禰宜様宮田 宮本百合子 Guide 扉 本文 目 次 禰宜様宮田 一 二 三 四 五 六 一  春になってから沼の水はグッとふえた。  この間までは皆むき出しになって、うすら寒い風に吹き曝されていた岸の浅瀬も、今はもうやや濁ってはいるがしとやかな水色にすっかり被われて明るい日光がチラチラと、軽く水面に躍っている。  波ともいわれない水の襞が、あちらの岸からこちらの岸へと寄せて来る毎に、まだ生え換らない葦が控え目がちにサヤサヤ……サヤサヤ……と戦ぎ、フト飛び立った鶺鴒が小波の影を追うように、スーイスーイと身を翻す。  ところどころ崩れ落ちて、水に浸っている堤の後からは、ズーとなだらかな丘陵が彼方の山並みまで続いて、ちょうど指で摘み上げたような低い山々の上には、見事な吾妻富士の一帯が他に抽でて聳えている。  色彩に乏しい北国の天地に、今雪解にかかっているこの山の姿ばかりは、まったく素晴らしい美しさをもって、あらゆるものの歎美の的となっているのである。  山は白銀である。  そして紺碧である。  頂に固く凍った雪の面は、太陽にまともから照らされて、眩ゆい銀色に輝きわたり、ややうすれた燻し銀の中腹から深い紺碧の山麓へとその余光を漂わせている。  遠目には見得ようもない地の襞、灌木の茂みに従って、同じ紺碧の色も、或るところはやや青味がちに、また或るところはくすんだ赤味をまして、驚くべき巧みな蔭のつけられてある麓の末は、その前へ一段低く連なった山の峯のうちへと消えている。  そして、静かな西風に連れて、来ては去る雲がその時々に山全体の色調にこの上なく複雑な変化を与える。  或るときは明るく、或るときは暗く、山はまるで生きているように見えた。  大きな楓の樹蔭にあぐらをかき、釣糸を垂れながら禰宜様宮田はさっきから、これ等の美しい景色に我を忘れて見とれていたのである。 「まったくはあ、偉えもんだ……」  彼は思わずもつぶやく。  そして、自分の囲りにある物という物すべてから、いきいきとして、真当なあらたかな気が立ち上って来るように感じたのである。  一本の樹でもどんな小さな草でもが皆創られた通りに生きている。  背の低いものは低いように、高いものはまた高いもののようにお互にしっくりと工合よく、仲よさそうに生きているのを見ると、何によらず彼は、 「はあ、真当なことだ」 と思う。  そしてどことなく心がのびのびと楽しくなって、彼のいつも遠慮深そうに瞬いている、大きい子供らしい眼の底には、小さい水銀の玉のような微かな輝やきが湧くのである。  いったい彼の顔は、大変人の注意をひく。  利口そうだというのでもなければ雄々しいというのではもとよりない。  東北の農民に共通な四角ばって、頬骨の突出た骨相を彼も持ってはいるのだけれども、五十にやがて手が届こうとしている男だなどとはどうしても思えないほど若々しく真黒な瞳を慎ましく、けれどもちゃんと相手の顔に向けて、下瞼の大きな黒子を震わせながら、丁寧に口を利く彼の顔を見ると、誰でもフトここらでは滅多に受けない感じに打たれる。  大変ものやわらかに、品のいいような快さを感じるとともに、年に似合わない単純さに、罪のない愛情を感じて、尨毛だらけの耳朶を眺めながら自ずと微笑まれるような心持になるのである。  禰宜様宮田は至って無口である。  どんな諷刺を云われようが、かつて一度も怒ったらしい顔さえしたことがないので、部落の者達は皆、 「ありゃあはあ変物だ」 と云う。その変物だという中には、間抜け、黙んまり棒、時によると馬鹿かもしれないという意味が籠っている。  真面目に働いても利口に立ちまわれないから、女房のお石が桑の売買、麦俵のかけ引きをする。彼女がするようにさせて、一口の小言も云わないので、お石は大抵の場合彼の存在を念頭に置かない。たまに、彼女の口から、 「とっさん」 という言葉が洩れるときは、きっと何か仕事がうまく行かなかったときとか、気がむしゃくしゃして、腹を立ててやる相手が必要なときに限られているといっても、決してそれが誇張ではないほど、彼の権威は微かであった。 「ヘッ! 俺ら家のとっさんか……」  他人の前でも、地面に唾を吐きながら、彼女の持っているあらゆる侮蔑を何の隠すとてもなく現わしても、不思議に思う者はない。  家柄は禰宜様──神主──でも彼はもうからきし埒がないという意味で、禰宜様宮田という綽名がついているのである。  人中にいると、禰宜様宮田の「俺」はいつもいつも心の奥の方に逃げ込んでしまって、何を考えても云おうとしても決して「俺の考」とか「俺が云ったら」というものは出て来ない。けれども、野良だの、釣だのに出て来て、こういう風に落付くと、彼はようやっと「俺」をとり戻す。  そして、だんだん心は広々と豊かになって、彼のほんとの命が栄え出すのであった。  今も長閑な心持であたりの様子を眺めているうちに、禰宜様宮田の心は、次第に厚みのある快さで一杯になって来るのを感じた。  そして、平らかな閑寂なその表面に、折々雫のようにポツリポツリと、家内の者達のことだの、自分のことだのが落ちて来ては、やがてスーと波紋を描いてどこかへ消えて行ってしまう。  沼で一番の深みだといわれている三本松の下に、これも釣をしているらしい小さい人影を見るともなく見守りながら、意識の端々がほんのりと霞んだような状態に入って行ったのである。  それからやや暫く立ってから、彼はフトもとの心持に戻った。どのくらい時が過ぎたか分らない。  禰宜様宮田は、ついうっかりしていた竿を上げてみた。餌ばかりさらわれて、虫けら一匹かかってはいない針が、きまり悪そうに瞬きながら上って来た。  彼はもう何だか、わざわざ切角こうやって生きている蚯蚓の命まで奪って僅かばかりの小魚を釣るにも及ばないような心持になって、草の上に針を投げ出すと、そのまま煙草をふかし始めた。  さっきまでは居る影さえしなかった鳶が、いつの間にかすぐ目の前で五六度圏を描いて舞ったかと思うと、サッと傍の葦間へ下りてしまう。  キ……キッキ……  微かな声が聞えて来る。 「はて、小鳥でもはあ狙われたけえ……」  葦叢をのぞき込むようにして膝行出た禰宜様宮田の目には、フト遠い、ズーッと遙かな水の上に、何だか奇妙なものがあがいているのが写った。  鳥でもないし、木片でもない。 「今時分人でもあんめえし……」  浮藻に波の影が差しているのだろうと思って見ると、そう見えないこともない。  が、しかし……  何だか気になってたまらない彼は、煙管を持った手を後で組み、継ぎはぎのチャンチャンの背を丸めて、堤沿いにソロソロと歩き出した。 「オーイ、誰来てくんろよ──オーイ」  近所の桃林で働いていた三人の百姓は、びっくりして仕事の手を止めた。 「オーイ来てくんろよ──沼だぞ──」 「あら、オイ禰宜様の声でねえけえ?」  彼等が沼地へ馳けつけたときには、真裸体の禰宜様宮田が、着物の明いているところじゅうから水が入って、ブクブクとまるで水袋のようになっている若い男を、やっとのことで傍の乾いた草の上まで引きずり上げたところであった。  背が低くて、力持ちでない禰宜様が助け上げたのが不思議なくらい、若者は縦にも横にも大男である。  が、もうすっかり弱りきっている。  心臓の鼓動は微かながら続いているから、生きてはいるのだが、見るも恐ろしいような形相をして絶息している。  もう一刻の猶予もされない。  水を吐かせ、暖め摩擦し、そのときそこで出来るだけの手当がほどこされたのである。  ここいらの百姓などとは身分の違う人と見えて、労働などは思ってみたこともなさそうな体をしている。自分が裸体だなどということはまるで忘れて、水気が一どきに乾こうとする寒さで、歯の根も合わずガタガタ震えながら、それでもひるまない禰宜様宮田は、若者の上に跨がるようにして、  ウムッ! ウムッ! と満身の力をこめて擦っている。  青ざめた、けれどもどうあってもこの男を生かさずにはおかないぞというような、堅い決心を浮べた彼の顔は、平常に似合わずしっかりとして見える。  心から調子の揃った四人の手は、やがてだんだん若者の生気を取り戻し始めた。  呼吸が浅く始まる。  紫色だった爪に僅かの赤味がさして、手足にぬくもりが出る。  おいおい知覚されて来た刺戟によってピリピリと瞼や唇が顫動する。  やがて、ちょうど深い眠りから、今薄々と覚めようとする人のように、二三度唇をモグモグさせ、手足を動かすかと思うと、瞬きもしないで見守っていた禰宜様宮田の、その眼の下には、今、辛うじて命をとりとめた若者のみずみずしい眼が、喜びの囁きのうちに見開かれた。  この瞬間!  禰宜様宮田は、自分の体の中で何かしら大した幅のあるものが、足の方から頭の方へと一目散に馳け上ったような心持がした。  そして、彼のいい顔の上には、しん底からの微笑と啜泣が一緒くたになって現われた。 「はあ、真当なこった。  若けえもんあ死なさんにぇわ……なあ……」  今までただの一度でも感じたことのない歓喜と愛情が、彼の胸には焔のように燃え上って来た。  もうどうしていいか分らなくなってしまった彼は、傍の草の中に突伏して、拝みたくて堪らない心持になりながら子供のように泣吃逆ったのである。  そして、安心して気が緩んだので、いつかしら我ともなく心がポーッとなりそうになったとき、 「オイオイ禰宜様、何うしてるだよ。  俺らあおめえん介抱まじゃあ請合わねえぞ」 と云いながら、誰かがひどく彼の肩を揺った。  スースーとちょっとずつ区切りをつけながら、蜘蛛が糸を下げるように、だんだんと真暗な底の知らないところへ体が落ちて行くように感じながら、どうしても自分で頭を擡げることの出来ないでいた禰宜様宮田は、このときハッと思うと同時に、急に自分の体が自由に軽くなったように感じた。  そろそろと起き上った彼は、仲間と一緒に若者をようよう近所の百姓屋まで運んで行った。  救われた若者は、町で有名な海老屋という呉服屋の息子で、当主の弟にあたる人であったのである。  名乗られると、急にどよめき立った者達は、ふだんは使わない取って置きのいい言葉で御機嫌をとろうとするので、大の男までときどき途方もないとんちんかんを並べながら、ワクワクして助けてくれた人は何という者だと訊かれると、 「ありゃおめえさ禰宜様宮田で、へ……  もうからきしはあ……」 などと、お世辞笑いばかりする。  今の場合、わざわざ拾って来られたところでどうしようもない魚籠だの釣竿だのを、一つ一つ若者の前へ並べたてながら、彼らは財布と銀時計──若者も内心ではどうなったろうと思っていた──をこっそり牒し合わせて、見付からないことにしてしまった。 「オイきっと黙ってろな、え?  ええけ、きっとだぞ!」  皆に拳固をさしつけられた禰宜様宮田は、部屋の隅の方でコソコソと身仕度をした。  そして、大切そうに皆に取り巻かれ、気分もよほどよくなったらしい面持ちをしながら、家からの迎えを待っている若者を眺めてから、愛くしみに満ち充ちた心を持って、裏口から誰も気の付かないうちに、さっさと帰って行ってしまった。 二  今まで、何かにつけて禰宜様宮田は自分の心のうちに年中飢じがって、ピイピイ泣いては馳けずりまわっている瘠せっぽちな宿無し犬がいるような気持になりなりした。平常は半分まぎれて気がつかないでいても、何か少し辛いことや面白くないことが起って来ると、どこかの隅に寝ていた瘠せ犬がムックリと起き上る。そして、微かな足音を立てながら、悲しげに泣きながら、彼の体中を歩きまわる。  ソクソクソクソクという足元から、悲しい寂しい心持が湧き出して、禰宜様宮田の心も体も押し包んでしまうのである。  そして、ときには瘠せ犬が自分の心の持主なのか、または自分が、その瘠せ犬の主なのか、よく分らなくなってしまうほど、追い払っても、追い払っても、また戻って来るみじめな、瞬く間に自分の心を耄碌させてしまいそうな辛さが、彼の心を苦しめたのである。  けれども、有難いことには、昨日のあの瞬間から──彼が泣き伏しながら拝みたい心持になったときから──彼の魂は真当な休みどころを見つけた。  そこだけは、いつも明るく暖かく輝いている。  辛かったら来るがいい……  泣きたくなったら、泣きに来い……  彼は、今まで俺はもうもう不仕合わせなけだものだと思っていた自分の心を──あの瘠せ犬があんなにも引掻きまわす自分の心を──ちゃあんと、どなたかが見ていらっしゃって、こういう休みどころを下すったのじゃああるまいかということを大変思った。  そのどなたかは、世の中じゅうの真当なことの持ち主であらっしゃる……  禰宜様宮田は、広場へ筵を拡げて、桵の根を乾かしながら、大変仕合わせな、へりくだった心持で考えていたのである。  南向きの広場中には、日がカアッとさして、桔槹の影は彼方の納屋の荒壁を斜に区切って消えている。  二十日ほど前に誕生した雛共が、一かたまりの茶黄色のフワフワになって、母親の足元にこびりつきながら、透き通るような声で、  チョチョチョチョチョ……  と絶間なく囀るのを、親鳥の  クヮ……クウクウ……クヮ…… という愛情に満ちた鼻声が一緒になって、晴れた空に響いて行く。  娘のまきと、さだに守りをされながら、六の小さい裸足の足音は湿りけのある地面に吸いつくような調子で、今来て肩につかまったかと思うと、もうあっちへヨチヨチとかけて行く。 「ア、六。  そげえなとこさえぐでねえぞ。  血もんもが出来てああいていてになんぞ、な。  こっちゃて、ほうら見、とっとがまんま食ってんぞ、おうめえうめえてな……」  麦粉菓子の薄いような香いが、乾いて行く桵の根から静かにあたりに漂っていた。  すると、昼過ぎになって、突然海老屋の番頭だという男が訪ねて来た。  昨日のお礼を云いたいから、店まで一緒に来てくれと云うのである。  いろいろ言葉に綾をつけながら、わざと早口に、ぞんざいな物云いをする番頭は、彼の妙にピカピカする黒足袋を珍らしがって雞共が首を延すたんびに、さも気味悪そうに下駄をバタバタやっては追い立てる。  雞がはあおっかねえとは……  心の内でびっくりしながら、まきやさだは番頭が厭な顔をするのも平気で、真正面に突っ立ったまま、不遠慮にその顎のとがった顔を見守っている。  禰宜様宮田は行きたくなかった。  そんな立派な家へ、何も知らない自分が出かけて行くのは気も引けたし、何かやるやると云われるのにも当惑した。 「俺らほんにはあお使えいただいただけで、結構でござりやす……  何もそげえに……  そんに決して俺らの力ばっかじゃあござりましねえから……」  彼は下さる物は、自分のような貧乏人にとって不用ないはずはないことは知っている。  けれども……何だか品物などでお礼をされるには及ばないほどの満足が彼の心にはあったのである。  そして物なんか貰ってさも俺の手柄だぞという顔は、とうてい出来ない何かが彼の頭を去らなかった。  番頭に蹴飛ばされそうになる雛どもを、ソーッと彼方へやりながら、禰宜様は幾度も幾度も辞退した。  が、番頭はきかない。  とうとう喋りまかされた禰宜様宮田は、海老屋まで出かけることになった。  店の繁盛なことや、暮しのいいことなどを、しまいに唇の角から唾を飛ばせながら喋る番頭の傍について、在の者のしきたり通り太い毛繻子の洋傘をかついだ禰宜様は、小股にポクポクとついて行ったのである。  海老屋では、家事を万事とりしきってしているという年寄り──五十四五になっている先代の未亡人──が会った。  金庫だの箪笥だのを、ズラリと嵌め込みにした壁際に、帳面だの算盤だのをたくさん積み重ねた大机を引きつけて、男のような、といっても普通の男よりもっとバサバサした顔や声を持ったおばあさんが、ムンズという形容がおかしいほど適した形をして座っているのを見ると、あれでもおばあさんだそうなという感じが、一層禰宜様宮田の心をまごつかせた。 「はあ、お前さんが宮田とお云いか……」  丁寧に頭を下げた彼の挨拶に答えた、彼女の最初の、太いかすれた声を聞いた瞬間から、もうすっかり彼の心は、受身になってしまって、いつもの「俺」の逃げて行き方が、もっと早く、もっとひどく行われたのである。年寄りはあんな大男の息子を助けた男というだけで、もっとずーッと体も心もがっしりした元気な男を期待していたところへ現われた彼は、余りすべてにおいて思いがけない。  おばあさんは、何だか滑稽なような、お礼を云うのも馬鹿らしいような気持になってしまった。  そして、臆している彼の前にこの上ない優越感を抱きながら、お礼を云うのか命令しているのか、さほどの区別をつけられないような口調で息子の救われた感謝の意を述べた。  私のようなものが、お前にお礼を云うのさえ、ほんとなら有難すぎることなのだという口吻が、ありありと言葉の端々に現われているけれども、禰宜様宮田はちっとも不当な態度だと思わなかったのみならず、彼女がほのめかす通り、お礼などを云われるのはもったいないことだと思っていたのである。  お前さまは海老屋の御隠居であらっしゃる。そんにはあ俺あこげえな百姓づれだ。そこにもう絶対的な或るもの──禰宜様宮田にとってはこの上ない畏怖となって感じられた、両者の位置の懸隔──を認めることに、馴されきっているのである。  何を云われても、彼はただハイ、ハイとお辞儀ばかりをした。  一通り云うだけのことを云うと、年寄りはもったいぶった様子で、仰々しい金包みを出した。  麗々と水引までかかっている包みを見ながら、禰宜様宮田は、途方に暮れたような心持になりながら、ぎごちない言葉で辞退した。 「ほんにはあお有難うござりやすけんど……  俺ら心にすみましねえから……」  けれども年寄りの方では、喉から手が出そうに欲しくても、一度は「やってみる」遠慮だと思ったので、唇の先だけで、 「まあ御遠慮は無用だよ」 と云いながら、煙草を吸い込む度に目を細くしては彼の様子を見ていた。  が、彼はどうしても納めようとしない。  貰わない訳を彼は説明したかったのだ。けれども、何より肝腎の、 「俺の心にすまんねえもの」 を、云いとくに入用だけの言葉数さえ知らない上に、どういう訳だからどうなって俺の心に済まないのかと、いうことは、彼自身にさえよくは分っていない。  ただ心に済まない気がする。後にも先にもそれだけなのである。けれども、その漠然とした「気持」が、どんなにしてもごまかせもせず、許せもしない強さで彼の心を支配しているのである。  永い間ジーッと考えれば、云われないこともなかろうが、何にしろ、今こうやって年寄りが面と向って口元を見守っているときなどに、どうして平気でそんなことが考えていられよう。  彼のいい魂は、すっかり恐縮してがんじょうな胸の奥にひそまり返っていたのである。  幾度云っても聞かないのを見た年寄りは、内心に意外な感じと、先ず儲けものをしたという安心とを一どきに感じながら、たった一円の包みを眺めた。  そして、何となしホッとしながら、けれどもどこまでもせっかく出したものを突返された者の不快を装いつつ、不機嫌そうに傍の手文庫を引きよせて、包みを入れると、ピーンと錠を下してしまった。  隅々の糸がほつれている色も分らない古巾着を内懐から出して、鍵を入れると、 「一銭や二銭のお金じゃあなし、遣ろうと云えば、一生恩に被る人が、ウザウザいうほどあります。ただ湧いて来るお金じゃあなしね」 とつぶやきながら、うなだれている禰宜様宮田の胡麻塩の頭を眺めて、彼女は途方もない音を出して、吐月峯をたたいた。 三  海老屋の年寄りは、翌朝もいつもの通り広い果樹園へ出かけて行った。  笠を被り、泥まびれでガワガワになったもんぺを穿いた彼女が、草鞋がけでたくさんな男達を指揮し出すのを見ると、近所の者は皆、 「あれまあ御覧よ、  また海老屋の鬼婆さんが始まったよ」 と、あきれ返ったような調子で云う。  自分が鬼婆鬼婆といわれているということも、その訳も彼女はちゃんと知っている。  けれどもちっとも気にならない。それどころか却ってこそこそと鬼婆がどうしたこうしたと噂されるのを聞くと、今までに倍した元気が湧いて来るのである。  どんな悪口でも何でもつまりは、ねたみ半分に云うのだ。  自分のことを眼の敵にして、手の上げ下しにろくなことを云わない津村にしたところで、腹の中は見え透いている。今までこそ、呉服は津村に限るとまで云われて、町随一の老舗で通って来たものが、このごろではうちにすっかり蹴落されて、目に見えて落ちて行く。その当人になってみれば、嘘にもお世辞にもよくは思えないのも無理はない。それがこわくて何ができよう。  先だって三綱橋のお祝いのときにも、佐渡の御隠居があんなにわいわい云ったって、やはり寄附金が少なかったから、見たことか、ああやって私よりは下座へ据えられて、夜のお振舞いにだって呼ばれはしない。  町会議員を息子に持っていると威張ったところで、いざというときにはどうせ、私の敵じゃあないわい。  今の世じゃあ、金さえあればどんな無理も通せるというもの、現に佐渡りの議員だって、買ったも同様の札で当ったのだというじゃあないか。  ものは方便、金がもの云う時世に生れて、変におかたいことを云うのは、馬鹿の骨頂だ。  何とか彼とか理窟をつけて、溜めたくないようなふりをしている者のお仲間入りをしていられるものか。何と云われたってかまわずドシドシ溜れば、それでいいのだ。ああそれでいいのだとも……。  どんな僅かの機会でも、決して見逃すことのない彼女は、幾分かの利益が得られそうだとなると、どんな手段でも策略でも遠慮会釈なくめぐらして、どうにでもしまいには勝つ。  まるで思いがけないような難題を考えたり、云いがかりを作ることは、彼女の得意とするところであり、従って何よりの武器であった。それ等の思いつきを、彼女は日頃信心する妙法様の御霊験と云っていたのである。  果樹園には、この土地で育ち得るすべての種類の果樹が栽培されていた。  そして、収穫時が来ると、お初穂をどれも一箇ずつ、妙法様と御先祖にお供えした後は、皆売り出すのだから、今からの手入れは決して忽がせにはできない。  雇人や作男などは、皆猫っかぶりの大嘘つきで、腹のうちでは何をたくらんでいるか、知れたものでないと思い込んでいる年寄りは、枝一本下すにも始めから終りまで自分の目の前でさせ、納屋へ木束を運ぶまで見届けなければ安心がならない。  大汗になりながら、馳けまわって監督するのだが、体は悲しいことに一つほかない彼女が、今こっちに来ておればあっちの畑の作男共は、どうしても手を遊ばせたり、ついなまけてしまったりする。  今朝も、鼻の頭に大粒な汗をびっしょりかいて、大忙がしに働いていながら、どういうわけかおばあさんの頭からは、どうしても禰宜様宮田のことが、離れない。 「妙な男だわえ……貧乏人の分際で……金……何にしろ遣ろうと云うのは金なんだから!」  汗を拭き拭き年寄りは、 「おい重、お前あれを知ってるんだろう。  ありゃあ一体どうした男なんだね」 などと訊いた。 「へ……  どうも、……」 「いったい何で食っているんだね、よくあれで生きて行かれたもんさ」 「ちいっとばっかり桑畑や麦畑を持ってるから、それでやってくんでござりましょう。が御隠居の目から見なさりゃあ、どいつもはあ気違えのようなもんでござりますよ。  へ……」  作男達の顔には、彼等特有の微笑が湧く。  誰か「エヘン!」とわざと大きな咳払いをして、おばあさんが振向く間もなくどこかへゴソゴソ隠れてしまった。  手元が見えなくなるまで、真黒になって働いていた年寄りは、食事をすませると火鉢の傍で、煮がらしの番茶を飲んでいた。  いつともなく禰宜様宮田の丁寧なお辞儀の仕振りなどを思い出していた彼女の心には、不意に思いがけずあの妙法様がお乗りうつりなすった。そして、瞬く間に誰が聞いてもびっくりせずにはいないほど、「いい思案」が夕立雲のように後から後からと湧き出して来て、頭を一杯にしてしまった。  腹心の番頭と、やや暫く評議を凝らしたときには、これからもう五六年も後のことが、ちゃんと表になり数字になって現われていたのである。  禰宜様宮田の臆病なウジウジした様子が、何か年寄りに「いい思案」のきっかけを与えたらしかった。  海老屋へ行った禰宜様宮田は、きっとふんだんな御褒美にあずかって来るものだと思って、待ちに待っていたお石は、空手で呆然戻って来た彼を見ると、思わず、 「とっさん、土産あ後からけえ?」 と訊かずにはおられなかった。が、 「馬鹿えこくもんでねえ」 と、彼は相手にもしない。  だんだん聞いて、出された金包みを戻して来たと知ったときには、 「まあお前が……まあ返して来たっちゅうけえ!」  お石は、腹のしんが皆抜けてしまったように、落胆した。暫くポカンとした顔で亭主を見ていた彼女は、やがて気をとりなおすと一緒に、今まで嘗てこんなに怒ったことはないほどの激しい憤りを爆発させた。  半夢中になって、彼をまるで猫や犬のように罵り散らしながら、自分の前かけや袖口を歯でブリブリと噛み破る。  訳が分らないで怒鳴りつけられたり擲たれたりして、恐ろしそうに竦んでいる子供達の肩を撫でてやりながら、禰宜様宮田は、黙然としてその罵詈讒謗を浴びていた。  それから毎日毎日こういう厭なことばかりが続いた。  お石は、何かにつけて金を貰って来なかったことを引合いに出して、子供がちょっと物をねだることまで皆彼女の腹癒せの材料にされたのである。 「汝等あまでたかってからに、こげえな貧乏おっかあをひでえ目に会わせくさる!  あんでも父っちゃんに買って貰っちゃ、呉れるちゅう金え、突返すほどのお大尽たあ知んねえで、我が食うもんもはあ食わねえようにして、稼えでたんなあ、さぞええざまだったべえて、  俺らも、もう毎日真黒んなって働くなあ止めだ、人う面白くもねえ、  後あどうでもええようにすんがええや」  朝でもふて寝をしたり、食事の用意もしないまんま、どこへか喋りに行ってしまったりするので、心のうちではそんなに母親を怒らせた父親を怨みながら、まだやっと十一のさだが危うげに飯などを炊く。  暗い、年中ジクジクしている流し元に、鍋などを洗っている姉の傍に、むずかる六をこぼれそうにおぶったまきが、途方に暮れたように立ちながら、何か小声で託っているのを見ると、禰宜様宮田はほんとに辛いような心持に打たれた。  自分がいればいるほど、大混雑になる家から逃れるようにして、彼は出来るだけ野良にばかり出ていた。  けれども、別にそう大して働かなければならないほどの仕事もない。  耕地の端れの柏の古木の蔭に横たわりながら、彼は様々な思いに耽ったのである。  透き通りそうに澄みわたって、まるで精巧なギヤマン細工の天蓋のように一面キラキラと輝いている、広い広い空。  短かい陽炎がチロチロともえる香りのいい地面。  禰宜様宮田は、ジイッと瞳をせばめて、大きい果しない天地を想う。  そして、想えば想うほど、眺めれば眺めるほど、彼はあの碧い空の奥、この勢のいい地面の底に何か在りそうでたまらない心持になって来るのである。  ほんとに、きっと何かが在りそうな気がする。  それならいったい何が在るのか?  彼は知らないし、また解りもしない。  ただ、底抜けでない、筒抜けでは決してないという心強さが、じわじわと彼の心の核にまで滲みこみ、悠久な愛情が滾々と湧き出して、一杯になっていた苦しみを静かに押し流しながら、慎み深い魂全体に満ち溢れるのである。 「何事もはあ真当なこった……」  天地が広いのが真当なように、何も知らない意くじない自分が小さいのは、辛いことがあるのは決してまちがいではない。 「どなたか」は各自の心に各自違った考えをお授けなさる。それがよし自分と同じでないとしたところで、どうして怨んでなるものか。  すべてのもののうちに潜んでいる真当、掘り下げて、掘り下げて行った底には、きっと光っているに違いない真当に、強い憧れを感じて、禰宜様宮田のあの子供らしい、上品な眼は涙ぐんだのである。  貧乏な暮しには、いい魂より金の方が大切だ。  お石は、唇を噛んでジリジリしながら、どう考えても馬鹿の阿呆に違いない自分の亭主を呪った。  家中の責任を皆背負って立っている自分、この自分がいるばかりにようよう哀れな亭主も子供達も生きていられるのだという自信に、少なからず誇りを感じていた彼女は、何の価値も全然認め得ない彼が、一存で礼を突返して来たということ──無能力者の僭越──によって、非常に自分の誇りを傷けられたと感じた。  ちょうど、大変自尊心の強い先生がどうかしたはずみで目にもとめていなかった生徒に、遣りこめられたときのような、何とも云いようのない混雑した心持を、形式こそ違え、お石も感じていたのである。  そして、一層その金包みに愛着を感じた。  指一本触らずに置いて来た金包みのうちに、彼女は自分等の永久的な慰楽が包蔵されていたような心持がして、禰宜様宮田はまるで聖者の仮面を被った悪魔、生活を破壊させ、堕落させようと努めてばかりいる悪魔のように憎んだのである。  もちろん、お石の心の中では、こういうふうな言葉も順序もついてはいない。  掻きまわされた溝のように、ムラムラ、ムラムラと何も彼も一どきにごた混ぜになって互に互を穢し合いながら湧き出して来る。  そうするともう真暗になってしまう彼女は、訳も分らず叱りつけ、怒鳴りつけ、擲り散らす。  けれども、すぐ旋風が過ぎてしまうと、後には子供達に顔を見られるのも堪らないような気恥かしさが残るので、彼女は照れ隠しにわざとどこかへ喋りに飛び出してしまうのである。  妙にぎごちない、皆が各自の底意を見抜きながら、僅かの自尊心で折れて出る者は独りもないような生活が彼女にとってもはやうんざりして来たとき、思いがけずに海老屋の番頭が、欲しいものを要求してくれと云って来たときには、もう何と云っていいかまるで生き返ったような心持がした。  自分さえ打ちとければ、それに対して片意地な心を持つ者は誰もいないなどと思わないお石は、小さい娘達まで心のひねくれた大人扱いにして、自分独りですねていたのである。  辞退はされるが、どうか何なり欲しいものを云ってくれという使の趣を話されたとき、顔が熱くなるほど嬉しかったお石は、相手をこう出させるために、とっさんはあのとき断って来たに違いないと思った。  若しそうだとすれば、俺ら何のために怒ったろう? ひそかに心のうちではにかみ笑いをしながら、彼女は今度もまた謝絶している禰宜様宮田を珍らしく穏やかな眼差しで眺めていた。  彼は相変らずのろい、丁寧な言葉で断わると、うるさいものと諦めていた番頭は思いがけず、じきに納得して帰ってくれた。  禰宜様宮田は、すぐ帰ってもらったことに満足し、お石は何はともあれ来てくれたことに満足して、家中には久しぶりで平和が戻って来たのであった。  けれども、使は三日にあげずよこされる。そして、ことわられては素直に帰って行く。 「またおきまり通りでございます……」  番頭がそう云って隠居の部屋へ挨拶に行く毎に、海老屋の年寄りは会心の笑を洩していたのである。  まったくおきまり通りになって来るわえ……。  年寄りの心には、ちょうど藪かげに隠れて、落しにかかる獣を待っている通りな愉快さが一杯になっているのである。  何にも知らない獲物は、平気で頓間な顔付きをしながら、ノソノソ、ノソノソとだんだん落しに近づいて来る……。  そのとき猟人の胸に満ちる、緊張した原始的な嬉しさが、そのまま今年寄りに活気を与えて、何だか絶えずそわそわしている彼女は、きっとこういうときほか出ないものになっている無駄口をきいたり、下らないことに大笑いをして、 「ヘッ、馬鹿野郎が!」 などとつぶやく。  その馬鹿野郎というのは、決して憎しみや、侮蔑から作男共に向って云われたのではない。  これからそろそろと御意なりに落しにかかろうとする獲物に対する非常に粗野な残酷な愛情に似た一種の感情の発露なのである。  年寄りは、着々成功しかかる自分の計画の巧さに、我ながら勢立ってますます元気よく朝から晩まで、馳けずりまわって働いていたのである。  三度まで無駄足を踏ませられても、怒る様子もないばかりか、使をよこすのを止めようともしない……。  さすがの禰宜様宮田も、またさすがのお石も、少し妙な気がした。  いったいまあどうしたことじゃい!  漠然とした疑惑が起らないではなかったが、禰宜様宮田は、そういう心持を自分で自分の心に恥じていた。  どこに、自分等の大切な家族の一員の命を救ってくれたものに対して、悪い返報をするもの、また出来るものがいるだろう。  浅間しい疑を抱く自分を彼はひそかに赤面しながら、どこまでも、親切ずくのこととして信じようとしていたのである。  けれども、四度目に来たとき、海老屋の番頭はもう断わられて帰るような、そんななまやさしいものではなくなった。  彼はほんとの用向──年寄りの計画の第一部──を持って現われたのである。  今までとは打って変って高圧的な口調で、番頭は先ず隠居が大変立腹していること。こんなに手を換え、品をかえて何か遣ろうとするのにきかないのは、何か思惑があるのじゃあないか、一旦自分で突落した若旦那をまた自分で助けて来でもして、こちらで上げようとしているものより何かほかのものに望みを置いているのじゃあないかと思っていなさると、云った。  それを聞いて、真先に怒鳴り出したのはお石である。  憤りでブルブルと声を震わせ、吃りながら、番頭の前へずり出して噛みつくように叫んだ。 「云う事うにもことう欠えて、まあ何んたらことう吐くだ!  何ぼうはあ貧乏してても、もとあ歴として禰宜様の家柄でからに、人に後指一本差さっちゃことのねえとっさん捕めえてよくもよくも……  よくもよくもそげえな法体もねえことを吐かしてけつかる!  何ぼうはあ」  真青な顔をして、あの黒子を震わせていた禰宜様宮田は、気を兼ねるように、猛り立つお石の袂を引っぱった。が彼女はもう止められないほど気が立っている。  邪慳に彼の手を払いのけるとまた一にじり膝行り出て、 「何ぼう、はあ金持だあ、海老屋の婆さまだあと、偉れえことうほぜえても、容赦なんかしるもんけ!  祈り殺してくれっから、ほんに、  俺らほんにごせぇひれる!」 と一息に怒鳴ると、発作的に泣き始めた。  禰宜様宮田は、すっかりまごついた。当惑した。  云わなければならないことがたくさん喉元まで込み上げて来ている。  けれども、どうしても言葉にまとまらない。何とか云わなければならないと思う心が強くなればなるほど、彼の舌が強ばって、口の奥に堅くなってしまう。  彼は徒に手拭を握った両手を動かしながら、訴えるような眼をあげて油を今注いだ車輪のようによく廻る番頭の口元を眺めた。 「まあまあそんなにお怒んなさんな、  御隠居だって、無理もないんだ。ああやってせっかく気を揉んで使をよこすと、片っ端からいらないいらないじゃあ、誰にしろいい心持あしないもんです。  あんまり勝手がすぎると、ついそこまで考えるのも、年寄りにゃあ有勝ちのこった。ねえ。  せっかくこちらも、こうやって決してそんな気はなくているものを、御隠居にそうとられるというなあ、全くのところ損どころの話じゃあない。察しまさあ、だから今度あおとなしく御隠居の志を通しなさい、ね、そうすりゃあ決して悪いこたあない」  最後の「御褒美」として、今明いている十三俵上りの田を十俵に就き三俵で貸そう。これまで云って聞かなければどうしても、御隠居の疑いを事実と認めるほかないと云うのである。  あんまりひどい!  あんまり云いがかりも過ぎている。こんな難題がどこにあろう。  禰宜様宮田は、何か一言二言云おうとして口を開いた。が、あせる唇の上で言葉になるはずの音が切れ切れに吃るばかりで、ようよう順序立てて云おうとしたことは忽ち、めちゃめちゃに乱れてしまう。  彼はますます深くうなだれるほかなかった。 「例え嘘にしろ何にしろ、あの御隠居が、そうと思いこんだといったら、決してただじゃあすまさない方だ。ことによれば訴えなさるまいもんでもない。  疑いをかけられるくらい、人間恐ろしいものはないからね。  すっかり身の証も立てて、御隠居の考えも通させた方が、どう考えても得策だね」  訴え! 訴え‼ 哀れな夫婦の耳元で、訴えの一言が雷のように鳴り響いた。  無智な農民の心を支配している法律に関するこの上ない恐怖が、彼等の頭を掻き乱したのである。  道理の有無に関らず、彼等を一竦みに縮み上らせるのは、訴えてやるぞという言葉である。  まるで証拠のないことを、若し若旦那が、ええ誰かが後から突落したのを知っていますとでも云えば、いったい俺等は何で、そうでないという明しを立てるのだ。  調べられるとき、酷い目にでも合わされて、苦しまぎれに夢中でそうだとでも云ったら、どうすればいいのか。  訴え、恐ろしい訴え──それも自分の方には何の強みもなさそうに思われた訴え──が、すぐ目前に迫っていることを思った禰宜様宮田は、もう何をどう考えることも出来ないほどの混乱を感じた。  体中で震えながら、冷汗を掻いている彼を見ながら、番頭は口の先でまだヘラヘラと喋り続けた。 「考えて御覧な。  片方は何といっても海老屋の御隠居、片方は失礼ながらお前さん達。  そうじゃあない違いますと云ったところで、世間様じゃあどっちがほんとだと思うんだね。  誰が聞いたって、御隠居を疑ぐる訳にゃあいかない。政府のお役人様だって、お前さんと、御隠居じゃあちいっとの手心あ違おうともいうもんだ。  だから、下らない意地は捨てる方が得、ね、ウンと承知すりゃあ、万事万端めでたしめでたしで納まろうってもんだ。  え! 承知しなさい、その方が得だよ」  激しい強迫観念に襲われて、あらゆる理性を失ってしまった禰宜様宮田は番頭の言葉を聞き分けることさえ出来ないようになった。  まして、それ等のうちに含まれている弱点などを考えることなどは出来得ようもない。  彼はただ恐ろしい。身にかかる疑いが恐ろしい。  思想の断片が、気違いのように頭のうちじゅう走けまわる……。  大きな眼にうっすら涙を浮べて、口を開き暫く呆然としていた彼は、やがてちょっと目を瞑るとほとんど聞きとれないほどのつぶやきで、 「……俺ら……俺らすんだら……」 と、云うや否や押しかぶせるように、 「何? 承知する?  ああそれでようよう埒が明くというもんだ、さあ、そんならこれにちょっと印を貰いましょうか」  番頭は、包みのうちから何か印刷したものを出して、禰宜様宮田の前に置いた。  取り上げては見たが、どうしても読めない。  字の画が散り散りばらばらになって意味をなさないのを、番頭に助けられながらそれが小作証書であるのを知ったときには、もう一層の絶望が彼の心を打った。  が、もう何ということもない。  二度も三度も間違えながら筆の先をつかえさせて名前を書き入れると、彼は黙々として印を押した。 四  その田地──禰宜様宮田が実に感謝すべき御褒美として、海老屋から押しつけられた──は、小高い丘と丘との間に狭苦しく挾みこまれて、日当りの悪い全くの荒地というほか、どこにも富饒な稲の床となり得るらしい形勢さえも認められないほどのところであった。  破産までさせられて、自棄になった彼の前の小作人が半ば復讐的に荒して行ったのだともいう、石っころだらけの、どこからどう水を引いたらいいのかも分らないように、孤立している田地を見たとき、禰宜様宮田は思わず溜息を洩した。  いったいどこから手を付ければ、こんなにも瘠せきった原っぱのような田地を、少くとも人並みのものに出来るのだろう……。  けれども、もうこうなっては否でも応でも収穫を得なければ大変になる。  全く強制的に彼は朝起きるとから日が落ちるまで、土龍のように働かなければならなかったのである。  禰宜様宮田は、ほんとに体の骨が曲ってしまうほど耕しもし、血の出るような工面をして、たくさんの肥料もかけてみた。寸刻の緩みもなく、この上ない努力をしつづける彼の心に対しても、よくあるべきはずの結果は、時はずれの長雨でめちゃめちゃにされた。  稲の大半は青立ちになってしまったのである。  どうしても負けてもらわなければ仕方がなくなった禰宜様宮田は、年貢納めの数日前、全く冷汗をかきながら海老屋へ出かけて行く決心をした。  小作をして、おきまり通りちゃんちゃん納められるものが、十人の中で幾人いる、何も恥かしいことじゃあない、平気でごぜ、平気でごぜ。尋常なこったと云っていられるお石の心持を半ば驚きながら、彼はいろいろと云い訳の言葉などを考えた。  あの年寄がこんなことを願いに行ったときいたばかりで、何と云うかと思っただけでさえ、足の竦むような気のする彼は、せめてものお詫びのしるしにと、新らしい冬菜をたくさん車にのせて、おずおずと出かけて行ったのである。  台所の土間に土下座をするようにして、顔もあげ得ずまごつきながら、四俵のはずのところを二俵で勘弁してくれと云う禰宜様宮田を、上の板の間に蹲踞んで見下していた年寄りは、思わず、 「フム、フム」 とおかしな音をたてて鼻を鳴らしたほど、いい御機嫌であった。  いくら平気でいるように見せかけても、あらそわれない微笑が、ともすれば口元に渦巻いて、心が若い娘のようにはねまわった。  彼女の計画はこうなって来なければならないのだ。  こうなると、ああなって、そういう風にさえなると……。  いろいろな意味において快く承知した年寄りは、負けてやる二俵分を現金に換算して禰宜様宮田に借用証文を作らせながら、ちょうど若い人がこれから出来ようとする気に入りの着物の模様、着て引き立った美くしい自分の姿及び驚きの目を見張るそんな着物を作られない者達のことごとを想像する通りに、そわそわと弾力のある心持で順々に実現されて来る計画に心酔したようになっていたのであった。  それから三年の間、膏汗を搾るようにして続けた禰宜様宮田の努力に対して、報われたものはただ徒に嵩んで行く借金ばかりであった。  今年こそはとたくさんの肥料を与えれば、期待した半分の収穫もなくて、町の肥料問屋へも、海老屋へも、どうしようもなくて願った借金が殖えて行く。  今までは、貧しくこそあれ一文の貸しもない代りに、また借りもなく、家内中の者が家内中の手で暮していられた彼等の生活には、絶えずジリジリと生身に喰いこんで来る重い重い枷が掛けられた。  どうにかしてはずしたい。  何とかして元の身軽さに戻りたい。  一生懸命にもがけばもがくほど、枷はしっかりと食いこんで来るように、僅かの機会でも利用して借金も軽め生活も楽にさせたいとあせればあせるほど、経済は四離滅裂になって来る。  ガタガタになり始めた隅々から、貧しさは止度もなく流れこんで、哀れな小さい箱舟を、一寸二寸と、暗い、寒い、目のないものが棲んでいるどん底へと押し沈めかけていたのである。  ところへ、五年目に起った大不作は彼等一族を、まったく困憊の極まで追いつめてしまった。  恐ろしい螟虫の襲撃に会った上、水にまで反かれた稲は、絶望された田の乾からびた泥の上に、一本一本と倒れて、やがては腐って行く。  豊かな、喜びの秋が他の耕地耕地を訪れるとき、禰宜様宮田のところへは、何が来てくれたのか。  息もつけない恐怖である。逼迫である。  愚痴を並べ、苦情を云っていられるうちは、貧乏の部には入らないという、そのほんとの「空虚」が来たのである。  空虚な俺等……。  蓄わえた穀物はなくなるのに、何を買う金もない。何で親子五人の命をつないで行ったらいいのだろう?  そこへ、海老屋ではまたも難題を持ちかけて来た。  一俵の米もよこされない。それじゃあすまないから、今まで貸してやっていた金を、暮まで待つから全部返済しろと云うのである。  食うや食わずで、たださえ生きるか死ぬかの今、無断で一割の利まで加えた百円以上のものを、どうして返せるだろう。  金で返せない? それなら仕方がない、土地を差押えるぞ!  これが海老屋の年寄りの奥の手であった。  最初からこうまでするように、彼女の妙法様はお指図下すったのである。  現在海老屋の所有となっている広大な土地は、全部こういう風な詭計を用いて奪ったのだと云うことは、決して単にそねみ半分の悪口ばかりだとはいえない。  そんなことをするに、ちっとも可哀そうだとも、恥かしいとも思わないだけ、充分に彼女の心は強かったのである。  そして、またその驚くべき強い心に、この上ない誇りを感じている彼女は、何も自分の持っている力を引込ませて置く必要は認めなかった。  何のために虎は、あんな牙を持っているかね、弱い人間や獣を食うためじゃあないか、私の生れつきだってそれと同じなのだ。それでもうすっかり彼女は安んじていられたのである。  今度も彼女は、自分の天稟に我ながら満足しずにはいられなかった。  もうここまで漕ぎ付ければ、後はひとりでに自分の懐に入って来るほかないいくらかの土地を思うと、優勝の戦士がやがて来る月桂冠を待つときのような心持にならざるを得なかった。  比類ない自分の精力と手腕をもってすれば、こんな相手を斃したことは、むしろ当然というべきではある。  が、嬉しい。この上なく張合がある。  土地や金が、ただ「殖える」とか「広くなる」とかいう、そんなやにっこい言葉で彼女の快感は表わせないほど、熾んなのであった。  彼女は、しんから自分自身の生命の栄えを讃美しながら、次の対照の現われを強い自信と名誉をもって待っていたのである。  が、禰宜様宮田は……。  憤るには、彼等はあまり疲弊していた。  海老屋から使がその趣を伝えて来たときでも、彼等夫婦はまるで他人のことのように、ぼんやりした、平気な顔をして聞いていた。  何だかもう、頭の中が真暗になって、感じも何も皆どこへか行ってしまったような心の状態になっていたのである。  絶えず口元に自嘲的な笑を漂わせながら、唇を噛んでいるお石は、すっかり自暴自棄になってしまった。  まだ何か望みがあり、盛り返せるかもしれないという未練が残っていたときには、懸命に稼ぐ気にもなり、怨む気もしたけれども、こうまで落ちきってしまえば、絶望した彼女の心は自棄になるほかない。 「へん海老屋の鬼婆あ!  何んもはあねえくなるまで、さっさとひっ剥だらええでねえけ、小面倒臭せえ。  乞食して暮しゃ、家も地面も入用んねえで、世話あねえわ!」  黙り返っているお石は、折々不意にはっきり独言しながら、ゴロンと炉辺に臥ころがったりした。  禰宜様宮田も、もう土地も何にも入用なかった。ただどうかして、今のいやな心持から一刻も早く逃れたいばかりなのである。  ほんとにお石の云う通り、乞食して暮しても、このごろのように怨みの塊りのようになっている境涯からぬけられたら、それでいい。  こっからここまじゃあ俺らがもん、そこからそこまじゃあ汝がもんと、区別う付けて置くから、はあ人のもんまで欲しくなる。  地体、どなたか様は、そげえな区切りい付けて、地面お作りなすっただべえか?  欲しいもんだらはあ遣るがえ……。  最初の間、彼はもうすっかり諦めて、綺麗さっぱりいつでも、土地でも家でもよこせと云うものを、遣ってしまえるような心持でいたのである。  けれども、やがて近所の者達の同情が、彼の決心を動かし始めたのであった。  いつとはなし、宮田一族の迫った難渋を知った者達は皆同情して、世界中の悪口をあらいざらい、海老屋の人鬼、生血搾りに浴せかけた。  口では、まるで一ひねりに捻り潰してくれそうな勢で彼女を罵ることだけは我劣らじと罵る。  けれども、若しその公憤を具体化そうとでも云えば、彼等は互に顔を見合わせながら、 「はあ……  相手がわれえ……」 と尻込みをして、一人一人コソコソと影を隠してしまうだろう。  それ等の同情も、いざという肝腎の場合にはさほどの役には立たない。何と云って禰宜様宮田の肩を持っても、どれほどひどく海老屋の年寄りをけなしても、つまりはなるようにほかならないにきまっている。  そこまで俺等の力あ及ばねえということを、云う方はもちろん云われる方も漠然と感じている。  いくら無責任な同情だといっても、慰められ、辛い境遇を共に悲しんでもらって厭な心持はしないのみならず、却って彼等は事件の結果に何の責任も持たないからよけい禰宜様宮田の心を動かすような言葉を、口から出まかせ、行がかりにまかせて喋る。  諦めていたはずの土地に対しても、また新しい執着──強い、もうあんなに単純には諦めきれない未練──を覚えるとともに、怨みとも憤とも区別のつかないようにもしゃもしゃした心持が蘇返って来て、禰宜様宮田をどのくらい苦しめているのか。  そういうことは、彼の仲間の一人として考え及ぶ者はなかったのである。  慰められるにつれて、しんから底から自暴自棄になっていたお石は、ようよう気を持ちなおすに従って、体ごと真黒焦げに成ってしまいそうな怨みの焔が、途方もない勢で燃え熾って来るのを感じた。  何かしてやれ!  何とかしてくれたら、はあなじょうに小気味がよかっぺえ!  二六時中、人間のような声を出して怨念が耳元で唆かす。  よくも、よくも、こげえな目さ会わせおったな!  今に見ろ!  大黒柱もっ返して、土台石から草あ生やしてくれっから!  いても立ってもいられないような気持になったお石は、ほとんど夢中で納屋へ馳けこんだ。  そして、まるでがつがつした犬のように喘いだり、目を光らせたりして鼻嵐しを吹きながら、そこいらに散らかっている古藁で、人形を作りにかかった。  彼等の仲間では昔ながら恐ろしいものにされている祈り釘をこの人形に打ちこんで海老屋の人鬼の手足を、端々から腐り殺してやりたい! 祈り殺さずにおくものか!  手先はブルブル震えるし、どうやったらこのバサバサな藁が人形になるかも分らない。  いくらしても片端じから崩れたり解れたりしてものにならない藁束に向って、彼女の満身の呪咀と怨言が際限もなく浴せかけられたのである。  引きちぎったり踏み躪ったりした藁束を、憎さがあまって我ながら、どうしていいのか分らないように足蹴にしながら、水口まで来ると、お石は上り框に突伏してオイオイ、オイオイと手放しで号泣した。怨んだとて、呪ったとて、海老屋の年寄にはどうせかないっこないのだということが、口でこそ強そうなことを云っていても、心にはちゃんと分っているから、お石は一層たまらない。  胸を掻き毮られるような心持になりながら、娘達をつかまえては泣き出し近所の者に会っては怨みを並べている彼女の、厚みのないへこんだ額には、一日一日と皺が増えて、鼻のまわりに泣き皺が現われた。  もうまるで子供ではない娘達は、両親の苦痛は充分同情していた。  が、さてどうしたらいいのかということになると、彼女等は、ほとほと途方にくれてしまう。  そして、ごくごく単純な彼女等は私に遣らなければならないものなら、やったってよさそうなものだのに、……町へ行って奉公したって食っては行けるくらいに思っていた。  もちろん、親達の苦しんでいる様子に対して、それを口に出すことは、いかな彼女等でも出来なかったけれども自分等自身としてはそんなに辛くはなかった。  始終、心から離れない何か陰気な悲しいものがあると彼女等の感じていたのは、事件そのものの苦しさよりも、むしろ、大人達のように沈んで悲しく自分等を持して行かなければならないという感じが与えたものなのである。 「おめえんげでも、えれえこったなあ、まきちゃん」 「ああ……」  さも心を悩まされているように、ませた表情をして返事をしながら、実はそう云われても、とっさに何がえれえこったったのか心に浮ばないようなことさえあったのである。  いくら心の複雑でない禰宜様宮田だとても、子供等のように、そう単純に事を見て行くことは出来ないし、またそうかといって、お石のように、一目散に怨みこんではしまわせてくれないものを、自分のうちに持っていた。  人を怨んだり、憎がったりするなあ、はあ真当なこっちゃあねえ。  そう知りながら、恨めしいような心持や、憎らしいような心持が、忘れようとしても忘られず心にこびりついているから、彼はせつないのである。  もうやがて近々に別れなければならない、耕地を見歩きながら、このことを思う彼の眼には、いつでも止めるに止められない涙が湧き出して、大きい、あの子供らしい目が何も見えなくなってしまうのが常であった。  海老屋の御隠居……俺が田地……子供等……俺が死んだ後あ、はあ何じょって奴等あ暮してんべえ。そして、あの海老屋の若者を救い上げたときの歓しさを思い出すと、彼は全く堪らなくなる。  今はもう、皆どこさかぶっとんで行ってしまったあのときのあんなに仕合わせだった心持を思い出すと、それが追憶である故に──これから二度と会うことの出来ない、昔の思い出であるために──一層慕わしく、なつかしく胸を揺られる。  こういう原因に「それ」がなったのだと思うと、ほんとに何とも云えない心持がして来るのである。  一思いに、あのときの「その喜び」も何も、皆怨みや憎しみで塗り潰してしまえれば、それは却って結構かもしれない。  が、そうはならない。今の苦しさが強ければ強いほど、あのときの思い出は、はっきりと、あのときのままの新しさをもって浮み出して来る。あのときの通り明るく、暖く歎いて行く自分を迎えてくれるのである。  それがたまらない。  彼の心は、ただ土地が惜しい、年寄りの仕打ちが恨めしいというばかりではない、あのときの、あの歓びを憶い起すに耐えないような心持が──それだのにまた、憶い出さずにはいられない一見矛盾した感情が、自分でどう自分を処していいか分らないように湧き上る。  生活の基礎が、ぐらついている不安、家族の者共に対する愛情、真当な何物かに対する憧憬等が、彼には一つ一つこういう風な区別をつけられていないだけ、それだけ混雑したひとしお悩ましい心持になって、彼等の言葉で云う心配負けにとっつかれた状態にあったのである。  重い白土の俵を背負って、今日も禰宜様宮田は、急な坂道を転がりそうにして下りて来た。  窮した彼は、近所の山から掘り出す白土──米を搗くときに混ぜたり、磨き粉に使ったりする白い泥──を、町の入口まで運搬する人足になっていたのである。  できるだけ賃銭を貰いたさに、普通一俵としてあるところを、二俵も背負っているので、そんなに力持ちでもない彼の肩はミシミシいうように痛い。  太い木の枝を杖に突いて、ポコポコ、ポコポコ破れた古鞋の足元から砂煙りを立てながら歩いて来た禰宜様宮田は、とある堤に荷をもたせかけるようにしてホッと息を入れた。  さっき行った人足も、やはりここでこうやって休んだとみえて、枯れかけた草を押し伏せて白土の跡が真白く残っている。  滲み出した汗を拭きながら、彼はあたりを見まわした。  すべてが寂しい。  滅入るように静かな天地には、もうそろそろ冬の寒さが争われない勢を見せて、すがれた叢、音もなく落葉して行く木立の梢を包んで底冷えのする空気がそこともなく流れている。  やがては霜になろうとする霧が、泥絵具の茶と緑を混ぜて刷いたような山並みに淡く漂って、篩いかけたような細かい日差しが向うにポツネンと立っている皁角子の大木に絡みつき、茶色に大きい実は、莢のうちで乾いた種子をカラカラ、カラカラと風が渡る毎に侘しげに鳴りわたる。  ジジー──ジジー──……  地の底で思い出し思い出し鳴く虫の声を聞くともなく聞いていた禰宜様宮田の心のうちへは、また海老屋のことが浮んで来た。 「……なじょにしたらよかっぺえ……」  幾度考えたとて、徒に同じ埒の中を堂々廻りするほかない。  彼は駸々と滲み出して来る無量の淋しさと、頼りなさに、自分の身も心も溺れそうな気がした。  今までは自分の後にあって、目に見えぬ支えとなっていてくれた何か、何かの力が、もうすっかり自分を見捨てて独りぼっち取りのこしたまま、先へ先へと流れて行ってしまうような心持がする。  何も彼にもが過ぎて行く……。  グングン、グングンと何でも彼んでも、皆どっかへ飛んで行ってしまう……。  いたたまれないような孤独の感に打たれて、彼の魂は急に啜泣きを始めた。  空虚が彼の心にも蝕んで来た。  彼の知らない涙が、あてどもなく凝視めているあのいい眼から、糸を引くようにこぼれ出て、疎らな髯のうちへ消えて行った。 五  収穫の後始末もあらかた付いて、農民がいったいに暇になると、かねがね噂のあった或る新道の開拓が、いよいよ実行されることになった。  町の附近にあるK温泉へ、今までは危い坂道で俥も通れなかったのを、今度その反対の側の森を切り開いて、自動車の楽に通る路をつけようというのである。  募集された人夫の一人となった禰宜様宮田は、先ず森の伐採から着手することになった。白土運びをするより賃銭も高し、切り倒した樹木の小枝ぐらいは貰っても来られるという利益があったのである。  深く、暗く、鬱蒼として茂りに茂っている森は、次第次第に開けるにつれて粗雑にばかりなって来た町に、まったく唯一の尊い太古の遺物であった。  すべてがここでは幸福であった。  たくさんの鳥共も、這いまわる小虫等も、また春から秋にかけて、積った落葉の柔かく湿った懐から生れ出す、数知れない色と形の「きのこ」も差し交した枝々に守られて各自の生きられるだけの命を、喜び楽しむことが出来ていたのである。  けれども、にわかに荒くれた、彼等の仲間ではこんなに無慈悲で、不作法なものはなかった人間どもが、昔ながらの「仕合わせの領内」へ闖入して来た。  そして大きな斧が容赦なく片端しから振われ始めたのである。  まだ生れて間もない、細くしなやかな稚木共は、一打ちの斧で、体じゅうを痛々しく震わせながら、音も立てずに倒れて行く。  思いがけない異変に驚く間もあらばこそ、鋭い刀を命の髄まで打ち込まれ打ち込まれした森の古老達は、悲しそうに頭を振り動かし、永年の睦まじかった友達に最後の一瞥を与えながら次から、次へと伐られてしまう。地響を立てて横たわる古い、苔や寄生木のついた幹に払われて、共に倒れる小さい生木の裂ける悲鳴。  小枝の折れるパチパチいう音に混って、 「南へよけろよーッ、南ー」  ドドーンとまたどこかで、かなり大きい一本が横たわる。  パカッカッ……カッパ……カッ……パカッカッ……。  せわしい斧の妙な合奏。  樵夫の鈍い叫声に調子づけるように、泥がブヨブヨの森の端で、重荷に動きかねる木材を積んだ荷馬を、罵ったり苛責したりする鞭の音が鋭く響く。  ト思うと、日光の明るみに戸惑いした梟を捕まえて、倒さまに羽根でぶらさげながら、陽気な若者がどこへか馳けて行く。  今まで、森はあんなに静かな穏やかなところと、誰の頭にもしみ込んでいるので、これ等の騒ぎは、この上なくいやな、粗雑な感じを与えた。  始終落付のない、ここのがさつな騒動が、どこともなく町にも伝わって、往来に落葉などを散らせながら、立派な樹々が運ばれて行くのを見ると、皆互の癖になっている嘘つきから、平気そうな顔はしていても、何かしらが心の底で動く。  ああやって伐るのは惜しいようだが、また自分の手で、あれほどの大木を伐り倒せたら、面白かろうなあ。  すっかりまるはだかにされた樹々が、一枚の葉さえないような太い枝を、ブッツリ中途から切られて、寒げに灰色の空に立つ様子。塒を奪われた烏共が、夕方になると働いている者の頭の上に、高く低く飛び交いながら鳴くのなどをみると、禰宜様宮田は振り上げた斧も、つい下しかねた。  森中の木魂の歎息が、小波のように自分の胸にもよせて来て、彼は心が痛むような気持がした。  いくら木は口を利かないからといって、同じ生きているものを、こんなにむごたらしく、気の毒だとか可哀そうだとか思う方が馬鹿だというようにして、まるで楽しみにでもしているように、バタンバタンと切り倒して行かないでも、どうにか成るのじゃあ、あるまいか、今まで幾百年かの間茂って立派だった森も、巣くっていた鳥共も、草もきのこも何も彼も、皆無くなしてしまったところへ、あんな古ぼけた一台や二台の自動車が馳けて行くからといって……そこにどんなにいいことがあるのだろう。  禰宜様宮田は、人があまり損得に夢中になっているので、却って上気せ上って自分にははっきり分る損得を、逆に取り違えているのではあるまいかなどとも想う。けれども、もちろん口に出しては一口も云う彼ではない。黙ってまるで蟻のように働く禰宜様宮田は、寄り集り者の仲間から、あっぱの宮田──唖の宮田──という綽名をつけられて、心さえ持ってはいない機械、ちいっとばっか工合のええ機械のように、ただ泥づかりになって働くほか能のない人間だと思われていたのである。  森がだんだん開けて来る頃から、そろそろ冬籠りの季節になって来て、雪などに降りこめられた禰宜様宮田が町から請負って来た粗末な笊だの蚕籠だのを編んだりするようになると、例年の通り町から、紡績工女募集の勧誘員が、部落の家々を戸別に訪問しはじめた。  紡績工場やモスリン工場へ、まだ十に手が届くか届かないような子まで、十年十五年と年期を入れて働きにやっては、いくらかの金を前借するのが、彼等の仲間にとっては、さほど恥ずべきことではない。  禰宜様宮田は、近所の誰彼が、 「まあ、へえ、よし坊は十円け? よっぱら割がええなあ、俺らげんなあお前んげと同じい年でも、いまちいっとやせえわ。  まちっと相場あ見てっと得したんだになあ」 などと云っているのをきいた。  もう十六と十三になっている彼の娘達は、勧誘員が来ると一緒に、そのさもいいことずくめらしい言葉から多大の好奇心をそそられた。  何というあても決心もない。  ただその多勢でそろいの着物を着て、唄をうたいながら糸をとるということがして見たいのである。  町の工場で働く。そこに何かここにいてはとうてい得られない名誉と幸福があるような気がする。  友達だった娘が行くことにきまったなどと、さも嬉しそうに誇らしげに告げると、二人は妙に後れちゃあ大事だという心持になって、こっそり納屋の蔭や、畑の隅で相談する。  大業に相談するとは云っていても、事柄は簡単なものである。 「さだちゃんよ。  こんねえだ俺ら、新やん家で聞いたけんど、工場さ行ぐと、毎日毎日牛ばっか食わして、衣裳までくれんだって……  俺らこげえな貧乏家にいるよら、何ぼかええと思うなあ。  お前どう考える?  阿母ちゃんさきいてんべえか……」 「ふんとになあ、  俺らも行ぎてえわ、姉ちゃん、  お前と二人で行ぎあ、おっかねえこともあんめえもん……」  娘達は、このくらいのことを云ってしまうと、もう後に云うことも考えることもなくなるので、いかにも思案に耽っているようにお互に寄りかかり合って、黙ってはいるものの、妹のさだなどはいつの間にか、ほかの考えに気をとられて、何のためにこうやって立っているのか分らなくなるようなことさえあった。  彼女等が打ち開けかねているとき、母親のお石もまた、心のうちで同じことを考えながら、これもまた娘達に云いだしかねていた。  今のこのひどい中で二人の口が減ることだけさえ一方ならないことだのに、その上いくらかは入っても来ようというものだ。  彼女等だってまんざらの子供ではなし……  そう思っているところへ、娘達の方からどうぞ遣って下さいと切り出したことは、お石にとって何よりであった。早速三人は、禰宜様宮田の許しを乞うたのである。が、お石は彼が主人であるという名に対してとった一種の形式なので、若し彼がいけないと云ったところで、自分が遣ろうという決心はどこまでも貫徹させるつもりではあったのだ。  話の模様では大変いいらしい。  けれども町の様子や、そういうところの仕来りなどを皆目知らない禰宜様宮田は、責任をもって判断は出来なかった。 「俺ら、おめえ等に指図あしかねる。  けんども、はあ何んでもお前等が仕合せになってんだら、行ぐも悪かあなかっぺえ。  俺ら、おめえらが仕合せにせえなりゃ、どの道、何よりはあ嬉しいだからなあ……」  自分のような、利口に世の中を立ちまわれない者を父親にもって、何の仕合せも受けられない娘達が、自分等で働いていい目に会って行こうというのに、そりゃあいけない、止せとは云いきれない。云いきれないだけ彼は娘に愛情を持っていたのである。  いやがる者をとめて置いて、もうどうせ潰れるにきまったような家と運命を共にさせるには忍びない。  決心しかねて彼が迷っているうちに、話はぐんぐんはかどって、とうとう娘達は五年間の年期で町へ行くことになり、二十五円の金が親達に渡された。  娘達は、まるで祭り見物に行くように嬉しがって、はしゃいで行ったのだけれども、証文と引きかえに渡された金を見ると、禰宜様宮田は何ともいえず胸のふさがるような心持になって来た。  俺の心に済まないから、どんなことがあっても、この金ばかりは決して使ってはならないと、お石に堅く云いつけて、彼は彼女に知らさないようにして、古葛籠の底へ隠してしまった。そして自分でも二度と見ようとはしなかったので、あっちこっち、散々索しまわったお石が、とうとうそれを見つけ出して、何ぞのときの用心にと、肌身離さず持っていようなどとは、夢にも知らなかった。  裏から紙を貼ってある一枚の十円札、まだ新しいもう一枚の十円と五円とは、黒っぽい襤褸にくるまって今もやはりあの古綿の奥に入っているものと、彼は思っていたのである。  そして、独り遺った息子の六に、唯一の頼りを感じて暮して行くはずだった自分の心が、日を経るに従ってとかく去った娘達の上にばかり傾けられるのを知った。赤坊のうちから眺めて暮して来た彼女等に対して、毎日顔を合わせ、いるにきまったものとなっていたときは、別にそう大していないときの淋しさも思わず、また彼女等が家庭生活にどれほどのうるおいを与えているかも、気づかなかった。  けれども、いなくなって見ると、一種異様の淋しさと物足りなさがある。  ちょうど、絶えまなく溢れ出していた窓下の噴水が、急にパタリと止まってしまったときに感じる通りの心持──何でもなく耳馴れていたお喋り、高い笑声が聞えない今となると、たまらなく尊い愛くるしい響をもって、記憶のうちに蘇返るのである。  どことなく丸味のついて来た体を、前や後にゆすぶりながら、僅かなことにも大笑いする娘達がいなくなってから家中は、何という活気に乏しくなったことか……。  土間の隅や、納屋に転がっている赤勝ちの古下駄や、何かの折に出る古着などを見ると、禰宜様宮田は、字を知らないので手紙をよこせない娘達に、どうぞ仕合せが廻って来ますように祈らずにはいられなかったのである。  禰宜様宮田は、いつもの通り地面を掘っていた。  五間幅の道路は、三四町まっすぐに延びて、一つ大きくカーブしたところから、ダラダラ坂になって、ズーッと下の温泉の中央まで導かれるはずなのである。  もうそろそろ昼頃かと思う時刻になると、彼の仲間として一かたまりになっている七八人の者の中の一人が、 「とっさん頼むぞ、  飯の茶あ沸かしてくんな」 と、云って後の方に鍬を振っている禰宜様宮田を振り返った。 「ふんとに、はあ昼だんべ、  とっさんよ!」  禰宜様宮田は、穢ない小屋掛けへ戻って行った。そして大きなバケツを下げて、足袋の中でかじかむ足を引きずりながら小一町ある小川まで水を汲みに行く。  これは毎日の彼のお役目にされてしまったのである。  あっぱの宮田は、ほんとにはあ機械同然だ。何をしても憤らなきゃあ、小言も云わない。頼むぞと云いさえすりゃあ否と云えねえ爺さまだ。  強い者勝ち、口の先だけでも偉そうな気焔を吐く者が尊ばれるこういう仲間では、黙って何でも辛棒する禰宜様宮田は、一種の侮蔑を受ける。彼の美点であり、弱点である正直などこまでも控目勝ちなところを彼等は、どしどしと利用するのである。  利用するとまではっきり意識しないでも、皆があまりぞっとしないことを、禰宜様宮田のところへさえ持って行けば遣ってくれるから、どうしても彼に押しつけるようになる。  度重るにつれて、だんだん遠慮のなくなった彼等は、このごろではまったく彼を使う。どこかで勢力を張らないではいられない彼等は、ただ一人の禰宜様宮田を対照として、各自の自尊心を満足させるのである。  ちょうど、たくさんいる小使の中でも、どっちかといえばお人好しで、他人を批難することの出来ない男が、いつも小利口に立ちまわる者達の、下廻りをしなければならないと同じような状態なのであった。  いくらバケツは大きくとも、底が痛んでいるので、一杯汲み込んでも来ただけの道を戻って行く時分には、水は七分目ぐらいに減ってしまう。  それに寒いから、手を洗うにも湯を使うのだし、資金のいらない湯でもたくさん飲んで体を暖めようという者達が何しろ十人近くいるのだから、たった一度の往復では足りようもない。  寒さで真青になりながら、禰宜様宮田が二度目に川から帰って来ると、もう仲間共は木片を集めてボンボン焚火をし、暖かそうに眼白押しをしている。 「爺さん、お待ちかねだぞ!」  かじかんだ指で茶釜をかける。  そして、彼等の中では一番年長者である彼が、皆の背のかげから、僅かの暖みをとるのである。  膝を抱えて小さくうずくまっている禰宜様宮田は、うっとりと、塵くさい大きな肩と肩の間からチロチロと美しく燃える火を見ながら、あてどもない考えに耽るのが常であった。  けれども、このごろでは何を考えてもお仕舞いまではまとまらず、またまとめようという意志もない。  ただ、ジイッと静かにしていたいのである。  誰に何を云われても辛棒してするのは、自分で守っている静かな心持を、口小言や罵りで打ちこわされるのが厭だということも、主な原因になっている。  他人の云うことも聞えないことの方が多かったりして、彼は我ながら、はあ呆けて来たわえと思うことなどもあった。  苦しい生活に疲れた彼の心は、ひたすら安静を望んでいるのである。もう激しい世の中から隠遁してしまいたくなっているのである。  けれども、そうは出来ない彼は、また自分の心がそれを望んでいるのだとは気づかない彼は、老耄が、もう来たと思った。が、それを拒むほど、彼は若くていたくもなかったのである。  心がいつもいつも何かどんよりした、厚みのある霧のようなもので包まれていて、外から来るいろいろな刺戟は皆そこに溜って、しんまで滲み通らない。  そして、そのどんよりしたものの奥には、大変深い寂しさにしっかりと包み込まれて、いかにもトロリとした露の雫のように、色という色もなければ、薫りという薫りもない、ただあるということだけの感じられるようなものが潜んでいる。  折々彼の心と体とは、すっかりその透明な、トロリとしたものに吸いこまれてしまって、何も思わず何も聞かず、自分が今ここにこうやっていることさえ知らなくなることなどがありありしたのである。  毎日毎日仕事ははかどって行った。  そして、もう二三日であちら側から掘って来た新道と、こちら側から掘って行った道とが、立派に合おうという日である。  平らな路の間だけに、大きな花崗岩のロールを転がすことになった。  その日はもう大変にいい天気で、このごろにない暖かな日差しが朝早くから輝いて、日が上りきるとまるで春先のようにのどかな気分が、あたりに漂うほどであった。  一区切り仕事を片づけた禰宜様宮田は、珍しい日和りにホッと重荷を下したような楽な心持になって、新道のちょうどカーブのかげに長々と横たわりながら、煙草をふかし始めた。  久振りでいい味がする。  後から差す日は、ポカポカと体中に行き渡って、手足や瞼が甘えるように気怠るくなる。  見わたすと、彼方の湯元から立ち昇る湯気が、周囲の金茶色の木立ちの根元から梢へとほの白く這い上って、溶けかかる霜柱が日かげの叢で水晶のように光って見える。  仲間達の喋る声、鍬の刃に石のあたる高い響などが、皆楽しそうに聞えて来る。  禰宜様宮田は、何ともいえずのびのびとした心持になって来るとともに、また自分の心の奥にある露の雫のようなものへ、自分のあらいざらいが吸いこまれて行くような気がし出した。  ぼんやり眺めている眼には、すべての物象が一面に模糊としたうちに、微かな色彩が浮動しているように見え、いろいろの音響は何の意味も感じさせないで、ただ耳の入口を通りすぎる。  深い深い水底へ沈んで行く小石のように、まっすぐにそろそろと自分の心の底へ彼の全部が澱んで行ったのである。  皆の者は、ガヤガヤ云いながらロールを動かして来た。柄を引き上げて、一列に並んだ者達は両手はブラブラさせながら、てんでんの胸で押していたのである。  けれども、微かな勾配で自然に勢のついたロールは、押すというほどの力を加えられないでも、自分で軽く動いて行く。  このカーブさえ曲れば、もうお終いだという心の緩みと、労力の費されない気安さとで、下らないお喋りに有頂天になっている者達の胸は、ただ義務的に柄に触れているというに過ぎなかった。  まるで生物のようによく転るロールについて、人々が今、カーブを廻りきろうとしたときである。  突然怯えきった絶叫が、仲間の中から起った。 「アッ! 人! 人‼」  ハッとたじろぐ瞬間、抑えてもないロールの柄は彼等の胸から離れた。  コロコロコロ……  一層惰力のついたロールは、 「石! 早く石、石早く突支え!」  と云う叫びがまだ唇を離れないうちに、今の今まで見えていた人の寝姿を押し隠して、陰気に重々しく二三度ゴロッ、ゴロッと揺り返した。  そして、もうそれっきり動く様子は見えなかった。 六  恐ろしい冬が過ぎた。  ほどよい雨と照りが地の底から生気を盛返させて、どこからどこまで美しく蘇返った。  お玉杓子が湧き、ちゃくとり──油虫の成虫──がわやわや云いながら舞いさわぐ下の耕地にはペンペン草や鷺苔や、薄紫のしおらしい彼岸花が咲き満ちて、雪解で水嵩の増した川という川は、今までの陰気に引きかえまるで嬉しさで夢中になっているようにみえて来る。  コーコー、コーコー笑いさざめきながら水共が、或るときは岸に溢れ出し、或るときは途方もないところまで馳けこんで大賑やかな河原には小石の隙間から一面に青草が萌え、無邪気な雲雀の雛の囀りが、かご茨や河柳の叢から快く響いて来る。  桑の芽は膨らみ麦は延びて、耕地は追々活気づいて来たけれども、もう耕す畑も海老屋の所有にされてしまったお石は、毎日古着や駄菓子を背負っては、近所の部落へ行商に出かけた。  禰宜様宮田は、あんな不意なことで死んでしまうし、家の畑は、とうとう鬼婆にとり上げられるし、もううんざり仕切っている彼女は、ただ独り遺っている息子の六を可愛がる気もなくなっていた。  若いときから、彼女が働く原動力になっていた意地も何も、皆どこへか行ってしまって、あんなに祈願をこめても利益を授からない神様にもほとほと愛想をつかしている今、彼女はただ毎日をどうやら生きてさえいればいいだけである。  いろいろな口実を設けて、家屋まで奪われた彼女は、ようよう元納屋にしていたところを住居にして、朝は目が覚めたときに起き食事をすますと荷をかついで出たまま、気が向くまで帰って来ないのが、このごろの習慣になっていたのである。  九つになった六は、母親があってもなくてもまるで同じような生活をしていた。  目を覚したときには、お石はもう大抵留守になっているし、遊び疲れた彼が炉傍でうたたねしてしまう頃までに彼女は帰って来ない方が多い。  学校へも行かず叱りても持たない彼は、彼の年の持つあらゆる美点と欠点のごちゃごちゃに入り混った暮しをして、或るときは大変いい子であり或るときは大変悪い子である六は、貧しい部落中でも貧しい者の子、躾けのない子と目されているので、彼の友達になってくれるものはない。  たまにあったとしても、学校で教わって来た字を書いては、 「六ちゃん、おめえこの字知ってる?」 などときかれるのは、たまらなく口惜しい。自分の方でも避けているので、まったく独りぼっちの彼は一日中裸足の足の赴くがままに、山や河を歩きまわっていたのである。  どこへ行っても山は美しい。  面白いもので一杯にはなっているけれども、彼の一番お気に入りなのは、元二人の姉達がいた時分春になるとは松ぼっくりを拾いに来たことのある館の山である。一吹風が渡るとたくさんなたくさんな松の葉が山のしんからそよぎ出すように、あの一種特別な音をたてて鳴りわたるのを聞きながら、蕗の薹のゾックリ出た草地に足を投げ出して、あたりを見はらすのが、六にとって何よりの楽しみなのである。 「きれえだんなあ……  何ちゅう可愛げえんだべ、俺ら……」  高い山から眺める下界の景色は、ほんとに綺麗である。そしてほんとに可愛らしい。  何もかもが小さくちょびんとまとまって、行儀よく、ぶつかりもせず離れすぎもしないように並んでいる。  昔々ずうっと大昔、まだ人間が毛むくじゃらで、猫のような尻尾を持っていた時分に──部落の年寄達はきっとこういう言葉を使った。──巨人が退屈まぎれに造ったのだというS山を正面に、それから左右に拡がって次第次第に高く立派になっている山並みに囲まれた盆地のところどころには、緑色をたっぷり含ませた刷毛をシュッ、シュッ、シュッと二三度で出来上ったような森や林が横たわっている。  いつも何か大した相談事をしているように、きっちり集まっている町の家々の屋根には、赤い瓦が微かに光り、遠いところから毛虫のような汽車が来てはまた出て行く。  目の下を流れて行く川が、やがて、うねりうねって、向うのずうっと向うに見えるもっと大きい河に流れ込むのから、目路も遙かな往還に、茄子の馬よりもっと小っちゃこい駄馬を引いた胡麻粒ぐらいの人が、平べったくヨチヨチ動いているのまで、一目で見わたせる。  河の水音、木々のざわめき、どこかで打つ太鼓の音などは、皆一つの平和な調和を保って、下界から子守唄のようになごやかに物柔かく子供の心を愛撫して行く。  六の単純な心は、これ等の景色にすっかり魅せられてしまうのが常であった。  大人の話す町々や河──自分なんかが行こうとでもしたら、死んでしまいそうなほど遠い遠いところにあると思っている山も、河も、賑やかな町もみんなもうすぐその辺に見える。  こっちの山からあっちの山まで、一またぎで行かれそうだ。  ちっちゃけえ河、まあ、あげえにちっちゃけえ河! 「オーーイッ!」  彼は、洗いざらいの声で叫んでみる。 「オオオオイ……」  むこうのむこうーの雲の中から、誰かが返事をする。 「オーイッ!」 「オオオオオイ……」 「オオオイ」 「オ……」  俺ら飛びてえなあ……  あの高けえ山のあっちゃの国、  夢にさえ見たことのない世界に生きているたくさんの、たくさんのもの。  子供の空想は、折々彼の頭を掠めて飛んで行く小鳥の翼にのって、果もなく恍惚として拡がって行くのである。  やがて、日がだんだん山に近くなって、天地が橙色に霞み山々の緑が薄い鳩羽色で包まれかけると、六は落日に体中照り出されながら、来たとは反対の側から山を下りる。  そして、菫が咲き、清水が湧き出す小溝には沢蟹の這いまわるあの新道を野道へ抜けてブラブラと、彼の塒に帰るのであった。  町ではこの一ヵ月ほど前から、──町架空索道株式会社というものが新しく組織されて、町外れに、停留場とでもいうのか、索道の運転を司りながら、貨物の世話をするところを建てていた。  三里ほど山中の、至って交通の不便な部落から、切石、鉱石、蒔炭の類を産するので、町への搬出を手軽く出来るように、町からそっちへ売りこむ日用品をも楽に供給するために、出来たことなのである。  ずいぶん粗末な小屋掛け同様の建物が出来、むこうの部落まで、真中に一ヵ所停留場を置いて、数間置きに支柱が立って、鋼鉄の縒綱が頂上の滑車に通り、いよいよ運転を開始したのは、もう七月も半ば過ぎていた。  六はもちろん、早速見物に行った。  そしてもうすっかりびっくりしてしまった。  何から何まで珍しい。たまげることばかりである。  仕事が始まるから終るまで、小屋に立ちつづけて、まったく「不思議なもの」の働きを見るのが、彼の新しい飽きることのない日課となったのである。  或る日、六はいつもの通り小屋へ行こうとして家を出かけた。  そして、とある林の傍へ来かかると彼の目には妙なものが見えた。赤い小さい、可愛い椅子が、何かをのせて空の真中を歩いて行く……  さも呑気そうに気持よさそうにスースー、スースーと針金の上を滑って行く……  彼はこんなところから、索道が見えようとは思ってもいなかったのである。  椅子は林の上を通って行くのだ、あんなにも高く!  高く……広く……山を越え……河を越え……スースー……スースー……  六は、不意に或る思いつきに胸を打たれた。 「俺ら、俺らあれさ乗ってんべ!  鳥のように飛んで行ける!」  六の心臓は今にも口から飛び出しそうになってしまった。  ころげるようにして、小屋へ馳けつけた彼は、いきなり出ようとする空椅子を捕まえると、ギューギュー自分の体を押しつけながら、 「乗せてくんろ! よ、おじちゃん。  俺らこれさのせてくろよ!」 と叫んだ。 「まあこの餓鬼あ!  あぶねえわな、おっこったら何じょうするだ……」 「やめろっちぇな、  おっこったらはあ、木端微塵になっちまうわ」 「なあに大丈夫、  こんな餓鬼が一匹や二匹乗ったからって、すぐ落ちるような機械を、誰れもわざわざ発明もしなけりゃあ、買いもしないやな。  仕事びらきんときあ、町役場のお役人さんが、藻埴まで行って来なすつあね。  大丈夫よ、オイ、小僧。  乗ってもいいが、帰りの椅子で戻って来ねえと、ぶっぱたくぞ」  六の小さい体は、椅子の刳込みにポックリと工合よく納まる。  嬉しさで半ば夢中だった彼が、ようよう少し落付いてあたりを見まわしたときには、もう自分の体はいつの間にか、すっかり町を離れて、或る川の傍まで運ばれて来たのを知った。  河原で一人の男が石を破っている。  槌を石に打ち下した。と思うとやや暫く立ってから、カツ! カツ! という音が耳へ来る。  手元を見ながら音をきくと、ウツカツ! ウツカツ! というようだ。 「ウツカツ! ウツカツ! ウツ……」  だんだん音が微かになると、目の下には茂った森が現われた。  絶えず陽気でお喋りな若い葉どもは、お互にぴったり肩をすり合わせ、頭をよせ合って、しきりに早口で何か囁き合ったかと思うと、クックッ、クックッ微笑み始め、やがてさも堪えきれなそうにサアッと分れて大笑いに笑い潰れる。  と、仲間の一人が、ふざけるような様子をして頭を擡げ、眩しい眼をしばたたきながら、フト自分等の上に来かかる子供を見上げた。 「オヤ、まあ」  サヤサヤ、サヤサヤ……葉どもは一斉に身をそらせて彼を見る。 「アラ、人間の子よ」 「まあ、あんなものに乗っかって……おかしいわ」 「ほんとにまあ、たったあれんぼっちの子!」 「まあ……」  口々に囁きながら、行き過ぎる彼を見なおそうとして、ぶつかり合い縺れ合い、大騒ぎで身じろぎをする。  サヤサヤ……サヤサヤ……  涼しいすがすがしい薫りが六の体のまわりに満ちわたった。  足の下で山鳩が鳴く。  カッコー……カッコー……  しとやかな含み声の閑古鳥の声が、どこからか聞える。  常春藤が木の梢からのび上って見上げようとし、ところどころに咲く白百合は、キラキラ輝きながら手招きをする。  六はもう、得意と嬉しさで有頂天になってしまった。  世界中が俺の臣下のように畏こまって並んでいる。  今こうやって、鳥より楽に、素晴しく空を歩いている俺、たった一人のこの俺!  スースー……スースー……  王者になったような心持でいる六をのせて、綱はだんだん山奥へ入って行った。  景色は次第次第に珍しく、不思議になって来る……  周囲はますます静かにひそやかになって来る……  六は急に飛びたくなった。飛びたく。  あの雲の峯、あの……  彼は思わず前へのめった。瞬間椅子は重心を失った。  オミョオミョワラーー──ン……  天地中が隅から隅まで、一どきに鳴り渡ると感じる間もなく、六の体は太陽の火粉のように、真下の森へ向って落ちて行った。…… 底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社    1979(昭和54)年4月20日初版発行    1986(昭和61)年3月20日第5刷発行 底本の親本:「宮本百合子全集 第一巻」河出書房    1951(昭和26)年6月発行 初出:「中央公論」    1917(大正6)年7月号 入力:柴田卓治 校正:原田頌子 2002年1月2日公開 2012年12月8日修正 青空文庫作成ファイル: 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