ぱいくわされたか!」  トラ十は、くやしさのあまり、つい、ことばに出していった。 「どうしました、船長さん」  帆村は、うしろをふりかえった。  トラ十は、封筒と白紙とを重ねて、べりべりッと破った。そして、海中へなげこもうとしたが、急に気がかわって、破ったやつを、ふたたびジャケツの下におしこんだ。そのトラ十は、帆村に、なぜこっちを向いたのかと、叱りつけはしなかった。 「うーん、あの野郎……」  トラ十は、よほどくやしいとみえ、ひとりで獣のようにうなっている。  帆村は、実は、さっきから、トラ十のすることを、すっかり見てしまったのだった。うしろを向かない帆村に、なぜそんな器用なことができたであろうか。それはなんでもない。彼は小さな凸面鏡を手の中にもっていて、その鏡にうしろのトラ十のすることをうつし、すっかりみてしまったのである。 「おい、曾呂利。そこに、お前のもっているその箱には、何がはいっているのか。おい、こっちへ、それをもって来い」  とつぜん、トラ十が、帆村の大事にしている箱に目をつけ、つよい語気でどなった。ああ、この箱! これをトラ十に渡しては一大事である。帆村は、俄かに、一大窮地へほうりこまれた!    貴重なX塗料  このときほど、困ったことはない、と、帆村探偵はのちのちまでも、その当時のことを語りぐさにしている。  トラ十の目をつけた四角い箱には、帆村が、はるばる海外まで使をし、ようやく手に入れてきた貴重な物品が入っていた。それは一たい何であったろうか。  それは、外でもない。X塗料であった。  メキシコで発明された極秘の新火薬BB火薬のことは前にのべた。BB火薬はすこぶる爆破力が大きい新火薬で、しかもこの火薬は、ほんの少量で、ものすごいきき目がある。かの雷洋丸が爆沈したのも、実をいえば、わずか丸薬ほどの大きさのBB火薬が、第一船艙のある貨物の中に仕かけられていて、それが爆破したためであった。X塗料というのは、その恐るべきBB火薬の爆破力を食いとめる力のあるふしぎな新材料であった。  BB火薬とX塗料!  これはともに、メキシコにおいて発明されたのである。BB火薬の発明後、三年かかって、この塗料が発明された。  このX塗料が発表されたのは、わりあい最近のことであるが、メキシコでも、このX塗料が完成するまでは、BB火薬の多量生産と、その使用とを絶対に禁じていた。  それは、なぜかというのに、ものすごいBB火薬だけあって、X塗料がなければ、あまりに危険であって、国内で取扱うことができないからだった。ことばをかえていうと、X塗料のような安全な材料で包むのでなければ、BB火薬の製造工場や貯蔵場が万一爆破したら、いかなる大惨事がおこるか考えただけでも、ぞっとする。それほどBB火薬の爆破力は、はげしいのであった。  X塗料は、政府の命令によって、すぐさま研究が開始された。よりすぐった優秀な化学者二百名が、三年間地下にある秘密の研究所で困難な研究をつづけて、やっと完成したものである。  X塗料の発明が完成したとき、メキシコの主だった人々はほっと安心の溜息をついた。それはBB火薬が現れた時よりも、さらに一そうよろこばれた。彼等は、自国で発明されたBB火薬のため、彼等自身が爆死するのは、たまらないと思ったからだ。  X塗料の発明されたことは、報告されたが、その塗料がどんなものであるかということについては、火薬以上にその秘密が厳重にたもたれた。  わが名探偵帆村荘六は、この極秘の塗料をはるばるメキシコまで受取りに行ったのである。  それはメキシコ政府の好意によって、時局がら日本へ譲ってもいいという申入れがあったので、政府では大喜びで、これを受けることになった。しかしメキシコ政府としては、このX塗料のことは秘密の中の秘密で、この前のBB火薬のように、悪者のためにかぎつけられて盗まれてはたいへんであるから、こんどのX塗料の見本の受取りは、非常に注意深くやってもらいたいと要求した。そこで日本側でも特に気をつけて、この件を検察庁長官の手にうつした。そして長官は更に注意深くこのことを取扱って、一般には目立たないように私立探偵帆村荘六をえらんで、これに重大使命をせおわせたのであった。  帆村探偵は、この重大任務に感激し、命を的に、苦労を重ねて、ついにこれを手に入れ、ここまで持って帰ったのである。彼は、その塗料をながい間、自分の足にまきつけその上を繃帯し、あたかも、足に大怪我をしているように見せかけていたのであった。いよいよ横浜入港も近くなったので、彼は、繃帯を外し、貴重なるX塗料を箱の中に入れかえた。そして雷洋丸の爆沈事件のときも、彼は命にかえて、この箱を後生大事に守って、ここまで無事に持ってきたのである。  このように貴重な、そして極秘のX塗料の入った箱を、とうとうトラ十が、目をつけてしまったのである。  陸ならば、まだ逃げる余地があろう。またこれが雷洋丸の上であれば、なんとか身をかわすこともできようが、ここは、ひろびろとした洋上をただようせまい和船の中である。助けを呼ぼうにも、附近には誰もいない。海へとびこめば、こんどこそ、帆村の命は、まず無いものと思わなければならない。  このままでは、トラ十は、箱をひったくって、中をあらためるであろう。しかしトラ十には、これが、そんなに貴重なものとはわからないから、中身をあらためると、なんだ、こんなきたならしいものと、海中へ捨ててしまうかもしれない。そんなことがあればたいへんだ。帆村探偵のこれまでの苦心も水の泡だ。  ああ帆村探偵は、いかにして、このX塗料を守るであろうか。    洋上の死闘 「早くその箱をこっちへ出せ。なにをぐずぐずしとる!」  トラ十は、こわい顔をしてどなった。  帆村探偵は、進退極まった。 「なぜ、出さん。命の恩人たるおれの命令に、そむく気だな。よーし、お前がそういうつもりなら、早いところ、片をつけてやる。かくごしろ」  言下に、トラ十の手に、きらりと光ったものがある。 「あ、ピストル!」 「そうだ。お前の命はおれが助けた。この船に、助けてやったからなあ。ところで、お前は、おれのいうことを聞かない。そういう恩知らずのお前なんぞを、これ以上、だれが助けておくものか」  トラ十は、ピストルの狙いを定めた。  帆村の命は、乱暴者のトラ十の前に、今や風前の灯同様である。彼の命と、貴重なX塗料とが同時に失われそうになってきた。 「兄い、そんなこわい顔をしなくてもいいじゃないか。おれは、この箱をお前に見せないとはいいはしないじゃないか。ほら、このまま兄いにまかせるよ」  がたん! と、音がして、四角い箱は、トラ十の前へ投げ出された。  帆村は気が変になったのか、あんなに大事にしていた箱を、とうとうトラ十に渡してしまったのである。  トラ十のきげんが、にわかに直った。 「なんだ、世話をやかせやがって、はじめから、おとなしくこうすればいいのだ」  トラ十は、それでもまだ油断なく、ピストルの銃口を、帆村の胸にむけたままである。そして左手で箱をあけにかかった。さあ、一大事である。 「おい、この中に入っているのは、一たい何だ。正直に申し上げろ」  トラ十の追及は、一向ゆるまない。帆村はいよいよ困って、ことばもない。帆村の困っているのをトラ十は横目で見て、ふふと鼻で笑った。 「ふふふ。どうやら説明も何もできないほど貴重な品物と見える。そうときまれば、ぜひとも中身を拝見せずにゃいられない。これは、福の神が、向こうからころげこんできたぞ」  トラ十は、にわかに上きげんになった。そして箱を拳でたたきこわすと、中から、白い布をまいた長いものを取り出した。 「おれが、あけてやろう」 「これ、お前は動くな。動くと、これがものをいうぞ」  トラ十はゆだんをしない。彼は右手にピストルをもち、左手で、その布をほどいた。中からは包紙が出て来た。 「いやに、ていねいに巻いてあるなあ。よほど大事なものと見えるが、厄介千万じゃないか。おや、まだ、その下に別な紙で包んである。これはかなわんなあ」  トラ十はだんだんじれながら、何重もの包を、つぎつぎにほごしていった。そのうちに最後の油紙包がとかれて、中からチョコレート色の、五十センチばかりの棒がでて来た。それこそ、X塗料を固めたものであった。それを、ある特殊な油を使って溶かすと、X塗料となるのだった。 「おや、へんなものが出て来やがった」  とつぜん、帆村は猛然と飛びこんだ。塗料の棒に見入るトラ十のからだに、わずかの隙を見出したのであった。帆村の鉄拳が、小気味よく、トラ十の顎をガーンと打った。 「えーッ!」 「しまった。うーん」  トラ十、顎をおさえた。  つづいて帆村は、ピストルをたたき落した。しかしトラ十は無類の豪の者である。一、二度は、どうと艫にたたきつけられたようになったが、すぐさま、やっと、かけ声もろとも、はね起きた。 「小僧め、ひねりつぶすぞ」 「なにをッ」  せまい船内で、はげしい無茶苦茶な格闘がはじまった。勝敗は、いずれともはてしがつかない。船は、今にも、ひっくりかえりそうである。帆村は、そのたびに、船の重心を直さなければならなかった。 「これでもかッ!」 「ぎゃッ」  帆村の、猛烈な一撃が、ついに勝敗をけっした。トラ十はよろよろと、後によろめくと、足を舷に払われ、あっという間に大きな水煙とともに、海中に墜落した。  帆村は、すぐさま艫へとんでいって、舵をとった。そして水面に気をくばった。  ところが、ふしぎなことに、懐中に落ちたトラ十は、いつまでたっても浮いてこなかった。二分たっても、三分たっても、とうとう十分間ばかり、水面を見ていたが、ついにトラ十は浮かんでこなかった。 「はて、落ちるとき、どうかしたのかな」と、帆村は、首をひねった。 (が、そんなことはどうでもいい。あのわずかな隙を狙って、うまくトラ十をたたきのめしたのだ。そして、自分の命をとりとめ、それから、貴重なX塗料を)  帆村はそこで、目を船内に転じて、きょろきょろとあたりを見まわした。  船内には、X塗料を巻いてあった布や紙が、ちらばっていた。帆村は、その間を探しまわった。 「おや、どこへいったろう。X塗料の棒が見あたらないぞ」  と叫んだが、ふと彼は、海中へ視線を走らせると、はっと気がついて、一瞬時に、顔面が蒼白となった。 「し、しまった。トラ十め、あれを手にもったまま、海中へ落ちた!」  さあ、いよいよ一大事だ!    無念の報告 「そいつは、遺憾至極だなあ」  黄島長官は、ほんとうに、遺憾にたえないといった語調で、とんと、卓子のうえを拳でたたいた。  ここは、検察庁の一室であった。  長官の前に、重くしずんだ面持で立っているのは、別人にあらず、帆村荘六その人であった。  帆村は、ついに一命をまっとうして、今日、東京についたばかりであった。彼は、とるものもとりあえず、重大な報告をするため、黄島長官のもとにかけつけたのだった。 「まことに、遺憾です。私は、長官に、面をあわせる資格がありません」 「うむ、君の骨折は感謝するが、せっかく、手に入れながら、失うとはのう」  長官は、X塗料の棒のことを残念がっているのだった。 「おい、帆村君。残っているのは、今ここにあるこれだけか」  長官は、卓子のうえに広げられた散薬の紙包ほどのものを指さす。その紙のうえには、なんだかくろずんだ粉が、ほんの少量、ほこりのようにのっていた。 「はい、これだけであります。これは、塗料の棒を包んであった油紙を、よく注意して、羽根箒ではき、やっとこれだけの粉を得たのです」 「実に、微量だなあ。これじゃ、分析もなにもできまい」 「はあ」  帆村は、唇をかんで、頭をたれるより外に、こたえるすべをしらなかった。 「しかし、これでも無いよりはましだ。いたずらに、取り返しのつかぬことをなげくまい。そして、不利な現状の中から、男らしく立ち上るのだ」  長官は、帆村のために、慰めのことばをかけた。帆村はいよいよ穴もあらば入りたそうである。 「とにかく、工場の方と連絡をしてみよう。彦田博士に、ここへ来てもらおう」 「彦田博士?」 「君は、彦田博士を知らないのか。博士は、篤学なる化学者だ。そして極東薬品工業株式会社の社長だ。今、呼ぼう」  長官は、ベルを押して、秘書をよんだ。 「彦田博士を、ここへ案内してくれ」 「は」  しばらくすると、秘書の案内で、彦田博士が、部屋へはいってきた。  帆村が見ると、博士は、五十を少し越えた老学者であった。  そのとき、帆村は、ふと妙な感にうたれたのである。この彦田博士には、前に、どっかで会ったことがあると。  しかしほんとうは、帆村は、まだ一度も彦田博士に会ったことがなかったのであった。それにもかかわらず、博士に会ったことがあるような気がしたのは、別の原因があったのだ。そのことは、だんだんわかってくる。  長官は、両人を、たがいに引き合わせると、 「ところで、彦田博士。例のX塗料が手に入ったのです」 「えっ、X塗料が、ほんとうですか。いや、失礼を申しました。でも、あまりに意外なお話をうかがったものですから、あれが、まさか手に入るとは」 「そこに立っている帆村君が、大苦心をして、とってきてくれたのだが、惜しいところで、大きいのを紛失して、残ったのは、そこにある紙にのっているわずかばかりだけですわい」  と、長官は、卓子の上を指した。 「えっ、この紙ですか。どこに、それが」  博士が、面食うのもむりではなかった。帆村は、また冷汗をながした。そして博士に、残る微量のX塗料のことを説明したのであった。 「どうですか、博士。それだけの資料によって、X塗料の正体を、うまく分析ができるでしょうか」  博士は、非常に慎重な手つきで、X塗料の粉の入った紙を目のそばへ近づけ、しさいに見ていたが、やがて、力なげに首をふった。 「彦田博士、どうですかのう」 「長官。これでは、微量すぎます。残念ながら、定量分析は不可能です」 「出来ないのですな」  黄島長官は、はげしい失望をかくすように目をとじた。  彦田博士も、帆村荘六も、しばし厳粛な顔で沈黙していた。しかし、ついに博士が口を開いた。 「長官。何しろこの外に品物がないのですから、困難だと思いますが、私はこれを持ちかえった上で、出来るかぎりの手はつくしてみます」 「そうして、もらいましょう。われわれの一方的な希望としては、この資料により、一日も早く博士の会社で、X塗料を多量に生産してもらいたいのです。このX塗料を一日も早く多量に用意しておかないと、われわれは心配で夜の目もねむられませんからねえ」  黄島長官は、立ち上って、彦田博士に握手をもとめ、そして、つよくふった。 「それから、帆村君を、われわれの連絡係として、ときおりあなたの工場へ、使してもらいますから、よろしく」  長官は、ことばを添えた。    捨子は悲し  話はかわって、その後の房枝はどうなったであろうか。  あのおそろしい雷洋丸の爆沈事件にあい、房枝は、死生の間をさすらったが、彼女ののったボートが、うまく救助船にみつけられ、無事に助けられたのであった。  彼女たちは、その明日の夕刻、横浜に上陸することが出来た。もう無いかと思った命を拾うし、そして故国の土をふむし、房枝の胸はよろこびにふるえた。  ここで、彼女は、同胞のあたたかい同情につつまれて、涙をもよおした。  手まわり品や、菓子や、それから、肌着や服までもらったのである。そぞろ情が身にしみる。  だが、その一方において、外事課の係官のため、厳重な取調べをうけた。なにしろ国籍のあやしい者がぬからぬ顔で入りこんでくるのを警戒する必要があったし、その上、雷洋丸の爆沈原因をつきとめるためにも、生き残った人たちをよく調べる必要があったのである。 「あなたの原籍は?」  係官は、用紙をのべて、取調をすすめる。 「さあ」  房枝は、困ってしまった。彼女は、両親を知らない。だから、原籍がどこであるか、そんなことは知らない。  松ヶ谷団長がいてくれれば、ここは、うまくとりつくろうことができたのであるが、団長は大怪我をしたと聞いた後に、どうなったかよく知らない。 「原籍をいいなさい」 「原籍は存じません。あたくし、あたくしは、捨子なんです」 「捨子だって、君がかい」  係官は、眼鏡越しに、目を光らせた。原籍を知らぬ奴はあやしい。 「でも、おかしいじゃないか。君の話だと、この前、日本を出発して外国へ渡航したそうだね。そのとき、もし原籍を書かなければ、旅行は許可されないよ。そのとき、原籍はどこと書いたか、それをいいなさい」  係官は、明らかに、房枝を、うたがっている様子であった。  そうでもあろう、房枝は、日本人ばなれした大きなからだの持主だったし、皮膚の色も、ぬけるような白さだったし、外国で覚えた化粧法が、更に日本人ばなれをさせていた。 「団長さんと、別れ別れになってしまったものですから、よく覚えていないのですわ」 「それじゃ、君が日本人たることの証明が出来ないじゃないか。え、そうだろう」 「まあ、あたくしが、日本人じゃないとおっしゃるのですか。ひどいことをおっしゃいますわねえ」 「その証明がつかなければ、ここは通せない」 「では、あたくしたち、ミマツ曲馬団の仲間の人に、証明していただきますわ」  それから房枝は、いろいろと願って、生残りの団員たちを呼びあつめてもらった。こんなときに帆村がいれば、どんなに助かるかもしれないのだけれどと、くやしくなった。  けっきょく、仲間の人たちの証言も、係官を納得させるほど十分ではなかったが、船員の中に、房枝が乗船当時調べたことをおぼえている者があって、その証言で、やっと上陸を許可された。ただし条件つきであった。 「常に、居所を明らかにしておくこと。毎月一回、警察へ出頭すること。よろしいか」  房枝は、今日ほど自分が捨子であることを、もの悲しく思ったことはない。原籍がわからないために、こんな疑いをうけるのである。 (ああ、お母さま、お父さま。房枝は、今、こんなに悲しんでいます。ああ)  彼女は、胸に手をおいて、心の中ではげしく、まだ見ぬ父母に訴えた。  この房枝のかなしみを、いつの日、誰が解いてくれることやら。  やっと解放された房枝たちミマツ曲馬団員は、一まず横浜のきたない旅館に落ちついた。これから、一同の身のふり方を、いかにつけるのかの、相談が始まった。けっきょく、他に食べる目当もない一同だったから、人数は半分以下にへったが、ともかくも、空地にむしろを吊ってでも、興行をつづけることにきめた。そしてその第一興行地を、今生産事業で賑わっている東京の城南方面にえらび、どうなるかわからないが、出来るだけのことをやってみようということになった。  城南方面を第一興行地にしようじゃないかといいだしたのは、調馬師の黒川だった。彼は松ヶ谷団長にかわって、ミマツ曲馬団の名をつぐこととなった。 「さあ、それでは、俺と、もう一人、女がいいなあ、そうだ房枝嬢がいい。二人で、これからすぐ城南へ出かけて、借地の交渉をしてこよう。それから、何とかして、衣裳の方も東京で算段してこよう」 「おい、黒川、いや黒川団長、城南には、お前、心あたりの空地があるのか。今は、空地がほとんどないという噂だぞ」 「なあに、大丈夫。俺は、いいところを知っているんだ。極東薬品工業という工場の前に、興行向きの地所があるんだ」  極東薬品工業? 聞いたような名だ。いや、それこそ彦田博士の工場であった。今そこでは、帆村の持ちかえった極秘の塗料の研究がすすめられている。    東京へ  房枝たちが養われている新興ミマツ曲馬団が、今後うまく立ちなおって、よい興行成績をあげるようになるかどうか、それは団員たちにとって、生きるか死ぬかの大問題だった。  吉凶いずれか、いわば、その運だめしともいえる城南の興行の瀬ぶみに、房枝は新団長の黒川とつれだち、横浜をあとに、東京へ出かけたのであった。  これから先、はたして団員二十余名が、うまく口すぎが出来ていくであろうかと思えば、この下検分の使の責任は重く、目の前が暗くなる思いがするのであったが、それでも房枝は、メキシコにいるときから、いくたびとなく夢にみていたなつかしい東京の土地を踏むのだと思うと、やっぱりうれしさの方がこみあげて来た。 「あら、もう、ここは東京なのね」  省線電車が、川崎を出て長い鉄橋を北へ越えると、そこはもう東京になっていた。房枝は、窓越しに、工場ばかり見える町の風景に、なつかしい瞳を走らせた。  新団長の黒川は、ふーんと、生返事をしたばかりで、電車の中にぶらさがっているハイキングの広告に、注意をうばわれていた。 (このごろのお客さんは、みんなハイキングにいってしまって、曲馬団なんかに、ふりむかないのじゃないかなあ。そうなりゃ、飯の食いあげだ)  と、この新団長には、車内の広告が、はなはだ心配のたねとなった。  電車が蒲田駅につくと、二人は、あわてて下りた。  駅前にはバスがあるのに、黒川はそれに乗ろうとせず、てくてくと歩きだした。たとえ一円でも、これから先にはっきりしたあてのない今のミマツ曲馬団のふところには、ひどくひびくのであった。この団長さん、なかなかこまかい人物だった。  二人は、にぎやかな商店街をぬけて、なんだか、せせこましい長屋町に入りこんだ。そこは鼠色の土ほこりの立つ、妙にすえくさいさびた鉄粉のにおう場所で、まだ、ところどころに、まっ黒な水のよどんだ沼地があった。  だが、房枝には、こういう建てこんだ棟割長屋が、ことの外なつかしかった。それは房枝が、まだ見ぬ両親の家を思い出したからだ。 (こうした棟割長屋のどこかに、自分の両親が暮しているのではないか)  そう思えば、房枝には、一軒一軒の家が、ただなつかしくて仕方がないのだ。家々には、大勢の家族がにぎやかに暮している。なにやら、うまそうに煮えている匂もする。赤ちゃんが泣いている。よぼよぼしたお婆さんが、杖をつきながら露地の奥からあらわれて、まぶしそうに、通をながめる。飴屋さんが、太鼓を鳴らしながら子供たちをお供にして通る。  どれを見ても、一つとして、房枝にはなつかしくないものはなかった。房枝は、いくたびか、通りがかりのその棟割長屋へ、 (お母さま、ただ今)  と、はいっていきたくなって、困った。まだ見ぬ親をしたう房枝の心のうちは、ちょっと文字にものぼせられないほど、いじらしかった。 「さあ、地所は、あそこに見える空地なんだが」  と、黒川が、とつぜん立ちどまって、 「ところが、あの空地の持主の飯村という人の家は、どこか、この近所にあったはずだが、どこだったかなあ。だいぶん以前のことで、度忘れしてしまったぞ」  と、新団長は、溜息をついて、あたりを見まわした。房枝の夢みる心は、黒川のこえのした瞬間に破れ、とたんに彼女は、現実の世界に引きもどされた。 「さてこのあたりに、ちがいないと思うのだが、房枝、わしは、このへんをちょっと探してくるから、お前、しばらくここに待っていておくれ」  そういって、黒川は路傍に房枝をのこして、あたふたと向こうへ歩いていった。    工場地帯  房枝は、ひとりになって、路傍に立っていた。通りがかりのおかみさんや、三輪車にのった男や、それから、近所のいたずらざかりの子供たちが、房枝を、じろじろと見て通る。なにしろ、このへんに見なれない垢ぬけのした洋装をしている房枝だったから、特に目に立ったのであろう。  房枝は、人に見られることは平気の職業を持っていたが、それは、曲馬団の舞台へあがったときのことで、こうして今、路傍に立っているところを、じろじろ見つめられるのは、はずかしかった。  しぜん、房枝は、道の方に背を向け、はるかに見える極東薬品工場の方を、ぼんやりと見つめていた。  その工場には、三本の、たくましい煙突が立っていて、むくむくと黒い煙をはいていた。その煙突を見、まっ白に塗られた工場を見ていると、房枝は、なんとはなしに、それが雷洋丸の生まれかわりのような気がしてきた。  ああ、思えば、ふしぎな運命に、ひきずられてきたものである。雷洋丸が爆沈せられたあと、怒涛荒れくるう、あのような大洋から、よくぞ救い出されたものである。 「ああ帆村荘六さまは、どうしていらっしゃるだろう?」  房枝は、しばらく忘れていた、たのもしい人のことを、ここでまた新しく思い出した。  そうだ、たのもしい青年探偵、帆村荘六! せめて、あの人が、今、自分のそばにいてくれれば、こうも不安な、そして孤独な気持にもならないですむだろう。曾呂利本馬の芸名で一座に戻ってくることは、もちろん不可能であろうけれど、せめて、房枝たちのため、相談役にでもなってくれれば、ずいぶん皆は、よろこぶであろう。その中でも房枝自身は、他のだれよりもうれしいのであるが。  帆村荘六が、奇蹟的に一命をとりとめて、無事帰りついたことは、新聞で知った。房枝はそののち、なんとかして帆村に会いたいものと、思いつづけたのであったけれど、その帆村の住所を忘れてしまった。だから、手紙を出したくても、出すことができないのだった。  そういう場合には、帆村の記事を出した、新聞社へ頼めば、たいてい、親切に先方の住所を調べ出して連絡してくれるのであるが、房枝は、まだ世間なれしないため、そういう方法のあることを知らなかった。 「ああ、帆村さまにお会いしたいわ。たった一度きりでいいから」  房枝が、そんなことを、しきりに考えているとき、彼女のうしろを一台の自動車が走りぬけた。そして、そのすこし先で、車は水たまりにとびこんで、ひどい音をたてて水をはねかせた。 「まあ、しつれいね」  房枝は、あっといって、自分の服をあらためてみたが、いいあんばいに、べつにどこにも、泥水がとんでいなかった。  その自動車はそのまま、どんどん走っていったが、しばらくいくと、辻を左にまがって、極東薬品の塀にそって進んでいった。そうなると、車が横になって、車内に一人の紳士が、よほどいそがしいと見えて、新聞をひろげて読んでいるのが見えた。  房枝は、にくらしげに、その自動車の行方を見つめていた。 「あら、あの自動車、あの工場へ入っていったわ」  房枝は、一大発見でもしたように、思わず声をたてた。だが、工場の玄関の前にとまったその自動車の中から、新聞をたたみながら降り立った紳士が、まさか房枝の会いたく思っている青年探偵帆村荘六であることには、気がつかなかった。なぜといって、二人の間にはかなりの距離があったのである。  もしも、あのとき、房枝が道の方に背を向けていなかったら、また、帆村荘六が、車内で新聞などを読んでいなかったら、二人のうちのどっちかが、 (おお、房枝さんだ) (あら、帆村さん!)  と、こえをかけたであろうものを、運命の神は、時に、このようにいじわるなものである。  黒川は、どこまでいったのか、なかなか房枝のところへは帰ってこなかった。 「どうしたんでしょうね、新団長は」  房枝が、すこし不安になって、あたりを、きょろきょろ見まわしていると、そのとき、向こうの方から、一台の三輪車が、いきおいよく、こっちへ向けてはしってきた。  房枝はさっきの自動車にこりて、こんどは道の真中の水たまりよりも、はるかに後に、はなれていた。そして、ふと、さっきの水たまりのところに目をやった房枝は、はっと息をのんだ。 「ああ、たいへんだわ、あの方」  ちょうど、その水たまりのそばを、小さな風呂敷包をもった上品な中年の婦人が、なんにも知らないで、こっちへ向いて通りかかっているのだった。 「ああ、あぶない、たいへんですから、わきへおよりなさーい」  そのままいれば、婦人の晴着は、三輪車のため、ざぶり泥水をかけられ、めちゃくちゃになってしまう。房枝は、自分の身を忘れ、大ごえをあげて、危険せまる婦人の方へかけていった。  だが、ざんねんながら、もうそれは間にあわなかった。 「ああッ!」と、房枝は、両手で目をおおった。    知らぬめぐりあい  房枝が目を閉じている間に、三輪車は、どさりと大きな音をたてると、房枝の横を通りぬけた。 「あらッ」  房枝が、はっと思って、ふたたび目を開いてみると、さあ、たいへんなことになっていた。彼女が、心配したとおり、通りがかった例の上品な中年の婦人は、黒い紋附を、左の肩から裾へかけて、見るも無残に、泥水を一ぱいひっかけられているではないか。 「まあ、足袋はだしに、おなりになって」  婦人は、三輪車をさけるとたんに、草履の鼻緒がぷつんと切れてしまい、そして、草履はぬげて、はだしになってしまったのだ。白足袋は、泥水にそまって、もうまっ黒だ。  房枝は、かけよると、今にもたおれそうな婦人のからだを両手でささえた。 「奥さま。しっかりなさいまし。おけがはありません?」 「まあ、あたくし」  と、婦人は、おどろきのあまり、ことばも出ない。 「ずいぶん、ひどい運転手でございますわねえ。あら、あのひと、あいさつもしないで、向こうに逃げてしまいましたわ」  房枝が、後をふりかえったときには、三輪車は、もう向こうの辻をまがったのでもあろうか、影も形も見えなかった。 「いいえ、あたくしが不注意だったのでございますのよ」  と、その婦人は、ハンケチを出して、羽織にかかった泥水の上をそっとおさえたが、二、三箇所、それをすると、もうハンケチは、まっ黒になってしまった。全身の泥水は、まだそのままであるように見える。ずいぶん、ひどくかかったものだ。  この婦人は、誰あろう。有名な彦田博士の夫人道子であった。その昔、発明マニアといわれた若き学徒彦田氏を助け、苦労のどん底を、ともかくも切りぬけ、そして今日の輝かしい彦田博士を世に出したお手柄の賢夫人だった。道子夫人はこのあたりに用事があって、今、かえり道であったのだ。  そんな有名な夫人だとは、房枝は、すこしもしらなかった。房枝は、ただもうこの婦人が気の毒になって、自分のハンケチをハンドバックから出すと、道子夫人の羽織のうえの泥を吸いとりはじめた。が、このハンケチも、すぐまっ黒になってしまった。 「ああどうぞ、もう、そのままで」  と、道子夫人は、つつましく、恐縮して、房枝の好意を辞退した。 「でも、たいへんでございますわ」 「いいえ、わたくしが、不注意なのでございました。あなたのお姿につい見とれていましたものでございますから」 「あら、いやですわ、ほほほほ」  と、房枝は赤くなって笑った。 「いえ、それが、ほんとうなのでございますの。お嬢さまは、しつれいですが、今年おいくつにおなり遊ばしたのでございますか。お教え、ねがえません?」 「まあ、はずかしい」 「ぜひ、お聞かせ、いただきとうございますの。おいくつでいらっしゃいます」  なぜか、道子夫人は、道ばたで会った初対面の房枝の年齢を、しきりに知りたがるのであった。なにか、わけがありそうなようすである。 「あのう、あたくし、こんなに柄が大きいんですけれど、まだ十五なんですのよ」 「え、十五。ほんとうに十五でいらっしゃるの。じゃあ」  といいかけて、夫人は言葉をのみ、しげしげと房枝の顔を穴のあくほどみつめるのであった。 「ああ、奥さま。お履物が、あんなところに」  そのとき、房枝は、夫人の皮草履の片っ方が水たまりのそばに、裏がえしになって、ころがっているのに気がついた。このままにしておいては、また、後から来た車がひいてしまうであろう。そんなことがあっては、ますますお気の毒と思い、いそいで、かけていって、その片っ方の皮草履を手に取り上げた。 「あら、たいへん。鼻緒がこんなに切れていますわ。これじゃ、お歩きになることもできませんわ。あたくしが、今ちょっと間にあわせに、おすげいたしましょう」 「あら、もうどうぞ、おかまいなく」 「いいえ、だって、それでは、お歩きになれませんもの」  と、房枝は、持っていたハンケチをさいて、鼻緒をすげようとしたが、鼻緒をすげるためには穴をあけなければならない。ところが、そこには、錐もなければ火箸もなかった。 「困りましたわねえ。穴をあけるものが、ないので」 「いいえ、もう御心配なく、あたくしがいたしますから」  もしも房枝が、ながく日本の生活になれていて、草履をはきつけていたら、ここではなにも穴をあける道具がなくても、草履の鼻緒を、いちじ間にあわせに別の方法ですげることは出来たはずだ。しかし彼女は、ほとんど外国をまわっていたし、またいつも洋装ばかりしていたので、こうした場合、錐がなければ、鼻緒はすげられないものと思いこんでいた。だから、房枝は決心をして、 「ちょっと、ここでお待ちになっていてください。あたくし、そのへんのお家で、錐をお借りして、鼻緒をすげてまいりますわ」  と、道子夫人にいってかけだした。  道子夫人は、それをとめたが、房枝は、どんどんかけだして、一軒の家へとびこんだのであった。  夫人は、房枝のあとを見送って、呆然とその場に立っていた。  すると、そのとき、向こうから一台の自動車が、警笛を鳴らしながらやって来たので、夫人はまたかとおどろき、いそいで道の傍にさけた。そこはちょうど両側が沼になっていて、さけるのにはたいへん不便なところだった。  自動車は、急にとまった。 「おや、彦田博士の奥さんじゃありませんか。そのお姿はどうなすったのです。さあ、私がお送りしましょう。どうぞこの車へおのり下さい」  夫人が、顔をあげてみると、それは、ちかごろしばしば博士邸へたずねてくる青年探偵の帆村荘六だった。  道子夫人は、車に乗ろうとはせず、てみじかに、ここで起った出来事をのべたのである。もちろん、房枝のこともいった。 「奥さん。それはそうでしょうけれど、早くこの車へお乗りになった方がいいですよ。第一、泥がお顔にまではねかかっていて、たいへんなことになっていますよ」 「あら、まあ。そうですか」  夫人は、あわてて顔をおさえた。 「さあさあお早く、こっちへお乗りください。それじゃみっともなくて、白昼歩けませんぞ。鼻緒の切れた草履なんか、どうでもいいじゃありませんか」  この帆村探偵は、少々らんぼうなことをいう。夫人は、見知らぬ少女の好意を無にして、ここを去るのは気が進まなかった。が帆村は、一切そんなことをおかまいなしに、とうとう、夫人を引張りあげるようにして車にのせると、運転手にいそがせて、そのまま大森にある博士邸へ、車を走らせたのであった。    花環と花籠  極東薬品工業前の空地に、蓆をつくって小屋がけして新興ミマツ曲馬団の更生興行は、意外にも、たいへんな人気をよんで、場内は毎日われるような盛況であった。  団員は、だれもかれも、えびすさまのように、大にこにこであった。中でも、新団長の黒川のよろこびは、ひと通りではなかった。 「おい、お前たち二人でこれからすぐに、電灯会社へいってこい。夕方までに電灯をひいてもらって、今日から、夜間興行をやることにしよう。工事料は現金でもっていけ」 「はいはい。行ってきましょう」  なにしろ、道具もなければ、金もないので、小屋がけをしたはいいが、はじめは電灯を引くことも出来なかった。天井なしの、天気のいい日だけ、昼間興行で打切りというすこぶる能率のわるいやり方で、がまんしなければならない新興ミマツ曲馬団だった。  だが、蓋をあけると、どやどやとお客が押しよせてきて、たちまちしわだらけの札が、団長の帽子の中に一ぱいになってしまった。  二日目には、客からお届けものの栗まんじゅうの入っていたボールの箱を、臨時金庫にしたが、たちまちこの箱も、札で一ぱいになって、箱はとうとうこわれてしまうというさわぎであった。そこで、仕方なくそばやさんから、乾うどんの入っていた木箱をゆずってもらって、これを三代目の金庫としたが、この金庫も、三日目には、札で、すっかり底が浅くなってしまい、うっかり持ちあげると、板底から釘がぬけだすというわけで、夢みたいに金が集まってきた。こうなれば、電灯工事費なんかなんでもない。  房枝の出し物は、もともと小馬ポニーを使って、身軽な馬術をやるのが一座の呼びものになっていたが、そのポニーは、雷洋丸とともに、太平洋の底に沈んでしまった。だから、この出し物はだめとなって、初日、二日は、仕方なく、上は洋髪の頭のままで、からだには、紙でつくったかみしもをつけ、博多今小蝶と名乗って、水芸の太夫娘となって客の前に現れた。それでも、なにもしらない客たちは大よろこびで、小屋が割れそうなくらい手をたたいた。  房枝は、うすい板敷の舞台の上で、そっと涙をのんだ。 (ポニーほしい)  と思ったが、それは、どうにも、急場の間にあうはずがなかった。 「じゃあ一つ、空中サーカス道具を手に入れ、ついでに、天井の高い天幕も、借りちまうか、これなら、ごうせいな番組となって、お客は、またうんとふえるにちがいない」  と、楽屋の草原の上に、あぐらをかいている黒川新団長は、ものすごく気前がよかった。  五日目は、徹夜で、大天幕張り、次の日から、見ちがえるような新興ミマツ大曲馬団超満員御礼大興行と、長たらしい名前の旗を出し、「お礼のため、特に料金は二割引」とわけのわからぬ但し書をつけたが、これがまた大当りと来た。一座は、波間に沈んでいく雷洋丸から、命からがらのがれた後のしめっぽい思出なんか、どこかに忘れてしまって、たいへんな張切りぶりを見せた。もう二、三箇月、東京各地で稼いだら、その次には一座そろって上海へ渡ろうと、黒川団長は、そんな先のことまでを口にした。  ちょうど、七日目の昼間興行のとき、房枝が、アパートを出て、楽屋入をすると、黒川新団長が、にこにこ顔でそばへよってきた。 「おい、房枝。今日、お前のところへ、すばらしく大きな花環の贈物がとどいたよ。天幕の正面の柱に高くあげておいたよ」 「まあ、ほんとう? だれからかしら」  房枝は、大花環と聞いて、目をみはった。 「さあ、その贈主のことだが『一婦人より』としてあるだけで、名前はない」 「一婦人より、ですって。だれなんでしょうね」 「まあ、その幕の間から、ちょっとのぞいてごらん。実にすばらしい花環だ」  団長は、自分がその花環をもらったようによろこぶのであった。そこで房枝は、顔があかくなったが、団長にすすめられるままに、幕に手をかけてそっと覗いた。 「あーら、ほんとうね。まあ、きれいだこと」  房枝は、思わずおどろきのこえをあげた。 「どうだ、りっぱなものだろうがな。わしはちかごろ、あんな見事な大花環を見たことがない。房枝、お前は、今はおしもおされもせぬ一座の大花形だよ」 「だれが、贈ってくださったのでしょうね」  と、房枝は、小首をかしげたが、そのとき、ふと気がついて、 「ああひょっとしたら、部屋においてあるあの片っ方の草履の奥さまがおくってくださったのではないかしら。でもまさか」  と、房枝は、自問自答をして、再びその花環へ、まぶしい視線を送ったが、そのとき、房枝は、とつぜん、「あっ」と、大きな叫びごえをあげておそろしそうに身をひいた。 「どうした、房枝。いきなり、そんな大きなこえを出して」  房枝は、そのとき、新団長の腕を、しっかととらえて、こえをふるわせた。 「ちょっと、あれを、あたしの大花環の横にならんで、気味のわるい花籠が」 「ええっ、気味のわるい花籠が?」    怪しき花籠 「気味のわるい花籠? あの花籠なら、たいへんきれいじゃないか」  と、黒川新団長は、房枝のことばを、むしろふしんに思っているようすだった。  房枝は、恐怖の色をうかべ、 「いいえ、あの花籠には、あたし見おぼえがあるのよ。あの雷洋丸事件の、そもそもはじまりは、あの花籠だったのよ」 「ええ、なんだって」  雷洋丸事件ときいて、黒川新団長は急に顔色をかえた。黒川はあのとき、トラ十の横に腰を下していたのだった。あのとき、電灯が一度消えて、二度目についたときには、トラ十のすがたはなく、卓上は鮮血でそまっていた。それから間もなく、雷洋丸は爆沈し、彼はもう少しで、命を失うところだったのだ。雷洋丸事件ということばをきくと、黒川は今でも、すぐ身ぶるいがはじまる。 「団長さん。あの事件のとき、あたしたちの食卓に、あのとおりの花籠がのっていたのよ。そして、一度停電して、二度目に電灯がついたときには、その花籠はなくなっていたのよ。そして、卓上には、あのおそろしい血が」 「ああ、それから先は、もういうな。わしは、それを思うと、身ぶるいが出るのだ」 「あたしは、あの花籠を見たとたんに、身ぶるいがおこりましたわ。あんな気味のわるい花籠は、すぐ下してくださらない。あたし、芸もなにも、できなくなりましたわ」 「まあ、そういうな。しかし、わしも、やっと思い出したぞ。そうだ。たしかあのとき、わしの目の前に、あのような花籠がおいてあったねえ」 「団長さん。あの花籠は、一たい、どなたが贈ってくださったのですか」 「ああ、あの花籠か。あれは、だれから贈られたのだったかなあ。そうそう、なにしろ大入満員でいそがしいものだから忘れていたが、さっき、お届物屋さんが持ってきたといっていたが、そのとき手紙がついていたのを、読もうと思って、すっかり忘れていた」 「手紙がついていたんですか」 「そうなんじゃ、いそがしくて、すっかり忘れていたよ。あれは、どこへしまったかなあ」  黒川は、ポケットをさがしまわっていたが、やがてまっ白い角封筒を、ズボンのポケットからつまみだした。 「ああ、あったよ。これだ、この封筒だ。中の手紙を読めば、だれが贈ってくれたかわかるよ」  そういって、黒川は、その四角な封筒をやぶって、中から四つにたたんだ用箋をひっぱりだした。そして、それをひろげてみると、なんとそこには、電報のように、片かなばかりをつかった文章が、タイプライターで印刷してあった。  その文面は、次のようなものであった。 「──ライヨウマルノコトヲ、オモイダシテクダサイ。コノサーカスハ、イツデモ、ワタクシノテニヨッテ、バクハツシマス。ソレガコマルナラ、コンヤ十一ジニ、クロカワダンチョウト、ハナガタフサエト、マルノウチ、ネオン・ビルノマエニキナサイ。ケイサツニツゲタリ、コノハナカゴヲウゴカスト、スグバクハツサセマス、ワタクシタチノブカガ、イツモチャントミテイマス。バラオバラコ」  気味のわるい脅迫状であった。  ──雷洋丸のことを、思い出してください。このサーカス(曲馬団のこと)は、いつでも、私の手によって爆発します。それが困るなら、今夜十一時に、黒川団長と、花形房枝と、丸ノ内、ネオン・ビルの前に来なさい。警察につげたり、この花籠をうごかすと、すぐ爆発させます。私たちの部下が、いつもちゃんと見ています。バラオバラコ──という文面であった。 「おお、これは、たいへんだ。あーあ、せっかく、こんなに大入満員になって、よろこんでいたのに」  と、黒川は、顔から血の気をなくして、そのばにしりもちをついてしまった。  房枝は、黒川から手紙をとってこれを読みくだしたが、もちろん彼女も、おどろいてしまった。 「やっぱり、そうだったのね。ミマツ曲馬団は、雷洋丸以来、ずっと何者かにねらわれているのね。バラオバラコというのは、何者なんでしょう。──団長さん、どうするつもり?」  黒川は、しばらくは、へんじもしないで呻っていたが、 「いきたかないが、ここはおとなしく相手のいうことをきいて、やっぱり、いってみるしかないだろうね。せっかくの小屋をこわされ、客の入りをじゃまされては、商売あがったりだよ」  といって、同意をもとめるように、房枝のかおを見上げた。    大蜘蛛  とつぜん、ふってわいた災難であった。  爆発などをやられては、たまったものではない。警察へ知らせたことがわかると、すぐ爆発させるというし、この花籠をうごかしてもいけないという。すると、相手のいうとおり、おとなしく従うよりほかはない。 「団長さん、なんとか、相手にしれないように、警察のたすけを借りることは出来ないものかしら」  房枝は、まだ何とかして、のがれたいと考えた。 「だめだよ。そんなことをして、相手にさからうと、この小屋もわたしたちの体も、めちゃめちゃに空中へふきとんでしまう。いやだよ、そんなあぶないことは」 「だって、わたしたちが、直接警察へ電話をかけないでも、警察へしらせる方法はあってよ。団員のだれかにそっといいつけて、しらせる方法があると思うわ」 「房枝、お前は、わしより気がつよいねえ」 「だって、バラオバラコって、どんな人だかしらないけれど、こんなわるいことをする人を、そのまま、ほっておけませんわ」 「命があぶない。およしよ。わしはもうこりているんだ」 「警察への手紙をかいて、それを、出入りのおそば屋さんかだれかに、そっと持っていってもらったら」 「なるほど、それならいいかもしれないが、やっぱり、後が気味がわるいねえ」 「でも、こんなわるいやつが、いるのをしっていて、だまっていられませんわ。そうすることが、たくさんの人のためになるんです。あたし、あとで一人になったとき、手紙を書きますわ」  房枝は、あくまで、悪者にたちむかおうという決心をしめした。そのときであった。幕のむこうから、へんに、しわがれたこえでよびかけた者がある。 「房枝、きいているぞ。この小屋を、爆発させていいのだな」 「えっ!」  房枝は、びっくりして、うしろをふりかえった。そこには幕が下っているばかりであった。黒川にも、このへんなこえは耳に入った。 「ほら、みなさい、房枝。お前が、女のくせに、そんなむちゃなことをやろうとするからいけないのじゃ。もう、そんなことは、しませんと申し上げろ。さあ早く、申し上げんか」 「はい、じゃあ、やめます」  房枝は、そういわないわけにはいかなかった。  すると、幕のかげからは、例のしわがれたこえが、 「それを忘れるな。きっと忘れるな。おれたちは、いつでもお前たちを、にらんでいるのだ」  このしわがれたこえをきいていると、団長も房枝も、身の毛がよだつようにも感じるし、また曲馬団の前途を思って、なさけなさに、涙がこみあげてくるのをどうしようもなかった。  なぜ、ミマツ曲馬団は、こういうあやしい者にねらわれているのであろうか。団長と房枝が、おののいているうちに、その幕のむこうでは、一匹の大きな蜘蛛が、糸をたぐって、するすると、天井の方へのぼりつつあった。そのほか、誰もそこには立っていなかったのである。大きな蜘蛛が、幕ごしにものをいったとしか思われないのであった。  蜘蛛が、ものをいうことなんて、あるであろうか。  ほんとうの蜘味なら、そんなことはできない。しかし、もしもその蜘蛛が、作り物の蜘蛛であって、その蜘蛛の中に、小さな高声器と、そして小さなマイクとが入っていたとすると、本人は遠くにいながら、その蜘蛛のいる附近の話ごえを、盗みぎきすることもできるであろうし、また、遠くから、その蜘蛛の体の中にある高声器を通じて、こえを送ることもできるであろう。  だから、団長と房枝のそばに下っていた幕のうしろに下っていた蜘蛛は、そのようなたくみなぬすみ聞きをする高声装置ではなかったか。そして、天井から下っている蜘蛛の糸とみたのは、高声電流を通ずる電線ではなかったか。だから、蜘蛛そのものは、死んだ機械器具であって、このようなすぐれた装置をつかっている人間こそ、あやしい人物であった。しかし、ざんねんなことには、その人物は、だいぶん遠くにいるために、どのような顔をした人間だかはっきりわからなかった。と、ここでは、そのへんにとどめておく。    面会のしらせ  きょう午後十時に、興行をしまったら、黒川と房枝は、しめしあわせて、東京丸ノ内のネオン・ビルの前へ急行することに、二人の打合せができた。 (むこうに待っているのは、何者かはしらないが、あったうえで、よく話をして、ミマツ曲馬団の上に、この上ひどい危難をかけないようにしてもらおう)  と、これは新黒川団長の決心だった。 「おい房枝、あんまりしおれていると、他の団員にあやしまれて、あのことが外へ知れてしまうぞ。すると、とたんに、どかーんだから、わしはいやだよ。ここはひとつ元気を出して、興行中は、あの花籠事件のことを忘れていておくれ。おい、房枝」 「はい、団長さん。あたし、大丈夫よ」  そういって房枝は、けなげにも、顔をあげて、むりにほほえんだ。  すると、ちょうどこのとき、団員の女の子が、かけこんできた。 「あら、房枝さん。こんなところにいたの。ずいぶんさがしたわ。おや団長さんもここにいらしったの」 「どうしたの、スミ枝さん」 「なんじゃ、スミ枝。えらく、はあはあいっているじゃないか」  するとスミ枝は、とんとんと自分の胸をたたいて、 「だって、方々、さがしたんですもの。まさか、こんな道具置場にかくれているとはしらなかったんですもの、ああくるしかった」 「スミ枝、用事のことを早くいえ。わしは、こうなると何でもかでも、気になってしようがない」と、団長がうながせば、スミ枝は、 「あのう、御面会なのよ、房枝さんに」 「なんじゃ、面会じゃ。面会なんて、もう、どしどしことわることにしなさい」 「どんな人なの、スミ枝さん」  と、房枝は、ふと心の中に描いた人があったので、スミ枝にたずねた。 「上品な奥様なのよ」 「上品な奥様? ああ、すると、あの方じゃないかしら。そしてスミ枝さん、大花環のことをなんとかおっしゃってなかった」 「ああ、大花環のことね。そういってらしたわ。まあ、あんないいところへ、あげていただいて、といって、その奥様あんたのところへ来た大花環を、ほれぼれと見上げていたわ。房枝さん、いい御ひいきさんあって、しあわせね」 「あら、そうでもないわ」 「なあんだ、そうか。あの大花環を房枝へ贈ってくだすった奥様か。そういう御面会の方なら、おい房枝、お前お目にかかって、よくお礼を申せ」 「ええ」  房枝は、はじめから、あの奥様ではないかと思っていたのだ。スミ枝の話で、それはまちがいなく、その方だとわかった。房枝は、はじめすぐにも、とんでいって、お目にかかりたいと思った。三十分前までの自分だったら、すぐとんでいったろう。しかし今の房枝は、なんだか気がすすまなかった。 (自分は、暗い運命の女だ。今もこうして、バラオバラコという怪人物から、脅迫をうけている身だ。今夜から、自分は、またどんな暗い道をたどらなければならないか知れないのだ。そういう呪われた身の上の女が、あのような上品な奥様におつきあいすることは、奥様をけがし、そして奥様に、まんいち危難をかけるようなことがあってはたいへんである。これは、おことわりするのがいいのではないか。すくなくとも、今夜呼び出しの事件が、すっかり片づいてしまうまでは)  房枝は、そんな風に思って、スミ枝、団長黒川が早く面会させようとすすめるのにかかわらず、へんじをにごしたのであった。 「あたし、お目にかからないわ。熱があって寝ています。舞台へは、やっとむりをして出ていますと、奥様にいってくれない」 「あら、そんなうそをいうの、あたしいやだわ」 「おい房枝、なにをいっているのだ。にせ病気なんかつかわないで、お目にかかったらいいじゃないか」 「でも、でも団長さん!」と、房枝は、黒川の方に深刻なまなざしをむけた。  黒川は、房枝の目をみてうなずいた。 (そうか、そうか。あの一件のことを苦にやんでいるのか。むりもない)  団長は、房枝が、今夜の呼び出し事件のことでおびえており、だれにもあいたくないんだろうと察した。 「おいスミ枝、房枝のいうとおりにしなさい」 「え、ことわってしまうんですか。あら、おかしいわね。御祝儀がいただけるのに、房枝さんは慾がないわねえ」 「こら、なにをいう。スミ枝、早くそういってくるんだ」  と、団長が叱りつけたので、スミ枝はあわてて、そこを出ていった。 「団長さん、あたし、もうこの仕事を、やめたくなりましたわ」 「なにをいうんだ。気のよわい。このミマツ曲馬団は」  などと、黒川が歴史などをもち出して、房枝をはげましていると、そこへまたスミ枝がかけこんできた。 「あ、房枝さん。たいへん、たいへん」 「まあ、どうしたの、スミ枝さん。たいへんだなんて」 「だって、たいへんよ。あの奥様に、あんたが病気で楽屋で寝ていると、あたし、いわれたとおりいったのよ。すると、あの奥様はそれはたいへん、そういうことなら、ぜひお見舞いしないでいられません、楽屋はどっちでしょうかとおっしゃるのよ。あたし困っちゃったわ。あんた、ちょっとあってあげてよ」 「あら、困ったわねえ」 「こらスミ枝、お前のいい方がわるいから、そんなことになったんだぞ」 「いいえ、その奥様が、とても、房枝さんに熱心なんですよ。あたしでなくても、だれでも、負けてしまうわ」  そういっているとき、幕のむこうで婦人のこえがした。  するとスミ枝は、いよいよあわてて、 「ほら来たじゃないの。あんた、おねがいだから、楽屋へいってふとんを出して寝ていてよ。あたし困ることがあるのよ」  といって、スミ枝は泣きだしそうな顔で、房枝の耳に口をあてると、 「房ちゃん、これ秘密だけれど、実はあたし、いただいてしまったのよ。あんたがあってくれないと、あたし、あの奥様に、せっかくいただいたおあしを返してしまわなければならないんですもの。ちょいと察してよ」  と、つげて、房枝にあってくれるように頼みこんだ。  そのように、種あかしをされてみると、情にあつい房枝は、スミ枝の立場を考えてやらないではいられなかった。そこで、とうとう彦田博士夫人道子にあう決心をしたのだった。    見えない糸  楽屋は、一時、大さわぎとなった。  ふとんをしく、くすりびんをのせた盆をならべる、手拭をしぼる。楽屋が、舞台みたいになってしまった。そして房枝は、そこに病人らしく横になった。 「房ちゃん、すまないわねえ」  スミ枝が、枕もとへきて、小さいこえで気の毒がった。 「いいのよオ、心配しなくっても」  房枝は、スミ枝をなぐさめた。房枝としても、道子夫人に、道子夫人が何者であるかは、まだ知らないが、あいたかったのであった。夫人に、めいわくをかけるのをおそれて、面会をことわってもらったのである。だから、スミ枝の行きすぎのためとはいえ、こうして、夫人にあえることになって、うれしくないことはない。 「まあ、あなた」  道子夫人は、こえをうるませて、房枝の枕もとにきた。 「房枝さん、おくるしいのですか。どこがおわるいのです」  房枝は、道子夫人に見つめられて、まぶしくてならなかった。 「いいえ、たいしたことはございませんの。それよりも奥様、りっぱなお花環をいただきましておそれ入りました」 「なんの、あれほどのことを、ごあいさつでかえっておそれ入りますわ。でも、もうお目にかかれないかと思って悲しんでおりましたのに、昨日、ちょうどこの曲馬団の前を通りかかりまして、房枝さんのお姿をちらりと見たものでございますから、そのときは、とび立つように、うれしくておなつかしくて」  と、道子夫人は、そっとハンケチを目にあてた。  楽屋のかげから、これをすき見している団員たちは、だまっていなかった。 「おいおい、第一場は、いきなりお涙ちょうだいとおいでなすったね」 「だまっていろ。お二人さま、どっちもしんけんだ。こうやってみていると、あれは、まるで親子がめぐり会った場面みたいだな」 「ほう、そういえば、房枝とあの奥様とは、どこか似ているじゃないか。似ているどころじゃない、そっくり瓜二つだよ」 「まさかね。お前のいうことは、大げさでいけないよ」  二人の話は、なかなかつきなかった。  房枝は、道子夫人に、あずかっていた草履の片っ方をかえした。夫人は、たいへん恐縮していたが、結局よろこんで、それをもらいうけた。そしてその代りにと、夫人は風呂敷のなかから、寄せぎれ細工の手箱をとりだし、 (これは手製ですが、房枝さんの身のまわりのものでもいれてください)  という意味のことをいった。房枝は、よろこんでそれをもらった。 「房枝さん、じつは、まだ、いろいろお話をいたしたいこともございますけれど、御病気にさわるといけませんから、今日はこれでしつれいさせていただきますわ。そのかわり、また伺ってもようございますわね」  と、道子夫人は、房枝に約束をもとめるようにいった。  房枝は、そのへんじをするのがたいへんくるしかった。 「いいえ、こんな場所は、奥様などのたびたびおいでになるところではございません。また、どんなまちがいがあるかもしれませんし、もうどうか、けっしておはこびになりませんように」  房枝は、血を吐く思いでそれをいった。今夜の呼出し事件がなかったら、この日房枝は、道子夫人の膝にとりすがって、思うぞんぶん泣いてみたくてしかたがなかった。それはなぜだか、理由のところは房枝にもよくわからなかったが。しかし、もうそんなねがいは夢となった。あくまで冷酷にせまってくる現実とたたかわねばならないのだ。夫人を慕えばこそ、今は夫人にふたたびいらっしゃらないようにと、いわなければならなかった。そう強くいって、房枝はかろうじて、わっと泣きたいのをこらえていた。 「まあ、それは、なぜでございましょう。こうして伺っていますと、なにか房枝さんの身の上に」 「いえ、奥様」と、房枝は、おしかぶせるようにいって、 「なんでもないのでございます。ただ、どこでも、こういうところはよくないところでございますの」 「わかりました、房枝さん。もうわたくしは、なんにも申さないで失礼いたしますわ。どうぞ、早くおなおりになるよう、わたくしは、毎日毎日お祈りしていますわ」  道子夫人は、ふかい思いをのこして楽屋を立ち出でた。  夫人の姿が見えなくなると、房枝は、さすがにたまりかね、ふとんをかたく抱いて、わっとこえを立てて泣きだした。しばらくは、団長がいっても、スミ枝がいっても、よせつけなかった。  道子夫人は、房枝の情のこもった草履の片っ方を抱いて、家路についたが、家にもどると、そのまま電話のところへいって、廻転盤をまわした。 「ああ、帆村先生の事務所でいらっしゃいますか。こちらは、彦田の家内でございますが」  夫人はどうしたわけか、いそいで帆村探偵を呼出した。 「ああ、帆村先生でいらっしゃいますか.あのう、じつは折入って至急おねがいいたしたいことがございますの。はあ、大至急でございます。いえ、会社のことではなく、わたくしごとでございますが、いつやら、ちょっとお話しました娘さんのところへ、ただ今、いっておりましたのですが、今日はどういうものか、娘さんのようすがへんなのでございます、なにか、あの娘さんの身の上に、危難があるように感じましたの。道々考えてまいりましたんですが、たいへん気になって、しようがございません。それで、相談にのっていただきたいのでございますが、すぐ宅まで」  縁は、目に見えないが、常に行いのうえにあらわれる。夫人は、何ごとも知らずに、房枝あやうしと感じて、帆村探偵の力をもとめたのであった。    ネオン・ビル前  その夜のことだった。  東京駅の大時計は、すでに午後十一時一、二分、まわっていた。  そのとき、あたふたと、改札口から駅前へとびだしてきた二人の男女があった。 「やあ、おそくなったぞ。一電車おくれてしまったので、これはもう十一時をすぎてしまった。ねえ房枝、大丈夫だろうか」 「そうねえ」  その話でわかるように、男は、新興ミマツ曲馬団の新団長黒川であり、また女は、花形の房枝であった。  この二人は、例の脅迫状の差出人たる謎の人物バラオバラコによび出されて、やってきたのであるが、一、二分はおくれたが、ともかくも、今東京駅についたのであった。  二人は、口の中で、ネオン・ビルと、しきりにくりかえしていた。ネオン・ビルは、バラオバラコからいって来た会見の場所であった。もしそこへ来なかったら、せっかく大人気をとっている新興ミマツ曲馬団の小屋を爆破するというのだった。そんなことがあれば、小屋がこわれるばかりではなく、おおぜいの観客が怪我をするであろうし、かけがえのないすぐれた芸をもっている団員もまたたおれてしまうであろう。そんなことになってはたいへんである。これから怪人物バラオバラコに会って、ぜひとも、そんなことをしないように、たのむほかない。  二人は、駅前からビル街の間に、はいっていった。  夜のビル街! なんというさびしい街であろうか。  昼間であると、このあたりは、まるで行列が通っているのかと思うくらい、にぎやかな、そしていそがしそうな人通りがあった。八階も九階もある、大きな城のようなビルが、一つや二つではなく、どこからどこまで、幾十幾百となくつづいている。夕方になると、ビルの窓という窓には、きいろい明りがついて、一だんとにぎやかになって見える。  だが、それからさらに時刻がうつると、窓の灯は、しだいに、先を争うように消えて行き、そして午後八時ごろになると、ぽつんぽつんと、のこりの灯が消し忘れられているのが目立ち、急にさびしくなる。  今は、午後十一時をまわっている。房枝が、あたりを見わたすと、ビルの灯は、一つのこらず消えている。街路灯さえ、ここにはついていない。まっくらな道を行くと、足音がビルの壁に反響して、異様な音をたてる。両がわには天へもとどくかと思われるようなビルの黒い壁がつっ立ち、ビルとビルとのせまい間からは、夜空がちょっぴりのぞいていて、星がきらきらとことのほか美しく見える。人通りは全くない。死の街を歩いているような気がする。 「さびしいわねえ」  房枝は、いつともなく、黒川の方へすりよっていた。 「うん、さびしいなあ。バラオバラコは、わざわざこういうさびしい時刻、さびしい場所をねらったのだ。それにはここはもってこいの場所だからねえ」  黒川は、おそろしそうにいった。 「なんだか、あたしたちは、湖の底にしずんだ街をあるいているようね」  房枝は、自分の感じを、そのようにいいあらわした。 「うん。ビル街が、こんなにおそろしいところだとは、今夜歩いてみて、はじめて知ったよ。さっきから、こうして歩いているが、まだ一人の通行人にも会わないねえ」 「ああ、そうね」  と、房枝も、なんだかおそろしくなって肩をすぼめた。バラオバラコは、二人をおどかすため、この上ない、よい場所をえらんだのであった。 「おお、ここがネオン・ビルだが」  黒川は、立ちどまった。 「ああここがネオン・ビル?」  房枝は、ネオン・ビルときくと、急にからだがひきしまった。そして、バラオバラコがなんだと思った。そのために、さびしさ、おそろしさが、いくぶん消えていったようである。ちょうどそこは、大きな寺院の入口みたいな荘重な大玄関であった。左右に何本かの石柱が並び、石段がその間をぬって上へのぼっている。奥はくらくてわからないが、重い扉がしまっているようである。 「だれもいないじゃないの」  房枝が、反抗するような口調でいった。 「そうだなあ。まだ、先方の御人が来ていないのだろう。わしたちが、一足先に来たというわけにちがいない。やれやれ気づかれがした」  黒川は、そういって、冷たい石段に腰をおろした。そのときである。とつぜん、階段の上から思いがけない人のこえがした。 「ふふふふ。さっきからこっちは待ちくたびれていたぞ」 「あっ!」  黒川は、それをきくと、石段からはねあがった。    襲う者、追う者  房枝も、ひじょうにおどろいた。  だれもいないと思った石段の上から、とつぜん一人の男が、とびだしてきたのだから。 (何者だろうかしら)  房枝は、うしろに身をひいて、ビルの壁にぴたりとよりそって、とつぜん、とびだした怪漢の顔を見定めようとする。  すると、その怪漢が、つかつかと下りてくると、房枝の手をぐっとにぎった。 「おい、房枝。にげたりすると承知しないぞ。むかしの仲間をそまつにするな。さあ、こっちへはいれ」  そういうこえに、房枝はおぼえがあった。そして闇の中にうかぶ顔を見れば、それは房枝の思ったとおり、元の座員のトラ十であったではないか。 「ああ、トラ十さんなのね」 「そうだトラ十さまだ。お久しゅうござんしたね。雷洋丸がやられたときは、あなたさんたちと、こうしてふたたび娑婆でお目にかかれようとは思っていなかったよ。ふふふ、お互さまに、悪運がつよいというわけだね。なあ黒川ニセ団長」  トラ十は、黒川のことをつかまえて、ニセ団長などと、いやなことをいった。  その黒川は、石段の端のところで、小さくなってふるえていた。 「おう、黒川ニセ団長。さっそくこっちの用事をいうが、お前、きょうここへ持って来たものを、さっさと出してしまえ」  トラ十は、命令するようにいった。  黒川は、それをきいて、けげんな顔。 「えっ、持って来たものを出せというが、なにを出すのかね。わしはなにも持ってこないよ」 「なんだ、なにも持ってないって、この野郎、かくすと承知しないぞ。たしかに持って来たものがあるはずだ」 「そんなものはありません。持ってきたというなら、その品物の名をいってください」 「お前は、剛情だな」とトラ十はいって、こんどは房枝の方に向き、「おい房枝、お前はいい子だから、かくさずにいうだろう。おれにあまり手あらなことをさせないのが、かしこいのだぞ、さあ、持ってきたものを出せ」 「トラ十さん。あんたはなにか思いちがいをしているわ。あたしたちは、ここへ来いと命ぜられたから、からだ一つで来たわけよ。なんにも持ってなんか来ませんわ」 「なんだ、お前までおれにかくす気か」 「おい丁野さん。房枝をいじめるんじゃないよ。いい加減にしなさい」  黒川は、見るに見かね、トラ十をしかりつけた。  トラ十は、小首をかしげている。なにか、彼には思いちがいがあったようである。 「ふん、やさしくいえば、二人ともつけあがって、おれをばかにする。よし、こうなれば、荒療治だ」  そういうと、トラ十の手に、きらりとなにか光った。トラ十がポケットから、ピストルを出したのである。 「うごけば、これだ。おとなしくしろ」  トラ十は、くらやみの中で、きみの悪い笑を顔にうかべていった。 「うしろを向いてもらおうかい。おれは、やるだけのことはやるんだ」  トラ十の命令で、やむなく黒川と房枝とは、うしろを向いた。トラ十は二人の手をうしろにまわさせて、麻縄でしばった。それから、走れないように、足首のところも結んでしまった。  そうしておいて、トラ十は二人の持ちものをしらべ、それから二人のからだをしらべた。トラ十は、明りが往来へもれるのをおそれて、柱のかげへ二人を入れてしらべたのであった。 「どうもおかしい。なにもない」  トラ十が、ふしぎそうにいった。 「そら、みろ。わたしたちは、なにもかくしていないのだ」  黒川が、たしなめるようにいった。 「なにをいっているか。おれは、まだ、あきらめているわけじゃない。なければないで、これからもっと御丁寧に、お二人さんをしらべるだけのことさ。裸にむいても、指の一本二本を切りおとしても、ほんとうのことを白状させてみせるぞ。かくごしろ」  トラ十は、ざんにんなことを、平気でいう。  黒川が、それに不服をいうと、とたんに、トラ十のこぶしが彼の頬にとんだ。  いったいトラ十は、なにをねらって、こんなばかげたことをくりかえしているのだろう。黒川がしらべられると、次は房枝の番になる。裸にされるなんて、いやなことである。 「房枝、うごくと承知せんぞ。お前にはこれが見えないのか」  房枝が、そっと石段を一段だけ下りようとしたとき、トラ十は、すばやくそれを見てとって、ピストルの銃口で、房枝の背中をついた。 (だめだ、もうのがれるすべはない)  房枝は、かなしくなった。いよいよとなったら、すきを見て、トラ十を蹴ってやろうと、最後の腹をかためた。  そのときである。二人のうしろにいたトラ十が、とつぜんおどろきの声をあげた。 「あっ、だれだ。じゃまをするのは」  うーむと呻って、トラ十は、あばれ出した。 「トラ十、こんなところで君にあえるなんて、こんなうれしいことはないよ」 「そこを放せ。お前はだれだ」  黒川と房枝は、うしろをふりかえった。  どこから降って湧いたか、一人の男が、トラ十のうしろから組みついている。そしてピストルを握ったトラ十の腕を、逆に高くねじあげている。  房枝は、トラ十をおさえてくれる何者かの方へ応援したのがいいのだとは思ったが、手を出しかねていると、トラ十のもっていたピストルが、下におちて、階段をころがった。 「さあ、これで、もうおとなしくしろ」  青年は叫んだ。  そのこえ! 房枝ははっと胸をつかれたように思った。 「あ、帆村さんじゃありません」  すると、青年はすぐこたえた。 「そうです、帆村です。あぶないところでしたね」 「なんだ、きさまは帆村荘六か。ふーん、帆村なんぞに、ひねられてたまるものか」  と、おどろいたトラ十は、満身の力をこめて、帆村のからだを左に右に、ふりとばしにかかった。 「あっ! しずかにせんか」  といったが、このときトラ十は、帆村の腕をほどいて、ぱっと往来へにげだした。    深夜の怪人 「あっ、トラ十がにげた」 「帆村さん。しっかり」  黒川と房枝は、こえをたててさわいだ。しかし二人とも帆村に加勢することは出来なかった。二人とも、手をしばられ、足首のところを固く結ばれているから、そろそろ歩くのはともかくも、走るなどということはできない。せっかくのこんなときに、帆村に力をそえることができなくてと、ざんねんに思いながら、二人は階段を下りようとした。 「あっ、あぶない」 「あれっ」  足は結ばれているし、気はせいている。しかも二人が、階段をいそいで下りようとしたものだから、二人のからだが、どんとぶつかった。あっといったときには、二人は、もろに足をふみはずして、下へころげおちた。 「うーむ」、  房枝は、黒川のうなるこえをきいたが、次の瞬間、彼女も頭がぼーっとしてしまった。階段をころげた拍子に、運わるく脾腹をうったものらしかった。  どのくらいたったかしらないが、房枝が、気がついたときには、思いがけなく前に一台の自動車がとまっていた。 「おお、お嬢さん。しんぱいいりません」  このとき、ひじょうに香の高い香水が、房枝の鼻をぷーんとついた。それは房枝を、抱えおこしている婦人の服から匂ってくるものであった。その婦人は日本人ではない。 「ありがとうございます」  房枝は、礼をいった。 「今、自動車でお送りします。かならず、しんぱいいりません」  そういうと婦人は、英語で、べらべらと喋りだした。 「よろしい。僕一人で大丈夫だ」  大きなからだの外人の男が、房枝をかるがると抱いて、車内にうつした。  車内は、りっぱであった。これはたいへんな高級車だ。座席には、すでに黒川がのっていて頭をうしろにもたせかけていた。よく見ると、黒川の頭は、ハンケチで結わえてあり、その一部には、赤い血がにじみだしていた。 「あっ、黒川さん。けがをしたのね。しっかりしてよ、ねえ黒川さん」  房枝は、黒川をゆりうごかした。  すると黒川は、ちょっと、からだをうごかし、苦しそうに眉をよせたが、 「房枝、早く下りよう」  と、うわごとのようにいった。 「え、下りるの」  房枝が、黒川のことばをあやしんで、といかえしているとき、座席に、例の外人の婦人が入ってきて扉をしめた。それから、大きなからだの男の外人は、運転台にのって、扉をばたんとしめると、エンジンをかけた。 「おい、房枝。早く下してくれ」 「まあ、あなた、興奮してはいけません。しずかになさい」  房枝が、なにかいおうとしたが、その前に婦人がひきとって、黒川をなだめた。  この二人の外人は、だれであろうか。ふしぎともふしぎ、運転台にいるのは、背広姿になってはいるが、雷洋丸にいたときは牧師の服に身をかためていた師父ターネフであった。  それから若い婦人は、これも雷洋丸にのっていたターネフ師父の姪だといわれるニーナであった。  だが、このときは、怪我をしている黒川は、そんなことはしらないし、それから、二人を雷洋丸の上ではしっていた房枝も、まさかこんなところで二人にめぐりあおうとは思っていなかったので、ただもう黒川団長の容態ばかりを気にしていて、二人がだれであるか、気がつかなかった。  師父ターネフの運転する自動車は、ビル街へ、さっと明るいヘッド・ライトをなげながら走りだした。  車が走りだすと、とたんに房枝は、帆村探偵とトラ十のことを思いだした。  あの二人は、どうしたろう。まだ、そのへんで、組んずほぐれつの大格闘をしているのではなかろうか。  房枝は、座席から腰をうかせて、走り行くヘッド・ライトの光を追った。もしやその光の中に帆村とトラ十の姿が入ってきはしまいかと思ったので。  ところが、それからしばらくいったところで、師父ターネフは、ハンドルを切って、あるビルの角を右へ曲ろうとした。 「あっ、あぶない」  ターネフは、思わずおどろきのこえを発して、ハンドルを急に逆に切った。車体は、地震のようにゆれ、そしてもうすこしで、左がわのビルにぶつかりそうになった。が、そこでターネフは、またハンドルを右に切りかえたので、車は歩道の上へのりあげたものの、がたと一ゆれしてうまく、道路の上にもどることが出来た。  房枝は、そのさわぎをよそに、今しも車輪にかけられそうになった格闘中の二人の男に、全身の注意力を送った。  道のまんなかで、組打をやっているのは、たしかに帆村とトラ十だった。トラ十の顔がぱっと、こっちを向いたことをおぼえている。トラ十はそのとき、ひじょうに驚いた顔つきになって、なにごとかわめいた。だが、何といってわめいたのやら、房枝には、もちろん聞えなかった。 「あっ、あいつ等だ。あいつ等、うごけないはずだ。ど、どうして」  と、そのときトラ十は叫んだのであった。そのとき、下に組しかれていた帆村が、えいと気合もろとも、トラ十のからだをはねのけた。房枝はそこまでは、はっきりと見た。自動車が走りさると、道路の上は、まっくらになってしまって、その後、二人の勝敗がどうなったか、ざんねんながら、房枝はしることができなかった。    ターネフ邸にて  自動車がついたのは、一軒のりっぱな洋館であった。その間も黒川は、なにかさかんにわめいていたが、舌がもつれていて、何をいっているのかさっぱりわけがわからなかった。  なにしろ、黒川の怪我の程度が、はっきりしないので、房枝は心配であった。今、黒川にどうかなってしまわれると、せっかく息をふきかえした、新興ミマツ曲馬団の全員が、また路頭に迷わなければならない。だから、房枝は、黒川をまもり、そして彼に、一刻も早く医師の手当をうけさせたいと思ったのである。  そのために、彼女は、心ならずも、帆村のそばを車で通りすぎてしまったのだ。もっとも彼女は、運転台のターネフに向かい、車をとめてくれるようにとこえをかけたが、ターネフはそれがわからないらしく、車は、ずんずんとスピードをあげていったのだった。  それに、そばにいるニーナが、 「お嬢さま。しんぱいいりません。よいドクトルをしっていますから、その人にみせましょう。わたくしが、手落なくしますから、しんぱいいりません」  と、しきりに房枝をなぐさめたのであった。 「ええ、どうか、一刻も早く、医師にみせていただきたいのです。これは、あたくしたちの大事な主人ですから」 「わかります。よくわかります」  美しいニーナは、うなずいた。  自動車は、附近の病院の門をたたくかと思っていたのに、そのままずんずん山の手の方へ走って、やがて今もいったように、大きな洋館の、玄関についてしまったのである。  自動車の警笛がきこえたとみえて、玄関の扉があき、中からきちんと身なりをととのえた日本人のボーイが、とんででてきた。 「さあ、ここが、わたくしの邸です。おはいりください」  ニーナは、ひじょうな愛嬌をみせて、房枝にいった。  ターネフは、運転台からとび下りるようにして、ボーイになにかを叫んだ。  ボーイは、それをきくと、あわてて玄関の中へとびこんだ。彼は、またすぐ、中からとびだしてきた。彼のうしろには、たくましい数名の外人ボーイがしたがっていた。そして自動車の扉を開いて、まだ呻っている黒川団長のからだを、皆して、しずかに担ぎだしたのであった。  房枝も、そのあとにしたがって、玄関をはいっていった。  中は、見事にかざられた大広間であった。  ニーナは、房枝をまねいて、その隅にある小さい卓子へ案内した。  その卓子のうえには、電話機がのっていた。ニーナは、受話器をとって、廻転盤をまわした。  しばらくして、相手が出てきた。ニーナは、英語で早口に喋る。ドクトル・ワイコフという名が、しきりに出てくる。 「では、すぐにお出でをお願いしてよ。こっちは、皆でしんぱいしているのですからね。えっ、それはそうよ。ふふふふ。とにかく、おいでをお待ちしていますわ」  房枝は、巡業先がメキシコであったので、英語は少しわかっていた。だから、ニーナの電話も、だいたい了解した。ドクトル・ワイコフがすぐ診察にきてくれることがわかった。だが(ええ、それはそうよ、ふふふふ)とは何のことであろうか。ちょっと気になる語であった。 (ゆだんはならない!)  房枝はそう思った。  ドクトル・ワイコフが現れたのは、それからものの十分とたたない後のことだった。長身のひじょうに貴族的な顔をもった医師だった。  彼は、長椅子の上に寝ている黒川のそばに、自分のもってきたカバンを開き、診察にとりかかった。 「うん、ちょっと重傷だが、今手当をして、しばらく安静にさせとけばいいでしょう。お湯がわいているでしょうね。早くもってきてください。ちょっと手当をしておきますから」  房枝は、黒川の後頭部の傷を見ていると、なんだか気が遠くなりかけた。こんなことではいけないと思い、なんとかして、黒川の手当の終るまで、がんばろうと、自分の気をはげましたのであった。手当はなかなかすまなかった。ニーナは、房枝のそばへきて、彼女を横から抱えながら、大丈夫よ、大丈夫よと、しきりになぐさめた。そのころになって房枝は、やっと雷洋丸でこのニーナと会ったことを思い出したのであった。    悩ましい花園  房枝は、その夜をニーナの邸ですごした。  黒川の傷は、かなり重く、熱が高くて、うわごとをいいつづけだった。だから房枝は、ニーナやドクトル・ワイコフの意見にしたがって、黒川をそのままそこに寝かせておくほかないと思った。  ニーナとワイコフ医師とは、いくたびか、その広間へ下りてきて、親切にも、黒川を見守り、そしてまた房枝をなぐさめた。師父ターネフだけは、寝室へはいったらしく、はじめにちょっと顔を出しただけで、あとは現れなかった。 (ずいぶん親切な人たちだわ)  と、房枝は、心の中で、あつい感謝をささげた。  房枝は、なにもしらない純情な少女だったのである。かりそめにも、このようなニーナたちの親切の中に、おそろしい棘がかくされていようなどとは、思ってもみなかった。お人形のように純情なことは、いいことである。しかし、そういう場合に、おそろしい棘のあることを気づかないでいることは、いいことではない。  夜は明けはなれた。  カーテンをひくと消毒薬でむんむんする室内のにごった空気が外へ出ていって、入れかわりに、サイダーのようにうまい朝の外の空気が入ってきた。 「ああ、房枝さん。あなた、おつかれでしょうねえ」  ニーナ嬢が、いつの間にか階段を下りて、房枝の横に立っていた。房枝は、外に見えるうつくしい花壇にながめ入っていたので、ニーナの近づいたのを知らなかった。  房枝は、しみじみと礼をいった。黒川は、熱は高いが、幸いにも今ぐっすりと、ねこんでいるのだった。 「ああ、そう」  と、ニーナはうなずいて、 「じゃあ、あの花壇のあるところへいってみません? いろいろとうつくしい花や、香のいい花が、たくさんあるのです。あなた、花おきらいですか」 「いいえ、花はだいすきですの」 「ああそう。では、これからいって、あなたの好きな花を剪ってあげましょう。あなた、どんな花、好みますか」 「さあ、好きな花は、たくさんございますわ」  房枝は、黒川がよくねむっているのに安心して、ニーナ嬢とつれだち、花壇へ下りた。全くすばらしい花園だ。小学校の運動場ほどの大きさのなだらかな斜面が、芝生と花でうずめられているのだった。朝陽をあびて花は赤、青、黄、紫の色とりどりのうつくしさで、いたいほど目にしみた。そしてえもいわれぬ香が、そこら中にただよい、まるで天国へ来たような気がするのであった。 「まあ、うつくしい」  房枝は、徹夜の看護に充血した目を、まぶしそうにしばたたきながらいった。 「ここにある花の種類は、七百種ぐらいあります」 「え、七百種。ずいぶん、種類が多いのですわねえ」 「その中に、メキシコにあって、日本にない花が、三百種ぐらいもまじっています。なかなか苦心して持ってきました」 「そういえば、あたくしがメキシコでお馴染になった花、名前はなんというのかしりませんけれど、その花があそこに咲いていますわ」 「じゃあ、あれをさしあげましょう」 「いいえ、花はあのままにしておいた方がいいんですの。きっていただかない方がいいわ」  と、房枝は、上気した頬を左右にふって、辞退した。 「えんりょなさらないでよ」 「いいえ、その方がいいのです」  と、房枝はニーナの好意を謝したが、そのとき気がついて、 「あーら、このいい香は、なんでしょ。あら、バラの匂だわ。まあ、これは大したバラ畠ですわね」  房枝は、とつぜん目の前にひらけた一面のバラの園に、気をうばわれた。  ところがニーナは、そのすばらしいバラの園を、なぜか自慢しなかった。そして、房枝の腕をとると、前へ押しやるようにして、そのところを通りぬけた。  房枝は、ニーナの心を、はかりかねた。 「ニーナさんは、バラの花が、おきらい」 「えっ」  と、ニーナは、妙に口ごもり、そしてあわてて首をふった。 「わたくし、きらいではありませんけれど、好きでもありません」  と、わけのわからないことをいった。  そのとき、房枝のあたまに、ふと浮かんだことがあった。それは何であったろうか。  外でもない。バラオバラコという怪しい名前のことだ、あの脅迫状に託してあった。    朝刊におどろく  バラオバラコ?  これを、房枝は、こじつけかもしれないが、次のように、あたまの中で書きなおしてみた。  バラ雄バラ子!  そしてこのニーナの邸には、すばらしいバラの花園があるのだった。しかもニーナは、そこを通るとき、いやな顔をした。すると何だか、バラ雄バラ子というのが、わけがありそうにもおもわれないこともない。 (でも、まさか、あたしたちは、あの脅迫状を書いた人のとこへ来ているのではないでしょうに。あのとき、ネオン・ビルで、あたしたちを待ちかまえていたのは、トラ十だったんですもの。だとすると、バラオバラコというのは、トラ十の変名だということになるけれども……)  妙なことから、房枝はきゅうに里ごころがついた。 「あのう、ニーナさん。しばらく黒川さんのことを、おねがいしますわ」 「ええ、いいです。しかし、どうかしましたか」 「いいえ、べつにどうもしませんけれど、あたし、ちょっと曲馬団へかえってきますわ。ゆうべから、団長とあたしが団の方へかえってこないので、皆が心配しているでしょうから」 「ああ、そうですか。あのう、それ、もっとあとになさいませ。食事の用意できたころです。一しょに食事して、それからになさい」 「でも、皆が心配しているといけませんから」 「まあ、待ってください。とにかく、食堂へいってみましょう。あたくし、十分ごちそう、用意させました。メキシコから来たよいバタあります。チーズ、おいしいです」  ニーナは、しきりに房枝をとめるのだった。  房枝は、それまで黒川の重傷を心配するあまり、曲馬団の仲間のことを、すっかり忘れていたが、さぞ今ごろは、彼らはさわぎだして、警察へいったりしていることだろう。警察へいっても、房枝たちのいどころがわかるわけがない。房枝は、すぐにかえる決心をした。  ニーナは、屋内へいそぐ房枝の腕をかかえて、しきりに朝食をとっていけとすすめる。  広間へ房枝が上ったとき、彼女は、 「あらっ」  といった。それは、師父ターネフが、彼女を見ると、あわてて奥へ姿を消したからであった。そのときのターネフは、一向牧師らしからぬ服装をしていたからであるかもしれない。ニッカーをはいていて、まるでゴルフにでもいくような姿だった。靴は、泥にまみれていたようにも思われる。それにしても、まさかあわてて奥へ逃げこむこともなかろうものを。  ニーナは、房枝をむりやりに食堂へひっぱっていった。その食堂には、映画でよく見るのと同じく、華麗ですがすがしい広間で、芝居の舞台に使うような椅子や卓子がならんでいた。  房枝は、むりやりに、一つの椅子に腰をかけさせられてしまった。  ニーナは、ちょっとといって、いったんかけた席を立って奥へひっこんだが、間もなく急ぎ足で現れた。手には、日本の新聞を手にしている。 「おお房枝さん。あたくし、あなたの帰るのをとめて、いいことをしました」 「え。まあ、どうして」  房枝は、ニーナにそういわれてひどく胸さわぎがした。 「この新聞、ごらんください。たいへんです」 「えっ、たいへんとは、どうしたんでしょう」  房枝は、ニーナの手にした新聞を、おそるおそるのぞきこんだ。 「この記事、ごらんなさい。けさミマツ曲馬団、火災をおこして焼けてしまいました」 「まあ」  房枝は、夢を見ているのではないかと、あやしんだ。  だが、手にとった新聞には、まちがいなくミマツ曲馬団が今暁二時、一大音響とともに火を出して、すっかり焼けてしまったことと、そして団員と思われる二十数名の犠牲者が、その焼跡から発見されたことが、写真まではいって報道されているのであった。 「な、なんということでしょう」  その写真には、炎々たる焔に包まれた、ミマツ曲馬団の天幕がうつっていた。夢ではないのだ。なんという不運なミマツ曲馬団であろうか。一体、この火事の原因は何であろうか。  新聞記事には〝原因は目下取調中であるが、ガソリン樽が引火爆発したのではないかとの説もある〟 (ガソリンの樽──そんなものはない。ガソリン樽の引火なんて、そんなことはうそだ!)  と、房枝は、はやくも、記事のあてにならないことを見やぶった。  では、一体どうしたのであろうか。  爆発するものなんか、おいてなかったはずである。しかも団員が、それがために二十数名も死んでしまうなんて、そんなひどい爆発力をもったものはないはず。 (だが、ひょっとしたら、あれではないかしら)  房枝の胸は、それを考えついたとき、まるで早鐘のように鳴りだした。  ああ、あの花籠だ! あれこそ爆薬入りの花籠ではなかったか? おそろしかった雷洋丸事件の当時のことが、今更にありありと思いだされた。房枝は、そばにニーナ嬢が立っていることも忘れて、 「ああ、きっとあれだ!」と、こぶしを握って叫んだ。    ああ、惨事の後  房枝は、ニーナたちのとめるのをふりきって邸を出た。それは一刻もはやく、城南の惨事のあとへいって、団員たちの様子を見たいためだった。  房枝が、停留場の方へかけだしていくあとから、ニーナが追ってきた。 「もしもし房枝さん。あたくし、あなたを自動車で送ってさしあげます。自動車で、スピードを出すのが一等早く、向こうへつきます」  それから、二十数分後に、城南の曲馬団の惨事のある附近まできた。 「ニーナ嬢、すぐかえりますか」  と、自動車を運転してきたワイコフ医師がいった。 「いいえ、もうすこし、ここにいます。あたくし、房枝さんのこと、心配です」 「では、ここに自動車をおいておくのはまずいから、例のホテルへ車をまわしておきますよ」  ワイコフ医師は、そういって、急いで、車をまわして立ち去った。  房枝は、惨事の小屋跡へかけよった。 「こらこら、はいっちゃいかん」  警官が、房枝の前に、立ちふさがった。  ニーナが、房枝をかばうようにうしろから抱きとめた。  しかし警官の肩越しに、惨事の跡がよく見えた。一夜のうちに、こうもかわるものであろうか。目をおおいたい惨状であった。天幕の柱が燃えおちて、ひどく傾いている。天幕の燃えのこりが、泥にそまって、地上に散らばっている。火事は全焼とまではいかず、八割ぐらいの火災で、二割がたは焼けのこっていた。だが焼けのこっているものも、どれ一つ満足なものはなかったのである。 「だって、あたし、ミマツ曲馬団のものなんですのよ。ゆうべ、団長の黒川さんが、丸ノ内で負傷したので、それを介抱して、ここにはいなかったんですの。新聞をよんで、いそいで様子を見に戻ってきたんですわ」  房枝は、けんめいになって、事情を説明した。 「なんだって、ミマツの団員で、ゆうべ、ここにいなかったというのか。おお、それは逃がさんぞ」  警官は、房枝の手を、しっかりつかまえた。 「お前の名は、なんというのか」 「房枝ですわ」 「房枝? そしてこっちの西洋人は?」 「あたくし、ミマツ曲馬団に関係ありません。房枝さんを車にのせて、ここまでとどけたのです」  ニーナが、こたえた。 「いいわけはあとにして下さい。だれであっても、一応しらべなければ、ゆるせません」  警官が手をあげたので、附近にいた警官たちが、応援のため、ばらばらとかけつけてきた。そして房枝とニーナとは、いやおうなしに、捕りおさえられてしまった。 「こっちへきなさい」  ニーナは、怒るかと思いのほか、あんがい平気であった。そして、惨事の現場を、めずらしげにしきりに眺めていた。  房枝の方は、そんなに落ちついていられなかった。散らばった幟の破片、まだぷすぷすといぶっている木材、なにを見ても胸がせまる。生きのこった団員は、どこにいるのであろうか。その姿が見えない。そしてこの惨事のほんとうの原因は何であったのか。  二人は、警官のため、前後をまもられて、その場を引立てられていったが、そのとき、ばたばたと駈けてきた男があった。 「おお、房枝さんですね。いつ、ここへかえってきたのですか」  そういった男は、外ならぬ帆村であった。 「ああ帆村さん。あたし、今ここについたところよ。皆さんのことが心配になって、焼跡へいってみようと思ったら、この警官の方におしもどされたのよ」  警官は、帆村の顔と房枝の顔とを見くらべて、 「おや、帆村さん。この女を知っているのですか」 「知っていますとも、これはこのミマツ曲馬団の花形で、房枝さんという模範少女ですよ」 「ほ、やっぱりほんとうでしたか。私は、こいつはあやしい奴だと思いましてね。しかし、団員とあれば、他の団員も全部、警察におさえてあるのですから、やっぱりこの女、房枝といいましたかな、この房枝嬢も、連れていかなければなりません」  帆村は、うなずき、房枝の方を向いて、 「房枝さん、このミマツ曲馬団の火事には、いろいろうたがいがあるのです。火事を出したということよりも、火事のまえに起った爆発のことが、問題になっているのです。あなたも知っていることを、みんな警官に話してくださいよ」  と、注意を与えた。 「そうだ、帆村君のいうとおりだ」  部長の服をきた警官は、大きくうなずいて、 「房枝さん、あなたは、きっと知っているだろう。新聞には、ガソリンの樽がどうとかしたと書いてあるが、われわれは、そんなことを信じていない。どんな爆発物があったか、それを話してください」  帆村が来てくれたので、房枝に対する警官の態度は、にわかにていねいとなった。  房枝は、あの花籠のことを、いおうかどうしようかと思い、何の気なしに、ニーナの方をふりかえった。すると、さっきから房枝を見つめていたニーナは、なぜかあわてて目をそらした。    ひどい逆ねじ 「さあ、よくは存じませんが、あたしたちの曲馬団を爆破するかもしれないぞ、という脅迫状がきていたのです」  房枝は、ありのままをいった。そしてバラオバラコという名前のあった、その脅迫状のことをいった。 「その手紙を今持っていますか」 「いいえ、持っていません」 「どこにあるのですか。ぜひ見たいものだが。ねえ、部長さん」  と、帆村は、警官をふりかえった。 「そうだ、手紙を見れば、また手がかりもあるはずだ。その手紙はどうしたのですか」 「黒川団長が持っているはずです。団長さんは、ゆうべ重傷を負い、いまニーナさんのお邸でやすませていただいているのですわ」 「えっ、ニーナさんの邸?」  帆村は、そういって、ニーナの顔を仰いだ。 「そうです。あたくし、房枝さんと黒川さんとを助けました。ゆうべからけさまで、あたくし、いろいろ介抱しました。黒川さん、だいぶん元気づきましたが、まだうごかすことなりません」 「ほう、すると、ニーナさんは、ゆうべ黒川氏を助けてからのちは、一歩も外に出なかったのですか」 「そのとおりです。なぜ、そんなことを、たずねますか」 「いや、ちょっとうかがってみたのです。では、師父のターネフさんは、やはり邸にずっといられましたか。もちろん、ゆうべ、あなたがたが、房枝さんたちを助けて、邸に戻られてからのちのことをいっているのですが」 「ああ、師父ターネフですか。ターネフは、どこへも出ません。ゆうべは、ずっと邸にいました」 「あらっ、そうかしら」  房枝は、ニーナのことばに誤りがあるように思った。けさがたターネフを見かけたが、ターネフは疲れたような顔をしており、どこを歩いたのか、靴は泥だらけであったようにおぼえている。 「房枝さんは、師父ターネフが邸にいなかったことを知っているようだな」 「いえ、そんなこと絶対にありません。ターネフは、ずっと邸にいました」  ニーナは房枝に代って、ターネフが邸にいたといいはった。  部長が、なにかいおうとしたが、そのとき帆村が、それと目くばせをしたので、部長はなにもいわなかった。 「じゃあ房枝さんも、ニーナさんもとにかく一度向こうへいって、捜査本部の方の質問に、こたえられたらいいでしょう」  帆村は、別れのあいさつのかわりにそういった。 「あら、帆村さん。あたしを助けてはくださらないのですか」  房枝は、不服そうにいった。 「いや助ける助けないも、警官のいうところに従われたがいいでしょう。なにしろ、東京のまん中に原因不明の爆破事件が起るなんて、物騒なことですからね。当局はこういう方面のことについては、たいへん警戒をしているのです。知っていることはなんでも正直に話されたがいいでしょう」  帆村探偵のことばは、房枝にとって、なんだか冷やかに聞こえた。 「房枝さん、元気をお出しなさい」  とニーナが、かえって房枝をなぐさめた。 「ええ、ありがとう」  ニーナは、房枝の肩に手をかけて、 「房枝さん。警官たちは、あなたを不必要にくるしめています」 「な、なにをいう」  若い警官が、ニーナを叱りつけた。それは、始めに彼女たちをとりおさえた若い警官だった。 「あたくし、いいます」と、ニーナは、胸をはっていった。 「この爆破事件の容疑者は、すでにあなたの手に捕らえられているではありませんか。そのうえに、房枝さんをうたがうのはいけません」  ニーナは、妙なことをいいだした。 「なにッ!」 「あたくし、よく知っています。トラ十というあやしい東洋人が、あなたがたの手に捕らえられたはずです」 「えっ、それを知っているのか。どうして」 「そのあやしい東洋人トラ十は、ミマツ曲馬団の爆破が起って間もなく、三丁目の交番を走りぬけるところを、警官にとらえられましたのです」  おどろいた。全くおどろいた。警官たちも、帆村もニーナのことばには、おどろいてしまった。 「ニーナさん。あなたは、なぜそんなことを御存じなんですか。どこから知ったか、こたえてもらいましょう」 「ほほほほ。あたくし、公使館の人から聞きました。日本中のこと、なんでも、すぐわかります」 「えっ、公使館の人? とにかく、向こうへいって、もっとくわしく聞きましょう。さあニーナさんも、向こうへ歩いてください」 「いやです」  ニーナは、首をつよくふった。 「あたくしは、もうかえります」 「いや、かえることはなりません」 「いいえ、あたくし、あなたのような警官に自由をしばられるような、わるいこと、しません。あなた、たいへん無礼です。そんなことをすると、わが公使館は、だまっていません。むずかしい国際問題になります。それでもよろしいですか」 「うむ」 「ほほほ、あたくし、邸にいます。逃げかくれしません。話あれば、公使館を通じて、お話なさい。ほほほほ」  ニーナは、勝ちほこったように、警官たちの顔を見おろした。ニーナをおさえようとすればおさえられるが、こんな小さいことで、国際問題を起しては申訳ないと、このうえニーナをとめることを断念した。  だが、後日になって、メキシコ公使館へ連絡をしたところ、公使館では、ターネフやニーナはメキシコ人ではないから、公使館では、彼らのことで責任はおわないと明言した。が、そのときはもう、あとの祭だった。  それはさておき、ニーナは、にんまりと嘲笑をうかべたのち、こんどは房枝の手をとって、 「ねえ房枝さん。曲馬団だめになっても、あたくし、あなたを保護します。あたくしの邸へおいでなさい。そのうちお迎えにきます」といった。 「はあ、ありがとうございます」  房枝は、ほんとうに、感謝しているらしい。ゆうべからのニーナの親切が身にしみているからそういったのだろうが、それでいいのか。  そばで、帆村は、唇をかみながら、もくもくとして、ふかい考えにおちている。    仮面を取れば  うつくしいニーナ嬢は、ワイコフ医師の操縦する自動車にのって、邸へもどった。  玄関をはいって、大広間でガウンをぬいでいると、階段の上から師父ターネフが、いそいで下りてきた。 「おおニーナ。いまごろまで、なにをぐずぐずしていたんだ。下手なことをやったんじゃないかと、わしは気が気じゃなかったぞ」  ターネフは、いつになく、落着をうしなっていた。 「だって、あなたから命じられた、偵察任務をおえるまでは、現場を引あげるわけにはいかないではありませんか」  偵察任務と、ニーナはいった。房枝は、ニーナが、親切にも自動車で、現場までおくってくれたのだと思っていたが、そうばかりでもなく、ニーナは、偵察にいったのだという。 「ニーナ、二階へ来い」  ターネフは、そういって、また階段をそそくさと、上へあがっていった。ニーナは、ワイコフ医師にガウンをなげつけるようにして、師父のあとを追った。  二階に、ターネフの占領している広い部屋があった。南向きの窓からは、例の花畠が一目で見おろせる。  ターネフは、安楽椅子に、どっかと身をなげかけた。その前に小さいテーブルがあって、酒の壜と盃とソーダ水の筒とがのっている。ターネフは、およそ師父らしくない態度で、足をくみ、そして、酒のはいったコップをとりあげると、ぐーっとあおった。 「おい、ニーナ。お前は、もっと、用心ぶかく、そしてもっと、すばしこくやってくれないと困るよ。こっちの正体を、相手にかぎつかせるようでは、役に立たない」  ターネフは、きゅうくつな師父ターネフの仮面をかなぐりすてて、ターネフ首領をむきだしにしている。前にトラ十がずばりと指したように、ターネフは世界骸骨化本部から特派された極東首領であり、ニーナは、その姪でもなんでもなく、彼の部下の一人であったのである。 「バラオバラコの名で、房枝と黒川とを、うまく丸ノ内へつれだす計画だって、お前の不注意のため、トラ十にかぎつけられたんだ。そして、あべこべに、われら二人が、トラ十のために逆襲され、ぐるぐるまきにされて、自動車の中へとじこめられたときには、わしは腹が立って、気が変になりそうだった」  ターネフは、さかんにこぼすのだった。この話によってみると、バラオバラコは、ターネフとニーナのことであることがわかる。そして又、トラ十がとつぜん房枝たちを襲ったわけもわかる。  ニーナは唇をかんでいたが、このとき急に顔をあげ、 「あたくしばかりお責めになっては、不服ですわ。あなただって、ずいぶんまずいことをなさいましたわ」 「そうでもない」 「だって、そうですわ。けさ、現場からこの邸へおかえりになったところを、房枝に見つけられたことに気がついていらっしゃいませんの。現場で房枝を訊問した帆村探偵は、それをちゃんと悟ってしまったようですわ」 「えっ、そんなことがあるものか。探偵は、わしが、爆発事件の犯人だといったのかね」 「そこまで、はっきりいいませんが、部長の警官が『ターネフはあやしい、よくしらべなければ』といおうとするのを、あの探偵は、すばやくとめたんです。あなたにゆだんをさせておいたところを、ぴったりとおさえるつもりだと、あたしにらんだのですけれど。あなたは現場で、なにかまずいことをおやりになったのではないのですか」 「うむ」  と、ターネフは、眉を八字によせ、 「じつは、ちょっとまずいことをやってきたんだ」 「ああ、やっぱり、そうなのね」 「それを、ごまかそうと、いろいろやっているうちに、時間をとってしまったんだ。だが、まず警官たちに気づかれることはないと思うが」 「思うが、どうしたんですか」 「うむ、万一、気がつかれたら、わしは日本の警察官に対し、あらためて敬意を表するよ。とにかく、トラ十をあそこへひっぱり出したところまでは、実にうまく筋書どおりにいったんだがなあ」  そういって、ターネフ首領は、いまいましそうに舌打をした。 「万一、ここで分かってしまったら、かんじんの大仕事が出来なくなるではありませんか」 「ああ、そのこと、そのこと。じゃあ仕方がない。もう猶予はできないから、わしは荒療治をやることにしよう。お前はわしとは別に、房枝をうまく丸めて、例の計画をすすめるのだ」 「ええ、あの子のことなら大丈夫、ワイコフさんも、手を貸してくれることになっていますわ」  ターネフ首領、ニーナ嬢との密談は、近くなにか更に大事件をおこそうとしていることがうかがわれる。彼らは、いったい何をねらっているのであろうか。どんな陰謀を考えているのであろうか。しかもその日は遠くないようだ。気にかかる!    いまわしい疑い  ニーナは現場から大手をふって、かえっていったが、房枝の方は、そこにとめておかれて、捜査本部の取りしらべをうけた。  帆村探偵も、そばにいて、房枝の答えることをじっときいている。 「ニーナさんは、親切な方ですわ。あの方をあやしむのはまちがいだと思います」  房枝は、どこまでも、ニーナを弁護しているのだった。 「じゃあニーナのことは、それくらいにして、トラ十こと丁野十助のことだが、あいつは、ミマツ曲馬団へも一度雇われたいとたのんで来たのではなかったかね」  若い検事が、きびきびと質問をする。  房枝は、かぶりをふって、 「いいえ、そんなことを聞いたことはございませんわ。トラ十さんは、雷洋丸にのっているとき会ったきりで、こんど内地へかえってきてからは、丸ノ内のくらやみで会うまでは、まだ一度も会ったことがございません」 「ふーん。それは本当かね。まちがいないかね。トラ十は、ミマツ曲馬団へもう一度雇われたいと思って、いくどもたずねていったといっている。そのために、トラ十は、郊外のある安宿に、もう一週間もとまっているといっているぞ。本当に、トラ十が曲馬団をたずねていったことはないか」 「さあ、ほかの方ならどうか存じませんけれど、あたしにはおぼえがございません」 「それなら、もう一つたずねるが、トラ十以外の者で、誰かこのミマツ曲馬団に対して恨を抱いていた者はないか」 「あのう、バラオバラコの脅迫状のことがありますけれど」 「バラオバラコのことは、別にしておいてよろしい。そのほかにないか」 「ございません。ミマツ曲馬団は、皆さんにたいへん喜ばれていましたし、団員も、収入がふえましたので、大喜びでございました。ですから、ほかに恨をうけるような先は、ございませんと存じます」 「そうか。取りしらべはそのくらいにしておきましょう」  検事は、そういって、警官たちと、ひそひそとうちあわせを始めた。 「どうだ。もうこのくらいでいいだろう。トラ十をもっとしらべあげることにしよう」 「それがいいですね。そして、山下巡査が見つけた沼地についた大きな足あとが、トラ十の足あとであるという証明がつけばいいんですがねえ。あそこのところが合うように持ってきたいものですなあ」 「まあ、そのことは、後にするがいい」  と検事は、おしとめて、こんどは帆村の方に向き、 「おい帆村君。君は何かこの娘に聞きたいことはないか。許すから何でも聞いておきたまえ」 「はあ、それでは、ちょっと」  と、さっきから黙っていた帆村が、房枝の方へ向き直った。房枝は、帆付から何をきかれるのかと、ちょっとはずかしくなった。 「ちょっと伺いますが」  と、帆村は、意外にも、かたい顔を房枝の方に向け、 「あなたは、ミマツ曲馬団の誰かを殺害しようという計画をもっていたのではないですか」 「えっ、なんとおっしゃいます?」  帆村の問は、房枝をおどろかせたばかりではない。検事はじめ警官たちも、その問にはおどろいてしまった。それは房枝を爆破事件の犯人として疑っているようにも聞える質問だったから。 「じゃあ、もう一度いいます。あなたは、ミマツ曲馬団の誰かを殺害する考えがあったのではないですか」 「まあ、帆村さん、あまりですわ。と、とんでもない」  房枝は、肩をふるわせて叫んだ。  帆村は、なぜとつぜん、こんなことをいいだしたのであろうか。ならんでいる警官たちの目が、一せいに帆村の顔にうつる。 「あなたは、そういう考えのもとに、爆発物を、曲馬団のどこかに仕掛けておき、そしてあなたは、自分の体を安全なところへ移すため、丸ノ内へ出掛けていったのではないですか。一人でいくのは工合がわるいから、黒川新団長をさそっていった」 「まあ、待ってください。帆村さん。あたくしが、そんな人間に見えまして、ざんねんですわ」  房枝は、すすり泣きをはじめた。しかし帆村は、一向動じないかたい表情で、 「だから、バラオバラコの脅迫状も、実は、あなたが自分で作ったものであると、いえないこともない。あなたが安全な場所へ出かける口実を作るため、自分で脅迫状を出したのではないのですか」 「あ、あんまりです。あんまりです」  と、房枝は、とうとう泣きくずれてしまった。  それを見かねたものか、検事は、 「おい帆村君。その点は、われわれももちろん考えてみたが、この娘は、それほどの悪人ではなさそうだ。われわれもそのことについてはうたがっていないのだから、それでいいではないか」 「はい、それではどうぞ」  帆村は、かるくおじきをして、後へ下った。  房枝は、くやしくて仕方がなかった。帆村探偵は、りっぱな青年だと思っていたのに、なんというひどいことをいう人であろう。あろうことかあるまいことか、自分を殺人犯だとうたがうなんて、そんな仕打があるであろうかと、日頃の好意が、すっかり消しとんでしまった。  帆村は、ただ沈痛な顔をしている。彼の胸の中には、他人にいえない何かのなやみがひそんでいるもののようであった。    出迎人  房枝は、その夜は、警察署の保護室ですごした。  その翌日となって、房枝は、警察署を出ていいことになった。そのとき、ミマツ曲馬団の生き残り組の中に入っていたスミ枝も、一しょに出ることを許された。  スミ枝は、署の外に出ると、房枝のそばにすがりつかんばかりにして、一時もはなれようとはしなかった。 「房枝さん、どうぞ、あたしを残していってしまわないでよ、ねえ」 「大丈夫よ。これから、一しょに働き口をさがしましょうよ」 「ほんとう? うれしいわ、あたし」  と、スミ枝は、またつよく房枝の腕にすがりついて、 「ああ房枝さん。あたしの持っているこの包の中にね、あなたの持物も、すこしばかり入っているのよ」 「あら、そう」 「うちの曲馬団の向かいに、大きな工場があるでしょう」 「ええ、あるわ」 「あそこの工場の中へ、曲馬団の衣裳や道具なんかが、ばらばらと落ちたんですって、あたしあの翌朝、浅草の小母さんところを早く出て、曲馬団へかけつけたんだけれど、工場の前でうろうろしていると、工場の守衛さんが、あたしのことをおぼえていて、こっちに、お前のところのものがたくさん落ちてきたよといって見せてくれたのよ。話をきいて、びっくりしたけれど、あたし、欲ばりだもので、早速その品物を見せてもらって、自分のものを選って持ってきたのよ。ついでに、房枝さんのものも持ってきたわ」 「あら、スミ枝さんは親切ね」 「そういわれると、あたしはずかしいわ。だって、正直にいうと、房枝さんも死んでしまったろうから、房枝さんの形見をもらうつもりで、持ってきたんだわ。ごめんなさいね」 「形見だって、ほほほほ。本当に、もうすこしで、形見になるところだったわねえ」 「ごめんなさい。あとで見せるわね。あの、いつかの奥様みたいな方が持ってきた手箱もあるのよ」 「あら、そう、あのよせぎれ細工の手箱が」  房枝は、道子夫人からいただいた手箱が焼け残っていたと聞いて、とたんに、なつかしく、夫人のことが思い出された。 (ああ、あの奥様はあたしが死んでしまったと思っていられるかもしれない、安心をおさせ申すために、おたずねしなければならないけれど、つい、お所をうかがっておかなかったので、こういうときに困ってしまうわ)  と、ざんねんに思った。  それから、房枝は、忘れていた道子夫人のことを考えつづけはじめたが、とたんに、じゃまがはいった。 「おお、房枝さん」  いきなり、横町からとびだしてきた者があった。 「あら」  房枝は、おどろきの声を発したが、そのままスミ枝の手をとって、急ぎ走りぬけようとした。 「房枝さん、お待ちなさい」  よびとめたのは、ほかでもない、帆村荘六だったのである。  房枝は、どなりつけたいような、むかむかする胸をおさえて足早に歩いた。 「おお、房枝さん」  こんどは、別な声が房枝をよびとめた。なまりはあるが、カナリヤのようにきれいに澄んだ声だった。それはニーナだった。そばには、ワイコフ医師もいた。 「あら、ニーナさん」 「あたくし、待っていました。黒川さん、あなたに会いたがっています。すぐ来てください」 「あら、そうですか。どうしたのでしょう、容態でもわるくなったんじゃありません?」 「ええ、そうです、そうです。黒川さん、至急、あなたに会いたがっています。それからね、房枝さん。あたくし、あなたのために、しんせつなことを考えました」 「親切なことって」 「あなたを、あたしのところで、よい給料で働いてもらおうと思います。仕事は、むずかしくありません」 「そうですか。でも、あたし、この方と一しょに働こうって、約束したばかりなんですのよ」  といって、房枝はそばでけげんな顔をしているスミ枝を指した。 「おお、こちらのうつくしい娘さんですか。うつくしい女の人、たいへんよろしいんです。房枝さんと一しょに働いていただきましょう。その仕事、たいへんいい仕事です。くわしいこと、あとで話します。自動車が待っていますから早くのってください」  房枝とスミ枝が、顔を見合わせて、どうしようかと考えているうちに、ニーナは、自分の思ったことを、どんどんやった。道ばたに待っている自動車のところへ来ると、ワイコフに扉をひらかせ、二人をおしこむようにして、自動車にのせてしまった。 「あら、ちょっと房枝さん。すてきな自動車ね」  スミ枝は、もう自動車に気をうばわれてしまっている。  房枝は、走りだした自動車の窓外に、目を走らせた。電柱のそばに帆村が立って、じっと房枝の方を見おくっていた。 「ほほほ、房枝さんをおこらせた探偵さん、くいつきそうな顔していますね」  ニーナは、どこで知ったか、そういって、愉快げに笑った。ワイコフの操縦する自動車は、町の辻をまがって、国道の方へすべりこんでいった。  自動車が見えなくなってしまうと、帆村探偵は、たばこをとりだして火をつけた。 「房枝さん、あんたは、とうとう本気でおこってしまったようだね。はははは」  と、彼は口の中で、つぶやくようにいった。なぜか彼の顔からは、近頃のあのいたましいかげが急に取れ、その目は希望にかがやいていた。    花の慰問隊  それから一週間ほどしてのことだったが、都下の新聞やラジオのニュースによって、 「増産運動・花の慰問隊」  という風がわりな慰問隊が結成せられたことが伝えられ、国民をたいへんに感激させた。  その「花の慰問隊」というのは、うつくしい少女たちの集りで、そのうつくしい少女が、これはまた更にうつくしい花束をもって、東京にあるたくさんの生産工場その他を訪問し、朝から晩まで、機械と共働きをしている男女職工さんたちをなぐさめようというのであった。この「花の慰問隊」の訪問をうけた工場では、そこで働いている職工さんたちが、どんなに喜ぶかしれない。その結果、仕事の方もどんどんはかがいって、かならずいつもよりは、たくさんの品物ができることであろう。つまり花の慰問隊は、増産運動までをやろうというのであった。  この「花の慰問隊」結成のことは、ニュースがひろがっただけでも、たいへんなよい反響があった。  各新聞紙は、争うようにして、花の慰問団の写真をのせた。  そのときカメラの焦点は、つねに一人の明朗な、はつらつたる美少女に合わされていた。その少女こそ、ほかならぬ房枝であったのである。  花の慰問隊の少女たちは、はじめのうちは、数十名にすぎなかった。そして一日に、三、四箇所の工場をまわるにすぎなかったが、新聞や、ラジオでこのことが伝わると、日毎に参加の隊員がふえてきて、一週間たつかたたないうちに、隊員の少女たちは、三百余名という多数となった。  房枝は、いつとなしに、花の慰問隊長にあげられていた。  ニーナは、房枝の後援者であった。いや、もっとはっきりいうと、はじめから、この花の慰問隊をつくるのに力を入れていたのであった。しかしニーナのことは、どの新聞にも出なかった。それは全くふしぎなくらいであった。  だが、その理由は、ニーナと房枝との間に、かたい約束があったからである。即ち、慰問隊の結成は、すべて房枝がいい出したことにしておくことと、それからもう一つ、花の慰問隊のことを聞いて、ある富豪が、名前をかくしてかなりたくさんな金を、慰問隊のために寄附したこと、この二つのことを、ニーナは房枝にまもるように約束したのであった。その実、この寄附金は、すべてニーナのふところから出たのであった。といっても、ニーナのお小遣から出たのではなくて、もっとえらい筋から出ているのであった。今後も、入用なだけの金は、いくらでも房枝に渡されることに、ニーナとの話がついていた。  次の日曜日が、花の慰問隊の大会ときまった。これこそ表面はいかにもうつくしいが、一度その内幕をのぞくと、そこにはターネフ一派の実におそるべき陰謀がいままさに行われようとしているのであった。それは、どんな大事件をもたらすのであろうか。ターネフが「もはや荒療治のほかなし」と放言したが、その荒療治の日は、いよいよ近くに迫ったのであった。房枝は、そんなこととは、夢にも思っていない。ニーナたちをうたがうどころではない、ニーナのかくれた美挙にすっかり感激し、ニーナをすっかり信じかつうやまっているのであるからまことに困ったものであった。  帆村探偵は、今なにをしているのであろうか。  そしてついに、その日が来た。花の慰問隊の大行進! 東京の工場という工場が、うつくしい花束や、おそろしい爆薬を秘めた花籠で飾られる日が来たのであった。    あやしき見張  いよいよ今日の日曜日は、花の慰問隊の大行進! 東京の工場という工場が、うつくしい花束、いや、おそろしい爆薬を秘めた花籠でもって飾られるのだ!  その早朝のこと、例の城南の警察署へ、一台の帆自動車がすべりこんだ。  運転台にのっていた警官が、すばやく外へ下りて、自動車の扉をあけると、中から、度のきつい近眼鏡をかけた紳士がひらりととび下り、階段をあがって、さっと警察署の中に姿を消した。 「おう、田所検事だ。いよいよ御入来だな」  そういったのは、署の前の、煙草店から出てきたあやしい黒眼鏡の男だった。  彼はそういうと、横を向いて、道路の傍で故障になった自動車をなおしている修繕工らしい長髪の男に目くばせした。すると、修繕工はかるくうなずいた。黒眼鏡の男は、そのままそこを立ち去ったが、あとには長髪の修繕工が、いかにも体がだるそうに、ぼつぼつ自動車の修理にとりかかった。が、彼の目は自動車にそそがれるよりも、警察署の表口と裏口あたりにそそがれる方がひんぱんであった。どうしても張番をしているとしか見えない。  何者であろうか、こうして、警察署に気をくばっている曲者たちは?  そのとき署内では、大急ぎで駈けつけた田所検事を中央にかこんで、署長や司法主任や係官の刑事や巡査が、額をあつめて、会議の最中であった。 「そうか、昨日の午後四時か」  と、田所検事は、近眼鏡にちょっと手をかけて、目をしばたたく。 「ええ、午後四時でしたな。トラ十へ、これをさしいれたいから頼みますと、にぎりずしが一折と、鼻紙一帖とをもってきたのです。そこへ出たのが、この間、拝命したばかりの若い巡査だったが、『トラ十へ』という声に気がついて、その巡査を押しのけて前へ出て応接したのが、ここにいる甲野巡査です。甲野巡査の第六感の手柄ですよ。ははは」 「署長さん、第六感なんて、そんなものじゃないのです。そうもちあげないで下さい」  甲野巡査が、頭をかく。 「じゃあ、これから後のことを、甲野巡査から聞こう。話したまえ」 「は、検事さん。トラ十へ差し入れ、というので、私はぎくんときました。だって、これは秘密になっていますが、トラ十は五日前に、ここの留置場を破って逃げ出して、今はここにいないんです。だからうっかりしていると、トラ十なんか、ここにはいやしないぞといいたくなる。しかしそういっては、トラ十の逃げ出したことがばれる。私は前へとび出していくと、受付の巡査に代って『よろしい、ここへおいてゆけ』といったのです。そしてすしをもちこんだ当人の住所姓名をたずねると、トラ十の従弟で、この先のこれこれの工場に働いている者ですといって、すらすらと答えたんです。そこで私は、すしをうけとって『よろしい』というと、その男は帰っていきました」 「なるほど」  検事はうなずいた。 「さあ、そこですしの始末ですが、これには困りました。なにしろ、トラ十はここにはいないのですからねえ。もったいないが、われわれが代りに食べるというわけにもいかない。すしは、机の上においたなりになっていました。がそのうちに、思いがけない事件がもちあがったのです」 「ほう、猫の一件だな」 「そうなんです。私たちが、うっかりしている間に、警察署の小使が飼っている玉ちゃんという猫が、昨今腹が減っていると見え、いつの間にか机の上のすしを見つけ、紙包の横を食い破ると、中のすしを盗んで食っているのです。『ああ猫がすしを食べている!』と、誰かがいったときには、もう二つ三つは、玉ちゃんの腹の中に入っていたのでしょうが、皆がさわぎだして、玉ちゃんのところへ飛んでいったのですが、そのときどうしたわけか、猫は逃げもせず、そこにうずくまっているのです。そしてだらだらよだれをたらしている。『変だな』と思ったときには、猫は、とつぜん大きなしゃっくりをはじめ、それからさわぎのうちに、冷たくなって死んでしまったのです。すしの中には、毒が入っていたのですなあ」 「うむ、そうらしい。毒物は検定にまわしたろうね」 「もちろん、すぐまわしました」  とこれは署長がこたえた。  小使さんの猫玉ちゃんが、トラ十へさし入れのすしを盗み食いをして毒死した、という事件が、ここの署員たちをたいへん驚かせ、そして、田所検事へ急報せられたというわけであった。すしを持って来た男は、もちろん玉ちゃんを殺すつもりではなく、留置所につながれているトラ十を毒殺するつもりであったらしい。いったい何者であろうか、トラ十を殺そうとたくらんだ者は? そしてまた、なにゆえにトラ十の死が、望まれているのであろうか。ミマツ曲馬団の爆破事件以来、大活動をしている田所検事の最大の興味は、実にその点にあったのである。    裏をかく棺桶  田所検事を中心に、会議はつづけられる。 「帆村荘六から、何か連絡はなかったかね」  検事が思い出したようにそれをいった。 「ああ、帆村君の連絡ですか。このところ、さっぱり何もいってこないのですがね」  と署長はいって、部下の顔を見まわし、 「おい、誰か、帆村君の消息を知っている者はおらんか」  だが、誰も、これに答える者はなかった。一体帆村荘六はどこで何をしているのであろうか。房枝をすっかり怒らせてしまい、彼のところから房枝が逃げてしまった後、彼はどこかへ姿をかくしてしまった。 「今日は、帆村君の気にしていた花の慰問隊の大会日ですから、もうそろそろどこからか、帆村君が現われなければならぬ筈ですがねえ」 「昨夜、ここで起った毒ずし事件のことを、帆村荘六に早く知らせてやりたいものだが、連絡がないのじゃ、どうにもしようがないね。ええと、時刻は今、午前八時か」  田所検事は、時計を見ながら、しきりに帆村の出現を気にしている。 「田所さん。すると毒ずしの件の方は、大急ぎで手を入れてみますか、それとも、もうすこし形勢をみることにしますか」  署長は、たずねた。 「そのことだよ」と、田所検事は、改まった顔で一同を見まわし、 「毒ずし事件は、よほど考えてやらないと、せっかくの大魚をにがすことになる。そこで、さっきから考えていたわけだが、ここで一つ、大芝居をうとうと思うんだが」 「大芝居?」  検事が大芝居などといいだしたので、一座はおどろいて目をぱちくり。 「大芝居というほどのものでもないが、さっそく棺桶を一つ、署内へ持ってこさせるのだ」 「はあ、棺桶を。棺桶をどうするのですか」  署長は、検事が何をいいだすことやらと思い、たずねかえした。 「その棺桶には、人間と同じくらいの重さのものを入れ、そのうえで、蓋には釘をうち、封印をしてトラ十の泊っていた、あの安宿へ持っていくのだ」 「ははあ」 「つまり、トラ十は署内で死んだから、屍体を下げ渡す。だから知合の者が集まり、通夜回向をして、手篤く葬ってやれとむりにでも、宿の主人に押しつけてしまうんだ」 「なるほど。毒ずしをトラ十が食べて死んでしまったという事実の証明をやるわけですね」 「そのとおりだ。すると、犯人の方じゃ、うまくいったと安心をし、そして、油断をするだろう。それから後のことは、いうまでもあるまい」 「なるほど、なるほど。それは名案の芝居ですなあ。しかし、その棺桶をそのまま焼場へ持っていかれては、芝居だということが分かってしまいますねえ。なにしろ、棺の中には、トラ十の身代りに、沢庵石か何かを入れておくわけですから、火葬炉の中でいくら油をかけて焼いてみたところが石は焼けませんからね。あとで、うそだということがばれてしまいます」 「なあに、問題は、今夜だけしずかにお通夜をさせればいいのさ。明日になれば、トラ十の死因について、すこし疑わしいことがあるから、改めて警察署へ引取るからとか、何とかそのへんはよろしくやればいいじゃないか」 「わかりました。それなら、きっとうまくいきます。じゃあ、早速芝居にかかりましょう」  田所検事の計略によって、ありもしないトラ十の屍体が棺の中に収められて、警察署の裏口から運び出された。そして例の安宿へ届けられたのであった。  宿の方では大さわぎとなった。しかし警察署からの話でもあるし、持ちこまれた棺を押しかえすこともならず、とうとう筋書どおりに通夜回向をすることとなり、近所の長屋のおかみさんや老人などが、ぼつぼつ花や線香をもって集まってきた。  すっかり、筋書どおりにうまくいった。  このてんまつは、警察署の前で張番をしていたあやしい自動車修繕工の目にも分かりすぎるほど映り、すっかり彼を有頂天にしてしまった。彼は棺のあとに見えがくれについて、例の安宿へ送りこまれるところまでたしかめた。そのうえで再び署の前へとってかえし、その実、別に故障もしていない古自動車の運転台にとびのると、いそいでエンジンをかけ、走りだした。それはもちろん、このてんまつを報告するためであった。覆面の犯人たちは、まんまと一杯、田所検事の計略に、ひっかかってしまったわけだった。    かたみの手箱  その朝、房枝は、ニーナ邸で、早くから目をさました。  傍のベッドでは、スミ枝がいい気持そうに寝込んでいた。まるでお伽噺にあるお姫さまのような豪華なベッドに、ふっくらと体をうずめてねむっているのであった。  房枝は、窓ぎわへいって、カーテンをそっとあけて、下を見おろした。花壇には、今もうつくしい花が咲き乱れていた。いくらきってもつんでも絶えることのない珍しい花であった。  つばのひろい麦わらの帽子をかぶった庭男が、しきりに花の間をくぐって、如露で水をやっているのが見えた。  そういう庭男が、あっちに一人、こっちに一人、二人で水をまいていた。  今日の花の慰問隊の集合は、午後一時ということになっていた。場所は日比谷公園であった。それから各工場へ、手わけして花の美女隊が、大行進を始めることになっていた。午前中は工場の増産能率を害するというので、このように午後の出勤と決められていたのである。  今日の花の大慰問が終れば、これで当分一段落となる。房枝の体も、明日からはあくことになるので、さてそのあとは、どんなことをして暮そうかと、そのようなことが、はや気がかりになった。ニーナは、いつまでも、房枝の生活の面倒を見てくれるつもりかもしれないけれど、そういつまでも厄介になるわけにはいかない。  房枝は、またベッドのところへ戻ってきて、そのうえに腰をおろした。スミ枝は、まだねむっている、すうすうと気もちよさそうないびきまでかいて。  房枝は、手をのばして、枕許においてあった手箱を手にとった。  よせぎれ細工の手箱であった。これは、房枝の大好きな彦田博士の夫人道子から贈られたものであった。そしてミマツ曲馬団大爆破のとき、二、三百米先の工場の中へとびこんでいたのをこのスミ枝が取りかえしてきてくれたのであった。  房枝は、その手箱を胸のうえに、そっと抱きしめた。 「ああ、そののち奥様にもずいぶんながくお目にかからないような気がしますわ。あたしの大好きな奥様は、おたっしゃでいらっしゃるでしょうか。このまえは、奥様のお身の上をお案じ申すあまり、『どうかもうお帰りになってくださいまし、そして、もう二度とこんなところへは、おはこびになりませんように』と、そのような失礼なことを申し上げました。お怒りになりましたかしら。お怒りになっては、房枝は悲しゅうございますわ。あたくしは、奥様とお別れするのは、どんなにかつらいことでございました。でもあたくしは、そうしなければならなかったんでございます。なぜと申しまして、あたしたちミマツ曲馬団の者は、たえず、あやしい者に狙われていました。ですから、そのそば杖が、万一奥様のお身にあたるようなことがあれば、あたくしは、どんなにか心ぐるしいのでございます。あたくしの手足が千切れることよりも、奥様の一本のお指から赤い血がふきだすことの方がよっぼど悲しいのでございます。ああ奥様、房枝は、大好きな奥様にお目にかかれなくてさびしいのでございますけれど、こうして、じっとこらえております。ただ奥様の御安泰をのみ、おいのりいたしております」  房枝は、道子夫人の手になる手箱に、そっと頬ずりをして、 「でもここに、奥様のあついお情のこもった手箱がございますので、房枝は、どんなにか、なぐさめられているのでございますわ。奥様は、手芸にも御堪能なのですわねえ。ああ、おそばに毎日おいていただいて、奥様から手芸をおしえていただくことが出来たら、房枝はどんなに幸福でしょう。ああ、だめです、そんなこと。房枝がミマツ曲馬団の生き残り者である間は、どこからかおそろしい悪魔が、今にもとびかかってきそうな姿勢で、こっちをにらんでいるのです。そういう禍をもって、どうしてあたくしが、奥様のおそばへまいれましょう」  房枝は、いつになく、感傷な少女になりきってなげくのであった。 「あーら、房枝さん。泣いたりして、どうしたのよう」  ねむっていると思っていたスミ枝が、むっくり頭をあげて房枝によびかけた。 「あら、スミ枝さん。あたし、泣いてなんかいないわよ」 「あんなことをいっているわ。ああ、よくねちゃった。ここは天国みたいね」  スミ枝は、ベッドから飛び下りた。そして部屋の隅の洗面器の前に立って、鏡に顔をうつして、あかんべえをやった。 「そうそう、房枝さん。その手箱ね。一個所だけ、よせぎれの色がかわっているんだけど、あの爆発で、色がかわってしまったのかしら」  ふしぎなことを、スミ枝がいい出した。 「あら、そんなことがあるかしら。スミ枝さん、それはどこなの」 「ちょっと、ここへ持ってきてごらんなさい」  スミ枝は、ピンを口にくわえて、髪を解きながらいう。 「ほーら、ここよ。ここのところだけ、色がちがうでしょう」 「ああ、ここね。これは昔の安いメリンスの古ぎれね。ほかのところのよせぎれが、ちりめんだの、紬だの、黄八丈だののりっぱなきれで、ここだけがメリンスなのねえ。でも、これは爆発で色がかわったのではなくて、もともと、これはこんな色なのよ」 「そうかしら、でも、へんね」 「なぜ」 「でも、へんじゃないの。そこのところだけ、安っぽいメリンスのきれを使ってあるなんて、どうもへんだわよ。きれが足りなかったんだとは、思われないわ」  スミ枝が、無遠慮に、いいはなつところを聞いていると、なるほど、へんでないこともなかった。房枝は、その色がわりの安いメリンスのきれに、じっと目をおとしていたが、 「あら」と、とつぜん叫んだ。 「なによ。房枝さん。どうしたの」 「いえ、このメリンスの模様ね、梅の花に、鶯がとんでいる模様なんだけど、あたし、この模様に何だか見覚があるわ」 「あら、いやだわ」  スミ枝が、ぷーっとふきだした。 「スミ枝さん。なぜ、おかしいの?」 「だって、梅の花に鶯の模様なんて、どこにもあるめずらしくない模様よ。それをさ、房枝さんたら、何だか見覚があるわなんて、いやにもったいをつけていうんですもの」 「ほほほほ。そうだったわねえ。梅に鶯なんて、ほんとうにめずらしくない模様だわ。ほほほほ。でも」  つりこまれたように、房枝は高らかに笑ったが、そのあとで、やはり小首をかしげる房枝だった。 「あーら、いやな房枝さん。まだ、はっきりしないの」 「でも、あたし、この模様、たしかに見覚があるのよ。もうこのへんまで思い出しているんだけど、そのあとが出てこないのよ」  房枝は、そういって、頸のところへ手をやった。スミ枝が栓をひねって、湯をじゃあじゃあ出しはじめた。    地下室の密議  そこは窓のない部屋だった。  壁のところには、配電盤や棚のようにかさねた高級受信器などの機械類が並んでいた。  二人の外人が、電信をうけていた。  どうやら、ここは地下室らしい。  ことんことんと、靴音が近づいてくる。階段を下りてくる音らしい。一人ではない。二、三人であった。  入口の扉についているベルが鳴った。  扉がひらいた。  電信員がふりかえるとその目の前に、ぬっと現れたのは、ターネフ大佐とニーナ嬢、それにワイコフ医師の三人づれだった。電信員は、はっと敬礼をすると、また元のように機械の方を向いて、電鍵を叩きだした。 「ここなら、大丈夫だ、まあ、そこへ掛けろ」  ターネフは、二人にいって、自分で、室のまんなかにある卓子の方へ椅子をもっていった。  ニーナもワイコフも、てんでに椅子をはこんで腰をかけた。 「あの日本人の娘どもは、もっとおとなしくさせるわけにいかないのかい。どこの部屋でも、えんりょなしに入ってくるので、始末がわるい」  ターネフ首領は、にがい顔だ。 「でも、あれをへたに禁止すると、かえってあの娘たちに警戒心を起させますわ。今日一日のことですから、辛抱していただかなければ」  と、これはニーナの弁明である。 「ふん、まあ、これはいいとして、例の方は、手ぬかりないだろうな」 「ええ、準備は、もうすっかりついています。今回同時爆発をとげる工場の数は、全部で五十六ということになっています」  ワイコフ医師は、とんでもない報告をするのであった。 「同時爆発というが、まちがいないだろうかねえ。時刻がきちんとあわないと、どじをふむからなあ」 「その点は、大丈夫です。ものの五分と、くいちがいはないはずです。すっかり試験をしてありますから、まちがいなしです」 「銅板を酸がおかして、穴をあけるまでの時間だけ、もつというわけじゃな」 「そうです。つまり、時計仕掛よりも、この方が場所もとらないうえに、発見される心配がないのです。銅板の厚さと酸の濃度からして、発火時刻は、今夜の九時ということになっています」 「えっ、九時か、九時は、いけないよ。午後四時に爆発させなきゃ効目がうすい」 「九時にするようにと、御命令がありましたが」 「うん、はじめはそういった。しかし九時はいけないよ。どうにかして、四時爆発ということにならないか」 「困りましたな。全部やりかえるとなると、今からやっても、もう間に合いません」 「ふん、ちょっと、ぬかったな。いや、わしも注意が足りなかったのじゃ、じゃあ、仕方がない、午後九時の爆発で我慢をするか」 「九時でも、相当きき目があると思います。つまり工場には番人だけしかおりませんから、爆発が起れば、貴重な機械は完全に壊れるうえに、火災が起っても、人手が足りないから、どんどん延焼していきます」 「だがなあ、ワイコフ。午後四時の作業中に爆発をやった方がもっと効目があるぞ」 「そうですかしら。私は反対のように、考えますが」 「お前は、あたまがまだよくないぞ。いいか、作業中にやれば、五十六箇所の工場の機械が壊れるうえに、そのそばにいた何千人何万人という熟練職工がやられてしまうじゃないか。機械と職工とこの両方をやっつけてしまえば、ここで日本の生産力というものはどんと落ちる。機械と職工との両方を狙うのが、うまいやり方なんだ、どうだ、これでわかったろう」 「なるほど、一石二鳥という、あれですね」 「機械だけで、いいじゃありませんか。職工まで殺すなんて、ちと野蛮ね」  ニーナが口をはさんだ。 「野蛮もなにもない。あたりまえだ。機械はすぐにも他の国から入れて、いくぶんは補充がつく。しかし腕のいい技師や職工は、そんなわけにいかない。だから両方やっつけるのが一番いいのだ」  ターネフはひとりで悦に入っている。実におそろしい破壊計画であった。こういう計画をたてる世界骸骨化クラブの大司令は、鬼か魔か。 「それから、例の極東薬品工業株式会社の爆発は、念入りにやってくれよ。彦田博士も一緒にやっつけてしまわねばならないが、博士はこの頃いつも工場に泊っているそうだから、多分うまくいくだろう。あの優秀な博士は、どうしても生かしておくことは出来ない」  ターネフのいうことは、どこからどこまでも、日本にとって一大事のことばかりであった。いや、日本だけではない。東洋、いや全世界の文明力を破壊し、世界人類の幸福をぶちこわすおそろしい陰謀なんだ。この陰謀の巣の地下室は、どこにあるのかと思うと、これが意外にも意外、例のうつくしい花壇の真下にあるのであった。  時間の歩みのおそろしさよ。  未曾有の大事件は、刻々近づきつつある。  帆村探偵は、どこにいるのか。トラ十はどこへ逃げたのか。  ここに、ただ一つふしぎなるは、例の美しき花園に水を撒く庭番が、いつになく帽子を深々とかぶり、そしていつになく忠実に花の間にうずまって、仕事に精を出していることであった。    夫人のなげき  花の慰問隊は、一せいに日比谷公園から、進行を開始した。ターネフ首領邸から、ここへ運ばれてきてあった数千のうつくしい花束と花籠とは、少女たちの胸に抱かれ、飾りたてられたトラックの上にのせられ、そこから全市の各工場地帯に向かって出発したのであった。房枝の組は、城南方面であった。  この方面には、十台のトラックがつづいた。どの工場でも、工員たちから、ものすごい歓迎をうけた。 「まあ、きれいな花籠だこと」 「こんなに沢山もらっていいんですか。これはどうも、すみませんですなあ」 「いいえ。皆さんの御奮闘に対して、ほんのわずかの贈物なんですの。それを、たいへん喜んでいただいて、あたくしたち花の慰問隊一同、こんなうれしいことはございませんわ」  こんな会話のやりとりが、どこへいっても、工員たちと房枝たちとの間にとりかわされた。美少女たちの頬は、トラックの上で、すっかり紅潮して、花にもましてうつくしく見えた。  彦田博士の極東薬品株式会社の前でも、この花と少女のトラックは止まった。そして、一番見ごとな花籠が贈られた。  社長の彦田博士は現れなかったが、副社長以下の幹部が、門前に総出となって、花の慰問隊を出迎えた。  房枝たちが、その花籠を贈呈している途中で、会社の玄関から、一人の上品な夫人が現れた。その夫人こそ、彦田博士の夫人道子であったが、夫人は、目のさめるような大花籠にしばらく気をうばわれ、たたずんでいるうちに、さっと驚きの色が浮かんだ。それは、思いがけない房枝の姿を見つけたからであった。 「まあ、あなたは房枝さんでしょう。まあまあ、房枝さんでしたわね。よくきてくだすったのね。こんなところでお目にかかれるなんて」  夫人は、房枝のそばへ駈けよって、うれしさのあまり、ついに声が出なくなったほどであった。 「奥様は、どうして、こんなところに」  挨拶がすんでから、房枝が、ふしぎそうにたずねた。 「ああ、そのことですの。実は、この工場は、私の主人が建てて、社長をしていますのよ」 「御主人?」 「そうですの。彦田と申します」 「あ、彦田博士! まあ、そうでしたか。すると奥様は、彦田博士の御夫人でいらっしゃつたのですねえ。まあ、目と鼻にいましたのに、すこしも気がつきませんでしたわ。こんないい工場、そしてあんなにりっぱな御主人! 奥様は日本一御幸福ですわねえ」 「そうでもありませんわ、第一、私たち二人きりで子供がありませんもの。こんな不幸なことはありませんわ。まあとにかく、皆さんこっちへお入りになって、しばらく、休んでいってくださいまし。お茶の用意をしてございますから」  道子夫人は、そういって、房枝たちを工場の応接室へ案内した。そこには、心づくしのお菓子と茶が並べられてあった。  房枝は、その厚意に感激しながら、夫人のそばで茶を御馳走になった。 「房枝さん。いつも私が、お話したいと思いますが、むかし、主人との間には、一人のかわいい女の子がいましたのよ」 「そのようなお話を伺いました。で、そのお嬢さまは、どうなすったのでございます」 「おはずかしい身の上ばなしになりますが、その当時、研究狂といわれた主人と私はその日の食べものにも困り、そのうえ私が病気になってしまい、一家はどん底の暗黒におちました。まだ始めての誕生日もこない娘は、私の乳が出ないために、昼も夜も私のそばで泣きつづけてやせていきますの。ついに主人と私とは死を決心しました。しかし娘は死なせたくない。なんとか助かるものなら人のおなさけにすがっても、助けてやりたいと思い、心を鬼にして、ある露地に棄ててしまったのです」 「まあ」 「しかし、私たちは、すぐそれがまちがっていたと気がつきました。そこで、息せききって、娘を棄てた露地へ引返したのですが、そのときはもうおそかったのです。ほんの十分か十五分しかたちませんのに、娘の姿はもう見当りません。私たちは、必死になって娘をさがしまわりました。いいえ、今もなお、私たちはあらゆる手をつくして、娘をさがしつづけているのです、しかしわが子を棄てた罪を、神様はまだお許し下さらないものと見え、娘は未だに私たちのもとへ帰ってこないのです」  夫人は、ハンケチを目にあて、肩をふるわせて忍び泣くのであった。 「まあ、なんてお気の毒なお話しでしょう」  じっと聞いていた房枝は、その話が、他人事とは思えなかった。彼女の身の上にも、それと同じような話がある。房枝は、父母の顔も名もしらない淋しい孤子であった。こうして道子夫人の話を聞いていると、なんだか彼女自身が、道子夫人のさがしている棄てられた愛児のように思えてくるのだった。房枝の胸は、早鐘のようになりだした。 「ねえ、奥様。お棄てになったそのお嬢さまの名は、なんとおっしゃいますの」  ついに房枝は、思わずそうたずねてしまった。    光明 (お棄てになったお嬢さまの名は、なんとおっしゃいますの?)  夫人が、なんと答えるであろうか。もしも(その名は、房枝といいますのよ)といわれたら、房枝はどうしようかと、胸がわくわくした。多分彼女は、喜びにたえきれなくて、その場に卒倒するかもしれないと思った。 「娘の名でございますか。それは」  と、夫人は口ごもりながら、房枝の顔を穴のあくほど見つめた。 「あのう、娘の名は、小雪と申しますの」 「小雪? 小雪ですか。それにまちがいありませんの」  房枝は失望のあまり、わっと泣きだしたいのを一生けんめい唇をかみしめてこらえていた。 「ええ、小雪ですの。人様の手に渡っても、一旦私たちがつけてやった名前は、ぜひ名のらせたいと思い、メリンスの袷の裏に、娘の名を赤い糸で縫いとっておきました。房枝さん、もしや、あなたの本名は小雪とおっしゃるのではありませんの」  夫人の声は、ふるえる。 「いいえ、とんでもない、あたくしの名は、小さいときからただ一つ、房枝なんですわ」 「まあ、でも」 「あたくしは、生れてからずっと曲馬団の娘なんですわ。どうして、奥様のようないい方を、母親にもてるものですか。ごめんあそばせ」  房枝は、その場にいたたまらなくなって、スミ枝たちにはかまわず、一散に外へ走りだしたのであった。  何もしらないトラックの運転手は、いよいよ帰るのだと思って、運転台へとびのった。そのうちに慰問隊の少女たちは、ぞろぞろと工場の中から出てきた。ただ一人スミ枝だけが、なかなか出てこなかったが、しばらくして、ようよう道子夫人と一緒に出て来た。スミ枝が最後に車上の人になると、トラックはうごきだした。房枝は、うずくまって、手で顔をおおったままついに頭をあげなかった。  賑やかな拍手をもって花の慰問隊を送る工場の人々に交って、道子夫人の顔だけが、ひとり憂にとざされていた。  慰問隊は、一旦日比谷に引揚げ、そして夕方の六時近くになって、めでたく解散した。  房枝は、スミ枝をさそってそばやに入った。そしておそばを二つとったが、房枝はついに箸をつけず、スミ枝の方へ押してやった。  そこを出ると、房枝は、わざわざ暗い裏町をえらぶようにして、ただ黙々としてあるきつづけるのであった。困ったのは、そばについて、一緒にあるかされているスミ枝だった。何を話しかけても、いつになく強情に、房枝はへんじ一つしなかった。 「ねえ、房枝さん。あんた、いじわるね。あたしにあいたいとか、かゆいとかぐらいへんじをしても、ばちがあたりゃしないでしょう」  スミ枝は、とうとう怒り出した。それでも房枝は、頑としてへんじをしなかった。これにはスミ枝も、全く手をやいてしまったが、ふと思い出して、 「そうそう、房枝さん。あのいい奥様が、あたしかえろうとすると、それを引止めて、こんなことをいったわよ。あの、いつだか、あの奥様があんたにくれたあの手箱ね、あの手箱に張ってあるメリンスのきれがあるでしょう。あのメリンスのきれに、あんたがおぼえがないか、きいてほしいといってたわよ。あのきれは、奥様が自分の棄子に着せてやった袷の共ぎれなんだってよ」 「えっ、スミ枝ちゃん、何だって」  今の今まで、ろくにへんじもしなかった房枝が、これをきくと、急にものをいいだした。スミ枝は、あきれながらも、房枝が口をきくようになったことをよろこんで、くりかえし説明をした。 「あら、あたし、思いだしたわ」  房枝は、瞳を輝かせた。 「どうしたのよう、房枝さん」 「あ、たしかに、あれにちがいないわ。ねえスミ枝さん。あたしのお守袋の中に、あの手箱と同じ梅に鶯の模様のメリンスのきれで作った小さい袋が入っているのを思いだしたのよ」 「それ、ほんとう。じゃ、見せてごらんなさい」 「あ、そのお守袋は、ここにはないのよ」 「じゃ、しょうがないじゃないの。どこへやってしまったの」 「黒川団長の胸にかけてあんのよ」 「あーら、なぜそんなことを」 「だって、黒川団長が、あのとおりの大怪我で重態でしょう。なんとか持ち直すようにと、あのお守袋を胸にかけてあげたのよ。じゃ、これからすぐ、黒川団長のところにいってみましょう。あたし、それが同じだかどうだか、早くしらべてみたいわ」  そこで、房枝とスミ枝とは、いそいで黒川の寝ているターネフ首領邸へ急ぐこととなった。黒川は、あれ以来、ずっと屋敷の一室に、呻吟しているのであった。  はたして、そのお守袋の中にあるものは、あの小箱と同じきれであるか。房枝は、胸をおどらせているが、たとえそれが同じきれであったとしても、房枝は房枝であり、決して小雪ではないから、さわいでも無駄なのではあるまいか。しかし房枝の胸は、わくわくして仕方がなかった。    一大事近づく  ターネフ首領邸へ、こっそり帰ってきた房枝とスミ枝は、そっと黒川団長の寝ている部屋へすべりこんだ。  黒川団長は頭部に繃帯をして、苦しそうな寝息をたてて眠っていた。  房枝は、スミ枝に目くばせをすると、手つだってもらって、黒川の胸にかけてあったお守り袋の紐を切り、そっとはずした。  房枝の手は、ぶるぶるとふるえている。やはりスミ枝の手を借りて、お守袋を開き、中からうすよごれた小袋をとりだした。そのとき、房枝は、はっと息をのんだ。 「あ、同じきれよ」  房枝は、メリンスのきれで出来たその小さい袋を、しばらくひっくりかえしていたが、やがて気がついて、その小袋をあけて、中に入っていた神社のお札を出し、それから小袋の裏をひっくりかえして見た。そこには、大きなおどろきが待ちかまえていた。 「ああ、スミ枝ちゃん」  房枝は、おどろきとうれしさとに、あとがいえなくて、ぶるぶるふるえる指先で、その小袋の裏を指すだけであった。  その袋の裏には、赤い糸で「小雪」という字が縫いとってあった。  ああ、小雪! 今こそ、房枝は、自分の本名が小雪であったことをはっきりと悟ったのである。そして自分が、あのやさしい彦田道子夫人の一粒種であることを知ったのであった。多分このお守袋は、彼女がミマツ団員の誰かに拾いあげられた当時、気のきいた女団員が、後日のために、ひそかに二重のお守袋をつくって、房枝の膚につけ、きせておいたものらしい。房枝とは幼少からの芸名だったのだ。 「やっぱり、あの奥様は、房枝さんのほんとうのお母さまだったのね。あたしも、うれしいわ」  スミ枝はそういって、房枝の手をとった。 「ありがとう。ありがとう」  房枝とスミ枝は、抱き合ったまま、声をあげて泣きだした。これが泣かずにいられるであろうか。  かくして、房枝は、彦田博士の実子であったことが確定した。  房枝のよろこびはもちろん大きいが、これを彦田博士や夫人道子が知ったら、どんなにおどろき、そしてよろこぶことであろうか。一刻も早く、道子夫人のところへ駈けつけて、名乗をあげなければならない。  だが、ここに、心配なことがある。房枝は、はたしてこれから両親の前に出て、なつかしい膝に顔をうずめることが出来るであろうか。なぜならば、おそろしき呪の爆薬の花籠は、やがてものすごい音響をあげて爆裂することになっているのであった。深夜の研究をつづけている彦田博士のそばには、その花籠が飾られてあるのであった。  房枝は、そんなことは知らず、ただもう夢中でよろこんでいたが、彼女のうしろには、まっ黒な悪魔が立っているのだ。 「おいおい、誰じゃ、そこにいるのは」  眠っているとばかり思ってた黒川団長が、いつの間にかベッドの上に目をあいていた。房枝とスミ枝は、涙をそっと拭いて、黒川の枕許に近づいた。 「ああ、房枝か、もう一人は、スミ枝だな。ここはどこだろうね」 「ターネフさんのお邸ですわ」 「なに、ターネフさんのお邸? はてな、ターネフさんが何か重大な事件が起るといっていたのを、おれは耳にしたんだが、あれはどんな事件だったかしらんか」 「え、重大事件とは」 「ええと、待てよ。そうそう爆薬を仕掛けた花籠を、都下各生産工場へくばって、今夜何時だかに、一せいに爆発させるとか」 「ええっ、黒川団長。もっとくわしく聞かせてください」  そこで黒川は、はからずも、ターネフたちの会話を耳にした話を、房枝たちにしておどろかせた。しかしかんじんの爆発時刻が、いつだったか、黒川は思いだせないのであった。午後五時だったか、八時だったか、それとも九時だったか。  しかし、とにかく時刻は切迫していることだし、事件が事件だから、すぐその筋へしらせなければたいへんであったから、黒川団長は重態の身をもかえりみず、房枝とスミ枝とを急がせて、ひそかにターネフ邸をぬけだしたのであった。  爆発の予定時刻は、午後九時だった。ターネフ首領たちは、その時刻、全市に捲きおこる連続爆音と天に冲する幾百本の大火柱を見んものと、三階の窓ぎわで酒をのみながら、時刻の来るのを、たのしげに待っていたのである。    大団円  正確にいうと、午後九時一分前だった。  極東薬品工業株式会社の、社長研究室の入口の扉を蹴やぶるようにして、中へとびこんできたものがあった。  今夜は、めずらしくも、博士夫人道子が同じ室にいて、博士の仕事の終るのを待って、編物をしていた。夫人がびっくりして立ち上った。 「まあ、あなたは房枝さん」  とびこんできたのは房枝だった。髪はふりみだれ、顔は火のように赤く、胸は波をうっていた。 「花籠は? あっ、そこにあるのが、そうですね」  房枝は、卓子の上においてあった、例の花籠を見つけると、走りよって小脇に抱えた。 「あら、房枝さん」 「この花籠は、あと二、三十秒で爆発するのです」  房枝は駈けだしながら、 「お名残りおしゅうございますが、これが小雪の最後の孝行ですの。お父さま、お母さま、おたっしゃに」 「えっ、小雪。ああお待ちなさい。あなた、あの娘は、自分で小雪だと申しましたよ」 「ふーん、そういえば成程。おい、よびかえさなければ、おれにつづけ」  博士と道子夫人とは、房枝の後を追うため、つづいて走りだした。  だが、はたして、房枝に追いつくことが出来るであろうか。爆発の時刻は、午後九時、もうすぐそこに近づいている。房枝は、両親と大切な生産力の一つである工場とを救わんがために、一命を捨てる決心をし、今爆薬の花籠を抱いて、爆発しても被害のすくない安全な場所を求めて死の駈足をはじめたのであった。  ここではちょっと脇道へそれるが、青年探偵帆村荘六の姿を、読者のみなさんにお知らせしたい。  帆村荘六は、今、愛宕山の上に立っている。そこには、警視総監をはじめ、例の田所検事やその他、要路のお歴々が十四、五名もあつまり、まっくらな山の上で、何ごとかを待っているのだった。 「おい、帆村君。時刻は、あと一分だが、ほんとうに大丈夫だろうね」  そういったのは田所検事であった。 「何度でも申しますが、大丈夫ですとも。彦田博士の発明した新X塗料は、十分信用してもいいのです。私は、この実験にも度々立ち合い、それが爆薬にはたらいて、無力にしてしまうところを、十分に見て知っています。だから心配なしです。今度こそ、彦田博士の新発明の爆発防止塗料が、いかにすばらしい力をもっているかを証明する大がかりな実験日ですよ」 「そうね、とにかく、もうすぐ午後九時がくる。しかし万一博士の塗料が効目がなくて、都下の生産工場が一せいに爆発したとしたら、僕たちは申訳に切腹しても、追いつかないよ」 「大丈夫ですよ。科学の力を信じてください。ほら、もう九時を過ぎましたよ。一分過ぎになりました。どこからも、爆発の音がきこえてこないではありませんか」 「なるほど、定刻を一分以上すぎた。これは妙だ。君のいうとおりだ」  といっているとき、夜の静寂を破って、どどーんの一大音響が聞え、愛宕山が、地震のように動いた。それと同時に、山手寄りの町に炎々たる火柱がぐんぐん立ちのぼって、天を焦がしはじめた。  検事は、顔の色を失った。  いや、総監はじめ、山上につめかけていた係官たちは、一せいに立ちすくんだのであった。  帆村の言葉は、ついにでたらめに終ったのであろうか。  ただ、爆音は、そのとき一回きりであったことと、皆がたちさわぐ中に、帆村一人が、平然とおちついていることが、敏感な田所検事を不審がらせた。 「帆村君。あの音はなんだ。あれでも、爆発じゃないというのかね」  帆村は、ちょっと困ったという顔をして、 「今のも、やっぱり爆発でしょうね」 「すると、君の予想は、見事にはずれた」 「いいえ、はずれてはいません。今のは番外です。他の工場は、どこもみんな、林のように静まりかえっています」 「なるほど、それはそうだ。だが、番外とは、どういうことかね」 「あれは、あれは多分、トラ十のやった仕事じゃないでしょうか」 「トラ十? トラ十といえば、さっきから見えないが」 「僕も、ちと油断をしておりました。トラ十はすっかり改心して、僕と一緒にターネフ邸にしのびこみ、僕に手伝って、あのとおり、おそるべきBB火薬を新X塗料ですっかり無力にしてしまったのです。だから、僕はつい目を放していたのがいけなかったのです。トラ十が、われわれのそばから姿を消したことに気がついたのは、三十分ほど前でした」 「それで、番外の爆発事件というのはどういうことかね」 「今に、報告が入ってくるでしょうが、あれはターネフ邸が爆発したのではないでしょうか。あの火の見当といい、あの爆裂のものすごさといい、あれはどうしても、ターネフ邸の花園の下にあったBB火薬庫に火が入ったとしか考えられません。きっと、そうですよ。トラ十がターネフに、ついに復讐をしたのですよ。トラ十は、悪いやつですから、なかなか執念ぶかいのです。それにターネフも、トラ十に対して、これまでずいぶんひどいことをやりましたからね」  そういった帆村は、他の人の知らないトラ十の秘密をしっていた。それはすこし前、トラ十が改心して、帆村に協力するようになったとき、トラ十が帆村に語ったことであった。これによると、トラ十はターネフに対して大きい恨みを抱いているのだった。それは彼の父親が、今から十年ほど前、例のクラブで雑役夫として働いていたとき、クラブの集会を立ち聞きしたというかどで、ターネフのためにピストルで撃ち殺されたのである。トラ十は他の都会で働いていたが、このことを聞いて非常に怒ったが、この怒りを胸におさめて、いつかターネフをやっつけて父の霊を慰めてやろうと思っていたのだ。そしてそのときにトラ十が帆村にうちあけたところによると、彼も彼の父も、ともに日本人ではなく、中国人であり、本当の姓は楊氏というのであった。トラ十いや楊重庭は、そうときまると、自分の身をまもるために、それ以来、日本人に化けたのである。  さて、帆村の推測は誤りなかった。間もなく、この山の上に、ターネフ邸の怪爆発事件の報告がされた。なんでも、爆発現場はものすごいことになっているそうで、あのうつくしい花壇はどこへ飛び散ったか、花の首一つ落ちておらず邸宅も爆発と同時に、その半分が吹きとび、その残りもあと五分ほどのうちに紙のように燃えつくしてしまったそうである。今更おどろかされるBB火薬の威力であった。  これは、その後の話であるけれど、ターネフ一味もトラ十も、ついに永遠に姿を見せなかった。だから、トラ十がターネフに恨をのべにいって、爆薬に火をつけてあの戦慄すべき最期をとげたことは、帆村たちの推測によるだけであった。しかし帆村の推測は、前後の事情から考えて、多分まちがいのないことのように思われる。  かくして世界骸骨化本部がターネフ首領たちを使って日本一の工場を一せいに破壊しようとし、世界人類の平和生活に大きなひびを入れようとした戦慄すべき陰謀は、きわどいところで防ぎとめられた。全くもう一歩というところであった。あぶなかった。あぶなかった。  すると、房枝は、どうしたであろうか。両親のため国家のため、房枝は、爆薬の花籠と共に沼の中に身をおどらせ、そこに一命を終ろうとしたが、そのとき、ようやく追いついたスミ枝が、房枝のうしろから引き留めて彼女の一命を救った。そして籠だけを、沼の中になげこんだの、であるが、その花籠がついに不発に終ったことは、みなさんも既に御存じのとおりである。二人が、沼のそばにうち重なって、はあはあと息を切っているところへ、彦田博士夫婦も、ようやく駈けつけた。 「おお、房枝さん、いや、あたしの可愛いい小雪」 「お母さん」 「お父さんの方も、よんでおくれ」  房枝、いや彦田小雪は、右と左とから両親にとりすがられ、まるで夢を見てるとしか思われなかった。  もうこの世では望みのないと思っていた両親に、めぐりあえたのであった。いや、しかもその両親は、名実ともにじつにりっぱな両親であったことは、小雪の幸福であった。  小雪は、今は、もちろん両親のもとに、幸福に暮し、そして孝行に身をささげているが、仲のよかったスミ枝も、その妹として彦田博士の養女となり、同じ屋根の下に、思いがけないよろこびの日を送っているという。  その後、帆村荘六は、ときどき訪ねてくるそうである。彼は、時局の関係で、いよいよ忙しいそうである。 底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房    1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行 初出:「少女倶楽部」    1940(昭和15)年6月~1941(昭和16)年6月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:kazuishi 2006年6月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。