鞄らしくない鞄 海野十三 Guide 扉 本文 目 次 鞄らしくない鞄    事件引継簿  或る冬の朝のことであった。  重い鉄材とセメントのブロックである警視庁の建物は、昨夜来の寒波のためにすっかり冷え切っていて、早登庁の課員の靴の裏にうってつけてある鋲が床にぴったり凍りついてしまって、無理に放せば氷を踏んだときのようにジワリと音がするのであった。朝日は、今ようやく向いの建物の頭を掠めて、低いそしてほの温い日ざしを、南向きの厚い硝子の入った窓越しにこの部屋へ注入して来た。  そのとき出入口の重い扉がぎいと内側に開いて、肥えた赭ら顔の紳士が、折鞄を片手にぶら下げて入って来た。  課員たちは一せいに立上って、その紳士に向って朝の挨拶をのべた。みんなの口から一せいに白い息がはきだされて、部屋の方々に小さな虹が懸った。紳士は一番奥まで行って、まだ誰も座っていない一番大きな机の上に鞄をぽんと投げ出し、それから後を向いて帽子掛に、鼠色の中折帽子をかけ、それから頸から白いマフラーをとってから、最後に鼠色の厚いオーバァを脱いで引懸けた。それから身体をひねって、大机にくっついている回転椅子をすこし後にずらせて、その上に大きな尻を落着かせたのであった。かくして警視田鍋良平氏は、例日の如くちゃんと課長席におさまったのである。  少女の給仕が、縁のかけた大湯呑に、げんのしょうこを煎じた代用茶を入れてほのぼのと湯気だったのを盆にのせ、それを目よりも上に高く捧げて持って来た。課長は彼女がその湯呑を、いつもと同じに、硯箱と未決既決の書類函との中間に置き終るまで、じっと見つめていた。  少女の給仕が、振分け髪の先っぽに、猫じゃらしのように結んだ赤いリボンをゆらゆらふりながら、戸口近い彼女の席の方へ帰って行くのを見送っていた田鍋課長は、突然竹法螺のような声を放って、誰にいうともなく、 「あーア、昨夜から、何か変ったことはなかったかア」  と、顔を正面に切っていった。そして手を延ばして大湯呑をつかむと、湯気のたつやつを唇へ持っていった。破れ障子に強い風が当ったような音をたてて彼は極く熱つのげんのしょうこを啜った。近来手強い事件がないせいか、どうも腸の工合がよろしくない。  ばたんと机に音がして黒表紙の帳簿が課長の前に置かれた。「事件引継簿第七十六号」と題名がうってある。課長は大湯呑を左手に移し、右手の太い指を延ばして帳簿の天頂から長くはみ出している仕切紙をたよりにして帳簿のまん中ほどをぽんと開いた。その頁には、昨日の日附と夕刻の数字とが欄外に書きこんであり、本欄の各項はそれぞれ小さい文字で埋っていた。 〝──省線山手線内廻り線の池袋駅停り電車が、同駅ホーム停車中、四輌目客車内に、人事不省の青年(男)と、その所持品らしき鞄(スーツケースと呼ばれる種類のもの)の残留せるを発見し届出あり、目白署に保護保管中なり。住所姓名年齢不詳なるも、その推定年齢は二十五歳前後、人相服装は左の如し……〟  課長はそのあとの文字を、目で一はけ、さっと掃いただけでやめ太い指で紙をつまんで、次の頁をめくった。  次の頁は空白だった。 (さっぱり商売にならんねえ)  と、課長は、刑事時代からの口癖になっている言葉を、口の中でいってみた。ぽたりと微かな音がした。茶色の液の玉が空白の頁の上に盛上って一つ。課長は大湯呑を目よりも上にあげて、湯呑の尻を観察した。それからその尻を太い指でそっと撫でてみた。指先は茶色の液ですこし濡れた。課長はすこし周章てて茶碗を下に置きかけたが、机に貼りつめている緑色の羅紗の上へ置きかけて急にそれをやめ、大湯呑は硯箱の蓋の上に置かれた。  課長の仕事は、まだ終っていなかった。事件引継簿の頁の上にはげんのしょうこの液の玉が盛上っていた。課長は、机の引出から赤い吸取紙を出して、茶色の水玉の上に置いた。吸取紙は丸く濡れた。その吸取紙を課長が取ってみると、帳簿の上の水玉は跡片なく消え失せていた。課長の当面の仕事は終った。  おれの次の仕事は、何時になったら出来てくるのであろうか──と、課長は背のびをしながら、両手を頭の後に組んだ。    失踪の博士  いつもなら、そういう面会人は必ず応接室へ入れるのが例になっていたが、今日ばかりは特別の扱いで、課長はいそいそと席から立って指図をし、その面会人を自分の机の横の席へ通させたのである。ちょうどその日のお昼前のことであった。  面会人は臼井藤吾という姓名の青年であり、この臼井青年を紹介して来たのは、課長と同郷の大先輩である元知事目賀野俊道氏であった。しかし課長は、この大先輩に対し、あまり尊敬の念を持合わしてはいなかった。 「実は重大人物が行方不明となりましたものですから、特に課長さんの御尽力に縋りたいと存じまして、目賀野閣下から紹介して頂いたような次第でございます」  青年臼井は、ポマードで固めた長髪を奇妙に振りながら、近頃の青年にしては珍らしく鄭重な言葉で挨拶をしたのだった。青年の赤いネクタイが、その睡眠不足らしい腫れぼったい瞼や、かさかさに乾いた黄色っぽい顔面とが不釣合に見えた。 (目賀野氏はもはや閣下ではない筈ですが……)と皮肉をいってやりたくなった田鍋課長だったけれど、それは差控えることにして、 「どういう人物だか、詳しくお話下さらんので、われわれには正体が分りませんが、とにかく家出人の捜査申請は本庁でも毎日受付けて居りますから、どうぞ届書を出されたい」  と返答をした。 「いや、これは失礼をいたしました。故意にその人物の素性などを隠そうとしたものではなく、その人物が如何なる人であるかを説明するには相当長い説明が要りますので、とりあえず重大人物と申上げたわけでありまするが……」 「お話中ですが、われわれは非常に多忙でありますし、且又非常に重大事件を数多抱えて居りますために、なるべくつまらんことでわれわれを煩わさないように願いたい。いやもちろん目賀野先生の紹介状に対して敬意を表しないというわけではありませんが、とにかく本課では目下数多の重大事件を抱えこんでいる──今も申した通りですが、例えば某研究所から二百グラムという夥しいラジウムが盗難に遭い目下重大問題を惹起していまして、本課は全力をあげて約四十日間捜索を継続していますが、今以て何の手懸りもない──迷宮入り事件くさいですがね、これは……、それだとか次は……」 「お話中を恐れ入りますが、他の重大事件には私は殆んど関心を持って居りませんので。はい、只々重大人物博士の失踪について非常なる憂慮と不安と焦燥とを覚えている次第でございます」 「失踪事件ならば、先刻も御教えしたとおり家出人捜査申請をせられたい」 「それは分って居ります。しかしですな、その博士はあまりに重大なる人物でありまして、普通の失踪捜査申請などをしていたのでは間に合わないのでございます。況んや博士に於ては家出せられるほどの事情は痕跡ほども持って居られない。従ってこれは博士を誘拐したと見なければならない甚だ重大刑事事件であります。果して然らば、刑事部捜査課長たる足下が当然陣頭に立って捜査せらるべき筋合のものであると確信いたします」 「一体誰ですか、その重大人物博士とやらいうのは……」 「赤見沢博士のことです。あの有名な実験物理学の権威、そして赤見沢ラボラトリーの所長、万国学士院会員、それから……いや、後は省略しましょう。ここまで申せば、課長さんも赤見沢博士の重大人物たることをよく御了解になるでしょう」 「もちろんです」課長は勢い上、そう応えなければならなかった。「赤見沢先生が失踪されたとは、これは初耳ですな。それは何時のことですか」 「昨夜以来、お邸へお帰りがない。お邸と申しましても、それはラボラトリーの一室ですが……。私は昨夜はお目に懸る約束になっていたので博士の御帰りを待って居りましたが、遂に博士はお帰りにならず、本日午前十時になっても姿をお現わしになりません。それ故にこれは大変だと思い──今までそんな約束ちがいは一度もありませんでしたからな──それで目賀野閣下に御相談をし、こちらへ駈付けましたような訳です。如何です。昨夜何か都下において血腥き事件でもございませんでしたでしょうか」  臼井は錐のように鋭く問い迫る。 「昨夜は極めて静穏でしたな。報告するほどの事件は一つもなかった。いや、正確に申せば只一件だけあった。深夜池袋駅停りの省線電車の中に、人事不省になった一人の男が鞄と共に残っていたというだけのことです」 「えっ、鞄と仰有いましたか」 「ああ、鞄──それはスーツケースらしいですが、それが車内に残留していたので、その人事不省の人物の所持品じゃろうと……」 「その人事不省の男というのは、どんな男でしたか。年齢はどのくらい……」 「二十五前後の青年男子だと報告して来ています」 「ああ、それじゃ違う。赤見沢博士は確か本年六十五歳になられる老体なんですからね」 「それはお気の毒」  と課長はいって、事件引継簿を書類函の既決の函の中へ、ばさりと投げ入れた。    仔猫の怪  面会人臼井は、なかなか尻を上げようとはしなかった。 「これは一つ、今日只今課長さんによく認識して頂かねば、僕は帰れません。そもそも赤見沢博士の重大性なるものは……」 「粗茶ですが、どうぞ」  少女の給仕が茶を入れて持って来て、臼井の前に置き課長の大湯呑にはげんのしょうこをつぎ足して来た、課長は客に粗茶をどうぞと薦めたわけだ。 「ああ結構です」と臼井は香のない茶に咽喉を湿し、「早く分って頂くために、そうですなあ、ああそうだ、仔猫のお話をしましょう」 「仔猫?」 「そうです。猫の子ですなあ」  課長の前の既決書類函から書類を取出していた少女の給仕は、猫の子問答のおかしさに耐えられなくなって、書類を抱えると大急ぎで後向きになって、すたすたと戸口の方へ駆出した。 「猫の子がどうしたというんです」 「課長さん。僕が博士を始めて訪問したときに、その部屋に仔猫がいたんです。僕はびっくりして腰を抜かしそうになりました」 「君はよほど猫ぎらいと見える。ははは」 「いや違う。総じて猫というものは僕は大好きなんです。だから普通では猫又を見ようが腰を抜かす筈がない。だからそのときは愕きましたよ、実に……なぜといってその仔猫がですね、宙にふらふら浮いているじゃないですか、びっくりしましたね」 「どうしてまたその仔猫は宙に浮いていたのですか。天井から紐でぶら下げてでもあったのですか」 「そんなことなら、僕はきゃッなどと恥かしい声を出しやしません。その仔猫たるや、紐でぶら下げられたのでもなく、風船で吊上げられているのでもなく、宙にふわふわと……」 「それは本当の猫じゃないのでしょう」 「本当の猫です。あとで僕はさわってみましたから、知っています。もっともこの仔猫は赤い腹掛をしていましたがね」 「腹掛のせいじゃないでしょう、宙をふわふわやるのは……」 「さあどうですかなあ。とにかく赤見沢博士という大学者は仔猫を宙に浮かせるような奇妙な実験をしてみせる、恐るべき人物です」 「それは魔法かな、奇術かな」 「奇術でしょうな。博士はそのときいっていました。これは正しい学理に基く一つの実験なんだ。決してこの猫は化け猫ではないと説明されたんです」 「君はその種を知っているのでしょう。さあ聞かせて下さい」  田鍋課長は、先刻とすっかり立場をかえ、臼井の語るのを催促した。 「僕には分りません」臼井はそういった。本当に知らないのか、それともわざと説明を逃げたのか分りかねる。「とにかくそういう重要人物なんですから、ぜひとも一刻も早く赤見沢博士を探し出して頂きたい」 「うーむ」  課長は呻った。わが命令を出すのは極めて容易であるが、そういう奇術師だか理学者だか分らない変な人物を探し出すのに大掛りなことをやって、後でもの嗤いにならないであろうかどうかを心配した。  課長の返事はなかなか出て来なかった。その間、臼井青年はしきりにかきくどいた。課員が、課長の前の未決書類函へ帳簿を入れていった。それは、さっきからそのへんをまごまごしている黒表紙の事件引継簿であった。 「とにかく……まあとにかく、私から係へよく話をして置きましょう。それで、博士の人相書や──写真があれば更にいいですね──それから失踪の時刻やそのときの服装、その他参考になる事柄を出来るだけたくさん書いて私の許まで提出されたい。私としては出来得るかぎりの御便宜を図るでありましょう。どうぞ目賀野先生へよろしく」  そういわれれば誰でも面会の終へ来たことに気がつくものである。臼井青年は、いい足りなさそうな顔付で、その部屋を出て行った。  臼井の姿が部屋から消えると、課長はその途端に彼から頼まれたことを一切忘れてしまった。これは永年に亙る課長の修養の力でもあったり且又習慣でもあった。〝ものごとを記憶するよりは、出来るだけ忘れよ〟という金言があったと確信している田鍋課長であった。  だが課長は、間もなく臼井から頼まれたことをはっきり思い出さないわけにはいかない運命の下にあった。それは彼が忠実に未決書類函へ手を延ばし、黒表紙の引継簿の仕切紙の挟まっているところを開いて読んだときに、そうなったからである。  その頁は、昨夜の池袋駅事件につき、第二報告書が赤インキで書き入れてあって、 〝──前記姓名未詳の男は、二十五歳前後の青年にあらずして、実は六十五歳前後の老人なること判明せり。かく判明せる原因は、該要保護人を署内(目白署)に収容せる後に至りて、該人物が巧妙なる鬘を被り居たることを発見せるに因る。尚、同人所有のものと思われる鞄は、赤革のスーツケースにして、大きさに不相応なる大型の金具及び把手を備え居り、その蓋を開きみたるに、長さ二尺ばかりの杉角材が四本と古新聞紙が詰めありたる外めぼしきものも、手懸りとなるものも見当らず。  一方、前記要保護人は、収容後十時間を経るも未だ覚醒せず、体温三十五度五分、脈搏五十六、呼吸十四。その他著しき異状を見ず。引続き監視中なり。──〟  とあったので、課長はそれと気付き、立去った臼井青年の後を課員に追わせたが、遂に彼の姿を見つけることが出来なかった。課長としては、果して目白署に保護中の当人と赤見沢博士とが同一人だかどうかは不明だが、年齢がちょうど博士と合うので、損と思っても、行ってみてはどうかと臼井にすすめるつもりだったのである。    研究生すみれ嬢  臼井は、ぼんくらではなかったと見え、その足ですぐ目白署を訪ねている。  やっぱり、赤見沢博士であった。  彼は署の電話を借りて、とりあえず目賀野に知らせた。目賀野は愕いて、すぐ博士を引取りに行くからといった。  それから一時間ほどして、目賀野は医師やら博士の姪の秋元千草という麗人や博士の助手の仙波学士を伴い、自動車で駆けつけた。そして一札を入れ、人事不省の博士と遺留の鞄とを内容物もろとも引取っていったのであった。  博士を護って、一行は目黒行人坂の博士邸へ入った。  雑用係の川北老夫妻と、研究生小山すみれ嬢とがびっくりして博士の帰邸を迎えた。  目賀野の指図で、臼井は出迎えた人々を掴えて話をした。 「わしは存じて居りましたでがす」と川北老はいった。「先生さまが変装なすって、そっとお出懸けになるところを確かに見て居りました。はい、トランクをお持ちになっていましたなあ。おお、このトランクに違いありません。色といい形といい大きさといい……。先生さまは外出なされるとき必ず若い男になってお出懸けなさるんで、これは昨夜にかぎったことではございません。そのこみ入った理由はわし如き者に分ろうはずはございません。お出懸け先でございますか、それは全く存じません。先生さまは、爺や、これからどこへ行ってくるぞなどと仰有るお方じゃございませんもんな。……坂をのぼって目黒駅の方へお出でなさったことだけは間違いねえでがす」  博士の昨夜の行動について喋ったのはこの川北老だけであった。他の妻君のお綱婆さんも、小山研究嬢も、共になんにも語らなかった。  臼井は、目賀野の指図で、もう一つの重大申入れを留守番の人々に行った。 「実は、僕はこの前からしばしばこちらへ伺って博士に或る物の御製作をお願いしてあったんだ。昨日はその出来上ったものを僕の許へお届け下さるお約束の日だった。博士はこのトランクに入れて、僕のところへ向われたんだが、その途中であのような病態となられた……」  そういっているときに、目賀野が連れていた医師が入って来て、博士の容態について報告した。目下麻痺症状がつづいている。その原因は不明である。しかし急変はないと思うから、当分このままにそっと寝かして置くがよろしく、次第によって明日か明後日から滋養浣腸などを始めることにしたいというのだった。目賀野は目くばせをして、医師をこの部屋から去らせた。そして臼井の腰の上を肘でついた。 「……そこでですね」と臼井は小山研究生と川北老夫妻へ気ぜわしく話しかけた。「このトランクとその中身とを、僕に預けていただきたいんですがなあ。もちろん博士が意識を回復されればそのとき改めて博士に申入れるつもりですが、それまでのところを、僕に預けておいて頂きたい。そしてかねがねその代償として博士にお支払いすることになっていた金十万円也を、今ここに置いて参りますから、それならあなた方も承諾して下されやすいと思う。ね、いいでしょう」  そういって臼井は、十万円の紙幣束を三人の方へ差出した。三人は鶏のようにびっくりして、隅へ固まって相談をはじめた。  やがて相談がまとまったと見え、三人は臼井の方へ戻って来た。川北老が代表者となって折衝の任に就くものと見えた。果然彼は発言した。 「とりあえずわしら留守番の者が相談ぶったんですが、その大金はお預りしますまい。その代り品物の何と何とを持って行かれるか、その品目を書いた借用証を一札入れていって下せえ。小山さんもそういわっしゃるだ」  臼井の眼が小山すみれ嬢の方へ動いた。すみれ嬢は猫のように大きな目をじっと据えて、臼井の顔を睨みかえした。 「承知しました。そうしましょう」臼井は目賀野の信号によって、そのように返事をした。それから小机の上に紙を延べて借用証を書き始めたが、その品目を書くについてトランクをあける必要にぶつかった。開いて中を見せれば、すみれ嬢の大きい目は臼井の脳髄を突き刺してしまうだろう。彼は、そうした。 「ええー、よくごらん下さい」  すみれ嬢は、トランクの中を嘗めんばかりにして入念に改めた。彼女が用を終って顔をあげたのを見ると、その面にはほっとした色があった。 「よくごらんになりましたね。品書は、一つトランク、一つ木材四本、一つ新聞紙若干、以上──でいいですね」  すみれ嬢が川北老に目配せをしたので、川北老が、「はい。それでようがす」  と返事をした。  臼井は記名捺印をして、その預り証を川北老に手渡した。川北老はそれをすみれ嬢に見せ、嬢がうなずくと、それを八つに畳んで、胸のポケットに収って釦をかけた。  取引は終った。  目賀野と臼井は挨拶をして、玄関を出た。待たせてあった自動車の中には、さっき活躍した医師と、若い男女が各一人待っていた。その若い男女は、さっき目白署において、博士の姪の秋元千草と博士の助手たる仙波学士と名乗った二人であったが、この二人はこのさわぎを他処に自動車を下りもせず、ぽかんとしていた。それもその筈、実は両人は博士の姪でもなく助手でもなく、目賀野が便宜上連れて来た脇役の人物であったのだ。その便宜とは、もちろん署から疑いを持たれることなしに、博士と鞄とを引取ることにあった。  こうなると目賀野という人物は、なかなか油断のならない重要人物であることが知れて来るが、彼の本来の面目は次の章に於て一層よく知れよう。    秘密地下室  省線田端駅を下りて西側に入り、すぐ右手の丘をのぼり切るとそこに目賀野邸があった。  鞄を護衛した目賀野たちの自動車が、邸内に滑りこんだ。  玄関にとびだして来た書生が三名。自動車の扉が明いて、ぴょんととび下りたは目賀野であった。 「さあ、こっちへ寄越せ」  と、目賀野が伸ばす手に、車内から続いて現われた臼井が例の鞄を手渡す。 「おい臼井。お前だけ、わしについて来い。外の奴は、邸のまわりを厳重に警戒して居れ」  目賀野はそういいすてて、鞄を大事に片手にぶら下げて、どんどん奥へ入っていった。臼井は遅れまいと、そのあとを追う。  自動車から最後に下りた草枝と千田が、顔を見合わせてにやりと笑った。二人は連れ立って、別の小玄関から上にあがった。  目賀野は、廊下をどんどん鳴らして、奥へ奥へと入っていった。一等奥に、洋間があった。彼はポケットから鍵束を出して鍵を探していたが、やがてその一つを鍵穴に入れて廻した。  重い扉は、始めて開いた。  目賀野は鞄を持って、中へ入った。 「臼井。うしろを閉めろ」 「はい」  扉が閉められた。と、自動式に錠がぴしんと掛った。  この洋間には、窓が一つもなかった。しかし天井からは豪華なシャンデリアが下って、あたりを煌々と照らしていた。大理石のマンテルピース、一つの壁には大きな裸体画、もう一つの壁には印度更紗が貼ってあった。立派な革椅子に、チーク材の卓子など、すこぶる上等な家具が並んでいて、床を蔽う絨氈は地が緋色で、黒い線で模様がついていた。  隅のところに、上から見ると三角形になっている隅の飾戸棚があった。目賀野はその戸棚の硝子戸をあけた。洋酒壜が並んでいた。  その中は、瓢箪を立てたような青い酒壜があった。目賀野はその酒壜の首を掴むと外に出し、もう一方の開いた手を戸棚の奥へ差入れた。そして何か探しているらしかったが、すると突然、裸体画のはいった大きな額縁が、ぐうっと上にあがったと思うと、そのあとにぽっかりと四角い穴が開いた。そしてその穴の中に、地下室へ続いているらしい階段の下り口が見えた。 「臼井。その鞄を持って、こっちへ下りて来てくれ。鞄は大切に取扱うんだぞ」 「はい、承知しました」  目賀野のあとについて、臼井は鞄を持って秘密の階段を下へ降りていった。  下には十坪ほどの秘密室があった。この外にも倉庫や地下道や抜け穴などがあった。目賀野自慢のものであった。 「さあ、鞄をここへ載せて……そしていよいよ赤見沢博士謹製の摩訶不思議なる逸品の拝観と行こうか」  目賀野は、童のようににこにこ顔だ。  臼井が鞄を卓上へ載せる。 「開いていいですね」 「ああ、あけてくれ。丁重に扱えよ」 「はあ」  臼井は、鞄についている金色の小さい鍵を使って、そのスーツケースを開いた。  鞄の中には杉の角材と見えるものが四本と、新聞紙と見えるものが十四五枚とが入っていることは、さっき調べたとおりであった。 「さっきは、ひやひやしたよ。これを調べているうちに一件がもそもそ動き出しやしないかなあと思ってね」 「はあ」 「とにかく、ひどく心配させたが、これをこっちへ引取ることが出来たのは非常な幸運だった。──いや、君の骨折も十分に認める。さあ、その材木みたいなものを、外に出したまえ。そっと卓子へ置くんだよ。乱暴に扱うと、急に跳ねだすかもしれないからなあ」  目賀野は、なんだか訳のわからない無気味なことを喋って大恐悦の態であった。  臼井は、鞄の中から角材を出した。四本とも皆出して、卓子の上にそっと置いた。また新聞紙も皆出した。鞄の中は空っぽになった。 「さあ、これでいい訳だ。おい臼井、その鞄を閉じてくれ」  目賀野の命令どおり、臼井は鞄の蓋をばたんと閉めた。  目賀野の顔は、いよいよ緊張に赭味を増した。彼の目は鞄に釘づけになっている。  が、そのうち彼の目は疑惑に曇りを帯びて来た。 「どうもおかしい。鞄はおとなしい。おかしいなあ。……ああ、そうか。臼井。その鞄に鍵をかけてみろ」  臼井は命ぜられるとおりに、鞄の錠に鍵を入れて、錠を下ろした。  鞄は卓上に於て、再び熱烈な目賀野の視線を浴びることとなった。  四五分経つと、目賀野の顔がすこし蒼ざめた。彼は鞄の傍へ寄ると、いきなり鞄を持上げ、力いっぱい振った。  それがすむと、彼は鞄をもう一度、そっと卓子の上へ置いた。それから、じっと鞄を注視した。  彼は小首をかしげた。  もう一度鞄を抱きあげると、上下左右へ激しく振った。それがすむと、卓子の上へ戻した。但しこんどは鞄を横に寝かせて置いた。  彼は腕組をして、鞄を睨据えた。  一分二分三分……彼の顔は硬ばった。と、彼はその鞄を手にとるが早いか、どすんと臼井の足許へ投げつけた。 「な、なにをなさるんです」  臼井の顔も蒼くなった。 「ばかッ。この鞄は、ただの鞄じゃないか。こんなものをありがたく受取って来て、どうするつもりか」  目賀野は、満身朱盆のようになって、臼井を怒鳴りつけた。 「ただの鞄だと断定するのは、まだ早すぎると思います。もっとよく研究してみるべきではないでしょうか」 「駄目だ。これだけ色々とやってみても、がたりともせんじゃないか。ただの鞄に過ぎないことは明白だ。赤見沢博士謹製のものならこんなことはない」 「おかしいですね。……博士はこの鞄と共に警察署へ保護されていたんで、間違いはない筈なんですがね。それとも……」  と、臼井はしばらく自分のおでこを指先でつまんで考えこんでいたが、そのうちに彼は指を角材の方へ指した。 「ああ、これだ。この杉の角材ですね。この中に博士の仕掛があるのですよ。閣下の御註文のとおり鞄にして置くと目に立つという心配から、仕掛はこの角材の中に秘めて邸から持ち出されたんじゃあないでしょうか。いや、それに違いないです。そうでもなければ、ねえ閣下、鞄の中に杉の角材などを大事そうに収っておくわけがないですよ」  臼井は、勇敢なる説を立てて、目賀野を説服にかかった。 「杉の角材の中に仕掛があるというのか。それはどうも信ぜられないね。しかし念のためだ、調べてみろ」  目賀野は臼井を督励して、四本の杉の角材を手にとるやら耳のところまで振ってみるやら、それから目方を考えてみるやらして、さまざまな診察を試みたが、その結果は、杉の角材であるという以外の化物ではなさそうであった。 「貴様のいうことは出鱈目だ」  目賀野は再び激昂に顔を赭くし始めた。 「待って下さい。博士の仕掛は、この角材の中にしっかり入っているんでしょうから、この角材を鉈で割ってみましょう」  臼井は、部屋の隅の函の中から鉈を出して来て、角材をぽかりと縦に二つに割った。それから中を調べた。が、それは杉の角材であるに十分であったが、他の何物をも隠していなかった。  臼井は、次々に残りの角材をぽかりぽかりと割ってみた。すべては、只の角材であるという以外に、何の新発見もなかった。 「それ見ろ。なんにもないじゃないか。貴様は恩知らずだ。底の知れない鈍物だ。ああ貴様のような奴は、もうわしのところへは置いておけない。とっとと出て行け」    不意討  臼井の顔が、酒に酔った人のように真赤になる。目賀野の顔色はすごいまでに蒼い。 「こんなにまでして貴方に尽しているのが分らんですか」  臼井が残念そうに声をふり絞った。 「わしの命令から逸脱するような者をこのまま黙って許しておけると思うか。事の破綻はみんな貴様のよけいなことをしたのに発している。こんな鞄が何に役立つ。この材木は一体何だ。風呂桶の下で燃すのが精一杯の値打だ」 「そんな筈はないんですがなあ。もっと慎重によく調べさせて下さいよ」 「その必要はない。何もかもおれには分っとる。おまけに博士をあんなに生ける屍にしてしまって。……わしの計画は滅茶滅茶じゃないか」 「博士は外出時に変装するということを貴方が僕に注意しなかったのが、そもそも手落ちですよ」 「博士のラボラトリーの前から警戒監視すべきが当然だ。しかるに貴様は骨を惜んで田端駅で待っていた。横着者め。そして博士が到着しないと分ると、そこで初めて目黒へ駆けつけた。そのときはもう後の祭だ。博士はもの言わぬ人となって目白署へ収容され……そうだ、まだ貴様にいうことがあった。貴様は田鍋のところでよけいなことを喋ったな。知っているぞ、ちゃんと知っている。博士の部屋へ入ると、猫の子が宙に浮いてばたばたやっていたと喋ったろう。それから博士に仕事を頼んだことまでべらべら喋っちまったんだろう。どうだ、それに違いなかろう」 「それは……それは、そういわないとあの場合、捜査課長の心を動かすことが出来なかったからです」 「バカ。捜査課長にあれを連想せしめるような種を提供して、わしの方は一体どうなると思うんだ。田鍋のやつは、勘は鈍いが、あれで相当克明でねばり強いから、そのうちにはきっと一件を感づくに違いない。そうなったら……ああ、そうなったら万事休すだ。わしの最後の一線が崩れ去るのだ。憎い奴だ、貴様は……」 「まだ投げるのは早いです。打つべき手は、まだいくらでもありましょう。こんどは間違いなくやります。一命を抛ってやります。命令して下さい」 「貴様に対する信用はゼロなんだが……よしもう一度使ってやる。いいか、こうするんだ。田鍋のところへ行くんだ。さっきの十万円で買収だ。買収に応じなかったら田鍋の奴を早いところ誘拐してしまえ」 「はい」  と、電話が外から懸って来た。  目賀野は電話器を取上げた。彼は簡単な返事をして電話を切った。彼の奥歯がぎりぎりと鳴っていた。 「臼井、早くしろ。十万円はその書類棚の上に入っているから、開いて出したまえ」 「はあ」  臼井は書類棚のところへ行った。と、彼の脳天にはげしい一撃が加わって、彼は意識を失ってしまった。  目賀野は、ほっと一息ついて、手にしていた丸い盆を、隅の卓子へかえした。それから隣室へ通ずる扉を開いて、大声で呼んだ。すると、いつぞやの若い男と女とが、奥からとび出して来た。それを見ると、目賀野はいった。 「一時この邸から退去せにゃならなくなった。千田はこの臼井を担いで霊岸橋へ行って、辰馬丸に乗込んですぐ出てくれ。行先は石の巻だ、草枝はもんぺをはいてわしといっしょに来てくれ。松戸へ出てから、すこし歩くことにするからなあ」  そういっているとき、天井に取付けてある高声器が、がらがらと雑音を出してから、ひとりで喋りだした。 「警視庁の自動車が門前に停りました。三人の紳士が今玄関に立ってベルを押しています。一番えらそうな紳士は鼠色のオーバーを着た大男です……」  そこまで聞くと、目賀野は万事を悟った。 「捜査課長の田鍋が来たんだ。さすがに早く気がついたな。さあ千田、今のうちに地下道を通って長屋から出て行け。草枝は裏から抜け出ろ。そして松戸の駅前の丸留の家で待っているんだ。もんぺはそこで借りりゃいいぞ」  目賀野はそういって命令を伝えると、彼自身は隣室へとびこんで、ばたりと扉を閉じた。    鞄の怪談  田鍋課長一行は、一向要領を得ないで、目賀野氏が留守だという邸から引揚げた。もし課長が、今しがたそこの地下室での出来事を勘づいていたら、そのように温和しく帰りはしなかったろう。  目賀野は行方不明となった。だが、田鍋は別に大して重要と思わないから、捜査命令を出しはしなかった。その代り彼は赤見沢博士の容態には十分の警戒を払い、専門の警察医を附添わせた。  こうして、何だか正体の分らないこの妙な事件は、田鍋課長側と目賀野側との間に喰いちがいのあるままでそれから先を別々に進行していった。  臼井は、あれから船に乗せられると間もなく正気づいたが、自分が船内に軟禁されている身の上であることを、千田から話されて知った。こうなれぼ当分温和しくしているより仕方がない。そのうちに千田や船員が油断をするだろうから、脱出も出来ようと考えた。但し脱出したのがよいか、しないで辛抱していた方が安全か、これは篤と考えてみなければならない問題だと思った。  ちょうどその頃、東京に一つのふしぎな噂が流れはじめた。それは怪談の一種であるとして取扱われていた。人影もない深夜の東京の焼跡の街路を、一つのトランク鞄がふらりふらりと歩いていた、そのトランクを手に下げている人影も見当らないのに、トランクだけが宙をふわりふわりと揺れながら向こうへ行くのを見たというのだ。  もし事実なら、奇々怪々なる出来事だといわなければならぬ。  その怪事の目撃者というのは、焼跡に建っている十五坪住宅の主人で、昼間は物品のブローカーをしている人だったが、その人が夜中厠へ入って用を足しながら何気なく格子の外を覗いた、折柄二十日あまりの月光が白々と明るく一面の焼跡と街路を照らしていたが、そこへ突然かのトランクが現われて、主人の目の前をすたすたゆらゆらと通り過ぎていったのだそうな。 「寝呆けていたんじゃねえよ。へん、この世智辛い世の中に誰が寝呆けていられますかというんだ。信用しなきゃいいよ。とにかくおれは、ちゃんとこの二つの眼で鞄の化物を見たんだから……」  と、その目撃者はたいへん自信に充ちて放言したという。  だが、およそ常識のある者なら、かの自称目撃者の言葉を信じようとはしないだろう。奴凧や風船なら知らぬこと、重いトランクが横に吹き流れて行くとは思われない。  では、トランクの幽霊か。トランクに霊あるを未だ聞いたことがない。  結局この噂話は、一篇の笑話と化して笑殺されるようになったが、その頃、また別の噂が後詰のような形で伝わり始めた。それはやっぱり鞄変化に関するものであった。  何でも新宿の専売局跡の露店街において、昼日中のことだが、ゴム靴などを並べて売っている店に一つの赤革の鞄が置いてあったが、この鞄がどうしたはずみか、ゆらゆらと持上って、ゴム靴の海の上をすれすれに往来へ出ていったのである。店番をしていた若者はびっくりして後を追い駈けた。幸いその鞄は隣の店の前あたりにうろうろしていたので、かの店員は鞄に追いついて、左右の手をもって鞄の両脇から抱き留めたのである。これは重大な事柄であると後に分ったことであるが、そのときかの店員が鞄を取り押えたときの筋圧感はといえば、一向鞄を取り押えたような気がせず、なんだか幕に手をかけて引いたように感じた由である。つまり非常に軽々と感じ、そして少し遅れて慣性のようなものをも感じたというのである。  その店員の感想にはもう一つ附加えるべきものがあった。それは彼が手を取押えたトランクの横腹から、そのトランクの把柄へ移し、トランクをさげたときのことであるが、彼はずっしりとしたトランクの重さを急に感じたというのである。それはなんだか俄にトランクの中へ或る重い物が入ったように感じたのである。そこで彼は念のためトランクをゴム靴を並べてあるその上に置くと、トランクの懸金をひらいて開けてみた。が、トランクの中には何も入っていなかった。全くからっぼであったのだ。  彼は拳固をこしらえると自分の頭をごつんと一撃してからそのトランクの口を閉めて再び店の一隅へ並べた。  しばらくは何事もなかった。  ところがそれから二三十分経ったと思われる後のこと、例のトランクは再び、のそのそと店から外へ匐い出していったのである。店員はそれを見て知っていた。そのトランクを後から抱き停めなければ損をする虞れがあるという気持と、気味がわるくて手が出せないという気持が、彼の心の中で闘いを始めた。そのうちに鞄は往来へ飛び出し、彼の眼界から失せた。そこで彼の心の中に怫然と損得観念が勝利を占め、彼はゴム靴の海を一またぎで躍り越えて往来へ飛び出した。そのとき彼はなぜか声が出なかったそうである。大声で叫んで人々を集めればよろしかったのにも拘らず、なぜか無言のままだった。それは多分、そのとき軽率に叫び声をあげて人々にこの事件を知らせたが最後、結局は彼自身の頭が変になっていたんだなどと後に指摘されることになってはいやだと思ったらしいのである。  トランクはどこへ行ったろう。  店員はそれを発見するのに大して骨を折らなかった。その赤革のトランクは、金色の金具を午後の太陽の反射光で眩しく光らせながら、広い道路を半分ばかり渡り、地上約三尺ばかりの高度を保って、なおも向いの側の人道へ辿りつこうとしていた。  と、左の方から一台のトラックが疾走して来て、呀っという間にそのトランクに突きあたった。トランクは、フットボールのように弾かれて上へ舞いあがった。と思う間もなく下へ落ち始めた。するとその下へトラックの車体がすうっと入って来て、トランクを受け留めた。そのトラックは空であった。そのトラックは、始めトランクに突き当ったそれだった。かくしてそのトラックは速力を緩めることなしに、店員にガソリンの排気をいやというほど引掛けて遠去かっていってしまったのである。  店員は、トラックの番号を覚えることさえ忘れて、呆然と立ちつくしていた。なんという気味のわるいトランクだろう。豚のように跳ねあがり、通りすがりのトラックへとびこんで逃げてしまいやがった。これで、今朝、顔色のわるいカーキ服の男から三百円で買い取った品物をなくして、三百円丸損となってしまったぞと、大いに恨めしく思った。  この話が、誰から誰へとなく拡がって行ったのである。    怪異は続く  東京朝夕新報の朝刊八頁の広告欄に、気のついた人ならば気になったであろうところの三行広告が二つ並んで出ていた。 ○紛失、赤革トランク、特別美且大なる把柄あり、拾得届出者に相当謝礼、姓名在社三二五番  もう一つは、次のとおりであった。 ○紛失、赤革トランク、特別美且大なる把柄あり、拾得届出者に莫大謝礼、姓名在社三二六番  つまり両方とも赤革トランクを返してくれと訴えているものだった。  前日トラックの運転手は、空トラックを店のガレージの前に停め、車体の点検を行ったとき、ふしぎなことに、後の荷置き場の隅に赤革トランクが逆さになって置かれてあるのを発見した。彼はそれを下へ下ろし、開いても見たが全然見覚えのないものだった。  そのうちに朋輩の誰彼がそのまわりに集って来た。そしてこのようなすてきな鞄を何処で手に入れたのかと知りたがった。  かの運転手は早速返事をして途中まで喋ったが、そこであとの言葉を嚥みこんだ。そして俄に彼は一つの創作をひねりだしてそれを以て返事に継ぎ足そうとしたとき、支配人の酒田が割込んで来て、その鞄を欲しがった。結局、運転手はその鞄を百円札五枚で支配人に譲り渡した。売った方も買った方もにこにこしていた。  酒田はその鞄を手にぶら下げて、そこから程遠からぬところにある彼の邸へ歩いて帰った。彼は目下やもめ暮しであった。家族たちはまだ疎開先に釘づけのままだった。東京のこの家には、家政婦の老婆が一人仕えているだけだった。  酒田はその鞄を持って帰ると、押入を開いて、下の段の奥へ押込んだ。そしてすぐ襖を閉めた。どういうわけでそうしたのか明瞭でないが、多分あまり安く値切って買ったのが気になっていたのかもしれない。  夕食後、彼は居間に引籠った。例の鞄を押入から出して、絨氈の上に置いて開いた。それから彼は箪笥の引出をあけて中からなまめかしい婦人の衣類を取出し、それを一々電灯の灯の近くへ持っていって眺め、指先で布地を摘み且つ匂いを嗅いだ。そして二種類に別けて積んでいったが、その一方を例の鞄の中へていねいに入れ始めた。長襦袢もあるし、錦紗もあるし、お召もあり、丸帯もあり、まるで花嫁御寮の旅行鞄みたいであった。その上にも彼は、隅の金庫を開いて中から取出した貴金属細工のついた帯留や指環の箱、宝石入りのブローチの箱、腕環の箱などをその鞄の中、ほどよきところへ押込んだ。最後に特別になまめかしい鹿の子緋ぢりめんの長襦袢を上にのせ、それから鞄の蓋をしめたのであるが、ぎゅうぎゅうに詰まっているので蓋は外に向って太鼓腹のように膨らんだ。そのあとで彼、酒田は意外なことを発見して強く舌打をした。 「ちょッ。この鞄には、鍵が二箇もぶら下っているのに、肝腎の錠前がついていないじゃないか。見かけによらず、とんだインチキものだ。ええッ、腹が立つ!」  鍵はあれども鍵穴がない。これでは仕様がない。折角トランクに詰めて、明日は横浜へ売りに行こうという寸法だったが、鍵のかからないトランクでは、あっちへ持っていったり、こっちへ預けたりしているうちにあぶないことになりそうだ。だが、折角ぎっしり詰めこんだものを、他のトランクに移すのは面倒だ、今夜はこのままにして、後は明日のことにしようと、闇屋の旦那はこのところ聊か過労の体にて、寝椅子の上へ身体をのせた。 「旦那さま。もうここの戸締りをいたしてよろしゅうございましょうか」  婆やの声である。  酒田が、締めておくれというと、婆やさんは硝子戸をあけて、長い廊下を箒でさらさらと掃き出し、それから戸袋のところへ行って板戸を一枚一枚繰り出し始めたのである。そのとき勝手の方で電話のベルが鳴りだした。婆やさんはそれに気づいて勝手の方へ駆けこんで行く。やがて婆やさんが再び駆け出して来て、酒田へ電話を取りつぐ。そこで酒田は寝椅子からむっくり起上って、婆やと共に勝手の方へ行く。電話機は勝手の廊下の隅にあって、そこは暗いので、婆やさんは電灯を急いで吊りかえなければならなかった。  こうして僅か十分足らずの時間、お座敷の方を空虚にして置いただけで、電話が終ると酒田と婆やさんとは再びお座敷の方へ戻って来て、婆やさんは雨戸の残りを戸袋から繰り出すし、酒田はラジオをちょっとひねって、そして男女合唱がとび出して来ると、すぐスイッチをひねって消し、それから煙草をつけて安楽椅子へ腰を下ろしたんだが、忽ち彼はバネ仕掛の人形のようにとびあがった。 「あれッ、ここに置いてあったトランクが見えないぞ。……トランク、どこへ持って行った?」  それからの騒ぎを一々克明にここに写している遑はない。とにかくかのトランクは煙のように消えてしまったのである。庭の植込みに隠れていたかもしれない泥坊の詮議や、一応は疑われた婆やさんのこと、酒田の物忘れについての疑惑など、いろいろのことが入りくんでややこしくなったのであるが、誰しもまさかトランクが悠々と絨氈の上から腰をあげ、明け放しの硝子戸の間から、朧月夜の戸外へと彷徨い出たものとは思わず、その事実を推理し得た者はなかったのである。  それからそのトランクはどういう出来事にぶつかったか。  外濠の堤の松の下の暗闇を連れだって行く若い女と男とがあった。女は男に対して強硬な態度をとって、男を引放してずんずん足を早めていた。その女はやがて──そのままで推移せば男のために締め殺されて、枯草の上に身を横たえなければならないのであったが、運命のくすしき足取は、女の生命を危局の寸前に救った。それは今や鼠に向って躍りかかろうとする猫の如きその男の腰に、どすんと突き当った赤革のトランク一箇──女は生命を捨てずに済んだ。男は荒療治を決行するに及ばなかった。男も女も、一応妖異に対する恐怖心を起しかかったが、それは慾心によって簡単に撃退された。開いた鞄の中のすごい内容物はあらゆる問題を解決した。女は急に男に対してやさしくなり、そしてその鞄を二人で守って男のアパートへ入り、同棲生活の第一夜を絢爛と踏み出すことに両人の意見は完全なる一致をみたのであるが、この詳細もここにくだくだしく描写している遑はない。  それよりは問題はトランクの運命にある。そのトランクは翌朝両人が目ざめてみると、たしかにそこに置いた筈の夜具の裾のところには見当らず、両人は目を皿にして部屋中を匐い廻ったがどこにもなく、そこで両人互いに相手を邪推して立廻りへと移行したが、両人が相手の顔を捻じて天井へ向けたときに、そこにぴったり吸いついている前夜のトランクを両人が同時に発見した。そこで両人は再び協力し、誰がトランクを天井の桟に釘をうってそれへ引掛けたかを怪しみながら、机に椅子を積み重ね、箒や蝙蝠傘やノックバットまで持ちだしてそのトランクを下ろそうと試みた。そのうちにどうした拍子かトランクの蓋が開いて、その中身が五彩の滝となって下に落ちて来た。両人がそれにとびついて、かき集めている間に、トランクは明いた窓から黙って外へ飛び出していった。  トランクの後を追って書きつけていると際限がないので、しばらくトランクから離れた話をしようと思う。    帆村探偵登場  冬日の暖くさしこんだ硝子窓の下に、田鍋捜査課長の机があった。課長と相対しているのは、長髪のてっぺんから地肌がすこし覗いている中年の長身の紳士だった。無髭無髯の顔に、細い黒縁の眼鏡をかけ、脣が横に長いのを特徴の、有名なる私立探偵帆村荘六だった。一頃から思えば、この探偵も深刻にふけて見える。 「猫の子が宙を飛べるものなら、鞄が宙を飛んだって、仔猫の場合以上にふしぎだとはいえないわけですね」 「いや帆村君、それは違うだろう。猫の子が宙を飛ぶのは許さるべきとしても、生なき鞄が宙を飛ぶのは怪談だよ。その怪談に怯やかされてわが五百万の都民は枕を高うして睡れないと山積する投書だ。あれあの籠を見たまえ」と課長は、二つ三つ向こうの部下の机上を指す。それは尤もな風景を見せていた。 「怪談ということでは、この事件の解決はちょっとむずかしいですよ。物理学で行くなら、仔猫も鞄も同じ格です。そしてそらに飛ぶ場合も考えられないことはない。課長さん、そのことについて赤見沢博士の助手の何とかいう婦人に糾してみましたか」 「だめだ、あの小山すみれは。ああいう女は、一旦依怙地となったら、殺されても喋らないものだ。赤見沢はさすがにそれを心得て雇っている。沈黙女史は今のところそっとして置くしかない。しかし──帆村君。生もない鞄がなぜ飛び得ると考えるのか、怪談以外の考え方に於て……。ねえ君、林檎も落ちるよ、星も落ちる、猿も木から落ちる」 「万有引力が正常普通に作用するかぎり、それはその通りです。猫の子が宙を飛び、鞄が空を走るためには、それらの物体に万有引力と反対の方向に作用する相当の力が働いていると断定して間違いないわけでしょう。課長さん、これに答えて下さい」 「さあ、わしには分らんね、全く……」 「万一に考えられることは、特別の浮力です。物体が空気の中にあるために、自分が排除する容積だけの空気の重量に等しい浮力が、万有引力と反対方向に働いているのですが、こんなことは断るまでもない常識事です。そしてその浮力が仔猫の場合に於ても、鞄の場合に於ても万有引力に比して殆んど省略し得る程度の微小なる力です。これはこれで片づいたとして第二に考えられることは……」 「頭の痛くならんように喋ることはできないものかね」 「ご尤もです。……それでそれは──第二に考えられることは、万有引力常数を変えてしまうこと。第三には第三の物体を誘致し来って、それによる引力を、万有引力以上に効き目を持たせること。それから第四に、アインシュタインの設定した万有引力テンソルを……」 「待った。もうたくさん」 「第四は、今の場合論じなくてもすみますから、横へどけて」 「みんな横へどけて、怪談へ戻ろうじゃないか」 「とんでもない。要するに、第二又は第三の素因によって、仔猫が宙を飛び、鞄が空を走るものと推定し得られないことはない。赤見沢博士のユニークな頭脳はそれを装置化することに成功したのではないか。仔猫が飛び鞄が走るは、その装置化の成功を語っているのではないか。しからばもはや鞄が深夜の焼跡をうろつこうと、真昼のビル街を掠めようと問題ではない。そうでしょうが……」 「いや、おかしいよ。鞄は必ずしも空中を泳いでばかりはいない。神妙に下に落着いていることもある」 「そんなことは仕掛の工合でどうにでもなりますよ。たとえぼ、鞄の把柄を手に持って鞄を下げているときには、スイッチが外れるようになっていて異変は起らない。しかし把柄が握られていないときはスイッチが入って、鞄は例の素因により万有引力に勝って浮きあがる──つまり鞄とその中身との重さが一枚の羽毛ほどの重さに変わってしまう。そういうわけでしょうな」 「実際に出来るのかね、そんな仕掛が……」 「発明が出来れば、あとは仕掛を作ることなんか極めて容易ですよ」 「ふうん、そんな鞄がどんどん現れて管下一円を脅すことになれば、わし達は鞄狩りに手一杯となり、他の仕事が出来なくなるだろう。とにかく怪談にせよ引力にせよ、一大事件だ。早いところその核心を摘出して、犯人を検挙せにゃいかん」 「犯人というほどのものじゃないでしょうに。それに赤見沢博士は今も人事不省を続けていて、何一つ出来ない」 「わしは赤見沢が真実不能者かどうか、厳重に監視をしている。序に、あの女も小使夫婦も見張っている。赤見沢たちの犯行は、例の臼井という若僧や前知事の目賀野が出て来れば分ると思うんだが、どういうわけか彼等は姿を見せん。それはなぜだろうか、どうも分らない」 「その臼井氏や目賀野氏の行方こそ、即急に突きとめなければならないですね。それから、鞄は一日も早く取り押えなければならない。それと例の仔猫です。あの仔猫はどうなったか、あれはぜひ突き留めなければならないですね」 「はあ、仔猫か。あんなものは大したことはあるまい」 「いや、そうじゃないですよ。あれこそ最も重視すべきものだ」 「もうそろそろ本格的に化け猫になる頃だという意味かね」 「あの助手女史が保管していないでしょうか」 「あっ、そうか。よし、白状させてみる。不都合な奴だ」    名探偵ノート  その夜、田鍋課長と部下二名は、帆村荘六を交えて、ひそかに赤見沢博士の研究所を指して出発した。このことは絶対に秘密裡に行われた。捜査課長ともあろうものが、私立探偵の手を借りたなどという風評がたっては、田鍋警視は甚だ困るのであった。  もっとも課長は、今夜の行動を、役所の用事とはしないで、お化け鞄と猫又に興味を持つ帆村荘六を援助するための特別行動である──と、彼の部下二名に説明してあった。  帆村は、お化け鞄については、前章に述べたような見解を持していた。しかし彼は、この鞄の素性についてまだ突き留めていないことは、田鍋課長の場合と同じだった。  だが彼が、この事件に異常な興味を持って、解決に一生懸命の努力を払っていることは誰の目にも明白であり、従ってそのお化け鞄についての考察については、誰よりも深いものがあり、そのことを田鍋課長もはっきり認めていたればこそ、こうして帆村荘六のうしろについて行く気にもなったのである。正直な話が、課長としては、このお化け鞄事件ぐらいやりにくい事件は、本庁に奉職以来に一度も先例のないものだった。  今夜の行動は、帆村の示唆するところに従って、田鍋課長が蹶起したという形になっていたが、実のところ課長としては何等自信のあることではなかった。行きあたりばったりに何か掴めるかもしれない、とにかく助手の小山すみれを絞ってみれば何か出て来やしないか──ぐらいの予想しか持っていなかった。  これに対して帆村荘六の方は、ずっと確かな筋として、今夜の行動を割り出しているのだった。すなわち帆村の考察によれば、まず第一に、お化け鞄の誕生は赤見沢博士の研究所に違いないから、どうしてもそこをもっと詳しく調べる必要がある。誠に彼はその研究所へ一度も足を踏み入れたことがないのであるから、今夜はぜひ入って調べてみたい。  第二に、あのお化け鞄の製作を注文したのは元知事の目賀野であることは、臼井の話から想像がつくが、目賀野は一体その鞄をどんな目的に使用するつもりであったか、そのことは注文主として当然赤見沢博士に語ったことであろうし、従ってその製作の助手をつとめた小山すみれ女史にも全部又は一部が通じられている筈である。一体その目的は何であるか。それが分ればこの事件の解決はずっと早くなろう。また、それが分れば、或いはこの事件は更に重大なる特性を曝露して前代未聞の大事件に発展するのではなかろうか。これは永年探偵等をつとめて来た帆村の第六感であった。  それから第三に、お化け鞄と、赤見沢博士が電車の中で後生大事に抱えていた鞄──その中には杉の角材四本などが入っていた方の鞄──この両者の関係が、まだはっきりしないのであるが、これもなかなか重大問題だと思う。なぜなればこの問題には、赤見沢博士の遭難事件が関係している。つまり赤見沢博士が怪漢のために襲撃されたのは、お化け鞄を持っていたことによるらしく思われる節がある。博士はお化け鞄を怪漢のために奪われたのではあるまいか。そしてその代りとして、只の鞄が博士の昏睡体の横に置かれてあり、共に目白署に収容されたのではないか。  帆村は、この二つの鞄を区別して考えていた。係官の中には、両者を同一の鞄とし、それが時には普通の鞄であり、また時には化けるのだと考えているようであったが、帆村はこの二つが別物だとしていた。それを区別するのに最もはっきりしている点は、赤見沢博士の昏倒している傍にあった鞄には、ちゃんと鍵がかかるようになっていたのに対し、かのお化け鞄を手にしたことのある人々の話によると、そのお化け鞄には鍵がかからない、つまり錠前がついていない。それともう一つは、お化け鞄には特別に立派な把柄がついているとのことであった。  もし出来るなら、この二つの鞄を並べてみればよく分るのであるが、今はそんなことが出来ない。お化け鞄は相変らず神出鬼没だし、目賀野たちが出頭して引取っていった只の鞄の方は、目賀野たちと共に目下行方不明とある。  もう一つ、帆村が特に重大視していることがあった。それは案外誰も大して気にかけていないことであったが、例の「赤革トランク紛失」の新聞広告のことであった。  あの三行広告は、同じ日の同じ新聞の広告欄に、同じような文句でもって、二つの広告が並んでいた。「拾得届出者に相当謝礼」と書いてある「姓名在社三二五番」と、もう一つは「拾得届出者に莫大謝礼」と書いてある「姓名在社三二六番」との二つだった。  一体これは何者が出した広告なのであろうか。帆村が調べたところでは、前者は「葛飾区新宿二丁目三八番地松山」が出したものであり、後者は「板橋区上板橋五丁目六二九番地杉田」が出したものであった。それらの番地を当ってみたところ松山という家も杉田という家もちゃんとあったけれど、その当人はこの広告主ではなく、本当の広告主は別にあった。それに頼まれて名前を貸しただけのことで、その当時毎日何回か、連絡の人が尋ねて来たそうだが、もうこの頃は来なくなったそうである。そして連絡に来た者は、松山の場合には、長屋のお内儀さん風の女であったそうだし、杉田の場合は、目の光の鋭い、そしていやに丁重な口のきき方をする商人体の者だったという。そこまでは分っているが、その先のところは帆村にも調べがついていない有様だ。  一体何者だろう、この二人の広告主は?  このことについては、帆村は田鍋捜査課長にも報告して、その注意を喚起した。課長は帆村ほどこの問題を重大視はしていない。そしてこの二人の広告主の一人は、博士を昏倒せしめ、お化け鞄を奪った姓名未詳の兇賊であり、もう一人は例の目賀野であろうと考えていた。  だが帆村は、田鍋課長と考えを異にしていた。  広告主の一人は目賀野だと課長は推定している。しかし帆村は、そうでないと思っていた。なぜならば、目賀野ならば一度もそのお化け鞄を手にとって見たことがないから「特別美且大なる把柄あり」などというその鞄の特徴を知っている筈がない。だから目賀野ではないと思われる。  しからば二人の広告主は何者か。  酒田であろうか、外濠の松並木の下を歩いていた男であろうか。いやいや、そのどっちでもない。新聞広告の出たのは、彼らがお化け鞄に始めてめぐり合ったどりもずっと以前のことになる。  トランクをトラックに受取って走ったそのトラックの運転手でもないことは、彼が酒田と満足すべき取引をしたことを考えれば、すぐに分る。では、新宿の露店で、この鞄を店に並べて売っていた店員であろうか。いや、彼でもなさそうである。なぜならば三行広告代金と鞄の値段とは殆んど同じであるので、広告を出したとて大抵戻って来ないことが分っているのに広告をする筈がないと思われる。  すると、広告主はもっと以前から、このお化け鞄に関係していた人物に違いない。この十五坪住宅の主人が夜厠の窓から何気なく外を見たところ、トランクが月の光に照らされて、ひとりで道を歩いていたという東都怪異譚の始まり──あの頃更に以前の関係者に相違ない。  一体、誰と誰であろう。  一人は、田鍋課長の指摘したとおり、多分お化け鞄を博士から奪った兇賊であろうと思われる。しかしこのことも、博士が意識を恢復して、遭難談を詳しく述べてくれる日までお預けとしなければなるまい。今一人の人物については、全く五里霧中である。  が、この二人の正体を突き留めさえすれば、この事件の解決は一層早くなるものと、帆村は確信し、いま推理を懸命に働かせている最中なのであった。  なにさま、帆村探偵の考え方は、田鍋課長のそれとは大分違っている。    深夜の研究室  闇に紛れて、四名は赤見沢研究所の建物の壁際にぴったり取付いた。  時刻は午後十一時であった。  研究所のすべての窓は真暗であった。みんな寝てしまったであろうかと始めは思ったけれど、窓の一つからすこし灯が洩れているので、一同はそれを目当てにしてその窓下へ身をひそめたわけである。  ジイイイ……と、妙な音が、室内にしている。  中を覗こうとしたが、窓が高い。  そこで田鍋の部下二名が台の代りになり、帆村と課長を肩車に乗せた。この珍妙な形でもって、透間を通して窓の中を覗いた。  カーテンの隙間から、室内の模様をうかがうことが出来た。 「おやア……」 「あッ」  帆村も田鍋課長も、思わず愕きの声を発して、あわててあとの声をのみこんだ。  室内には、まことにふしぎな光景が展開していた。  その部屋は、赤見沢博士の研究室の一つで、多数の器具機械がごたごたと並んでいた。そしてそこに三人の人物が居た。  そのうちの一人は、助手の小山すみれ女史であって、彼女がそこに居ることには格別愕きはしない。  もう一人は、若い男であった。かなり背の高い、立派な顔立の青年であって、にこやかな笑いをたたえて、小山すみれの方を見つめている。  この男の顔を見て愕いたのは帆村荘六ではなく、田鍋課長であった。 (はてな。この女たらしの男は、どこかで見たことがあるぞ)  たしかに課長の記憶の中にある男であった。しかしどこで見た男だったか、すぐにはそれを思出すことが出来なくて、課長はいらいらして来た。帆村はこの青年の顔に、何の記憶も持っていなかった。ただ、小山すみれ嬢とはおよそ反対の立派な男子で、皮肉な対照をなしていると感じたことであった。が、しかし、彼はあまりながくこの美貌の青年に見惚れていることが出来なかった。というのは、残るもう一人の人物が、彼の注意力の殆んど全部を吸取ってしまったからである。そのことは、田鍋課長にとっても亦同様であった。 (あれは赤見沢博士に相違ないが、一体どういうわけで博士はここにいるんだろうか)と帆村は不審の目をぱちくり。課長の方は(誰が赤見沢博士を病院から出したんだろうか、わが輩の許可を得もしないで……。何奴が出したか、怪しからん奴どもだ)  と、かんかんになって、頭から汗が出て来た。  その赤見沢博士は、肘懸椅子に凭れ、頭を後の壁につけていたが、その恰好がへんにぎこちなかった。博士はまだ意識混沌としているので、あのような恰好をしているのであろうが、両眼を大きく明けているのが、ちと腑に落ちかねる。  そのときであった。小山すみれが脚立から下りて、二本の綱を引張って、赤見沢博士の傍へ来た。その綱は、天井から垂れていた。よく見ると、天井には滑車がとりつけてあり、綱はそれに掛っていて、上下自在になっていることが分った。  小山女史は、その綱の一本を、いきなり赤見沢博士の頸にぐるぐるっと巻きつけた。顔色一つ変えないで……。美貌の男は、あいかわらずにこにこ笑っている。小山嬢は綱に結び目をつくると二三歩うしろへ身を引いて、もう一方の綱をぐんぐんと下にたぐった。すると博士の頸に搦みついている綱がぴーンと張った。それでも小山嬢は、自分の手にある綱をぐんぐんと下にたぐった。博士の身体が椅子から浮きあがった。小山嬢が綱をたぐるたびに、博士の身体は上へ吊りあげられた。博士の絞首刑である。それを自らの手によって行っている小山すみれの顔は、始めと同じく無表情で、悔恨の色もなければ憎悪の気も見えない。  とうとう赤見沢博士は、背広姿のまま、室内にぶら下った。博士の足が、実験台よりもすこし高くなったところで、小山嬢は、手にしていた綱を壁際の鉄格子にしっかりと結びつけた。そして首吊り博士の下までやって来て、美貌の男の方へ何とかいって、博士の足を指した。  田鍋課長は先刻から愕きの連続で、息が詰まる想いだった。かねて怪しいと睨んでいた小山すみれが、博士の首に綱をかけてくびり殺すところをまざまざと見せられ、全身の血は逆流した。現行犯にしても、これほど鮮かに恐ろしい現行犯を見たことは、今までにないことだった。彼は、自分が部下の肩車に乗っていることを忘れて、窓を叩き割ろうとして、帆村に停められた。 「ちょっと、静かに……」  帆村は、室内を指した。  小山嬢は博士のズボンを手にとって、ズボンの裾を持ち上げた。  奇怪なことに、そのズボンには脚が入っていなかった。つまりズボンだけであった。  小山嬢は、実験台の下に跼むと、間もなく台の上に大きな靴を持出した。彼女はそれを博士のズボンの下のところへ持っていって、靴をはかせるような恰好をしてみせ、それから靴をまた台の上へ置いた。博士にその靴をはかせるつもりらしいが、ズボンだけで足のない博士が、どうしてそんな重い靴をはくことが出来るだろうかと、田鍋課長は気がかりであった。  小山嬢は、その靴を指して、美貌の青年の顔を見上げた。青年は肯いた。小山嬢は靴の中をあけて見せた。中には何やら詰まっていた。それは何かの小型の器械であるらしく、小さい部分品が組合わせられていた。そんなものが入っていては、靴の中に足を突込むことが出来ないではないかと、田鍋課長は更に気がかりになった。  小山嬢の指は敏捷に動いて、その部分品を一々指した。彼女はそれについて説明しているらしいが言葉はさっぱり分らない。しかし帆村は、その小型器械が、無電装置であることに気がついた。  小山嬢は、もう一つの靴の中からも、別の器械を取出した。その器械は、著しい特徴があるので、帆村にはすぐ分った。それは放射能物質から出る放射線を捕えて、その放射線の強さを検出する計数管の装置であった。 (無電装置と放射線計数管と──妙なのが靴の中に収ってある?)と、帆村は首をひねった。田鍋課長には、そんなことは分らないので、どうしてあんなものを靴の中に入れてあるのか、あれでは足が入るまいなどと、そんなことばかりを心配していた。  小山嬢は、靴を手にぶら下げた。そして指をしきりに動かして、計数管と無電装置との間に連絡のあることを示したのち、靴をいじっていたが、靴のフックのところに突然赤い豆電球がついた。  すると、殆んど同時に、靴の底から熊手のようなものがとび出して、下に向って開いた。その恰好は、がんじきをつけた雪靴にどこか似ていた。その熊手様のものは、蟹のように爪をひろげ、びくびく慄えていたが、そのうちにその爪がだんだん内側へ曲って来て、遂には靴の下で何物かをがっちりと抱きしめたような恰好となった。  小山嬢は、そうなった靴をしきりにさしあげて、美貌の青年の注意を喚起している風に見えた。すると青年は感激の面持で、つと小山嬢の方に寄ると、靴もろとも両手でぐっと抱きしめた。青年の腕の下にある小山嬢の顔が、急に蒼くなり、それからこんどは赤くなった。彼女のしっかり閉じられた瞼の下に大きな眼玉がごろんと動くのが見えた。彼女は恍惚境に入っているらしい。  青年が腕を解いて小山嬢を離すと、彼女は靴を持ったまま傍の椅子の上へ、へたへたと崩れるように腰をおとし、しばらくは動こうともせず、口もきかなかった。 (無電装置と放射線計数管と浚渫機とを備えている靴──とは、妙な靴があったものだ。一体この三題噺みたいなものをどう解くべきであろうか)  帆村は、小山嬢がまだ持続する恍惚境から醒めやらぬのを見やりながら、心のなかにメモをとった。  そのうちに小山嬢は、やっと正気に戻ったと見え、靴を抱えて椅子から立上った。  彼女はその靴の紐を、博士のズボンの下端にまきつけて縛った。ズボンが靴をはいたように見える。  それがすむと、小山嬢は、飾椅子に結きつけてあった綱をほどき、宙に首吊りを演じている博士の身体を下におろし、前のとおり肘懸椅子に腰を掛けさせた。博士の死体は、綱を首にまきつけたまま、目をかっと剥いて、天井を見詰めている。  小山嬢は、美貌の青年に向って手真似と共に何事かを命じた。すると青年は、くるっと後を向いた。青年の顔は、今や窓外から室内を窺う帆村と田鍋課長の方へ正面を切った。 (あっ、そうだ、思い出したぞ。あの若僧とは、この前、R大学研究所で会ったことがある。二百グラムのラジウムの盗難事件が起ったあの研究所だ。たしかあの若僧は、そのラジウム保管室の向い側の何とか研究室の助手で、彼は事件当時、怪しい女性がその保管室からあわてくさって出て行くのを見たと証言したんだ。なんという名前だったかな。ええと、万沢といったかな。……)  田鍋課長は、えらいことを思い出した。彼の胸の中は、今や沸々と沸騰を始めた。しかし帆村はそんなことを知らない。    美しき闖入者  田鍋課長の知っていることを帆村は知らず、帆村の知っていることで田鍋課長の知らぬことがあり、両人肩を並べて窓の中を覗き込んでいるところは奇観だった。  後を向いて、ごそごそやっていた小山嬢が、くるりとこっちへ向き直ったと思うと、彼女の手に一疋の仔猫があった。それをきっかけに美貌の青年も、廻れ右をして、仔猫を見ることを許された。  小山嬢は、頬のあたりにいきいきとして血の色を見せながら、その仔猫を抱いて、博士の首吊り死体の傍へ寄った。そして博士の服の胸を開くと、その中へ仔猫を入れて、しばらくなにかごそごそやっていた。そのうちにそれが終ったと見え、彼女は博士の胸の釦をかけて身を引いた。  するとふしぎなことが起った。博士の死体が椅子からふらふらと立上ると見るや、なおそれはふわふわ上へ上って行く。博士の首にからみついている綱がだらりと下へ下る始末。そのうちに博士の死体は、頭を天井にこつんとぶつけ、天井に吸いついたようになってしまった。両脚──いや両のズボンに重い靴をくっつけたのが、ぶらんぶらんと振子運動をつづけている。  帆村は、たまりかねたように、課長の首へ手をかけて引き寄せた。 「あっ、苦しい。一度下りて下さい」 「こっちもそう願いたい」  叫んだのは帆村ではなく、帆村と課長を肩車に載せている二人の部下だった。それには構わず、帆村は課長の耳に囁いた。 「今見たでしょうね、あの仔猫を……。仔猫を博士の人形の中に入れると、あのとおり博士の人形はふわふわと空中に浮きあがって天井に頭をつかえてしまった」 「ええッ、あれは人形か。人形だったのか」  課長は唖然として、目を天井へやる。 「田鍋さん。あの女はやっぱり猫又を隠していたんですよ。そして博士の人形を作ったり、その他へんな装置をつけたりして、一体何をするのか、このへんで中へ踏込んだら、どうです」 「うん。しかし、もうすこし見ていよう」 「課長。一度下りて下さい、肩の骨が折れそうだから」 「これ大きな声を出すな。家の中へ聞えるじゃないか」  上と下との掛け合いが、だんだん尖鋭化して来た折しも、思いがけないことが、室内に於て起った。  というのは、突然に──全く突然に、どこからとび出したのか、一人の若い女人が、部屋の隅に現われた。彼女の手にはピストルが握られていた。ピストルは小山すみれと美貌の青年とに交互に向けられている。  美貌の青年が両手をあげた。小山嬢もそのあとから、しなびた両手をあげた。小山嬢は額に青筋をたてて憤慨の面持で突然闖入したる背の高い美女を睨みつけている。美貌の青年は、にやりと笑っている。  美女は、しずかに歩を運んで、博士の人形を結えている綱に、空いている方の手をかけた。彼女はその綱をひいて、博士の人形を室外に持出す様子を示した。  そのとき、美女はわずかの隙を作った。  と、実験台の下の腰掛が、風を剪って美女の胸のあたりを襲った。が、それは美女が咄嗟に身をかわしたので、うしろの扉にあたって、扉を開いただけに終った。  ズドン。  銃声が轟く。硝子の壊れる音。悲鳴。途端に又もや腰掛がぶうんと呻りを生じて美女の顔を目懸けて飛ぶ。これは美貌の男の防禦手段だった。──が、このときどこからともなく煙がふきだしたと思ったら、カーテンが一瞬に焔と化した。めらめらぱちぱちと、すごい火勢に、研究室はたちまち火焔地獄となり、煙のなかに逃げまどう人の形があったが、その後のことは、帆村も田鍋課長も見極めることが出来なかった。突然窓から吹きだした紅蓮の炎に、肩車担当の二警官はびっくり仰天、へたへたとその場に尻餅をついたからである。帆村と課長は、弾みをくらって大きく投げだされ、腰骨をいやというほど打って、しばらくは起上ることが出来なかった。  そのうち火勢はずんずん拡がって、赤見沢博士のラボラトリーはすっかり火に包まれてしまい、手のつけようもなくなったが、それは研究室内にあった油と薬品が、このように火勢を急に強めたものに違いなかった。  課長が帆村たちと共に再び立上り、燃える建物をいくたびもぐるぐる廻って警戒につとめると共に、機会があれば、中へとびこんで何か目ぼしい品物を取出そうとあせったけれど、遂に研究室の方には入ることが出来なかった。そしてかの美貌の男か、美女か、小山すみれかに行逢えば、直ちに補えるつもりでいたけれど、結局この重要なる三人の人物を空しく逸してしまった。  駆けつけた消防隊の手で、完全に火が消されると、間もなく暁が来た。  課長は、焼跡を丹念に調べた。  その結果、一箇の無残な焼死体が発見せられた。背骨からしてすぐ判定がついて、犠牲者は気の毒な研究生小山すみれであることが分った。しかし美貌の男も美女も、現場に骨を残していなかった。  また仔猫の骨もなかった。帆村がさっき異常なる興味を覚えた妙な器具の入っている靴も、焼跡の灰の中には見当らなかった。  この博士邸の火が消えた後で、田鍋課長と帆村荘六とは、焼跡に立って、意見の交換をした。互いに知っている事実を語り合った結果、 「田鍋さん。これは面白くなりましたよ。化け鞄事件と、ラジウム盗難事件との間に密接な関係があるということが分って来たじゃありませんか」  と、帆村がいえば、田鍋課長は、 「どうもそういうことらしいね。しかしラジウムとお化け鞄と、どういうつながりになっているか見当がつかんが、君は何か思いあたることがあるかね」 「そのことだが、僕の考えでは、あの盗難に遭ったラジウムは、今どこか知らんが、兎に角ちょっと手の届かない場所にあるんだと思うんですね。それでさ、あの万沢とかいう男が小山すみれ嬢を唆かして、仔猫利用の吊上げ装置を作らせたんだと解釈する」 「どうしてそうなるのかね」 「博士の人形も焼けちまい、すみれさんも焼け死んだので、はっきりしたことは分らないけれど、あの博士の人形は猫又の浮力──というか重力消去装置の力というか、それを利用しで浮き上る力を持たせてある。靴に仕掛けた放射線計数管は、ラジウムの在所を探すための装置だ。無電の機械は、計数管に現われる放射線の強さを放送する。それからもう一つ、あの人形には電波を受けて、靴の下に仕掛けてある浚渫機みたいな、何でもごっそりさらい込む装置──あの装置を動かせるようになっているんだと思う。つまり電波による操縦で浚渫機を動かすんだ。これだけのものを、あの人形は持っていたと思う」 「そんなものを、どうする気かな」 「そこでだ、悪漢一味は、あれを持ち出して人形を歩かせ、計数管の力を借りて、ラジウムの在所を確かめる。 人形がちょうどラジウム二百瓦の容器の上に来たとき、放射線の強さは最大となるから、そのとき悪漢一味は電波を出して、あの靴の下に仕掛けた浚渫機を働かせる。つまりごっそりと、ラジウムの容器を、あの浚渫機の爪の間にさらえ込むのさ」 「ふうん、なるほど」 「それからこんどは、例の猫又の力を借りて、人形ごとずっと上へ浮き上らせるわけなんだが、僕にも分らないのは、重力消去装置の力を借りる必要のあるラジウムの隠し場所とは一体どこなんだか、見当がつかないんだ」 「はてな、一体どこなんだかね。そういうへんな人形の力を借りなければ取出せない場所というと……」  田鍋課長にも、全く見当がつかなかった。    椿の咲く島  椿の花咲く大島の岡田村の灯台のわきにある一本の大きな松の木の梢に、赤革のトランクがひっかかっていた。  それを発見したのは、早起きをして崖っぷちで遊んでいた官舎の子供たちだった。それからみんなに知れわたって、騒ぎは絶頂に達した。 「誰があんな高いところまで登って、鞄をくくりつけでいったろう。不審なことだ」  まことに不審の至りであった。それを探究すべく、灯台の職員で、身の軽い瀬戸さんという中年の人と、その配下の平木君という青年とが、身を挺してその松の木をよじ登って行った。  両人は松の枝にひっかかっている鞄を、枝から取外すと、把柄に縄をしばりつけて、鞄を下へぶら下げて下ろした。下に集っていた連中はその鞄が下りてくるのを興味ぶかく見守っていた。その鞄の中から、赤い紐が二本ぶらぶらと垂れているのが、甚だ奇妙であったのと、その鞄が地面へつくと同時に、あたりが急にへんに臭くなったことが特記せらるべきだった。  松の木をよじ登った両人も下りて来て、その鞄が半分は自分たちのもののような顔で鞄のそばへ近づいたが、その臭気には顔をしかめずにはいられなかった。 「瀬戸さん。えらいものを下ろして来たな」 「なんじゃろうかなあ、この臭いのは……」 「その鞄の中が怪しいなあ。へんなものが入っているんじゃよ。女の生首かなんかがよ」 「嚇かしっこなしよ」 「鞄から出ている赤い紐な。それは若い女の腰紐じゃぞ。その腰紐が、先が裂けて切れているわ。それにさ、紐の先んところが赤黒く染っているが、血がこびりついているんじゃないのかい」  書記の青木が、とがった口吻から、気味のわるい言葉を次々に吐いた。立合いの衆は、いいあわせたように二三歩後へ下った。 「よおし、何が入っているか、一つ鞄をあけてくれよう」 「よしなよ、気味が悪い。海へ捨てちまいな」  瀬戸の妻君がいった。 「鞄をあけてから捨てても遅くはないだろう。もし紙幣が百万円も入っていてみな、わしらの大損だよ」 「ははは、慾が深いよ、工長さんは……」  その鞄が簡単にあかなかった。鞄の金具がどうかしているらしかった。そのうちにも臭気はいよいよぷんぷんとたまらなく人々の鼻を刺戟したので、立合いの衆は気が短かくなり、とうとう斧を持ち出して、鞄の金具を叩き斬った。  鞄はぱくりと開いた。みんなはわれ勝ちに中をのぞきこんだ。顔をしかめる者、ぺっぺっと唾を吐く者。中には仔猫の死骸が入っていた。それと赤い紐が一本……。  靴の先と棍棒とで、鞄は崖を越して海へ。  その鞄は、執念深いというのか、海上を漂ううちに海岸へ漂着した。元村の桟橋のすぐそばであった。  警官が聞きこんで、その鞄を検分に来た。彼は東京からの指令を憶えていたので、早速「それらしきもの漂着す」と無電を打った。  折返し、新しい指令が来た。警官たちは忙しくなった。旅館は一軒のこらず臨検をうけた。  その結果、目賀野が見つかって、飛行機で到着したばかりの田鍋課長の前へ呼び出された。  目賀野は、その鞄と無関係であることを主張した。いわんや殺人事件などは思いもよらないと抗弁した。  三日間、のべつに取調がつづけられ、目賀野が陳述した重要事項は、次のようなことであった。 「別に悪いことをした覚えはありません。君も知っているとおり、昔からわしは曲ったことは大嫌いだ。……しかし、ちょっと慾の気は出した。例のラジウム二百瓦の入った鉄の箱が、この三原山の噴火口の中に投げこんであると耳にしたもんだから、なんとかそれを取出そうと思ってね。いや、取出せばその筋へ届けるつもりだった、本当です。しかし世間を呀っといわせたかった。そこで思いついたのが、赤見沢博士の研究だ。重力消去の実験に成功していることをわしは知っていたので、博士にそれを使った一種の起重機の製作を依頼したのです。そのトランクは、すなわちその品物だったかもしれない。いや、その種の試作品だったかもしれない。要するにその装置を噴火口の中へ投げ入れておくと、火口底において巧みにラジウムの入った鉄函を吸いつけ、あとは重力消去によって噴火口をのぼり、上へ現われ、わが手に入るという計画だった。生の人間じゃ、とても火口底へは下りられないんでね。……が、その博士がわしのところへ来てくれる約束の日に、途中であの事件に遭って、あんなことになるわ、そばにあったトランクは、早いところ何者かによって掏りかえられていたので、わしはすっかり失敗してしまった。たったこれだけのことです。すこしも怪しい点はない。元村へ来て泊っていたのも、別な手段でラジウムを取出す方法を研究に来たわけで、あのトランクには関係がないです。これはよく分ってもらわにゃ大迷惑だ。……臼井はどこへ行ったか知らん。船に乗っていたが、その後脱走したそうで、わしは知らん」  この陳述によって、あらまし筋は分って来たようである。  つまるところ、目賀野は本事件の主役ではなく、その傍系のドンキホーテ染みたところのある人物に過ぎないのだ。 「例のラジウム二百瓦が三原山の噴火口に投げこんであることは、いつ誰から訊いたか」  課長は、最も重大なるところを突込んだ。 「そのことかね。それはあの臼井が、いつだったか、密書を拾ったんだ。その密書に簡単ながら、そういう意味のことが書いてあった。その密書は臼井が持っている。わしではない」 「その密書の差出人は誰か。また受取人は誰なのか」 「名前ははっきり書いてなかった。ただ、差出人の名前に相当するところには、矢を二つぶっちがえた印が捺してあった」 「矢を二本ぶっちがえた印が、ふうん。そして受取人の方には……」 「受取人の名前に相当する場所には、三本足の黒い烏の絵が書いてあった」 「何という、三本足の黒い烏の絵が?」  と、課長は驚愕の色を隠しもせずに叫んだ。 「どうした課長。烏の絵になぜそんなに愕くのか。一体それは誰のことなんだ」  目賀野はいい気になって反問した。 「それは恐るべき賊のしるしだ。烏啼天駆という怪賊があるが知っているかね」 「ああ、怪賊烏啼か。烏啼のことなら聞いたことがあるが、若いくせに神出鬼没の悪漢だってね。一体どんな顔をしているのかな、その烏啼というやつは……」 「それがよく分らない。烏啼と名乗る彼に会った者は誰もない。しかし脅迫状などで、烏啼天駆の名は誰にも知れ亙っている」 「捜査課長ともあろう者が、そんなぼやぼやしたことで、御用が勤まると思うのか」 「何をいう。いい気になって……」  課長は目賀野を元の留置場へ戻した。    怪賊烏啼  そのあとで課長は溜息ばかりついていた。この二つの事件に、怪賊烏啼天駆が関係しているとは、目賀野の話で始めて分った。そうなると、これはますます事が面倒になってくる。ありとあらゆる検察力を発揮しないと、烏啼を引捕えることは出来ない。しかし、一体どこから手をつけていいか、分別がつかない。こういうときに帆村が居てくれれば、どんなに力になってくれるか分らない。が、彼にはこの事を知らせずに、この大島へ来てしまったことが後悔された。  だが、その帆村が、ひょっくりと課長の前に現われたもんだから、田鍋はおどろき且つよろこんだ。彼は早速、この事件に烏啼天駆が関係していることを帆村に語って、帆村の助力をもとめた。 「それはいいことが分ったもんです。いや実は、僕が今日飛行機でここへ飛んで来たのは、本庁からの依頼で、あなたに手紙を持って来たのです。さあ、これを読んで下さい」  と、帆村は内ポケットから手紙を出して、課長に渡した。それは課長の次席にいる主任の芥川警部からのものだった。手紙の内容は、これまた愕きの一つだった。 「えっ、赤見沢博士が昏睡状態から覚めたというか。そして君は博士に会って話をして来たって?」 「そうなんです。その結果、いろいろと分って来ましたよ。第一に、博士はあの晩、只の鞄の中に、例のお化け鞄──つまり重力消去装置の仕掛けてある立派な把柄のついている鞄を入れて、電車に乗ったんだそうです。決して角材や古新聞紙は入れなかったといいます。つまり賊は、博士の鞄とそっくりの鞄を用意し、その中に角材を入れて、二重鞄と同じ位の重量とし、博士の鞄と掏りかえるつもりだったらしい。博士は言明しています、自分が座席に座っていると、よく似た鞄を持った乗客が近寄って来て、博士の前に立ったそうです」 「そやつが怪しい!」 「そうです。誰が聞いても怪しい奴ですが、そのとき博士は大いに要慎して、自分の持っている鞄を奪われまいとして、一生懸命抱えこんだそうです。すると怪しい乗客の連れである若い女が博士の方へ身体をおっかぶせるようにのしかかって来て、女の膝が博士の膝を強く押した、すると急に博士は気が遠くなってしまったんだそうです」 「どうしたのだろう」 「女の膝から博士の膝へ、或る麻薬の注射が施されたんでしょうね。博士は、そういえばちくりとしたようだといっています。──それから博士は、意識の朦朧たる裡にも、膝の間に挟んでいた鞄が掏りかえられるのに気がついたそうです。しかし声を出そうにも手をあげようにも、どうにもならなかったそうです。そしてそのうちに何もかも分らなくなった……」 「怪しい奴は、すると男と女と二人組なんだね」 「そうなんです。これが頗る重大な事柄なんですが、田鍋さん、博士はその男女の顔をよく覚えているといって、人相を話してくれましたが、男も女もなかなか目鼻の整った美しい人物だったといいますよ」 「えっ、何という。美男美女だって?」 「正に美男美女なんです。そしてそれがですよ、ほら博士邸が焼けた晩ね、あの晩に研究室にいて小山すみれを相手にしていた若い美貌の男──万沢とかいいましたね──あの男とそれから後にピストルを持って現われた美人がありましたね、あの女と、この両人らしいのですよ」 「ふーん、そうか」  田鍋課長は、満面を朱盆のように赭くして、膝を叩いて呻った。 「ね、課長さん。さっきあなたから伺った話から誘導すると、その美貌の男こそ、烏啼天駆でなければならないと思うんですが、課長さんの意見は如何ですか」  帆村は、大胆なことをいった。 「そうかもしれない。いや、それに違いない。あれが烏啼なら、あのとき逃がすんじゃなかった。で、女は何者か」 「それが分らないのです。しかしですよ、この事件の主軸には、二つの者が功を争っていることは、僕も察していました。例えばあの紛失鞄の新聞広告のことですね。 あの広告主の一人は烏啼天駆であり、もう一人はやっぱりあの女だったんですよ」 「ふうん、なるほど、そういえばそうかもしれない」 「あの二人は、時に一緒になって働きました。その例は、博士から鞄を奪ったときなんかがそれです。それでいて、二人は大いに睨み合っていたんですね。だから博士邸のピストルさわぎも起った。あれはお化け鞄が紛失したのに困った烏啼が、小山すみれを唆のかして、猫又を利用した新規の起重装置をこしらえるように頼んだ。それが完成したので、持って帰ろうとしたところを、例の女が嗅ぎつけて、暴れこんだという訳なんでしょう」 「そうだ、それに違いない。するとわが輩も大迂回をやっていたわけだ。ちえッ、いまいましい」    天罰下る  事件は、そこまでは解けた。  当局は警戒網を三原山のまわりに厳重に固めめぐらした。  その一方、大学に懇請して、火口底に果してラジウム二百瓦が投げこまれてあるのかどうかを検べて貰った。これは案外苦もなく分った。たしかにラジウムは火口底の南寄りの岩の間にあることが確認された。  しかし、そのラジウムを取出す方法はちょっと簡単には出来そうもないことが分り、当局は未だに警戒の陣をゆるめないで番をしている。なにしろその後、烏啼の消息がさっぱり分らないので、油断はならないとのことであった。  帆村はもうラジウム事件には、大した興味を持っていない。しかし田鍋課長が、彼に自慢らしく語ったところでは、烏啼はあのR大学の研究所のラジウム保管室の向いの研究室の助手に化けこんでいて、あのラジウムを巧みに盗み出した。それから彼は、かねて連絡をつけてあった看護婦の秋草に渡した。秋草はそれを持って出て、某飛行場へ急行し、烏啼の一味である矢走という男をして、その品物を飛行機でもって三原山の噴火口に投げおとさせたと認める。例の美男美女というのは、この烏啼と秋草らしいといわれる。研究所の同僚たりし人々は、確かに彼ら二人を、美男美女と認めているから、間違いないと、田鍋課長はいささか得意で、椅子の背にふん反りかえった。  帆村の興味は、そんなことよりも、大島の松の木にひっかかっていたお化け鞄と猫又の死骸と血染の細紐が、何を語っているか、それを解くことに懸っていた。  その年の春、ひどい海底地震が相模湾の沖合に起り、引続いて大海嘯が一帯の海岸を襲った。多数の船舶が難破したが、その中の一隻に奇竜丸という二百トンばかりの船があって、これは大島の海岸にうちあげられ、大破した。また乗組員の半数が死傷した。  この奇竜丸の救援に赴いた官憲は、はからずも、この船の構造や、乗組員の様子に疑惑を持ち、厳重に取調べた結果、この船こそ怪賊烏啼天駆の持ち船だと分り、そして天罰とはいえ重傷を負っている烏啼を、遂に他愛なく引捕えた。  このことは早速東京へ無電で連絡され、田鍋課長は再びこの大島へ急行して、烏啼を受取った。  烏啼はもう観念したものと見え、すべてをべらべらと喋った。  彼の行動は、大体帆村の推理したところに一致していた。しかし烏啼がその後秋草と争って、遂に猫又もお化け鞄も共に自分の手に入れ、それを奇竜丸に持ち込んだばかりか、秋草の自由を束縛してこの船に乗せてしまったことが分った。それから後はずっと海上生活をしていたものだから、この二人の行方は陸上を監視していただけでは知れなかった筈である。  その烏啼は、海上生活を送りながら、なんとかして大島へ上陸し、三原山の火口底から例のラジウムを取出そうと、機会の来るのを狙っていたが、当局の警戒がすこぶる厳重なため、その目的を達することが出来ないでいた。  ところが或る日、秋草が実に大胆なる脱走を試みた。  彼女は、烏啼の部下数名を、巧みなる手段によって籠絡すると、その力を借りて、猫又とお化け鞄とを盗み出させ、それから細紐で自分の手首をしばって、猫又を入れたお化け鞄に結びつけ、鞄の把柄を下へ押し下げた。すると猫又の浮力と、お化け鞄の浮力とによって、鞄は秋草の身体を下にぶら下げたまま宙に浮きあがった。船は依然として走っているものだから、鞄にぶら下った秋草の身体は見る見るうちに船を離れた。  これに気がついた乗組員が、急いで烏啼に知らせたので、烏啼は顔色をかえて船橋へ上った。そして秋草の身体の流れていったと思う方向へ船を戻した。  だが、折柄空に月はあれど夜のことだから、遂にそれを発見することが出来なかったという。  この烏啼の告白によって、猫又の死骸とお化け鞄と血染めの細紐の謎が漸く解けそめた。そのようにして秋草は脱走をはかったが、彼女はぐんぐん上空へ引き上げられて息が絶えたものと思う。そのうちに彼女の身体を吊下げている紐が切れ、下へ落ちてしまったのであろう。恐らくそれは広い海の中であったことと思われる。彼女の繊細なる手首が紐でこすられて血が出、それが紐の切れ端に残ったことは確かだ。こうして彼女は、遂に敗れて一命を失ったものらしい。  臼井は今も行方が知れない。  それから最後に特筆大書しておくべきは、田鍋課長が目賀野を証人として、烏啼に会わせたところ、目賀野がびっくりして烏啼を指して叫んだ。 「やッ、貴様は千田じゃないか」  烏啼は、繃帯を巻いた頭をすこし起こして、ふふんと笑った。 「貴様が千田なら、おい話せ、わしの姪の草枝はどこへ連れていった」  千田と草枝が一組となって、いつも目賀野の下で働いていたことは、ずっと前から知られている。 「おれは知らんよ。課長に願って、細紐に残っているあの女の血に尋ねてみたがよかろう」  と、烏啼はいって、むこうを向いてしまった。  そんなことから、目賀野の姪の草枝こそ、看護婦秋草のことであり、彼女が或るときは烏啼に協力しながら、後には烏啼と張合ってラジウムやお化け鞄やお化け猫の争奪に生命を賭けたことが判明した。  これで、鞄らしくない鞄の話は、すべて終ったわけであるが、気の毒なのは赤見沢博士である。博士は研究所を火災で失って、どうにも復興の見込みが立たず、あたら英才を抱いて不幸を歎しているという。しかし博士のことだから、そのうちにもっと何かいい手段を考え出すことだろう。博士が、この次に、重力消去装置をどんな方面に活用するかは、非常に興味あることだと思う。 底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房    1992(平成4)年2月29日初版発行 ※「深夜の研究室」において、小山嬢が綱を結びつけたところは、「壁際の鉄格子」と「飾椅子」の二つが示してある。矛盾しているが、底本のママとし、本文中には注記しなかった。 入力:tatsuki 校正:原田頌子 2001年7月21日公開 2006年7月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。