蠅 海野十三 Guide 扉 本文 目 次 蠅 第一話 タンガニカの蠅 第二話 極左の蠅 第三話 動かぬ蠅 第四話 宇宙線 第五話 ロボット蠅 第六話 雨の日の蠅 第七話 蠅に喰われる  小春日和の睡さったらない。白い壁をめぐらした四角い部屋の中に机を持ちこんで、ボンヤリと肘をついている。もう二時間あまりもこうやっている。身体がジクジクと発酵してきそうだ。  白い天井には、黒い蠅が停っている。停っているがすこしも動かない。生きているのか、死んでいるのか、それとも木乃伊になっているのか。  それにしても、蠅が沢山いることよ。おお、みんなで七匹もいる。この冬の最中に、この清潔な部屋に、天井から七匹も蠅がぶら下っていてそれでよいのであろうか。  そう思った途端に、耳の傍でなんだか微かな声がした。ナニナニ。蠅が何かを咄して聴かせるって。  ではチョイト待ちたまえ。いま原稿用紙とペンを持ってくるから……。  オヤ。どうしたというのだろう。持って来た覚えもないのに、原稿用紙とペンが、目の前に載っているぞ。不思議なこともあればあるものだ。──    第一話 タンガニカの蠅 「あのウ、先生。──」  と背後で声がした。  クリシマ博士は、顕微鏡から静かに眼を離した。そのついでに、深い息をついて、椅子の中に腰を埋めたまま、背のびをした。 「あのウ、先生」 「む。──」 「あの卵は、どこかにお仕舞いでしょうか」 「卵というと……」 「先日、あちらからお持ちかえりになりました、アノ駝鳥の卵ほどある卵でございますが……」 「ああ、あれか」と博士は始めて背後へふりかえった。そこには白い実験衣をつけた若い理学士が立っていた。 「あれは──、あれは恒温室へ仕舞って置いたぞオ」 「あ、恒温室……。ありがとうございました。お邪魔をしまして……」 「どうするのか」 「はい。午後から、いよいよ手をつけてみようと存じまして」 「ああ、そうか、フンフン」  博士はたいへん満足そうに肯いた。助手の理学士は、恭しく礼をすると、跫音もたてずに出ていった。彼はゴム靴を履いていたから……。  そこでクリシマ博士は、再び顕微鏡の方に向いた。そしてプレパラートをすこし横へ躙らせると、また接眼レンズに一眼を当てた。 「あのウ、先生」 「む。──」  またやって来たな、どうしたのだろうと、博士は背後をふりかえって、助手の顔を見た。 「あのウ、恒温室の温度保持のことでございますが、唯今摂氏五十五度になって居りますが、先生がスイッチをお入れになったのでございましょうか」 「五十五度だネ。……それでよろしい、あのタンガニカ地方の砂地の温度が、ちょうどそのくらいなのだ。持って来た動物資料は、その温度に保って置かねば保存に適当でない」 「さよですか。しかし恒温室内からピシピシという音が聞えて参りますので、五十五度はあの恒温室の温度としては、すこし無理過ぎはしまいかと思いますが……」 「なーに、そりゃ大丈夫だ。あれは七十度まで騰げていい設計になっているのだからネ」 「はア、さよですか。では……」と助手はペコンと頭を下げて、廻れ右をした。  博士は、折角の気分を、助手のためにすっかり壊されてしまったのを感じた。といって別にそれが不快というのではない。ただ気分の断層によって、やや疲れを覚えて来たばかりだった。  博士は、白い実験衣のポケットを探ると、プライヤーのパイプを出した。パイプには、まだミッキスチェアが半分以上も残っていた。燐寸を擦って火を点けると、スパスパと性急に吸いつけてから、背中をグッタリと椅子に凭れかけ、あとはプカリプカリと紫の煙を空間に噴いた。 (探険隊の一行が、タンガニカを横断したときは……)と博士は、またしても学者としての楽しい憶い出をうかべていた。  タンガニカで、博士は奇妙な一つの卵を見付けたのだった。助手がさきほども、駝鳥のような卵といったが、全くそれくらいもあろう。色は淡黄色で、ところどころに灰白色の斑点があった。それは何の卵であるか、ちょっと判りかねた。なにしろ、この地方は、前世紀の動物が棲んでいるとも評判のところだったので、ひょっとすると、案外掘りだしものかも知れないと思った。鳥類にしても、余程大きいものである。それではるばる博士の実験室まで持ってかえったというわけだった。そして他の動物資料と一緒に、タンガニカの砂地と同じ温度を保たせた恒温室の中に二十四時間入れて置いたというわけである。  ガン、ガラガラッ。  ガラガラガラッ。パシーン。  博士はパイプを床にとり落した。それほど物凄い、ただならぬ音響がした。音の方角は、どうやら恒温室だった。 「さては恒温室が、熱のために爆発らしいぞ」  博士は驚いて戸口の方へ歩を搬んだ。扉に手をかけようとすると扉の方でひとりでパッと開いた。──その向こうには、助手の理学士の土色の顔があった。しかも白い実験衣の肩先がひどく破れて、真赤な血潮が見る見る大きく拡がっていった。 「ど、どうしたのだッ」 「せ、せんせい、あ、あれを御覧なさい」  ブルブルと顫う助手の指先は、表通に面した窓を指した。  博士は身を翻して、窓際に駈けつけた。そして硝子を通して、往来を見た。  大勢の人がワイワイ云いながら、しきりに上の方を指している。どうやら、向い側のビルディングの上らしい。  とたんに飛行機が墜落するときのような物凄い音響がしたかと思うと、イキナリ目の前に、自動車の二倍もあるような真黒なものが降りてきた。よく見ると、それには盥のような眼玉が二つ、クルクルと動いていた。畳一枚ぐらいもあるような翅がプルンプルンと顫動していた。物凄い怪物だッ! 「先生。恒温室の壁を破って、あいつが飛び出したんです」 「君は見たのか」 「はい、見ました。あのお持ちかえりになった卵を取りにゆこうとして、見てしまいました。しかし先生、あの卵は二つに割れて、中は空でした」 「なに、卵が空……」博士はカッと両眼を開くと、怪物を見直した。そして気が変になったように喚きたてた、「うん、見ろ見ろ。あれは蠅だ。タンガニカには身長が二メートルもある蠅が棲んでいたという記録があるが、あの卵はその蠅の卵だったんだ。恒温室で孵化して、それで先刻からピシピシと激しい音響をたてていたんだ。ああ、タンガニカの蠅!」  博士は身に迫る危険も忘れ、呆然と窓の下に立ちつくした。ああ、恐るべき怪物!  このキング・フライは、後に十五万ヴォルトの送電線に触れて死ぬまで、さんざんに暴れまわった。    第二話 極左の蠅  その頃、不思議な病気が流行った。  一日に五六十人の市民が、パタリパタリと死んだ。第十八世に一度姿を現わしたという「赤き死の仮面」が再び姿をかえて入りこんだのではないかと、都大路は上を下への大騒動だった。 「きょうはこれで……六十三人目かナ」  死屍室から出て来た伝染病科長は、廊下に据付けの桃色の昇汞水の入った手洗の中に両手を漬けながら独り言を云った。そこへ細菌科長が通りかかった。 「おい、どうだ。ワクチンは出来たか」 「おお」と細菌科長は苦笑いをしながら足を停めた。「駄目、駄目、ワクチンどころか、まだ培養できやせん」 「困ったな。今日は息を引取ったのが、これで六十……」  と云おうとしたところへ、肥っちょの看護婦がアタフタ駈けてきた。 「先生、すぐ第二十九号室へお願いします。脈が急に不整えになりまして……」 「よオし。すぐ行く」といって再び細菌科長の方を振りかえり、「今日はレコード破りだぞ。こんどが六十四人目だ」 「……」  二人は反対の方角に、急ぎ足で立ち去った。  入れかわりに、廊下をパタパタ草履を鳴らしながら、警視庁の大江山捜査課長と帆村探偵とが、肩を並べながら歩いて来た。 「……だから、こいつはどうしても犯罪だと思うのですよ、課長さん」 「そういう考えも、悪いとは云わない。しかし考えすぎとりゃせんかナ」 「それは先刻から何度も云っていますとおり、私の自信から来ているのです。なにしろ、病人の出た場所を順序だてて調べてごらんなさい。それが普通の伝染病か、そうでないかということが、すぐ解りますよ。普通の伝染病なら、あんな風に、一つ町内に出ると、あとはもう出ないということはありません」 「しかし伝染地区が拡がってゆくところは、伝染病の特性がよく出ていると思う」 「伝染病であることは勿論ですが、ただ普通じゃないというところが面白いのですよ」  二人の論争が、そこでハタと停った。彼の歩調も緩んだ。丁度二人が目的の部屋の前に来たからである。黒い漆をぬった札の表には、白墨で「病理室」と書いてあった。  ノックをして、二人は部屋の扉を押した。 「やあ──」  と暗い室内から声をかけたのは、花山医学士だった。彼は待ちかねたという面持で、二人を大きな卓子の方へ案内した。そこには硝子蓋のついた重ね箱が積んであった。 「このとおりです。みんな調べてみました」  硝子箱の中には、沢山の白い短冊型の紙がピンで刺してあった。そして大部分は独逸文字で書き埋められてあったが、一部の余白みたいなところには、アラビア・ゴムで小さい真黒な昆虫が附着していた。どの短冊もそうであった。  それは蠅以外の何物でもなかった。 「結果は如何でした」  と帆村探偵が、頬を染めながら訊いた。 「大体を申しますと、この蠅の多くは、家蠅ではなくて、刺蠅というやつです。人間を刺す力を備えているたった一種の蠅です。普通は牛小屋や馬小屋にいるのですが、こいつはそれとはすこし違うところを発見しました。つまり、この蠅は、自然に発生したものではなくて、飼育されたものから孵ったのだということが出来ます」 「すると、人の手によって孵されたものだというのですね」と帆村が訊きかえした。 「そういうところです。なぜそれが断言できるかというと、この蠅どもには、普通の蠅に見受けるような黴菌を持っていない。極めて黴菌の種類が少い。大抵なら十四五種は持っているべきを、たった一種しか持っていない。これは大いに不思議です。深窓に育った蠅だといってよろしい」 「深窓に育った蠅か? あッはッはッはッ」と捜査課長が謹厳な顔を崩して笑い出した。 「その一種の黴菌とは、一体どんなものですか」と帆村は笑わない。 「それが──それがどうも、珍らしい菌ばかりでしてナ」 「珍らしい黴菌ですって」 「そうです。似ているものといえば、まずマラリア菌ですかね。とにかく、まだ日本で発見されたことがない」 「マラリアに似ているといえば、おお、あいつだ」と帆村はサッと蒼ざめた。「いま大流行の奇病の病原菌もマラリアに似ているというじゃないですか。最初はマラリアだと思ったので、マラリアの手当をして今に癒ると予定をつけていたが、どうしてどうして癒るどころか、癒らにゃならぬ日には、その病人の息の根が止まっていた。では、あの蠅の持っている黴菌というのが、あの奇病を起させたのじゃないですか」  医学士は黙っていた。その答えは彼の領分ではなかったから。  大江山捜査課長も黙っていた。目の前に現われた事実が、帆村の予言したところと、あまりによく一致して来たので。 「さあ大江山さん」と帆村は捜査課長を促した。「これから、あの蠅を採取した地区を探してみるのです。もっと大胆な推定を下すならば、犯人は沢山の蠅を飼育し、その一匹一匹に病原菌を持たせて、市民に移していったのです。犯人は、あの奇病の流行した地区の幾何学的中心附近に必ず住んでいるに違いありません。さあ行きましょう。行って、その間接の殺人魔を捉えるのです」  二人は病理学研究室を飛び出すと、すぐに自動車を拾った。いわゆる奇病発生地区の幾何学的中心地が、帆村の手で苦もなく探し出された。  二人が、チンドン屋の寅太郎という、いつも手甲脚絆に大石良雄を気取って歩く男を捉えたのは、それから間もなくの出来ごとだった。その寅太郎の遂に自白したところによると、彼こそ正しくその犯人だった。極左の一人として残る医学士の彼が、蠅に黴菌を背負わして、この恐ろしい犯行を続けていたことが明かになった。ねじけた彼にとって、市民をやっつけることは、またとない悦びだったのだ。彼が丹精して飼育したその毒蠅は、チンドンと鳴らして歩くその太鼓の中にウジャウジャ発見された。彼が右手にもった桴で太鼓の皮をドーンと叩くと、胴の上に設けられてある小さい孔から、蠅が一匹ずつ、外へ飛び出す仕掛けになっていた。  彼の検挙によって、例の奇病が跡を絶ったのは云うまでもない。    第三話 動かぬ蠅  好き者の目賀野千吉は、或る秘密の映画観賞会員の一人だった。  一体そうした秘密映画というものは、一と通りの仕草を撮ってしまうと、あとは千辺一律で、一向新鮮な面白味をもたらすものではない。そこで会主は、会員の減少をおそれて一つの計画を樹てた。それは会員たちから、いろいろの注文を聞き、それに従って、映画の新鮮な味を失うまいと心懸けた。果してそれは大成功だった。会主の狭い頭脳から出るものよりも、同好者の天才的頭脳を沢山に借りあつめることが、いかに素晴らしい映画を後から後へと作りあげたか、云うまでもない。目賀野千吉は、その方面での、第一功労者にあげねばならない人物だった。  会は大変儲かった。会は彼の功労を非常に多とし、遂に千五百円を投げ出して、新邸宅を建てて彼に贈った。 「ほほう。あんな方面の労務出資が、こんなに明るい新築の邸宅になるなんて、世の中は面白いものだナ」  彼は満足そうに独言を云って、白い壁にめぐらされた洋風間に持ちこんだベッドの上に長々と伸びた。真白な天井だった。新しいというのは、まことに気持がいいものだ。蠅が一匹止まっている。それさえ何となく、ホーム・スウィート・ホームで、明朗さを与えるもののように思われた。蠅のやつも、恐らく伸び伸びと、この麗かな部屋に逆様になって睡っていることであろう。  彼はうららかな生活をしみじみと味わって、幸福感に浸った。いままでの変態的な気持がだんだん取れてくるように感じた。もうあの夜の映画観賞会には、なるべく出ないようにしようとさえ考えた。明るい生活がだんだんと、彼の心を正しい道にひき戻していったのだった。  しかしそれと共に、彼はなんだか非常に頼りなさを感じていった。淋しさというものかも知れなかった。血の通っている身体でありながら、まるで鉱石で作った身体をもっているような気がして来た。なにが物足りないのだ。なにが淋しいのだ。 「そうだ、妻君を貰おう!」  彼は、このスウィート・ホームに欠けている第一番のものに、よくも今まで気がつかなかったものだと感心したくらいだった。  目賀野千吉は、彼の決心を早速会主に伝達した。 「ああ、お嫁さんなの……」  と会主は大きく肯いてみせた。 「いいのがあるワ。あたしの遠縁の娘だけれど。丸ぽちゃで、色が白くって、そりゃ綺麗な子よ」 「へえ! それを僕にくれますか」 「まあ、くれるなんて。貰っていただくんだわ。ほほほほ」  と会主は吃驚するような大きな顔で笑った。  そんなわけで、彼は間もなく、新邸の中にまたもう一つ新しく素晴らしいものを加えた。それは生々しい新妻であることは云うまでもあるまい。  新世帯というのを持ったものは誰でも覚えがあるように、三ヶ月というものは夢のように過ぎた。妻君は一向子供を生みそうもなかった代りに、ますます美しくなっていった。やがて一年の歳月が流れた。その間、彼はあらゆる角度から、妻君という女を味わってしまった。そのあとに来たものは、かねて唱えられている窒息しそうな倦怠だった。彼の過去の精神酷使が、倦怠期を迎えるに至る期限をたいへん縮めたことは無論である。彼はひたすら、刺戟に乾いた。なにか、彼を昂奮させてくれるものはないか。彼は妻君が寝台の上に睡ってしまった後も、一人で安楽椅子によりながら、考えこんだ。白い天井を見上げると、黒い蠅が一匹、絵に書いたように止まっていた。それをボンヤリ眺ているうちに、彼は思いがけないことに気がついた。 「あの蠅というやつは、もう先にも、あすこに止まっていたではないか。それが今も尚、あすこに止まっている。あれは、先の蠅と同じ蠅かしら。違うかしら。もし同じ蠅だとしたら生きているのか死んでいるのか」  彼は不図そんなことを思った。しかしそれだけでは、一向彼を昂奮に導くには足りなかった。 「なにものか、自分を昂奮させてくれるものよ、出て来い!」  彼はなおも執拗に、心の中で叫んだ。 「そうだ。あれしかない。古い手だが、暫く見ない。あれをまたすこし見れば、なんとかすこしは刺戟があるだろう」  彼は昔の秘密の映画観賞会のことを思い出したのだった。 (三ヶ月ぶりだ。……)  そう思いながら、彼は或るブローカーから切符を買うと、秘密の映画観賞会のある会合へ、こっそりと忍びこんだ。会主にも表向き会わないで、昂奮だけをソッと一人で持ってかえりたいと思ったからである。  映画はスクリーンの上に、羞らいを捨てて、妖しく躍りだした。大勢の会員たちが自然に発する気味のわるい満悦の声が、ひどく耳ざわりだった。しかし間もなく、心臓をギュッと握られたときの駭きに譬えたいものが彼を待っていようなどとは、気がつかなかった。ああ、突然の駭き。それはどこからうつしたものか、彼と妻君との戯れが長尺物になって、スクリーンの上にうつし出されたではないか! 「呀ッ。──」  と彼は一言叫んだなりに、呆然としてしまった。 (何故だろう。何故だろう)  彼は憤るよりも前に、まず駭き、羞らい、懼れ、転がるように会場から脱け出でた。そして自分の部屋に帰って来て、安楽椅子の上に身を抛げだした。そしてやっとすこし気を取り直したのだった。 (何故だろう。あの怪映画は、自分たちの楽しい遊戯を上の方から見下ろすように撮ってあった。一体どこから撮ったものだろう。撮るといって、どこからも撮れるようなものはないのに……)  と、彼はいぶかしげに、頭の上を見上げた。そこには、依然として真新しい白壁の天井があるっきりだった。別にどこという窓も明いている風に見えなかった。ただ一つ、気になるといえば気になるのは、前から相も変らず、同じ場所にポツンと止まっている黒い大きい蠅が一匹であった。 「どうしてもあの蠅だ。なぜあの蠅だか知らないが、あれより外に怪しい材料が見当らないのだ!」  そう叫んだ彼は、セオリーを超越して、梯子を持ってきた。それから危い腰付でそれに上ると、天井へ手を伸ばした。蠅は何の苦もなくたちまち彼の指先に、捕えられた。しかしなんだか手触りがガサガサであって、生きている蠅のようでなかった。 「おや。──」  彼は掌を上に蠅を転がして、仔細に看た。ああ、なんということであろう。それは本当の蠅ではなかった。薄い黒紗で作った作り物の蠅だった。天井にへばりついていたために、下からは本当の蠅としか見えなかったのだ。だが誰が天井にへばりついている一匹の蠅を、真物か偽物かと疑うものがあろうか。 (誰が、なんの目的で、こんな偽蠅を天井に止まらせていったのだろう!)  彼は再び天井を仰いでみた。 「おや、まだ変なものがある!」  よく見ると、それは蠅の止まっていたと同じ場所に明いている小さな孔だった。どうして孔が明いているのだろう!  その瞬間、彼はハッと気がついた。 「畜生!」  そう叫ぶと彼は、押入の扉を荒々しく左右に開いた。そして天井裏へ潜りこんだ。そこで彼は不可解だった謎をとくことが出来た。あの孔の奥には、巧妙な映画の撮影機が隠されていた。目賀野千吉と新夫人との生活はあの孔からすっかり撮影され、彼が入った秘密映画会に映写されていたのであった。会主が家をくれたのも、その映画をうつさんがために外ならなかった。なんとなれば、およそ彼ほどの好き者は、会主の知っている範囲では見当らなかったのだ。会主は彼が本気で実演してくれれば、どんなにか会員を喜ばせる映画が出来るか、それを知っていたのだ。むろん彼女は、新宅の建築費の十倍に近い金を既にあの映画によって儲けていたのだった。  蠅は? 蠅は単に小さい孔を隠す楯にすぎなかった。薄い黒紗で出来ている蠅の身体はよく透けて見えるので、撮影に当ってレンズの能力を大して損うものではなかったのである。    第四話 宇宙線  宇宙線という恐ろしい放射線が発見されてから、まだいくばくも経たないが、人間は恐ろしい生物だ、はや人造宇宙線というものを作ることに成功した。あのX光線でさえ一ミリの鉛板を貫きかねるのに、人造宇宙線は三十センチの鉛板も楽に貫く。だから鉄の扉やコンクリートの厚い壁を貫くことなんか何でもない。人間の身体なんかお茶の子サイサイである。  どこから飛んでくるか判らない宇宙線は、その強烈な力を発揮して、人間の知らぬ大昔から、人体を絶え間なくプスリプスリと刺し貫いているのだ。或るものは、心臓の真中を刺し貫いてゆく。また或るものは卵巣の中を刺し透し、或るものはまた、精虫の頭を掠めてゆく。こう言っている間も、私たちの全身は夥しい宇宙線でもってプスリプスリと縫われているのだ。  一体、そんなにプスリと縫われていて差支えないものか。差支えないとは云えない、たとえば、精虫が卵子といま結合しようというときに、突然数万の宇宙線に刺し透されたとしたらどうであろう。お盆のように丸くなるべきだった顔が、俄然馬のように長い顔に歪められはしまいか。  私はこの頃人造宇宙線の実験に没頭しているが、いつもこの種の不安を忘れかねている次第である。人造が出来るようになってからは宇宙線の流れる数は急激に増加した。ことに私どもの研究室の中では、宇宙線が霞のように棚曳いている。恐らく街頭で検出できる宇宙線の何百倍何千倍に達していることだろうと思う。私はこうして実験を続けていながらも、何か駭くべき異変がこの室内に現われはしまいかと思って、ときどき背中から水を浴びせられたように感ずるのだ。そんなことが度重なったせいか、今日などは朝からなんだか胸がムカムカしてたまらないのである。  読者は、私が科学者である癖に、何の術策を施すこともなく、ただ意味なく狼狽と恐怖とに襲われているように思うであろうが、私とても科学者である。愚かしき狼狽のみに止まっているわけではない。すなわち、ここにある硝子壜の中をちょっと覗いてみるがいい。この中に入っているものは何であるか御存知であろう。これは蠅である。  この蠅は、最初壜に入れたときは二匹であったが、特別の装置に入れて置くために、だんだん子を孵して、いまではこのとおり二十四五匹にも達している。この蠅の一群を、私は毎日毎日、丹念に検べているのだ。しかし私はいつも失望と安堵とを迎えるのが例だった。なぜならば、蠅どもは別に一向異変をあらわさなかったから……。  だが、今日という今日は、待ちに待った戦慄に迎えられたのだ。それは、この壜の中に一匹の怪しい子蠅を発見したからである。その子蠅は、なんという恐ろしい恰好をしていたことであろうか。それははじめは気がつかなかったが、すこし丈夫になって、壜の上の方に匍いあがってきたところを見付けたのであるが、一つの胴体に、二つの頭をもっていたのだ! 言わば双つ頭の蠅である。こんな不思議な蠅が、いまだかつて私共の目に止まったことがあろうか。いやいやそんな怪しげなものは見たことがなかった。おそらく、どこの国の標本室へいっても、二つ頭の蠅などは発見されないであろう。ことに目の前に蠅の入った壜を置いてあって、その中にこのような怪しい畸形の子蠅を発見出来るなどいうことは、著しい特別の原因がなくては起り得るものではない。──その原因を、わが研究室の宇宙線に帰することは、極めて自然であると思う。無論読者においても賛成せられることであろう。……      *  ──さて、前段の文章は、途中で切れてしまったが、まったく申訳がない。実は急に胸元が悪くなって、嘔吐を催したのだ。そして軽い脳貧血にさえ襲われた。私は皆の薦めで室を後にし、別室のベッドに寝ていたのだ。それからかれこれ三時間は経った。やっと気分もすこし直って来たので、起き上ろうかと思っていると、其所へ友人が呼んでくれた医師が診察に来てくれた。  その診察の結果をこれからお話しようと思うのであるが、読者は信じてくれるかどうか。多分信じて貰えまいと思う。といってこれが話さずにいられようか。  いま私は起き上って、蠅の入った壜を手にとって見ている。あれから三四時間のちのことであるが、二つ頭の蠅が、俄然五匹に殖えている。異変は続々と起っているのだ。そして生物学的にみて、何という繁殖の凄じさであろうか。何という怪奇な新生児であろうか。  私がもし生物学者であったとしたら、蠅が卵を生み始めた頃直ぐに、重大なる事柄に気がつかねばならなかったのである。随って、近頃の私自身の気分の悪さについても、早速思いあたらねばならなかったのであるが、幸か不幸か、私には蠅の雌雄を識別する知識がなかったのである。  実は私は──理学博士加宮久夫は、本日医師の診察をうけたところによると、奇怪にも妊娠しているというのである。男性が妊娠する──なんて、誰も本当にしないであろうが、これは偽りのない事実である。ああなんという忌わしき、また恐ろしいことではないか。男性にして妊娠したというのは、私が最初だったであろう。なぜ妊娠したか。その答えは簡単である。──この研究室に棚曳いている宇宙線が私の生理状態を変えてしまって、そして妊娠という現象が男性の上に来たのだ。  私が生物学者だったら、この壜の中の蠅が卵を生んでいるときに、既に怪異に気がつくべきだった。何となれば、その卵を生んでいる蠅は、いずれも皆雌ではなく、実に雄だったのである。そしてその雄から、あの畸形な子蠅が生れてきたのだ。  ああ、私は果して、五体が満足に揃った嬰児を生むであろうか。それとも……。    第五話 ロボット蠅  赤軍の陣営では、軍団長イワノウィッチが本営から帰ってくると、司令部の広間へ、急遽幕僚の参集を命じた。 「実に容易ならぬ密報をうけたのじゃ」と軍団長は青白い面に深い心痛の溝を彫りこんで一同を見廻した。「白軍には駭くべき多数の新兵器が配布されているそうな。その新兵器は、いかなる種類のものか、ハッキリしないのであるが、中に一つ探りあてたのは、殺人音波に関するものだ。耳に聞えない音──その音が、一瞬間に人間の生命を断ってしまうという。とにかく一同は、この新兵器の潜入について、極度の注意を払って貰わにゃならぬ。そして一台でも早く見つけたが勝じゃ。一秒間発見が早ければ千人の兵員を救う。一秒間発見が遅ければ、千人の兵員を喪う。各自は注意を払って、新兵器の潜入を発見せねばならぬ」  並居る幕僚は、思わずハッと顔色を変えた。そして銘々に眼をギョロつかせて、室内を見廻した。もしやそこに、見馴れない新兵器がいつの間にやら搬びこまれていはしまいかと思って……。 「ややッ、ここに変なものがあるぞ」  幕僚の一人、マレウスキー中尉が突然叫んだ。 「ナナなんだって?」  一同は長靴をガタガタ床にぶっつけながら中尉の方を見た。彼は室の隅の卓子の上に、手のついた真黒い四角な箱を発見したのだ。 「こッこれだッ。怪しいのは……」 「なんだ其の箱は」 「爆弾が仕掛けてあるのじゃないかナ」 「イヤ短波の機械で、われ等の喋っていることが、そいつをとおして、真直に敵の本営へ聞えているのじゃないか」 「それとも、殺人音波が出てくる仕掛けがあるのじゃないか」  一同は喚きあって、その四角の黒函をグルリと取り巻いた。 「あッはッはッ」と人垣のうしろの方から、無遠慮な爆笑の声がひびいた。フョードル参謀の声で。 「あッはッはッ。それア弁当屋の出前持の函なんだ。多分お昼に食った俺の皿が入っているだろう」 「なんだって、弁当の空か?」 「どうして、それがこんなところにあるのか」 「イヤ、さっき弁当屋の小僧が来た筈なんだが、持ってゆくのを忘れたのじゃあるまいかのウ」フョードル参謀は云った。 「忘れてゆくとは可笑しい、中を検べてみろ」 「早くやれ、早くやれッ」 「よォし」とフョードル参謀は進み出た、「じゃ明けるぞオ」  一同の顔はサッと緊張した。軍団長イワノウィッチは、大刀を立て反身になって、この際の威厳を保とうと努力した。 「よォし、明けろッ」 「明けるぞオ」  フョードルは、黒函の蓋に手をかけると、音のせぬようにソッと外しにかかった。一同の心臓は大きく鼓動をうって、停りそうになった。 「……?」  蓋はパクリと外れた。 「なアんだ」  見ると、函の中には、白い料理の皿が二三枚重なっているばかりだった。皿の上には食いのこされた豚の脂肉が散らばっていて、蠅が二匹、じッと止まっていた。 「ぷーッ。ずいぶん汚い」 「見ないがよかった。新兵器だなんていうものだから、つい見ちまった」  一同は興ざめ顔のうちに、まアよかったという安堵の色を浮べた。  そのとき入口の扉が開いて、少年がズカズカと入ってきた。 「おや、貴様は何者かッ」 「誰の許しを得て入って来たか」  将校たちに詰めよられた少年は、眼をグルグル廻すばかりで、頓に返辞も出せなかった。 「オイ、許してやれよ」フョードル参謀が声をかけた、「いくら白軍の新兵器が恐ろしいといったって、あまり狼狽しすぎるのはよくない……」 「なにッ」 「そりゃ、弁当屋の小僧だよ」 「弁当屋の小僧にしても……」 「オイ小僧、ブローニングで脅されないうちに、早く帰れよ」  少年はフョードルの言葉が呑みこめたものか、肯いて黒い函をとると、重そうに手に下げ、パッと室外に走り出した。 「なーんだ、本当の弁当屋の小僧か」 「いや小僧に化けて、白軍の密偵が潜入して来るかも知れないのだ」とマレウスキー中尉は神経を尖らした。 「油断はせぬのがよい。しかし卑怯であっては、戦争は負けじゃ」  と一伍一什を見ていた軍団長はうまいことを述べて、大きな椅子のうちに始めて腰を下ろした。 「注意をすることが、卑怯であるとは思いませぬ」とマレウスキー中尉は引込んでいなかった。「怪しいことがあれば、そいつは何処までも注意しなきゃいけません。たとえば……」 「たとえば何だという?」とフョードルが憎々しげに中尉を睨みつけた。 「たとえば、ああ、そこをごらんなさい。一匹の蠅が壁の上に止まっている。そいつを怪しいことはないかどうかと一応疑ってみるのがわれわれの任務ではないか」 「蠅が一匹、壁に止まっているって? フン、あれは……あれは先刻弁当屋の小僧が持って来た弁当の函から逃げた蠅一匹じゃないか。すこしも怪しくない」 「それだけのことでは、怪しくないという証明にはならない。それは蠅があの黒い函の中から逃げだせるという可能性について論及したに過ぎない。あの蠅を捕獲して、六本の脚と一個の口吻とに異物が附着しているかいないかを、顕微鏡の下に調べる。もし何物か附著していることを発見したらば、それを化学分析する。その結果があの黒函の中の内容である豚料理の一部分であればいいけれど、それが違っているか、或いは全然附着物が無いときには、どういうことになるか。あの蠅は弁当屋の出前の函にいたものではないという証明ができる。さアそうなれば、あの蠅は一体どこからやって来たのだろうか。もしやそれは一種の新兵器ではないかと……」 「あッはッはッはッ」と参謀フョードルは腹を抱えて笑い出した。「君の説はよく解った。そういう種類の説は昔から非常に簡単な名称が与えられているのだ。曰く、懐疑主義とネ」 「イヤ参謀、それは粗笨な考え方だと思う。一体この室に蠅などが止まっているというのが極めて不思議なことではないか。ここは軍団長の居らるる室だ。ことに季節は秋だ。蠅がいるなんて、わが国では珍らしい現象だ」 「弁当屋が持って来たのなら、怪しくはあるまいが……」 「ことに新兵器なるものは、敵がまったく思いもかけなかったような性能と怪奇な外観をもつのを佳とする。もし蠅の形に似せた新兵器があったとしたら……。そしてあの弁当屋の小僧が実は白軍のスパイだったとしたら……」 「君は神経衰弱だッ」。 「参謀は神経が鈍すぎるッ」 「いいや、君は……」 「鈍物参謀」 「やめいッ!」  と軍団長が大喝した。 「はッ」と二人は直立不動の姿勢をとった。 「もうやめいッ、論議は無駄だ。喋っている遑があったら、なぜあの蠅を手にとって検べんのじゃ」 「はッ」  二人は顔を見合わせた。誰が蠅を検べにゆくのがよいか──と考えた。その途端に、フョードルも、中尉もハッと顔色をかえて、胸をおさえた。軍団長もヨロヨロとよろめきながら、右手で心臓を圧えた。そればかりではない。司令部広間にいた幕僚も通信手も伝令も、皆が胸を圧えた。そして次の瞬間には立てて並べてあった本がバタリバタリと倒れるように、一同はつぎつぎに床の上に昏倒した。間もなく、この大広間は、世界の終りが来たかのように、一人のこらず死に絶えた。まことに急激な、そして不可解な死に様だった。  たった一つ、依然として活躍しているものがあった。それは壁にとまっていた一匹の蠅だった。その蠅の小さい一翅は、どうしたものか、まったく眼に見えなかった。それは翅が無いのではなく、翅が非常に速い振動をしていたからである。その翅の特異な振動から、殺人音波が室内にふりまかれているのであった。白軍の新兵器、殺人音波は、実にこの蠅から放射されていたのである。  蠅は死にそうでいて、中々元気であった。人間が死んで、蠅が死なないのはおかしいが、もし手にとって、顕微鏡を持つまでもなく肉眼でよく見るならば、この蠅が唯の蠅ではなく、ロボット蠅であることを発見したであろう。  この精巧なロボット蠅は、弁当屋の小僧が持って来て、壁にとりつけていったものだった。蠅が止まっていると格別気にもしなかった間にあの小僧に化けたスパイは遠くに逃げ失せた。その頃、一つの電波が白軍の陣営から送られ、それであのロボット蠅の翅は忽ち振動を始めたのだ。その翅からは戦慄すべき殺人音波が発射され、室内の一同を鏖殺しというわけだった。軍団長のいうとおり、もっと早く蠅を手にとって検べていたら、こんな悲惨な結果にはならなかったろう。  ロボット蠅は、それから後も、続々と偉功を樹てた。    第六話 雨の日の蠅 (妻が失踪してから、もう七日になる)  彼は相変らず無気力な瞳を壁の方に向けて、待つべからざるものを待っていた。腹は減ったというよりも、もう減りすぎてしまった感じである。胃袋は梅干大に縮小していることであろう。  妻を探しにゆくなんて、彼には、やりとげられることではなかった。外はどこまでも続いた密林、また密林である。人間といえば彼と妻ときりしか住んでいない。食いつめて、虐げられて、ねじけきって辿りついたこの密林の中の荒れ果てた一軒家だった。主人のない家とみて今日まで寝泊りしているのだった。  失踪した妻を探しにゆく気力もなかった。それほど大事な妻でもなかった。結局一人になった方が倖かもしれない。しかし、倖なんておよそおかしなものである。腹の減ったときに蜃気楼を見るようなもので、なんの足しになるものかと思った。  陽がうっすらとさしていたのが、いつの間にやら、だんだんと吸いとられるように消えていった。そしてポツポツ雨が降ってきた。密林の雨は騒々しい。木の葉がパリパリと鳴った。  丸太ン棒を輪切りにして、その上に板をうちつけた腰掛の下から、一陣の風がサッと吹きだした。床に大きな窓が明いているのであった。とたんにどッと降りだした篠をつくような雨は、風のために横なぐりに落ちて、窓枠をピシリピシリと叩いた。密林がこの小屋もろとも、ジリジリと流れ出すのではないかと思われた。  流れ出してもよい。すべて天意のままにと彼は思った。  雨は、ひとしきり降ると、やがて見る見る勢を失っていった。そしてあたりはだんだん明るさが恢復していった。風もどこかへ行ってしまった。  やがてまたホンノリと、薄陽がさしてきた。彼はまだ身体一つ動かさず、破れた壁を見詰めていた。雨が上ったら、どこからか妻がキイキイ声をあげながら、小屋へ駈けこんでくるように感じられた。だがそれは、いつもの期待と同じように、ガラガラと崩れ落ちていった。いつまでたってもキイキイ声はしなかった。  壁を見詰めている彼の瞳の中に、なんだかこう新しい気力が浮んできたように見えた。壁に、どうしたものかたくさんの蠅が止まっている。一匹、二匹、三匹と数えていって、十匹まで数えたが、それからあとは嫌になった。十匹以上、まだワンワンと居た。 (どうして蠅が、こう沢山居るのだろう)  彼はようやく一つの手頃な問題にとりついたような気がした。別に解けなくともよい。気に入る間だけ、舌の上に載せた飴玉のように、あっちへ転がし、こっちへ転がしていればいいのだ。さて、蠅がどうしてこんなに止まっているのか。 (ウン、そうだ……)  そうだ。蠅はさっきまで一匹も壁の上に止まっていたように思われない。蠅が急に壁の上に殖えたのは、先刻の豪雨があってから、こっちのことだ。 (そうだ。雨が降って、それで蠅が殖えたのだ。どうして殖えたのだ?)  窓には硝子板なんてものが一枚も入っていなかった。板で作った戸はあったけれど、閉めてなかった。この窓から、あの蠅が飛びこんできたのに違いない。しかし飛びこんでくるとしても、この夥しい一群の蠅が押しよせるなんて、彼がこの小屋に住むようになった一年この方、いままでに無いことだった。 (なぜ、今日に限って、この夥しい蠅の一群が飛びこんで来たのだ。どこから、この夥しい蠅が来たのだ)  彼の眼は次第に険悪の色を濃くしていった。  どこから来たのだ、この夥しい蠅群は! 「ああッ。──」  と彼は叫んだ。 「この蠅が来るためには、この家の外に、なにか蠅が沢山たかっている物体があるのだ。雨が降って──そして蠅が叩かれ、あわててこの窓から飛びこんできたのだ。そうだそうだ、それで謎は解ける!」  彼は爛々たる眼で見入った。 (だが、その蠅の夥しくたかっている物体というのは、一体なにものだったろう)  彼は急に落着かぬ様子になって、ブルブルと身体を慄わした。両眼はカッと開き、われとわが頭のあたりにワナワナとふるえる両手を搦みつけた。 「ああッ。──ああッ、あれだッ。あれだッ」  彼は腰掛から急に立ち上った。釘をうったように棒立ちになった。ひどい痙攣が、彼の頬に匍いのぼった。 「妻だ。妻の死体だッ」彼の声は醜く皺枯れていた。「妻の死体が、すぐそこの窓の下に埋まっているのだ。それがもう腐って、ドンドン崩れて、その上に蠅がいっぱいたかっているのだ。……先刻の雨に叩かれて、そこにいる蠅の一群が、窓から逃げこんできたのだ。ああ、妻の死体を嘗めた蠅が、そこの壁の上に止まっている!」  彼は後退りをすると、背中を壁にドスンとぶつけた。 「……で、その妻は、一体誰が殺し、誰がそこに埋めたのだろうか」  彼は土の下で腐乱しきった妻の死体を想像した。いまの雨に、その半身が流れ出されて、土の上に出ているかもしれないと思った。 「殺したのは誰だ。この無人境で、妻を殺したのは誰だッ」  そのとき、入口の扉がコツコツと鳴った。誰かがノックをしているのだ。 「あワワ……」  彼は身を翻すと、部屋の隅に小さくなった。まるで蜘蛛の子が逃げこんだように。  コツ、コツ、コツ。  又もや気味の悪い叩音が聞える。  彼は死んだようになって、息をころした。  そのとき扉の外で、ガチャリと音がした。鍵の外れるような音であった。そしてイキナリ、重い扉が外に開いた。その外には詰襟の制服に厳しい制帽を被った巨大漢と、もう一人背広を着た雑誌記者らしいのとが肩を並べて立っていた。 「これがその男です」と、制服の監視人が部屋の中の彼を指して云った。「妻を殺して、窓の外にその死体を埋めてあるように思っている患者です。この男は何でも前は探偵小説家だったそうで、窓から蠅が入ってくると、それから筋を考えるように次から次へと、先を考えてゆくのです。そして最後に、自分が夢遊病者であって、妻を殺してしまったというところまで考えると、それで一段落になるのです。そのときは、いかにも小説の筋が出来たというように、大はしゃぎに跳ねまわるのです。……強暴性の精神病患者ですから、この部屋はこれまでに……」    第七話 蠅に喰われる  机の上の、小さな蒸発皿の上に、親子の蠅が止まっている。まるで死んだようになって、動かない。この二匹の親子の蠅は、私の垂らしてやった僅かばかりの蜂蜜に、じッと取付いて離れなくなっているのだ。  そこで私は、戸棚の中から、二本の小さい壜をとりだした。一方には赤いレッテルが貼ってあり、もう一つには青いレッテルが貼ってあった。この壜の中には、極めて貴重な秘薬が入っているのだった。赤レッテルの方には生長液が入って居り、青レッテルの方には「縮小液」が入っていた。これは或るところから手に入れた強烈な新薬である。私はこの秘薬をつかって、これからちょっとした実験をして見ようと思っているのだ。  私は赤レッテルの壜の栓を抜くと、妻楊子の先をソッと差し入れた。しばらくして出してみると、その楊子の尖端に、なんだか赤い液体が玉のようについていた。それが生長液の一滴なのであった。  私はその妻楊子の尖端を、蒸発皿の方へ動かした。そして親蠅がとりついている蜂蜜の上に、生長液をポトンと垂らした。それから息を殺して、私は親蠅の姿を見守った。  ブルブルブルと、蠅は翅をゆり動かした。 「うふーン」  と私は溜息をついた。蠅はしきりに腹のあたりを波うたせている。不図隣りの仔蠅の方に眼をうつした私は、どンと胸をつかれたように思った。 「呀ッ。大きくなっている!」  仔蠅の身体に較べて、親蠅はもう七八倍の大きさになっているのだ。そして尚もしきりに膨れてゆくようであった。 「ほほう。蠅が生長してゆくぞ。なんという素晴らしい薬の効目だ」  蠅は薬がだんだん利いて来たのであろうか。見る見る大きくなっていった。三十秒後には懐中時計ほどの大きさになった。それから更に三十秒のちには、亀の子束子ほどに膨れた。私はすこし気味が悪くなった。  それでも蠅の生長は停まらなかった。亀の子束子ほどの蠅が、草履ほどの大きさになり、やがてラグビーのフットポールほどの大きさになった。電球ぐらいもある両眼はギラギラと輝き、おそろしい羽ばたきの音が、私の頬を強く打った。それでもまだ蠅はグングンと大きくなる。こんなになると、蠅の生長してゆくのがハッキリ目に見えた。私はすっかり恐ろしくなった。  蠅の身体が、やがて鷲ぐらいの大きさになるのは、間のないことであろうと思われた。 (これはもう猶予すべきときではない。早く叩き殺さねば危い!)  なにか適当の武器もがなと思った私は、慌てて身辺をふりかえったが、そこにはバット一本転がっていなかった。友人のところへ猟銃を借りにゆく手はあるんだが、既にもう間に合わなかった。そんなに愚図愚図手間どっていると、この蠅は象のように大きくなってしまうことだろう。  狼狽と後悔との二重苦のうちに、私は不図一つの策略を思いついた。それはすこし無鉄砲なことではあったが、この上は躊躇している場合ではない。──と咄嗟に腹を極めた私は、赤いレッテルの生長液の入った壜をとりあげて栓を抜くと、グッと一と息に生長液を嚥んだのであった。  たちまち身体の中は、アルコールを炊いたような温かさを感じた。と思ったら私の身体はもうブツブツ膨れはじめた。シャボン玉のように面白いほど膨らみ始めた。  あの親蠅はと見ると、先程に比べてなるほど小さく見えだした。これは私の身体が大きくなったのでそう見えるのであろう。室内の調度に比べると、彼の蠅は土佐犬ほどの大きさになっているらしかった。大量の生長液を飲んだせいで私は尚もグングン大きくなっていった。そのうちに親蠅は私の両手でがっちりつかめそうになった。 「よオし、こいつが……」  私はたちまち躍りかかると、親蠅の咽喉を締めつけた。蠅は大きな眼玉をグルグルさせ、口吻からベトベトした粘液を垂らすと、遂にあえなくも、呼吸が絶えはてた。そしてゴロリと上向きになると、ビクビクと宙に藻掻いていた六本の脚が、パンタグラフのような恰好になったまま動かなくなってしまった。私はほっと溜息をついた。  そのときだった。私は頭をコツンとぶつけた。見ると私の頭は天井にぶつかったのであった。何しろグングン大きくなってゆくので、こんなことになってしまったのだ。私は元々坐っていたのであるが、蠅を殺すときに中腰になっていた。このままでいると、天井を突き破るおそれがあるので、私はハッとして頭を下げて、再びドカリと坐った。 「ああ、危かった」  だが、本当に危いのは、それから先であるということが直ぐ解った。私の身体はドンドン膨れてゆく。このままでは部屋の内に充満するに違いない。外へ出ようと思ったが、そのときに私は恐ろしいことを発見した。 「ああッ、これはいけない!」  私は思わず叫んだ。もうこんなに身体が大きくなっては、窓からも扉のある出入口からも外に出られなくなっているのだった。部屋から逃げだせないとしたら、これから先ず一体どうしたらいいのだろう。  恐らく私の身体は壁を外へ押し倒し、この家を壊してしまわないと外へ出られないだろう。だがこの部屋の構造は特別に丈夫に作らせてあるのだ。身体の方が負けてしまうかも知れない。内から生長してゆく恐ろしい力が巌丈な壁や柱に圧された結果はどうなるのだろうか。私の五体は、両国の花火のようになって、真紅な血煙とともに爆発しなければならない。そのうちに肩のところがメリメリいって来た。  私は二度の大狼狽に襲われた。 「これアいかん!」  こうなっては、一秒も争う。私は神を念じ、痛い顎の骨を折って、あたりを見まわした。そのとき天の助けか、目についたのは一個の薬壜だった。青レッテルを貼った縮小液の入った壜だった。 「そうだ。あれを飲めば、身体が小ちゃくなるぞ!」  私は指の尖端に唾をつけて、その青レッテルの壜をへばりつけた。それから爪の先で、いろいろやってみてやっと栓を抜いた。 「さあ、しめたッ」  私はそのひとたらしもない薬液を、口の中へ滴しこんだ。それはたいへん苦い薬だった。  スーッと身に涼風が当るように感じたそのうちに、エレヴェーターで下に降りるような気がしてきた。それと共に身体が冷て、ガタガタ慄えだした。しかし、ああ、私の身体はドンドン小さくなって行く。坐っていて箪笥の上に首が載ったのが、今は箪笥と同じ高さになった。  ますます縮んでいった。立ち上っても、頭が鴨居の下に来た。椅子に坐ってみても丁度腰の下ろし具合がいい。もうこれで元のようになったと感じた。  しかしである。また心配なことが起って来た。元のようになった身体は、まだグングン小さくなってゆくのだった。椅子に腰を下ろしていて、足の裏がいつの間にやら、絨毯から離れて来た。下へ降りようと思うと、窓から下へ飛び降りるように恐ろしくなってきた。私はお人形ほどの大きさになったのである。  それ位に止まるならば、まだよかったのであるが、更に更に、身体は小さく縮まっていった。私はキャラメルの箱に蹴つまずいて、向う脛をすりむいた。馬鹿馬鹿しいッたらなかった。そのうちに、私は不思議なものを発見した。それは一匹の豚ほどもある怪物が、私の方をじっと見て、いまにも飛びかかりそうに睨んでいるのだ。 「なにものだろう!」  私は首を傾けた。そんな動物がこの部屋に居るとは、一向思っていなかったのだ。  しかしよく見ると、その怪物は大きな翅があった。鏡のような眼があった。鉄骨のような肢があって、それに兵士の剣のような鋭い毛がところきらわず生えていた。私はそのときやっとのことで、その怪物の正体に気がついた。 「ああ、こいつは、私の先刻殺した蠅の仔なのだ」  仔蠅にしては、何という大きな巨獣(?)になったのであろうか。  その恐ろしい仔蠅は、しずしずと私の方に躙りよってきた。眼玉が探照灯のようにクルクルと廻転した。地鳴りのような怪音が、その翅のあたりから聞えてきた。蓮池のような口吻が、醜くゆがむと共に、異臭のある粘液がタラタラと垂れた。 「ぎゃーッ」  私の頭の上から、そのムカムカする蓮池が逆さまになって降って来たのだ。私の横腹は、銃剣のような蠅の爪でプスリと刺しとおされた。 「ぎゃーッ。──」  そこで私は何にも判らなくなってしまった。その仔蠅に食われたことだけ判っていた。不思議にも、何時までも何時までも記憶の中にハッキリ凍りついて残っていた。 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房    1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行 初出:「ぷろふいる」    1934(昭和9)年2月号~9月号 入力:tatsuki 校正:花田泰治郎 2005年5月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。