註釈與謝野寛全集 與謝野晶子 Guide 扉 本文 目 次 註釈與謝野寛全集  全集は上下二巻になつて居る。下巻の方に初期の作が収められて居るのであるから、歴史的に云へば註釈も下巻から初めねばならぬものかも知れぬが、故人の意を尊重して私はやはり初めに編まれたものを前にする。  炉上の雪二百八十六首は割書にもある如く大正元年から昭和五年に到る間の雑詠から成つて居る。 炉の上の雪と題せりこの集のはかなきことは作者先づ知る  人も時時大宇宙の精神になつて物を見る時があつて、不滅の火であることを信じて居る自身の芸術なども脆い生命の持主である人間の物であればはかないに違ひないと感じる。其れを言葉にして云へば自身だけの謙遜になる。反語でなしに作者は云はうとした動機と、齎らす結果の相違を初めから予期して居た歌である。炉の上へ雪が降つて居るのではなくて、是れは暖炉の縁などへ雪の塊りが置かれて居て、じいじいと音がして解けて行く趣きである。私達が富士見町に居た初めの頃に、小さい庭の雪を集めて来て私はよく其れで物の形を彫つて遊んだ。炬燵の上でしたことであつた。人の顔などを彫つて気に入つた物の出来た時に、其物が当然解けて行く雪であることを思つて私の歎く愚かさからヒントを得たのかも知れない。 太陽よおなじ処に留まれと云ふに等しき願ひなるかな  去り行く青春を惜む心である。これは空中の日の歩みを一つの所に留めて動くなと望むに斉しい気持であると自嘲した。仮りて云ふものも最も適切なものであつたことが強い効果を挙げ得たのであると私は思ふ。また全体の調子ものんびりとして居て作者の恐れて居る初老の面影などは見えて居ない。 ひんがしの国には住めど人並に心の国を持たぬ寂しさ  住して居る所は確かに極東の日本であるが、自分の心には安住の国がない。他の人人を見ると誰れも自分のやうな焦慮はして居ないが自分には是れが苦しいと云ふのである。 やうやくに自らを知るかく云へば人あやまりて驕慢と聞く  此頃はやつと自分と云ふものが解つたやうな心境を得て居る。是れを自分は歌つて居るのであるがまま驕慢であるかのやうな誤解を受けると云ふのであつて、其事が並並の自覚と云ふものとは変つたものであることをも云はうとしたのである。 白がちの桃色をして蓼の花涙ののちの頬の如く立つ  細かに見れば蓼の花は白混りの薄紅であるが、受ける感じは白がちの時色である。作者は細かに見て居ないのではなく、女の顔の涙の後の色の斑らな薄紅の美を聯想したことで其れを現して居るのである。野の蓼の弱弱しい、然かも若さの溢れたやうな姿は作者の好んだ所である。 蝶を見て恋を思ひぬその蝶を捉へつるにも逃がしつるにも  目前に現れた蝶に由つて自分は恋愛と云ふものを考へさせられた。捉へ難いのを捉へ得た悦びにも、また手から逸してしまつた時の失望にもさうであつたと云ふので、美くしいと云はれる恋の本体を語つて居るのである。この歌などに作者の独特のよさを見るべきであらう。 人の身の寂しき時は空を見て梢も物を待つけしきかな  是れは少し言葉が省略されてあるからよく読まねばならない。人間の寂しさを深く覚える日には、目の前の木立の梢なども自分の如く、寂しさに堪へ切れない、奇蹟でも現れて来るのを待つ外はないと天を遥かに眺めて居るものとより見えないと云ふのである。 たそがれの青き光に半面を空に向けつつ泣ける石像  青味のある夕明りの射して来る方へ半面を向けて居る石像は泣いて居ると云つたのであつて、その如く見えると云はず、其れであると云ふ手法を用ひたのである。女の像であることも説明なしに悟らしめたものである。私は佳い歌だと思ふ。 不思議なりわが新しく切りて読む本のなかにも笑める君が目  海を越えて仏蘭西の本の届いた場合であらう。紙切りで一方も二方も切りつつあるのは詩集か何かの本であるが、その中に遠い国で別れて来た恋人の目が笑みを含んで自分を見て居るやうに思はれるとはをかしいものであると云ふ歌。不思議と云ふやうな大袈裟な言葉を最初に使つて置いて、淡い戯れのやうで然かも心から消し難い昔の恋人を軽く思ひ出した作である。 狂ほしき恋の最後に誘はずば止まじとすらん麝香撫子  カアネイションであるが、是れは現在の花ではない。前の歌の成つたのと同時に囘想した往事の一場面ではなかつたであらうか。心の上でだけ愛し合つて居たこの男女を到る処にまで到らしめないではおかないやうな劇しい刺激を含んだ香のある撫子であると云ふ歌。 べにがらと黄土を塗りて手軽くも楊貴妃とする支那の人形  大唐の楊太真も簡単な顔料を泥に塗つたもので現し得たやうに思つて居る隣人の稚気を云つたものであるが、形だけは歌に似たものも歌として通つて行く世の中を諷した作ではなからうか。 わが前の河のなかばを白くして帆をうつしたる初秋の船  作者は岸の家の階上に立つて居た。河は大江でもないが相当な水幅のあるものである。その河を半分まで白くして居ると云ふ所に誇張があるやうで実は河をより狭いものとして、この時の目に美くしく映る一点だけを説いて居るのである。初春初夏と別な音楽である初秋と云ふ言葉がよく利いて居る。 磯の波うへに真珠を綴りたる舞衣のごとまろく拡がる  踊り子の真珠の飾りを沢山附けた白絹の裳がぱつと拡がつたやうな渚の波であると云ふのである。波がしらの一つ一つが丁度舞姫などの幅の広い裾ほどの大きさを我我に見せることはよくあるが、この作者にかう云はれて初めて成程と気附く我我である。 光る魚かの太陽は難くとも空に向ひて網は打たまし  日と云ふ光の魚は捉へかねるかも知れぬが我等の網は他を考へずに彼れへ向けられねばならない、人間の理想は高きに置かなければならぬ、目標とするものは卑いものであつてはならぬと云ふ覚悟を語つて居るのである。 脣に銀の匙など触るる時冷たきもよし智慧の如くに  作者は銀の匙の冷たい感触が好きだと云つて居る。其れは丁度理智と云ふものが自分の感情の中で目を上げる時のやうな気持で嬉しいのである。併し知慧と云ふ物の本質は銀の冷たさを常に変へないものであるがと作者は微笑を含んで云つて居る。 ためらはず宇宙を測る尺度にわれ自らの本能を取る  何に由ることも誰れの学説に頼ることもなしに自分は何の躊躇もなく自分の本能を元にして宇宙を測ることをしようと自負して居る。 ギリシヤの海に見るべき白鳥が家鴨にまじる鵞鳥にまじる  不運なこの白鳥は所を得て居ない。ギリシヤの海を遊び場所とせずに穢い家鴨と混り、ある時は鵞鳥の仲間の如く自ら振舞つて居ると作者は自身の悲みを述べて居るのである。 音も無く黒きころもの尼達が過ぎたるあとに残る夕焼  仏蘭西か伊太利亜の大寺院の庭を、何等の音響も立てずに、黒い喪衣を著た尼達が一列を作つて通つて行つた。その後に赤い夕焼が西の方に望まれると云ふので、息も出来ぬまでに鬼気が身に迫るやうな歌である。寺院の壁も屋根も木立も黒ずんで居るが其れは尼達の衣ほどの黒ではないから云はないのである。夕焼も余りに広く拡がつて居ないと見る方がよい。 誰れよりも唯だ逸早く走らんとして躓ける流れ星かな  其れはかうである。自分と同じ流星なのであると作者は云ふ。あの星は他の追随するのを厭つて真先きに駈け出さうとして失敗しただけである。安全に以前からの位置を失はずに居る星に比べて彼れに欠陥はなかつた筈である。これは軽い調子に出来て居て流星を云ふのに適した形がとられてある。 痛きまで心を刺しぬ桃色の薊と云ひて君を憎まん  心のうづく程の深い恋の印として残る人だから、その人を花と云ふならば薊であると云はう。然かも美くしい桃色の薊だと云つて居よう。憎まうとは愛しようと云ふのである。 自らの花を惜めるこの蔓は空に咲かんと攀ぢ昇り行く  何時までも花を見せようとせぬ此の蔓草の志す所は天にあるらしく、其処へ達して初めて花を開かうと思つて居ることを、際限なく上へ上へと蔓を伸して行く風なので気が附いたと園の主人は歎息してゐる。その主人は詩人で、宜しい環境に置かれて居ない為めに、創作の興を失つて居ながらも理想だけはずんずん高くなつて行く自分と、この蔓草に共通なもののあるのを感じてゐるのである。 大いなる救ひ主には逢はねども一人寂しく泣けばなぐさむ  宗教家の云ふやうな救世主とか、大慈大悲の仏菩薩とかには出逢はないでも、自分は唯だ一人で寂しく泣くことをすると心が和み、慰めが得られる。泣けば不快な世の中にも静かな諦めが生じると云ふ悲しい歌。 木隠れてある星よりも哀れなり広場の上の白き夕月  自分はつつましく木の枝に光の半を被ふ風な星に対してよりも、著はに自らを投げ出して、正しい批評と云ふものがどれほど身に痛くても甘んじて受けようと云ふ勇気の見える白い夕月の方に愛が多く持たれると云ふのである。広場の上と云つて、中空にある月の孤独の清光が誰れの目にも附くのを示してゐる。 一切を蔑みせんとせしわが憎み君に及びて破れけるかな  一切の現実を否定しよう、蔑視しようとした人生に対する憎悪は、一念恋人に及んだ時に破れてしまつたと云ふのである。この憎悪を自殺の形式で現はさうとしたとまでは解釈せぬ方がよい。ある瞬間の気持ちなのである。 世界をばひかりの網に入れて引く今朝の裸の海の太陽  我我の棲息する陸地をば総て皆光明の網を以て手許へ引き寄せようとする海上の日と見える。太陽と云ふ大力のその男は逞ましい裸体で、健康さうな赤い皮膚を持つてゐると作者は見た。面白い歌である。 大詰のあとに序幕の来ることただ恋にのみ許さるるかな  最後の破綻と見なすべき事があつて、更らにまた初めの甘い相思が帰つて来る。他の事には見難いこの形式を人も見て疑はないのは恋愛にのみ限られた事であると云ふ歌。 我が涙はかなく土に消ゆべきや否否人と云ふ海に入る  寂しく土に沁み込んで行くのを見る外もない自分の涙であらうか、さうは見えるであらうが事実は違つて居る。この涙を受けて呉れるのは海ほど広大な恋人の心であると云つてある。此処で人と使つてある言葉は、恋とか君とか云ふ方が解り易くはあるが、其れでは作者のねらつた重さが現れない。温い人間と云ふものの中の代表者である彼の人と云ふ事はこの一語で云ひ尽くされてゐるやうに私は思ふ。 巴里にて夜遊びしつつ覚えたるよからぬ癖の嗅ぎ煙草かな  作者の居たモンマルトルの宿は下宿人にマダムと云はれてゐる一人身の女が幾人か居て、其の人達も宿の主婦も嗅煙草の銀の小箱を持つて居たことは私も見たが、作者は私よりも長くその家に残つて居た間に、女達が嗅煙草をそれぞれ鼻の内側に塗りながら無駄話に夜を更かす客室にも居て、自身も嗅ぎ試みたことがあつたかも知れぬが、これは異邦で一時的の遊蕩子になつて居た人の、日本に帰つた当座の気持ちと云ふやうなものを創作して見たものと思はれる。作者の生活ではない。 時として異邦に似たる寂しさをわれに与へて重き東京  時時は万里の孤客であるやうな寂しさを自分に持たせる重苦しい帝都であると悲んだ歌。 外套の襟を俄かにかき合せさし俯向けば旅ごこちする  これは前の歌とは違つた。ある日の途上で感じた淡い哀愁が歌はれてある。その時までは何とも思はなかつたが、衣服の端で寒い外気を被はうとした刹那に、某年某月の旅に嘗めた異境での悲みが突然心に蘇つたのである。 青ざめて物思ふこと人よりも多きに過ぐるたそがれの薔薇  自分等などよりも物思ひを多くする風に青ざめた顔の白薔薇の花であると、夕明りももう暗くなりかかつた空の下で見たと云ふのであるが、物思ひを多くするらしいと見られてもなほ美を損はぬ程度の花であつて、人はまた恋に痩せながらも更らに其れよりも幸福なやうに思はれる。 浮びたる芥の中に一筋の船のあとあるたそがれの川  都の中の川らしい、川一面と云ふのでないが、作者の目の行つた所には相当に広く芥がひろがつて水を被ふて居た。その中に一筋の道が出来てゐるのは、船が行つた跡なのであると云つてあるが、船が作つて行つた道がいかに美くしい水の色をしてゐたか、其れは彼方の川上にも川下にも見出せないやうな清い光をなしてゐたであらう。醜い芥はつつましく身を両側へ退けてゐたに違ひない。 ねがはくは若き木花咲耶姫わが心をも花にしたまへ  或る音楽者が短歌の作曲をして見たいと申込まれた時に、作者は幾首かの歌を呈供したが、是れもその中の一首であつた。半切などにもよく故人はこの歌を書いた。春の神を呼びかけて云ふのにふさはしい快い調子の歌の出来たのを故人は嬉しく思つて居た。木の花を統べ給ふ情知りのさくや姫よ、自分の心にも花を咲き満たせ給へとかう歌つた作者は青春期になほ籍を置くもののやうに恍惚としてゐる。派手な恋の勇者にもならうと望んでゐる。 手のひらを力士の如くひろげたるシヤボテンの樹に積るしら雪  唯だ大きいだけでなく、厚味も豊かな相撲力士の拡げた指のやうな大葉のシヤボテンの樹に雪が白く積つて居る。私にはこの大葉のシヤボテンは嫌ひなものの一つであるが、この歌を見ると、雪の白く積つた何処かの朝の庭でもう一度この木を見直して見ようかと云ふ気がする。 上目して何となけれど物一つ破らまほしきここちするかな  他目には唯だ遠い所を見る目附きをして居る自分であらうが、苦しい束縛を自分に加へてゐる目に見えぬ幾つかの物の中の、何かの一つを破つてしまひたい気に自分はなつて居ると云ふのである。 乾漆か木彫かとて役人がゆびもて弾く如意輪の像  大和あたりの古い寺へ係りの役所の吏員が来て乾漆で成つた仏像か、木彫仏かと云つて、指で如意輪観音の黒ずんだ像を弾いて見てゐる。彼等は仏像そのものに対して不謹慎であるばかりでなく、いみじい古美術に何らの尊敬を払はうとして居ない。骨董品の性質を調べ上げて能事終るとして居ると云ふのであるが、是れも作者自身を見る世間の目を飽き足らず思つての作であらう。 その人に我れ代らんと叫べども同じ重荷を負へばかひなし  これは恋の歌ではなく、友情から発した悲憤の声であらうと思はれる。ある気の毒な境遇に居る人を自分の力で救ひ出さうと思つたが、顧れば自分もその人と同じだけの重荷を負つてゐて、身じろぎも出来ないのであつた。上げた叫びも空なものになつたと悲んで居る。 美くしき太陽七つ出づと云ふ予言はなきやわが明日のため  自分だけが見る世界には美くしい太陽が七つまで出るであらうと云ふやうな予言を聞く事が出来ないのであらうか。不運な自分にせめて未来をさう云つて力づけるものがあればいいのであるがと云ふ歌で、作者は空想をただ文字に並べて七つの太陽などとしたのではなく、望む所の美も富も恋も詩も輝やかしく明らかに想像してゐる。その幸福をもう一歩で手に取り得る自信を十分に持つて云つてゐるのが佳いのである。 わかくして思ひ合ひたる楽しみを礎とする人間の塔  青春時代に相思ひ合つた恋愛の囘想を根拠にして建てた、宗教の外の是れは人間の塔である。自分の礼拝するものはこの以外にないと云つてある。 手ずれたる銀の箔をば見る如く疎らに光る猫柳かな  銀箔の押された屏風が古びて黒くなり、それがまた手擦れて所所の光るのを見るやうな落ちついた快さと同じものを早春の猫柳は見せてゐると云つてある。上白んだ猫柳の芽の銀色はいかにもさうとより思はれない。疎らに附いて居ると云ふのもなければならぬ説明である。 取らんとて逃ぐるを恐る美くしき手は美くしき小鳥なるべし  恋人の手を取らうとした刹那に、この自分の手が其処へ行くまでに飛び立つてしまはないであらうか、取返しの附かぬ失望を次の瞬間から自分は味はねばならないのではなからうかと恐れた。美くしい手と云ふ物は美くしい小鳥と同じ性質の物であつたからこんな思ひも自分にさせたのであると云ふのであつて、作者は単に手の美だけを云はうとしたのではない。どれ程現実の物以上に理想化してその恋人を思つて居るかを一端だけ云つて見せたのである。 薔薇の散る低き音にもわななきぬ恋の心は臆せると似る  二人で居る時の心境とも、一人で居る時の心もちとも思へるのであるが、私は作者の意は二人の方であらうと見る。幽かな薔薇の花片の落る音が耳に入り、また相手も聞いたことを知つて居るのであるから、此の時は歓談も尽きて沈黙が二人を領して居たに違ひない。恋をする者は臆病者のやうに不安に慄かれる、今の幽かな音が相手の心を別な方へ向ける動機にはならなかつたであらうかと作者は怖れて居る。憐むべきやうではあるが実はこれも緊張した心の現れで臆病者と隣りしては居ても実質は違つてゐることも作者は知つてゐる。 地下室のくらき灯のもと椅子七つ秘密結社に似たる歌会  私もこの席の一人であつたやうに思はれるのであるが、何時何処の会とまでは明瞭に記憶しては居ない。例の小さい帖を掌の上に載せて、口の中では句を練りつつ唱へて居た作者が、ふと目を上げて灯の暗いのに気が附いた時に、帝政時代の露西亜の小説によく書かれてあつた秘密結社を作る為めの寄り合ひのやうであると思つたのであらう。 寂してふ世の常に云ふ言の葉も君より聞けば一大事これ  何処にでも使はれて居る寂しいと云ふ言葉も、恋人の口から聞かされる場合にはどれ程の衝動を受けることか、其れこそ一大事出来と云はねばならない。こんなに深く愛して居てもなお不足を感ぜしめるのか、環境に欠陥があるのか、恋人に寂しいと云はせる理由は何かと急速度に反省がされると云ふものの相手が幾分甘く見られて居ることは歌の調子に見える。 堪へがたし思ひの火より救へよと我がよぶ時に君もまた呼ぶ  情熱の火に焼かれつつある堪へ切れない心を救つてくれと最後の悲鳴を上げた時に、同じ言葉が恋人の口からも叫ばれたと云ふのである。呼ぶと云ひ、悲鳴を上げると云つても他の世界へ向つてして居るのではなく、二人だけの世界に於てであることは云ふまでもない。これはこの作者持まへの綺麗な出来上りを避けて、態と調子構はずに云つてある所などは前の歌の技巧とは正反対である。 溢るるは唯だにひと時おほかたは醜き石をあらはせる川  是れは象徴歌である。若若しい感情が豊富に胸から溢れ出して、良い芸術が幾つでもやすやすと出来上り、自らを満足させることは、雨後の出水時にだけ見ることの出来る山川の勢ひよさで、幾日も続くことではない。後は涸れて堅くなつた頭脳を苦苦しく思ふばかりである。石ばかりがごろごろとした醜い山の渓の其れのやうにと自嘲した意。 工場に汽笛は鳴れど我れを喚ぶ声にはあらず行く方も無し  作者はまたしよんぼりと街を歩いて行く。この時に近い工場で作業の初まる汽笛が鳴つた。然し其れは自分に向つて呼びかけてくれたものではない。同じ道を今日まで同一方向に歩いて居た男女は、今の音のため皆多少の血の気を頬に上らせて居るが、相変らず何処へ行つてよいか目的無しに自分は歩くばかりであると云ふ歌。 知らぬ人われを譏ると聞くたびに昔は憎み今は寂しむ  自分をよく知らない人が自分を譏つて居る噂などを聞くと、昔はよく腹が立つたものであつた。今はそんな時にも怒る気にはならないで人生の寂しさをいよいよ深く思はせられるだけである。 くれなゐの秋のひと葉を手に載せぬ若返るべきまじなひのごと  真赤に染まつた紅葉の一片を自分は手に載せてゐる、大切に大切に思はれて長く捨て去ることが出来ない。かうして居れば青春が返つてくるまじなひかのやうにと云ふのであるが、葉は楓でなく柿の葉ではなく、其れよりは細くて優しい桜のもみじであるやうに思はれる。美くしいとは云つてないが、其れは十分に読者の胸へ伝へられてゐる。 わが機に上せて織れば寂しさも天衣の料となりぬべきかな  詩人である自分が心に摂取すれば、普通人には苦痛であるべき寂寥も勝れた創作を成就させる一分の用に立たせることが出来ると云ふのであつて、これには作者の自信が十分に盛られてある。 啼きに啼くあさまし長しかまびすし短き歌を知らぬ蝉かな  何と何時までも啼き続ける蝉であらう。何と云ふ饒舌な蝉であらう、やかましい、うるさい、彼等は自分等が僅かな三十一文字で複雑な感情を簡潔に余すなく述べるやうな技術を持たないのである。憐むべき蝉だと云つてある。蝉はそんなものであるが、その声を聞く作者の心には無駄な文字を多く費すだけで、効果の少い拙い長詩を作る人達を歯がゆく思ふ所があつたのであらう。 騒音は猶しのぶべし一やうに労働服を著たるさびしさ  これも象徴歌である。ソビエツトの都会を見たもののやうに云つてあるが、作者の意はあの下品な騒しい物音まではまだ辛抱も出来るが、誰れ一人変つた服装をした者のない労働服ばかりの人の群を眺めて居なければならないことは実に不幸であると云つて、文学の平俗化、多衆化を悲しんでゐる。 憂きときは薔薇をば嗅ぎてうち振りぬ胸に十字を描く僧の如  悲しい気もちの起る時は薔薇を嗅いで、其れから薔薇の花を手で振つて見るのが自分の癖である。事に触れては天主の名を唱へて十字を胸に描く宗教家の如く、これは最も神聖な気分でしてゐることであると云ふ歌。薔薇であるために、恋人のことは云つてないがこの花を嗅いで、僧が神の幻を追ふやうに作者の思つて居るものは若い美くしい芳しいものの面影に違ひない。 エルナニの恋のうたげに恐しき死の角笛の響きくるかな  ユウゴウのエルナニと云ふ劇の演ぜられるのを私も一度故人と一所に仏蘭西座で見物した。作者は其れが好きで猶何度か見たと云つてゐた。私は以前に小山内薫氏の訳で読んで筋を知てゐたから、この芝居は割合楽に見物することが出来た。故人もさうであつたであらう。エルナニは恋敵に或る不始末を見られた贖ひとして、何時でも望みの時に命を遣らうと云ふ約束をしておいたが、大詰の城内の結婚式後の宴会の場で、命を望む時に吹かれることになつてゐる角笛の音がして来る、相抱いて恐怖に慄く新郎新婦の前にやがてその老人が現れて来て、命を受取ると云ひ、二人は苦悶しながらも毒を飲んで死んで行くのであるが、西斑牙の昔ばかりでなく、かうした禍ひに我我の運命もしばしば脅かされることを作者は歎いてゐるのであつて、恋と云ふ言葉はあつても、其れは幸福と云ふのに代へてあるだけで恋の歌ではない。 磨かんとして砕けたるそののちは玉の屑ぞと云ふ人も無し  磨かうとして過つて砕いた玉に相違ないが是れが玉の屑であつて、小石ではないことを誰れも認めようとしない。曇つたままで置けば玉であることは疑はれなかつたであらうがと作者は思つて云つて居るらしいが、意地の悪い世間は必ずしもさうとは云はなかつたであらう。不幸な作者よ。 人の見て沙の塔とも云へよかしはかなき中に自らを立つ  好意を持たぬ人間から、是れは永久性のない沙の塔であると云はれても構はない。貧しい生活はしながらも独自の人生観を芸術に托して云はうと努める者は自分であると云ふ歌。 我が玄耳蘭を愛することをしぬ遠方びとを思ひ余りて  故人澁川玄耳氏が山東省の青島に居られた頃に、愛養の百種の蘭を写真にして送られた。玄耳子は愛人を東京に置いて行つて居られたのである。この場合の「我が」には我が親愛なると云ふ意が含められてある。「我が君」、「我が国」、「我が妻」も単に自分のと云ふだけではないのである。近来は「吾子」と言葉を無暗に使用する人もあるが、あれはまた「可愛いい子よ」と呼び掛ける言葉であつて、源氏の中の会話に「あが君」と云つてある所は殊更媚びて云ふ必要のある場合に限られてある。自尊心のある男女の会話には無い。調子が甘たれて「我が」とは別な意が出来たのである。さて作者は友の玄耳に深い同情を寄せて居る。蘭を此頃愛して居ると云ふのは、離れて住む情人が遣瀬なく恋しくなる時の心の慰めに過ぎない。蘭に気分を紛らせて居るのであると憐んでゐる。 穀倉の隅に息づく若き種子その待つ春を人間もまつ  今日は暗い穀物倉の隅に納められて居て、吐息をつきながらも来るべき春を待つ思ひに心の燃えて居る何かの生き生きした種子、其れと同じ心もちで未来の光明を待望する人間がある。尠くも自分はさうした人間であると作者は語つて居る。 幼な児が第一春と書ける文字太く跳ねたり今朝の世界に  是れは末女の藤子が或年の春の書初めに、半切の白紙へ書いた字である。第も春も大人には不可能に思はれる勢ひで跳ねが出来て居た。作者はこの大胆さが嬉しかつたのである。自分等の新しい春はこの子に由つて強められた。整然とした正月の朝の家が更らに活気づいたと喜んで居る。此処の世界は家の中を中心としたやや狭い意味。 止まりたる柱時計を巻きながらふと思ふこと天を蔑みせり  今まで止まつて居た柱の時計の螺旋を巻きながらふと自分は大それた事を思つた。其れは自然の則も無視することの出来るやうな力が自分の内に充満してゐることを信じたのであつた。つまり時の流れなどは何んでもないのであると云ふやうな思ひがしたのである。 沈黙を氷とすれば我があるは今いと寒き高嶺ならまし  無言で居る境地を氷に譬へるならば、今自分が居る所は氷雪に満ちた寒い高山の絶頂と云ふべきであると云つて、暗に認識不足な世間に対して、云ふべきを云はず黙して立つ者は、骨も削づられるばかりの冷寒の苦を味はつて居るのを云つて居るのであらう。 自らを恋に置くなりしら玉よ香る手箱にあれと云ひつつ  今や自分は恋愛三昧の人である。白玉にも譬へたい自分の置場を、他の傷つき易い所に置きたくないからで馥郁たる香を湛へて名利の外にある恋だけはよく自分を安らかならしめるであらうとかう定めて居ると云ふ意。 辻に立ち電車の旗を振る人もいしく振る日は楽しからまし  これはまだ交通の信号燈などの出来なかつた時代の東京の街上風景に得た感想である。水道橋とか、神保町とかの四つ角に立ち青旗、赤旗を振つて居る人は、みじめな仕事をして居ながらも旗の振りやうが思ひ通りに巧みに出来た場合は、自分等に良き創作の出来た時と変らない満足感があるであらうと云ふのであつて、高村光太郎氏の歌に屋後切が巧みに門戸の閉りを切つた跡を見ると、是れも芸術であると云ふやうな気がされると云ふのがあつたのは、彫刻の刀を取られる同氏の作であるだけ、さうした巧みな物があつたのに誰れも気附かぬ美を発見して教へられたものとして私は記憶して居るが、是れは創作の楽みが其処に認められると歌はれて居るのである。 女みな流星よりもはかなげにわが世の介の目を過ぎにけん  西鶴の好色一代男の主人公(ここの「我が」は自分が愛して居るのではなく、作者の西鶴が愛して居ると云ふ意)が相手にした多くの女達はどれも空の流星の如く世の介の目に一時的な光を投げ得ただけの価値よりないものであつて、次次ぎに消えて行つたと取り為すべきであらう。彼れをして終生変らぬ執著を持たしめる女は無かつただけで、必ずしも世の介を軽薄と云ふべきでないと云つてある。作者の自己弁護が少しは混つてゐるかも知れない。 自らを愛づるこころに準らへてしら梅を嗅ぐ臘月の人  早く十二月に咲いた白梅の花の香を自分自身を賞美すると云ふのに近い気持ちで嗅いで居る。自分は白梅の清香に類したものを内に蔵して居るから殊更この花を愛すると云つて居るのであつて、人は作者自らである。 地の上に時を蔑みする何物も無きかと歎く草の青めば  この大地には自然が押しつけて約束したことに違背する勇気のあるものは何も無いのであらうか、とこんなことを自分は春になつて、毎年の例のやうに若草が青む時に思ふと云ふのであつて、何事かを起さないでは居られないやうな鬱勃たる不平がこの歌には見える。 目を遣れば世の恋よりも何よりも燃えて待つなり片隅の薔薇  ふと室の一隅を見ると云ふ言葉で、その時まで作者は或る思ひに懊悩してゐたことが解る。其処には血の燃え立つ色を見せた薔薇の花があつた。世と云ふのは世の人間のと云ふ意である。其れは自分が対象にしてゐる恋人の生温るさには似ない熱意を見せて自分の近づくのを待つ薔薇ではないかと云ふのと同時に作者は溜息を洩した。待つと云ふ言葉も逢ひたさを云ひ遣つた人の返事が思ふやうな物でなかつた為めに出た言葉ではあるまいか。何よりもはその外の一切の物よりもと云ふのであるが大して其れを強くは云つて居ない。 この国に呟くことをふと愧ぢぬ冬もめでたき瑠璃の空かな  日本に居て猶不足がましく歎息などをしてゐる自分を見出して愧ぢた。冬と云ふのにこの冴えた瑠璃色の空はどうであらう。巴里の冬は毎日陰鬱に曇つて居たではないか、東方の恵まれた自然の中に居る自分ではないかと作者は思つたのである。 美くしき心を空に書きたれば明星は打つ金のピリウド  自分は夕方の大空を見て清い恋を思つて居た。美くしい言葉にして其れを青色の広い広い紙にも書く自分であつた。この時に出て来た明星は自分の文章に黄金色の句点を打つたと云ふ歌。 わが額を鞭もて打つは誰がわざぞ見覚めて見れば手の上の書  ぴしりと自分の前額を打つ者があつた。誰れからこの咎めを受けたのであるかと目を醒して考へて見ると、其れは手の上に置いた書物から受けた譴責であつたと云ふのである。作者は全く眠つて居たのではない。夢を見て居たのでもない。瞑目して暫時自己を忘卻して居たのも、既にこの良き書から発せられた警告の為めであつた。是れに接するまでの愚かな自分を鞭打ちたく思つたのはもとより作者自身であつた。 大いなる傘に受くれば一しきり跳れる雨も快きかな  大きい傘の拡げられた刹那にばらばらと降りかかる雨が上に跳つてゐるやうな快感が覚えられた。雨も新味と変化とを喜ぶ自分達の心と同じであると云つてある。之れは夏の日の雨らしい。寒いことなどは思はれない。 世の隅に涼しき目をば一つ持ち静かにあらんことをのみ思ふ  善悪と美醜のけぢめに正しい判断力を備へた自分を守つて、世の表面などには出ず、人目につかぬ片隅で静かな存在としてあることが幸福であらうとばかりこの頃は希はれる自分であると云ふ歌。 時の波絶えず寄せ来て人の身をはてなき沙に埋めんとする  止む間もなく押し寄せてくる時と云ふ波はこの世のどの人間をも寂しい死の沙に埋めようとして居る。こんな戦慄をする時のある作者であつた。私は作者が寂しい無色の沙へ永久に埋歿されたとは思はない。私が故人を思ふだけの心でさへ百彩の錦をなして居ると信じて居る。 猶しばし昨日の夢にかかはりぬ覚めぎはの目の甘くおもたく  忘れ去るべき人であると自分の理知が命ずる儘に違背しようとはして居らぬが、自分の感情の殆ど全部はまだその恋が占めて居る。楽しい夢を見た良き朝の目の覚めぎはの気もちとも云ふやうな、半睡時の甘美さと重苦しさを感じる者は自分であると云ふのである。約束された覚醒が近づいて来るのを恐れて居るのでもないのである。相当に複雑な気もちがよくも短く表現が出来たものであると私は思ふ。昨日と云ふ言葉なども簡単に使つてあるのではない。 とばりより君覗くなり水色の矢車草を指にはさみて  自分が下を通つて行く時に窓のカアテンの間から恋人が外を覗いて居た。水色の矢車の花を指と指の間に狭みながらと云ふのであつて、是れは日本婦人の習慣に其れ程無く、異国の婦人には有り勝ちな媚態を作つて居たことが思はれる。巴里の宿の前の庭に矢車草の沢山咲いて居たこともこの歌から私は目に見えるやうに思はれる。 もろともに花をかざして若き日はまたなしとしも歎きつるかな  是れも同じ人を追想して出来たものらしい。花も矢車草であつたであらう。或ひは白いマアガレツトかも知れない。かざすと云ふ言葉は男が洋服の胸へさしたこともかう云つてよいのである。二人で同じ花を胸にさして若い日は去り易い、其れを知つて居る我等は燃ゆる火を内に抱いて相寄つて居るのではないか、罪であつても何であつても仕方が無いと話し合つたと云ふのである。歎くと云ふのは二人の恋の底に不安があるからである。其の場面には花園用の萠葱色のベンチがなくてはならない。 花園を隣にもてるここちしぬ匂へる君をいと近く見て  百花爛漫と咲いた花園の意味では恐らく無いであらうと思はれる。めざましい眩い花園ではなく、人が一寸主人に羨望の念を抱く程度の美くしい花園を隣にして住む家に居るやうな幸福感を自分は与へられて居る。其れはこの麗人と膝を並べて坐してゐるからであると云ふのである。 向日葵を一輪活けて幸ひのうちあふれたる青玉の壺  青玉の壺へ向日葵を一輪活けて見ると幸福と云ふものが外にまで溢れた形が見えると云ふのである。一つで壺全体を被ふた大花であることが解り、其れが勢ひのよい盛りであつたことも解る。心もち横に傾いて居て溢れると云ふ聯想が起つたのであらう。然かもこれは象徴歌で、向日葵は恋を云ひ、静かな青玉の壺に自己の心境を托したものなのである。中年の落ちついた男の恋と盛んな女の恋の形である。 天つ日が四月の昼に見る夢か武庫の高原つつじ花咲く  空の太陽が陽春四月の昼に見て居る夢が是れなのであらうかと思つた。この躑躅の盛りを見る所は六甲山の高原であると云ふのであつて、躑躅は白などではなく臙脂と樺色であつたのであらう。六甲山はむこやまの当字に最初書かれたのが漢字読みの山の名になつて居るのである。頂上に近く石がちに原をなして居る物は灌木で大方躑躅なのである。作者はかうした景色が好きで、軽井沢から浅間にかけて躑躅の咲く季節に信州へ遊びたいと云つて居たが遂げずに終つた。 片隅にありて耳をば澄すなりめしひの如き水色の壺  室の一隅に水色をした陶器の壺が置かれてある。じつと耳を澄して常人の耳にはまだ入らない音をも聞かうとして居る。敏感なそしてうす無味の悪い盲目の人の座つた姿が思はれる壺であると云ふ歌。何となく寒気を覚える程確実に物が掴んである。 行く水の上に書きたる夢なれど我が力には消しがたきかな  行く水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけりと云ふ古今集の歌の意を受けて、さうした無駄な思ひかは知らぬが、自分の意志の力ではこの空想を壊してしまふことは出来ないと歎いた歌で、恋歌とせずに、他から見ては突飛な希望と云ふやうなものを胸に畳んでゐることを云つたものと解釈して置く方が妥当なやうである。 銀泥の帯を仄かに引きて去る杉生の底の一すぢの川  箱根の歌である。箱根へは何度となく遊んだ作者であるが、この時の吟行は大正十年かと記憶する。塔の沢と底倉で各一泊したのであつた。強羅から宮の下へ下つて来て見た早川の景色かと思ふ。両岸の杉山の中に銀泥を刷いた帯をほのかに引いて進んで行く川を作者は美くしいと眺めたのである。四月の初めで春雨も降つてゐた日のささ濁りした流れであつた。 洞門の出口にわれを待つ友がたそがれに吹く青き鳥笛  是れは同じ時に塔の沢から湯本の玉簾の滝を見に出かけた途中で、洞門の出口に友人の西村伊作氏が背を寄せて、土産物店で買つて来た笛を吹いて居たのであつた。黄昏れて行く山の中の寂しさがよく現れて居ると思ふ。然かも秋でも冬でもない時の寂しさが見える。青いと音の感じを云つた言葉と、我れを待つと云ふ友情とでしめやかな春を伝へてゐるのである。 桃色の明りの中に白を著て少女の如く走しりくる船  白を著てと云ふ所まで読んで、しののめの空の下を来る少女を云ふ歌かと思ふと、さうでなく、そんな風にして白い色の船が此方へ来ると云ふのである。速力の早い小舟が生き生きとした力を現して出て来たのである。夏の歌かと思はれる。 懲らしめて肉を打ちつつ過ちて魂をさへ砕きつるかな  放埒であつた前日の非を贖へとばかり極端に自己を呵責して、身に出来るだけの禁欲を続けて来たことは誤りであつた。肉体に加へた罰から精神までも哀れに萎縮してしまつた。是れは全く予期せぬことであつたと作者は云ふ。 寂しさよこの頃おつる髪を見て作り笑ひもことにこそよれ  寂しい事実である。何がさうかと云ふと、額の方を広くばかりして抜け落ちて行く髪の毛を目に見て、滑稽だなどとも云つて人に笑つて見せて居る自分が情けなく寂しいのである。心にもなく人に笑つて見せることはあつても是れは余りであつて、自分を醜くするこのことに反省がされると云ふ歌。 はしたなく縁の取れたる鏡などあらはに見ゆる我が家の秋  縁が無くなつて裏もはげた中身だけの醜い感じのする鏡、其れがうら寒い秋にうら寒いものの目に附き易くて自分を傷ましめることの多い此頃であると云ふのである。 女達鏡の間より裾引きてまどに寄るなり秋の夜の月  鏡の間はベルサイユ宮殿の一室の鏡で張りつめた間のことである。大広間の一つになつて居て、窓は広い森に向いて開かれてゐる。是れは鏡の間の方から隣の部屋へ今出て来た皆夜会服の裾を長く引いた貴女達で、其の人達はこの間の広い窓の傍へ寄り、秋の夜の月の明るい庭を眺めるのであつたと云つてある。ルイ十三四世の頃の宮廷の光景を描いて居るのであつて、漢詩の宮詞と云ふやうなものである。沈香亭の北の欄干に倚つて牡丹を見て居た楊貴姫は牡丹の花と同じやうに想像され、このルイ朝の貴女達は秋の月のやうな麗人であることを思はしめる。 曇る空波のしろきを前にして網を打つなり真裸の人  曇つた空が上にあつて、下の海には白い波が立つてゐる。この風景を前にして裸体の人が網を打つて居ると云つてあるが、壮重な感じは一漁夫が立つて居るとする方にあるが、私は漁夫が幾人も居ると見る方がよいと思ふ。其れをこの言葉だけで表現し足りないとは思はない。裸男の大勢の力が集められて居ても大海や空に比べては小さいものであらうから。 木立みな十字にとがり太陽も十字に光る冬枯の上  どの木も十字に見え、それに射す太陽の光も十字の形に落ちて来るとより見えない、寂しい冬枯の日の園の景色。 象の背の菩薩の如く群青と白の絵の具の古び行く秋  象の背に乗つて居る普賢菩薩の古い仏画のやうに、秋は白であつて群青色であつて、そして日日その仏画のやうに古く錆びが附て行くと云ふのであつて、作者が思つて居る普賢の像の著衣は青色の鉱物性の顔料で描かれたものであつて、顔には厚く胡粉が重ねられてあるのであらう。其れのみならず初めから灰色を塗られた象の姿も作者の目に映つて居る筈である。更け行く秋を作者はこんな風に見た。 一切に背を向けながら入る如き甘さを感ず劇場の口  芝居の入口に達した時の心もちに、是れで一時的にもせよ世間と断たれた世界へ身を置くことになると云ふ満足がある。気に入らぬ一切の物に背を向けて遺ることの出来る快感を感じるのはこの時であると仄かながらも覚えると云ふ歌。 かの隅になにがし立ちて叫べども振る手のみ見ゆ群衆の上  一方の隅に名士の某が立ち高い声を放つて演説をしてゐるやうであるが、何も聞えるものでない、大衆の居る上に振る手だけが滑稽に見えるだけであると云ふのであるが、議論をする事を嫌つた後年の作者は、さうしたものは皆無用な精力の浪費であると云つて、若い人は創作をのみ熱心にすべきであると説いて居た其の心もちと取るべきである。 拳を打つ二人の男たやすげにすべてを拒む形するかな  拳と云ふものを目に見ない人には一寸解り難い歌かも知れぬ。手の指を種種な形にして相手と亘り合ふのであるが、其の中に二つの手を前向けに立てて突出す形がある。指の二三本で変つた形をして居る時よりもこの時の形が派手で目に附き易い。形は物を拒否する姿になつてゐる。あの男のやうに安易に総ての物を否定する意志を示すことが出来れば痛快であらうと作者は横から見たのである。自分は世間に対して二つの手を前向けに立てて見せられぬのが残念であると云ふ歌。確か桜の咲く頃に石井柏亭氏などと一所に江戸川の川甚と云ふ旗亭へ入つた時に、向うの方の座敷では拳を打つて居て、其れを此方からでは丁度手の先きだけが見えて面白いと云ふ歌も、この作者にある。 必ずと云ふ約束をたやすげにかはして別るうら若き人  永久の愛の誓ひを初めとして二年三年の後の約束も若い人達は平気でするが、其れは実行の出来難い物である事を、過去の経験からよく知つて居る自分である。自分も以前にやすやすとした約束が一つとして果されたものはない。諸君は今に自分のやうな苦い悔いばかりを味はねばならないであらうと云つて、若い人を警める心よりは、単純であり得た自己の青春を限りも無くなつがしがつて居る歌だと私は見て居る。 やはらかに海に入らんとする山を磯にささへて白き城かな  伊太利亜にてと云ふ端書きがある。伊太利亜を私は見ないのであるが、作者の歌つた所は南方の伊太利亜で、柔い岬の山が地中海に伸びて終らうとする所に白いシヤトウが立つてゐて、山の線を止めた形に見えたやうである。 我れも行く春の銀座の灯のもとを巴里の宵の人中として  銀座の春の灯が連つた所を自分も行く。然し此処へ集つて来る他の人達と心もちに於て少し異つてゐるのである。自分の足は現在を享楽して運ぶ歩でなく過去を追つて居るのである。巴里の夜のグランブルバアルの人波を分けて行く味ひを是れから得ようとして居ると云ふのである。 ここにして夜毎に逢ふと語る時銀座通を新居格の行く  此の頁に並んでゐるのは何れも軽い調子の歌である。銀座の夜に三四人が然か語つて居る時に、噂の主の新居格氏が前の舗道を通つて行つた。 カフエエより扇形して春の夜の銀座の雪を照らすともし火  銀座の雪の上へ家の入口の灯の明りが末広がりに扇の形をして射して居ると云ふのであるが、唯だの家とは内容の異つたカフエエの灯であることで、内の濃彩と外の淡彩で好い諧調が構成されてゐるやうに思はれる。早春の雪に違ひない。作者はカフエエの中から見てゐることは云ふまでもない。 若きむれ酔ひて歌へば片側の卓にある身もおもしろきかな  作者と片隅の卓へ一所に倚つて居る人達を云ふのでなく、彼方此方に一団一団になつて居る若い連中があるのである。酔つて歌ひ出すまでにも其の人達の歓語が耳を喜ばせて居た。 なほ注げと低き声しぬ誰れ待ちて隅の卓なる白きうなじぞ 「もう一つ」と女は低い声で云つて、ギヤルソンに卓上の杯を指して居た。この時刻に此処で逢ふ約束の人を待ちかねて居る様子が、顔を外へ見せぬやうにして俯向いた美くしい白い頸附きに見える。と云つて作者は待たれる男の幸福に多少の羨望を感じて居ることも見せた歌である。是れは銀座にゐて遠い巴里と古い記臆を幻に描いた作である。言葉を態と省略して頸の形だけを云つて女の気もちを其れに托してある。 君により初めて明日の歌を聞く凍れる中の春のおとづれ  吉田精一氏の歌集春の口笛の序に詠まれた歌の一つである。この作者に由つて自分は初めて未来の世界を見ることが出来、明日の詩を聞くことが出来た。自分達の周囲は今総て凍て附いてしまつてゐる。こんな時に春の訪れを持つて来てくれた歌集であるから嬉しいと云ふのであつて、集の名の笛を離れずに所信が叙べられてある。 にはかにも松を通して朱をながす夕日の中の街道の雨  夏の変調な天気らしい。東海道の藤沢辺の街道を少し奥へ入つた家から作者は見て居るやうである。古い並木の松であるから大木が列をなしてゐて、足柄辺りへ入る日が赤い夕焼を作つてゐる空が背景になつて居る。この街道の上に今雨が降つて居るのである。相当に烈しい雨らしく思はれる。 何故と世に問ふことを忘れたるうつろの心しづかなるかな  自分が何故に無視されてゐなければならぬかを世間に対して問つてやりたい心持ちも、何時となくどうでも好い気になつた、従つて憎みも悲みも忘れた今の心境は静かである。この空虚は愛すべきものであると云ふ歌。もとより是れは作者自身だけが空虚と呼んでゐる空虚なのである。 うきことは思はぬ如く馳せながら薔薇を散らしぬ曲馬の女  人間である以上、然かもあの境遇にゐる以上持つてゐない筈のない悲みを忘れたやうに感じないやうに馬上から薔薇の花を撒いて居る曲馬乗りの女よと云つてある。是れも作者は日本で見た曲馬ではなく、郷愁を抱きながら巴里の旅先で見た曲馬らしい。 その中に白き孔雀の誇りもて長く引きたる夕ごろもかな  仏蘭西座の廊下を往来する貴婦人達の中の特に目立つ一人を作者は歌つたのであるが、そんな場所でなく、或る大邸宅の夜会場で思ふ人が誰れよりも素ばらしく、白い衣装を著けて現れて来たやうな解釈が出来ないこともない。作者が巴里に居た頃の女の夜の服は四五尺も裾を引くのが多かつた。白い孔雀が鳥の王のやうな誇りを持つて居るのと、其の人の外へ現れた自尊心に共通なものがあつたのである。 我が筆もミケランゼロの鑿のごと著くるところに人をあらはせ  巨匠ミケランゼロの鑿の当てられるものは岩も木も生命のある人になつたと云ふが、自分の筆もさうでありたい。一度び書かうとすれば遺憾なく万象が詩になるやうにありたいとかう作者は望んである。 いろいろの波斯のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑  松戸の高等園芸学校の花畑であらう。色彩の多い、そして直線が主になつて出来た模様のペルシヤの更紗の其れをまた種類も幾つも混ぜて、四角に、長方形に岡へ切りはめたやうに畑の見えたのも、時季が多様な花に満ちた初夏だからであつたであらう。 我が手もて捉ふることの難しとはなほ願くは知らであらまし  自分の力ではどんなに最善を尽くしても得られぬ望みであると云ふ自覚は永久に与へて欲しくない。何時までもこの空想を捨てたくないと云ふことが云はれてゐるのであつて、恋の歌と解釈が出来ないではないが、作者の比較的後年の作であるから、その外のことと見る方が妥当なやうに私は思ふ。 おほかたの目に見えざれば人知らじ心に祈り血を流せども  是れも恋歌めいては居るがさうではないと私には思はれる。普通の目で見ては自分ものんきな者に見えるであらう、芸術の道の精進の為めに心には血を流すほどの苦しみをして居るのであるがと解すべきである。 底本:「冬柏」新詩社    1935(昭和10)年6月号    1935(昭和10)年7月号    1935(昭和10)年9月号    1935(昭和10)年10月号    1935(昭和10)年12月号    1936(昭和11)年2月号 ※掲載誌に重複して記載されて居る表題「註釈與謝野寛全集(通し番号) 晶子」は、省略しました。 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。 ※底本で「灯」と混在している「燈」は、新字に書き替えませんでした。 ※底本は、以下に振り仮名(ルビ)をふっています。 尺度、家鴨、裸、木花咲耶姫、乾漆、木彫、料、遠方、吾子、穀倉、種子、半切、沈黙、屋後切、金、額、書、走しりくる、縁、拳、波斯 加えてこのファイルでは、読みにくい、もしくは、読み誤りやすいと判断した言葉に、ルビを補いました。短歌へのルビ付けにあたっては、「與謝野寛短歌全集」明治書院、1933(昭和8)年 2月を参照しました。 入力:武田秀男 校正:土屋隆 2005年3月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたつたのは、ボランティアの皆さんです。