霊魂第十号の秘密 海野十三 Guide 扉 本文 目 次 霊魂第十号の秘密    電波小屋「波動館」  みなさんと同じように、一畑少年も熱心な電波アマチュアだった。  少年は、来年は高校の試験を受けなくてはならないんだが、その準備はそっちのけにして、受信機などの設計と組立と、そして受信とに熱中している。  彼は、庭のかたすみに、そのための小屋を持っている。その小屋の中に、彼の小工場があり、送受信所があり、図書室があった。もちろん電源も特別にこの小屋にはいっていた。この小屋を彼は「波動館」と名づけていた。  このような設備のととのった無線小屋を、どの電波アマチュアも持つというわけにはいかないだろう。  一畑少年の場合は、お母さんにうんとねだってしまって、このりっぱな「波動館」を作りあげてしまったのだ。  お母さんは、ひとり子の隆夫少年に昔から甘くもあったが、また隆夫少年ひとりをたよりに、さびしく暮して行かねばならない気の毒な婦人でもあった。  というのは、隆夫少年の父親である一畑治明博士は、ヨーロッパの戦乱地でその消息をたち、このところ四カ年にわたって行方不明のままでいるのだ。あらゆる手はつくしたが、治明博士の噂のかけらも、はいらなかった。もうあきらめた方がいいだろうという親るいの数がだんだんふえて来た。心細さの中に、隆夫の母親は、隆夫少年ひとりをたよりにしているのだ。  なお、治明博士は生物学者だった。日本にはない藻類を採取研究のためにヨーロッパを歩いているうちに、鉄火の雨にうたれてしまったものらしい。  博士の細胞から発生した──というと、へんないい方だが──その子、隆夫は、やはり父親に似て、小さいときから自然科学に対して深い興味を持っていた。そしてそれがこの二三年、もっぱら電波に集中しているのだった。  隆夫は、学校から帰ってくると、あとの時間を出来るだけ多く、この小屋で送った。  夜ふけになっても小屋から出て来ないことがあった。また、「お母さん、今夜は重要なアマチュア通信がありますから、ぼくは小屋で寝ますよ」などと、手製の電話機でかけてくることもあった。  この小屋には、同じ組の二宮君と三木君が一番よく遊びに来た。この二人も、そうとうなアマチュアであった。  隆夫の方はほとんどこの小屋から出なかった。友だちのところを訪れることも、まれであった。  そのような一畑少年が、この間から一生けんめいに組立を急いでいる器械があった。それは彼の考えで設計したセンチメートル電波の送受信装置であった。  この装置の特長は、雑音がほとんど完全にとれる結果、受信の明瞭度がひじょうに改善され、その結果感度が一千倍ないし三千倍良くなったように感ずるはずのものだった。  その外にも特長があったが、ここではいちいち述べないことにする。  その受信機は組立てられると、小屋の中にある金網で仕切った。奥の方に据えられたあらい金網が、天井から床まで張りっぱなしになっているのだ。その横の方が、戸のようにあく、そこから中へはいれる。その仕切りの中の奥に台がある。その上に例の受信機は据えられた。送信機の方は、もっとあとにならないと組上がらない。  パネルは、金網の上に取付けてあった。受信機とパネルの間には、長い軸が渡されてあった。金網の外で、パネルの上の目盛盤をまわすと、その長い軸がまわって、受信機の可動部品を動かすのである。  金網はもちろんよく接地してある。だからパネルの前に人間が近づいて、目盛盤をまわしても、受信回路の同調を破ったり、ストレー・フィールドを作って増幅回路へ妨害を与えたりすることはない。この金網は、じつは天井も床も四方の壁をも取り囲んでいて、つまり受信機は大きな金網の箱の中に据えられているわけだ。これほど念を入れてやらないと、波長がわずかに何センチメートルというような短い電波を、純粋にあつかうことはできないのだ。  隆夫は、自分の受信機が、非常にすぐれていると信じていた。これが働きだしたら、ひょっとすると火星などから発信されている電波を受けることもできるのではないかとさえ考えていた。  もちろん彼は、火星だけをあてにしているわけではなかった。最近の観測によると、火星には植物でもずっと下等な地衣類がはえているだけで、動物はまずいないのであろうといわれる。つまり火星人なんて棲んでいないらしいというのだ。  しかし宇宙は広大である。直径十億光年の大宇宙の中には、地球と似た遊星も相当たくさんあるにちがいないし、従ってその住民がやはり電波通信を行っているだろうし、そうだとすればその通信をとらえる可能性はあるはずだと考えていた。  そしてあと二十年もすれば、われわれ人類はいよいよ宇宙旅行に手をつけるだろうが、それにはロケットをとばすよりも先に、電波をとばし、また相手から発射される電波信号をさぐることの方が先にしなくてはならない仕事だと思っていた。  そういう意味において、隆夫は、こんど組立てた受信機に大きな望みと期待とを抱いていた。    初めての実験  すっかり組立を終った。  隆夫は胸をおどらせて、金網の箱の外のパネルの前に、腰掛を寄せて、いよいよその受信機を働かせてみることになった。  電源を入れた。  しばらくすると、真空管のヒラメントがうす赤く光りだした。  そこで五つの目盛盤をあやつると、天井から下向きにとりつけてある高声器から、がらがらッと雑音が出て来た。 「おやッ。雑音は出て来ないはずだが、なぜ出て来るんだろう」  雑音を完全に消すのが特長であるこの受信機が、スイッチを入れるが早いか、がらがらッとにぎやかに雑音を出したものだから、隆夫はすっかりくさってしまった。 「どこが悪いんだろうか」  電気を切ると、隆夫は金網戸を開いて、器械のそばへ行った。  せっかくつないだ接続をはずして、装置の各パートを、たんねんに診察しはじめた。それが終ったのが、朝の三時だった。結果は、どのパートも故障はなかった。  それからまた電源や出力側の接続をやり直した。それが完了すると、金網戸のところを外へ出、ぴったりと戸をしめた。そしてパネルの前に再び腰を下ろし、もう一度頭の中で手落ちはないかと確め、それから金網越しに、奥の台の上に列立する真空管や、鋭敏な同調回路の部品や、念入りに遮蔽してあるキャプタイヤコードの匐いまわり方へいちいち目をそそいだ。 「こんどこそ欠点なしだ」  確信をもって彼は、電源のスイッチを入れた。そしてしばらく真空管の温まるのを待った。  がらがらッ。がらがらッ。  雑音が、またも天井裏の高声器から降ってきた。  しぶい顔をして隆夫は、又してもはねまわるぬ雑音に聞き入った。 「だめだッ」  スイッチを切る。 「いったいどこがいけないのか、見当がつかないや。どこも悪くないんだがなあ」  がっかりして、彼はとなりの図書室の長椅子の上にのびて、ねてしまった。  その翌日のことであった。  学校のかえりに、二宮と三木がついて来た。  隆夫は二人を小屋の中の金網の前につれこんだ。そして前夜からのことをくわしく説明した。 「ちょっとスイッチを入れてみないか」  二宮がいったので、「よおし」と隆夫は電源スイッチを入れた。  すると間もなく、例のがらがらッ、が始まった。だが昨夜ほど大きくはなかった。とはいうものの、他のよわい通信を聞き分けることは、とてもできないくらい雑音の強さは桁はずれに大きかった。  二宮も三木も、かわるがわるパネルの前に立って、隆夫にききながら目盛盤をまわしていろいろ調整をやってみたが、さっぱり通信の電波は受からなかった。  ただ二宮は、こんなことをいった。 「この雑音ね、どの波長のところでも聞えることは聞えるけれど、この目盛盤で5から70ぐらいの間が強く聞えて、その両側ではすこし低くなるね」 「それはそうだね。その5と70の外では、急に回路のインピーダンスがふえるから、それで雑音も弱くなるのじゃないかなあ」  隆夫が意見をのべた。 「そうだろうか。しかしぼくはね、この雑音はふつうの雑音ではないような気がする。やっぱり信号電波が出ているんじゃないかなあ。しかしその電波は、鋭敏に一つの波長だけで出していないんだ。そうとう広い波長帯で、信号を放送しているんじゃないかなあ」  二宮は、かわった見方をしている。 「でもこれは雑音のようだぜ」 「ぼくもそう思う」  三木も隆夫に賛成した。  両説に分れたままで、その時は分れた。なぜならば、三人の少年たちの知識と実力とではそれを解決することができなかったからだ。  友だち二人が帰ると、隆夫は小屋の中にひとりとなったが、気が落ちつかなかった。もう一度雑音を聞いてみた。雑音にちがいないと思いながらも、妙に二宮のいった広い波長帯をもった放送かもしれないという説が気になってならなかった。そこで彼は決心して、小屋から出ていった。母親にことわって、隆夫は外出した。彼が足を向けたのは、電波物理研究所で研究員をしている甲野博士のところだった。若い甲野博士は、電波の研究が専門で、隆夫がアマチュアになったのも、この人のためで、隆夫の家とは遠い親戚にあたるのだった。    博士の批判  甲野博士にねだったかいがあって、博士はその日研究所の帰り路に、隆夫の家へ寄ってくれることになった。  もう退け時に近かったので、隆夫はしばらく待ってから、博士と連れ立って、わが家へ向った。  門を開いて、庭づたいに小屋の方へ歩いていると、お座敷のガラス戸ががらりとあいて母親が顔を出した。  甲野博士へのあいさつもそこそこにして、 「ねえ、隆夫。たいへんなことができたよ」  と、青い顔をしていった。 「どうしたの、お母さん」 「お前の研究室がたいへんなんだよ。さっきひどい物音がしたから、なんだろうと思っていってのぞいてみるとね……」  母親は、あとのことばをいいかねた。 「どうしたんですか。早くいって下さい」 「中がめちゃめちゃになっているんだよ。なんでもご近所のドラ猫がとびこんだらしいんだがね、金網の中であばれて、たいへんなことになっているよ」 「えっ、金網の中? それはたいへん」  隆夫は夢中で小屋の方へ走った。甲野博士もあとから、隆夫の母親と連れだって小屋の方へゆっくり歩む。  まったく小屋の中はたいへんなことになっていた。もっともそれは金網の箱室の中だけのことであったが、隆夫が一生けんめいに組立てた受信機がめちゃめちゃにぶちこわされていた。大切な真空管も、大部分はこわれていた。ドラ猫は中にいなかった。金網の戸がすこしあいていた。 「しまった」と隆夫は思った、よく閉めておかなかったのが悪かったのだ。なさけなさに、涙も出ず、隆夫は金網の戸をあけて中へはいったが、すみっこに鼠のしっぽが落ちているのを見つけた。 「ははあ。するとこの中に鼠が巣をつくっていたのかもしれない。そのために、あの雑音が起ったのであろう」  問題が解けたように思った。  そこへ博士と母親とがはいって来た。  隆夫は、甲野さんにすべてを説明した。猫にあばれこまれたらしい話までした。  博士は、ちょっと考えていたが、 「さあ、鼠が巣をつくっていたのが雑音の原因かどうか、それはそうと考えられないこともないけれど、実際に装置を働かして聴いてみた上でないと、何ともいえないね」  と、学者らしい慎重さでいった。 「困ったなあ。こんなにこわされたんでは、もう一度こしらえ直すことが出来るかどうか……」 「まあ、そうがっかりしないで、元気を出して、またつくってみるんだね。およそ研究というものは、辛棒くらべみたいなものだ。忍耐心がないと成功はおぼつかない。……とにかく、装置の再建ができたら、また来て、見てあげよう。しかし君は、なかなかむずかしいことに手を染めたようだね。どれ、接続図と設計図とがあるなら出してごらん」  博士は図面を見て、いろいろとためになることを隆夫に注意した。が、最後にいった。 「……とにかく、とにかく、君は誰もやったことのない方法で受信をしようとしている。それだけに面白い。しかしはたして君に扱いきれるかどうか、疑問だね。そしてもしも異様な雑音が出たなら、それを録音しておくといいね。録音しておけば、あとでゆっくり分析も出来る。ぼくがやってあげでもいい。まあ力をおとさないように」  そういって甲野博士は、小屋を出た。  隆夫は、その夜はへたばって、早く寝てしまった。  翌日になると、隆夫は元気をもりかえした。ちょうど日曜だったので、彼は朝から「波動館」の中へはいり切りだった。  二宮君と三木君もやって来たので、三人して、猫と鼠の格闘でめちゃめちゃになった装置の復旧を手つだった。この仕事は、一日では終らなかった。あと四五日はかかるであろうと思われた。  友だちが帰ってしまったあと、隆夫はひとりで金網室の中にぼんやりとしていた。が、彼は急に、電波のみだれ飛ぶ世界を耳でうかがってみたくて、たまらなくなった。  そこで大急ぎで、残った部品を仮りの接続でつなぎあわせ、金網の外へ出て、パネルについている電源スイッチをおそるおそる入れてみた。  受信波長の調整もしてないから、どのあたりの電波に同調するか分らない。いやそれよりも、果して装置が働くかどうか疑問であった。  真空管は、とぼった。さあ次は雑音が出る番だ──と思った。ところが、とつぜん天井の高声器から人の声がとび出した。ただの声でない。呻くような、呪っているような、男とも女とも分らない、いやな声であった。  いったい何者なのか。電波怪異はこのときに始まる。    雑音の推理  まさしく、高声器から、音声が出ているのだった。それは、何をいっているのか、意味が分らなかったが、とにかくそれが音声であることは了解された。  怪音だ。いや怪音声だ。  隆夫は、うれしくて、ダイヤルをいろいろとひねくりながら、その怪音に聞きほれた。怪音が彼の気にいったのではなく、彼が長い間かかって組立てた極超短波受信機が始めて働いてくれたことがうれしかったのだ。 「すごい。すごい。たしかに働いている」  彼は、にこにこ顔でひとりごとをいったが、そのうちに気がついたことは、このような一時的の配線では、どこかの電波を受信できながら、前に本格的にきちんと配線したときには、なぜ働いてくれなかったかということである。 「はじめの本格的配線のときには、いくども調べたんだから、配線にまちがいはないはずだ。どうもおかしいねえ」  わけが分らない。あとで、一時的配線をよく調べてみよう。それは本格的配線と同じにやったつもりだが、あるいはどこかに違った配線をしているのかもしれない。早くそれを調べたいが、今はそのひまがない。なにしろ電波が今、現に、この受信機にキャッチされている最中なんだから……。 「はて、これは何を喋っているのかな」  隆夫は、第三段目になって、ようやく高声器から今出ている高声が、怪音というべき種類のものであることに注意をそそぐようになった。 「なにかいっている。調子が日本語のようだが、どうもよく分らない。ああ、そうか。音がゆがんでいる上に、雑音もかなり交っているんだ。まず雑音をとってみよう」  この雑音は、電波それ自身に交っている雑音であった。その雑音を除くうまい方法を隆夫は知っていたから、早速その装置を持って来て、取付けた。  すると、受信音は急にきれいになった。耳ざわりな雑音が除かれたためである。  だが、あとに残った音声は、やはりアーティキュレーションがよくなかった。不明瞭なのであった。  音声のゆがみは、直す方法がない。  もしありとすれば、それは受信機を構成している部品の特性の悪さや真空管のまずい使い方によるのであるが、そういう点については、隆夫は今までによく吟味してあったから自分のところの受信機はほとんどゆがみを生じない自信があった。  だからこの音声のゆがみは、その電波が受信機にはいる前に既に持っているゆがみなのだ。  隆夫はここまで推理を進めていって、ふうーッと溜息をついた。推理は、やっと半道来たばかりだ。その先が、難物だ。とても手におえそうもない。  が、勇敢にぶつかろう。  音声ゆがみが、電波自体の中に既に含まれているものとすれば、それはどうしたわけでゆがみを生じたものであろうか。  送信装置がよくないために、そこにゆがみを生ずる原因があると考える。これはめずらしくないことだ。拙劣な変調装置を使うとか、マイクロホンがよくないとか、増幅装置がうまいところで働いてないとか、そういう素因によって音声はゆがめられる。  だが、権威ある送信局から出るものは、そんな劣悪なゆがみを持っていないと断定していいだろう。素人の作った送信機だとか、何かの理由で、故障あるいは不調の送信機をやむを得ず使わなくてはならない場合だとか、あるいはまた、この通信に対して他からの露骨な妨害が加えられた場合には、ゆがみが起るであろう。  ゆがみの原因は、その他にもあろうが、だいたい今かぞえたのが普通考えられる場合である。  いや、まだ有った。それは、その音声を発する者自体が、そんなゆがんだ音声しか出せない場合である。たとえば、酒に酔っぱらって、口がまわらなくなった人間が、マイクの前に立ったとすると、ゆがんだ音声がマイクに入る。百歳に近い老人が死床にいて、苦しい息の下から遺言をするような場合も、音声は相当ゆがんでいるであろう。  そんな場合でなくとも、生れつき発音が不明晰な人がある。そういう人がマイクの前に立てば、ゆがんだ音が送り出される。生れつきでなくとも、たとえば日本語を習いはじめたばかりの外国人から聞く日本語の発音のように、発音の不正確から来る音声のゆがみが考えられる。 「まず、ゆがみの原因について考えられることは、そのくらいであろう」  隆夫は、可能な場合をほとんど残らず数えあげたと思って、ほっと吐息した。あとは、今の場合、ゆがみがどの原因によって起っているかを突き止めることだ。  しばらく隆夫は、天井にとりつけた高声器から聞えてくるくしゃくしゃいう受信音に耳を傾けた。 「なんといういやな声だろう。何といっているのか、ちっとも分りやしない。うむ待てよ。これは参考のために録音しておこうや」  隆夫は大急ぎで腰掛からとびあがった。そして録音機をとりに、となりの部屋へいった。    苦しい会話  録音が行われた。  約五分間にわたって、録音された。  隆夫は、その録音した受信機をもとにして不明瞭な音声をなんとか分析して、その言葉の意味を読みとるつもりだった。  それには少々装置の用意がいる。二三日はかかるであろう。  隆夫は急に疲労をおぼえた。さっきから緊張のしつづけであったためであろう。となりの寝室へ行って、しばらく睡ることにした。あいかわらず高声器からは、わけのわからない言葉がひきつづき出ていた。隆夫は、受信機のスイッチを切ろうと手を出したが、そのとき気がかわって、スイッチは切らないでそのままにしておくことにした。  隆夫は、軽便寝台の上に毛布にくるまって、ぐっすり睡った。  ふと眼がさめた。  が、まだ睡くてたまらない。ぴったりくっついた瞼をむりやりにあけて、夜光の腕時計を見た。  午前三時だった。すると、あれから一時間半くらい睡ったわけだ。まだ猛烈に睡い。  その睡いなかに、隆夫はふとぼそぼそと話し合っている人声を聞きとがめた。それは近くで話している。 「……さあ、君はそういうが、万一失敗したときには、どうするんだね」 「失敗したときは、失敗したときのことですわ。たとえ失敗しても、今のようなおもしろくない境遇にくらべて、この上大した苦痛が加わるわけでもありませんものね」  女の声であった。  男と女の話声だった。ゆっくりゆっくり、ぼそぼそと語り合っている。声は若いが、その語る調子は、ふけた老人のように低い空虚なものであった。  隆夫はだんだん目がさめて来た。 「……そういう冒険は、よした方がいいと思うね。君は、僕がひっこみ思案だと軽蔑するだろう。しかしね、僕は今までに君のような冒険を試みて、それに失敗して、ひどい目に会った連中のことをたくさん知っているのだ。彼らは、失敗してこっちへ戻ってくるともうすっかり気力がなくなってね、そのうえにあの世界でいろいろな邪悪に染まって、それを洗いおとすために、それはそれはひどい苦しみをくりかえすのだ。僕はとても長くはそれを見守っていられなかった……」 「もう、たくさんよ、そのお話は。そのようなことは、あたくしも知っていますし、そしていくども考えても見ましたの。その結果、あたくしの心は決ったんです。どうしても、行って見たい。肉体を自分のものにしたい。二度以上はともかくも、一度はぜひそうなってみたい。あなたがあたくしのために親切にながながといって下さったのはうれしいのですけれど、あたくしは、今目の前に流れて来ている絶好の機会をつかまないでいられないのです」 「ああ、それがあぶないんだ。僕は何十ぺんでも何百ぺんでも、君をひきとめる」 「どういったら、あなたはあたくしの気持を分って下さるでしょうか。じれったいわ」 「僕はどうあっても──」 「あ、ちょっと黙って……あ、そうだ。ええ、行きますとも。あたくしも。誰がこの絶好の機会をのがすものですか」 「お待ちなさい。あなたは、だまされているんだ。苦しみだけが待っている世界へ、あなたはなぜ行くのですか。……ああ、とうとう行ってしまった」  男の声は、気の毒なほど絶望のひびきを持っていた。女の声は、それからあと、いくら待っても聞かれなかった。いや、男の声も、それっ切りで終った。  隆夫は、今の会話の途中から、二人の会話がとなりの実験室の天井にとりつけてある高声器から出てくるものであることに気がついていた。  なぜか理由はわからないが、さっきはあれほど不明瞭だった音声が、目のさめたときから急に明瞭になったらしい。またその音声もずっと大きくなった。大きく、明瞭な話し声になったので、自分は目がさめたんだなと、隆夫は気がついた。  念のために彼は、寝台から下りて、となりの実験室へいってみた。  天井の高声器は、ちゃんと働いていた。もちろん音声は出ていないが、小さくがりがりと音がしていて、働いているのが知れた。 「ふしぎだ。ふしぎな会話だ。いったいどこの誰と誰との会話なんだろうか。まさか、あれが放送のドラマの一部だとは思われない。放送なら、あのあとにアナウンスがあるはずだし、あんな場面なら伴奏がなくてはならないはず」  この疑問は、すぐには解けなかった。  やがて夜明けが来た。  そして朝の行事がいつものように始まった。食事をしてから、隆夫は学校へいった。  二宮孝作や四方勇治がそばへやって来たので、隆夫はさっそく昨夜奇妙な受信をしたことを話して聞かせたら、二人とも「へーッ、そうかね」とびっくりしていた。 「三木はどうしたんだ。今日は姿が見えないね」  三木にこの話をしてやったら一番よろこぶだろうに。 「三木か。三木は今日学校を休むと、ぼくのところへ今朝電話をかけて来たよ」  と、二宮がいった。 「ああ、そうか。また風邪をひいたのか」 「そうじゃない。病人が出来たといっていた」 「うちに病人? 誰が病気になったんだろう。彼が休むというからには、相当重い病気なんだろうね」 「ぼくも聞いてみたんだ。するとね、あまり外へ喋ってくれるなとことわって、ちょっと話しがね、彼の姉さんのお名津ちゃんがね、とつぜん気が変になったので、困っているんだそうな」 「へえーッ、あのお名津ちゃんがね」 「午前三時過ぎからさわいでいるんだって」 「午前三時過ぎだって」  隆夫はそれを聞くと、どきんとした。    脳波収録  なぜ隆夫は、どきんとしたか。  そのわけは、それを聞いたとき、彼が知っている三木の姉名津子の声が、昨日の深夜、図らずも自分の実験小屋で耳にした女の声によく似ていることに気がついたからであった。実は昨夜もあの声を聞いたとき、どうも聞きおぼえのある声だとは思ったが、それが名津子の声に似ているとまで決定的に思出すことができなかったのだ。 (ふーん。これは重大問題だぞ)  隆夫は、腹の中で、緊張した。  しかし彼は、このことを三木たちに語るのをさし控えた。それは万一ちがっていたら、かえって人さわがせになるし、殊に病人を出して家中が混乱しているところへ、新しい困惑を加えるのはどうかと思ったのである。  そのかわり、彼はこれを宿題として、自分ひとりで解いてみる決心をした。そして、いよいよ確実にそうと決ったら、頃合を見はからって三木に話してやろうと思った。 「どうして。君は急に黙ってしまったね」  二宮が、隆夫にいった。隆夫は苦笑した。 「うん。ちょっと、或ることを考えていたのでね」 「何を考えこんでいたんだい」 「気が変になった人を治療する方法は、これまでに医学者によって、いろいろと考え出された。しかしだ、実際にこの病気は、あまりなおりにくい。それから、今までとは違った治療法を考えだす必要があると思うんだ。そうだろう」 「それはわかり切ったことだ」  誰もみな隆夫のいうことに異議はなかった。 「そこでぼくは考えたんだが、そういうときに、病人の脳から出る電波をキャッチしてみるんだ。そしてあとで、その脳波を分析するんだ。それと、常人の脳波と比較してみれば、一層なにかはっきり分るのではないかと思う。この考えは、どうだ」 「それはおもしろい。きっと成功するよ」 「いや、ちょっと待った。脳波なんて、本当に存在するものかしらん。かりに存在するものとしてもだ、それをキャッチできるだろうか。どうしてキャッチする。脳波の波長はどの位なんだ」  四方勇治が、猛然と新しい疑問をもちだした。 「脳波が存在するかどうか、本当のことは、ぼくは知らない。しかし脳波の話は、この頃よくとび出してくるじゃないか。でね、脳波はいかなる理論の上に立脚して存在するか、そんなことは今ぼくたちには直接必要のない問題だ。それよりも、とにかく短い微弱な電波を受信できる機械を三木君の姉さんのそばへ持っていって、録音してみたらどうかと思うんだ。もしその録音に成功したら、新しい治療法発見の手がかりになるよ」 「それはぜひやってくれたまえ、隆夫君」  この話をすると、三木は、はげしい昂奮の色を見せて、隆夫の腕をとらえた。 「おい、四方君。君はどう思う」 「脳波の存在が理論によって証明されることの方が、先決問題だと思うね。なんだかわけのわからないものを測定したって、しようがないじゃないか」 「いや、机の前で考えているより、早く実験をした方が勝ちだよ」と、二宮孝作が四方の説に反対した。 「元来日本人はむずかしい理屈をこねることに溺れすぎている。だから、太平洋戦争のときに、わが国の技術の欠陥をいかんなく曝露してしまったのだ。ああいうよくないやり方は、この際さらりと捨てた方がいい。分らない分らないで一年も二年も机の前で悩むよりは、すぐ実験を一週間でもいいからやってみることだ。机の前では、思いもつかなかったようなことが、わずかの実験で〝おやおや、こんなこともあったのか〟と分っちまうんだ。頭より手の方を早く働かせたがいいよ」 「まあ、とにかく、その実験をやることにして、ぼくはその準備にかかるよ。隆夫君、手つだってくれるね」  三木がそういったので、万事は決った。もちろん隆夫は協力を同意したし、二宮も手を貸すといい、四方までが、ぼくにも手伝わせてくれと申出た。  四人の協力によって、三日のちに、機械の用意ができた。  その日の午後、一同は三木の家で、仕事を始めた。  名津子の病床には、母親が病人よりもやつれを見せて、看護にあたっていた。まことに気の毒な光景だった。  一同がその部屋にはいったとき、病人はすやすやと睡っていた。なるべく音のしないように、機械を持ちこんだ。  機械は、電波をつかまえるため小さい特殊型空中線と、強力なる二次電子増倍管を使用し、受信増幅装置と、それから無雑音の録音装置とを組合わせてあった。 そして脳から出る電波の収録をすると共に、病人の口から出ることばとを同時録音することも出来るようになっていた。  いよいよその仕事が始まった。  病人の目をさまさないうちに、睡眠中病人の脳から出ている電波をとらえることになった。隆夫は受信機の調整にあたり、三木は空中線を姉の頭の近くへ持っていって、いろいろと方向をかえてみる役目を引受けた。あとの二人は録音や整理の仕事にあたる。    深夜の影 「どうだい、何か出るかい」  受信機が働きはじめたとき、三木はすぐそれをたずねた。 「いや出ない」 「だめなのかな」 「そうともいえない、とにかくいろいろやってみた上でないと、断定はできない」  隆夫は、波長帯を切りかえたり、念入りな同調をやったり、増幅段数をかえたりして、いろいろやってみた。 「この機械の受信波長は、どれだけのバンドを持っているのかね」  四方が、隆夫に聞く。 「波長帯は、一等長いところで十センチメートル、一等短いところでは一センチの千分の一あたりだ」 「そうとうな感度を持っているねえ」 「いや、その感度が一様にいってないので、困っていることもあるんだ」  電波は長波、中波、短波と、だんだん波長が短くなってきて、もっと短くなると超短波となり、その下は極超短波となる。そのへんになると赤外線の性質を帯びて来る。一センチの何千万分の一となると、もう電波であるよりも赤外線だ。そうなると、装置はますますむずかしさを加える。 「なんか出て来たよ。しかしさわがないでくれたまえ」  隆夫が昂奮をおしつけかねて、奇妙な声を出す。  一同の顔が、さっと紅潮して、隆夫の顔に集まる。  隆夫は手まねで三木に空中線の向きや距離をかえさせる。そしていそがしくスイッチを切ったり入れたりして、その目は計器の上を走りまわる。 「これらしい。これがそうだろう」  隆夫はひとりごとをいっている。 「ああッ、飛ぶ、飛ぶ、赤い火がとぶ……」  とつぜん、高い女の声。  名津子が口を聞いたのだ。彼女は目がさめたものと見え、むっくりと床から起上ろうとして、母親におさえられた。 「名津ちゃん。おとなしくしなさい。母さんはここにいますよ」  母親は涙と共に娘をなだめる。  それからの三十分間は電波収録班大苦闘の巻であった。なにしろ目がさめた名津子は、好きなように暴れた。弟の三木も何もあったものではなく、空中線はいくたびか折られそうになった。母親と三木は、そのたびに汗をかいたし、隆夫たちははらはらしどおしだった。そして予定よりも早く実験を切りあげてしまった。  三木に別れをつげて、残る三人の短波ファンは、そこを引揚げた。  三人は隆夫の実験小屋へ機械をもちこんで、しばらく話し合った。すると、二宮がしかつめらしい顔をして、こんなことをいいだした。 「人間のからだが生きているということはね。からだをこしらえている細胞の間は、放電現象が起ったり、またそれを充電したり、そういう電気的の営みが行われていることなんだとさ。だから三木の姉さんみたいな人を治療するのには、感電をさせるのがいいんじゃないかな。つまり電撃作戦だ」 「それは電撃作戦じゃなくて、電撃療法だろう」 「ああ、そうか。とにかく高圧電気を神経系統へぴりっと刺すと、とたんに癒っちまうんじゃないかな」 「それは反対だよ」  四方が首を振った。 「なぜだい、なにが反対だい」 「だって、そうじゃないか。神経細胞は電線と同じように、導電体だ。しかも弱い電流を通す電路なんだ。そこへ高圧電気をかけるとその神経細胞の中に大きな電流が流れて、神経が焼け切れてしまう。そうなれば、人間は即座に死ぬさ」 「いや、電流は流されないようにするんだ。そうすれば神経細胞は焼け切れやしないよ。ねえ、隆夫君、そうだろう」 「さあ、どっちかなあ。ぼくは、そのことをよく知らないから、答えられない」  この問題は懸案になった。  そこへ隆夫の母が、甘味のついたパンをお盆にのせてたくさん持って来てくれたので、三人はそれをにこにこしてぱくついた。やがてお腹がいっぱいになると、急に疲れが出て来て、睡くなった。それだから、その日はそれまでということにして、解散した。  さて、その夜のことである。  隆夫はひとりで実験小屋にはいった。  彼は、今日とって来た録音が気がかりで仕方がなかった。  それで脳波の収録のところを再生してみることにした。つまり、もう一度脳波にして出してみようと思ったのだ。  隆夫は、大急ぎでその装置を組立てた。  それから脳波を収録したテープをくりだして、その送信機につっこんだ。  もちろん隆夫には、その脳波は聞えなかったけれど、検波計のブラウン管で見ると、脳波の出力が、蛍光板の上に明るいあとをひいてとびまわっているのが見えた。  隆夫は、この脳波を、いかにしてことばに変化したらいいかと考えこんだ。  その間に収録テープは、どんどんくりだされていた。脳波は、泉から流れ出す清流のように空間に輻射されていたのだ。  それを気に留めているのか、いないのか、隆夫は腰掛にかけ、背中を丸くして考えこんでいる。  そのとき隆夫のうしろに、ぼーッと人の影が浮び出た。若い男の姿であった。その影のような姿は、こまかく慄えながら、すこしずつ隆夫のうしろへ寄っていく。 「もしもし、一畑君。君の力を借りたいのです。ぼくに力を貸してくれませんか」  陰気な、不明瞭なことばが、その怪影の口から発せられた。  そのとき隆夫は、ふと我れにかえって、身ぶるいした。そしてふしぎそうに見廻したが遂に怪影を発見して 「あッ。あなたは……」  と、おどろきの声をのんだ。    意外な名乗り  隆夫は、ぞおーッとした。  急にはげしい悪寒に襲われ、気持がへんになった。目の前に、あやしい人影をみとめながら、声をかけようとして声が出ない。脳貧血の一歩手前にいるようでもある。 (しっかりしなくては、いけないぞ!)  隆夫は、自分の心を激励した。 「気をおちつけなさい。さわぐといけない。せっかくの相談ができなくなる」  低いが、落ちつきはらった声で、一語一語をはっきりいって、隆夫の方へ近づいて来た影のような人物。ことばははっきりしているが、顔や姿は、風呂屋の煙突から出ている煙のようにうすい。彼の身体を透してうしろの壁にはってあるカレンダーや世界地図が見える。 (幽霊というのは、これかしらん)  もうろうたる意識の中で、隆夫はそんなことを考える。 「ほう。だいぶん落ちついてきたようだ。えらいぞ、隆夫君」  あやしい姿は、隆夫をほめた。 「君は何物だ。ぼくの実験室へ、無断ではいって来たりして……」  このとき隆夫は、はじめて口がきけるようになった。 「僕のことかい。僕は大した者ではない。単に一箇の霊魂に過ぎん」 「れ、い、こ、ん?」 「れいこん、すなわち魂だ」 「えッ、たましいの霊魂か。それは本当のことか」  隆夫はたいへんおどろいた。霊魂を見たのは、これが始めてであったから。 「僕は霊魂第十号と名乗っておく。いいかね。おぼえていてくれたまえ」 「霊魂の第十号か第十一号か知らないが、なぜ今夜、ぼくの実験室へやって来たのか」  隆夫は、まだ気分がすぐれなかった。猛烈に徹夜の試験勉強をした上でマラソン二十キロぐらいやったあとのような複雑な疲労を背負っていた。 「君が呼んだから来たのだ。今夜が始めてではない。これで二度目か三度目だ」  あやしい影は、意外なことをいった。 「冗談をいうのはよしたまえ。ぼくは一度だって君をここへ呼んだおぼえはない」 「まあ、いいよ、そのことは……。いずれあとで君にもはっきり分ることなんだから。それよりも早速君に相談があるんだ。君は僕の希望をかなえてくれることを望む」  霊魂第十号ははじめから抱いていた用件を、いよいよ切り出した。 「話によっては、ぼくも君に協力してあげないこともないが、しかしとにかく、君の礼儀を失した図々しいやり方には好意がもてないよ」 「うん。それは僕がわるかった。大いに謝る。そして後で、いくらでも君につぐないをする、許してくれたまえ」  第十号は、急に態度をかえて、隆夫の前に謝罪した。 「……で、どんな相談なの」 「それは……」霊魂第十号は、彼らしくもなく口ごもった。 「いいにくいことなのかね」 「いや、どうしても、今、いってしまわねばならない。隆夫君、僕は君に、しばらく霊魂だけの生活を経験してもらいたいんだ。承知してくれるだろうね」 「なに、ぼくが霊魂だけの生活をするって、どんなことをするのかね」 「つまり、君は今、肉体と霊魂との両方を持っている。それでだ、僕の希望をききいれて、君の霊魂が、君の肉体から抜けだしてもらえばいいんだ。それも永い間のことではない。三カ月か四カ月、うんと永くてせいぜい半年もそうしていてもらえばいいんだ。なんとやさしいことではないか」  あやしい影は、隆夫が目を白黒するのもかまわず、奇抜な相談をぶっつけた。 「だめだ。第一、ぼくの霊魂をぼくの肉体から抜けといっても、ぼくにはそんなむずかしいことはできない。それにぼくは現在ちゃんと生きているんだから、霊魂が肉体をはなれることは不可能だ」 「ところが、そうでなく、それが可能なんだ。そして又、君の霊魂に抜けてもらう作業については、すこしも君をわずらわさないでいいんだ。僕がすべて引き受ける。君はただそれを承知しさえすればいいんだ。めったにないふしぎな経験だから、後で君はきっと僕に感謝してくれることと思う。承知してくれるね」  隆夫はこの話に心を動かさないわけでもなかった。しかし、不安の方が何倍も大きかった。もっと相手が、自分に十分の安心をあたえるように説明してくれたら、一カ月やそこいらなら霊魂だけでとびまわってみるのもおもしろかろうと思った。  が、そのときだった。隆夫は急に胸苦しさをおぼえた。はっとおどろくと、あやしい影が隆夫のくびをしめつけているではないか。 「なにをする。ぼくはまだ承諾していないぞ。それはともかく、人殺しみたいに、ぼくのくびをしめるとはなにごとだ」  隆夫は苦しい息の下から、あえぎあえぎ、相手をののしった。 「はははは。はははは」  相手は、ほがらかに笑いつづける。隆夫は腹が立ってならなかった。しかし自分の意識が刻々うすれていくのに気がつき恐慌した。 「はははは。もうすこしの辛棒だ」 「なにを。この野郎」  隆夫は、残っているかぎりの力を拳にあつめ、のしかかってくる相手の上に猛烈なる一撃を加えた──と思った。果して加え得たかどうか、彼には分らなかった。彼は昏倒した。    早朝の訪問者  その翌朝のことであった。  三木健が、自分の家の玄関脇の勉強室で、朝勉強をやっていると、玄関に訪う人の声があった。  三木はすぐ玄関へ出て扉をあけた。 「お早ようございます。名津子さんの御容態はいかがですか。お見舞にあがりました」 「はッはッはッ。よしてくれよ、そんな大時代な芝居がかりは……」  三木は腹を抱えて笑った。  というわけは、玄関の扉をあけてみると、そこに立っているのは余人にあらず、仲よし友達のひとりである一畑隆夫であったから。その隆夫が、なんだって朝っぱらからやってきて、この鹿爪らしい口のききかたをするのか、それは隆夫が三木をからかっているのだとしか考えられなかった。 「これはこれは健君。失敬をした。許してくれたまえ。姉さんに会いたいんだがね、よろしくたのむ」  隆夫は、三木が笑ったときに、どういうわけかあわてて逃げ腰になった。が、すぐ立ち直って、このように応対をした。  三木は、べつに隆夫のことを何とも思っていなかった。 「うん。それじゃ今母に知らせてくるからね。ちょっと待っていてくれ」 「いや、待てない。すぐ会いたい」  隆夫はひどく急いでいる。三木は、隆夫のおしの強いのに、すこし気をわるくした。だが大したことではないと、三木はすぐ自分の気持を直した。 「でも、病人だからね、様子を見た上でないと、かえって病気にさわると悪いから」 「じゃあ早くしてくれたまえ」 「よしよし」  三木は母親のところへとんでいって、今、隆夫君が来てこうこうだと話した。母親は、昨夜親切に隆夫たちが来て、器械を使って調べていってくれたことをたいへん感謝していて、それでは病人の様子を見ましょうとて、病室にはいった。  名津子は、血の気のない顔で、髪を乱したまま、すやすやと睡っていた。  そこで母親は三木のところへ戻って来て、今病人は疲れ切ってすやすや睡っているから、目がさめるまで、しばらくの間、隆夫さんに待っていてもらうようにといった。  三木は、そのことを隆夫のところへ来て話した。  すると隆夫は、大いに不満の顔つきになって、 「君たちは、ぼくを名津子さんに会わせまいとするんだな。けしからんことだ」  と、意外にきついことばをはいた。  これには三木もあきれてしまった。そんなことがあろうはずはない。隆夫はなにをかんちがいしているのであろうかと、三木はそれからいくどもくりかえして、昨夜姉があばれたり泣いたり、叫んだりして、ほとんど一睡もしなかったことを語り、 「………だから、今疲れ切ってすやすや睡っているんだ。できるだけゆっくりねかしておきたい、でないと、姉は衰弱がひどくて、重態に陥る危険があるのだ」  というと、隆夫は、なるほど、そうかそうかと合点して、ややおとなしくなった。しかし名津子の目がさめたら、すぐ自分のところへ知らせること、そしてすぐ自分を病室へつれていって名津子にあわせることを、くどくどとのべて、三木に約束させた。  三木は、このときになって、拭い切れない疑問を持つに至った。 (どうも隆夫君の様子がへんだぞ。なぜ今日になって、姉に会いたがるのか、さっぱりわけが分らない。昨夜の実験の結果、急に姉に会う必要が生じたのかしら。それならそれといいそうなものだが……。なんだか隆夫君までおかしくなって来た)  隆夫は、三木の勉強部屋へ通された。  しかし彼は三木に向きあったまま、急に無口になってしまった。なにかしきりに考えこんでいるようである。ふだんの明るい隆夫の調子は見られない。  そこで三木は、話しかけた。 「昨夜、電波収録装置に取っていった、あれはどうしたね。結果は分ったかい」 「あれか。あれはよく取れていたよ」 「そうか。するとあれを使って、これからどうするのか」 「どうするって。さあ……」隆夫は困った顔になった。 「どうするって、とにかくあれは参考になるね」 「君は、もしあの中に、電波が収録されていたら大発見だ。そしてそうであれば姉の病気についても、新しい電波治療が行えることになろうといっていたが、それはどうだね」  隆夫はなぜか狼狽の色を見せ、 「いや、そんなことはでたらめだ。病人を電波の力で癒すなんて、そんなことは出来るものではない」 「おかしいね。さっき君のいったことともくいちがっているし、君が日頃語っていたところともちがう。いったいどれが本当なんだ」 「断じて、僕はいう。君の姉さんの病気はきっと僕がなおして見せる。そのかわり、昨日僕がいったことは、一時忘れていてくれたまえ。今日から僕は、新しい方法によって、名津子さんの病気を完全になおしてみせる。もし不成功に終ったら、僕はこの首を切って、君に進呈するよ」  そういって隆夫は、自分のくびを叩いた。ひどく昂奮している様子だった。  そのとき母親がはいってきて、名津子が目がさめたようですから、と隆夫たちを迎えに来た。  昨日にかわり隆夫の様子がちがっているのは、どうしたことであろうか。    ここは何処  ここまで書いてくると、賢明なる読者は、怪しい隆夫のふるまいのうしろに何が有るかを、もはや察せられたことであろう。  そのとおりである。  名津子を見舞に来た隆夫は、その肉体はたしかに隆夫にちがいないが、その肉体を支配している霊魂は、隆夫の霊魂ではないのだ。それは例の霊魂第十号なのである。  前夜隆夫は、とつぜん霊魂第十号の訪問をうけ、そして肉体を半年ほど借りたいから承知をしろと申入れられた。隆夫は、それをことわった。すると隆夫は、とつぜん首をしめられ、人事不省に陥ったのだ。  その直後、どういう手段によったものか分らないが、隆夫の肉体から隆夫の霊魂が追い出され、それにかわって霊魂第十号がはいりこんだのである。まさにこれはギャング的霊魂だといわなくてはならない。  とにかくこんなわけだから、翌日隆夫が三木家をたずねたとき、とんちんかんのことばかりいい、家人から不審をかけられたのだ。つまり第十号としては、隆夫の霊魂に入れ替ったものの、すべて隆夫のとおりをまねることはできなかったし、また隆夫の記憶や思想をうまく取り入れることは一層むずかしかった。  だが、第十号としては、すこしぐらい人々から怪しまれることは、がまんするつもりだった。それよりも、彼がねらっていることは、名津子に近づくことだった。名津子の霊魂にぴったり寄りそっていたいばかりに、彼はこの思い切った行動を起したのだ。しかしながら、彼の筋書どおりに、万事がうまくいくかどうか、それはまだ分らない。  それはそれとして、一方、霊魂第十号のために肉体から追い出された隆夫の霊魂は、一体どうなったのであろうか。  彼の霊魂は、肉体と同じに、一時もうろう状態に陥っていた。いや、時間的にいえば、肉体の場合よりもはるかに永い間にわたってもうろう状態をつづけていた。第十号が、彼の肉体にはいりこんで、三木健の家を訪問してぺちゃくちゃしゃべっているときにも、隆夫の霊魂は、まだもうろうとして、はてしなき空間をふわついていた。  彼のたましいが、われにかえったのは、それから十四日ののちのことだった。  たましいが、われにかえるというのは、おかしないい方であるが、肉体の中にはいっているときでも、たましいというやつは、よく死んだようになったり、生きかえったりするものである。ねむりと目ざめ。不安におちいることと大自信にもえること。人事不省と覚醒。酔っぱらいと酔いざめ。そのほか、いろいろとあるが、このようにたましいというやつは、いつも敏感で、おどおどしており、そして自分からでも、また他からの刺戟によっても、すぐ簡単に状態を変える。  とにかく、彼のたましいがわれにかえったとき、「おやおや」と起きあがってあたりを見まわすと、見なれないところへ来ていることが分った。  そこは、枯草がうず高くつんであるすばらしく暖かな日なただった。ゆらゆらと、かげろうが燃え立っていた。その中に、隆夫の霊魂は立っているのだった。彼の霊魂も、かげろうと同じように、ゆらゆら動いているような気がした。  前方を見ると、美しい大根畑が遠くまでひろがっていた。まるでゴッホの絵のようであった。  うしろの方で、モーという牛の声がした。うしろには小屋が並んでいた。そのどれかが牛小屋になっているらしい。  かたかたかたと、いやに機械的なひびきが聞えてきた。ずっと西の方にあたる。その方へ隆夫の霊魂はのびあがった。トラクターが動いているのだった。土地を耕している。それは遥かな遠方だった。 「広いところだなあ。一体ここはどこかしらん」  すると、彼の前へ、とつぜんパイプをくわえ、肩に鍬をかついだ農夫が姿をあらわした。そして農夫の顔を見たとき、隆夫のたましいは、あっとおどろいた。 「ややッ、ここは日本じゃないらしい」  農夫は白人だった。  白人の農夫がいるところは、日本にはない。しばらくすると、小屋のうしろから、若い女の笑い声が聞えて、隆夫のたましいの前へとび出して来たのは、三人の、目の青い、そして金髪やブロンドの娘たちだった。 「たしかにここは日本ではない。外国だ。どうして外国へなど来てしまったんだろう」  そのわけは分らなかった。  隆夫のたましいは、農夫たちの会話を聞いて、それによってここがどこであるかを知ろうとつとめた。彼らの話しているのは、外国語であった。それはドイツ語でもなく、スラブ語でもなかったが、それにどこか似ていた。ことばとしては、隆夫はそれを解釈する知識がなかったけれど、幸いというか、隆夫は今たましいの状態にいるので、彼ら異国人の話すことばの意味だけは分った。  そして、ついにこの場所がどこであるかという見当がついてきた。それによると、ここはバルカン半島のどこかで、そして割合にイタリアに近いところのように思われる。ユーゴスラビア国ではないかしらん。もしそうなら、アドリア海をへだててイタリアの東岸に向きあっているはずだった。  どうしてこんなところへ来てしまったんだろう。    霊魂の旅行  だんだん日がたつにつれ、隆夫のたましいは、たましい慣れがしてきた。はじめは、どうなることかと思ったが、たましいだけで暮していると、案外気楽なものであった。第一食事をする必要もないし、交通禍を心配しないで思うところへとんで行けるし、寒さ暑さのことで衣服の厚さを加減しなくてもよかった。そして、睡りたいときに睡り、聞きたいときに人の話を聞き、うまそうな料理や、かわいい女の子が見つかれば、誰に追いたてられることもなく、いく時間でもそのそばにへばりついていられた。もっとも、そのうまそうな御馳走を味わうことは、たましいには出来なかったが……。  そういうわけで、隆夫のたましいは、一時東京の家のことや母親のことや、それから友だちのことなどもすっかり忘れて、気軽なたましいの生活をたのしんでいた。  いつも寝起きしていた枯草の山が、トラックの上へ移しのせられ、どこかへはこばれていく。それを見た隆夫のたましいは、いっしょにそのトラックに乗って行ってみようと思った。  その日は、天気が下り坂になって来て風さえ出て来たので、農夫たちは急いで枯草を車へのせ、その上をロープでしっかりしばりつけた。それから荷主の農夫が、パイプをくわえたまま、トラックの運転手にいった。 「とにかくカッタロの町へはいったら、海岸通のヘクタ貿易商会はどこだと聞けば、すぐに道を教えてくれるからね」 「あいよ。うまくやってくるよ」  トラックは走りだした。  隆夫のたましいは、枯草の中へ深くもぐりこんで、しばらく睡ることにした。車が停ったら、起きて出ればよいのだ。そのときはカッタロの町とかへ、ついているはずだ。  たましいは、ぐっすり寝こんだ。  運転手の大きな声で、目がさめた。枯草をかきわけて出てみると、なるほど町へついていた。古風な町である。が、町の向うに青い海が見える。港町だ。  港内には、大小の汽船が七八隻碇泊している。西日が、汽船の白い腹へ、かんかんとあたっている。  トラックが、また走りだした。  港の方を向いて走る。隆夫のたましいは、車上からこの町をめずらしく、おもしろく見物した。革命と戦火にたびたび荒されたはずのこの港町は、どういうわけか、どこにも被害のあとが見られなかった。そしてどこか東洋人に似た顔だちを持った市民たちは、天国に住んでいるように晴れやかに哄笑し微笑し空をあおぎ手をふって合図をしていた。婦人たちの服装も、赤や緑や黄のあざやかな色の布や毛糸を身につけて、お祭の日のように見えた。  そのうちにトラックは、海岸通へ走りこんで、ヘクタ貿易商会の前に停った。枯草は、この商会が買い取るらしい。そのような取引を、隆夫のたましいは見守っていたくはなかった。彼は、今しも岸壁をはなれて出港するらしい一隻の汽船に、気をひかれた。  彼は燕のように飛んで、その汽船のマストの上にとびついた。ゼリア号というのが、この汽船の名だった。五百トンもない小貨物船であった。  それでも岸壁には、手をこっちへ振っている見送り人があった。船員たちが、ハンドレールにつかまって、帽子をふって、岸壁へこたえている。煙突のかげからコックが顔を出して、ハンカチをふっている。隆夫のたましいが、つかまっているマストの綱ばしごにも、二三人の水夫がのぼって、帽子を丸くふっていた。かもめでもあろうか、白い鳥がしきりに飛び交っている。その仲間の中には、隆夫のたましいのそばまで飛んできて、つきあたりそうになるのもいた。 「港外まで出ないと、ごちそうを捨ててくれないよ」 「早く捨ててくれるといいなあ。ぼくは腹がへっているんだ」  かもめは、そんなことをいいながら、この汽船が海へ捨てるはずの調理室の残りかすを待ちこがれていた。  隆夫のたましいは、久しぶりにひろびろとした海を見、潮のにおいをかいで、すっかりうれしくなり、いつまでも眺めていた。白い航跡が消えて、元のウルトラマリン色の青い海にかえるところあたりに、執念ぶかくついてきた白いかもめが五六羽、しきりに円を描いては、漂流するごちそうめがけて、まい下りるのが見られた。  船の舳が向いている方に、ぼんやりと雲か島か分らないものが見えていたが、それは陸地だと分った。左右にずっとのびている。そうだ、あれだ、イタリア半島なのだ。するとこの船はイタリア半島のどこかの港にはいるのにちがいない。一体どこにつくのだろうか。  隆夫のたましいは、もうすっかり大胆になっていたので、マストをはなれて下におりてきた。  そして船橋へとびこんだ。そこには船長と運転士と操舵手の三人がいたが、誰も隆夫のたましいがそこにはいってきたことに気のつく者はいなかった。  その運転士が、航海日記をひろげて、何か書きこんでいるので、そばへ行って見た。その結果、この汽船は、対岸のバリ港へ入るのだと分った。  やがてバリ港が見えてきた。  小さな新興の港だ。カッタロ港とは全然おもむきのちがった港だった。そのかわり、町をうずめている家々は、見るからに安普請のものばかりであった。戦乱の途中で、ここを港にする必要が出来て、こんなものが出来上ったらしい。殺風景で、いい感じはしなかった。  入港がまだ終らないうちに、隆夫のたましいは汽船ゼリア号に訣別をし、風のように海の上をとび越えて、海岸へ下りた。  不潔きわまる場所だった。見すぼらしい人たちが、蝿の群のように倉庫の日なたの側に集っている。隆夫のたましいは、ぺッと唾をはきたいくらいだったが、それをがまんして、ともかくも彼らの様子をよく拝見するために、その方へ近づいていった。  一人の男が、ぼろを頭の上からまとって棕梠の木にもたれて、ふところの奥の方をぼりぼりかいていた。隆夫のたましいは、その男の顔を見たとき、 「おやッ」  と思った。どこかで見た顔であった。    大奇遇  隆夫のたましいは、そのあわれな人物の顔を、何回となく近よって、穴のあくほど見つめた、彼は、そのたびにわくわくした。 「どうしても、そうにちがいない。この人はぼくのお父さんにちがいない」  隆夫の父親である一畑治明博士は、永く欧洲に滞在して、研究をつづけていたが、今から四、五年前に消息をたち、生きているとも死んだとも分らなかった。が、多分あのはげしい戦禍の渦の中にまきこまれて、爆死したのであろうと思われていた。その方面からの送還や引揚者の話を聞き歩いた結果、最後に博士を見た人のいうには、博士は突然スイスに姿をあらわし、一週間ばかり居たのち、危険だからスエーデンへ渡るとその人に語ったそうで、それから後、再び博士には会わなかったという。  では、スエーデンへうまく渡れたのであろうか。その方面を聞いてもらったが、そういう人物は入国していないし、陸路はもちろん、空路によってもスイスからスエーデンへ入ることは絶対にできない情勢にあったことが判明した。  そこで、博士はスイス脱出後、どこかで戦禍を受け、爆死でもしたのではなかろうかという推定が下されたのであった。  ところが今、隆夫のたましいを面くらわせたものは、イタリアのバリ港の海岸通の棕梠の木にもたれている男の顔が、なんと彼の父親治明博士に非常によく似ていることであった。 「お父さん。お父さん。ぼく隆夫です」  と、隆夫のたましいは呼びかけた。くりかえし呼びかけた。  だが、相手は知らぬ顔をしていた。顔の筋一つ動かさなかった。  隆夫のたましいは失望した。 「すると、人ちがいなのだろうか」  すっかり悲観したが、なお、あきらめかねて隆夫のたましいは男の上をぐるぐるとびながら、彼のすることを見守っていた。  男は、木乃伊のように動かなかった。棕梠の木に背中をもたせかけたままであった。ところが一時間ばかりした後、その男はすこし動いた。彼は座り直した。片坐禅のように、片足を手でもちあげて、もう一方の脚の上に組んだ。それから両手を軽く握り目をうすく開いて、姿勢を正した。彼はたしかに無念無想の境地にはいろうとしているのが分った。隆夫のたましいは、これはなにか変ったことが起るのではないかと思い、ふわふわとびまわりながら、いっそう相手に注意をはらっていた。  すると、その男の頭のてっぺんのすぐ上に、ぼーッとうす赤い光の輪が見えだした。ふしぎなことである。隆夫のたましいは、まわるのをやめて、それを注視した。  ふしぎなことは、つづいた。こんどは男の上半身の影が二重になったと見えたが、その一つが動き出して、ふわりと上に浮いた。それはシャボン玉を夕暗の中にすかしてみたように、全体がすきとおり、そして輪廓だけがやっと見えるか見えないかのものであり、形は海坊主のように、丸味をおびて凸凹した頭部とおぼしきものと、両肩に相当する部分があり、それから下はだらりとして長く裾をひいていた。また、頭部には二つ並んだ目のようなものがあって、それが別々になって、よく動いた。しかしその目のようなものは、卵をたてに立てたような形をし、そしてねずみ色だった。 「おお、隆夫か。どうしたんだ、お前は」  と、そのあやしい海坊主はいって、隆夫のたましいの方へ、ゆらゆらと寄ってきた。 「あ、やっぱり、お父さんでしたか」  隆夫のたましいは、海坊主みたいなものが、父親治明博士のたましいであることに気がついた。  ああ、なんというふしぎなめぐりあいであろう。祖国を遠くはなれたこのアドリア海の小さい港町で、父と子が、こんな霊的なめぐりあいをするとは、これが宿命の一頁で、すでにきまっていたこととはいえ、奇遇中の奇遇といわなくてはなるまい。 「お父さん。よく生きていて下さいました。親類でもお父さんのお友だちも、ほとんど絶望して、お父さんはもう生きてはいないだろうと噂しているんですよ。よく生きていて下すったですね」  隆夫のたましいは、うれしさいっぱいで、父親のたましいにすがりついた。 「うん、みんなが心配しているだろうと思った。しかし知らせる方法もなかった。それにわしとしても、明日生命を失うか、あるいは一時間後、十分後に生命を失うかも知れず、おそろしい危険の連続だった。いや、今も安心はしていられないのだ。それはいいが、お前はどうしたんだ。さっきから、いぶかしく思っているんだが、お前の肉体はどこにあるんだ」  父親は、心配の様子。  慈愛ふかい父親の心にふれると、隆夫のたましいは、悲しさの底にしずんで、 「お父さん。聞いて下さい。こうなんです」  と、これまでに起ったことを、父親に伝えたのであった。    霊魂の研究者  すべての事情を、隆夫のたましいから聞きとった父親治明博士のたましいは、大きなおどろきの様子を示した。 「それは、実におそるべき相手だ。そういうひどいことをする霊魂は、尋常一様のものではないよ。たいへんな力を持っている奴だ。これはかんたんには行かないぞ。いったい何者だろう」  父親のおどろきが、意外に大きいので、こんどは隆夫の方でおどろいてしまった。しかしこのとき隆夫は、父親のおどろきとなった素因のすべてを知っているわけではなかった、披は、まだ霊魂界のことについては、ほんのわずかのことしか知らないのであった。 「お父さん。そんなに、あの霊魂は、おそるべき奴ですか。ぼくには、何もかも、さっぱり分らないのです。いったい、霊魂というものが出たり、はいったりするのは、どういう法則に従うものでしょうか。いや、それよりも、ぼくは霊などというものが、ほんとにあることを、こんどはじめて知ったのです。お父さんは、それについて、くわしく知っているようですね」  隆夫のたましいは、次から次へとわきあがる疑問やおどろきを、父親の前にならべたてた。 「霊魂の学問は、なかなか手がこんでいるんだ。つまり複雑なのだ。古い時代にいいだされたでたらめの霊魂説から始まって、最新の霊魂科学に至るまで、実に多数の霊魂説があるのだよ。わしは、お前も知っているとおり、生化学と物質構造論などの方からはいりこんで、新しい霊魂科学の発見に努力して来た。その結果、わしは、霊魂なるものは、たしかに存在することを証明することができた。そればかりでなく、こうして実際に霊魂を活動させることにも成功した。そこでわしは、さらに深く霊魂科学の研究をしようと今も努力しているわけだが、残念なことに戦火に追われて、研究室をうしない、それからさすらいの旅がはじまり、いろいろな困難や災害にあって、こんなひどい姿で食うや食わずの生活をつづけている始末だ。ああ、わしは、早く落ちついた研究室にはいりたい。むしろこの際、日本へ帰るのが、その早道だとも思い、こうして機会を待っているわけなんだ」  父親治明博士のたましいは、これまでの経過をかいつまんで話した。 「普通に、たましいというとね、肉体にぴったりついているものだが、ある場合には、肉体をはなれることもあるんだ。肉体のないたましいというものも、実際はたくさんごろごろしている。そういうたましいが、肉体を持っている別のたましいに、とりつくことがよく起る。お前がさっき、わしに話をして聞かせた名津子さんの場合なんか、それにちがいない。つまり、名津子さんの肉体といっしょに居る名津子さんのたましいの上に、あやしい女のたましいが馬乗りにのっているんだと考えていい。二つのたましいは、同じ肉体の中で、たえず格闘をつづけているんだ。だから名津子さんが、たえず苦しみ、好きなことを口走るわけだ」 「なるほど、そうですかね」 「名津子さんの場合は、普通よくあるやつだ。しかしお前の場合は、非常にかわっている。お前を襲撃した男のたましいは、お前の肉体からお前のたましいを完全に追い出したのだ。そういうことは、普通、できることではないのだ。だから、さっきもいったように、その男のたましいなるものは、非常にすごい奴にちがいない。いったい、何奴だろう」  治明博士は、再びおどろきの色をみせて、そういった。  隆夫のたましいは、父親のいうことを聞いていて、なんだか少しずつわけが分ってくるように思った。と同時に、また別のいろいろの疑問がわいてきた。ことに、彼が信用しかねたものは、たましいの姿のことであった。目の前に見る父親のたましいは、海坊主が白いきれを頭からかぶって、それに二つの目をつけたような姿をしている。ところが、隆夫の実験小屋へはいって来て、彼のたましいを追い出し、彼の肉体を奪った怪物は、ちゃんと男の姿をしていた。同じたましいでありながら、なぜこのように、姿がちがうのであろうか。この疑問を、父親にただしたところ、父親のたましいは、次のように答えた。 「たましいというものはね。たましいの力次第で、いろいろな形になることが出来る。実は、本当は、たましいには形がないものだ。まるで透明なガス体か、電波のように。が、しかし、たましいには個性があるので、なにか一つの姿に、自分をまとめあげたくなるものだよ。これはなかなかむずかしい問題で、お前にはよく分らないかも知れないが、お前は、自分で知っているかどうかしらんが、お前はおたまじゃくしのような姿をしているよ。つまり日本の昔の絵草紙なんかに出ていた人間と同じような姿なんだ。これはお前が、たましいとは、そんな形のものだと前から思っていたので、今はそういう形にまとまっているのだ」 「へえーッ、そうですかね」  と、隆夫は、はじめて自分のたましいの姿がどんな恰好のものであるかを知って、おどろき、且つあきれた。 「それはいいとして、お前の肉体を奪った悪霊を、早く何とか片づけないといけない」  父親治明博士は苦しそうに喘いだ。    城壁の聖者  その夜、するどくとがった新月が、西空にかかっていた。  ここはバリ港から奥地へ十マイルほどいったセラネ山頂にあるアクチニオ宮殿の廃墟であった。そこには山を切り開いて盆地が作られ、そこに巨大なる大理石材を使って建てた大宮殿があったが、今から二千年ほど前に戦火に焼かれ、砕かれ、そのあとに永い星霜が流れ、自然の力によってすさまじい風化作用が加わり、現在は昼間でもこの廃墟に立てば身ぶるいが出るという荒れかたであった。  しかも今宵は新月がのぼった夜のこととて、崩れた土台やむなしく空を支えている一本の太い柱や首も手もない神像が、冷たく日光を反射しながら、聞えぬ声をふりしぼって泣いているように見えた。  一ぴきの狼が突如として正面に現われ、うしろを振返ったと思うと、さっと城壁のかげにとびこみ、姿を消した。いや、狼ではなく、飢えたる野良犬であったかも知れない。その犬とも狼ともつかないものが振返った方角から、ぼろを頭の上からかぶった男がひとり、散乱した円柱や瓦礫の間を縫って、杖をたよりにとぼとぼと近づいてきた。  彼は、たえず小さい声で、ぼそぼそと呟いていた。 「……しっかり、ついてくるんだよ、わしを見失っては、だめだよ。……もうすぐそこなんだ。多分見つかると思うよ。アクチニオ四十五世さ。新月の夜にかぎって、廃墟の宮殿の大広間に、一統と信者たちを従えて現われ、おごそかな祈りの儀式を新月にささげるのだよ。……隆夫、わしについてきているのだろうね。……そうか。おお、よしよし。もうすこしの辛抱だ。わしはきっとアクチニオ四十五世を探し出さにゃおかない」  と男は、杖をからんからんとならしながら、空に向って話しかける。  彼こそ、隆夫の父親の治明博士であったことはいうまでもない。彼は、奇しきめぐりあいをとげた愛息隆夫のうつろな霊魂をみちびきながら、ようやくこれまで登ってきたのである。  隆夫のたましいは、どこにいる?  彼の姿も形も、まるでくらげを水中にすかして見たようで、はっきりしないが、治明博士の頭上、ややおくれ勝ちに、丸味をもった煙のようなものがふわふわとついて来るのが、それらしい。  博士は、杖を鳴らしながら、廃墟の中を歩きまわった。大円柱が今にもぐらッと倒れて来そうであった。宙にかかったアーチが、今にも頭の上からがらがらどッと崩れ落ちて来そうであった。博士は、そういう危険をものともせず、土台石の山を登り、わずかの間隙をすりぬけて、アクチニオ四十五世たちの祈祷場をなおも探しまわった。どこもここも墓場のようにしずかで、祈りの声も聞えなければ、人の姿も見えなかった。  博士は、泣きたくなる心をおさえつけながらもよろめく足を踏みしめて、なおも廃墟の部屋部屋をたずねてまわるのだった。 「あ、あそこだ!」  とつぜん博士は身体をしゃちこばらせた。博士は目をあげて見た。そこは西に面した高い城壁の上であったが、あわい月光の下、人影とおぼしきものが数十体、まるで将棋の駒をおいたように並んでいるのであった。  だが、誰一人として動かない。何の声も聞えて来ない。明かり一つ見えない。  それでも、それがアクチニオ四十五世の一団であることを認めた。博士は急に元気づき、その方へ足を早めていった。博士は、間もなく高い壁に行方を阻まれた。が博士は、すこしもひるむことなく、城壁の崩れかけた斜面に足をかけ手をおいて、登りだした。  時間は分らないが、やっと博士は城壁を登り切った。二時間かかったようでもあり、三十分しかかからなかったようでもあった。 「ああ……」  博士は眼前にひらける厳粛なる光景にうたれて、足がすくんだ。  城壁の上の広場に、約四五十人の人々が、しずかに月に向って、無言の祈をささげている。一段高い壇の上に、新月を頭上に架けたように仰いで、ただひとり祈る白衣の人物こそ、アクチニオ四十五世にちがいなかった。  博士は、すぐにも聖者の足許に駆けよって、彼の願い事を訴えるつもりであったが、それは出来なかった。足がすくみ、目がくらみ、動悸が高鳴って、博士はもう一歩も前進をすることが出来なかったのである。  博士は石床の上にかけて、化石になったように動かなかった。それから幾時間も動くこともできず、博士はそのままの形でいた。博士は気を失っていたのでも、睡っていたのでもない。博士はその間その姿勢ではとても見ることのできないはずの、聖なる新月の神々しい姿を心眼の中にとらえて、しっかりと拝んでいたのだ。  風が土砂をふきとばし、博士の襟元にざらざらとはいって来た。どこかで鉦の音がするようだ。 「顔をあげたがよい」  さわやかな声が、博士の前にひびいた。  はっと、博士は顔をあげた。 「あ、あなたはアクチニオ四十五世!」    ロザレの遺骸  いつの間にか、聖者は博士の前に近く立っていた。ふしぎである。博士は、自分の現在の居場所を知るために、あたりに目を走らせた。依然として、同じ城壁の上に居るのであった。だが、アクチニオ四十五世のうしろに並んで新月を拝んでいた同形の修行者たちはただの一人も見えなかった。残っているのは、聖者ただひとりであった。 「ああ、聖者……」 「分っている。わしについて来れ」  聖者は博士の願いについて一言も聞かず、自分のうしろに従い来れといったのだ。博士は、奇蹟に目をみはりながら、石床をけって立った。聖者は気高く後姿を見せて、しずかに歩む。博士はその姿を見失うまいとして、後を追っていった。そのとき気がついたことは、新月は既に西の地平線に落ちて、あたりは濃い闇の中にあったことである。しかもふしぎに、聖者の後姿と、通り路とは、はっきり博士の目に見えているのだった。  博士は聖者アクチニオ四十五世について城壁の上をずんずんと歩いていくうちに、いつしかトンネルの中にはいっているのに気がついた。うす暗い、そして奥が知れない、気味のわるいトンネルであった。トンネルの道は、自然に下り坂になって、今歩いているところは既に地下へもぐってしまったらしく、ぷーンとかびくさい。  どこからともなく、黄いろのうす明りがさし、トンネルの中の有様を見せてくれる。トンネル内は、通路が主であるが、ところどころそれが左右へひろげられて大小の部屋になっていた。そしてその部屋には、土や石で築いた寝台のようなものがあり、壁にはさまざまの浮き彫りで、絵画や模様らしきものや不可解な古代文字のようなものが刻まれてあった。  聖者はずんずんと奥へはいっていったが、そのうちに、一つの大きな丸い部屋のまん中に見えているりっぱな大理石の階段を下りていった。博士も、もちろんあとに従った。 「あ……」  博士は、階段を途中まで下りて、その下に見えて来た地下房の異様な光景に思わずおどろきの声を発した。  そこには、意外にも、たくさんの人が集っていた。そのほとんど皆が、壁にもたれて立っていた。みんなやせていた。そして燻製の鮭のように褐色がかっていた。  既に下り切っていた聖者が、治明博士の方へふり向いて、早く下りて来るようにとさし招いた。  今は、博士は恐ろしさも忘れ、下りていった。  聖者アクチニオ四十五世は、自分の前において、壁にもたれているミイラのような人間を指し、 「わが弟子たりしロザレの遺骸である。これを汝にしばらく貸し与える」 「えっ、この人を──この遺骸をお貸し下さるとは……」  と、治明博士は、問いかえした。 「今、ロザレの霊魂は他出している。されば後、ロザレの遺骸に汝の子の隆夫のたましいを住まわせるがよい」 「あ、なるほど。すると、どうなりますか……」 「生きかえりたるロザレを伴い、汝は帰国するのだ。それから先のことは、汝の胸中に自ら策がわいて来るであろう。とにかくわれは、汝ら三名の平安のために、今より呪文を結ぶであろう。しばらく、それに控えていよ」 「ははッ」  治明博士は、アクチニオ四十五世の神秘な声に威圧せられて、はッと、それにひれ伏した。  聖者は、不可解なことばでもって、ロザレの遺骸に向って呪文を唱えはじめた。呪文の意味はわからないが、治明博士は、自分の身体の関節が、ふしぎにもぎしぎしときしむのに気がついた。 (汝ら三名の平安のために──と、聖者はいわれた。汝ら三名とは、いったい誰々のことであろう)と、治明博士は、ふと謎のことばを思い出していた。自分と、それから──そうだ、隆夫のことだ。隆夫は、どうしているであろうか。さっき城壁の上に聖者の姿を拝してから、自分の心は完全に聖者のことでいっぱいとなって、隆夫がついて来ているかどうかを確めることを怠っていた。隆夫はどうしているだろうか。──いやいや、万事は、聖者が心得ていて下さるのだ。尊き呪文がなされているその最中に、他の事を思いわずらっては、聖者に対し無礼となるのは分り切っている。慎まねばならない。  呪文の最後のことばが、高らかに聖者の口から唱えられ、そのために、この部屋全体が異様な響をたて、それに和して、何百人何千人とも知れない亡霊の祈りの声が聞えたように思った。治明博士は、気が遠くなった。 「これ、起きよ、目ざめよ。旅の用意は、すべてととのった。これ一畑治明。汝の供は、既に待っているぞ。早々、連れ立って、港へ行け」  聖者の声は、澄みわたって響いた。治明博士ははっと気がついて、むくむくと起上ると、あたりを見まわした。  そこは、はじめ登っていた域壁の上であった。夜は既に去り、東の空が白んでいた。そこに立っているのは治明博士ただひとり……いやもう一人の人物がいた。 「君は」  と、治明博士は、横に立っていた褐色の皮膚を持った痩せた男へおどろきの目を向けた。どこかで見た顔ではあるが……。 「お父さん、ぼくですよ。隆夫ですよ。ぼくは、さっきから、このとおりロザレの肉体を貸してもらっているのです。これで元気になりましたから、早く戻ることにしようよ」  と、そのミイラの如き人物は、博士に向ってなつかしげに話しかけたのであった。    帰国  親子は、その後、バリ港を船で離れることができた。その船はノールウェイの汽船で、インドへ行くものだった。  コロンボで、船を下りなくてはならなかった。そしてそこで、更に東へ向う便船を探しあてることが必要だった。親子は、慣れない土地で、新しい苦労を重ねた。  この二人を、ほんとの親子だと気のつく者はなかった。そうであろう、治明博士の方は誰が見でも中年の東洋人であるのに対し、ロザレの肉体を借用している隆夫の方は、青い目玉がひどく落ちこみ、鼻は高くて山の背のように見え、その下にすぐ唇があって、やせひからびた近東人だ。頭巾の下からは、鳶色の縮れ毛がもじゃもじゃとはみ出している。パンツの下からはみ出ている脛の細いことといったら、今にもぽきんと折れそうだった。  しかし結局、隆夫のおかげで、治明博士はインドシナへ向う貨物船に便乗することができた。それはロザレの隆夫を聖者に仕立て、すこしもものをいわせないことにし──しゃべれば隆夫は日本語しか話せなかった──治明博士はその忠実なる下僕として仕えているように見せかけ、そのキラマン号の下級船員の信用を得て、乗船が出来たのであった。もっとも密航するのだから、親子は船艙の隅っこに窮屈な恰好をしていなければならなかった。  キラマン号をハノイで下りた。  それからフランスの飛行機に乗って上海へ飛んだ。そのとき親子は、小ざっぱりとした背広に身を包んでいた。  上海から或る島を経由してひそかに九州の港についた。いよいよ日本へ帰りついたのである。バリ港を親子が離れてから八十二日目のことであった。 「よくまあ、無事に帰って来られたものだ」 「やってみれば、機会をつかむ運にも出会うわけですね」  親子は、休むひまもなく自動車を雇って、そこから山越えをして四十五キロ先にある大きな都市へ潜入した。汽車の便はあったのであるが、それは避けた。  三日ほど身体を休ませたのち、いよいよ親子は東京へ向った。  これからがたいへんであった。親子の間には、ちゃんと打合わせがついているものの、果してそのとおりうまく行くかどうか分らなかった。もしどこかで尻尾をおさえられたが最後、えらいさわぎが起るにちがいなかった。ことに隆夫は、むずかしい大芝居を演じおおせなくてはならないのであった。それもやむを得ない。おそるべき妖力を持つあの霊魂第十号をうち倒して、隆夫が損傷なく無事に元の肉体をとり戻すためには、どうしてもやり遂げなくてはならない仕事だった。  親子は連れ立って、なつかしいわが家にはいった。それは日が暮れて間もなくのことであった。  隆夫の母は、おどろきとよろこびで、気絶しそうになったくらいだ。しかしそれは、隆夫を自分のふところへとりもどした喜びではなくて、もはや亡くなったものとあきらめていた夫の治明が、目の前に姿をあらわしたからであった。 「まあ、わたし、夢を見ているのではないかしら……」 「夢ではないよ。ほら、わしはこのとおりぴんぴんしている。苦労を重ねて、やっと戻ってきたよ」 「ほんとですね。あなたは、ほんとに生きていらっしゃる。ああ、なんというありがたいことでしょう。神さまのお護りです」 「隆夫は、どうしているね」  治明博士は、かねて考えておいた段取のとおり、ここで重大なる質問を発した。 「ああ、隆夫……隆夫でございますが……」  と、母親はまっ青になって、よろめいた。治明博士は、すばやく手を貸した。 「しっかりおしなさい。隆夫はどうかしたのですか」 「それが、あなた……」 「まさか隆夫は死にやすまいな」  治明博士の質問が、うしろの闇の中に立っている隆夫の胸にどきんとひびいた。もし死んでいたら、隆夫は再び自分の肉体を手にいれる機会を、永久に失うわけだ。母親は、どう応えるであろうか。 「死にはいたしませぬ」  母親の声は悲鳴に似ている。  しかしそれを聞いて隆夫は、ほっと胸をなでおろした。機会は今後に残されているのだ。それなれば、ミイラのような醜骸を借りて日本へ戻って来た甲斐はあるというものだ。 「……死にはいたしませぬが、少々不始末があるのでございます」 「不始末とは」 「ああ、こんなところで立ち話はなりませぬ。さ、うちへおはいりになって……」 「待って下さい。わしにはひとりの連れがある。その方はわしの恩人です。わしをこうして無事にここまで送って来て下すった大恩人なんだ。その方をうちへお泊め申さねばならない」  母親はおどろいた。治明博士の呼ぶ声に、隆夫は闇の中から姿をあらわし、なつかしい母親の前に立った。 (ああ、いたわしい)  母親は、しばらく見ないうちに別人のようにやせ、頭髪には白いものが増していた。 「レザールさんとおっしゃる。日本語はお話しにならない。尊い聖者でいらっしゃる。しかしお礼をのべなさい。レザールさんは聖者だから、お前のまごころはお分りになるはずである」  母親はおそれ入って、その場にいくども頭をさげて、夫の危難を救ってくれたことを感謝した。  隆夫はよろこびと、おかしさと、もの足りなさの渦巻の中にあって、ぼーッとしてしまった。    その後の物語  昔ながらの親子三人水いらずの生活が復活した。だが、それは奇妙な生活だった。これが親子三人水いらずの生活だということは、治明博士と隆夫だけがわきまえていることで、母親ひとりは、その外におかれていた。世間のひとたちも、一畑さんのお家は、ご主人が帰ってこられ、奥さんはおよろこびである。ご主人がインド人みたいなこわい顔のお客さんを引張ってこられて、そのひとが、あれからずっと同居している──と、了解していた。  隆夫は、めったに主家に顔を出さなかった。それは治明博士が隆夫のために、例の無電小屋を居住宅にあてるよう隆夫の母親にいいつけたからである。そこに居るなら、隆夫は寝言を日本語でいってもよかった。なにしろ、事件がうまい結着をみせるまでは、母親をもあざむいておく必要があったから、隆夫はなるべく主家へ顔出しをしないのがよかったのである。隆夫には、たいへんつらい試練だった。  もう一人の隆夫は、どうしていたろう。隆夫の肉体を持った霊魂第十号は、今どうしているか。  母親は、そのてんまつを治明博士に次のように語った。 「隆夫が、あなた、急に女遊びをするようになってしまいましてね。監督の役にあるわたくしとしては、あなたに申しわけもないんですが。いくらわたくしが意見をしても、さっぱりきかないんですの。もっとも女遊びといっても悪い場所へ行って札つきの商売女をどうこうするというのではなく、隆夫のは、お友達の家のお嬢さんと出来てしまったわけで、下品でも不潔でもないんですけれど、やはり女遊びにちがいありません。まことに申しわけのないことになってしまいました。  そんなわけで、隆夫はわたくしと考えがあいませんで、今はこの家に居ないのでございます。早くいえば、家出をしてしまったんです。でも隆夫の居所ははっきりしています。それは今お話した相手のお嬢さんのお家なんですの。三木さんといいまして、隆夫と仲よしの健さんのお家なんです。相手のお嬢さんというのが、健さんの姉さんで名津子さんという方です。つまり同級生のお姉さまと恋愛関係に陥ちてしまったわけですの。名津子さんは二十歳ですが、隆夫は十八歳なんですから、相手の方が二つも年齢が上になっています。いいことだと思いません。どうして隆夫が、そんな軟派青年になってしまったのか、もちろんわたくしにも監督上ゆだんがあったわけでございましょうけれど、まさしく悪魔に魅られたのにちがいありません。  二人が結びついたきっかけは、名津子さんの発病でございました。いいえ、名津子さんは、それまではたいへん健康にめぐまれた方でしたが、あるとき急におかしくなってしまいましてね、健さんもたいへんな心配、それよりもお母さんはもっとたいへんなご心配で、名津子さんといっしょにおかしくなってしまいそうに見えました。それを聞いた隆夫は、自分が研究して作った器械を使って、名津子さんの病気をなおしてあげたいといって、その器械を持って三木さんのお家へ出かけたのでございますよ。その日帰って来ての短い話に、『お母さん、どうやら病気の原因の手がかりをつかんだようですよ。二三日うちに、きっとうまく解決してみせます』と隆夫が申しました。それから隆夫は、いつもの通り、電波小屋へはいったわけですが、隆夫がおかしくなったとはっきり分ったのは、その翌朝のことでございました。  その朝、隆夫はいつもとはかわって、たいへん機嫌がよく、そして大元気で──すこしそのふるまいが乱暴すぎるようにも思われたこともありましたが──とにかくすばらしい上機嫌で、『これから三木さんのところへ行って、名津子さんの病気をなおします。病気がなおったらぼくは名津子さんと結婚します。ぼくはこの家よりも名津子さんの家の方が好きだから、あっちに住みます。では、行ってきます』と途方もないことを口走ると、わたくしが追いすがるのをふり切って、家を出ていってしまったんです。それっきり、隆夫はうちへ戻って来なくなりました。そのときのことを思い出しますと、今も胸がずきずき痛んでなりません。  隆夫がおかしくなったので、わたくしはおどろきと悲しみのあまり、病人のようになって寝ついてしまって、一歩も歩けなくなりました。しかしわたくしよりも、もっとびっくりなすって、当惑なすったのは、名津子さんのお家の人々でした。とりわけお母さまの驚きは、お察し申しあげるだに、いたましいことでした。なにしろ、とつぜん隆夫が乗りこんでいって、名津子さんに抱きつき、そして『ぼくは只今から名津子さんと結婚します。そしてぼくは名津子さんと、ここに住みます』と宣言したというではございませんか。いくら顔見知りの青年であっても、こんなあつかましいことをいって、しかもそれを目の前で実行してみせる心臓っぷりには、お母さまが卒倒なすったというのも無理ではありません。  それ以来、隆夫はあのお家から離れないのです。誰から何といわれようと、隆夫はすこしも気にしていないらしく、にやにや笑うだけで言葉もかえさず、その代り、忠実な番犬のように名津子さんのそばから離れないのです。しかしふしぎなことに、名津子さんの病気は、ぴったりと癒ってしまいました。前のようにちゃんとおとなしくなり、いうこともへんではなくなりました。二人の仲は、たいへんいいのです。そのかわり、この事件のてんまつは世間にひろがり、すごい評判になりました。もちろん隆夫は、退校処分にされました。でも隆夫は平気でいます。今の今も、わたくしは隆夫の気持が分らないで、悩んでいるのでございます」  隆夫の母親は目頭をおさえた。    公開実験の日  ある日、治明博士は、困った顔になって、電波小屋へはいって来た。  レザール聖者──実は隆夫のたましいは、待ちかねていたという風に椅子から立上ってきて、父親を迎えた。 「困ったことになったよ、隆夫」  治明博士は、まゆをひそめて、すぐその話を始めた。 「どうしたのですか、お父さん」 「わしはお前を救うために、こうして日本へ帰って来たんだ。ところが、わしが帰って来たことが広く報道されたため、わしは今方々から講演をしてくれと責められて断るのによわっている」 「断れば、ぜひ講演しろとはいわないでしょう」 「それはそうだが、中にはどうにも断り切れないのがある。心霊学会のがそれだ。あそこからは洋行の費用ももらっている。それにお前のことがもう大した評判なんだ。いや、お前というよりも、聖者レザール氏をわしが連れて来たということが大評判なんだ。ぜひその講演会で、術をやってみせてくれとの頼みだ。これにはよわっちまった」 「それは困りましたね。ぼくには何の術も出来ませんしねえ」  親子はしばらく黙って下を向いていた。やがて治明博士がいいにくそうに口を開いた。 「どうだろうなあ、心霊学会だけに出るということに譲歩して、一つ出てもらえないかしらん」 「出てくれって、ぼくに何をしろとおっしゃるのですか、お父さん」  隆夫のたましいはおどろいて問い返した。 「何もしなくていいんだ。ただ、舞台に出て目を閉じてじっとしていてもらえばいい。何をいわれても、はじめからしまいまで黙っていてもらえばいいんだ。それならお前にもできるだろう」 「それならやれますが、しかしそれでは聴衆が承知しないでしょう。ぼくばかりか、お父さんもひどい攻撃をうけるにきまっていますよ」 「うん。しかしそのところはうまくやるつもりだ。お父さんもやりたくないんだが、心霊学会ばかりは義理があってね、どうにも断りきれないのだ。お前もがまんしておくれ」  こんなわけで、隆夫のたましいは、はじめて公開の席に出ることになった。彼は不安でならなかった。が、「はじめからしまいまで黙っていればいいんだ」という父親との約束を頼みにした。  一畑治明博士の帰国第一声講演及び心霊実験会──という予告が、心霊学会の会員に行きわたり、会員たちを昂奮させた。新聞社でもこの治明博士の帰国第一声を重視して紙上に報道した。だから会場は当日、会員以外に多数の傍聴人が集り、五千人の座席が満員になってしまった。  治明博士の講演は「ヨーロッパに於ける心霊研究の近況」というので、博士が身を多難にさらして、各地をめぐり、心霊学者や行者に会い、親しく見聞し、あるいは共に研究したところについて概略をのべた。それによると、心霊の実在と、それが肉体の死後にも独立に存在すること、そして心霊と肉体とがいっしょになっている、いわゆる生存中も霊魂と肉体との分離が可能であると信ぜられているそうである。更に博士は、一歩深く進んで心霊世界のあらましについて紹介した。  聴衆は熱心に聴講した。会員たちはもちろんのこと、傍聴人たちも深く興味をおぼえたらしい、講演後の質問は整理に困るほど多かった。しかし時間が限られているので、それをあるところで打切って、いよいよ聖者レザール氏をこの舞台へ招くことになった。来会者一同は、嵐のような拍手をもっていよいよ始まる心霊実験に大関心を示した。  治明博士は、聖者を迎える前に、レザール氏の身柄と業績について述べた。これは実は博士のデタラメが交っていたが、一部分はアクチニオ四十五世の下に集っている行者団のことを述べたので、かなり実感のある話として聴衆の胸にひびいた。  舞台には、このとき聖壇が設けられた。白い布で被い、うしろには衝立がおかれ、それには奇怪なる刺繍絵がかけられた。これは治明博士があちらで手に入れたもので、多分イランあたりで作られたらしい豪華なものである。それからその前に、法王の椅子が置かれた。  そのとき舞台の裏で、奇妙な調子の楽器が奏しはじめられた。東洋風の管楽器の集合のようであった。それは音色が高からず低からず、そしてしずかに続いてやむことがなく、聴きいっているうちにだんだん自分のたましいがぬけ出していくような不安さえ湧いて来るのであった。  いったん退場した治明博士が、再び舞台へ現われた。しずかな足取り、敬虔な面持で歩をはこんでいる。と、そのあとから聖者レザール氏の長身が現われた。僧正服とアラビア人の服とをごっちゃにしたような寛衣をひっかけ、頭部には白いきれをすっぽりかぶり、粛々と進んで、聖壇にのぼり、椅子に腰を下ろした。聴衆の間からは、溜め息が聞えた。つづいて嵐のような拍手が起ったが、聖者はそれに答えるでもなく、席についたまま石のように動かず、目を閉じたまま、ただ、とび出た高い鼻を、かぶりものの布がかるく叩いていた。どこからか風が舞台へ吹いて来るものと見える。  さて、いよいよこれより治明博士一世一代の大芝居が始まることになった。果してうまく行くかどうか、千番に一番のかねあいだ。    奇蹟起る  もう度胸をきめている治明博士だった。彼はまず聴衆に向って、これより聖者レザール氏をわずらわして心霊実験を行うとアナウンスし、 「但し、聖者のおつとめはかなり忙しく、こうしているうちにも多数の心霊の訪問を受けて一々応待しなければならないので、只今すぐに実験をお願いして、即座にそれが諸君の前に行われるかどうか疑問である。聖者のおつとめの合間をつかむことができたら、諸君は運よく実験を見ることができるわけだ。その点よく御了解を得たい」  と、巧みにことわりを述べて、伏線とした。 「それでは、まず第一番として、聖者にお願いして、私の肉体と私の霊魂とを分離して頂くことにします」  博士はついに、こういって、実験を始めたのである。これは実は、博士が修業によって会得して来た術であって、なにも聖者をわずらわさなくとも、博士ひとりで出来ることであった。博士としては、これだけは確実に来会者をはっきりおどろかせることが出来る自信があり、これさえ成功するなら、あとの実験はたとえことごとく失敗に終っても、申訳がつくと考えていた。  そこで博士は、うやうやしく壇の前にいって礼拝をし、それから立上った。博士の考えでは、それから聖者に後向きとなって聴衆の方を向いて座し、それから肉体と心霊の分離術に入るつもりだった。  ところが、博士の思ってもいないことが、そのときに起った。  というのは、壇上の聖者レザールが、博士に向って手を振りだしたのである。 「汝は下がれ。あちらに下がれ」  レザールは舞台の下手を指した。  博士はおどろいた。隆夫がなにをいい出したやらと、びっくりした。しかも「汝は下がれ」といったのはギリシア語だったではないか。隆夫がギリシア語を知っているとは今まで思ったこともなかった。 「お前は、だまって、じっと黙っているがいいよ。あとはわしがうまくやるから」  と、治明博士は近づいて、それをいおうとしたのだ。ところがどうしたわけか、博士は声が出せなかった。そして全身がかッとなり、じめじめと汗がわき出でた。 「汝は、しずかに、見ているがよい」  レザールは重ねていった。  と、博士は何者かに両脇から抱えあげられたようになり、自分の心に反して、ふらふらと舞台を下手へ下がっていった。そしてそこにおいてあった椅子の一つへ、腰を下ろしてしまった。  来会者席からは、しわぶき一つ聞えなかった。みんな緊張の絶頂にあったのだ。誰もみな──治明博士だけは例外として──聖者レザールが厳粛な心霊実験を始めたのだと思っていたのだ。このとき、舞台裏で、例の奇妙な楽器が鳴りだした。恨むような、泣くような、腸の千切れるような哀調をおびた楽の音であった。来会者の中には、首すじがぞっと寒くなり、思わず襟をかきあわす者もいた。  今や場内は異様な妖気に包まれてしまった。これが東京のまん中であるとは、どうしても考えられなかった。  そのとき、来会者がざわめいた。  階下の正面の席から、ぬっと立ち上った青年がいた。その青年は、ふらふらと前に歩きだしたのだ。近くの席の者は見た。その青年の目は閉じていたことを。  青年はまっすぐに歩きつづけたので、ついに舞台の下まで行きついた。そこで行きどまりとなったと思ったら、青年の身体がすーッと煙のように上にのぼった。あれよあれよと見るうちに、青年は舞台の上に自分の足をつけていた。  来会者席は、ふたたび氷のような静けさに返った。今見たふしぎな現象について、適確な解釈を持つひまもなく、次の奇蹟が待たれるのであった。かの青年は、亡霊の如くすり足をして、聖者の席に近づきつつあった。  このときの治明博士の焦燥と驚愕とは、たとえるもののないほどはげしかった。彼は席から立って、舞台のまん中へとんでいきたかった。だが、どういうわけか、彼の全身はしびれてしまって、立つことができなかった。そのうちに彼は、重大な発見に、卒倒しそうになった。というのは、客席から夢遊病者のようにふらふらと舞台へあがって来た青年こそ、隆夫にそっくりの人物だったからだ。 「これはことによると、えらいさわぎをひき起すことになるぞ」  治明博士は青くなって、舞台を見入った。  隆夫に似た青年は、ついに聖者の前に棒立ちになった。  すると聖者はやおら椅子から立上った。そして両手をしずかに肩のところまであげたかと思うと、両眼をかッと見開いて、自分の前の青年をはったとにらみつけ、 「けけッけッけ」  と、鳥の啼声のような声をたてた。  そのとき来会者たちは、聖壇の上に、無声の火花のようなものがとんだように思ったということだ。が、それはそれとして、聖者ににらみつけられた青年は、大風に吹きとばされたようにうしろへよろめいた。そしてやっと踏み止ったかと思うと、これまた奇妙な声をたて、そしてその場にぱったりと倒れてしまった。  奇蹟はまだつづいた。このとき聖者の身体から、絢爛たる着衣がするすると下に落ちた。と、聖者の肉体がむき出しに出た。が、それは黄いろく乾からびた貧弱きわまる身体であった。聖者の顔も一変して、猿の骸骨のようになっていた。聖者の身体はすーッと宙に浮いた。と見る間に、聖者の身体は瞬間金色に輝いた。が、その直後、聖者の身体は煙のように消え失せてしまった。    聖者の声  この奇怪なる出来事の間、場内は墓場のようにしずまりかえっていた。  また、治明博士は、この間、目は見え、耳は聞えるが、ふしぎに声が出ず、五体は金しばりになったように、舞台の上の肘かけ椅子の上に密着していて、動くとができなかった。ただ、その間に、博士は天の一角からふしぎな声を聞いた。 「……汝の願いは、今やとげられた。汝の子の肉体から、呪われたる霊魂は追放せられ、汝の子の霊魂がそれにかわって入り、すべて元のとおりになった。これで汝は満足したはずである。さらば……」  その声! その声こそ、聖者アクチニオ四十五世の声にちがいなかった。 「ははあ。かたじけなし」  と治明博士は心の中に感謝を爆発させて、アクチニオ四十五世の名をたたえた。そのときに、高き空間を飛び行く聖者の姿が見えた。聖者は白い衣を長く引き、金色の光に包まれていた。その右側に、やせこけた色の黒い人物がつき従っていた。それは殉教者ロザレにまぎれもなかった。聖者アクチニオ四十五世の左手は、ふわふわとした絹わたのようなものを掴んでぶら下げていた。よく見ると、その絹わたのようなものの中には、二つの眼のようなものが、苦しそうにぐるぐる動いていた。それこそ、永らく隆夫やその両親や友人たちにわずらいをあたえていた所謂霊魂第十号にちがいなかった。  大会堂をゆるがすほどの大拍手が起った。そのさわぎに、治明博士は吾れにかえった。アクチニオ四十五世も、ロザレや霊魂第十号の幻影も、同時にかき消すように消え失せた。  大感激の拍手は、しばらく鳴りやまなかった。来会者の中には、拍手をしながら席を立って舞台の下へ駈けだして来る者もあった。  治明博士は、呆然としていた。  この場の推移を見ていて、どうにもじっとしていられなくなった司会者が、楽屋からとび出して来て、治明博士の前に進んだ。またもや割れるような満場の拍手だった。 「先生。来会者たちは大感激しています。そして、姿を消した聖者レザールをもう一度聖台へ出してほしいと、熱心に申入れて来ます。どうしましょうか。とりあえず、先生はあの壇の前へ行って、立って下さいまし」  司会者は、早口ながら、半ば歎願し、半ば命令するようにいった。 「私が万事心得ています」  治明博士は、ようやく口を開いた。そしてよろよろと立上ると、舞台を歩いて、聖者レザールを座らせてあった壇の方へ行った。そこで博士は、当然のこととして、壇の前に倒れている若い男の身体に行きあたった。博士の靴の先が、その男の身体にふれると、その男はむくむくと起き上った。そして博士の顔を凝視すると、 「おお、お父さん」  と叫んで、治明博士に抱きついた。  博士はふらふらとして倒れそうになったが、やっと踏みこたえた。そして口の中で、アクチニオ四十五世の名をくりかえし、となえた。 「お父さん。ぼくは元の身体に帰ることができましたよ。よろこんで下さい」 「ほんとにお前は元の身体へ帰って来たのか」 「ほんとですとも。よく見て下さい。何でも聞いてみて下さい」 「ほんとらしいね。アクチニオ四十五世にお前も感謝の祈りをささげなさい」  舞台の上で親子が抱きあって、わめいたり涙を流しているので、来会者には何のことだかわけが分らなかったが、やはり感動させられたものと見えて、またもや大拍手が起った。  治明博士は、その拍手を聞くと、身ぶるいして、正面に向き直った。 「来会者の皆さま。私は本日、全く予期せざる心霊現象にぶつかりました。それは信じられないほど神秘であり、またおどろくべき明確なる現象であります。ここに並んで立っています者は、私の伜でありますが、この伜は永い間、自分の肉体を、あやしい霊魂に奪われて居りましたが、さっき皆さんが見ておいでになる前で、伜の霊魂は、元の肉体へ復帰したのであります。こう申しただけでは、何のことかお分りになりますまいが、これから詳しくお話しいたしましょう……」  とて、博士は改めて、隆夫に関する心霊事件の真相について、初めからの話を語り出したのである。  その夜の来会者は、十二分に満足を得て、散会していった。そして誰もが、心霊というものについて、もっともっと真剣に考え、そして本格的な実験を積みかさねていく必要があると痛感したことであった。    隆夫のメモ  呼鈴が鳴ったので、玄関のしまりをはずして硝子戸を開いた隆夫の母親は、びっくりさせられた。意外にも、夫と隆夫とが、門灯の光を浴び、にこにこして肩を並べていたからだ。  治明博士は、靴をぬぎながら、さっそく、長いいきさつとその信ずべき根拠について、夫人に語りはじめた。その話は、茶の間へ入って、博士の前におかれた湯呑の中の茶が冷えるまでもつづいたが、隆夫の母親には、博士の話すことがらの内容が、ちんぷんかんぷんで、さっぱり分からなかった。だが、母親は、今夜のめでたい出来事が分らないのではなかった。かわいい隆夫が、前の状態から抜けて、元の隆夫に戻っていることを、隆夫の話しぶりや目の動きで、すぐそれと悟った。隆夫が元のように戻ってくれれば、それだけで十分であった。どうして隆夫が変り、どうして隆夫が癒ったか、そんな理屈はどうでもよかったのである。夜は更けていたが、親子三人水入らずの祝賀の宴がそれから催された。隆夫も、父親治明博士も、母親も、話すことが山のようにあった。そして時刻の移っていくのが分らなかった。  電話がかかってきたので、母親は立っていった。そのとき柱時計が午前一時をうった。受話器をはずして返事をすると、電話をかけて来たのは三木健であった。 「もしもし。こっちは三木ですが、もしやそちらに、隆夫君が帰っていませんかしら」 「えッ、隆夫ですって。あのウ、少々お待ち下さいまし」  治明博士がすばしこく電話の内容を感づいて立って来たので、母親ははっきりした返事をしないで、相手に待ってもらった。替って、治明博士が電話口に出た。 「隆夫は、こっちに来て居ません。だいぶん以前から、どこかへ行ってしまって、うちには寄りつかんそうです。どうかしましたか」  と、知らない風を装った。これは意地悪ではなく、当分そうしておくのが、双方のためになると思ったからだ。  三木健の、おどおどした声が、受話器の奥からひびいて来た。 「ぼくは、ほんとに困り切っているのです。とにかく隆夫君はずっとうちに泊っているのです。しかし今夜にかぎって、まだ戻って来ないので心配しているのです。もしや、そちらへ帰ったのではないかと思ったものですから、お電話したんです」 「なんだか事情はよくのみこめませんが、君のご心労は深く察します。名津子さんは、どうですか。おたっしゃですか」 「そのことも、ちょっと心配なんです。今夜姉は卒倒しましてね、ぼくたちおどろきました。それから姉は、昏々と睡りつづけているのです。お医者さんも呼びましたが、手当をしても覚醒しないのです。昼間は、たいへん元気でしたがね」  それを聞くと、治明博士はどきりとした。 「卒倒されたというんですか。それは今夜の幾時ごろでしたか」 「姉が卒倒した時刻は、そうですね、たしか八時半ごろでした」 「今夜の八時半ごろ。なるほど」 「どうかしましたか」 「いや、どうもしません。とにかくそのまま静かに寝かしておいておあげになるがいいでしょう。四五日たてば、きっとよくなられるでしょう。多分、今までよりも、もっと元気におなりでしょう」  電話を切って、茶の間へ戻っていく博士は、 「八時半か。あの時刻にぴったり合うぞ」  と、ひとりごとをくりかえした。午後八時半といえば、隆夫がレザールの前で倒れた時刻だ。隆夫の肉体に宿っていた霊魂第十号が追い出され、そのあとへ隆夫の霊魂が仮りの宿レザールの身体をはなれて飛びこんだその時刻にぴったりと一致する。あの出来ごとが、てきめんに名津子にひびいたとすれば、これは名津子の身の上にも一変化起るのではなかろうかと、博士は推理した。  博士は、茶の間の自分の座に戻ってから、彼の考えを隆夫と、その母親に説明し、当分の間、隆夫は、この家に居ないことにしておいた方がよいと、結論を述べた。隆夫は、その夜ゆっくりと足を伸ばして睡った。  翌日からは、彼はなつかしい電波小屋にとじ籠った。そして多くの時間を、仮りのベッドの上で昼寝に費し、ときどき起き出でては荒れたままになっている実験装置の部品や結線を整理した。その間に、彼はこれまでの事件についてのメモを書き綴った。  そのメモの中から、少しばかり抜いておこう。 ──自分ノ感ジデハ、此ノ空間ヲ往来シテイル電波ノ諸相ニツイテノ研究ハ、ホンノ手ガツイタバカリダト思ウ。ワレワレ通信技術者ガワレワレノ組立テタ器械ニヨッテ放出シテイル通信用電波ノ外ニ此ノ空間ニハ現ニ多種多様ナ未知ノ電波ガ飛ビ交ッテイルノダ。ソレヲ探求シツクスコトハ容易デナイト思ウガ、ゼヒトモ速カニソノ研究ニ着手スベキダ。  カカル未知電波ノウチノアルモノハ、時ニ雑音トイウ名ノモトニワレワレニ知ラレテイル。シカシ果シテソレガ雑音ナドトイワレルニ十分ナ屑電波ダトスルコトハ早計ニ過ギルト思ワレル。雑音コソハ、直チニ研究ニ取懸ルニ適シタ未知電波ダ。コレヲ探求シ、分析シ、整頓シ、再現スルコトニヨッテ、ワレワレハ自然界ノ新シキ神秘ニ触レルコトガ出来ルノデハナイカト思ウ。  自分ガ関係シタ霊魂第十号モ、カカル雑音ノ中カラ姿ヲ現ワシタノデアル。第十号ハ頗ル野心ニ燃エタ霊魂ダッタ。第十号ハ人間界ニ肉迫シ、ソシテ遂ニ人間ノ霊魂ヲ捉エルニ至ッタ。ソノ択バレタル霊魂ノ持主ハ、不運デモアッタガ、又、捉エラレルニ適シタホドノ脆弱性ト不安定トヲ持ッテイタ気ノ毒ナ人デアッタ。ソウイウ種類ノ人間ハ、案外身辺ニ少ナクナイノデアル。深イ注意ヲモッテカカル人間ニ対シ適当ナ電波的保護ヲ急グノデナケレバ、世ノ中ニハ「手ニオエナイ神経病者」トイワレルモノガ年ト共ニ激増スルデアロウ。  自分ハ健康ヲ回復シタラ、此ノ方面ノ研究ニ没頭シヨウト思ウ。ソシテ、可能ナラバ霊魂第十号ニモウ一度会イ、彼及ビ彼ノ背後ニアル心霊科学ト握手シ、同ジ目的ニ向ッテ協力シタイモノダ。(以下略)  治明博士の予想した如く、一週間後に名津子はすっかり元気になり、それまでの妖しき態度も消え、元の名津子に戻った。そして隆夫や健や二宮や四方の交際も旧に復した。  なお、隆夫は改めて名津子と結婚した。隆夫の方が年下であることは、二人の間にも親たちの間にも、もはや問題でなかった。 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房    1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行 底本の親本:「海野十三全集 第七巻」東光出版社    1951(昭和26)年5月5日 入力:tatsuki 校正:原田頌子 2001年11月12日公開 2006年7月31日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。