菊模様皿山奇談 三遊亭圓朝 鈴木行三校訂・編纂 Guide 扉 本文 目 次 菊模様皿山奇談 序 一 序  大奸は忠に似て大智は愚なるが如しと宜なり。此書は三遊亭圓朝子が演述に係る人情話を筆記せるものとは雖も、其の原を美作国久米郡南条村に有名なる皿山の故事に起して、松蔭大藏が忠に似たる大奸と遠山權六が愚なるが如き大智とを骨子とし、以て因果応報有為転変、恋と無常の世態を縷述し、読む者をして或は喜び或は怒り或は哀み或は楽ましむるの結構は実に当時の状況を耳聞目撃するが如き感ありて、圓朝子が高座に上り、扨て引続きまして今晩お聞きに入れまするは、とお客の御機嫌に供えたる作り物語りとは思われざるなり。蓋し当時某藩に起りたる御家騒動に基き、之を潤飾敷衍せしものにて、其人名等の世に知られざるは、憚る所あって故らに仮設せるに因るならん、読者以て如何とす。   明治二十四年十一月 春濤居士識         一  美作国粂郡に皿山という山があります。美作や粂の皿山皿ほどの眼で見ても見のこした山、という狂歌がある。その皿山の根方に皿塚ともいい小皿山ともいう、こんもり高い処がある。その謂れを尋ねると、昔南粂郡の東山村という処に、東山作左衞門と申す郷士がありました。頗る豪家でありますが、奉公人は余り沢山使いません。此の人の先祖は東山将軍義政に事えて、東山という苗字を貰ったという旧家であります。其の家に東山公から拝領の皿が三十枚あります。今九枚残っているのが、肥後の熊本の本願寺支配の長峰山随正寺という寺の宝物になって居ります。これは彼の諸方で経済学の講釈をしたり、平天平地とかいう機械をもって天文学を説いて廻りました佐田介石和尚が確かに見たと私へ話されました。何の様な皿かと尋ねましたら、非常に良い皿で、色は紫がゝった処もあり、また赤いような生臙脂がゝった処があり、それに青貝のようにピカ〳〵した処もあると云いますから、交趾焼のような物かと聞きましたら、いや左様でもない、珍らしい皿で、成程一枚毀したら其の人を殺すであろうと思うほどの皿であると云いました。其の外にある二十枚の皿を白菊と云って、極薄手の物であると申すことですが、東山時分に其様な薄作の唐物はない筈、決して薄作ではあるまいと仰しゃる方もございましょうが、ちょいと触っても毀れるような薄い皿で、欠けたり割れたりして、継いだのが有るということです。此の皿には菊の模様が出ているので白菊と名づけ、あとの十枚は野菊のような色気がある処から野菊と云いました由で、此の皿は東山家伝来の重宝であるゆえ大事にするためでも有りましょう、先祖が此の皿を一枚毀す者は実子たりとも指一本を切るという遺言状をこの皿に添えて置きましたと申すことで、ちと馬鹿々々しい訳ですが、昔は其様なことが随分沢山有りましたそうでございます。其の皿は実に結構な品でありますゆえ、誰も見たがりますから、作左衞門は自慢で、件の皿を出しますのは、何ういうものか家例で九月の節句に十八人の客を招待して、これを出します。尤も豪家ですから善い道具も沢山所持して居ります。殊に茶器には余程の名器を持って居りますから自慢で人に見せます。又御領主の重役方などを呼びましては度々饗応を致します。左様な理由ゆえ道具係という奉公人がありますが、此の奉公人が頓と居附きません。何故というと、毀せば指一本を切ると云うのですから、皆道具係というと怖れて御免を蒙ります。そこで道具係の奉公人には給金を過分に出します。其の頃三年で拾両と云っては大した給金でありますが、それでも道具係の奉公人になる者がありません。中には苦しまぎれに、なんの小指一本ぐらい切られても構わんなどゝ、度胸で奉公にまいる者がありますが、薄作だからつい過まっては毀して指を切られ、だん〳〵此の話を聞伝えて奉公に参る者がなくなりました。陶器と申す物も唐土には古来から有った物ですが、日本では行基菩薩が始まりだとか申します。この行基菩薩という方は大和国菅原寺の住僧でありましたが、陶器の製法を発明致されたとの事であります。其の後元祖藤四郎という人がヘーシを発明致したは貞応の二年、開山道元に従い、唐土へ渡って覚えて来て焼き始めたのでございましょうが、これが古瀬戸と申すもので、安貞元年に帰朝致し、人にも其の焼法を教えたという。是れは今明治二十四年から六百六十三年前のことで、又祥瑞五郎太夫頃になりまして、追々と薄作の美くしい物も出来ましたが、其の昔足利の時代にも極綺麗な毀れ易い薄いものが出来ていた事があります。丁度明和の元年に粂野美作守高義公国替で、美作の国勝山の御城主になられました。その領内南粂郡東山村の隣村に藤原村と云うがありまして、此の村に母子暮しの貧民がありました。母は誠に病身で、千代という十九の娘がございます、至って親孝行で、器量といい品格といい、物の云いよう裾捌きなり何うも貧乏人の娘には珍らしい別嬪で、他から嫁に貰いたいと云い込んでも、一人娘ゆえ上げられないと云う。尤も其の筈で、出が宜しい。これは津山の御城主、其の頃松平越後守様の御家来遠山龜右衞門の御内室の娘で、以前は可なりな高を取りました人ゆえ、自然と品格が異って居ります。浪人して二年目に父を失い永らくの間浪々中、慣れもしない農作や人の使いをして僅かの小畠をもって其の日をやっと送って居る内に、母が病気附きまして、娘は母に良い薬を飲ませたいと、昼は人に雇われ、夜は内職などをして種々介抱に力を尽しましたが、母は次第に病が重りました。こゝに以前此の家に奉公を致していました丹治と申す老爺がありまして、時々見舞に参ります。 丹「えゝお嬢様、何うでがす今日は……」 千「おや爺やか、まアお上りな、爺や此間は誠に何よりの品を有難うよ」 丹「なに碌なものでもございませんが、少しも早く母さまの御病気が御全快になれば宜いと心配していますが、何うも御様子が宜くねえだね」 千「何うかして少しお気をお晴しなさると宜いが、私はもういけない、所詮死ぬからなんて御自分の気から漸々御病気を重くなさるのだから困るよ、今朝はお医者様を有難う、早速来て下すったよ」 丹「参りましたかえ、あのお医者さまはえらい人でごぜえまして、何でもはア此の近辺の者で彼の人に掛って癒らねえのはねえと云う、宅も小さくって良いお出入場も無えようだが、城下から頼まれて、立派なお医者さまが見放した病人を癒した事が幾許もありやすので、諸方へ頼まれて往きますが、年い老って居るから診ようが丁寧だてえます、脉を診るのに両方の手を押めえて考えるのが小一時もかゝって、余り永いもんだで病人が大儀だから、少し寝かしてくんろてえまで、診るそうです」 千「誠に御親切に診て下さいますけれども、爺や彼の先生の仰しゃるには、朝鮮の人参の入ってるお薬を飲ませないとお母さまはいけないと仰しゃったよ」         二  其の時に丹治は首を前へ出しまして、 丹「へえー何を飲ませます」 千「人参の入ってるお薬を」 丹「何のくらい飲ませるんで」 千「一箱も飲ませれば宜いと仰しゃったの」 丹「それなら何も心配は入りません、一箱で一両も二両もする訳のものじゃアございやせん、多寡の知れた胡蘿蔔ぐらいを」 千「なに胡蘿蔔ではない人参だわね」 丹「人参てえのは何だい」 千「人の形に成って居るような草の根だというが、私は知らないけれども、誠に少ないもので、本邦へも余り渡らない物だけれども、其のお薬をお母さまに服べさせる事もできないんだよ」 丹「何うかして癒らば買って上げたいもんだが、何の位のものでがす」 千「一箱三拾両だとさ」 丹「そりゃア高えな、一箱三拾両なんて魂消た、怖ろしい高え薬を売りたがる奴じゃアねえか」 千「なに売りたがると云う訳ではないが、其のお薬を飲ませればお母さまの御病気が癒ると仰しゃるから、私は其れを買いたいと思うが買えないの」 丹「むゝう三拾両じゃア仕様がねえ、是れが三両ぐらいのことなら大事な御主人の病には換えられねえから、宅を売ったって其の薬を買って上げたいとは思いますが、三拾両なんてえらい話だ、そんな出来ねえ相談を打たれちゃア困ります、御病人の前で高え声じゃア云えねえが、殊に寄ったら其様な事を機会にして他へ見せてくんろという事ではないかと思うと、誠に気が痛みやすな」 千「私も実は左様思っているの、それに就いて少しお前に相談があるからお母さまへ共々に願っておくれな、私が其のお薬を買うだけの手当を拵えますよ」 丹「拵えるたって無いものは仕様があんめえ」 千「そこが工夫だから、兎も角お母さまの処へ一緒に」  と枕元の屏風を開け、 千「もしお母様、二番が出来ましたから召上れ、少し詰って濃くなりましたから上り悪うございましょう、お忌ならば半分召上れ、あとの滓のあります所は私が戴きますから」 母「此の娘は詰らんことを云う、達者な者がお薬を服べて何うする、私は幾ら浴るほどお薬を飲んでも効験がないからいけないよ、私はもう死ぬと諦らめましたから、お前其様に薬を勧めておくれでない」 千「あら、またお母さまはあんな事ばかり云っていらっしゃるんですもの、御病気は時節が来ないと癒りませんから、私は一生懸命に神さまへお願掛けをして居ますが、あなた世間には七十八十まで生きます者は幾許も有りますよ」 母「いゝえ私は若い時分に苦労をしたものだからの、それが矢張り身体に中っているのだよ」 千「あの爺やが参りましたよ」 母「おゝ丹治、此方へ入っておくれ」 丹「はい御免なせえまし、何うでござえますな、些とは胸の晴る事もござえますかね、お嬢さんも心配しておいでなさいますから、能くお考えなせえまし、併しま旧が旧で、あゝいう生活をなすった方が、急に此様な片田舎へ来て、私のような者を頼みに思って、親一人子一人で僅かな畠を持って仕つけもしねえ内職をしたりして斯うやって入らっしゃるだから、あゝ詰らねえと昔を思って気を落すところから御病気になったものと考えますが、私だって貧乏だから金ずくではお力になれませんが、以前はあなたの処へ奉公した家来だアから、何うかして御病気の癒るように蔭ながら信心をぶって居りますが、お嬢さまの心配は一通りでないから、我慢してお薬を上んなせえまし」 母「有難う、お前の真実は忘れません、他にも以前勧めたものは幾許もあるが、お前のように末々まで力になってくれる人は少ない、私は死んでも厭いはないけれども、まだ十九や廿歳の千代を後に残して死ぬのはのう……」 丹「あなた、然う死ぬ死ぬと云わねえが宜うごぜえます、幾ら死ぬたって死なれません、寿命が尽きねえば死ねるもんではねえから、どうも然う意地の悪い事ばかり考えちゃア困りますなア、死ぬまでも薬を」 千「何だよう、死ぬまでもなんて、そんな挨拶があるものか」 丹「はい御免なせえまし、それじゃア、死なねえまでもお上んなせえ」 千「お前もう心配しておくれでない」 丹「はい」 千「お母さま、あの先刻桑田さまが仰しゃいました人参のことね」 母「はい聞いたよ」 千「あれをあなた召上れな、人参という物は、なに其様に飲みにくいものでは有りませんと、少し甘味がありまして」 母「だってお前、私は飲みたくっても、一箱が大金という其様なお薬が何うして戴かれますものか」 千「その薬をあなた召上るお気なら、私が才覚して上げますが……」 母「才覚たってお前、家には売る物も何も有りゃアしないもの」 千「私をあのう隣村の東山作左衞門という郷士の処へ、道具係の奉公に遣って下さいましな」  其の時母は皺枯れたる眉にいとゞ皺を寄せまして、 母「お前、飛んでもない事をいう、丹治お前も聞いて知ってるだろうが、作左衞門の家では道具係の奉公人を探していて、大層給金を呉れる、其の代りに何とかいう宝物の皿を毀すと指を切ると云う話を聞いたが、本当かの」 丹「えゝ、それは本当でごぜえます、旧の公方さまから戴いた物で、家にも身にも換えられねえと云って大事にしている宝だから、毀した者は指を切れという先祖さまの遺言状が伝わって居るので、指を切られた奴が四五人あります」 母「おゝ怖いこと、其様な怖い処へ此の娘を奉公に遣られますかね、とても遣られませんよ、何うして怖ない、皿を毀した者の指を切るという御遺言だか何だか知らんけれども、其の皿を毀したものゝ指を切るなんぞとは聞いても慄とするようだ、何うして〳〵、人の指を切ると云うような其様な非道の心では、平常も矢張り酷かろう、其様な処へ奉公がさせられますものか、痩せても枯れても遠山龜右衞門の娘じゃアないか、幾許零落ても、私は死んでも生先の長いお前が大切で私は最う定命より生延びている身体だから、私の病気が癒ったって、お前が不具になって何うしましょう、詰らぬ事を云い出しましたよ、苦し紛れに悪い思案、何うでも私は遣りませんよ」 千「然うではありましょうけれども、なに気を附けたら其様な事は有りますまい、私も宜く神信心をして丁寧に取扱えば、毀れるような事はありますまいと存じますからねお母さま、私は一生懸命になりまして奉公を仕遂せ、其の中あなたの御病気が御全快になれば、私が帰って来て、御一緒に内職でもいたせば誠に好い都合じゃアございませんか、何卒遣って下さいまし、ねえお母さま、あなた私の身をお厭いなすって、あなたに万一の事でも有りますと、矢張り私が仕様がないじゃア有りませんか」 母「はい、有難うだけれども遣れません、亡ったお父さんのお位牌に対して、私の病を癒そうためにお前を其様な恐ろしい処へ奉公に遣って済むものじゃアない、のう丹治」 丹「へえ、あんたの云う事も道理でごぜえます、これは遣れませんな」 千「だけども爺や、お母さんの御病気の癒らないのを見す〳〵知って、安閑として居られる訳のものではないから、私は奉公に往き仮令粗相で皿を一枚毀した処が、小指一本切られたって命にさわるわけではなし、お母さまの御病気が癒った方が宜いわけじゃアないか」 丹「うん、これは然うだ、然う仰しゃると無理じゃアない、棄置けば死ぬと云うものを、あなたが何う考えても打棄って置かれねえが、成程是れは奉公するも宜うごぜえましょう」 母「お前馬鹿な事ばかり云っている、私が此の娘を其様な処へ遣られるか遣られないか考えて見なよ、指を切られたら肝心な内職が出来ないじゃアないか、此の困る中で猶々困ります、遣られませんよ」 丹「成程是れはやれませんな、何う考えても」 千「あらまア、あんな事を云って、何方へも同じような挨拶をしては困るよ」 丹「へえ、是れは何方とも云えない、困ったねえ…じゃア斯うしましょう、私がの媼を何卒お頼ん申します、私がお嬢さまの代りに奉公に参りまして、私が其の給金を取りますから、お薬を買って下せえまし」 千「女でなければいけない、男は暴々しくて度々毀すから女に限るという事は知れて居るじゃアないか」 丹「然うだね、男じゃア毀すかも知れねえ、私等は何うも荒っぽくって、丼鉢を打毀したり、厚ぼってえ摺鉢を落して破った事もあるから、困ったものだアね」 千「お母さん、何卒やって下さいまし」  と幾度も繰返しての頼み、段々母を説附けまして丹治も道理に思ったから、 丹「そんならばお遣んなすった方が宜かろう」  と云われて、一旦母も拒みましたが、娘は肯かず、殊に丹治も倶々勧めますので、仕方がないと往生をしました。幸い他に手蔓が有ったから、縁を求めて彼の東山作左衞門方へ奉公の約束をいたし、下男の丹治が受人になりまして、お千代は先方へ三ヶ年三十両の給金で住込む事になりましたのは五月の事で、母は心配でございますが、致し方がないので、泣く〳〵別れて、さて奉公に参って見ると、器量は佳し、起居動作物の云いよう、一点も非の打ち処がないから、至極作左衞門の気に入られました。         三  作左衞門はお千代の様子を見まして、是れならば手篤く道具を取扱ってくれるだろう、誠に落着いてゝ宜い、大切な物を扱うに真実で粗相がないから宜いと、大層作左衞門は目をかけて使いました。此の作左衞門の忰は長助と申して三十一歳になり、一旦女房を貰いましたが、三年前に少し仔細有って離別いたし、独身で居ります所が、お千代は何うも器量が好いので心底から惚れぬきまして真実にやれこれ優しく取做して、 長「あれを買ってお遣んなさい、見苦しいから彼の着物を取換えて、帯を買ってやったら宜かろう」  などと勧めますと、作左衞門も一人子の申すことですから、其の通りにして、お千代〳〵と親子共に可愛がられお千代は誠に仕合せで丁度七月のことで、暑い盛りに本山寺という寺に説法が有りまして、親父が聴きに参りました後で、奥の離れた八畳の座敷へ酒肴を取り寄せ、親父の留守を幸い、鬼の居ないうちに洗濯で、長助が、 長「千代や〳〵、千代」  と呼びますから、 千「はい若殿様、お呼び遊ばしましたか」 長「一寸来い、〳〵、今一盃やろうと云うんだ、お父さんのお帰りのない中に、今日はちとお帰りが遅くなるだろう、事に寄ると年寄の喜八郎の処へ廻ると仰しゃったが村の年寄の処へ寄れば話が長くなって、お帰りも遅くなろう、ま酌をして呉れ」 千「はい、お酌を致します」 長「手襷を脱んなさい、忙がしかろうが、何もお前は台所を働かんでも、一切道具ばかり取扱って居れば宜いんだ」 千「あの大殿様がお留守でございますから宜いお道具は出しませんで、粗末と申しては済みませんが、皆此の様な物で宜しゅうございますか」 長「酌は美女、食物は器で、宜い器でないと肴が旨く喰えんが、酌はお前のような美しい顔を見ながら飲むと酒が旨いなア」 千「御冗談ばかり御意遊ばします」 長「酔わんと極りが悪いから酔うよ」 千「お酔い遊ばせ、ですが余り召上ると毒でございますよ」 長「まだ飲みもせん内から毒などと云っちゃア困るが、実にお前は堅いねえ」 千「はい、武骨者でいけません」 長「いや、お父さんがお前を感心しているよ、親孝行で、何を見ても聞いても母の事ばかり云って居るって、併しお前のお母の病気も追々全快になると云う事で宜いの」 千「はい、御当家さまのお蔭で人参を飲みましたせいか、段々宜しくなりまして、此の程病褥を離れましたと丹治がまいっての話でございますが、母が申しますに、其方のような行届きません者を置いて下さるのみならず、お目を掛けて下さいまして、誠に有難いことで、種々戴き物をしたから宜しく申上げてくれと申しました」 長「感心だな、お前は出が宜いと云うが………千代〳〵千代」 千「はい」 長「どうも何だね、お前は十九かえ」 千「はい」 長「ま一盃酌いで呉んな」 千「お酌を致しましょう」 長「半分残してはいかんな、何うだ一盃飲まんか」 千「いえ、私は些とも飲めません、少し我慢して戴きますと、顔が青くなって身体が震えます」 長「その震える処がちょいと宜しいて、私は酔いますよ、お前は色が白いばかりでなく、頬の辺眼の縁がぼうと紅いのう」 千「はい、少し逆上せて居りますから」 長「いや逆上ではない、平常から其の紅い処が何とも言われん」 千「御冗談ばっかり……」 長「冗談じゃアない、全くだ、私は三年前に家内を離別したて、どうも心掛けの善くない女で、面倒だから離縁をして見ると、独身で何かと不自由でならんが、お前は誠に気立が宜しいのう」 千「いゝえ、誠に届きませんでいけません」 長「此の間私が……あの…お前笑っちゃア困るが、少しばかり私が斯う五行ほどの手紙を、……認めて、そっとお前の袂へ入れて置いたのを披いて読んでくれたかね」 千「左様でございましたか、一向存じませんで」  長助は少し失望の体で、 長「左様でございますかなどゝ、落着き払っていては困る、親に知れては成らん、知っての通り親父は極堅いので、あの手紙を書くにも隠れて漸う二行ぐらい書くと、親父に呼ばれるから、筆を下に置いて又一行書き、終いの一行は庭の植込みの中で書きましたが、蚊に喰われて弱ったね」         四 千「それはまアお気の毒さま」 長「なに全くだよ、親父に知れちゃア大変だから、窃とお前の袂へ入れたが、見たろう〳〵」 千「いゝえ私は気が附きませんでございました、何だか私の袂に反古のようなものが入って居ましたが、私は何だか分りませんで、丸めて何処かへ棄てましたよ」 長「棄てちゃア困りますね、他人が見るといけませんな」 千「そんな事とは存じませんもの、貴方はお手紙で御用を仰付けられましたのでございますか」 長「仰付けられるなんて馬鹿に堅いね、だがね、千代〳〵」 千「何でございます」 長「実はね私はお前に話をして、嫁に貰いたいと思うが何うだろう」 千「御冗談ばっかり御意遊ばします、私の母は他に子と申すがありませんから、他家へ嫁にまいる身の上ではございません、貴方は衆人に殿様と云われる立派なお身の上でお在遊ばすのに、私のようなはしたない者を貴方此様な不釣合で、釣合わぬは不縁の元ではございませんか、お家のお為めに成りません」 長「なに家の為めになってもならんでも不釣合だって、私は妻を定むるのに身分の隔てはない事で、唯お前の心掛けを看抜いて、此の人ならばと斯う思ったから、実はお前に心のたけを山々書いて贈ったのである、然も私は丹誠して千代尽しの文で書いて贈ったんだよ」 千「何でございますか私は存じませんもの」 長「存じませんて、私の丹誠したのを見て呉れなくっちゃア困りますなア、どうかお前の母に会って、母諸共引取っても宜しいや」 千「私の母は冥加至極有難いと申しましょうけれども、貴方のお父様が御得心の有る気遣いはありますまい、私のようなはしたない者を御当家さまの嫁に遊ばす気遣いはございませんもの」 長「いえ、お前が全く然う云う心ならば、私は親父に話をするよ、お前は大変親父の気に入ってるよ、どうも沈着があって、器量と云い、物の云いよう、何や角や彼れは別だと云って居るよ」 千「なに、其様な事を仰しゃるものですか」 長「なに全く然う云ってるよ、宜いじゃアないか、ね千代〳〵千代」  と雀が出たようで、無理無態にお千代の手を我膝へグッと引寄せ、脇の下へ手を掛けようとすると、振払い。 千「何をなさいます、其様な事を遊ばしますと、私は最うお酌にまいりませんよ」 長「酔った紛れに、少しは酒の席では冗談を云いながら飲まんと面白うないから、一寸やったんだが、どうもお前は堅いね、千代〳〵」 千「はい最うお酌を致しますまいと思います、最うお止し遊ばせ、お毒でございますよ」 長「千代〳〵」 千「また始まりました」 長「親さえ得心ならば何も仔細はあるまい、何うだ」 千「そうではありますが、まア若殿様、私の思いますには、夫婦の縁と云うものは仮令親が得心でも、当人同志が得心でない事は夫婦に成れまいかと思います」 長「それは然うさ、だがお前さえ得心なら宜いが、いやなら否と云えば、私も諦めが附こうじゃアないか」 千「私のような者を、私の口から何う斯うとは申されませんものを、余り恐入りまして」  其の時お千代は身を背けまして、 千「何とも申上げられませんものを、余り恐入りまして」 長「恐入らんでも宜しいさ、お母さえ得心なら、母諸共此方へ引取って宜しい、もし窮屈で否ならば、聊か田地でも買い、新家を建って、お母に下婢の一人も附けるくらいの手当をして遣ろうじゃアないか。此の家は皆私のもので、相続人の私だから何うにもなるから、お前さえ応と云えば、お母に話をして安楽にして遣ろうじゃアないか、若しお母は堅いから遠山の苗字を継ぐ者がないとでもいうなら、夫婦養子をしたって相続人は出来るから、お前が此方へ来ても仔細ないじゃアないか」 千「それは誠に結構な事で」 長「結構なれば然うしてくれ」 千「お嬉しゅうは存じますが」 長「さ、早くお父さまの帰らん内に応と云いな、酔った紛れにいう訳じゃアない、真実の事だよ」 千「私は貴方に対して申上げられませんものを、御主人さまへ勿体なくって……」 長「何も勿体ない事は有りませんから早く云いなさいよ」 千「恐入ります」 長「其様なに羞かしがらんでも宜しいよ」 千「貴方私のような卑しい者の側へお寄り遊ばしちゃアいけません、私が困ります、そうして酒臭くって」 長「ね千代〳〵千代」 千「それじゃア貴方、本当に私が思う心の丈を云いましょうか」 長「聞きましょう」 千「それじゃア申しますが、屹度、…身分も顧りみず大それた奴だと御立腹では困ります」 長「腹などは立たんからお云いよ、大それたとは思いません、小それた位に思います、云って下さい」 千「本当に貴方御立腹はございませんか」 長「立腹は致しません」 千「それなれば本当に申上げますが、私は貴方が忌なので……」 長「なに忌だ」 千「はい、私はどうも貴方が忌でございます、御主人さまを忌だなどと云っては済みませんけれども、真底私は貴方が忌でございます、只御主人さまでいらっしゃれば有難い若殿さまと思って居りますが、艶書をお贈り遊ばしたり、此の間から私にちょい〳〵御冗談を仰しゃることもあって、それから何うも私は貴方が忌になりました、どうも女房に成ろうという者の方で否では迚も添われるものじゃアございませんから、素より無い御縁とお諦め遊ばして、他から立派なお嫁をお迎えなすった方が宜しゅうございましょう、相当の御縁組でないと御相続の為になりませんから、確とお断り申しますよ」 長「誠にどうも……至極道理……」  と少しの間は額へ筋が出て、顔色が変って、唇をブル〳〵震わしながら、暫く長助が考えまして、 長「千代、至極道理だ、最う千代〳〵と続けては呼ばんよ、一言だよ、成程何うもえらい、賢女だ、成程どうも親孝心、誠に正しいものだ、心掛けと云い器量と云い、余り気に入ったから、つい迷いを起して此様な事を云い掛けて、誠に羞入った、再び合す顔はないけれども、真に思ったから云ったんだよ、併しお前に然う云われたから諦めますよ確と断念しましたが、おまえ此のことを世間へ云ってくれちゃア困りますよ、私は親父に何様な目に遇うか知れない、堅い気象の人だから」 千「私は世間へ申す処じゃア有りませんが、あなたの方で」 長「私は決して云わんよ、云やア自ら恥辱を流布するんだから云いませんが、あゝ……誠に愧入った、此の通り汗が出ます、面目次第もない、何卒堪忍して下さい」 千「恐入ります、是れから前々通り主家来、矢張千代〳〵と重ねてお呼び遊ばしまして、お目をお掛け遊ばしまして……」 長「そう云う事を云うだけに私は誠に困りますなア」 千「誠に恐入ります、大旦那さまのお帰り遊ばしません内に、お酒の道具を隠しましょうか」 長「あゝ仕舞っておくれ〳〵」 千「はい」  とそれ〴〵道具を片附けましたが、是れから長助が憤ってお千代につれなく当るかと思いました処、情なくも当りませんで、尚更宜く致しまして、彼の衣類は汚い、九月の節句も近いから、これを拵えて遣るが宜いと、手当が宜いので、お千代もあゝーお諦めになったか、有難い事だ、あんな事さえないと結構な旦那様であると一生懸命に奉公を致しますから、作左衞門の気にも入られて居りました。月日流るゝが如くで、いよ〳〵九月の節句と成りました。粂野美作守の重役を七里先から呼ばんければなりません、九の字の付く客を二九十八人招待を致し、重陽を祝する吉例で、作左衞門は彼の野菊白菊の皿を自慢で出して観せます。美作守の御勘定奉行九津見吉左衞門を初め九里平馬、戸村九右衞門、秋元九兵衞其の他御城下に加賀から九谷焼を開店した九谷正助、菊橋九郎左衞門、年寄役村方で九の字の附いた人を合せて十八人集めまして、結構な御馳走を致し、善い道具ばかり出して、頻りに自慢を致します事で、実に名器ばかりゆえ、客は頻りに誉めます。此の日道具係の千代は一生懸命に、何卒無事に役を仕遂せますようにと神仏に祈誓を致して、皿の毀れんように気を附けましたから、麁相もなく、彼の皿だけは下ってまいります。自分は蔵前の六畳の座敷に居って、其処に膳棚道具棚がありますから、口分をして一生懸命に油汗を流して、心を用い働いて、無事に其の日のお客も済んで、翌日になりますと、作左衞門が、 作「千代」 千「はい」 作「昨日は大きに御苦労であった、無事にお客も済んだから、今日は道具を検めなければならん」 千「はい、お番附のございますだけは大概片付けました」 作「うむ、皿は一応検めて仕舞わにゃならん、何かと御苦労で、嘸骨が折れたろう」 千「私は一生懸命でございました」 作「然うであったろう、此の通り三重の箱になってるが、是は中々得難い物だよ、何処へ往ったって見られん、女で何も分るまいが、見て置くが宜い」 千「はい、誠に結構なお道具を拝見して有難い事で」 作「一応検めて見よう」  と眼鏡をかけて段々改めて、 作「あゝー先ず無事で安心を致した、是れは八年前に是れだけ毀したのを金粉繕いにして斯うやってある、併し残余は瑕物にしてはならんから、どうかちゃんと存して置きたい、是れだけ破った奴があって、不憫にはあったが、何うも許し難いから私は中指を切ろうと思ったが、それも不憫だから皆な無名指を切った」 千「怖い事でございます、私は此のお道具を扱いますとはら〳〵致します」 作「是れは無い皿だよ、野菊と云って野菊の色のように紫がゝってる処で此の名が有るのじゃ、種々先祖からの書附もあるが、先ず無事で私も安心した」  と正直な堅い人ゆえ、検めて道具棚へ載せて置きました。すると長助が座敷の掛物を片附けて、道具棚の方へ廻って参いりました。 長「お父さま」 作「残らず仕舞ったか」 長「お軸物は皆仕舞いました」 作「客は皆道具を誉めたろう」 長「大層誉めました、此の位の名幅を所持している者は、此の国にゃア領主にも有るまいとの評判で、お客振りも甚く宜しゅうございました」 作「皆良い道具が見たいから来るんだ、只呼んだって来るものか、権式振ってゝ、併し土産も至極宜かったな」 長「はい、お父様、あの皿を今一応お検めを願います、野菊と白菊と両様共お検めを願います」 作「彼は先刻検めました」 長「お検めでございましょうが、少し訝しい事が有りますと云うは棚の脇に蒟蒻糊が板の上に溶いて有って、粘っていますから、何だか案じられます、他の品でありませんから、今一応検めましょうかね、秋、お前たちは其方へ往きなさい、金造、裏手の方を宜く掃除して置け、喜八、此方へ参らんようにして、最う大概蔵へ仕舞ったか、千代や」 千「はい〳〵はい」 長「先刻お父さんがお検めになったそうだが、彼の皿を此処へ持って来い」 千「はい、先刻お検めになりました」 長「検めたが、一寸気になるから今一応私が検めると云うは、祝いは千年だが、お父さまのない後は家の重宝で、此の品は私が守護する大事な宝物だから、私も一応検めます」 千「大旦那さまがお検めになりまして、宜しい、少しも仔細ないと御意遊ばしましたのに、貴方何う云う事でお検めになります」 長「先程お父さまがお検めになっても、私は私で検めなければ気が済まん」 千「何う云う事で」 長「何う云う事なんてとぼけるな、千代汝は皿を割ったの」         五  お千代は呆れて急に言葉も出ませんでしたが、 千「何うもまア思い掛けない事を仰しゃいます私は割りました覚えはございません、ちゃんと一々お検めになりまして、後は柔かい布巾で拭きまして、一々彼の通り包みまして、大殿様へ御覧に入れました」 長「いや耄けるなそんなら如何の理由で棚に糊付板が有るのだ」 千「あれはお箱の蓋の棧が剥れましたから、米搗の權六殿へ頼みまして、急拵えに竹篦を削って打ってくれましたの」 長「耄けるな、其様なことを云ったって役には立たん、巧く瞞かそうたって、然うはいかんぞ、此方は確と存じておる、これ千代、其の方が怪しいと認めが附いて居ればこそ検めなければならんのだ早く箱を持って来い〳〵」  と云われてお千代はハッとばかりに驚きましたが、何ゆえ長助が斯様なことを云うのか分りませんでしたが、彼の通り検めたのを毀したと云うのは変だなと考えて、よう〳〵思い当りましたのは、先達て愛想尽しを云った恨みが、今になって出て来たのではないか、何事も無ければ宜いがと怖々にお千代が野菊白菊の入った箱を長助の眼の前へ差出しますと、作左衞門が最前検めて置いた皿の毀れる気遣いはない、忰は何を云うのかと存じて居りますと、長助は顔色を変えて、 長「これ千代、それ道具棚にある糊付板を此処へ持って来い……さ何う云う訳で此板を道具棚へ置いた」 千「はい、只今申上げます通り、あのお道具の箱の棧が剥れましたから、打附けて貰おうと存じますと、米搗の權六が己が附けて遣ろうと申して附けてくれましたので」 長「いゝや言訳をしたって役には立たん、其の箱の紐をサッサと解け」 千「そうお急ぎなさいますと、また粗相をして毀すといけませんもの」 長「汝が毀して置きながら、又其様なこと申す其の手はくわぬぞ、私が箱から出す、さ此処へ出せ」 千「あなた、お静かになすって下さいまし、暴々しく遊ばして毀れますと矢張り私の所為になります」 作「これこれ長助、手暴くせんが宜い、腹立紛れに汝が毀すといかんから、矢張り千代お前検めるが宜い」 千「はい〳〵」  と是れから野菊の箱の紐を解いて蓋を取り、一枚〳〵皿を出しまして長助の眼の前へ列べまして。 千「御覧遊ばせ、私が先刻検めました通り瑾は有りゃアしません」 長「黙れ、毀した事は先刻私が能く見て置いたぞ、お父さま、迂濶りしてはいけません、此者は中々油断がなりません、さ、早く致せ」 千「其様なに仰しゃったって、慌てゝ不調法が有るといけません、他のお道具と違いまして、此品が一枚毀れますと私は不具になりますから」 長「不具になったって、受人を入れて奉公に来たんじゃアないか、さ早く致せ」 千「早くは出来ません」  と申して検めに掛りましたが、急がれる程尚おおじ〳〵致しますが、一生懸命に心の内に神仏を念じて粗相のないようにと元のように皿を箱に入れてしまい、是れから白菊の方の紐を解いて、漸々三重箱迄開け、布帛を開いて皿を一枚ずつ取出し、検めては布帛に包み、ちゃんと脇へ丁寧に置き、 千「是で八枚で、九枚で十枚十一枚十二枚十三枚十四枚十五枚十六枚」  と漸々勘定をして十九枚と来ると、二十枚目がポカリと毀れて居たから恟り致しました。 千「おや……お皿が毀れて居ります」 長「それ見ろ、お父様御覧遊ばせ、此の通り未だ粘りが有ります此の糊で附着けて瞞かそうとは太い奴では有りませんか」 千「いえ、先程大殿様がお検めになりました時には、決して毀れては居りません」 長「何う仕たって此の通り毀れて居るじゃアないか」 千「先刻は何とも無くって、今毀れて居るのは何う云う訳でしょう」 作「成程斯う云う事があるから油断は出来ない、これ千代毀りようも有ろうのに、ちょっと欠いたとか、罅が入った位ならば、是れ迄の精勤の廉を以て免すまいものでもないが、斯う大きく毀れては何うも免し難い、これ、何は居らんか、何や、何やでは分らん、おゝそれ〳〵辨藏、手前はな、千代の受人の丹治という者の処へ直に行ってくれ、余り世間へぱっと知れん内に行ってくれ、千代が皿を毀したから証文通りに行うから、念のために届けると云って、早く行って来い」 辨「へえ」  と辨藏は飛んで行って、此のことを気の毒そうに話をすると、丹治は驚きまして、母の処へ駈込んでまいり。 丹「御新造さまア……」 母「おや丹治か、先刻は誠に御苦労、お蔭で余程宜いよ」 丹「はっ〳〵、誠にはや何ともどうも飛んだ訳になりました」 母「ドヽ何うしたの」 丹「へえ、お嬢様が皿ア割ったそうで」 母「え……丹治皿を彼が……」 丹「へえ、只今彼家の奉公人が参りまして、お千代どんが皿ア割っただ、汝受人だアから何ぼ証文通りでも断りなしにゃア扱えねえから、ちょっくら届けるから、立合うが宜いと云って来ました、私が考えますに、先方はあゝ云う奴だから、詫びたっても肯くまいと思って、私が急いでお知らせ申しに来やしたが、お嬢さまが彼家へ住込む時、虫が知らせましたよ、門の所まで私送り出して来たアから、貴方皿ア割っちゃアいけないよと云ったら、お嬢様が余程薄いもんだそうだし、原土で拵えたもんだから割れないとは云えないから、それを云ってくれちゃア困るよと仰しゃいましたが、何とまア情ねえ事になりましたな、どうか詫をして見ようかと思います」 母「それだから私が云わない事じゃアない、彼の娘を不具者にしちゃア済まないから、私も一緒に連れてっておくれ」 丹「連れて行けたって、あんた歩けますまい」 母「歩けない事もあるまい、一生懸命になって行きますよ、何卒お願いだから私の手を曳いて連れてっておくれ」 丹「だがはア、是れから一里もある処で、なか〳〵病揚句で歩けるもんじゃアねえ」 母「私は余り恟りしたんで腰が脱けましたよ」 丹「これはまア仕様がねえ、私まで腰が脱けそうだが、あんた腰が脱けちゃア駄目だ」 母「何卒お願いだから……一通り彼の心術を話し、孝行のために御当家さまへ奉公に来たと、次第を話して、何処までも私がお詫をして指を切られるのを遁れるようにしますから、丹治誠にお気の毒だが、負っておくれな」 丹「負ってくれたって、ちょっくら四五丁の処なれば負って行っても宜いが……よし〳〵宜うごぜえます、私も一生懸命だ」  と其の頃の事で人力車はなし、また駕籠に乗るような身の上でもないから、丹治が負ってせっせと参りました。此方は最前から待ちに待って居ります。 作「早速庭へ通せ」  という。百姓などが殿様御前などと敬い奉りますから、益々増長して縁近き所へ座布団を敷き、其の上に座して、刀掛に大小をかけ、凛々しい様子で居ります。両人は庭へ引出され。 丹「へえ御免なせえまし、私は千代の受人丹治で、母も詫びことにまいりました」 作「うむ、其の方は千代の受人丹治と申すか」 丹「へえ、私は年来勤めました家来で、店請致して居る者でごぜえます」 作「うん、其処へ参ったのは」 母「母でございます」  と涙を拭きながら、 「娘が飛んだ不調法を致しまして御立腹の段は重々御尤さまでござりますが、何卒老体の私へお免じ下さいまして、御勘弁を願いとう存じます」 作「いや、それはいかん、これはその先祖伝来の物で、添書も有って先祖の遺言が此の皿に附いて居るから、何うも致し方がない、切りたくはないけれども御遺言には換えられんから、止むを得ず指を切る、指を切ったって命に障る訳もない、中程から切るのだから、何も不自由の事もなかろう」 母「はい、でございますけれども、此の千代は親のために御当家様へ御奉公にまいりましたので、と申すは、私が長煩いで、人参の入った薬を飲めば癒ると医者に申されましたが、長々の浪人ゆえ貧に迫って、中々人参などを買う手当はございませんのを、娘が案じまして、御当家のお道具係を勤めさえすれば三年で三拾両下さるとは莫大の事ゆえ、それを戴いて私を助けたいと申すのを、私も止めましたけれども、此娘が強ってと申して御当家さまへ参りましたが、親一人子一人、他に頼りのないものでございます、今此娘を不具に致しましては、明日から内職を致すことが出来ませんから、何卒御勘弁遊ばして、私は此娘より他に力と思うものがございませんから」 長「黙れ〳〵、幾回左様な事を云ったって役に立たん、其のために前々奉公住みの折に証文を取り、三年に三拾金という給金を与えてある、斯の如く大金を出すのも当家の道具が大切だからだ、それを承知で証文へ判を押して奉公に来たのじゃアないか、それに粗相でゞもある事か、先祖より遺言状の添えてある大切の宝を打砕き、糊付にして毀さん振をして、箱の中に入れて置く心底が何うも憎いから、指を切るのが否なれば頬辺を切って遣る」 母「何卒御勘弁を……」  と泣声にて、 「顔へ疵が附きましては婿取前の一人娘で、何う致す事も出来ません」 長「指を切っては内職が出来んと云うから面を切ろうと云うんだ、疵が出来たって、後で膏薬を貼れば癒る、指より顔の方を切ってやろう」  と長助が小刀をすらりと引抜いた時に、驚いて丹治が前へ膝行り出まして、 丹「何卒お待ちなすって下せえまし」 長「何だ、退け〳〵」 丹「お前さまは飛んだお方だアよ」 長「何が飛んだ人だ」 丹「成程証文は致しやしただけれども、人の頬辺を切るてえなア無え事です」 長「手前は何のために受人に成って、印形を捺いた」 丹「印形だって、是程に厳しかアねえと思ったから、印形を捺きやした、ほんの掟で、一寸小指へ疵を附けるぐれえだアと思いやしたが、指を打切られると此の後内職が出来ません、と云って無闇に頬辺なんて、どう云うはずみで鼻でも落したらそれこそ大変だ、情ねえ事で、嬢さんの代りに私を切っておくんなせえ」 長「いや手前を切る約束の証文ではない、白痴た事を云うな、何のための受人だ」 丹「受人だから私が切られようというのだ」 長「黙れ、証文の表に本人に代って指を切られようと云う文面はないぞ、さ顔を切って遣る」  と丹治と母を突きのけ、既に庭下駄を穿いて下りにかゝるを、母は是れを遮り止めようと致すを、千代が、 千「お母様、是れには種々理由がありますんで、私が少し云い過ぎた事が有りまして、斯う云う事に成りまして済みませんが、お諦め遊ばして下さいまし、さア指の方は内職に障って母を養う事が出来ませんから顔の方を……」 長「うん、顔の方か、此方の所望だ」 作「これ〳〵長助、顔を切るのは止せ」 長「なに宜しい」 作「それはいかん、それじゃア御先祖の御遺言状に背く、矢張指を切れ〳〵、不憫にも思うが是れも致し方がない、従来切来ったものを今更仕方がない、併し長助、成丈指を短かく切ってやれ」 長「さ切ってやるから、己の傍へ来て手を出せ」 千「はい何うぞ……」 母「いえ〳〵私を切って下さいまし、私は死んでも宜い年でござります」 丹「旦那ア、私の指を五本切って負けておくんなせえ」 長「控えろ」  と今千代の腕を取って既に指を切りにかゝる所へ出て来た男は、土間で米を搗いていました權六という、身の丈五尺五六寸もあって、鼻の大きい、胸から脛へかけて熊毛を生し、眼の大きな眉毛の濃い、髯の生えている大の男で、つか〳〵〳〵と出て来ました。         六  此の時權六は、作左衞門の前へ進み出まして、 權「はい少々御免下さいまし、權六申上げます」 長「なんだ權六」 權「へえ、実は此の皿を割りました者は私だね」 長「なに手前が割った……左様な白痴たことを云わんで控えて居れ」 權「いや控えては居られやせん、よく考えて見れば見る程、あゝ悪い事をしたと私ゃア思いやした」 長「何を然う思った」 權「大殿様皿を割ったのは此の權六でがす」 作「え……其の方は何うして割った」 權「へえ誠に不調法で」 作「不調法だって、其の方は台所にばかり居て、夜は其の方の部屋へまいって寝るのみで、蔵前の道具係の所などへ参る身の上でない其の方が何うして割った」 權「先刻箱の棧が剥れたから、どうか繕ってくんろてえから、糊をもって私が繕ろうと思って、皿の傍へ参ったのが事の始まりでごぜえます」 千「權六さん、お前さんが割ったなどと……」 權「えーい黙っていろ」 丹「誠に有難うごぜえます、私は此の千代さんの家の年来の家来筋で、丹治と云う者で、成程是れは此の人が割ったかも知れねえ、割りそうな顔付だ」 權「黙って居なせえ、お前らの知った事じゃアない、えゝ殿様、誠に羞かしい事だが、此の千代が御当家へ奉公に参った其の時から、私は千代に惚れたの惚れねえのと云うのじゃアねえ、寝ても覚めても眼の前へちらつきやして、片時も忘れる暇もねえ、併し奥を働く女で、台所へは滅多に出て来る事はありやせんが、時々台所へ出て来る時に千代の顔を見て、あゝ何うかしてと思い、幾度か文を贈っちゃア口説いただアね」 長「黙れ、其の方がどうも其の姿や顔色にも愧じず、千代に惚れたなどと怪しからん奴だなア、乃で手前が割ったというも本当には出来んわ、馬鹿々々しい」 權「それは貴方、色恋の道は顔や姿のものじゃアねえ、年が違うのも、自分の醜い器量も忘れてしまって、お千代へばかり念をかけて、眠ることも出来ず、毎晩夢にまで見るような訳で、是程私が方で思って文を附けても、丸めて棄てられちゃア口惜しかろうじゃアござえやんせんか」 長「なんだ……お父さまの前を愧じもせんで怪しからん事をいう奴だ」  と口には云えど、是れは長助がお千代を口説いても弾かれ、文を贈っても返事を遣さんで恥かしめられたのが口惜しいから、自分が皿を毀したんであります。罪なきお千代に罪を負わせ、然うして他へ嫁に往く邪魔に成るようにお千代の顔へ疵を附けようとする悪策を權六が其の通りの事を申しましたから、長助は変に思いまして、 長「手前は全く千代に惚れたか」 權「え、惚れましたが、云う事を肯かねえから可愛さ余って憎さが百倍、嫁に行く邪魔をして呉れようと、九月のお節句にはお道具が出るから、其の時皿を打毀して指を切り不具にして生涯亭主の持てねえようにして遣ろうと、貴方の前だが考えを起しまして、皿検めの時に箱の棧が剥れたてえから、糊でもって貼けてやる振をして、下の皿を一枚毀して置いたから、先ず恋の意趣晴しをして嬉しいと思い、実は土間で腕を組んで悦んでいると、此の母さまが飛んで来て、私が病苦を助けてえと危え奉公と知りながら参って、人参とかを飲まそうと親のために指を切られるのも覚悟で奉公に来たアから、代りに私を殺して下せえ、切って下せえと子を思うお母の心も、親を助けてえというお千代の孝行も、聴けば聴く程、あゝー実に私ア汚ねえ根性であった、何故此様な意地の悪い心になったかと考えたアだね、私が是れを考えなければ狗畜生も同様でごぜえますよ、私ア人間だアから考えました、はアー悪い事をしたと思いやしたから、正直に打明けて旦那さまに話いして、私が千代に代って切られた方が宜いと覚悟をして此処え出やした、さアお切んなせえ、首でも何でもお切んなせえまし」 長「妙な奴だなア、手前それは全くか」 權「へえ、私が毀しやした」 作「成程長助、此者が毀したかも知れん、懺悔をして自分から切られようという以上は、然うせんければ宜しくない、併し久しく奉公して居るから、平生の気象も宜く知れて居るが、口もきかず、誠に面白い奴だと思っていた、殊に私に向って時々異見がましい口答えをする事もあり、正直者だと思って目を掛けていたが、他人の三層倍も働き、力も五人力とか、身体相応の大力を持っていて役にも立つと思っていたに、顔形には愧じず千代に恋慕を仕掛るとは何の事だ、うん權六」 權「はい誠に面目次第もない訳で、何卒私を………」 千「權六さん〳〵、お前私へ恋慕を仕掛けた事もないのに、私を助けようと思って然う云ってお呉れのは嬉しいけれども、それじゃア私が済みません」 權「えゝい、其様なことを云ったって、今日誠実を照す世界に神さまが有るだから、まア私が言うことを聞け」 長「いや、お父さまは何と仰しゃるか知らんが、どうも此の長助には未だ腑に落ちない事がある權六手前が毀したと云う何ぞ確な証拠が有るか」 權「えゝ、証拠が有りやすから、其の証拠を御覧に入れやしょう」 長「ふむ、見よう」 權「へえ只今……」  と云いながら、立って土間より五斗張の臼を持ってまいり、庭の飛石の上にずしーりと両手で軽々と下したは、恐ろしい力の男であります。 權「これが証拠でごぜえます」  と白菊の皿の入った箱を臼の中へ入れました。 長「何を致す〳〵」 權「なに造作ア有りません」  と何時の間に持って来たか、杵の大きいのを出して振上げ、さくーりっと力に任せて箱諸共に打砕いたから、皿が微塵に砕けた時には、東山作左衞門は驚きました。其処に居りました者は皆顔を見合せ、呆気に取られて物をも云わず、 一同「むむう……」  作左衞門は憤ったの憤らないのでは有りません。突然刀掛に掛けて置いた大刀を提げて顔の色を変え、 作「不埓至極の奴だ、汝気が違ったか、飛んだ奴だ、一枚毀してさえ指一本切るというに、二十枚箱諸共に打砕くとは……よし、さ己が首を斬るから覚悟をしろ」  と詰寄せました。權六は少しも憶する気色もなく、縁側へどっさり腰をかけ、襟を広げて首を差し伸べ、 權「さ斬って下せえ、だが一通り申上げねばなんねえ事があるから、是れだけ聞いて下せえ、逃げも隠れもしねえ、私ゃア米搗の權六でござえます、貴方斬るのは造作もねえが、一言云って死にてえことがある」  と申しました。         七  さて權六という米搗が、東山家に数代伝わるところの重宝白菊の皿を箱ぐるみ搗摧きながら、自若として居りますから、作左衞門は太く憤りまして、顔の色は変り、唇をぶる〳〵顫わし、疳癖が高ぶって物も云われん様子で、 作「これ權六、どうも怪しからん奴だて手前は何か気でも違ったか、狂気致したに相違ない、此皿は一枚毀してさえも指一本を切るという大切な品を、二拾枚一時に砕くというのは実に怪しからん奴だ、さ何ういう心得か、御先祖の御遺言状に対しても棄置かれん、只今此の処に於いて其の方の首を斬るから左様心得ろ、權六を取遁すな」  と烈しき下知に致方なく、家の下僕たちがばら〳〵〳〵と權六の傍へ来て見ますと、權六は少しも驚く気色もなく、縁側へどっさりと腰を掛けまして作左衞門の顔をしげ〳〵と見て居りましたが、 權「旦那さま、貴方は実にお気の毒さまでごぜえます」 作「なに……いよ〳〵此奴は狂気致して居る、手前気の毒ということを存じて居るかい、此の皿を二十枚砕くと云うのは……予て御先祖よりの御遺言状の事も少しは聞いているじゃアないか、仮令気違でも此の儘には棄置かんぞ」 權「はい、私ア気も違いません、素より貴方さまに斬られて死ぬ覚悟で、承知して大事のお皿を悉皆打毀しました、もし旦那さま、私ア生国は忍の行田の在で生れた者でありやすが、少さい時分に両親が亡なってしまい、知る人に連れられて此の美作国へ参って、何処と云って身も定まりやしねえで居ましたが、縁有って五年前当家へ奉公に参りまして、長え間お世話になり、高え給金も戴きました、お側にいて見れば、誠にどうも旦那さまは衆人にも目をかけ行届きも能く、どうも結構な旦那さまだが、此の二十枚の皿が此処の家の害だ、いや腹アお立ちなさるな、私は逃匿れはしねえ、素より斬られる覚悟でした事だが、旦那さま、あんた此の皿はまア何で出来たものと思召します、私ア土塊で出来たものと考えます、それを粗相で毀したからとって、此の大事な人間の指い切るの、足い切るのと云って人を不具にするような御遺言状を遺したという御先祖さまが、如何にも馬鹿気た訳だ」 作「黙れ、先祖の事を悪口申し、尚更棄置かんぞ」 權「いや棄置かねえでも構わねえ、素より斬られる覚悟だから、併し私だって斬られめえと思えば、あんた方親子二人がゝりで斬ると云っても、指でも附けさせるもんじゃアねえ、大けい膂力が有るが、御当家へ米搗奉公をしていて、私ア何も知んねえ在郷もんで、何の弁別も有りやしねえが、村の神主さまのお説教を聴きに行くと、人は天が下の霊物で、万物の長だ、是れより尊いものは無い、有情物の主宰だてえから、先ず禁裏さまが出来ても、お政治をなさる公方様が出来ても、此の美作一国の御領主さまが出来やしても、勝山さまでも津山さまでも、皆人間が御政治を執るのかと私は考えます、皿が政治を執ったてえ話は昔から聞いた事がねえ、何様な器物でも人間が発明して拵えたものだ、人間が有ればこそ沼ア埋めたり山ア掘崩したり、河へ橋を架けたり、田地田畠を開墾するから、五〓(「穀」の「禾」に代えて「釆」)も実って、貴方様も私も命い継いで、物を喰って生きていられるだア、其の大事なこれ人間が、粗相で皿ア毀したからって、指を切って不具にするという御先祖様の御遺言を守るだから、私ア貴方を悪くは思わねえ、物堅え人だが余り堅過ぎるだ、馬鹿っ正直というのだ、これ腹ア立っちゃアいけねえ〳〵、どうせ一遍腹ア立ってしまって、然うして私を打斬るが宜うがすが、それを貴方が守ってるから、此の村ばっかりじゃアない、近郷の者までが貴方の事を何と云う、あゝ東山は偉い豪士だが、家に伝わる大事な宝物だって、それを打毀せば指い切るの足い切るのって、人を不具にする非道な事をする、東山てえ奴は悪人だと人に謂わせるように、御先祖さまが遺言状を遺したアだね、然うじゃアごぜえませんか、乃でどうも私も奉公して居るから、人に主人の事を悪党だ非道だと謂われゝば余まり快くもごぜえません、御先祖さまの遺言が有るから、貴方はそれを守り抜いてゝ、証文を取って奉公させると、中には又喰うや喰わずで仕様がねえ、なに指ぐらい打切られたって、高え給金を取って命い継ごう、なに指い切ったってはア命には障らねえからって、得心して奉公に来て、つい粗相で皿を打毀すと、親から貰った大切な身体に疵うつけて、不具になるものが有るでがす、実にはア情ねえ訳だね、それも皆な此の皿の科で、此の皿の在る中は末代までも止まねえ、此の皿さえ無ければ宜いと私は考えまして、疾から心配していました、所で聞けば、お千代どんは齢もいかないのに母さまが塩梅が悪いって、良い薬を飲まねば癒らない、どうか母さまを助けたい、仮令指を切られるまでも奉公して人参を買うだけの手当をしてえと、親子相談の上で証文を貼り、奉公に来た者を今指い切られる事になって、誠にはア可愛そうにと思ったから、私が此の二十枚の皿を悉皆打砕いたが、二十人に代って私が一人死ねば、余の二十人は助かる、それに斯うやって大切な皿だって打砕けば原の土塊だ、金だって銀だって只形を拵えて、此の世の中の手形同様に取遣りをするだけの物と考えます、金だって銀だって人間程大切な物でなえから、お上でも人間を殺せば又其の人を殺す、それでも尚お助けてえと思う心があるので、何とやらさまの御法事と名を付けて助かる事もありやす、首を打斬る奴でも遠島で済ませると云うのも、詰り人間が大切だから、お上でも然うして下さるのだ、それを無闇に打斬るとは情ねえ話だ、あなたの御先祖さまは東山将軍義政さまから戴いた、東山という大切な御苗字だという事は米を搗きながら蔭で聞いて知って居ますが、あの東山は非道だ、土塊と人間と同じ様に心得ていると云われたら、其の東山義政のお名前までも汚すような事になって、貴方は済むめえかと考えますが、何卒して此の風儀を止めさせてえと思っても、他に工夫が無えから、寧そ禍の根を絶とうと打砕いてしまっただ、私一人死んで二十人助かれば本望でがす、私も若え時分には、心得違えもエラ有りましたが、漸く此の頃本山寺さまへ行って、お説法を聞いて、此の頃少し心も直って参りましたから、大勢の人に代って私一人死にます、どうか其の代り、お千代さんを助けてやって下せえまし、親孝行な此様な人は国の宝で土塊とは違います、さ私を斬って下せえまし、親戚兄弟親も何も無え身の上だから、別に心を置く事もありません、さ、斬っておくんなせえまし」  と沓脱石へピッタリ腰をかけ、領の毛を掻上げて合掌を組み、首を差伸ばしまして、口の中で、 權「南無阿弥陀仏〳〵〳〵〳〵〳〵〳〵〳〵」  斯る殊勝の体を見て、作左衞門は始めて夢の覚めたように、茫然として暫く考え、 作「いや權六許してくれ、どうも実に面目次第もない、能く毀してくれた、あゝ辱けない、真実な者じゃ、なアる程左様……これは先祖が斯様な事を書遺しておいたので、私の祖父より親父も守り、幾代となく守り来っていて、中指を切られた者が既に幾人有ったか知れん、誠に何とも、ハヤ面目次第もない、權六其方が無ければ末世末代東山の家名は素より、其方の云う通り慈昭院殿(東山義政公の法名)を汚す不忠不義になる所であった、あゝ誠に辱ない、許してくれ、權六此の通り……作左衞門両手を突いて詫るぞ、宜くマ思い切って命を棄て、私の家名を汚さんよう、衆人に代って斬られようという其の志、実に此の上もない感服のことだ、あゝ恥入った、実に我が先祖は白痴だ、斯様な事を書遺すというは、許せ〳〵」  と縁先へ両手をついて詫びますと、傍に聞いて居りました忰の長助が、何と思ったかポロリと膝へ涙を落して、權六の傍へ這ってまいりました。 長「權六、あゝー誠に面目次第もない、中々其方を殺すどころじゃアない、私が生きては居られん、お千代親子の者へ対しても面目ないから、私が死にます」  と慌てゝ短刀を引き抜き自害をしようとするから、權六が驚いて止めました。         八  權六は長助の顔を視つめまして、 權「貴方何をなさりやアす」 長「いや面目ないが、実は此の皿を毀したのはお父様、此の長助でございます」 作「なに……」 長「唯今此の權六に当付けられ、実に其の時は赤面致しましたけれども、誰も他に知る気遣いは有るまいと思いましたが、実はお千代に恋慕を云いかけたを恥しめられた恋の意趣、お千代の顔に疵を付け、他へ縁付の出来ぬようにと存じまして、家の宝を自分で毀し、其の罪を千代に塗付けようとした浅ましい心の迷い、それを權六が存じて居りながら、罪を自分の身に引受けて衆人を助けようという心底、実に感心致しました、それに引換え私の悪心面目もない事でございますから……」 作「暫く待て〳〵」 權「若旦那様、まゝお待ちなせえまし、貴方が然う仰しゃって下されば、權六は今首を打斬られても名僧智識の引導より有難く受けます、何卒お願えでごぜえますから私が首を……」 作「どう致して、手前は世の中の宝だ、まゝ此処へ昇ってくれ」  と是れから無理やりに權六の手を把って、泥だらけの足のまゝ畳の上へ上げ、段々お千代母子にも詫びまして、百両(此の時だから大したもので)取り出して台に載せ、 作「何卒此の事を世間へ言わんよう、内聞にしてくれ」  と云うと、母子とも堅いから金を受けません、それでは困ると云うと。 權「そんなら私が志しが有りますから、此のお金をお貰い申し、昨年から引続きまして、当御領地の勝山、津山、東山村の辺は一体に不作でごぜえまして、百姓も大分困っている様子でございますから、何うか施しを出したいものでがす、それに此の皿のために指を切られたり、中には死んだ者も有りましょうから、どうか本山寺様で施餓鬼を致し、乞食に施行を出したいと思います」 作「あゝ、それは感心な事で、入費の処は私も出そう」  と云うので、本山寺という寺へまいりまして、和尚さまに掛合いますと、方丈も大きに感心して、そんならばと、是れから大施餓鬼を挙げました。多分に施行も出しました事でございまして、彼の砕けた皿を後世のためにと云うので、皿山の麓方のこんもりとした小高き処へ埋めて、標しを建て、これを小皿山と名づけました。此の皿山は人皇九十六代後醍醐天皇、北條九代の執権相摸守高時の為めに、元弘二年三月隠岐国へ謫せられ給いし時、美作の国久米の皿山にて御製がありました「聞き置きし久米の皿山越えゆかん道とはさらにおもひやはせむ」と太平記に出てありますと、講談師の放牛舎桃林に聞きましたが、さて此の事が追々世間に知れて来ますと、他人が尊く思い、尾に尾を付けて云い囃します。時に明和の元年、勝山の御城主にお成りなさいました粂野美作守さまのお城普請がございまして、人足を雇い、お作事奉行が出張り、本山寺へ入らっしゃいまして方々御見分が有ります。其の頃はお武家を大切にしたもので、名主年寄始め役人を鄭重に待遇し、御馳走などが沢山出ました。話の序に彼の皿塚の事をお聞きになりまして、山川廣という方が感心なされて、 山「妙な奴もあるものだ、其の權六という者は何処に居る」  とお尋ねになりますと、名主が、 名「へえ、それは当時遠山と申す浪人の娘のお千代と云う者と夫婦になりまして、遠山の家名を相続して居ります、至って醜男で、熊のような、毛だらけな男でございますが、女房はそれは〳〵美くしい女で、權六は命の親なり、且其の気性に惚れて夫婦になりたいと美人から望まれ、即ち東山作左衞門が媒妁人で夫婦になり親子睦ましく暮して居ります、東山のつい地面内へ少しばかりの家を貰って住んで、農業を致し、親子の者が東山のお蔭で今日では豊かに暮して居ります」  と聞いて廣は猶々床しく思い、会いたいと申すのを名主が、 名「いえ中々一国もので、少しも人に媚る念がありませんから、今日直と申す訳には参りません」  というので、是非なく山川も一度お帰りになりまして、美作守さまの御前に於て、自分が実地を践んで、何処に何ういう事があり、此処に斯ういう事があったとお物語を致し、彼の權六の事に及びますと、美作守さま殊の外御感心遊ばされて、左様な者なら一大事のお役に立とうから召抱えて宜かろうとの御意がござりましたので、山川は早速作左衞門へ係ってまいりました。其の頃は御領主さまのお抱えと云っては有難がったもので、作左衞門は直に權六を呼びに遣わし、 作「是れは權六、来たかえ、さア此方へ入んな」 權「はい、ちょっくら上るんだが、誠に御無沙汰アしました、私も何かと忙しくってね」 作「此の間中お母さんが塩梅が悪いと云ったが、最う快いかね」 權「はい、此の時候の悪いので弱え者は駄目だね、あなた何時もお達者で結構でがす」 作「扨て權六、まア此の上もない悦び事がある」 權「はい、私もお蔭で喰うにゃア困らず、彼様心懸の宜い女を嚊にして、おまけに旦那様のお媒妁で本当は彼のお千代も忌だったろうが、仕方なしに私の嚊に成っているだアね」 作「なに否どころではない、貴様の心底を看抜いての上だから、人は容貌より唯心じゃ、何しろ命を助けてくれた恩人だから、否応なしで」 權「併し夫婦に成って見れば、仕方なしにでも私を大事にしますよ」 作「今此処で惚けんでも宜い兎に角夫婦仲が好ければ、それ程結構な事はない、時に權六段々善い事が重なるなア」 權「然うでございます」 作「知っているかい」 權「はい、あのくらい運の宜い男はねえてね、民右衞門さまでございましょう、無尽が当って直に村の年寄役を言付かったって」 作「いや左様じゃアない、お前だ」 權「え」 作「お前が倖倖だと云うは粂野美作守様からお抱えになりますよ、お召しだとよ」 權「へえ有難うごぜえます」 作「なにを」 權「まだ腹も空きませんが」 作「なに」 權「お飯を喰わせるというので」 作「アハ……お飯ではない、お召抱えだよ」 權「えゝ然うでござえますか、藁の中へ包んで脊負って歩くのかえ」 作「なにを云うんだ、勝山の御城主二万三千石の粂野美作守さまが小皿山の一件を御重役方から聞いて、貴様を是非召抱えると云うのだが、人足頭が入るというので、貴様なら地理も能く弁えて居って適当で有ろうというのだ、初めは棒を持って見廻って歩くのだが、江戸屋敷の侍じゃアいかないというので、お召抱えになると、今から直に貴様は侍に成るんだよ」 權「はゝゝそりゃア真平御免だよ」 作「真平御免という訳にはいかん、是非」 權「是非だって侍には成れませんよ、第一侍は字い知んねえば出来ますめえ、また剣術も知らなくっちゃア出来ず、それに私ゃア馬が誠に嫌えだ、稀には随分小荷駄に乗かって、草臥休めに一里や二里乗る事もあるが、それでせえ嫌えだ、矢張自分で歩く方が宜いだ、其の上いろはのいの字も書くことを知らねえ者が侍に成っても無駄だ」 作「それは皆先方さまへ申し上げてある、山川廣様というお方に貴様の身の上を話して、学問もいたしません、剣術も心得ませんが、膂力は有ります、人が綽名して立臼の權六と申し、両手で臼を持って片附けますから、あれで力は知れますと云ってあるが、其の山川廣と云うのはえらい方だ」 權「へえ、白酒屋かえ」 作「山川廣(口の中にて)山川白酒と聞違えているな」 權「へえー其の方が得心で、粂野さまの御家来になるだね」 作「うん、下役のお方だが、今度の事に就いては其の上役お作事奉行が来て居ますよ、有難い事だのう」 權「有難い事は有難いけんども、私ゃア無一国な人間で、忌にお侍へ上手を遣ったり、窮屈におっ坐る事が出来ねえから、矢張胡坐をかいて草臥れゝば寝転び、腹が空ったら胡坐を掻いて、塩引の鮭で茶漬を掻込むのが旨えからね」 作「其様ことを云っては困る、是非承知して貰いたい」 權「兎に角母にも相談しましょう、お千代は否と云いますめえが、お母も有りますし、年い老っているから、貴方から安心の往くように話さんじゃア承知をしません、だから其の前に私がお役人さまにも会って、是れだけの者だがそれで勤まる訳なら勤めますとお前さまも立会って証人に成って、三人鼎足で緩くら話しをした上にしましょう」 作「鼎足という事はありませんよ、宜しい、それではお母には私が話そうから、直に呼んだら宜かろう」  とこれから母を呼んで段々話をしましたが、もと遠山龜右衛門という立派な侍の御新造に娘ゆえ大いに悦び、 母「お屋敷へお抱えに成るとは此の上ない結構な事で」  と早速承知を致しましたので、是れからお抱えに成りましたが、私は頓と心得ませんが、棒を持って見廻って歩き、大した高ではございません、十石三人扶持、御作事方賄い役と申し、少禄では有りますが、段々それから昇進致す事になるので、僅でも先ず高持に成りました事で、毎日棒を持って歩きますが、一体勉強家でございまして、少しも役目に怠りはございません、誠に宜く働き、人足へも手当をして、骨の折れる仕事は自分が手伝いを致して居りました。此の事が御重役秋月喜一郎というお方の耳に入りどうか權六を江戸屋敷へ差出して、江戸詰の者に見せて、惰け者の見手本にしたいと窃かに心配をいたして居ります。         九  粂野美作守さまの御舎弟に紋之丞前次さまと云うが有りまして、当時美作守さまは御病身ゆえ御控えに成って入らっしゃるが、前殿さまの御秘蔵の若様でありましたから、御次男でも中々羽振りは宜うございますが、誠に武張ったお方ゆえ武芸に達しておられますので、馬を能く乗るとか、槍を能く使うとか云う者があると、近付けてお側を放しません。所で件の權六の事がお耳に入りますと、其の者を予が傍へ置きたいとの御意ゆえ、お附の衆から老臣へ申し立て、上へも言上になると、苦しゅうないとの御沙汰で、至急に江戸詰を仰付けられたから、母もお千代も悦びましたが、悦ばんのは遠山權六でございます。窮屈で厭だと思いましたが、致し方がありませんから、江戸谷中三崎の下屋敷へ引移ります。只今は開けまして綺麗に成りましたが、其の頃梅を大層植込み、梅の御殿と申して新らしく御普請が出来て、誠にお立派な事でございます。前次様は權六が江戸着という事をお聞きになると、至急に会いたいから早々呼出せという御沙汰でございます。是れから物頭がまいりまして、段々下話をいたし、權六は着慣れもいたさん麻上下を着て、紋附とは云え木綿もので、差図に任せお次まで罷り出で控えて居ります。外村惣江と申すお附頭お納戸役川添富彌、山田金吾という者、其の外御小姓が二人居ります。侍分の子で十三四歳ぐらいのが附いて居り、殿様はきっと固く鬢を引詰めて、芝居でいたす忠臣蔵の若狭之助のように眼が吊し上っているのは、疳癪持というのではありません。髪を引詰めて結うからであります、誠に活溌な良い御気象の御舎弟さまで、 小姓「えゝ、お召によりまして權六お次まで控えさせました」 前「あゝ富彌、早速其の者を見たいな、ずっと連れてまいって予に見せてくれ、余程勇義なもので、重宝の皿を一時に打砕いた気象は実に英雄じゃ、感服いたした早々此処へ」 富「えゝ、田舎育ちの武骨者ゆえ、何とお言葉をおかけ遊ばしても御挨拶を申し上ぐる術も心得ません無作法者で、実に手前どもが会いましても、はっと思います事ばかりで、何分にも御前体へ罷出でましたら却って御無礼の義を……」 前「いや苦しゅうない、無礼が有っても宜しい、早く会いたいから呼んでくれ、無礼講じゃ、呼べ〳〵」 富「はっ〳〵權六〳〵」 權「はい」 富「お召しだ」 權「はい、おめしと云うのは御飯を喰うのではない、呼ばれる事だと此の頃覚えました」 富「其様な事を云ってはいかん、極御疳癖が強く入っしゃる、其の代り御意に入れば仕合せだよ」 權「詰り気に入られるようにと思ってやる仕事は出来ましねえ」 富「其様なことを云ってはいかん、何でも物事を慇懃に云わんければなりませんよ」 權「えゝ彼処で隠元小角豆を喰うとえ」 富「丁寧に云わんければならんと云うのだ」 權「そりゃア出来ねえ、此の儘にやらして下せえ」 富「此の儘、困りましたなア、上下の肩が曲ってるから此方へ寄せたら宜かろう」 權「之れを寄せると又此方へ寄るだ、懐へこれを納れると格好が宜いと、お千代が云いましたが、何にも入っては居ません」 富「此の頃は別して手へ毛が生えたようだな」 權「なに先から斯ういう手で、毛が一杯だね、足から胸から、私の胸の毛を見たら殿様ア魂消るだろう」 富「其様な大きな声をするな、是から縁側づたいにまいるのだ、間違えてはいかんよ、彼処へ出ると直にお目見え仰せ付けられるが、不躾に殿様のお顔を見ちゃアなりませんよ」 權「えゝ」 富「いやさ、お顔を見てはなりませんよ、頭を擡ろと仰しゃった時に始めて首を上げて、殿様のお顔をしげ〴〵見るのだが、粗匇にしてはなりませんよ」 權「そんならば私を呼ばねえば宜いんだ」 富「さ、私の尻に尾付いてまいるのだよ曲ったら構わずに……然う其方をきょと〳〵見て居ちゃアいかん、あ痛い、何だって私の尻へ咬付いたんだ」 權「だってお前さん尻へ咬付けって」 富「困りますなア」  と小声にて小言を云いながら御前へ出ました。富彌は慇懃に両手を突き、一礼して、 富「へい、お召に依って權六罷出ました、お目見え仰付けられ、權六身に取りまして此の上なく大悦仕り、有難く御礼申上げ奉ります」 殿「うん權六、もっと進め〳〵」  と云いながら見ると、肩巾の広い、筋骨の逞しい、色が真黒で、毛むくじゃらでございます。実に鍾馗さまか北海道のアイノ人が出たような様子で有ります。前次公は見たばかりで大層御意に入りました。 殿「どうも骨格が違うの、是は妙だ、權六其の方は国で衆人の為めに宝物を打砕いた事を予も聞いておるが、感服だのう、頭を擡げよ、面を上げよ、これ權六、權六、如何致した、何も申さん、返答をせんの」 富「はっ、これ御挨拶を〳〵」 權「えゝ」 富「御挨拶だよ、お言葉を下し置かれたから御挨拶を」 權「御挨拶だって……」  と只きょと〳〵して物が云えません。 殿「もっと前へ進め、遠くては話が分らん、ずっと前へ来て、大声で遠慮なく云え、頭を上げよ」 權「上げろたって顔を見ちゃアなんねえと云うから誠に困りますなア、何うか此の儘で前の方へ押出して貰いてえ」 小姓「此の儘押出せと、尋常の人間より大きいから一人の手際にはいかん、貴方そら尻を押し給え」 權「さアもっと力を入れて押出すのだ」 殿「これ〳〵何を致す其様なことをせんでも宜しいよ、つか〳〵歩いてまいれ、成程立派じゃなア」 權「えゝ、まだ頭を上げる事はなんねえか」 殿「富彌、余り厳ましく云わんが宜い、窮屈にさせると却って話が出来ん、成程立派じゃなア、昔の勇士のようであるな」 權「へえー、なんですと」 殿「古の英雄加藤清正とも黒田長政とも云うべき人物じゃ、どうも顔が違うのう」 權「へえーどうも誠に違います」 富「誠に違いますなんて、自分の事を其様な事を云うもんじゃア有りませんよ」 殿「これ〳〵小声で然うぐず〳〵云わんが宜い」 權「衆人が然う云います、へえ嚊は誠に器量が美いって」 富「これ〳〵家内の事はお尋ねがないから云わんでも宜い」 權「だって話の序だから云いました」 富「話の序という事がありますか」 殿「其の方生国は何処じゃ、美作ではないという事を聞いたが、左様か」 權「何でごぜえます」 殿「生国」 權「はてな……何ですか、あの勝山在にいる医者の木村章國でがすか」 殿「左様ではない、生れは何処だと申すのじゃ」 權「生れは忍の行田でごぜえますが、少せえ時分に両親が死んだゞね、それから仕様がなくって親戚頼りも無えもんでがすが、懇意な者が引張ってくれべえと、引張られて美作国へ参りまして、十八年の長え間大くお世話さまでごぜえました」 富「これ〳〵お世話さまなんぞと云う事は有りませんよ」 權「だってお世話になったからよ」 殿「これ富彌控えて居れ、一々咎めるといかん、うん成程、武州の者で、長らく国許へ参って居ったか、其の方は余程力は勝れて居るそうじゃの」 權「私が力は何の位あるか自分でも分りませんよ、何なら相撲でも取りましょうか」 富「これ〳〵上と相撲を取るなんて」 權「だって、力が分らんと云うからさ」 殿「誠にうい奴だ、予が近くにいてくれ、予が側近くへ置け」 富「いえ、それは余り何で、此の通りの我雑ものを」 殿「苦しゅうない、誠に正直潔白で宜い、予が傍に居れ」 權「それは御免を願いてえもんで、私には出来ませんよ、へえ、此様な窮屈な思いをするのは御免だと初手から断ったら、白酒屋さんの、えゝ……」 殿「山川廣か」 權「あの人よ」 富「あの人よと云う事が有るかえ、上のお言葉に背く事は出来ませんよ」 權「背くたって居られませんよ」 富「居られんという事は有りません、御無礼至極じゃアないか」 權「御無礼至極だって居られませんよ」 殿「マ富彌控えて居れ、然う一々小言を申すな、面白い奴じゃ」 權「私ア素米搗で何も知んねえ人間で、剣術も知んねえし、学問もした事アねえから何うにも斯うにもお侍には成れねえ人間さ、力はえらく有りますが、何でも召抱えてえと御領主さまが云うのを、無理に断れば親や女房に難儀が掛るというから、そりゃア困るが、これ〳〵で宜くばと己がいうと、それで宜いから来いと云われ、それから参っただねお前さま…」  富彌ははら〳〵いたしまして、 富「お前さまということは有りませんよ、御前様と云いなさい」 權「なに御前と云うのだえ、飯だの御膳だのって何方でも宜いじゃアないか」 殿「これ富彌止めるな、宜しいよ、お前も御前も同じことじゃのう」 權「然うかね、其様な事は存じませんよ、それから私が此処の家来になっただね、して見るとお前様、私のためには大事なお人で、私は家来でござえますから、永らく居る内にはお互えに心安立てが出て来るだ」 富「これ〳〵心安立てという事がありますか」 權「するとお大名は誠に疳癪持だ」 富「これ〳〵」 殿「富彌又口を出すか、宜しい、控えよ、実に大名は疳癪持だ、疳癪がある、それから」 權「殿様に我儘が起れば、私にも疳癪が有りますから、主人に間違った事を云われると、ついそれから仲が悪くなります、時々逢うようにすれば、人は何となく懐かしいもので、あゝ会いたかった、宜く来たと互えに大騒ぎをやるが、毎日傍にいると、私が殿様の疳癪をうん〳〵と気に障らねえように聞いていると、私が胡麻摺になり、謟諛になっていけねえ、此処にいる人に偶には些とぐれえ腹の立つ事があっても、主人だから仕方がねえと諦め、御前さまとか御飯とかいう事になって、実の所をいうと然ういう人は横着者だね」 殿「成程左様じゃ、至極左様じゃ、正道潔白な事じゃ、これ權六、以来予に悪いことが有ったら其の方諫言を致せ、是が君臣の道じゃ、宜しい、許すから居てくれ」 權「尊公がそれせえ御承知なら居ります」 殿「早速の承知で過分に思う、併し其の方は剣道も心得ず、文字も知らんで、予の側に居るのは、何を以て君臣の道を立て奉公を致す心得じゃ」 權「他に心得はねえが、夜夜中乱暴な奴が入るとなりませんから、私ゃア寝ずに御殿の周囲を内証で見廻っていますよ、もし狐でも出れば打殺そうと思ってます」 殿「うん、じゃが戦国の世になって戦争の起った時に、若し味方の者が追々敗走して敵兵が旗下まで切込んでまいり、敵兵が予に槍でも向けた時は何う致す」 權「然うさね、其処が大切だ」 殿「さ何う致して予を助ける」 權「そりゃア尊公どうも此処に一つ」  と權六は胸をたゝき、 「忠義という刄物が有るから、剣術は知らねえでも義という鎧を着ているから、敵が槍で尊公に突掛けて参れば、私ア掌で受けるだ、一本脇腹へ突込まして、敵を捻り倒して打殺してやるだ、其の内に尊公を助けて逃がすだけの仕事よ」 殿「うん成程、立派な事だ、併し然う甘く口でいう通りに行くかな」 權「屹度行ります、其処は主家来の情合だからね」 殿「うん面白い奴じゃ、然らば敵が若し斯様に致したら何うする」  とすっと立ち上って、欄間に掛けて有りました九尺柄の大身の槍を取って、スッ〳〵と二三度しごいて、 「斯様に突き掛けたら何う致す」  と真に突いて蒐った時に權六が、 權「然うすれば斯う致します」  と少しも動かずに、ジリ〳〵と殿様の前へ進むという正直律義の人でございます。         十  粂野紋之丞前次と仰しゃる方は、未だお部屋住では有りますが、勇気の優れた方で、活溌なり学問もあり、実に文武兼備と講釈師なら誉る立派な殿様でございますなれども、そこはお大名の疳癪で、甚く逆らって参ると、直に抜打に御家来の首がコロリなどゝいう事が有るもので、只今の華族さまは開けて在っしゃいますから、其様な野蛮な刄物三昧などはございませんが、前次様は御勇気のお方だけあって、九尺柄の大身の槍をすっと繰出した時に、權六は不意を打たれ、受くるものが有りませんから左の掌で、 權「むゝ」  と受けましたが剛い奴で、中指と無名指の間をすっと貫かれたが、其の掌で槍の柄を捕まえて、ぐッと全身の力で引きました。前次公は蹌めいて前へ膝を突く処を、權六が血だらけの手で捕え付け、 權「其の時は斯う捻り倒して敵を酷え目に遇わして、尊公を助けるより他はねえ、何うだ、敵も魂消るか」  と大力でグックと圧すから前次公も堪えかねまして、 殿「權六宥せ、宥せ」  と云うは余程苦しかったと見えます。これを見るとお側に居りました川添富彌、山田金吾も驚きましたが、御側小姓の外村惣江が次の間に至り、一刀を執って立上り、 惣「棄置かれん奴」  とバラ〳〵〳〵と二人来って權六へ組付こうとするを睨み付け、 權「寄付くと打殺すぞ」 惣「斬ってしまえ、無礼至極な奴だ、御前を何と心得る、如何に物を心得んとは申しながら、余りと申せば乱暴狼藉」  と立ちかゝるを、殿様は押されながら、 殿「いやなに惣江、手出しをする事は必ずならんぞ、權六放してくれ、あ痛い、放せ、予が悪かった、宥せ〳〵」 權「宥せと云って敵じゃア許せねえけれども、先ず仕方話だから許します、さ何うだね」 殿「ハッ〳〵」  と殿様は稍く起上りましたが、血だらけでございます。是は權六の血だらけの手で押付けられたから、顔から胸から血だらけで、これを見ると御家来が驚きまして、呆れて口が利けません。 殿「ハッ〳〵、至極道理だ」 權「道理だって、私が何も手出し仕たじゃアねえのに、押えるの斬るのと此処にいる人が云うなア分んねえ、咎も報いも無えものを殿様が手出しいして、槍で突殺すと云うだから、敵が然うしたら斯うだと仕方話いしてお目に掛けたゞ、敵なら捻り殺すだが、仕方話で、ちょっくら此の位なものさ」 殿「至極正道潔白な奴じゃ、勇気なものじゃ、何と申しても宜しい、予に悪い事があったら一々諫言をしてくれ、今日より意見番じゃ、予が側を放さんぞ」  と有難い御意で、それからいよ〳〵医者を呼び、疵の手当を致して遣わせと、殿様も急に血だらけですからお召替になる。大騒ぎでござります。御褒美として其の時の槍を戴きましたから、是ばかりでも槍一筋の侍で、五十石に取立てられ、頭取下役という事に成りましたが、更に謟いを致しませんが、堅い気象ゆえ、毎夜人知れず刀を差し、棒を提げて密っと殿様のお居間の周囲を三度ずつ不寝に廻るという忠実なる事は、他の者に真似は出来ません立派な行いでございます。又お供の時は駕籠に附いてまいりません。 權「私ア突張ったものを着て、お駕籠の側へ付いてまいっても無駄でごぜえます、お側には剣術を知ってる立派なお役人が附いているだから、狼藉者がまいっても脇差を引抜いて防ぎましょうが、私ア其の警衛の方々に狼藉者が斬付けるとなんねえから、若し怪しい奴が来るといかねえから私ア他の人の振で先へめえりましょう、袴などア穿くのは廃して貰えましょう、刀は差せと云わば仕方がねえから差しますが、私だけはお駕籠の先へぶら〳〵往きます」  と我儘を云うてなりませんが、左様な我儘なお供はござりませんから、權六も袴を付け、大小を差し、紺足袋福草履でお前駆で見廻って歩きます、お中屋敷は小梅で、此処へお出でのおりも、未だお部屋住ゆえ大したお供ではございませんが、權六がお供をして上野の袴腰を通りかゝりました時に、明和三年正月も過ぎて二月になり、追々梅も咲きました頃ですから、人もちら〳〵出掛けます。只今權六が殿様のお供をして山下の浜田と申す料理屋(今の山城屋)の前を通りかゝり、山の方の観物小屋に引張る者が出て居りますが、其方へ顔も向けず四辺に気を附けてまいると、向うから来ました男は、年頃二十七八にて、かっきりと色の白い、眼のきょろ〳〵大きい、鼻梁の通った口元の締った、眉毛の濃い好い男で、無地の羽織を着し、一本短い刀を差し、紺足袋雪駄穿でチャラ〳〵やって参りました。不図出会うと中国もので、矢張素と松平越後様の好い役柄を勤めました松蔭大之進の忰、同苗大藏というもので、浪々中互いに知って居りますから、 權「大藏さん〳〵」  と呼びますから大藏は振向いて、 大「いや是れは誠に暫らく、一別已来……」 權「うっかり会ったって知んねえ、むお変りがなくって……此処で逢おうとは思いませんだったが、何うして出て来たえ」  と立止って話をして居りますから、他の若侍が、 若「これ〳〵權六殿〳〵」 權「えゝ」 若「お供先だから、余り知る人に会ったって無闇に声などを掛けてはなりませんよ」 權「はい、だがね国者に逢って懐かしいからね、少し先へ往っておくんなせえ、直ぐに往くと殿様に然う申しておくんなせえ、まお前達者で宜い、何処にいるだ」 大「お前も達者で何処に居らるゝか、実に立派な事で、お抱えになったことは聞いたが、立派な姿で、此の上もない事で、拙者に於ても悦ばしい」 權「ま悦んでくんろ、今じゃア奉公大切に勤めているだが、お前さんは何処にいるだ」 大「拙者は根岸の日暮ヶ岡に居る、あの芋坂を下りた処に」 權「私の処へは近えから些と遊びに来なよ、其の内私も往くから」 若「これ〳〵其様なことを云っては成りません」 權「今日は大将がいるから此処で別れるとしよう、泣く子と地頭にゃア勝れねえ」  と他の家来衆も心配して彼是云いますので、其の日は別れ、翌日大藏は權六の家へまいりましたから、權六悦びました。此の大藏はもと越後守様の御家来で、遠山龜右衞門とは同じ屋敷にいた者ゆえ、母もお千代も見知りの事なれば、 「お互いに是は思い掛けない、縁と云うものは妙だ、国を出たのは昨年の秋で、貴方も国にお在のないという事は人の噂で聞きました」 大「お前も御無事で、殊に御夫婦仲も宜し、結構で」 權「まアね、お母も誠に安心したし、殿様も贔屓にしてくれるだが、扶持も沢山は要らない、親子三人喰うだけ有れば宜いてえに、其様な事を云わずに取って置くが宜いって、種々な物をくれるだ、貰わねえと悪いと云うから、仕方なしに貰うけれども、何でも山盛り呉れるだ、喰物などは切溜を持ってって脊負って来ねえばなんねえだ、誠にはア有難え事になって、勿体ねえが、他に恩返しの仕様がねえから、旦那様を大切に思って、不寝に奉公する心得だが、貴方は今の若さで遊んでいずに、何処かへ奉公でもしたら宜かろう」 大「拙者も然う思ってる、迚も国へ往ったっていけんから、何処ぞへ取付こうと思うが、御当家でお羽振の宜いお方は何というお方だね」 權「私ア其様な事は知んねえ、お国家老の福原數馬様、寺島兵庫様、お側御用神原五郎治様とかいう奴があるよ」 大「奴とは酷いね」 權「それに此間ちょっくら聞いたが、御当家には智仁勇の三人の家来があるとよ、渡邊織江さんという方は慈悲深い人だから是が仁で、秋月喜一郎かな是はえら剛い人で勇よ、えゝ何とか云いッけ……戸村主水とかいう人は智慧があると云いやした、此者が羽振の宜い処だ、其の人らの云う事は殿様も聴くだ、御家来に失策が有っても、渡邊さんや秋月さんが取做すと殿様も赦すだ、秋月さんは槍奉行を勤めているが、成程剛そうだ、身丈が高くってよ」  と手真似をして物語る内、大藏は掌の底に目を附けました。         十一 大「足下掌を何うした、穴が開いているようだが」 權「これか、是は殿様が槍を突掛けて掌で受けるか何うだと云うから、受けなくってというので、掌で受けたゞ」 大「むゝ、そうか、そして御家来の中仁は渡邊織江、勇は秋月、智は戸村、成程斯ういう事は珍らしいから書付けて往きましょう」  と細かに書いて暇乞を致し、帰る時に權六が門まで送り出してまいりますと、お役所から帰る渡邊に出会いましたから、權六も挨拶する事ぐらいのことは心得て居りますから、丁寧に挨拶する。渡邊も答礼して行過ぎるを見済して、 大「彼は」 權「彼が渡邊織江様よ、慈悲深い方で、家来に難儀いする者が有ると命懸で殿様に詫言をしてくれるだ、困るなら銭い持って行けと助けてくれると云うだ、どうも彼の人には敵わねえ」 大「成程寛仁大度、見上げれば立派な人だね」 權「なにい、韓信が股ア潜りだと」 大「いえ中々お立派なお方だ、最う五十五六にもなろうか……拙者も近い所にいるから、また度々お尋ね下さい、拙者も亦お尋ね申します」 權「お前辛抱しなよ、お女郎買におっ溺ってはいかねえよ、国と違ってお女郎が方々に在るから、随分身体を大事にしねば成んねえ」 大「誠に辱けない、左様なら」  と松蔭大藏は帰りました。其の後渡邊織江が同年の三月五日に一人の娘を連れて、喜六という老僕に供をさせて、飛鳥山へまいりました。尤も花見ではない、初桜故余り人は出ません、其の頃には海老屋、扇屋の他に宜い料理茶屋がありまして、柏屋というは可なり小綺麗にして居りました。織江殿は娘を連れて此の茶屋の二階へ上り、御酒は飲みませんから御飯を上っていました。此の娘は年頃十八九になりましょうか、色のくっきり白い、鼻筋の通った、口元の可愛らしい、眼のきょろりとした……と云うと大きな眼付で、少し眼に怖味はありますが、是も巾着切のような眼付では有りません、堅いお屋敷でございますから好い服装は出来ません、小紋の変り裏ぐらいのことで、厚板の帯などを締めたもので、お父さまは小紋の野掛装束で、お供は看板を着て、真鍮巻の木刀を差して上端に腰をかけ、お膳に酒が一合附いたのを有難く頂戴して居ります。二階の梯子段の下に三人車座になって御酒を飲んでいる侍は、其の頃流行った玉紬の藍の小弁慶の袖口がぼつ〳〵いったのを着て、砂糖のすけない切山椒で、焦茶色の一本独鈷の帯を締め、木刀を差して居るものが有ります。火の燃え付きそうな髪をして居るものも有り、大小を差した者も有り、大髷の連中がそろ〳〵花見に出る者もあるが、金がないので往かれないのを残念に思いまして、少しばかり散財を仕ようと、味噌吸物に菜のひたし物香物沢山という酷い誂えもので、グビーリ〳〵と大盃で酒を飲んで居ります。二階では渡邊織江が娘お竹と御飯が済んで、 織「これ〳〵女中」 下婢「はい」 織「下に従者が居るから小包を持って来いと云えば分るから、然う云ってくれ」 下婢「はい畏まりました」  とん〳〵〳〵と階下へ下りまして、 下婢「あの、お供さん、旦那があの小さい風呂敷包を持って二階へ昇れと仰しゃいましたよ」 喜「はい畏まりました」  と喜六と云う六十四才になる爺さんが、よぼ〳〵して片手に小包を提げ、正直な人ゆえ下足番が有るのに、傍に置いた主人の雪踏とお嬢様の雪踏と自分の福草履三足一緒に懐中へ入れたから、飴細工の狸見たようになって、梯子を上ろうとする時、微酔機嫌で少し身体が斜になる途端に、懐の雪踏が辷って落ると、間の悪い時には悪いもので、彼の喧嘩でも吹掛けて、此の勘定を持たせようと思っている悪浪人の一人が、手に持っていた吸物椀の中へ雪踏がぼちゃりと入ったから驚いて顔を上げ、 甲「これ怪しからん奴だ、やい下ろ、二階へ上る奴下ろ」  と云いながら喜六の裾を取ってぐいと引いたから、ドヽトンと落ち、 喜「あ痛いやい……」 甲「不礼至極な奴だ、人が酒を飲んでいる所へ、屎草履を投込むとは何の事だ」  と云いながら二つ三つ喜六の頭を打つ喜六は頭を押えながら、 喜「あ痛い……誠に済みませんが、懐から落ちたゞから御勘弁を願えます」 甲「これ彼処に下足を預る番人があって、銘々下足を預けて上るのに、懐へ入れて上る奴があるものか、是には何か此の方に意趣遺恨があるに相違ない」 喜「いえ意趣も遺恨もある訳じゃねえ、お前様には始めてお目に懸って意趣遺恨のある理由がござえません、私は何にも知んねえ田舎漢で、年も取ってるし、御馳走の酒を戴き、酔払いになったもんだから、身体が横になる機みに懐から雪踏が落ちただから、どうか御勘弁を」  と詫びましたが、浪人は肩を怒らせまして、 甲「勘弁罷りならん、能く考えて見ろ、人の吸物の中へ斯様に屎草履を投込んで、泥だらけにして、これを何うして喰うのだ」 喜「誠に御道理……併し屎草履と仰しゃるが、米でも麦でも大概土から出来ねえものはねえ、それには肥料いしねえものは有りますめえ、あ痛い、又打ったね」 甲「なに肥料をしないものはないが、直接に肥料を喰物に打かけて喰う奴があるか、怪しからん理由の分らん奴じゃアないか」 乙「これ〳〵其様な者に何を云ったって、痛いも痒いも分るものじゃアない、家来の不調法は主人の粗相だから、主人が此処へ来て詫るならば勘弁して遣ろう、それまで其の小包を此方へ取上げて置け、なに娘を連れて年を老っている奴だと、それ〳〵今も云う通り家来の不調法は主人の不調法だから、主人が此処へ来て、手前に成り代って詫るなれば勘弁を仕まいものでもないが、それ迄包を此方へ預かる、一体家来の不調法を主人が詫んという事は無い」 喜「詫ん事は無いたって、私が不調法をして、旦那様を詫に出しては済みません、それに包を取上げられてしまっては旦那様に申訳がないから、どうか堪忍しておくんなせえましな、私が不調法を為たんだから、二つも三つも打叩かれても黙って居やすんだ、人間の頭には神様が附いて居ますぞ、其処を叩くてえ事はねえ」 甲「なに……」  と又打つ。 喜「あ痛い、又打ったな」 甲「なにを云う、其様な小理窟ばかり云っても仕様がねえ、もっと分る奴を出せ」 喜「あ痛い……だからま一つ堪忍しておくんなせえましよ」 甲「勘弁罷りならん」 喜「勘弁ならんて、此の包を取られゝば私がしくじるだ」 甲「手前が不調法をしてしくじるのは当然だ、手前が門前払いになったて己の知った事かえ、さ此方へ出さんか」 喜「あ……あれ……取っちまった、其の包を取られちゃア私が済まねえと云うに、あのまア慈悲知らずの野郎め」 甲「なに野郎だ……」  と尚お事が大きくなって、見ちゃア居られませんから茶屋の女中が、 下婢「鎌どんを遣っておくれな」 鎌「なに斯ういう事は矢張り女が宜いよ」 下婢「其様なことを云わずに往っておくれよ」 鎌「客種が悪い筋だ、何かごたつこうとして居る機みだから、どうも仕様がない」  下婢どもがそれへ参り、 下婢「ね、あなた方」 甲「何だ、何だ手前は」 下婢「貴方申しお供さん、お気を附けなさらないといけませんよ、貴方ね、此方は下足番の有るのを御存じないものですから、履物を懐へ入れて梯子段を昇ろうとした処を、つい酔っていらっしゃるもんですから、不調法で落ちたのでしょう、実にお気の毒さま、何卒ね、ま斯ういうお花見時分で、お客さまが立込んで居りますから、御機嫌を直していらっしゃいよ、何ですよう、ちょいと貴方ア」 甲「なんだ不礼至極な奴め、愛敬が有るとか器量が好いとか云うならまだしも、手前の面を見ろい、手前じゃア分らんから分る人間を出せ」 下婢「誠にどうも、あのちょいと清次どん」 清「そら、己の方へ来た」 下婢「取っても附けないよ、変な奴だよ」 清「女でも宜いのに、仕様がないね」  と若い者が悪浪人の前へ来て、額へ手を当て、 若「えへゝゝ」 甲「変な奴が出て来た、手前は何だ」 若「今日は生憎主人が下町までまいって居りませんから、手前は帳場に坐っている番頭で、御立腹の処は重々御尤さまでございますが、何分にもへえ、全体お前さんが逆らっては悪い、此方で御立腹なさるのは御尤もで仕方がない謝まんなさい、えへ……誠に此の通り何も御存じないお方で相済みませんが…」 甲「只相済まん〳〵と云って何う致すのだ」 若「どうか旦那さま」 甲「うん何だと、何が何うしたと、此椀を何う致すよ、只勘弁しろたって、泥ぽっけにした物が喰えるかい」 清「左様なら旦那さま、斯様致しましょう、お料理を取換えましょう、ちょいとお芳どん、是をずっと下げて、何か乙な、ちょいとさっぱりとしたお刺身と云ったようなもので、えへゝゝ」 甲「忌な奴だな、空笑いをしやアがって」 清「ずっとお料理を取換え、お燗の宜い処を召上り、お心持を直してお帰りを願います」  それより他に致し方がないので、酒肴を出しまして、 清「是は手前の方の不調法から出来ました事でげすから、其のお代は戴きません、皆様へ御馳走の心得で」 乙「黙れ、不礼至極なことを云うな、御馳走なんて、汝に酒肴を振舞って貰いたいから立腹致したと心得て居るか、振舞って貰いたい下心で怒ってる次第じゃアなえぞ」 清「いえその最初は上げて置いて、あとで代を戴きます」 甲「汝では分らんもっと分る者を遣せ」  二階では織江殿も心配して居りますところへ、喜六が泣きながら昇ってまいりました。         十二  喜六は力無げに二階へ上ってまいり、 喜「はい御免下せえまし」 織「おゝ喜六か、是へ来い〳〵」 喜「はい、誠に何ともはア申訳のねえ事をしました、悪い奴にお包を奪られて」 織「困ったものじゃアないか、何故草履を懐へ入れて二階へ上ったのだよ、草履を懐へ入れて上へ昇るなどという事があるかえ」 喜「はい、田舎者で何も心得ませんから」 織「何も心得んとて、先方で立腹するところは尤もじゃアないか、喰物の中へ泥草履を投入れゝば、誰だって立腹致すのは当然のことじゃ、それから何う致した」 喜「へえ、三人ながら意地の悪い奴が揃ってゝ、家来の不調法は主人の不調法だから、余所目に見て二階に居ることはねえ、此処へまいり、成り代って詫をしたら堪忍してくれると云いまして、お包を取上げましたから、渡すめえと確かり押えると、あんた傍に居た奴が私の頭を叩いて、無理やりに引奪られましたから、大切な物でも入って居ろうかと心配して居ります」 織「何も入って居らん空風呂敷ではあるが、不調法をして詫をせずに置く訳にもいかん、手前の事から己が出ると、拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者でござると、斯う姓名を明かさんければならん、己の名前は兎も角も御主人の名を汚す事になっちゃア誠に済まん訳じゃアないか、手前は長く奉公しても山出しの習慣が脱けん男だ、誠に困ったもんだの」 喜「へえ、誠に困りました、然うして私が頭ア五つくらしました」 織「打たれながら勘定などをする奴が有りますか」 喜「余り口惜うございます、中央にいた奴の叩くのが一番痛うござえました」 織「誠に困るの」 竹「お父さま、斯う致しましょうか、却って先方が食酔って居りますところへ貴方が入らっしゃいますより、私は女のことで取上げもいたすまいから、私が出て見ましょうか」 織「いや、己がいなければ宜いが、己がいて其の方を出しては宜しくない」 竹「いゝえ、喜六と私と二人で此処へまいりました積りで、誠に不調法を致しましたと一言申したら宜かろうと存じます、のう喜六」 喜「はい、お嬢様が出れば屹度勘弁します、皆な助平そうなものばかりで」 織「こら、其様なことを云うから物の間違になるんだ」 竹「じゃア二人の積りで宜いかえ、私は手前を連れてお寺参りに来た積りで」 喜「どうか何分にも願います」  とお竹の後に附いて悄々と二階を下りる。此方は益々哮り立って、 甲「さア何時までべん〳〵と棄置くのだ、二階へ折助が昇った限り下りて来んが、さ、これを何う致すのだ」  と申して居るところへお竹がまいり、しとやかに、 竹「御免遊ばしませ」 甲「へえお出でなさい、何方さまで」 竹「只今は家来共が不調法をいたして申訳もない事で、何も存じません田舎者ゆえ、盗られるとわるいと存じまして、草履を懐へ入れて居って、つい不調法をいたし、御立腹をかけて何とも恐入ります、少し遅く成りましたから早く帰りませんと両親が案じますから、何卒御勘弁遊ばしまして、それは詰らん包ではございますが、これに成り代りまして私からお詫を致します事で」 甲「どうも是は恐入りましたね、是はどうも御自身にお出では恐入りましたね、誠にどうもお麗わしい事でありますな、へゝゝ、なに腹の立つ訳ではないが、ちょっと三人で花見という訳でもなく、ふらりと洗湯の帰り掛けに一口やっておる処で、へゝゝ」 竹「家来どもが不調法をいたし、嘸御立腹ではございましょうが……」 甲「いや貴方のおいでまでの事はないが、お出で下されば千万有難いことで、何とも恐入りました、へゝゝ、ま一盃召上れ」  と眼を細くしてお竹を見詰めて居りますから、一人が気をもみ、 乙「何だえ、仕方がないな、貴公ぐらい女を見ると惚い人間はないよ、女を見ると勘弁なり難い事でも直にでれ〳〵と許してしまう、それも宜いが、後の勘定を何うする、勘定をよ、前に親娘連れで昇った立派な侍が二階に居るじゃアないか、然るを女を詫によこすてえ次第があるかえ、其の廉を押したら宜かろう、勘定を何うするよ」 甲「うん成程、気が付かんだったが、前に昇っていたか、至極どうも御尤もだから然う致そうじゃアないか」 丙「何だか分らんことを云ってる、兎に角御主人がお詫に来たから、それで宜いじゃアないか、斯様な人ざかしい処で兎や斯う云えば貴公の恥お嬢様の辱になるから、甚だ見苦しいが拙宅へお招ぎ申して、一口差上げ、にっこり笑ってお別れにしたら宜かろう」 甲「これは至極宜しい、宅は手狭だが、是なる者は拙者の朋友で、可なり宅も広いから、ちょっと一献飲直してお別れと致しましょう」  と柔しい真白な手を真黒な穢い手で引張ったから、喜六は驚き、 喜「なにをする、お嬢様の手を引張って此の助平野郎」 甲「なに、此ん畜生」  と又騒動が大きくなりましたから、流石の渡邊も弱って何うする事も出来ません。打棄って密と逃げるなどというは武家の法にないから、困却を致して居りました。すると次の間に居りました客が出て参りました。黒の羽織に藍微塵の小袖を着大小を差し、料理の入った折を提げて来まして、 浪人「えゝ卒爾ながら手前は此の隣席に食事を致して、只今帰ろうと存じて居ると、何か御家来の少しの不調法を廉に取りまして、暴々しき事を申掛け、御迷惑の御様子、実は彼処にて聞兼て居りましたが、如何にも相手が悪いから、お嬢様をお連れ遊ばして嘸かし御迷惑でござろうとお察し申します、入らざる事と思召すかしらんが、尊公の代りに手前が出ましたら如何で」 織「これは何ともはや、折角の思召ではござるが、先方では柄のない所へ柄をすげて申掛けを致すのだから、貴殿へ御迷惑が掛っては相済まん折角の御親切ではござるが、平にお捨置きを願いたい」 浪人「いえ〳〵、手前は無禄無住の者で、浪々の身の上、決して御心配には及びません、御主名を明すのを甚く御心配の御様子、誠に御無礼な事を申すようでござるが、お嬢様を手前の妹の積りにして、手前は不加減で二階に寝ていたとして詫入れゝば宜しい」 織「何ともそれでは恐入ります事で、併し御迷惑だ……」 浪「その御心配には及びませんから手前にお任せなされ」  と提げ刀で下へ下ると、三人の悪浪人はいよ〳〵哮り立って、吸物椀を投付けなど乱暴をして居ります所へ、 浪人「御免を……」 甲「何だ」 浪人「手前家来が不調法をいたしまして、妹がお詫に出ました由怪しからん事で、女の身でお詫をいたし、却って御立腹を増すばかり、手前少々腹痛が致しまして、横になって居りまする内に、妹が罷り出て重々恐入りますが、何卒御勘弁を願います」 甲「むゝ、尊公は先刻此の方の吸物椀の中へ雪踏を投込んだ奴の御主人かえ」 浪「左様家来の粗相は主人が届かんゆえで有りますから、手前成り代ってお詫を致します、どうか御勘弁を願います、此の如く両手を突いてお詫を……」 甲「此奴かえ〳〵」 乙「此者じゃアなえよ、其奴は前に昇っていた奴だ、もっと年を老ってる奴だア、此奴は彼の娘へ謟諛に入って来たんだ、其様な奴をなじらなくっちゃア仕様がねえ、えゝ始めて御意得ます、御尊名を承わりたいね……手前は谷山藤十郎と申す至って武骨なのんだくれで、御家来の不調法にもせよ、主人が成代って詫をいたせば勘弁いたさんでもないが、斯の如く泥だらけになった物が喰えますかよ、此の汁が吸えるかえ」  と半分残っていた吸物椀を打掛けましたから、すっと味噌汁が流れました。流石温和の仁も忽ち疳癖が高ぶりましたが、じっと耐え、 浪「どうか御勘弁を願います、それゆえ身不肖ながら主人たる手前が成代ってお詫をいたすので、幾重にも此の通り……手を突く」 甲「手を突いたって不礼を働いた家来を此方へ申し受けよう、然うして此方の存じ寄にいたそう」 浪「それは貴方御無理と申すもの、何も心得ん山出しの老人ゆえ、相手になすった処がお恥辱になればとて誉れにもなりますまい、斬ったところが狗を斬るも同様、御勘弁下さる訳には相成りませんか」 乙「ならんければ何ういたした」 浪「ならんければ致し方がない」 甲「斯う致そう、当家でも迷惑をいたそうから、表へ出て、広々した飛鳥山の上にて果合いに及ぼう」 浪「何も果合いをする程の無礼を致した訳ではござらん」 甲「無いたって食物の中へ泥草履を投込んで置きながら」 浪「手前は此の通り病身で迚もお相手が出来ません」 甲「出来んなら尚宜しい、さ出ろ、病身結構だ、広々した飛鳥山へ出て華々しく果合いをしなせえ、最う了簡罷りならん、篦棒め」  と侍の面部へ唾を吐掛けました。         十三  斯うなると幾ら柔和でも腹が立ちます、唾を吐き掛けられた時には物も云わず半手拭を出して顔を拭く内に、眼がきりゝと吊し上りました。相手の三人は酔っているから気が附きませんが、傍の人は直気が附きまして、 ○「安さん出掛けよう、斯んな処で酒を呑んでも身になりませんよ、彼の位妹が出て謝って、御主人が塩梅の悪いのに出て来て詫びているのに、酷い事をするじゃアないか、汁を打掛けたばかりで誰でも大概怒っちまう、我慢してえるが今に始まるよ、怪我でも仕ねえ中に出掛けよう、他に逃げ処がないから往こう〳〵」 △「折を然う云ったっけが間に合わねえから、此の玉子焼に鰆の照焼は紙を敷いて、手拭に包み、猪口を二つばかり瞞かして往こう」  と皆逃支度をいたします。此方の浪人は屹度身を構えまして、 浪「いよ〳〵御勘弁相成んとあれば止むを得ざる事で、表へ出てお相手になろう」  とずいと提げ刀で立つと、他の者が之を見て。 ○「泥棒ッ」 △「人殺しい〳〵」  と自分が斬られる訳ではないが、遽てゝ逃出すから、煙草盆を蹴散かす、土瓶を踏毀すものがあり、料理代を払って往く者は一人もありません、中に素早い者は料理番へ駈込んで鰆を三本担ぎ出す奴があります。彼の三人は真赤な顔をして、 甲「さ来い」 浪「然らばお相手は致しますが、宜くお心を静めて御覧じろ、さして御立腹のあるべき程の粗相でもないに、果合いに及んでは双方の恥辱になるが宜しいか」 乙「えゝ、やれ〳〵」  と何うしても肯きません、酒の上で気が立って居ります、一人が握拳を振って打掛るを早くも身をかわし、 浪「えい」  と逆に捻倒した手練を見ると、余の二人がばら〳〵〳〵と逃げました。前に倒れた奴が口惜しいから又起上って組附いて来る処を、拳を固めて脇腹の三枚目(芝居でいたす当身をくわせるので)余り食ったって旨いものでは有りません。 甲「うゝーん」  と倒れた、詰らんものを食ったので、見物の弥次馬が、 △「其方へ二人逃げた、威張った野郎の癖に容ア見やアがれ、殴れ〳〵」  と何だか知りもしないのに無茶苦茶に草履草鞋を投付ける。 織「これ喜六、よくお礼を申せ」 喜「へえ、誠に有難えことで、初りは心配して居りました、若し貴方に怪我でもあらば仕様がねえから飛出そうと思ってやしたが、此の通りおっ死ぬまで威張りアがって野郎」  二つ三つ打つを押止め、 浪「いや打ったって致し方がありません罪も報いもない此奴を殺しても仕様がないから、御家来憚りだが彼方で手桶を借り水を汲んで来て下さい」 喜「はい畏まりました」  彼の侍は其処に倒れた浪人の双方の脇の下へ手を入れ、脇肋へ一活入れる。 甲「あっ……」  と息を吹反す処へ水を打掛ける。 甲「あっ〳〵〳〵……」 浪「其様な弱い事じゃアいけません、果合いをなさるなら立上って尋常に華々しく」 甲「いえ〳〵誠に恐入りました、酔に乗じ甚だ詰らん事を申して、お気に障ったら幾重にもお詫を致します、どうか御勘弁を願います」 喜「今度は詫るか、詫るというなら堪忍してやるが、弱え奴だな、己ような年い老った弱えもんだと馬鹿にして、三つも四つも殴りアがって、斯う云う旦那に捉まると魂消てやアがる、我身を捻って他人の痛さが分るだろう、初まりの二つは我慢が出来なかったぞ、己も殴るから然う思え」  と握拳を固めてこん〳〵と続けて二つ打つ。 甲「誠に先程は御無礼で」  と這々の体で逃げて行くと、弥次馬に追掛けられて又打たれる、意気地のない事。 織「どうか一寸旧の席へ、まア〳〵何卒…」 浪「いえ、些と取急ぎますから」 織「でもござろうが」  と無理に旧の茶屋へ連戻り、上座へ直し、慇懃に両手を突き、 織「斯ようの中ゆえ拙者の姓名等も申上げず、恐入りましたが、拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、今日仏参の帰途、是なる娘が飛鳥山の花を見たいと申すので連れまいり、図らず貴殿の御助力を得て無事に相納まり、何ともお礼の申上げようもござりません、併しどうも起倒流のお腕前お立派な事で感服いたしました、いずれ由あるお方と心得ます、御尊名をどうか」 浪「手前は名もなき浪人でございます、いえ恐入ります、左様でございますか、実は拙者は松蔭大藏と申して、根岸の日暮が岡の脇の、乞食坂を下りまして左へ折れた処に、見る蔭もない茅屋に佗住居を致して居ります、此の後とも幾久しく……」 織「左様で、あゝ惜しいお方さまで、只今のお身の上は」 大「誠に恥入りました儀でござるが、浪人の生計致し方なく売卜を致して居ります」 織「売卜を……易を……成程惜しい事で」 喜「お前さまは売卜者か、どうもえらいもんだね、売卜者だから負けるか負けねえかを占て置いて掛るから大丈夫だ、誠に有難うござえました」 織「何れ御尊宅へお礼に出ます」  と宿所姓名を書付けて別れて帰ったのが縁となり、渡邊織江方へ松蔭大藏が入込み、遂に粂野美作守様へ取入って、どうか侍に成りたい念があって企んで致した罠にかゝり、渡邊織江の大難に成ります所のお話でございます。此の松蔭大藏と申す者は前に述べました通り、従前美作国津山の御城主松平越後様の家来で、宜い役柄を勤めた人の子でありますが、浪人して図らず江戸表へ出てまいりましたが、彼の權六とも馴染の事でございますゆえ、權六方へも再三訪れ、權六もまた大藏方へまいりまして、大藏は織江を存じておりますから喧嘩の仲裁へ入りました事でございます。屋敷へ帰っても物堅い渡邊織江ですから早く礼に往かんければ気が済みませんので、お竹と喜六を伴れ、結構な進物を携えまして日暮ヶ岡へまいって見ると、売卜の看板が出て居りますから、 織「あ此家だ、喜六一寸其の玄関口で訪れて、松蔭大藏様というのは此方かと云って伺ってみろ」 喜「はい畏りました、えゝお頼み申します〳〵」 大「ドーレ有助何方か取次があるぜ」 有「はい畏りました」  つか〳〵〳〵と出て来ました男は、少し小侠な男でございます。子持縞の布子を着て、無地小倉の帯を締め、千住の河原の煙草入を提げ、不粋の打扮のようだが、もと江戸子だから何処か気が利いて居ります。 有「え、おいでなさえまし、何でござえます」 喜「えゝ松蔭大藏様と仰しゃるは此方さまで」 有「え、松蔭は手前でござえますが、何か当用か身の上を御覧なさるなれば丁度今余り人も居ねえ処で宜しゅうござえます、ま、お上んなせえまし」 喜「いや、然うじゃアござえません、旦那さまア此方さまですと」 織「あい、御免くだされ」  と立派な侍が入って来ましたから、有助も少し容を正して、 有「へえ、おいでなせえまし」 織「えゝ拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、えゝ早々お礼に罷り出ずべきでござったが、主用繁多に就き存じながら大きにお礼が延引いたしました、稍く今日番退きの帰りに罷出ました儀で、先生御在宅なれば目通りを致しとうござる」 有「はい畏りました……えゝ先生」 大「何だ」 有「何んだか飛鳥山でお前さんがお助けなすった粂野美作守の御家来の渡邊織江とかいう人がお嬢さんを連れて礼に来ましたよ」 大「左様か直に茶の良いのを入れて莨盆、に火を埋けて、宜いか己が出迎うから……いや是は〳〵どうか見苦しい処へ何とも恐入りました、どうか直にお通りを……」 織「今日は宜く御在宅で」 大「宜うこそ……是れはお嬢様も御一緒で、此の通りの手狭で何とも恥入りましたことで、さ何卒お通りを……」 織「えゝ御家来誠に恐入りましたが、一寸お台を……何でも宜しい、いえ〳〵其様な大きな物でなくとも宜しい、これ〳〵其の包の大きな方を此処へ」  と風呂敷を開きまして、中から取出したは白羽二重一匹に金子が十両と云っては、其の頃では大した進物で、これを大藏の前へ差出しました。         十四  尚も織江は慇懃に、 織「先ず御機嫌宜しゅう、えゝ過日は図らずも飛鳥山で何とも御迷惑をかけ、彼の折はあゝいう場所でござって、碌々お礼も申上げることが出来んで、屋敷へ帰っても此娘が又どうか早うお礼に出たいと申しまして、実に容易ならん御恩で、実に辱けない事で、彼の折は主名を明すことも出来ず、怖い事も恐ろしい事もござらんが、女連ゆえ大きに心配いたし居りました、実に其の折は意外の御迷惑をかけまして誠に相済みません事で」 大「いえ〳〵何う致しまして、再度お礼では却って恐入ります、殊に御親子お揃いで斯様な処へおいでは何とも痛入りましてござる」 織「えゝ此品は(と盆へ載せた品を前へ出し)何ぞと存じましたが、御案内の通りで、下屋敷から是までまいる間には何か調えます処もなく、殊に番退けから間を見て抜けて参りましたことで、広小路へでも出たら何ぞ有りましょうが、是は誠にほんの到来物で、粗末ではござるが、どうか御受納下さらば……」 大「いや是は恐入ったことで……斯様な御心配を戴く理由もなし、お辞のお礼で十分、どうか品物の所は御免を蒙りとう、思召だけ頂戴致す」 織「いえ、それは貴方の御気象、誠に御無礼な次第ではあるけれども、ほんのお礼のしるしまでゞございますから、どうかお受け下さるように……甚だ何でござるが御意に適った色にでもお染めなすって、お召し下されば有難いことで、甚だ御無礼ではござるが……」 大「何ともどうも恐入りました訳でござる然らば折角の思召ゆえ此の羽二重だけは頂戴致しますが、只今の身の上では斯様な結構な品を購るわけには迚もまいりません、併し此のお肴料とお記しの包は戴く訳にはまいりません」 織「左様でもござろうが、貴方が何でございますなら御奉公人にでもお遣わしなすって下さるように」 大「それは誠に恐入ります、嬢さま誠に何とも……」 竹「いえ親共と早くお礼に上りたいと申し暮し、私も種々心ならず居りましたが、何分にも番がせわしく、それ故大きに遅れました、彼の節は何ともお礼の申そうようもございません、喜六やお前一寸此方へ出て、宜くお礼を」 喜「はい旦那さま、彼の折は何ともはアお礼の云う様もござえません、私なんざアこれもう六十四になりますから、何もこれ彼奴等に打殺されても命の惜いわけはなし、只私の不調法から旦那様の御名義ばかりじゃアねえ、お屋敷のお名前まで出るような事があっちゃア済まねえと覚悟を極めて、私一人打殺されたら事が済もうと思ってる所へ、旦那様が出て何ともはアお礼の申ようはありません、見掛けは綺麗な優しげな、力も何もねえようなお前様が、大の野郎を打殺しただから、お侍は異ったものだと噂をして居りました」 大「然う云われては却って困る、これは御奉公人で」 喜「はい私ア何でござえます、お嬢さまが五才の時から御奉公をして居り、長え間これ十五年もお附き申していますからお馴染でがす、彼の時お酒が一口出たもんだから、お供だで少し加減をすれば宜かったが、急いで飲っつけたで、えら腹が空ったから、二合出たのを皆な酌飲んじまい、酔ぱらいになって、つい身体が横になったところから不調法をして、旦那様に御迷惑をかけましたが、先生さまのお蔭さまで助かりましたは、何ともお礼の申上げようはござえません」 織「えゝ今日は直にお暇を」 大「何はなくとも折角の御入来、素より斯様な茅屋なれば別に差上るようなお下物もありませんが、一寸詰らん支度を申し付けて置きましたから、一口上ってお帰りを」 織「いや思召は辱けないが、今日は少々急ぎますから、併し貴方様はお品格といい、先達て三人を相手になすったお腕前は余程武芸の道もお心懸け、御熟練と御無礼ながら存じました、どうか承わりますれば新規お抱えに相成った權六と申す者と前々から知るお間柄ということを一寸屋敷で聞きましたが、御生国は矢張美作で」 大「はい、手前は津山の越後守家来で、父は松蔭大之進と申して、聊か高も取りました者でござるが、父に少し届かん所がありまして、お暇になりまして、暫くの間黒戸の方へまいって居り又は權六の居りました村方にも居りました、それゆえに彼とは知る仲でございます」 織「実にどうも貴方は惜いことで、大概忠臣二君に事えずと云う堅い御気象であらっしゃるから、立派な処から抱えられても、再び主は持たんというところの御決心でござるか」 大「いえ〳〵二君に仕えんなどと申すは立派な武士の申すことで、どうか斯うやって店借を致して、売卜者で生涯朽果るも心外なことで、仮令何様な下役小禄でも主取りをして家名を立てたい心懸もござりますが、これという知己もなく、手蔓等もないことで、先達て權六に会いまして、これ〳〵だと承わり、お前は羨しい事で、遠山の苗字を継いでもと米搗をしていた身の上の者が大禄を取るようになったも、全くお前の心懸が良いので自然に左様な事になったので、拙者などは早く親に別れるくらいな不幸の生れゆえ、とても然ういう身の上には成れんが、何様な処でも宜しいから再び武家になりたい、口が有ったら世話をしてくれんかと權六にも頼んで置きましたくらいで、何の様な小禄の旗下でも宜しいが、お手蔓があるならば、どうか御推挙を願いたい、此の儀は權六にも頼んで置ましたが、御重役の尊公定めしお交際もお広いことゝ心得ますから」 織「承知致しました、えゝ宜しい、いや実に昔は何か貞女両夫に見えずの教訓を守って居りましたが、却ってそれでは御先祖へ対しても不孝にも相成ること、拙者主人美作守は小禄でござるけれども、拙者これから屋敷へ立帰って主人へも話をいたしましょう、貴方の御器量は拙者は宜く承知しておるが、家老共は未だ知らんことゆえ、始めから貴方が越後様においでの時のように大禄という訳にはまいりません、小禄でも宜しくば心配をして御推挙いたしましょう」 大「どうもそれは辱けない事で」  と是から互に酒を飲合って、快く其の日は別れましたが、妙な物で、助けられた恩が有るゆえ、織江が種々周旋いたしたところから、丁度十日目に松蔭大藏の許へお召状が到来致しましたことで、大藏披いて見ると。 御面談申度儀有之候間明十一日朝五つ時当屋敷へ御入来有之候様美作守申付候此段得御意候以上 美作守内     三月十日 寺島兵庫         松蔭大藏殿  という文面で、文箱に入って参りましたから、当人の悦びは一通りでございません、先ず請書をいたし、是から急に支度にかゝり、小清潔した紋付の着物が無ければなりません、紋が少し異っていても宜い、昌平に描かせても直に出来るだろうが、今日一日のことだからと有助を駈けさせて買いに遣わし、大小は素より用意がありますから之を佩して、翌朝の五つ時に虎の門のお上屋敷へまいりますと、御門番には予て其の筋から通知がしてありますから、大藏を中の口へ通し中の口から書院へ通しました。         十五  御書院の正面には家老寺嶋兵庫、お留守居渡邊織江其の外お目附列座で新規お抱えのことを言渡し、拾俵五人扶持を下し置かるゝ旨のお書付を渡されました。其のお書付には高拾俵五人扶持と筆太に書いて、宛名は隅の方へ小さく記してござります。織江から来る十五日御登城の節お通り掛けお目見え仰付けらるゝ旨、且上屋敷に於てお長家を下し置かるゝ旨をも併せて達しましたので、大藏は有難きよしのお受をして拝領の長家へ下りました。織江が飛鳥山で世話になった恩返しの心で、御不自由だろうから是もお持ちなさい、彼もお持ちなさいと種々な品物を送ってくれたので、大藏は有難く心得て居りました。其の中十五日がまいると、朝五つ時の御登城で、其の日大藏は麻上下でお廊下に控えていると、軈てごそり〳〵と申す麻上下と足の音がいたす、平伏をする、というのでお目見えというから読んで字の如く目で見るのかと存じますと、足音を聞くばかり、寧ろお足音拝聴と申す方が適当であるかと存じます。併し当時では是すら容易に出来ませんことで、先ず滞りなくお目見えも済み、是から重役の宅を廻勤いたすことで、是等は総て渡邊織江の指図でございますが、羽振の宜い渡邊織江の引力でございますから、自から人の用いも宜しゅうございますが、新参のことで、谷中のお下屋敷詰を申付けられました。始りはお屋敷外を槍持六尺棒持を連れて見廻らんければなりません、槍持は仲間部屋から出ます、棒持の方は足軽部屋から出て、甃石の処をとん〳〵とん〳〵敲いて歩るく、余り宜い役ではありません、芝居で演じましても上等役者は致しません所の役で、それでも拾俵の高持になりました。所が大藏如才ない人で、品格があって弁舌愛敬がありまして、一寸いう一言に人を感心させるのが得意でございますから、家中一般の評判が宜しく、 甲「流石は渡邊氏の見立だ、あれは拾俵では安い、百石がものはあるよ」 乙「いゝえ何でげす、家老や用人よりは中々腕前が良いそうだが、全体彼を家老にしたら宜かろう」  などと種々なことを云います。大藏は素より気が利いて居りますから、雨でも降るとか雪でも降ります時には、部屋へ来まして 大「一盃飲むが宜い、今日は雪が降って寒いから巡検は私一人で廻ろう、なに槍持ばかりで宜しい、此の雪では誰も通るまいから咎める者も無かろう、私一人で宜しい、これで一盃飲んでくれ」  と金びらを切りまして、誠に手当が届くから、寄ると触ると大藏の評判で、 甲「野上イ」 乙「えゝ」 甲「今度新規お抱えになった松蔭様はえらいお方だね」 乙「彼は別だね一寸来ても寒かろう、一盃飲んだら宜かろうと、仮令二百でも三百でも銭を投出して目鼻の明く処は、どうも苦労した人は違うな、一体御当家様よりは立派な大名の御家来で立派なお方が貧乏して困って苦労した人だから、物が届いている、感心な事だ、夜は寒いから止せ〳〵と御自分ばかりで見廻りをして勤めに怠りはない、それから見ると此方等は寝たがってばかりいて扨て仕様がないの」 甲「本当にどうも……おゝ噂をすれば影とやらで、おいでなすった」  と仲間共は大藏を見まして、 「えゝどうもお寒うございます」 大「あゝ大きに御苦労だが、又廻りの刻限が来たから往ってもらわなければならん、昼間お客来で又た遺失物でもあるといかんから、仁助私が一人で見廻ろう、雪がちらちらと来たようだから」 仁「成程降って来ましたね」 大「よほど降って来たな、提灯も別に要るまい、廻りさえすれば宜いのだ、私は新役だからこれが務めで、貴様達は私に連れられる身の上だ、殊に一人や二人狼藉者が出ても取って押えるだけの力はある、といって何も誇るわけではないが、此の雪の降るに、連れて往かれるのも迷惑だろうから」 仁「面目次第もありませんが、此方等は狼藉者でも出ると、真先に逃出し、悪くすると石へ蹴つまずいて膝ア毀すたちでありますよ、恐入りますな」 大「御家中で万事に心附のある方は渡邊殿と秋月殿である、寒かろうから寒さ凌ぎに酒を用いたら宜かろうと云って、御酒を下すったが、斯様な結構な酒はお下屋敷にはないから、此の通り徳利を提げて来た、一升ばかり分けてやろう別に下物はないから、此銭で何ぞ嗜な物を買って、夜蕎麦売が来たら窓から買え」 仁「恐れ入りましたな、何ともお礼の申そうようはございません、毎もお噂ばかり申しております実に余り十分過ぎまして……」 大「雪が甚く降るので手前達も難儀だろう、私一人で宜しい提灯と赤合羽を貸せ〳〵」  と竹の饅頭笠を被り、提灯を提げ、一人で窃かに廻りましたが却ってどか〳〵多勢で廻ると盗賊は逃げますが、窃かに廻ると盗賊も油断して居りますから、却って取押えることがあります。無提灯でのそ〳〵一人で歩くのは結句用心になります。或日お客来で御殿の方は混雑致しています時、大藏が長局の塀の外を一人で窃かに廻ってまいりますと、沢山ではありませんが、ちら〳〵と雪が顔へ当り、なか〳〵寒うござります、雪も降止みそうで、風がフッと吹込む途端、提灯の火が消えましたから、 大「あゝ困ったもの」  と後へ退ると、長局の板塀の外に立って居る人があります。無地の頭巾を目深に被りまして、塀に身を寄せて、小長い刀を一本差し、小刀は付けているかいないか判然分りませんが、鞘の光りが見えます。 大「はてな」  と大藏は後へ退って様子を見ていました。すると三尺の開口がギイーと開き、内から出て来ました女はお小姓姿、文金の高髷、模様は確と分りませんが、華美な振袖で、大和錦の帯を締め、はこせこと云うものを帯へ挟んで居ります。器量も判然分りませんが、只色の真白いだけは分ります。大藏は心の中で、ヤア女が出たな、お客来の時分に芸人を呼ぶと、毎も下屋敷のお女中方が附いて来るが、是は上屋敷の女中かしらん、はてな何うして出たろう、此の掟の厳しいのに、今日のお客来で御蔵から道具を出入れするお掃除番が、粗忽で此の締りを開けて置いたかしらん、何にしろ怪しからん事だと、段々側へ来て見ますと、塀外に今の男が立って居りますからハヽア、さてはお側近く勤むる侍と奥を勤めるお女中と密通をいたして居るのではないかと存じましたから、後へ退って息を屏して、密と見て居りますと、彼の女は四辺をきょろ〳〵見廻しまして声を潜め、 女「春部さま、春部さま」 春「シッ〳〵、声を出してはなりません」  と制しました。         十六  お小姓姿の美しい者が眼に涙を浮めまして、 女「貴方まア私から幾許お文を上げましても一度もお返辞のないのはあんまりだと存じます、貴方はもう亀井戸の事をお忘れ遊ばしたか、私はそればっかり存じて居りますけれども、掟が厳しいのでお目通りを致すことも出来ませんでしたが、今晩は宜い間にお目に懸れました」 春「他に知れてはならんが、今夜は雪が降って来たので、廻りの者も自然役目を怠って、余りちょん〳〵叩いて廻らんようだが、先刻ちょいと合図をしたから、ひょっと出て来ようと存じてまいったが、此の事が伯父に知れた日にア実に困るから、他に知れんようにして私も会いたいと思うから、来年三月宿下りの折に、又例の亀井戸の巴屋で緩くり話を致しましょう」 女「宿下の時と仰しゃっても、本当に七夕様のようでございますね、一年に一度しきゃアお目通りが出来ないのかと思いますと、此の頃では貴方の夢ばかり見て居りますよ、私は思いの儘なことを書いて置きましたから、これを篤くり見て下されば分りましょう、私の身にかゝる事がございますからお持ち遊ばせ」  と渡す途端に後から突然に大声で、 大「火の廻り」  という。二人は恟り致しまして、後へ退き、女は慌てゝ開き戸を締めて奥へ行く。彼の春部という若侍も同じく慌てゝお馬場口の方へ遁げて行く。大藏は密と後へ廻って、三尺の開戸を見ますと、慌てゝ締めずにまいったから、戸がばた〳〵煽るが、外から締りは附けられませんから石を支って置きまして、独言に、 大「困ったな、女が手紙を出したようだが、男の方で取ろうという処を、己が大きな声で呶鳴ったから、驚いたものか文を落して行った、これは宜い物が手に入った」  と懐へ入れて詰所へ帰り、是から同役と交代になります。 大「此の手紙をいつぞは用に立てよう」  と待ちに待って居りました。彼の春部というものは、お小姓頭を勤め十五石三人扶持を領し、秋月の甥で、梅三郎という者でございます。お目附の甥だけに羽振が宜しく、お父さまは平馬という。梅三郎は評判の美男で、婀娜な、ひんなりとした、芝居でいたせば家橘か上りの菊の助でも致しそうな好男で、丁度其の月の二十八日、春部梅三郎は非番のことだから、用達し旁々というので、根津の下屋敷を出まして、上野の広小路で買物をいたし、今山下の袴腰の方へ掛ろうとする後から、松蔭大藏が声をかけ 大「もし〳〵春部さま〳〵」 梅「あい、これは大藏殿かえ」 大「へえ、今日は好いお天気になりました、お非番でげすか」 梅「あゝ幸い非番ゆえ浅草へでもまいろうかと思う」 大「へえ私も今日は非番で、ま別に知己もありませんし、未だ当地の様子も不慣でございますから、道を覚えて置かなければなりません、切めて小梅のお中屋敷へまいる道だけでも覚えようと存じて、浅草から小梅の方へまいろうと存じまして、実は頼合せてまいりました」 梅「然うかえ、三作はお前の相役だね」 大「へえ左様でござります、えゝ春部さま、貴方少々伺いたい儀がござりますが、決してお手間は取らせませんから、あの無極庵(有名の蕎麦店)まで、えへ貴方少々御馳走に差上げるというは甚だ御無礼な儀でござりますが、一寸伺いたい儀がござりますから、お急ぎでなければ無極の二階までおいでを願います」 梅「別に急ぎも致さんが、何か馳走をされては困ります、お前は大分下役の者へ馳走をして振舞うという噂があるが余り新役中に華美な事をせんが宜いと伯父も心配しています」 大「へえ、毎度秋月さま渡邊さまのお引立に因りまして、不肖の私が身に余る重役を仰付けられ、誠に有難いことで決してお手間は取らせませんから」 梅「いや又にいたそう」 大「どうか甚だ御無礼でございますが何卒願います、少々お屋敷の御家風の事に就て伺いたい儀がございます」 梅「左様か」  と素より温厚の人でございますから、強ってと云うので、是から無極の二階へ通りました。追々誂物の肴が出てまいりましたから、 大「女中今少しお話し申す事があるから、誰も此処へ参らんようにしてくれ、用があれば手を拍って呼ぶから」 女中「はい、左様なれば此処を閉めましょうか」 大「いや、それは宜しい……えゝお急ぎの処をお引留め申して何とも恐入りました」 梅「あい何だえ、私に聞きたい事というのは」 大「えゝ、外でもござりませんが、お屋敷の御家風に就て伺いたい儀がござる、それと申すも拙者は何事も御家風を心得ません不慣の身の上にて、斯様な役向を仰付けられ、身に余りて辱けない事と存じながら、慾には限りのないもので、何の様にも拙者身体の続くだけは御奉公致します了簡なれども、上役のお引立が無ければ迚も新参者などは出世が出来ません、渡邊殿は別段御贔屓を下さいますが、貴方の伯父御さまの秋月さまは未だ染々お言葉を戴きました事もないゆえ、大藏疾より心懸けて居りますが、手蔓はなし、拠なく今日迄打過ぎましたが、春部様からお声がゝりを願い、秋月様へお目通りを願いまして、お上へ宜しくお執成を願いますれば拙者も慾ばかりではござらん、先祖へ対して此の上ない孝道かと存じますで、どうぞ伯父上へ貴方様から宜しく御推挙を願いたい」 梅「いや、それはお前無理だ、よく考えて見なさいお前は何か腕前が善いとか文道にも達して居るとか、又品格といい応対といい、立派な侍の胤だけあって流石だと家中の評も宜しいが、何ぞ功がなければ出世は出来ん、其の功と云うは他に勝れた事があるとか、或は屋敷に狼藉でも忍入った時に取押えたとか何かなければ迚もいかんが、如何に伯父甥の間柄でも、伯父に頼んで無理にあゝしてくれ、斯うしてくれと云っては依怙の沙汰になって、それでは伯父も済まん訳だから、然ういう事で私を此処へ呼び寄せて、お前が馳走をして引立を願うと云って、酒などを飲ましてくれちゃ誠に困る、斯様な事が伯父に知れると叱られますから御免……」  と云い棄てゝ立上る袖を押えて、 大「暫くお待ちを……此の身の出世ばかりでなく、斯く申す大藏も聊かお屋敷へ対して功がござる、それゆえ強いて願いますわけで」 梅「功が有れば宜しい、何ういう功だ」 大「愚昧の者にて何事も分りませんが、お屋敷の御家風は何ういう事でござろうか、罪の軽重を心得ませんが、先ず御家中内に罪あるものがござります時に、重き罪を軽く計らう方が宜しいか、罪は罪だから其の悪事だけの罪に罰するが宜しいか、私心得のために承知をして置きとうござる」 梅「それは罪を犯したる者の次第にも因りましょうけれども、上たる者は下の者の罪は減じ得られるだけ軽くして、命を助けんければならん」 大「それは然うあるべき事で、若し貴方の御家来が貴方に対して不忠な事を致しまして、手討に致すべき奴を手討にせんければならん時、手討に致した方が宜しいか、但しお助けなすって門前払いにいたし、永のお暇を出された方がお宜しいか」 梅「其様な事は云わんでも知れて居る、斬る程の罪を犯し、斬るべきところを助け、永の暇と云って聊か手当をいたして暇を遣わす、是が主従の情というもので、云うに云われん処が有るのじゃ」         十七  大藏は感心した風をして聞き了り、 大「成程甚だ恐入りますが、殿様も誠に御仁慈厚く、また御重役方も皆真に智仁のお方々だという事を承わって居りますが、拙者はな、お屋敷内に罪あるもので、既にお手討にもなるべき者を助けました事が一廉ございます、此の廉を以てお執成を願います」 梅「むゝ、何ういう理由で、人は誰だね」 大「えゝ疾より此の密書が拙者の手に入って居りますが、余人に見せては相成らんと、貴方の御心中を看破って申し上げます、どうか罪に陥らんようにお取計いを願いとうござる」 梅「何だ、密書と云えば容易ならん事だ」  と手に取って見て驚きましたも道理で、いつぞや若江から自分へ贈った艶書であるから、かっと赤面致しましたが、色の白い人が赧くなったので、そりアどうも牡丹へ電灯を映けたように、どうも美しい好い男で、暫く下を向いて何も云えません。大藏少し膝を進ませまして、 大「是は私の功かと存じます、此の功によってお引立を願いとう存じます、只出世を致したいばかりではないが、拙者前に津山に於て親父は二百四十石領りました、松蔭大之進の家に生れた侍の胤、唯今ではお目見得已上と申しても、お通り掛けお目見えで、拙者方では尊顔を見上ぐる事も出来ませんから、折々お側へ罷出でお目通りをし尊顔を見覚えるように相成りたいで」 梅「いや伯父に宜く然う云いましょう、秋月に宜く云えば心配有りません、屹度伯父に話をします、貴公の心掛けを誠に感心したから」 大「それは千万辱けない、其のお言葉は決して反故には相成りますまい」 梅「武士に二言はありません」 大「へえ辱けない」  春部梅三郎は真っ赤に成って、彼の文を懐に入れ其の儘表へ駈出すを送り出し、広小路の方へ行く後姿を見送って、にやりと苦笑いをしたは、松蔭大藏という奴、余程横着者でございます。扨其の歳の暮に春部梅三郎が何ういう執成しを致しましたか、伯父秋月へ話し込むと、秋月が渡邊織江の処へまいりまして相談致すと、素より推挙致したのは渡邊でございますが、自分は飛鳥山で大藏に恩になって居りますから、片贔屓になるようで却って当人のためにならんからと云って、扣え目にして居りますと、秋月の引立で御前体へ執成しを致しましたから、急に其の暮松蔭大藏は五十石取になり、御近習お小納戸兼勤を仰付けられました。御部屋住の前次様のお附き元締兼勤を仰付けられました。此の前次様は前申し述べました通り、武張ったお方で武芸に達した者を手許に置きたいというので、御当主へお願い立でお貰い受けになりましたので、お上邸と違ってお長家も広いのを頂戴致す事になり、重役の気受けも宜しく、男が好って程が善いから老女や中老までも誉めそやし、 ○「本当にえらいお人で、手も能く書く、力も強く、他は否に諂うなどと申すが、然うでない、真実愛敬のある人で、私が此の間会った時にこれ〳〵云って、彼は誠の侍でどうも忠義一途の人であります」  と勤務が堅いから忽ち評判が高くなりました。乃で有助という、根岸にいた時分に使った者を下男に致しまして、新規に林藏という男を置きました。これは屋敷奉公に慣れた者を若党に致しましたので、また男ばかりでは不自由だから、何ぞ手許使や勝手許を働く者がなければなりませんから、方々へ周旋を頼んで置きますと、渡邊織江の家来船上忠助という者の妹お菊というて、もと駒込片町に居り、当時本郷春木町にいる木具屋岩吉の娘がありました。今年十八で器量はよし柔和ではあり、恩人織江の口入でありますから、早速其の者を召抱えて使いました。大藏は物事が行届き、優しくって言葉の内に愛敬があって、家来の麁相などは知っても咎めませんから、家来になった者は誠に幸いで、屋敷中の評判が段々高くなって来ました。折しも殿様が御病気で、次第に重くなりました。只今で申しますと心臓病とでも申しますか、どうも宜しくない事がございます。只今ならば空気の好い処とか、樹木の沢山あります処を御覧なすったら宜かろうというので、大磯とか箱根とかへお出でが出来ますが、其の頃では然うはまいりません。然るに奥様は松平和泉守さまからお輿入れになりましたが、四五年前にお逝去になり、其の前から居りましたのはお秋という側室で、これは駒込白山に住む山路宗庵と申す町医の娘を奥方から勧めて進ぜられたので、其の頃諸侯の側室は奥様から進ぜらるゝ事でございますが、今は然ういう事はないことで、旦那様が妾を抱えようと仰しゃると、少しつんと遊ばしまして、私は箱根へ湯治に往きますとか何とか仰しゃいますが其の頃は固いもので、奥様の方から無理に勧めて置いたお秋様が挙けました若様が、お三歳という時に奥様がお逝去れになりましたから、お秋様はお上通りと成り、お秋の方という。側室が出世をいたしますと、お上通りと成り、方名が附きます。よく殿方が腹は借物だ良い胤を下す、只胤を取るためだと軍鶏じゃア有るまいし、胤を取るという事はありません造化機論を拝見しても解って居りますが、お秋の方は羽振が宜しいから、御家来の内二派に分れ、若様の方を贔屓いたすものと、御舎弟前次様を贔屓いたす者とが出来て、お屋敷に騒動の起ることは本にもあれば義太夫にも作って有ります。前次様は通称を紋之丞さまと仰せられ、武張った方で、少しも色気などは無く、疳癖が起るとつか〳〵〳〵と物を仰しゃいます。お秋の方も時としては甚く何か云われる事があり、御家来衆も苛く云われるところから、 甲「紋之丞様を御相続としては御勇気に過ぎて実に困る、あの疳癖では迚も治らん、勇ばかりで治まるわけのものではない、殿様は御病身なれば、万一お逝去になったらお秋殿のお胤の若様を御相続とすればお屋敷は安泰な事である」  とこそ〳〵若様附の御家来は相談をいたすとは悪いことでございますが、紋之丞様を無い者に仕ようという、ない者というのは殺してしまうと云うので、昔はよく毒薬を盛るという事がありました。随分お大名にありました話で、只今なればモルヒネなどという劇剤もありますが、其の時分には何か鴆毒とか、或は舶来の礜石ぐらいのところが、毒の劇しいところです。彼の松蔭大藏は智慧が有って、一家中の羽振が宜くって、物の決断は良し、彼を抱込めば宜いと寺島兵庫と申す重役が、松蔭大藏を抱込むと、松蔭は得たりと請合って、 大「十分事を仕遂せました時には、どうか拙者にこれ〳〵の望がございますが、お叶え下さいますか」 寺「委細承知致した、然らば血判を」 大「宜しい」  と是から血を出し、我姓名の下へ捺すとは痛い事をしたもので、ちょいと切って、えゝと捺るので、忌な事であります。只今は血を見る事をお嫌いなさるが、其の頃は動ともすれば血判だの、迚も立行が出来んから切腹致すの、武士道が相立たん自殺致すなどと申したもので、寺島松蔭等の反逆も悉皆下組の相談が出来て、明和の四年に相成りました。其の年の秋までに謀策を仕遂せるのに一番むずかしいものは、浮舟という老女で年は五十四で、男優りの尋常ならんものが属いて居ります。此者を手に入れんければなりません。此者と物堅い渡邊織江の両人を何うかして手に入れんけりゃアならんが、これ〳〵と渡邊に打明けていう訳にはいかずと、云えば直に殺されるか、刺違えて死兼ぬ忠義無類の極頑固な老爺でございますから、これを亡いものにせんけりアなりません。         十八  老女も中々の才物ではございますが、女だけに遂に大藏の弁舌に説附けられました。此の説附けました事は猥褻に渉りますから、唯説附けたと致して置ましょう。扨て此の一味の者がいよ〳〵毒殺という事に決しまして、毒薬調合の工夫は有るまいかと考えて居りますと御案内の通り明和の三年は関東洪水でございまして、四年には山陽道に大水が出て、二年洪水が続き、何処となく湿気ますので、季候が不順のところから、流行感冐インフルエンザと申すような悪い病が流行って、人が大層死にましたところが、お扣の前次様も矢張流行感冐に罹られました処、段々重くなるので、お医者方が種々心配して居りますが、勇気のお方ゆえ我慢をなすって押しておいでのでいけません、風邪を押損なったら仕方がない、九段坂を昇ろうとする荷車見たように後へも前へも往けません。とうとう藤本の寄席へ材木を押込むような事が出来ます。こゝで大藏がお秋の方の実父山路宗庵は町医でこそあれ、古方家の上手でありますから、手に手を尽して山路をお抱えになすったら如何と申す評議になりますと、秋月は忠義な人でございますから、それは怪しからん事、他から医を入れる事は容易ならん事にて、お薬を一々毒味をして差上げる故に、医は従来のお医者か然も無くば匙でも願うが宜いと申して承知致しませんから、如何致したら宜かろうと思っていました。すると九月十日に、駒込白山前に小金屋源兵衞という飴屋があります、若様のお少さい時分お咳が出ますと水飴を上げ、又はお風邪でこん〳〵お咳が出ると水飴を上ります。こゝで神原五郎治と神原四郎治兄弟の者と大藏と三人打寄り、額を集め鼎足で談を致しました時に、人を遠ざけ、立聞きを致さんように襖障子を開広げて、向うから来る人の見えるようにして、飴屋の亭主を呼出しました。 源「えゝ今日お召によって取敢ず罷り出ました、御殿へ出ます心得でありましたが、御当家さまへ出ました」 大「いや〳〵御殿では却って話が出来ん、其の方例の係り役人に遇っても、必らず当家へ来たことを云わんように」 源「へえ畏まりました、此の度は悪い疫が流行り、殿様には続いてお加減がお悪いとか申すことを承わりましたが、如何で」 大「うん、どうもお咳が出てならん」 源「へえ、へい〳〵、それははや何とも御心配な儀で……今日召しましたのは何ういう事ですか、何うか飴の御用向でも仰付けられますのでございますか」 大「神原氏貴公から発言されたら宜しゅうござろう」 神「いや拙者は斯ういう事を云い出すは甚だいかん、どうか貴公から願いたい、斯う云う事は松蔭氏に限るね」 大「拙者は誠に困る、えゝ源兵衞、其の方は御当家へ長らく出入をするが、御当家さまを大切に心得ますかえ」 源「へえ決して粗略には心得ません、大切に心得て居ります」 大「ムヽウ、御当家のためを深く其の方が思うなら、江戸表の御家老さま、又此の神原五郎治さま、渡邊さま、此の四郎治さま、拙者は新役の事ではあるが此の事に就てはお家のためじゃからと云うので、種々御相談があった、始めは拙者にも分りません所があったが、だん〳〵重役衆の意見を承わって成程と合点がゆき、是はお家のためという事を承知いたしたのだ」 源「へえ、どうも然ういう事は町人などは何も弁えのありません事でございまして、へえ何ういう事が御当家さまのお為になりますので」 大「他でもないが上が長らく御不例でな、お医者も種々手を尽されたが、遠からずと云う程の御重症である」 源「へえ何でげすか、余程お悪く在っしゃいますんで」 大「大きな声をしては云えんが、来月中旬までは保つまいと医者が申すのじゃ」 源「へえ、どうもそれはおいとしい事で、お目通りは致しませんが、誠に手前も長らく親の代からお出入りを致しまして居りますから、誠に残念な事で」 大「うむ、就ては上がお逝去になれば、貴様も知っての通り奥方もお逝去で、御順にまいれば若様をというのだが、まだ御幼年、取ってお四歳である、余りお稚さ過ぎる、併しお胤だから御家督御相続も仔細はないが、此の事に就て其の方に頼む事があるのだ、お家のため且容易ならん事であるから、必ず他言をせん、何の様な事でもお家のためには御意を背きますまい、という決心を承知せん中は話も出来ん、此の事に就いては御家老を始め、こゝにござる神原氏我々に至るまで皆血判がしてある、其の方も何ういう事があっても他言はせん、御意に背くまいという確とした証拠に、是へ血判をいたせ」 源「へえ血判と申しますは何ういたしますので」 大「血で判をするから血判だ」 源「えゝ、それは御免を蒙ります、中々町人に腹などが切れるものではございません」 大「いや、腹を切ってくれろというのではない」 源「でも私は見た事がございます、早野勘平が血判をいたす時、臓腑を引出しましたが、あれは中々町人には」 大「いや〳〵腹を切る血判ではない、爪の間をちょいと切って、血が染んだのを手前の姓名の下へ捺すだけで、痛くも痒くもない」 源「へえ何うかしてさゝくれや何かを剥くと血が染みますことが……ちょいと捺せば宜しいので、私は驚きました、勘平の血判かと思いまして、然ういう事がお家のおために成れば何の様な事でもいたします」 大「手前は小金屋と申すが、苗字は何と申す」 源「へえ、矢張小金と申します」  と云うを神原四郎治が筆を執りて、料紙へ小金源兵衞と記し、 大「さア、これへ血判をするのだ、血判をした以上は御家老さま始め此の方等と其の方とは親類の間柄じゃのう」 源「へえ恐入ります、誠に有難いことで」 大「のう、何事も打解けた話でなければならん、其の代り事成就なせば向後御出入頭に取立てお扶持も下さる、就てはあゝいう処へ置きたくないから、広小路あたりへ五間々口ぐらいの立派な店を出し、奉公人を多人数使って、立派な飴屋になるよう、御家老職に願って、金子は多分に下りよう、千両までは受合って宜しい」 源「へえ……有難いことで、夢のようでございますな、お家のためと申しても、私風情が何のお役にも立ちませんが、それでは恐入ります、いえ何様な事でも致します、へえ手や指ぐらいは幾許切っても薬さえ附ければ直に癒りますから宜しゅうございます、なんの指ぐらいを切りますのは」  とちょいと其の頃千両からの金子を貰って、立派な飴屋になるというので嬉しいから、指の先を切って血判をいたし、 源「何ういう御用で」 大「さ、こゝに薬がある」 源「へえ〳〵〳〵」 大「貴様は、水飴を煮るのは余程手間のかゝったものかのう」 源「いえ、それは商売ですから直に出来ますことで」 大「どうか職人の手に掛けず、貴様一人で上の召上るものだから練れようか」 源「いえ何ういたしまして、年を老った職人などは攪廻しながら水涕を垂すこともありますから、決して左様なことは致させません、私が如何ようにも工夫をいたします」 大「それでは此の薬を練込むことは出来るか」 源「へえ是は何のお薬で」 大「最早血判致したから、何も遠慮をいたすには及ばんが、一大事で、お控えの前次様は御疳癖が強く、動もすれば御家来をお手討になさるような事が度々ある、斯様な方がお世取に成れば、お家の大害を惹出すであろう、然る処幸い前次様は御病気、殊にお咳が出るから、水飴の中へ此の毒薬を入れて毒殺をするので」 源「え……それは御免を蒙ります」 大「何だ、御免を蒙るとは……」 源「何だって、お忍びで王子へ入らっしゃる時にお立寄がありまして、お十三の頃からお目通りを致しました前次様を、何かは存じませんが、私の手からお毒を差上げますことは迚も出来ません」  というと、神原四郎治がキリヽと眦を吊し上げて膝を進めました。         十九 神原「これ源兵衞、手前は何のために血判をいたした、容易ならんことだぞ、お家のためで、紋之丞様が御家督に成れば必らずお家の害になることを存じているから、一家中の者が心配して、此の通り役柄をいたす侍が頼むのに、今となって否だなどと申しても、一大事を聞かせた上は手討にいたすから覚悟いたせ」 源「ど、何卒御免を……お手討だけは御勘弁を……」 大「勘弁罷りならん、神原殿がお頼みによって、其の方に申聞けた、だが今になって違背されては此の儘に差置けんから、只今手討に致す」 源「へえ大変な事で、私は斯様な事とは存じませんでしたが、大変な事になりましたな、一体水飴は私の処では致しませんへえ不得手なんで」 大「其様な事を申してもいかん」 源「へえ宜しゅうございます」  と斬られるくらいならと思って、不承〳〵に承知致しました。 大「一時遁れに請合って、若し此の事を御舎弟附の方々へ内通でもいたすと、貴様の宅へ踏込んで必ず打斬るぞ」 源「へえ〳〵御念の入った事で、是がお薬でございますか、へえ宜しゅうございます」  と宅へ帰って彼の毒薬を水飴の中へ入れて煉って見たが、思うようにいけません、どうしても粉が浮きます、綺麗な処へ礜石の粉が浮いて居りますので、 源「幾ら煉てもいけません」  と此の事を松蔭大藏に申しますから、大藏もどうしたら宜かろうと云うので、大藏の家へ山路という医者を呼び飴屋と三人打寄って相談をいたしますと、山路の申すには、是は斑猫という毒を煮込んだら知れない、併し是は私のような町医の手には入りません、なにより効験の強いのは和蘭陀でカンタリスという脊中に縞のある虫で、是は豆の葉に得て居るが、田舎でエゾ虫と申し、斑猫のことで、効験が強いのは煎じ詰めるのがよかろうと申しましたので、なる程それが宜かろうと相談が一決いたし、飴屋の源兵衞と医者の山路を玄関まで送り出そうとする時衝立の蔭に立っていましたのは召使の菊という女中で、これは松蔭が平生目を掛けて、行々は貴様の力になって遣わし、親父も年を老っているから、何時までも箱屋(芸妓の箱屋じゃアありません、木具屋と申して指物を致します)をさせて置きたくない、貴様にはこれ〳〵手当をして遣ろうという真実に絆されて、表向ではないが、内々大藏に身を任して居ります。是は本当に惚れた訳でもなし、金ずくでもなし、変な義理になったので、大藏も好男子でありますが、此の菊は至って堅い性質ゆえ、常々神原や山路が来ては何か大藏と話をしては帰るのを、案じられたものだと苦にしていたのが顔に出ます。今大藏が衝立の蔭に菊のいたのを認めて恟り致したが、さあらぬ体にて、 大「源兵衞、少し待ちな」  と連戻って、庭口から飴屋を送り出そうとすると、林藏という若党が同じく立って聞いていましたので、再び驚いたが、仕方がないと思い、飴屋を帰してしまったが、大藏は腹の中で菊は船上忠助の妹だから、此の事を渡邊に内通をされてはならん、船上は古く渡邊に仕えた家来で、彼奴の妹だから、こりゃア油断がならん、なれども林藏は愚者だから、林藏から先へ当って調べてみよう。と是から支度を仕替えて、羽織大小で彼の林藏という若党を連れ、買物に出ると云って屋敷を立出で、根津の或る料理茶屋へ昇りましたが、其の頃は主家来のけじめが正しく、中々若党が旦那さまの側などへはまいられませんのを、大藏は己の側へ来いと呼び附けました。 大「林藏、大きに御苦労〳〵」 林「へえ、何か御用で」 大「いや独酌で飲んでもうまくないから、貴様と打解けて話をしようと思って」 林「恐入りましてございます、何ともはや御同席では……」 大「いや、席を隔てゝは酒が旨くない」 林「こゝでは却って気が詰りますから、階下で戴きとう存じます」 大「いや、酒を飲んだり遊ぶ時には主も家来も共々にせんければいかん、己の苦労する時には手前にも共々に苦労して貰う、これを主従苦楽を倶にするというのだ」 林「へえ、恐入ります、手前などは誠に仕合せで、御当家さまへ上りまして、旦那さまは誠に何から何までお慈悲深く、何様な不調法が有りましても、お小言も仰ゃらず、斯ういう旦那さまは又とは有りません、手前が仕合で、此の間も吉村さまの仁介もお羨ましがっていましたが、私のような不行届の者を目え懸けて下さり何ともはや恐入りやす」 大「いや、然うでない、貴様ア感心な事には正直律義なり、誠に主思いだのう」 林「いえ、旦那様が目え懸けて下せえますから、お互に思えば思わろゝで、そりゃア尊公当然の事て」 大「いや〳〵然うでない、一体貴様の気象を感服している、これ女中、下物を此処へ、又後で酌をして貰うが、早く家来共の膳を持って来んければならん」  と林藏の前へも同じような御馳走が出ました。 大「のう林藏、是迄しみ〴〵話も出来んであったが、今日は差向いで緩くり飲もう、まア一盃酌いでやろう」 林「へえ恐入りました、誠ね有難い事で、旦那さまのお酌で恐入ります」 大「今日は遠慮せずにやれよ」 林「へえ恐入りました、ヒエ〳〵溢れます〳〵……有難い事で、お左様なれば頂戴いたします、折角の事だアから誠にはや有難い事で」 大「今日は宜いよ、打解けて飲んでくれ、何かの事に遠慮はあっちゃアいかん、心の儘に飲めよ」 林「ヒエ〳〵有難い事で」 大「さ己が一盃合をする」  とグーと一盃飲み、又向うへ差し、林藏を酔わせないと話が出来ません。尤も愚だから欺すには造作もない、お菊は船上忠助の妹ゆえ、渡邊織江へ内通を致しはせんかと、松蔭大藏も実に心配な事でございますから、林藏から先へ欺く趣向でござります。林藏は段々宜い心持に酔って来ましたので仮名違いの言語で喋ります。 大「遠慮なしに沢山飲れ」 林「ヒエ有難い事で、大層酩酊致しやした」 大「いや〳〵まだ酩酊という程飲みやアせん、貴様は国にも余り親戚頼りのないという事を聞いたが、全く左様かえ」 林「ヒエ一人従弟がありやすが、是は死んでしまエたか、生きているか分きやたゝんので、今迄何とも音ずれのない処を見ると、死んでしもうたかと思いやす、実にはや樹から落ちた何とか同様で、心細い身の上でがす」 大「左様か、何うだ別に国に帰りたくもないかえ、御府内へ住って生涯果てたいという志なら、また其の様に目を懸けてやるがのう」 林「ヒエ実に国というたところで、今になって帰りましたところが、親戚もなし、別に何う仕ようという目途もないものですから願わくば此の繁盛る御府内でまア生涯朽果れば、甘え物を喰べ、面白え物を見て暮しますだけ人間の徳だと思えやす、実に旦那さまア御当地で朽果てたい心は充分あります」 大「それは宜しい、それじゃア何うだえ己は親戚頼り兄弟も何も無い、誠に心細い身の上だが、まア幸い重役の引立を以て、不相応な大禄を取るようになって、誠に辱けないが、人は出世をして歓楽の極まる時は憂いの端緒で、何か間違いのあった時には、それ〴〵力になる者がなければならない、己が増長をして何か心得違いのあった時には異見を云ってくれる者が無ければならん、乃で中々家来という者は主従の隔てがあって、どうも主人の意に背いて意見をする勇気のないものだが、貴様は何でもずか〳〵云ってくれる所の気象を看抜いているから、己は貴様と親類になりたいと思うが、何うだ」 林「ヒエ〳〵恐入ります、勿体至極も……」 大「いや、然うでない、只主家来で居ちゃアいかん、己は百石頂戴致す身の上だから、己が生家になって貴様を一人前の侍に取立ってやろう、仮令当家の内でなくとも、他の藩中でも或は御家人旗下のような処へでも養子に遣って、一廉の武士に成れば、貴様も己に向って前々御高恩を得たから申上ぐるが、それはお宜しくない、斯うなすったら宜かろうと云えるような武士に取立って、多分の持参は附けられんが、相当の支度をしてやるが、何うだ侍になる気はないか」 林「いや、是はどうも勿体ない事でござえます、是はどうもはや、私の様な者は迚もはや武士には成れません」 大「そりゃア何ういう訳か」 林「第一剣術を知りませんから武士にはなれましねえ」 大「剣術を知らんでも、文字を心得んでも立派な身分に成れば、それだけの家来を使って、それだけの者に手紙を書かせなどしたら、何も仔細はなかろう」 林「でござえますが、武士は窮屈ではありませんか、実は私は町人になって商いをして見たいので」 大「町人になりたい、それは造作もない、二三百両もかければ立派に店が出せるだろう」 林「なに、其様には要りませんよ、三拾両一資本で、三拾両も有れば立派に店が出せますからな」 大「それは造作ない事じゃ、手前が一軒の主人になって、己が時々往って、林藏一盃飲ませろよ、雨が降って来たから傘ア貸せよと我儘を云いたい訳ではないが、年来使った家来が出世をして、其の者から僅かな物でも馳走になるは嬉しいものだ、甘く喰べられるものだ」 林「誠に有難い事で」 大「ま、もう一盃飲め〳〵」 林「ヒエ大層嬉しいお話で、大分酔いました、へえ頂戴いたします、これははや有難いことで……」 大「そこでな、どうも手前と己は主家来の間柄だから別に遠慮はないが、心懸けの悪い女房でも持たれて、忌な顔でもされると己も往きにくゝなる、然うすると遂には主従の隔てが出来、不和になるから、女房の良いのを貴様に持たせたいのう」 林「へえ、女房の良いのは少ねえものでござえます、あの通り立派なお方様でござえますが、森山様でも秋月様でも、お品格といい御器量といい、悪い事はねえが、私ら目下の者がめえりますとつんとして馬鹿にする訳もありやしねえが、届かねえ、お茶も下さらんで」 大「それだから云うのだ、此の間から打明けて云おうと思っていたが、家にいる菊な」 林「ヒエ」 大「彼は手前も知っているだろうが、内々己が手を附けて、妾同様にして置く者だ」 林「えへゝゝゝ、それは旦那さまア、私も知らん振でいやすけれども、実は心得てます」 大「そうだろう、彼はそれ渡邊の家に勤めている船上の妹で、己とは年も違っているから、とても己の御新造にする訳にはいかん、不器量でも同役の娘を貰わなければならん、就ては彼の菊を手前の女房に遣ろうと思うが、気に入りませんかえ、随分器量も好く、心立も至極宜しく、髪も結い、裁縫も能くするよ」 林「ヒエ……冗談ばっかり仰しゃいますな、旦那さまアおからかいなすっちゃア困ります、お菊さんなら好いの好くないのって、から理窟は有りましねえ、彼様な優しげなこっぽりとした方は少ねえもんでごぜえますな」 大「あはゝゝ、何だえ、こっぽりと云うのは」 林「頬の処や手や何かの処がこっぽりとして、尻なぞはちま〳〵としてなあ」 大「ちま〳〵というのは小さいのか」 林「ヒエ誠にいらいお方さまでごぜえますよ」 大「手前が嫌いなれば仕方がない、気に入ったら手前の女房に遣りたいのう」 林「ひへゝゝゝ御冗談ばかし」 大「冗談ではない、菊が手前を誉めているよ」 林「尤も旦那様のお声がゝりで、林藏に世帯を持たせるが、女房がなくって不自由だから往ってやれと仰しゃって下さればなア……」 大「己が云やア否というのに極っている何故ならば衾を倶にする妾だから、義理にも彼様な人は厭でございますと云わなければならん、是は当然だ、手前の処へ幾ら往きたいと思っても然ういうに極って居るわ」         二十  林藏はにこ〳〵いたしまして、 林「成程むゝう」 大「だから、手前さえ宜いと極れば、直接に掛合って見ろい、菊に」 林「是は云えません、間が悪うてとてもはや冗談は云えませんな然うして中々ちま〳〵としてえて、堅え気性でござえますから、冗談は云えましねえよ、旦那様がお留主の時などは、とっともう苦え顔をして居なせえまして、うっかり冗談も云えませんよ」 大「云えない事があるものか、じゃア云える工夫をしてやろう、こゝで余った肴を折へ詰めて先へ帰れ、己は神原の小屋に用があるから、手前先へ帰って、旦那さまは神原さまのお小屋で御酒が始まって、私だけ先へ帰りました、これはお土産でございますと云って、折を出して、菊と二人で一盃飲めと旦那さまが仰しゃったから、一盃頂戴と斯う云え」 林「成程どうも…併しお菊さんは私二人で差向いでは酒を飲まねえと思いやすよ」 大「それは飲むまい、私は酒を飲まんからお部屋へ往って飲めというだろうから、もし然う云ったら、旦那様が此処で飲めと仰しゃったのを戴きませんでは、折角のお志を無にするようなものだから、私は頂戴いたしますと云って、茶の間の菊がいる側の戸棚の下の方を開けると、酒の道具が入っているから、出して小さな徳利へ酒を入れて燗を附け、戸棚に種々な食物がある、鱲又は雲丹のようなものもあるから、悉皆出してずん〳〵と飲んで、菊が止めても肯くな、然うして無理に菊に合をしてくれろと云えば、仮令否でも一盃ぐらいは合をするだろう、飲んだら手前酔った紛れに、私は身を固める事がある、私は近日の内商人に成るが、独身では不自由だから、女房になってくれるかと手か何か押えて見ろ」 林「ひえへゝゝ是はどうも面白え、やりたいようだが、何分間が悪うて側へ寄附かれません」 大「寄附けようが寄附けまいが、菊が何と云うとも構ったことはない、己は四つの廻りを合図に、庭口から窃と忍び込んで、裏手に待っているから、四つの廻りの拍子木を聞いたら、構わず菊の首玉へかじり附け、己が突然にがらりと障子を開けて、不義者見附けた、不義をいたした者は手討に致さねばならぬのが御家法だ、さ両人とも手討にいたす」 林「いや、それは御免を……」 大「いやさ本当に斬るのじゃアない、斬るべき奴だが、今迄真実に事えてくれたから、内聞にして遣わし、表向にすれば面倒だによって、永の暇を遣わす、また菊もそれ程までに思っているなら、町人になれ、侍になることはならんと三十両の他に二十両菊に手当をして、頭の飾身の廻り残らず遣る」 林「成程、有難い、どうも是ははや……併しそれでもいけませんよ、お菊さんが貴方飛んでもない事を仰しゃる、何うしても林藏と私と不義をした覚えはありません、神かけてありません、夫婦に成れと仰しゃっても私は否でござえます、斯んな忌な人の女房にはなりませんと云切ったら何う致します」 大「然うは云わせん、深夜に及んで男女差向いで居れば、不義でないと云わせん強って強情を張れば表向にいたすが何うだ、それとも内聞に致せば命は助けて遣るといえば、命が欲しいから女房になりますと云うだろう」 林「成程、これは恐入りましたな、成程承知しなければ斬ってしまうか、命が惜しいから、そんなればか、どうも是は面白い」 大「これ〳〵浮れて手を叩くな、下から下婢が来る」 林「ヒエ有難い事で、成程やります」 大「宜いか、其の積りでいろ」 林「ヒエ、そろ〳〵帰りましょうか」 大「そんなに急なくっても宜い」 林「ヒエ有難い事で」  と是からそこ〳〵に致して、余った下物を折に入れて、松蔭大藏は神原の小屋へ参り、此方は宜い心持に折を吊さげて自分の部屋へ帰ってまいりまして、にこ〳〵しながら、 林「えゝい、人間は何処で何う運が来るか分らねえもんだな、畜生彼方へ往け、己が折を下げてるもんだから跡を尾いて来やアがる、もこ彼方へ往け、もこ〳〵あはゝゝゝ尻尾を振って来やアがる」 下男「いや林藏何処へ往く、なに旦那と一緒に、然うかえ、一盃飲ったなア」 林「然うよ」 下男「それははや、左様なら」 林「あはゝゝゝ何だか田舎漢のいう事は些とも解らねえものだなア、えゝお菊さん只今帰りました」 菊「おや、お帰りかえ、大層お遅いからお案じ申したが、旦那さまは」 林「旦那さまは神原様のお小屋で御酒が始まって、手前は先へ帰れと云いましたから、私だけ帰ってめえりました」 菊「大きに御苦労よ」 林「えゝ、此のお折の中のお肴は旦那様が手前に遣る、菊も不断骨を折ってるから、菊と二人で茶の間で一盃飲めよと云うて、此のお肴を下せえました、どうか此処で旦那さまが毎も召上る御酒を戴きてえもんで」 菊「神原さまのお小屋で御酒が始まったら、またお帰りは遅かろうねえ」 林「えゝ、どうもそれは子刻になりますか丑刻になりますか、様子が分らねえと斯ういう訳で、へえ」 菊「其の折のお肴はお前に上げるから、部屋へ持て往って、お酒も適い程出して緩くりおたべ」 林「ヒエ……それが然うでねえ訳なので」 菊「何をえ」 林「旦那さまの云うにア、手前は茶の間で酒を飲んだ事はあるめえ、料理茶屋で飲ませるのは当然の話だが、茶の間で飲ませろのは別段の馳走じゃ、へえ有難い事でござえますと、斯う礼を云ったような理由で」 菊「如何に旦那さまが然う仰しゃっても、お前がそれを真に受けて、お茶の間でお酒を戴いては悪いよ、私は悪いことは云わないからお部屋でお飲べよ」 林「然うでござえますか、お前さん此処で飲まねえと折角の旦那のお心を無にするようなものだ、此の戸棚に何か有りやしょう、お膳や徳利も……」 菊「お前、そんな物を出してはいけないよ」 林「こゝに鱲と雲丹があるだ」 菊「何だよ、其様なものを出してはいけないよ、あらまア困るよ、お鉄瓶へお燗徳利を入れてはいけないよ」 林「心配しねえでも宜え、大丈夫だよ、少し理由があるだ、お菊さん、ま一盃飲めなせえ、お前今日は平日より別段に美しいように思われるだね」 菊「何だよ、詰らんお世辞なんぞを云って、早くお部屋へ往って寝ておくれ、お願いだから、跡を片附けて置かなければならないから」 林「ま一盃飲めなアよ」 菊「私は飲みたくはないよ」 林「じゃア酌だけして下せえ」 菊「お酌かえ、私にかえ、困るねえ、それじゃア一盃切りだよ、さ……」 林「へえ有難え是れは……ひえ頂戴致しやす……有難え、まアまるで夢見たような話だという事さ、お菊さん本当にお前さん、私が此処へ奉公に来た時から、真に思って居るよ」 菊「其様なことを云わずに早く彼方へお出でよ」 林「然う邪魔にせなえでも宜えが、是でちゃんと縁附は極っているからね、知らず〳〵して縁は異な物味な物といって、ちゃんと極っているからね」 菊「何が縁だよ」 林「何でも宜い、本当ね私が此方へ奉公に来た時始めてお前さんのお姿を見て、あゝ美しい女中衆だと思えました、斯ういう美しい人は何家え嫁付いて往くか、何ういう人を亭主に持ちおると思ってる内に、旦那さまのお妾さまだと聞きやしたから、拠ねえと諦らめてるようなものゝ、寐ても覚てもお前さんの事を忘れたことアないよ」 菊「冗談をお云いでない、忌らしい、彼方へ往ってお寝よ」 林「往きアしない、亥刻までは往かないよ」 菊「困るよ、其様なに何時までもいちゃア、後生だからよ、明日又旨い物を上げるから」 林「何うしてお前さんの喰欠けを半分喰うて見てえと思ってゝも、喰欠けを残した事がねえから、密と台所にお膳が洗わずにある時は、洗った振りをして甜めて、拭いてしまって置くだよ」 菊「穢いね、私ア嫌だよ」 林「それからね、何うかしてお前さんの肌を見てえと思っても見る事が出来ねえ、すると先達て前町の風呂屋が休みで、行水を浴った事がありましたろう、此の時ばかり白い肌が見られると思ってると、悉皆戸で囲って覗く事が出来ねえ、何うかしてと思ってると、節穴が有ったから覗くと、意地の悪い穴よ、斜に上の方へ向いて、戸に大きな釘が出ていて頬辺を掻裂きイした」 菊「オホヽヽ忌だよ」 林「其の時使った糠を貯って置きたいと思って糠袋をあけて、ちゃんと天日にかけて、乾かして紙袋に入れて貯っておいて、炊立の飯の上へかけて喰うだ」 菊「忌だよ、穢い」 林「それから浴った湯を飲もうと思ったが、飲切れなくなって、どうも勿体ねえと思ったが、半分程飲めねえ、三日目から腹ア下した」 菊「冗談を云うにも程がある、彼方へお出でよ、忌らしい」 林「お菊さん、もう亥刻かな」 菊「もう直に亥刻だよ」 林「亥刻ならそろ〳〵始めねえばなんねえ」  とだん〳〵お菊の側へ摺寄りました。         二十一  其の時お菊は驚いて容を正し、 菊「何をする」  と云いながら、側に在りました烟管にて林藏の頭を打ちました。 林「あゝ痛え、何で打った、呆れて物が云われねえ」 菊「早くお前の部屋へおいで何ぼ私が年が往かないと云って、余り人を馬鹿にして、さ、出て行っておくれよ、本当に呆れてしまうよ」 林「出て往くも往かねえも要らねえ、否なら否で訳は分ってる、突然頭部にやして、本当に呆れてしまう、何だって打ったよ」 菊「打たなくてさ、旦那様のお留守に冗談も程がある、よく考えて御覧、私は旦那さまに別段御贔屓になることも知っていながら、気違じみた真似をして、直に出て往っておくれ、お前のような薄穢い者の女房に誰がなるものか」 林「薄穢けりアそれで宜えよ、本当に呆れて物が云われねえ、忌なら何も無理に女房になれとは云わねえ、私の身代が立派になれば、お前さんよりもっと立派な女房を貰うから、否なら否で分ってるのに、突然烟管で殴すてえことがあるか、頭へ傷が附いたぞ」 菊「打ったって当然だ、さっさと部屋へおいで、旦那さまがお帰りになったら申上げるから」 林「旦那様がお帰りになりア此方で云うて暇ア出させるぞ」 菊「おや、何で私が……」 林「何も屎も要らねえ、さっさと暇ア出させるように私が云うから、然う思って居るが宜え」  と云い放って立上る袖を捕えて引止め、 菊「何ういう理由で、まお待よ」 林「何だね袂を押えて何うするだ」 菊「私が何でお暇が出るんだえ、お暇が出るといえば其の理由を聞きましょう」 林「エヽイ、聞くも聞かねえも要らねえ、放さねえかよ、これ放さねえかてえにあれ着物が裂けてしまうじゃアねえか、裂けるよ、放さねえか、放しやがれ」  と林藏はプップと腹を立って庭の方へ出る途端に、チョン〳〵チョン〳〵、 ○「四ツでござアい」  と云う廻りの声を合図に、松蔭大藏は裏手の花壇の方から密と抜足をいたし、此方へまいるに出会いました。 大「林藏じゃアねえか」 林「おや旦那様」 大「林藏出て来ちゃアいかんなア」 林「いかんたって私には居られませんよ、旦那様、頭へ疵が出来ました、こんなに殴して何うにも斯うにも、其様な薄穢い田舎者は否だよッて、突然烟管で殴しました」 大「ウフヽヽヽ菊が……菊が立腹して、ウフヽヽヽ打ったか、それで手前腹を立てゝ出て来たのか」 林「ヒエ左様でござえます」 大「ウム至極尤もだ、少しの間己が呼ぶまで来るな、併し菊もまだ年がいかないから、死んでも否だと一度断るは女子の情だ、ま部屋に往って寝ていろ」 林「部屋へ往っても寝られませんよ」 大「ま、兎も角彼方へ往け〳〵、悪いようにはしないから」 林「ヒエ左様なら御機嫌宜しゅう」  と林藏が己の部屋へ往く後姿を見送って、 大「えゝーい」  と大藏は態と酔った真似をして、雪駄をチャラ〳〵鳴らして、井筒の謡を唄いながら玄関へかゝる。お菊は其の足音を存じていますから、直に駈出して両手を突き、 菊「お帰り遊ばせ」 大「あい、あゝーどうも誠に酔った」 菊「大層お帰りがお遅うございますから、また神原様でお引留で、御迷惑を遊ばしていらっしゃることゝ存じて、先程からお帰りをお待ち申して居りました」 大「いや、どうも無理に酒を強られ、神原も中々の酒家で、飲まんというのを肯かずに勧めるには実に困ったが、飯も喫べずに帰って来たが、嘸待遠であったろう」 菊「さ、此方へ入らしってお召換を遊ばしまし」 大「あい、衣類を着替ようかの」 菊「はい」  とお菊は直に乱箱の中に入って居ります黄八丈の袷小袖を出して着換させる、褥が出る、烟草盆が出ます。松蔭大藏は自分の居間へ坐りました。 菊「御酒は召上っていらっしゃいましたろうが、御飯を召上りますか」 大「いや勧めの酒はの幾許飲んでも甘くないので、宅へ帰ると矢張また飲みたくなる、一寸一盃燗けんか」 菊「はい、お湯も沸いて居りますし、支度もして置きました」 大「じゃア此処へ持って来てくれ」 菊「はい畏まりました」  と勝手を存じていますから、嗜みの物を並べて膳立をいたし、大藏の前へ盃盤が出ました。お菊は側へまいりまして酌をいたす。大藏は盃を執って飲んでお菊に差す。お菊は合に半分ぐらいずつ忌でも飲まなければなりません。 大「はあー……お菊先程林藏が先へ帰ったろう」 菊「はい、何だかも大層飲酔ってまいりまして、大変な機嫌でございましたが、も漸く欺して部屋へ遣りましたが、彼には余り酒を遣されますといけませんから、加減をしてお遣し下さいまし」 大「ウム左様か、何か肴の土産を持って参ったか」 菊「はい、種々頂戴致しましたが、私は宜いからお前持って往くが宜い、折角下すったのだからと申して皆彼に遣しました」 大「あゝ然うか、あゝー好い心持だ、何処で酒を飲むより宅へ帰って気儘に座を崩して、菊の酌で一盃飲むのが一番旨いのう」 菊「貴方また其様な御容子の好いことばかり御意遊ばします、私のような此様なはしたない者がお酌をしては、御酒もお旨くなかろうかと存じます」 大「いや〳〵どうも実に旨い、はアー……だがの、菊、酔って云うのではないが表向、ま手前は小間使の奉公に来た時から、器量と云い、物の云い様裾捌き、他々の奉公人と違い、自然に備わる品というものは別だ、実に物堅い屋敷にいながら、仮令己が昇進して、身に余る大禄を頂戴するようなことになれば、尚更慎まねばならん、所がどうも慎み難く、己が酔った紛れに無理を頼んだ時は、手前は否であったろう、否だろうけれども性来怜悧の生れ付ゆえ、否だと云ったらば奉公も出来難い、辛く当られるだろうと云うので、ま手前も否々ながら己の云うことを聞いてくれた処は、夫りア己も嬉しゅう思うて居るぞよ」 菊「貴方また其様な事を御意遊ばしまして、あのお話だけは……」 大「いゝえさ誰にも聞かする話ではない、表向でないから、もう一つ役替でも致したら、内々は若竹の方でも己が手前に手を付けた事も知っているが、己が若竹へ恩を着せた事が有るから、彼も承知して居り、織江の方でも知って居ながら聊かでも申した事はない、手前と己だけの話だが手前は嘸厭だろうと思って可愛相だ」 菊「あなた、何ぞと云うと其様な厭味なことばかり御意遊ばします、これが貴方身を切られる程厭で其様なことが出来ますものではございません」 大「だが手前は己に物を隠すの」 菊「なに私は何も隠した事はございません」 大「いんにゃ隠す、物を隠すというのも畢竟主従という隔てがあって、己は旦那様と云われる身分だから、手前の方でも己を主人と思えば、軽卒の取扱いも出来ず、斯う云ったら悪かろうかと己に物を隠す処が見えると云うのは、船上忠平は手前の兄だ、それが渡邊織江の家に奉公をしている、其処に云うに云われん処があろう」 菊「何を御意遊ばすんだか私には少しも分りません、是迄私は何でも貴方にお隠し申した事はございません」 大「そんなら己から頼みがある、併し笑ってくれるな、己が斯くまで手前に迷ったと云うのは真実惚れたからじゃ、己も新役でお抱になって間のない身の上で、内妾を手許へ置いては同役の聞えもあるから、慎まなければならんのだが、其の慎みが出来んという程惚れた切なる情を話すのだが、己は何も御新造のある身の上でないから、行々は話をして表向手前を女房にしたいと思っている」 菊「どうも誠にお嬉しゅうございます」 大「なに嬉しくはあるまい……なに……真に手前嬉しいと思うなら、己に起請を書いてくれ」 菊「貴方、御冗談ばかり御意遊ばします、起請なんてえ物を私は書いた事はございませんから、何う書くものか存じません」 大「いやさ己の気休めと思って書いてくれ、否でもあろうが其れを持っておれば、菊は斯ういう心である、末々まで己のものと安心をするような姿で、それが情だの、迷ったの、笑ってくれるな」 菊「いゝえ、笑うどころではございませんが、起請などはお止し遊ばせ」 大「ウヽム書けんと云うのか、それじゃア手前の心が疑われるの」 菊「だって私は何もお隠し申すことはありませんし、起請などを書かんでも……」 大「いや反古になっても心嬉しいから書いてくれ、硯箱をこれへ……それ書いてくれ、文面は教えてやる……書かんというと手前の心が疑られる、何か手前の心に隠している事が有ろう、然うでなければ早く書いてくれ」 菊「はい……」  とお菊は最前大藏が飴屋の亭主を呼んで、神原四郎治との密談を立聞をしたが、其の事でこれを書かせるのだな、今こゝで書かなければ尚疑われる、兄の勤めている主人方へお屋敷の一大事を内通をする事も出来ん、先方の心の休まるように書いた方が宜かろうと、羞かしそうに筆を執りまして、大藏が教ゆる通りの文面をすら〳〵書いてやりました。 大「まア待て、待て〳〵、名を書くのに松蔭と書かれちゃア主人のようだ、何処までも恋の情でいかんければならん、矢張ぷっつけに大藏殿と書け」 菊「貴方のお名を……」 大「ま書け〳〵、字配りは此処から書け」  と指を差された処へ筆を当てゝ、ちゃんと書いた後、自分の名を羞かしそうにきくと書き終り、 菊「あの、起請は神に誓いまして書きますもので、血か何か附けますのですか」 大「なに血は宜しい、手前の自筆なれば別に疑うところもない、あゝ有難い」  押戴いて巻納めもう一盃。と酒を飲みながら如何なることをか工むらん、続けて三盃ばかり飲みました。 大「あゝ酔った」 菊「大層お色に出ました」 大「殺して居た酒が一時に出ましたが、あの花壇の菊は余程咲いたかの」 菊「余程咲きました、咲乱れて居ります」 大「一寸見たいもんだの」 菊「じゃアお雪洞を点けましょう」 大「然うしてくれ」 菊「お路地のお草履は此処にあります、飛石へお躓き遊ばすと危うございますよ」 大「おゝ宜い〳〵〳〵」  と蹌けながらぶらり〳〵行くのを、危いからお菊も後から雪洞を提げて外の方へ出ると花壇があります。此の裏手はずっと崖になって、下ると谷中新幡随院の墓場此方はお馬場口になって居りますから、人の往来は有りません。 大「菊々」 菊「はい」 大「其処へ雪洞を置けよ」 菊「はい置きます」 大「灯火があっては間が悪いのう」 菊「何を御意あそばします」 大「これ菊、少し蹲んでくれ」 菊「はい」  左の手を出して……お母が二歳三歳の子供を愛するようにお菊の肩の処へ手をかけて、お菊の顔を視詰めて居りますから、 菊「あなた、何を遊ばしますの、私は間が悪うございますもの……」  大藏は四辺を見て油断を見透し、片足挙げてポーンと雪洞を蹴上げましたから転がって、灯火の消えるのを合図にお菊の胸倉を捉って懐に匿し持ったる合口を抜く手も見せず、喉笛へプツリーと力に任せて突込む。 菊「キャー」  と叫びながら合口の柄を右の手で押え片手で大藏の左の手を押えに掛りまするのを、力に任せて捻倒し、乗掛って、 大「ウヽー」  と抉ったから、 菊「ウーン」  パタリとそれなり息は絶えてしまい、大藏は血だらけになりました手をお菊の衣類で拭きながら、密と庭伝いに来まして、三尺の締のある所を開けて、密っと廻って林藏という若党のいる部屋へまいりました。         二十二 大「林藏や、林藏寝たか林藏……」 林「誰だえ」 大「己だ、一寸開けてくれ」 林「誰だ」 大「己だ、開けてくれ、己だ」 林「いやー旦那さまア」 大「これ〳〵」 林「何うして此様な処へ」 大「静かに〳〵」 林「ど何ういう事で」 大「静かに……」 林「はい、只今開けます、灯火が消えて居りますから、只今……先刻から種々考えて居て一寸も眠られません、へえ開けます」  がら〳〵〳〵。 林「先刻の事が気になって眠られませんよ」 大「一緒に来い〳〵」 林「ひえ〳〵」 大「手前の手許に小短い脇差で少し切れるのがあるか」 林「ひえ、ござえます」 大「それを差して来い、静かに〳〵」  と是れから林藏の手を引いて、足音のしないように花壇の許まで連れて来まして、 大「これ」 林「ひえ〳〵」 大「菊は此の通りにして仕舞った」 林「おゝ……これは……どうもお菊さん」 大「これさ、しッ〳〵……主人の言葉を背く奴だから捨置き難い、どうか始終は林藏と添わしてやりたいから、段々話をしても肯入れんから、已むを得ず斯の通り致した」 林「ひえゝ、したがまア、殺すと云うはえれえことになりました、可愛相な事をしましたな」 大「いや可愛相てえ事はない、手前は菊の肩を持って未練があるの」 林「未練はありませんが」 大「なアに未練がある」  と云いながら、やっと突然林藏の胸倉を捉えますから、 林「何をなさいます」  と云う所を、押倒しざま林藏が差して居ました小脇差を引抜いて咽笛へプツーリ突通す。 林「ウワー」  と悶掻く所を乗掛って、 大「ウヽーン」  と突貫く、林藏は苦紛れに柄元へ手を掛けたなり、 林「ウヽーン」  と息が止りました。是から大藏は伸上って庭外を見ましたが人も来ない様子ゆえ、 大「しめた」  と大藏は跡へ帰って硯箱を取出して手紙を認め、是から菊が書いた起請文を取出して、大藏とある大の字の中央へ(ー)を通して跳ね、右方へ木の字を加えて、大藏を林藏と改書して、血をべっとりと塗附けて之を懐中し、又々庭へ出て、お菊の懐中を探して見たが、別に掛守もない、帯止を解いて見ますと中に守が入って居ますから、其の中へ右の起請を納れ、元の様に致して置き、夜が明けると直に之を頭へ届けました。又た有助と云う男に手紙を持たせて、本郷春木町三丁目の指物屋岩吉方へ遣わしましたが、中々大騒で、其の内に検使が到来致しまして、段々死人を検めますと、自ら死んだように、匕首を握り詰めたなりで死んで居ります。林藏も刀の柄元を握詰め喉を貫いて居ますから、如何いう事かと調べになると、大藏の申立に、平素から訝しいように思って居りましたが、予て密通を致し居り、痴情のやる方なく情死を致したのかも知れん、何か証拠が有ろうと云うので、懐中から守袋を取出して見ると、起請文が有りましたから、大藏は小膝を礑と打まして、 大「訝しいと存じて、咎めた時に、露顕したと心得情死を致しましたと見ゆる、不憫な事を致した、なに死なんでも宜いものを、彼までに目を懸けて使うてやったものを」  などゝ、真しやかに陳べて、検使の方は済みましたが、今年五十八になります、指物屋の岩吉が飛んでまいり、船上忠平という二十三になる若党も、織江方から飛んでまいりました。 大「これ〳〵此処へ通せ、老爺此処へ入れ」 岩「はい、急にお使でございましたから飛んで参りました、どうも飛んだことで」 大「誠に何ともはやお気の毒な事で、斯ういう始末じゃ」 岩「はい、どうも此の度の事ばかりは何ういう事だか私には一向訳が分りません、貴方様へ御奉公に上げましてから、旦那様がお目をかけて下さり、斯ういう着物を、やれ斯ういう帯をと拵えて戴き、其の上お小遣いまで下さり、それから櫛簪から足の爪先まで貴方が御心配下さるてえますから、彼様な結構な旦那さまをしくじっちゃアならんよ、己は職人の我雑者で、人の前で碌に口もきかれない人間だが、行々お前を宜い処へ嫁付けてやると仰しゃったというから、私はそれを楽んで居りましたが、何ういうわけで林藏殿と悪い事をすると云うは……のう忠平、一つ屋敷にいるから手前は他の仲間衆の噂でも聞いていそうなものだったのう」 忠「噂にも聞いた事がございません、そんなれば林藏という男が美男という訳でもなし、彼の通りの醜男子、それと斯ういう訳になろうとは合点がまいりません、お父さん、ねえ少さいうちから妹は其様な了簡の女ではないのです、何か是には深い訳があるだろうと思います」  と互に顔を見合せましたが、親父の岩吉には尚お理由が分りませんから、 岩「訳だって私にはどうも分らん、林藏さんと斯ういう事になろう筈がないと申すは、旦那さま、此の間菊へ一寸お暇を下さいました時に、宅へまいりましたから、早く帰んなよ、然うしないと旦那様に済まねえよ、親元に何時までもぐず〳〵して居てはならないと申したら、お父さん、私はと何か云い難い事がある様子で、ぐず〳〵して居ましたが、何方もいらっしゃいませんからお話を致しますが、お父さん、私は浮気じゃアないが、私のような者でも旦那様が別段お目をかけて下さいますよと云いますから、お前を奉公人の内で一番目をかけて下さるのか、然うじゃアないよ、別段に目をかけて下さるの、何ういう事でと聞きましたら、私ア旦那さまのお手が附いたけれども、此の事が知れては旦那様のお身の上に障るから、お前一人得心で居てくれろと申しますから手前は冥加至極な奴だ、彼様な好い男の殿様のお手が附いて……道理でお屋敷へ上る時から、やれこれ目を掛けて下さると思った、併し他の奉公人の妬みを受けやアしないかと申しましたが、結構な事だ有難いことだと実は悦んで安心していました、菊も悦んで親へ吹聴致すくらいで、何うして林藏さんと……」 大「こら〳〵大きな声をしては困りますな、併し岩や恋は思案の外という諺もあって、是ばかりは解りませんよ、そんならば宅にいて気振でも有りそうなものだったが、少しも気振を見せない、尤も主家来だから気を詰るところもあり、同じ朋輩同志人目を忍んで密会をする方が又楽みと見えて、林藏という者が来た時から、菊が彼に優しくいたす様子、林藏の方でもお菊さん〳〵と親む工合だから、結構な事だと思って居たが、起請まで取交して心中を仕ようとは思いません、実に憎い奴とは思いながら、誠に不憫な事をして、お前の心になって見れば、立腹する廉はない、お前には誠に気の毒で、忠平どんも未だ年若ではあるし、他に兄弟もなく、嘸と察する、斯うして一つ屋敷内に居るから、恥入ることだろうと思う、実に気の毒だが、斯の道ばかりは別だからのう」 忠「へえ、(泣声にて)お父さん何たる事になりましたろう、私は旦那様の処へ奉公をして居りましても、他の足軽や仲間共に対して誠に顔向けが出来ません、一人の妹が此様な不始末を致し、御当家様へ申訳がありません」 大「いや、仕方がないから、屍体のところは直に引取ってくれるように」 岩「へえ畏りました」  と岩吉も忠平も本当らしいから、仕方がない、お菊の屍骸を引取って、木具屋の岩吉方から野辺の送りをいたしました。九月十三夜に、渡邊織江は小梅の御中屋敷にて、お客来がござりまして、お召によって出張いたし、お饗応をいたしましたので、余程夜も更けましたが、お客の帰った跡の取片付けを下役に申付けまして、自分は御前を下り、小梅のお屋敷を出ますと、浅草寺の亥刻の鐘が聞えます。全体此の日は船上忠平も供をして参っておったところが、急に渡邊の宅から手紙で、嬢様が少しお癪気だと申してまいりました。嬢様の御病気を看病致すには、慣れたものが居らんければ不都合ゆえ、織江が忠平に其の手紙を見せまして、先へ忠平を帰しましたから、米藏という老僕に提灯を持たして小梅の御中屋敷を立出で、吾妻橋を渡って田原町から東本願寺へ突当って右に曲り、それから裏手へまいり、反圃の海禅寺の前を通りまして山崎町へ出まして、上野の山内を抜け、谷中門へ出て、直ぐ左へ曲って是から只今角に石屋のあります処から又後へ少し戻って、細い横町を入ると、谷中の瑞林寺という法華寺があります、今三浦の屋敷へ程近い処まで来ると、突然に飛出した怪しげなる奴が、米藏の持った提灯をばっさり切って落す。 米「あっ」  と驚く、 織「何者だ、うぬ、狼藉……」  と後へ退るところを藪蔭からプツーリ繰出した槍先にて、渡邊の肋を深く突く 織「ムヽーン」  と倒れて起上ろうとする所を、早く大刀の柄に手をかけると見えましたが抜打に織江の肩先深く切付けたから堪りません。 織「ウヽーム」  と残念ながら大刀の柄へ手を掛けたまゝ息は絶えました。         二十三  渡邊織江が殺されましたのは、夜の子刻少々前で、丁度同じ時刻に彼の春部梅三郎が若江というお小姓の手を引て屋敷を駈落致しました。昔は不義はお家の御法度などと云ってお手打になるような事がございました。そんならと申して殿様がお堅いかと思いますと、殿様の方にはお召使が幾人もあって、何か月に六斎ずつ交る〴〵お勤めがあるなどという権妻を置散かして居ながら、家来が不義を致しますと手打にいたさんければならんとは、ちと無理なお話でございますが、其の時分の君臣の権識は大して違って居ましたもので、若江が懐妊したようだというから、何うしても事露顕を致します、殊には春部梅三郎の父が御舎弟様から拝領いたしました小柄を紛失致しました。これも表向に届けては喧ましい事であります、此方も心配致している処へ、若江が懐妊したから連れて逃げて下さいというと、そんなら……、と是から両人共身支度をして、小包を抱え、若気の至りとは云いながら、高も家も捨てゝ、春部梅三郎は二十三歳で、其の時分の二十三は当今のお方のように智慧分別も進んでは居りませんから、落着く先の目途もなく、お馬場口から曲って来ると崖の縁に柵矢来が有りまして、此方は幡随院の崖になって居りまして、此方に細流があります。此処を川端と申します。お寺が幾らも並んで居ります。清元の浄瑠璃に、あの川端へ祖師さんへなどと申す文句のござりますのは、此の川端にある祖師堂で、此の境内には俳優岩井家代々の墓がございます。夜に入っては別に往来もない処で、人目にかゝる気遣いはないからというので、是から合図をして藪蔭へ潜り込み、 若「春部さま」 梅「あい、私は誠に心配で」 若「私も一生懸命に信心をいたしまして、貴方と御一緒に此の外へ出てしまえば、何様な事でも宜しゅうございますけれども、お屋敷にいる内に私が捕りますと、貴方のお身に及ぶと存じて、本当に私は心配いたしましたが、宜く入らしって下さいました」 梅「まだ廻りの来る刻限には些と早い、さ、これを下りると川端である、柵が古くなっているから、直に折れるよ、裾をもっと端折らにゃアいかん、危いよ」 若「はい、畏りました、貴方宜しゅうございますか」 梅「私は大丈夫だ、此方へお出でなさい」  と是から二人ともになだれの崖縁を下りにかゝると、手拭ですっぽり顔を包み、紺の看板に真鍮巻の木刀を差した仲間体の男が、手に何か持って立って居る様子、其所へ又一人顔を包んだ侍が出て来る。若江春部の両人は忍ぶ身の上ゆえ、怖い恐ろしいも忘れて檜の植込の一叢茂る藪の中へ身を縮め、息をこらして匿れて居りますと、顔を包んだ侍が大小を落差にいたして、尻からげに草履を穿いたなり、つか〳〵〳〵と参り、 大「これ有助」 有「へえ、これを彼の人に上げてくれと仰しゃるので、へい〳〵首尾は十分でございましたな」 大「うん、手前は之を持って、予ての通り道灌山へ往くのだ」 有「へい宜しゅうございます、文箱で」 大「うん、取落さんように致せ、此の柵を脱けて川を渡るのだ、水の中へ落してはならんぞ」 有「へえ〳〵大丈夫で」 大「仕損ずるといけんよ」 有「宜しゅうございます」  と低声でいうから判然は分りませんが、怪しい奴と思って居ります内に、彼の侍はすっと何れへか往ってしまいました。チョンチョン〳〵〳〵。 廻「丑刻でございます」  と云う廻りの声にて、先の仲間体の男は驚き慌てゝ柵を潜って出る。春部は浮気をして情婦を連れ逃げる身の上ではありますが、一体忠義の人でございますから、屋敷内に怪しい奴が忍び込むは盗賊か何だか分りませんから、 梅「曲者待て」  と云いながら領上を捕える。曲者は無理に振払おうとする機みに文箱の太い紐に手をかけ、此方は取ろうとする、彼の者は取られまいとする、引合うはずみにぶつりと封じは切れて、文箱の蓋もろともに落たる密書、曲者はこれを取られてはならんと一生懸命に取返しにかゝる、遣るまいと争う機みに、何ういう拍子か手紙の半を引裂いて、ずんと力足を踏むと、男はころ〳〵〳〵とーんと幡随院の崖縁へ転がり落ちました。其の時耳近く。 廻「八つでございまアす」  と云う廻りの声に驚き引裂いた手紙を懐中して、春部梅三郎は若江の手を取って柵を押分け、身体を横にいたし、漸うの事で此処を出て、川を渡り、一生懸命にとっとゝ団子坂の方へ逃げて、それから白山通りへ出まして、駕籠を雇い板橋へ一泊して、翌日出立を致そうと思いますと、秋雨が大降に降り出してまいって、出立をいたす事が出来ませんから、仕方なしに正午過まで待って居りまして、午飯を食ると忽ちに空が晴れて来ましたから、 梅「どうか此宿を出る所だけは駕籠に仕よう」  と駕籠で大宮までまいりますと、もう人に顔を見られても気遣いはないと、駕籠をよして互に手を引合い、漸々大宮の宿を離れて、桶川を通り過ぎ、鴻の巣の手前の左は桑畠で、右手の方は杉山の林になって居ります処までまいりました。御案内の通り大宮から鴻の巣までの道程は六里ばかりでございます。此処まで来ると若江は蹲んだまゝ立ちません。 梅「何うした、足を痛めたのか」 若「いえ痛めやア致しませんが、只一体に痛くなりました、一体に草臥れたので、股がすくんで些とも歩けません」 梅「歩けないと云われては誠に困るね、急いで往かんければなりません」 若「も往けません、漸う此処まで我慢して歩いて来ましたので、私は此様に歩いた事はないものですから、最う何うしても往けません」 梅「往けませんたって…誠に子供のようなことを云っているから困りますな、是から私の家来の家へでも往くならまだしも、お前の親の許へ往って、詫言をして、暫く置いて貰わなければなりません、それだのにお前が其処で草臥れたと云って屈んで、気楽な事を云ってる場合ではありません」 若「私も実に心配ですが、どうも歩けませんもの、もう少しお駕籠をお雇い遊ばすと宜しゅうございましたのに」 梅「其様なことを云ったって、今時分こゝらに駕籠はありませんよ、それでなくとも装はすっかり変えても、頭髪の風が悪いから、頭巾を被っても自然と知れます、誠に困りました」 若「困るたって、どうも歩けませんもの」 梅「歩けんと云って、そうして居ては……」 若「少し負って下さいませんか」 梅「何うして私も草臥れています」  先の方へぽく〳〵行く人が、後を振反って見るようだが、暗いので分らん。 梅「えゝもし……其処においでのお方」 男「はっ……あー恟りした、はあーえら魂消やした、あゝ怖かねえ……何かぽく〳〵黒え物が居ると思ったが、こけえらは能く貉の出る処だから」 若「あれまア、忌な、怖いこと……」 男「まだ誰か居るかの……」 梅「いえ決して心配な者ではありません、拙者は旅の者でござるが、足弱連で難儀致して居るので、駕籠を雇いたいと存ずるが、此の辺に駕籠はありますまいか、然うして鴻の巣まではまだ何の位ありましょう、それに其方は御近辺のお方か、但し御道中のお人か」 男「私は鴻の巣まで帰るものでござえますが、駕籠を雇って後へ帰っても、十四五丁入らねえばなんねえが、最う少し往けば鴻の巣だ、五丁半べえの処だアから、同伴でも殖えて、まアね少しは紛れるだ、私も怖ねえと思って、年い老ってるが臆病でありやすから、追剥でも出るか、狸でも出たら何うしべえかと考え〳〵来たから、実に魂消たね、飛上ったね、いまだにどう〳〵胸が鳴ってるだ……見れば大小を差しているようだ、お侍さんだな、どうか一緒に連れて歩いてくだせえ、私も鴻の巣まで参るもので」 梅「それは幸いな事で、然らば御同伴を願いたい」 男「えゝ…こゝで飯ア喰う訳にはまいりやせん、お飯を喰えって」 梅「いえ、御同道をしたいので」 男「アハヽヽヽ一緒に行くという事か、じゃア、御一緒にめえりますべえ……草臥れて歩けねえというのは此の姉さんかね、それは困ったんべえ、江戸者ちゅう者は歩きつけねえから旅へ出ると意気地はねえ、私も宿屋にいますが、時々客人が肉刺エ踏出して、吹売に糊付板を持って来うてえから、毎でも糊板を持って行くだが、足の皮がやっこいだからね、お待ちなせえ、私ア独り歩くと怖えから、提灯を点けねえで此の通り吊さげているだ。同伴が殖えたから点けやすべえ」 梅「お提灯は拙者が持ちましょう」 男「私ア此処に懐中附木を持ってる、江戸見物に行った時に山下で買ったゞが、赤い長太郎玉が彼と一緒に買っただが、附木だって紙っ切だよ、火絮があるから造作もねえ、松の蔭へ入らねえじゃア風がえら来るから」  と幾度もかち〳〵やったが付きません。 男「これは中々点かねえもんだね、燧が丸くなってしまって、それに火絮が湿ってるだから……漸の事で点いただ、これでこの紙の附木に付けるだ、それ能く点くべい、えら硫黄臭いが、硫黄で拵えた紙だと見える、南風でも北風でも消えねえって自慢して売るだ、点けてしまったあとは、手で押えて置けば何日でも御重宝だって」 梅「じゃア拙者が持ちましょう、誠にお提灯は幸いの事で、さ我慢して、五町ばかりだと云うから」 若「はい、有難う存じます」 男「お草臥れかね、えへゝゝゝゝ顔を其方へ向けねえでも宜い」  若江は頭巾を被って居りますから田舎者の方では分りませんが、若江の方で見ると、旧来我家に勤めている清藏という者ゆえ、嬉しさの余り草臥れも忘れて前へすさり出まして、 若「あれまア清爺や」 清「へえ……誰だ……誰だ」 若「誰だってまア本当に、頭巾を被っているから分るまいけれども私だよ」  と云いながらお高祖頭巾をとるを見て、 清「こりゃア何とまア魂消たね、何うして……やアこれ阿魔ア……」 梅「何だ阿魔とは怪しからん、知る人かえ」 若「はい、私の処の親父の存生中から奉公して居ります老僕ですが、こゝで逢いましたのは誠に幸いな事で」 清「ま、どうして来ただアね、宿下りの時にア私は高崎まで行ってゝ留守で逢わなかったが、大くなったね、今年で十八だって、今日も汝が噂アしてえた処だ、見違えるようになって、何とはア立派な姿だアな、何うして来た、宿下りか」 若「いゝえ、私はまたお前に叱られる事が出来たのだけれども、お母様に詫言をして、どうか此のお方と一緒に宅へ置いて戴くようにしておくれな」 清「此のお方様てえのは」  と梅三郎を見まして、 「此のお方様が……貴方は岡田さまか」 梅「えゝ拙者は春部梅三郎と申す者で、以後別懇に願います」 清「へえ、余り固く云っちゃア己がに分りやせん、ま何ういう訳で、あゝ是は失策でもして出て、貴方が随いて参ったか」 梅「いや別に上へ対して失策もござらんが、両人とも心得違いをいたし、昨夜屋敷を駈落いたしました」 清「え屋敷を出たア…」 若「此のお方様もお屋敷に居られず、私も矢張居られない理由になったが、お母さんは物堅い御気性だから、屹度置かないと仰しゃるだろうが、此のお方も、何処へも行き所のないお方で、後生だから何日までも宅に居られるようにしておくれな」 清「むゝう……此の人と汝がと二人ながら屋敷に居られねえ事を出来して仕様がなく、駈落をして来たな」 若「あゝ」 清「あ……それじゃア何か二人ともにまア不義アして居ただアな、いゝや隠さねえでも宜い、不義アしたって宜い、宜い〳〵〳〵能くした、大かくなるもんだアな、此間まで頭ア蝶々見たように結って、柾の嫩っこい葉でピイ〳〵を拵えて吹いてたのが、此様な大くなって、綺麗な情夫を連れて突走って来たか、自分の年い老ったのは分んねえが、汝が大くなったで知れらア、心配せねえでも宜い、お母さまが置くも置かねえもねえ、何うしても男と女はわるさアするわけのものだ、心配せねえでも宜い、どうせ聟養子をせねえばなんねえ、われが死んだ父さまの達者の時分からの馴染で、己が脊中で眠たり、脊中で小便垂れたりした娘子が、大くなったゞが、お前さんもまんざら忌ならば此様な処まで手を引張って逃げてめえる気遣えもねえが、宿屋の婿になったら何うだ、屎草履を直さねえでも宜いから」 梅「それは有難い事で、何の様な事でもいたしますが、拙者は屋敷育ちで頓と知己もござらず、前町に出入町人はございますが、前町の町人どもの方へも参られず、他人の娘を唆かしたとお腹立もございましょうが、お手前様から宜しくお詫びを願いたい、若し寺へまいるような子供でもあれば、四書五経ぐらいは教えましても好し、何うしても困る時には御厄介にならんよう、人家の門に立ち、謡を唄い、聊かの合力を受けましても自分の喰るだけの事は致す心得」 清「其様な事をしねえでも宜え、見っともねえ、聟になってお母の厄介になりたくねえたって、歌ア唄って表え歩いて合力てえ物を売って歩いて、飴屋見たような事はさせたくねえ、あの頭の上へ籠か何か乗けて売って歩くのだろう」 梅「いえ、左様な訳ではございません」 清「然うで無えにしても其様な事は仕ねえが宜い、そろ〳〵参りましょう、提灯を持っておくんなせえ、先へ立って」 若「お前ね、私は嬉しいと思ったら草臥れが脱けたから宜いよ」 清「まアぶっされよ」 若「宜いよ」 清「宜いたって大くなっていやらしく成ったもんだから、間ア悪がって……早く負っされよ、少さえうちは大概私が負ったんだ、情夫が居るもんだから見えして、われが友達の奥田の兼野郎なア立派な若え衆になったよ、汝がと同年だが、此の頃じゃア肥手桶も新しいんでなけりゃ担ぎやアがんねえ、其様に世話ア焼かさずに負されよ」         二十四  鴻の巣の宿屋では女主人が清藏の帰りの遅いのを心配いたして、 母「あの清藏はまだ帰りませんかな……何うしたか長え、他の者を使いにやれば、今までにゃア帰るだに……こら、清藏が帰ったようじゃアねえか、帰ったら直に此処へ来うといえ」 清「へえ、只今往って参りました……もし、此の人は何とか云っけ、名は……」 若「春部さま」 清「うん春部梅か成程……梅さん、そこな客座敷は六畳しかないが、客のえらある時にゃア此処へも入れるだが常にア誰も来ねえから、其処に入って居な、一旦詫をしねえ内は仕方がねえから……へえ往って参りました」 母「余り長えじゃアねえか」 清「長えって先方で引留めるだ、まア一盃飲んで往けと云って、どうか船の利かないところを、お前の馬に積んで二三帰り廻してくれと云っていたが、薪は百把に二十二三把安いよ」 主「それは宜かっけな」 清「何よ、それ何に逢いやした、それ…」 母「誰だ」 清「誰だって大くなって見違えたね、屋敷姿は又別だね、此処を斯ういう塩梅に曲げて、馬糞受見たように此処にぺら〳〵下げて来たっけね、今日の髪ア違って、着物も何だか知んねえ物を着て来たんだ、年い十八じゃア形い大えな、それ娘のおわかよ、父さまに似てえるだ」 母「あれまア何処え」 清「六畳に居るだ」 母「あれまア早くそう云えば宜いじゃアねえか」 清「遅く屋敷を出たゞよ」 母「何か塩梅でも悪くて下って来たんじゃアあんめえか、それとも朋輩同士揉めでも出来たか、宿下りか」 清「それがね、お屋敷内でね、一つ所で働く若え侍があって、好え男よ、其方を掃いてくんろ、私イ拭くべえていった様な事から手が触り足が触りして、ふと私通いたんだ、だん〳〵聞けば腹ア大くなって赤児が出来てみれば、奉公は出来ねえ、そんならばとって男を誘い出して、済みませんから老僕や詫言をしてくんろってよ、どうかまアね、本当に好いお侍だよ」 母「むゝう……じゃア何か情夫を連れやアがって駈落いして来たか」 清「うん突走って来ただ」 母「それから汝何処へ入れた」 清「何処だって別に入れ処がねえから、新家の六畳の方へ入れて飯ア喰わして置いただ」 母「馬鹿野郎、呆れた奴だよ、何故宅へ引入れた、何故敷居を跨がしたよ、屋敷奉公をしていながら、不義アして走って来るような心得違えな奴は、此処から勝手次第に何処へでも往くが宜えと小言を云って、何故追出してやらねえ、敷居を跨がして内へ入れる事はねえよ」 清「それは然う云ったって仕様がねえ、どうせ年頃の者に固くべえ云ったっていかねえ、お前だって此処え縁付いて来るのに見合から仕て、婚礼したじゃアねえ、彼を知ってるのは私ばかりだ、十七の時だね、十夜の帰りがけにそれ芋畠に二人立ってたろう」 母「止せ……汝まで其様ことをいうから娘がいう事を肯かねえ、宜く考えて見ろよ、熊ヶ谷石原の忰を家へよばる都合になって居るじゃアねえか、親父のいた時から決っているわけじゃアねえか、それが今情夫を連れて逃げて来やアがって、親が得心で匿まって置いたら、石原の舎弟や親達に済むかよ」 清「おゝ違えねえ、是は済まねえ」 母「済まねえだって、汝は何もかも知っていながら、彼の娘を連れて来て、足踏みをさせて済むかよ、只た今追出してしめえ、汝ア幾歳になる、頭ア禿らかしてよ、女親だけに子に甘く、義理人情を考えねえで入れたと、石原へ聞えて済むか、汝も一緒に出て往け」 清「私が色事をしやアしめえし、出される訳はねえ、実ア私も家へ入れめえとは考えたけれども、お侍さんが如何にも優しげな人で、色が白いたって彼様のはねえ、私ア白っ子かと思えやした、一体お侍なんてえ者は田舎へ来れば、こら百姓……なんて威張るだが、私のような者に手を下げて、心得違えをして屋敷を出ましたが、他に知って居る者もねえ、母さまア腹も立とうが、厄介にはなりません、稼ぎがあります、何だっけ、えゝ歌ア唄って合力とかいう菓子を売って歩いても世話にならねえから、置いてやって下せえな」 母「だめだよ、さっさと追出せよ」 清「そう怒ったって仕様がねえ、出せば往き所がねえが、娘子が情夫に己ア家へ来うって連れて来たものを追出すような事になれば、誠に義理も悪い、他に行き所はねえ、仕様がねえから男女で身い投げておっ死んでしまおうとか、林の中へ入って首でも縊るべえというような、途方もねえ考えを起して、とんでもねえ間違が出来るかも知んねえ、追出せなら追出しもするが、ひょっとお前らの娘が身い投げても、首を縊っても私を怨んではなんねえよ、只た今追出すから…」 母「まア、ちょっくら待てよ」 清「なに……」 母「己を連れてって若に逢わせろよ」 清「逢わねえでも宜かんべえ」 母「宜いよ、己ア只追出す心はねえから、彼奴に逢って頭の二つ三つ殴返して、小鬢でもむしゃぐって、云うだけの事を云って出すから、連れてって逢わせろよ」 清「それは宜くねえ、少せえ子供じゃアねえし、十七八にもなったものゝ横ぞっぽを打殴ったりしねえで、それより出すは造作もねえ」 母「まア待てよ…打叩きは兎も角も、娘は憎くて置かれねえ奴だが、附いて来たお侍さんに義理があるから、己が会って、云うだけの事を云って聞かした其の上で、其の人へ義理だ、娘には草鞋銭の少しもくれべえ」 清「うむ、それは沢山遣るが宜え、新家にいるだよ」  と清藏が先へ駈出してまいり、 清「今此処へお母が来るよ」 若「お母さんが怒って何とか仰しゃったかえ」 清「怒るたって怒らねえたって訳が分らねえ、彼様なはア堅え義理を立てる人はねえ、此の前彌次郎が家の鶏を喜八が縊めたっけ、あの時お母が義理が立たねえって其の通りの鶏を買って来ねえばなんねえと、幾ら探しても、あゝいう毛がねえで困ったよ、あゝいう気象だから、お前さまも其の積りで、田舎者が分らねえ事をいうと思って、肝を焦しちゃアいけねえよ、腹立紛れに何を云うか知んねえ、来た〳〵、さ此方へお母」 母「あゝ薄暗い座敷だな、行灯を持って来な……お若〳〵、此方へ出ろよ、此処へ出ろ、最う少し出てよ」  お若は間が悪いから、畳へぴったり手を突いて顔を上げ得ません。附いて来た侍は何様な人だか。と横目でじろりと見ながら、自分の方より段々前へ進み出まして 母「お若、今清藏に聞きまして魂消ましたぞ、汝は情夫を連れて此処へ走って来たではねえか、何ともはア云様のねえ親不孝なア奴だ、これ屋敷奉公に出すは何のためだよ、斯ういう田舎にいては行儀作法も覚えられねえ、なれども鴻の巣では家柄の岡本の娘だアから屋敷奉公に上げ、行儀作法も覚えさせたらで、金をかけて奉公に遣ったのに、良い事は覚えねえで不義アして、此処へ走って来ると云うは何たる心得違えなア親不孝の阿魔だか、呆れ果てた、最う汝の根性を見限って勘当してくれるから、何処へでも出て往け、石原の舎弟に合わす顔が無え、彼が汝の婿だ、去年宿下りに来た時、石原へ連れて往くのに、先方は田舎育ちの人ゆえ、汝が屋敷奉公をして立派な姿で往くが、先方が木綿ものでいても見下げるな、汝が亭主になる人だよと、何度も云って聞かせ、お父様が約束して固く極めた処を承知していながら、情夫を連れて参っちゃア石原へ済まねえ事を知っていながら来るとは、何ともはア魂消てしまった、汝より他に子はねえけれども、義理という二字があって何うしても汝を宅へ置く事は出来ねえ、見限って勘当をするから何処へでも出て往くが宜い、汝は此のお方様に見棄てられて乞食になるとも、首い縊って死ぬとも、身を投げるとも汝が心がらで、自業自得だ、子のない昔と諦めますから」  と両眼には一杯涙を浮めて泣いて居りました。         二十五  母は心の中では不憫でならんが、義理にからんで是非もなく〳〵故と声をあらゝげまして、 母「これ若、もう物を云わずさっさと出て往け」  と云いながら梅三郎に向いまして、 「お前様には始めてお目にかゝりましたが、お立派なお侍さんが斯んな汚え処へお出でなすったくれえだから、どうか此の娘を可愛がって下せえまし、折角此処まで連れて逃げて来たものを、若い内には有りうちの事だ、田舎気質とは云いながら、頑固な婆アだ、何の勘弁したって宜えにとお前様には思うか知んねえけれども、只今申します通り義理があって、どうも此の娘を宅へ置かれません只た今追出します、名主へも届け、九離断って勘当します、往処もなし、親戚頼りもねえ奴でごぜえますから、見棄てずに女房にして下せえまし、貴方が見棄てゝも私ゃア恨みとも思いませんが、どうかお頼み申します、何や清藏、あのお若を屋敷奉公させて家へ帰らば、柔けえ物も着られめえと思って、紬縞の手織がえらく出来ている、あんな物が家に残ってると後で見て肝が焦れて快くねえから、帯も櫛笄のようなものまで悉皆要らねえから汝え一風呂敷に引纒めて、表へ打棄っちまえ」 清「打棄らねえでも宜かんべい、のう腹ア立とうけれども打棄ったって仕様がねえ」 母「チョッ、分らねえ奴だな、石原の親達へ対しても此娘がに何一つ着せる事ア出来ねえ、そんならと云って家に置けば快くねえ、憎い親不孝なア娘の着物を見るのは忌だから、打棄ちまえと云うだ」 清「打棄らずに取って置いたら宜かんべい」 母「雨も降りそうになって居るから、合羽に傘に下駄でも何でも、汝が心で附けて、此娘がに遣ることは出来ねえ、憎くって、併し家に置くことが出来ねえから打棄れというのだ、雨が降りそうになって居るから」 清「うーむ然うか、打棄るべえ、箪笥ごと打棄っても宜い、どっちり打棄るだから、誰でも拾って往くが宜い、はアーどうも義理という二字は仕様のねえものだ」  と立ちにかゝるを引止めて、 梅「ま暫く……清藏どんとやら暫くお待ち下さい、只今親御の仰せられるところ、重々御尤もの次第で、御尊父御存生の時分からお約束の許嫁の亭主あることを存ぜず、無理に拙者が若江を連れてまいりましたは、あなたに対しては何とも相済みません、若江は亡られた親御の恩命に背き、不孝の上の不孝の上塗をせんければならず、拙者は何処へも往き所はないが、男一人の身の上だから、何処の山の中へまいりましても喰うだけの事は出来ます、お前は此処に止まって聟を取り、家名相続をせんければならんから、拙者一人で往きます」 清「ま、お待ちなせえ……そんな義理立えして無闇に往ったっていけねえ、二人で出て来たものが、一人置いてお前さんが往ったら娘も快くねえ訳だア、宜く相談して往くが宜い、今草鞋銭をくれると云うから待てよ、えゝぐず〳〵云っちゃア分らねえ、判然云えよ、泣きながらでなく……彼の人ばかり追返しちゃア義理が済むめえ、色事だって親の方にも義理があるから追返す位なら首でも縊るか、身い投げておっ死ぬというだ」 母「篦棒……死ぬなんて威し言を云ったら、母親が魂消て置くべいかと思って、死ぬなんてえだ、死ぬと云った奴に是迄死んだ例はねえ、さ只た今死ね、己は義理さえ立てば宜い、汝より他に子はねえが、死ぬなんて逆らやアがって、死ぬなら死ね、さ此処に庖丁があるから」 清「止せよー、困ったなア……うむ何うした〳〵」  若江は身の過りでございますから、一言もないが、心底可愛い梅三郎と別れる気がない、女の狭い心から差込んでまいる癪気に閉じられ、 若「ウヽーン」  と仰向けさまに反返る。清藏は驚いて抱き起しまして、 清「お前さま帰るなんて云わねえが宜い、さゝ冷たくなって、歯を咬しばっておっ死んだ、お前様が余り小言を云うからだ……ア痛え、己の頭へ石頭を打附けて」  と若江を抱え起しながら、 清「お若やー……」 母「少しぐらい小言を云われて絶息るような根性で、何故斯んな訳になったんだかなア、痛え……此方へ顔を出すなよ」 清「お前だって邪魔だよ、何か薬でもあるか、なに、お前さま持ってる……むゝう是は巻いてあって仕様がねえ、何だ印籠か……可笑しなものだな、お前さん此の薬を娘の口ん中へ押っぺし込んで……半分噛んで飲ませろよ、なに間が悪い……横着野郎め」  梅三郎は間が悪そうに薬を含んで飲ませますと、若江は漸くうゝんと気が付きました。 清「気が付いたか」 母「しっかりしろ」 清「大丈夫だ、あゝゝ魂消た余り小言を云わねえが宜えよ、義理立をして見す〳〵子を殺すようなことが出来る、もう其様に心配しねえが宜えよ」 若「あの爺や、私は斯んなわるさをしたから、お母さまの御立腹は重々御道理だが、春部さまを一人でお帰し申しては済まないから、私も一緒に此のお方と出して下さるように、またほとぼりが冷めて、石原の方の片が附いたら、お母さまの処へお詫をする時節もあろうから、一旦御勘当の身となって、一度は私も出して下さるように願っておくれよ」 清「困ったね、往処のねえ人を、お若が家まで誘い出して来て置かないと云うなら、彼の人を何うかしてやらなければなんねえ、時節を待って詫言をするてえが、何うする」 母「汝と違ってお義理堅え殿さまで、往く処のねえ者を一人で出て往くと仰しゃるは、己がへの義理で仰しゃるだ、憎くて置かれねえ奴だが、此の旦那さまも斯なにお義理堅えから、此の旦那様に免じて当分家へ置いてくれるから、此処に隠れているが宜い」 清「そんなれば早く然う云えば宜いに、後でそんな事を云うだから駄目だ、石原の子息がぐず〳〵して居て困る事ができたら、私が殴殺しても構わねえ」  と是から二人は此の六畳の座敷へ足を止める事になりますと、お屋敷の方は打って変って、渡邊織江は非業に死し翌日になって其の旨を届けると、直ぐさま検視も下り、遂に屍骸を引取って野辺の送りも内証にて済ませ、是から悪人穿鑿になり、渡邊織江の長男渡邊祖五郎が伝記に移ります。         二十六  さて其の頃はお屋敷は堅いもので、当主が他人に殺された時には、不憫だから高を増してやろうという訳にはまいりません、不束だとか不覚悟だとか申して、お暇になります。彼の渡邊織江が切害されましたのは、明和の四年亥歳九月十三夜に、谷中瑞林寺の門前で非業な死を遂げました、屍骸を引取って、浅草の田島山誓願寺へ内葬を致しました。其の時検使に立ちました役人の評議にも、誰が殺したか、織江も手者だから容易な者に討たれる訳はないが、企んでした事か、どうも様子が分らん。死屍の傍に落ちてありましたのは、春部梅三郎がお小姓若江と密通をいたし、若江から梅三郎へ贈りました文と、小柄が落ちてありましたが、春部梅三郎は人を殺すような性質の者ではない、是も変な訳、何ういう訳で斯様な文が落ちてあったか頓と手掛りもなく、詰り分らず仕舞でござりました。織江には姉娘のお竹と祖五郎という今年十七になる忰があって、家督人でございます。此者が愁傷いたしまして、昼は流石に人もまいりますが、夜分は訪う者もござりませんから、位牌に向って泣いてばかり居りますと、同月二十五日の日に、お上屋敷からお呼出しでありますから、祖五郎は早速麻上下で役所へ出ますと、家老寺島兵庫差添の役人も控えて居り、祖五郎は恐入って平伏して居りますと、 寺島「祖五郎も少し進みますように」 祖「へえ」 寺島「此の度は織江儀不束の至りである」 祖「はっ」 寺島「仰せ渡されをそれ…」  差添のお役人が懐から仰せ渡され書を取出して読上げます。 一其の方父織江儀御用に付き小梅中屋敷へ罷り越し帰宅の途中何者とも不知切害被致候段不覚悟の至りに被思召無余儀永の御暇差出候上は向後江戸お屋敷は不及申御領分迄立廻り申さゞる旨被仰出候事 家老名判  祖五郎は 「はっ」  と頭を下げましたが、心の中では、父は殺され、其の上に又此のお屋敷をお暇になることかと思いますと、年が往きませんから、只畳へ額を摺付けまして、残念の余り耐えかねて男泣きにはら〳〵〳〵と泪を落す。御家老は膝を進めて言葉を和らげ、 寺「マヽ役目は是だけじゃが、祖五郎如何にもお気の毒なことで、お母さまには確か早く別れたから、大概織江殿の手一つで育てられた、其の父が何者かに討たれ剰え急にお暇になって見れば、差向何処と云って落着く先に困ろうとお察し申すが、まゝ又其の中に御帰参の叶う時節もあろうから、余りきな〳〵思っては宜しくない、心を大きく持って父の仇を報い、本意を遂げれば、其の廉によって再び帰参を取計らう時節もあろう、急いては事を仕損ずるという語を守らんければいかん、年来御懇意にもいたした間、お屋敷近い処にもいまいが、遠く離れた処にいても御不自由な事があったら、内々で書面をおよこしなさい」 祖「千万有難う存じます……志摩殿、幸五郎殿御苦労さまで」 志摩「誠にどうも此の度は何とも申そうようもない次第で、実にえゝ御尊父さまには一方ならぬ御懇命を受けました、志摩などは誠にあゝいうお方様がと存じましたくらいで、へえどうか又何ぞ御用に立つ事がありましたら御遠慮なく……此処は役所の事ですから、小屋へ帰りまして仰せ聞けられますように」 祖「千万有難う」  と仕方なく〳〵祖五郎は我小屋へ立帰って、急に諸道具を売払い、奉公人に暇を出して、弥々此処を立退かんければなりません。何処と云って便って往く目途もございませんが、彼の若江から春部の処へ送った文が残っていて、春部は家出をした廉はあるが、春部が父を殺す道理はない、はて分らん事で……確か梅三郎の乳母と云う者は信州の善光寺にいるという事を聞いたが、梅三郎に逢ったら少しは手掛りになる事もあろうと考えまして、前々勤めていた喜六という山出し男は、信州上田の在で、中の条村にいるというから、それを訪ねてまいろうと心を決しまして、忠平という名の如く忠実な若党を呼びまして、 祖「忠平手前は些とも寝ないのう、ちょいと寝なよ」 忠「いえ眠くも何ともございません」 祖「姉様と昨夜のう種々お話をしたが、屋敷に長くいる訳にもいかんから、此の通り諸道具を引払ってしまった、併し又再び帰る時節もあろうからと思い、大切な品は極別懇にいたす出入町人の家へ預けて置いたが、姉様と倶に喜六を便って信州へ立越る積りだ、手前も長く奉公してくれたが、親父も彼の通り追々老る年だし、菊はあゝ云う訳になったし、手前だけは別の事だから、こりゃア何の足しにもなるまいが、お父さまの御不断召だ、聊か心ばかりの品、受けて下さい、是まで段々手前にも宜く勤めて貰い、お父さまが亡い後も種々骨を折ってくれ、私は年が往かんのに、姉様は何事もお心得がないから何うして宜いかと誠に心配していたが、万事手前が取仕切ってしてくれ、誠に辱ない、此品はほんの志ばかりだ……また時が来て屋敷へ帰ることもあったら、相変らず屋敷へ来て貰いたい、此品だけを納めて下さい」 忠「へえ誠に有難う……」 竹「手前どうぞ岩吉にも会いたいけれども、立つ時はこっそりと立ちたいと思うから、よく親父にそう云っておくれよ」  と云われて、忠平は祖五郎とお竹の顔を視詰めて居りました。忠平は思い込んだ容子で、 忠「へえ……お嬢さま、私だけはどうかお供仰付け下さいますように願いたいもので、まア斯うやって私も五ヶ年御奉公をいたして居ります、成程親父は老る年ですが、まだ中々達者でございます、旦那様には別段に私も御贔屓を戴きましたから、忠平だけはお供をいたし、御道中と申しても若旦那様もお年若、又お嬢様だって旅慣れんでいらっしゃいますから、私がお供をしてまいりませんと、誠にお案じ申します、宅で案じて居りますくらいなら、却ってお供にまいった方が宜しいので、どうかお供を」 竹「それは私も手前に供をして貰えば安心だけれども、親父も得心しまいし、また跡でも困るだろう」 忠「いえ困ると申しても職人も居りますから、何うぞ斯うぞ致して居ります、なまじ親父に会いますと又右や左申しますから、立前に手紙で委しく云ってやります、どうか私だけはお邪魔でもお供を」 竹「誠に手前の心掛感心なことで……私も往って貰いたいというは、祖五郎も此の通りまだ年は往かず……併しそれも気の毒で」 忠「何う致しまして、私の方から願っても、此の度は是非お供を致そうと存じて居るので、どうか願います」 竹「そんなら岩吉を呼んで、宜く相談ずくの上にしましょう」 忠「いえ相談を致しますと、訳の分らんことを申してとても相談にはなりません、それより立つ前に書面を一本出して、ずっとお供をしてまいっても宜しゅうございます、心配ございません」  そんならばと申すので、是から段々旅支度をして、いよ〳〵翌日立つという前晩に、忠平が親父の許へ手紙を遣りました。親父の岩吉は碌に読めませんから、他人に読んで貰いましたが、驚いて渡邊の小屋へ飛んでまいりました。 岩「お頼ん申します」 忠「どうれ……おやお出でかえ」 岩「うん……手紙が来たから直に来た」 忠「ま此方へお出で」 岩「手前何かお嬢様方のお供をして信州とかへ行くてえが飛んだ話だ、え飛んだ話じゃアねえか、そんなら其の様にちゃんと己に斯ういう訳でお供を仕なければならぬがと、宜く己に得心させてから行くが宜い、ふいと黙って立っちまっては大変だと思ったから、遅くなりましてもと御門番へ断って来たんだ、えゝおい」 忠「お供してまいらなければならないんだよ、お嬢様は脾弱いお体、若旦那さまは未だお年がいかないから、信州までお送り申さなければなりません、お屋敷へ帰る時節があれば結構だが、容易に御帰参は叶うまいと思うが、長々留守になりますから、お前さんも身をお厭いなすって御大切に」 岩「其様なことを云ったって仕様がない、己は他に子供はない、お菊と手前ばかりだ、ところが菊は彼んな訳になっちまって、己アもう五十八だよ」 忠「それは知ってます」 岩「知ってるたって、己を置いて何処かへ行ってしまうと云うじゃアねえか、前の金太の野郎でも達者でいれば宜いが、己も此の頃じゃア眼が悪くなって、思うように難かしい物は指せなくなって居るから困る」 忠「困るって、是非お供をしなくっちゃアなりません」 岩「成らねえたって己を何うする」 忠「私が行って来るうち、お前は年を老ったって丈夫な身体だから死ぬ気遣いはありません」 岩「其様な事を云ったって人は老少不定だ、それも近え処ではなし、信州とか何とか五十里も百里もある処へ行くのだ、人間てえものは明日も知れねえ、其の己を置いて行くように宜く相談してから行け、手紙一本投込んで黙って行っちまっては親不孝じゃアねえか」 忠「それは重々私が悪うございましたが、相談をして又お前に止めたり何かされると困るから……これは武家奉公をすれば当然のことで」 岩「なに、武家奉公をすれば当然だと、旦那さまが教えたのか」 忠「お教えがなくっても当然だよ」 岩「然ういうことを手前は云うけれども、親父を棄てゝ田舎へ一緒に行けと若旦那やお嬢様は仰しゃる訳はあるめえ」 忠「それは送れとは仰しゃらんのさ、若旦那様や嬢様の仰しゃるには、老る年の親父もあるから、跡に残った方が宜かろう、と云って下すったが、多分にお手当も戴き、形見分けも頂戴し、殊に五ヶ年も奉公した御主人様が零落れて出るのを見棄てゝは居られません、何処までもお供をして、倶に苦労をするのが主従の間だから、悪く思って下さるな」  と説付けました。         二十七  段々訳を聞いても岩吉はまだ腑に落ちんので、 岩「主従はそれで宜かろうが、己を何うする」 忠「屋敷奉公をすりゃア斯ういう場合にはお供をするが当然さ、お前さんには済まないが忠義と孝行と両方は出来ません、忠孝全からずというは此の事さ」  岩吉にはまだ言葉の意味が分りませんから、怪訝な顔をして、 岩「何だア、忌に理窟を云やアがって、手前近え処じゃアなし、えおう五十里も百里もある処へ行くものを、まったからずって待たずに居られるか」 忠「然うじゃアありません、忠義をすれば孝行が出来ないという事です」 岩「それは親に孝行主人に忠義をしろてえ事は己も知っている、講釈や何かで聞いたよ」 忠「それですから孝行と忠義と両方は出来ませんよ」 岩「出来ねえって……骨を折ってやんなよ」 忠「うふゝゝ骨を折ってやれと云ったって出来ませんよ」 岩「手前は生意気に変なことを云って人を困らせるが、己は他に子供が無し、手前たった一人だ、年を老った親父を置いて一緒に行けと旦那様が仰しゃりアしめえし、跡へ残れ、可愛相だからと仰しゃるのに、手前の了簡で己を棄てゝ行く気になったんだ、親不孝な野郎め」 忠「なに親不孝ではありませんがね、私は御当家様へ奉公に来て、一文不通の木具屋の忰が、今では何うやら斯うやら手紙の一本も書け、十露盤も覚え、少しは剣術も覚えたのは、皆大旦那のお蔭、今日の場合にのぞんで年のいかない若旦那様やお嬢様のお供をして行かないと、忠義の道が立ちませんよ」 岩「それは分っているよ」 忠「分っているなら遣って下さいな」 岩「分ってはいるが、己を何うするよ」 忠「其様な分らないことを云っては困りますな、何うするたって私が帰るまで待って下さい」 岩「待てねえ、己ア待てねえ(さめ〴〵と泣きながら)婆さんが死んでから己ア職人の事で、思うように育てることが出来ねえからってんで、御当家様へ願ったんだ、それは御恩にはなったけれども、旦那様が何も手前を連れてって下さる事アねえ、何う考えても」 忠「分らん事をいうね、自分の御恩になった御主人様が斯ういう訳になったからだよ」 岩「何ういう訳に」 忠「他人に殺されてお暇になったんだよ」 岩「お暇……てえのは……お屋敷を出るんだろう」 忠「然うさ」 岩「出て……」 忠「分らんね、零落てしまうんだよ、御浪人になるんだよ、それだから私が従いて行かなければならない、仮令私が御免を蒙ると云ってもお前が己が若ければお供をして行くとこだが、手前何処までもお供申して御先途を見届けなければならんと云うのが当然な話だ、其のくらいな覚悟が無ければ、頭で武家奉公をさせんければ宜いや、然うじゃアありませんか、お前さんは屹度野暮に止めるに違いないと思ったから、手紙を上げたんだ、分りませんかえ」 岩「むゝ……分った、むゝう成程侍てえものは其様なものか……だから最初武家奉公は止そうと思った」 祖「忠平、親父が来たのじゃアないか」 忠「へい、親父がまいりました」 祖「おや〳〵宜くおいでだ、岩吉入んな」 岩「御免なせえまし、誠にお力落しさまで……今度急に忰を連れてお出でなさる事になったんで、まゝ是はどうも武家奉公をすれば当然のことで、へえ私も五十八で」 祖「貴様も老る年で親父も困ろうから跡へ残っているが宜いにと云っても、彼が真実に何処までも随いて行ってくれるという、その志を止められもせず、貴様には誠に気の毒でね」 岩「どうも是もまア武家奉公で、へゝゝゝ私は五十八でげす」 忠「お父さん、一つ事ばかり云ってゝ困るね其様な事を云うものではない、明日お立だからお餞別をしなければなりませんよ」 岩「え」 忠「お餞別をしなさいよ」 岩「なんだ……お花……は供げて来たよ」 忠「分らないよ、お餞別」 岩「え……煎餅を……なんだ」 忠「旅へ入らっしゃるお土産をよ」 岩「うん〳〵……何ぞ上げましょう、烟草盆の誂えがありますから彼品を」 忠「其様な大きなものはいけない」 岩「じゃア火鉢を一つ」 忠「いけないよ」 岩「それでは何か途中で喰る金米糖でも上げましょう、じゃア明日私が板橋までお送り申しましょう」 祖「そんな事をしないでも宜しい、忙がしい身体だから構わずに」 岩「へえ、忰を何卒何分お頼み申します、へゝゝ誠にもう私は五十八でごぜえます」  と一つ事ばかり云って、人の善い、理由の分りません人だから仕方がない。翌朝板橋まで送る。下役の銘々も多勢ぞろ〳〵と渡邊織江の世話になった者が、祖五郎お竹を送り立派な侍も愛別離苦で別れを惜んで、互に袖を絞り、縁切榎の手前から別れて岩吉は帰りました。祖五郎お竹等は先ず信州上田の在で中の条村という処へ尋ねて行かんければなりません。こゝで話二つに分れまして、彼の春部梅三郎は、奥の六畳の座敷に小匿れをいたして居り、お屋敷の方へは若江病気に就て急にお暇を戴きたいという願を出し、老女の計いで事なく若江はお暇の事になりましたは御慈悲でござります。さて此の若江の家へ宗桂という極感の悪い旅按摩がまいりまして、私は中年で眼が潰れ、誠に難渋いたしますから、どうぞ、御当家様はお客さまが多いことゆえ、療治をさせて戴きたいと頼みますと、慈悲深い母だから、 母「療治は下手だが、家にいたら追々得意も殖えるだろう、清藏丹誠をしてやれ」 清「へえ」  と清藏も根が情深い男だから丹誠をしてやります所から、療治は下手だが、廉いのを売物に客へ頼んで療治をさせるような事になりました。其の歳の十一月二十二日の晩に、母が娘のお若を連れまして、少々用事があって本庄宿まで参りました。春部梅三郎は件の隠家に一人で寝て居り、行灯を側へ引寄せて、いつぞや邸を出る時に引裂いた文は、何事が書いてあったか、事に取紛れて碌々読まなかったが、と取出して慰み半分に繰披き、なに〳〵「予て申合せ候一儀大半成就致し候え共、絹と木綿の綾は取悪き物ゆえ今晩の内に引裂き、其の代りに此の文を取落し置候えば、此の花は忽ち散果可申茎は其許さまへ蕾のまゝ差送候」はて…分らん…「差送候間御安意之為め申上候、好文木は遠からず枯れ秋の芽出しに相成候事、殊に安心仕り候、余は拝面之上匇々已上、別して申上候は」…という所から破れて分らんが、これは何の手紙だろう、少しも訳が分らん……どうも此の程から重役の者の内、殊に神原五郎治、四郎治の両人の者は、どうも心良からん奴だ、御舎弟様のお為にもならん事が毎度ある、伯父秋月は容易に油断をしないから、神原の方へ引込まれるような事もあるまいが、何の文だろう、何者の手跡だか頓と分らん、はてな。と何う考えても分りませんから、又巻納めて紙入の間へ挟んで寝ましたが、寝付かれません。其の内に離れて居りますけれども、宿泊人の鼾がぐう〳〵、往来も大分静かになりますと、ボンボーン、ばら〳〵〳〵と簷へ当るのは霙でも降って来たように寒くなり、襟元から風が入りますので、仰臥に寝て居りますと、廊下をみしり〳〵抜足をして来る者があります。廊下伝いになっては居るが、締りが附いていて、別に人の来られないようになって居りますから、 梅「誰が来たろう、清藏ではあるまいか、何だろう」  と態と睡った振で、ぐう〳〵と空鼾をかいて居りますと、廊下の障子を密と音のしないように開けて這込む者を梅三郎が細目を開いて見ますると、面部を深く包んで、尻ッ端折を致しまして、廊下を這って来て、だん〴〵行灯の許へ近づき、下からふっと灯を消しました。漸々探り寄って春部が仰臥けざまに寝ている鼻の上へ斯う手を当てゝ寝息を伺いました。 梅「す……はてな……何だろうか知ら、気味の悪い奴だ、どうして賊が入ったか、盗るものもない訳だが……己を殺しにでも来た奴か知らん」  とそこは若いけれども武家のことだから頓と油断はしません。眼を細目に開いて様子を見て居りますと、布団の間に挟んであった梅三郎の紙入を取出し、中から引出した一封の破れた手紙を透して、披げて見て押戴き懐中へ入れて、仕すましたり…と行きにかゝる裾を、梅三郎うゝんと押えました。         二十八  姿は優しゅうございますが、柔術に達した梅三郎に押えられたから堪りません。 曲者「御免なさい」 梅「黙れ……賊だな、さ何処から忍び込んだ」 曲者「何卒御免なすって」 梅「相成らん……何だ逃げようとして」  と逆に手を取って押付け。 梅「怪しい奴だ、清藏どん、泥坊が入りました。清藏どん〳〵聞えんか、困ったものだ、清藏どん」  少し離れた処に寝て居りました清藏が此の声を聞付け、 清「あい、はアー……あい〳〵……何だとえ、泥坊が入ったとえあれま何うもはア油断のなんねえ、庭伝えに入ったか、何にしろ暗くって仕様がねえ、店の方へ往って灯を点けて来るから、逃してはなんねえ」 梅「何だ此奴……動かすものか、これ……灯を早く持って来んかえ」  清藏は店から雪洞を点けて参り。 清「泥坊は何処に〳〵」 梅「清藏どん、取押えた、なか〳〵勝手を知った奴と見えて、廊下伝いに入った、力のある奴だが、柔術の手で押えたら動けん、今暴れそうにしたからうんと一当あてたから縛って下さい」 清「よし、此奴細っこい紐じゃア駄目だ、なに麻縄が宜い」  とぐる〳〵巻に縛ってしまいました。 曲者「何卒御免なすって……実は何でございます、へえ全く貧の盗みでございますから、何卒御免なすって」 清「貧の盗みなんてえ横着野郎め」  此の中下女などが泥坊と聞いて裸蝋燭などを持ってまいりました。 清「これもっと此方へ灯を出せ、あゝ熱いな、頭の上へ裸蝋燭を出す奴があるかえ、行灯を其方へ片附ちめえ、此の野郎頬被りいしやアがって、何処から入った」  と手拭をとって曲者の顔を見て驚き、 清「おや、此の按摩ア……汝は先月から己ア家へ来て、俄盲で感が悪くって療治が出来ねえと云うから、可愛相だと思って己ア家へ置いてやった宗桂だ、よく見りゃア虚盲で眼が明いてるだ、此の狸按摩汝、よく人を盲だって欺しアがった、感が悪くって泥坊が出来るかえ、此の磔めえ」  と二つばかり続けて撲ちました。 曲「御免なさい、誠にどうも番頭さん、実ア盲じゃアごぜえません、けれども旅で災難に遭いまして、後へは帰れず、先へも行かれず、仕様が有りませんから、実は喰方に困って此方はお客が多いから、按摩になってと思いまして入ったんでございますが、漸々銭が無くなっちまいましたから、江戸へ帰っても借金はあり、と云って故郷忘じ難く、何うかして帰りてえが、借金方の附くようにと思いまして、ついふら〳〵と出来心で、へえ、沢山金え盗るという了簡じゃアごぜえません、貧の盗みでございますから、お見遁しを願います」 清「此の野郎……此奴のいう事ア迂濶本当にア出来ねえ、嘘を吐く奴は泥坊のはじまり、最う泥坊に成ってるだ此の野郎」 曲「どうか御免なすって」 梅「いや〳〵手前は貧の盗みと云わせん事がある、貧の盗みなれば何故紙入れの中の金入れか銭入れを持って行かぬ、何で其の方は書付ばかり盗んだ」 曲「え……これはその何でございます、あゝ慌てましたから、貧の盗みで一途にその私は、へえ慌てまして」 梅「黙れ、手前はどうも見たような奴だ、此奴を確り縛って置き、殴っ挫いても其の訳を白状させなければならん、さ何ういう理由で此の文を盗った、手前は屋敷奉公をした奴だろう、谷中の屋敷にいた時分、どうも見掛けたような顔だ……手前は三崎の屋敷にいた事があったろうな」 曲「いえ……どう致しまして、私は麻布十番の者でごぜえます、古河に伯父がごぜえまして、道具屋に奉公して居りましたが、つい道楽だもんでげすから、お母が死ぬとぐれ出し、伯父の金え持逃げをしたのが始まりで、信州小室の在に友達が行って居りますから無心を云おうと思いまして参ったのでごぜえますが、途中で災難に遭い、金子を……」 梅「いや〳〵幾ら手前が陳じても、書付を取るというは何か仔細があるに相違ない、清藏どん打って御覧、云わなければ了簡がある、真実に貧の盗みなれば金を取らなければならん、書付を取るというはどうも理由が分らんから、責めなければならん」 清「さ云えよ、云わねえと痛えめをさせるぞ、誰か太っけえ棒を持って来い、角のそれ六角に削った棒があったっけ、なに長え…切って来う……うむ宜し…さ野郎、これで打つが何うだ」  と続け打ちに打ちますと、曲者は泣声を致しまして、 曲「御免なすって、貧の盗みで」 清「貧の盗みなんて生虚ア吐きやアがって、家へ来た時に汝何と云った、少せえ時に親父が死んで、お母の手にかゝっている内に、眼が潰れたって、言うことが皆な出たらめばかりだ、此の野郎(打つ)」 曲「あ痛〳〵〳〵痛うごぜえやす、どうか御勘弁を…悪い事はふッつり止めますから」 清「止るたって止めねえたって、何で手紙を盗んだ(又打つ)」 曲「あ痛うごぜえやす、何う云う訳だって、全く覚えが無んでごぜえやす、只慌てゝ私が……」 梅「黙れ、何処までも云わんといえば殺してしまうぞ、此方が先程から此の手紙が分らんと、幾度も読んで考えていたところだ、これは何か隠し文で、お屋敷の大事と思えば棄置かれん、五分試しにしても云わせるから左様心得ろ…」  と 「脇差を取って来る間逃げるとならんから」 清「なに縛ってあるから大丈夫だよ」 梅「五分だめしにするが何うだ、云わんければ斯うだ」  とすっと曲者の眼の先へ短刀いのを突付ける。 曲「あゝ危うごぜえやす、鼻の先へ刀を突付けちゃア……どうぞ御勘弁を」 梅「これ、手前が幾ら隠してもいかん事がある、手前は谷中三崎の屋敷で松蔭の宅に居た奴であろうな」 曲「へえ」 梅「もういけん、此書は松蔭から何者へ送るところの手紙か、又他から送った手紙か、手前は心得て居るか」 曲「へえ」 梅「いやさ、云わんければ手前は嬲り殺しにしても云わせなければならん、其の代り云いさえすれば小遣の少しぐらいは持たして免してやる」 清「そうだ、早く正直に云って、小遣を貰え、云わなければ殺されるぞ、さ云えてえば(又打つ)」 曲「あゝ痛うごぜえます、あ危うございます、鼻の先へ……えゝ仕方がないから申上げますが、実はなんでごぜえます、私が主人に頼まれて他へ持っていく手紙でごぜえます」 梅「むゝ何処へ持って行く」 曲「へえ先方は分りませんけれども持って行くので」 梅「これ〳〵先方の分らんということがあるか、何処へ……なに、先方が分っている、種々な事を云い居るの、先方が分ってれば云え」 曲「へえ、その何でごぜえます、王子の在にお寮があるので、その庵室見たような所の側の、些とばかりの地面へ家を建てゝ、楽に暮していた風流の隠居さんが有りまして、王子の在へ行って聞きゃア直に分るてえますから、実は其処は池の端仲町の光明堂という筆屋の隠居所だそうで、其家においでなさる方へ上げれば宜いと云付かって、私が状箱を持ってお馬場口から出ようとすると、今考えれば旦那様で、貴方に捕まったので、状箱を奪られちゃアならんと思いやして一生懸命に引張る途端、落ちた手紙を取ろうとする、奪られちゃア大変と争う機みに引裂かれたから、屋敷へ帰ることも出来ず、貴方の跡を尾けて此方へ入った限り影も形も見えず、だん〳〵聞けば、あのお小姓のお家だとの事ですから、俄盲だと云って入り込んだのも只其の手紙せえ持って行けば宜いんで、是を落すと私が殺されたかも知れねえんで」 梅「うん、わかった、いや大略分りました」 清「大略ってお前さんの心に大概分ったかえ」 梅「少し屋敷に心当りの者もある、此の書面は其の方の主人松蔭が書いたのか」 曲「いえ……誰が書いたか存じませんが、大切に持って行けよ、落したり失したりする事があると斬っちまうと云われて恟りしたんで、其の代り首尾好く持って行けば、金を二十両貰う約束で」 梅「むゝう……清藏どん、今に夜が明けてから一詮議しましょうから、冷飯でも喰わして物置へ棒縛りにして入れて置いて下さい」         二十九  清藏は曲者を引立てまして、 清「これ野郎立たねえか、今冷飯喰わしてやる、棒縛り程楽なものはねえぞ」  と是から到頭棒縛りにして物置へ入れて置きました。翌日梅三郎は曲者から取返した書面を出して見ると、再び今一つの裂端も一緒になっていたので、これ幸いと曲者の持っていた書面と継合せて見まして、 梅「中田千早様へ常磐よりと……常磐の二字は松蔭の匿名に相違ないが、千早と云うが分らん、彼の下男を縛ってお上屋敷へ連れて往こう、それにしても八州の手に掛け、縛って連れて行かなければならん」  と是から物置へまいり、曲者を曳出そうと思いますと、何時か縄脱をして、彼の曲者は逐電致してしまいました。そこで八州の手を頼み、手分をいたして調べましたが、何うしても知れません、なか〳〵な奴でございます。さて明和の五年のお話で……此の年は余り良い年ではないと見えまして、三月十四日に大阪曾根崎新地の大火で、山城は洪水でございました。続いて鳥羽辺が五月朔日からの大洪水であった、などという事で、其の年の六月十一日にはお竹橋へ雷が落ちて火事が出ました、などと云う余り良い事はございません。二月五日、粂野のお下屋敷では午祭の宵祭で大層賑かでございます。なれども御舎弟様御不例に就きまして、小梅のお中屋敷にいらしって、お下屋敷はひっそり致して居りますが、例年の事で、大して賑かな祭と申す方ではないが、ちら〳〵町人どもがお庭拝見にまいります。松蔭大藏の家来有助は姿を変え、谷中あたりの職人体に扮え、印半纏を着まして、日の暮々に屋敷へ入込んで、灯火の点かん前にお稲荷様の傍に設けた囃子屋台の下に隠れている内に、段々日が暮れましたから、町の者は亥刻になると屋敷内へ入れんように致します。灯火も忽ち消しまして静かになりました。是から人の引込むまでと有助は身を潜めて居りますと、上野の丑刻の鐘がボーン〳〵と聞える、そっと脱出して四辺を見廻すと、仲間衆の歩いている様子も無いから、 有「占めた」  と呟きながらお馬場口へかゝって、裏手へ廻り、勝手は宜く存じている有助、主人松蔭大藏方へ忍び込んで、縁側の方へ廻って来ると、烟草盆を烟管でぽん〳〵と叩く音。 有「占めた」  と云うので有助が雨戸の所を指先でとん〳〵とん〳〵と叩きますと、大藏が、 大「今開けるぞ、誰も居らんから心配せんでも宜い、有助今開けるぞ」  と云われて有助は驚きました。 有「去年の九月屋敷を出てしまい、それっきり帰らない此の有助が戸を叩いた計りで、有助とは実に旦那は智慧者だなア…これだから悪い事も善い事も出来るんだ」  松蔭大藏は寐衣姿で縁側へまいり、音をさせんように雨戸を開け、雪洞を差出して透し見まして、 大「此方へ入れ」 有「へえ、旦那様其の中は、面も被らずのめ〳〵上られた義理じゃアごぜえませんが、何うにも斯うにも仕方なしに又お屋敷へ帰ってまいりました、誠に面目次第もありません」 大「さ、誰も居らんから此方へ入れ〳〵」 有「へえ〳〵」 大「構わず入れ」 有「へえ、足が泥ぼっけえで」 大「手拭をやろう、さ、これで拭け」 有「此様な綺麗な手拭で足を拭いては勿体ねえようで……さて私も、ぬっと帰られた義理じゃアごぜえませんが、帰らずにも居られませんから、一通りお話をして、貴方に斬られるとも追出されるとも、何うでも御了簡に任せようと、斯う思いやして帰ってまいりましたので」 大「彼限りで音沙汰が無いから、何うしたかと実は心配致していた、手前は彼の手紙を何者かに奪られたな」 有「へえ、春部に奪られたので、春部の彼奴が若江という小姓と不義をして逃げたんで、其の逃げる時にお馬場口から柵矢来の隙間の巾の広い処から、身体を横にして私が出ようと思います途端に出会して、実にどうも困りました」 大「手紙を何うした奪られたか」 有「それがお前さん、鼻を摘まれるのも知れねえ深更で、突然状箱へ手を掛けやアがッたから、奪られちゃアならねえと思いやして、引張ると紐が切れて、手紙が落こちる、とうとう半分引裂かれたから、だん〳〵春部の跡を尾いて行くと、鴻の巣の宿屋へ入りやしたから、感が悪い俄盲ッてんで、按摩に化けて宿屋に入込み一度は旨く春部の持っていた手紙の裂を奪ったが、まんまと遣り損なって、物置へ棒縛りにして投込まれた、所で漸く縄脱けえして逃出しましたが、近辺にも居られやせんから、久しく下総の方へ隠れていやしたが、春部にあれを奪られて何う致すことも出来やせんので、へえ」 大「いや、それは宜しい、心配致すな、手前は己の家来ということを知るまい」 有「ところが知ってます〳〵、済まねえけれどもお前さん、ギラ〳〵するやつを引こ抜いて私の鼻っ先へ突付け云わねえけりゃア五分だめしにしちまう、松蔭の家来だろう、三崎の屋敷に居たろう、顔を知ってるぞ、さア何うだと責められて、つい左様でごぜえますと申しやした」 大「なにそれは云っても宜い、彼の晩には実ア神原も酷い目に遭った、何事も是程の事になったら幾らも失策はある、丸切りしくじって、此の屋敷を出てしまったところが、有助貴様も己と根岸に佗住居をしていた時を思えば、元々じゃアないか」 有「それは然うでごぜえます」 大「彼処に浪人している時分一つ鍋で軍鶏を突き合っていたんだからのう」 有「旦那のように然う小言を云わずにおくんなさるだけ、一倍面目無うござえます」 大「だによって行る処までやれ、今までの失策も許し、何もかも許してやる、それに手前此処に居ては都合が悪い、就ては金子が二十両有るからこれをやろう」 有「へえ、是は有難うごぜえます」 大「其の代り少し頼みがある、手前小梅のお中屋敷へ忍び込んで、お居間近く踏込み……いや是は手前にア出来ん、夜詰の者も多いが、何かに付けて邪魔になる奴は、彼の遠山權六だ、彼がどうも邪魔になるて」 有「へえー、あの国にいて米搗をしてえた、滅法界に力のある……」 大「うん、彼奴が終夜廻るというので、何うも邪魔だ」 有「へえー」 大「彼を手前殺して、ふいと家出をしてしまえ、何処へでも宜いから身を隠してくれ」 有「彼は殺せやせん、それはお前さん御無理で、からどうも彼のくれえ無法に力のある奴ア沢山有りません、植木屋が十人もよって動かせねえ石を、ころ〳〵動かします、天狗見たような奴で、それじゃアお前さん私を見殺しにするようなもので」 大「いや、通常じゃア敵わない、欺すに手なしだ、あゝいう剛力な奴は智慧の足りないもので、それに一体彼奴は侠客気が有ってのう、人を助けることが好きだ、手前何うかして田圃伝いに行って、田圃の中へ入らなければならんが、彼所にも柵があるから、其の柵矢来の裏手から入って、藪の中にうん〳〵呻っていろ」 有「私がですかえ」 大「うん、藪の中に泥だらけになって呻っていろ」 有「へえ」 大「すると忍び廻りで權六がやって来て何だと咎めるから、構わずうん〳〵呻れ」 有「気味の悪い、そいつア御免を蒙りやす、お金は欲しいが、彼奴の側へ無闇に行くのは危険です、汝は何だと押え付けられ、えゝと打たれりゃア一打で死にやすから」 大「そこが欺すに手なしだ、私は去年の九月松蔭を暇になりまして、行き所がございません、何うかして詫にまいりたいが中々主人は一旦言出すと肯きません、あなたはお国からのお馴染だそうでございますが、貴方が詫言をして下すったら否とは云いますまいから、何分お頼み申しますと、斯う手前泣付け」 有「然うすりゃア殺しませんか」 大「うん、只手前が悪い事をしたと云って、うん〳〵呻っていろ、何うして此処へ来たと聞いたら、実はお下屋敷の方へ参られませんから、此方へ参ったのでございます、旅で種々難行苦行をして、川を渉り雪に遇い、霙に遭い風に梳り、実に難儀を致しましたのが身体へ当って、疝癪が起り、少しも歩けませんからお助け下さいましと云え、すると彼奴は正直だから本当に思って自分の家へ連れて行って、粥ぐらいは喰わしてくれるから、大きに有難う、お蔭さまで助かりましたと云うと、彼奴が屹度己の処へ詫に来る、もし詫に来たら、彼は使わん、怪しからん奴だ、これ〳〵の奴だと手前の悪作妄作を云ってぴったり断る」 有「へえ、それは詰ねえ話で、其様な奴なら打殺してしまうってんで…」 大「いや〳〵大丈夫だ、まア聞け、とてもいかん〳〵という中に、段々味いを附けて手前の善い所を云うんだ」 有「成程」 大「正直の人間……とも云えないが、働くことは宜く働き、口も八丁手も八丁ぐらいな事は云う、手前を殺さないように、そんなら己の家へ置くと云ったら幸い、若し世話が出来ん出て行けと云ったら仕方が有りませんと泣く〳〵出れば、小遣いの一分や二分はくれる、それを貰って出てしまった所が元々じゃアないか、もし又首尾好く權六の方へ手前を置いてくれたら、深更に權六の寝間へ踏込んで權六を殺してくれ、また其の前にも己の処へ詫びに来る時にも、隙が有ったら、藪に倒れてゝ歩けない、担いでやろうとか手を引いてやろうとか云った時にも隙があったら、懐から合口を出して殺ちまえ、首尾好く仕遂せれば、神原に話をして手前を士分に取立てゝやろう、首尾好く殺して、ポンと逃げてしまえ、十分に事成った時には手前を呼戻して三百石のものは有るのう。手前が三百石の侍になれる事だが、どうか工夫をして行って見ろ、もし己のいう事を胡乱と思うなら、書附をやって置いても宜しい、お互に一つ鍋の飯を食い、燗徳利が一本限りで茶碗酒を半分ずつ飲んだ事もある仲だ、しくじらせる事も出来ずよ、旨く行けば此の上なしだ、出来損ねたところが元々じゃアないか」 有「成程……行って見ましょうが、彼の野郎を殺るのには何か刄物が無ければいけませんな」 大「待てよ、人の目に立たん証拠にならん手前の持ちそうな短刀がある、さ、これをやろう、見掛は悪くっても中々切れる、関の兼吉だ、やりそくなってはいかんぞ」 有「へえ宜しゅうごぜえます」 大「闇の晩が宜いの」 有「闇の晩、へえ〳〵」 大「小遣をやるから手前今晩の中屋敷を出てしまえ」 有「へえ」  と金と短刀を受取って、お馬場口から出て行きました。         三十  さて二の午も済みまして、二月の末になりまして、大きに暖気に相成りました。御舎弟紋之丞様は大した御病気ではないが、如何にも癇が昂ぶって居ります。夜詰の御家来も多勢附いて居ります、其の中には悪い家来が、間が宜くば毒殺をしようか、或は縁の下から忍び込んで、殺してしまう目論見があると知って、忠義な御家来の注意で、お畳の中へ銅板を入れて置く事があります。是は将軍様のお居間には能くあることで、これは間違いの無いようにというのと、今一つは湿けて宜しくないから、二重に遊ばした方が宜しいと二重畳にして御寝なる事になる。屏風を建廻して、武張ったお方ゆえ近臣に勇ましい話をさせ昔の太閤とか、又眞田は斯う云う計略を致しました、楠は斯うだというようなお話をすると、少しは紛れておいでゞございます。悪い奴が多いから、庭前の忍び廻りは遠山權六で、雨が降っても風が吹いても、嵐でも巡廻るのでございます。天気の好い時にも草鞋を穿いて、お馬場口や藪の中を歩きます。袴の裾を端折って脊割羽織を着し、短かいのを差して手頃の棒を持って無提灯で、だん〳〵御花壇の方から廻りまして、畠岸の方へついて参りますと、森の一叢ある一方は業平竹が一杯生えて居ります処で、 男「ウーン、ウーン」  と呻る声がしますから、權六は怪しんで透して見て、 權「何だ……呻ってるのは誰だ」 男「へえ、御免下さい、どうかお助けなすって下さいまし」 權「誰だ……暗い藪の中で……」 男「へえ、疝癪が起りまして歩くことが出来ません者で…」 權「誰だ……誰だ」 男「へえ、あなたは遠山様でございますか」 權「何うして己を……汝は屋敷の者か」 男「へえ、お屋敷の者でごぜえます」 權「誰だ、判然分らん、待て〳〵」  と懐から手丸提灯を取出し、懐中附木へ火を移して、蝋燭へ火を点して前へ差出し、 權「誰だ」 男「誠に暫く、御機嫌宜しゅう……だん〴〵御出世でお目出度うござえます」 權「誰だ」 有「えゝ、お下屋敷の松蔭大藏様の所に奉公して居りました、有助と申す中間でござえます」 權「ウン然うか、碌に会った事もない、それとも一度か二度会った事があるかも知れんが、忘れた、それにしても何うしたんだ」 有「へえ、あなたは委しい事を御存じありますめえが、去年の九月少し不首尾な事がありまして、家へは置かねえとって追出され、中々詫言をしても肯かねえと存じまして、友達を頼って田舎へめえりましたところが、間の悪い時にはいけねえもんで、其の友達が災難で牢へ行くことになり、留守居をしながら家内を種々世話をしてやりましたが、借金もある家ですから漸々行立たなくなって、居候どころじゃアごぜえませんから、出てくれろと云われるのは道理と思って出ましたが、他に親類身寄もありませんから、詫言をして帰りてえと思いましても、主人は彼の気象だから、詫びたところが置く気遣いは有りません、種々考えましたが、あなたは確か美作のお国からのお馴染でいらっしゃいますな」 權「然うよ」 有「あなたに詫言をして戴こうと斯う思いやして、旅から考えて参りましたところが、中々入れませんで、此の田の中をずぶ〳〵入って此処へ這込みやしたが、久しく喰わずにいたんで腹が空いて堪りません、雪に当ったり雨に遭ったりしたのが打って出て、疝癪が起って、つい呻りました、何分にも恐入りますが何うか主人に詫言をお願い申します」 權「むう、余程悪い事をしたな、免すめえ、困ったなア、なに物を喰わねえ」 有「へえ、実は昨日の正午から喰いません」 權「じゃア、ま肯くか肯かねえか分らんけれど、話しても見ようし、お飯は喰わしてやろう」 有「有難うござえます」 權「屋敷へつか〳〵無沙汰に入って呻ったりしないで、門から入れば宜いに……何しろ然う泥だらけじゃア仕方がねえから小屋へ来い」 有「有難うごぜえます」 權「さ行け」 有「貴方ね、疝癪で腰が攣って歩けません」 權「困った奴だ、何うかして歩け、此の棒を杖け」 有「へえ、有難うごぜえます」 權「それ確かりしろ」 有「へえ」 權「提灯を持て」 有「へえ」  と提灯の光ですかし見ると、去年見たよりも尚お肥りまして立派になり、肩幅が張ってゝ何うも凛々しい男で、怖いから、 有「へえ参ります」 權「さ行け」 有「旦那さま、誠に恐入りますが、片方に杖を突いても、此方の腰が何分起ちませんから、左の手をお持ちなすって」 權「世話アやかす奴だな、それ捉まれ」  と右の手を出して、 有「へえ有難う」  とひょろ〳〵蹌けながら肩へ捉まる。 權「確かりしろい」 有「へえ」  と云いながら懐よりすらりと短刀を抜いて權六の肋を目懸けてプツーり突掛けると、早くも身を躱して、 權「此の野郎」  と其の手を押えました。手首を押えられて有助は身体が痺れて動けません力のある人はひどいもので。併し直に役所へ引いて行かずに、權六が自分の宅へ引いて来たは、何か深い了簡あってのことゝ見えます。此のお話は暫く措きまして、是から信濃国の上田在中の条に居ります、渡邊祖五郎と姉の娘お竹で、お竹は大病で、田舎へ来ては勝手が変り、何かにつけて心配勝ち、左なきだに病身のお竹、遂に癪の病を引出しました。大した病気ではないが、キヤキヤと始終痛みます。祖五郎も心配致しています所へ手紙が届きました。披いて見ますと、神原四郎治からの書状でございます。渡邊祖五郎殿という表書、只今のように二日目に来るなどという訳にはまいりません。飛脚屋へ出しても十日二十日ぐらいずつかゝります。読下して見ると、 一簡奉啓上候余寒未難去候得共益々御壮健恐悦至極に奉存候然者当屋敷御上始め重役の銘々少しも異状無之御安意可被下候就ては昨年九月只今思い出候ても誠に御気の毒に心得候御尊父を切害致し候者は春部梅三郎と若江とこれ〳〵にて目下鴻ノ巣の宿屋に潜み居る由確かに聞込み候間早々彼の者を討果され候えば親の仇を討たれ候廉を以て御帰参相叶い候様共に尽力可仕候右の者早々御取押え有って可然候云々  と読了り、飛立つ程の悦び、年若でありますから忠平や姉とも相談して出立する事になりましたが、姉は病気で立つことが出来ません。 祖「もし逃げられてはならん、あなたは後から続いて、私一人でまいります」  と忠平にも姉の事を呉々頼んで、鴻の巣を指して出立致しました。五日目に鴻の巣の岡本に着きましたが、一人旅ではございますが、お武家のことだから宿屋でも大切にして、床の間のある座敷へ通しました。段々様子を見たが、手掛りもありません、宿屋の下婢に聞いたが頓と分りません、 祖「はてな……こゝに隠れていると云うが、まさか人出入の多い座敷に隠れている気遣いはあるまい、此処にいるに相違ない」  と便所へ行って様子を見廻したが、更に訳が分りません。         三十一  渡邊祖五郎は頻りに様子を探りますが、少しも分りません、夜半に客が寝静ってから廊下で小用を達しながら唯見ますと、垣根の向うに小家が一軒ありました。 祖「はてな……一つ庭のようだが」  と折戸を開けて、 祖「彼の家に隠れて居りはしないか」  と手水場の上草履を履いて庭へ下り、開戸を開け、折戸の許へ佇んで様子を見ますと、本を読んでいる声が聞える。何処から手を出して掛金を外すのか、但し栓張を取って宜いか訳が分りません、脊伸びをして上から捜って見ると、閂があるようだが、手が届きません。やがて庭石を他から持ってまいりまして、手を伸べて閂を右の方へ寄せて、ぐいと開けて中へ入り、まるで泥坊の始末でございます。縁側から密と覗いて見ますると、障子に人の影が映って居ります。 祖「はてな、此方にいるのは女のような声柄がいたす」  と密と障子の腰へ手をかけて細目に明けて、横手から覗いて見ますると、見違える気遣いはない春部梅三郎なれば、 祖「あゝ有難い、神仏のお引合せで、図らず親の仇に廻り逢った」  と心得ましたから、飛上って障子を引開け、中へ踏込んで身構えに及び、声を暴らげ、 祖「実父の仇覚悟をしろ」  と叫びましたが、梅三郎の方では祖五郎が来ようとは思いませんから驚きました。 梅「いやこれは〳〵思い掛ない……斯様な処でお目にかゝり面目次第もない、まア何ういう事で此方へ」 祖「汝も立派な武士だから逃隠れはいたすまい、何の遺恨あって父織江を殺害して屋敷を出た、殊に当家の娘と不義をいたせしは確かに証拠あって知る、汝の許へ若江から送った艶書が其の場に取落してあったが、よもや汝は人を殺すような人間でないと心得て居ったる処、屋敷から通知によって、確かに汝が父織江を討って立退いたる事を承知致した、斯くなる上は逃隠れはいたすまいから、届ける処へ届けて尋常に勝負を致せ」  と詰かけました。 梅「御尤もでござる、まア〳〵お心を静められよ、決して拙者逃隠れはいたしません、何も拙者が織江殿に意趣遺恨のある理由もなし、何で殺害をいたしましょうか、其の辺の処をお考え下さい、何者が左様な事を申したか、実に貴方へお目にかゝるのは面目次第もない心得違い、此処へ逃げてまいりまして、当家の世話になって居ります程の身上の宜しくない拙者ゆえ、何と仰せられても、斯様な事もいたすであろうと、さ人をも殺すかと思召しましょうが、何者が……」 祖「エーイ黙れ、確かの証拠あって知る事だ、天命逭れ難い、さ直にまいれ」 梅「と何ういう事の……」 祖「何ういう事も何もない、父の屍骸の傍に汝の艶書を遺してあったのが、汝の天命である」 梅「左様なれば拙者打明けて恥を申上げなければ成りませんが、お笑い下さるな、小姓若江と若気の至りとは申しながら、二人ともに家出を致しましたは、昨年の九月十一日の夜で、あゝ済まん事、旧来御恩を受けながら其のお屋敷を出るとは、誠に不忠不義のことゝ存じたなれども、御拝領の品を失い、殊に若江も妊娠いたし奉公が出来んと申すので、心得違いの至りではあるが、拙者若江を連出し、当家へまいって隠れて居りましたなれども、不義淫奔をして主家を立退くくらいの不埓者では有りますけれども、お屋敷に対しては忠義を尽したい心得、拙者がお屋敷を逃去る時に……手に入りました一封の密書、それを御覧に入れますから、少々お控えを願います、決して逃隠れは致しません、拙者も厄介人のこと、当家を騒がしては母が心配いたしますから、何卒お静かに此の密書を……如何にも若江から拙者へ遣わしましたところの文を其の場所に落して置き、此の梅三郎に其の罪を負わする企みの密書、織江殿を殺害いたした者はお屋敷内他にある考えであります」 祖「ムヽー証拠とあらば見せろ」 梅「御覧下さい」  と例の手紙を出して祖五郎に渡しました。祖五郎はこれを受取り、披いて見ましたところ、頓と文意が分りませんから、祖五郎は威丈高になって、 祖「黙れ、何だ斯様のものを以て何の云訳になる、これは何たることだ、綾が取悪いとか絹を破るとか、或は綿を何うとかすると些とも分らん」 梅「いえ、拙者にも匿名書で其の意味が更に分りませんが、拙者の判断いたしまする所では、お屋敷の一大事と心得ます」 祖「それは何ういう訳」 梅「左様、絹木綿は綾操にくきものゆえ、今晩の中に引裂くという事は、御尊父様のお名を匿したのかと心得ます、渡邊織江の織というところの縁によって、斯様な事を認いたのでも有りましょうか、此の花と申すは拙者を差した事で、今を春辺と咲くや此の花、という古歌に引掛けて、梅三郎の名を匿したので、拙者の文を其処へ取落して置けば、春部に罪を負わして後は、若江に心を懸ける者がお屋敷内にあると見えます、それを青茎の蕾の儘貴殿の許へ送るというのは若江を取持いたす約束をいたした事か、好文木とは若殿様を指した言葉ではないかと存じますと申すは、お下屋敷を梅の御殿と申しますからの事で、梅の異名を好文木と申せば、若殿紋之丞様の事ではないかと存じます、お秋の方のお腹の菊之助様をお世嗣に仕ようと申す計策ではないかと存ずる、其の際此の密書を中ば引裂いて逃げましたところの松蔭大藏の下人有助と申す者が、此の密書を奪られてはと先頃按摩に姿を窶し、当家へ入込み、一夜拙者の寝室へ忍び込み、此の密書を盗まんと致しましたところを取押えて棒縛りになし翌朝取調ぶる所存にて、物置へ打込んで置きましたら、いつか縄脱けをして逃去りましたから、確と調べようもござらんが、常磐というのは全く松蔭の匿名で大藏の家来有助が頼まれて尾久在へ持ってまいるとまでは調べました、またそれに千早殿と認めてあるのは、頓と分りませんが、多分神原の事ではござらんかと拙者考えます、お屋敷の内に斯様な悪人があって御舎弟紋之丞様を亡い、妾腹の菊之助様を世に出そうという企みと知っては棄置かれん事、是は拙者の考えで容易に他人に話すべき事ではござらんが、御再考下さるよう……拙者は決して逃隠れはいたしませんが、お互に年来御高恩を蒙った主家の大事、証拠にもならんような事なれども、お国家老へ是からまいって相談をして見とう存じます、是は貴方一人でも拙者一人でもならんから、両人でまいり、御城代へお話をして御意見を伺おうと存じますが如何でござる」  と段々云われると、予て神原や松蔭はお妾腹附で、どうも心懸が善くない奴と、父も頻りに心配いたしていたが、成程然うかも知れぬ、それでは棄置かれんと、それから二人が手紙を志す方へ送りました。祖五郎は又信州上田在中の条にいる姉の許へも手紙を送る。一度お国表へ行って来るとのみ認め、別段細かい事は書きません。さて両人は美作の国を指して発足いたしました。此方は入違って祖五郎の跡を追掛けて、姉のお竹が忠平を連れてまいるという、行違いに相成り、お竹が大難に出合いまするお話に移ります。         三十二  祖五郎は前席に述べました通り、春部梅三郎を親の敵と思い詰めた疑いが晴れたのみならず、悪者の密書の意味で、略ぼお家を押領するものが有るに相違ないと分り、私の遺恨どころでない、実に主家の大事だから、早くお国表へまいろうと云うので、急に二人梅三郎と共にお国へ出立いたしましたが、其の時姉のお竹の方へは、これ〳〵で梅三郎は全く父を殺害いたしたものではない、お屋敷の一大事があって、細かい事は申上げられんが、一度お国表へまいり、家老に面会して、どうかお家の安堵になるようと、梅三郎も同道してお国表へ出立致しますが、事さえ極れば遠からず帰宅いたします、それまで落着いて中の条に待っていて下さい、必らずお案じ下さらぬようにとの手紙がまいりました。なれどもお竹は案じられる事で、 竹「何卒して弟に会いたい、年歯もいかない事であるから、また梅三郎に欺かれて、途中で不慮の事でも有ってはならん」  と種々心配いたしても、病中でございますから立つことも出来ず、忠平に介抱されまして、段々と月日が経つばかり、其の内に病気も全快いたしましたが其の後国表から一度便りがござりまして、秋までには帰る事になるから、落着いて居てくれという文面ではありますが、其の内に六月も過ぎて七月になりました時に、身体も達者になり、こんな山の中に居たくもない、江戸へ帰って出入町人の世話に成りたい、忠平の親父も案じているであろうから、岩吉の処へ行って厄介になりたいと、常々喜六という家来に云って居りました。然るに此の喜六が亡くなった跡は、親戚ばかりで、別に恩を被せた人ではないから、気詰りで中の条にも居られませんので、忠平と相談して中の条を出立し、追分沓掛軽井沢碓氷の峠も漸く越して、松枝の宿に泊りました、其の頃お大名のお着きがございますと、いゝ宿屋は充満でございます。お大名がお一方もお泊りが有りますと、小さい宿屋まで塞がるようなことで、お竹は甲州屋という小さい宿屋へ泊りまして、翌朝立とうと思いますと、大雨で立つことも出来ず、其の内追々山水が出たので、道も悪し、板鼻の渡船も止り、其の他何処の渡船も止ったろうと云われ、仕方がなしに足を止めて居ります内に、心配致すのはいかんもので、船上忠平が風を引いたと云って寝たのが始りで、終に病が重くなりまして、どっと寝るような事になりました。お医者と云っても良いのはございません、開けん時分の事で、此の宿では第一等の医者だというのを宿の主人が頼んでくれましたが、まるで虚空蔵様の化物見たようなお医者さまで、脉を診って薬と云っても、漢家の事だから、草をむしったような誠に効能の薄いようなものを呑ませる中に、終に息も絶え〴〵になり、八月上旬には声も嗄れて思うように口も利けんようになりました。親の仇でも討とうという志のお竹でありますから、家来にも甚だ慈悲のあることで、 竹「あの忠平や」 忠「はい」 竹「お薬の二番が出来たから、お前我慢して嫌でもお服べ、確かりして居ておくれでないと困るよ」 忠「有難う存じますが、お嬢様私の病気も此の度は死病と自分も諦めました、とても御丹誠の甲斐はございませんから、どうぞもお薬も服まして下さいますな、もう二三日の内にむずかしいかと思います」 竹「お前そんなことを云っておくれじゃア私が困るじゃアないか、祖五郎はお国へ行き、喜六は死に、お前より他に頼みに思う者はなし、一人ではお屋敷へ帰ることも出来ず、江戸へ行ってもお屋敷近い処へ落着けない身の上になって、お前を私は家来とは思わない、伯父とも親とも力に思う其のお前に死なれ、私一人此処に残ってはお前何うする事も出来ませんよ」 忠「有難う……勿体ないお言葉でございます、僅か御奉公致しまして、何程の勤めも致しませんのに、家来の私を親とも伯父とも思うという其のお言葉は、唯今目を眠りまして冥土へ参るにも好い土産でございます、併し以前とちがって御零落なすって、今斯う云うお身の上におなり遊ばしたかと存じますと、私は貴方のお身の上が案じられます、どうぞ私の亡い後は、他に入っしゃる所もございません故、昨夜貴方が御看病疲れで能く眠っていらっしゃる内に、私が認いて置きました手紙が此処にございます、親父は無筆でございますから、仮名で細かに書いて置きましたから、あなたが江戸へ入らっしゃいまして、春木町の私の家へ行って、親父にお会いなさいましたら、親父が貴方だけの事はどうかまア年は老っても達者な奴でございますから、お力になろうと存じます、此処から私が死ぬと云う手紙を出しますと、驚いて飛んで来ると云うような奴ゆえ、却って親父に知らせない方が宜いと存じますから、何卒お嬢さん、はッはッ、私が死にましたら此処の寺へ投込みになすって道中も物騒でございますから、お気をお付けなすって、あなたは江戸へ入っしゃいまして親父の岩吉にお頼みなすって下さいまし」 竹「あい、それやア承知をしましたが、もし其様なことでもあると私はまア何うしたら宜かろう、お前が死んでは何うする事も出来ませんよ、何うか癒るようにね、病は気だというから、忠平確かりしておくれよ」 忠「いえ何うも此度はむずかしゅうございます」  と是が主従の別れと思いましたからお竹の手を執って、 忠「長らく御恩になりました」  と見上げる眼に泪を溜めて居りますから、耐えかねてお竹も、 竹「わア」  と枕元へ泣伏しました。此の家の息子が誠に親切に時々諸方へ往っちゃア、旨い物と云って田舎の事だから碌な物もありませんが、喰物を見附けて来ては病人に遣ります。宿屋の親父は五平と云って、年五十九で、江戸を喰詰め、甲州あたりへ行って放蕩をやった人間でございます。忰は此の地で生立た者ゆえ質朴なところがあります。 忰「父さま、今帰ったよ」 五「何処へ行ってた」 忰「なに医者の処へ薬を取りに行って聞いたが、医者殿が彼の病人はむずかしいと云っただ」 五「困ったのう、二人旅だから泊めたけれども、男の方は亭主だか何だか分らねえが、彼がお前死んでしまえば、跡へ残るのは彼の小娘だ、長え間これ泊めて置いたから、病人の中へ宿賃の催促もされねえから、仕方なしに遠慮していたけんど、医者様の薬礼から宿賃や何かまで、彼の男が亡くなってしまった日にゃア、誠に困る、身ぐるみ脱だって、碌な荷物も無えようだから、宿賃の出所があるめえと思って、誠に心配だ、とんだ厄介者に泊られて、死なれちゃア困るなア」 忰「それに就て父に相談打とうと思っていたが、私だって今年二十五に成るで、何日まで早四郎独身で居ては宜くねえ何様者でも破鍋に綴葢というから、早く女房を持てと友達が云ってくれるだ、乃で女房を貰おうと思うが、媒妁が入って他家から娘子を貰うというと、事が臆劫になっていかねえから、段々話い聞けば、あの男が死んでしまうと、私は年が行かないで頼る処もない身の上だ、浪人者で誠に心細いだと云っちゃア、彼の娘子が泣くだね」 五「浪人者だと…うん」 早「どうせ何処から貰うのも同じ事だから、彼の男がおっ死んだら、彼の娘を私の女房に貰えてえだ、裸じゃアあろうけれども、他人頼みの世話がねえので、直にずる〳〵べったりに嫁っ子に来ようかと思う、彼を貰ってくんねえか父」 五「馬鹿野郎、だから仕様がねえと云うのだ、これ、父はな、江戸の深川で生れて、腹一杯悪い事をして喰詰めっちまい、甲州へ行って、何うやら斯うやら金が出来る様になったが、詰り悪い足が有ったんで、此処へ逃げて来た時に、縁があって手前の死んだ母親と夫婦になって、手前と云う子も出来て、甲州屋という、ま看板を掛けて半旅籠木賃宿同様な事をして、何うやら斯うやら暮している事は皆なも知っている、手前は此方で生立って何も世間の事は知らねえが、家に財産は無くとも、旅籠という看板で是だけの構えをしているから、それ程貧乏だと思う人はねえ何処から嫁を貰っても箪笥の一個や長持の一棹ぐらい附属いて来る、器量の悪いのを貰えば田地ぐらい持って来るのは当然だ、面がのっぺりくっぺりして居るったって、あんな素性も分らねえ者を無闇に引張込んでしまって何うするだ、医者様の薬礼まで己が負わなければなんねえ」 早「それは然うよ、それは然うだけれど、他家から嫁子を貰やア田地が附いて来る、金が附いて来るたって、ま宅へ呼ばって、後で己が気に適らねえば仕様がねえ訳だ、だから己が気に適ったのを貰やア家も治まって行くと、夫婦仲せえ宜くば宜いじゃアねえか、貰ってくんろよ」 五「何を馬鹿アいう手前が近頃種々な物を買って詰らねえ無駄銭を使うと思った、あんな者が貰えるか」 早「何もそんなに腹ア立てねえでも宜い相談打つだ」 五「相談だって手前は二十四五にも成りやアがって、ぶら〳〵遊んでて、親の脛ばかり咬っていやアがる、親の脛を咬っている内は親の自由だ、手前の勝手に気に適った女が貰えるか」 早「何ぞというと脛え咬る〳〵てえが、父の脛ばかりは咬っていねえ、是でもお客がえら有れば種々な手伝をして、洗足持ってこ、草鞋を脱がして、汚え物を手に受けて、湯う沸して脊中を流してやったり、皆家の為と思ってしているだ、脛咬りだ〳〵てえのは止してくんろえ」 五「えゝい喧しいやい」  と流石に鶴の一声で早四郎も黙ってしまいました。此の甲州屋には始終極った奉公人と申す者は居りません、其の晩の都合によって、客が多ければ村の婆さんだの、宿外れの女などを雇います。七十ばかりになる腰の曲った婆さんが 婆「はい、御免なせえまし」 五「おい婆さん大きに御苦労よ、お前又晩に来てくんろよ、客の泊りも無いが、又晩には遊んで居るだろうから、ま来なよ」 婆「はい、あの只今ね彼処のそれ二人連の病人の処へめえりました」 五「おゝ、お前が行ってくれねえと、先方でも困るんだ」 婆「それが年のいかない娘子一人で看病するだから、病人は男だし、手水に行くたって大騒ぎで、誠に可愛想でがんすが、只た今おっ死にましたよ」 五「え、死んだと……困ったなアそれ見ろ、だから云わねえ事じゃアねえ、何様な様子だ」 婆「何様にも何にも娘子が声をあげて泣いてるだよ、あんた余り泣きなすって身体へ障るとなんねえから、泣かねえが宜うがんすよ、諦めねえば仕様がねえと云うと、私は彼に死なれると、年もいかないで往く処も無え、誠に心細うがんす、あゝ何うすべいと泣くだね、誠に気の毒な訳で」 五「はアー困ったもんだな」 早「私え、ちょっくら行って来よう」 五「なに手前は行かなくっても宜い」 早「行かなくっても宜いたって、悔みぐらいに行ったって宜かんべい」 五「えゝい、何ぞというと彼の娘の処へ計り行きたがりやアがる、勝手にしろ」  と大かすでございましたから早四郎は頬を膨らせて起って行く。五平は直にお竹の座敷へ参りまして。 五「はい、御免下せえ」  と破れ障子を開けて縁側から声を掛けます。 竹「此方へお入んなさいまし、おや〳〵宿の御亭主さん」 五「はい、只今婆アから承わりまして、誠に恟りいたしましたが、お連さまは御丹誠甲斐もない事で、お死去になりましたと申す事で」 竹「有難う、長い間種々お世話になりました、殊に御子息が朝晩見舞っておくれで、親切にして下さるから何ぞお礼をしたいと思って居ります、病人も誠に真実なお方だと悦んで居りました、私も丹誠が届くならばと思いましたが、定まる命数でございまする、只今亡くなりまして、誠に不憫な事を致しました」 五「いやどうも、嘸お力落しでございましょう、誠にお気の毒な事でございます、時に、あゝそれでもって伺いますが、お死去りなすった此の死骸は、江戸へおいでなさるにしても、信州へお送りになるにしても、死骸を脊負って行く訳にもいかないから此の村へ葬るより他に仕方はございますまいが、火葬にでもなすって、骨を持って入らっしゃいますか、其の辺の処を伺って置きたいもので」 竹「はい、何処と云って知己もございませんから、どうか火葬にして此の村へ葬り、骨だけを持ってまいりとう存じますが、御覧の通り是からは私一人でございますから、何かと世話のないように髪の毛だけでも江戸の親元へ参れば宜しゅうございますから、殊に当人は火葬でも土葬でも宜いと遺言をして死去りましたから、どうぞ御近処のお寺へお葬り下さるように願いたいもので」 五「左様でございますか、お泊り掛のお方で、何処の何という確かりとした何か証がないと、お寺も中々厳しくって請取りませんが、私どもの親類か縁類の人が此方へ来て、死んだような話にして、どうか頼んで見ましょう」  と此の話の中にいつか忰の早四郎が後へまいりまして、 早「なに然うしねえでも宜い、此の裏手の洪願寺さまの和尚様は心安くするから頼んで上げよう、まことに手軽な和尚様で、中々道楽坊主だよ、以前は叩鉦を叩いて飴を売ってた道楽者さ、銭が無ければ宜い、たゞ埋めて遣んべえなどゝいう捌けた坊様だ、其の代りお経なんどは読めねえ様子だが、銭金の少しぐれえ入るような事があって困るなら、沢山はねえが些とべいなら己が出して遣るべえ」 五「何だ、これ、お客様に失礼な、お前がお客さまに金を出して上げるとは何だ、そんな馬鹿な事をいうな」 早「父は何ぞというと小言をいうが、無ければ出してくれべえと云うだから宜かっぺえじゃアねえか」 五「其様な事ア何うでも宜いから、早く洪願寺へ行って願って来い」  是から息子がお寺へ行って和尚に頼みました。早速得心でございますから、急に人を頼んで、早四郎も手伝って穴を掘り、真実にくれ〳〵働いて居ります。丁度其の晩の事でございますが、宿屋の主人が、 五「へえ娘さん、えゝ今晩の内にお葬りになりますように」 竹「はい、少し早いようでございますが、何分宜しゅう……多分に手のかゝりませんように」 五「宜しゅうございます、其の積りに致しました、何も多勢和尚様方を頼むじゃアなし、お手軽になすった方が、御道中ゆえ宜しゅうございましょう」  と親切らしく主人が其の晩の中に、自分も随いて行って野辺送りを致してしまいました。         三十三  其の晩に脱出して、彼の早四郎という宿屋の忰が、馬子の久藏という者の処へ訪ねて参り、 早「おい、トン〳〵〳〵久藏眠ったかな、トン〳〵〳〵眠ったかえ。トン〳〵〳〵」  余りひどく表を敲くから、側の馬小屋に繋いでありました馬が驚いて、ヒイーン、バタ〳〵〳〵と羽目を蹴る。 早「あれまア、馬めえ暴れやアがる、久藏眠ったかえ……あれまア締りのねえ戸だ、叩いてるより開けて入る方が宜い、酔ぱれえになって仰向にぶっくり反って寝っていやアがる、おゝ〳〵顔に虻が附着いて居るのに痛くねえか、起ろ〳〵」 久「あはー……眠ったいに、まどうもアハー(あくび)むにゃ〳〵〳〵、や、こりゃア甲州屋の早四郎か、大層遅く来たなア」 早「うん、少し相談打ちに来たアだから目え覚せや」 久「今日は沓掛まで行って峠え越して、帰りに友達に逢って、坂本の宿はずれで一盃やって、よっぱれえになって帰って来たが、馬の下湯を浴わねえで転輾えって寝ちまった、眠たくってなんねえ、何だって今時分出掛けて来た」 早「ま、眼え覚せや、覚せてえに」 久「アハー」 早「大え欠伸いするなア」 久「何だ」 早「他のことでもねえが、此間汝がに話をしたが、己ア家の客人が病気になって、娘子が一人附いているだ、好い女子よ」 久「話い聞いたっけ、好い女子で、汝がねらってるって、それが何うしただ」 早「その連の病人が死んだだ」 久「フーム気の毒だのう」 早「就ては彼の娘を己の嫁に貰えてえと思って、段々手なずけた処が、当人もまんざらでも無えようで、謎をかけるだ、此の病人が死んでしまえば、行処もねえ心細い身の上でございますと云うから、親父に話をした処が、親父は慾張ってるから其様な者を貰って何うすると、頓と相手になんねえから、汝が己ア親父に会って話を打って、彼の娘を貰うようにしちゃアくんめえか」 久「然うさなア、どうもこれはお前ん処の父さまという人は中々道楽をぶって、他人のいう事ア肯かねえ人だよ、此の前荷い馬へ打積んで、お前ん処の居先で話をしていると、父さまが入り口へ駄荷い置いて気の利かねえ馬方だって、突転ばして打転ばされたが、中々強い人で、話いしたところが父さまの気に入らねえば駄目だよ、アハー」 早「欠伸い止せよ……これは少しだがの、汝え何ぞ買って来るだが、夜更けで何にもねえから、此銭で一盃飲んでくんろ」 久「気の毒だのう、こんなに差し吊べたのを一本くれたか、気の毒だな、こんなに心配されちゃア済まねえ、此間あの馬十に聞いたゞが、どうも全体父さまが宜くねえ、息子が今これ壮んで、丁度嫁を娶って宜い時分だに、男振も好し何処からでも嫁は来るだが、何故嫁を娶ってくれねえかと、父さまを悪く云って、お前の方を皆な誉めている、男が好いから女の方から来るだろう」 早「来るだろうって……どうも……親父が相談ぶたねえから駄目だ」 久「相談ぶたねえからって、お前は男が好いから娘を引張込んで、優しげに話をして、色事になっちまえ、色事になって何処かへ突走れ……己の家へ逃げて来う、其の上で己が行って、父さまに会ってよ、お前も気に入るめえが、若え同志で斯ういう訳になって、女子を連れて己の家へ来て見れば、家も治らねえ訳で、是も前の世に定まった縁だと思って、余り喧ましく云わねえで、己が媒妁をするから、彼を媳子にして遣ってくんろえ、家に置くのが否だなら、別に世帯を持たしても宜いじゃアねえかという話になれば、仕方がねえと親父も諦めべえ、色事になれや」 早「成れたって……成る手がゝりがねえ」 久「女に何とか云って見ろ」 早「間が悪くって云えねえ、客人だから、それに真面目な人だ、己が座敷へ入ると起上って、誠に長く厄介になって、お前には分けて世話になって、はア気の毒だなんて、中々お侍さんの娘だけに怖えように、凛々しい人だよ」 久「口で云い難ければ文を書いてやれ、文をよ、袂の中へ放り込むとか、枕の間へ挟むとかして置けい、娘子が読んで見て、宿屋の息子さんが然ういう心なれば嬉しいじゃアないか、どうせ行処がないから、彼の人と夫婦になりてえと、先方で望んでいたら何うする」 早「何だか知んねえが、それはむずかしそうだ」 久「そんな事を云わずにやって見ろ」 早「ところが私は文い書いた事がねえから、汝書いてくんろ、汝は鎮守様の地口行灯を拵えたが巧えよ、それ何とかいう地口が有ったっけ、そう〳〵、案山子のところに何か居るのよ」 久「然うよ、己がやったっけ、何か己え……然うさ通常の文をやっても、これ面白くねえから、何か尽し文でやりてえもんだなア」 早「尽し文てえのは」 久「尽しもんてえのは、ま花の時なれば花尽しよ、それからま山尽しだとか、獣類尽しだとかいう尽しもんで贈りてえなア」 早「それア宜いな、何ういう塩梅に」 久「今時だから何だえ虫尽しか何かでやれば宜いな」 早「一つ拵えてくんろよ」 久「紙があるけえ」 早「紙は持っている」 久「其処に帳面を付ける矢立の巨えのがあるから、茶でも打っ垂して書けよ、まだ茶ア汲んで上げねえが、其処に茶碗があるから勝手に汲んで飲めよ、虫尽しだな、その女子が此の文を見て、あゝ斯ういう文句を拵える人かえ、それじゃアと惚れるように書かねえばなんねえな」 早「だから何ういう塩梅だ」 久「ま其処へ一つ覚と書け」 早「覚……おかしいな」 久「おかしい事があるものか、覚えさせるのだから、一つ虫尽しにて書記し〓(「まいらせそろ」の草書体)よ」 早「一虫尽しにて書記し〓(「まいらせそろ」の草書体)」 久「えゝ女子の綺麗な所を見せなくちゃアなんねえ……綺麗な虫は……ア玉虫が宜い、女の美しいのを女郎屋などでは好い玉だてえから、玉虫のようなお前様を一と目見るより、いなご、ばったではないが、飛っかえるほどに思い候と書け」 早「成程いなご、ばったではないが、飛っかえるように思い候」 久「親父の厳しいところを入れてえな、親父はガチャ〴〵虫にてやかましく、と」 早「成程……やかましく」 久「お前の傍に芋虫のごろ〴〵してはいられねえが、えゝ……簑虫を着草鞋虫を穿き、と」 早「何の事だえ」 久「汝が野らへ行く時にア、簑を着たり草鞋を穿いたりするだから」 早「成程……草鞋虫を穿きい」 久「かまぎっちょを腰に差し、野らへ出てもお前様の事は片時忘れるしま蛇もなく」 早「成程……しま蛇もなく」 久「えゝ、お前様の姿が赤蜻蛉の眼の先へちら〳〵いたし候」 早「何ういう訳だ」 久「蜻蛉の出る時分に野良へ出て見ろ、赤蜻蛉が彼方へ往ったり此方へ往ったり、目まぐらしくって歩けねえからよ」 早「成程……ちら〳〵いたし候」 久「えゝと、待てよ……お前と夫婦になるなれば、私は表で馬追い虫、お前は内で機織虫よ」 早「成程……私は馬を曳いて、女子が機を織るだな」 久「えゝ…股へ蛭の吸付いたと同様お前の側を離れ申さず候、と情合だから書けよ」 早「成程……お前の側を離れ申さず候か、成程情合だね」 久「えゝ、虻蚊馬蠅屁放虫」 早「虻蚊馬蠅屁放虫」 久「取着かれたら因果、晩げえ私を松虫なら」 早「……晩げえ私を松虫なら」 久「藪蚊のように寝床まで飛んでめえり」 早「藪蚊のように寝床まで飛んでめえり」 久「直様思いのうおっ晴し候、巴蛇の長文句蠅々〓(かしく」の草書体)」 早「成程是りゃア宜いなア」 久「是じゃア屹度女子がお前に惚れるだ、これを知れねえように袂の中へでも投り込むだよ」  と云われ、早四郎は馬鹿な奴ですから、右の手紙を書いて貰って宅へ帰り、そっとお竹の袂へ投込んで置きましたが、開けて見たって色文と思う気遣いはない。翌朝になりますと宿屋の主人が、 五「お早うございます」 竹「はい、昨夜は段々有難う」 五「えゝ段々お疲れさま……続いてお淋しい事でございましょう」 竹「有難う」 五「えゝ、お嬢さん、誠に一国な事を申すようですが、私は一体斯ういう正直な性質で、私どもはこれ本陣だとか脇本陣だとか名の有る宿屋ではございませんで、ほんの木賃宿の毛の生えた半旅籠同様で、あなた方が泊ったところが、さしてお荷物も無し、お連の男衆は御亭主かお兄様か存じませんが、お死去になってあなた一人残り、一人旅は極厳ましゅうございまして、え、横川の関所の所も貴方はお手形が有りましょう、越えて入らっしゃいましたから、私どもでも安心はして居りますが、何しろ御病気の中だから、毎朝宿賃を頂戴いたす筈ですが、それも御遠慮申して、医者の薬礼お買物の立替え、何や彼やの御勘定が余程溜って居ります、それも長旅の事で、無いと仰しゃれば仕方が無いから、へえと云うだけの事で、宿屋も一晩泊れば安いもので、長く泊れば此んな高いものはありません、就ては一国なことを申すようですが、泊って入らっしゃるよりお立ちになった方がお徳だろうし、私も其の方が仕合せで、どうか一先ず立って戴きたいもので」 竹「はい、私はさっぱり何事も家来どもに任して置きました内に病気附きましたので、つい宿賃も差上げることを失念致した理由でもございませんが、病人にかまけて大きに遅うなりました、嘸かし御心配で、胡乱の者と思召すかは知りませんが、宿賃ぐらいな金子は有るかも知れません、直に出立いたしますから、早々御勘定をして下さい、何の位あれば宜いか取って下さいまし」  とお屋敷育ちで可なりの高を取りました人のお嬢さんで、宿屋の亭主風情に見くびられたと思っての腹立ちか、懐中からずる〴〵と納戸縮緬の少し汚れた胴巻を取出し、汚れた紙に包んだ塊を見ると、おおよそ七八十両も有りはしないかと思うくらいな大きさだから、五平は驚きました。泊った時の身装も余り好くなし、さして、着換の着物もないようでありました、是れは忠平が、年のいかない娘を連れて歩くのだから、目立たんように態と汚れた衣類に致しまして、旅寠れの姿で、町人体にして泊り込みましたので、五平は案外ですから驚きました。 竹「どうか此の位あれば大概払いは出来ようかと思いますが、書付を持って来て下さい」  と云われたので、流石の五平も少し気の毒になりましたが、 五「はい〳〵、えゝ、お嬢さま、誠に私はどうも申訳のない事をいたしました、あなた御立腹でございましょうが、あなたを私が見くびった訳でもなんでもない、実はその貴方にお費りのかゝらんように種々と心配致しまして、馬子や舁夫を雇いましても宿屋の方で値切って、なるたけ廉くいたさせるのが宿屋の亭主の当然でへえ見下げたと思召しては恐入ります、只今御勘定を致します、へい〳〵どうぞ御免なすって」  と帳場へまいりまして、 五「あゝ大層金子を持っている、彼は何者か知らん」  と暫くお竹の身の上を考えて居りましたが、別に考えも附きません。医者の薬礼から旅籠料、何や彼やを残らず書付にいたして持って来ましたが、一ヶ月居ったところで僅かな事でございます。お竹は例の胴巻から金を出して勘定をいたし、そこ〳〵手廻りを取片附け、明日は早く立とうと舁夫や何かを頼んで置きました。其の晩にそっと例の早四郎が忍んで来まして、 早「お客さん……お客さん……眠ったかね、お客さん眠ったかね」 竹「はい、何方」 早「へえ私でがすよ」 竹「おや〳〵御子息さん、さ此方へ……まだ眠りはいたしませんが、蚊帳の中へ入りましたよ」 早「えゝ嘸まア力に思う人がおっ死んで、あんたは淋しかろうと思ってね、私も誠に案じられて心配してえますよ」 竹「段々お前さんのお世話になって、何ぞお礼がしたいと思ってもお礼をする事も出来ません」 早「先刻親父が処え貴方が金え包んで種々厄介になってるからって、別に私が方へも金をくれたが、そんなに心配しねえでも宜え、何も金が貰いてえって世話アしたんでねえから」 竹「それはお前の御親切は存じて居ります誠に有難う」 早「あのー昨夜ねえ、私が貴方の袂の中へ打投り込んだものを貴方披いて見たかねえ」 竹「何を…お前さんが…」 早「あんたの袂の中へ書えたものを私が投り込んだ事があるだ」 竹「何様な書いたもの」 早「何様たって、丹誠して心のたけを書いただが、あんたの袂に書いたものが有ったんべい」 竹「私は少しも知らないので、何か無駄書の流行唄かと思いましたから、丸めて打棄ってしまいました」 早「あれ駄目だね、流行唄じゃアねえ、尽しもんだよ、艶書だよ、丸めて打棄っては仕様がねえ、人が種々丹誠したのによ」  と大きに失望をいたして欝いでいます。         三十四  お竹は漸々に其の様子を察して、可笑しゅうは思いましたが、また気の毒でもありますからにっこり笑って、 竹「それは誠にお気の毒な事をしましたね」 早「お気の毒ったって、まア困ったな、どうも私はな……実アな、まア貴方も斯うやって独身で跡へ残って淋しかろうと思い私も独身でいるもんだから、友達が汝え早く女房を貰ったら宜かろうなんてって嬲られるだ、それに就いては彼の優気なお嬢さんは、身寄頼りもねえ人だから、病人が死なば己がの女房に貰いてえと友達に喋っただ、馬十てえ奴と久藏てえ奴が、ぱっ〳〵と此れを方々へ触れたんだから、忽ち宿中へ広まっただね」 竹「そんな事お前さん云立てをしておくれじゃア誠に困ります」 早「困るたって私もしたくねえが、冗談を云ったのが広まったのだから、今じゃア是非ともお前さんを私の女房にしねえば、世間へ対して顔向が出来ねえから、友達に話をしたら、親父が厳ましくって仕様がねえけんども、貴方と己と怪しな仲になっちまえば、友達が何うでも話をして、親父に得心のうさせる、どうせ親父は年い老ってるから先へおっ死んでしまう、然うすれば此の家は皆己のもんだ、貴方が私の女房に成ってくれゝば、誠に嬉しいだが、今夜同志に此の座敷で眠っても宜かんべえ」 竹「怪しからん事をお云いだね、お前はま私を何だとお思いだ、優しいことを云っていれば好い気になって、お前私が此処へ泊っていれば、家の客じゃアないか、其の客に対して宿屋の忰が然んな無礼なことを云って済みますか、浪人して今は見る影もない尾羽打枯した身の上でも、お前たちのようなはしたない下郎を亭主に持つような身の上ではありません、無礼なことをお云いでない、彼方へ行きなさい」 早「魂消たね……下郎え……此の狸女め……そんだら宜え、そうお前の方で云やア是まで親父の眼顔を忍んで銭を使って、お前の死んだ仏の事を丹誠した、また尽しものを書いて貰うにも四百と五百の銭を持ってって書いて貰ったわけだ、それを下郎だ、身分が違うと云えば、私も是までになって、あんたに其んなことを云われゝば友達へ顔向が出来ねえから、意気張ずくになりゃア敵同志だ、可愛さ余って憎さが百倍、お前の帰りを待伏して、跡を追かけて鉄砲で打殺す気になった時には、とても仕様がねえ、然うなったら是までの命だと諦めてくんろ」 竹「あらまア、そんな事を云って困るじゃアないか、敵同志だの鉄砲で打つのと云って」 早「私は下郎さ、お前はお侍の娘だろう、併し然う口穢く云われゝば、私だって快くねえから、遺恨に思ってお前を鉄砲で打殺す心になったら何うするだえ」 竹「困るね、だけども私はお前に身を任せる事は何うしても出来ない身分だもの」 早「出来ないたって、病人が死んでしまえば便りのない者で困るというから、家へ置くべいと思って、人に話をしたのが始まりだよ、どうも話が出来ねえば出来ねえで宜いから覚悟をしろ、親父が厳ましくって家にいたって駄目だから、やるだけの事をやっちまう、棒鼻あたりへ待伏せて鉄砲で打ってしまうから然う思いなせえ」 竹「まアお待ちなさい」  と止めましたのは、此様な馬鹿な奴に遇っては仕様がない、鉄砲で打ちかねない奴なれど、斯る下郎に身を任せる事は勿論出来ず、併し世に馬鹿程怖い者はありませんから、是は欺すに若くはない、今の中は心を宥めて、ほとぼりの脱けた時分に立とうと心を決しました。 竹「あの斯うしておくれな私のようなものをそれ程思ってくれて、誠に嬉しいけれども、考えても御覧、たとえ家来でも、あゝやって死去ってまだ七日も経たん内に、仏へ対して其んな事の出来るものでもないじゃアないか」 早「うん、それは然うだね、七日の間は陰服と云って田舎などではえら厳ましくって、蜻蛉一つ鳥一つ捕ることが出来ねえ訳だから、然ういう事がある」 竹「だからさ七日でも済めば、親御も得心のうえでお話になるまいものでもないから、今夜だけの処は帰っておくれ」 早「然うお前が得心なれば帰る、田舎の女子のように直ぐ挨拶をする訳には往くめえが、お前のように否だというから腹ア立っただい、そんなら七日が済んで、七日の晩げえに来るから、其の積りで得心して下さいよ」  とにこ〳〵して、自分一人承知して帰ってしまいました。斯様な始末ですからお竹は翌朝立つことが出来ません、既に頼んで置いた舁夫も何も断って、荷物も他所へ隠してしまいました。主人の五平は、 五「お早うございます、お嬢さま、えゝ只今洪願寺の和尚様が前をお通りになりましたから、今日お立ちになると申しましたら、和尚様の言いなさるには、それは情ない事だ、遠い国へ来て、御兄弟だか御親類だか知らないが、死人を葬り放しにしてお立ちなさるのは情ない、せめて七日の逮夜でも済ましてお立ちになったら宜かろうに、余りと云えば情ない、それでは仏も浮まれまいとおっしゃるから、私も気になってまいりました、長くいらっしゃったお客様だ、何は無くとも精進物で御膳でもこしらえ、へゝゝゝ、宅へ働きにまいります媼達へお飯ア喰わして、和尚様を呼んで、お経でも上げてお寺参りでもして、それから貴方七日を済まして立って下されば、私も誠に快うございます、また貴方様も仏様のおためにもなりましょうから、どうか七日を済ましてお立ちを」 竹「成程私も其の辺は少しも心附きませんでした、大きに左様で、それじゃア御厄介序に七日まで置いて下さいますか」  というので七日の間泊ることになりました。他に用は無いから、毎日洪願寺へまいり、夜は回向をしては寝ます。宵の中に早四郎が来て種々なことをいう。忌だが仕方がないから欺かしては帰してしまう。七日まで〳〵と云い延べている中に早く六日経ちました。丁度六日目に美濃の南泉寺の末寺で、谷中の随応山南泉寺の徒弟で、名を宗達と申し、十六才の時に京都の東福寺へまいり、修業をして段々行脚をして、美濃路辺へ廻って帰って来たので、まだ年は三十四五にて色白にして大柄で、眉毛のふっさりと濃い、鼻筋の通りました品の好い、鼠無地に麻の衣を着、鼠の頭陀を掛け、白の甲掛脚半、網代の深い三度笠を手に提げ、小さな鋼鉄の如意を持ちまして隣座敷へ泊った和尚様が、お湯に入り、夕飯を喰べて夜に入りますと、禅宗坊主だからちゃんと勤めだけの看経を致し、それから平生信心をいたす神さまを拝んでいる。何と思ったかお竹は襖を開けて、 竹「御免なさいまし」 僧「はい、何方じゃ」 竹「私はお相宿になりまして、直き隣に居りますが、あなた様は最前お著の御様子で」 僧「はい、お隣座敷へ泊ってな、坊主は経を誦むのが役で、お喧ましいことですが、夜更まで誦みはいたしません、貴方も先刻から御回向をしていらっしったな」 竹「私は長らく泊って居りますが、供の者が死去りまして、此の宿外れのお寺へ葬りました、今日は丁度七日の逮夜に当ります、幸いお泊り合せの御出家様をお見掛け申して御回向を願いたく存じます」 僧「はい〳〵、いや〳〵それはお気の毒な話ですな、うん〳〵成程此の宿屋に泊って居る中、煩うてお供さんが…おう〳〵それはお心細いことで、此の村方へ御送葬になりましたかえ、それは御看経をいたしましょう、お頼みはなくとも知ればいたす訳で、何処へ参りますか」 竹「はい、こゝに机がありまして、戒名もございます」 僧「あゝ成程左様ならば」  と是から衣を着換え、袈裟を掛けて隣座敷へまいり、机の前へ直りますと、新しい位牌があります、白木の小さいので戒名が書いてあります。 僧「あゝ、是ですか、えゝ、むう八月廿四日にお死去になったな、うむ、お気の毒な事で南無阿弥陀仏々々々々々々、宜しい、えゝ、お線香は私が別に好いのを持って居りますから、これを薫きましょう」  と頭陀の中から結構な香を取出し、火入の中へ入れまして、是から香を薫き始め、禅宗の和尚様の事だから、懇に御回向がありまして、 僧「えゝ、お戒名は如何さま好いお戒名で、うゝ光岸浄達信士」 竹「えゝ、是は只心ばかりで、お懇の御回向を戴きまして、ほんのお布施で」 僧「いや多分に貴方、旅の事だから布施物を出さんでも宜しい、それやア一文ずつ貰って歩く旅僧ですから、一文でも二文でも御回向をいたすのは当然で、併し布施のない経は功徳にならんと云うから、これは戴きます、左様ならば私は旅疲れゆえ直ぐに寝ます、ま御免なさい」  と立ちかけるを留めて、 竹「あなた少々お願いがございます」 僧「はい、なんじゃな」  と又坐る。お竹はもじ〳〵して居りましたが、応て、 竹「おつな事を申上げるようでございますが、当家の忰が私を女と侮りまして、毎晩私の寝床へまいって、怪しからん事を申しかけまして、若し云うことを肯かなければ殺してしまうの、鉄砲で打つのと申します、馬鹿な奴と存じますから、私も好い加減に致して、七日でも済んだら心に従うと云い延べて置きましたが、今晩が丁度七日の逮夜で、明朝早く此の宿を立とうと存じますから、屹度今晩まいって兎や角申し、又理不尽な事を致すまいものでもあるまいと存じますで、誠に困りますが、幸い隣へお相宿になりましたから、事に寄ると私が貴方の方へ逃込んでまいりますかも知れません、其の時には何卒お助け遊ばして下さるように」 僧「いや、それは怪しからん、それは飛んだ事じゃ私にお知らせなさい、押えて宿の主人を呼んで談じます、然ういう事はない、自分の家の客人に対して、女旅と侮り、恋慕を仕掛けるとは以ての外の事じゃ、実に馬鹿程怖い者はない、宜しい〳〵、来たらお知らせなさい」 竹「何卒願います」  と少し憤った気味で受合いましたから、大きにお竹も力に思って、床を展って臥りました、和尚さまは枕に就くと其の儘旅疲れと見え、ぐう〳〵と高鼾で正体なく寝てしまいました。お竹は鼾の音が耳に附いて、どうも眠られません、夜半に密と起きて便所へまいり、三尺の開きを開けて手を洗いながら庭を見ると、生垣になっている外は片方は畠で片方は一杯の草原で、村の人が通るほんの百姓道でございます。秋のことだから尾花萩女郎花のような草花が咲き、露が一杯に下りて居ります。秋の景色は誠に淋しいもので、裏手は碓氷の根方でございますから小山続きになって居ります。所々ちら〳〵と農家の灯火が見えます、追々戸を締めて眠た処もある様子。お竹が心の中で。向うに幽かに見えるあの森は洪願寺様であるが、彼処へ葬り放しで此処を立つのは不本意とは存じながら、長く泊っていれば、宿屋の忰が来て無理無体に恋慕を云い掛けられるのも忌な事であると、庭の処から洪願寺の森を見ますと、生垣の外にぬうと立っている人があります。男か女か分りませんが、頻りと手を出してお出〳〵をしてお竹を招く様子、腰を屈めて辞儀をいたし、また立上って手招ぎをいたします。 竹「はてな、私を手招ぎをして呼ぶ人はない訳だが……男の様子だな、事によったら敵の手係りが知れて、人に知れんように弟が忍んで私に会いに来たことか、それとも屋敷から内々音信でもあった事か」  と思わず褄を取りまして、其処に有合せた庭草履を穿いて彼の生垣の処へ出て見ると、十間ばかり先の草原に立って居りまして、頻りと招く様子ゆえお竹は、はてな……と怪しみながら又跡を慕ってまいりますと、又男が後へ退って手招きをするので、思わず知らずお竹は畠続きに洪願寺の墓場まで参りますと、新墓には光岸浄達信士という卒塔婆が立って樒が上って、茶碗に手向の水がありますから、あゝ私ゃア何うして此処まで来たことか、私の事を案じて忠平が迷って私を救い出すことか、ひょっとしたら私が気を落している所へ附込んで、狐狸が化すのではないか、もし化されて此様な処へ来やアしないかと、茫然として墓場へ立止って居りました。         三十五  此方は例の早四郎が待ちに待った今宵と、人の寝静るを窺うてお竹の座敷へやって参り、 早「眠ったかね〳〵、お客さん眠ったかえ……居ねえか……約束だから来ただ、幮の中へ入っても宜いかえ入るよ、入っても宜いかえ」  と理不尽に幮を捲って中へ入り。 早「眠ったか……あれやア居ねえわ、何処え行っただな、私が来る事を知っているから逃げたか、それとも小便垂れえ行ったかな、ア小便垂れえ行ったんだ、逃げたって女一人で淋しい道中は出来ねえからな、私ア此の床の中へ入って頭から掻巻を被って、ウフヽヽ屈なんでると、女子は知んねえからこけえ来る、中へお入んなさいましと云ったところで、男が先へ入っていりゃア間を悪がって入れめえから、小さくなってると、誰もいねえと思ってすっと入って来ると、己アこゝにいたよって手を押めえて引入れると、お前来ねえかと思ったよ、なに己ア本当に是まで苦労をしたゞもの、だから中え入るが宜い、入っても宜いかえと引張込めば、其の心があっても未だ年い行かないから間を悪がるだ、屹度然うだ、こりゃア息い屏して眠った真似えしてくれべえ」  と止せば宜いのに早四郎はお竹の寝床の中で息を屏して居りました。暫く経つと密と抜足をして廊下をみしり〳〵と来る者があります。古い家だから何なに密と歩いても足音が聞えます、早四郎は床の内で来たなと思っていますと、密と障子を開け、スウー。早四郎は障子を開けたなと思っていますと、ぷつり〳〵と、吊ってありました幮の吊手を切落し、寝ている上へフワリと乗ったようだから、 早「何だこれははてな」  と考えて居りますと、片方では片手で探り、此処ら辺が喉笛と思う処を探り当てゝ、懐から取出したぎらつく刄物を、逆手に取って、ウヽーンと上から力に任せて頸窩骨へ突込んだ。 早「あゝ」  と悲鳴を上げるのを、ウヽーンと剜りました。苦しいから足をばた〳〵やる拍子に襖が外れたので、和尚が眼を覚して、 僧「はゝ、夜這が来たな」  と思いましたから起きて来て見ると、灯火が消えている。 僧「困ったな」  と慌てゝ手探りに枕元にある小さな鋼鉄の如意を取って透して見ると、判然は分りませんが、頬被りをした奴が上へ乗しかゝっている様子。 僧「泥坊」  と声をかける大喝一声、ピイーンと曲者の肝へ響きます。 曲者「あっ」  と云って逃げにかゝる所へ如意で打ってかゝったから堪らんと存じまして、刄物で切ってかゝるのを、胆の据った坊さんだから少しも驚かず、刄物の光が眼の先へ見えたから引外し、如意で刄物を打落し、猿臂を延して逆に押え付け、片膝を曲者の脊中へ乗掛け、 僧「やい太い奴だ、これ苟めにも旅籠を取れば客だぞ、其の客へ対して恋慕を仕掛けるのみならず、刄物などを以て脅して情慾を遂げんとは不埓至極の奴だ、これ宿屋の亭主は居らんか、灯火を早く……」  という処へ帰って来ましたのはお竹で。 竹「おや何で」 僧「む、お怪我はないか」 竹「はい、私は怪我はございませんが、何でございます」 僧「恋慕を仕掛けた宿屋の忰が、刄物を持って来て貴方に迫り、わっという声に驚いて眼をさまして来ました、早く灯火を……廊下へ出れば手水場に灯火がある」  という中に雇婆さんが火を点して来ましたから、見ると大の男が乗掛って床が血みどりになって居ります。 僧「此奴被り物を脱れ」  と被っている手拭を取ると、早四郎ではありませんで、此処の主人、胡麻塩交りのぶっつり切ったような髷の髪先の散ばった天窓で、お竹の無事な姿を見て、えゝと驚いてしかみ面をして居ります。 僧「お前は此の宿屋の亭主か」 五「はい」 竹「何うしてお前は刄物を持って私の部屋へ来て此様な事をおしだか」 五「はい〳〵」  とお竹に向って、 五「あ…貴方はお達者でいらっしゃいますか、そうして此の床の中には誰がいますの」  と布団を引剥いで見ますと、今年二十五になります現在己の実子早四郎が俯伏になり、血に染って息が絶えているのを見ますと、五平は驚いたの何のではございません、真蒼になって、 五「あゝ是は忰でございます、私の忰が何うして此の床の中に居りましたろう」 僧「何うして居たもないものだ、お前が殺して置きながら、お前はまア此者が何の様な悪い事をしたか知らんが、本当の子か、仮令義理の子でも無闇に殺して済む理由ではない、何ういう理由じゃ」 五「はい〳〵、お嬢さま、あなたは今晩こゝにお休みはございませんのですか」 竹「私はこゝに寝ていたのだが、不図起きて洪願寺様へ墓参りに行って、今帰って来ましたので」 五「何うして忰が此処へ参って居りましたろう」 僧「いや、お前の忰は此の娘さんの所へ毎晩来て怪しからんことを云掛け、云う事を肯んければ、鉄砲で打つの、刄物で斬るのと云うので、娘さんも誠に困って私へお頼みじゃ、娘さんが墓参りに行った後へお前の子息が来て、床の中に入って居るとも知らずお前が殺したのじゃ」 五「へえ、あゝー、お嬢さま真平御免なすって下さいまし、実は悪い事は出来ないもんでございます、忽ちの中に悪事が我子に報いました、斯う覿面に罰の当るというのは実に恐ろしい事でございます、私は他に子供はございません、此様の田舎育ちの野郎でも、唯た一粒者でございます、人間は馬鹿でございますが、私の死水を取る奴ゆえ、母が亡りましてから私の丹誠で是までにした唯た一人の忰を殺すというのは、皆私の心の迷い、強慾非道の罰でございます」 僧「土台呆れた話じゃが、何ういう訳でお前は我子を殺した」 五「はい、申上げにくい事でございますが、此の甲州屋も二十年前までは可なりな宿屋でございました処が、私は年を老りましても、酒や博奕が好きでございまして、身代を遂に痛め、此者の母も苦労して亡りました、斯うやって表を張ては居りますが、実は苦しい身代でございます、ところが此のお嬢様が先達て宿賃をお払いなさる時に、懐から出した胴巻には、金が七八十両あろうと見た時は、面皰の出る程欲しくなりました、あゝ此の金があったら又一山興して取附く事もあろうかと存じまして、無理に七日までお泊め申しましたが、愈々明日お立ちと聞きましたゆえ、思い切って今晩密と此のお嬢様を殺して金を奪ろうと企みました、死骸は田圃伝えに背負出して、墓場へ人知れず埋めてしまえば、誰にも知れる気遣いないと存じまして、忍んで参りました、道ならぬ事をいたした悪事は、忽ち報い、一人の忰を殺しますとは此の上もない業曝しで、実に悪い事は出来ないと知りました、私も最う五十九でございます、お嬢さま何とも申し訳がございませんから、私は死んでしまい、貴方に申訳をいたします」  と云切るが早いか、出刄庖丁を取って我が咽に突立てんとするから、 僧「あゝ暫く待ちなさい、まア待ちなさい、お前がこれ死んだからって言訳が立つじゃアなし、命を棄てたって何の足しにもなりゃアせん、嬢さんの御迷惑にこそなれ、宜いか先非を悔い、あゝ悪い事をした、唯た一人の子を殺したお前の心の苦しみというものは一通りならん事じゃ、是も皆罰だ、一念の迷いから我子を殺し、其の心の苦しみを受け、一旦の懺悔によって其の罪は消えている、見なさいお嬢様の一命は助かり、お前の子はお嬢様の身代りになったんじゃ、誠に気の毒なは此の息子さん、嬢さん何事も此の息子さんに免じてお前さんも堪弁なさい、何日までも仇に思っていると却ってお前さんの死んだ御家来さんの為にもならん、宜いか、又御亭主は客に対して無礼をしたとか、道楽をして棄置れん、親に苦労をかけて堪らんから殺しましたと云って尋常に八州へ名告って出なさい、なれども一人の子を私に殺すのは悪い事じゃから髪の毛を切って役所へ持って行けば、是には何か能々の訳があって殺したという廉で、お前さんに甚く難儀もかゝるまいと思う、然うして出家を遂げ、息子さんの為に四国西国を遍歴して、其の罪滅しをせんければ、兎ても尋常の人に成れんぞ」 五「はい〳〵」 僧「是から陰徳を施し、善事を行うが肝心、今までの悪業を消すは陰徳を積むより他に道はないぞ」 五「有難うございます」 僧「あゝ何うも気の毒な事じゃなア、お嬢さん」         三十六  お竹は不思議な事と心の内で忠平の霊に回向をしながら、 竹「ま、私は助かりましたが、誠に思い掛けない事で」 僧「いや〳〵世間は無常のもので、実に夢幻泡沫で実なきものと云って、実は真に無いものじゃ、世の人は此の理を識らんによって諸々の貪慾執心が深くなって名聞利養に心を焦って貪らんとする、是らは只今生の事のみを慮り、旦暮に妻子眷属衣食財宝にのみ心を尽して自ら病を求める、人には病は無いものじゃ、思う念慮が重なるによって胸に詰って来ると毛孔が開いて風邪を引くような事になる、人間元来病なく、薬石尽く無用、自ら病を求めて病が起るのじゃ、其の病を自分手に拵え、遂に煩悩という苦悩も出る、之を知らずに居って、今死ぬという間際の時に、あゝ悪いことをした、あゝせつない何う仕よう、此の苦痛を助かりたいと、始めて其の時に驚いて助からんと思っても、それは兎ても何の甲斐もない事じゃ、此の理を知らずして破戒無慚邪見放逸の者を人中の鬼畜といって、鬼の畜生という事じゃ、それ故に大梅和尚が馬祖大師に問うて如何なるか是れ仏、馬祖答えて即心即仏という、大梅が其の言下に大悟したという、其の時に悟ったじゃ、此の世は実に仮のものじゃ、只四縁の和合しておるのだ、幾らお前が食物が欲しい著物が欲しい、金が欲しい、斯ういう田地が欲しいと云った処が、ぴたりと息が絶えれば、何一つ持って行くことは出来やアしまい、四縁とは地水火風、此の四つで自然に出来ておる身体じゃ、仮に四大(地水火風)が和合して出来て居るものなれば、自分の身体も有りはせん、実は無いものじゃ、自然に是は斯うする物じゃという処へ心が附かんによって、我心があると思われ、我身体を愛し、自分に従うて来る人のみを可愛がって、宜う訪ねて来てくれたと悦び、自分に背く者は憎い奴じゃ、彼奴はいかんと云うようになる、人を憎む悪い心が別にあるかというに、別にあるものでもない、即仏じゃ、親父が娘を殺して金子を奪ろうとした時の心は実に此の上もない極重悪人なれども、忽ち輪回応報して可愛い我子を殺し、あゝ悪い事をしたと悔悟して出家になるも、即ち即心即仏じゃ、えゝ他人を自分の身体と二つあるものと思わずに、欲しい惜しいの念を棄てゝしまえば、争いもなければ憤る事もない、自他の別を生ずるによって隔意が出来る、隔意のある所から、物の争いが出来るものじゃ、先方に金があるから取ってやろうとすると、先方では私の物じゃから遣らん用を勤めたら金を遣るぞ、勤めをして貰うのは当然だから、先方へくれろ、それを此方で只取ろうとする、先方では渡さんとする、是が大きゅうなると戦争じゃ、実に仏も心配なされて西方極楽世界阿弥陀仏を念じ、称名して感想を凝せば、臨終の時に必ず浄土へ往生すと説給えり、南無阿弥陀仏〳〵」  圓朝が此様なことを云ってもお賽銭には及びません、悪くすると投げる方があります。段々と有難い事を彼の宗達という和尚さんが説示したからお竹も五平を恨む念は毛頭ありません。 竹「お前此の金が欲しければ皆な上げよう」 五「いえ〳〵金は要りません、私は剃髪して罪滅しの為に廻国します」  というので剃刀を取寄せて宗達が五平をくり〳〵坊主にいたしました。早四郎の死骸は届ける所へ届けて野辺の送りをいたし、後は他人へ譲り、五平は罪滅しのため四国西国へ遍歴に出ることになり、お竹は是より深い事は話しませんが、 「私は粂野美作守の家来渡邊という者の娘で、弟は祖五郎と申して、只今は美作国へまいって居ります、弟にも逢いたいと存じますし、江戸屋敷の様子も聞きたし、弟もお国表へまいって家老に面会いたし、事の仔細が分りますれば江戸屋敷へまいる筈で、何の道便りをするとは申して居りましたが、案じられてなりませんから、家来の忠平という者を連れてまいる途で長く煩いました上、遂に死別れになりまして、心細い身の上で、旅慣れぬ女のこと、どうか御出家様私を助けると思召し、江戸までお送り遊ばして下さいますれば、何の様にもお礼をいたしましょう、お忙しいお身の上でもございましょうが、お連れ遊ばして下さいまし」  と頼まれて見ると宗達も今更見棄てる事も出来ず、 宗「それは気の毒なことで、それならば私と一緒に江戸まで行きなさるが宜い私は江戸には別に便る処もないが、谷中の南泉寺へ寄って已前共に行脚をした玄道という和尚がおるから、それでも尋ねたいと思う、ま兎も角もお前さんを江戸屋敷まで送って上げます」  と云うので漸うの事にて江戸表へまいりましたが、上屋敷へも下屋敷へもまいる事が出来んのは、予てお屋敷近い処へ立寄る事はならんと仰せ渡されて、お暇になった身の上ゆえ、本郷春木町の指物屋岩吉方へまいり、様子を聞くと、岩吉は故人になり、職人が家督を相続して仕事を受取って居りますことゆえ、迚も此処の厄介になる事は出来ません。仕方がないので、どうか様子を下屋敷の者に聞きたいと谷中へ参りますと、好い塩梅に佐藤平馬という者に会って、様子を聞くと、平馬の申すには、 平「弟御は此方へおいでがないから、此の辺にうろ〳〵しておいでになるはお宜しくない、全体お屋敷近い処へ入らっしゃるのは、そりゃアお心得違いな事で、ま貴方は信州においでゞ、時節を待ってござったら御帰参の叶う事もありましょう、御舎弟も春部殿も未だ江戸へはお出がない、仮令御家老に何んなお頼みがありましても無駄な話でございます」  と撥付けられ、 竹「左様なら弟は此方へまいっては居りませんか」 平「左様、御舎弟は確にお国においでだという話は聞きましたが、多分お国へ行って、お国家老へ何かお頼みでもある事でございましょう、併し大殿様は御病気の事であるが、事に寄ったら御家老の福原様が御出府になる時も、お暇になった者を連れてお出になる筈がないから、是は好い音信を待ってお国にお出でございましょう、殿様は御不快で、中々御重症だという事でございまして、私共は下役ゆえ深い事は分りませんが、此のお屋敷近い処へ立廻るはお宜しくない事で」  という。此の佐藤平馬という奴は、内々神原五郎治四郎治の二人から鼻薬をかわれて下に使われる奴、提灯持の方の悪い仲間でございますから、斯く訳の分らんように云いましたのは、お竹にお屋敷の様子が聞かしたくないから、真実しやかに云ってお屋敷近辺へ置かんように追払いましたので、お竹はどうも致方がない、旧来馴染の出入町人の処へまいりましても、長く泊っても居られません、又一緒にまいった宗達も、長くは居られません理由があって、或時お竹に向い、 宗「私は何うしても美濃の南泉寺へ帰らんければならず、それに又私は些と懇意なものが有って、田舎寺に住職をしている其の者を尋ねたいと思うが、貴方は是から何処へ参らるゝ積りじゃ」 竹「何処へも別にまいる処もありませんが、お国へまいれば弟が居ります、成程御家老も弟を連れて、お出は出来ますまい、御帰参の叶う吉左右を聞くそれまではお国表にいる事でございましょうから、私もどうかお国へ参りとうございます」 宗「併しどうも女一人では行かれんことで、何ともお気の毒な事だ、じゃアまア美作の国といえば是れ百七八十里隔った処、私が送る訳にはいかんが、今更見棄てることも出来ないが、美濃の南泉寺までは是非行かんければならん、東海道筋も御婦人の事ゆえ面倒じゃ、手形がなければならんが、何うか工風をして私がお送り申したいが、困った事で、兎に角南泉寺まで一緒に行きなさい、彼方の者は真実があって、随分俗の者にも仏心があってな、寺へ来て用や何かするからそいらに頼んだら美作の方へ用事があってまいる者があるまいとも云えぬ、其の折に貴方を頼んでお国へ行かれるようだと私も安心をします、私は坊主の身の上で、婦人と一緒に歩くのは誠に困る、衆人にも見られて、忌な事でも云われると困る、けれども是も仕方がないから、ま行きなさるが宜い、私は本庄宿の海禅寺へ寄って一寸玄道という者に会って、それから又美濃まで是非行きますから御一緒にまいろう、それには木曾路の方が銭が要らん」  と御出家は奢らんから、寒くなってから木曾路を引返し本庄宿へまいりまして、婦人ではあるけれどもこれ〳〵の理由だ、と役僧にお竹の身の上話をして、其の寺に一泊いたし、段々日数を経てまいりましたが、元より貯え金は所持している事で、漸く碓氷を越して軽井沢と申す宿へまいり、中島屋という宿屋へ宿を取りましたは、十一月の五日でござります。         三十七  木曾街道でも追分沓掛軽井沢などは最も寒い所で、誰やらの狂歌に、着て見れば綿がうすい(碓氷)か軽井沢ゆきたけ(雪竹)あって裾の寒さよ、丁度碓氷の山の麓で、片方は浅間山の裾になって、ピイーという雪風で、暑中にまいりましても砂を飛し、随分半纒でも着たいような日のある処で、恐ろしい寒い処へ泊りました。もう十一月になると彼の辺は雪でございます、初雪でも沢山降りますから、出立をすることが出来ません、詮方がないから逗留という事になると、お竹は種々心配いたしている。それを宗達という和尚さまが真実にしてくれても何とのう気詰り、便りに思う忠平には別れ、弟祖五郎の行方は知れず、お国にいる事やら、但しは途中で煩ってゞもいやアしまいか、などと心細い身の上で何卒して音信をしたいと思っても何処にいるか分らず、御家老様の方へ手紙を出して宜いか分りませんが、心配のあまり手紙を出して見ました。只今の郵便のようではないから容易には届かず、返事も碌に分らんような不都合の世の中でございます。お竹は過越し方を種々思うにつけ心細くなりました、これが胸に詰って癪となり、折々差込みますのを宗達が介抱いたします、相宿の者も雪のために出立する事が出来ませんから、多勢囲炉裡の周囲へ塊って茫然して居ります。中には江戸子で土地を食詰めまして、旅稼ぎに出て来たというような職人なども居ります。 ○「おい鐵う」 鐵「えゝ」 ○「からまア毎日〳〵降込められて立つことが出来ねえ、江戸子が山の雪を見ると驚いちまうが、飯を喰う時にずうと並んで膳が出ても、誰も碌に口をきかねえな」 鐵「そうよ、黙っていちゃア仕様がないから挨拶をして見よう」 ○「えゝ」 鐵「挨拶をして見ようか」 ○「しても宜いが、きまりが悪いな」 鐵「えゝ御免ねえ……へえ……どうも何でごぜえやすな、お寒いことで」 △「はア」 鐵「お前さん方は何ですかえ、相宿のお方でげすな」 △「はア」 鐵「何を云やアがる……がア〳〵って」 ○「手前が何か云うからはアというのだ、宜いじゃアねえか」 鐵「変だな、えゝゝ毎日膳が並ぶとお互に顔を見合せて、御飯を喰ってしまうと部屋へ入ってごろ〳〵寝るくれえの事で仕様がごぜえやせんな、夜になると退屈で仕様が有りませんが、なんですかえお前さん方は何処かえお出でなすったんでげすかえ」 △「私はその大和路の者であるが、少し仔細あって、えゝ長らく江戸表にいたが、故郷忘じ難く又帰りたくなって帰って来ました」 鐵「へえー然うで……其方のお方はお三人連で何方へ」 □「私は常陸の竜ヶ崎で」 鐵「へえ」 □「常陸の竜ヶ崎です」 鐵「へえー何ういう訳で此様な寒い処へ常陸からおいでなさったんで」 □「種々信心がありまして、全体毎年講中がありまして、五六人ぐらいで木曾の御獄様へ参詣をいたしますが、村の者の申し合せで、先達さんもお出になったもんだから、同道してまいりやした、実は御獄さんへ参るにも、雪を踏んで難儀をして行くのが信心だね」 鐵「へえー大変でげすな、御獄さんてえのは滅法けえ高え山だってね」 □「高いたって、それは富士より高いと云いますよ、あなた方も信心をなすって二度もお登りになれば、少しは曲った心も直りますが」 鐵「えへゝゝゝ私どもは曲った心が直っても、側から曲ってしまうから、旨く真直にならねえので……えゝ其方においでなさる方は何方で」  此の客は言葉が余程鼻にかゝり、 ×「私は奥州仙台」 鐵「へえ…仙台てえのは」 ×「奥州で」 鐵「左様でがすか、えゝ衣を着てお頭が丸いから坊さんでげしょう」 ×「いしやでがす」 鐵「へ何ですと」 ×「医者でがす」 鐵「石工だえ」 ×「いゝや医道でがす」 鐵「へえー井戸掘にア見えませんね」 ×「井戸掘ではない、医者でがす」 鐵「へえーお医者で、私どもはいけぞんぜえだもんだから、お医者と相宿になってると皆も気丈夫でごぜえます、些とばかり薄荷があるなら甜めたいもんで」 ×「左様な薬は所持しない、なれども相宿の方に御病気でお困りの方があって、薬をくれろと仰しゃれば、癒る癒らないは、それはまた薬が性に合うと合わん事があるけれども、盛るだけは盛って上げるて」 鐵「へえー、斯う皆さんが大勢寄って只茫然していても面白くねえから、何か面白え百物語でもして遊ぼうじゃアありやせんか、大勢寄っているのですから」 医「それも宜うがすが、ま能く大勢寄ると阿弥陀の光りという事を致します、鬮引をして其の鬮に当った者が何か買って来るので、夜中でも厭いなく菓子を買に行くとか、酒を買に行くとかして、客の鬮を引いた者は坐ってゝ少しも動かずに人の買って来る物を食して楽しむという遊びがあるのです」 鐵「へえーそれは面白えが、珍らしい話か何かありませんかな」 医「左様でげす、別に面白い話もありませんですな」 鐵「気のねえ人だな何か他に」 ○「手前出て先へ喋るがいゝ」 鐵「喋るたって己ア喋る訳には行かねえ、何かありませんかな、お医者さまは奥州仙台だてえが、面白え怖ねえ化物が出たてえような事はありませんかな」 医「左様で別に化物が出たという話もないが、奥州は不思議のあるところでな」 鐵「へえー左様でござえやすかな」 医「貴方は何ですかえ、松島見物にお出になった事がありますかえ」 鐵「いや何処へも行ったことはねえ」 医「松島は日本三景の内でな、随分江戸のお方が見物に来られるが此のくらい景色の好い所はないと云ってな、船で八百八島を巡り、歌を詠じ詩を作りに来る風流人が幾許もあるな」 鐵「へえー松島に何か心中でもありましたかえ」 医「情死などのあるところじゃアないが、差当って別にどうも面白い話もないが、医者は此様な穢い身装をして居てはいけません、医者は居なりと云うて、玄関が立派で、身装が好って立派に見えるよう、風俗が正しく見えるようでなければ病者が信じません、随って薬も自から利かんような事になるですが、医者は頓知頓才と云って先ず其の薬より病人の気を料る処が第一と心得ますな」 鐵「へえー何ういう……気を料る処がありますな」 医「先年乞食が難産にかゝって苦しんでいるのを、所の者が何うかして助けて遣りたいと立派な医者を頼んで診て貰うと、是はどうも助からん、片足出ていなければ宜いが、片手片足出て首が出ないから身体が横になって支えてゝ仕様がない、細かに切って出せば命がないと途方に暮れ、立合った者も皆な可愛そうだと云っている処へ通りかゝったのが愚老でな」 鐵「へえ……それからお前さんが産したのかえ」 医「それから療治にかゝろうとしたが、道具を宅へ置いて来たので困ったが、此処が頓智頓才で、出ている片手を段々と斯う撫でましたな」 鐵「へえ」 医「撫でている中に掌を開けました」 鐵「成程」 医「それから愚老が懐中から四文銭を出して、赤児の手へ握らせますと、すうと手を引込まして頭の方から安々と産れて出て、お辞儀をしました」 鐵「へえ咒でげすか」 医「いや乞食の児だから悦んで」 鐵「ふゝゝ人を馬鹿にしちゃアいけねえ、本当だと思ってたのに洒落者だね、田舎者だって迂濶した事は云えねい……えゝ其方の隅においでなさるお方、あなたは何ですかえ、矢張お医者さまでごぜえやすか」 僧「いや、私は斯ういう姿で諸方を歩く出家でござる」 鐵「えゝ御出家さんで、御出家なら幽霊なぞを御覧なすった事がありましょう」 僧「幽霊は二十四五度見ました」 鐵「へえ、此奴あ面白え話だ、二十四五度……ど何んなのが出ました」 僧「種々なのが出ましたな、嫉妬の怨霊は不実な男に殺された女が、口惜いと思った念が凝って出るのじゃが、世の中には幽霊は無いという者もある、じゃが是はある」 鐵「へえ、ど何んな塩梅に出るもんですな」 僧「形は絵に描いたようなものだ、朦朧として判然其の形は見えず、只ぼうと障子や襖へ映ったり、上の方だけ見えて下の方は烟のようで、どうも不気味なものじゃて」 鐵「へえー貴方の見たうちで一番怖いと思ったのはどういう幽霊で」 僧「えゝ、左様さ先年美濃国から信州の福島在の知己の所へ参った時の事で、此の知己は可なりの身代で、山も持っている者で、其処に暫く厄介になっていた、其の村に蓮光寺という寺がある、其の寺の和尚が道楽をしていかん彼は放逐せねばならんと村中が騒いで、急に其の和尚を追出すことになったから、お前さん住職になってくれないかと頼まれましたが、私は住職になる訳にはゆかん、行脚の身の上で、併し葬式でもあった時には困ろうから、後住の定るまで暫くいて上げようと云うんで、其の寺に居りました」 鐵「へえー」 僧「すると私の知己の山持の妾が難産をして死んだな」 鐵「へえー」 僧「それがそれ、ま主人が女房に隠して、家にいた若い女に手を附け、それがま懐妊したによって何時か家内の耳に入ると、悋気深い本妻が騒ぐから、知れぬうちに堕胎してしまおうと薬を飲ますと、ま宜い塩梅に堕りましたが、其の薬の余毒のため妾は七転八倒の苦しみをして、うーんうんと夜中に唸るじゃげな」 鐵「へえー此奴ア怖えなア」 僧「怨みだな、斯う云う事になったのも、私は奉公人の身の上相対ずくだから是非もないが、内儀さんが悋気深いために私に斯ういう薬を飲ましたのじゃ、内儀さんさえ悋気せずば此の苦しみは受けまい、あゝ口惜しい、私は死に切れん、初めて出来た子は堕胎され、私も死に、親子諸共に死ぬような事になるも、内儀さんのお蔭じゃ、口惜い残念と十一日の間云い続けて到頭死にました、その死ぬ時な、うーんと云って主人の手を握ってな」 鐵「へえ」 僧「目を半眼にして歯をむき出し、旦那さま私は死に切れませんよ」 ○「やア鐵う、もっと此方へ寄れ……気味が悪い、どうもへえー成程……そこを閉めねえ、風がぴゅー〳〵入るから……へえー」 僧「気の毒な事じゃが、仕方がない、そこで私がいた蓮光寺へ葬りました、他に誰も寺参りをするものがないから、主人が七日までは墓参りに来たが、七日後は打棄りぱなしで、花一本供げず、寺へ附届もせんという随分不人情な人でな」 ○「へえー酷い奴だね、其奴ア怨まア、直に幽的が出ましたかえ」 僧「私も可愛そうじゃアと思うた、斯ういう仏は血盆地獄に堕るじゃ、早く云えば血の池地獄へ落るんじゃ」 ○「へえー」 僧「斯ういう亡者には血盆経を上げてやらんと……」 ○「へえー……けつ……なんて……けつを……棒で」 僧「いや血盆経というお経がある、七日目になア其の夜の亥刻前じゃったか、下駄を履いて墓場へ行き、線香を上げ、其処で鈴を鳴し、長らく血盆経を読んでしもうて、私がすうと立って帰ろうとすると」 ○「うん、うん」 僧「前が一面乱塔場で、裏はずうと山じゃな」 ○「うん〳〵」 僧「其の山の藪の所が石坂の様になって居るじゃ、其の坂を下りに掛ると、後でぼーずと呼ぶじゃて」 ○「ふーん、これは怖えな、鐵もっと此方へ寄れ、成程お前さんを呼んだ」 僧「何も私に怨みのある訳はない、縁無き衆生は度し難しというが、私は此の寺へ腰掛ながら住職の代りに回向をしてやる者じゃ、それを怨んで坊主とは失敬な奴じゃと振向いて見た、此方の勢が強いので最う声がせんな」 ○「へえー度胸が宜うごぜえやすな、強いもんだね、始終死人の側にばかりいるから怖くねえんだ、うーん」 僧「それから又行きにかゝると、また皺枯た声で地の底の方でぼーずと云うじゃて」 ○「早桶を埋ちまった奴が桶の中でお前さんを呼んだのかね」 僧「誰だと振向いた」 ○「へえ……先方で驚いて出ましたか、穴の中から」 僧「振向いて見たが何んにも居ないから、墓原へ立帰って見たが、墓には何も変りがない、はて何じゃろうと段々探すと、山の根方の藪ん中に大きな薯蕷が一本あったのじゃ、之が世に所謂坊主〳〵山の芋じゃて」 ○「何の事た、人を馬鹿にして、併し面白え、何か他に、あゝ其方にいらっしゃるお侍さん、えへゝゝ、旦那何か面白えお話はありませんか」 侍「いや最前から各々方のお話を聞いていると、可笑しくてたまらんの、拙者も長旅で表向紫縮緬の服紗包を斜に脊負い、裁着を穿いて頭を結髪にして歩く身の上ではない、形は斯の如く襤褸袴を穿いている剣道修行の身の上、早く云うと武者修行で」 ○「これはどうも、左様ですか、武者修行で、へえー然う聞けばお前さんの顔に似てえる」 侍「何が」 ○「いえ、そら久しい以前絵に出た芳年の画いたんで、鰐鮫を竹槍で突殺している、鼻が柘榴鼻で口が鰐口で、眼が金壺眼で、えへゝゝ御免ねえ」 侍「怪しからん事をいう、人の顔を讒訴をして無礼至極」 ○「なに、お前さんは左様なでもねえけれども、些と似てえるという話だ」 侍「貴公らは江戸のものか、職人か」 ○「へえ」 侍「成程」 ○「旦那、皆は嘘っぺいばかしでいけませんが、何ぞ面白え話はありませんかね」 侍「貴公先にやったら宜かろう」 ○「私どもは好い話が無えんで、火事のあった時に屋根屋の徳の野郎め、路地を飛越し損なやアがって、どんと下へ落ると持出した荷の上へ尻餅を搗き、睾丸を打ち、目をまわし、嚢が綻びて中から丸が飛出して」 侍「然ういう尾籠の話はいけんなア」 ○「それから乱暴勝てえ野郎が焚火に烘って、金太という奴を殴る機みにぽっぽと燃えてる燼木杭を殴ったから堪らねえ、其の火が飛んで金太の腹掛の間へ入って、苦しがって転がりやアがったが、余程面白うござえました」 侍「其様な事は面白くない」 ○「そんなら旦那何ぞ面白え話を」 侍「先刻から空話ばかり出たので、拙者の話を信じて聞くまいから、どうもやりにくい」         三十八  向座敷にてぽん〳〵と手を打ち、 宗「誰も居ぬかな」 下婢「はい」  此の座敷に寝ているのは渡邊お竹で、宗達が看病を致して居りますので、 婢「お呼びなさいましたかえ」 宗「一寸こゝへ入ってくれ」 婢「はい」 宗「序に水を持って来ておくれ、病人がうと〳〵眠附くかと思うと向座敷で時々大勢がわアと笑うので誠に困る」 婢「誠にお喧しゅうござりやしょう」 宗「其処をぴったり閉めておくれ」 婢「畏まりやした」  と立って行って大勢の所へ顔を出しまして、 「どうかあの皆さん相宿の方に病人がありやすから、余り大え声をして、わア〳〵笑わないように、喧しいと病人が眠り付かねえで困るだから、静になさえましよ」 侍「はい〳〵宜しい……病人がいるなら止しましょう」 ○「小声でやってくだせえ、皆は虚っぺえ話で面白くねえ、旦那が武者修行をした時の、蟒蛇を退治たとか何とかいう剛いのを聞きたいね」 侍「左様さ拙者は是迄恐ろしい怖いというものに出会った事はないが、鼯鼠に両三度出会った時は怖いと思ったね」 ○「ど何処で」 侍「南部の恐山から地獄谷の向へ抜ける時だ」 ○「へえー名からして怖ねえね恐山地獄谷なんて」 侍「此処は一騎打の難所で、右手の方を見ると一筋の小川が山の麓を繞って、どうどうと小さい石を転がすように最と凄まじく流れ、左手の方を見ると高山峨々として実に屏風を建てたる如く、誠に恐ろしい山で、樹は生茂り、熊笹が地を掩うている、道なき所を踏分け〳〵段々下りて来たところが、人家は絶てなし、雨は降ってくる、困ったことだと思い、暫く考えたが路は知らず、深更に及んで狼にでも出られちゃア猶更と大きに心配した、時は丁度秋の末さ、すると向うにちら〳〵と見える」 ○「へえー、出たんでござえやすか、狼の眼は鏡のように光るてえから、貴方がうんと立止って小便をなすったろう」 侍「なに、小便などを為やアせん」 ○「それから」 侍「これは困ったものじゃ、彼処に誰か焚火でもして居るのじゃアないかと思った」 ○「成程山賊が居て身ぐるみ脱いでけてえと、お前さん引こぬいて斬ったんで」 侍「まゝ黙ってお聞き、そう先走られると何方が話すのだか分らん、山賊が団楽坐になっていたのではない、一軒の白屋があった」 ○「へえー山ん中に……問屋でしょう」 侍「なに茅屋」 ○「え、油屋」 侍「油屋じゃアない、壊れた家をあばらやという」 ○「確かりした家は脊骨屋で」 侍「そう先走っては困る、其家へ行って拙者は武辺修行の者でござる、斯かる山中に路に踏み迷い、且此の通り雨天になり、日は暮れ、誠に難渋を致します、一樹の蔭を頼むと云って音ずれると、奥から出て来た」 ○「へえー肋骨が出て、歯のまばらな白髪頭の婆が、片手に鉈見たような物を持って出たんだね、一つ家の婆で、上から石が落ちたんでげしょう」 侍「然うじゃアない、二八余りの賤女が出たね」 ○「それじゃア気が無え、雀が二三羽飛出したのかえ」 侍「賤女」 ○「えゝ味噌汁の中へ入れる汁の実」 侍「汁の実じゃアない、二八余り十六七になる娘が出たと思いなさい」 ○「へえー家に居たんだね、容貌は好うごぜえやしたろうね、容貌は」 侍「そんな事は何うでも宜しいが、能く見ると乙な女さ」 ○「へえー、おい鐵、此方へ寄れ、ちょいと見ると美い女だが、能く見ると眇目で横っ面ばかり見た、あゝいう事があるが、矢張其の質なんでしょう」 侍「足下が喋ってばかり居っては拙者は話が出来ぬ」 ○「じゃア黙ってますから一つやって下せえ」 侍「それから紙燭を点けて出て来て、お武家さま斯様な人も通らん山中へ何うしてお出でなさいました、拙者は武術修業の身の上ゆえ、敢て淋しい処を恐れはせぬが如何にも追々夜は更けるし、雨は降って来る、誠に難渋いたすによって一泊願いたいと云うと、何事も行届きません、召上る物も何もございませんし、着せてお寐かし申す物もございません、それが御承知なれば見苦しけれども御遠慮なくお泊り遊ばせと、親切な女で汚い盥へ谷水を汲んで来て、足をお洗いなさいというので足を洗いました」 ○「へえー其の娘の親父か何かいましたろう」 侍「親父もいない、娘一人で」 ○「へえー……母親もいませんか」 侍「そう喋っては困りますな」 ○「もう云いません、それから」 侍「ところが段々聞くと両親もなく、只一人斯る山の中に居って、躬ら自然薯を掘って来るとか、或は菌を採るとか、薪を採るとか、女ながら随分荒い稼ぎをして微かに暮しておるという独身者さ、見れば器量もなか〳〵好い、色が白くて目は少し小さいが、眉毛が濃い、口元が可愛らしく、髪の毛の光艶も好し、山家に稀な美人で」 ○「へえー、ふう成程」 侍「何とも云やアしない、まア黙ってお聞き」 ○「へえ」 侍「拙者は修業の身の上で、好い女だとは思いましたけれど、猥らしい事を云い掛けるなどの念は毛頭ない」 ○「それは何年頃の事ですか」 侍「丁度五年以前の事で」 ○「あなたは幾歳だえ」 侍「其様な事を聞かなくとも宜い、三十九才じゃ」 ○「老けているね……五年以前、じゃア未だア壮な時でごぜえやすな」 侍「左様」 ○「へえ、それから何うしました」 侍「拙者の枕元へ水などを持って来て、喉が渇いたら召上れと種々手当をしてくれる、蕎麦掻を拵えて出したが、不味かったけれども、親切の志有難く旨く喰いました」 ○「蕎麦粉は宜うごぜえやしたろうが、醤油が悪かったに違えねえ、ぷんと来るやつで、此方の醤油を持って行きたいね」 侍「何を云っている」 ○「へえ、それから」 侍「娘は向うの方へ一人で寝る、時は丁度秋の末の事、山冷でどうも寒い、雨はばら〳〵降る」 ○「成程〳〵うん〳〵」 侍「娘は何うしたか何時までも寝ないようで」 ○「うん(膝へ手を突き前へ乗出し)それから」 侍「拙者に夜具を貸してしまい、娘は夜具無しで其処へごろりと寝ているから、どうも其方の着る物を貸して、此の寒いのに其方が夜具無しで寝るような事じゃア気の毒じゃ、風でも引かしては宜しくないというと、いえ宜しゅうございます、なに宜しい事はない、掛蒲団だけ持って行ってください、拙者は敷蒲団をかけて寝るから、いゝえ何う致しまして、それならば旦那さま恐入りますが、貴方のお裾の方へでも入れて寝かしてくださいませんかと云った」 ○「へえー、ふう鐵もっと此方へ出ろ、面白い話になって来た、旦那は真面目になってるが、能く見ると助平そうな顔付だ、目尻が下ってて、旨く女をごまかしたね、中々油断は出来ねえ、白状おしなさい」 侍「ま、黙ってお聞きなさい、苟めにも男女七才にして席を同じゅうせずで、一つ寝床へ女と一緒に寝て、他に悪い評でも立てられると、修行の身の上なれば甚だ困ると断ると、左様ならば御足でも擦らして下さいましと云った」 ○「へえー、女の方で、えへ〳〵、矢張山の中で男珍らしいんで、えへ〳〵〳〵成程うん」 侍「どうも様子が訝しい、変だと思った」 ○「なに先で思っていたんでしょう」 侍「それから拙者は此方の小さい座敷に寝ていると、改めて又枕元へ来てぴたりと跪いて」 ○「其の女が蹴躓きやアがったんで」 侍「蹴躓いたのではない、丁寧に手を突いて、先生私は何をお隠し申しましょう、親の敵を尋ねる身の上でございます」 ○「うん、其の女が…成程」 侍「敵は此の一村隔いて隣村に居ります、僅に八里山を越すと、現に敵が居りながら、女の細腕で討つことが出来ません、先方は浪人者で、私の父は杣をいたして居りましたが、山界の争い事から其の浪人者が仲裁に入り、掛合に来ましたのを恥かしめて帰した事があります、其の争いに先方の山主が負けたので、礼も貰えぬ所から、それを遺恨に思いまして、其の浪人が私の父を殺害いたしたに相違ないという事は、世間の人も申せば、私も左様に存じます、其の傍に扇子が落ちてありました、黒骨の渋扇へ金で山水が描いて有って、確に其の浪人が持って居りました扇子で見覚えが有ります、どうか先生を武術修行のお方とお見受け申して、お頼み申しますが、助太刀をなすって敵を討たして下さいませんか、始めてお泊め申したお方に何とも恐入りますが、助太刀をなすって本意を遂げさせて下されば、何の様な事でも貴方のお言葉は背きません、不束な者で、迚もお側にいるという訳には参りませんが、御飯焚でもお小間使いでも、お寝間の伽でも仕ようという訳だ」 ○「へえー、此奴ア矢張然ういう事があるんでげしょう、へえー、なア……鐵やい、左官の松の野郎が火事の時に手伝って、それから御家様の処え出入りをし、何日か深い訳になったが、成程然ういう事がありましょう、それから何うしました」 侍「然ういう訳なれば宜しい、助太刀をして慥かに本意を遂げさせて遣ろうと受合うと、女は悦んで、あゝ有難う草葉の蔭において両親も嘸悦びましょうと、綺麗な顔で真に随喜の涙を流した」 ○「へえー芋売見たような涙を」 侍「なに有難涙を」 ○「へえ成程それから何うしました」 侍「ところで同衾に寝たんだ」 ○「へえー甚いなア……成程、鐵ウもっと前へ出ろ、大変な話になって来た」  向座敷で手をぽん〳〵と打つと、又候下女がまいって、 下婢「皆さんお静かになすって、なるたけわア〳〵云わねえように願います」 ○「へえ〳〵……それから何うしました、先生」 侍「いや止そう」 ○「其処まで遣って止すてえ事はありません、お願えだから後を話しておくんなせえ」 侍「病人があると云うから止そう」 ○「だって先生、こゝで止めちゃア罪です」 侍「こゝらで止める方が宜かろう」 ○「落話家や講釈師たア違えます」 侍「此処が丁度宜い段落だ」 ○「おい、よ話しておくんねえな〳〵」 侍「困るな…すると其の女にこう□□められた時には、身体痺れるような大力であった」 ○「へえー、それは化物だ、面白い話だね、それから」 侍「もう止そう」 ○「冗談じゃアない、これで止められて堪るものか……皆さん誰か一つ旦那に頼んでおくんなせえな、是から面白え処なんで、今止められちゃア寝てから魅されらア」 侍「やるかなア」 ○「うん成程、其の女が貴方の顔をペロ〳〵甜めたんで」 侍「なに甜めるものか、うーんと振解して、枕元にあった無反の一刀を引抜いて、斬付けようとすると、がら〳〵〳〵と家鳴震動がした」 ○「ふうん」 侍「ばら〳〵〳〵表へ逃げる様子、尚追掛けて出ると、這は如何に、拙者が化されていたのじゃ、茅屋があったと思う処が、矢張野原で、片方はどうどうと渓間に水の流れる音が聞え、片方は恐ろしい巌石峨々たる山にして、ずうっと裏手は杉や樅などの大樹ばかりの林で、其の中へばら〳〵〳〵と追込んだな」 ○「へえー成程、狐狸は尻を出して何かに見せると云うが、貴方それから何うしました」 侍「追掛けて行って、すうと一刀浴せると、ばたり前へ倒れた…化物が…拙者も疲れてどたーり其処へ尻餅を搗いた」 ○「成程是は尤もです、痛うござえましたろう、其処に大きな石があったんで」 侍「なに石も何もありゃアせん、余計な事を云わずに聞きなさい」 ○「な何の化物でげす」 侍「善く善く其の姿を見ると、それが伸餅の石に化したのさ」 ○「へえ、何故だろうなア」 侍「だから何うしてもちぎる訳にいかん」 ○「冗談じゃアない、真面目な顔をして嘘ばっかり吐いてる、皆な嘘っぺい話でいけねえ、己のは本当だ、此の中に聞いた人もあるだろう、何の話さ、大変だな、己ア江戸の者だ、谷中の久米野美作守様の屋敷へ出入の職人だったが、其処に大変な悪人がいて、渡邊様てえ人を斬って、其の上に女を連れて逃げたは、えゝ何とかいう奴だっけ、然うよ、春部梅三郎よ、其奴は甚い奴で、重役の渡邊織江様を斬殺したんで、其の子が跡を追掛けて行くと、旨く言いくろめて、欺して到頭連出して、何とかいう所だっけ、然う〳〵、新町河原の傍で欺し討に渡邊様の子を殺して逃げたというんだが、大騒ぎよ、八州が八方へ手配りをしたが、山越をして甲府へ入ったという噂で」 鐵「止しねえ〳〵、うっかり喋るな、冗談じゃアねえぜ、若し八州のお役人が、是れは何う云う訳だ、他人に聞いたんでと云っても追付くめえ」  と一人が止めるのを、一人の男が頻りに知ったふりで喋って居ります。         三十九  別座敷に寝て居りましたお竹が、此の話を洩れ聞き大きに驚き、 竹「もし〳〵宗達様〳〵〳〵(揺起す)」 宗「あい〳〵〳〵、つい看病疲れで少し眠ました、はあー」 竹「よく御寝なっていらっしゃいますから、お起し申しましては誠に恐入りますが、少し気になることを向座敷で噂をしております、他の者の話は嘘のように存じますが、中に江戸屋敷へ出入る職人とか申す者の話は、少し心配になりますから、お目を覚してくださいまし」 宗「あい……はア……つい何うも……はア大分まだ降ってる様子で、ばら〳〵雨が戸へ当りますな」 竹「何卒あなた」 宗「はい〳〵……はア……何じゃ」 竹「其の話に春部と申す者が私の弟を新町河原で欺討にして甲府へ逃げたと云う事でございますが、何卒委しく尋ねて下さいまし、都合に寄っては又江戸へ帰るような事にもなろうと思いますから」 宗「それは怪しからん、図らず此処で聞くというは妙なことじゃ、江戸の、うん〳〵職人体の下屋敷へ出入る者、宜しい……えゝ御免ください」  と宗達和尚が向座敷の襖を開けて、大勢の中に入りました。見ると矢立を持って鼠無地の衣服に、綿の沢山入っております半纒を着て居り、月代が蓬々として看病疲れで顔色の悪い坊さんでございますから、一座の人々が驚きました。 ○「はい、おいでなさい」 宗「あゝ江戸のお方は何方で」 ○「江戸の者は私で、奥州仙台や常陸の竜ヶ崎や何か集ってるんで、へえ」 宗「只今向座敷で聞いておった処が、その江戸に久米野殿の屋敷へ出入りをなさる職人というはあなた方か」 ○「えゝ私でござえやす」 鐵「えおい、だから余計なことを言うなって云うんだ、詰らねえ事を喋るからお互えに掛合になるよ」 宗「で、その久米野殿の御家来に渡邊織江と申す者があって人手にかゝり、其の子が親の敵を尋ねに歩いた処、春部梅三郎と申す者に欺かれて、新町とかで殺されたと云う話、八州が何うとかしたとの事じゃが、それを委しく話してください」 鐵「だから云わねえ事じゃアねえ、先方は彼な姿で来たって八州の隠密だよ」  と一人の連の者に云われ、一人は真蒼になり、ぶる〳〵と顫え出し、碌々口もきけません様子。 ○「なに本当に知っている訳じゃアごぜえやせん、朦朧と知ってるんで、へえ一寸人に聞いたんで」 宗「聞いたら聞いたゞけの事を告げなさい、新町河原で渡邊祖五郎を殺害した春部梅三郎という者は何れへ逃げた」 ○「あ彼方へ逃げて……それから秩父へ出たんで」 宗「うん成程、秩父へ出て」 ○「それからこ甲府へ逃げたんで」 宗「秩父越しをいたして甲府の方へ八州が追掛けたのか」 鐵「おゝおゝ仕様がねえな、本当に手前は饒舌だな」 ○「饒舌だって剣術の先生や何かも皆な喋ったじゃアねえか………何でごぜえやす……えゝ其の八州が追掛けて何したんで、当りを付けたんで」 宗「何ういう処に当りが付きましたな」 ○「そりゃア何でごぜえやす、鴻の巣の宿屋でごぜえやす」 宗「はゝー鴻の巣の宿屋……(紙の端へ書留め)それは何という宿屋じゃ」 ○「私ア知りやせん、其の宿屋へ女を連れて逃げたんで、其の宿屋が春部とかいう奴が勤めていた屋敷に奉公していて、私通いて連れて逃げた女の親里とかいう事で」 宗「うん…それから」 ○「それっ切り知りやせん」 宗「知らん事は無かろう、知らんと云っても知らんでは通さん」 ○「へえ……(泣声)御免なせえ、真平御免下さい」 宗「あなた方は江戸は何処だ」 ○「真平御免…」 宗「御免も何もない、言わんければなりませんよ」 ○「へえ外神田金沢町で」 宗「うん外神田金沢町…名前は」 ○「甚太っ子」 宗「甚太っ子という名前がありますか、甚太郎かえ」 ○「慥か然うで」 宗「甚太郎……其方にいるお方は」 鐵「私は喋ったんでもねえんで」 宗「言わんでも宜い、名前が宿帳と違うとなりませんぞ、宜いかえ」 鐵「へえ、下谷茅町二丁目で」 宗「お名前は」 鐵「ガラ鐵てえんで」 宗「ガラ鐵という名はない、鐵五郎かえ」 鐵「へえ」 宗「宜しい」 鐵「御免なさい」  と驚いて直に其の晩の内此処を逃出して、夜通し高崎まで逃げたという。其様なに逃げなくとも宜しいのに。此方はお竹が病苦の中にて此の話を聞き、どうか直に此処を立ちたいと云う。 宗「何うして今から立たれるものか、碓氷を越さなければならん」  と稍くの事で止めました。翌朝になると、お竹は尚更癪気が起って、病気は益々重体だが当人が何分にも肯きませんから、駕籠を傭い、碓氷を越して松井田から安中宿へ掛り、安中から新町河原まで来ますと、とっぷり日は暮れ、往来の人は途絶えた処で、駕籠から下りてがっかり致し、お竹はまたキヤ〳〵差込んで来ました。宗達は驚いて抱起したが、舁夫は此処までの約束だというので不人情にも病人を見棄てゝ、其の儘ずん〳〵往ってしまいました。宗達は持合せた薬を服ませ、水を汲んで来ようと致しましたが、他に仕方がないから、ろはつという禅宗坊主の持つ碗を出して、一杯流れの水を汲んで持って来ました。漸くお竹に水を飲ませ、頻りと介抱を致しましたが、中々烈しい事で、 竹「ウヽーン」  と河原の中へ其の儘反かえりました。 宗「あゝ困ったものじゃ、何うか助けたいものじゃ」  と又薬を飲まし、口移しに水を啣ませ、お竹を□□めて我肌の温かみで暖めて居ります内に、雪はぱったり止み、雲が切れて十四日の月が段々と差昇ってまいる内に、雪明りと月光りとで熟々お竹の顔を見ますと、出家でも木竹の身では無い、忽ち起る煩悩に春情が発動いたしました。御出家の方では先ず飲酒戒と云って酒を戒め、邪淫戒と申して不義の淫事を戒めてあります。つまり守り難いのは此の戒でございます。此の念を断切る事は何うも難い事です、修業中の行脚を致しましても、よく宿場女郎を買い、或は宿屋の下婢に戯れ、酒のためについ堕落して、折角積上げた修業も水の泡に致してしまう事があります、未だ壮んな宗達和尚、お竹の器量と云い、不断の心懸といい、実に惚れ〴〵するような女、其の上侍の娘ゆえ中々凛々しい気象なれども、また柔しい処のあるは真に是が本当の女で、斯かる娘は容易に無いと疾から惚込んで、看病をする内にも度々起る煩悩を断切り〳〵公案をしては此の念を払って居りましたが、今は迷の道に踏入って、我ながら魔界へ落ちたと、ぐっとお竹を□□める途端に、温みでふと気が附いたお竹が、眼を開いて見ますと、力に思う宗達和尚が、常にもない不行跡、髭だらけの頬を我が顔へ当てゝ、肌を開いて□□めて居りますから、驚いて、 竹「アレー、何を遊ばします」  と宗達和尚を突退けて向うへ駆出しにかゝる袖を確かり押えて、 宗「お竹さん御道理じゃ、どうも迷うた、もうとても出家は遂げられん、私はお前の看病をして枕元に附添い、次の間に寐ていても、此の程はお前の身体が利かんによって、便所へ行くにも手を引いて連れて行き、足や腰を撫てあげると云うのも、実は私が迷いを起したからじゃ、とても此の煩悩が起きては私は出家が遂げられん、真に私はお前に惚れた、□□□□私の云う事を肯いてくだされば、衣も棄て珠数を切り、生えかゝった月代を幸いに一つ竈とやらに前を剃こぼって、お前の供をして美作国まで送って上げ、敵を討つような話も聞いたが、何の様な事か理由は知らんが、助太刀も仕ようし、又何の様な事でも御舎弟と倶に力を添える、誠に面目ない恥入った次第じゃが、何うぞ私の言う事を肯いてくだされ」  と云われ、呆れてお竹は宗達の顔を見ますと、宗達の顔色は変り、眼の色も変り、少し狂気している容子で、掴み付きにかゝるのを突退けて、お竹は腹立紛れに懐へ手を入れて、母の形見の合口の柄を握って、寄らば突殺すと云うけんまくゆえ、此方も顔の色が違いました。 竹「宗達さん、あなたは怪しからぬお方で、御出家のお身上で……御幼年の時分から御修業なすって、何年の間行脚をなすって、私は斯う云う修業をした、仏法は有難いものじゃ、斯ういうものじゃによって、お前も迷いを起してはならないと、宿に泊って居りましても臥床る迄は貴方の御教導、あゝ有難いお話で、大きに悟ることもありました、美作まで送って遣ろうとおっしゃっても、他の方なれば断る処なれど、御出家様ゆえ安心して願いました甲斐もなく、貴方が然う云うお心になってはなりません、何卒迷いを晴らして……憤りはしませんから、元々通り道連れの女と思召して、美作までお送り遊ばしてくださいまし、是迄の御真実は私が存じて居りますから」 宗「むゝう、是程に云ってもお聞済みはありませんか」 竹「どうして貴方大事を抱えている身の上で其様な事が出来ますものか」 宗「然うか……そうお前に強う云われたらもう是までじゃ、私もどうせ迷いを起し魔界に堕ちたれば、飽までも邪に行く、私はこれで別れる、あなたは煩うている身体で鴻の巣まで行きなさい、それも宜いが、道の勝手を知って居るまい、夜道にかゝって、女の一人旅は何の様な難儀があろうも知れぬ、さ、これで別れましょう」 竹「お別れ申しても仕方がございませんけれども、貴方の迷いの心を翻えしてさえくだされば、私に於てはお恨みとも何とも存じませんから」 宗「いや、お前は何ともあるまいが、此方に有るのじゃ、私は還俗してお前のためには力を添えて、何の様にも仕よう、長旅をして、お前を美作まで送って上げようとは、今迄した修業を水の泡にしてしまうのも皆なお前のためじゃ、何うぞ私の願を叶えてください、それとも肯かんければ詮方がない、もう此の上は鬼になって、何の様な事をしても此の念を晴さずには置かん、仕儀によっては手込にもせずばならん」  と飛付きに掛りますから、お竹は慌てゝ跡へ飛退って、 竹「迷うたか御出家、寄ると只は置きませんぞ」  と合口をすらりと引抜いて振上げ、けんまくを変えたから、 宗「おまえは私を斬る気になったのじゃな、最う此の上は可愛さ余って憎さが百倍、さ斬っておくれ」  と云いながら身を躱して飛付きにかゝる。 竹「そんなれば最う是迄」  と引払って突きにかゝる途端に、ころり足が辷って雪の中へ転ぶと一杯の血で、 宗「おゝ何処か怪我アせんか」 竹「私を斬ったな、法衣を着るお身で貴方は恐しい殺生戒を破って、ハッ〳〵、お前さんは鬼になった処じゃアない蛇になった、あゝ宗達という御出家は人殺しイ」  と云うが、ピーンと川へ響けます。 宗「あゝ悪い事をした、お竹さんが此様な怪我をする事になったのも畢竟我が迷い、実に仏罰は恐ろしいものである」  と思ったので宗達はカアーと取逆上せて、お竹が持っていた合口を捻取って、 「お前一人は殺しはせん、私も一緒に死んで、地獄の道案内をしましょう」  と云いながら我腹へプツリ。 宗「ウヽーン〳〵」 竹「もし〳〵……宗達さま」 宗「あい〳〵……あい……はアー」 竹「あなたは大層魘されていらっしゃいました」 宗「あい〳〵、あゝ……おゝ、お竹さま」 竹「はい」 宗「あなたはお達者で」 竹「あなた怖い夢でも御覧なすったか、大層魘されて、お額へ汗が大変に」 宗「はい〳〵……お前は何うしたえ」 竹「はい、私は大きに熱が退れましたかして少し落着きました」 宗「左様か、ウヽン……煩悩経にある睡眠、あゝ夢中の夢じゃ、実に怖いものじゃの、あゝ悪い夢を視ました、悪い夢を視ました」  と心の中に公案を二十ばかり重ねて云いながら、手拭を出して額と胸の辺の汗を拭いて、ホッと息を吐き、 宗「あゝ迷いというものは甚いものじゃ」         四十  さて又粂野の屋敷では丁度八月の六日の事でございます。此の程は大殿様が余程御重症でございます。お医者も手に手を尽して種々の妙薬を用いるが、どうも効能が薄いことで、大殿様はお加減の悪い中にまた御舎弟紋之丞様は、只今で云えば疳労とか肺労とかいうような症で、漸々お痩せになりまして、勇気のお方がお咳が出るようになり、お手当は十分でございますが、どうも思うように薬の効能が無い、唯今で申せば空気の異った所へと申すのだが、其の頃では方位が悪いとか申す事で、小梅の中屋敷へいらっしゃるかと思うと、又お下屋敷へ入らっしゃいまして、谷中のお下屋敷で御養生中でありますと、若殿の御病気は変であるという噂が立って来ましたので、忠義の御家来などは心配して居られます。五百石取りの御家来秋月喜一郎というは、彼の春部梅三郎の伯父に当る人で、御内室はお浪と云って今年三十一で、色の浅黒い大柄でございますが、極柔和なお方でございます。或日良人に対い、 浪「いつもの婆がまいりました、あの大きな籠を脊負ってお芋だの大根だの、菜や何かを売りに来る婆でございます」 秋「あ、田端辺からまいる老婆か、久しく来んで居ったが、何ぞ買ってやったら宜かろう」 浪「貴方がお誂えだと申して塵だらけの瓢を持ってまいりましたが、彼はお花活に遊ばしましても余り好い姿ではございません」 秋「然うか、それはどうも……私が去年頼んで置いたのが出来たのだろう、それでも能く丹誠して……早速此処へ呼ぶが宜い、庭へ通した方が宜かろう」 浪「はい」  と是から下男が案内して庭口へ廻しますと、飛石を伝ってひょこ〳〵と婆さまが籠を脊負って入って来ました。縁先の敷物の上に座蒲団を敷き、前の処へ烟草盆が出ている、秋月殿は黒手の細かい縞の黄八丈の単衣に本献上の帯を締めて、下襦袢を着て居られました。誠にお堅い人でございます。目下の者にまで丁寧に、 秋「さア〳〵婆こゝへ来い〳〵」 婆「はい、誠に御無沙汰をしましてま今日はお庭へ通れとおっしゃって、此様なはア結構なお庭を見ることは容易にア出来ねえ事だから、ま遠慮申さねえばなんねえが、御遠慮申さずに見て、媳っ子や忰に話して聞かせべいと思って参りました、皆様お変りもごぜえませんで」 秋「婆ア丈夫だの、幾歳になるの」 婆「はい、六十八になりますよ」 秋「六十八、左様か、アハヽヽヽいやどうも達者だな田端だっけな」 婆「はい、田端でごぜえます」 秋「名は何という」 婆「はい、お繩と申します」 秋「妙な名だな、お繩…フヽヽ余り聞かん名だの」 婆「はいあの私の村の鎮守様は八幡様でごぜえます、其の別当は真言宗で東覚寺と申します、其の脇に不動様のお堂がごぜえまして私の両親が子が無えって其の不動様へ心願を掛けました処が、不動様が出てござらっしゃって、左の手で母親の腹ア緊縛って、せつないと思って眼え覚めた、申子でゞもありますかえ、それから母親がおっ妊んで、だん〴〵腹が大くなって、当る十月に私が生れたてえ話でごぜえます、縄で腹ア縛られたからお繩と命けたら宜かんべえと云って附けたでごぜえますが、是でも生れた時にゃア此様な婆アじゃアごぜえません」 秋「アハヽヽ田舎の者は正直だな、手前は久しく来なかったのう」 婆「はい、ま、ね、秋は一番忙がしゅうごぜえまして、それになに私などは田地を沢山持って居ねえもんだから、他人の田地を手伝をして、小畠で取上げたものを些とべえ売りに参ります、白山の駒込の市場へ参って、彼処で自分の物を広げるだけの場所を借りれば商いが出来ます」 秋「成程左様か、娘が有るかえ」 婆「いえ嫁っ子でごぜえます、是が心懸の宜いもので、忰と二人で能く稼ぎます、私は宅にばかり居ちゃア小遣取りが出来ましねえから、斯うやって小遣取りに出かけます」 秋「そうか、茶ア遣れ、さ菓子をやろう」 婆「有難う…おや〳〵まア是れだけおくんなさいますか、まア此様に沢山結構なお菓子を」 秋「宜いよ、また来たら遣ろう」 婆「はい、此の前参りました時、巨え御紋の附いたお菓子を戴きましたっけ、在所に居ちゃア迚も見ることも出来ねえ、お屋敷様から戴えた、有りがたい事だって村中の子供のある処へ些とずつ遣りましたよ、毎度はや誠に有難い事でござえます」 秋「どうだ、暑中の田の草取りは中々辛いだろうのう」 婆「はい、熱いと思っちゃア兎ても出来ませんが、草が生えると稲が痩せますから、何うしても除ってやらねえばなりませんが、此間儲けもんでござえまして、蝦夷虫一疋取れば銭い六百ずつくれると云うから、大概の前栽物を脊負い出すより其の方が楽だから、おまえさま捕つかめえて、毒なア虫でごぜえますから、籠へ入れて蓋をしては持って参ります」 秋「ムヽウ、それは何ういう虫だえ」 婆「あの斑猫てえ虫で」 秋「ムヽウ斑猫……何か一疋で六百文ずつ……どんな処にいるものだえ」 婆「はい、豆の葉に集って居ります、在所じゃア蝦夷虫と云って忌がりますよ」 秋「何にいたすのだ」 婆「何だかお医者が随いて来まして膏薬に練ると、これが大え薬になる、毒と云うものも、使いようで薬に成るだてえました」 秋「ムヽウ、何の位捕まった」 婆「左様でごぜえます、沢山でなければ利かねえって、何にするんだか沢山入るって、えら捕めえましたっけ」 秋「そりゃア妙だ、医者は何処の者だ」 婆「何処の者だか知んねえで、一人男を連れて来て、其の虫を捕まって置きさえすれば六百ずつ置いては持って往きます、其の人は今日お前様白山へ参りますと、白山様の門の坂の途中の処にある、小金屋という飴屋にいたゞよ、私は懇意だからお前様の家は此処かえと何気なしに聞くと、其の男が言っては悪いというように眼附をしましたっけ」 秋「はて、それから何う致した」 婆「私も小声で、今日は虫が沢山は捕れましねえと云うと、明日己が行くから今日は何も云うなって銭い袂へ入れたから、幾許だと思って見ると一貫呉れたから、あゝ是は内儀さんや奉公人に内証で毒虫を捕るのだと勘づきましたよ」 秋「ムヽウ白山前の小金屋という飴屋か」 婆「はい」 秋「あれは御当家の出入である……茶の好いのを入れてください、婆ア飯を馳走をしようかな」 婆「はい、有難う存じます」 秋「婆ア些と頼みたい事があるが、明日手前の家へ私が行くがな、其の飴屋という者を内々で私に会わしてくれんか」 婆「はい、殿様は彼の飴屋の御亭主を御存じで」 秋「いや〳〵知らんが、少し思うことがある、それゆえ貴様の家へ往くんだが、貴様の家は二間あるか、失礼な事を云うようだが、広いかえ」 婆「店の処は土間になって居りまして、折曲って内へ入るんでがすが、土間へは、薪を置いたり炭俵を積んどくですが、二間ぐれえはごぜえます、庭も些とばかりあって、奥が六畳になって、縁側附で爐も切ってあって、都合が宜うごぜえます、其の奥の方も畳を敷けば八畳もありましょうか、直に折曲って台所になって居ります」 秋「そんなら六畳の方でも八畳の方でも宜いが、その処に隠れていて、飴屋の亭主が来た時に私に知らしてくれ、それまで私を奥の方へ隠して置くような工夫をしてくれゝば辱けないが、隠れる処があるかえ」 婆「はい、狭うござえますし、それに殿様が入らっしたって、汚くって坐る処もないが、上の藤右衞門の処に屏風が有りますから、それを立廻してあげましょう」 秋「それは至極宜かろう、何でも宜しい、私が弁当を持って行くから別に厄介にはならん」 婆「旨えものは有りませんが、在郷のことですから焚立の御飯ぐらいは出来ます、畑物の茄子ぐらい煮て上げましょうよ」 秋「然うしてくれゝば千万辱けないが、事に寄ると私一人で往くがな、飴屋の亭主に知れちゃアならんのだが、何時ぐらいに飴屋の亭主は来るな」 婆「左様さ、大概お昼を喫ってから出て参りますが、彼でも未刻過ぐらいにはまいりましょうか、それとも早く来ますかも知れませんよ」 秋「そんなら私は正午前に弁当を持ってまいる、村方の者にも云っちゃアならん」 婆「ハア、それは何ういう理由で」 秋「此の方に少し訳があるんだ、注文をして置いた瓢覃を持って来たとな」 婆「誠に妙な形でお役に立つか知りませんが」  と差出すを見て、 秋「斯ういう形じゃア不都合じゃが」 婆「其の代り無代で宜うがんす、口を打欠えて種子え投込んで、担へ釣下げて置きましたから、銭も何も要らねえもんでごぜえますが、思召が有るなら十六文でも廿四文でも戴きたいもんで」 秋「是はほんの心ばかりだが、百疋遣る」 婆「いや何う致しまして、殿様此様なに戴いては済みません」 秋「いや、取とけ〳〵、お飯を喫べさせてやろう」  と是からお飯を喫べさせて帰しました。さて秋月喜一郎は翌日野掛の姿になり、弁当を持たせ、家来を一人召連れて婆の宅を尋ねてまいりました。彼の田端村から西の方へ深く切れてまいると、丁度東覚寺の裏手に当ります処で。 秋「此処かの、……婆は在宅か、此処かの、婆はいないか」 婆「ホーイ、おやおいでなせえましよ、さ此処でござえますよ、ままどうも…今朝っから忰も悦んで、殿様がおいでがあると云うので、待に待って居りました処でござえます、何卒直にお上んなすって……お供さん御苦労さまでごぜえました」 秋「其の様に大きな声をして構ってくれては困る、世間へ知れんように」 婆「心配ごぜえませんからお構えなく」 秋「左ようか……其の包を其の儘此方へ出してくれ」 婆「はい」 秋「これ婆ア、是は詰らんものだが、ほんの土産だ、是れは御新造が婆アが寒い時分に江戸へ出て来る時に着る半纏にでもしたら宜かろう、綿は其方にあろうと云って、有合せの裏をつけてよこしました」 婆「あれアまア……魂消ますなア、此様なに戴きましては済みませんでごぜえます、これやい此処へ来う忰や」 忰「へえ御免なせえまし……毎度ハヤ婆が出まして御贔屓になりまして、帰って来ましちゃア悦んで、何とハア有難え事で、己ような身の上でお屋敷へ出て、立派なアお方さまの側で以てからにお飯ア戴いたり、直接にお言葉を掛けて下さるてえのは冥加至極だと云って、毎度帰りますとお屋敷の噂ばかり致して居ります、へえ誠に有難い事で」 秋「いや〳〵婆に碌に手当もせんが、今日は少し迷惑だろうが、少しの間座敷を貸してくれ、弁当は持参してまいったから、決して心配をしてくれるな、兎や角構ってくれては却って困る、これは貴様の妻か」 嘉「へえ、私の嚊でごぜえます、ぞんぜえもので」 妻「お入来なせえまし、毎度お母が参りましては種々御厄介になります、何うかお支度を」 秋「いやもう構ってくれるな、早く屏風を立廻してくれ」 婆「畏りました、破けて居りますが、彼でも借りてめえりましょう、其処な家では自慢でごぜえます、村へ入る画工が描いたんで、立派というわけには参りません、お屋敷様のようじゃアないが、丹誠して描いたんだてえます」 秋「成程是は妙な画だ、福禄寿にしては形が変だな、成程大分宜い画だ」 婆「宅で拵えた新茶でがんす、嘉八や能くお礼を申上げろ」 嘉「誠に有難うごぜえます、貴方飴屋が参りますと、何かお尋ねなせえますで」 秋「其様なことを云っちゃアいけない」 嘉「実はその去年から頼まれて居りますが、婆さまの云うにア、それは宜えが訝しいじゃアなえか、何ういう理由か知んねえ、毒な虫を捕って六百文貰って宜えかえ、なに構ア事はなえが、黒い羽織を着て、立派なア人が来るです」 秋「まゝ其様なことを云っちゃアいけない」 嘉「へえ〳〵、なに此処は別に通る人もごぜえませんけれども、梅の時分には店へ腰をかけて、草臥足を休める人もありますから、些とべえ駄菓子を置いて、草履草鞋を吊下げて、商いをほんの片手間に致しますので、子供も滅多に遊びにも参りません、手習をしまって寺から帰って来ると、一文菓子をくれせえと云って参りますが、それまでは誰も参りませんから、安心して何でもおっしゃいまし、お帰りに重とうござえましょうが、芋茎が大く成りましたから五六把引こ抜いてお土産にお持ちなすって」 供「旦那さま、芋茎のお土産は御免を蒙りとうございます……御亭主旦那様は芋茎がお嫌いだからお土産は成るたけ軽いものが宜い」 嘉「軽いものと仰しゃっても今上げるものはごぜえません、南瓜がちっと残って居ますし、柿は未だ少し渋が切れないようですが、柿を」 供「柿の樹はお屋敷にもあります」 秋「今日は来ないかの」 嘉「いえ急度参るに相違ごぜえません」  と云っている内に、只今の午後三時とおもう頃に遣ってまいりましたのは、飴屋の源兵衞でございます。 源「あい御免よ」 婆「はい、お出でなせえまし、さ、お上んなせえまし」 源「あゝ何うも草臥れた、此処まで来るとがっかりする、あい誠に御亭主此間は」 嘉「へえ、是はいらっしゃいまし、久しくお出がごぜえませんでしたな、漸々秋も末になって参りまして、毒虫も思うように捕れねえで」 源「これ〳〵大きな声をするな、是れは毒の気を取って膏薬を拵えるんだ、私は前に薬種屋だと云ったが、昨日婆さんに会った、隠し事は出来ねえもんだ、これは口止めだよ、少しばかりだが」 嘉「どうもこれは…」 源「其の代り他人に云うといけないよ」 嘉「いえ申しませんでごぜえます」 源「私も十露盤を取って商いをする身だから、沢山の礼も出来ないが、五両上げる」 嘉「えゝ、五両……魂消ますな、五両なんて戴く訳もなし、一疋捕まえて六百文ずつになれば立派な立前はあるのに、此様なに、大く戴きますのは止しましょうよ」 源「いや〳〵其様なことを云わないで取ってお置き、事に寄ると為めになる事もあるから、決して他人に云っちゃア成りませんよ、私が頼んだという事を」 婆「それは忰も嫁も心配打っていますが、他の者じゃアなし、毒な虫をお前様に六百ずつで売って、何ういう事で間違えでも出来やアしねえかと心配してえます」 源「其様な事は有りゃアしないよ、此の虫を沢山捕えて医者様が壜の中へ入れて製法すると、烈しい病も癒るというは、薬の毒と病の毒と衝突うから癒るというので、ま其様なに心配しないでも宜い」 婆「お金は戴きませんよ、なア忰」 嘉「えゝ、これは戴けません、此間から一疋で六百ずつの立前になるんでせえ途方も無え事だと思ってるくれえで、これが玉虫とか皀角虫とかを捕るのなれば大変だが、豆の葉に集ってゝ誰にでも捕れるものを大金を出して下さるだもの、其様なに戴いちゃア済みません」 源「これ〳〵其様な大きな声を出しちゃアいけない」 嘉「これは何うしても戴けません」 源「そこに種々理由があるんだ、其様なことを云っては困る、これは取って置いてくれ」 嘉「へえ立前は戴きます、ま此方へお上んなすって、なに其処を締めろぴったり締めて置け、砂が入っていかねえから……えゝゝ風が入りますから、ま此方へ……何もごぜえませんがお飯でも喰べてっておくんなせえまし」 源「お飯は喫べたくないが、礼を受けてくれんと誠に困るがな、受けませんか」 嘉「へえ」  と何う有っても受けない、百姓は堅いから何うしても受けません。源兵衞も困って、 源「そんなら茶代に」  と云って二分出しますと、 嘉「お構い申しもしませんのに……お茶代と云うだけに戴きましょう、誠にどうも、へえ」 源「今日は帰ります、婆さん又彼方へ来たらお寄り、だが、私が此処へ来たことは家内へ知れると悪いから、店へは寄らん方が宜い、店には奉公人もいるから」 婆「いえ、お寄り申しませんよ、はい左様なら、気を附けてお帰んなせえましよ」 源「あい」  是から麻裏草履を穿いて小金屋源兵衞が出にかゝる屏風の中で。 秋月「源兵衞源兵衞」  と呼ばれ、源兵衞は不審な顔をして振反り、 源「誰だ……何方でげす、私をお呼びなさるのは何方ですな」 秋「私じゃ、一寸上れ、ま此方へ入っても宜い、思い掛ない処で会ったな」 源「何方でげす」  と屏風を開けて入り、其の人を見ると、秋月喜一郎という重役ゆえ、源兵衞は肝を潰し、胸にぎっくりと応えたが、素知らぬ体にて。 源「誠に思い掛ない処で、御機嫌宜しゅう」 秋「少し手前に尋ねたい事があって、急ぐか知らんが、同道しても宜しい、暫く待ってくれ、少し問う事がある、源兵衞其の方は何ういう縁か、飴屋風情でお屋敷の出入町人となっている故、殿様の有難い辱ないという事を思うなら、又此の方が貴様を引廻しても遣わすが、真以て上を有難いと心得てお出入をするか、それから先へ聞いて、後は緩くり話そう」 源「へえ誠にどうも細い商いでございますが、御用向を仰付けられて誠に有難いことだ、冥加至極と存じまして、へえ結構な菓子屋や其の他のお出入もある中にて、飴屋風情がお出入とは実に冥加至極と存じて居ります、殿様が有難くないなどゝ誰が其様なことを申しました」 秋「いや然うじゃアない、真に有難いと心得て居るだろう」 源「それは仰しゃるまでもございません、此の後ともお引廻しを願いとう存じます」 秋「それでは源兵衞、手前が何の様に隠しても隠されん処の此方に確かな証拠がある、隠さずに云え、じゃが手前は何ういう訳で斑猫という毒虫を婆に頼んで一疋六百ずつで買うか、それを聞こう」  と源兵衞の顔を見詰めている中に、顔色が変ってまいると、秋月喜一郎は態とにや〳〵笑いかけました。         四十一  さて秋月喜一郎は、飴屋源兵衞を柔らかに欺して白状させようという了簡、其の頃お武家が暴い事をいたすと、町人は却って驚いて、云うことも前後致したり、言いたいことも言い兼て、それがために物の分らんような事が、毎度町奉行所でもあった事でございます。源兵衞は何うして知れたかと思って、顔色を変え、突いていた手がぶる〴〵震える様子ゆえ、喜一郎は笑を含みまして、物柔らかに、 秋「いや源兵衞何か心配をして、これを言ってはならんとか、彼を言っては他役人の身の上にも拘わるだろうと深く思い過して、隠し立てを致すと却って為にならんぞ、定めし上役の者が其の方に折入って頼んだ事も有るであろうが、其の者の身分柄にも障るような事があってはならんから、これは秋月に言っては悪かろうと、斯う手前が考えて物を隠すと、却って悪い、と云うのは元来お屋敷へ出入を致すのには、殿様を大事と心得なければならん、そりゃアまた出入町人にはそれ〴〵係りの者もあるから、係り役人を粗末にしろと云うのではないが、素より手前は上の召上り物の御用を達す身の上ではないか、なア」 源「へえ誠にどうも其の、えゝ…何うも私がその、事柄を弁えませんものでございまして、唯飴屋風情の者がお屋敷へお出入を致しまして、お身柄のあります貴方様を始め、皆様に直々斯う遣ってお目通りをいたし、誠に有難い事と心得まして、只私はえゝ何うも其の有難くばかり存じますので、へえ自然に申上げます事もその前後に相成ります」 秋「なに有難く心得て、言う事が前後になるというのは可笑しい一体何ういう訳で手前は当家の婆に斑猫を捕ってくれろと頼んだか、それを云えというんだ」 源「それはその私が懇意にいたします近辺に医者がございまして、その医者がどうも其の薬を……薬は一体毒なもので、癱疔根太腫物のようなものに貼けます、膏薬吸出しのようなものは、斑猫のような毒が入りませんければ、早く吹切りません、それゆえ欲いと申されました事でございまして」 秋「其の人は何処の者か」 源「へえ実はその……私が平常心易くいたしますから、どうかお前頼んでくれまいかと云われて、私が其の医者を同道いたしてまいりまして、当家の婆に頼みましたのでございます」 秋「ムヽウ、其の医者は何処の者だえ、いやさ近辺にいるというが、よもやお抱えの医者ではあるまい、町医か外療でもいたすものかえ」 源「へえ、その……大概その外療をいたしましたり、ま其の風っ引きぐらいを治すような工合で」 秋「何と申す医者だえ」 源「へい、その誠にその、雑といたした医者で」 秋「雑と致した、そんな医者はありません、名前は何というのだえ」 源「名前はその、えゝ……実はその何でございます、山路と申します」 秋「山路……山路宗庵と云うか」 源「へえ、好く御存じさまで」 秋「是は殿様のお部屋お秋の方の父で、お屋敷へまいる事もあるで、存じて居る、其の者に頼まれて、貴様が此処の婆に斑猫を捕れと頼んだのか、薬に用いるなれば至極道理の事だ……当家の主人は居るの、一寸こゝへ出てくれ」 嘉「はい」 秋「婆も一寸こゝへ」 婆「はい」  と両人とも秋月喜一郎の前へまいりました。 秋「お前方は何かえ、此の飴屋の源兵衞は前から懇意にいたして居るものかえ、毎度此の飴屋方へも行き、源兵衞も度々此方へ参るような事があるかえ」 嘉「いえなに私が処へお出でなすった事も何もない、私は御懇意にも何にもしませんが、婆が商いに出ました先でお目にかゝったのが初り、それから頼まれましたんで、のうお母」 婆「はい、なに心易くも何とも無えので、お得意廻りに歩き、商いをしべえと思って籠を脊負って出て、お前さま、谷中へかゝろうとする途で会ったゞね、それから斯ういう理由だが婆、何うだかと云うから、ま詰らん小商いをするよりもこれ、一疋虫を捕めえて六百ずつになれば、子供でも出来る事だから宜かろうと頼まれましたんで」 秋「左様か、源兵衞当家の嘉八という男も婆も手前は懇意じゃア無いと云うじゃアないか」 源「へえ、別に懇意という……なにもこれ親類というわけでも何でもないので」 秋「親類かと問やアせん、手前が当家の婆とは別懇だから、山路が手前に斑猫を捕る事を頼んだと只今申したが、然らば手前は当家の婆は別懇でも何でもなく、通りかゝりに頼んだか山路も何か入用があって毒虫を捕る事を手前に頼んだ事であろうと考えるが、これは誰か屋敷の者の中で頼んだ者でもありはせんか」 源「へえ左様でございますかな」 秋「左様でございますかな、と申して此の方が手前に聞くんだ」 源「へえ……どうか真平御免遊ばして下さいまし、重々心得違で」 秋「只心得違いでは分らん、白状をせんか、此の程御舎弟様が御病気について、大分夜分お咳が出るから、水飴を上げたら宜かろうというのでお上屋敷からお勧めに相成って居る、その水飴を上げる処の出入町人は手前じゃから、手前の処で製造して水飴が上る、其の水飴を召上って若し御病気でも重るような事があれば、手前が水飴の中へ毒を入れた訳ではあるまいけれども、手前が製した水飴を召上ったゝめに病気が重り、手前が頼んで斑猫を捕らしたという事実がある上は、左様な訳ではなくても、手前が水飴の中へ毒虫でも製し込んで上へ上げはせんかと、手前に疑ぐりがかゝる、是は当然の事じゃアないか、なア、決して手前を咎にはせん、白状さえすれば素々通り出入もさせてやる、此の秋月が刀にかけても手前を罪に落さんで、相変らず出入をさせた上に、お家の大事なれば多分に手当をいたして遣るように、此の秋月が重役等と申合せて計らって遣わす、何も怖い事はないから有体に言ってくれ、殿様のお為じゃ、殿様が有難いと心得たら是を隠してはなりませんよ、のう源兵衞」 源「へえ、私が愚昧でございまして、それゆえ申上げますことも前後に相成ります事でございまして、何かとお疑ぐりを受けますことに相成りましたが、なか〳〵何う致しまして、水飴の中へ毒などは入れられません、透いて見えます極製でございますから、へえ、なか〳〵何う致しまして、其様なことは……御免遊ばして下さいまし」  と泣声を出し涙を拭う。 秋「何故泣く」 源「私は涙っぽろうございます」 秋「涙っぽろいと云っても何も泣くことはない、別段仔細は無いから……左様な事は致すまいなれども、また御舎弟様付とお上屋敷の者と心を合せて、段々手前も存じて居ろうが、どうも御舎弟さまを邪魔にする者があると云うのは、御癇癖が強く、聊かな事にも暴々しくお高声を遊ばして、手打にするなどという烈しい御気性、乃でどうも御舎弟様には附が悪いので上屋敷へ諂う者も多いが、今大殿様もお加減の悪い処であるから、誠に心配で、万一の事でもありはせんか、有った時には御順家督で、何うしても御舎弟紋之丞様を直さねばならん、ところがその、此処に婆が居っては……他聞を憚ることじゃ……婆が聞いても委しいことは分るまいが……、婆嘉八とも暫時彼方へ退いてくれ」 婆「はい」  と立ってゆく。後見送りて、 秋「手前も存じて居る通り、只今其の方が申した医者の娘、お秋の方が儲けられた菊さまという若様がある、其の方を御家督に立てたいという慾心から、菊様の重役やお附のものが皆心を合せて御舎弟様を亡き者にせんと……企むのでは有りはすまいが、重役の者一統心配して居る、御舎弟様は大切のお身の上、万一間違でもあっては公儀へ対しても相済まんことだが、そりゃア手前も心得て居るだろう、只山路が頼んだというと、山路はお秋の方の実父だから、左様なこともありはせんかと私は疑ぐる、併し然うで有るか無いか知れんものに疑念を掛けては済まんけれども、大切のことゆえ有体に云ってくれ、其の方御舎弟様を大切に思うなれば云ってくれ、秋月が此の通り手を突いて頼む……な……決して手前の咎めにはせんよ、出入も元々どおりにさせ、また事に寄ったら三人扶持か五人扶持ぐらいは、若殿様の御世になれば私から直々に申上げて、其の方一代ぐらいのお扶持は頂戴さしてやる」  と和らかに言わるゝ程気味が悪うございますから、源兵衞は恐る〳〵首を上げ、 源「へえ、有難う、恐入りますことで、貴方さまのような御重役が、私ごとき町人風情に手を突いてお頼みでございましては、誠に恐入ります、私も実はその、えゝ……始めは驚きましてございますが……実はその、へえ、お立派なお方さまのお頼みでございまして、斑猫てえ虫を捕って水飴の中へ入れてくれろというお頼みでございます、初めは山路というお医者が、何とかいう、えゝ、礜石とかいう薬を入れて練ったらと云うので練って見ましたが、これは水飴の中へ入れても好く分りますので、毒虫を煮てらんびきにいたして、その毒気を水飴の中へ入れたら、柔かになって宜かろうというお頼みで、迂濶りお目通りをして其の事を伺い、これは意外な事と存じまして、お断りを申上げましたら、其の事が不承知と申すなら、一大事を明したによって手打に致すとおっしゃって、刀の柄へ手を掛けられたので、恟り致しまして、否と云えば殺され、応と云えば是迄通り出入をさせ、其の上多分のお手当を下さるとの事、お金が欲くはございませんでしたが、全く殺されますのが辛いので、はいと止むを得ずお受けをいたしました、真平御免下さいまし」 秋「うむ、宜く言ってくれた、私も然うだろうと大概推察致して居った、宜く言ってくれた」 源「えゝ私が此の事を申上げましたことが知れますと、私は斬られます」 秋「いや〳〵手前が殺されるような事はせん、決して心配するな、あゝ誠に感心、宜く言ってくれた、これ当家の主人」 嘉「はい」 秋「今私が源兵衞に云った事が逐一分ったかえ、分ったら話して見るが宜い」 嘉「なにか仰しゃったようでごぜえますが、むずかしくって少しも分りませんが、若え殿様に水飴を甜めさせて、それから殿様にも甜めさせて、それを何ですかえ両方へ甜めさせるような事にして御扶持をくれるんだって」 秋「あはゝゝ分らんか、宜しい、至極宜しい、分らんければ」 嘉「それで何ですかえ、飴屋さんが御扶持を両方から貰って」 秋「宜しい〳〵、分らん処が妙だ、どうぞな私が貴様の家へ来て、飴屋と話をした事だけは極内々でいてくれ、宜いか、屋敷の者に……婆が又籠を脊負って、大根や菜などを売に来た時に、秋月様が入しったと長家の者に云ってくれちゃア困る、是だけは確かと口留をいたして置く、いうと肯かんよ、云うと免さんよ、何処から知れても他に知る者は無いのだから、其の儘にしては置かんよ」 嘉「はい……どうか御免を」 秋「いや、云いさえしなければ宜しいのだ」 嘉「いう処じゃアありません、婆さんお前は口がうるせえから」 婆「云うって云わねえって何だか知んねえものそれじゃア誰が聞いても、殿様は己ア家へおいでなすった事はごぜえません、飴屋さんとお話などはなせえませんと」 秋「そんな事を云うにも及ばん、決して云ってはならんぞ」 婆「はい、畏まりました」 秋「源兵衞、毒虫を入れた水飴は大概もう仕上げてあるかの」 源「へえ、明後日は残らず出来ます」 喜「明後日出来る……よし宜く知らせてくれた辱ない、源兵衛手前に何ぞ望みの物を取らしたく思う、持合せた金子も少ないが、是はほんの手前が宅への土産に何ぞ買って行ってくれ、私が心ばかりだ」 源「何う致しまして、私がこれを戴きましては」 秋「いや〳〵遠慮をせずに取って置いてくれ、就てはの、源兵衞大概此の方に心当りもある、手前に頼んだ侍の名前は、これ誰が頼んだえ」 源「へえ、是だけは、それを言えば斬ると仰しゃいました、へえ、何うかまア種々そのお書物の中へ、私にその、血で爪印をしろと仰しゃいましたから、少し爪の先を切りました」 秋「左様か、云っては悪いか、併し源兵衞斯う打明けてしまった事じゃから云っても宜かろう」 源「何卒それだけは御勘弁を」 秋「云えんかえ」 源「へえ、何うもそれは御免を蒙ります」 秋「併し源兵衞、是までに話を致して、依頼者の姓名が云えんと云うのは訝しい、まだ手前は悪人へ与み致して居るように思われる、手前が云わんなら私の方で云おうか」 源「へえ」 秋「神原五郎治兄弟か、新役の松蔭かな」  源兵衞は仰天して、 源「よ好く御存じさまで」         四十二  喜一郎は態と笑を含みまして、 秋「何うも其辺だろうと鑑定が附いていた、ま宜しいが、彼の松蔭並びに神原兄弟の者はなか〳〵悪才に長けた奴ゆえ、種々罠をかけて、私が云ったことを手前に聞くまいものでもないが、手前決して云うな」 源「何う致しまして、云えば直ぐに私が殺されます、貴方様も仰しゃいませんように」 秋「私は決して云わん、首尾好く悪人を見出して御当家安堵の想いを為すような事になれば、何うか願って手前に五人扶持も遣りたいの」 源「何う致しまして、悪人へ与み致しました罪で、私はお手打になりましても宜しいくらいで、私は命さえ助かりますれば、御扶持は戴きませんでも宜しゅうございます、お出入りだけは相変らず願います」 秋「うむ、承知いたした、一緒に帰ろうか、いや〳〵途中で他人に見られると悪いから、早く行け〳〵」 源「有難うございます」  ほっと息を吐いて、ぶる〳〵震えながら出て、後を振返り〳〵二三丁行って、それからぷうと駈出して向うへ行く様子を見て、 秋「何も駈出さんでも宜さそうなものだ」  と笑いながら心静かに身支度をいたし、供を呼んで、是から嘉八親子にもくれ〴〵礼を陳べて帰られましたが、丁度八月九日のことで、川添富彌という若様附でございます、御舎弟様は夜分になりますとお咳が出て、お熱の差引がありますゆえ、お医者は側に附切りでございます。一統が一通りならん心配で、お夜詰をいたし、明番になりますと丁度只今の午前十時頃お帰りになるのですが、御容態が悪いと忠義の人は残っている事がありますので、富彌様はお留守勝だから、御新造はお留守を守って、どうかお上の御病気御全快になるようにと、頻りに神信心などを致して居ります。御新造は年三十で名をお村さんといい、大柄な美い器量の方で、お定という女中が居ります。 村「定や〳〵」 定「はい」 村「あの此処だけを少し片附けておくれ、何だか今年のように用の遅れた事はない、おち〳〵土用干も出来ずにしまったが、そろ〳〵もう綿入近くなったので、早く綿入物を直しに遣らなければならない、それに袷も大分汚れたから、お襟を取換えて置かなければなるまい」 定「左様でございます、矢張旦那様がお忙しくって、日々御出勤になりましたり、夜もお帰りは遅し、お留守勝ですから夜業が出来ようかと存じますが、何だか矢張りせか〳〵致しまして、なんでございますよ、御用が段々遅れに遅れてまいりました」 村「あの今日はお明番だから、大概お帰りだろうとは思うが、一時でも遅れると又案じられて、お上がお悪いのではないかと、何だか私は気が落着かないよ、旦那のお帰り前に御飯を戴いてしまおうか」 定「何もございませんが、いつもの魚屋が佳い鰈を持ってまいりました、珍らしい事で、鰈を取って置きました」 村「然うかえ、それじゃアお昼の支度をしておくれ」 定「畏まりました」  と是から午飯の支度を致して、午飯を喫べ終り、お定が台所で片附け物をして居ります処へ入って来ましたのは、茶屋町に居りますお縫という仕立物をする人で、好くは出来ないが、袴ぐらいの仕立が出来るのでお家中へお出入りをいたしている、独り暮しの女で、 縫「御免遊ばして」 定「おや、お縫さん、よくお出掛け……さ、お上んなさい」 縫「誠に御無沙汰をいたしました、此間は有難う……今日は御新さんはお宅に」 定「はア奥にいらっしゃるよ」 縫「実はたった一人の妹で、私が力に思っていました其の者が、随分丈夫な質でございましたが、加減が悪くって、其方へ泊りがけに参って居りまして、看病を致してやったり、種々の事がありまして大分遅くなりました、尤もお綿入でございますから、未だ早いことは早いと存じまして」 定「出来ましたかえ」 縫「はい、左様でございます」 定「御新造様、あの茶屋町のお縫どんがまいりました」 村「さ、此方へお入り」 縫「御免遊ばしまし……誠に御無沙汰をいたしました」 村「朝晩は余程加減が違ったの」 縫「誠に滅切御様子が違いました、お変り様もございませんで」 村「有難う」 縫「御意に入るか存じませんが、お悪ければ直します」 村「大層好く出来ました、誠に結構……お前のは仕立屋よりか却って着好いと旦那も仰しゃってゞ、誠に好く出来ました、大分色気も好くなったの」 縫「これは何でございます、お洗い張を遊ばしましたら滅切りお宜しくなりました、尤もお物が宜しいのでございますから、はい仕立栄がいたします」 村「久しく来なかったの」 縫「はいなんでございます、直に大門町にいる妹ですが、平常丈夫でございましたが、長煩いを致しましたので、手伝いにまいりまして、伯母が一人ございますが、其の伯母は私のためには力になってくれました、長命で八十四で、此の間死去りましたが、あなた其の歳まで眼鏡もかけず、歯も好し、腰も曲りませんような丈夫でございましたが、月夜の晩に縁側で裁縫を致して居りましたが、其処へ倒れたなり、ぽっくり死去りましたので、それゆえ種々取込んで……お小袖ですから間に合わん気遣いはないと存じまして、御無沙汰をいたしました、今年は悪い時候で、上方辺は大分水が出たという話を聞きました、お屋敷の大殿様も若殿様もお加減がお悪いそうで」 村「あゝ誠にお長引きで」 縫「私は毎も然う申しますので、伯母が死去りましても悔むことはない、これ〳〵のお屋敷の殿様が御病気で、お医者の五人も三人も附いて、結構なお薬を召上り、お手当は届いても癒る時節にならなければ癒らんから、くよ〳〵思う事はないと申して、へえ」 村「何分未だお宜しくないので、実に心配しているよ、夜分はお咳が出ての」 縫「然うでございますか、それはまア御心配でございますね、併しまだお若様でいらっしゃいますから、もう程無う御全快になりましょう」 村「御全快にならなくっちゃア大変なお方さまで、一時も早くと心配しているのさ」 縫「えゝ御新造様え、こんな事をお勧め申すと、なんでございますが、他から頼まれて、余りお安いと存じまして持って出ましたが、二枚小袖の払い物が出ましたので、ま此様な物を持って出たり何かして、済みませんが、出所も確かな物ですから、お目にかけますが、それに八丈の唐手の細いのが一枚入って居ります、あとは縞縮緬でお裏が宜しゅうございます、お平常着に遊ばしても、お下着に遊ばしても」 村「私は古着は嫌いだよ」 縫「左様でございましょうが、出所が知れているものですから」 村「じゃア出してお見せ」 縫「畏まりました」  とお次から包を持ってまいり、取出して見せました。唐手の縞柄は端手でもなく、縞縮緬は細格子で、色気も宜うございます。 村「大層好い縞だの」 縫「誠に宜うございます」 村「これは何の位というのだえ」 縫「これで先方じゃア最少し値売をしたいように申して居りますが、此の書付でと申すので」 村「二枚で此の値段書では大層に安い物だの」 縫「へい、お安うございます、貴方お裏は新しいものでございます」 村「何ういう訳で此れを払うというのだえ」 縫「先方はよく〳〵困っているのでございます」 村「丈や身巾が違うと困るね」 縫「左様ならお置き遊ばしては何うでございます、一日ぐらいお置きあそばしても宜しゅうございます」 村「余り縞柄が好いから、欲しいような心持もするから、置いてっておくれ」 縫「左様でございますか、じゃア私が今日の暮方までに参りませんければ、明朝伺いに上ります」 村「では後で好く撿めて見よう」  是をお世話いたせば幾許か儲かるのだから先ず気に入ったようだとお縫は悦んで帰ってしまう、後でお定を呼んで、 村「手伝っておくれ、解いて見よう、綿は何様なか」  と段々解いて見ると。不思議なるかな襟筋に縫込んでありました一封の手紙が出ました。 村「おや、定や」 定「はい」 村「此様な手紙が出たよ」 定「おや〳〵襟ん中から奇態でございますね、何うして」 村「私にも分らんが、何ういう訳で襟の中へ……訝しいの」 定「女物の襟へ手紙を入れて置くのは訝しい訳でございますが、情夫の処へでも遣るのでございましょう」 村「だってお前それにしても襟の中へ……訝しいじゃアないか」 定「左様でございますね、開けて御覧遊ばせよ、何と書いてあるか」 村「無闇に封を切っては悪かろう」 定「これを貴方の物にして、此の手紙を開けて御覧なすって、若し入用の手紙なれば先方へ返したって宜いじゃア有りませんか」 村「本当に然うだね、封が固くしてあるよ、何と書いてあるだろう」 定「お禁厭でございますか知らん、随分お守を襟へ縫込んで置く事がありますから、疫病除に」 村「父上様まいる菊よりと書いてある、親の処へやったんで」 定「だって貴方親の処へ手紙をやるのに、封じを固くして襟の中へ縫付けて置くのは訝しゅうございますね、尤も芸者などは自分の情郎や何かを親の積りにして、世間へ知れないようにお父様〳〵とごまかすてえ事を聞いて居りますよ」 村「開けて見ようかの」 定「開けて御覧遊ばせよ」 村「面白いことが書いてあるだろうの」 定「屹度惚気が種々書いてありましょうよ」  悪いようだが封じが固いだけに、尚お開けて見たくなるは人情で、これから開封して見ますと、女の手で優しく書いてあります。 村「…文して申上〓(「まいらせそろ」の草書体)…、極っているの」 定「へえ、それから」 村「…益々御機嫌能御暮し被成候御事蔭ながら御嬉しく存じ上〓(「まいらせそろ」の草書体)」 定「定文句でございますね、併し色男の処へ贈る手紙にしちゃア改り過ぎてるように存じますね」 村「然うだの、左候えば私主人松蔭事ス……神原四郎治と申合せ渡邊様を殺そうとの悪だくみ……おや」 定「へえ……何ういう訳でございましょう」 村「黙っていなよ、……それのみならず水飴の中へ毒薬を仕込み、若殿様へ差上候よう両人の者諜し合せ居り候を、図らず私が立聞致し驚き入り候」 定「呆れましたね、誰でございますえ」 村「大きな声をおしでないよ、世間へ知れるとわるいわ……一大事ゆえ文に認め差上候わんと取急ぎ認め候え共、若し取落し候事も有れば、他の者の手に入っては尚々お上のために相成らずと心配致し、袷の襟へ縫込み差上候間、添書の通りお宅にてこれを解き御覧の上渡邊様方に勤め居り候御兄様へ此の文御見せ内々御重役様へ御知らせ下され候様願い上〓(「まいらせそろ」の草書体)、申上度事数々有之候え共取急ぎ候まゝ書残し〓(「まいらせそろ」の草書体)尚おお目もじの上委しく可申上候、芽出度かしく、父上様兄上様、菊…と、……菊というのは何かの、彼の新役の松蔭の処に奉公していた女中は菊と云ったっけかの」 定「私は存じませんよ」 村「松蔭の家にいた女中が殺されたような事を聞いたから、旦那様に聞いてもお前などは聞かんでも宜い事だと仰しゃるから、別段委しくお聞き申しもしなかったが、是は容易な事ではないよ」  と申している処へ一声高く、玄関にて、 僕「お帰りい」 村「旦那がお帰り遊ばした」  と慌てゝお玄関へ出て両手を支え、 村「お帰り遊ばしまし」 定「お帰り遊ばせ」 富「あい、直に衣服を着換えよう」 村「お着換遊ばせ、定やお召換だよ、お湯を直に取って、さぞお疲れで」 富「いやもう大きに疲れました、ハアーどうも夜眠られんでな、大きに疲れました、眠れんと云うのは誠にいかんものだ」  是から衣服を着替えて座蒲団の上に坐ると、お烟草盆に火を埋けて出る、茶台に載せてお茶が出る。 村「毎日〳〵お夜詰は誠にお苦労な事だと、蔭ながら申して居りますが、貴方までお加減がお悪くなると、却ってお上のお為になりませんから、時々は外村様とお替り遊ばす訳にはまいりませんので」 富「いや、外村と代っているよ」 村「今日の御様子は如何で」 富「少しはお宜しいように見受けたが、どうもお咳が出てお困り遊ばすようだ」 定「御機嫌宜しゅう、お上は如何でございます」 富「あい、大きに宜しい、定まで心配して居るが、どうも困ったものじゃ」 村「早速貴方に申上げる事がございます、茶屋町の縫がまいりまして」 富「うん」 村「彼が払い物だと云って小袖を二枚持ってまいりましたから、丈は何うかと存じまして、改める積りで解きましたところが、貴方襟の中から斯様な手紙が出ました、御覧遊ばせ」  と差出すを受取り、 富「襟の中から、はて」  と披いて読み下し、俄に顔色を変え、再び繰返し読直して居りまする内に、何と思ったか、 富「定」 定「はい」 富「茶屋町の裁縫をいたす縫というものは何かえ、彼は亭主でも有るのか」 定「いえ、亭主はございません、四年已前に死去りまして、子供もなし、寡婦暮しで、只今はお屋敷やお寺方の仕事をいたして居りますので、お召縮緬の半纒などを着まして、芝居などへまいりますと、帰りには屹度お茶屋で御膳や何か喫べますって」 富「其様な事は何うでも宜い、御新造松蔭の家にいた下婢は菊と云ったっけの」 村「私は名を存じませんが、其の下女が下男と不義をいたして殺されたという話を聞きましたから、只今考えて居りますので」 富「只松蔭とのみで名が分らんと、他にない苗字でもなし、尤も神原四郎治は当家の御家来と確かに知れている、その四郎治と心を合せる者は大藏の外にはないが、先方の親の名が書いてあると調べるに都合も宜しいが、ス……これ定、其の茶屋町の縫という女を呼びに遣れ、直に……事を改めていうと胡乱に思って、何処かへ隠れでもするといかんから、貴様一寸行って来い、先刻の衣服の事について頼みたい事がある、他に仕立物もある、置いてまいった衣服二枚を買取るに都合もあるから、旦那様もお帰りになり、相談をするからと申してな、それに旨い物が出来たで、馳走をしてやる、早く来いと申して、直に呼んでまいれ」 定「じゃア私がまいりましょうか」 富「却って貴様の方が宜かろう、女は女同志で、此の事を決していうな」 定「何う致しまして、決して申しは致しません」  と急いで出てまいりました。         四十三  お縫は迎いを受けて、衣服が売れて幾許かの口銭になることゝ悦んで、お定と一緒にまいりました。 定「旦那さま、あのお縫どんを連れてまいりました」 富「おゝ直に連れて来たか、此方へ通せ」 縫「旦那様御機嫌宜しゅう」 富「其処では話が出来ん、此方へ這入れ構わずずうっと這入れ」 縫「はい……毎度御贔屓さまを有難う……毎度御新造様には種々頂戴物を致しまして有難う存じます」 富「毎度面倒な事を頼んで、大分裁縫が巧いと云うので、大きに妻も悦んでいる、就ては忙しい中を態々呼んだのは他の事じゃアないが、此の払物の事だ」 縫「はい〳〵、誠に只お安うございまして、古着屋などからお取り遊ばすのと違って、出所も知れて居りますから上げました、途々もお定どんに伺いましたが、大層御意に入って、黄八丈は旦那様がお召に遊ばすと伺いましたが、少しお端手かも知れませんが、誠に宜いお色気でございます」 富「それじゃア話が出来んから此方へ這入れ」 縫「御免遊ばして……恐入ります」 富「茶を遣れよ」 縫「恐入ります……これは大層大きなお菓子でございますねえ」 富「それは上からの下されたので」 縫「へえ中々下々では斯ういう結構なお菓子を見る事は出来ません、頂戴致します、有難う存じます」 富「あゝ此の二枚の着物は何処から出たんだえ」 縫「そりゃアあの何でございます、私が極心安い人でございまして、その少し都合が悪いので払いたいと申して、はい私の極心安い人なのでございます」 富「何ういう事で払うのだ」 縫「はい、その何でございます、誠に只もう出所が分って居りまして、古着屋などからお取り遊ばしますと、それは分りません事で、もしやそれが何でございますね、ま随分お寺へ掛無垢や何かに成ってまいったのが、知らばっくれて払いに出ます事が幾許もございます、左様な不祥な品と違いまして、出所も分って居りますから何かと存じまして」 富「それは分っているが、何ういう訳で払いに出たのだえ」 縫「まことに困ります、急にその災難で」 富「むゝう災難……何ういう災難で」 縫「いえ、その別に災難と申す訳もございませんけれども、急に嫁にまいるつもりで拵えました縁が破談になりまして、不用になった物で」 富「はゝア、これは何と申す婦人のだえ、何屋の娘か知らんけれども、何と申す人の着物だえ」 縫「そりゃアその何でございます、私のような名でございますね」 富「手前のような……矢張縫という名かえ」 縫「いゝえ、縫という名じゃアございませんが、その心安くいたす間柄の者で」 富「心安い何という名だえ」 縫「それはどうも誠に何でございますね、その人は名を種々に取換る人なんで、最初はきんと申して、それから芳となりましたり、またお梅となったり何か致しました」 富「むゝう、今の名は何という」 縫「芳と申します」 富「隠しちゃアいかんぜ、少し此方にも調べる事があるから、お前を呼んだのじゃ、此の着物を着た女の名は菊といやアせんか」 縫「はい」 富「左様だろうな」  お縫揉手をしながら、 縫「菊という名に一寸なった事もあります」 富「一寸成ったとは可笑しい隠しちゃアいかん、その菊という者は此方にも少し心当りがあるが、親の家は何処だえ」 縫「はい」 富「隠しちゃアならん、お前に迷惑は掛けん、これは買入れるに相違ない、今代金を遣るが、菊という者なればそれで宜しいのだ、菊の親元は何処だえ」 縫「はい、誠にどうも恐入ります」 富「何も恐入る事はない、頼まれたのだから仔細はなかろう」 縫「親元は本郷春木町三丁目でございます、指物屋の岩吉と申します、其の娘の菊ですが、その菊が死去りましたんで」 富「うん、菊は同家中に奉公していたが、少々仔細有って自害致した」 縫「でございますけれども、これはその自害した時に着ていた着物ではございません」 富「いや〳〵自害した女の衣類だから不縁起だというのではない、買っても宜い」 縫「有難う存じます、その親も死去りました、其の跡は職人が続いて法事をいたして、石塔や何かを建てたいという心掛なので」 富「左様か、それで宜しい、もう帰れ〳〵……おゝ馳走をすると申したっけ、欺しちゃアならん、私は直に上るから」  と川添富彌は急に支度をして御殿へ出ることになりました。御殿ではお夜詰の方々が次第〳〵にお疲れでございます。お医者は野村覺江、藤村養庵という二人が控えて居ります。お夜詰には佐藤平馬、外村惣衞と申してお少さい時分からお附き申した御家来中田千股、老女の喜瀬川、お小姓繁などが交々お薬を上る、なれどもどっとお悪いのではない、床の上に坐っておいでゞ、庭の景色を御覧遊ばしたり、千股がお枕元で軍書を読んだり、するをお聞きなさる。お熱の工合でお悪くなると、ころりと横になる。甚く寒い、もそっと掛けろよと御意があると、綿の厚い夜着を余計に掛けなければなりません。お大名様方は釣夜具だとか申しますが、それほど奢った訳ではない。お附の者も皆心配して居られます。いまだお年若で、今年二十四五という癇癖ざかりでございます。老女喜瀬川が出まして、 喜「上……上」 紋「うむ」 喜「お上屋敷からお使者がまいりました」 紋「うむ、誰が来た」 喜「上のお使いに神原五郎治がまいりまして、御病気伺いに出ました、お目通りを仰付けられたいと申します、御面倒でございましょうが、お使者ではお会いが無ければなりますまい、如何致しましょうか」 紋「うむ、神原五郎治か……彼は嫌いな奴じゃが、此処へ通せ」 喜「畏りましてございます……若殿がお会いが有りますから、これへ直に」  と中田千股という人が取次ぎますと、結構な蒔絵のお台の上へ、錦手の結構な蓋物へ水飴を入れたのを、すうっと持って参り、 喜「お上屋敷からのお遣い物で」  とお枕元に置く。お次の隔を開けて両手を支え、 五「はア」  と慇懃に辞儀をする。 五「神原五郎治で、長の御不快蔭ながら心配致して居りました、また上に置かせられてもお聞き及びの通り御病中ゆえ、碌々お訪ね申さんが、予の病気より梅の御殿の方が案じられると折々仰せられます、今日は御病気伺いとして御名代に罷り出ました、是れは水飴でございますが、夜分になりますとお咳が出ますとのこと、其の咳を防ぎますのは水飴が宜しいとのことで、これは極製の水飴で、これを召上れば宜くお眠られます、上が殊の外御心配なされ、お心を入れさせられし御品、早々召上られますように」 紋「うむ五郎治、あゝ予の病気は大した事はない、未だ壮年の身で、少し位の病魔に負けるような事はない、快い時は縁側ぐらいは歩くが、只お案じ申上げるのはお兄様の御病気ばかり、誠に案じられる、お歳といい、此の程はお悪いようじゃが、何うじゃな」 五「はア一昨日は余程お悪いようでございましたが、昨日よりいたして段々御快気に赴き、今朝などはお粥を三椀程召上りました、其の上お力になる魚類を召上りましたが、彼の分では遠からず御全快と心得ます」 紋「うむ悦ばしい、予が夜分咳の出るは余程せつないがの、其のせつない中にもお兄様をお案じ申上げて、予の病気は兎も角、どうか早くお兄上様の御病気御全快を蔭ながら祈り居ると申せ」 五「はア、はア、そのお言葉を上がお聞きでござったら、嘸お悦びでございましょう、御病苦を忘れ、只お上のことのみ思召さるゝというのは、あゝ誠にお使者に参じました五郎治倶に辱のう心得ます、只今の御一言早々帰りまして、上へ申上げるでございましょう、実に斯様な事を承わりますのは、誠に悦ばしい事で」  紋之丞殿は急に気色を変え、声を暴らげ、 紋「五郎治、申さんでも宜しい、お兄様に左様な事を申さんでも宜しい、弟が兄を思うは当前の事じゃ、お兄様も亦予を思うて下さるのは何も珍らしい事はない、改めて左様申すには及ばん、然るを事珍らしく左様の事を申伝えずとも、よも斯様の事は御存じで有ろう、左様に媚謟った事を云うな」 五「はア……誠にどうも」 老女「左様なお高声を遊ばすと却って御病気に障ります、左様な心得で五郎治が申した訳ではありません」 紋「一体斯様な事をいう手前などはな主人を常思わんからだ、主人を思わん奴が偶々胸に主人の為になる事を浮ぶと、あゝ忠義な者じゃと自ら誇る、家来が主人を思うは当然の事だ、常思わんから偶に主人を思う事があると、私は忠義だなどと自慢を致す、不忠者の心と引較べて左様に申す、白痴者め、早々帰れ」  と以ての外不首尾でございますから、 五「ホヽ」  と五郎治は手持不沙汰で、 五「今日は上の御名代として罷出ましたが、性来愚昧でございまして、申上げる事も遂にお気に障り、お腹立に相成ったるかは存じませんが、偏に御容赦の程を願います」 紋「退れ」 五「はっ」 老「五郎治殿御病気とは申しながら誠に御癇癖が強く、時々斯ういうお高声があります事で、悪しからず……あなた、左様なことを御意遊ばすな、それがお悪い、お高声を遊ばすとお動悸が出まして、却って、お悪いとお医者が申しました」 紋「うむ、今日はお兄上様からお心入の物を下され、それを持参いたしたお使者で、平生の五郎治では無かった、誠に使者太儀」  ごろりと直に横っ倒しになり、掻巻を鼻の辺まで揺り上げてしまう。仕方が無いから五郎治はそろり〳〵と跡へ退る。一同気の毒に思い、一座白け渡りました。 千「神原氏、余程の御癇癖お気に支えられん様に、我々はお少さい時分からお附き申していてさえ、時々お鉄扇で打たれる様な事がある、御病中は誠に心配で、腫物に障るような思いで、此の事は何卒上へ仰せられんように」 五「宜しゅうございます」 老「五郎治殿、誠に今日は遠々の処御苦労に存じます、只今の事は上へ仰せ上げられんように、何もござりませんが一献差上げる支度になって居りますから、あの紅葉の間へ」  と言われて五郎治は是を機会に其の座を退きました。暫く経つと紋之丞様がばと起上って、 紋「惣衞〳〵」 惣衞「はア」 紋「惣衞、何は帰ったか五郎治は」 惣「えゝ慥かお次に扣え居りましょう、上のお使でございますから、紅葉の方へ案内致しまして、一献出しますように膳の支度をいたして居ります」 紋「じゃが何じゃの、何故お兄様は彼な奴を愛して側近く置くかの、彼はいかん奴じゃ」 惣「左様な事を今日は御意遊ばしません方が宜しゅうございます」 紋「云っても宜しい、彼は謟い武士じゃ、佞言甘くして蜜の如しで、神原或は寺島等をお愛しなさるのは、勧める者が有るからじゃの、惣衞」 惣「御意にござります」 紋「心配じゃ」 惣「御病中何かと御心配なされては相成りません、程無うお国表から福原數馬も出仕致しますから」 紋「あゝ數馬が来たら何うか成るか、あゝ逆上せて来た、折角お兄様から下すった水飴、甜めて見ようか」 惣「召上りませ、お湯を是へ」  是から蓋が附いて高台に載せてお湯が出ました。側に在ります銀の匙を執って水飴を掬おうとしたが、旨くいきません。 紋「これは思うようにいかんの」 惣「極製の水飴ゆえ金属ではお取り悪うございます、矢張木を裂いた箸が宜しいそうで」 紋「然うかの、箸を持て」  と箸を二本纒めて漸々沢山捲き上げ、老女が頻りに世話をいたして、 老「さア〳〵お口を」 紋「うむ」  と今箸を取りにかゝる処へ駈込んで来たのは川添富彌、物をも云わず紋之丞様が持っていた箸を引奪って、突然庭へ棄てた時には老女も驚き、殿様も肝を潰しました。         四十四 紋「何じゃ〳〵」 富「ハッ富彌で」 紋「白痴……何をいたす」 富「ハア」  と胸を撫下し、 富「誠に幸いな処へ駈付けました、どうか水飴を召上る事はお止りを願います、決して召上る事は相成ません」 老「はアどうも私は恟りしました、これは何という事です、御無礼至極ではござりませんか、殊に只今お上屋敷からお見舞として下されになった水飴、お咳が出るから召上ろうとする所を、奪ってお庭へ棄てるとは何事です」 富「いえ、これは棄てます」 紋「富彌、此の水飴はお兄様がな咳が出るからと云って養いに遣わされた水飴を、何故其の方は庭へ棄てた」 富「いえ仮令お上屋敷から参りましても、天子将軍から参りましても此の水飴は富彌屹度棄てます」 紋「何うか致したな此奴は……これ其の方は予が口へ入れようとした水飴を庭へ棄てた上からは、取りも直さず予とお兄様を庭へ投出したも同様であるぞ、品物は構わんが、折角お心入れの品を投げ棄てたからは主人を投げたも同じ事じゃ」 富「へえ重々恐入ります、其の段は誠に恐入りましたが、水飴を召上る事は決して相成りません」 紋「何故ならん」 富「何でも相成りません」 紋「余程此奴は何うかいたして居る、無礼至極の奴じゃ」 富「御無礼は承知して居ります、甚だ相済みません事と存じながら、お毒でござるによって上げられません」 紋「何故毒になる、若し毒になるなら、水飴を上げても咳の助けには相成らん、却って悪いから止せと何故止めん」 富「左様な事を口でぐず〳〵申している内には召上ってしまいます、召上っては大変と存じまして、お庭へ投棄てました」 紋「余程変じゃ…」 富「先ま外村氏安心致しました」 外「安心じゃアない、粗忽千万な事じゃないか、手前は只驚いて何とも申上げ様がない、お上屋敷から下すったものを無闇にお庭へ投棄てるというは何ういう心得違いで」 紋「外村彼是云うな、此奴は君臣の道を弁えんからの事じゃ、予を嘲弄致すな、年若の主人と侮り何の様な事を致しても宜しいと存じておるか、幼年の時から予の側近く居るによって、いまだに予を子供のように思って馬鹿に致すな」 富「いえ、中々もちまして」 紋「いや容赦は出来ん、棄置かれん、今日の挙動は容易ならんことじゃ」 富「お棄置きに成らんければお手打になさいますか」 紋「尤も左様」 富「私も素より覚悟の上、お手打になりましょう」 外「これ〳〵何だ、何を馬鹿を申す、少々逆上て居る様子、只今御酒を戴きましたので、惣衞彼に成代ってお詫をいたします、富彌儀太く逆上をして居る様子で」 富「いゝえ私はお手打に成ります」 紋「おゝ手打にしてやる是へ出え」 富「いゝえお止めなすっても私は出る」  と大変騒々しくなって来た処へ、這入って来ましたのは秋月喜一郎という御重役で、お茶台の上へ水飴を載せてスーと這入って来ながら此の体を見て。 喜「何を遊ばすの、御病中お高声はお宜しく有りません、富彌如き者をお相手に遊ばしてお論じ遊ばすのはお宜しくない、富彌も控えよ」 富「へえ〳〵」  と云ったが心の中で、此の秋月は忠義な者と思ったから。 富「何分宜しく、併し水飴はお止め申します」 紋「えゝ喜一郎、今日は富彌の罪は免さんぞ、幼年の折から側近くいて世話致しくれたとは申しながら、余りと云えば予を嘲弄いたす、予を蔑にする富彌、免し難い、斬るぞ」 喜「これは又大した御立腹、全体何ういう事で」 紋「予が咳を治さんとて、上屋敷から遣わされたお心入れの別製の水飴を甜めようとする処へ、此奴が駈込んで参り突然予が持っていた箸を引奪って庭へ棄てた、これ取も直さず兄上を庭へ投げたも同じ事じゃから免さん、それへ直れ、怪しからん奴じゃ」 喜「これは怪しからん、富彌、何ういう心得だ、上から下された水飴というものは一通りならんと、梅の御殿様の思召すところは御情合で、態々仰附けられた水飴を何で左様な事をいたした」 富「お毒でございますから、お口に入らん内にと口でお止め申す間合がございませんから、無沙汰にお庭へ棄てました」 喜「それは又何ういう訳で」 富「何ういう訳と申して、只今申上げる訳にはまいりませんが、至ってお毒で」 喜「ムヽウ、是は初めて聞く水飴は周の世の末に始めて製したるを取って柳下惠がこれを見て好い物が出来た、歯のない老人や乳のない子供に甜めさせるには妙である、誠に結構なものが出来た、後の世の仕合であると申したという、お咳などには大妙薬である、斯る結構な物を毒とは何ういう理由だ尤も其の時に盜跖という大盗賊が手下に話すに、是れは好いものが出来た、戸の枢に塗る時は音がせずに開く、盗みに忍び入るには妙である至極宜い物であると申したそうだ、同じ水飴でも見る人によっては然う違う、拙者もお見舞いに差上る積りで態々白山前の飴屋源兵衞方から持参いたした此の水飴」 富「これは怪しからん秋月の御老人に限って其様なことは無いと存じていたが、是は怪しからん、あなたは何うかなすったな」 喜「其の方こそ何うかして居る、お咳のお助けになり、お養いになる水飴を」 富「ス……はてな」  と心の中で川添富彌が忠義無二の秋月と思いの外、上屋敷の家老寺島或は神原五郎治と与して、水飴を上へ勧めるかと思いましたから、顔色を変えてジリヽと膝を前へ進め。 富「相成りません」 紋「白痴……喜一郎あのような事を申す、余程訝しい変になった」 喜「余程変に相成りましたな」 富「御老臣が献ずる水飴でも決して相成りません、私はお手打に成ります、上のお手打は元より覚悟、お手打になっても聊か厭いはございませんが、水飴は毒なるものと思召しまして此の後も召上らんように願います、仮令喜一郎が持って参りましょうとも、水飴を召上る事は相成りません」 紋「何じゃ何の事じゃ、白痴め」 喜「拙者が持って参った水飴が毒じゃと申すのか、ムヽウ……それじゃア斯う致そう、拙者がお毒味を致そう。上お匙を拝借致します」  と入物の蓋を取り除けて水飴を取りにかゝるから、川添富彌がはてなと見て居ります。秋月は富彌の顔を見ながら、水飴を箸の端へ段々と巻揚げるのを膝へ手を置いて御舎弟紋之丞殿が見詰めて居りましたが、口の処へ持って来るから。 紋「喜一郎、毒味には及ばん」 喜「はっ」 紋「もう宜しい、予は水飴は嫌いになった、毒味には及ばん、水飴は取棄てえ」 喜「はッ」 紋「喜一郎が勧めるのも忠義、富彌が止むるも忠義、二人して予を思うてくれる志辱なく思うぞ」 喜「ほう」 富「ほう」  御懇の御意で喜一郎富彌は落涙致しました。 喜「富彌有難く御挨拶を申せ……有難うございます」 富「あゝ有難うございまする」  と涙を払い 富「無礼至極の富彌、お手打になっても苦しからん処、格別のお言葉を頂戴いたし、富彌死んでも聊か悔む所はございません」 紋「いや喜一郎と富彌の両人へ何か馳走をして遣れ、喜瀬川は料理の支度を」 老女「はい」  と鶴の一声で、忽ち結構なお料理が出ました。水飴を棄ると、お手飼の梅鉢という犬が来てぺろ〳〵皆甜めてしまいました。それなりに夜に入りますとお庭先が寂と致しました。尤も御案内の通り谷中三崎村の辺は淋しい処で、裏手はこう〳〵とした森でございます。所へ頭巾目深に大小を無地の羽織の下に落差しにして忍んで来る一人の侍、裏手の外庭の林の前へまいると、グックと云うものがある。はて何だろうと暗いから、透して見ると、お手飼の白班の犬が悶いて居ります。怪しの侍が暫く視て居る。最前から森下の植込みの蔭に腕を組んで様子を窺うて居るのは彼の遠山權六で、曩に松蔭の家来有助を取って押えたが、松蔭がお羽振が宜いので、事を問糺さず、無闇に人を引括り、上へ手数を掛け、何も弁えん奴だと權六は遠慮を申付けられました、遠慮というのは禁錮の事ですが、權六些とも遠慮をしません、相変らず夜々のそ〳〵出てお庭を見巡って居りますので、今權六が屈んで見て居りますと、犬がグック〳〵と苦しみ、ウーンワン〳〵と忌な声で吠える、暫く悶いて居りましたが、ガバ〳〵〳〵と泡のような物を吐いて土をむしり木の根方へ頭をこすり附けて横っ倒しに斃れるのを見て、怪しの侍が抜打にすうと犬の首を斬落して、懐から紙を取出し、すっかり血を拭い、鍔鳴をさせて鞘に収め、血の附いた紙を藪蔭へ投込んで、すうと行きに掛るから權六は怪しんですうッと立上り、 權「いやア」  と突然に彼の侍の後から組附いた時には、身体も痺れ息も止るようですから、侍は驚きまして、 曲者「放せ」 權「いや放さねえ、怪しい奴だ、何者だ、何故犬う斬った、さ何者だか名前を云え」 曲「手前たちに名前を申すような者じゃアねえ、其処放せ」 權「放さねえ、さ役所へ行け」 曲「役所へ行くような者じゃア無え」 權「黙れ、頭巾を深く被りやアがって、大小を差して怪しい奴だ、此のまア御寝所近え奥庭へ這入りやアがって、殊に大切な犬を斬ってしまやアがって、さ汝何故犬を斬った」 曲「何故斬った、此の犬は己に咬付いたから、ムヽ咬付かれちゃアならんから斬ったが何うした」 權「黙れ、己ア見ていたぞ、咬付きもしねえ犬を斬るには何か理由があるだろう、云わなければ汝絞殺すが何うだ」 曲「ムヽせつないから放せ」 權「放せたって容易にア放さねえ、さ歩べ、え行かねえか」  と大力無双の權六に捉えられたのでございますから身動きが出来ません。引摺られるようにしてお役所へ参り、早々届けに成りました事ゆえ、此の者を縛し上げまして、其の夜罪人を入れ置く処へ入れて置き、翌日お調べというのでお役所へ呼出しになりました時には、信樂豐前というお方がお目付役を仰付けられて、掛りになりました。此の信樂という人は左したる宜い身分でもないが、理非明白な人でありますから、お目付になって、内々叛謀人取調べの掛りを仰付けられました。差添は別府新八で、曲者は森山勘八と申す者で、神原五郎治の家来であります。呼出しになりました時に、五郎治の弟四郎治が罷り出ます事になりお縁側の処へ薄縁を敷き、其の上に遠山權六が坐って居ります。お目付は正面に居られます。また砂利の上に莚を敷きまして、其の上に高手小手に縛されて森山勘八が居りますお目付が席を進みて。 目付「神原五郎治代弟四郎治、遠山權六役目の儀ゆえ言葉を改めますが、左様に心得ませえ」 四「はっ」 權「ほう」 目付「權六其の方昨夜外庭見廻りの折、内庭の檜木山の蔭へまいる折柄、面部を包みし怪しき侍体のものが、内庭から忍び出で、お手飼の梅鉢を一刀に斬りたるゆえ、怪しい者と心得て組付き、引立て来たと申す事じゃがそれに相違ないか」 權「はい、それに相違ございません、どうも眼ばかり出して、長え物を突差しまして、あの檜木山の間から出て来た……、怪しい奴と思えやして見ているうち、犬を斬りましたから、何でも怪しいと思えやしたから、ふん捕めえました」 目付「うん……神原五郎治家来勘八、頭を上げえ」 勘「へえ」 目「何才になる」 勘「三十三でございます」 目「其の方陪臣の身の上でありながら、何故に御寝所近い内庭へ忍び込み、殊には面部を包み、刄物を提げ、忍び込みしは何故の事じゃ、又お手飼の犬を斬ったと申すは如何なる次第じゃ、さ有体に申せ」  と睨めつけました。         四十五  勘八は図太い奴でございますから、態と落著振いまして、 勘「へえ、誠に恐入りましてございます。お庭内へ参りましたのは、此の頃は若殿様御病気でございまして、皆さんが御看病なすっていらっしゃるので、どうもお内庭はお手薄でございましょうから、夜々見廻った方が宜いと主人から言いつかりました、それにお手飼の犬とは存じませんで、檜木山の脇へ私が参りましたら、此の節の陽気で病付いたと見えまして、私に咬付きそうにしましたから、咬付かれちゃア大変だと一生懸命で思わず知らず刀を抜いて斬りましたが、お手飼の犬だそうで、誠にどうも心得んで、とんだ事を致しました、へえ重々恐入りましてございます」 目「そりゃアお手飼の犬と知らず、他の飼犬にも致せ、其の方陪臣の身を以て夜中大小を帯し、御寝所近い処へ忍び入ったるは怪しい事であるぞ、さ何者にか其の方頼まれたので有ろう、白状いたせ、拙者屹度調るぞ」 勘「へえ、何も怪しくも何ともないんでございます、全く気を付けて時々お庭を廻れと云われましたんでございます、それゆえ致しました、此処においでなさいます主人の御舎弟四郎治様も爾う仰しゃったのでございます」 目「うむ、四郎治其の方は此の者に申付けたとの申立じゃが、全く左様か」 四「えゝ、お目付へ申上げます、実は兄五郎治は此の程お上屋敷のお夜詰に参って居ります、と申すは、大殿様御病気について、兄も心配いたしまして、えゝ、番でない時も折々は御病気伺いに罷り出で又御舎弟様も御病気に就きお夜詰の衆、又御看護のお方々もお疲れでありましょう、又疲れて何事も怠り勝の処へ付入って、狼藉者が忍入るような事もあれば一大事じゃから、其の方己がお上屋敷へまいって居る中は、折々お内庭を見廻れ、御寝所近い処も見廻るようにと兄より私が言付かって居ります、然る処昨日御家老より致しまして、火急のお呼出しで寅の門のお上屋敷へ罷出ましたが、私は予々兄より言付かって居りますから、是なる勘八に、其の方代ってお庭内を廻るが宜いと申付けたに相違ござらん、然るに彼がお手飼の犬とも心得んで、吠えられたに驚き、梅鉢を手打にいたしました段は全く彼何も弁えん者ゆえ、斯様な事に相成ったので、兄五郎治に於ても迷惑いたします事でござる、併し何も心得ん下人の事と思召しまして、幾重にも私が成代ってお詫を申上げます、御高免の程を願いとうござる、全く知らん事で」 目「むう、そりゃ其の方兄五郎治から言付けられて、其の方が見廻るべき所を其の方がお上屋敷へまいって居る間、此の勘八に申付けたと申すのか、それは些と心得んことじゃアないか、うん、これ申付けても外庭を見廻らせるか、又はお馬場口を見廻るが当然、陪臣の身分で御寝所近い奥庭まで夜廻りに這入れと申付けたるは、些と訝しいようだ、左様な事ぐらいは弁えのない其の方でもあるまい、殊に又帯刀をさせ面部を包ませたるは何う云う次第か」 四「それは夜陰の儀でござるで、誠にお馬場口や何か淋しくてならんから、彼に見廻りを申付ける折に、大小を拝借致したいと申すから、それでは己の積で廻るが宜いと申付けましたので、大小を差しましたる儀で、併し頭巾を被りましたことは頓と心得ません……これ勘八、手前は何故目深い頭巾で面部を包んだ、それは何ういう仔細か、顔を見せん積りか」 勘「えゝ誠にどうも夜になりますと寒うございますんで、それゆえ頭巾を被りましたんで」 目「なに寒い……当月は八月である、未だ残暑も失せず、夜陰といえども蒸れて熱い事があるのに、手前は頭巾を被りたるは余程寒がりと見ゆるな」 勘「へえ、どうも夜は寒うございますので」 目「寒くば寒いにもせよ、一体何ういう心得で其の方が御寝所近くへ這入った、仔細があろう、如何様に陳じても遁れん処であるぞ、兎や角陳ずると厳しい処の責めに遇わんければならんぞ、よく考えて、迚も免れん道と心得て有体に申せ」 勘「有体たって、私は何も別に他から頼まれた訳はございませんで、へえ」 目「中々此奴しぶとい奴だ、此の者を打ちませえ」 四「いや暫く……四郎治申し上げます、暫くどうぞ、彼は陪臣でござって、お内庭へ這入りました段は重々相済まん事なれども、五郎治から私が言付けられますれば、即ち私が、兄五郎治の代を勤むべき処、御用あって御家老からお呼出しに相成りましたから、止むを得ず家来勘八に申付けましたので、取も直さず勘八は兄五郎治の代でござる、何も強いて之を陪臣と仰せられては誠に夜廻りをいたし、上を守ります所の甲斐もない事でございます、勘八のみお咎が有りましては偏頗のお調べかと心得ます」 目「それは何ういう事か」 四「えゝ是れなる遠山權六は、当春中松蔭大藏の家来有助と申す者を取押えましたが、有助は何分にも怪しい事がないのを取押えられ堪り兼て逃所を失い、慌てゝ權六に斬付けたるを怪しいという処から、お調べが段々長く相成って、再度松蔭大藏もお役所へ罷出ました。其の折は御用多端の事で、御用の間を欠き、不取調べをいたし、左様な者を引いてまいり、上役人の迷惑に相成る事を仕出かし、御用の間を欠き、不届の至りと有って、權六は百日の遠慮を申付かりました、未だ其の遠慮中の身をも顧みず、夜な〳〵お屋敷内を廻りまして宜しい儀でござるか、權六に何のお咎めもなく、私の兄へお咎めのあると云うのは、更に其の意を得んことゝ心得ます、何ういう次第で遠慮の者が妄りに外出をいたして宜しいか、其の儀のお咎めも無くって宜しい儀でござるなれば、陪臣の勘八がお庭内を廻りましたのもお咎めはあるまいかと存じます」 目「うむ…權六其の方は百日遠慮を仰付けられていると、只今四郎治の申す所である、何故に其の方は遠慮中妄りにお庭内へ出た」 權「えゝ」 目「何故に出た」 權「遠慮というのは何ういう訳だね」 目「何う云う訳だとは何だ、其の方は遠慮を仰付けられたであろう」 權「それは知っている、知っているが、遠慮と云うのは何を遠慮するだ、私が有助を押えてお役所へ引いて出ました時は、お役人様が貴方と違って前の菊田様てえ方で、悪人の有助ばかり贔屓いして私をはア何でも彼んでも、無理こじつけに遣り込めるだ、さっぱり訳が分らねえ、其の中に御用の間を欠いた、やれ何の彼のと廉を附けて長え間お役所へ私は引出されただ、二月から四月までかゝりましたよ、牢の中へ入ってる有助には大層な手当があって、何だか御重役からお声がゝりがあるって楽うしている、私は押込められて遠慮だ〳〵と何を遠慮するだ私の考では遠慮というものは芽出度い事があっても、宅で祝う所は祝わねえようにし、又見物遊山非番の時に行きたくても、其様な事をして栄耀をしちゃアならんから、遠慮さ、又旨え物を喰おうと思っても旨え物を喰って楽しんじゃアどうも済まねえと思って遠慮をして居ります、何も皆遠慮をしているが私が毎晩〳〵御寝所近えお庭を歩いているは何の為だ、若殿様が御病気ゆえ大切に思えばこそだ、それに御家来の衆も毎晩のことだから看病疲れで眠りもすりゃア、明方には疲れて眠る方も有るまい者でもねえ、其の時怪しい者が入っちゃアならねえと思うからだ、此の程は大分貴方顔なんど隠しちゃア長い物を差した奴がうろつか〳〵して、御寝所の縁の下などへ入る奴があるだ、過般も私がすうと出たら魂消やアがって、面か横っ腹か何所か打ったら、犬う見たように漸う這上ったから、とっ捕めえて打ってやろうと思う中に逃げちまったが、爾うして気を付けたら私はこれを忠義かと心得ます、他の事は遠慮を致しますが、忠義の遠慮は出来ねえ、忠義というものは誠だ誠の遠慮は何うしても出来ません、夜巡ることは別段誰にも言付かったことはない、役目の外だ、私も眠いから宅で眠れば楽だ、楽だが、それでは済みませんや、大恩のある御主人様の身辺へ気を付けて、警護をしていることを遠慮は出来ませんよ、無理な話だ、巡ったに違えねえ、それでもまだ遠慮して外庭ばかり巡って居りました、すると勘八の野郎が……勘八とは知んねえだ初まりは……犬う斬ったから野郎と押えべいと出たわけさ、それに違えねえでございますよ、はいそれとも忠義を遠慮をしますかな」  と弁舌爽かに淀みなく述立てる処は理の当然なれば、目付も少し困って、其の返答に差支えた様子であります。 目「むゝう、權六の申す所一応は道理じゃが、殿様より遠慮を仰せ出された身分で見れば、それを背いてはならん、最も外出致すを遠慮せんければならん」 權「外出だって我儘に旨え物を喰いに往くとか、面白いものを見に往くのなれば遠慮ういたしますが、殿様のお側を守るなア遠慮は出来ねえ、外出するなって其様な殿様も無えもんだ」 四「えゝ四郎治申上げますあの通り訳の分らん奴で、然るをお目付は權六のみを贔屓いたされ、勘八一人唯悪い者と仰せられては甚だ迷惑をいたします事で、殊にお目付も予てお心得でござろう、神原五郎治の家は前殿様よりお声掛りのこれ有る家柄、殊に遠山權六が如き軽輩と違って重きお役をも勤める兄でござる、權六と同一には相成りません、權六は上の仰せ出されを破り、外出を致したをお咎めもなく、格別の思召のこれ有る所の神原五郎治へお咎めのあるとは、実に依怙の御沙汰かと心得ます、左様な依怙の事をなされては御裁許役とは申されません」 目「黙れ四郎治、不束なれども信樂豊前は目付役であるぞ、今日其の方らを調ぶるは深き故有っての事じゃ、此の度御出府に成られた、御国家老福原殿より別段のお頼みあって目付職を勤めるところの豊前に対して無礼の一言であるぞ」 四「ではございますが、余り片手落のお調べかと心得ます」 目「其の方は部屋住の身の上で、兄の代りとはいえども、其の方から致して内庭へ這入るべき奴では無い、然るを何んだ、其の方が家来に申付けて内庭を廻れと申付けたるは心得違いの儀ではないか、前殿様より格別のお声がゝりのある家柄、誠に辱ない事と主恩を弁えて居るか、四郎治」 四「はい、心得居ります」 目「黙れ、新参の松蔭大藏と其の方兄五郎治兄弟の者は心を合せて、菊之助様をお世嗣にせんが為めに御舎弟様を毒殺いたそうという計策の段々は此の方心得て居るぞ」 四「むゝ」 目「けれども格別のお声がゝりもこれ有る家柄ゆえ、目付の情を以て柔和に調べ遣わすに、以ての外の事を申す奴だ、疾に証拠あって取調べが届いて居るぞ、最早遁れんぞ、兄弟共に今日物頭へ預け置く、勘八其の方は不埓至極の奴、吟味中入牢申付ける、權六」 權「はい私も牢へ入りますかえ」 目「いや其の方は四月の二十八日から遠慮になったな」 權「えゝ」 目「二十八日から丁度昨夜が遠慮明けであった」 權「あゝ然うでございますか」 目「いや丁度左様に相成る、遠慮が明けたから、其の方がお庭内を相変らず御主君のお身の上を案じ、御当家を大切と思い、役目の外に夜廻りをいたす忠義無二のことと、上にも御存じある事で、後してはまた格別の御褒美もあろうから、有難く心得ませい」 權「有難うございます、なにイ呉れます」 目「何を下さるかそれは知れん」 權「なに私は種々な物を貰うのは否でございます、どうかまア悪い奴と見たら打殺しても構わないくらいの許しを願えてえもので、此の頃は余程悪い奴がぐる〳〵廻って歩きます、全体此の四郎治なんという奴は打殺して遣りてえのだ」 目「これこれ控えろ、追って吟味に及ぶ、今日は立ちませえ」  と直に神原兄弟は頭預けになって、宅番の附くような事に相成り、勘八という下男は牢へ入りました。權六は至急お呼出しになって百日の遠慮は免りて、其の上お役が一つ進んで御加増となる。遠山權六は君恩の辱ないことを寝ても覚めても忘れやらず、それから毎夜ぐる〳〵廻るの廻らないのと申すのではありません。徹夜寝ずに廻るというは、実に忠義なことでございます。此の事を聞いて松蔭大藏が不審を懐き、どうも神原兄弟が頭預けになって、宅番が附いたは何ういう調べになった事かはて困ったものだ、彼奴らに聞きたくも聞くことも出来ん自分の身の上、あゝ案じられる、国家老の出たは容易ならん事、どうか国家老を抱込みたいものだと、素より悪才に長けた松蔭大藏種々考えまして、濱名左傳次にも相談をいたし、国家老を引出しましたのは市ヶ谷原町のお出入町人秋田屋清左衞門という者の別荘が橋場にあります。庭が結構で、座敷も好く出来て居ります。これへ連出し馳走というので川口から立派な仕出しを入れて、其の頃の深川の芸者を二十人ばかり呼んで、格別の饗応になると云うのであります。         四十六  時は八月十四日のことで、橋場の秋田屋の寮へ国家老の福原數馬という人を招きまして何ぞ隙があったらば……という松蔭が企み、濱名左傳次という者と諜し合せ、更けて遅く帰るようで有ったらば隙を覗って打果してしまうか、或は旨く此方へ引入れて、家老ぐるみ抱込んでしまうかと申す目論見でございます。大藏は悪才には長け弁も能し愛敬のある男で、秋田屋に頼んで十分の手当でございます。此の寮も大して広い家ではございませんが客席が十五畳、次が十畳になって、入側も附いて居り誠に立派な住居でございます。普請は木口を選んで贅沢なことで建てゝから五年も経ったろうという好い時代で、落着いて、なか〳〵席の工合も宜しく、床は九尺床でございまして、探幽の山水が懸り、唐物の籠に芙蓉に桔梗刈萱など秋草を十分に活けまして、床脇の棚等にも結構な飛び青磁の香炉がございまして、左右に古代蒔絵の料紙箱があります。飾り付けも立派でございまして、庭からずうと見渡すと、潮入りの泉水になって、模様を取って土橋が架り、紅白の萩其の他の秋草が盛りで、何とも云えん好い景色でございます。饗応を致しますに、丁度宜しい月の上りを見せるという趣向。深川へ申付けました芸者は、極頭だった処の福吉、おかね、小芳、雛吉、延吉、小玉、小さん、などという皆其の頃の有名の女計り、鳥羽屋五蝶に壽樂と申します幇間が二人、是れは一寸荻江節もやります。荻江喜三郎の弟子だというので、皆美々しく着飾って深川の芸者は只今の芸者と違いまして、長箱で入りましたもので、大概橋場あたりで言付ければ残らず船でまいりまして、着換えなど沢山着換えまして、髪は油気なし、潰しという島田に致しまして、丈長と新藁をかけまして、笄は長さ一尺で、厚み八分も有ったという、長い物を差して歩いたもので、狭い路地などは通れませんような恐ろしい長い笄で、夏絽を着ましても皆肌襦袢を着ませんで、深川の芸者ばかりは素肌へ着たのでございます。裾模様が付いて居ります、紅かけ花色、深川鼠、路考茶などが流行りまして、金緞子の帯を締め、若い芸者は縞繻子の間に緋鹿の子をたゝみ、畳み帯、挟み帯などと申して華やかなこしらえ、大勢並んで、次の間にお客様のおいでを待って居ります。秋田屋清左衞門の番頭も、其の頃大名の御家老などが来ると家の誉れ名聞だというので、庭の掃除などを厳しく言付けぐる〳〵見廻って居ります。そらおいでだと云ってお出迎いをいたし、 番「えゝ、いらっしゃいまし」 數「あゝ、これは成程どうも好い庭で、松蔭好い庭だの」 大「はい誠にその、当家の亭主が至って茶人で、それゆえ此の庭や何かは、更に作りませんで、自然の様を見せました、実に天然のような工合で」 數「うん余程好い庭である、むう、これは感心……岩越何うだえ」 岩「へえ、私は斯様な処へ参ったのは始めてゞごすな、国にいては迚も斯ういう処は見られませんな、うゝん、これはどうも」 數「お前は何だ」 大「えゝ、これなるは当家の番頭、伊平と申します不調法者で」 番「えゝ、今日は宜うこそ御尊来有難い事で、貴所方のお入来のございますのは実に主人も悦び居りまして、此の上ない冥加至極の儀で、土地の外聞で、私においても、誠に有難いことで」 數「いや其様なに、大層に云わんでも宜い、土地の外聞なんて、亭主は余程好事家のようだな」 番「えゝ鬼灯などは植えんように致してございます」 數「うふゝゝ鬼灯じゃアない、風流人と申すことじゃ」 番「でございますか、なにほうずは出来ます」 數「何を申す」 番「へい、船の上をずる〳〵何時までも曳いているような長いものをほうずと申しますそうで」 數「いや中々の博識じゃ、うふゝゝ面白い男だの、此の泉水は潮入かえ」 番「へえ何と…」 數「いやさ此の泉水は潮が入るかえ」 番「へえ、何と御意遊ばします」 數「潮入りかというのじゃ」 番「へえ〳〵只今差上げますあの誰かお盆へ塩を持って来て上げな、どうも御癇癖だから、お手をお洗い遊ばすのだろう、へえお塩を」 數「何を持って来るのだ、此の泉水は潮入かと申すのだ」 番「へえ、左様でございます」 大「何卒これへ入らっしゃいまし」 數「うん岩越、ひょろ〳〵歩くと危いぞ池へ落こちるといかん、あゝ妙だ、家根は惣体葺屋だな、とんと在体の光景だの」 大「外面から見ますと田舎家のようで、中は木口を選んで、なか〳〵好事に出来て居ります」 數「其の許は斯ういう事も中々委しい、私はとんと知らんが、石灯籠は余りなく、木の灯籠が多いの」 大「えゝ、これはその、野原のような景色を見せました心得でございましょうか」 數「あ成程、これは面白い〳〵……此処から上るのか、成程玄関の様子が面白く出来たの、入口かえ」 大「これからお上り遊ばしませ、お履物は私がしまい置きます」 數「これは好い席だ」 大「さゝ、是へどうぞ〳〵」  と松蔭が段々案内をいたし、座敷の床の前へ褥を出し、烟草盆や何か手当が十分届いて居ります。 大「どうぞ此処へお坐りを願います」 數「余り好い月だによって、縁先で見るのが至極宜しい、これは妙だ、此の辺は一体隅田川の流れで……あれに見ゆるのは橋場の渡しの向うかえ、如何にも閑地だから、斯ういう処は好いの、えゝ一寸秋田屋をこれへ」 大「えゝ御家老これが当家の主人秋田屋清左衞門と申します、年来お屋敷へお出入を致すもので、染々未だお目通りは致しませんが、日外あの五六年以前、大夫が御出府の折にお目通りを致した事がありますと申し、斯様な見苦しい処ではござるが、一度御尊来を願いたいと申して居ったので、当人も悉く今日は悦び居ります、どうかお言葉を」 數「はゝあ、秋田屋か」 清「へえ、えゝ今日は宜うこそ、御尊来で、誠に身に取りまして有難い事でございます、えゝ年来お屋敷さまへお出入をいたします不調法者で、此の後とも何分御贔屓お引廻しを願います」 數「あい、秋田屋か、成程、貴公は知らんが、貴公の親父の時分であったか、江戸詰の時種々世話になった事もあった、中々立派な好い家だ、至極面白い」 清「いえ、見苦しゅうございまして、此の通り粗木を以て拵えましたので、中々大夫さまなどがお入来と申すことは容易ならんことで、此の家に箔が付きます事ゆえ、誠に有難いことで」 數「いや〳〵、格別の手当で辱ない、あい〳〵、成程、これは中々立派な茶碗だな、余程道具好きだと見えるな」 大「はい、好い道具を沢山所持して居る様子でございます、今日は御家老のお入来だと、何か大切な品を取出した様子で、なに碌なものもございますまいがほんの有合で」 數「いや中々好い茶碗だ」 大「えゝ道具は麁末でござるが、主人が心入れで、自ら隅田川の水底の水を汲上げ、砂漉にかけ、水を柔かにして好い茶を入れましたそうで」 數「成程それは有難い、其処が親切というもので、茶はたとえ番茶でも水を柔かにして飲ませる積りで、自身に川中まで船で水を汲みに往く志というものは、千万金にも替えがたく好い茶を飲ませるより福原辱なく飲む」 大「えゝ恐入りました事で」 數「大藏、立派な菓子を取ったの」 大「いえ、どうも甚だ何もございませんで、此の辺は誠にどうも……市ヶ谷から此処へ出張りますことで、好い道具や何かは皆此方の蔵へ入れ置きますという事で」 數「成程、火事がないから道具の好いのを運んで置くか、それは宜かろう」 大「今日は何も御馳走は有りませんが、御家老へ此の向うから月の上ります景色を………これは御馳走でございます、求めず天然の楽みで、幸い今宵は満月の前夜で」 數「おゝ成程な、いやかけ違って染々挨拶もしなかったが、段々と上屋敷の事も下屋敷の事も、貴公が大分に骨を折って大きに殿様にも格別に思召し、新参でありながら、存外の昇進で、えらいものだ」 大「えへゝゝ、不束の大藏格別上のお思召しをもちまして、重きお役を仰付けられ、冥加至極の儀で、此の上とも何卒御家老のお引立を蒙りたく存じます」 數「其様なに出世をしては往く処があるまい、中々どうして男は好し、弁に愛敬を持ち、武芸も達しておるから自然と昇進をする質だ」 大「えゝ、恐入りました事で」 數「手前も壮年の折柄は一体虚弱だが、大きに老年に及んで丈夫になったが、どうも歯が悪くなって、旨い物を喰べても余り旨いとは思わん、楽しみと云っても別になし、国に居れば田舎侍だから美食美服は出来んばかりでは無い、一体若い時分からそういう事は嫌いじゃ、斯ういう清々とした処を見るが何よりの楽しみじゃの」  大藏は座を進ませまして、 大「えゝどうも今日は何もお慰みもなく、お叱りを受けるかは存じませんが、亭主が深川の芸者を呼び置きましたと申すことで、一寸お酌を取りましても、武骨な松蔭や秋田屋がお酌をいたしましては、池田伊丹の銘酒も地酒程にも飲めんようなことで、甚だ御無礼ではございますが、お目通りへ其の深川の芸者どもを呼寄せることに致します」 數「おゝ成程その噂は聞いている、深川には大分美人も居り、芸の好いものも居るという事だが、それは宜いの、手前は芸者に逢った事はない、武骨者で殊に岩越という男が是非一緒に往きたい、何でも連れてってくれ、未だ碌に御府内を見たことが無いというから同道して来たが、起倒流の奥儀を究めあるだけあって、膂力が強いばかりで、頓と風流気のない武骨者じゃ」 岩越「えゝ拙者は岩越賢藏と申す至って武骨者で此の後ともお見知り置かれて御別懇に」 大「今日は図らず御面会を致しました、手前は松蔭大藏で……好い折柄、此の後とも御別懇に……御家老此れは濱名左傳次と申す者で、小役人でございましたが、図らず以上に仰付けられ、今日は何うかお目通りを致しまして、何かのお話を承われば身の修行だと申して居ります、武骨ではござるが洒落た口もきゝ、皺枯っ声で歌を唄い、面白い男ゆえお目をお掛け遊ばして、何分お引立を」 數「はい〳〵、中々様子の好い男、なれども近い処だと宜いがの、上屋敷までは遠いから、どうか些と早く帰りたいがの」 大「いえ、今晩は小梅のお中屋敷へ御一泊遊ばしては如何、寺家田の座敷が手広でござる、彼へ御一泊遊ばしますように、是から虎の門までお帰りになっては余り遅うなりますから」 數「それは宜かろう」 大「じゃア早く〳〵」  と是からお吸物に結構な膳椀で、古赤絵の向付けに掻鯛のいりざけのようなものが出ました。続いて口取焼肴が出る。数々料理が並ぶ。引続いて出て来ましたのは深川の別嬪でございます。 大「さ、これへ」 芸「今日は」 數「いや〳〵大勢呼んだの」 大「さ、これへ来てお酌を、大夫様から」 芸「へえ、大夫様お酌をいたしましょう」 數「いや成程これは綺麗、あい〳〵、成程松蔭年を老っても酌はたぼと云って幾歳になっても婦人は見て悪くないもんだの、むゝう、中々どうも……何てえ名だなに、小玉か成程、どんずり奴の男がいる、あれは何だ」 幇間「えゝ手前は鳥羽屋五蝶と申します幇間で」 數「ほゝう、なに太鼓を叩くか」 五「いえ、只口で叩きます」 數「口で太鼓を…唇でかえ」 五「いえ、なに、太鼓持で、えへゝゝ」 數「うん成程、口軽なことをいう、幇間か、成程聞いていた、中々面白い頭だの」 五「へゝゝ、どうも未だどんずり奴でございます」 數「太皷持の頭は、皆此様なかえ」 五「皆お揃いと云う訳ではございませんが、自然と毛が薄くなりましたので」 數「いや形が変って妙だ、幇間は口軽だというが、何か面白いことを云いなさい」 五「これは恐入りましたな、御家老さま、改まってこれを云えと仰せあられますと困りますが……喜三郎こゝへ出なよ、金公や此処へ出なよ」 喜「口軽なんぞ迚もお目通りは出来ないというのは何うだ」 五「何だえ、それは」 喜「足軽という洒落だ」 五「縁が遠いの、口軽と足軽では」 數「私は酒が頓といかん、岩越一盃やれ」 岩「私は斯ういう形のものは始めて見ました、余程違って居ります、云うことも中々面白いようで」 五「これから追々繰出します」         四十七  幇間の五蝶が、 五「大夫様、此のお庭は好いお庭でございますな」 數「なか〳〵好いの」 五「大きな緋鯉が居ります、更紗や何か亀井戸もよろしく申すので」 數「何ういう訳で、誰が亀井戸でよろしくと申した」 五「いえなに、然ういう訳ではありません、これはどうも恐入りましたな」 數「私も一つ洒落ようかな」 五「これは恐入ります、皆な此処へ来て伺いな、大夫様がお洒落遊ばすと、お上屋敷の御家老様が」 數「貴公は甘い物で洒落るから、私も一つ洒落よう」 五「改まって洒落ようというお声がかりは恐入ります」 數「私が国は美作で」 五「へえ成程」 數「私は城代家老じゃ」 五「へえ〳〵」 數「そこで洒落るのだ」 五「大層どうもお洒落の御玄関から大広間は恐入りました、へえ、成程」 數「美作城代家老私、というのは何うだ」 五「へえ、恐入りましたな、それは何ういう訳なんで」 數「分らんの、いまさか羊羹鹿の子餅」 五「へゝえ、成程気が付きません、美作城代家老私、いまさか羊羹鹿の子餅、これは恐入りました……どうも恐入ったね」 喜「恐入りました、御家老様からお洒落がお菓子で出たから、可笑な洒落と云うのをやろうかね、さアと云うと一寸出ないものでげすが」 みの吉「私がちょいと一つやるよ」 喜「や、これはみの吉さん感心」 みの「私が赤飯を喫べたんだよ」 喜「可笑しな洒落だね」 みの「汁粉屋で赤飯を出したのだよ」 喜「此の節は汁粉屋で赤飯を売るよ」 みの「だから白木屋お駒というのを汁粉屋赤飯さ」 喜「前に本文を断って後から云うのは可笑しい」 岩越「手前が一つ洒落ようかの」 五「岩越さま、あなた様のお洒落は」 岩「手前は考えたが余程むずかしいて、これはムヽウ…待ってくれ、えー阿部川餅というのが有るの」 五「へえ〳〵ございます」 岩「一つ八文で」 五「阿部川、へい、一つは八文で」 岩「あべ川の八銭では本当の直だというのは何うだ」 五「へえー、変なお洒落で、それは何う云う訳なんで」 岩「姉川の合戦、本多が出たというのだ」 五「それは余りお固いお洒落でげすな、私が洒落ましょう、斯ういうのは何うでございます、大黒様が巨燵に烘ってるのでございます、大黒暖かいと」 數「うん、成程是は分った、大福暖かいか」 五「御家老様の御意に入りましたか」 數「私が最う一つ洒落ようか、是は何うだの、松風は固い岩おこしは柔らかいと云うのは」 五「へえ、それは何ういう訳で」 數「松蔭は堅い男、岩越は柔術家」 五「へえ成程中々ちょっくら分りませんが誠に恐入りました事で、早くお三味線を」  とお座付が済み、後は深川の端唄で賑かにやる大分興に入った様子、御家老も六十近いお年で、初めて斯ういう席に臨みましたので快く大分に召上りました。 數「お前のお蔭で私は斯様な面白い事に逢ったのは初めてだ、実に堪らんな、又た其の中来たいものだ」 大「何うか御在府中御遠慮なくおいで下されば、清左衞門は如何ばかりの悦びか知れません、芸者は孰がお気に入りました」 數「皆宜いの、其の中にも彼が好いの、小まんに雛吉か」 大「彼が御意に入りましたら、今度はお相手に前々から頼み置きまして、呼寄せるように致しましょう」 數「それは誠に辱ない、大きに酔うたな、殿様は御病気での」 大「へえ〳〵私も大きに心配を致して居ります」 數「併し私が顔を御覧があってから、大きにお力が附いて大分に宜しいと、殊の外お悦びでお食も余程進むような事で」 大「大夫、何ぞお慰みを」 數「いや私は誠に武骨な男で、音曲や何かはとんと分らん、能が好きじゃ」 大「はア、左様でございますか、それでは能役者を」 數「いや連れて来たよ、二人次の間に居るが、せめて皷ぐらいはなければなるまいと思って、婦人で皷を能く打つ者があって、幸いだから、私が其の婦人を連れてまいった」 大「それは少しも心得ませんでした、何時の間にまいりましたか」 數「芸者どもは少し端へ寄って居れ」  と是から灯を増し折から月が皎々と差上りまして、前の泉水へ映じ、白萩は露を含んで月の光りできら〳〵いたして居る中へ灯を置きまして、此方には芸者が並んで居りますから、何方を見ても目移りが致しますような有様、今襖を開けて出て来ましたは仙台平の袴に黒の紋付でございます。其の頃だから半髪青額でまだ若い十七八の男と、二十七八になる男と二人がすうと摺足をして出て来ました。脇を見ると隅の方に女が一人振袖を着まして、調べを取ってポン〳〵という其の皷の音が裏皮へ抜けまして奥へ響き中々上手に打ちます。大藏は何うして何時の間に斯様な能役者を連れて来たかと思って見ますと、どうも見た様な能役者であるとは思いましたが、松蔭にも分りません。少し前へ膝を進めて熟々見ますと若い方は先年お暇が出て、お屋敷を追放になりました渡邊織江の忰の祖五郎、今一人は春部梅三郎、両人共にお屋敷を出て居って、二人が何うして此処へ能役者に成って来たことかと、皷打を見ると祖五郎の姉のお竹ですから松蔭は驚きまして、是は何ういう訳かと濱名左傳次と互に顔を見合せて居ります内に、舞もしまいました。 數「大きに御苦労〳〵、さア〳〵こゝへ来て、ずうっとこゝへ来な、構わずに此処へ来て一盃……それから松蔭もこゝへ来て……えゝ、これは貴公も知って居る通り、渡邊織江の忰祖五郎で、彼は春部梅三郎じゃ、不調法があってお暇になり、浪人の活計に迫り、自分も好きな所から能役者となりたいと、何うやら斯うやら今では能役者でやって居るそうだ、これは祖五郎の姉だ、器量も好いがお屋敷へ帰るまでは何処へも嫁付くことは否だと、皷を打ったり、下方が出来る処から出入町人の亭主に心安い者があって、其処にいると云うが、今日は幸いな折柄で、どうか又贔屓にして斯ういう事が有ったら前々屋敷にいた時の馴染もあるから呼んでやってくれ」 大「これは思掛けない事で、祖五郎殿にも春部氏にも暫く……」  と松蔭も腹の中では驚きました。 大「えゝ、只今は何処に」 數「いや、国へ尋ねて来た、それからま何うするにも仕方がないから、奈良辺で稽古をして、此方へ出て来たので、是からが本当の修業じゃ、さア〳〵一盃〳〵」 梅「松蔭殿、面目次第もない、尾羽打枯した浪人の生計、致し方なく斯様な営業をいたして居り、誠に恥入りました訳で、松蔭殿にお目通りを致しますのも間の悪い事でございますが、構わんから参れと、御家老の仰せを受けて罷出ました、貴方様には追々御出世、蔭ながら悦び居ります」 祖「祖五郎も蔭ながら、貴方様の御出世は父織江がお世話致した甲斐がござると蔭ながら悦び居ります、今日は思掛けなく御面会を致しました、此の後共御贔屓を願いとう……斯様な御酒宴のございます節には必ずお招きを願います」 竹「松蔭さま暫く、竹でございます」 大「これはお竹さま、これは実に妙でげすな」 數「いや実に妙だ、芸者は帰したら宜かろう、却って此処にいると屋敷の話も出来んから、取急いで秋田屋芸者共を早く帰せ〳〵」 番頭「へえ〳〵」  と急に船に載せて帰しました、 數「さ、こゝへ来て昔の話をしよう、この祖五郎の父織江は福原別懇であった、忠義無二な男であったが、武運拙くして谷中瑞麟寺の藪蔭で何者とも知れず殺害され、不束の至りによって永のお暇を仰付けられ、討ったる敵が知れんというが、さぞ残念であろう」 祖「はっ、誠に残念至極で」  と眼に涙を浮めてお竹と祖五郎が松蔭の顔をじろりと横目で睨め上げるから、松蔭は気味悪くなり、下を向いている。 數「春部梅三郎は腰元の若江と密通して逃げたという事だったの」 梅「はい、誠に恥入った事でございます」 數「うん、それが露顕した訳でもなし、是まで勤め向も堅く、ほんの若気の至りで、女を連れて逐電いたしたのじゃが、未だお暇の出たわけではなし、只家出をした廉だから、お詫をして帰参の叶う時節もあろう、若江という小姓も少さい時分から奉公をしていた者で、先年体好くお暇になったとの事、是も出入りは出来ようかと思う、所でお前たちに私が問うがな、大殿様は今年はもう五十五にお成りなさる、昨今の処では御病気も大きに宜いようじゃが、どうもお身上が悪いので、今度の御病気は數馬決して安心せん、もしお逝去にでもなった時には御家督相続は誰が宜かろう、春部だの祖五郎はお暇になってゝも、代々の君恩の辱ない事は忘却致すまい、君恩を有難いと考えるならば、御家督は何う致すが宜しいか少しは考えも有ろう」 祖「手前の考えでは若様は未だお四才かお五才で御頑是もなく、何弁えない処のお子様でございますから、万々一大殿様がお逝去れに相成った時には、お下屋敷にならせられる紋之丞様より他に御家督御相続のお方は有るまいかと存じます」 數「それは些と違うだろう、菊様はお血統だ、仮令お四才でも菊様が御家督にならなければなるまい、御舎弟を直すのは些と道理に違って居るように心得る」 梅「いや、それは違って居りましょう」 數「違っては居らん」 梅「併しお四才になる者を御家督になされば、矢張御後見が附かなければなりません、それよりは矢張お下屋敷の御舎弟紋之丞様が御家督御相続になって、菊様追々御成人の後、御順家督に相成るが御当然のことゝ存じます」 數「いや〳〵然うでない、お血統は別だ、誰しも我子は可愛もので、御実子を以て御家督相続と云えば殿様にもお快くお臨終が出来る、御兄弟の御情合も深い、深いなれども御舎弟様が御家督と云えばお快くないから御臨終が悪かろうと思う、どうもお四才でもお血統はお血統、若様を御家督にするが当然かと心得るな」 祖「是は御家老様にお似合いなさらんお言葉で、紋之丞様が御家督相続に相成れば、万事御都合が宜しい事で、お舎弟様は文武の道に秀で、お智慧も有り、先ず大殿様が御秘蔵の御方度々お賞めのお言葉も有りました事は、父から聞いて居ります」 數「それはお前たちの知らん事、何でも菊様に限る」 大「えゝ、松蔭横合より差出ました横槍を入れます、これは春部氏祖五郎殿の申さるゝが至極尤もかと存じます、菊様は未だお四才で、何のお弁えもない頑是ない方をお世嗣に遊ばしますのも、些と不都合かのように存じます、菊様御成人の後は兎も角こゝ十四五年の間は梅の御印様が御家督になるのが手前に於ては当然かと、憚りながら存じます」 數「然うじゃアあるまい」 大「いや〳〵それは誰が何と申しても左様かと心得ます」  福原數馬は俄に面色を変え、容を正して声を張上げ。 數「黙れ……白々しい事を申すな、松蔭手前はそれ程御舎弟紋之丞様を大切に心得て居るならば、何故飴屋の源兵衞を頼んだ」 大「はっ」 數「神原五郎治、四郎治と同意致して、殿を蔑ろにする事を私が知らんと思うて居るか、白痴め、左様に人前を作り忠義立を申してもな、其の方は大恩人の渡邊織江を谷中瑞麟寺脇の細道において、手槍をもって突殺した事を存じて居るぞ、其の咎を梅三郎に負わそうと存じて、証拠の物を取置き、其の上ならず御舎弟様を害そうと致した事も存じて居る、百八十余里隔った国にいても此の福原數馬は能く心得て居るぞ、人非人め」  と云い放たれ、恟り致したが、そこは悪党でございますから、じりゝと前へ膝を進めて顔色を変え。 大「御家老さま怪しからん事を仰せられます、思い掛けない事を仰せられまする……手前が何で渡邊織江を殺害し、殊に御舎弟紋之丞さまを失おうとしたなどと誰が左様な事を申しました、手前に於ては毛頭覚えはございません、何を証拠に左様なことを仰しゃいますか、承わりとうござる」 數「これ、まだ其様なことを云うか、手前は五分試しにもせにアならん奴だ、うゝん……よく考えて見よ、先奥方さま御死去になってから、お秋の方の気儘気随神原兄弟や手前達を引入れ、殿様を蔑にいたす事も皆な存じて居る。殊に其の方を世話いたした渡邊を殺害致したり、もと何処の者か訳も分らん者を渡邊が格別取做を申したから、お抱えになったのじゃ、上へ諂い媚を献じて、とうとう寺島主水を説伏せ、江戸家老を欺き遂せて、菊様を世に出そうが為、御舎弟様を亡き者にしようと云う事は、疾うに忠心の者が一々国表へ知らせたゆえに、老体なれども此の度態々出て参ったのだ、其の方のような悪人は年を老っても人指と拇指で捻り殺すぐらいの事は心得て居る、さアそれとも言訳があるか、忠義に凝った若者らは不忠不義の大罪人八裂にしても飽足らんと憤ったのを、私が止めた、いやそれは宜しくない、一人を殺すは何でもない、况て事を荒立る時には殿様のお眼識違いになりお恥辱である、また死去致した渡邊織江の越度にも相成る事、万一此の事が将軍家の上聞に達すれば、此の上もない御当家のお恥辱になるゆえ、事穏便が宜しいと理解をいたした、こりゃ最早何の様に陳じても遁れる道はないから、神原兄弟は国表へ禁錮申し付け、家老役御免、跡役は秋月喜一郎に仰付けられるよう相定って居る、手前は不忠な事を致し、面目次第もない、不忠不義の大罪人御奉公も相成り兼るによって永の暇下されたしという書面を書け、これ祖五郎此の松蔭に父を討たれ、無念の至りであろう、手前はお暇を蒙って居る身の上、仮令悪人でも殿様のお側近くへまいる役柄を勤める大藏を、敵と云って無闇に討つことは出来んから、暇を取ったら、直に討て……梅三郎貴様は大藏のため既に罪に陥されし廉もあり、祖五郎は未だ年若じゃによって助太刀を致してやれ、これに岩越という柔術取の名人が居るから心配は無い、貴様力を添えてやれ、さ松蔭書付を書いて私へ出せばそれで手前はお暇になったのだ…秋田屋の亭主気の毒だが此の庭で敵討を致させるから少し貸せ」 清「へえ」  と驚きました。 清「泉水がございますが」 數「いや、びちゃ〳〵落こっても宜しい、急に一時に片を附けなければならんのだ、さ書け書かんかえ」 大「はっ……併し何の様の証拠がござって、手前は神原兄弟と心を合せて御家老職を欺き、剰さえ御舎弟様を手前が毒害いたそうなどと、毛頭身に覚えない事で、殊に渡邊織江を殺害いたしたなどと」 梅「黙れ此の梅三郎が宜く心得て居るぞ、手前は神原と心を合せて織江殿を殺害致した其の時に、此の梅三郎は其の場に居合せ、下男を取押えて密書を奪い現に所持いたして居る、最早遁れる道はないぞ」  祖五郎は血眼になって前へ進み、 祖「やい大藏、人非人恩知らず、狗畜生、やい手前はな父を討ったに相違ない、手前は召使の菊を殺し、又家来林藏も斬殺し、其の上ならず不義密通だと云って宿へ死骸を下げたが、其の前々菊が悪事の段々を細かに書いて、小袖の襟へ縫附けて親元へ贈った菊の書付けを所持して居る、最早遁れる道はないぞ、手前も武士じゃないか、尋常に立上って勝負いたせ」 大「はっ……不忠不義の大罪重々心に恥じ、恐入りましてござる」 數「さ、書け、もう迚もいかんから書け、松蔭手前も諦めの悪い男だ、最早遁るも引くも出来やせん、書け」 大「はっ」 數「まだ恐れ入らんか」 大「はっ」 數「も一つ云おうか、白山前の飴屋小金屋源兵衞を欺し宗庵という医者を抱込んで、水飴の中へ斑猫を煮込み、紋之丞様へ差上げようと致したな、それは疾うに水飴屋の亭主が残らず白状致してある、遁れる道はない」 大「あゝ残念…是まで十分仕遂せたる事が破れたか、あゝ」  と震えて袴の間へ手を入れ、松蔭大藏は歯噛をなして居りましたが、最早詮方がないと諦め、平伏して、 大「恐れ入ってござる」 數「おゝ、恐れ入ればそれで宜しい、お秋の方も剃髪させ、国へ押込める積だ、さ書け〳〵」 大「只今書きまする」  と云いながら後へ退るから、岩越という柔術家が万一逃げにかゝったら引倒して息の根を止めようと思って控えて居ります。後へ退って大藏が硯を引寄せて震えながら認めて差出す。 數「爪印を押せ、其処へ」 大「はっ」  と爪印を捺して福原數馬の前へ差出し、 大「重々心得違い、是れにて宜しゅうございますか、御披見下さい」 數「其の方の手跡だから宜しい、さ是から庭へ出て敵討だ〳〵」  と云うと大藏は耐えかねて小刀を引抜くが早いか脇腹へ突込んで引廻しました。 祖「汝れ切腹致したな」  と祖五郎が飛掛って二打三打斬付け、遂に仇を討遂せて、直にお屋敷へお届けに相成り、とうとう悪人は残らず国表へ押込められて、お上屋敷の御家来十七人切腹致し、渡邊祖五郎、春部梅三郎はお召帰しに相成り、渡邊祖五郎は二代目織江と成り、菊様の後見と相成って、お下屋敷にまいりました。また秋月は跡家老職を仰付けられ、こゝに於て福原數馬は安心して国へ帰る。殿様は御病気全快し、其の後大殿お逝去になって、紋之丞さまが乗出し、美作守に任ぜられ。又お竹を何くれ親切に世話をした雲水の宗達は、美作の国までお竹を送り届け、それより廻国を致し、遂に京都で大寺の住職となり、鴻の巣の若江は旅籠屋を親族に相続させ、更めて渡邊祖五郎が媒妁人で、梅三郎と夫婦になり、お竹も重役へ嫁入りました。大力の遠山權六は忠義無二との取沙汰にて百石の御加増に相成りましたという。お芽出たいお話でございますが、長物語で嘸御退屈。 (拠酒井昇造筆記) 底本:「圓朝全集 巻の九」近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫    1964(昭和39)年2月10日発行 底本の親本:「圓朝全集巻の九」春陽堂    1927(昭和2)年8月12日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、くの字点(二倍の踊り字。「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)はそのまま用いました。二の字点(漢数字の「二」を一筆書きにしたような形の繰り返し記号)は、「々」「ゝ」「ヽ」にかえました。 総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。 底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」は、それぞれ「其の」と「此の」に統一しました。 底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。 ※本作品中には、人名などの固有名詞に一部不統一が見られますが、あきらかな誤植と思われる場合を除き、原則として統一はせず、底本のままとしました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:小林繁雄 校正:かとうかおり 2001年1月6日公開 2004年7月21日修正 青空文庫作成ファイル: 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