斬られたさに 夢野久作 Guide 扉 本文 目 次 斬られたさに 「アッハッハッハッハッ……」  冷めたい、底意地の悪るそうな高笑いが、小雨の中の片側松原から聞こえて来た。小田原の手前一里足らず。文久三年三月の末に近い暮六つ時であった。  石月平馬はフット立止った。その邪悪な嘲笑に釣り寄せられるように松の雫に濡れながら近付いて行った。  黄色い桐油の旅合羽を着た若侍が一人松の間に平伏している。薄暗がりのせいか襟筋が女のように白い。  その前後に二人の鬚武者が立ちはだかっていた。二人とも笠は持たず、浪人らしい古紋付に大髻の裁付袴である。無反りの革柄を押えている横肥りの方が笑ったらしい。 「ハッハッハッ。何も怖い事はない。悪いようにはせんけんで一所に来さっせえちうたら……」 「関所の抜け道も教えて進ぜるけに……」 「……エッ……」  若侍は一瞬間キッとなったが軈て又ヒッソリと低頭れた。凝と考えている気配である。 「ハハ。贋手形で関所は抜けられるかも知れんが吾々の眼の下は潜れんば……のう……」 「そうじゃそうじゃ……のうヨカ稚児どん。そんたは男じゃなかろうが……」 「……も……もっての外……」  と若侍は今一度気色ばんだが、又も力なく頭を下げた。隙を窺っているようにも見えた。  ……フウン。肥後侍かな……。  と平馬は忍び寄りながら考えた。  ……いずれにしてもこの崩れかかった時勢が生んだナグレ浪人に違いない。相当腕の立つ奴が二三人で棒組む……弱い武士と見ると左右から近付いて道連れになる。佐幕、勤王、因循三派のどれにでも共鳴しながら同じ宿に泊る。馳走をするような調子で酒肴を取寄せる上に油断すると女まで呼ぶ。あくる朝はドロンを極めるというのがこの連中の定型と聞いた……歎かわしい奴輩ではある……。  そう考えるうちに若い平馬の腕が唸って来た。  ……自分はお納戸向きのお使番馬廻りの家柄……要らざる事に拘り合うまい……。  とも考えたが、気の毒な若侍の姿を見ると、どうしても後へ引けなかった。黒田藩一刀流の指南番、浅川一柳斎の門下随一という自信もあった。去年の大試合に拝領した藩公の賞美刀、波の平行安の斬味見たさもあった。  その鼻の先で鬚武者が今一度点頭き合った。 「サアサア。問答は無益じゃ無益じゃ。一所に来たり来たり。アハハハ……アハアハ……」  女と侮ったものか二人が前後から立ち寄って来るのを若侍はサッと払い除けた。思いもかけぬ敏捷さで二三足横に飛んだと思うと、松の蔭から出て来た平馬にバッタリ行き当った。 「……アッ……」  と叫んだ若侍が刀の柄に手をかけたが、その利腕を掴んだ平馬は、無言のまま背後に押廻わした。二人の浪人と真正面に向い合った。 「……何者ッ……」 「邪魔しおるかッ」 「名を名宣れッ」  という殺気立った言葉が、身構えた二人の口から迸った。 「ハハ。名宣る程の用向きではないが……」  平馬は落付いて笠を脱いだ。若侍も平馬を味方と気付いたらしい。背後で踏み止まって身構えた。 「委細は聞いた。貴公達が肥後の御仁という事もわかったが、しかし大藩の武士にも似合わぬ見苦しい事をなさるのう……」 「何が見苦しい」 「要らざる事に差出て後悔すな」 「ハハ。それは貴公方に云う事じゃ。関所の役人は幕府方と心得るが、貴公方はいつ、徳川の手先になった」  二人はちょっと云い籠められた形になったが、間もなく平馬が、まだ青二才である事に気が付いたらしい。心持ち引いていた片足を二人ともジリジリと立て直して来た。 「フフフ。武士たる者が松原稼ぎをするとは何事か。両刀を手挟んでいるだけに、非人乞食よりも見苦しいぞ」  平馬がそう云う中に、相手はいつとなく左右に離れていた。こうした稼ぎに慣れ切っているらしく、平馬が持っていた菅笠を、背後の若侍に渡す僅かな隙を見て、同時に颯と斬込んで来た。その太刀先には身動きならぬ鋭さがあった。 「……ハッ……」  と若侍が声を呑んだ。その眼の前を、平馬が撥ね上げた茶色の合羽が屏風のように遮ったが、それがバッタリと地に落ちた時、二人の浪人はモウ左右に泳いでいた。切先の間に身を飜した平馬が、一方を右袈裟に、一方を左の後袈裟にかけて一間ばかり飛び退いていた。  俯向けに横倒おしになった二つの死骸の斬口を確かめるかのように、平馬はソロソロと近付いた。それから懐紙を出して刀を拭い納めると、 「このような者に止を刺す迄も御座るまいて……」  と独言を云い云い白い笠を目当に引返して来た。  松の雫の中に立っていた若侍は、平馬に聞こえるほど深いため息をした。 「お怪我は御座いませなんだか」 「イヤ。怪我をする間合いも御座らぬ」  と笑いながら返り血一滴浴びていない全身をかえり見た。 「ありがとう存じまする。大望を持っておりまする身の、卑怯とは存じながら逃げる心底でおりましたところ、お手数をかけまして何とも……」  ちゃんと考えていたのであろう。若侍がスラスラと礼の言葉を陳べたので、思い上っていた平馬は、すこしうろたえた。 「いや。天晴れな御心懸け……あッ。これは却って……」  と恐縮しいしい茶合羽と菅笠を受取った。 「お羨しいお手の内で御座いました。お蔭様でこの街道の難儀がなくなりまして……」 「……まことに恥じ入りまするばかり……」  言葉低く語り合ううちに松原を出た。そうして二人ともタッタ今血を見た人間とは思えぬ沈着いた態度で、街道の傍に立止まった。  明るい処で向い合ってみると又、一段と水際立った若侍であった。外八文字に踏開いた姿が、スッキリしているばかりではない。錦絵の役者振りの一種の妖気を冴え返らせたような眼鼻立ち、口元……夕闇にほのめく蘭麝のかおり……血を見て臆せぬ今の度胸を見届けなかったならば、平馬とても女かと疑ったであろう。  その若侍は静かに街道の前後を見まわしながら、黄色い桐油合羽の前を解いた。ツカツカと平馬の前に進み寄って、恭々しく、頭を下げた。 「……手前ことは江戸、下六番町に住居致しまする友川三郎兵衛次男、三次郎矩行と申す未熟者……江戸勤番の武士に父を討たれまして、病弱の兄に代って父の無念を晴らしに参りまする途中、思いもかけませぬ御力添えを……」 「ああいやいや……」  平馬は非道く赤面しながら手をあげた。 「……その御会釈は分に過ぎまする。申後れましたが拙者は筑前黒田藩の石月と申す……」 「……あの……黒田藩の……石月様……」  といううちに若侍は顔を上げて、平馬の顔をチラリと見た。しかし平馬は何の気も付かずに、心安くうなずいた。 「さようさよう。平馬と申す無調法者。御方角にお見えの節は、お立寄り下されい」 「忝のう存じまする。何分ともに……」  若侍は又も、いよいよ叮重に頭を下げた。 「……何はともあれこのままにては不本意に存じまするゆえ、御迷惑ながら小田原の宿まで、お伴仰せ付けられまして……」 「ああ……イヤイヤ。その御配慮は御無用御無用。実は主命を帯びて帰国を急ぎまするもの……お志は千万忝のうは御座るが……」 「……御尤も……御尤も千万とは存じまするが、このままお別れ申してはいつ、御恩返しが……」 「アハハ。御恩などと仰せられては痛み入りまする……平に平に……」 「……それでは、あの……余りに御情のう……おなじ御方角に参りまする者を……」 「申訳御座らぬが、お許し下されい。……それとも又、関所の筋道に御懸念でも御座るかの……慮外なお尋ね事じゃが……」 「ハッ。返す返すの御親切……関所の手形は仇討の免状と共々に確と所持致しておりまする。讐仇の生国、苗字は申上げかねまするが、御免状とお手形だけならば只今にもお眼に……」 「ああイヤイヤ。御所持ならば懸念はない。御政道の折合わぬこの節に仇討とは御殊勝な御心掛け、ただただ感服いたす。息災に御本望を遂げられい。イヤ。さらば……さらば……」  平馬は振切るようにして若侍と別れた。物を云えば云う程、眼に付いて来る若侍の妖艶さに、気味が悪るくなった体で、スタスタと自慢の健脚を運んだ。振り返りたいのを、やっと我慢しながら考えた。  ……ハテ妙な者に出合うたわい。匂い袋なんぞを持っているけに、たわいもない柔弱者かと思うと、油断のない体の構え、足の配り……ことに彼の胆玉と弁舌が、年頃と釣合わぬところが奇妙じゃ。……真逆に街道の狐でもあるまいが……。  などと考えて行くうちに大粒になった雨に気が付いて、笠の紐をシッカリと締上げた。  ……いや……これは不覚じゃったぞ。「武士は道に心を残すまじ。草葉の露に足を濡らさじ」か……。ヤレヤレ……早よう小田原に着いて一盞傾けよう。  刀の手入を済ましてから宿の湯に這入ってサバサバとなった平馬は、浴衣がけのまま二階に上ろうとすると、待ち構えていたらしい宿の女中が、横合いから出て来て小腰を屈めた。 「……おお……よい湯じゃったぞ……」 「おそれ入りまする。あの……まことに何で御座いますが、あちらのお部屋が片付きましたから、どうぞお越しを……」 「ハハア。身共は二階でよいのじゃが……別に苦情を申した覚えはないのじゃが……」 「……ハイ……あのう……主人の申付で御座いまして……」 「……そうか。それならば余儀ない」  平馬は鳥渡、妙に考えたがそのまま、女に跟いて行った。女中は本降になった外廊下を抜けて、女竹に囲まれた離座敷に案内した。  十畳と八畳の結構な二間に、備後表が青々して、一間半の畳床には蝦夷菊を盛上げた青磁の壺が据えてある。その向うに文晁の滝の大幅。黒ずんだ狩野派の銀屏風の前には二枚襲ねの座布団。脇息。鍋島火鉢。その前に朱塗の高膳と二の膳が並べてある。衣桁にかかった平馬自身の手織紬の衣類だけが見すぼらしい。  お小姓上りだけに多少眼の見える平馬は、浴衣がけのまま、敷居際で立止まった。 「……これこれ女……」  女は絹行燈の火を掻立てながら振返った。 「そちどもは客筋を見損なってはいやらぬか。ハハハ……身共は始終、この辺を往来致す者……斯様な部屋に泊る客ではないがのう……」 「ハイ……あの……」  女は真赤になって行燈の傍に三指を突いた。 「……まこと……主人の申付けか……」 「……あの。貴方様が只今お湯に召します中に、お若いお武家様が表に御立寄りなされまして……」 「……何……若い侍が……」 「ハイ。あのう……お眼に掛って御挨拶致したい筋合いなれど、先を急ぎまする故、失礼致しまする。万事粗略のないようにと仰せられまして、私共にまで御心付けを……」 「……ヘヘイ。只今はどうも……飛んだ失礼を……真平、御免下されまして……」  五十ばかりの亭主と見える男が、走って来て平馬の足元に額を擦り付けた。 「……また只今は御多分の御茶代を……まことに行き届きませいで……早や……」  平馬は突立ったまま途方に暮れた。使命を帯びている身の油断はならぬ……が、志の趣意は、わかり切っている。最前の若者が謝礼心でしたに相違ないことを無下に退けるのも仰々しい……といってこれは亦、何という念入りな計らい……年に似合わぬ不思議な気転……と思ううちに又しても異妖な前髪姿が、眼の前にチラ付いて来た。 「……どうぞ、ごゆるりと……ヘイ。まことに、むさくるしい処で御座いますが……」  と云ううちに亭主と女中が退って行った。  平馬は引込みが付かなくなった。そのまま床の前の緞子の座布団にドッカと腰を下して、腕を組んでいると今度は、美しく身化粧した高島田の娘が、銚子を捧げて這入って来た。 「……入らせられませ。あの土地の品で、お口当りが如何と存じますが……お一つ……」  平馬は腕を組んだまま眼をパチパチさせた。 「お前は……女中か……」 「ハイ……あの当家の娘で御座います」 「ふうむ。娘か……」 「……ハイ。あの……お一つ……」  平馬は首をひねりひねり二三献干した。上酒と見えていつの間にか陶然となった。  ……ハテ。主命というても今度は、お部屋向きの甘たるい事ばかりじゃ。附け狙われるような筋合いは一つもないが……やはり最前の若侍が真実からの礼心であろう……。  なぞと考えまわす中に、元来屈託のない平馬は、いよいよ気安くなって五六本を傾けた。鯉の洗い、木の芽田楽なぞも珍らしかった。  沈み込む程ふっくりした夜具に潜り込む時、彼は又ちょっと考えた。  ……これ程の心付けをするとあれば余程の路用を持っているに違いない。友川という旗元は、あまり聴かぬようじゃがハテ。何石取であろう……。  と思ううちに又も、松原を背景にした若侍の面影が天井の火影に浮かみ現われた。……水色の襟と、紺色の着物と、桐油合羽の黄色を襲ね合わせた白い襟筋のなまめかしかったこと……。  しかし、それも僅かの間のまぼろしであった。平馬はそのまま寝返りもせずに鼾をかき初めた。  箱根を越えるうちに平馬は、若侍の事をサッパリと忘れていた。  駿府にはわざと泊らず、海近い焼津から一気に大井川を越えて、茶摘歌と揚雲雀の山道を見付の宿まで来ると高い杉森の上に三日月が出たので、通筋の鳥居前、三五屋というのに草鞋を解いた。近くに何やら喧嘩があるという横路地の立話を、湯の中で聞きながら旅らしい気持ちに浸っていたが、その中に気が付くと一人の女中が板の間に這入って来て、今まで着ていた木綿の浴衣を、絹らしいのと取換えている。……ハテ。何をするのか……と見ているとその女中が三指を突いて平馬の顔を見た。 「あの御客様……まことに申訳御座いませぬが只今、奥のお座敷が空きましたから、お上りになりましたらお手をどうぞ……御案内致しますから……」  小田原の出来事を思い出した平馬は返事が出来なかった。何やらわからぬ疑いと、たまらない好奇心が眼の前で渦巻き初めたので、無言のまま湯気の中から飛び出した。 「ヘイ……どうもお疲れ様で……お流し致しましょう」  揉み手をしながら小奇麗な若衆が這入って来た。新しい手拭浴衣を端折っている。 「……ウーム……」  平馬は考え込んだまま背中を流さしたが、どうしても考えが纏まらなかった。肩癖を打つ若衆の手許が、妙に下腹にこたえた。  女中に案内されて奥へ来てみると、小田原ほど立派ではないが木の香がプンプンしている二尺の一間床に、小田原と同じ蝦夷菊が投入にしてある。落款は判からぬが円相を描いた茶掛が新しい。その前に並べた酒袋の座布団と、吉野春慶の平膳が旅籠らしくなかった。頭の天辺に桃割を載せて、鼻の頭をチョット白くした小娘が、かしこまってお酌をした。済まし返ってハキハキと物云う小娘であった。 「……ここは茶室か……」 「ハイ。このあいだ、清見寺の和尚様が見えました時に、主人が建てました」  平馬は床の間の掛物を振り返った。 「あの蝦夷菊はこの家の庭に咲いたのか」 「いいえ。あの……お連れの奥方様が、お持ちになりました」 「……ナニ……奥方様……」  小娘は無邪気にうなずいた。 「フーム。どんな奥方様か……」  小娘はちょっと眼を丸くした。 「旦那様は御存じないので……」 「……ウムム……」  平馬は行き詰まった。知っていると云って良いか悪いか見当が付かなくなったので……。 「……あの……黒い塗駕籠の中に紫色の被布を召して、水晶のお珠数を巻いた手であの花をお渡しになりました。挟箱持った人と、怖い顔のお侍様が一人お供しておりました」 「ウーム。不思議だ。わからぬな……」 「ホホホホホホホ……」  小娘は声を立てて笑った。冗談と思ったらしかった。 「旦那様は鯉のお刺身と木の芽田楽が大層お好きと、その御方が仰言りました。それで兄さんが大急ぎで作りました」  平馬はモウ一度膳部を見廻したが、思わず赤面させられた。小田原で酔うた紛れに美味い美味いと云って、無暗に頬張った事を思い出させられたので……しかし……その中にフト青い顔になると、急に盃を置いて、小娘の顔を見た。 「……ちょっと主人を呼んでくれい」 「ハイ……」  と云ううちに小娘は燗瓶を置いて立上った。ビックリしたらしくバタバタと出て行った。 「……これはこれは……まだ御機嫌も伺いませいで……亭主の佐五郎奴で御座りまする。……何か女中が無調法でも……ヘヘイ……」 「イヤ。そのような話ではない。ま……ズット寄りやれ。実は内密の話じゃがの……」 「ヘヘ……左様で御座いましたか。ヘイヘイ……それに又、申遅れましたが、先程は、お連れ様から、存じがけも御座いませぬ……」 「アハハ。実はそのお連れ様の事に就いて尋ねたいのじゃが……」 「ヘエヘエ……どのような事で……」 「その、お連れ様という奥方風の女は、どのような人相の女であったろうか……」 「……ヘエッ。何と仰せられます」 「その御連様というた女の様子が聞きたいのじゃ」 「……これはこれは……旦那様は御存じないので……」 「おおさ。身共はその女を知らぬのじゃ」 「……ヘエッ。これはしたり……」  主人が白髪頭を上げて眼を丸くした。六十余りと見える逞ましい大男であった。投げ卸し気味の髷の恰好から、羽織の捌き加減が、どことなく一癖ありげに見える……。  平馬は思い出した。ここいらの宿屋の亭主には渡世人上りが多いという話を……。  平馬の想像は中っていた。  それから平馬が物語る一部始終を聞いているうちに老人は、両手をキチンと膝に置いた貫碌のある見構えに変った。平馬の顔の真正面に、黒い大きな眼玉を据えていたが、話が一通り済むと静かに眼を閉じて腕を組んだ。 「……迂濶な事を致しましたのう。その奥方様に私が自身でお眼にかかっておりましたならば、何とか致しようも御座いましたろうものを……若い者の鳥渡した出入を納めに参いっておりまする間に、飛んだ無調法を忰奴が……」 「イヤ。無調法と申す程の事でもない……が……御子息というと……」 「ヘヘ。最前お背中を流させました奴で……」 「ああ。左様か左様か。それは慮外致した」 「どう仕りまして……飛んだ周章者で御座います。御仁体をも弁えませず、御都合も伺いませずに斯様な事を取計らいまして……」  平馬は又も赤面させられた。 「アハハハ……その心配は無用じゃわい。すでに小田原でも一度あった事じゃからのう。つまるところ拙者の不覚じゃわい……」 「勿体のう御座りまする」 「……しかし供を連れた奥方姿というと話があまり違い過ぎるでのう。世間慣れた御亭主に聞いたら様子が解りはせんかと思うて、実は迷惑を頼んだのじゃが」 「恐れ入りまする。お言葉甲斐もない次第で御座りまするが、只今のような不思議なお話を承りましたのは全くのところ、只今がお初で御座りまする。何をお隠し申しましょう。私も以前は二足の草鞋を穿きました馬鹿者で、ヘイ……この六十年の間には色々と珍らしい世間も見聞きして参りましたが、それ程に御念の入りました狐狸は、まだこの街道を通りませぬようで……」 「……ホホオ……初めてと申さるるか」 「左様で……表の帳場に座っておりましても、慣れて参りますると、お通りになりまする方々の御身分、御役柄、又は町人衆の商売は申すに及ばず、お江戸の御時勢、お国表の御動静までも、荒方の見当が附くもので御座いまするが……」 「成る程のう。そうあろうともそうあろうとも……」 「……なれども只今のような不思議な御方が、この街道をお通りになりました事は天一坊から以来、先ず在るまいと存じまするで……」 「うむうむ……殊に容易ならぬのはアノ足の早さじゃ。身共も十五里十八里の道は日帰りする足じゃからのう……きょうも焼津から出て大井川で、したたか手間取ったのじゃが……」  佐五郎老人はちょっと眼を丸くした。 「……それは又お丈夫な事で……」 「まして女性とあれば通し駕籠に乗ったとしてものう」  佐五郎は大きく点頭いた。 「さればで御座りまする。貴方様のおみ足の上を越す者でなければ、お話のような芸当は捌けるもので御座いませぬが……とにかく私がこれから出向きまして様子を探って参いりましょう。まだ左程、離れてはおるまいと存じまするで……」 「ああコレコレ。そのような骨を老体に折らせては……分別してくるればそれでよいのじゃが……」 「ハハ。恐れ入りまするが手前も昔取った杵柄……思い寄りも御座いまするでこの場はお任かせ下されませい。これから直ぐに……」 「……それは……慮外千万じゃのう……」 「……あ。それから今一つ大事な事が御座りまする。念のために御伺い致しまするが、旦那様は、そのお若いお方の讐討の御免状を御覧になりましたか……それともその讐仇の生国名前なんどを、お聞き及びになりましたか」 「いいや。それ迄もないと思うたけに見なんだが……」 「……いかにも……御尤も様で、それでは鳥渡一走り御免を蒙りまして……」 「……気の毒千万……」 「どう仕りまして……飛んだお妨げを……」  老亭主の佐五郎はソソクサと出て行った。……と思う間もなく最前の小娘が、別の燗瓶を持って這入って来た。ピタリと平馬の前に座ると相も変らず甲高いハッキリした声を出した。 「熱いのをお上りなさいませ」  平馬は何となく重荷を下したような気がした。 「おうおう待ちかねたぞ……ウムッ。これは熱い。……チト熱過ぎたぞ……ハハ……」 「御免なされませ……ホホ……」 「ところで今の主人はお前の父さんか」 「いいえ。叔父さんで御座います。どうぞ御ゆっくりと申して行きました」 「何……もう出て行ったのか」 「ハイ。早ようて二三日……遅うなれば一と月ぐらいかかると云うて出て行きました」  平馬は又も面喰らわせられた。 「ウーム。それは容易ならぬ……タッタ今の間に支度してか」 「ハイ。サゴヤ佐五郎は旅支度と早足なら誰にも負けぬと平生から自慢にしております」 「ウーム……」  しかし中国路に這入った平馬は又も、若侍の事をキレイに忘れていた。それというのも見付の宿以来、宿屋の御馳走がパッタリと中絶したせいでもあったろう。序にサゴヤ佐五郎の事も忘れてしまって文字通り帰心矢の如く福岡に着いた。着くと直ぐに藩公へお眼通りして使命を果し、カタの如く面目を施した。  ところで平馬は早くから両親をなくした孤児同様の身の上であった。百石取の安馬廻りの家を相続しているにはいたが、お納戸向きのお使番という小忙しい役目に逐われて、道中ばかりしていたので、桝小屋の小さな屋敷も金作という知行所出の若党と、その母親の後家婆に任していた。ところが今度の帰国を幸い、縁辺の話を決定めたいという親類の意見から、暫く役目のお預りを願って、その空屋同然の古屋敷に落付く事になると、賑やかな霞が関のお局や、気散じな旅の空とは打って変った淋しさ不自由さが、今更のように身に泌み泌みとして来た。さながらに井戸の中へ落込んだような長閑な春の日が涯てしもなく続き初めたので、流石に無頓着の平馬も少々閉口したらしい。或る日のこと……思い出したように道具を荷いで因幡町の恩師、浅川一柳斎の道場へ出かけた。  一柳斎は、むろん大喜びで久方振りの愛弟子に稽古を付けてくれたが、稽古が済むと一柳斎が、 「ホホオ。これは面白い。稽古が済んだら残っておりやれ。チト話があるでな」  と云う中に何かしらニコニコしながら道具を解いた。手酷しい稽古を附けてもらった平馬は息を切らして平伏した。これも大喜びで居残って一柳斎の晩酌のお相手をした。  一柳斎は上々の機嫌で胡麻塩の総髪を撫で上げた。お合いをした平馬も真赤になっていた。 「コレ。平馬殿……手が上がったのう」 「ハッ。どう仕りまして、暫くお稽古を離れますと、もう息が切れまして……ハヤ……」 「いやいや。確かに竹刀離れがして来たぞ。のう平馬殿……お手前はこの中、どこかで人を斬られはせんじゃったか。イヤサ、真剣の立会いをされたであろう」  平馬は無言のまま青くなった。恩師の前に出ると小児のようにビクビクする彼であった。 「ハハハ。図星であろう。間合いと呼吸がスックリ違うておるけにのう。隠いても詮ない事じゃ。その手柄話を聴かして下されい。ここまでの事じゃから差し置かずにのう」  いつの間にか両手を支えていた平馬は、やっと血色を取返して微笑した。叱られるのではない事がわかるとホッと安堵して盆を受けた。赤面しいしいポツポツと話出した。  ところが、そうした平馬の武骨な話しぶりを聞いている中に一柳斎の顔色が何となく曇って来た。しまいには燗が冷めても手もつかず、奥方が酌に来ても眼で追い払いながら、しきりに腕を組み初めた。そうして平馬が恐る恐る話を終ると同時に、如何にも思い迷ったらしい深い溜息を一つした。 「ふううむ。意外な話を聞くものじゃ」 「ハッ。私も実はこの不思議が解けずにおりまする。万一、私の不念ではなかったかと心得まして、まだ誰にも明かさずにおりまするが……」 「おおさ。話いたらお手前の不覚になるところであった」 「……ハッ……」  何かしらカーッと頭に上って来るものを感じた平馬は又も両手を畳に支いた。それを見ると一柳斎は急に顔色を柔らげて盃をさした。 「アハハ……イヤ叱るのではないがのう。つまるところお手前はまだ若いし、拙者のこれまでの指南にも大きな手抜かりがあった事になる」 「いや決して……万事、私の不覚……」 「ハハ。まあ急かずと聞かれいと云うに……こう云えば最早お解かりじゃろうが、武辺の嗜みというものは、ただ弓矢、太刀筋ばかりに限ったものではないけにのう……」 「……ハ……ハイ……」 「人間、人情の取々様々、世間風俗の移り変りまでも、及ぶ限り心得ているのが又、大きな武辺のたしなみの一つじゃ。それが正直一遍、忠義一途に世の中を貫いて行く武士のまことの心がけじゃまで……さもないと不忠不義の輩に欺されて一心、国家を過つような事になる。……もっともお手前の今度の過失は、ほんの仮初の粗忽ぐらいのものじゃが、それでもお手前のためには何よりの薬じゃったぞ」 「……と仰せられますると……」 「まま。待たれい。それから先はわざと明かすまい。その中に解かる折もあろうけに……とにも角にもその見付の宿の主人サゴヤ佐五郎とかいう老人は中々の心掛の者じゃ。年の功ばかりではない。仇討免状の事を貴殿に尋ねたところなぞは正に、鬼神を驚かす眼識じゃわい」 「……と……仰せられますると……」  若い平馬の胸が口惜しさで一パイになって来た。それを色に出すまいとして、思わず唇を噛んだ。 「アハハハ。まあそう急がずと考えて見さっしゃれ。アッサリ云うてはお手前の修行にならぬ。……もっともここの修行が出来上れば当流の皆伝を取らするがのう……」 「……エッ。あの……皆伝を……」 「ハハハ。今の門下で皆伝を許いた者はまだ一人もない。その仔細が解かったかの……」  平馬は締木にかけられたように固くなってしまった。まだ何が何やらわからない慚愧、後悔の冷汗が全身に流るるのを、どうする事も出来ないままうなだれた。 「……平馬殿……」 「……ハッ……」 「貴殿の御縁辺の話は、まだ決定っておらぬげなが、程よいお話でも御座るかの……」  平馬は忽ち別の意味で真赤になった。……自分の周囲に縁談が殺到している……「娘一人に婿八人」とは正反対の目に会わされている……という事実を、今更のようにハッキリと思い出させられたからであった。 「うむうむ。それならば尚更のことじゃ。念のために承っておくがのう。その今の話の美くしい若侍とか、又は見付の宿の奥方姿の女とかいうものが、万一、お手前を訪ねて来たとしたら……」 「エッ。尋ねて参りまするか……ここまで……」 「おおさ。随分、来まいものでもない仔細がある。ところで万が一にもそのような人物が、貴殿を便って来たとしたら、どう処置をさっしゃるおつもりか貴殿は……」 「……サア……その時は……とりあえず以前の馳走の礼を述べまして……」 「アッハッハッハッハッハッ……」  一柳斎は後手を突いて伸び伸びと大笑した。 「アハアハ。いやそれでよいそれでよい。そこが貴殿の潔白なところじゃ。人間としては免許皆伝じゃ」  平馬は眼をパチパチさせて恩師の上機嫌な顔を見守った。何か知ら物足らぬような、馬鹿にされているような気持ちで……。しかし一柳斎はなおも天井を仰いで哄笑した。 「アハハハ……これは身どもが不念じゃった。貴殿の行末を思う余りに、要らざる事を尋ねた。『予め掻いて痒きを待つ』じゃった。アハアハアハ。コレコレ。酒を持て酒を……サア平馬殿一献重ねられい。不審顔をせずとも追ってわかる。貴殿ならば大丈夫じゃ。万が一にも不覚はあるまい」  平馬は南向の縁側へ机を持ち出して黒田家家譜を写していた。一柳斎から「世間識らず」扱いにされた言葉の端々が気にかかって、何となく稽古を怠けていたのであった。  その鼻の先の沓脱石へ、鍬を荷いだ若党の金作がポカンとした顔付で手を突いた。 「……あの……申上げます」 「何じゃ金作……草取りか……」 「ヘエ……その……御門前に山笠人形のような若い衆が……参いりました」 「……何……人形のような若衆……」 「ヘエ……その……刀を挿いて見えました」 「……お名前は……」 「……ヘエ……その……友川……何とか……」  平馬は無言のまま筆を置いて立上った。今までの不思議さと不安さの全部を、一時に胸の中でドキンドキンと蘇らせながら……。  ところが玄関に出てみると最初に見かけた通りの大前髪に水色襟、紺生平に白小倉袴、細身の大小の柄を内輪に引寄せた若侍が、人形のようにスッキリと立っていた。すこし日に焼けた横頬を朝の光に晒しながらニッコリとお辞儀をしたので、こちらも思わず顔を赤めて礼を返さない訳に行かなかった。  ……これ程に清らかな、人品のいい若侍をどうして疑う気になったのであろう……。  と自分の心を疑う気持ちにさえなった。 「……これは又……どうして……」 「お久しゅう御座います」  若侍は美しく耳まで石竹色に染めて眼を輝やかした。 「イヤ。まずまずお話はあとから……こちらへ上り下されい。手前一人で御座る。遠慮は御無用。コレコレ金作金作。お洗足を上げぬか……サアサア穢苦しい処では御座るが……」  平馬は吾にもあらず歓待めいた。  若侍は折目正しく座敷に通って、一別以来の会釈をした。平馬も亦、今更のように赤面しいしい小田原と見付の宿の事を挨拶した。 「いや……実はその……あの時に折角の御厚情を、菅なく振切って参いったので、その御返報かと心得まして、存分に讐仇を討たれて差上げた次第で御座ったが……ハハハ……」  平馬は早くも打ち解けて笑った。  しかし若侍は笑わなかった。そのまま眩ぶしい縁側の植え込みに眼を遣ったが、その眼には涙を一パイに溜めている様子であった。 「……して御本懐をお遂げになりましたか」 「はい。それが……あの……」  と云ううちに若侍の眼から涙がハラハラとあふれ落ちた……と思う間もなく畳の上に、両袖を重ねて突伏すと、声を忍んで咽び泣き初めた。……そのスンナリとした襟筋……柔らかい背中の丸味……腰のあたりの膨らみ……。  平馬は愕然となった。  ……女だ……疑いもない女だ……。  と気付きながら何も彼も忘れて唖然となった。  ……最初からどうして気付かなかったのであろう……恩師一柳斎の言葉はこの事であったか。あの時に、どう処置を執るかと尋ねられたが……これは又、何としたものであろう……。  と心の中で狼狽した。顔を撫でまわして茫然となった。  その平馬の前に白い手が動いて二通の手紙様の物をスルスルと差出した。そのまま、拝むように一礼すると、又も咽泣の声が改まった。  平馬は何かしら胸を時めかせながら受取った。押し頂きながら上の一通を開いてみた。  ボロボロの唐紙半切に見事な筆跡で、薄墨の走り書きがしてあった。 遺言の事  一、父は不忍の某酒亭にて黒田藩の武士と時勢の事に就口論の上、多勢に一人にて重手負い、無念ながら切腹し相果つる者也。  一、父の子孫たる者は徳川の御為、必ずこの仇を討果すべき者也。仮令血統断絶致すとも苦しからざる事。  一、敵手の中の主立たる一人は黒田藩の指南番浅川一柳斎と名乗り、五十前後の長身にて、骨柄逞ましき武士なること。  一、後々の事は母方の縁辺により、御老中、久世広周殿に御願申上べき事 以上。 友川三郎兵衛矩兼血判 嫡男 長一郎矩道代筆印 次男 三次郎矩行  印 文久二年五月十四日  又、別紙奉書の畾紙には美事なお家様の文字が黒々と認めてあった。  別紙遺言状相添え、病弱の兄に代り、次男友川三次郎矩行、仇討執心の趣、殊勝の事。但、御用繁多の折柄に付、広周一存を以て諸国手形相添え差許者也。尚本懐の上は父三郎兵衛の名跡相違なかるべき事、広周可含置者也 文久壬戌二年六月二日 広周 書判  平馬の顔から血の色が消えた。何もかも解かったような気がすると同時に、又も、眼の前が真暗になって来たので、吾れ知らず二通の手紙を握り締めた。自分の恩師を不倶戴天の仇と狙う眼の前の不思議な女性を睨み詰めた。  その時に若衆姿の女性が、やっと顔を上げた。平馬の凄じい血相を見上げると、又も新しい涙を流しながら唇を震わした。 「……御覧の……通りで御座います。兄も……弟も労咳で臥せっておりまする中にタッタ一人の妾が……聊か小太刀の心得が御座いますのを……よすがに致しまして、偽りの願書を差出しました。……そうして……そうして、お許しを受けますと……御免状の通り男の姿に変りまして……首尾よく箱根のお関所を越えました。それから他人様に疑われませぬように、色々と姿を変えまして、どうがな致してこの思いを、貴方様にだけ打ち明けたいと、心を砕きました甲斐もなく、関所破りの疑いをかけたらしい腕利きの老人に、どこからともなく附き纏われまして生きた空もなく逐い廻わされました時の、怖ろしゅう御座いましたこと……それから四国路まで狭迷いまして、千辛万苦致しました末、ようようの思いで当地に立越えてみますれば……狙う讐仇の一柳斎は……貴方様の御師匠さま……」  平馬をマトモに見上げた顔から、涙が止め度もなく流れ落ちた。その身内の戦かしよう……肩の波打たせようは、どう見ても真実こめた女性の、思い迫った姿に見えた。  平馬は地獄に落ちて行く亡者のような気持になった。乾いた両眼をカッと見開いて、遠い遠い涯てしもない空間を凝視していた。  その眼の前に泣き濡れた、白い顔が迫って来た。噎せかえる女性の芳香と一所に……。 「……それで……それで……妾は……貴方様のお手に掛かりに……まいりました」  ハッとした平馬は二尺ばかり飛び退いた。 「……ナ……何と……」 「……妾は、父の怨みを棄てました、不孝な女で御座います。小田原の松原からこのかた、あ……貴方様の事ばっかり……思い詰めまして……」 「……エエッ……」 「……お……お慕い申して参りました。討たれぬ……討っては成りませぬ仇とは存じながら……ここまで参いりました。せめて貴方様の……お手にかかりたさに……一と思いの……御成敗が受けたさに……受けとうて……」  と云ううちにキッと唇を噛んだ若侍の姿がスルスルと後へ下がった。……それは云い知れぬ思いに燃え立つ妖火のような頬の輝やき、眼の光り……と見るうちに懐中の匕首、抜く手も見せず、平馬の喉元へ突きかかった。 「……アッ。心得違い……めさるなッ」  危うく右へ飛び退いた平馬は、まだ居住居を崩さずに両手を膝に置いていた。 「……乱心……乱心召されたかッ……讐仇は讐仇……身共は身共……」  と助けてやりたい一心で大喝した。  一方に空を突いた若侍姿はモウ前髪を振り乱していた。とても敵わぬと観念したらしく、平馬の大喝の下に息を切らしながら眼を閉じたが、又も思い切って見開くと、火のような瞳を閃めかした。 「……ヒ……卑怯者ッ。その讐仇を討つのに……邪魔に……邪魔になるのは貴方一人……」 「……エエッ……さてはおのれ……」 「お覚悟ッ……」  という必死の叫びが、絹を裂くように庭先に流れた。白い光りが一直線に平馬の胸元へ飛んだが、床の間の脇差へかかった平馬の手の方が早かった。相手が立ち上りかけた肩先を斬り下げていた。  その切先に身を投げかけるようにして来た相手は、そのまま懐剣を取落して仰けぞった。両手の指をシッカリと組み合わせたまま、あおのけに倒おれると、膝頭をジリジリと引き縮めた。涙の浮かんだ眼で平馬を見上げながらニッコリと笑った。 「……本望……本望で……御座います。平馬様……」  そう云ううちに、袈裟がけに斬り放された生平の襟元がパラリと開いた。赤い雲から覗いた満月のような乳房が、ブルブルとおののきながら現われた。 「……すみませぬ……済みま……せぬ……。今までのことは、何もかも……何もかも……偽り……まことは妾は……女……女役者……」  と云いさして平馬の方向へガックリと顔を傾けた……が……しかし、それは苦痛のためらしかった。そのまま眼を閉じてタップリと血を吐いた。……と見るうちに下唇を深く噛んで、白い小さな腮を、ヒクリヒクリとシャクリ上げはじめた。  平馬は血刀を掲げたまま茫然となっていた。 「……ええ。お頼み申します。お取次のお方はおいでになりませぬか。手前は見付の佐五郎と申す者で御座います。どなたかおいでになりませぬか。お頼み申しますお頼み申しますお頼み申します……」  という性急な案内の声を他所事のように聞いていた。  一柳斎は伸び伸びと肩を上げてうなずいた。 「いや。無事にお届が相済んで祝着この上もない……まず一献……」  贋せ侍斬りに就いて大目附へ出頭した紋服姿の石月平馬と、地味な木綿縞に町の低い役袴を穿いた三五屋、佐五郎老人が、帰り道に招かれて夕食の饗応を受けていた。大盆を傾けた一柳斎は早くも雄弁になっていた。 「……のう……一存の取計らいとはいう条、仮初にも老中の許し状を所持致しておる人間じゃ。無下に斬棄てたとあっては、無事に済む沙汰ではないがのう……お江戸の威光も地に墜ちかけている今日なればこそじゃ。それに又、佐五郎老体の言葉添えが、最初から立派であったと云うからのう。番頭の筆頭が感心して話しおったわい」 「どう仕りまして……無調法ばかり……」 「いや。なかなかもって……お関所破りの贋せ若衆とあれば天下の御為に容易ならぬ曲者と存じ、当藩の役柄の者に付き纏うところを、ここまで逐い詰めて参いったとあれば、大目附でも言句はない筈じゃからのう……殊更に御老中の久世広周殿も、お役御免の折柄ではあるし、迂濶な咎め立てをしようものなら却って無調法な仇討免状が表沙汰になろうやら知れぬ。思えば平馬殿は都合のよい『生き胴』に取り当ったものじゃのう。ハッハッハッ……」  酌をしていた奥方が、心から感心したように平馬の顔を見てうなずいた。 「……あれからこの四五日と申しますもの、御城下では平馬殿のお噂ばっかり……」 「うむうむ。そうあろうとも……イヤ。天晴で御座ったぞ平馬殿。あの時に、どう処置をされるおつもりかと聞いたのはここの事じゃったが……ハッハッ。よう見定めが附いたのう。佐五郎殿。そうは思われぬか……」 「御意に御座います。先生様の御丹精といい、その場を立たせぬ御決断とお手の中……拝見致しながら夢のように存じました」 「うむうむ。然るにじゃ。あの女の正体を平馬殿の物語りの中から見破って来た、佐五郎老体の眼鏡の高さも亦、中々もって尋常でないわい。実はその手柄話を聞きたいが精神で、平馬殿に申し含めて、斯様に引止めさせた訳じゃが……門弟共の心掛にもなるでのう」 「身に余りまするお言葉、勿体のう存じまする。幅広う申上げまする面目も御座りませぬが、初めて石月様のお物語を承っておりますうちにアラカタ五つの不審が起りました」 「成る程……その不審というのは……」 「まず何よりも先に不審に存じましたのは、仇討に参いる程の血気の若侍が、匂い袋を持っていたというお話で御座いました。まことに似合わしからぬお話で……これは、もしや女人の肌の香をまぎらわせるためではないかと疑いながら承わっておりますると案の定、それから後の石月様の心遣いに、女ならでは行き届きかねる節々が見えまする……これが二つ……」 「尤も千万……それから……」 「三つにはその足の早さ……四つには、その並外れた金遣い、……それから五つにはその眼を驚かす姿の変りようで御座りまする」 「いかにものう……恐ろしい理詰めじゃわい」 「ザッと右のような次第で、つまるところこれは稀代の女白浪ではあるまいか。さもなければお話のような気転、立働らきが出来る筈はないと存じ寄りましたのが初まりで……」 「うむうむ……」 「年寄の冷水とは存じましたが、御覧の通り最早六十の峠を越えました下り坂の私。空車を引いている折柄で御座います、戻り駄賃に一世一代の大物を引いて見ようか……と存じますと一気に釣り出された仕事で御座いましたが、タッタ一足の事で石月様に先手を打たれまして……ヘヘヘ。面目次第も御座いませぬ」 「イヤイヤ。それにしても流石は老練じゃ。並々の者に足跡を見せる女ではないわい」 「……ところでお言葉はお言葉と致しまして、ここに一つの不審が御座りまするが如何で御座りましょうか。御無礼とは存じますれど……」 「何の何の。何の遠慮が要ろう。何なりと存分に問うて見られい」 「ヘヘイ。有難う存じまする。それではお伺い申上げまするが、先生様が、石月様のお話から、仇討免状の正体カラクリを、お覚りになりました次第と申しまするは……」 「アハアハ。何事かと思うたればその事か。それなれば何でもない。他愛もない事じゃ」 「……と……仰せられまするは……」 「うむ。追ってお尋ねを受ける事と思うが、実は身共も少々あの女に掛り合いがあっての」 「ヘエッ。これは亦、思いも寄りませぬ」 「ほかでもない。忘れもせぬ昨年の十月の末の事じゃ。久方振りに殿の御用で江戸表へ参いっておる中に、あの願書の当の本人、友川矩行という若侍から父の仇敵と名乗り掛けられてのう……」 「ヘエッ。いよいよ以て不思議なお話……」 「おおさ。しかも馬場先の晴れの場所で、助太刀らしい武士が二人引添うておったが聊か肝を奪われたわい。面目ない話じゃが聊か身に覚えのない事じゃまで……」 「成る程……御尤も様で……」 「しかし迂濶に相手はならぬ。何か仔細がある事と思うたけに咄嗟の間に身を引きながら、如何にも身共は黒田藩の浅川一柳斎に相違ないが、何か拙者を讐仇と呼ばれる仔細が御座るか。然るべき仇討の免状でも持っておいでるかと問うてみたればそれは無い。在るには在ったが、浅草観世音の境内で懐中物と一所に掏られてしもうたと云うのじゃ」 「ハハア。どうやら様子がわかりまする」 「うむうむ。そこで……然らば、お気の毒ながら仇呼ばわりは御免下されい。第一毛頭覚えのない事……と云い切って立去りかけたところ、助太刀と共々三人が、抜き連れてかかりおった。……然るにこの助太刀の二人というのが相当名のある佐幕派の浪人で、身共の顔を見識りおって友川の手引をしたらしいと思われたが、事実、三人とも中々の者でのう。最初は峰打ちと思うたが、次第にあしらいかねて来た故、若侍を最初に仇ち棄てて、返す刀に二人を倒おしたまま何事ものう引取ったものじゃ……しかし、それにしても若侍の事が何とのう不憫に存じた故、それから後に人の噂を聞かせてみたところが、何でも身共の姓名を騙って飲食をしておったどこかのナグレ浪人共が、別席で一杯傾けておった友川某という旗本に云い掛りを附けて討ち果いた上に、料理を踏倒おして逃げ失せおった。そこでその友川の枕元に馳付けた兄弟二人が、父の遺言を書取って、仇討の願書を差出したものじゃが、しかしその友川某という侍は兄弟二人切りしか子供を持っておらぬ。その中でも兄の方は、とりあえず家督を継ぐには継いだが、病弱で物にならぬ。その代り弟の方が千葉門下の免許取りであったからそれに御免状が下がった……というのが実説らしいのじゃ。不覚な免許取りが在ったものじゃが、つまるところ、そこから間違いの仇討が初まった訳じゃ……その第一の証拠には、その旗本が斬られたという五月の頃おい、拙者はまだこの福岡に在藩しておったからのう……ハハハ。とんと話にならん話じゃが……」  耳を傾けていた佐五郎老人はここで突然にパッタリと膝を打った。晴れ晴れしく点頭いた 「ああ。それで漸々真相が解かりましたわい。実は私も見付の在所で、お下りのお客様からそのお噂を承りまして聊か奇妙に存じておりましたところで……と申しますのはほかでも御座いませぬ。この節のお江戸の市中は毎日毎日斬捨ばかりで格別珍らしい事ではないと申しますのに、只今のお話だけが馬場先の返討と申しまして、江戸市中の大層な評判……」 「ほほう。それ程の評判じゃったかのう」 「間違えば間違うもので御座いまする……何でもその友川という若いお武家が、返り討に会うた会うた。無念無念と云うて息を引取りましたそうで、その亡骸の紋所から友川様の御次男という事が判明りました。それに連れて二人の助太刀も、同じ門下の兄弟子二人と知れましたが、それにしてもその返り討にした片相手は何人であろう。助太刀共に三人共、相当の剣客と見えたのを、羽織も脱がぬ雪駄穿のままあしろうて、やがて一刀の下に斬棄てたまま、悠々と立去る程の御仁のお名前が、江戸市中に聞こえておらぬ筈はないと申しましてな……」 「ハハハ。友川の兄御も、お役を退かれた久世殿もその名前を御存じではあったろうが、何にせい相手が霞が関の黒田藩となると事が容易でないからのう」 「御意の通りで御座います。……ところがここに又、左様な天下の御威光を恐れぬ無法者が現われました……と申しますのは、その御免状を盗みました掏摸の女親分で御座いまして、当時江戸お構いになっておりました旅役者上りの、外蟇お久美と申しまする者が、その評判に割込んで参いりましたそうで……」 「うむ。いよいよ真相に近づいて来るのう」 「御意に御座いまする。そのお久美と申しまするは、まだ二十歳かそこらの美形と承りましたが、世にも珍らしい不敵者で、この評判を承りますると殊の外気の毒がりまして、お相手のお名前は妾が存じておりまする。キット仇を取って進ぜまするという手紙を添えて、大枚の金子を病身の兄御にことづけた……という事が又、もっぱらの大評判になりましたそうで……まことに早や、どこまで間違うて参りまするやら解からぬお話で御座いますが……」 「ハハハ。世間はそんな物かも知れんて……」 「しかし、いか程お江戸が広いと申しましても、それ程に酔狂な女づれが居りましょうとは、夢にも存じ寄りませなんだが……」 「ウムウム。その事じゃその事じゃ。何を隠そう拙者も江戸表に居る中にそのような評判を薄々耳に致しておるにはおったがのう。多分、そのような事を云い触らして名前を売りたがっておるのであろう。真逆……と思いながら打ち忘れておったところへ平馬殿の話を承ったものじゃから、実はビックリさせられてのう。あんまり芝居が過ぎおるで……」 「御意に御座いまする。もっともあの女も最初は、まだ評判の広がらぬ中に、御免状とお手形を使うて、関所を越えようという一心から、敵討に扮装ったもので御座いましょう。それから関西あたりへ出て何か大仕事をする了簡ではなかったかと、あの時に推量致しましたが……」 「いかにも──……ところが佐五郎どの程の器量人に逐われるとなると中々尋常では外されまい。事に依ったらこの方角へ逃げ込んで来まいものでもない。しかも当城下に足を入れたならば、何よりも先に平馬殿の処へ参いるのが定跡……とあの時に思うたけに、一つ平馬殿の器量を試めいて見るつもりで、わざっと身共の潔白を披露せずにおいたものじゃったが。いや……お手柄じゃったお手柄じゃった……」 「まことにお手際で御座いました」 「ハハハ……平馬殿はこう見えても武辺一点張りの男じゃからのう……」  二人は口を極めて平馬を賞め上げながら盆を重ねた。酌をしていた奥方までも、たしなみを忘れて平馬の横顔に見惚れていた。  しかし平馬は苦笑いをするばかりであった。燃え上るような眼眸で斬りかかって来た女の面影を、話の切れ目切れ目に思い浮かべているうちに酒の味もよく解らないまま一柳斎の邸を出た。  青澄んだ空を切抜いたように満月が冴えていた。 「……これが免許皆伝か……」  とつぶやきながら平馬は、黒い森に包まれた舞鶴城を仰いだ。  平馬の眼に涙が一パイ溜まった。その涙の中で月の下の白い天守閣がユラユラと傾いて崩れて行った。そうしてその代りに妖艶な若侍の姿が、スッキリと立ち現われるのを見た。……本望で御座います……と云い云い、わななき震えて、白くなって行く唇を見た。  堀端伝いに桝小屋の自宅に帰ると、平馬はコッソリと手廻りを片付けて旅支度を初めた。下男と雇婆の寝息を覗いながら屋敷を抜け出すと、門の扉へピッタリと貼紙をした。 「啓上 石月平馬こと一旦、女賊風情の饗応を受け候上は、最早武士に候わず。君公師父の御高恩に背き、身を晦まし申候間、何卒、御忘れおき賜わり度候。頓首」  御用のため、江戸表へ急の旅立と偽って桝形門を抜け、石堂川を渡って、街道を東へ東へと急いだ平馬は、フト立止まって空を仰いだ。松の梢に月が流れ輝いて、星の光りを消していた。  平馬は大声をあげて泣きたい気持になった。そのまま唇を噛んで前後を見かわしたが、 「……ハテ……今頃はあの三五屋の老人が感付いて追っかけて来おるかも知れぬ。あの老人にかかっては面倒じゃが……そうじゃ……今の中に引っ外してくれよう。どこまで行ったとてこの思いが尽きるものではない……」  と独言を云い云い引返して、箱崎松原の中に在る黒田家の菩提所、崇福寺の境内に忍び込んだ。門内の無縁塔の前に在る大きな拝石の上にドッカリと座を占めた。静かに双肌を寛げながら小刀の鞘を払った。  眼を閉じて今一度、若侍の姿を瞑想した。  ……おお……そもじを斬ったのはこの平馬ではなかったぞ。世間体の武士道……人間のまごころを知らぬ武士道……鳥獣の争いをそのままの武士道……功名手柄一点張りの、あやまった武士道であったぞ。……そもじのお蔭で平馬はようように真実の武士道がわかった……人間世界がわかったわい。  ……平馬の生命はそもじに参いらする。思い残す事はない……南無……。 底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房    1992(平成4)年10月22日第1刷発行 入力:柴田卓治 校正:篠原陽子 2001年4月7日公開 2006年2月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。