怪談牡丹灯籠 怪談牡丹灯籠 三遊亭圓朝 鈴木行三校訂・編纂 Guide 扉 本文 目 次 怪談牡丹灯籠 怪談牡丹灯籠         一  寛宝三年の四月十一日、まだ東京を江戸と申しました頃、湯島天神の社にて聖徳太子の御祭礼を致しまして、その時大層参詣の人が出て群集雑沓を極めました。こゝに本郷三丁目に藤村屋新兵衞という刀屋がございまして、その店先には良い代物が列べてある所を、通りかゝりました一人のお侍は、年の頃二十一二とも覚しく、色あくまでも白く、眉毛秀で、目元きりゝっとして少し癇癪持と見え、鬢の毛をぐうっと吊り上げて結わせ、立派なお羽織に結構なお袴を着け、雪駄を穿いて前に立ち、背後に浅葱の法被に梵天帯を締め、真鍮巻の木刀を差したる中間が附添い、此の藤新の店先へ立寄って腰を掛け、列べてある刀を眺めて。 侍「亭主や、其処の黒糸だか紺糸だか知れんが、あの黒い色の刀柄に南蛮鉄の鍔が附いた刀は誠に善さそうな品だな、ちょっとお見せ」 亭「へい〳〵、こりゃお茶を差上げな、今日は天神の御祭礼で大層に人が出ましたから、定めし往来は埃で嘸お困りあそばしましたろう」  と刀の塵を払いつゝ、 亭「これは少々装飾が破れて居りまする」 侍「成程少し破れて居るな」 亭「へい中身は随分お用になりまする、へいお差料になされてもお間に合いまする、お中身もお性も慥にお堅い品でございまして」  と云いながら、 亭「へい御覧遊ばしませ」  と差出すを、侍は手に取って見ましたが、旧時にはよくお侍様が刀を買す時は、刀屋の店先で引抜いて見て入らっしゃいましたが、あれは危いことで、若しお侍が気でも違いまして抜身を振𢌞されたら、本当に危険ではありませんか。今此のお侍も本当に刀を鑒るお方ですから、先ず中身の反り工合から焼曇の有り無しより、差表差裏、鋩尖何や彼や吟味致しまするは、流石にお旗下の殿様の事ゆえ、通常の者とは違います。 侍「とんだ良さそうな物、拙者の鑑定する処では備前物のように思われるが何うじゃな」 亭「へい良いお鑑定で入っしゃいまするな、恐入りました、仰せの通り私共仲間の者も天正助定であろうとの評判でございますが、惜しい事には何分無銘にて残念でございます」 侍「御亭主やこれはどの位するな」 亭「へい、有難う存じます、お掛値は申上げませんが、只今も申します通り銘さえございますれば多分の価値もございますが、無銘の所で金拾枚でございます」 侍「なに拾両とか、些と高いようだな、七枚半には負らんかえ」 亭「どう致しまして何分それでは損が参りましてへい、なか〳〵もちましてへい」  と頻りに侍と亭主と刀の値段の掛引をいたして居りますと、背後の方で通り掛りの酔漢が、此の侍の中間を捕えて、 「やい何をしやアがる」  と云いながらひょろ〳〵と踉けてハタと臀餅を搗き、漸く起き上って額で睨み、いきなり拳骨を振い丁々と打たれて、中間は酒の科と堪忍して逆らわず、大地に手を突き首を下げて、頻りに詫びても、酔漢は耳にも懸けず猛り狂って、尚も中間をなぐり居るを、侍はト見れば家来の藤助だから驚きまして、酔漢に対い会釈をなし、 侍「何を家来めが無調法を致しましたか存じませんが、当人に成り代り私がお詫申上げます、何卒御勘弁を」 酔「なに此奴は其の方の家来だと、怪しからん無礼な奴、武士の供をするなら主人の側に小さくなって居るが当然、然るに何だ天水桶から三尺も往来へ出しゃばり、通行の妨げをして拙者を衝き当らせたから、止むを得ず打擲いたした」 侍「何も弁えぬものでございますれば偏に御勘弁を、手前成り代ってお詫を申上げます」 酔「今この所で手前がよろけた処をトーンと衝き当ったから、犬でもあるかと思えば此の下郎めが居て、地べたへ膝を突かせ、見なさる通りこれ此の様に衣類を泥だらけにいたした、無礼な奴だから打擲致したが如何致した、拙者の存分に致すから此処へお出しなさい」 侍「此の通り何も訳の解らん者、犬同様のものでございますから、何卒御勘弁下されませ」 酔「こりゃ面白い、初めて承った、侍が犬の供を召連れて歩くという法はあるまい、犬同様のものなら手前申受けて帰り、番木鼈でも喰わして遣ろう、何程詫びても料簡は成りません、これ家来の無調法を主人が詫るならば、大地へ両手を突き、重々恐れ入ったと首を地に叩き着けて詫をするこそ然るべきに、何だ片手に刀の鯉口を切っていながら詫をする抔とは侍の法にあるまい、何だ手前は拙者を斬る気か」 侍「いや是は手前が此の刀屋で買取ろうと存じまして只今中身を鑒て居ました処へ此の騒ぎに取敢えず罷出ましたので」 酔「エーイそれは買うとも買わんとも貴方の御勝手じゃ」  と罵るを侍は頻りにその酔狂を宥めて居ると、往来の人々は 「そりゃ喧嘩だ危いぞ」 「なに喧嘩だとえ」 「おゝサ対手は侍だ、それは危険だな」  と云うを又一人が 「なんでげすねえ」 「左様さ、刀を買うとか買わないとかの間違だそうです、彼の酔ぱらっている侍が初め刀に価を附けたが、高くて買われないで居る処へ、此方の若い侍が又その刀に価を附けた処から酔漢は怒り出し、己の買おうとしたものを己に無沙汰で価を附けたとか何とかの間違いらしい」  と云えば又一人が、 「なにサ左様じゃアありませんよ、あれは犬の間違いだアね、己の家の犬に番木鼈を喰わせたから、その代りの犬を渡せ、また番木鼈を喰わせて殺そうとかいうのですが、犬の間違いは昔からよくありますよ、白井權八なども矢張犬の喧嘩からあんな騒動に成ったのですからねえ」  と云えば又傍に居る人が 「ナニサそんな訳じゃアない、あの二人は叔父甥の間柄で、あの真赤に酔払って居るのは叔父さんで、若い綺麗な人が甥だそうだ、甥が叔父に小遣銭を呉れないと云う処からの喧嘩だ」  と云えば、又側にいる人は 「ナーニあれは巾着切だ」  などと往来の人々は口に任せて種々の評判を致している中に、一人の男が申しますは 「あの酔漢は丸山本妙寺中屋敷に住む人で、元は小出様の御家来であったが、身持が悪く、酒色に耽り、折々は抜刀などして人を威かし乱暴を働いて市中を横行し、或時は料理屋へ上り込み、十分酒肴に腹を肥らし勘定は本妙寺中屋敷へ取りに来いと、横柄に喰倒し飲倒して歩く黒川孝藏という悪侍ですから、年の若い方の人は見込まれて結局酒でも買わせられるのでしょうよ」 「左様ですか、並大抵のものなら斬ってしまいますが、あの若い方はどうも病身のようだから斬れまいねえ」 「ナニあれは剣術を知らないのだろう、侍が剣術を知らなければ腰抜けだ」  などとさゝやく言葉がちら〳〵若い侍の耳に入るから、グッと込み上げ、癇癖に障り、満面朱を注いだる如くになり、額に青筋を顕わし、きっと詰め寄り、 侍「是程までにお詫びを申しても御勘弁なさりませぬか」 酔「くどい、見れば立派なお侍、御直参か何れの御藩中かは知らないが尾羽打枯らした浪人と侮り失礼至極、愈々勘弁がならなければどうする」  と云いさま、ガアッと痰を彼の若侍の顔に唾き付けました故、流石に勘弁強い若侍も、今は早や怒気一度に面に顕われ、 侍「汝下手に出れば附上り、ます〳〵募る罵詈暴行、武士たるものゝ面上に痰を唾き付けるとは不届な奴、勘弁が出来なければ斯うする」  といいながら今刀屋で見ていた備前物の刀柄に手が掛るが早いか、スラリと引抜き、酔漢の鼻の先へぴかりと出したから、見物は驚き慌て、弱そうな男だからまだ引抜はしまいと思ったに、ぴか〳〵といったから、ほら抜いたと木の葉の風に遇ったように四方八方にばら〳〵と散乱し、町々の木戸を閉じ、路地を締め切り、商人は皆戸を締める騒ぎにて町中はひっそりとなりましたが、藤新の亭主一人は逃場を失い、つくねんとして店頭に坐って居りました。さて黒川孝藏は酔払っては居りますれども、生酔本性違わずにて、彼の若侍の剣幕に恐れをなし、よろめきながら二十歩ばかり逃げ出すを、侍はおのれ卑怯なり、口程でもない奴、武士が相手に背後を見せるとは天下の耻辱になる奴、還せ〳〵と、雪駄穿にて跡を追い掛ければ、孝藏は最早かなわじと思いまして、踉く足を踏みしめて、一刀のやれ柄に手を掛けて此方を振り向く処を、若侍は得たりと踏込みざま、えイと一声肩先を深くプッツリと切込む、斬られて孝藏はアッと叫び片膝を突く処をのしかゝり、エイと左の肩より胸元へ切付けましたから、斜に三つに切られて何だか亀井戸の葛餅のように成ってしまいました。若侍は直と立派に止めを刺して、血刀を振いながら藤新の店頭へ立帰りましたが、本より斬殺す料簡でございましたから、些とも動ずる気色もなく、我が下郎に向い、 侍「これ藤助、その天水桶の水を此の刀にかけろ」  と言いつければ、最前より慄えて居りました藤助は、 藤「へいとんでもない事になりました、若し此の事から大殿様のお名前でも出ますようの事がございましては相済みません、元は皆な私から始まった事、どう致して宜しゅうございましょう」  と半分は死人の顔。 侍「いや左様に心配するには及ばぬ、市中を騒がす乱暴人、切捨てゝも苦しくない奴だ、心配するな」  と下郎を慰めながら泰然として、呆気に取られたる藤新の亭主を呼び、 侍「こりゃ御亭主や、此の刀はこれ程切れようとも思いませんだったが、なか〳〵斬れますな、余程能く斬れる」  といえば亭主は慄えながら、 亭「いや貴方様のお手が冴えているからでございます」 侍「いや〳〵全く刃物がよい、どうじゃな、七両二分に負けても宜かろうな」  と云えば藤新は係合を恐れ、 「宜しゅうございます」 侍「いやお前の店には決して迷惑は掛けません、兎に角此の事を直ぐに自身番に届けなければならん、名刺を書くから一寸硯箱を貸して呉れろ」  と云われても、亭主は己れの傍に硯箱のあるのも眼に入らず、慄え声にて、 「小僧や硯箱を持って来い」  と呼べど、家内の者は先きの騒ぎに何れへか逃げてしまい、一人も居りませんから、寂然として返事がなければ、 侍「御亭主、お前は流石に御渡世柄だけあって此の店を一寸も動かず、自若としてござるは感心な者だな」 亭「いえナニお誉めで恐入ります、先程から早腰が抜けて立てないので」 侍「硯箱はお前の側にあるじゃアないか」  と云われてよう〳〵心付き、硯箱を彼の侍の前に差出すと、侍は硯箱の蓋を推開きて筆を取り、すら〳〵と名前を飯島平太郎と書きおわり、自身番に届け置き、牛込のお邸へお帰りに成りまして、此の始末を、御親父飯島平左衞門様にお話を申上げましたれば、平左衞門様は宜く斬ったと仰せありて、それから直にお頭たる小林權太夫殿へお届けに及びましたが、させるお咎めもなく切り徳切られ損となりました。         二  さて飯島平太郎様は、お年二十二の時に悪者を斬殺して毫も動ぜぬ剛気の胆力でございましたれば、お年を取るに随い、益々智慧が進みましたが、その後御親父様には亡くなられ、平太郎様には御家督を御相続あそばし、御親父様の御名跡をお嗣ぎ遊ばし、平左衞門と改名され、水道端の三宅様と申上げまするお旗下から奥様をお迎えになりまして、程なく御出生のお女子をお露様と申し上げ、頗る御器量美なれば、御両親は掌中の璧と愛で慈しみ、後にお子供が出来ませず、一粒種の事なれば猶さらに撫育される中、隙ゆく月日に関守なく、今年は早や嬢様は十六の春を迎えられ、お家もいよ〳〵御繁昌でございましたが、盈つれば虧くる世のならい、奥様には不図した事が元となり、遂に帰らぬ旅路に赴かれましたところ、此の奥様のお附の人に、お國と申す女中がございまして、器量人並に勝れ、殊に起居周旋に如才なければ、殿様にも独寝の閨淋しいところから早晩此のお國にお手がつき、お國は到頭お妾となり済しましたが、奥様のない家のお妾なればお羽振もずんと宜しい。然るにお嬢様は此のお國を憎く思い、互にすれ〳〵になり、國々と呼び附けますると、お國は又お嬢様に呼捨にされるを厭に思い、お嬢様の事を悪ざまに殿様に彼是と告口をするので、嬢様と國との間何んとなく落着かず、されば飯島様もこれを面倒な事に思いまして、柳島辺に或寮を買い、嬢様にお米と申す女中を附けて、此の寮に別居させて置きましたが、そも飯島様のあやまりにて、是よりお家のわるくなる初めでございました。さて其の年も暮れ、明れば嬢様は十七歳にお成りあそばしました。こゝに予て飯島様へお出入のお医者に山本志丈と申す者がございます。此の人一体は古方家ではありますけれど、実はお幇間医者のお喋りで、諸人助けのために匙を手に取らないという人物でございますれば、大概のお医者なれば、一寸紙入の中にもお丸薬か散薬でも這入っていますが、此の志丈の紙入の中には手品の種や百眼などが入れてある位なものでございます。さて此の医者の知己で、根津の清水谷に田畑や貸長屋を持ち、その上りで生計を立てゝいる浪人の、萩原新三郎と申します者が有りまして、生れつき美男で、年は二十一歳なれどもまだ妻をも娶らず、独身で暮す鰥に似ず、極内気でございますから、外出も致さず閉籠り、鬱々と書見のみして居ります処へ、或日志丈が尋ねて参り、 志「今日は天気も宜しければ亀井戸の臥竜梅へ出掛け、その帰るさに僕の知己飯島平左衞門の別荘へ立寄りましょう、いえサ君は一体内気で入らっしゃるから婦女子にお心掛けなさいませんが、男子に取っては婦女子位楽みなものはないので、今申した飯島の別荘には婦人ばかりで、それは〳〵余程別嬪な嬢様に親切な忠義の女中と只二人ぎりですから、冗談でも申して来ましょう、本当に嬢様の別嬪を見るだけでも結構なくらいで、梅もよろしいが動きもしない口もきゝません、されども婦人は口もきくしサ動きもします、僕などは助平の性だから余程女の方が宜しい、マア兎も角も来たまえ」  と誘い出しまして、二人打連れ臥竜梅へまいり、その帰り路に飯島の別荘へ立寄り、 志「御免下さい、誠にしばらく」  という声聞き附け、 米「何方さま、おや、よく入っしゃいました」 志「是はお米さん、其の後は遂にない存外の御無沙汰をいたしました、嬢様にはお変りもなく、それは〳〵頂上々々、牛込から此処へお引移りになりましてからは、何分にも遠方ゆえ、存じながら御無沙汰に成りまして誠に相済みません」 米「まア貴方が久しくお見えなさいませんから何うなすったかと思って、毎度お噂を申して居りました、今日は何方へ」 志「今日は臥竜梅へ梅見に出かけましたが、梅見れば方図がないという譬の通り、未だ慊たらず、御庭中の梅花を拝見いたしたく参りました」 米「それは宜く入らっしゃいました、まア何卒此方へお入りあそばせ」  と庭の切戸を開きくれゝば、 「然らば御免」  と庭口へ通ると、お米は如才なく、 米「まア一服召上りませ、今日は能く入らっしゃって下さいました、平常は私と嬢様ばかりですから、淋しくって困って居るところ、誠に有難うございます」 志「結構なお住いでげすな……さて萩原氏、今日君のお名吟は恐れ入りましたな、何とか申したな、えゝと「煙草には燧火のむまし梅の中」とは感服々々、僕などのような横着者は出る句も矢張り横着で「梅ほめて紛らかしけり門違い」かね、君のような書見ばかりして鬱々としてはいけませんよ、先刻の残酒が此処にあるから一杯あがれよ…何んですね、厭です…それでは独りで頂戴いたします」  と瓢箪を取り出す所へお米出で来り、 米「どうも誠にしばらく」 志「今日は嬢様に拝顔を得たく参りました、此処に居るは僕が極の親友です、今日はお土産も何にも持参致しません、エヘヽ有難うございます、是は恐れ入ります、お菓子を、羊羹結構、萩原君召し上れよ」  とお米が茶へ湯をさしに行ったあとを見送り、 「こゝの家は女二人ぎりで、菓子などは方々から貰っても、喰い切れずに積上げて置くものだから、皆黴を生かして捨てるくらいのものですから、喰ってやるのが却って親切ですから召上れよ、実に此の家のお嬢様は天下に無い美人です、今に出て入っしゃるから御覧なさい」  とお喋りをしている処へ向うの四畳半の小座敷から、飯島のお嬢さまお露が人珍らしいから、障子の隙間より此方を覗いて見ると、志丈の傍に坐っているのは例の美男萩原新三郎にて、男ぶりといい人品といい、花の顔月の眉、女子にして見まほしき優男だから、ゾッと身に染み何うした風の吹廻しであんな綺麗な殿御が此処へ来たのかと思うと、カッと逆上せて耳朶が火の如くカッと真紅になり、何となく間が悪くなりましたから、はたと障子をしめきり、裡へ入ったが、障子の内では男の顔が見られないから、又そっと障子を明けて庭の梅の花を眺める態をしながら、ちょい〳〵と萩原の顔を見て又恥かしくなり、障子の内へ這入るかと思えば又出て来る、出たり引込んだり引込んだり出たり、もじ〳〵しているのを志丈は見つけ、 志「萩原君、君を嬢様が先刻から熟々と見ておりますよ、梅の花を見る態をしていても、眼の球は全で此方を見ているよ、今日は頓と君に蹴られたね」  と言いながらお嬢様の方を見て 「アレ又引込んだ、アラ又出た、引込んだり出たり出たり引込んだり、恰で鵜の水呑〳〵」  と噪ぎどよめいている処へ下女のお米出で来り 「嬢様から一献申し上げますが何もございません、真の田舎料理でございますが御緩りと召上り相変らず貴方の御冗談を伺いたいと仰しゃいます」  と酒肴を出だせば、 志「何うも恐入りましたな、へい是はお吸物誠に有難うございます、先刻から冷酒は持参致しておりまするが、お燗酒は又格別、有難うございます、何卒嬢様にも入っしゃるように今日は梅じゃアない実はお嬢様を、いやなに」 米「ホヽヽヽ只今左様申し上げましたが、お連のお方は御存じがないものですから間が悪いと仰しゃいますから、それならお止し遊ばせと申し上げた処が、それでも往って見たいと仰しゃいますの」 志「いや、此は僕の真の知己にて、竹馬の友と申しても宜しい位なもので、御遠慮には及びませぬ、何卒ちょっと嬢様にお目にかゝりたくって参りました」  と云えば、お米はやがて嬢様を伴い来る。嬢様のお露様は恥かしげにお米の後に坐って、口の中にて 「志丈さん入っしゃいまし」  と云ったぎりで、お米が此方へ来れば此方へ来り、彼方へ行けば彼方へ行き、始終女中の後にばかりくッついて居る。 志「存じながら御無沙汰に相成りまして、何時も御無事で、此の人は僕の知己にて萩原新三郎と申します独身者でございますが、お近づきの為め一寸お盃を頂戴いたさせましょう、おや何だかこれでは御婚礼の三々九度のようでございます」  と少しも間断なく取巻きますと、嬢様は恥かしいが又嬉しく、萩原新三郎を横目にじろ〳〵見ない振をしながら見て居ります。と気があれば目も口ほどに物をいうと云う譬の通り、新三郎もお嬢様の艶容に見惚れ、魂も天外に飛ぶ計りです。そうこうする中に夕景になり、灯火がちら〳〵点く時刻となりましたけれども、新三郎は一向に帰ろうと云わないから。 志「大層に長座を致しました、さお暇を致しましょう」 米「何ですねえ志丈さん、貴方はお連様もありますからまア宜いじゃアありませんか、お泊りなさいな」 新「僕は宜しゅうございます、泊って参っても宜しゅうございます」 志「それじゃア僕一人憎まれ者になるのだ、併し又斯様な時は憎まれるのが却って親切になるかも知れない、今日はまず是迄としておさらば〳〵」 新「鳥渡便所を拝借致しとうございます」 米「さア此方へ入っしゃいませ」  と先に立って案内を致し、廊下伝いに参り 「此処が嬢様のお室でございますから、まアお這入り遊ばして一服召上って入っしゃいまし」  新三郎は 「有難うございます」  と云いながら用場へ這入りました。 米「お嬢様え、彼のお方が、出て入っしゃったらばお水を掛けてお上げ遊ばせ、お手拭は此処にございます」  と新しい手拭を嬢様に渡し置き、お米は此方へ帰りながら、お嬢様があゝいうお方に水を掛けて上げたならば嘸お嬉しかろう、彼のお方は余程御意に適った様子。と独言をいいながら元の座敷へ参りましたが、忠義も度を外すと却って不忠に陥ちて、お米は決して主人に猥らな事をさせる積りではないが、何時も嬢様は別にお楽みもなく、鬱いでばかり入っしゃるから、斯ういう冗談でもしたら少しはお気晴しになるだろうと思い、主人のためを思ってしたので。さて萩原は便所から出て参りますと、嬢様は恥かしいのが一杯で只茫然としてお水を掛けましょうとも何とも云わず、湯桶を両手に支えているを、新三郎は見て取り、 新「是は恐れ入ります、憚りさま」  と両手を差伸べれば、お嬢様は恥かしいのが一杯なれば、目も眩み、見当違いのところへ水を掛けておりますから、新三郎の手も彼方此方と追かけて漸う手を洗い、嬢様が手拭をと差出してもモジ〳〵している間、新三郎も此のお嬢は真に美しいものと思い詰めながら、ずっと手を出し手拭を取ろうとすると、まだもじ〳〵していて放さないから、新三郎も手拭の上からこわ〴〵ながらその手をじっと握りましたが、此の手を握るのは誠に愛情の深いものでございます。お嬢様は手を握られ真赤に成って、又その手を握り返している。此方は山本志丈が新三郎が便所へ行き、余り手間取るを訝り 志「新三郎君は何処へ行かれました、さア帰りましょう」  と急き立てればお米は瞞かし、 米「貴方何んですねえ、おや貴方のお頭がぴか〳〵光ってまいりましたよ」 志「なにさそれは灯火で見るから光るのですわね、萩原氏々々」  と呼立てれば、 米「何んですねえ、宜うございますよう、貴方はお嬢様のお気質も御存じではありませんか、お堅いから仔細はありませんよ」  と云って居ります所へ新三郎が漸よう出て来ましたから、 志「君何方にいました、いざ帰りましょう、左様なればお暇申します、今日は種々御馳走に相成りました、有難うございます」 米「左様なら、今日はまア誠にお草々さま左様なら」  と志丈新三郎の両人は打連れ立ちて帰りましたが、帰る時にお嬢様が新三郎に 「貴方また来て下さらなければ私は死んでしまいますよ」  と無量の情を含んで言われた言葉が、新三郎の耳に残り、暫しも忘れる暇はありませなんだ。         三  さても飯島様のお邸の方にては、お妾お國が腹一杯の我儘を働く間、今度抱え入れた草履取の孝助は、年頃二十一二にて色白の綺麗な男ぶりで、今日しも三月二十二日殿様平左衞門様にはお非番でいらっしゃれば、庭先へ出て、彼方此方を眺めおられる時、此の新参の孝助を見掛け。 平「これ〳〵手前は孝助と申すか」 孝「へい殿様には御機嫌宜しゅう、私は孝助と申しまする新参者でございます」 平「其の方は新参者でも蔭日向なくよく働くといって大分評判がよく、皆の受がよいぞ、年頃は二十一二と見えるが、人品といい男ぶりといい草履取には惜しいものだな」 孝「殿様には此の間中御不快でございましたそうで、お案じ申上げましたが、さしたる事もございませんか」 平「おゝよく尋ねて呉れた、別にさしたる事もないが、して手前は今まで何方へか奉公をした事があったか」 孝「へい只今まで方々奉公も致しました、先ず一番先に四谷の金物商へ参りましたが一年程居りまして駈出しました、それから新橋の鍜冶屋へ参り、三月程過ぎて駈出し、又仲通りの絵草紙屋へ参りましたが、十日で駈出しました」 平「其の方のようにそう厭きては奉公は出来ないぞ」 孝「いえ私が倦きっぽいのではございませんが、私はどうぞして武家奉公が致したいと思い、其の訳を叔父に頼みましても、叔父は武家奉公は面倒だから町家へ往けと申しまして彼方此方奉公にやりますから、私も面当に駈出してやりました」 平「其の方は窮屈な武家奉公をしたいというのは如何な訳じゃ」 孝「へい、私は武家奉公を致しお剣術を覚えたいのでへい」 平「はて剣術が好きとな」 孝「へい番町の栗橋様が御当家様は、真影流の御名人と承わりました故、何うぞして御両家の内へ御奉公に上りたいと思いましていました処、漸々の思いで御当家様へお召抱えに相成り、念が届いて有難うございます、どうぞお殿様のお暇の節には、少々ずつにてもお稽古が願われようかと存じまして参りました、御当家様に若様でも入っしゃいます事ならば、若様のお守をしながら皆様がお稽古を遊ばすのをお側で拝見致していましても、型ぐらいは覚えられましょうと存じましたに、若様はいらっしゃらず、お嬢様には柳島の御別荘にいらっしゃいまして、お年はお十七とのこと、これが若様なれば余程宜しゅうございますに、お武家様にお嬢様は糞ったれでございますなア」 平「はゝゝ、遠慮のない奴、これは大きにさようだ、武家では女は実に糞ったれだのう」 孝「うっかりと飛んでもない事を申上げ、お気に障りましたら御勘弁をねがいます、どうぞ只今もお願い申上げまする通りお暇の節にはお剣術を願われますまいか」 平「此の程は役が替ってから稽古場もなく、誠に多端ではあるが、暇の節に随分教えてもやろう、其の方の叔父は何商売じゃの」 孝「へい彼は本当の叔父ではございません、親父の店受で、ちょっと間に合わせの叔父でございます」 平「何かえ母親は幾歳になるか」 孝「母親は私の四歳の時に私を置去りに致しまして、越後の国へ往ってしまいましたそうです」 平「左様か、大分不人情の女だの」 孝「いえ、それと申しまするのも親父の不身持に愛想を尽かしての事でございます」 平「親父はまだ存生か」  と問われて、孝助は 「へい」  と云いながら悄々として申しまするには、 「親父も亡くなりました、私には兄弟も親類もございませんゆえ、誰あって育てる者もないところから、店受の安兵衞さんに引取られ、四歳の時から養育を受けまして、只今では叔父分となり、斯様に御当家様へ御奉公に参りました、どうぞ何時までもお目掛けられて下さいませ」  と云いさしてハラ〳〵と落涙を致しますから、飯島平左衞門様も目をしばたゝき、 平「感心な奴だ、手前ぐらいな年頃には親の忌日さえ知らずに暮らすものだに、親はと聞かれて涙を流すとは親孝行な奴じゃて、親父は此の頃亡くなったのか」 孝「へい、親父の亡くなりましたは私の四歳の時でございます」 平「それでは両親の顔も知るまいのう」 孝「へい、ちっとも存じませんが、私の十一歳の時に始めて店受の叔父から母親の事や親父の事も聞きました」 平「親父はどうして亡くなったか」 孝「へい、斬殺されて」  と云いさしてわっとばかりに泣き沈む。 平「それは又如何の間違いで、とんでもない事であったのう」 孝「左様でございます、只今より十八年以前、本郷三丁目の藤村屋新兵衞と申しまする刀屋の前で斬られました」 平「それは何月幾日の事だの」 孝「へい、四月十一日だと申すことでございます」 平「シテ手前の親父は何と申す者だ」 孝「元は小出様の御家来にて、お馬廻の役を勤め、食禄百五十石を頂戴致して居りました黒川孝藏と申しました」  と云われて飯島平左衞門はギックリと胸にこたえ、恟りし、指折り数うれば十八年以前聊の間違いから手に掛けたは此の孝助の実父で有ったか、己を実父の仇と知らず奉公に来たかと思えば何とやら心悪く思いましたが、素知らぬ顔して、 平「それは嘸残念に思うで有ろうな」 孝「へい親父の仇討が致しとうございますが、何を申しますにも相手は立派なお侍様でございますから、どう致しても剣術を知りませんでは親の仇討は出来ませんゆえ、十一歳の時から今日まで剣術を覚えたいと心掛けて居りましたが、漸々のことで御当家様にまいりまして、誠に嬉しゅうございます、是からはお剣術を教えて戴き、覚えました上は、それこそ死にもの狂いに成って親の敵を討ちますから、どうぞ剣術を教えて下さいませ」 平「孝心な者じゃ、教えてやるが手前は親の敵を討つというが、敵の面体を知らんで居て、相手は立派な剣術遣で、もし今己が手前の敵だと云ってみす〳〵鼻の先へ敵が出たら其の時は手前どうするか」 孝「困りますな、みす〳〵鼻の先へ敵が出れば仕方がございませんから、立派な侍でも何でもかまいません、飛ついて喉笛でも喰い取ってやります」 平「気性な奴だ、心配いたすな、若し敵の知れた其の時は、此の飯島が助太刀をして敵を屹度討たせてやるから、心丈夫に身を厭い、随分大切に奉公をしろ」 孝「殿様本当にあなた様が助太刀をして下さいますか、有難う存じます、殿様がお助太刀をして下さいますれば、敵の十人位は出て参りましても大丈夫です、あゝ有難うございます、有難うございます」 平「己が助太刀をしてやるのをそれ程までに嬉しいか可愛そうな奴だ」  と飯島平左衞門は孝心に感じ、機を見て自ら孝助の敵と名告り、討たれてやろうと常に心に掛けて居りました。         四  さて萩原新三郎は山本志丈と一緒に臥竜梅へ梅見に連れられ、その帰るさに彼の飯島の別荘に立寄り、不図彼の嬢様の姿を思い詰め、互いに只手を手拭の上から握り合ったばかりで、実に枕を並べて寝たよりも猶深く思い合いました。昔のものは皆こういう事に固うございました。ところが当節のお方はちょっと洒落半分に 「君ちょっと来たまえ、雑魚寝で」  と、男がいえば、女の方で 「お戯けでないよ」  又男の方でも 「そう君のように云っては困るねえ、否なら否だと判然云い給え、否なら又外を聞いて見よう」  と明店か何かを捜す気に成っている位なものでございますが、萩原新三郎はあのお露どのと更に猥らしい事は致しませんでしたが、実に枕をも並べて一ツ寝でも致したごとく思い詰めましたが、新三郎は人が良いものですから一人で逢いに行くことが出来ません、逢いに参って若し万一飯島の家来にでも見付けられてはと思えば行く事もならず、志丈が来れば是非お礼旁々行きたいものだと思っておりましたが、志丈は一向に参りません。志丈も中々さるものゆえ、あの時萩原とお嬢との様子が訝しいから、若し万一の事があって、事の顕われた日には大変、坊主首を斬られなければならん、これは危険、君子は危きに近寄らずというから行かぬ方がよいと、二月三月四月と過ぎても一向に志丈が訪ねて来ませんから、新三郎は独りくよ〳〵お嬢のことばかり思い詰めて、食事もろく〳〵進みませんで居りますと、或日のこと孫店に夫婦暮しで住む伴藏と申す者が訪ねて参り。 伴「旦那様、此の頃は貴方様は何うなさいました、ろく〳〵御膳も上りませんで、今日はお昼食もあがりませんな」 新「あゝ食べないよ」 伴「上らなくっちゃアいけませんよ、今の若さに一膳半ぐらいの御膳が上れんとは、私などは親椀で山盛りにして五六杯も喰わなくっちゃアちっとも物を食べたような気持が致しやせん、あなた様はちっとも外出をなさいませんな、此の二月でしたっけナ、山本さんと御一緒に梅見にお出掛けに成って、何か洒落をおっしゃいましたっけナ、ちっと御保養をなさいませんと本当に毒ですよ」 新「伴藏貴様はあの釣が好きだっけな」 伴「へい釣は好きのなんのッて、本当にお飯より好きでございます」 新「左様か、そうならば一緒に釣に出掛けようかのう」 伴「あなたは慥か釣はお嫌いではありませんか」 新「何だか急にむか〳〵と釣が好きになったよ」 伴「へい、むか〳〵とお好きに成って、そして何方へ釣にいらっしゃるお積りで」 新「そうサ、柳島の横川で大層釣れるというから彼処へ往こうか」 伴「横川というのは彼の中川へ出る処ですかえ、そうしてあんな処で何が釣れますえ」 新「大きな鰹が釣れるとよ」 伴「馬鹿な事を仰しゃい、川で鰹が釣れますものかね、たか〴〵鰡か䲙ぐらいのものでございましょう、兎も角もいらっしゃるならばお供をいたしましょう」  と弁当の用意を致し、酒を吸筒へ詰込みまして、神田の昌平橋の船宿から漁夫を雇い乗出しましたれど、新三郎は釣はしたくはないが、唯飯島の別荘のお嬢の様子を垣の外からなりとも見ましょうとの心組でございますから、新三郎は持って来た吸筒の酒にグッスリと酔って、船の中で寝込んでしまいましたが、伴藏は一人で日の暮るまで釣を致して居ましたが、新三郎が寝たようだから、 伴「旦那え〳〵お風をひきますよ、五月頃は兎角冷えますから、旦那え〳〵、是は余りお酒を勧めすぎたかな」  新三郎はふと見ると横川のようだから。 新「伴藏こゝは何処だ」 伴「へい此処は横川です」  と云われて傍の岸辺を見ますと、二重の建仁寺の垣に潜り門がありましたが、是は確に飯島の別荘と思い、 新「伴藏や一寸此処へ着けて呉れ、一寸行って来る所があるから」 伴「こんな所へ着けて何方へ入らっしゃるのですえ、私も御一緒に参りましょう」 新「お前は其処に待っていなよ」 伴「だってそのための伴藏ではございませんか、お供を致しましょう」 新「野暮だのう、色にはなまじ連れは邪魔よ」 伴「イヨお洒落でげすね、宜うがすねえ」  という途端に岸に船を着けましたから、新三郎は飯島の門の処へまいり、ブル〳〵慄えながらそっと家の様子を覗き、門が少し明いてるようだから押して見ると明いたから、ずっと中へ這入り、予て勝手を知っている事故、だん〳〵と庭伝いに参り、泉水縁に赤松の生えてある処から生垣に附いて廻れば、こゝは四畳半にて嬢様のお部屋でございました。お露も同じ思いで、新三郎に別れてから其の事ばかり思い詰め、三月から煩って居ります所へ、新三郎は折戸の所へ参り、そっとうちの様子を覗き込みますと、うちでは嬢様は新三郎の事ばかり思い続けて、誰を見ましても新三郎のように見える処へ、本当の新三郎が来た事ゆえ、ハッと思い 「貴方は新三郎さまか」  と云えば、 新「静かに〳〵、其の後は大層に御無沙汰を致しました、鳥渡お礼に上るんでございましたが、山本志丈があれぎり参りませんものですから、私一人では何分間が悪くッて上りませんだった」 露「よくまア入っしゃいました」  ともう耻しいことも何も忘れてしまい、無理に新三郎の手を取ってお上り遊ばせと蚊帳の中へ引きずり込みました。お露は只もう嬉しいのが込み上げて物が云われず、新三郎の膝に両手を突いたなりで、嬉し涙を新三郎の膝にホロリと零しました。これが本当の嬉し涙です。他人の所へ悔みに行って零す空涙とは違います。新三郎ももう是までだ、知れても構わんと心得、蚊帳の中で互に嬉しき枕をかわしました。 露「新三郎さま、是は私の母さまから譲られました大事な香箱でございます、どうか私の形見と思召しお預り下さい」  と差出すを手に取って見ますと、秋野に虫の象眼入の結構な品で、お露は此の蓋を新三郎に渡し、自分は其の身の方を取って互に語り合う所へ、隔ての襖をサラリと引き明けて出て来ましたは、おつゆの親御飯島平左衞門様でございます。両人は此の体を見てハッとばかりに恟り致しましたが、逃げることもならず、唯うろ〳〵して居る所へ、平左衞門は雪洞をズッと差つけ、声を怒らし。 平「コレ露これへ出ろ、又貴様は何者だ」 新「へい、手前は萩原新三郎と申す粗忽の浪士でございます、誠に相済みません事を致しました」 平「露、手前はヤレ國がどうのこうの云うの、親父がやかましいの、どうか閑静な所へ行きたいのと、さま〴〵の事を云うから、此の別荘に置けば、斯様なる男を引きずり込み、親の目を掠めて不義を働きたい為めに閑地へ引込んだのであろう、これ苟めにも天下御直参の娘が、男を引入れるという事がパッと世間に流布致せば、飯島は家事不取締だと云われ家名を汚し、第一御先祖へ対して相済まん、不孝不義の不届ものめが、手打にするから左様心得ろ」 新「暫くお待ち下さい、其のお腹立は重々御尤でございますが、お嬢様が私を引きずり込み不義を遊ばしたのではなく、手前が此の二月始めて罷出でまして、お嬢様を唆かしたので、全く手前の罪でお嬢様には少しもお科はございません、どうぞ嬢様はお助けなすって私を」 露「いゝえ、お父様私が悪いのでございます、どうぞ私をお斬り遊ばして、新三郎様をばお助け下さいまし」  と互に死を争いながら平左衞門の側へ摺寄りますと、平左衞門は剛刀をスラリと引抜き、 「誰彼と容赦はない、不義は同罪、娘から先へ斬る、観念しろ」  と云いさま片手なぐりにヤッと下した腕の冴え、島田の首がコロリと前へ落ちました時、萩原新三郎はアッとばかりに驚いて前へのめる処を、頬より腮へ掛けてズンと切られ、ウーンと云って倒れると。 伴「旦那え〳〵大層魘されていますね、恐しい声をして恟りしました、風邪を引くといけませんよ」  と云われて新三郎はやっと目を覚し、ハアと溜息をついて居るから。 伴「何うなさいましたか」 新「伴藏や己の首が落ちては居ないか」  と問われて、 伴「そうですねえ、船舷で煙管を叩くと能く雁首が川の中へ落っこちて困るもんですねえ」 新「そうじゃアない、己の首が落ちはしないかという事よ、何処にも疵が付いてはいないか」 伴「何を御冗談を仰しゃる、疵も何も有りは致しません」  と云う。新三郎はお露に何うにもして逢いたいと思い続けているものだから、其の事を夢に見てビッショリ汗をかき、辻占が悪いから早く帰ろうと思い 「伴藏早く帰ろう」  と船を急がして帰りまして、船が着いたから上ろうとすると。 伴「旦那こゝにこんな物が落ちて居ります」  と差出すを新三郎が手に取上げて見ますれば、飯島の娘と夢のうちにて取交した、秋野に虫の模様の付いた香箱の蓋ばかりだから、ハッとばかりに奇異の想を致し、何うして此の蓋が我手にある事かと恟り致しました。         五  話替って、飯島平左衞門は凛々しい智者にて諸芸に達し、とりわけ剣術は真影流の極意を極めました名人にて、お齢四十ぐらい、人並に勝れたお方なれども、妾の國というが心得違いの奴にて、内々隣家の次男源次郎を引込み楽しんで居りました。お國は人目を憚り庭口の開き戸を明け置き、此処より源次郎を忍ばせる趣向で、殿様のお泊番の時には此処から忍んで来るのだが、奥向きの切盛は万事妾の國がする事ゆえ、誰も此の様子を知る者は絶えてありません。今日しも七月二十一日殿様はお泊番の事ゆえ、源次郎を忍ばせようとの下心で、庭下駄を彼の開き戸の側に並べ置き、 國「今日は熱くって堪らないから、風を入れないでは寝られない、雨戸を少しすかして置いてお呉れよ」  と云附け置きました。さて源次郎は皆寝静まッたる様子を窺い、そっと跣足で庭石を伝わり、雨戸の明いた所から這い上り、お國の寝間に忍び寄れば、 國「源次郎さま大層に遅いじゃアありませんか、私は何うなすッたかと思いましたよ、余まりですねえ」 源「私も早く来たいのだけれども、兄上もお姉様もお母様もお休みにならず、奉公人までが皆熱い〳〵と渋団扇を持って、あおぎ立てゝ凉んでいて仕方がないから、今まで我慢して、よう〳〵の思いで忍んで来たのだが、人に知れやアしないかねえ」 國「大丈夫知れッこはありませんよ、殿様があなたを御贔屓に遊ばすから知れやアしませんよ、あなたの御勘当が許りてから此の家へ度々お出になれるように致しましたのも、皆私が側で殿様へ旨く取なし、あなたをよく思わせたのですよ、殿様はなか〳〵凛々しいお方ですから、貴方と私との間が少しでも変な様子があれば気取られますのだが、些も知れませんよ」 源「実に伯父さまは一通りならざる智者だから、私は本当に怖いよ、私も放蕩を働き、大塚の親類へ預けられていたのを、当家の伯父さんのお蔭で家へ帰れるように成った、其の恩人の寵愛なさるお前と斯うやっているのが知れては実に済まないよ」 國「あゝいう事を仰しゃる、あなたは本当に情がありませんよ、私は貴方のためなら死んでも決して厭いませんよ、何ですねえ、そんな事ばかり仰しゃって、私の傍へ来ない算段ばかり遊ばすのですものを、アノ源さま、こちらの家でも此の間お嬢様がお逝れになって、今は外に御家督がありませんから、是非とも御夫婦養子をせねばなりません、それに就てはお隣の源次郎様をと内々殿様にお勧め申しましたら、殿様が源次郎はまだ若くッて了簡が定まらんからいかんと仰しゃいましたよ」 源「そうだろう、恩人の愛妾の所へ忍び来るような訳だから、どうせ了簡が定まりゃアしないや」 國「私は殿様の側に何時までも附いていて、殿様が長生をなすって、貴方は外へ御養子にでも入らっしゃれば、お目にかゝる事は出来ません、其の上綺麗な奥様でもお持ちなさろうものなら、國のくの字も仰しゃる気遣いはありませんよ、それですから貴方が本当に信実がおあり遊ばすならば、私の願を叶えて、内の殿様を殺して下さいましな」 源「情があるから出来ないよ、私の為めには恩人の伯父さんだもの、何うしてそんな事が出来るものかね」 國「こうなる上からは、もう恩も義理もありはしませんやね」 源「それでも伯父さんは牛込名代の真影流の達人だから、手前如きものが二十人ぐらい掛っても敵う訳のものではないよ、其の上私は剣術が極下手だもの」 國「そりゃア貴方はお剣術はお下手さね」 源「そんなにオヘータと力を入れて云うには及ばない、それだから何うもいけないよ」 國「貴方は剣術はお下手だが、よく殿様と一緒に釣にいらっしゃいましょう、アノ来月四日はたしか中川へ釣にいらっしゃるお約束がありましょう、其の時殿様を船から川の中へ突落して殺しておしまいなさいよ」 源「成程伯父さんは水練を御存じないが、矢張り船頭がいるからいけないよ」 國「船頭を斬ってお仕舞い遊ばせな、なんぼ貴方が剣術がお下手でも、船頭ぐらいは斬れましょう」 源「それは斬れますとも」 國「殿様が落ちたというので、貴方は立腹して、早く探させてはいけませんよ、いろ〳〵理窟をなが〳〵と二時ばかりも言っていてそれから船頭に探させ、死骸を船に揚げてから不届な奴だといって船頭を斬ってお仕舞いなさい、それから帰り路に船宿に寄って、船頭が麁相で殿様を川へ落し、殿様は死去されたれば、手前は言訳がないから船頭は其の場で手打に致したが、船頭ばかりでは相済まんぞ、亭主其の方も斬って仕舞うのだが、内分で済ませて遣わすにより、此の事は決して口外致すなと仰しゃれば、船宿の亭主も自分の命にかゝわる事ですから口外する気遣いはありません、それから貴方はお邸へお帰りになって、知らん顔でいて、お兄様に隣家では家督がないから早く養子に遣ってくれ〳〵と仰しゃれば、此方は別に御親類もないからお頭に話を致し、貴方を御養子のお届けを致しますまでは、殿様は御病気の届けを致して置いて、貴方の家督相続が済みましてから、殿様の死去のお届を致せば、貴方は此家の御養子様、そうすると私は何時までも貴方の側に粘り附いていて動きません、此方の家は貴方のお家より、余程大尽ですから、召物でもお腰のものでも結構なのが沢山ありますよ」 源「これは旨い趣向だ、考えたね」 國「私は三日三晩寝ずに考えましたよ」 源「是は至極宜しい、どうも宜しい」  と源次郎は慾張と助平とが合併して乗気に成り、両人がひそ〳〵語り合っているを、忠義無類の孝助という草履取が、御門の男部屋に紙帳を吊って寝て見たが、何分にも熱くって寝付かれないものだから、渋団扇を持って、 「どうも今年の様に熱い事はありゃアしない」  と云いながら、お庭をぶら〴〵歩いていると、板塀の三尺の開きがバタリ〳〵と風にあおられているのを見て、 孝「締りをして置いたのに何うして開いたのだろう、おや庭下駄が並べてあるぞ、誰が来たな、隣家の次男めがお國さんと様子が訝しいから、ことによったら密通いているのかも知れん」  と抜足してそっと此方へまいり、沓脱石へ手を支えて座敷の様子を窺うと、自分が命を捨てゝも奉公をいたそうと思っている殿様を殺すという相談に、孝助は大いに怒り、歳はまだ二十一でございますが、負けない気性だから、怒りの余り思わず知らずガッと鼻を鳴らす。 源「お國さん誰か来たようだよ」 國「貴方は本当に臆病で入らっしゃるよ、誰も参りは致しません」  と耳を立てゝ聞けば人の居る様子ですから、 國「誰だえ、其処に居るのは」 孝「へい孝助でございます」 國「本当にまア呆れますよ、夜夜中奥向の庭口へ這入り込んで済みますかえ」 孝「熱くッて〳〵仕様がございませんから凉みに参りました」 國「今晩は殿様はお泊番だよ」 孝「毎月二十一日のお泊番は知っています」 國「殿様のお泊番を知りながらなぜ門番をしない、御門番は御門をさえ堅く守って居れば宜いのに、熱いからといって女計りいる庭先へ来てすみますか」 孝「へい御門番だからといって御門計りを守っては居りませんへい、庭も奥も守ります、へい方々を守るのが役でございます、御門番だからと申して奥へ盗賊が這入り、殿様とチャン〳〵切合っているに門ばかり見てはいられません」 國「新参者のくせに、殿様のお気に入りだものだから、此の節では増長して大層お羽振が宜いよ、奥向を守るのは私の役だ、部屋へ帰って寝てお仕舞い」 孝「そうですか、貴方が奥向のお守りをして、斯様に三尺戸を開けて置いて宜しゅうございますか、庭口の戸が開いていると犬が這入って来ます、何でも犬畜生の恩も義理も知らん奴が、殿様の大切にして入らっしゃるものをむしゃ〳〵喰っていますから、私は夜通し此処に張番をしています、此所に下駄が脱いでありますから、何でも人間が這入ったに違いはありません」 國「そうサ、先刻お隣の源さまが入らっしゃったのサ」 孝「へえ、源さまが何御用で入らっしゃいました」 國「何の御用でも宜いじゃアないか、草履取の身の上でお前は御門さえ守っていればよいのだよ」 孝「毎月二十一日は殿様お泊番の事は、お隣の御次男様もよく御存じでいらっしゃいますに、殿様のお留守の処へお出に成って、御用が足りるとはこりゃア変でございますな」 國「何が変だえ、殿様に御用があるのではない」 孝「殿様に御用ではなく、あなたに内証の御用でしょう」 國「おや〳〵お前はそんな事を言って私を疑ぐるね」 孝「何も疑ぐりはしませんのに、疑ぐると思うのが余程おかしい、夜夜中女ばかりの処へ男が這入り込むのは何うも訝しいと思っても宜かろうと思います」 國「お前はまアとんでもない事を云って、お隣の源さまにすまないよ、余りじゃアないか、お前だって私の心を知っているじゃアないか」  と、両人の争って居るのを聞いていた源次郎は、人の妾でも奪ろうという位な奴だからなか〳〵抜目はありません。そして其の頃は若殿と草履取とはお羽振が雲泥の違いであります、源次郎はずっと出て来て、 源「これ〳〵孝助何を申す、是へ出ろ」 孝「へい何か御用で」 源「手前今承れば、何かお國殿と己と何か事情でもありそうにいうが、己も養子に行く出世前の大切な身体だ、尤も一旦放蕩をして勘当をされ、大塚の親類共へ預けられたから、左様思うも無理もないようだが、左様な事を云い掛けられては捨置にならんぞ」 孝「御大切の身の上を御存じなれば何故夜夜中女一人の処へおいでなされました、あなた様が御自分に疵をお付けなさる様なものでございます、貴方だッて男女七歳にして席を同ゅうせず、瓜田に履を容れず、李下に冠を正さず位の事は弁えておりましょう」 源「黙れ左様な無礼な事を申して、若し用があったらどう致す、イヤサ御主人がお留守でも用の足りる仔細があったら何うする積りだ」 孝「殿様がお留守で御用の足りる筈はありません、へい若しありましたら御存分になさいまし」 源「然らば是を見い」  と投げ出す片紙の書面。孝助は手に取上げて読み下すに、 一筆申入候過日御約束致置候中川漁船行の儀は来月四日と致度就ては釣道具大半破損致し居候間夜分にても御閑の節御入来之上右釣道具御繕い直し被下候様奉願上候。 飯島平左衞門 源次郎殿  と孝助がよく〳〵見れば全く主人の手蹟だから、これはと思うと。 源「どうだ手前は無筆ではあるまい、夜分にてもよいから来て釣道具を直して呉れろとの頼みの状だ、今夜は熱くて寝られないから、釣道具を直しに参った、然るを手前から疑念を掛けられ、悪名を附けられ、甚だ迷惑致す、貴様は如何致す積りか」 孝「左様な御無理を仰しゃっては誠に困ります、此の書付さえなければ喧嘩は私が勝だけれども、書付が出たから私の方が負に成ったのですが、何方が悪いかとくと貴方の胸に聞いて御覧遊ばせ、私は御当家様の家来でございます、無闇に斬っては済みますまい」 源「汝の様な汚れた奴を斬るかえ、打殺してしまうわ、何か棒はありませんか」 國「此処にあります」  とお國が重籐の弓の折を取出し、源次郎に渡す。 孝「貴方様、左様な御無理な事をして、私のような虚弱い身体に疵でも出来ましては御奉公が勤まりません」 源「えい手前疑ぐるならば表向きに云えよ、何を証拠に左様なことを申す、其のくらいならなぜお國殿と枕を並べている処へ踏み込まん、拙者は御主人から頼まれたから参ったのだ、憎い奴め」  と云いながらはたと打つ。 孝「痛うございます、貴方左様な事を仰しゃっても、篤と胸に聞いて御覧遊ばせ、虚弱い草履取をお打ちなすッて」 源「黙れ」  といいざまヒュウ〳〵と続け打ちに十二三も打ちのめせば、孝助はヒイ〳〵と叫びながら、ころ〳〵と転げ𢌞り、さも恨めしげに源次郎の顔を睨む所を、トーンと孝助の月代際を打割ったゆえ黒血がタラ〳〵と流れる。 源「ぶち殺してもいゝ奴だが、命だけは助けてくれる、向後左様の事を言うと助けては置かぬぞ、お國どの私はもう御当家へは参りません」 國「アレ入らっしゃらないと猶疑ぐられますよ」  と云うを聞入れず、源次郎は是を機会に跣足にて根府川石の飛石を伝いて帰りました。 國「お前が悪いから打たれたのだよ、お隣の御二男様に飛んでもない事を云って済まないよ、お前こゝにいられちゃア迷惑だから出て行ってお呉れ」  と云いながら、痛みに苦しむ孝助の腰をトンと突いて、庭へ突き落すはずみに、根府川石に又痛く膝を打ち、アッと云って倒れると、お國は雨戸をピッシャリ締めて奥へ入る。後に孝助くやしき声を震わせ、 「畜生奴〳〵、犬畜生奴、自分達の悪い事を余所にして私を酷い目に逢わせる、殿様がお帰りになれば申上げて仕舞おうか、いや〳〵若し此の事を表向きに殿様に申上げれば、屹度あの両人と突合せに成ると、向うには証拠の手紙があり、此方は聞いたばかりの事だからどう云うても証拠になるまい、殊には向うは二男の勢い、此方は悲しいかな草履取の軽い身分だから、お隣づからの義理でも私はお暇になるに相違ない、私がいなければ殿様は殺されるに違いない、これはいっその事源次郎お國の両人を槍で突き殺して、自分は腹を切ってしまおう」  と、忠義無二の孝助が覚悟を定めましたが、さて此のあとは何うなりますか。         六  萩原新三郎は、独りクヨ〳〵として飯島のお嬢の事ばかり思い詰めています処へ、折しも六月二十三日の事にて、山本志丈が訪ねて参りました。 志「其の後は存外の御無沙汰を致しました、ちょっと伺うべきでございましたが、如何にも麻布辺からの事故、おッくうでもあり且追々お熱く成って来たゆえ、藪医でも相応に病家もあり、何や彼やで意外の御無沙汰、貴方は何うもお顔の色が宜くない、なにお加減がわるいと、それは〳〵」 新「何分にも加減がわるく、四月の中旬頃からどっと寝て居ります、飯もろく〳〵たべられない位で困ります、お前さんもあれぎり来ないのは余り酷いじゃアありませんか、私も飯島さんの処へ、ちょっと菓子折の一つも持ってお礼に行きたいと思っているのに、君が来ないから私は行きそこなっているのです」 志「さて、あの飯島のお嬢も、可愛そうに亡くなりましたよ」 新「えゝお嬢が亡くなりましたとえ」 志「あの時僕が君を連れて行ったのが過りで、向うのお嬢がぞっこん君に惚れ込んだ様子だ、あの時何か小座敷で訳があったに違いないが、深い事でもなかろうが、もし其の事が向うの親父さまにでも知れた日には、志丈が手引した憎い奴め、斬って仕舞う、坊主首を打ち落す、といわれては僕も困るから、実はあれぎり参りもせんでいたところ、不図此の間飯島のお邸へまいり、平左衞門様にお目にかゝると、娘は歿かり、女中のお米も引続き亡くなったと申されましたから、段々様子を聞きますと、全く君に焦れ死をしたという事です、本当に君は罪造りですよ、男も余り美く生れると罪だねえ、死んだものは仕方がありませんからお念仏でも唱えてお上げなさい、左様なら」 新「あれさ志丈さん、あゝ往って仕舞った、お嬢が死んだなら寺ぐらいは教えてくれゝばいゝに、聞こうと思っているうちに行って仕舞った、いけないねえ、併しお嬢は全く己に惚れ込んで己を思って死んだのか」  と思うとカッと逆上せて来て、根が人がよいから猶々気が欝々して病気が重くなり、それからはお嬢の俗名を書いて仏壇に備え、毎日々々念仏三昧で暮しましたが、今日しも盆の十三日なれば精霊棚の支度などを致してしまい、縁側へちょっと敷物を敷き、蚊遣を薫らして、新三郎は白地の浴衣を着、深草形の団扇を片手に蚊を払いながら、冴え渡る十三日の月を眺めていますと、カラコン〳〵と珍らしく下駄の音をさせて生垣の外を通るものがあるから、不図見れば、先きへ立ったのは年頃三十位の大丸髷の人柄のよい年増にて、其の頃流行った縮緬細工の牡丹芍薬などの花の附いた灯籠を提げ、其の後から十七八とも思われる娘が、髪は文金の高髷に結い、着物は秋草色染の振袖に、緋縮緬の長襦袢に繻子の帯をしどけなく締め、上方風の塗柄の団扇を持って、ぱたり〳〵と通る姿を、月影に透し見るに、何うも飯島の娘お露のようだから、新三郎は伸び上り、首を差し延べて向うを見ると、向うの女も立止まり、 女「まア不思議じゃアございませんか、萩原さま」  と云われて新三郎もそれと気が付き、 新「おや、お米さん、まアどうして」 米「誠に思いがけない、貴方様はお亡くなり遊ばしたという事でしたに」 新「へえ、ナニあなたの方でお亡くなり遊ばしたと承わりましたが」 米「厭ですよ、縁起の悪い事ばかり仰しゃって、誰が左様な事を申しましたえ」 新「まアおはいりなさい、其処の折戸のところを明けて」  と云うから両人内へ這入れば、 新「誠に御無沙汰を致しました、先日山本志丈が来まして、あなた方御両人ともお亡くなりなすったと申しました」 米「おやまア彼奴が、私の方へ来ても貴方がお亡くなり遊ばしたといいましたが、私の考えでは、貴方様はお人がよいものだから旨く瞞したのです、お嬢様はお邸に入らっしゃっても貴方の事計り思って入らっしゃるものだから、つい口に出て迂濶りと、貴方の事を仰しゃるのが、ちら〳〵と御親父様のお耳にもはいり、又内にはお國という悪い妾がいるものですから邪魔を入れて、志丈に死んだと云わせ、互に諦めさせようと、國の畜生がした事に違いはありませんよ、貴方がお亡くなり遊ばしたという事をお聞き遊ばして、お嬢様はおいとしいこと、剃髪して尼に成ってしまうと仰しゃいますゆえ、そんな事を成すっては大変ですから、心でさえ尼に成った気で入らっしゃれば宜しいと申上げて置きましたが、それでは志丈にそんな事をいわせ、互に諦めさせて置いて、お嬢さまに婿を取れと御親父さまから仰しゃるのを、お嬢様は、婿は取りませんからどうかお宅には夫婦養子をしてくださいまし、そして他へ縁付くのも否だと強情をお張り遊ばしたものですから、お宅が大層に揉めて、親御さまがそんなら約束でもした男があってそんな事を云うのだろうと、怒っても、一人のお嬢様で斬る事も出来ませんから、太い奴だ、そういう訳なら柳島にも置く事が出来ない、放逐するというので、只今では私とお嬢様と両人お邸を出まして、谷中の三崎へ参り、だいなしの家に這入って居りまして、私が手内職などをして、どうか斯うか暮しを付けていますが、お嬢様は毎日々々お念仏三昧で入らっしゃいますよ、今日は盆の事ですから、方々お参りにまいりまして、晩く帰る処でございます」 新「なんの事です、そうでございますか、私も嘘でも何でもありません、此の通りお嬢さまの俗名を書いて毎日念仏しておりますので」 米「それ程に思って下さるは誠に有難うございます、本当にお嬢様は仮令御勘当に成っても、斬られてもいゝから貴方のお情を受けたいと仰しゃって入らっしゃるのですよ、そしてお嬢様は今晩此方へお泊め申しても宜しゅうございますかえ」 新「私の孫店に住んで居る、白翁堂勇齋という人相見が、万事私の世話をして喧ましい奴だから、それに知れないように裏からそっとお這入り遊ばせ」  と云う言葉に随い、両人共に其の晩泊り、夜の明けぬ内に帰り、是より雨の夜も風の夜も毎晩来ては夜の明けぬ内に帰る事十三日より十九日まで七日の間重なりましたから、両人が仲は漆の如く膠の如くになりまして新三郎も現を抜かして居りましたが、こゝに萩原の孫店に住む伴藏というものが、聞いていると、毎晩萩原の家にて夜夜中女の話声がするゆえ、伴藏は変に思いまして、旦那は人がよいものだから悪い女に掛り、騙されては困ると、密と抜け出て、萩原の家の戸の側へ行って家の様子を見ると、座敷に蚊帳を吊り、床の上に比翼〓(「蓙」の左の「人」に代えて「口」)を敷き、新三郎とお露と並んで坐っているさまは真の夫婦のようで、今は耻かしいのも何も打忘れてお互いに馴々しく、 露「アノ新三郎様、私が若し親に勘当されましたらば、米と両人をお宅へ置いて下さいますかえ」 新「引取りますとも、貴方が勘当されゝば私は仕合せですが、一人娘ですから御勘当なさる気遣いはありません、却って後で生木を割かれるような事がなければ宜いと思って私は苦労でなりませんよ」 露「私は貴方より外に夫はないと存じておりますから、仮令此の事がお父さまに知れて手打に成りましても、貴方の事は思い切れません、お見捨てなさるときゝませんよ」  と膝に凭れ掛りて睦ましく話をするは、余ぽど惚れている様子だから。 伴「これは妙な女だ、あそばせ言葉で、どんな女かよく見てやろう」  と差し覗いてハッとばかりに驚き、 「化物だ〳〵」  と云いながら真青になって夢中で逃出し、白翁堂勇齋の処へ往こうと思って駈出しました。         七  飯島家にては忠義の孝助が、お國と源次郎の奸策の一伍一什を立聞致しまして、孝助は自分の部屋へ帰り、もう是までと思い詰め、姦夫姦婦を殺すより外に手段はないと忠心一途に思い込み、それに就ては仮令己は死んでも此のお邸を出まい、殿様に御別条のないように仕ようと、是から加減が悪いとて引籠っており、翌朝になりますと殿様はお帰りになり、残暑の強い時分でありますから、お國は殿様の側で出来たてのお供見たように、団扇であおぎながら、 國「殿様御機嫌宜しゅう、私はもう殿様にお暑さのお中りでもなければよいと毎日心配ばかりしています」 飯「留守へ誰も参りは致さなかったか」 國「あの相川さまが一寸お目通りが致したいと仰しゃって、お待ち申して居ります」 飯「ほウ相川新五兵衞が、又医者でも頼みに参ったのかも知れん、いつもながら粗忽かしい爺さんだよ、まア此方へ通せ」  と云っていると相川は 「ハイ御免下さい」  と遠慮もなく案内も乞わず、ズカ〳〵奥へ通り、 相「殿様お帰りあそばせ、御機嫌さま、誠に存外の御無沙汰を致しました、何時も相変らず御番疲れもなく、日々御苦労さまにぞんじます、厳しい残暑でございます」 飯「誠に熱い事で、おとくさまの御病気は如何でござるな」 相「娘の病気もいろ〳〵と心配も致しましたが、何分にも捗々しく参りませんで、それに就て誠にどうも……アヽ熱い、お國さま先達ては誠に御馳走様に相成りまして有難う、まだお礼もろく〳〵申上げませんで、へえ、アヽ熱い、誠に熱い、どうも熱い」 飯「まア少し落着けば風が這入って随分凉しくなります」 相「折入って殿様にお願いの事がございまして、罷出ました、何うかお聞済を願います」 飯「はてナ、どういう事で」 相「お國様やなにかには少々お話が出来兼ますから、どうか御近習の方々を皆遠ざけて戴きとう存じます」 飯「左様か宜しい、皆あちらへ参り、此方へ参らん様にするが宜しい、シテ何ういうことで」 相「さて殿様、今日態々出ましたは折入って殿様にお願い申したいは娘の病気の事に就て出ましたが、御存じの通り彼れの病気も永い事で、私も種々と心配いたしましたけれども、病の様子が判然と解りませんでしたが、よう〳〵ナ昨晩当人が私の病は実は是々の訳だと申しましたから、なぜ早く云わん、けしからん奴だ、不孝ものであると小言は申しましたが、彼れは七歳の時母に別れ今年十八まで男の手に丹誠して育てましたにより、あの通りの初心な奴で何もかも知らん奴だから、そこが親馬鹿の譬の通りですが、殿様訳をお話し申してもお笑い下さるな、お蔑み下さるな」 飯「どういう御病気で」 相「手前一人の娘でございますから、早くナ婿でも貰い、楽隠居がしたいと思い、日頃信心気のない私なれども、娘の病気を治そうと思い、夏とは云いながら此の老人が水をあびて神仏へ祈るくらいな訳で、ところが昨夜娘のいうには、私の病気は実は是々といいましたが、其の事は乳母にも云われないくらいな訳ですが、其処が親馬鹿の譬の通り、お蔑み下さるな」 飯「どういう御病気ですな」 相「私もだん〳〵と心配をいたして、どうか治してやりたいと心得、いろ〳〵医者にも掛けましたが、知れない訳で、是ばかりは神にも仏にも仕ようがないので、なぜ早く云わんと申しました」 飯「どういう訳で」 相「誠に申しにくい訳で、お笑い成さるな」 飯「何だかさっぱりと訳が解りませんね」 相「実は殿様が日頃お誉めなさる此方の孝助殿、あれは忠義な者で、以前は然るべき侍の胤でござろう、今は零落て草履取をしていても、志は親孝行のものだ、可愛いものだと殿様がお誉めなされ、あれには兄弟も親族もない者だから、行々は己が里方に成って他へ養子にやり、相応な侍にしてやろうと仰しゃいますから、私も折々は宅の家来善藏などに、飯島様の孝助殿を見習えと叱り付けますものだから、台所のおさんまでが孝助さんは男振もよし人柄もよし、優しいと誉め、乳母までが彼是と誉めはやすものだから、娘も、殿様お笑い下さるな、私は汗の出るほど耻入ります、実は疾くより娘があの孝助殿を見染め、恋煩いをして居ります、誠に面目ない、それをサ婆アにもいわないで、漸く昨夜になって申しましたから、なぜ早く云わん、一合取っても武士の娘という事が浄瑠璃本にもあるではないか、侍の娘が男を見染めて恋煩いをするなどとは不孝ものめ、仮令一人の娘でも手打にする処だが、併し紺看板に真鍮巻の木刀を差した見る影もない者に惚れたというのは、孝助殿の男振の好いのに惚れたか、又は姿の好いのに惚れ込んだかと難じてやりました、そうすると娘がお父さま実は孝助殿の男振にも姿にも惚れたのではございません、外に唯一つの見所がありますからと斯ういいますから、何処に見所があると聞きますと、あのお忠義が見所でございます、主へ忠義のお方は、親にも孝行でございましょうねえ、といいましたから、それは親に孝なるものは主へ忠義、主へ忠なるものは親へは必ず孝なるものだといいますと、娘が私の家はお高は僅か百俵二人扶持ですから、他家から御養子をしてお父さまが御隠居をなさいましても、もし其の御養子が心の良くない人でも来た其の時は、此方の高が少ないから、私の肩身が狭く、遂にはそれがために私までが、倶にお父さまを不孝にするように成っては済みません、私も只今まで御恩を受けましたにより何うか不孝をしたくない、就きましては仮令草履取でも家来でも志の正しい人を養子にして、夫婦諸共親に孝行を尽したいと思いまして、孝助殿を見染め、寝ても覚めても諦められず、遂に病となりまして誠に相済みません、と涙を流して申しますから、私も至極尤もの様にも聞えますから、兎に角お願いに出て、殿様から孝助殿を申受けて来ようと云って参りましたが、どうかあの孝助殿を手前の養子に下さるように願います」 飯「それはまア有難いこと、差上げたいね」 相「ナニ下さる、あゝ有難かった」 飯「だが一応当人へ申聞けましょう、嘸悦ぶ事で、孝助が得心の上で確と御返事を申上げましょう」 相「孝助殿は宜しい、貴方さえ諾と仰しゃって下さればそれで宜しい」 飯「私が養子に参るのではありませんから、そうはいかない」 相「孝助殿はいやと云う気遣いは決してありません、唯殿様から孝助行ってやれとお声掛りを願います、あれは忠義ものだから、殿様のお言葉は背きません、私も当年五十五歳で、娘は十八になりましたから早く養子をして身体を固めてやりたい、殿様どうか願います」 飯「宜しい、差上げましょう、御胡乱に思召すならば金打でも致そうかね」 相「そのお言葉ばかりで沢山、有難うございます、早速娘に申し聞けましたら、嘸悦ぶ事でしょう、これがね殿様が孝助に一応申し聞けて返事をするなどと仰しゃると、又娘が心配して、仮令殿様が下さる気でも孝助殿が何うだかなどゝ申しましょうが、そうはっきり事が定れば、娘は嬉しがって飯の五六杯位も食べられ、一足飛に病気も全快致しましょう、善は急げの譬で、明日御番帰りに結納の取りかわせを致しとう存じますから、どうか孝助殿をお供に連れてお出で下さい、娘にも一寸逢わせたい」 飯「まア一献差上げるから」  と云っても相川は大喜びで、汗をダク〳〵流し、早く娘に此の事を聞かせとうございますから、今日はお暇を申しましょうと云いながら、帰ろうとして、 「アイタ、柱に頭をぶっつけた」 飯「そゝっかしいから誰か見て上げな」  飯島平左衞門も心嬉しく、鼻高々と、 飯「孝助を呼べ」 國「孝助は不快で引いて居ります」 飯「不快でも宜しい、一寸呼んでまいれ」 國「お竹どん〳〵、孝助を一寸呼んでおくれ、殿様が御用がありますと」 竹「孝助どん〳〵、殿様が召しますよ」 孝「へい〳〵只今上ります」  と云ったが、額の疵があるから出られません。けれども忠義の人ゆえ、殿様の御用と聞いて額の疵も打忘れて出て参りました。 飯「孝助此処へ来い〳〵、皆あちらへ参れ、誰もまいる事はならんぞ」 孝「大分お熱うございます、殿さまは毎日の御番疲れもありは致すまいかと心配をいたして居ります」 飯「其方は加減がわるいと云って引籠っているそうだが、どうじゃナ、手前に少し話したいことがあって呼んだのだ、外の事でもないが、水道端の相川におとくという今年十八になる娘があるナ、器量も人並に勝れ殊に孝行もので、あれが手前の忠義の志に感服したと見えて、手前を思い詰め、煩っているくらいな訳で、是非手前を養子にしたいとの頼みだから行ってやれ」  と孝助の顔を見ると、額に傷があるから、 飯「孝助どう致した、額の疵は」 孝「へい〳〵」 飯「喧嘩でもしたか、不埓な奴だ、出世前の大事の身体、殊に面体に疵を受けているではないか、私の遺恨で身体に疵を付けるなどとは不忠者め、是が一人前の侍なれば再び門を跨いで邸へ帰る事は出来ぬぞ」 孝「喧嘩を致したのではありません、お使い先で宮邊様の長家下を通りますと、屋根から瓦が落ちて額に中り、斯様に怪我を致しました、悪い瓦でございます、お目障りに成って誠に恐入ります」 飯「屋根瓦の傷ではない様だ、まアどうでもいゝが、併し必ず喧嘩などをして疵を受けてはならんぞ、手前は真直な気性だが、向うが曲って来れば真直に行く事は出来まい、それだから其処を避けて通るようにすると広い所へ出られるものだ、何でも堪忍をしなければいけんぞ、堪忍の忍の字は刃の下に心を書く、一ツ動けばむねを斬るごとく何でも我慢が肝心だぞよ、奉公するからは主君へ上げ置いた身体、主人へ上げると心得て忠義を尽すのだ、決して軽挙の事をするな、曲った奴には逆うなよ」  という意見が一々胸に堪えて、孝助は唯へい〳〵有難うございますと泣々、 孝「殿様来月四日に中川へ釣に入っしゃると承わりましたが、此の間お嬢様がお亡くなり遊ばして間もない事でございますから、何うか釣をお止め下さいますように、若しもお怪我があってはいけませんから」 飯「釣が悪ければやめようよ、決して心配するな、今云った通り相川へ行ってやれよ」 孝「何方へかお使に参りますのですか」 飯「使じゃアない、相川の娘が手前を見染めたから養子に行って遣れ」 孝「へえ成程、相川様へどなたが御養子になりますのです」 飯「なアに手前が往くのだ」 孝「私はいやでございます」 飯「べらぼうな奴だ手前の身の出世になる事だ、是ほど結構な事はあるまい」 孝「私は何時までも殿様の側に生涯へばり附いております、ふつゝかながら片時も殿さまのお側を放さずお置き下さい」 飯「そんな事を云っては困るよ、己がもう請けをした、金打をしたから仕方がない」 孝「金打をなすッてもいけません」 飯「それじゃア己が相川に済まんから腹を切らんければならん」 孝「腹を切っても構いません」 飯「主人の言葉を背くならば永の暇を出すぞ」 孝「お暇に成っては何にもならん、そういう訳でございますならば、ちょっと一言ぐらい斯う云う訳だと私にお話し下さっても宜しいのに」 飯「それは己が悪かった、此の通り板の間へ手を突いて謝るから行ってやれ」 孝「そう仰しゃるなら仕方がありませんから取極めだけして置いて、身体は十年が間参りますまい」 飯「そんな事が出来るものか、翌日結納を取交わす積りだ、向うでも来月初旬に婚礼を致す積りだ」  との事を聞いて孝助の考えまするに、己が養子にゆけば、お國と源次郎と両人で殿様を殺すに違いないから、今夜にも両人を槍で突殺し、其の場で己も腹掻切って死のうか、そうすれば是が御主人様の顔の見納め、と思えば顔色も青くなり、主人の顔を見て涙を流せば、 飯「解らん奴だな、相川へ参るのはそんなに厭か、相川はつい鼻の先の水道端だから毎日でも往来の出来る所、何も気遣う事はない、手前は気強いようでもよく泣くなア、男子たるべきものがそんな意気地がない魂ではいかんぞ」 孝「殿様私は御当家様へ三月五日に御奉公に参りましたが、外に兄弟も親もない奴だと仰しゃって目を掛けて下さる、其の御恩の程は私は死んでも忘れは致しませんが、殿様はお酒を召上ると正体なく御寝なさる、又召上らなければ御寝なられません故、少し上って下さい、余りよく御寝なると、どんな英雄でも、随分悪者の為に如何なる目に逢うかも知れません、殿様決して御油断はなりません、私はそれが心配でなりません、それから藤田様から参りましたお薬は、どうか隔日に召上って下さい」 飯「なんだナ、遠国へでも行くような事を云って、そんな事は云わんでもいゝわ」         八  萩原の家で女の声がするから、伴藏が覗いて恟りし、ぞっと足元から総毛立ちまして、物をも云わず勇齋の所へ駆込もうとしましたが、怖いから先ず自分の家へ帰り、小さくなって寝てしまい、夜の明けるのを待兼て白翁堂の宅へやって参り、 伴「先生々々」 勇「誰だのウ」 伴「伴藏でごぜえやす」 勇「なんだのウ」 伴「先生一寸こゝを明けて下さい」 勇「大層早く起きたのウ、お前には珍らしい早起だ、待て〳〵今明けてやる」  と掛鐶を外し明けてやる。 伴「大層真暗ですねえ」 勇「まだ夜が明けきらねえからだ、それに己は行灯を消して寝るからな」 伴「先生静かにおしなせえ」 勇「手前が慌てゝいるのだ、なんだ何しに来た」 伴「先生萩原さまは大変ですよ」 勇「何うかしたか」 伴「何うかしたかの何のという騒ぎじゃございやせん、私も先生も斯うやって萩原様の地面内に孫店を借りて、お互いに住っており、其の内でも私は尚お萩原様の家来同様に畑をうなったり庭を掃いたり、使い早間もして、嚊は洒ぎ洗濯をしておるから、店賃もとらずに偶には小遣を貰ったり、衣物の古いのを貰ったりする恩のある其の大切な萩原様が大変な訳だ、毎晩女が泊りに来ます」 勇「若くって独身者でいるから、随分女も泊りに来るだろう、併し其の女は人の悪いようなものではないか」 伴「なに、そんな訳ではありません、私が今日用が有って他へ行って、夜中に帰ってくると、萩原様の家で女の声がするから一寸覗きました」 勇「わるい事をするな」 伴「するとね、蚊帳がこう吊ってあって、其の中に萩原様と綺麗な女がいて、其の女が見捨てゝくださるなというと、生涯見捨てはしない、仮令親に勘当されても引取って女房にするから決して心配するなと萩原様がいうと、女が私は親に殺されてもお前さんの側は放れませんと、互いに話しをしていると」 勇「いつまでもそんな所を見ているなよ」 伴「ところがねえ、其の女が唯の女じゃアないのだ」 勇「悪党か」 伴「なに、そんな訳じゃアない、骨と皮ばかりの痩せた女で、髪は島田に結って鬢の毛が顔に下り、真青な顔で、裾がなくって腰から上ばかりで、骨と皮ばかりの手で萩原様の首ったまへかじりつくと、萩原様は嬉しそうな顔をしていると其の側に丸髷の女がいて、此奴も痩て骨と皮ばかりで、ズッと立上って此方へくると、矢張裾が見えないで、腰から上ばかり、恰で絵に描いた幽霊の通り、それを私が見たから怖くて歯の根も合わず、家へ逃げ帰って今まで黙っていたんだが、何ういう訳で萩原様があんな幽霊に見込まれたんだか、さっぱり訳が分りやせん」 勇「伴藏本当か」 伴「ほんとうか嘘かと云って馬鹿〳〵しい、なんで嘘を云いますものか、嘘だと思うならお前さん今夜行って御覧なせえ」 勇「己アいやだ、ハテナ昔から幽霊と逢引するなぞという事はない事だが、尤も支那の小説にそういう事があるけれども、そんな事はあるべきものではない、伴藏嘘ではないか」 伴「だから嘘なら行って御覧なせえ」 勇「もう夜も明けたから幽霊なら居る気遣いはない」 伴「そんなら先生、幽霊と一緒に寝れば萩原様は死にましょう」 勇「それは必ず死ぬ、人は生きている内は陽気盛んにして正しく清く、死ねば陰気盛んにして邪に穢れるものだ、それゆえ幽霊と共に偕老同穴の契を結べば、仮令百歳の長寿を保つ命も其のために精血を減らし、必ず死ぬるものだ」 伴「先生、人の死ぬ前には死相が出ると聞いていますが、お前さん一寸行って萩原様を見たら知れましょう」 勇「手前も萩原は恩人だろう、己も新三郎の親萩原新左衞門殿の代から懇意にして、親御の死ぬ時に新三郎殿の事をも頼まれたから心配しなければならない、此の事は決して世間の人に云うなよ」 伴「えゝ〳〵嚊にも云わない位な訳ですから、何で世間へ云いましょう」 勇「屹度云うなよ、黙っておれ」  其の内に夜もすっかり明け放れましたから、親切な白翁堂は藜の杖をついて、伴藏と一緒にポク〳〵出懸けて、萩原の内へまいり、 「萩原氏々々」 新「何方様でございます」 勇「隣の白翁堂です」 新「お早い事、年寄は早起だ」  なぞと云いながら戸を引明け 「お早う入らっしゃいました、何か御用ですか」 勇「貴方の人相を見ようと思って来ました」 新「朝っぱらから何でございます、一つ地面内におりますから何時でも見られましょうに」 勇「そうでない、お日さまのお上りになろうとする所で見るのが宜いので、貴方とは親御の時分から別懇にした事だから」  と懐より天眼鏡を取出して、萩原を見て。 新「なんですねえ」 勇「萩原氏、貴方は二十日を待たずして必ず死ぬ相がありますよ」 新「へえ私が死にますか」 勇「必ず死ぬ、なか〳〵不思議な事もあるもので、どうも仕方がない」 新「へえそれは困った事で、それだが先生、人の死ぬ時はその前に死相の出るという事は予ねて承わって居り、殊に貴方は人相見の名人と聞いておりますし、又昔から陰徳を施して寿命を全くした話も聞いていますが、先生どうか死なゝい工夫はありますまいか」 勇「其の工夫は別にないが、毎晩貴方の所へ来る女を遠ざけるより外に仕方がありません」 新「いゝえ、女なんぞは来やアしません」 勇「そりゃアいけない、昨夜覗いて見たものがあるのだが、あれは一体何者です」 新「あなた、あれは御心配をなさいまする者ではございません」 勇「是程心配になる者はありません」 新「ナニあれは牛込の飯島という旗下の娘で、訳あってこの節は谷中の三崎村へ、米という女中と二人で暮しているも、皆な私ゆえに苦労するので、死んだと思っていたのに此の間図らず出逢い、其の後は度々逢引するので、私はあれを行く〳〵は女房に貰う積りでございます」 勇「飛んでもない事をいう、毎晩来る女は幽霊だがお前知らないのだ、死んだと思ったなら猶更幽霊に違いない、其のマア女が糸のように痩せた骨と皮ばかりの手で、お前さんの首ッたまへかじり付くそうだ、そうしてお前さんは其の三崎村にいる女の家へ行った事があるか」  といわれて行った事はない、逢引したのは今晩で七日目ですが。というものゝ、白翁堂の話に萩原も少し気味が悪くなったゆえ顔色を変え。 新「先生、そんなら是から三崎へ行って調べて来ましょう」  と家を立出で、三崎へ参りて、女暮しで斯ういう者はないかと段々尋ねましたが、一向に知れませんから、尋ねあぐんで帰りに、新幡随院を通り抜けようとすると、お堂の後に新墓がありまして、それに大きな角塔婆が有って、その前に牡丹の花の綺麗な灯籠が雨ざらしに成ってありまして、此の灯籠は毎晩お米が点けて来た灯籠に違いないから、新三郎はいよ〳〵訝しくなり、お寺の台所へ廻り、 新「少々伺いとう存じます、あすこの御堂の後に新らしい牡丹の花の灯籠を手向けてあるのは、あれは何方のお墓でありますか」 僧「あれは牛込の旗下飯島平左衞門様の娘で、先達て亡くなりまして、全体法住寺へ葬むる筈のところ、当院は末寺じゃから此方へ葬むったので」 新「あの側に並べてある墓は」 僧「あれはその娘のお附の女中で是も引続き看病疲れで死去いたしたから、一緒に葬られたので」 新「そうですか、それでは全く幽霊で」 僧「なにを」 新「なんでも宜しゅうございます、左様なら」  と云いながら恟りして家に駈け戻り此の趣を白翁堂に話すと、 勇「それはまア妙な訳で、驚いた事だ、なんたる因果な事か、惚れられるものに事を替えて幽霊に惚れられるとは」 新「何うもなさけない訳でございます、今晩もまたまいりましょうか」 勇「それは分らねえな、約束でもしたかえ」 新「へえ、あしたの晩屹度来ると、約束をしましたから、今晩何うか先生泊って下さい」 勇「真平御免だ」 新「占いでどうか来ないようになりますまいか」 勇「占いでは幽霊の所置は出来ないが、あの新幡随院の和尚は中々に豪い人で、念仏修業の行者で私も懇意だから手紙をつけるゆえ、和尚の所へ行って頼んで御覧」  と手紙を書いて萩原に渡す。萩原はその手紙を持ってやってまいり、 「何うぞ此の書面を良石和尚様へ上げて下さいまし」  と、差出すと、良石和尚は白翁堂とは別ならぬ間柄ゆえ、手紙を見て直に萩原を居間へ通せば、和尚は木綿の座蒲団に白衣を着て、其の上に茶色の衣を着て、当年五十一歳の名僧、寂寞としてちゃんと坐り、中々に道徳いや高く、念仏三昧という有様で、新三郎は自然に頭が下る。 良「はい、お前が萩原新三郎さんか」 新「へえ粗忽の浪士萩原新三郎と申します、白翁堂の書面の通り、何の因果か死霊に悩まされ難渋を致しますが、貴僧の御法を以て死霊を退散するようにお願い申します」 良「此方へ来なさい、お前に死相が出たという書面だが、見てやるから此方へ来なさい、成程死ぬなア近々に死ぬ」 新「何うかして死なゝいように願います」 良「お前さんの因縁は深しい訳のある因縁じゃが、それをいうても本当にはせまいが、何しろ口惜くて祟る幽霊ではなく、只恋しい〳〵と思う幽霊で、三世も四世も前から、ある女がお前を思うて生きかわり死にかわり、容は種々に変えて附纒うて居るゆえ、遁れ難い悪因縁があり、どうしても遁れられないが、死霊除のために海音如来という大切の守りを貸してやる、其の内に折角施餓鬼をしてやろうが、其のお守は金無垢じゃに依って人に見せると盗まれるよ、丈は四寸二分で目方も余程あるから、慾の深い奴は潰しにしても余程の値だから盗むかも知れない、厨子ごと貸すにより胴巻に入れて置くか、身体に脊負うておきな、それから又こゝにある雨宝陀羅尼経というお経をやるから読誦しなさい、此の経は宝を雨ふらすと云うお経で、是を読誦すれば宝が雨のように降るので、慾張たようだが決してそうじゃない、是を信心すれば海の音という如来さまが降って来るというのじゃ、この経は妙月長者という人が、貧乏人に金を施して悪い病の流行る時に救ってやりたいと思ったが、宝がないから仏の力を以て金を貸してくれろと云った所が、釋迦がそれは誠に心懸の尊い事じゃと云って貸したのが即ちこのお経じゃ、又御札をやるから方々へ貼って置いて、幽霊の入り所のないようにして、そしてこのお経を読みなさい」  と親切の言葉に萩原は有がたく礼を述べて立帰り、白翁堂に其の事を話し、それから白翁堂も手伝って其の御札を家の四方八方へ貼り、萩原は蚊帳を吊って其の中へ入り、彼の陀羅尼経を読もうとしたが中々読めない。曩謨婆誐嚩帝嚩囉駄囉、婆誐囉捏具灑耶、怛陀孽多野、怛儞也陀唵素噌閉、跋捺囉嚩底。矒誐〓(「口+「隸」の「木」に代えて「ヒ」)阿左〓(「口+「隸」の「木」に代えて「ヒ」)阿左跛〓(「口+「隸」の「木」に代えて「ヒ」74-2)。何だか外国人の譫語の様で訳がわからない。其の中上野の夜の八ツの鐘がボーンと忍ヶ岡の池に響き、向ヶ岡の清水の流れる音がそよ〳〵と聞え、山に当る秋風の音ばかりで、陰々寂寞世間がしんとすると、いつもに変らず根津の清水の下から駒下駄の音高くカランコロン〳〵とするから、新三郎は心のうちで、ソラ来たと小さくかたまり、額から腮へかけて膏汗を流し、一生懸命一心不乱に雨宝陀羅尼経を読誦して居ると、駒下駄の音が生垣の元でぱったり止みましたから、新三郎は止せばいゝに念仏を唱えながら蚊帳を出て、そっと戸の節穴から覗いて見ると、いつもの通り牡丹の花の灯籠を下げて米が先へ立ち、後には髪を文金の高髷に結い上げ、秋草色染の振袖に燃えるような緋縮緬の長襦袢、其の綺麗なこと云うばかりもなく、綺麗ほど猶怖く、これが幽霊かと思えば、萩原は此の世からなる焦熱地獄に落ちたる苦しみです、萩原の家は四方八方にお札が貼ってあるので、二人の幽霊が憶して後へ下り、 米「嬢さまとても入れません、萩原さんはお心変りが遊ばしまして、昨晩のお言葉と違い、貴方を入れないように戸締りがつきましたから、迚も入ることは出来ませんからお諦め遊ばしませ、心の変った男は迚も入れる気遣いはありません、心の腐った男はお諦めあそばせ」  と慰むれば、 嬢「あれ程迄にお約束をしたのに、今夜に限り戸締りをするのは、男の心と秋の空、変り果てたる萩原様のお心が情ない、米や、どうぞ萩原様に逢わせておくれ、逢わせてくれなければ私は帰らないよ」  と振袖を顔に当て、潜々と泣く様子は、美しくもあり又物凄くもなるから、新三郎は何も云わず、只だ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。 米「お嬢様、あなたが是程までに慕うのに、萩原様にゃアあんまりなお方ではございませんか、若しや裏口から這入れないものでもありますまい、入らっしゃい」  と手を取って裏口へ廻ったが矢張這入られません。         九  飯島の家では妾のお國が、孝助を追出すか、しくじらするように種々工夫を凝し、この事ばかり寝ても覚めても考えている、悪い奴だ。殿様は翌日御番でお出向に成った後へ、隣家の源次郎がお早うと云いながらやって来ましたから、お國はしらばっくれて、 國「おや、いらっしゃいまし、引続きまして残暑が強く皆様御機嫌よろしゅう、此方は風がよく入りますからいらっしゃいまし」  源次郎は小声になり、 「孝助は昨夜の事を喋りはしないかえ」 國「いえサ、孝助が屹度告口をしますだろうと思いましたに、告口をしませんで、殿様に屋根瓦が落ちて頭へ当り怪我をしたと云ってね、其の時私は弓の折で打たれたと云わなければよいと胸が悸動しましたが、あの事は何とも云いませんが、云わずにいるだけ訝しいではありませんか」  と小声で云って、態と大声で、 國「お熱い事この節のように熱くっては仕方がありません」  又小声になり。 國「いえ、それに水道端の相川新五兵衞様の一人娘のお徳様が、宅の草履取の孝助に恋煩いをしているとサ、まア本当に茶人も有ったものですねえ、馬鹿なお嬢様だよ、それからあの相川の爺さんが汗をだく〳〵流しながら、殿様に願って孝助をくれろと頼むと、殿様も贔屓の孝助だから上げましょうと相談が出来まして、相川は帰りましたのですよ、そうして、今日は相川で結納の取交せになるのですとさ」 源「それじゃア宜しい、孝助が往って仕舞えば仔細はない」 國「いえサ、水道端の相川へ養子にやるのに、宅の殿様がお里に成って遣るのだからいけませんよ、そうすると、彼奴が此の家の息子の風をしましょう、草履取でさえ随分ツンケンした奴だから、そうなれば屹度この間の意趣を返すに違いはありません、何でも彼奴が一件を立聞したに違いないから、貴方何うかして孝助奴を殺して下さい」 源「彼奴は剣術が出来るから己には殺せないよ」 國「貴方は何故そう剣術がお下手だろうねえ」 源「いゝや、それには旨い事がある、相川のお嬢には宅の相助という若党が大層に惚れて居るから、彼を旨く欺し、孝助と喧嘩をさせて置き、後で喧嘩両成敗だから、己らの方で相助を追い出せば、伯父さんも義理で孝助を出すに違いないが、就いちゃア明日伯父様と一緒に帰って来ては困るが、孝助が独で先へ帰る訳には出来まいか」 國「それは訳なく出来ますとも、私が殿様に用がありますから先へ帰して下さいましといえば、屹度先へ帰して下さるに違いはありませんから、大曲りあたりで待伏せて彼奴をぽか〳〵お擲りなさい」  大声を出して、 國「誠におそう〳〵様で、左様なら」  源次郎は屋敷に帰ると直に男部屋へ参ると、相助は少し愚者で、鼻歌でデロレンなどを唄っている所へ源次郎が来て、 源「相助、大層精が出るのう」 相「オヤ御二男様、誠に日々お熱い事でございます、当年は別してお熱いことで」 源「熱いのう、其方は感心な奴だと常々兄上も褒めていらっしゃる、主用がなければ自用を足し、少しも身体に隙のない男だと仰しゃっている、それに手前は国に別段親族もない事だから、当家が里になり、大した所ではないが相応な侍の家へ養子にやる積りだよ」 相「恐れ入ります、何ともはや誠にどうも恐れ入りますなア、殿様と申し貴方と申し、不束な私をそれ程までに、これははや口ではお礼が述べきれましねえ、何ともヘイ分らなく有難うございます、それだが武士に成るにゃア私もいろはのいの字も知んねえもんだから誠に困るんで」 源「実は貴様も知っている水道端の相川のう、彼処にお徳という十八ばかりの娘があるだろう、貴様を彼処の養子に世話をしてやろうと兄上が仰しゃった」 相「これははやモウどうも、本当でごぜえますか、はやどうも、あのくれえなお嬢様は世間にはないと思います、頬辺などはぽっとして尻などがちま〳〵として、あのくれえな美いお嬢様はたんとはありましねえ」 源「向うは高が寡ないから、若党でも何でもよいから、堅い者なればというのだから、手前なれば極よかろうとあらまし相談が整った所が、隣の草履取の孝助めが胡麻をすった為に、縁談が破談となってしまった、孝助が相川の男部屋へ行ってあの相助はいけない奴で、大酒飲で、酒を飲むと前後を失ない、主人の見さかいもなく頭をぶち、女郎は買い、博奕は打ち、其の上盗人根性があると云ったもんだから、相川も厭気になり、話が縺れて、今度は到頭孝助が相川の養子になる事に極り、今日結納の取交せだとよ、向うでは草履取でさえ欲しがるところだから、手前なれば真鍮でも二本さす身だから、きっと宜かったに違いはない、孝助は憎い奴だ」 相「なんですと、孝助が養子になると、憎こい奴でごじいます、人の恋路の邪魔をすればッて、私が盗人根性があって、お負けに御主人の頭を打すと、何時私が御主人の頭を打しました」 源「己に理窟を云っても仕方がない」 相「残念、腹が立ちますよ、憎こい孝助だ。只置きましねえ」 源「喧嘩しろ〳〵」 相「喧嘩しては叶いましねえ、彼奴は剣術が免許だから剣術は迚も及びましねえ」 源「それじゃア田中の中間の喧嘩の龜藏という奴で、身体中疵だらけの奴がいるだろう、彼と藤田の時藏と両人に鼻薬をやって頼み、貴様と三人で、明日孝助が相川の屋敷から一人で出て来る所を、大曲りで打殺しても構わないから、ぽか〳〵擲りにして川へ投りこめ」 相「殺すのは可愛相だが、打してやりてえなア、だが喧嘩をした事が知れゝば何うなりますか」 源「そうさ、喧嘩をした事が知れゝば、己が兄上にそう云うと、兄上は屹度不届な奴、相助を暇にしてしまうと仰しゃってお暇に成るだろう」 相「お暇に成っては詰りましねえ、止しましょう」 源「だがのう、此方で貴様に暇を出せば、隣でも義理だから孝助に暇を出すに違いない、彼奴が暇になれば相川でも孝助は里がないから養子に貰う気遣いはない、其の内此方では手前を先へ呼返して相川へ養子にやる積だ」 相「誠にお前様、御親切が恐れ入り奉ります」  というから、源次郎は懐中より金子若干を取出し、 源「金子をやるから龜藏たちと一杯呑んでくれ」 相「これははや金子まで、これ戴いてはすみましねえ、折角の思召しだから頂戴いたして置きます」  これから相助は龜藏と時藏の所へ往き此の事を話すと、面白半分にやッつけろと、手筈の相談を取極めました。さて飯島平左衞門はそんな事とは知らず、孝助を供につれ、御番からお帰りに成りました。 國「殿様今日は相川様の所へ孝助の結納でお出でになりますそうですが、少しお居間の御用が有りますからお送り申したら、孝助は殿様よりお先へお帰し下さいまし、用が済み次第直に又お迎いに遣わしましょう」  という飯島は 「よし〳〵」  と孝助を連れて相川の宅へ参りましたが相川は極小さい宅で、 孝「お頼み申します〳〵」 相「ドーレ、これ善藏や玄関に取次が有るようだ、善藏居ないか、何処へ行ったんだ」 婆「あなた、善藏はお使いにおやり遊ばしたではありませんか」 相「己が忘れた、牛込の飯島様がお出でに成ったのかも知れない、煙草盆へ火を入れてお茶の用意をして置きな、多分孝助殿も一緒に来たかも知れないから、お徳に其の事を云いな、これ〳〵お前よく支度をして置け、己が出迎いをしよう」  と玄関まで出て参り、 相「これは殿様大分お早くどうぞ直にお上りを願います、へい誠に此の通り見苦しい所孝助殿も、御挨拶は後でします」  相川はいそ〳〵と一人で喜び、コッツリと柱に頭を打付け、アイタヽ、兎に角此方へと座敷へ通し、 「さて残暑お熱い事でございます、又昨日は上りまして御無理を願ったところ、早速にお聞済み下され有がとう存じます」 飯「昨日はお草々を申しました、如何にもお急ぎなさいましたから御酒も上げませんで、大きにお草々申上げました」 相「あれから帰りまして娘に申し聞けまして、殿様がお承知の上孝助殿を聟にとる事に極って、明日は殿様お立合の上で結納取交せになると云いますと、娘は落涙をして悦びました、と云うと浮気の様ですが、そうではない、お父様を大事に思うからとは云いながら、只今まで御苦労を掛けましたと申しますから、早く丈夫にならなければいけない孝助殿が来るからと申して、直に薬を三服立付けて飲ませました、それからお粥を二膳半食べました、それから今日はナ娘がずっと気分が癒って、お父様こんなに見苦しい形でいては、孝助さまに愛想を尽かされるといけませんからというので、化粧をする、婆アもお鉄漿を附けるやら大変です、私も最早五十五歳ゆえ早く養子をして楽がしたいものですから、誠に耻入った次第でございますが、早速のお聞済み、誠に有難う存じます」 飯「あれから孝助に話しましたところ、当人も大層に悦び、私の様な不束者をそれ程までに思召し下さるとは冥加至極と申してナ、大概当人も得心いたした様子でな」 相「いやもう、あの人は忠義だから否でも殿様の仰しゃる事なら唯と云って言う事を聞きます、あの位な忠義な人はない、旗下八万騎の多い中にも恐らくはあの位な者は一人もありますまい、娘がそれを見込みましたのだ、善藏はまだ帰らないか、これ婆ア」 婆「なんでございます」 相「殿様に御挨拶をしないか」 婆「御挨拶をしようと思っても、貴方がせか〳〵している者だから御挨拶する間もありはしません、殿様、御機嫌様よう入っしゃいました」 飯「これは婆やア、お徳様が長い間御病気の所、早速の御全快誠にお目でたい、お前も心配したろう」 婆「お蔭様で、私はお嬢様のお少さい時分からお側にいて、お気性も知って居りますのに何とも仰しゃらず、漸と此の間分ったので殿様に御苦労をかけました、誠に有がとうございます」 相「善藏はまだ帰らないか、長いなア、お菓子を持って来い、殿様御案内の通り手狭でございますから、何かちょっと尾頭附で一献差上げたいが、まアお聞き下さい、此の通り手狭ですからお座敷を別にする事も出来ませんから、孝助殿も此処へ一緒にいたし、今日は無礼講で御家来でなく、どうか御同席で御酒を上げたい、孝助は私が出迎えます」 飯「なに私が呼びましょう」 相「ナアニあれは私の大事な聟で、死水を取ってもらう大事な養子だから」  と立上り、玄関まで出迎え、 相「孝助殿誠に宜く、いつもお健に御奉公、今日はナ無礼講で、殿様の側で御酒、イヤなに酒は呑めないから御膳を一寸上げたい」 孝「是は相川様御機嫌よろしゅう、承ればお嬢様は御不快の御様子、少しはお宜しゅうございますか」 相「何を云うのだお前の女房をお嬢様だのお宜しいもないものだ」 飯「そんな事を云うと孝助が間を悪るがります、孝助折角の思召し、御免を蒙って此方へ来い」 相「成程立派な男で、中々フウ、へえ、さて昨日は殿様に御無理を願い早速お聞済み下さいましたが、高は寡なし娘は不束なり、舅は知っての通りの粗忽者、実に何と云って取る所はないだろうが、娘がお前でなければならないと煩う迄に思い詰めたというと、浮気なようだが然うではない、あれが七歳の時母が死んで、それから十八まで私が育った者だから、あれも一人の親だと大事に思い、お前の心がけのよい、優しく忠義な所を見て思い詰め病となった程だ、どうかあんな奴でも見捨てずに可愛がってやっておくれ、私は直にチョコ〳〵と隠居して、隅の方へ引込んでしまうから、時々少々ずつ小遣をくれゝばいゝ、それから外に何もお前に譲る物はないが、藤四郎吉光の脇差が有る、拵えは野暮だが、それだけは私の家に付いた物だからお前に譲る積りだ、出世はお前の器量にある」 飯「そういうと孝助が困るよ、孝助も誠に有難い事だが、少し仔細があって、今年一ぱい私の側で奉公したいと云うのが当人の望だから、どうか当年一ぱいは私の手元に置いて、来年の二月に婚礼をする事に致したい、尤も結納だけは今日致して置きます」 相「へい来年の二月では今月が七月だから、七八九十十一十二正二と今から八ヶ月間があるが、八ヶ月では質物でも流れて仕舞うから、余り長いなア」 飯「それは深い訳が有っての事で」 相「成程、あゝ感服だ」 飯「お分りに成りましたか」 相「それだから孝助に娘の惚れるのも尤もだ、娘より私が先へ惚れた、それは斯うでしょう、今年一ぱい貴方のお側で剣術を習い、免許でも取るような腕に成る積りだろう、是れは然うなくてはならない、孝助殿の思うにはなんぼ自分が怜悧でも器量があるにした処が、少なくも禄のある所へ養子にくるのだから土産がなくてはおかしいと云うので、免許か目録の書付を握って来る気だろう、それに違いない、あゝ感服、自分を卑下した所が偉いねえ」 孝「殿様、私は一寸お屋敷へ帰って参ります」 相「行くのは御主用だから仕方がないが、何もないが一寸御膳を上げます少し待ってお呉れ、善藏まだか、長いのう、だが孝助殿、又直に帰って来るだろうが主用だから来られないかも知れないから、一寸奥の六畳へ行って徳に逢ってやっておくれ、徳が今日はお白粉を粧けて待っていたのだから、お前に逢わないと粧けたお白粉が徒になってしまう」 飯「そう仰しゃると孝助が間をわるがります」 相「兎に角アレサどうか一寸逢わせて」 飯「孝助あゝ仰しゃるものだから一寸お嬢様にお目通りして参れ、まだ此方へ来ない間は、手前は飯島の家来孝助だ、相川のお嬢様の所へ御病気見舞に行くのだ、何をうじ〳〵している、お嬢様の御病気を伺って参れ」  といわれ孝助は間を悪がってへい〳〵云っていると、 婆「此方へどうぞ、御案内を致します」  とお徳の部屋へ連れて来る。 孝「これはお嬢様長らく御不快の処、御様子は如何様でございますか、お見舞を申し上げます」 婆「孝助様どうかお目を掛けられて下さいまし、お嬢様孝助様が入らっしゃいましたよ、アレマア真赤に成って、今まで貴方が御苦労をなすったお方じゃアありませんか、孝助様がお出でに成ったらお怨を云うと仰しゃったに、唯真赤に成ってお尻で御挨拶なすってはいけません」 孝「お暇を申します」  と挨拶をして主人の所へ参り、 孝「一旦御用を達して、早く済みましたら又上ります」 相「困ったねえ、暗くなったが何が有るかえ」 孝「何がとは」 相「何サ提灯があるかえ」 孝「提灯は持って居ります」 相「何が無いと困るがあるかえ、何サ蝋燭があるかえ、何有るとえ、そんなら宜しい」  孝助は暇乞をして相川の邸を立出で、大曲りの方を通れば、前に申した三人が待伏をして居るのだが、孝助の運が強かったと見え、隆慶橋を渡り、軽子坂から邸へ帰って来た。 孝「只今帰りました」  というからお國は驚いた。なんでも今頃は孝助が大曲り辺で、三人の中間に真鍮巻の木刀で打たれて殺されたろうと思っている所へ、平常の通りで帰って来たから、 國「おや〳〵どうして帰ったえ」 孝「貴方様がお居間の御用があるから帰れと仰しゃったから帰って参りました」 國「何処から何うお帰りだ」 孝「水道端を出て隆慶橋を渡り、軽子坂を上って帰って来ました」 國「そうかえ、私ゃ又今日は相川様でお前を引留めて帰る事が出来まいと思ったから、御用は済ませて仕舞ったから、お前は直に殿様のお迎いに行っておくれ、そして若しお前がお迎いに行かない間にお帰りになるかも知れないよ、お前外の道を行って、途中でお目に懸らないといけない、殿様は何時でも大曲りの方をお通りになるから、あっちの方から行けば途中で殿様にお目に懸るかも知れない、直に行っておくれ」 孝「へい、そんなら帰らなければよかった」  と再び屋敷を立出で、大曲りへかゝると、中間三人は手に〳〵真鍮巻の木刀を捻くり待ちあぐんでいたのも道理、来ようと思う方から来ないで、後の方から花菱の提灯を提げて来るのを見付け、慥に孝助と思い、相助はズッと進んで、 相「やい待て」 孝「誰だ、相助じゃねえか」 相「おゝ相助だ、貴様と喧嘩しょうと思って待っていたのだ」 孝「何をいうのだ、唐突に、貴様と喧嘩する事は何もねえ」 相「汝れ相川様へ胡麻アすりやアがって、己の養子になる邪魔をした、そればかりでなくおれの事を盗人根性があると云やアがったろう、どう云う訳で胡麻を摺って、手前があのお嬢様の処へ養子に行こうとする、憎い奴、外の事とは違う、盗人根性があると云ったから喧嘩するから覚悟しろ」  と争って居る横合から、龜藏が真鍮巻の木刀を持って、いきなり孝助の持っている提灯を叩き落す、提灯は地に落ちて燃え上る。 龜「手前は新参者の癖に、殿様のお気に入りを鼻に懸け、大手を振って歩きやアがる、一体貴様は気に入らねえ奴だ、この畜生め」  と云いながら孝助の胸ぐらを取る。孝助は此奴等は徒党したのではないかと、透して向うを見ると、溝の縁に今一人踞んで居るから、孝助は予ねて殿様が教えて下さるには、敵手の大勢の時は慌てると怪我をする、寝て働くがいゝと思い、胸ぐらを取られながら、龜藏の油断を見て前袋に手がかゝるが早いか、孝助は自分の体を仰向けにして寝ながら、右の足を上げて龜藏の睾丸のあたりを蹴返せば、龜藏は逆筋斗を打って溝の縁へ投げ付けられるを、左の方から時藏相助が打ってかゝるを、孝助はヒラリと体を引外し、腰に差たる真鍮巻の木刀で相助の尻の辺をドンと打つ。相助打たれて気が逆上せ上るほど痛く、眼も眩み足もすわらず、ヒョロ〳〵と遁出し溝へ駆け込む。時藏も打たれて同じく溝へ落ちたのを見て、 孝「やい、何をしやアがるのだ、サア何奴でも此奴でも来い飯島の家来には死んだ者は一疋も居ねえぞ、お印物の提灯を燃やしてしまって、殿様に申訳がないぞ」 飯「まア〳〵もう宜しい、心配するな」 孝「ヘイ、これは殿様どうしてこゝへ、私がこんなに喧嘩をしたのを御覧遊ばして、又私が失錯るのですかなア」 飯「相川の方も用事が済んだから立帰って来たところ、此の騒ぎ、憎い奴と思い、見ていて手前が負けそうなら己が出て加勢をしようと思っていたが、貴様の力で追い散らして先ず宜かった、焼落ちた提灯を持って供をして参れ」  と主従連立って屋敷へお帰りに成ると、お國は二度恟りしたが、素知らぬ顔で此の晩は済んでしまい、翌朝になると隣の源次郎が済してやってまいり、 源「伯父様お早うございます」 飯「いや、大分お早いのう」 源「伯父様、昨晩大曲りで御当家の孝助と私共の相助と喧嘩を致し、相助はさん〴〵に打たれ、ほう〳〵の体で逃げ帰りましたが、兄上が大層に怒り、怪しからん奴だ、年甲斐もないと申して直に暇を出しました、就いては喧嘩両成敗の譬の通り、御当家の孝助も定めてお暇になりましょう、家来の身分として私の遺恨を以て喧嘩などをするとは以ての外の事ですから、兄の名代で一寸念の為めにお届にまいりました」 飯「それは宜しい、昨晩のは孝助は悪くはないのだ、孝助が私の供をして提灯を持って大曲りへ掛ると、田中の龜藏、藤田の時藏お宅の相助の三人が突然に孝助に打ってかゝり、供前を妨ぐるのみならず、提灯を打落とし、印物を燃しましたから、憎い奴、手打にしようと思ったが、隣づからの中間を切るでもないと我慢をしているうちに、孝助が怒って木刀で打散らしたのだから、昨夕のは孝助は少しも悪くはない、若し孝助に遺恨があるならばなぜ飯島に届けん、供先を妨げ怪しからん事だ、相助の暇に成るは当然だ、彼は暇を出すのが宜しい、彼奴を置いては宜しくありませんとお兄さまに申し上げな、是から田中、藤田の両家へも廻文を出して、時藏、龜藏も暇を出させる積りだ」  と云い放し、孝助ばかり残る事になりましたから、源次郎も当てが外れ、挨拶も出来ない位な始末で、何ともいう事が出来ず邸へ帰りました。         十  さて彼の伴藏は今年三十八歳、女房おみねは三十五歳、互に貧乏世帯を張るも萩原新三郎のお蔭にて、或時は畑を耘い、庭や表のはき掃除などをし、女房おみねは萩原の宅へ参り煮焚洒ぎ洗濯やお菜ごしらえお給仕などをしておりますゆえ、萩原も伴藏夫婦には孫店を貸しては置けど、店賃なしで住まわせて、折々は小遣や浴衣などの古い物を遣り、家来同様使っていました。伴藏は懶惰ものにて内職もせず、おみねは独りで内職をいたし、毎晩八ツ九ツまで夜延をいたしていましたが、或晩の事絞りだらけの蚊帳を吊り、この絞りの蚊帳というは蚊帳に穴が明いているものですから、処々観世縒で括ってあるので、其の蚊帳を吊り、伴藏は寝〓(「蓙」の左の「人」に代えて「口」)を敷き、独りで寝ていて、足をばた〳〵やっており、蚊帳の外では女房が頻りに夜延をしていますと、八ツの鐘がボンと聞え、世間はしんと致し、折々清水の水音が高く聞え、何となく物凄く、秋の夜風の草葉にあたり、陰々寂寞と世間が一体にしんと致しましたから、此の時は小声で話をいたしても宜く聞えるもので、蚊帳の中で伴藏が、頻りに誰かとこそ〳〵話をしているに、女房は気がつき、行灯の下影から、そっと蚊帳の中を差覗くと、伴藏が起上り、ちゃんと坐り、両手を膝についていて、蚊帳の外には誰か来て話をしている様子は、何だかはっきり分りませんが、何うも女の声のようだから訝しい事だと、嫉妬の虫がグッと胸へ込み上げたが、年若とは違い、もう三十五にもなる事ゆえ、表向に悋気もしかねるゆえ、余りな人だと思っているうちに、女は帰った様子ゆえ何とも云わず黙っていたが、翌晩も又来てこそ〳〵話を致し、斯ういう事が丁度三晩の間続きましたので、女房ももう我慢が出来ません、ちと鼻が尖がらかッて来て、鼻息が荒くなりました。 伴「おみね、もう寝ねえな」 みね「あゝ馬鹿々々しいやね、八ツ九ツまで夜延をしてさ」 伴「ぐず〳〵いわないで早く寝ねえな」 みね「えい、人が寝ないで稼いでいるのに、馬鹿々々しいからサ」 伴「蚊帳の中へへいんねえな」  おみねは腹立まぎれにズッと蚊帳をまくって中へ入れば。 伴「そんな這入りようがあるものか、なんてえ這入りようだ、突立って這入ッちゃア蚊が這入って仕ようがねえ」 みね「伴藏さん、毎晩お前の所へ来る女はあれはなんだえ」 伴「何でもいゝよ」 みね「何だかお云いなねえ」 伴「何でもいゝよ」 みね「お前はよかろうが私ゃ詰らないよ、本当にお前の為に寝ないで齷齪と稼いでいる女房の前も構わず、女なんぞを引きずり込まれては、私のような者でも余りだ、あれは斯ういう訳だと明かして云ってお呉れてもいゝじゃないか」 伴「そんな訳じゃねえよ、己も云おう〳〵と思っているんだが、云うとお前が怖がるから云わねえんだ」 みね「なんだえ怖がると、大方先の阿魔女が何かお前に怖もてゞ云やアがったんだろう、お前が嚊があるから女房に持つ事が出来ないと云ったら、そんなら打捨って置かないとか何とかいうのだろう、理不尽に阿魔女が女房のいる所へどか〳〵入って来て話なんぞをしやアがって、もし刃物三昧でもする了簡なら私はたゞは置かないよ」 伴「そんな者じゃアないよ、話をしても手前怖がるな、毎晩来る女は萩原様に極惚れて通って来るお嬢様とお附の女中だ」 みね「萩原様は萩原様の働きがあってなさる事だが、お前はこんな貧乏世帯を張っていながら、そんな浮気をして済むかえ、それじゃアお前が其のお附の女中とくッついたんだろう」 伴「そんな訳じゃないよ、実は一昨日の晩おれがうと〳〵していると、清水の方から牡丹の花の灯籠を提げた年増が先へ立ち、お嬢様の手を引いてずっと己の宅へ入って来た所が、なか〳〵人柄のいゝお人だから、己のような者の宅へこんな人が来る筈はないがと思っていると、其の女が己の前へ手をついて、伴藏さんとはお前さまでございますかというから、私が伴藏でごぜえやすと云ったら、あなたは萩原様の御家来かと聞くから、まア〳〵家来同様な訳でごぜえますというと、萩原様はあんまりなお方でございます、お嬢様が萩原様に恋焦れて、今夜いらっしゃいと慥にお約束を遊ばしたのに、今はお嬢様をお嫌いなすって、入れないようになさいますとは余りなお方でございます、裏の小さい窓に御札が貼ってあるので、どうしても這入ることが出来ませんから、お情に其の御札を剥してくださいましというから、明日屹度剥して置きましょう、明晩屹度お願い申しますと云ってずっと帰った、それから昨日は終日畠耘いをしていたが、つい忘れていると、其の翌晩又来て、何故剥して下さいませんというから、違えねえ、ツイ忘れやした、屹度明日の晩剥がして置きやしょうと云ってそれから今朝畠へ出た序に萩原様の裏手へ廻って見ると、裏の小窓に小さいお経の書いてある札が貼ってあるが、何してもこんな小さい所から這入ることは人間には出来る物ではねえが、予て聞いていたお嬢様が死んで、萩原様の所へ幽霊になって逢いに来るのがこれに相違ねえ、それじゃア二晩来たのは幽霊だッたかと思うと、ぞっと身の毛がよだつ程怖くなった」 みね「あゝ、いやだよ、おふざけでないよ」 伴「今夜はよもや来やアしめえと思っている所へ又来たア、今夜はおれが幽霊だと知っているから怖くッて口もきけず、膏汗を流して固まっていて、おさえつけられるように苦しかった、そうすると未だ剥してお呉んなさいませんねえ、何うしても剥しておくんなさいませんと、あなたまでお怨み申しますと、恐かねえ顔をしたから、明日は屹度剥しますと云って帰したんだ、それだのに手前に兎や角う嫉妬をやかれちゃア詰らねえよ、己は幽霊に怨みを受ける覚えはねえが、札を剥せば萩原様が喰殺されるか取殺されるに違えねえから、己はこゝを越してしまおうと思うよ」 みね「嘘をおつきよ、何ぼ何でも人を馬鹿にする、そんな事があるものかね」 伴「疑るなら明日の晩手前が出て挨拶をしろ、己は真平だ、戸棚に入って隠れていらア」 みね「そんなら本当かえ」 伴「本当も嘘もあるものか、だから手前が出なよ」 みね「だッて帰る時には駒下駄の音がしたじゃアないか」 伴「そうだが、大層綺麗な女で、綺麗程尚怖いもんだ、明日の晩己と一緒に出な」 みね「ほんとうなら大変だ、私ゃいやだよう」 伴「そのお嬢様が振袖を着て髪を島田に結上げ、極人柄のいゝ女中が丁寧に、己のような者に両手をついて、痩ッこけた何だか淋しい顔で、伴藏さんあなた……」 みね「あゝ怖い」 伴「あゝ恟りした、おれは手前の声で驚いた」 みね「伴藏さん、ちょいといやだよう、それじゃア斯うしておやりな、私達が萩原様のお蔭で何うやらこうやら口を糊して居るのだから、明日の晩幽霊が来たらば、おまえが一生懸命になって斯うおいいな、まことに御尤もではございますが、あなたは萩原様にお恨がございましょうとも、私共夫婦は萩原様のお蔭で斯うやっているので、萩原様に万一の事がありましては私共夫婦の暮し方が立ちませんから、どうか暮し方の付くようにお金を百両持って来て下さいまし、そうすれば屹度剥しましょうとお云いよ、怖いだろうがお前は酒を飲めば気丈夫になるというから、私が夜延をしてお酒を五合ばかり買っておくから、酔った紛れにそう云ったら何うだろう」 伴「馬鹿云え、幽霊に金があるものか」 みね「だからいゝやね、金をよこさなければお札を剥さないやね、それで金もよこさないでお札を剥さなけりゃア取殺すというような訳の分らない幽霊は無いよ、それにお前には恨のある訳でもなしさ、斯ういえば義理があるから心配はない、もしお金を持って来れば剥してやってもいゝじゃアないか」 伴「成程、あの位訳のわかる幽霊だから、そう云ったら得心して帰るかも知れねえ、殊によると百両持って来るものだよ」 みね「持って来たらお札を剥しておやりな、お前考えて御覧、百両あればお前と私は一生困りゃアしないよ」 伴「成程、こいつは旨え、屹度持って来るよ、こいつは一番やッつけよう」  と慾というものは怖しいもので、明る日は日の暮れるのを待っていました。そうこうする内に日も暮れましたれば、女房は私ゃ見ないよと云いながら戸棚へ入るという騒ぎで、彼是しているうち夜も段々と更けわたり、もう八ツになると思うから、伴藏は茶碗酒でぐい〳〵引っかけ、酔った紛れで掛合う積りでいると、其の内八ツの鐘がボーンと不忍の池に響いて聞えるに、女房は熱いのに戸棚へ入り、襤褸を被って小さく成っている。伴藏は蚊帳の中にしゃに構えて待っているうち、清水のもとからカランコロン〳〵と駒下駄の音高く、常に変らず牡丹の花の灯籠を提げて、朦朧として生垣の外まで来たなと思うと、伴藏はぞっと肩から水をかけられる程怖気立ち、三合呑んだ酒もむだになってしまい、ぶる〳〵慄えながらいると、蚊帳の側へ来て、伴藏さん〳〵というから、 伴「へい〳〵お出でなさいまし」 女「毎晩参りまして、御迷惑の事をお願い申して誠に恐れ入りますが、未だ今夜も御札が剥がれて居りませんので這入る事が出来ず、お嬢様がお憤かり遊ばし、私が誠に困りますから、どうぞ二人のものを不便と思召してあのお札を剥して下さいまし」  伴藏はガタ〳〵慄えながら、 伴「御尤さまでございますけれども、私共夫婦の者は、萩原様のお蔭様で漸く其の日を送っている者でございますから、萩原様のお体にもしもの事がございましては、私共夫婦のものが後で暮し方に困りますから、どうぞ後で暮しに困らないように百両の金を持って来て下さいましたらば直に剥しましょう」  と云うたびに冷たい汗を流し、やっとの思いで云いきりますと、両人は顔を見合せて、暫く首を垂れて考えて居ましたが。 米「お嬢様、それ御覧じませ、此のお方にお恨はないのに御迷惑をかけて済まないではありませんか、萩原様はお心変りが遊ばしたのだから、貴方がお慕いなさるのはお冗でございます、何うぞふッつりお諦めあそばして下さい」 露「米や、私ゃ何うしても諦める事は出来ないから、百目の金子を伴藏さんに上げて御札を剥がして戴き、何うぞ萩原様のお側へやっておくれヨウ〳〵」  といいながら、振袖を顔に押しあて潜々と泣く様子が実に物凄い有様です。 米「あなた、そう仰しゃいますが何うして私が百目の金子を持っておろう道理はございませんが、それ程までに御意遊ばしますから、どうか才覚をして、明晩持ってまいりましょうが、伴藏さん、まだ御札の外に萩原さまの懐に入れていらっしゃるお守は、海音如来様という有難い御守ですから、それが有っては矢張お側へまいる事が出来ませんから、何うか其の御守も昼の内にあなたの御工夫でお盗み遊ばして、外へお取捨を願いたいものでございますが、出来ましょうか」 伴「へい〳〵御守を盗みましょうが、百両は何うぞ屹度持って来てお呉んなせえ」 米「嬢様それでは明晩までお待ち遊ばせ」 露「米や又今夜も萩原様にお目にかゝらないで帰るのかえ」  と泣きながらお米に手を引かれてスウーと出て行きました。         十一  二十四日は飯島様はお泊り番で、お國は只寝ても覚めても考えるには、どうがなして宮野邊の次男源次郎と一つになりたい、就いては来月の四日に、殿様と源次郎と中川へ釣に行く約束がある故、源次郎に殿様を川の中へ突落させ、殺してしまえば、源次郎は飯島の家の養子になるまでの工夫は付いたものゝ、此の密談を孝助に立聞かれましたから、どうがな工夫をして孝助に暇を出すか、殿様のお手打にでもさせる工夫はないかと、いろ〳〵と考え、終いには疲れてとろ〳〵仮寝むかと思うと、ふと目が覚めて、と見れば、二間隔っている襖がスウーとあきます。以前は屋敷方にては暑中でも簾障子はなかったもので、縁側はやはり障子、中は襖で立て切ってありまするのが、サラ〳〵と開いたかと思うと、スラリ〳〵と忍び足で歩いて参り、又次のお居間の襖をスラリ〳〵と開けるから、お國はハテナ誰かまだ起きて居るかと思っていると、地袋の戸がガタ〳〵と音がしたかと思うと、錠を明ける音がガチ〳〵と聞えましたから、ハテナと思う内スウーットンと襖をしめ、ピシャリ〳〵と裾を引くような塩梅で台所の方へ出て行きますから、ハテ変な事だと思い、お國は気丈な女でありますから起上り、雪洞を点け行って見ると、誰もいないから、地袋の方を見ると戸が明け放してあって、お納戸縮緬の胴巻が外の方へ流れ出して居たのに驚いて調べて見ると、殿様のお手文庫の錠前を捻切り、胴巻の中に有った百目の金子が紛失いたしたに、さては盗賊かと思うと後が怖気立って憶するもので、お國も一時驚いたが、忽ち一計を考え出し、此の胴巻の金子の紛失したるを幸に、之を証拠として、孝助を盗賊に落し、殿様にたきつけて、お手打にさせるか暇を出すか、どの道かに仕ようと、其の胴巻を袂に入れ置き、臥床に帰って寝てしまい、翌日になっても知らぬ顔をしており、孝助には弁当を持たせて殿様のお迎いに出してやり、其の後へ源助という若党が箒を提げてお庭の掃除に出てまいりました。 國「源助どん」 源「へい〳〵お早うございます、いつも御機嫌よろしゅう、此の節は日中は大層いきれて凌ぎ兼ねます、今年のような酷しい事はございません、何うも暑中より酷しいようでございます」 國「源助どん、お茶がはいったから一杯飲みな」 源「へい有難うございます、お屋敷様は高台でございますから、余程風通しもよくて、へい御門は何うも悉く熱うございまする、へい、これは何うも有難うございまする、私は御酒をいたゞきませんからお茶は誠に結構で、時々お茶を戴きまするのは何よりの楽みでございまする」 國「源助どん、お前は八ヶ年前御当家へ来て中々正直者だが、孝助は三月の五日に当家へ御奉公に来たが、孝助は殿様の御意に入りを鼻にかけて、此の節は増長して我儘になったから、お前も一つ部屋にいて、時々は腹の立つ事もあるだろうねえ」 源「いえ〳〵何う致しまして、あの孝助ぐらいな善く出来た人間はございません、其の上殿様思いで、殿様の事と云うと気違のように成って働きます、年はまだ廿一だそうですが、中々届いたものでございます、そして誠に親切な事は私も感心致しました、先達て私の病気の時も孝助が夜ぴて寝ないで看病をしてくれまして、朝も眠むがらずに早くから起きて殿様のお供を致し、あの位な情合のある男はないと私は実に感心をしております」 國「それだからお前は孝助に誑されているのだよ、孝助はお前の事を殿様にどんなに胡麻をするだろう」 源「ヘエー胡麻をすりますか」 國「お前は知らないのかえ、此の間孝助が殿様に云付けるのを聞いていたら、源助は何うも意地が悪くて奉公がしにくい、一つ部屋にいるものだから、源助が新参ものと侮り、種々に苛め、私に何も教えて呉れませんで仕損るようにばかり致し、お茶がはいって旨しい物を戴いても、源助が一人で食べて仕舞って私にはくれません、本当に意地の悪い男だというものだから、殿様もお腹をお立ち遊ばして、源助は年甲斐もない憎い奴だ、今に暇を出そうと思っていると仰しゃったよ」 源「へい、これは何うも、孝助は途方もない事を云ったもので、これは何うも、私は孝助にそんな事をいわれる覚えはございません、おいしい物を沢山に戴いた時は、孝助殿お前は若いから腹が減るだろうと云って、皆な孝助にやって食べさせる位にしているのに何たる事でしょう」 國「そればかりじゃアないよ孝助は殿様の物を掠ねるから、お前孝助と一緒にいると今に掛り合いだよ」 源「へい何か盗りましたか」 國「へいたッて、お前は何も知らないから今に掛り合いになるよ、慥かに殿様の物を取った事を私は知っているよ、私は先刻から女部屋のものまで検めている位だから、お前はちょっと孝助の文庫をこゝへ持って来ておくれ」 源「掛り合いに成っては困ります」 國「夫は私が宜いように殿様に申上げて置いたから、そっと孝助の文庫を持って来な」  といわれて、源助はもとより人が好いからお國に奸策あるとは知らず、部屋へ参りて孝助の文庫を持って参ってお國の前へ差出すと、お國は文庫の蓋を明け、中を検める振をしてそっと彼のお納戸縮緬の胴巻を袂から取出して中へズッと差込んで置いて。 國「呆れたよ、殿様の大事な品がこゝに入っているんだもの、今に殿様がお帰りの上で目張りこで皆の物を検めなければ、私のお預りの品が失なったのだから、私が済まないよ、屹度詮議を致します」 源「へい、人は見かけによらないものでございますねえ」 國「此の文庫を見た事を黙っておいでよ」 源「へい宜しゅうございます」  と文庫を持って立帰り、元の棚へ上げて置きました。すると八ツ時、今の三時半頃殿様がお帰りになりましたから、玄関まで皆々お出迎いをいたし、殿様は奥へ通りお褥の上にお坐りなされたから、いつもならば出来立てのお供えのようにお國が側から団扇で扇ぎ立て、ちやほやいうのだが、いつもと違って欝いでいる故、 飯「お國大分すまん顔をしているが、気分でも悪いのか、何うした」 國「殿様申訳のない事が出来ました、昨晩お留守に盗賊がはいり、金子が百目紛失いたしました、あのお納戸縮緬の胴巻に入れて置いたのを胴巻ぐるみ紛失いたしました、何でも昨晩の様子で見ると、台所口の障子が明いたようで、外は締りは厳重にしてあって、誰も居りませんから、よく検めますと、お居間の地袋の中にあるお文庫の錠前が捻切ってありました、それから驚いて毘沙門様に願がけをしたり、占者に見て貰うと、これは内々の者が取ったに違いないと申しましたから、皆の文庫や葛籠を検めようと思って居ります」 飯「そんな事をするには及ばない、内々の者に、百両の金を取る程の器量のある者は一人もいない、他から這入った賊であろう」 國「それでも御門の締りは厳重に付けておりますし、只台所口が明いて居たのですから、内々の者を一ト通り詮議をいたします、……アノお竹どん、おきみどん、皆此方へ来ておくれ」 竹「とんだ事でございました」 きみ「私はお居間などにはお掃除の外参った事はございませんが、嘸御心配な事でございましょう、私なぞは昨晩の事はさっぱり存じませんでございます、誠に驚き入りました」 飯「手前達を疑ぐる訳ではないが、おれが留守で、國が預り中の事ゆえ心配をいたしているものだから」  女中は 「恐れ入ります、どうぞお検め下さいまし」  と銘々葛籠を縁側へ出す。 飯「たけの文庫には何ういう物が入っているか見たいナ成程たまかな女だ、一昨年遣わした手拭がチャンとしてあるな、女という者は小切の端でもチャンと畳紙へいれて置く位でなければいかん、おきみや、手前の文庫を一ツ見てやるから此処へ出せ」 君「私のは何うぞ御免あそばして、殿様が直に御覧あそばさないで下さい」 飯「そうはいかん、竹のを検めて手前のばかり見ずにいては怨みッこになる」 君「どうぞ御勘弁恐れ入ります」 飯「何も隠す事はない、成程、ハヽア大層枕草紙をためたな」 君「恐れ入ります、貯めたのではございません、親類内から到来をいたしたので」 飯「言訳をするな、着物が殖ると云うから宜いわ」 國「アノ男部屋の孝助と源助の文庫を検めて見とうございます、お竹どん一寸二人を呼んでおくれ」 竹「孝助どん、源助どん、殿様のお召でございますよ」 源「へい〳〵お竹どんなんだえ」 竹「お金が百両紛失して、内々の者へお疑いがかゝり、今お調べの所だよ」 源「何処から這入ったろう、何しろ大変な事だ、何しろ行って見よう」  と両人飯島の前へ出て来て、 源「承わり恟り致しました、百両の金子が御紛失になりましたそうでございますが、孝助と私と御門を堅く守って居りましたに、何ういう事でございましょう、嘸御心配な事で」 飯「なに國が預り中で、大層心配をするから一寸検めるのだ」 國「孝助どん、源助どん、お気の毒だがお前方二人は何うも疑られますよ、葛籠をこゝへ持ってお出で」 源「お検めを願います」 國「これ切りかえ」 源「一切合切一世帯是切りでございます」 國「おや〳〵まア、着物を袖畳みにして入れて置くものではないよ、ちゃんと畳んでお置きな、これは何だえ、ナニ寝衣だとえ、相変らず無性をして丸めて置いて穢ないねえ、此の紐は何だえ、虱紐だとえ、穢いねえ、孝助どんお前のをお出し、此の文庫切りか」  と是から段々ひろちゃくいたしましたが、元より入れて置いた胴巻ゆえ有るに違いない。お國はこれ見よがしに団扇の柄に引掛けて、すッと差上げ、 國「おい孝助どん此の胴巻は何うしてお前の文庫の中に入っていたのだ」 孝「おや〳〵〳〵、さっぱり存じません、何う致したのでしょう」 國「おとぼけでないよ、百両のお金が此の胴巻ぐるみ紛失したから、御神鬮の占のと心配をしているのです、是が失くなっては何うも私が殿様に済まないからお金を返しておくれよ」 孝「私は取った覚えはありません、どんな事が有っても覚えはありません、へい〳〵何ういう訳で此の胴巻が入っていたか存じません、へえ」 國「源助どん、お前は一番古く此のお屋敷にいるし、年かさも多い事だから、これは孝助どんばかりの仕業ではなかろう、お前と二人で心を合せてした事に違いない、源助どんお前から先へ白状しておしまい」 源「これは、私はどうも、これ孝助々々、どうしたんだ、己が迷惑を受けるだろうじゃないか、私は此のお屋敷に八ヶ年も御奉公をして、殿様から正直と云われているのに年嵩だものだから御疑念を受ける、孝助どうしたか云わねえか」 孝「私は覚えはないよ」 源「覚えはないといったって、胴巻の出たのは何うしたのだ」 孝「何うして出たか私ゃ知らないよ、胴巻は自然に出て来たのだもの」 國「自然に出たと云ってすむかえ、胴巻の方から文庫の中へ駆込むやつがあるものか、そら〴〵しい、そんな優しい顔つきをして本当に怖い人だよ、恩も義理も知らない犬畜生とはお前の事だ、私が殿様にすまない」  と孝助の膝をグッと突く。 孝「何をなさいます、私は覚えはございません、どんな事が有っても覚えはございません〳〵」 國「源助どん、お前から先へ白状おしよ」 源「孝助、己が困る、己が智慧でも付けたようにお疑ぐりがかゝり、困るから早く白状しろよ」 孝「私ゃ覚えはない、そんな無理な事を云ってもいけないよ、外の事と違って、大それた、家来が御主人様のお金を百両取ったなんぞと、そんな覚えはない」 源「覚えがないと計り云っても、それじゃア胴巻の出た趣意が立たねえ、己まで御疑念がかゝり困るから、早く白状して殿様の御疑念を晴してくれろ」  とこづかれて、孝助は泣きながら、只残念でございますと云っていると、お國は先夜の意趣を晴すは此の時なり、今日こそ孝助が殿様にお手打になるか追出されるかと思えば、心地よく、わざと 「孝助どん云わないか」  と云いながら力に任せて孝助の膝をつねるから、孝助は身にちっとも覚えなき事なれど、証拠があれば云い解く術もなく、口惜涙を流し、 孝「痛うございます、どんなに突かれても抓られても、覚えのない事は云いようがありません」 國「源助どん、お前から先へ云ってしまいな」 源「孝助云わねえか」  と云いながらドンと突飛ばす。 孝「何を突き飛ばすのだね」 源「いつまでも云わずにいちゃア己が迷惑する、云いなよ」  と又突飛ばす。孝助は両方から抓ねられ突飛ばされたりして、残念で堪らない。 孝「突き飛ばしたって覚えはない、お前もあんまりだ、一つ部屋にいて己の気性も知っているじゃアないか、お庭の掃除をするにも草花一本も折らないように気を附け、釘一本落ちていても直に拾って来て、お前に見せるようにしているじゃアないか、己らの心も知っていながら、人を盗賊と疑ぐるとは余り酷いじゃアないか、そんなにキャア〳〵いうと殿様までが私を疑ぐります」  始終を聞いていた飯島は大声を上げて、 飯「黙れ孝助、主人の前も憚からず大声を発して怪しからぬ奴、覚えがなければ何うして胴巻が貴様の文庫の中に有ったか、それを申せ、何うして胴巻があった」 孝「何うして有りましたか、さっぱり存じません」 飯「只存ぜぬ知らんと云って済むと思うかえ、不埓な奴だ、己が是程目を懸けてやるにサ、其の恩義を打忘れ、金子を盗むとは不届ものめ、手前ばかりではよもあるまい、外に同類があるだろう、さア申訳が立たんければ手打にしてしまうから左様心得ろ」  と云放つ。源助は驚いて、 源「どうかお手打の処は御勘弁を願います、へい又何者にか騙されましたか知れませんから、篤と源助が取調べ御挨拶を申上げまする迄お手打の処はお日延を願いとう存じます」 飯「黙れ源助、さような事を申すと手前まで疑念が懸るぞ、孝助を構い立てすると手前も手打にするから左様心得ろ」 源「これ孝助、お詫を願わないか」 孝「私は何もお詫をするような不埓をした事はない、殿様にお手打になるのは有難い事だ、家来が殿様のお手に掛って死ぬのは当然の事だ、御奉公に来た時から、身体は元より命まで殿様に差上げている気だから、死ぬのは元より覚悟だけれど、是まで殿様の御恩に成った其の御恩を孝助が忘れたと仰しゃった殿様のお言葉、そればかりが冥途の障りだ、併し是も無実の難で致し方がない、後で其の金を盗んだ奴が出て、あゝ孝助が盗んだのではない、孝助は無実の罪であったという事が分るだろうから、今お手打に成っても構わない、さア殿様スッパリとお願い申します、お手打になさいまし」  と摩り寄ると、 飯「今は日のあるうち血を見せては穢れる恐れがあるから、夕景になったら手打にするから、部屋へ参って蟄居しておれ、これ源助、孝助を取逃がさんように手前に預けたぞ」 源「孝助お詫を願え」 孝「お詫する事はない、お早くお手打を願います」 飯「孝助よく聞け、匹夫下郎という者は己の悪い事を余所にして、主人を怨み、酷い分らんと我を張って自から舌なぞを噛み切り、或は首をくゝって死ぬ者があるが、手前は武士の胤だという事だから、よも左様な死にようは致すまいな、手打になるまで屹度待っていろ」  と云われて孝助は口惜涙の声を慄わせ、 孝「そんな死にようは致しません、早くお手打になすって下さいまし」 源「これ孝助お詫びを願わないか」 孝「どうしても取った覚えはない」 源「殿様は荒い言葉もお掛なすった事もなかったが大枚の百両の金が紛失したので、金ずくだから御尤もの事だ、お隣の宮野邊の御次男様にお頼み申し、お詫言を願っていたゞけ」 孝「隣の次男なんぞに、たとえ舌を喰って死んでも詫言なぞは頼まねえ」 源「そんなら相川様へ願え、新五兵衞様へサ」 孝「何も失錯の廉がないものを、何も覚えがないのだから、あとで金の盗人が知れるに違いない、天誠を照すというから、其の時殿様が御一言でも、あゝ孝助は可愛相な事をしたと云って下されば、そればっかりが私への好い手向だ、源助どん、お前にも長らく御厄介になったから、相川様へ養子に行くように成ったら、小遣でも上げようと心懸けていたのも、今となっては水の泡、どうぞ私がない後は、お前が一人で二人前の働きをして、殿様を大切に気を付け、忠義を尽して上げて下さい、そればかりがお願いだ、それに源助どんお前は病身だから体を大切に厭って御奉公をし、丈夫でいておくれ、私は身に覚えのない盗賊におとされたのが残念だ」  と声を放って泣き伏しましたから、源助も同じく鼻をすゝり、涙を零して眼を擦りながら、 源「わび事を頼めよ〳〵」 孝「心配おしでないよ」  と孝助はいよ〳〵手打になる時は、隣の次男源次郎とお國と姦通し、剰え来月の四日中川で殿様を殺そうという巧みの一伍一什を委しく殿様の前へ並べ立て、そしてお手打になろうという気でありますから、少しも憶する色もなく、平常の通りで居る。其の内に灯がちら〳〵点く時刻と成りますと、飯島の声で、 「孝助庭先へ廻れ」  という。此の後は何うなりますか、次囘までお預り。         十二  伴藏の家では、幽霊と伴藏と物語をしているうち、女房おみねは戸棚に隠れ、熱さを堪えて襤褸を被り、ビッショリ汗をかき、虫の息をころして居るうちに、お米は飯島の娘お露の手を引いて、姿は朦朧として掻消す如く見えなく成りましたから、伴藏は戸棚の戸をドン〳〵叩き、 伴「おみね、もう出なよ」 みね「まだ居やアしないかえ」 伴「帰ってしまった、出ねえ〳〵」 みね「何うしたえ」 伴「何うにも斯うにも己が一生懸命に掛合ったから、飲んだ酒も醒めて仕舞った、己ア全体酒さえのめば、侍でもなんでも怖かなくねえように気が強くなるのだが、幽霊が側へ来たかと思うと、頭から水を打ちかけられるように成って、すっかり酔も醒め、口もきけなくなった」 みね「私が戸棚で聞いていれば、何だかお前と幽霊と話をしている声が幽かに聞えて、本当に怖かったよ」 伴「己は幽霊に百両の金を持って来ておくんなせえ、私ども夫婦は萩原様のお蔭で何うやら斯うやら暮しをつけて居ります者ですから、萩原様に万一の事が有りましては私共夫婦は暮し方に困りますから、百両のお金を下さったなら屹度お札を剥しましょうというと、幽霊は明日の晩お金を持って来ますからお札を剥してくれろ、それに又萩原様の首に掛けていらっしゃる海音如来の御守があっては入る事が出来ないから、どうか工夫をして其のお守を盗み、外へ取捨てゝ下さいと云ったは、金無垢で丈は四寸二分の如来様だそうだ、己も此の間お開帳の時ちょっと見たが、あの時坊さんが何か云ってたよ、抑も何とかいったっけ、あれに違えねえ、何でも大変な作物だそうだ、あれを盗むんだが、どうだえ」 かね「どうも旨いねえ、運が向いて来たんだよ、其の如来様はどっかへ売れるだろうねえ」 伴「何うして江戸ではむずかしいから、何所か知らない田舎へ持って行って売るのだなア、仮令潰しにしても大したものだ、百両や二百両は堅いものだ」 みね「そうかえ、まア二百両あれば、お前と私と二人ぐらいは一生楽に暮すことが出来るよ、それだからねえ、お前一生懸命でおやりよ」 伴「やるともさ、だが併し首にかけているのだから、容易に放すまい、何うしたら宜かろうナ」 みね「萩原様は此の頃お湯にも入らず、蚊帳を吊りきりでお経を読んでばかりいらっしゃるものだから、汗臭いから行水をお遣いなさいと云って勧めて使わせて、私が萩原様の身体を洗っているうちにお前がそっとお盗みな」 伴「成程旨えや、だが中々外へは出まいよ」 みね「そんなら座敷の三畳の畳を上げて、あそこで遣わせよう」  と夫婦いろ〳〵相談をし、翌日湯を沸かし、伴藏は萩原の宅へ出掛けて参り、 伴「旦那え、今日は湯を沸かしましたから行水をお遣いなせえ、旦那をお初に遣わせようと思って」 新「いや〳〵行水はいけないよ、少し訳があって行水は遣えない」 みね「旦那此の熱いのに行水を遣わないで毒ですよ、お寝衣も汗でビッショリになって居りますから、お天気ですから宜うございますが、降りでもすると仕方がありません、身体のお毒になりますからお遣いなさいよ」 新「行水は日暮方表で遣うもので、私は少し訳があって表へ出る事の出来ない身分だからいけないよ」 伴「それじゃアあすこの三畳の畳を上げてお遣えなせえ」 新「いけないよ、裸になる事だから、裸になる事は出来ないよ」 伴「隣の占者の白翁堂先生がよくいいますぜ、何でも穢くして置くから病気が起ったり幽霊や魔物などが這入るのだ、清らかにしてさえ置けば幽霊なぞは這入られねえ、じゞむさくして置くと内から病が出る、又穢くして置くと幽霊がへいって来ますよ」 新「穢くして置くと幽霊が這入って来るか」 伴「来る所じゃアありません両人で手を引いて来ます」 新「それでは困る、内で行水を遣うから三畳の畳を上げてくんな」  というから、伴藏夫婦はしめたと思い、 伴「それ盥を持って来て、手桶へホレ湯を入れて来い」  などと手早く支度をした。萩原は着物を脱ぎ捨て、首に掛けているお守を取りはずして伴藏に渡し、 新「これは勿体ないお守だから、神棚へ上げて置いてくんな」 伴「へい〳〵、おみね、旦那の身体を洗って上げな、よく丁寧にいゝか」 みね「旦那様此方の方をお向きなすっちゃアいけませんよ、もっと襟を下の方へ延ばして、もっとズウッと屈んでいらっしゃい」  と襟を洗う振をして伴藏の方を見せないようにしている暇に、伴藏は彼の胴巻をこき、ズル〳〵と出して見れば、黒塗光沢消しのお厨子で、扉を開くと中はがたつくから黒い絹で包んであり、中には丈四寸二分、金無垢の海音如来、そっと懐中へ抜取り、代り物がなければいかぬと思い、予ねて用心に持って来た同じような重さの瓦の不動様を中へ押込み、元の儘にして神棚へ上げ置き、 伴「おみねや長いのう、余り長く洗っているとお逆上なさるから、宜い加減にしなよ」 新「もう上がろう」  と身体を拭き、浴衣を着、あゝ宜い心持になった。と着た浴衣は経帷子、使った行水は湯灌となる事とは、神ならぬ身の萩原新三郎は、誠に心持よく表を閉めさせ、宵の内から蚊帳を吊り、其の中で雨宝陀羅尼経を頻りに読んで居ります。此方は伴藏夫婦は、持ちつけない品を持ったものだからほく〳〵喜び、宅へ帰りて、 みね「お前立派な物だねえ、中々高そうな物だよ」 伴「なに己らたちには何だか訳が分らねえが、幽霊は此奴があると這入られねえという程な魔除のお守だ」 みね「ほんとうに運が向いて来たのだねえ」 伴「だがのう、此奴があると幽霊が今夜百両の金を持って来ても、己の所へ這入る事が出来めえが、是にゃア困った」 みね「それじゃアお前出掛けて行って、途中でお目に懸ってお出でな」 伴「馬鹿ア云え、そんな事が出来るものか」 みね「どっかへ預けたら宜かろう」 伴「預けなんぞして、伴藏の持物には不似合だ、何ういう訳でこんな物を持っていると聞かれた日にゃア盗んだ事が露顕して、此方がお仕置に成ってしまわア、又質に置くことも出来ず、と云って宅へ置いて、幽霊が札が剥がれたから萩原様の窓から這入って、萩原様を喰殺すか取殺した跡をあらためた日にゃア、お守が身体にないものだから、誰か盗んだに違えねえと詮議になると、疑りのかゝるは白翁堂か己だ、白翁堂は年寄の事で正直者だから、此方はのっけに疑ぐられ、家捜しでもされてこれが出ては大変だから何うしよう、これを羊羹箱か何かへ入れて畑へ埋めて置き、上へ印の竹を立てゝ置けば、家捜しをされても大丈夫だ、そこで一旦身を隠して、半年か一年も立って、ほとぼりの冷めた時分帰って来て掘出せば大丈夫知れる気遣はねえ」 みね「旨い事ねえ、そんなら穴を深く掘って埋めてお仕舞いよ」  と、直に伴藏は羊羹箱の古いのに彼の像を入れ、畑へ持出し土中へ深く埋めて、其の上へ目標の竹を立置き立帰り、さアこれから百両の金の来るのを待つばかり、前祝いに一杯やろうと夫婦差向いで互に打解け酌交し、最う今に八ツになる頃だからというので、女房は戸棚へ這入り、伴藏一人酒を飲んで待っているうちに、八ツの鐘が忍ヶ岡に響いて聞えますと、一際世間がしんと致し、水の流れも止り、草木も眠るというくらいで、壁にすだく蟋蟀の声も幽かに哀を催おし、物凄く、清水の元からいつもの通り駒下駄の音高くカランコロン〳〵と聞えましたから、伴藏は来たなと思うと身の毛もぞっと縮まる程怖ろしく、かたまって、様子を窺っていると、生垣の元へ見えたかと思うと、いつの間にやら縁側の所へ来て、 「伴藏さん〳〵」  と云われると、伴藏は口が利けない、漸々の事で、 「へい〳〵」  と云うと、 米「毎晩上りまして御迷惑の事を願い、誠に恐れ入りまするが、未だ今晩も萩原様の裏窓のお札が剥れて居りませんから、どうかお剥しなすって下さいまし、お嬢様が萩原様に逢いたいと私をお責め遊ばし、おむずかって誠に困り切りまするから、どうぞ貴方様、二人の者を不便に思召しお札を剥して下さいまし」 伴「剥します、へい剥しますが、百両の金を持って来て下すったか」 米「百目の金子慥に持参致しましたが、海音如来の御守をお取捨になりましたろうか」 伴「へい、あれは脇へ隠しました」 米「左様なれば百目の金子お受取り下さいませ」  とズッと差出すを、伴藏はよもや金ではあるまいと、手に取上げて見れば、ズンとした小判の目方、持った事もない百両の金を見るより伴藏は怖い事も忘れてしまい、慄えながら庭へ下り立ち、 「御一緒にお出でなせえ」  と二間梯子を持出し、萩原の裏窓の蔀へ立て懸け、慄える足を踏締めながらよう〳〵登り、手を差伸ばし、お札を剥そうとしても慄えるものだから思う様に剥れませんから、力を入れて無理に剥そうと思い、グッと手を引張る拍子に、梯子がガクリと揺れるに驚き、足を踏み外し、逆とんぼうを打って畑の中へ転げ落ち、起上る力もなく、お札を片手に握んだまゝ声をふるわし、唯南無阿弥陀仏〳〵と云っていると、幽霊は嬉しそうに両人顔を見合せ、 米「嬢様、今晩は萩原様にお目にかゝって、十分にお怨みを仰しゃいませ、さア入っしゃい」  と手を引き伴藏の方を見ると、伴藏はお札を掴んで倒れて居りますものだから、袖で顔を隠しながら、裏窓からズッと中へ這入りました。         十三  飯島平左衞門の家では、お國が、今夜こそ予ねて源次郎と諜し合せた一大事を立聞きした邪魔者の孝助が、殿様のお手打になるのだから、仕すましたりと思うところへ、飯島が奥から出てまいり、 飯「國、國、誠にとんだ事をした、譬にも七たび捜して人を疑ぐれという通り、紛失した百両の金子が出たよ、金の入れ所は時々取違えなければならないものだから、己が外へ仕舞って置いて忘れていたのだ、皆に心配を掛けて誠に気の毒だ、出たから悦んでくれろ」 國「おやまアお目出度うございます」  と口には云えど、腹の内では些とも目出たい事も何にもない。何うして金が出たであろうと不審が晴れないで居りますと、 飯「女どもを皆こゝへ呼んでくれ」 國「お竹どん、おきみどん皆こゝへお出で」 竹「只今承わりますればお金が出ましたそうでおめでとう存じます」 君「殿様誠におめでとうございます」 飯「孝助も源助もこゝへ呼んで来い」 女「孝助どん源助どん、殿様がめしますよ」 源「へい〳〵、これ孝助お詫事を願いな、お前は全く取らないようだが、お前の文庫の中から胴巻が出たのがお前があやまり、詫ごとをしなよ」 孝「いゝよ、いよ〳〵お手打になるときは、殿様の前で私が列べ立てる事がある、それを聞くとお前は嘸悦ぶだろう」 源「なに嬉しい事があるものか、殿様が召すからマア行こう」  と両人連立ってまいりますと、 飯「孝助、源助、此方へ来てくれ」 源「殿様、只今部屋へ往って段々孝助へ説得を致しましたが、どうも全く孝助は盗らないようにございます、お腹立の段は重々御尤でござりますが、お手打の儀は何卒廿三日までお日延の程を願いとう存じます」 飯「まアいゝ、孝助これへ来てくれ」 孝「はいお庭でお手打になりますか、〓(「蓙」の左の「人」に代えて「口」)をこれへ敷きましょうか、血が滴れますから」 飯「縁側へ上がれ」 孝「へい、これはお縁側でお手打、これは有がたい、勿体ない事で」 飯「そう云っちゃア困るよ、さて源助孝助、誠に相済まん事であったが、百両の金は実は己が仕舞処を違えて置いたのが、用箪笥から出たから喜んでくれ、家来だからあんなに疑ってもよいが、外の者でもあっては己が言訳のしようもない位な訳で、誠に申しわけがない」 孝「お金が出ましたか、さようなれば私は盗賊ではなく、お疑りは晴れましたか」 飯「そうよ、疑りはすっぱり晴れた、己が間違いであったのだ」 孝「えゝ有がとうござります、私は素よりお手打になるのは厭いませんけれども、只全く私が取りませんのを取ったかと思われまするのが冥路の障りでございましたが、御疑念が晴れましたならお手打は厭いません、サヽお手打になされまし」 飯「己が悪かった、これが家来だからいゝが、若し朋友か何かであった日にゃア腹を切っても済まない所、家来だからといって、無闇に疑りを掛けては済まない、飯島が板の間へ手を突いてこと〴〵く詫びる、堪忍して呉れ」 孝「あゝ勿体ない、誠に嬉しゅうございました、源助どん」 源「誠にどうも」 飯「源助、手前は孝助を疑って孝助を突いたから謝まれ」 源「へい〳〵孝助どん、誠に済みません」 飯「たけや何かも何か少し孝助を疑ったろう」 竹「ナニ疑りは致しませんが、孝助どんは平常の気性にも似合ないことだと存じまして、些とばかり」 飯「矢張り疑ったのだから謝まれ、きみも謝まれ」 竹「孝助どん、誠にお目出度存じます、先程は誠に済みません」 飯「これ國、貴様は一番孝助を疑り、膝を突いたり何かしたから余計に謝まれ、己でさえ手をついて謝ったではないか、貴様は猶更丁寧に詫をしろ」  と云われてお國は、此度こそ孝助がお手打になる事と思い、心の中で仕済ましたりと思っている処へ、金子が出て、孝助に謝まれと云うから残念で堪らないけれども、仕方がないから、 國「孝助どん誠に重々すまない事を致しました、何うか勘弁しておくんなさいましよ」 孝「なに宜しゅうございます、お金が出たから宜いが、若しお手打にでもなるなら、殿様の前でお為になる事を並べ立て死のうと思って……」  と急込んで云いかけるを、飯島は、 飯「孝助何も云って呉れるな己にめんじて何事もいうな」 孝「恐れ入ります、金子は出ましたが、彼の胴巻は何うして私の文庫から出ましたろう」 飯「あれはホラいつか貴様が胴巻の古いのを一つ欲しいと云った事があったっけノウ、其の時おれが古いのを一つやったじゃないか」 孝「ナニさような事は」 飯「貴様がそれ欲しいと云ったじゃないか」 孝「草履取の身の上で縮緬のお胴巻を戴いたとて仕方がございません」 飯「此奴物覚えの悪いやつだ」 孝「私より殿様は百両のお金を仕舞い忘れる位ですから貴方の方が物覚えがわるい」 飯「成程これはおれがわるかった、何しろ目出度いから皆に蕎麦でも喰わせてやれ」  と飯島は孝助の忠義の志しは予て見抜いてあるから、孝助が盗み取るようなことはないと知っている故、金子は全く紛失したなれども、別に百両を封金に拵らえ、此の騒動を我が粗忽にしてぴったりと納まりがつきました。飯島は斯程までに孝助を愛する事ゆえ、孝助も主人の為めには死んでもよいと思い込んで居りました。斯くて其の月も過ぎて八月の三日となり、いよ〳〵明日はお休みゆえ、殿様と隣邸の次男源次郎と中川へ釣に行く約束の当日なれば、孝助は心配をいたし、今夜隣の源次郎が来て当家に泊るに相違ないから、殿様に明日の釣をお止めなさるように御意見を申し上げ、もし何うしてもお聞入のない其の時は、今夜客間に寝ている源次郎めが中二階に寝ているお國の所へ廊下伝いに忍び行くに相違ないから、廊下で源次郎を槍玉にあげ、中二階へ踏込んでお國を突殺し、自分は其の場を去らず切腹すれば、何事もなく事済になるに違いない、これが殿様へ生涯の恩返し、併し何うかして明日主人を漁にやりたくないから、一応は御意見をして見ようと、 孝「殿様明日は中川へ漁に入っしゃいますか」 飯「あゝ行くよ」 孝「度々申上げるようですが、お嬢様がお亡くなりになり、未だ間もない事でございまするから、お見合せなすっては如何」 飯「己は外に楽みはなく釣が極好きで、番がこむから、偶には好きな釣ぐらいはしなければならない、それを止めてくれては困るな」 孝「貴方は泳ぎを御存じがないから水辺のお遊びは宜しくございません、それともたって入っしゃいますならば孝助お供いたしましょう、何うか手前お供にお連れください」 飯「手前は釣は嫌いじゃないか、供はならんよ、能く人の楽みを止める奴だ、止めるな」 孝「じゃア今晩やって仕舞います、長々御厄介になりました」 飯「何を」 孝「え、なんでも宜しゅうございます、此方の事です、殿様私は三月二十一日に御当家へ御奉公に参りまして、新参者の私を、人が羨ましがる程お目を掛けてくださり、御恩義の程は死んでも忘れはいたしません、死ねば幽霊になって殿様のお身体に附きまとい、凶事のない様に守りまするが、全体貴方は御酒を召上れば前後も知らずお寝みになる、又召上がらねば少しもお寝みになる事が出来ません、御酒も随分気を散じますから少々は召上がっても宜しゅうございますが、多分に召上ってお酔いなすっては、仮令どんなに御剣術が御名人でも、悪者がどんなことを致しますかも知れません、私はそれが案じられてなりません」 飯「さような事は云わんでも宜しい、あちらへ参れ」 孝「へえ」  と立上がり、廊下を二足三足行きにかゝりましたが、是れがもう主人の顔の見納めかと思えば、足も先に進まず、又振返って主人の顔を見てポロリと涙を流し、悄々として行きますから、振返るを見て飯島もハテナと思い、暫し腕拱き、小首かたげて考えて居りました。孝助は玄関に参り、欄間に懸ってある槍をはずし、手に取って鞘を外して検めるに、真赤に錆びて居りましたゆえ、庭へ下り、砥石を持来り、槍の身をゴシ〳〵研ぎはじめていると、 飯「孝助々々」 孝「へい〳〵」 飯「何だ、何をする、どう致すのだ」 孝「これは槍でございます」 飯「槍を研いで何う致すのだえ」 孝「余り真赤に錆ておりますから、なんぼ泰平の御代とは申しながら、狼藉ものでも入りますと、其の時のお役に立たないと思い、身体が閑でございますから研ぎ始めたのでございます」 飯「錆槍で人が突けぬような事では役にたゝんぞ、仮令向うに一寸幅の鉄板があろうとも、此方の腕さえ確ならプツリッと突き抜ける訳のものだ、錆ていようが丸刃であろうが、さような事に頓着はいらぬから研ぐには及ばん、又憎い奴を突殺す時は錆槍で突いた方が、先の奴が痛いから此方が却っていゝ心持だ」 孝「成程こりゃアそうですな」  と其の儘槍を元の処へ掛けて置く。飯島は奥へ這入り、其の晩源次郎がまいり酒宴が始まり、お國が長唄の地で春雨かなにか三味線を掻きならし、当時の九時過まで興を添えて居りましたが、もうお引にしましょうと客間へ蚊帳を一抔に吊って源次郎を寝かし、お國は中二階へ寝てしまいました。お國は誰が泊っても中二階へ寝なければ源次郎の来た時不都合だから、何時でもお客さえあればこゝへ寝ます。夜も段々と更け渡ると、孝助は手拭を眉深に頬冠りをし、紺看板に梵天帯を締め、槍を小脇に掻込んで庭口へ忍び込み、雨戸を少々ずつ二所明けて置いて、花壇の中へ身を潜め隠し縁の下へ槍を突込んで様子を窺っている。その中に八ツの鐘がボーンと鳴り響く。此の鐘は目白の鐘だから少々早めです。するとさらり〳〵と障子を明け、抜足をして廊下を忍び来る者は、寝衣姿なれば、慥に源次郎に相違ないと、孝助は首を差延べ様子を窺うに、行灯の明りがぼんやりと障子に映るのみにて薄暗く、はっきりそれとは見分けられねど、段々中二階の方へ行くから、孝助はいよ〳〵源次郎に違いなしとやり過し、戸の隙間から脇腹を狙って、物をも云わず、力に任せて繰出す槍先は過たず、プツリッと脾腹へ掛けて突き徹す。突かれて男はよろめきながら左手を延して槍先を引抜きさまグッと突返す。突かれて孝助たじ〳〵と石へ躓き尻もちをつく。男は槍の穂先を掴み、縁側より下へヒョロ〳〵と降り、沓脱石に腰を掛け、 「孝助外庭へ出ろ〳〵」  と云われて孝助、オヤ、と言って見ると、恟りしたは源次郎と思いの外、大恩受けたる主人の肋骨へ槍を突掛けた事なれば、アッとばかりに呆れはて、唯キョトキョト〳〵として逆上あがってしまい、呆気に取られて涙も出ずにいる。 飯「孝助こちらへ来い」  と気丈な殿様なれば袂にて疵口を確かと押えてはいるものゝ、血は溢れてぼたり〳〵と流れ出す。飯島は血に染みたる槍を杖として、飛石伝いにヒョロ〳〵と建仁寺垣の外なる花壇の脇の所へ孝助を連れて来る。孝助は腰が抜けてしまって、歩けないで這って来た。 孝「へい〳〵間違でござります」 飯「孝助己の上締を取って疵口を縛れ、早く縛れ」  と云われても、孝助は手がブル〳〵とふるえて思うまゝに締らないから、飯島自ら疵口をグッと堅く締め上げ、猶手をもって其の上を押え、根府川の飛石の上へペタ〳〵と坐る。 孝「殿様、とんでもない事をいたしました」  とばかりに泣出す。 飯「静かにしろ、他へ洩れては宜しくないぞ、宮野邊源次郎めを突こうとして、過まって平左衞門を突いたか」 孝「大変な事をいたしました、実は召仕のお國と宮野邊の次男源次郎と疾より不義をしていて、先月廿一日お泊番の時、源次郎がお國の許へ忍び込み、お國と密々話して居る所へうっかり私がお庭へ出て参り、様子を聞くと、殿様がいらっしゃっては邪魔になるゆえ、来月の四日中川にて殿様を釣舟から突落して殺してしまい、体能くお頭に届けをしてしまい、源次郎を養子に直し、お國と末長く楽しもうとの悪工み、聞くに堪え兼ね、怒りに任せ、思わず呻る声を聞きつけ、お國が出て参り、彼此と言い合はしたものゝ、源次郎の方には殿様から釣道具の直しを頼みたいとの手紙を以て証拠といたし、一時は私云い籠められ、弓の折にてしたゝか打たれ、いまだに残る額の疵、口惜くてたまり兼ね、表向にしようとは思ったなれど、此方は証拠のない聞いた事、殊に向うは次男の勢い、無理でも圧え付けられて私はお暇になるに相違ないと思い諦め、彼の事は胸にたゝんでしまって置き、いよ〳〵明日は釣にお出になるお約束日ゆえお止め申しましたが、お聞入れがないから、是非なく、今晩二人の不義者を殺し、其の場を去らず切腹なし、殿様の難義をお救い申そうと思うた事は鶍の嘴と喰違い、とんでもない間違をいたしました、主人の為に仇を討とうと思ったに、却って主人を殺すとは神も仏もない事か、何たる因果な事であるか、殿様御免遊ばせ」  と飛石へ両手をつき孝助は泣き転がりました。飯島は苦痛を堪えながら、 飯「あゝ〳〵不束なる此の飯島を主人と思えばこそ、それ程までに思うてくれる志忝ない、なんぼ敵同士とは云いながら現在汝の槍先に命を果すとは輪廻応報、あゝ実に殺生は出来んものだなア」 孝「殿様敵同士とは情ない、何で私は敵同志でございますの」 飯「其の方が当家へ奉公に参ったは三月廿一日、其の時某非番にて貴様の身の上を尋ねしに、父は小出の藩中にて名をば黒川孝藏と呼び、今を去る事十八年前、本郷三丁目藤村屋新兵衞という刀屋の前にて、何者とも知れず人手に罹り、非業の最期を遂げたゆえ、親の敵を討ちたいと、若年の頃より武家奉公を心掛け、漸々の思いで当家へ奉公住をしたから、どうか敵の討てるよう剣術を教えて下さいと手前の物語りをした時、恟りしたというは、拙者がまだ平太郎と申し部屋住の折、彼の孝藏と聊の口論がもとゝなり、切捨てたるはかく云う飯島平左衞門であるぞ」  と云われて孝助は唯へい〳〵とばかりに呆れ果て、張詰めた気もひょろぬけて腰が抜け、ペタ〳〵と尻もちを突き、呆気に取られて、飯島の顔を打眺め、茫然として居りましたが、暫くして、 孝「殿様そう云う訳なれば、なぜ其の時にそう云っては下さいません、お情のうございます」 飯「現在親の敵と知らず、主人に取って忠義を尽す汝の志、殊に孝心深きに愛で、不便なものと心得、いつか敵と名告って汝に討たれたいと、さま〴〵に心痛いたしたなれど、苟めにも一旦主人とした者に刃向えば主殺しの罪は遁れ難し、されば如何にもして汝をば罪に落さず、敵と名告り討たれたいと思いし折から、相川より汝を養子にしたいとの所望に任せ、養子に遣わし、一人前の侍となして置いて仇と名告り討たれんものと心組んだる其の処へ、國と源次郎めが密通したを怒って、二人の命を絶たんとの汝の心底、最前庭にて錆槍を磨ぎし時より暁りしゆえ、機を外さず討たれんものと、態と源次郎の容をして見違えさせ、槍で突かして孝心の無念をこゝに晴させんと、かくは計らいたる事なり、今汝が錆槍にて脾腹を突かれし苦痛より、先の日汝が手を合せ、親の敵の討てるよう剣術を教えてくだされと、頼まれた時のせつなさは百倍増であったるぞ、定めて敵を討ちたいだろうが、我が首を切る時は忽ち主殺しの罪に落ちん、されば我髷をば切取って、之にて胸をば晴し、其の方は一先こゝを立退いて、相川新五兵衞方へ行き密々に万事相談致せ、此の刀は先つ頃藤村屋新兵衞方にて買わんと思い、見ているうちに喧嘩となり、汝の父を討ったる刀、中身は天正助定なれば、是を汝に形見として遣わすぞ、又此の包の中には金子百両と悉しく跡方の事の頼み状、これを披いて読下せば、我が屋敷の始末のあらましは分る筈、汝いつまでも名残を惜しみて此所にいる時は、汝は主殺の罪に落るのみならず、飯島の家は改易となるは当然、此の道理を聞分けて疾く参れ」 孝「殿様、どんな事がございましょうとも此の場は退きません、仮令親父をお殺しなさりょうが、それは親父が悪いから、かくまで情ある御主人を見捨てゝ他へ立退けましょうか、忠義の道を欠く時は矢張孝行は立たない道理、一旦主人と頼みしお方を、粗相とは云いながら槍先にかけたは私の過り、お詫の為に此の場にて切腹いたして相果てます」 飯「馬鹿な事を申すな、手前に切腹させる位なら飯島はかくまで心痛はいたさぬわ、左様な事を申さず早く往け、もし此の事が人の耳に入りなば飯島の家に係わる大事、悉しい事は書置に有るから早く行かぬか、これ孝助、一旦主従の因縁を結びし事なれば、仇は仇恩は恩、よいか一旦仇を討ったる後は三世も変らぬ主従と心得てくれ、敵同士でありながら汝の奉公に参りし時から、どう云う事か其の方が我が子のように可愛くてなア」  と云われ孝助は、おい〳〵と泣きながら、 孝「へい〳〵、これまで殿様の御丹誠を受けまして、剣術といい槍といい、なま兵法に覚えたが今日却って仇となり、腕が鈍くば斯くまでに深くは突かぬものであったに、御勘弁なすってくださいまし」  と泣き沈む。 飯「これ早く往け、往かぬと家は潰れるぞ」  と急き立てられ、孝助は止むを得ず形見の一刀腰に打込み、包を片手に立上り、主人の命に随って脇差抜いて主人の元結をはじき、大地へ慟と泣伏し、 孝「おさらばでございます」  と別れを告げてこそ〳〵門を出て、早足に水道端なる相川の屋敷に参り。 孝「お頼ん申します〳〵」 相「善藏や誰か門を叩くようだ、御廻状が来たのかも知らん、一寸出ろ、善藏や」 善「へい〳〵」 相「何だ、返事ばかりしていてはいかんよ」 善「只今明けます、只今、へい真暗でさっぱり訳がわからない、只今々々、へい〳〵、どっちが出口だか忘れた」  コツリと柱で頭を打ッつけ、アイタアイタヽヽヽと寝惚眼をこすりながら戸を開いて表へ立出で、 善「外の方がよっぽど明るいくらいだ、へい〳〵どなた様でございます」 孝「飯島の家来孝助でございますが、宜しくお取次を願います」 善「御苦労様でございます、只今明けます」  と石の吊してある門をがッたん〳〵と明ける。 孝「夜中上りまして、おしずまりに成った処を御迷惑をかけました」 善「まだ殿様はおしずまりなされぬようで、まだ御本のお声が聞えますくらい、先ずお這入り」  と内へ入れ、善藏は奥へ参り、 善「殿様、只今飯島様の孝助様が入っしゃいました」 相「それじゃアこれへ、アレ、コリャ善藏寝惚てはいかん、これ蚊帳の釣手を取って向うの方へやって置け、これ馬鹿何を寝惚ているのだ、寝ろ〳〵、仕方のない奴」  と呟きながら玄関まで出迎え、 「これは孝助殿、さア〳〵お上り、今では親子の中何も遠慮はいらない、ズッと上れ」  と座敷へ通し、 相「さて孝助殿、夜中のお使定めて火急の御用だろう、承りましょう、えゝ何う云う御用か、何だ泣いているな、男が泣くくらいではよく〳〵な訳だろうが、どうしたんだ」 孝「夜中上り恐れ入りますが、不思議の御縁、御当家様の御所望に任せ、主人得心の上私養子のお取極はいたしましたが、深い仔細がございまして、どうあっても遠国へ参らんければなりませんゆえ、此の縁談は破談と遊ばして、どうか外々から御養子をなされて下さいませ」 相「はいナア成程よろしい、お前が気に入らなければ仕方が無いねえ、高は少なし、娘は不束なり、舅は此の通りの粗忽家で一つとして取り所がない、だが娘がお前の忠義を見抜いて煩うまでに思い込んだもんだから、殿様にも話し、お前の得心の上取極めた事であるのを、お前一人来て破縁をしてくれろと云ってもそれは出来ないな、殿様が来てお取極めになったのを、お前一人で破るには、何か趣意がなければ破れまい、左様じゃござらんか、どう云う訳だか次第を承わりましょう、娘が気に入らないのか、舅が悪いのか、高が不足なのか、何んだ」 孝「決してそういう訳ではございません」 相「それじゃアお前は飯島様を失錯りでもしたか、どうも尋常の顔付ではない、お前は根が忠義の人だから、しくじってハッと思い、腹でも切ろうか、遠方へでも行こうと云うのだろうが、そんな事をしてはいかん、しくじったなら私が一緒に行って詫をしてやろう、もうお前は結納まで取交せをした事だから、内の者、云い付けて、孝助どのとは云わせず、孝助様と呼ばせるくらいで、云わば内の忰を来年の二月婚礼を致すまで、先の主人へ預けて置くのだ、少し位の粗相が有ったッてしくじらせる事があるものか、と不理窟をいえばそんなものだが、マア一緒に行こう、行ってやろう」 孝「いえ、そう云う訳ではございません」 相「何だ、それじゃアどう云う訳だ」 孝「申すに申し切れない程な深い訳がございまして」 相「はゝア分った、宜しい、そう有るべき事だろう、どうもお前のような忠義もの故、飯島様が相川へ行ってやれ、ハイと主命を背かず答はしたものゝ、お前の器量だから先に約束をした女でもあるのだろう、所が今度の事を其の女が知って私が先約だから是非とも女房にしてくれなければ主人に駆込んで此の事を告げるとか、何とか云い出したもんだから、お前はハッと思い、其の事が主人へ知れては相済まん、それじゃアお前を一緒に連れて遠国へ逃げようと云うのだろう、なに一人ぐらいの妾はあっても宜しい、お頭へ一寸届けて置けば仔細はない、尤もの事だ、娘は表向の御新造として、内々の処は其の女を御新造として置いてもいゝ、私が取る分米を其の女にやりますから宜しい、私が行って其の女に逢って頼みましょう、其の女は何者じゃ、芸者か何んだ」 孝「そんな事ではございません」 相「それじゃア何んだよ、エイ何んだ」 孝「それではお話をいたしまするが、殿様は負傷でいます」 相「ナニ負傷で、何故早く云わん、それじゃア狼藉者が忍び込み、飯島が流石手者でも多勢に無勢、切立てられているのを、お前が一方を切抜けて知らせに来たのだろう、宜しい、手前は剣術は知らないが、若い時分に学んで槍は少々心得ておる、参ってお助太刀をいたそう」 孝「さようではございません、実は召使の國と隣の源次郎が疾から密通をして」 相「へい、やっていますか、呆れたものだ、そういえばちら〳〵そんな噂もあるが、恩人の思いものをそんな事をして憎い奴だ、人非人ですねえ、それから〳〵」 孝「先月の廿一日、殿様お泊番の夜に、源次郎が密かにお國の許へ忍び込み、明日中川にて殿様を舟から突落し殺そうとの悪計みを、私が立聞をした所から、争いとなりましたが、此方は悲しいかな草履取の身の上、向うは二男の勢なれば喧嘩は負となったのみならず、弓の折にて打擲され、額に残る此の疵も其の時打たれた疵でございます」 相「不届至極な奴だ、お前なぜ其の事を直に御主人に云わないのだ」 孝「申そうとは思いましたが、私の方は聞いたばかり、証拠にならず、向うには殿様から、暇があったら夜にでも宅へ参って釣道具の損じを直して呉れとの頼みの手紙がある事ゆえ、表沙汰にいたしますれば、主人は必ず隣へ対し、義理にも私はお暇に成るに違いはありません、さすれば後にて二人の者が思うがまゝに殿様を殺しますから、どうあっても彼のお邸は出られんと今日まで胸を摩って居りましたが、明日は愈々中川へ釣にお出になる当日ゆえ、それとなく今日殿様に明日の漁をお止め申しましたが、お聞入れがありませんから、止むを得ず、今宵の内に二人の者を殺し、其の場で私が切腹すれば、殿様のお命に別条はないと思い詰め、槍を提げて庭先へ忍んで様子を窺いました」 相「誠に感心感服、アヽ恐れ入ったね、忠義な事だ、誠に何うも、それだから娘より私が惚れたのだ、お前の志は天晴なものだ、其の様な奴は突放しで宜いよ、腹は切らんでも宜いよ、私が何のようにもお頭に届を出して置くよ、それから何うした」 孝「そういたしますると、廊下を通る寝衣姿は慥に源次郎と思い、繰出す槍先あやまたず、脇腹深く突き込みましたところ間違って主人を突いたのでございます」 相「ヤレハヤ、それはなんたることか、併し疵は浅かろうか」 孝「いえ、深手でございます」 相「イヤハヤどうも、なぜ源次郎と声を掛けて突かないのだ、無闇に突くからだ、困った事をやったなア、だが過って主人を突いたので、お前が不忠者でない悪人でない事は御主人は御存じだろうから、間違いだと云う事を御主人へ話したろうね」 孝「主人は疾くより得心にて、わざと源次郎の姿と見違えさせ、私に突かせたのでござります」 相「これはマア何ゆえそんな馬鹿な事をしたんだ」 孝「私には深い事は分りませんが、此のお書置に委しい事がございますから」  と差出す包を、 相「拝見いたしましょう、どれこれかえ、大きな包だ、前掛が入っている、ナニ婆やアのだ、なぜこんな所に置くのだ、そっちへ持って行け、コレ本の間に眼鏡があるから取ってくれ」  と眼鏡を掛け、行灯の明り掻き立て読下して相川も、ハッとばかりに溜息をついて驚きました。         十四  伴藏は畑へ転がりましたが、両人の姿が見えなくなりましたから、慄えながらよう〳〵起上り、泥だらけの儘家へ駈け戻り、 伴「おみねや、出なよ」 みね「あいよ、どうしたえ、まア私は熱かったこと、膏汗がビッショリ流れる程出たが、我慢をして居たよ」 伴「手前は熱い汗をかいたろうが、己ア冷てえ汗をかいた、幽霊が裏窓から這入って行ったから、萩原様は取殺されて仕舞うだろうか」 みね「私の考えじゃア殺すめえと思うよ、あれは悔しくって出る幽霊ではなく、恋しい〳〵と思っていたのに、お札が有って這入れなかったのだから、是が生きている人間ならば、お前さんは余りな人だとか何とか云って口説でも云う所だから殺す気遣はあるまいよ、どんな事をしているか、お前見ておいでよ」 伴「馬鹿をいうな」 みね「表から廻ってそっと見ておいでヨウ〳〵」  といわれるから、伴藏は抜足して萩原の裏手へ廻り、暫らくして立帰り、 みね「大層長かったね、どうしたえ」 伴「おみね、成程手前の云う通り、何だかゴチャ〳〵話し声がするようだから覗いて見ると、蚊帳が吊って有って何だか分らないから、裏手の方へ廻るうちに、話し声がパッタリとやんだようだから、大方仲直りが有って幽霊と寝たのかも知れねえ」 みね「いやだよ、詰らない事をお云いでない」  という中に夜もしら〳〵と明け離れましたから、 伴「おみね、夜が明けたから萩原様の所へ一緒に往って見よう」 みね「いやだよ私ゃ夜が明けても怖くっていやだよ」  というのを、 伴「マア往きねえよ」  と打連れだち。 伴「おみねや、戸を明けねえ」 みね「いやだよ、何だか怖いもの」 伴「そんな事を云ったって、手前が毎朝戸を明けるじゃアねえか、ちょっと明けねえな」 みね「戸の間から手を入れてグッと押すと、栓張棒が落ちるから、お前お明けよ」 伴「手前そんな事を云ったって、毎朝来て御膳を炊いたりするじゃアねえか、それじゃア手前手を入れて栓張だけ外すがいゝ」 みね「私ゃいやだよ」 伴「それじゃアいゝや」  と云いながら栓張を外し、戸を引き開けながら、 伴「御免ねえ、旦那え〳〵夜が明けやしたよ、明るくなりやしたよ、旦那え、おみねや、音も沙汰もねえぜ」 みね「それだからいやだよ」 伴「手前先へ入れ、手前はこゝの内の勝手をよく知っているじゃアねえか」 みね「怖い時は勝手も何もないよ」 伴「旦那え〳〵、御免なせえ、夜が明けたのに何怖いことがあるものか、日の恐れがあるものを、なんで幽霊がいるものか、だがおみね世の中に何が怖いッて此の位怖いものア無えなア」 みね「あゝ、いやだ」  伴藏は呟きながら中仕切の障子を明けると、真暗で、 伴「旦那え〳〵、よく寝ていらッしゃる、まだ生体なく能く寝ていらッしゃるから大丈夫だ」 みね「そうかえ、旦那、夜が明けましたから焚きつけましょう」 伴「御免なせえ、私が戸を明けやすよ、旦那え〳〵」  と云いながら床の内を差覗き、伴藏はキャッと声を上げ、 「おみねや、己アもう此の位な怖いもなア見た事はねえ」  とおみねは聞くよりアッと声をあげる。 伴「おゝ手前の声でなお怖くなった」 みね「何うなっているのだよ」 伴「何うなったの斯うなったのと、実に何とも彼とも云いようのねえ怖えことだが、これを手前とおれと見たばかりじゃア掛合にでもなっちゃア大変だから、白翁堂の爺さんを連れて来て立合をさせよう」  と白翁堂の宅へ参り、 伴「先生〳〵伴藏でごぜえやす、ちょっとお明けなすって」 白「そんなに叩かなくってもいゝ、寝ちゃアいねえんだ、疾うに眼が覚めている、そんなに叩くと戸が毀れらア、どれ〳〵待っていろ、あゝ痛たゝゝゝ戸を明けたのに己の頭をなぐる奴があるものか」 伴「急いだものだから、つい、御免なせえ、先生ちょっと萩原様の所へ往って下せえ、何うかしましたよ、大変ですよ」 白「何うしたんだ」 伴「何うにも斯うにも、私が今おみねと両人でいって見て驚いたんだから、お前さん一寸立合って下さい」  と聞くより勇齋も驚いて、藜の杖を曳き、ポク〳〵と出掛けて参り、 白「伴藏お前先へ入んなよ」 伴「私は怖いからいやだ」 白「じゃアおみねお前先へ入れ」 みね「いやだよ、私だって怖いやねえ」 白「じゃアいゝ」  と云いながら中へ這入ったけれども、真暗で訳が分らない。 白「おみね、ちょっと小窓の障子を明けろ、萩原氏、どうかなすったか、お加減でも悪いかえ」  と云いながら、床の内を差覗き、白翁堂はわな〳〵と慄えながら思わず後へ下りました。         十五  相川新五兵衞は眼鏡を掛け、飯島の遺書をば取る手おそしと読み下しまするに、孝助とは一旦主従の契りを結びしなれども敵同士であったること、孝助の忠実に愛で、孝心の深きに感じ、主殺の罪に落さずして彼が本懐を遂げさせんがため、態と宮野邊源次郎と見違えさせ討たれしこと、孝助を急ぎ門外に出し遣り、自身に源次郎の寝室に忍び入り、彼が刀の鬼となる覚悟、さすれば飯島の家は滅亡致すこと、彼等両人我を打って立退く先は必定お國の親元なる越後の村上ならん、就いては汝孝助時を移さず跡追掛け、我が仇なる両人の生首提げて立帰り、主の敵を討ちたる廉を以て我が飯島の家名再興の儀を頭に届けくれ、其の時は相川様にもお心添えの程偏に願い度いとのこと、又汝は相川へ養子に参る約束を結びたれば、娘お徳どのと互いに睦ましく暮し、両人の間に出来た子供は男女に拘わらず、孝助の血統を以て飯島の相続人と定めくれ、後は斯々云々と、実に細かに届く飯島の家来思いの切なる情に、孝助は相川の遺書を読む間、息をもつかず聞いていながら、膝の上へぽたり〳〵と大粒な熱い涙を零していましたが、突然剣幕を変えて表の方へ飛出そうとするを、 相「これ孝助殿、血相変えて何処へ行きなさる」  と云われて孝助は泣声を震わせ、 孝「只今お遺書の御様子にては、主人は私を急いで出し、後で客間へ踏込んで源次郎と闘うとの事ですが、如何に源次郎が剣術を知らないでも、殿様があんな深傷にてお立合なされては、彼が無残の刃の下に果敢なくお成りなされるは知れた事、みす〳〵敵を目の前に置きながら、恩あり義理ある御主人を彼等に酷く討たせますは実に残念でござりますから、直に取って返し、お助太刀を致す所存でございます」 相「分らない事を云わっしゃるな、御主人様が是だけの遺書をお遣わしなさるは何の為めだと思わッしゃる、そんな事をしなさると、飯島の家が潰れるから、邸へ行く事は明朝までお待ち、此の遺書の事を心得てこれを反故にしてはならんぜ」  と亀の甲より年の功、流石老巧の親身の意見に孝助はかえす言葉もありませんで、口惜がり、唯身を震わして泣伏しました。話かわって飯島平左衞門は孝助を門外に出し、急ぎ血潮滴たる槍を杖とし、蟹のように成ってよう〳〵に縁側に這い上がり、蹌めく足を踏みしめ踏みしめ、段々と廊下を伝い、そっと客間の障子を開き中へ入り、十二畳一杯に釣ってある蚊帳の釣手を切り払い、彼方へはねのけ、グウ〳〵とばかり高鼾で前後も知らず眠ている源次郎の頬の辺りを、血に染みた槍の穂先にてペタリ〳〵と叩きながら、 飯「起ろ〳〵」  と云われて源次郎頬が冷やりとしたに不図目を覚し、と見れば飯島が元結はじけて散し髪で、眼は血走り、顔色は土気色になり、血の滴たる手槍をピタリッと付け立っている有様を見るより、源次郎は早くも推し、アヽヽこりア流石飯島は智慧者だけある、己と妾のお國と不義している事を覚られたか、さなくば例の悪計を孝助奴が告げ口したに相違なし、何しろ余程の腹立だ、飯島は真影流の奥儀を極めた剣術の名人で、旗下八万騎の其の中に、肩を並ぶるものなき達人の聞えある人に槍を付けられた事だから、源次郎はぎょっとして、枕頭の一刀を手早く手元に引付けながら、慄える声を出して、 源「伯父様、何をなさいます」  と一生懸命面色土気色に変わり、眼色血走りました。飯島も面色土気色で目が血走りているから、あいこでせえでございます。源次郎は一刀の鍔前に手を掛けてはいるものゝ、気憶れがいたし刃向う事は出来ませんで竦んで仕舞いました。 源「伯父様、私をどうなさるお積りで」  飯島は深傷を負いたる事なれば、震える足を踏み止めながら、 飯「何事とは不埓な奴だ、汝が疾より我が召使國と不義姦通しているのみならず、明日中川にて漁船より我を突き落し、命を取った暁に、うま〳〵此の飯島の家を乗取らんとの悪だくみ、恩を仇なる汝が不所存、云おう様なき人非人、此の場に於て槍玉に揚げてくれるから左様心得ろ」  と云い放たれて、源次郎は、剣術はからっ下手にて、放蕩を働き、大塚の親類に預けられる程な未熟不鍛錬な者なれども、飯島は此の深傷にては彼の刃に打たれて死するに相違なし、併し打たれて死ぬまでも此の槍にてしたゝかに足を突くか手を突いて、亀手か跛足にでもして置かば、後日孝助が敵討を為る時幾分かの助けになる事もあるだろうから、何処かを突かんと狙い詰められ、 源「伯父さま私は何も槍で突かれる様な覚えはございません」 飯「黙れ」  と怒りの声を振立てながら、一歩進んで繰出す槍鋒鋭く突きかける。源次郎はアッと驚き身を交したが受け損じ、太股へ掛けブッツリと突き貫き、今一本突こうとしましたが、孝助に突かれた深傷に堪え兼ね、蹌々とする所を、源次郎は一本突かれ死物狂いになり、一刀を抜くより早く飛込みさま飯島目掛けて切り付ける。切付けられてアッと云って蹌めく処へ、又、太刀深く肩先へ切込まれ、アッと叫んで倒れる処へ乗し掛って、恰で河岸で鮪でもこなす様に切って仕舞いました。お國は中二階に寝ていましたが、此の物音を聞き附け、寝衣の儘に階子を降り、そっと来て様子を窺うと、此の体裁に驚き、慌てゝ二階へ上ったり下へ下りたりしていると、源次郎が飯島に止めを刺したようだから、お國は側へ駈付けて、 國「源さま、貴方にお怪我はございませんか」  源次郎は肩息をつきフウ〳〵とばかりで返事も致しません。 國「あなた黙っていては分りませんよ、お怪我はありませんか」  といわれて源次郎はフウ〳〵といいながら、 源「怪我はないよ、誰だ、お國さんか」 國「貴方のお足から大層血が出ますよ」 源「これは槍で突かれました、手強い奴と思いの外なアにわけはなかった、併し此処に何時迄こうしては居られないから、両人で一緒に何処へなりとも落延びようから、早く支度をしな」  と云われてお國は成程そうだと急ぎ奥へ駈戻り、手早く身支度をなし、用意の金子や結構な品々を持来り、 國「源さまこの印籠をお提げなさいよ、この召物を召せ」  と勧められ、源次郎は着物を幾枚も着て、印籠を七つ提げて、大小を六本揷し、帯を三本締めるなど大変な騒ぎで、漸々支度が整ったから、お國とともに手を取って忍び出でようとする処を、仲働きの女中お竹が、先程より騒々しい物音を聞付け、来て見れば此の有様に驚いて、 「アレ人殺し」  という奴を、源次郎が驚いて、此の声人に聞かれてはと、一刀抜くより飛込んで、デップリ肥って居る身体を、肩口から背びらへ掛けて斬付ける。斬られてお竹はキャッと声をあげて其の儘息は絶えました。他の女どもゝ驚いて下流しへ這込むやら、又は薪箱の中へ潜り込むやら騒いでいる中に、源次郎お國の両人は此処を忍び出で、何処ともなく落ちて行く。後で源助は奥の騒ぎを聞きつけて、いきなり自分の部屋を飛びだし、拳を振って隣家の塀を打ち叩き、破れるような声を出して、 源「狼藉ものが這入りました〳〵」  と騒ぎ立てるに、隣家の宮野邊源之進はこれを聞附け思う様、飯島のごとき手者の処へ押入る狼藉ものだから、大勢徒党したに相違ないから、成るたけ遅くなって、夜が明けて往く方がいゝと思い先ず一同を呼起し、蔵へまいって著込を持ってまいれの、小手脛当の用意のと云っているうちに、夜はほの〴〵と明け渡りたれば、もう狼藉者はいる気遣はなかろうと、源之進は家来一二人を召連れ来て見れば此の始末。如何したる事ならんと思うところへ、一人の女中が下流しから這上り、源之進の前に両手をつかえ、 「実は昨晩の狼藉者は、貴方様の御舎弟源次郎様とお國さんと、疾うから密通してお出でになって、昨夜殿様を殺し、金子衣類を窃取り、何処ともなく逃げました」  と聞いて源之進は大いに驚き、早速に邸へ立帰り、急ぎお頭へ向け源次郎が出奔の趣の届を出す。飯島の方へはお目附が御検屍に到来して、段々死骸を検め見るに、脇腹に槍の突傷がありましたから、源次郎如き鈍き腕前にては兎ても飯島を討つ事は叶うまじ、されば必ず飯島の寝室に忍び入り、熟睡の油断に附入りて槍を以て欺し討ちにした其の後に、刀を以て斬殺したに相違なしということで、源次郎はお尋ね者となりましたけれども、飯島の家は改易と決り、飯島の死骸は谷中新幡随院へおくり、こっそりと野辺送りをしてしまいました。こちらは孝助、御主人が私の為めに一命をお捨てなされた事なるかと思えば、いとゞ気もふさぎ、欝々としていますと、相川はお頭から帰って、 相「婆アや、少し孝助殿と相談があるから此方へ来てはいかんよ、首などを出すな」 婆「何か御用で」 相「用じゃないのだよ、そっちへ引込んでいろ、これ〳〵茶を入れて来い、それから仏様へ線香を上げな、さて孝助殿少し話したい事もあるから、まア〳〵此方へ〳〵、誰にもいわれんが、先以て御主人様のお遺書通りに成るから心配するには及ばん、お前は親の敵は討ったから、是からは御主人は御主人として、其の敵を復し、飯島のお家再興だよ」 孝「仰せに及ばず、もとより敵討の覚悟でございます、此の後万事に付き宜しくお心添の程を願います」 相「此の相川は年老いたれども、其の事は命に掛けて飯島様の御家の立つように計らいます、そこでお前は何日敵討に出立なさるえ」 孝「最早一刻も猶予致す時でございませんゆえ、明早天出立致す了簡です」 相「明日直ぐに、左様かえ、余り早や過ぎるじゃないか、宜しい此の事ばかりは留められない、もう一日々々と引き広ぐ事は出来ないが、お前の出立前に私が折入って頼みたい事があるが、どうか叶えては下さるまいか」 孝「何のような事でも宜しゅうございます」 相「お前の出立前に娘お徳と婚礼の盃だけをして下さい、外に望みは何もない、どうか聞済んで下さい」 孝「一旦お約束申した事ゆえ、婚礼を致しまして宜しいようなれど、主人よりのお約束申したは来年の二月、殊に目の前にて主人があの通りになられましたのに、只今婚礼を致しましては主人の位牌へ対して済みません、敵討の本懐を遂げ立帰り、目出度く婚礼を致しますれば、どうぞそれ迄お待ち下さるように願います」 相「それはお前の事だから、遠からず本懐を遂げて御帰宅になるだろうが、敵の行方が知れない時は、五年で帰るか十年でお帰りになるか、幾年掛るか知れず、それに私はもう取る年、明日をも知れぬ身の上なれば、此の悦びを見ぬ内帰らぬ旅に赴く事があっては冥途の障り、殊に娘も煩う程お前を思っていたのだから、どうか家内だけで、盃事を済ませて置いて、安心させてくださいな、それにお前も飯島の家来では真鍮巻の木刀を差して行かなければならん、それより相川の養子となり、其の筋へ養子の届をして、一人前の立派な侍に出立って往来すれば、途中で人足などに馬鹿にもされず宜かろうから、何うぞ家内だけの祝言を聞済んでください」 孝「至極御尤もなる仰せです、家内だけなれば違背はございません」 相「御承知くだすったか、千万忝けない、あゝ有難い、相川は貧乏なれども婚礼の入費の備えとして五六十両は掛ると見込んで、別にして置いたが、これはお前の餞別に上げるから持って行っておくれ」 孝「金子は主人から貰いましたのが百両ございますから、もう入りません」 相「アレサいくら有っても宜いのは金、殊に長旅のことなれば、邪魔でもあろうがそう云わずに持って行ってください、そこで私が細い金を選って、襦袢の中へ縫い込んで置く積りだから、肌身離さず身に著けて置きなさい、道中には胡麻の灰という奴があるから随分気をお付けなさい、それに此の矢立をさしてお出で、又これなる一刀は予ねて約束して置いた藤四郎吉光の太刀、重くもあろうが差してお呉れ、是と御主人のお形見天正助定を差して行けば、舅と主人がお前の後影に付添っているも同様、勇ましき働きをなさいまし」 孝「有りがとうございます」 相「何うか今夜不束な娘だが婚礼をしてくだされ、これ婆、明日は孝助殿が目出度く御出立だ、そこで目出度い序でに今夜婚礼をする積りだから、徳に髪でも取り上げさせ、お化粧でもさせて置いてくれ、其の前に仕事がある、此の金を襦袢へ縫込んでくれ、善藏や、手前は直に水道町の花屋へ行って、目出度く何か頭付きの魚を三枚ばかり取って来い、序でに酒屋へ行って酒を二升、味淋を一升ばかり、それから帰りに半紙を十帖ばかりに、煙草を二玉に、草鞋の良いのを取って参れ」  といい付け、そうこうするうちに支度も整いましたから、酒肴を座敷に取並べ、媒妁なり親なり兼帯にて、相川が四海浪静かにと謡い、三々九度の盃事、祝言の礼も果て、先ずお開きと云う事になる。 相「あゝ〳〵婆ア、誠に目出度かった」 婆「誠にお目出とう存じます、私はお嬢様のお少さい時分からお附き申して御婚礼をなさるまで御奉公いたしましたかと存じますと、誠に嬉しゅうございます、あなた嘸御安心でございましょう」 相「婆ア宜かえ、頼むよ、おいらは明日の朝早く起るから、お前飯を炊かして、孝助殿に尾頭付きでぽッぽッと湯気の立つ飯を食べさして立たせてやりたいから、いゝかえ、緩りとお休み、先ずお開と致しましょう、孝助殿どうか幾久しく願います、娘はまだ年もいかず、世間知らずの不束者だから何分宜しくお頼み申す、氷人は宵の中だから、婆アいゝかえ、頼んだぜ」 婆「貴方は頼む〳〵と仰しゃって何でございます」 相「分らない婆アだな、嬢の事をサ、あすこへちょっと屏風を立廻して、恥かしくないように、宜しいか、それがサ誠に彼女が恥かしがって、もじ〳〵としているだろうから旨くソレ」 婆「旦那様なんのお手付きでございますよ」 相「此奴わからぬ奴だナ、手前だって亭主を持ったから子供が出来たのだろう、子供が出来たのち乳が出て、乳母に出たのだろう、ホレ娘は年がいかないからいゝ塩梅にホレ、いゝか」 婆「貴方は本当に何時までもお嬢様をお少さいように思召ていらっしゃいますよ、大丈夫でございますよ」 相「成程目出たい、宜いかえ頼むよ」 婆「旦那様、お嬢様お休み遊ばせ」  と云っても、孝助はお國源次郎の跡を追い掛け、兎や斯うと種々心配などして腕こまねき、床の上に坐り込んでいるから、お徳も寝るわけにもいかず坐っているから、 婆「左様なれば旦那様御機嫌様宜しく、お嬢様先程申しました事は宜しゅうございますか」 徳「貴方少しお静まり遊ばせな」 孝「私は少し考え事がありますから、あなたお構いなくお先へお休みなすって下さいまし」 徳「婆やア一寸来ておくれ」 婆「ハイ、何でございます」 徳「旦那様がお休みなさらなくって」  と云いさして口ごもる。 婆「貴方お静まりあそばせ、それではお嬢様がお休みなさる事が出来ませんよ」 孝「只今寝ます、どうかお構いなく」 婆「誠にどうもお堅過でお気が詰りましょう、御機嫌様よろしゅう」 徳「あなた少しお横におなり遊ばしまし」 孝「どうかお先へお休みなさい」 徳「婆やア」 婆「困りますねえ、あなた少しお休みあそばせ」 徳「婆やア」  とのべつに呼んでいるから孝助も気の毒に思い、横になって枕をつけ、玉椿八千代までと思い思った夫婦中、初めての語らい、誠にお目出たいお話でございます。翌日になると、暗いうちから孝助は支度をいたし、 相「これ〳〵婆アや、支度は出来たかえ、御膳を上げたか、湯気は立ったかえ、善藏に板橋まで送らせて遣る積りだから、荷物は玄関の敷台まで出して置きな、孝助殿御膳を上れ」 孝「お父様御機嫌よろしゅう、長い旅ですからつど〳〵書面を上る訳にも参りません、唯心配になるのはお父様のお身体、どうか私が本懐を遂げ帰宅致すまで御丈夫にお出であそばせよ、敵の首を提げてお目に掛け、お悦びのお顔が見とうございます」 相「お前も随分身体を大事にして下さい、どうか立派に出立して下さい、種々と云いたい事もあるが、キョト〳〵して云えないから何も云いません、娘何んで袖を引張るのだ」 徳「お父様、旦那様は今日お立ちになりましたら、いつ頃お帰宅になるのでございますのでしょう」 相「まだ分らぬ事をいう、いつまでも少さい子供のような気でいちゃアいけないぜ、旦那さまは御主人の敵討に御出立なさるので、伊勢参宮や物見遊山に往くのではない、敵を討ち遂げねばお帰りにはならない、何だ泣ッ面をして」 徳「でも大概いつ頃お帰りになりましょうか」 相「おれにも五年かゝるか十年かゝるか分らない」 徳「そんなら五年も十年もお帰りあそばさないの」  と云いながら潜々と泣き萎れる。 相「これ、何が悲しい、主の敵を討つなどゝ云う事は、侍の中にも立派な事だ、かゝる立派な亭主を持ったのは有難いと思え、目出度い出立だ、何故笑い顔をして立たせない、手前が未練を残せば少禄の娘だから未練だ、意気地がないと孝助殿に愛想を尽かされたら何うする、孝助殿歳がいかない子供のような娘だから、気にかけて下さるな、婆ア何を泣く」 婆「私だってお名残りが惜しいから泣きます、貴方も泣いて入らっしゃるではございませんか」 相「己は年寄だから宜しい」  と言訳をしながら泣いていると、孝助は、 「さようならば御機嫌よろしゅう」  と玄関の敷台を下り草鞋を穿こうとする、其の側へお徳はすり寄り袂を控え、涙に目もとをうるましながら、 「御機嫌様よろしく」  と縋り付くを孝助は慰め、善藏に送られ出立しました。         十六  白翁堂勇齋は萩原新三郎の寝所を捲くり、実にぞっと足の方から総毛立つほど怖く思ったのも道理、萩原新三郎は虚空を掴み、歯を喰いしばり、面色土気色に変り、余程な苦しみをして死んだものゝ如く、其の脇へ髑髏があって、手とも覚しき骨が萩原の首玉にかじり付いており、あとは足の骨などがばら〳〵になって、床の中に取散らしてあるから、勇齋は見て恟りし、 白「伴藏これは何だ、おれは今年六十九に成るが、斯んな怖ろしいものは初めて見た、支那の小説なぞにはよく狐を女房にしたの、幽霊に出逢ったなぞと云うことも随分あるが、斯様な事にならないように、新幡随院の良石和尚に頼んで、有難い魔除の御守を借り受けて萩原の首を掛けさせて置いたのに、何うも因縁は免れられないもので仕方がないが、伴藏首に掛けて居る守を取って呉れ」 伴「怖いから私ゃアいやだ」 白「おみね、こゝへ来な」 みね「私もいやですよ」 白「何しろ雨戸を明けろ」  と戸を明けさせ、白翁堂が自ら立って萩原の首に掛けたる白木綿の胴巻を取外し、グッとしごいてこき出せば、黒塗光沢消の御厨子にて、中を開けばこは如何に、金無垢の海音如来と思いの外、いつしか誰か盗んですり替えたるものと見え、中は瓦に赤銅箔を置いた土の不動と化してあったから、白翁堂はアッと呆れて茫然と致し、 白「伴藏これは誰が盗んだろう」 伴「なんだか私にゃアさっぱり訳が分りません」 白「これは世にも尊き海音如来の立像にて、魔界も恐れて立去るという程な尊い品なれど、新幡随院の良石和尚が厚い情の心より、萩原新三郎を不便に思い、貸して下され、新三郎は肌身放さず首にかけていたものを、何うして斯様にすり替えられたか、誠に不思議な事だなア」 伴「成程なア、私どもにゃア何だか訳が分らねえが、観音様ですか」 白「伴藏手前を疑る訳じゃアねえが、萩原の地面内に居る者は己と手前ばかりだ、よもや手前は盗みはしめえが、人の物を奪う時は必ず其の相に顕われるものだ、伴藏一寸手前の人相を見てやるから顔を出せ」  と懐中より天眼鏡を取出され、伴藏は大きに驚き、見られては大変と思い。 伴「旦那え、冗談いっちゃアいけねえ、私のような斯んな面は、どうせ出世の出来ねえ面だから見ねえでもいゝ」  と断る様子を白翁堂は早くも推し、ハヽアこいつ伴藏がおかしいなと思いましたが、なまなかの事を云出して取逃がしてはいかぬと思い直し、 白「おみねや、事柄の済むまでは二人でよく気を付けて居て、成たけ人に云わないようにしてくれ、己は是から幡随院へ行って話をして来る」  と藜の杖を曳きながら幡随院へやって来ると、良石和尚は浅葱木綿の衣を着し、寂寞として坐布団の上に坐っている所へ勇齋入り来たり、 白「これは良石和尚いつも御機嫌よろしく、とかく今年は残暑の強い事でございます」 良「やア出て来たねえ、此方へ来なさい、誠に萩原も飛んだことになって、到頭死んだのう」 白「えゝあなたはよく御存じで」 良「側に悪い奴が附いて居て、又萩原も免れられない悪因縁で仕方がない、定まるこッちゃ、いゝわ心配せんでもよいわ」 白「道徳高き名僧智識は百年先の事を看破るとの事だが、貴僧の御見識誠に恐れ入りました、就きまして私が済まない事が出来ました」 良「海音如来などを盗まれたと云うのだろうが、ありゃア土の中に隠してあるが、あれは来年の八月には屹度出るから心配するな、よいわ」 白「私は陰陽を以って世を渡り、未来の禍福を占って人の志を定むる事は、私承知して居りますけれども、こればかりは気が付きませなんだ」 良「どうでもよいわ、萩原の死骸は外に菩提所も有るだろうが、飯島の娘お露とは深い因縁がある事故、あれの墓に並べて埋めて石塔を建てゝやれ、お前も萩原に世話になった事もあろうから施主に立ってやれ」  と云われ白翁堂は委細承知と請をして寺をたち出で、路々も何うして和尚があの事を早くも覚ったろうと不思議に思いながら帰って来て、 白「伴藏、貴様も萩原様には恩になっているから、野辺の送りのお供をしろ」  と跡の始末を取り片付け、萩原の死骸は谷中の新幡随院へ葬ってしまいました。伴藏は如何にもして自分の悪事を匿そうため、今の住家を立退かんとは思いましたけれども、慌てた事をしたら人の疑いがかゝろう、あゝもしようか、こうもしようかとやっとの事で一策を案じ出し、自分から近所の人に、萩原様の所へ幽霊の来るのを己が慥かに見たが、幽霊が二人でボン〳〵をして通り、一人は島田髷の新造で、一人は年増で牡丹の花の付いた灯籠を提げていた、あれを見る者は三日を待たず死ぬから、己は怖くて彼処にいられないなぞと云触すと、聞く人々は尾に尾を付けて、萩原様の所へは幽霊が百人来るとか、根津の清水では女の泣声がするなど、さま〴〵の評判が立ってちり〴〵人が他へ引起してしまうから、白翁堂も薄気味悪くや思いけん、此処を引払って、神田旅籠町辺へ引越しました。伴藏おみねはこれを機に、何分怖くて居られぬとて、栗橋在は伴藏の生れ故郷の事なれば、中仙道栗橋へ引越しました。         十七  伴藏は悪事の露顕を恐れ、女房おみねと栗橋へ引越し、幽霊から貰った百両あれば先ずしめたと、懇意の馬方久藏を頼み、此の頃は諸式が安いから二十両で立派な家を買取り、五十両を資本に下し荒物見世を開きまして、関口屋伴藏と呼び、初めの程は夫婦とも一生懸命働いて、安く仕込んで安く売りましたから、忽ち世間の評判を取り、関口屋の代物は値が安くて品がいゝと、方々から押掛けて買いに来るほどゆえ、大いに繁昌を極めました。凡夫盛んに神祟りなし、人盛んなる時は天に勝つ、人定まって天人に勝つとは古人の金言宜なるかな、素より水泡銭の事なれば身につく道理のあるべき訳はなく、翌年の四月頃から伴藏は以前の事も打忘れ少し贅沢がしたくなり、絽の小紋の羽織が着たいとか、帯は献上博多を締めたいとか、雪駄が穿いて見たいとか云い出して、一日同宿の笹屋という料理屋へ上り込み、一盃やっている側に酌取女に出た別嬪は、年は二十七位だが、何うしても廿三四位としか見えないという頗る代物を見るよりも、伴藏は心を動かし、二階を下りて此の家の亭主に其の女の身上を聞けば、さる頃夫婦の旅人が此の家へ泊りしが、亭主は元は侍で、如何なる事か足の疵の痛み烈しく立つ事ならず、一日々々との長逗留、遂に旅用をも遣いはたし、そういつ迄も宿屋の飯を食ってもいられぬ事なりとて、夫婦には土手下へ世帯を持たせ、女房は此方へ手伝い働き女として置いて、僅かな給金で亭主を見継いでいるとかの話を聞いて、伴藏は金さえ有れば何うにもなると、其の日は幾許か金を与え、綺麗に家に帰りしが、これよりせっ〳〵と足近く笹屋に通い、金びら切って口説きつけ、遂に彼の女と怪しい中になりました。一体此の女は飯島平左衞門の妾お國にて、宮野邊源次郎と不義を働き、剰さえ飯島を手に掛け、金銀衣類を奪い取り、江戸を立退き、越後の村上へ逃出しましたが、親元絶家して寄るべなきまゝ、段々と奥州路を経囘りて下街道へ出て参り此の栗橋にて煩い付き、宿屋の亭主の情を受けて今の始末、素より悪性のお國ゆえ忽ち思う様、此の人は一代身上俄分限に相違なし、此の人の云う事を聞いたなら悪い事もあるまいと得心したる故、伴藏は四十を越して此のような若い綺麗な別嬪にもたつかれた事なれば、有頂天界に飛上り、これより毎日こゝにばかり通い来て寝泊りを致しておりますと、伴藏の女房おみねは込上る悋気の角も奉公人の手前にめんじ我慢はしていましたが、或日のこと馬を牽いて店先を通る馬子を見付け、 みね「おや久藏さん、素通りかえ、余りひどいね」 久「ヤアお内儀さま、大きに無沙汰を致しやした、ちょっくり来るのだアけど今ア荷い積んで幸手まで急いでゆくだから、寄っている訳にはいきましねえが、此間は小遣を下さって有難うごぜえます」 みね「まアいゝじゃアないか、お前は宅の親類じゃないか、一寸お寄りよ、一ぱい上げたいから」 久「そうですかえ、それじゃア御免なせい」  と馬を店の片端に結い付け、裏口から奥へ通り、 久「己ア此家の旦那の身寄りだというので、皆に大きに可愛がられらア、この家の身上は去年から金持になったから、おらも鼻が高い」  と話の中におみねは幾許か紙に包み、 みね「なんぞ上げたいが、余まり少しばかりだが小遣にでもして置いておくれよ」 久「これアどうも、毎度戴いてばかりいて済まねえよ、いつでも厄介になりつゞけだが、折角の思し召しだから頂戴いたして置きますべい、おや触って見た所じゃアえらく金があるようだから単物でも買うべいか、大きに有難うござります」 みね「何だよそんなにお礼を云われては却って迷惑するよ、ちょいとお前に聞きたいのだが、宅の旦那は、四月頃から笹屋へよくお泊りなすって、お前も一緒に行って遊ぶそうだが、お前は何故私に話をおしでない」 久「おれ知んねえよ」 みね「おとぼけで無いよ、ちゃんと種が上っているよ」 久「種が上るか下るか己らア知んねえものを」 みね「アレサ笹屋の女のことサ、ゆうべ宅の旦那が残らず白状してしまったよ、私はお婆さんになって嫉妬をやく訳ではないが旦那の為を思うから云うので、あの通りな粋な人だから、悉皆と打明けて、私に話して、ゆうべは笑ってしまったのだが、お前が余りしらばっくれて、素通りをするから呼んだのさ、云ったッて宜いじゃアないかえ」 久「旦那どんが云ったけえ、アレマアわれさえ云わなければ知れる気遣えはねえ、われが心配だというもんだから、お前さまの前へ隠していたんだ、夫婦の情合だから、云ったらお前も余り心持も好くあんめえと思ったゞが、そうけえ旦那どんが云ったけえ、おれ困ったなア」 みね「旦那は私に云って仕舞ったよ、お前と時々一緒に行くんだろう」 久「あの阿魔女は屋敷者だとよ、亭主は源次郎さんとか云って、足へ疵が出来て立つ事が出来ねえで、土手下へ世帯を持っていて、女房は笹屋へ働き女をしていて、亭主を過しているのを、旦那が聞いて気の毒に思い、可愛相にと思って、一番始め金え三分くれて、二度目の時二両後から三両それから五両、一ぺんに二十両やった事もあった、ありゃお國さんとか云って廿七だとか云うが、お前さんなんぞより余程綺…ナニお前さまとは違え、屋敷もんだから不意気だが、なか〳〵美い女だよ」 みね「何かえ、あれは旦那が遊びはじめたのは何時だッけねえ、ゆうべ聞いたがちょいと忘れて仕舞った、お前知っているかえ」 久「四月の二日からかねえ」 みね「呆れるよ本当にマア四月から今まで私に打明けて話しもしないで、呆れかえった人だ、どんなに私が鎌を掛けて宅の人に聞いても何だの彼だのとしらばっくれていて、ありがたいわ、それですっかり分った」 久「それじゃア旦那は云わねえのかえ」 みね「当前サ、旦那が私に改まってそんな馬鹿な事をいう奴があるものかね」 久「アレヘエそれじゃアおらが困るべいじゃアねえか、旦那どんが己れにわれえ喋るなよと云うたに、困ったなア」 みね「ナニお前の名前は出さないから心配おしでないよ」 久「それじゃア私の名前を出しちゃアいかねえよ、大きに有難うござりました」  と久藏は立帰る。おみねは込上る悋気を押え、夜延をして伴藏の帰りを待っていますと、 伴「文助や明けてくれ」 文「お帰り遊ばせ」 伴「店の者も早く寝てしまいな、奥ももう寝たかえ」  といいながら奥へ通る。 伴「おみね、まだ寝ずか、もう夜なべはよしねえ、身体の毒だ、大概にして置きな、今夜は一杯飲んで、そうして寝よう、何か肴は有合でいゝや」 みね「何もないわ」 伴「かくやでもこしらえて来てくんな」 みね「およしよ、お酒を宅で飲んだって旨くもない、肴はなし、酌をする者は私のようなお婆さんだから、どうせ気に入る気遣いはない、それよりは笹屋へ行ってお上りよ」 伴「そりゃア笹屋は料理屋だから何んでもあるが、寝酒を飲むんだから一寸海苔でも焼いて持って来ねえな」 みね「肴はそれでも宜いとした所が、お酌が気に入らないだろうから、笹屋へ行ってお國さんにお酌をしてお貰いよ」 伴「気障なことを云うな、お國が何うしたんだ」 みね「おまえは何故そう隠すんだえ、隠さなくってもいゝじゃアないかえ、私が十九や廿の事ならばお前の隠すも無理ではないが、こうやってお互いにとる年だから、隠しだてをされては私が誠に心持が悪いからお云いな」 伴「何をよう」 みね「お國さんの事をサ、美い女だとね、年は廿七だそうだが、ちょっと見ると廿二三にしか見えない位な美い娘で、私も惚々するくらいだから、ありゃア惚れてもいゝよ」 伴「何だかさっぱり分らねえ、今日昼間馬方の久藏が来やアしなかったか」 みね「いゝえ来やアしないよ」 伴「おれも此の節は拠ろない用で時々宅を明けるものだから、お前がそう疑ぐるのも尤もだが、そんな事を云わないでもいゝじゃアねえか」 みね「そりゃア男の働きだから何をしたっていゝが、お前のためだから云うのだよ、彼の女の亭主は双刀さんで、其の亭主の為にあゝやっているんだそうだから、亭主に知れると大変だから、私も案じられらアね、お前は四月の二日から彼の女に係り合っていながら、これッぱかりも私に云わないのは酷いよ、そいっておしまいなねえ」 伴「そう知っていちゃア本当に困るなア、あれは己が悪かった、面目ねえ、堪忍してくれ、おれだってお前に何か序でがあったら云おうと思っていたが、改まってさてこういう色が出来たとも云いにくいものだから、つい黙っていた、おれも随分道楽をした人間だから、そう欺されて金を奪られるような心配はねえ大丈夫だ」 みね「そうサ初めての時三分やって、其の次に二両、それから三両と五両二度にやって、二十両一ぺんにやった事があったねえ」 伴「いろんな事を知っていやアがる、昼間久藏が来たんだろう」 みね「来やしないよ、それじゃアお前こうおしな、向の女も亭主があるのにお前に姦通くくらいだから、惚れているに違いないが、亭主が有っちゃア危険だから、貰い切って妾にしてお前の側へお置きよ、そうして私は別になって、私は関口屋の出店でございますと云って、別に家業をやって見たいから、お前はお國さんと二人で一緒に成ってお稼ぎよ」 伴「気障な事を云わねえがいゝ、別れるも何もねえじゃアねえか、あの女だって双刀の妾、主があるものだから、そう何時までも係り合っている気はねえのだが、ありゃア酔った紛れにツイ摘食いをしたので、己がわるかったから堪忍してくれろ、もう二度と彼処へ往きさえしなければ宜いだろう」 みね「行っておやりよ、あの女は亭主があってそんな事をする位だから、お前に惚れているんだからお出でよ」 伴「そんな気障な事ばかり云って仕様がねえな………」 みね「いゝから私ゃア別になりましょうよ」  と、くど〳〵云われて伴藏はグッと癪にさわり、 伴「なッてえ〳〵、これ四間間口の表店を張っている荒物屋の旦那だア、一人二人の色が有ったってなんでえ、男の働きで当前だ、若えもんじゃあるめえし、嫉妬を焼くなえ」 みね「それは誠に済みません、悪い事を申しました、四間間口の表店を張った旦那様だから、妾狂いをするのは当前だと、大層もない事をお云いでないよ、今では旦那だと云って威張っているが、去年まではお前は何だい、萩原様の奉公人同様に追い使われ小さな孫店を借ていて、萩原様から時々小遣を戴いたり、単物の古いのを戴いたりして何うやら斯うやらやっていたんじゃアないか、今斯うなったからと云ってそれを忘れて済むかえ」 伴「そんな大きな声で云わなくってもいゝじゃアねえか、店の者に聞えるといけねえやナ」 みね「云ったっていゝよ、四間間口の表店を張っている荒物屋の旦那だから、妾狂いが当前だなんぞと云って、先のことを忘れたかい」 伴「喧しいやい、出て行きやアがれ」 みね「はい、出て行きますとも、出て行きますからお金を百両私におくれ、これだけの身代になったのは誰のお蔭だ、お互にこゝまでやったのじゃアないか」 伴「恵比須講の商いみたように大した事をいうな、静かにしろ」 みね「云ったっていゝよ、本当にこれまで互に跣足になって一生懸命に働いて、萩原様の所にいる時も、私は煮焚掃除や針仕事をし、お前は使はやまをして駈ずりまわり、何うやら斯うやらやっていたが、旨い酒も飲めないというから、私が内職をして、偶には買って飲ませたりなんどして、八年以来お前のためには大層苦労をしているんだア、それを何だえ、荒物屋の旦那だとえ、御大層らしい、私ゃア今こう成ったッても、昔の事を忘れない為に、今でもこうやって木綿物を着て夜延をしている位なんだ、それにまだ一昨年の暮だっけ、お前が鮭のせんばいでお酒を飲みてえものだというから……」 伴「静にしろ、外聞がわりいや、奉公人に聞えてもいけねえ」 みね「いゝよ私ゃア云うよ、云いますよ、それから貧乏世帯を張っていた事だから、私も一生懸命に三晩寝ないで夜延をして、お酒を三合買って、鮭のせんばいで飲ませてやった時お前は嬉しがって、其の時何と云ったい、持つべきものは女房だと云って喜んだ事を忘れたかい」 伴「大きな声をするな、それだから己はもう彼処へ行かないというに」 みね「大きな声をしたっていゝよ、お前はお國さんの処へお出でよ、行ってもいゝよ、お前の方で余り大きな事を云うじゃアないか」  と尚々大きな声を出すから、伴藏は 「オヤこの阿魔」  といいながら拳を上げて頭を打つ、打たれておみねは哮り立ち、泣声を振り立て、 みね「何を打ちやアがるんだ、さア百両の金をおくれ、私ゃア出て参りましょう、お前は此の栗橋から出た人だから身寄もあるだろうが、私は江戸生れで、斯んな所へ引張られて来て、身寄親戚がないと思っていゝ気に成って、私が年を取ったもんだから女狂いなんぞはじめ、今になって見放されては喰方に困るから、これだけ金をおくれ、出て往きますから」 伴「出て往くなら出て往くがいゝが、何も貴様に百両の金を遣るという因縁がねいやア」 みね「大層なことをお云いでないよ、私が考え付いた事で、幽霊から百両の金を貰ったのじゃないか」 伴「こら〳〵静にしねえ」 みね「云ったっていゝよ、それから其の金で取りついて斯う成ったのじゃアないかそればかりじゃアねえ、萩原様を殺して海音如来のお像を盗み取って、清水の花壇の中へ埋めて置いたじゃアないか」 伴「静にしねえ、本当に気違えだなア、人の耳へでも入ったら何うする」 みね「私ゃア縛られて首を切られてもいゝよ、そうするとお前も其の儘じゃア置かないよ、百両おくれ、私ゃア別に成りましょう」 伴「仕様が無えな、己が悪かった、堪忍してくれ、そんなら是迄お前と一緒になってはいたが、おれに愛想が尽きたなら此の宅はすっかりとお前にやってしまわア、と云うと、なにか己があの女でも一緒に連れて何処かへ逃げでもすると思うだろうが、段々様子を聞けば、あの女は何か筋の悪い女だそうだから、もう好加減に切りあげる積り、それともこゝの家を二百両にでも三百両にでもたゝき売って仕舞って、お前を一緒に連れて越後の新潟あたりへ身を隠し、もう一と花咲かせ巨かくやりてえと思うんだが、お前最う一度跣足になって苦労をしてくれる気はねえか」 みね「私だって無理に別れたいと云う訳でもなんでもありませんが、今に成ってお前が私を邪慳にするものだから、そうは云ったものゝ、八年以来連添っていたものだから、お前が見捨てないと云う事なら、何処までも一緒に行こうじゃアないか」 伴「そんなら何も腹を立てる事はねえのだ、これから中直りに一杯飲んで、両人で一緒に寝よう」  と云いながらおみねの手首を取って引寄せる。 みね「およしよ、いやだよウ」  川柳に「女房の角を□□□でたゝき折り」で忽ち中も直りました。それから翌日は伴藏がおみねに好きな衣類を買って遣るからというので、幸手へまいり、呉服屋で反物を買い、こゝの料理屋でも一杯やって両人連れ立ち、もう帰ろうと幸手を出て土手へさしかゝると、伴藏が土手の下へ降りに掛るから、 みね「旦那、どこへ行くの」 伴「実は江戸へ仕入に行った時に、あの海音如来の金無垢のお守を持って来て、此処へ埋めて置いたのだから、掘出そうと思って来たんだ」 みね「あらまアお前はそれまで隠して私に云わないのだよ、そんなら早く人の目つまにかゝらないうちに掘ってお仕舞いよ」 伴「これは掘出して明日古河の旦那に売るんだ、何だか雨がポツ〳〵降って来たようだな、向うの渡し口の所からなんだか人が二人ばかり段々こっちの方へ来るような塩梅だから、見ていてくんねえ」 みね「誰も来やアしないよ、どこへさ」 伴「向うの方へ気を付けろ」  という。向うは往来が三叉になっておりまして、側えは新利根大利根の流にて、折しも空はどんよりと雨もよう、幽かに見ゆる田舎家の盆灯籠の火もはや消えなんとし、往来も途絶えて物凄く、おみねは何心なく向うの方へ目をつけている油断を窺い、伴藏は腰に差したる胴金造りの脇差を音のせぬように引こ抜き、物をも云わず背後から一生懸命力を入れて、おみねの肩先目がけて切り込めば、キャッとおみねは倒れながら伴藏の裾にしがみ付き、 みね「それじゃアお前は私を殺して、お國を女房に持つ気だね」 伴「知れた事よ、惚れた女を女房に持つのだ、観念しろ」  と云いさま、刀を逆手に持直し、貝殻骨のあたりから乳の下へかけ、したゝかに突込んだれば、おみねは七顛八倒の苦しみをなし、おのれ其の儘にして置こうかと、又も裾へしがみつく。伴藏は乗掛って止めを刺したから、おみねは息が絶えましたが、何うしてもしがみついた手を放しませんから、脇差にて一本々々指を切り落し、漸く刀を拭い、鞘に納め、跡をも見ず飛ぶが如くに我家に立帰り、慌しく拳をあげて門の戸を打叩き、 伴「文助、一寸こゝを明けてくれ」 文「旦那でございますか、へいお帰り遊ばせ」  と表の戸を開く。伴藏ズッと中に入り、 伴「文助や、大変だ、今土手で五人の追剥が出て己の胸ぐらを掴まえたのを、払って漸く逃げて来たが、おみねは土手下へ降りたから、悪くすると怪我をしたかも知れない、何うも案じられる、どうか皆一緒に行って見てくれ」  というので奉公人一同大いに驚き、手に〳〵半棒栓張棒なぞ携え、伴藏を先に立て土手下へ来て見れば、無慙やおみねは目も当てられぬように切殺されていたから、伴藏は空涙を流しながら、 伴「あゝ可愛相な事をした、今一ト足早かったら、斯んな非業な死はとらせまいものを」  と嘘を遣い、人を走せて其の筋へ届け、御検屍もすんで家に引取り、何事もなく村方へ野辺の送りをしてしまいましたが、伴藏が殺したと気が付くものは有りません。段々日数も立って七日目の事ゆえ、伴藏は寺参りをして帰って来ると、召使のおますという三十一歳になる女中が俄にがた〳〵と慄えはじめて、ウンと呻って倒れ、何か譫言を云って困ると番頭がいうから、伴藏が女の寝ている所へ来て、 伴「お前どんな塩梅だ」 ます「伴藏さん貝殻骨から乳の下へ掛けてズブ〳〵と突とおされた時の痛かったこと」 文「旦那様変な事を云いやす」 伴「おます、気を慥かにしろ、風でも引いて熱でも出たのだろうから、蒲団を沢山かけて寝かしてしまえ」  と夜着を掛けるとおますは重い夜着や掻巻を一度にはね退けて、蒲団の上にちょんと坐り、じいッと伴藏の顔を睨むから、 文「変な塩梅ですな」 伴「おます、確かりしろ、狐にでも憑かれたのじゃアないか」 ます「伴藏さん、こんな苦しい事はありません、貝殻骨のところから乳のところまで脇差の先が出るほどまで、ズブ〳〵と突かれた時の苦しさは、何とも彼とも云いようがありません」  と云われて伴藏も薄気味悪くなり、 伴「何を云うのだ、気でも違いはしないか」 ます「お互に斯うして八年以来貧乏世帯を張り、やッとの思いで今はこれ迄になったのを、お前は私を殺してお國を女房にしようとは、マア余り酷いじゃアないか」 伴「これは変な塩梅だ」  と云うものゝ、腹の内では大いに驚き、早く療治をして直したいと思う所へ、此の節幸手に江戸から来ている名人の医者があるというから、それを呼ぼうと、人を走せて呼びに遣りました。         十八  伴藏は女房が死んで七日目に寺参りから帰った其の晩より、下女のおますが訝しな譫言を云い、幽霊に頼まれて百両の金を貰い、是迄の身代に取付いたの、萩原新三郎様を殺したの、海音如来のお守を盗み出し、根津の清水の花壇の中へ埋めたなどゝ喋り立てるに、奉公人たちは何だか様子の分らぬ事ゆえ、只馬鹿な譫語をいうと思っておりましたが、伴藏の腹の中では、女房のおみねが己に取り付く事の出来ない所から、此の女に取付いて己の悪事を喋らせて、お上の耳に聞えさせ、おれを召捕り、お仕置にさせて怨みをはらす了簡に違いなし、あの下女さえいなければ斯様な事もあるまいから、いっそ宿元へ下げて仕舞おうか、いや〳〵待てよ、宿へ下げ、あの通りに喋られては大変だ、コリャうっかりした事は出来ないと思案にくれている処へ、先程幸手へ使に遣りました下男の仲助が、医者同道で帰って来て、 男「旦那只今帰りやした、江戸からお出でなすったお上手なお医者様だそうだがやっと願いやして御一緒に来てもらいやした」 伴「これは〳〵御苦労さま、手前方は斯う云う商売柄店も散らかっておりますから、先ず此方へお通り下さいまし」  と奥の間へ案内をして上座に請じ、伴藏は慇懃に両手をつかえ、 伴「初めましてお目通りを致します、私は関口屋伴藏と申します者、今日は早速の御入で誠に御苦労様に存じまする」 医「はい〳〵初めまして、何か急病人の御様子、ハヽアお熱で、変な譫語などを云うと」  と言いながら不図伴藏を見て、 「おや、これは誠に暫らく、これはどうも誠にどうも、どうなすって伴藏さん、先ず一別以来相変らず御機嫌宜しく、どうもマア図らざるところでお目に懸りました、これは君の御新宅かえ、恐入ったねえ、併し君は斯くあるべき事だろうと、君が萩原新三郎様の所にいる時分から、あの伴藏さんおみねさんの夫婦は、どうも機転の利き方、才智の廻る所から、中々只の人ではない、今にあれはえらい人になると云っていたが、十指の指さす処鑑定は違わず、実に君は大した表店を張り、立派な事におなりなすったなア」 伴「いやこれは山本志丈さん、誠に思い掛けねえ所でお目にかゝりやした」 志「実は私も人には云えねえが江戸を喰い詰め、医者もしていられねえから、猫の額のような家だが売って、其の金子を路用として日光辺の知己を頼って行く途中、幸手の宿屋で相宿の旅人が熱病で悩むとて療治を頼まれ、其の脉を取れば運よく全快したが、実は僕が治したんじゃアねえ、ひとりでに治ったんだが、運に叶って忽ちにあれは名人だ名医だとの評が立ち、あっちこっちから療治を頼まれ、実はいゝ加減にやってはいるが、相応に薬礼をよこすから、足を留めていたものゝ実は己ア医者は出来ねえのだ、尤も傷寒論の一冊位は読んだ事は有るが、一体病人は嫌えだ、あの臭い寝床の側へ寄るのは厭だから、金さえあればツイ一杯呑む気になるようなものだから、江戸を喰い詰めて来たのだが、あの妻君はお達者かえ、イヤサおみねさんには久しく拝顔を得ないがお達者かえ」 伴「あれは」  と口ごもりしが、 「八日あとの晩土手下で盗賊に切殺されましたよ、それから漸く引取って葬式を出しました」 志「ヤレハヤこれはどうも、存外な、嘸お愁傷、お馴染だけに猶更お察し申します、あの方は誠に御貞節ないゝお方であったが、これが仏家でいう因縁とでも申しますのか、嘸まア残念な事でありましたろう、それでは御病人はお家内ではないね」 伴「えゝ内の女ですが、なんだか熱にうかされて妙な事を云って困ります」 志「それじゃア一寸診て上げて、後で又いろ〳〵昔の話をしながら緩りと一杯やろうじゃアないか、知らない土地へ来て馴染の人に逢うと何だか懐かしいものだ、病人は熱なら造作もないからねえ」 伴「文助や、先生は甘い物は召上がらねえが、お茶とお菓子と持って来て置け、先生此方へお出でなせえ、こゝが女部屋で」 志「左様か、マア暑いから羽織を脱ごうよ」 伴「おますや、お医者様が入っしゃったからよく診ていたゞきな、気を確かりしていろ、変な事をいうな」 志「どう云う御様子、どんな塩梅で」  と云いながら側へ近寄ると、病人は重い掻巻を反ね退けて布団の上にちゃんと坐り志丈の顔をジッと見詰めている。 志「お前どう云う塩梅で、大方風がこうじて熱となったのだろう、悪寒でもするかえ」 ます「山本志丈さん、誠に久しくお目にかゝりませんでした」 志「これは妙だ、僕の名を呼んだぜ」 伴「こいつは妙な譫語ばッかり云っていますよ」 志「だって僕の名を知っているのが妙だ、フウンどういう様子だえ」 ます「私はね、此の貝殻骨から乳の所までズブ〳〵と伴藏さんに突かれた時の」 伴「これ〳〵何を詰らねえ事をいうんだ」 志「宜しいよ、心配したもうな、それから何うしたえ」 ます「貴方の御存じの通り、私共夫婦は萩原新三郎様の奉公人同様に追い使われ、跣足になって駈ずり廻っていましたが、萩原様が幽霊に取付かれたものだから、幡随院の和尚から魔除の御札を裏窓へ貼付けて置いて幽霊の這入れない様にした所から、伴藏さんが幽霊に百両の金を貰って其の御札を剥し」 伴「何を云うんだなア」 志「宜しいよ、僕だから、これは妙だ〳〵、へい、そこで」 ます「其の金から取付いて今はこれだけの身代となり、それのみならず萩原様のお首に掛けてる金無垢の海音如来の御守を盗み出し、根津の清水の花壇に埋め、剰え萩原様を蹴殺して体よく跡を取繕い」 伴「何を、とんでもない事を云うのだ」 志「よろしいよ僕だから、妙だ〳〵ヘイそれから」 ます「そうしてお前、そんなあぶく銭で是までになったのに、お前は女狂いを始め、私を邪魔にして殺すとは余り酷い」 伴「どうも仕様がないの、何をいうのだ」 志「よろしいよ、妙だ、心配したもうな、これは早速宿へ下げたまえ、と云うと、宿で又こんな譫語を云うと思し召そうが、下げれば屹度云わない、此の家に居るから云うのだ、僕も壮年の折こういう病人を二度ほど先生の代脉で手掛けた事があるが、宿へ下げれば屹度云わないから下げべし〳〵」  と云われて、伴藏は小気味が悪いけれども、山本の勧めに任せ早速に宿を呼寄せ引渡し、表へ出るやいなや正気に復った様子なれば、伴藏も安心していると今度は番頭の文助がウンと呻って夜着をかむり、寝たかと思うと起上り、幽霊に貰った百両の金でこれだけの身代になり上り、といい出したれば、又宿を呼んで下げてしまうと、今度は小僧が呻り出したれば又宿へ下げてしまい、奉公人残らずを帰し、あとには伴藏と志丈と二人ぎりになりました。 志「伴藏さん、今度呻ればおいらの番だが、妙だったね、だが伴藏さん打明けて話をしてくんなせえ、萩原さんが幽霊に魅られ、骨と一緒に死んでいたとの評判もあり、又首に掛けた大事の守りが掏代っていたと云うが、其の鑑定はどうも分らなかった、尤も白翁堂と云う人相見の老爺が少しは覚って新幡随院の和尚に話すと、和尚は疾より覚っていて、盗んだ奴が土中へ埋め隠してあると云ったそうだが、今日初めて此の病人の話によれば、僕の鑑定では慥にお前と見て取ったが、もう斯うなったらば隠さず云ってお仕舞い、そうすれば僕もお前と一つになって事を計おうじゃないか、善悪共に相談をしようから打明け給え、それから君はおかみさんが邪魔になるものだから殺して置いて、盗賊が斬殺したというのだろう、そうでしょう〳〵」  といわれて伴藏最早隠し遂せる事にもいかず、 伴「実は幽霊に頼まれたと云うのも、萩原様のあゝ云う怪しい姿で死んだというのも、いろ〳〵訳があって皆私が拵えた事、というのは私が萩原様の肋を蹴て殺して置いて、こっそりと新幡随院の墓場へ忍び、新塚を掘起し、骸骨を取出し、持帰って萩原の床の中へ並べて置き、怪しい死ざまに見せかけて白翁堂の老爺をば一ぺい欺込み、又海音如来の御守もまんまと首尾好く盗み出し、根津の清水の花壇の中へ埋めて置き、それから己が色々と法螺を吹いて近所の者を怖がらせ、皆あちこちへ引越したを好いしおにして、己も亦おみねを連れ、百両の金を掴んで此の土地へ引込んで今の身の上、ところが己が他の女に掛り合った所から、嚊アが悋気を起し、以前の悪事をがア〳〵と呶鳴り立てられ仕方なく、旨く賺して土手下へ連出して、己が手に掛け殺して置いて、追剥に殺されたと空涙で人を騙かし、弔いをも済して仕舞った訳なんだ」 志「よく云った、誠に感服、大概の者ならそう打明けては云えぬものだに、己が殺したと速に云うなどは是は悪党アヽ悪党、お前にそう打明けられて見れば、私はお喋りな人間だが、こればッかりは口外はしないよ、其の代り少し好みがあるが何うか叶えておくれ、と云うと何か君の身代でも当てにするようだが、そんな訳ではない」 伴「あゝ〳〵それはいゝとも、どんな事でも聞きやしょうから、どうか口外はして下さるな」  と云いながら懐中より廿五両包を取出し、志丈の前に差置いて、 伴「少ねえが切餅をたった一ツ取って置いてくんねえ」 志「これは云わない賃かえ薬礼ではないね、宜しい心得た、何だかこう金が入ると浮気になったようだから、一杯飲みながら、緩りと昔語がしてえのだが、こゝの家ア陰気だから、これから何処かへ行って一杯やろうじゃアねえか」 伴「そいつは宜かろう、そんなら己らの馴染の笹屋へ行きやしょう」  と打連立って家を立出で、笹屋へ上り込み、差向いにて酒を酌交し、 伴「男ばかりじゃア旨くねえから、女を呼びにやろう」  とお國を呼寄せる。 國「おや旦那、御無沙汰を、よく入っしゃって、伺いますればお内儀さんは不慮の事がございましたと、定めて御愁傷な事で、私も旦那にちょいとお目に懸りたいと思っておりましたは、内の人の傷も漸く治り、近々のうち越後へ向けて今一度行きたいと云っておりますから、行った日には貴方にはお目に懸ることが出来ないと思っている所へお使で、余り嬉しいから飛んで来たんですよ」 伴「お國お連の方に何故御挨拶をしないのだ」 國「これはあなた御免遊ばせ」  と云いながら志丈の顔を見て、 國「おや〳〵山本志丈さん、誠に暫く」 志「これは妙、何うも不思議、お國さんがこゝにお出でとは計らざる事で、これは妙、内々御様子を聞けば、思うお方と一緒なら深山の奥までと云うようなる意気事筋で、誠に不思議、これは希代だ、妙々々」  と云われてお國はギックリ驚いたは、志丈はお國の身の上をば精しく知った者ゆえ、若し伴藏に喋べられてはならぬと思い、 國「志丈さんちょっと御免あそばせ」  と次の間へ立ち。 國「旦那ちょっと入っしゃい」 伴「あいよ、志丈さん、ちょいと待ってお呉れよ」 志「あゝ宜しい、緩くり話をして来たまえ、僕はさようなことには慣れて居るから苦しくない、お構いなく、緩くりと話をして入っしゃい」 國「旦那どう云うわけであの志丈さんを連れて来たの」 伴「あれは内に病人があったから呼んだのよ」 國「旦那あの医者の云う事をなんでも本当にしちゃアいけませんよ、あんな嘘つきの奴はありません、あいつの云う事を本当にするととんでもない間違いが出来ますよ、人の合中を突つく酷い奴ですから、今夜はあの医者を何処かへやって、貴方独りこゝに泊っていて下さいな、そうすれば内の人を寝かして置いて、貴方の所へ来て、いろ〳〵お話もしたい事がありますから宜うございますか」 伴「よし〳〵、それじゃア内の方をいゝ塩梅にして屹度来ねえよ」 國「屹度来ますから待っておいでよ」  とお國は伴藏に別れ帰り行く。 伴「やア志丈さん、誠にお待ちどう」 志「誠にどうも、アハヽあの女はもう四十に近いだろうが若いねえ、君もなか〳〵お腕前だね、大方君はあの婦人を喰っているのだろうが、これからはもう君と善悪を一ツにしようと約束をした以上は、君のためにならねえ事は僕は云うよ、一体君はあの女の身の上を知って世話をするのか知らないのか」 伴「おらア知らねえが、お前さんは心安いのか」 志「あの婦人には男が附いて居る、宮野邊源次郎と云って旗下の次男だが、其奴が悪人で、萩原新三郎さんを恋慕った娘の親御飯島平左衞門という旗下の奥様附で来た女中で、奥様が亡くなった所から手がついて妾と成ったが今のお國で、源次郎と不義をはたらき、恩ある主人の飯島を斬殺し、有金二百六十両に、大小を三腰とか印籠を幾つとかを盗み取り逐電した人殺しの盗賊だ、すると後から忠義の家来藤助とか孝助とか云う男が、主人の敵を討ちたいと追かけて出たそうだ、私の思うのは、あれは君に惚れたのではなく、源次郎が可愛いからお前の云う事を聞いたなら、亭主のためになるだろうと心得、身を任せ、相対間男ではないかと僕は鑑定するが、今聞けば急に越後へ立つと云い、僕をはいて君独り寝ている処へ源次郎が踏込んでゆすり掛け、二百両位の手切れは取る目算に違えねえが、君は承知かえ、だから君は今夜こゝに泊っていてはいけねえから、僕と一緒に何処かへ女郎買に行ってしまい、あいつ等二人に素股を喰わせるとは何うだえ」 伴「むゝ成程、そうか、それじゃアそうしよう」  と連立ってこゝを立出で、鶴屋という女郎屋へ上り込む。後へお國と源次郎が笹屋へ来て様子を聞けば、先刻帰ったと云うことに二人は萎れて立帰り、 源「お國もうこうなれば仕方がないから、明日は己が関口屋へ掛合いに行き、若し向うでしらをきった其の時は」 國「私が行って喋りつけ口を明かさずたんまりとゆすってやろう」  と其の晩は寝てしまいました。翌朝になり伴藏は志丈を連れて我家へ帰り、種々昨夜の惚気など云っている店前へ、 源「お頼ん申す〳〵」 伴「商人の店先へお頼ん申すと云うのは訝しいが、誰だろう」 志「大方ゆうべ話した源次郎が来たのかも知れねえ」 伴「そんならお前其方へ隠れていてくれ」 志「弥々難かしくなったら飛出そうか」 伴「いゝから引込んでいなよ……へい〳〵、少々宅に取込が有りまして店を閉めて居りますが、何か御用ならば店を明けてから願いとうございます」 源「いや買物ではござらん、御亭主に少々御面談いたしたく参ったのだ、一寸明けてください」 伴「左様でございますか、先ずお上り」 源「早朝より罷り出でまして御迷惑、貴方が御主人か」 伴「へい、関口屋伴藏は私でございます、こゝは店先どうぞ奥へお通りくださいまし」 源「然らば御免を蒙むる」  と蝋色鞘茶柄の刀を右の手に下げた儘に、亭主に構わずずっと通り上座に座す。 伴「どなた様でござりますか」 源「これは始めてお目に懸りました、手前は土手下に世帯を持っている宮野邊源次郎と申す粗忽の浪人、家内國事、笹屋方にて働女をなし、僅な給金にてよう〳〵其の日を送りいる処、旦那より深く御贔屓を戴くよし、毎度國より承わりおりますれど、何分足痛にて歩行も成り兼ねますれば、存じながら御無沙汰、重々御無礼をいたした」 伴「これはお初にお目通りをいたしました、伴藏と申す不調法もの幾久しく御懇意を願います、お前様の塩梅の悪いと云う事は聞いていましたが、よくマア御全快、私もお國さんを贔屓にするというものゝ、贔屓の引倒しで何の役にも立ちません、旦那の御新造がねえ、どうも恐れ入った、勿体ねえ、馬士や私のようなものゝ機嫌気づまを取りなさるかと思えば気の毒だ、それがために失礼も度々致しやした」 源「どう致しまして、伴藏さんにちと折入って願いたい事がありますが、私共夫婦は最早旅費を遣いなくし、殊には病中の入費薬礼や何やかやで全く財布の底を払き、漸く全快しましたれば、越後路へ出立したくも如何にも旅費が乏しく、何うしたら宜かろうと思案の側から、女房が関口屋の旦那は御親切のお方ゆえ、泣附いてお話をしたらお見継ぎくださる事もあろうとの勧めに任せ参りましたが、どうか路金を少々拝借が出来ますれば有り難う存じます」 伴「これはどうも、そう貴方のように手を下げて頼まれては面目がありませんが」  と中は幾許かしら紙に包んで源次郎の前にさし置き、 伴「ほんの草鞋銭でございますが、お請取り下せえ」  と云われて源次郎は取上げて見れば金千疋。 源「これは二両二分、イヤサ御主人、二両二分で越後まで足弱を連れて行かれると思いなさるか、御親切序でにもそっとお恵みが願いたい」 伴「千疋では少ないと仰しゃるなら、幾許上げたら宜いのでございます」 源「どうか百金お恵みを願いたい」 伴「一本え、冗談言っちゃアいけねえ、薪かなんぞじゃアあるめえし、一本の二本のと転がっちゃアいねえよ、旦那え、こういう事ア一体此方で上げる心持次第のもので、幾許かくらと限られるものじゃアねえと思いやす、百両くれろと云われちゃア上げられねえ、又道中もしようで限のないもの、千両も持って出て足りずに内へ取りによこす者もあり、四百の銭で伊勢参宮をする者もあり、二分の金を持って金毘羅参りをしたと云う話もあるから、旅はどうとも仕様によるものだから、そんな事を云ったって出来はしません、誠に商人なぞは遊んだ金は無いもので、表店を立派に張って居ても内々は一両の銭に困る事もあるものだ、百両くれろと云っても、そんなに私はお前さんにお恵みをする縁がねえ」 源「國が別段御贔屓になっているから、兎やかく面倒云わず、餞別として百金貰おうじゃアねえか、何も云わずにサ」 伴「お前さんはおつう訝しな事を云わっしゃる、何かお國さんと私と姦通いてでもいるというのか」 源「おゝサ姦夫の廉で手切の百両を取りに来たんだ」 伴「ムヽ私が不義をしたが何うした」 源「黙れ、やい不義をしたとはなんだ、捨て置き難い奴だ」  と云いながら刀を側へ引寄せ、親指にて鯉口をプツリと切り、 「此の間から何かと胡散の事もあったれど、堪え〳〵て是迄穏便沙汰に致し置き、昨晩それとなく國を責めた所、國の申すには、実は済まない事だが貧に迫って止むを得ずあの人に身を任せたと申したから、其の場において手打にしようとは思ったれども、斯う云う身の上だから勘弁いたし、事穏かに話をしたに、手前の口から不義したと口外されては捨置きがてえ、表向きに致さん」  と哮り立って呶鳴ると、 伴「静におしなせえ、隣はないが名主のない村じゃアないよ、お前さんがそう哮り立って鯉口を切り、私の鬢たを打切る剣幕を恐れて、ハイさようならとお金を出すような人間と思うのは間違えだ、私なんぞは首が三ツあっても足りねえ身体だ、十一の時から狂い出して、脱け参りから江戸へ流れ、悪いという悪い事は二三の水出し、遣らずの最中、野天丁半の鼻ッ張り、ヤアの賭場まで逐って来たのだ、今は胼皹を白足袋で隠し、なまぞらを遣っているものゝ、悪い事はお前より上だよ、それに又姦夫々々というが、あの女は飯島平左衞門様の妾で、それとお前がくッついて殿様を殺し、大小や有金を引攫い高飛をしたのだから、云わばお前も盗みもの、それにお國も己なんぞに惚れたはれたのじゃなく、お前が可愛いばッかりで、病気の薬代にでもする積りで此方に持ち掛けたのを幸いに、己もそうとは知りながら、ツイ男のいじきたな、手を出したのは此方の過りだから、何も云わずに千疋を出し、別段餞別にしようと思い、これ此の通り廿五両をやろうと思っている処、一本よこせと云われちゃア、どうせ細った首だから、素首が飛んでも一文もやれねえ、それにお前よく聞きねえ、江戸近のこんな所にまご〳〵していると危ねえぜ、孝助とかゞ主人の敵だと云ってお前を狙っているから、お前の首が先へ飛ぶよ、冗談じゃアねえ」  と云われて源次郎は途胸を突いて大いに驚き、 源「さような御苦労人とも知らず、只の堅気の旦那と心得、威して金を取ろうとしたのは誠に恐縮の至り、然らば相済みませんが、これを拝借願います」 伴「早く行きなせえ、危険だよ」 源「さようならお暇申します」 伴「跡をしめて行ってくんな」  志丈は戸棚より潜り出し、 志「旨かったなア、感服だ、実に感服、君の二三の水出し、やらずの最中とは感服、あゝ何うもそこが悪党、あゝ悪党」  これより伴藏は志丈と二人連れ立って江戸へ参り、根津の清水の花壇より海音如来の像を掘出す処から、悪事露顕の一埓はこの次までお預りに致しましょう。         十九  引続きまする怪談牡丹灯籠のお話は、飯島平左衞門の家来孝助は、主人の仇なる宮野邊源次郎お國の両人が、越後の村上へ逃げ去りましたとのことゆえ、跡を追って村上へまいり、諸方を詮議致しましたが、とんと両人の行方が分りませんで、又我が母おりゑと申す者は、内藤紀伊守の家来にて、澤田右衞門の妹にて、十八年以前に別れたが、今も無事でいられる事か、一目お目に懸りたい事と、段々御城中の様子を聞合せまする処、澤田右衞門夫婦は疾に相果て、今は養子の代に相成って居る事ゆえ母の行方さえとんと分らず、止むを得ず此処に十日ばかし、彼処に五日逗留いたし、彼方此方と心当りの処を尋ね、深く踏込んで探って見ましたけれども更に分らず、空しく其の年も果て、翌年に相成って孝助は越後路から信濃路へかけ、美濃路へかゝり探しましたが一向に分らず、早や主人の年囘にも当る事ゆえ、一度江戸へ立帰らんと思い立ち、日数を経て、八月三日江戸表へ着いたし、先ず谷中の三崎村なる新幡随院へ参り、主人の墓へ香花を手向け水を上げ、墓原の前に両手を突きまして、 孝「旦那様私は身不肖にして、未だ仇たるお國源次郎に𢌞り逢わず、未だ本懐は遂げませんが、丁度旦那様の一周忌の御年囘に当りまする事ゆえ、此の度江戸表へ立帰り、御法事御供養をいたした上、早速又敵の行方を捜しに参りましょう、此の度は方角を違え、是非とも穿鑿を遂げまするの心得、何卒草葉の蔭からお守りくださって、一時も早く仇の行方の知れまするようにお守り下されまし」  と生きたる主人に物云う如く恭しく拝を遂げましてから、新幡随院の玄関に掛りまして、 「お頼み申します〳〵」 取次「どウれ、はア何方からお出でだな」 孝「手前は元牛込の飯島平左衞門の家来孝助と申す者でございますが、此の度主人の年囘を致したき心得で墓参りを致しましたが、方丈様御在寺なればお目通りを願いとう存じます」 取「さようですか、暫くお控えなさい」  と是から奥へ取次ぎますると、此方へお通し申せという事ゆえ、孝助は案内に連られ奥へ通りますると、良石和尚は年五十五歳、道心堅固の智識にて大悟徹底致し、寂寞と坐蒲団の上に坐っておりまするが、道力自然に表に現われ、孝助は頭がひとりでに下がるような事で、 孝「これは方丈様には初めてお目にかゝりまする、手前事は相川孝助と申す者でございますが、当年は旧主人飯島平左衞門の一周忌の年囘に当る事ゆえ、一度江戸表へ立帰りましたが、爰に金子五両ございまするが、これにて宜しく御法事御供養を願いとう存じます」 良「はい、初めまして、まアこっちへ来なさい、これはまア感心な事で…コレ茶を進ぜい…お前さんが飯島の御家来孝助殿か、立派なお人でよい心懸け、長旅を致した身の上なれば定めて沢山の施主もあるまい、一人か二人位の事であろうから、内の坊主どもに云い付けて何か精進物を拵えさせ、成るたけ金のいらんように、手は掛るが皆此方でやって置くが、一ヶ寺の住職を頼んで置きますが、お前ナア余り早く来ると此方で困るから、昼飯でも喰ってからそろそろ出掛け、夕飯は此方で喰う気で来なさい、そしてお前は是から水道端の方へ行きなさろうが、お前を待っている人がたんとある、又お前は悦び事か何か目出度い事があるから早う行って顔を見せてやんなさい」 孝「へい、私は水道端へ参りまするが、貴僧は何うしてそれを御存じ、不思議な事でございます」  と云いながら、 「左様ならば明日昼飯を仕舞いまして又出ますから、何分宜しくお願い申しまする、御機嫌よろしゅう」  と寺を出ましたが、心の内に思うよう、何うも不思議な和尚様だ、何うして私が水道端へ行く事を知っているだろうか、本当に占者のような人だと云いながら、水道端なる相川新五兵衞方へ参りましたが、孝助は養子に成って間もなく旅へ出立し、一年ぶりにて立帰りました事ゆえ、少しは遠慮いたし、台所口から、 孝「御免下さいまし、只今帰りましたよ、これ〳〵善藏どん〳〵」 善「なんだよ、掃除屋が来たのかえ」 孝「ナニ私だよ」 善「おやこれはどうも、誠に失礼を申上げました、いつも今時分掃除屋が参りまするものですから、粗相を申しましたが、よくマア早くお帰りになりました、旦那様々々孝助様がお帰りになりました」 相「なに孝助殿が帰られたとか、何処にお出でになる」 善「へい、お台所にいらっしゃいます」 相「どれ〳〵、これはマア、何んで台所などから来るのだ、そう云えば水は汲んで廻すものを、善藏コレ善藏何をぐる〳〵廻って居るのだ、コレ婆ア孝助どのがお帰りだよ」 婆「若旦那がお帰りでございますか、これはマア嘸お疲れでございますだろう、先ず御機嫌宜しゅう」 孝「お父様にも御機嫌宜しゅう、私も都度々々書面を差上げたき心得ではございまするが、何分旅先の事ゆえ思うようにはお便りも致し難く、お父様は何うなされたかと日々お案じ申しまするのみでございましたが、先ずはお健かなる御顔を拝しまして誠に大悦に存じまする」 相「誠にお前も目出たく御帰宅なされ、新五兵衞至極満足いたしました、はい実にねえ烏の鳴かぬ日はあるがと云う譬の通りで、お前のことは少しも忘れたことはない、雪の降る日は今日あたりはどんな山を越すか、風の吹く日はどんな野原を通るかと、雨につけ風につけお前の事ばかり少しも忘れた事はござらん、ところへ思いがけなくお帰りになり、誠に喜ばしく思いまする、娘もお前のことばかり案じ暮らし、お前の立った当座は只だ泣いてばかりおりましたから私がそんなにくよ〳〵して煩いでもしてはいかないから、気を取り直せよといい聞かせて置きましたが、お前もマア健かでお早くお帰りだ」 孝「私は今日江戸へ着き、すぐに谷中の幡随院へ参詣をいたして来ましたが、明日は丁度主人の一周忌の年囘にあたりまするゆえ、法事供養をいたしたく立帰りました」 相「そうか、如何にも明日は飯島様の年囘に当るからと思ったが、お前がお留守だから私でも代参に行こうかと話をしていたのだこれ婆ア、こゝへ来な、孝助様がお帰りになった」 婆「あら若旦那様お帰り遊ばしませ、御機嫌様よろしゅう、貴方がお立ちになってからというものは、毎日お噂ばかり致しておりましたが、少しもお窶れもなく、お色は少しお黒くおなり遊ばしましたが、相変らずよくまアねえ」 相「婆ア、あれを連れて来なよ」 婆「でも只今よく寝んねしていらッしゃいますから、おめんめが覚めてから、お笑い顔を御覧に入れる方が宜しゅうございましょう」 相「ウンそうだ、初めて逢うのに無理にめんめを覚さして泣顔ではいかんから、だが大概にしてこゝへ連れて抱いて来い」  娘お徳は次の間に乳児を抱いて居りましたが、孝助の帰るを聞き、飛立つばかり、嬉し涙を拭いながら出て来て、 徳「旦那様御機嫌様よろしゅう、よくマアお早くお帰り遊ばしました、毎日々々貴方のお噂ばかり致しておりましたが、お窶れも有りませんでお嬉しゅう存じまする」 孝「はい、お前も達者で目出たい、私が留守中はお父様の事何かと世話に成りました、旅先の事ゆえ都度々々便りも出来ず、どうなされたかと毎日案じるのみであったが、誠に皆の達者な顔を見るというは此の様な嬉しいことはない」 徳「私は昨晩旦那様の御出立になる処を夢に見ましたが、よく人が旅立の夢を見ると其の人にお目にかゝる事が出来ると申しますから、お近いうち旦那様にお目にかゝれるかと楽しんで居りましたが、今日お帰りとは思いませんでした」 相「おれも同じような夢を見たよ、婆アや抱いてお出で、最うおきたろう」  婆々は奥より乳児を抱いて参る。 相「孝助殿これを御覧、いゝ児だねえ」 孝「どちらのお子様で」 相「ナニサお前の子だアね」 孝「御冗談ばかり云っていらっしゃいます、私は昨年の八月旅へ出ましたもので、子供なぞはございません」 相「只一ぺんでも子供は出来ますよ、お前は娘と一つ寝をしたろう、だから只一度でも子は出来ます、只一度で子供が出来るというのは余程縁の深い訳で、娘も初のうちはくよ〳〵しているから、私が懐姙をしているからそれではいかん、身体に障るからくよ〳〵せんが宜しいと云っているうちに産み落したから、私が名付け親で、お前の孝の字を貰って孝太郎と付けてやりましたよ、マアよく似ておる事を、御覧よ」 孝「へい誠に不思議な事で、主人平左衞門様が遺言に、其の方養子となりて、若し子供が出来たなら、男女に拘らず其の子を以て家督と致し家の再興を頼むと御遺言書にありましたが、事によると殿様の生れ変りかも知れません」 相「おゝ至極左様かも知れん、娘も子供が出来てからねえ、嬉し紛れにお父様私は旦那様の事はお案じ申しまするが、此の子が出来ましてから誠によく旦那様に似ておりますから、少しは紛れて、旦那様と一つ所におるように思われますというたから、私が又余り酷く抱締めて、坊の腕でも折るといけないなんぞと、馬鹿を云っている位な事で、善藏や」 善「へい〳〵」 相「善藏や」 善「参っています、何でございます」 相「何だ、お前も板橋まで若旦那を送って行ったッけな」 善「へい参りました、これは若旦那様誠に御機嫌よろしゅう、あの折は実にお別れが惜しくて、泣きながら戻って参りましたが、よくマアお健かでいらっしゃいます」 孝「あの折は大きにお世話様であったのう」 相「それは兎も角も肝腎の仇の手掛りが知れましたか」 孝「まだ仇には廻り逢いませんが、主人の法事をしたく一先ず江戸表へ立帰りましたが、法事を致しまして直に又出立致します」 相「フウ成程、明日法事に行くのだねえ」 孝「左ようでございます、お父様と私と参りまする積りでございます、それに良石和尚の智識なる事は予て聞き及んではいましたが、応験解道窮りなく、百年先の事を見抜くという程だと承わっておりまするが、今日和尚の云う言葉に其の方は水道端へ参るだろう、参る時は必ず待っている者があり、且慶び事があると申しましたが、私の考えは、斯く子供の出来た事まで良石和尚は知っておるに違い有りません」 相「はてねえ、そんな所まで見抜きましたかえ、智識なぞという者は趺跏量見智で、あの和尚は谷中の何とか云う智識の弟子と成り、禅学を打破ったと云う事を承わりおるが、えらいものだねえ、善藏や、大急ぎで水道町の花屋へ行って、おめでたいのだから、何かお頭付の魚を三品ばかりに、それからよいお菓子を少し取ってくるように、道中には余り旨いお菓子はないから、それから鮓も道中では良いのは食べられないから、鮓も少し取ってくるように、それから孝助殿は酒はあがらんから五合ばかりにして、味淋のごく良いのを飲むのだから二合ばかり、それから蕎麦も道中にはあるが、醤油が悪いから良い蕎麦の御膳の蒸籠を取って参れ、それからお汁粉も誂らえてまいれ」  と種々な物を取寄せ、其の晩はめでたく祝しまして床に就きましたが、其の夜は話も尽きやらず、長き夜も忽ち明ける事になり、翌日刻限を計り、孝助は新五兵衞と同道にて水道端を立出で切支丹坂から小石川にかゝり、白山から団子坂を下りて谷中の新幡随院へ参り、玄関へかゝると、お寺には疾うより孝助の来るのを待っていて、 良「施主が遅くって誠に困るなア、坊主は皆本堂に詰懸けているから、さア〳〵早く」  と急き立てられ、急ぎ本堂へ直りますると、かれこれ坊主の四五十人も押並び、いと懇なる法事供養をいたし、施餓鬼をいたしまする内に、もはや日は西山に傾く事になりましたゆえ、坊様達には馳走なぞして帰してしまい、後で又孝助、新五兵衞、良石和尚の三人へは別に膳がなおり、和尚の居間で一口飲むことになりました。 相「方丈様には初めてお目にかゝります、私は相川新五兵衞と申す粗忽な者でございます、今日又御懇な法事供養を成しくだされ、仏も嘸かし草葉の蔭から満足な事でございましょう」 良「はいお前は孝助殿の舅御かえ、初めまして、孝助殿は器量と云い人柄と云い立派な正しい人じゃ、中々正直な人間で余程怜悧じゃが、お前はそゝっかしそうな人じゃ」 相「方丈様はよく御存じ、気味のわるいようなお方だ」 良「就いては、孝助殿は旅へ行かれる事を承わったが、未だ急には立ちはせまいのう、私が少し思う事があるから、明日昼飯を喰って、それから八ツ前後に神田の旅籠町へ行きなさい、其処に白翁堂勇齋という人相を見る親爺がいるが、今年はもう七十だが達者な老人でなア、人相は余程名人だよ、是れに頼めばお前の望みの事は分ろうから往って見なさい」 孝「はい、有り難う存じます、神田の旅籠町でございますか、畏りました」 良「お前旅へ行くなれば私が餞別を進ぜよう、お前が折角呉れた布施は此方へ貰って置くが、又私が五両餞別に進ぜよう、それから此の線香は外から貰ってあるから一箱進ぜよう仏壇へ線香や花の絶えんように上げて置きなさい、是れだけは私が志じゃ」 相「方丈様恐れ入りまする、何うも御出家様からお線香なぞ戴いては誠にあべこべな事で」 良「そんな事を云わずに取って置きなさい」 孝「誠に有り難う存じます」 良「孝助殿気の毒だが、お前はどうも危い身の上でナア、剣の上を渡るようなれども、それを恐れて後へ退るような事ではまさかの時の役には立たん、何でも進むより外はない、進むに利あり退くに利あらずと云うところだから、何でも憶してはならん、ずっと精神を凝して、仮令向うに鉄門があろうとも、それを突切って通り越す心がなければなりませんぞ」 孝「有難うござりまする」 良「お舅御さん、これはねえ精進物だが、一体内で拵えると云うたは嘘だが、仕出し屋へ頼んだのじゃ、甘うもあるまいが此の重箱へ詰めて置いたから、二重とも土産に持って帰り、内の奉公人にでも喰わしてやってください」 相「これは又お土産まで戴き、実に何ともお礼の申そうようはございません」 良「孝助殿、お前帰りがけに屹度剣難が見えるが、どうも遁れ難いから其の積りで行きなさい」 相「誰に剣難がございますと」 良「孝助殿はどうも遁れ難い剣難じゃ、なに軽くて軽傷、それで済めば宜しいが、何うも深傷じゃろう、間が悪いと斬り殺されるという訳じゃ、どうもこれは遁れられん因縁じゃ」 相「私は最早五十五歳になりまするから、どう成っても宜しいが、貴僧孝助は大事な身の上、殊に大事を抱えて居りまする故、どうか一つあなたお助け下さいませんか」 良「お助け申すと云っても、これはどうも助けるわけにはいかんなア、因縁じゃから何うしても遁るゝ事はない」 相「左様ならば、どうか孝助だけを御当寺へお留め置きくだされ、手前だけ帰りましょうか」 良「そんな弱い事では何うもこうもならんわえ、武士の一大事なものは剣術であろう、其の剣術の極意というものには、頭の上へ晃めくはがねがあっても、電光の如く斬込んで来た時は何うして之を受けるという事は知っているだろう、仏説にも利剣頭面に触るゝ時如何という事があって其の時が大切の事じゃ、其の位な心得はあるだろう、仮令火の中でも水の中でも突切って行きなさい、其の代りこれを突切れば後は誠に楽になるから、さっ〳〵と行きなさい、其のような事で気怯れがするような事ではいかん、ズッ〳〵と突切って行くようでなければいかん、それを恐れるような事ではなりませんぞ、火に入って焼けず水に入って溺れず、精神を極めて進んで行きなさい」 相「さようなれば此のお重箱は置いて参りましょう」 良「いや折角だからマア持って行きなさい」 相「何方へか遁路はございませんか」 良「そんな事を云わずズン〴〵と行きなさい」 相「さようならば提灯を拝借して参りとうございます」 良「提灯を持たん方が却て宜しい」  と云われて相川は意地の悪い和尚だと呟きながら、挨拶もそわ〳〵孝助と共に幡随院の門を立出でました。         二十  孝助は新幡随院にて主人の法事を仕舞い、其の帰り道に遁れ難き剣難あり、浅傷か深傷か、運がわるければ斬り殺される程の剣難ありと、新幡随院の良石和尚という名僧智識の教えに相川新五兵衞も大いに驚き、孝助はまだ漸く廿二歳、殊に可愛いゝ娘の養子といい、御主の敵を打つまでは大事な身の上と、種々心配をしながら打ち連れ立ちて帰る。孝助は仮令如何なる災があっても、それを恐れて一歩でも退くようでは大事を仕遂げる事は出来ぬと思い、刀に反を打ち、目釘を湿し、鯉口を切り、用心堅固に身を固め、四方に心を配りて参り、相川は重箱を提げて、孝助殿気を付けて行けと云いながら参りますると、向うより薄だゝみを押分けて、血刀を提げ飛出して、物をも云わず孝助に斬り掛けました。此の者は栗橋無宿の伴藏にて、栗橋の世帯を代物付にて売払い、多分の金子をもって山本志丈と二人にて江戸へ立退き、神田佐久間町の医師何某は志丈の懇意ですから、二人はこゝに身を寄せて二三日逗留し、八月三日の夜二人は更けるを待ちまして忍び来り、根津の清水に埋めて置いた金無垢の海音如来の尊像を掘出し、伴藏は手早く懐中へ入れましたが、伴藏の思うには、我が悪事を知ったは志丈ばかり、此の儘に生け置かば後の恐れと、伴藏は差したる刀抜くより早く飛びかゝって、出し抜けに力に任して志丈に斬り付けますれば、アッと倒れる所を乗し掛り、一刀逆手に持直し、肋へ突込みこじり廻せば、山本志丈は其の儘にウンと云って身を顫わせて、忽ち息は絶えましたが、此の志丈も伴藏に与し、悪事をした天罰のがれ難く斯る非業を遂げました、死骸を見て伴藏は後へさがり、逃げ出さんとする所、御用と声掛け、八方より取巻かれたに、伴藏も慌てふためき必死となり、捕方へ手向いなし、死物狂いに斬り廻り、漸く一方を切抜けて薄だゝみへ飛込んで、往来の広い所へ飛出す出合がしら、伴藏は眼も眩み、是れも同じ捕方と思いましたゆえ、ふいに孝助に斬掛けましたが、大概の者なれば真二つにもなるべき所なれども、流石は飯島平左衞門の仕込で真影流に達した腕前、殊に用意をした事ゆえ、それと見るより孝助は一歩退きしが、抜合す間もなき事ゆえ、刀の鍔元にてパチリと受流し、身を引く途端に伴藏がズルリと前へのめる所を、腕を取って逆に捻倒し。 孝「やい〳〵曲者何と致す」 曲「へい真平御免下さえまし」 相「そら出たかえ、孝助怪我は無いか」 孝「へい怪我はございません、こりゃ狼藉者め何等の遺恨で我に斬付けたか、次第を申せ」 曲「へい〳〵全く人違いでごぜえやす」  と小声にて、 「今この先で友達と間違いをした所が、皆が徒党をして、大勢で私を打殺すと云って追掛けたものだから、一生懸命に此処までは逃げて来たが、目が眩んでいますから、殿様とも心付きませんで、とんだ粗相を致しました、何うかお見逃しを願います、其奴らに見付けられると殺されますから、早くお逃しなすって下されませ」 孝「全くそれに違いないか」 曲「へい、全く違えごぜえやせん」 相「あゝ驚いた、これ人違いにも事によるぞ、斬ってしまってから人違いで済むか、べらぼうめ、実に驚いた、良石和尚のお告げは不思議だなアおや今の騒ぎで重箱を何処かへ落してしまった」  と四辺を見𢌞している所へ、依田豊前守の組下にて石子伴作、金谷藤太郎という両人の御用聞が駆けて来て、孝助に向い慇懃に、 捕「へい申し殿様、誠に有難う存じます、此の者はお尋ね者にて、旧悪のある重罪な奴でござります、私共は彼処に待受けていまして、つい取逃がそうとした処を、旦那様のお蔭で漸くお取押えなされ、有難うございます、どうかお引渡しを願いとう存じます」 相「そうかえ、あれは賊かい」 捕「大盗賊でござります」 孝「お父様呆れた奴でございます、此の不埓者め」 相「なんだ、人違いだなぞと嘘をついて、嘘をつく者は盗賊の始りナニ疾うに盗賊にもう成っているのだから仕方がない、直ぐに縄を掛けてお引きなさい」 捕「殿様のお蔭で漸く取押え、誠に有り難う存じます、何うかお名前を承わりとう存じます」 相「不浄人を取押えたとて姓名なぞを申すには及ばん、これ〳〵〳〵重箱を落したから捜してくれ、あゝこれだ〳〵、危なかったのう」 孝「然しお父様、何分悪人とは申しながら、主人の法事の帰るさに縄を掛けて引渡すは何うも忍びない事でございます」 相「なれども左様申してはいられない、渡してしまいなさい、早く引きなされ」  捕方は伴藏を受取り、縄打って引立て行き、其の筋にて吟味の末、相当の刑に行われましたことはあとにて分ります。さて相川は孝助を連れて我屋敷に帰り、互に無事を悦び、其の夜は過ぎて翌日の朝、孝助は旅支度の用意の為め、小網町辺へ行って種々買物をしようと家を立ち出で、神田旅籠町へ差懸る、向うに白き幟に人相墨色白翁堂勇齋とあるを見て、孝助は 「はゝアこれが、昨日良石和尚が教えたには今日の八ツ頃には必ず逢いたいものに逢う事が出来ると仰せあった占者だな、敵の手掛りが分り、源次郎お國に廻り逢う事もやあろうか、何にしろ判断して貰おう」  と思い、勇齋の門辺に立って見ると、名人のようではござりません。竹の打ち付け窓に煤だらけの障子を建て、脇に欅の板に人相墨色白翁堂勇齋と記して有りますが、家の前などは掃除などした事はないと見え、塵だらけゆえ、孝助は足を爪立てながら中に入り、 孝「おたのみ申します〳〵」 白「なんだナ、誰だ、明けてお入り、履物を其処へ置くと盗まれるといけないから持ってお上り」 孝「はい、御免下さいまし」  と云いながら障子を明けて中へ通ると、六畳ばかりの狭い所に、真黒になった今戸焼の火鉢の上に口のかけた土瓶をかけ、茶碗が転がっている。脇の方に小さい机を前に置き、其の上に易書を五六冊積上げ、傍の筆立には短かき筮竹を立て、其の前に丸い小さな硯を置き、勇齋はぼんやりと机の前に座しました態は、名人かは知らないが、少しも山も飾りもない。じゞむさくしている故、名人らしい事は更になけれども、孝助は予ねて良石和尚の教えもあればと思って両手を突き、 孝「白翁堂勇齋先生は貴方様でございますか」 白「はい、始めましてお目にかゝります、勇齋は私だよ、今年はもう七十だ」 孝「それは誠に御壮健な事で」 白「まア〳〵達者でございます、お前は見て貰いにでも来たのか」 孝「へい手前は谷中新幡随院の良石和尚よりのお指図で参りましたものでございますが、先生に身の上の判断をしていたゞきとうございます」 白「はゝア、お前は良石和尚と心安いか、あれは名僧だよ、智識だよ、実に生仏だ、茶は其処にあるから一人で勝手に汲んでお上り、ハヽアお前は侍さんだね、何歳だえ」 孝「へい、二十二歳でございます」 白「ハア顔をお出し」  と天眼鏡を取出し、暫くのあいだ相を見ておりましたが、大道の易者のように高慢は云わず 白「ハヽアお前さんはマア〳〵家柄の人だ、して是まで目上に縁なくして誠にどうも一々苦労ばかり重なって来るような訳に成ったの」 孝「はい、仰せの通り、どうも目上に縁がございません」 白「其処でどうも是迄の身の上では、薄氷を蹈むが如く、剣の上を渡るような境界で、大いに千辛万苦をした事が顕われているが、そうだろうの」 孝「誠に不思議、実によく当りました、私の身の上には危い事ばかりでございました」 白「それでお前には望みがあるであろう」 孝「へい、ございますが、其の望みは本意が遂げられましょうか如何でございましょう」 白「望事は近く遂げられるが、其処の所がちと危ない事で、これと云う場合に向いたなら、水の中でも火の中でも向うへ突切る勢いがなければ、必ず大望は遂げられぬが、まず退くに利あらず進むに利あり、斯ういう所で、悪くすると斬殺されるよ、どうも剣難が見えるが、旨く火の中水の中を突切って仕舞えば、広々とした所へ出て、何事もお前の思う様になるが、それは難かしいから気を注けなけりゃいけない、もう是切り見る事はないからお帰り〳〵」 孝「へい、それに就きまして、私疾うより尋ねる者がございますが、是は何うしても逢えない事とは存じて居りますが、其の者の生死は如何でございましょう、御覧下さいませ」 白「ハヽア見せなさい」  と又相して、 白「むゝ、是は目上だね」 孝「はい、左様でございます」 白「これは逢っているぜ」 孝「いゝえ、逢いません」 白「いや逢っています」 孝「尤も今年より十九年以前に別れましたるゆえ、途中で逢っても顔も分らぬ位でありまするから、一緒に居りましても互いに知らずに居りましたかな」 白「いや〳〵何でも逢って居ます」 孝「少さい時分に別れましたから、事に寄ったら往来で摩れ違った事もございましょうが、逢った事はございません」 白「いや〳〵そうじゃない、慥かに逢っている」 孝「それは少さい時分の事故」 白「あゝ煩さい、いや逢っていると云うのに、外には何も云う事はない、人相に出ているから仕方がない、屹度逢っている」 孝「それは間違いでございましょう」 白「間違いではない、極めた所を云ったのだ、それより外に見る所はない、昼寝をするんだから帰っておくれ」  とそっけなく云われ、孝助は後を細かく聞きたいからもじ〳〵していると、また門口より入り来るは女連れの二人にて、 女「はい御免下さいませ」 白「あゝ又来たか、昼寝が出来ねえ、おゝ二人か何一人は供だと、そんなら其処に待たして此方へお上り」 女「はい御免くだされませ、先生のお名を承わりまして参りました、どうか当用の身の上を御覧を願います」 白「はい此方へお出で」  と又此の女の相をよく〳〵見て、 「これは悪い相だなア、お前はいくつだえ」 女「はい四十四歳でございます」 白「これはいかん、もう見るがものはない、ひどい相だ、一体お前は目の下に極縁のない相だ、それに近々の内屹度死ぬよ、死ぬのだから外に何にも見る事はない」  と云われて驚き暫く思案を致しまして、 女「命数は限りのあるもので、長い短かいは致し方がございませんが、私は一人尋ねるものがございますが、其の者に逢われないで死にます事でございましょうか」 白「フウム是は逢っている訳だ」 女「いえ逢いません、尤も幼年の折に別れましたから、先でも私の顔を知らず、私も忘れたくらいな事で、すれ違ったくらいでは知れません」 白「何でも逢っています、もうそれで外に見る所も何もない」 女「其の者は男の子で、四つの時に別れた者でございますが」  という側から、孝助は若しやそれかと彼の女の側に膝をすりよせ、 孝「もし、お内室様へ少々伺いますが、何れの方かは存じませんが、只今四つの時に別れたと仰しゃいます、その人は本郷丸山辺りで別れたのではございませんか、そしてあなたは越後村上の内藤紀伊守様の御家来澤田右衞門様のお妹御ではございませんか」 女「おやまアよく知ってお出でゞす、誠に、はい〳〵」 孝「そして貴方のお名前はおりゑ様とおっしゃって、小出信濃守様の御家来黒川孝藏様へお縁附になり、其の後御離縁になったお方ではございませんか」 女「おやまア貴方は私の名前までお当てなすって、大そうお上手様、これは先生のお弟子でございますか」  と云うに、孝助は思わず側により、 孝「オヽお母様お見忘れでございましょうが、十九年以前、手前四歳の折お別れ申した忰の孝助めでございます」 りゑ「おやまアどうもマア、お前がアノ忰の孝助かえ」 白「それだから先刻から逢っている〳〵と云うのだ」  おりゑは嬉涙を拭い、 りゑ「何うもマア思い掛ない、誠に夢の様な事でございます、そうして大層立派にお成りだ、斯う云う姿になっているのだものを、表で逢ったって知れる事じゃアありません」 孝「誠に神の引合せでございます、お母様お懐かしゅうございました、私は昨年越後の村上へ参り、段々御様子を伺いますれば、澤田右衞門様の代も替り、お母様のいらっしゃいます所も知れませんから、何うがなしてお目に懸りたいと存じていましたに、図らずこゝでお目に懸り、先ずお壮健でいらッしゃいまして、斯んな嬉しい事はございません」 りゑ「よくマア、嘸お前は私を怨んでおいでだろう」 白「そんな話をこゝでしては困るわな、併し十九年ぶりで親子の対面、嘸話があろうが、いらざる事だが、供に知れても宜くない事もあろうから、何処か待合か何かへ行ってするがいゝ」 孝「はい〳〵、先生お蔭様で誠に有難うございました、良石様のお言葉といい、貴方様の人相のお名人と申し、実に驚き入りました」 白「人相が名人というわけでもあるまいが、皆こうなっている因縁だから見料はいらねえから帰りな、ナニ些とばかり置いて行くか、それも宜かろう」 りゑ「種々お世話様、有り難う存じました、孝助や種々話もしたい事があるから斯うしよう、私は今馬喰町三丁目下野屋という宿屋に泊っているから、お前よ一ト足先へ帰り、供を買物に出すから、其の後へ供に知れないように上っておいで」 白「嘸嬉しかろうのう」 孝「さようならば、これから直見え隠れにお母様のお跡に付いて参りましょう、それはそうと」  と云いつゝも懐中より何程か紙に包んで見料を置き、厚く礼を述べ白翁堂の家を立出で、見え隠れに跡をつけ、馬喰町へまいり、下野屋の門辺に佇み待って居るうちに、供の者が買ものに出て行きましたから、孝助は宿屋に入り、下女に案内を頼んで奥へ通る。 りゑ「サア〳〵〳〵此処へ来な、本当にマアどうもねえ」  と云いながら孝助をつく〴〵見て、 「見忘れはしませぬ幼顔、お前の親御孝藏殿によく似ておいでだよ、そうして大層立派におなりだねえ、お前がお父様の跡を継いで、今でもお父様はお存生でいらッしゃるかえ」 孝「はい、お母様此の両隣の座敷には誰も居りは致しませんか」 りゑ「いゝえ、私も来て間もないことだが、昼の中は皆買物や見物に出かけてしまうから誰もいないよ、日暮方は大勢帰って来るが、今は留守居が昼寝でもしている位だろうよ」 孝「フウ、左様なら申上げますが、お母様は私の四つの時の二月にお離縁になりましたのも、お父様があの通りの酒乱からで、それからお父様は其の年の四月十一日、本郷三丁目の藤村屋新兵衞と申す刀屋の前で斬殺され、無慙な死をお遂げなされました」 りゑ「おやまア矢張御酒ゆえで、それだから私アもうお前のお父さんでは本当に苦労を仕抜いたよ、あの時もお前と云う可愛い子があることだから、別れたいのではないが、兄が物堅い気性だから、あんな者へ付けては置かれん、酒ゆえに主家をお暇に成るような者には添わせて置かんと、無理無体に離縁を取ったが、お行方の事は此の年月忘れた事はありませぬ、そうしてお父様が亡くなっては、跡で誰もお前の世話をする者がなかったろう」 孝「さアお父様の店受彌兵衞と申しまする者が育てゝ呉れ、私が十一の時に、お前のお父さんはこれ〳〵で死んだと話して呉れました故、私も仮令今は町人に成ってはいますものゝ、元は武家の子ですから、成人の後は必ずお父様の仇を報いたいと思い詰め、屋敷奉公をして剣術を覚えたいと思っていましたに、縁有って昨年の三月五日、牛込軽子坂に住む飯島平左衞門とおっしゃる、お広敷番の頭をお勤めになる旗下屋敷に奉公住を致した所、其の主人が私をば我子のように可愛がってくれましたゆえ、私も身の上を明し、親の敵が討ちたいから、何うか剣術を教えて下さいと頼みましたれば、殿様は御番疲れのお厭いもなく、夜までかけて御剣術を仕込んで下されました故、思いがけなく免許を取るまでになりました」 りゑ「おやそう、フウンー」 孝「すると其の家にお國と申す召使がありました、これは水道端の三宅のお嬢様が殿様へ御縁組になる時に、奥様に附いて来た女でございますが、其の後奥様がお逝れになりましたものですから、此のお國にお手がつき、お妾となりました所、隣家の旗下の次男宮野邊源次郎と不義を働き、内々主人を殺そうと謀みましたが、主人は素より手者の事故、容易に殺すことは出来ないから、中川へ網船に誘い出し、船の上から突落して殺そうという事を私が立聞しましたゆえ、源次郎お國をひそかに殺し、自分は割腹しても何うか恩ある御主人を助けたいと思い、昨年の八月三日の晩に私が槍を持って庭先へ忍び込み、源次郎と心得突懸けたは間違いで、主人平左衞門の肋を深く突きました」 りゑ「おやまアとんだ事をおしだねえ」 孝「サア私も驚いて気が狂うばかりに成りますと、主人は庭へ下りて来て、ひそ〳〵と私への懴悔話に、今より十八年前の事、貴様の親父を手に掛けたは此の平左衞門が未だ部屋住にて、平太郎と申した昔の事、どうか其の方の親の敵と名告り、貴様の手に掛りて討たれたいとは思えども、主殺しの罪に落すを不便に思い、今日までは打過ぎたが、今日こそ好い折からなれば、斯くわざと源次郎の態をして貴様の手にかゝり、猶委細の事は此の書置に認め置いたれば、跡の始末は養父相川新五兵衞と共に相談せよ、貴様はこれにて怨を晴してくれ、然る上は仇は仇恩は恩、三世も変らぬ主従と心得、飯島の家を再興してくれろ、急いで行けと急き立てられ、養家先なる水道端の相川新五兵衞の宅へ参り、舅と共に書置を開いて見れば、主人は私を出した後にて直ぐに客間へ忍び入り源次郎と槍試合をして、源次郎の手に掛り、最後をすると認めてありました書置の通りに、遂に主人は其の晩果敢なくおなりなされました、又源次郎お國は必ず越後の村上へ立越すべしとの遺書にありますから、主の仇を報わん為め、養父相川とも申し合せ、跡を追いかけて出立致し、越後へ参り、諸方を尋ねましたが一向に見当らず、又あなたの事もお尋ね申しましたが、これも分りません故、余儀なく此の度主人の年囘をせん為めに当地へ帰りました所、不図今日御面会を致しますとは不思議な事でございます」  と聞いて驚き小声に成り、 りゑ「おやマア不思議な事じゃアないか、あの源次郎とお國は私の宅にかくまってありますよ、どうもまア何たる悪縁だろう、不思議だねえ、私が廿六の時黒川の家を離縁になって国へ帰り、村上に居ると、兄が頻りに再縁しろとすゝめ、不思議な縁でお出入の町人で荒物の御用を達す樋口屋五兵衞と云うものゝ所へ縁付くと、そこに十三になる五郎三郎という男の子と、八ツになるお國という女の子がありまして、其のお國は年は行かぬが意地の悪いとも性の悪い奴で、夫婦の合中を突ついて仕様がないから、十一の歳江戸の屋敷奉公にやった先は、水道端の三宅という旗下でな、其の後奥様附で牛込の方へ行ったとばかりで後は手紙一本も寄越さぬくらい、実に酷い奴で、夫五兵衞が亡くなった時も訃音を出したに帰りもせず、返事もよこさぬ不孝もの、兄の五郎三郎も大層に腹を立っていましたが、其の後私共は仔細有って越後を引払い、宇都宮の杉原町に来て、五郎三郎の名前で荒物屋の店を開いて、最早七年居ますが、つい先達てお國が源次郎と云う人を連れて来ていうのには、私が牛込の或るお屋敷へ奥様附で行った所が、若気の至りに源次郎様と不義私通ゆえに此のお方は御勘当となり、私故に今は路頭に迷う身の上だから、誠に済まない事だが匿まってくれろと云って、そんな人を殺した事なんぞは何とも云わないから、源次郎への義理に今は宇都宮の私の内にいるよ、私は此の間五郎三郎から小遣を貰い、江戸見物に出掛けて来て、未だこちらへ着いて間も無くお前に巡り逢って、此の事が知れるとは何たら事だねえ」 孝「ではお國源次郎は宇都宮に居りますか、つい鼻の先に居ることも知らないで、越後の方から能登へかけ尋ねあぐんで帰ったとは、誠に残念な事でございますから、どうぞお母様がお手引をして下すって、仇を討ち、主人の家の立行くように致したいものでございます」 りゑ「それは手引をして上げようともサ、そんなら私は直にこれから宇都宮へ帰るから、お前は一緒にお出で、だがこゝに一つ困った事があると云うものは、あの供がいるから、是れを聞き付け喋られると、お國源次郎を取逃がすような事になろうも知れぬから、こうと……」  思案して、 「私は明日の朝供を連れて出立するから、今日のようにお前が見え隠れに跡を追って来て、休む所も泊る所も一つ所にして、互に口をきかず、知らない者の様にして置いて、宇都宮の杉原町へ往ったら供を先へ遣って置いて、そうして両人で相図を諜し合したら宜かろうね」 孝「お母様有り難う存じます、それでは何うかそういう手筈に願いとう存じます、私はこれより直に宅へ帰って、舅へ此の事を聞かせたなら何のように悦びましょう、左様なら明朝早く参って、此の家の門口に立って居りましょう、それからお母様先刻つい申上げ残しましたが、私は相川新五兵衞と申す者の方へ主人の媒妁で養子にまいり、男の子が出来ました、貴方様には初孫の事故お見せ申したいが、此の度はお取急ぎでございますから、何れ本懐を遂げた後の事にいたしましょう」 りゑ「おやそうかえ、それは何にしても目出度い事です、私も早く初孫の顔が見たいよ、それに就いても、何うか首尾よくお國と源次郎をお前に討たせたいものだのう、これから宇都宮へ行けば私がよき手引をして、屹度両人を討たせるから」  と互に言葉を誓い孝助は暇を告げて急いで水道端へ立帰りました。 相「おや孝助殿、大層早くお帰りだ、いろ〳〵お買物が有ったろうね」 孝「いえ何も買いません」 相「なんの事だ、何も買わずに来た、そんなら何か用でも出来たかえ」 孝「お父様どうも不思議な事がありました」 相「ハヽ随分世間には不思議な事も有るものでねえ、何か両国の川の上に黒気でも立ったのか」 孝「左ようではございませんが、昨日良石和尚が教えて下さいました人相見の所へ参りました」 相「成程行ったかえ、そうかえ、名人だとなア、お前の身の上の判断は旨く当ったかえ〳〵」 孝「へい、良石和尚が申した通り、私の身の上は剣の上を渡る様なもので、進むに利あり退くに利あらずと申しまして、良石和尚の言葉と聊か違いはござりません」 相「違いませんか、成程智識と同じ事だ、それから、へえそれから何の事を見て貰ったか」 孝「それから私が本意を遂げられましょうかと聞くと、本意を遂げるは遠からぬうちだが、遁れ難い剣難が有ると申しました」 相「へえ剣難が有ると云いましたか、それは極心配になる、又昨日のような事があると大変だからねえ、其の剣難は何うかして遁れるような御祈祷でもしてやると云ったか」 孝「いえ左ような事は申しませんが、貴方も御存じの通り私が四歳の時別れました母に逢えましょうか、逢えますまいかと聞くと、白翁堂は逢っていると申しますから、幼年の時に別れたる故、途中で逢っても知れない位だと申しても、何でも逢っていると申し遂に争いになりました」 相「ハアそこの所は少し下手糞だ、併し当るも八卦当らぬも八卦、そう身の上も何もかも当りはしまいが、強情を張ってごまかそうと思ったのだろうが、其所の所は下手糞だ、なんとか云ってやりましたか、下手糞とか何とか」 孝「すると後から一人四十三四の女が参りまして、これも尋ねる者に逢えるか逢えないかと尋ねると、白翁堂は同じく逢っているというものだから、其の女はなに逢いませんといえば、急度逢っていると又争いになりました」 相「あゝ、こりゃからッぺた誠に下手だが、そう当る訳のものではない、それには白翁堂も恥をかいたろう、お前と其の女と二人で取って押えてやったか、それから何うした」 孝「さア余り不思議な事で、私も心にそれと思い当る事もありますから、其の女にはおりゑ様と仰しゃいませんかと尋ねました所が、それが全く私の母でございまして、先でも驚きました」 相「ハヽア其の占は名人だね、驚いたねえ、成程、フム」  是より孝助はお國源次郎両人の手懸りが知れた事から、母と諜し合わせた一伍一什を物語りますると、相川も驚きもいたし、又悦び、誠に天から授かった事なれば、速に明日の朝遅れぬように出立して、目出度く本懐を遂げて参れという事になりました。翌朝早天に仇討に出立を致し、是より仇討は次に申上げます。         二十一  孝助は図らずも十九年ぶりにて実母おりゑに廻り逢いまして、馬喰町の下野屋と申す宿屋へ参り、互に過し身の上の物語を致して見ると、思いがけなき事にて、母方にお國源次郎がかくまわれてある事を知り、誠に不思議の思いをなしました処、母が手引をして仇を討たせてやろうとの言葉に、孝助は飛立つばかり急ぎ立帰り、右の次第を養父相川新五兵衞に話しまして、六日の早天水道端を出立し、馬喰町なる下野屋方へ参り様子を見ておりますると、母も予ねて約したる事なれば、身支度を整え、下男を供に連れ立ち出でましたれば、孝助は見え隠れに跡を尾けて参りましたが、女の足の捗どらず、幸手、栗橋、古河、真間田、雀の宮を後になし、宇都宮へ着きましたは、丁度九日の日の暮々に相成りましたが、宇都宮の杉原町の手前まで参りますと、母おりゑは先ず下男を先へ帰し、五郎三郎に我が帰りし事を知らせてくれろと云い付けやり、孝助を近く招ぎ寄せまして小声になり、 母「孝助や、私の家は向うに見える紺の暖簾に越後屋と書き、山形に五の字を印したのが私の家だよ、あの先に板塀があり、付いて曲ると細い新道のような横町があるから、それへ曲り三四軒行くと左側の板塀に三尺の開きが付いてあるが、それから這入れば庭伝い、右の方の四畳半の小座敷にお國源次郎が隠れいる事ゆえ、今晩私が開きの栓をあけて置くから、九ツの鐘を合図に忍び込めば、袋の中の鼠同様、覚られぬよう致すがよい」 孝「はい誠に有り難うぞんじまする、図らずも母様のお蔭にて本懐を遂げ、江戸へ立帰り、主家再興の上私は相川の家を相続致しますれば、お母様をお引取申して、必ず孝行を尽す心得、さすれば忠孝の道も全うする事が出来、誠に嬉しゅう存じます、さようなれば私は何方へ参って待受けて居ましょう」 母「そうさ、池上町の角屋は堅いという評判だから、あれへ参り宿を取っておいで、九ツの鐘を忘れまいぞ」 孝「決して忘れません、さようならば」  と孝助は母に別れて角屋へまいり、九ツの鐘の鳴るのを待受けて居ました。母は孝助に別れ、越後屋五郎三郎方へ帰りますと、五郎三郎は大きに驚き、 五「大層お早くお帰りになりました、まだめったにはお帰りにならないと思っていましたのに、存じの外にお早うござりました、それでは迚も御見物は出来ませんでございましたろう」 母「はい、私は少し思う事があって、急に国へ帰る事になりましたから、奉公人共への土産物も取っている暇もない位で」 五「アレサなに左様御心配がいるものでございましょう、お母さまは芝居でも御見物なすってお帰りになる事だろうから、中々一ト月や二タ月は故郷忘じ難しで、あっちこっちをお廻りなさるから、急にはお帰りになるまいと存じましたに」 母「さアお前に貰った旅用の残りだから、むやみに遣っては済まないが、どうか皆に遣っておくれよ」  と奉公人銘々に包んで遣わしまして、其の外着古しの小袖半纒などを取分け。 五「そんなに遣らなくっても宜しゅうございます」  と申すに、 母「ハテこれは私の少々心あっての事で、詰らん物だが着古しの半纒は、女中にも色々世話に成りますからやっておくれ、シテお國や源次郎さんは矢張奥の四畳半に居りますか」 五「誠にあれはお母様に対しても置かれた義理ではございません、憎い奴でございますが、強て縋り付いて参り、私故にお隣屋敷の源次郎さんが勘当をされたと申しますから、義理でよんどころなく置きましたものゝ、嘸あなたはお厭でございましょう」 母「私はお國に逢って緩くり話がしたいから、用もあるだろうが、いつもより少々店を早くひけにして、寝かしておくれ、私は四畳半へ行って國や源さんに話があるのだが、是でお酒やお肴を」 五「およし遊ばせ」 母「いや、そうでない、何も買って来ないから是非上げておくれよ」 五「はい〳〵」  と気の毒そうに承知して、五郎三郎は母の云付けなれば酒肴を誂え、四畳半の小間へ入れ、店の奉公人も早く寝かしてしまい、母は四畳半の小座敷に来たりて内にはいれば、 國「おや、お母様、大層早くお帰り遊ばしました、私は未だめったにお帰りにはなりますまいと思い、屹度一ト月位は大丈夫お帰りにはならないとお噂ばかりして居りました、大層お早く、本当に恟り致しました」 源「只今はお土産として御酒肴を沢山に有り難うぞんじます」 母「いえ〳〵、なんぞ買って来ようと思いましたが、誠に急ぎましたゆえ何も取って居る暇もありませんでした、誰も外に聞いている人もないようだから、打解けて話をしなければならない事があるが、お國やお前が江戸のお屋敷を出た時の始末を隠さずに云っておくんなさい」 國「誠にお恥かしい事でございますが、若気の過り、此の源さまと馴染めた所から、源さまは御勘当になりまして、行き所のないようにしたは皆な私ゆえと思い、悪いこととは知りながらお屋敷を逃出し、源さまと手を取り合い、日頃無沙汰を致した兄の所に頼り、今ではこうやって厄介になって居りまする」 母「不義淫奔は若い内には随分ありがちの事だが、お國お前は飯島様のお屋敷へ奥様付になって来たが、奥様がおかくれになってから、殿様のお召使になっているうちに、お隣の御二男源次郎さまと、隣りずからの心安さに折々お出になる所から、お前は此の源さまと不義密通を働いた末、お前方が申し合せ、殿様を殺し、有金大小衣類を盗み取り、お屋敷を逃げておいでだろうがな」  と云われて二人は顔色変え、 國「おやまア恟りします、お母様何をおっしゃいます、誰が其の様な事を云いましたか、少しも身に覚えのない事を云いかけられ、本当に恟り致しますわ」 母「いえ〳〵いくら隠してもいけないよ、私の方にはちゃんと証拠がある事だから、隠さずに云っておしまい」 國「そんな事を誰が申しましたろうねえ源さま」  と云えば、源次郎落着ながら、 源「誠に怪しからん事です。お母様もし外の事とは違います、手前も宮野邊源次郎、何ゆえお隣の伯父を殺し、有金衣類を盗みしなどゝ何者がさような事を申しました、毛頭覚えはございません」 母「いや〳〵そうおっしゃいますが、私は江戸へ参り、不思議と久し振りで逢いました者が有って、其の者から承わりました」 源「フウ、シテ何者でございますか」 母「はい、飯島様のお屋敷でお草履取を勤めて居りました、孝助と申す者でなア」 源「ムヽ孝助、彼奴は不届至極な奴で」 國「アラ彼奴はマア憎い奴で、御主人様のお金を百両盗みました位の者ですから、どんな拵え事をしたか知れません、あんな者の云う事をあなた取上げてはいけません、何うして草履取が奥の事を知っている訳はございません」 母「いえ〳〵お國や、その孝助は私の為には実の忰でございます」  と云われて両人は驚き顔して、後へもじ〳〵とさがり、 母「さア、私が此の家へ縁付いて来たのは、今年で丁度十七年前の事、元私の良人は小出様の御家来で、お馬廻り役を勤め、百五十石頂戴致した黒川孝藏と云う者でありましたが、乱酒故に屋敷は追放、本郷丸山の本妙寺長屋へ浪人していました処、私の兄澤田右衞門が物堅い気質で、左様な酒癖あしき者に連添うているよりは、離縁を取って国へ帰れと押て迫られ、兄の云うに是非もなく、其の時四つになる忰を後に残し、離縁を取って越後の村上へ引込み、二年程過ぎて此の家に再縁して参りましたが、此の度江戸で図らずも十九年ぶりにて忰の孝助に逢いましたが、実の親子でありますゆえ、段々様子を聞いて見ると、お前達は飯島様を殺した上、有金大小衣類まで盗み取り、お屋敷を逐電したと聞き、私は恟りしましたよ、それが為飯島様のお家は改易になりましたから、忰の孝助が主人の敵のお前方を討たなければ、飯島の家名を興す事が出来ないから、敵を捜す身の上と、涙ながらの物語に、私も十九年ぶりで実の子に逢いました嬉し紛れに、敵のお国源次郎は私の家に匿まってあるから、手引をして敵を打たせてやろうと、サうっかり云ったは私の過り、孝助は血を分けた実子なれども、一旦離縁を取ったれば黒川の家の子、此の家に再縁する上からは、今はお前は私の為に猶更義理ある大切の娘なりや、縁の切れた忰の情に引かされて、手引をしてお前達を討たせては、亡くなられたお前の親御樋口屋五兵衞殿の御位牌へ対して、何うも義理が立ちませんから、悪い事を云うた、何うしたら宜かろうかと道々も考えて来ましたが、孝助は後になり先になり私に附きて此の地に参り、実は今晩九時の鐘を合図に庭口から此家に忍んで来る約束、討たせては済まないから、お前達も隠さず実はこれ〳〵と云いさえすれば、五郎三郎から小遣に貰った三十両の内、少し遣って未だ二十六七両は残ってありますから、これをお前達に路銀として餞別に上げようから、少しも早く逃げのびなさい、立退く道は宇都宮の明神様の後山を越え、慈光寺の門前から付いて曲り、八幡山を抜けてなだれに下りると日光街道、それより鹿沼道へ一里半行けば、十郎ヶ峰という所、それよりまた一里半あまり行けば鹿沼へ出ます、それより先は田沼道奈良村へ出る間道、人の目つまにかゝらぬ抜道、少しも早く逃げのびて、何処の果なりとも身を隠し、悪い事をしたと気がつきましたら、髪を剃って二人とも袈裟と衣に身を窶し、殺した御主人飯島様の追善供養致したなら、命の助かる事もあろうが、只不便なのは忰の孝助、敵の行方の知れぬ時は一生旅寝の艱難困苦、御主のお家も立ちません、気の毒な事と気がついたら心を入れかえ善人に成っておくれよ、さア〳〵早く」  と路銀まで出しまして、義理を立てぬく母の真心、流石の二人も面目なく眼と眼を見合せ、 國「はい〳〵誠にどうも、左様とは存じませんでお隠し申したのは済みません」 源「実に御信実なお言葉、恐れ入りました、拙者も飯島を殺す気ではござらんが、不義が顕われ平左衞門が手槍にて突いてかゝる故、止むを得ず斯の如きの仕合でございます、仰せに従い早々逃げのび、改心致して再びお礼に参りまするでございます、これお國や、お餞別として路銀まで、あだに心得ては済みませんよ」 國「お母様、どうぞ堪忍してくださいましよ」 母「さア〳〵早く行かぬか、かれこれ最早や九ツになります」  と云われて二人は支度をしていると、後の障子を開けて這入りましたはお國の兄五郎三郎にて、突然お國の側へより、 五「お母様少しお待ちなすってください、これ國これへ出ろ〳〵、本当にマア呆れはてゝ物が云われねえ奴だ、内へ尋ねて来た時なんと云った、お隣の次男と不義をしたゆえ、源さんは御勘当になり、身の置所がないようにしたも私ゆえ、お気の毒でならねえから一緒に連れて来ましたなどと、生嘘を遣って我をだましたな、内に斯うやって置く奴じゃアねえぞ、お父様が御死去に成った時、幾度手紙を出しても一通の返事も遣さぬくらいな人でなし、只一人の妹だが死んだと思ってな諦めていたのだ、それにのめ〳〵と尋ねて来やアがって、置いてくれろというから、よもや人を殺し、泥坊をして来たとは思わねえから置いてやれば、今聞けば実に呆れて物が云われねえ奴だ、お母様誠に有り難うございまするが、あなたが親父へ義理を立てゝ、此奴等を逃がして下さいましても天命は遁れられませんから、迚も助かる気遣いはございません、いっそ黙っておいでなすって、孝助様に切られてしまう方が宜しゅうございますのに、やいお國、お母様は義理堅いお方ゆえ、親父の位牌へ対して路銀まで下すって、そのうえ逃路まで教えて下さると云うはな実に有り難い事ではないか、何とも申そう様はございません、コレお國、この罰当りめえ、お母様が此の家へ嫁にいらッしゃった時は、手前がな十一の時だが、意地がわるくてお父様とお母様と己との合中をつゝき、何分家が揉めて困るから、己がお父さんに勧めて他人の中を見せなければいけませんが、近い所だと駈出して帰って来ますから、いっそ江戸へ奉公に出した方が宜かろうと云って、江戸の屋敷奉公に出した所が、善事は覚えねえで、密夫をこしらえてお屋敷を遁げ出すのみならず、御主人様を殺し、金を盗みしというは呆れ果てゝ物が云われぬ、お母様が並の人ならば、知らぬふりをしておいでなすッたら、今夜孝助様に斬殺されるのも心がら、天罰で手前達は当然だが、坊主が憎けりゃ袈裟までの譬で、此奴も敵の片割と己までも殺される事を仕出来すというは、不孝不義の犬畜生め、只一人の兄妹なり、殊にゃア女の事だから、此の兄の死水も手前が取るのが当前だのに、何の因果で此様悪婦が出来たろう、お父様も正直なお方、私も是までさのみ悪い事をした覚えはないのに、此の様な悪人が出来るとは実になさけない事でございます、此の畜生め〳〵サッサと早く出て行け」  と云われて、二人とも這々の体にて荷拵えをなし、暇乞いもそこ〳〵に越後屋方を逃出しましたが、宇都宮明神の後道にかゝりますと、昼さえ暗き八幡山、況て真夜中の事でございますから、二人は気味わる〳〵路の中ばまで参ると、一叢茂る杉林の蔭より出てまいる者を透して見れば、面部を包みたる二人の男、いきなり源次郎の前へ立塞がり、 ○「やい、神妙にしろ、身ぐるみ脱いて置いて行け、手前達は大方宇都宮の女郎を連出した駈落者だろう」 ×「やい金を出さないか」  と云われ源次郎は忍び姿の事なれば、大小を落し差にして居りましたが、此の様子にハッと驚き、拇指にて鯉口を切り、慄え声を振立って、 源「手前達は何だ、狼藉者」  と云いながら、透して九日の夜の月影に見れば、一人は田中の中間喧嘩の龜藏、見紛う方なき面部の古疵、一人は元召使いの相助なれば、源次郎は二度恟り、 源「これ、相助ではないか」 相「これは御次男様、誠に暫く」 源「まア安心した、本当に恟りした」 國「私も恟りして腰が抜けた様だったが、相助どんかえ」 相「誠にヘイ面目ありません」 源「手前は未だ斯様な悪い事をしているか」 相「実はお屋敷をお暇に成って、藤田の時藏と田中の龜藏と私と三人揃って出やしたが、何処へも行く所はなし、何うしたら宜かろうかと考えながら、ぶら〳〵と宇都宮へ参りやして、雲助になり、何うやら斯うやらやっているうち、時藏は傷寒を煩って死んでしまい、金はなくなって来た処から、ついふら〳〵と出来心で泥坊をやったが病付となり、此の間道はよく宇都宮の女郎を連れて、鹿沼の方へ駈落するものが時々あるので、こゝに待伏せして、サア出せと一言いえば、私は剣術を知らねえでも、怖がって直きに置いて行くような弱い奴ばっかりですから、今日もうっかり源様と知らず掛かりましたが、貴方に抜かれりゃアおッ切られてしまう処、誠になんともはや」 源「これ龜藏、手前も泥坊をするのか」 龜「へい雲助をしていやしたが、ろくな酒も飲めねえから太く短くやッつけろと、今では斯な事をしておりやす」  と云われ、源次郎は暫し小首を傾げて居りましたが、 「好い所で手前達に逢うた、手前達も飯島の孝助には遺恨があろうな」 龜「えゝ、ある所じゃアありやせん、川の中へ放り込まれ、石で頭を打裂き、相助と二人ながら大曲りでは酷い目に逢い、這々の体で逃げ返った処が、此方はお暇、孝助はぬくぬくと奉公しているというのだ、今でも口惜しくって堪りませんが、彼奴はどうしました」 源「誰も外に聞いている者はなかろうな」 相「へい誰がいるものですか」 源「此の國の兄の宅は杉原町の越後屋五郎三郎だから、暫く彼処に匿まわれていたところ、母というのは義理ある後妻だが、不思議な事でそれが孝助の実母であるとよ、此の間母が江戸見物に行った時孝助に廻り逢い、悉しい様子を孝助から残らず母が聞取り、手引をして我を打たせんと宇都宮へ連れては来たが、義理堅い女だから、亡父五兵衞の位牌へ対してお國を討たしては済まないという所で、路銀まで貰い、斯うやって立たせてはくれたものゝ、其処は血肉を分けた親子の間、事によると後から追掛けさせ、やって来まいものでもないが、何うしてか手前らが加勢して孝助を殺してくれゝば、多分の礼は出来ないが、二十金やろうじゃないか」 龜「宜しゅうございやす、随分やッつけましょう」 相「龜藏安受合するなよ、彼奴と大曲で喧嘩した時、大溝の中へ放り込まれ、水を喰ってよう〳〵逃帰ったくらい、彼奴ア途方もなく剣術が旨いから、迂濶り打き合うと叶やアしない」 龜「それは又工夫がある、鉄砲じゃア仕様があるめえ、十郎ヶ峰あたりへ待受け、源さまは清水流れの石橋の下へ隠れて居て、己達ゃア林の間に身を隠している所へ、孝助がやって来りゃア、橋を渡り切った所で、己が鉄砲を鼻ッ先へ突付けるのだ、孝助が驚いて後へさがれば、源さまが飛出して斬付けりゃア挟み打ち、わきアねえ、遁げるも引くも出来アしねえ」 源「じゃアどうか工夫してくれろ、何分頼む」  と是から龜藏は何処からか三挺の鉄砲を持ってまいり、皆々連立ち十郎ヶ峰に孝助の来るを待受けました。         二十一の下  さて相川孝助は宇都宮池上町の角屋へ泊り、其の晩九ツの鐘の鳴るのを待ち掛けました処、もう今にも九ツだろうと思うから、刀の下緒を取りまして襷といたし、裏と表の目釘を湿し、養父相川新五兵衞から譲り受けた藤四郎吉光の刀をさし、主人飯島平左衞門より形見に譲られた天正助定を差添といたしまして、橋を渡りて板塀の横へ忍んで這入りますと、三尺の開き戸が明いていますから、ハヽアこれは母が明けて置いてくれたのだなと忍んで行きますと、母の云う通り四畳半の小座敷がありますから、雨戸の側へ立寄り、耳を寄せて内の様子を窺いますと、家内は一体に寝静まったと見え、奉公人の鼾の声のみしんといたしまして、池上町と杉原町の境に橋がありまして、其の下を流れます水の音のみいたしております。孝助はもう家内が寝たかと耳を寄せて聞きますと、内では小声で念仏を唱えている声がいたしますから、ハテ誰か念仏を唱えているものがあるそうだなと思いながら、雨戸へ手を掛けて細目に明けると、母のおりゑが念珠を爪繰りまして念仏を唱えているから、孝助は不審に思い小声になり。 孝「お母さま、これはお母様のお寝間でございますか、ひょっと場所を取違えましたか」 母「はい、源次郎お國は私が手引をいたしまして疾に逃がしましたよ」  と云われて孝助は恟りし、 孝「えゝ、お逃し遊ばしましたと」 母「はい十九年ぶりでお前に逢い、懐かしさのあまり、源次郎お國は私の家へ匿まってあるから手引きをして、私が討たせると云ったのは女の浅慮、お前と道々来ながらも、お前に手引きをして両人を討たしては、私が再縁した樋口屋五兵衞どのに済まないと考えながら来ました、今こゝの家の主人五郎三郎は、十三の時お國が十一の時から世話になりましたから実の子も同じ事、お前は離縁をして黒川の家へ置いて来た縁のない孝助だから、両人を手引をして逃がしました、それは全く私がしたに違いないから、お前は敵の縁に繋がる私を殺し、お國源次郎の後を追掛けて勝手に敵をお討ちなさい」  と云われ孝助は呆れて、 孝「えゝお母様、それは何ゆえ縁が切れたと仰しゃいます、成程親は乱酒でございますから、あなたも愛想が尽きて、私の四ツの時に置いてお出になった位ですから、よく〳〵の事で、お怨み申しませんが、私は縁は切れても血統は切れない実のお母さま、私は物心が付きましてお母様はお達者か、御無事でおいでかと案じてばかりおりました所、此度図らずお目にかゝりましたのは日頃神信心をしたお蔭だ、殊にあなたがお手引をなすって、お國源次郎を討たせて下さると仰しゃッたから、此の上もない有難いことと喜んでおりました、それを今晩になってお前には縁がない、越後屋に縁がある、あかの他人に手引をする縁がないと仰しゃるはお情ない、左様なお心なら、江戸表にいる内に何故これ〳〵と明かしては下さいません、私も敵の行方を知らなければ知らないなりに、又外々を捜し、仮令草を分けてもお國源次郎を討たずには置きません、それをお逃がし遊ばしては、仮令今から跡を追かけて行きましても、両人は姿を変えて逃げますから、私には討てませんから、主人の家を立てる事は出来ません、縁は切れても血統は切れません、縁が切れても血統が切れても宜しゅうございますが、余りの事でございます」  と怨みつ泣きつ口説き立て、思わず母の膝の上に手をついて揺ぶりました。母は中々落着ものですから、 母「成程お前は屋敷奉公をしただけに理窟をいう、縁が切れても血統は切れない、それを私が手引きをして敵を討たなければ、お前は主人飯島様の家を立てる事が出来ないから、其の言訳は斯うしてする」  と膝の下にある懐剣を抜くより早く、咽喉へガバリッと突き立てましたから、孝助は恟りし、慌てゝ縋り付き、 孝「お母様何故御自害なさいました、お母様ア〳〵〳〵」  と力に任せて叫びます。気丈な母ですから、懐剣を抜いて溢れ落る血を拭って、ホッ〳〵とつく息も絶え〴〵になり、面色土気色に変じ、息を絶つばかり、 母「孝助々々、縁は切れても、ホッ〳〵血統は切れんという道理に迫り、素より私は両人を逃がせば死ぬ覚悟、ホッ〳〵江戸で白翁堂に相て貰った時、お前は死相が出たから死ぬと云われたが、実に人相の名人という先生の云われた事が今思い当りました、ホッ〳〵再縁した家の娘がお前の主人を殺すと云うは実に何たる悪縁か、さア死んで行く身、今息を留めれば此の世にない身体、ホッ〳〵幽霊が云うと思えば五郎三郎に義理はありますまい、お國源次郎の逃げて行った道だけを教えてやるからよく聞けよ」  と云いながら孝助の手を取って膝に引寄せる。孝助は思わずも大声を出して 「情ない」  と云う声が聞えたから、五郎三郎は何事かと来て障子を明けて見れば此の始末、五郎三郎は素より正直者だから母の側に縋り付き、 五「お母様〳〵、それだから私が申さない事ではありません、孝助様後で御挨拶を致します、私はお國の兄で、十三の時から御恩になり、暖簾を分けて戴いたもお母様のお蔭、悪人のお國に義理を立て、何故御自害をなさいました」  と云う声が耳に通じたか、母は五郎三郎の顔をじっと見詰め、苦しい息をつきながら、 母「五郎三郎、お前はちいさい時から正当な人で、お前には似合わない彼のお國なれども、義理に対しお位牌に対し、私が逃がしました、又孝助へ義理の立たんというは、血統のものが恩義を受けた主人の家が立たないという義理を思い、自害をいたしたので、何うかお國源次郎の逃げ道を教えてやりたいが、ハッ〳〵必ずお前怨んでお呉れでないよ」 五「いゝえ、怨む所ではありません、あなたおせつないから私が申しましょう、孝助様お聞き下さい、宇都の宮の宿外れに慈光寺という寺がありますから、其の寺を抜けて右へ往くと八幡山、それから十郎ヶ峯から鹿沼へ出ますから、貴方お早くおいでなさい、ナアニ女の足ですから沢山は行きますまいから、早くお國と源次郎の首を二つ取って、お母様のお目の見える内に御覧にお入れなさい、早く〳〵」  と云うから孝助は泣きながら、 孝「はい〳〵お母様、五郎三郎さんがお國と源次郎の逃げた道を教えて呉れましたから、遠く逃げんうちに跡追っかけ、両人の首を討ってお目にかけます」  という声漸く耳に通じ、 母「ホッ〳〵勇ましい其の言葉何うか早く敵を討って御主人様のお家をたてゝ、立派な人に成って呉れホッ〳〵、五郎三郎殿此の孝助は外に兄弟もない身の上、また五郎三郎殿も一粒種だから、これで敵は敵として、これからは何うか実の兄弟と思い、互に力になり合って私の菩提を頼みますヨウ〳〵」  と云いながら、孝助と五郎三郎の手を取って引き寄せますから、両人は泣く〳〵介抱するうちに次第々々に声も細り、苦しき声で、 母「ホッ〳〵早く行かんか〳〵」  と云って血のある懐剣を引き抜いて、 「さア源次郎お國は此の懐剣で止めを刺せ」  と云いたいがもう云えない。孝助は懐剣を受取り、血を拭い、敵を討って立帰り、お母様に御覧に入れたいが、此の分では之れがお顔の見納めだろうと、心の中で念仏を唱え、 孝「五郎三郎さん、どうか何分願います」  と出掛けては見たが、今母上が最後の際だから行き切れないで、又帰って来ますと、気丈な母ですから血だらけで這出しながら、虫の息で、 母「早く行かんか〳〵」  と云うから、孝助は 「へい往きます」  と後に心は残りますが、敵を逃がしては一大事と思い、跡を追って行きました。先刻からこれを立聞きして居た龜藏は、ソリャこそと思い、孝助より先きへ駆けぬけて、トッ〳〵と駆けて行きまして、 龜「源さま、私が今立聞をしていたら、孝助の母親が咽喉を突いて、お前さん方の逃げた道を孝助に教えたから、こゝへ追掛けて来るに違えねえから、お前さんは此の石橋の下へ抜身の姿で隠れていて、孝助が石橋を一つ渡った所で、私共が孝助に鉄砲を向けますから、そうすると後へ下る所を後から突然に斬っておしまいなさい」 源「ウム宜しい、ぬかっちゃアいけないよ」  と源次郎は石橋の下へ忍び、抜身を持って待ち構え、他の者は十郎ヶ峰の向の雑木山へ登って、鉄砲を持って待っている所へ、かくとは知らず孝助は、息をもつかず追掛けて来て、石橋まで来て渡りかけると、 龜「待て孝助」  と云うから、孝助が見ると鉄砲を持っている様だから、 孝「火縄を持って何者だ」  と向うを見ますと喧嘩の龜藏が、 龜「やい孝助己を忘れたか、牛込にいた龜藏だ、よく己を酷い目にあわせたな、手前が源様の跡を追っかけて来たら殺そうと思って待っているのだ」 相「いえー孝助手前のお蔭で屋敷を追出されて盗賊をするように成った、今此処で鉄砲で打ち殺すんだからそう思え」  と云えばお國も鉄砲を向けて、 國「孝助、サア迚も逃げられねえから打たれて死んでしまやアがれ」  孝助は後へ下って刀を引き抜きながら声張り上げて。 孝「卑怯だ、源次郎、下人や女をこゝへ出して雑木山に隠れているか、手前も立派な侍じゃアないか、卑怯だ」  という声が真夜中だからビーンと響きます。源次郎は孝助の後から逃げたら討とうと思っていますから、孝助は進めば鉄砲で討たれる、退けば源次郎がいて進退此に谷りて、一生懸命に成ったから、額と総身から油汗が出ます。此の時孝助が図らず胸に浮んだのは、予て良石和尚も云われたが、退くに利あらず進むに利あり、仮令火の中水の中でも突切て往かなければ本望を遂げる事は出来ない、憶して後へ下る時は討たれると云うのは此の時なり、仮令一発二発の鉄砲丸に当っても何程の事あるべき、踏込んで敵を討たずに置くべきやと、ふいに切込み、卑怯だと云いながら喧嘩龜藏の腕を切り落しました。龜藏は孝助が鉄砲に恐れて後へ下るように、わざと鼻の先へ出していた所へ、ふいに切込まれたのだから、アッと云って後へ下ったが間に合わない、手を切って落すと鉄砲もドッサリと切落して仕舞いました。昔から随分腕の利いた者は瓶を切り、妙珍鍛の兜を割った例もありますが、孝助はそれほど腕が利いておりませんが、鉄砲を切り落せる訳で、あの辺は芋畑が沢山あるから、其の芋茎へ火縄を巻き付けて、それを持って追剥がよく旅人を威して金を取るという事を、予て龜藏が聞いて知ってるから、そいつを持って孝助を威かした。芋茎だから誰にでも切れます。是れなら圓朝にでも切れます。龜藏が 「アッ」  と云って倒れたから、相助は驚いて逃出す所を、後ろから切掛るのを見て、お國は 「アレ人殺し」  と云いながら鉄砲を放り出して雑木山へ逃げ込んだが、木の中だから帯が木の枝に纒まってよろける所を一刀あびせると、 「アッ」  と云って倒れる。源次郎は此の有様を見て、おのれお國を斬った憎い奴と孝助を斬ろうとしたが、雑木山で木が邪魔に成って斬れない所を、孝助は後から来る奴があると思って、いきなり振返りながら源次郎の肋へ掛けて斬りましたが、殺しませんでお國と源次郎の髻を取って栗の根株に突き付けまして、 孝「やい悪人わりゃア恩義を忘却して、昨年七月廿一日に主人飯島平左衞門の留守を窺い、奥庭へ忍び込んでお國と密通している所へ、此の孝助が参って手前と争った所が、手前は主人の手紙を出し、それを証拠だと云って、よくも孝助を弓の折で打ったな、それのみならず主人を殺し、両人乗込んで飯島の家を自儘にしようと云う人非人、今こそ思い知ったか」  と云いながら栗の根株へ両人の顔を擦付けますから、両人とも泣きながら、 「免せえ、堪忍しておくんなさいよう」  というのを耳にも掛けず、 孝「これお國、手前はお母様が義理をもって逃がして下すったのは、樋口屋の位牌へ対して済まんと道まで教えて下すったなれども、自害をなすったも手前故だ、唯一人の母親をよくも殺しおったな、主人の敵親の敵、なぶり殺しにするから左様心得ろ」  と、これから差添を抜きまして、 孝「手前のような悪人に旦那様が欺されておいでなすったかと思うと」  といいながら顔を縦横ズタ〳〵に切りまして、又源次郎に向い、 孝「やい源次郎、此の口で悪口を云ったか」  とこれも同じくズタ〳〵に切りまして、又母の懐剣で止めをさして、両人の首を切り髻を持ったが、首という物は重いもので、孝助は敵を討って、もうこれでよいと思うと心に緩みが出て尻もちをついて、 孝「あゝ有難い、日頃信心する八幡築土明神のお蔭をもちまして、首尾よく敵を討ちおおせました」  と拝みをして、どれ行こうと立上ると、 「人殺々々」  という声がするからふり向くと、龜藏と相助の二人が眼が眩んでるから、知らずに孝助の方へ逃げて来るから、此奴も敵の片われと二人とも切殺して二つの首を下げて、ひょろ〳〵と宇都宮へ帰って来ますと、往来の者は驚きました。生首を二つ持て通るのだから驚きます。中には殿様へ訴える者もありました。孝助はすぐに五郎三郎の所へ行って敵を討った次第をのべ、殊に 「母がまだ目が見えますか」  と云われ、五郎三郎は妹の首を見て胸塞がり、物も云えない。母上様は先程息がきれましたというから、この儘では置けないというので、御領主様へ届けると、敵討の事だからというので、孝助は人を付けて江戸表へ送り届ける。孝助は相川の所へ帰り、首尾よく敵を討った始末を述べ、それよりお頭小林へ届ける。小林から其の筋へ申立て、孝助が主人の敵を討った廉を以て飯島平左衞門の遺言に任せ、孝助の一子孝太郎を以て飯島の家を立てまして、孝助は後見となり、芽出度く本領安堵いたしますと、其の翌日伴藏がお仕置になり、其の捨札をよんで見ますと、不思議な事で、飯島のお嬢さまと萩原新三郎と私通いた所から、伴藏の悪事を働いたということが解りましたから、孝助は主人の為め娘の為め、萩原新三郎の為めに、濡れ仏を建立いたしたという。これ新幡随院濡れ仏の縁起で、此の物語も少しは勧善懲悪の道を助くる事もやと、かく長々とお聴にいれました。 (拠若林玵藏筆記) 底本:「圓朝全集 巻の二」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫    1963(昭和38)年7月10日発行 底本の親本:「圓朝全集 巻の二」春陽堂    1927(昭和2)年12月25日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。 また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。 底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「彼の」と「彼」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。 また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:小林繁雄 校正:仙酔ゑびす 2010年2月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。