赤外線男 海野十三 Guide 扉 本文 目 次 赤外線男      1  この奇怪極まる探偵事件に、主人公を勤める「赤外線男」なるものは、一体全体何者であるか? それはまたどうした風変りの人間なのであるか? 恐らくこの世に於て、いまだ曾て認識されたことのなかった「赤外線男」という不思議な存在──それを説明する前に筆者は是非とも、ついこのあいだ東都に起って、もう既に市民の記憶から消えようとしている一迷宮事件について述べなければならない。  これは事件というには、実にあまりに単純すぎるために、もう忘れてしまった人が多いようであるが、しかし知る人ぞ知るで、識っている人にとっては、これ又奇怪な事件であることに、この迷宮事件が後になって、例の摩訶不思議な「赤外線男」事件を解く一つの重大なる鍵の役目を演じたことを思えば、尚更逸することのできない話である。  なんかと云って筆者は、話の最初に於て、安薬の効能のような台辞をあまりクドクドと述べたてている厚顔さに、自分自身でも夙くに気付いているのではあるが、しかしそれも「赤外線男」事件が本当に解決され、その主人公がマスクをかなぐり捨てたときの彼の大きな駭きと奇妙な感激とを思えば、一見思わせたっぷりなこの言草も、結局大した罪にならないと考えられる。──  さてその日は四月六日で、月曜日だった。  ところは大東京で一番乗り降りの客の多いといわれる新宿駅の、品川方面ゆきの六番線プラットホームで、一つの事件が発生した。  それは丁度午前十時半ごろだった。この時刻には、流石の新宿駅もヒッソリ閑として、プラットホームに立ち並ぶ人影も疎らであった。  あの六番線のホームには、中央あたりに荷物上げ下げ用のエレヴェーターがあって、その周囲は厳重な囲いが仕切られて居り、その背面には、青いペンキを塗った大きな木の箱があって、これにはバケツだとかボロ布などの雑品が入っているのだが、その箱の上を利用して新聞雑誌が一杯拡げられ、傍に青い帽子を被った駅の売子が、この間に合わせながら毎日規則正しく開かれる店の番をしている。  このエレヴェーターとレールとの間のホームの幅は、やっと人がすれちがえるほどの狭さであるが、その通路にはエレヴェーターを背にして駅の明いているうちは不思議にもきまって、必ず一人の若い婦人が凭れているのだ。その婦人は電車の発着に従って人は変るけれど、其の美しさと、何となく物淋しそうな横顔については、どの女性についても共通なのであった。この神秘を知っている若いサラリーマン達の間には、このエレヴェーター附近を「佐用媛の巌」と呼び慣わしていた。かの松浦佐用媛が、帰りくる人の姿を海原遠くに求めて得ず、遂に巌に化したという故事から名付けたもので、その佐用媛に似た美しさと淋しさを持った若い婦人がいつも必ず一人は居るというのであった。  その午前十時半にも確かに一人の佐用媛が巌ならぬエレヴェーターの蔭に立っていた。鶯色のコートに、お定りの狐の襟巻をして、真赤なハンドバッグをクリーム色の手袋の嵌った優雅な両手でジッと押さえていた。コートの下には小紋らしい紫がかった訪問着がしなやかに婦人の脚を包み、白足袋にはフェルト草履のこれも鶯色の合わせ鼻緒がギュッと噛みついていた──それほど鮮かな佐用媛なのに、そのひとの顔の特徴を記憶している者が殆んど無いという全くおかしな話だった。尤もホームは至って閑散で、そんなことには超人的な記憶力をもっている若い男たちが、幸か不幸かその近所に居合わさなかったせいにもよるだろう。そこへ上りの品川廻り東京行きの電車がサッと六番線ホームへ入って来た。運転台の硝子窓の中には、まだ昨夜の夢の醒めきらぬらしい、運転手の寝不足の顔があった。 「呀ッ!!」  運転手は弾かれたように、座席から立ちあがった。彼の面はサッと青ざめた。反射的にブレーキを掛けたが、もう駄目だった。  ゴトリ。……ゴトリ。……  車輪とレールとの間に、確かな手応があった。あのたまらなくハッキリした轢音が……。佐用媛がいきなりホームからレール目懸けて飛びこんだのだ!  それから後の騒ぎは、場所柄だけに、大変なものであった。  現場の落花狼藉は、ここに記すに忍びない。その代り検視の係官が、電話口で本庁へ報告をしているのを、横から聴いていよう。 「……というような着衣の上等な点から云いましても、またハンドバッグの中に手の切れるような十円札で九十円もの大金があるところから考えましても、相当な家庭の婦人だと思います。……ああ、年齢ですか。それがどうも明瞭でありませぬ。何しろ、顔面を滅茶滅茶にやられてしまったものですからネ。しかし着物の柄や、四肢の発達ぶりから考えますと、まず二十五歳前後というところでしょうナ」  係官は何を思い出したものか、ここでゴクリと唾を嚥みこんだ。  やがて鶯色のコートを着た轢死婦人の屍体は、その最期を遂げた砂利場から動かされ、警察の屍体収容室に移された。いつもの例によれば、ここへ誰か遺族が顔色をかえて駈けこんでくるのが筋書だったが、どうしたものか何時まで経っても引取人が現れない。告知板に掲示をしてある外、午後一時のラジオで「行路病者」の仲間に入れて放送もしたのであるが、更に引取人の現れる模様がなかった。これだけの大した身なりの婦人で、引取人の無いのは不思議千万だと署員が噂さし合っているところへ、待ちに待った引取人が現れた。それは轢死後、丁度十四時間ほど経った其の日の真夜中だった。  それは隅田乙吉と名乗る東京市中野区の某料理店主だった。彼はそんな商売に似合わぬインテリのように見うけた。警察の卓子の上に拡げられた数々の遺留品を一つ一つ手にとりあげながら、彼はコンパクト一つにもかなり明瞭な説明をつけ加えた。轢死人は彼の末の妹だったのだ。 「このコンパクトですがネ、梅子──これは死んだ妹の名前なのです、梅子はもう五年もこのコティのものを使っていましたよ。ごらんなさい。蓋をあけてみると、この乱暴な使い方はどうです。あいつの性格そのものですよ。妹は今年二十四になりますが、どっちかというと不良の方でしてネ、それも梅子自身のせいというよりも私達同胞もいけなかったんです。何しろ兄や姉が、合わせて八人も居るのです。皆、相当楽に暮しているんです。梅子は末ッ子でした。兄や姉のところをズーッと廻ると、あっちでもこっちでも「梅ちゃん」「梅ちゃん」とチヤホヤされ、「ほら、お小遣いヨ」と貰う金も、十七八の少女には余りに多すぎる嵩でした。梅子は純真な子供心の向うままに、好きなことをやっているうちに、とうとう不良になっちまったんです。このごろでは流石の同胞たちも、梅子から持ちこまれる尻拭いに耐えきれなくなって、何でもかんでも断ることにしていたのです。轢死をする前の晩も私のところへ来ましたが、又金の無心です。これが最後だというので百円呉れてやったところ、素直に帰ってゆきました。そのときは、よもやこんな惨らしいことになろうとは思いませんでした。……なんですって、警察へ来ようが大変遅かったって、それはこうですよ。ちょっと私は商売のことで午後から出て居りまして帰りが遅かったものですから……」  顔面は判らぬが、髪かたちに、それから又身のまわりの品物などを一々肯定したので、轢死婦人は隅田乙吉の妹うめ子であると断定された。乙吉は幾度も係官の前に迷惑をかけたことを謝し、屍体は持参の棺桶に収め所持品は風呂敷に包んで帰りかけた。 「オイ隅田君、ちょっと待ち給え」司法係の熊岡という警官が席から立ち上って来た。 「はいッ」隅田乙吉は、手にしていた風呂敷包みを又卓子の上に置いて振りかえった。 「君はこんなものを知らんか」  警官は掌の上に、ヨーヨーを横に寝かしたような紙函を載せて、乙吉の方にさしだした。 「これは……?」乙吉の受取ったのは、よく鉱物の標本を入れるのに使う平べったい円形のボール函で、上が硝子になっていた。硝子の窓から内部を覗いてみると、底にはふくよかな脱脂綿の褥があって、その上に茶っぽい硝子屑のようなものが散らばっている。 「判らんかネ」と警官は再び尋ねた。「これはセルロイドの屑なんだ。そして燃え屑なんだがネ」 「どこに御座いましたのですか」 「これは、君が今引取ってゆこうという轢死婦人のハンドバッグの隅からゴミと一緒に拾い出したのだ」 「さあ、どうも見当がつきませんが……」  どうやら隅田乙吉は、本当に心当りがないらしかった。で、熊岡警官はそれ以上追究したり、また今とりつつある上官の処置に異議を挿もうという風でもなく、事実その問答はそこで終ったのであった。  隅田乙吉が屍体を守って中野の家へ帰ってゆくと、入れ違いに新聞社の一団が殺到して来た。 「とうとう、新宿の轢死美人の身許が判ったてじゃありませんか。誰だったんです」 「自殺の原因は何です」 「全然素人じゃないという噂さもありましたが……」  当直は、記者に囲まれたなり、ふかぶかと椅子の中に背を落とした。そして帽子を脱いで机の上に置くと、ボリボリと禿げ頭を掻いた。 「書きたてるほどの種じゃないよ。それに轢死美人でも顔が見えなくちゃなア」  本気か冗談か判らぬようなことを云って、アーアと大欠伸した。記者連もこんな真夜中に自動車を飛ばして駈けつけたことが、のっけからそもそもの誤りだったような気がして、一緒に欠伸を催したほどだった。  しかし、それから二十四時間後に、彼等は同じこの場所に、互に血相をかえて「怪事件発生」を喚きあわねばならないなどとは、夢にも思っていなかったのである。      2  それから二十四時間ほど経った。  同じ警察署の夜更けである。今夜は事件もなく、署内はヒッソリ閑としていた。  そのとき署の玄関の重い扉を、外から静かに押すものがあった。  ギーッ、ギーッという音に、不図気がついたのは例の熊岡警官だった。彼は部厚な犯罪文献らしいものから、顔をあげて入口を見た。 「だッ誰かッ」  夜勤の署員たちは、熊岡の声に、一斉に入口の方を見た。しかし今しがたまでギーッ、ギーッと動いていた重い扉はピタリと停って巌のように動かない。 「うぬッ」  熊岡警官は席を離れると、ズカズカと入口の方へ飛んでいった。そして扉に手をかけると、グッと手前へ開いた。そこには外面の黒手のような暗闇ばかりが眼に映った。 「オヤー」  熊岡警官は、何を見たのか扉の間からヒラリと戸外に躍り出た。バタンと扉はひとり手に閉まる。一秒、二秒、三秒……。空間も時間も化石した。  風船がパンクするように戸口がサッと開いた。 「さア、こっちへ這入れ!」  熊岡警官の怒号と諸共、黒インバネスを着た一人の男が転げこんできた。署員は総立ちになった。「何だ、何だッ」  昨夜とは違った当直の前にその男はひき据えられた。帽子を脱いだその男の顔を見て、駭いたのは熊岡警官だった。 「なあーンだ。君は妹の轢死体を引取って行った男じゃないか」 「うん、隅田乙吉だな」見識り越しの刑事も呻った。「どうしたのか」  たしかにそれは、隅田乙吉だった。昨夜の悠然たる態度に似ず、非常に落着かない。何事か云いだしかねている様子だった。 「何故、僕を見て逃げようとしたのだ。署の戸口を覗うなんて、何事かッ」 「いや申します、申上げます」熊岡警官の追窮に隅田はとうとう声をあげた。「実は大変な間違いをやっちまったんです」 「うむ」 「昨夜この警察へ出まして、妹梅子の轢死体を頂戴いたして帰りましたが、まあこのような世間様に顔向けの出来ない死に様でございますから、お通夜も身内だけとし、今日の夕刻、先祖代々伝わって居ります永正寺の墓地へ持って参り葬ったのでございます」 「それから……」 「葬いもすみまして、自宅の仏壇の前に、同胞をはじめ一家のものが、仏の噂さをしあっていますと、丁度今から三十分ほど前に、表がガラリと明いて……仏が帰って来たのでございます」 「なにーッ、仏が帰って来た?」警官の顔がサッと緊張した。いやな顔をして背中の方に首を廻した刑事もあった。 「死んだ筈の梅子が帰ってきたんです。こりゃ、てっきり化けて出たのだと思い、一同しばらくは寄りつきませんでしたが、いろいろ観察したり押問答をしているうちに、どうやら生きている梅子らしい気がして来ました。そこで寄ってたかって聞いてみますと、梅子のやつ情夫と熱海へ行っていたというのです。それを聞いて同胞は、夢のように喜び合ったわけでございますが、一方に於きまして、真にどうも……」と隅田乙吉は下を向いて恐れ入った。 「莫迦な奴ッ」と宿直が呶鳴った。「では昨夜本署から引取っていった若い女の轢死体というのは、お前の妹ではなかったというのだな」 「どうも何ともはや……」 「何ともはやで、済むと思うかッ」宿直はあとでジロリと一座の署員を睨みまわした。昨夜の当直の名を大声で云って、(馬鹿野郎)と叩きつけたい位だった。他人の死骸を引取って行った奴も奴なら、引取らした奴も奴である。 「昨夜この男がデスナ」と側らの刑事が弁解らしく口を挿んだ。「轢死婦人の衣類や所持品を一々点検しまして、これは全部妹の持ち物に違いない。このコンパクトがどうの、この帯どめがどうのと本当らしいことを云っていったのです。ですから昨夜の当直も信じられたのだと思います」 「イヤ全く、あれは本当なのです」と隅田乙吉がたまりかねて声をあげた。「あれは出鱈目でなくて間違いないのです。妹のものに違いないのですが、さっき漂然と帰宅した本物の妹も、あれと同じ衣類を着、同じハンドバッグや、コンパクトなどを持っているのです。つまり同じ服装をし、同じ持ち物をした婦人が二人あったという事になるので、これは私どもには不思議というより外、説明のつかないことなのです」  これを聞いていた一座は、ギクリと胸に釘をうたれたように感じた。どうやらこれは単純な轢死事件ばかりとは云えぬらしい。 「しかし隅田」と当直は口を開いた。「兎に角、お前は他人の屍体を処分してしまったことになるネ。あの轢死婦人の骨は持ってきたか」 「いや、それがです。実は火葬にしなかったのです」 「火葬にしなかった?」 「はい。私どもの墓地は相当広大でございまして、先祖代々土葬ということにして居ります。で、あの間違えたご婦人の遺骸も、白木の棺に納めまして、そのまま土葬してございますような次第です」 「ううん、土葬か」当直は、なあンだというような顔をした。「では直ぐに掘り出して、本署へ搬んで来い。警官を立ち合わせるから、その指揮を仰ぐのだ。よいか」  熊岡警官は、隅田乙吉について現場へ出張することを命ぜられた。  どうも、粗忽にも程があるというものだ。いくら独り歩きをさせてある妹だからといって、顔面が粉砕してはいるが、身体の其の他の部分に何か見覚えの特徴があったろうし、また衣類や所持品が同じだといっても、そんなに厳密に同じものがあろう筈がない。これは警察の方でも屍体を持てあまし、早く処分したいと考えていたので、よくも検べず下げ渡したもので、引取人の乙吉が生れつきの粗忽者であることを知らなかったせいであると、当直は断定した。そして熊岡警官が、婦人の屍体を掘りだしてくれば、再検査をすることによって、どこの誰だか判明するだろうと考えた。  皆が出ていってから時間が相当経った。もう今頃は、隅田家の墓地へ着いて暗闇の中に警察の提灯をふっているころだろう。掘りだした屍体がここへ帰ってくるまでには、まだ暇があった。今のうちに喰べるものは喰べて置かないと、たとい若い婦人にしても、顔面のない屍体を見ると食慾がなくなるだろうと考えて、当直は夜食の親子丼の蓋をとった。  二箸、三箸つけたところへ、署外からジリジリと電話がかかって来た。 「当直へ電話です」と電話口へ出た見習警官が云った。 「おお」当直は急いでもう一と箸、口の中に押しこむと、立って卓子電話機をとりあげた。 「はアはア。……うん、熊岡君か。どうした……ええッ、なッなんだって? 墓地を掘ったところ白木の棺が出た。そして棺の蓋を開いてみると、中は藻抜けの殻で、あの轢死婦人の屍体が無くなっているッて! ウン、そりゃ本当か。……君、気は確かだろうネ。……イヤ怒らすつもりは無かったけれど、あまり意外なのでねェ……じゃ署員を増派する。しっかり頼むぞッ」  ガチャリと電話機を掛けると、当直は慌ただしくホールを見廻した。そこには一大事勃発とばかりに、一斉にこっちを向いている夜勤署員の顔とぶっつかった。 「署員の非常召集だッ」  ピーッと警笛を吹いた。  ドヤドヤと階段を踏みならして、署員の下りて来る跫音が聞えてきた。  当直は気がついて、喰べかけの親子丼に蓋をした。  ──とうとう、本当の事件になってしまった。隅田乙吉の妹梅子に間違えられた轢死婦人は一体、どこの誰であるか。どうして、地下に葬った筈の屍体が棺の中から消え失せてしまったか。  熊岡警官が保管している「茶っぽい硝子の破片のようなもの」は何であるか。何故それが、轢死婦人のハンドバッグの底から発見されたか。  さて筆者は、この辺でプロローグの筆を擱いて、いよいよ「赤外線男」を紹介しなければならない。      3  Z大学に附属している研究所に深山楢彦という理学士が居る。この理学士は大学の方の講座を持ってはいないが、研究所内では有名の人物である。専攻しているのは光学であるが、事務的手腕もあるというので、この方の人材乏しい研究所の会計方面も見ているという働き手であった。色は白い方で、背丈も高からず、肉附もふくらかであったので、何となく女性めき、この頃もてはやされるスポーツマンとは凡そ正反対の男であった。  深山理学士が目下研究しているものは、赤外線であった。  赤外線というのは、一種の光線である。人間は紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の色や、これ等の交った透明な光を見ることが出来る。この赤だの青だのは、ラジオと同じような電波であるが、ラジオの電波よりも大変波長が小さい。そのうちでも紫は一番短く、赤は比較的波長が長い。長いといっても一センチメートルの千分の一よりもまだ短い。ラジオの波は三百メートルも四百メートルもあって較べものにならない。  ところで光線と名付けられるものは、この紫から赤までだけではない。紫よりももっと波長の短い波があって、これを紫外線とよんでいる。紫外線療法といって、紫外線を皮膚にあてると、人体の活力はメキメキと増進することは誰も知っている。一方、赤よりも波長の長い光線があって、これを赤外線と呼んでいる。赤外線写真というのが発達して軍事を助けているが、山の頂上から向うの峠を目懸けて写真をうつすにしても、普通の写真だとあまり明瞭にうつらないが、普通の光線は遮り、その風景から出ている赤外線だけで写真をとると、人間の眼では到底見透しができない遠方までアリアリと写真にうつる。人間が飛行機に乗って、千葉県の霞ヶ浦の上空から西南を望んだとすると、東京湾が見え、その先に伊豆半島が見える位が関の山だが、赤外線写真で撮すと、雲のあなたに隠れて見えなかった静岡湾を始め伊勢湾あたりまでが手にとるように明瞭に出る。  この紫外線も赤外線も、同じ光線でありながら、普通、人間の眼には感じない。つまり人間の網膜にある視神経は、紫から赤までの色を認識することが出来るが、紫外線や赤外線は見えないといえる。  見えないといえば、色盲という眼の病気がある。これは赤が見えなくて、赤い日の丸も青い日の丸としか感じない人達がいる。それは視神経の疾患で、生れつきのものが多い。ひどいのになると、七つの色のどれもが色として見えず、世の中がスクリーンにうつる映画のように黒と灰色と白の濃淡にしか見えない気の毒な人がいて、これを全色盲と呼んでいる。軽い色盲でも、赤と青とが判別出来ないのであるから、うっかり円タクの運転をしていても、「進め」の青印と、「止れ」の赤印とをとりちがえ、大事故を発生する虞がある。現に十年ほど前英国で、列車大衝突の大椿事をひきおこしたことがあったが、そのときのぶっつけた方の運転士は、色盲だったことが後に判明して、無期懲役の判決をうけたのが無罪になった。人間の視力なんて、まことに不思議なものであり、又デリケートなものである。そして紫から赤までしか見えないなんて、貧弱きわまる視力ではある。  話が色盲の方へ道草をしてしまったが、この赤外線という光線は、人間の眼に感じないとされているだけに、秘密の用をつとめるとて、重宝されている。甲賀三郎氏の探偵小説に「妖光殺人事件」というのがあるが、それに赤外線を用いた殺人法が述べられている。それは赤外線警報器を変形したもので、殺そうという人の通路に赤外線を左の壁から右の壁へ、噴水を横にとばしたように通して置くのだ。右の壁の中には光電管といって赤外線を感ずる真空管のようなものが秘密に仕掛けてある。人の通らぬときは、赤外線がこの光電管に入って電気を起こし、ピストルの引金をひっぱろうとするバネを動かないように止めている。ところがもしこの廊下に人が通って赤外線を遮ると、どうなるかというのに、赤外線は人体で遮られ、光電管には今まで流れていた電気がハタと止るから、従ってピストルの引金を動かないように圧えていた力がぬけ、即座にズドンとピストルが発射され、その人間を斃す……という中々面白い方法だ。赤外線だから、その被害者の眼に見えなかったので、仕方がない。  満洲の重要な橋梁の東橋脚から西橋脚の方へ向け、この赤外線を通し、西の方に光電管をとりつけ、光電管から出る電気で電鈴の鳴る仕掛けを圧えておく。若し匪賊が出て、この橋脚に近づき、赤外線を遮ると、直ちに光電管の電気が停るから、電鈴を圧えていた力は抜け、電鈴はけたたましく匪賊襲来を鳴り告げる。これも赤外線が見えないところを利用したものである。  深山理学士の研究問題は、この不可視光線と呼ばれる赤外線が人間にも見える装置を作ることにあった。彼は、これを近頃流行のテレヴィジョンに組合わすことに眼をつけた。  テレヴィジョンは、実験室に居て、その映写幕の上へ、例えば銀座街頭に唯今現に通行している人の顔を見ることが出来るという器械だ。これが室内の様子を見るとなると、写真撮影場で使うような眩しい電灯を点じ、マネキン嬢の顔を強照明することによって、実験室でその顔を見ることが出来る。これが普通のテレヴィジョンであるが、それを赤外線で照らすことにし、この実験室にうつし出そうというのである。  深山理学士は、あの奇怪な轢死婦人事件のあった日と前後して、この装置の製作にとりかかった。  それは丁度新学期であった。この研究所内も上級の大学生や、大学院学生、さては助手などの配属の変更があって、ゴッタがえしをしていた。  赤外線研究の彼の仕事も、従来は助手も置かず唯一人でやっていたが、今度は赤外線テレヴィジョン装置を作ったり、ロケーションにゆかねばならなくなることも判り切っていたので、助手が一人欲しいと予算を出したところ、元来経済難のZ大学なので、助手案は一も二もなく蹴飛ばされたが、その代り大学部三年の学生で、是非赤外線研究をやりたいというひとがいるから、助手がわりにそれを廻そう、当分我慢して、それを使えという所長からの話であった。  それは四月のたしか十日か十一日の午前九時ごろだった。深山理学士の研究室を外からコツコツとノックするものがあった。 「ちょっと待って下さい」  学士は室内から声をかけた。  五分ほど経って、学士はやっと戸口に近づいた。 「まだ居ますか?」  と妙な、そしてどっちかというと失礼きわまる質問の言葉を、扉を距てて向うへ投げかけた。──学士の出てくるのに痺れをきらして帰ってゆく人も多かったので、こういうのが学士の習慣だった。人を待たすことに一向頓着しないのも有名なる学士の習慣だった。 「はア──」  というような返辞と、カタリと靴の鳴る音が、扉の彼方でした。  学士はそこで渋々とポケットから鍵を出すと戸口の鍵孔に入れ、ガチャリと廻して扉を開いた。そこには思いがけなくもピンク色のワン・ピースを着た背の高い若い婦人が立っていた。 「あ──」 「深山先生でいらっしゃいましょうか」若き女性は云った。 「そうです、深山ですが……」 「あたくし、理科三年の白丘ダリアです。先生のところで実習するようにと、科長の御命令で、上りましたのですけれど」 「ああ、実習生。──実習生は、君だったんですか。じゃ入りなさい」  男の学生だと思っていたのに、やって来たのは、意外にも女学生だった。しかし何という逞ましい女性なんだろう。近代の女性は、スポーツと洋装とのお蔭で、背も高くなり、四肢も豊かに発達し、まるで外国婦人に劣らぬ優秀な体格の持ち主になったという話だったが、それにしてもこの健康さはどうだ。これが女性というものなんだろうか。深山理学士は早くもこのピンク色の物体が発散するものに当惑を感じた。 「ダリアという名前だが」と学士は訊ねた。 「失礼ながら君は混血児なのかい」 「まあ、いやな先生!」彼女は仰山に臂を曲げ腰をゆがめてカラカラと笑った。「これでも日本人としては、純種ですわヨ」 「純種か! イヤ僕は、君があまりにデカイもので、もしやと思ったんだよ」 「先生は、小さくて可愛いいんですのネ」彼女は肥った露な二の腕を並行にあげて、取って喰うような恰好をしてみせた。  そんなことから、先生の深山理学士と生徒の白丘ダリアとは、何でもずかずかと云い合う間柄になった。しかしこの少女が、まだ十八歳であるとは、学士の容易に信じかねるところであった。  赤外線研究室は、この先生と生徒とによって、昼といわず夜といわず、乱雑にひっかきまわされた。精密な部分品が、さまざまの実験を経て一つ又一つと組立てられていった。二人の熱心さは大変なものだった。入口の扉にはいつものように鍵がかかっていた。食事を搬んでくるときと、白丘ダリアが夜更けて自分の住居へ帰るときの外は、滅多に開かれはしなかった。深山理学士は独り者の気楽さで、いつもこの研究室に寝泊りしていた。 「アラ先生、まあ面白いことを発見しましたわ」ネジ廻しを握って、器械のパネルに木ネジをねじこんでいたダリアが、頓狂な声を張りあげた。 「どうしたんだい」深山学士は増幅器の向うから顔を出した。 「とても面白いですわ。先生のお顔を右の眼で見たときと左の眼で見たときと、先生のお顔の色が違うんですわ」 「変なことを云い出したネ」学士は自分の顔色のことを云われたので鳥渡いやな顔をした。 「右の眼で見たときよりも、左の眼で見たときの方が、先生のお顔が青っぽく見えますのよ」 「なアーんだ、君。色盲じゃないのか。ちょっとこっちへ来て、これを見給え」  学士はダリアを引っぱって、色盲検査図の前につれて来た。それは七色の水珠が、円形に寄りあっているのだが、色の配列具合によって、普通の視力をもっているものには「1」という数字が見える場合にも、色盲には「4」と見えたりするという簡単な検査図だった。ダリアの眼を、片っぽずつ閉じさせて、沢山ある検査図を色々とめくって調べてみた。しかし結果はどういうことになったかというのに、ダリアは色盲ではないということが判明したのだった。 「色盲でも無いようだが……気のせいじゃないか」 「いいえ、気のせいじゃないわ。先生がどうかしてらっしゃるんじゃなくって?」 「莫迦云っちゃいかん。君の眼が悪いのだよ。説明をつけるとこうだ。いいかい。君の右の眼と左の眼との色の感度がちがうのだ。今の話だと、君の左の眼は、青の色によく感じ、右の眼は赤の色によく感ずる。両方の眼の色に対する感覚がかたよっているんだ。それも一つの眼病だよ」 「そうでしょうか、あたし困ったわ」と白丘ダリアは一向困ったらしい様子も見せずに云った。「ンじゃ先生、あたしが今視ている右の眼の風景と、左の眼の風景と、どっちの色の風景が本当の風景なんでしょうか。どっちかの眼が本当のものを見て、どっちかの眼が嘘を視ているのですね」 「そりゃ困った質問だ」と今度は深山理学士の方が本当に弱ってしまった。「どうも君の網膜のうしろに僕の眼をやってみることも出来ないからネ」  そういって理学士は考え込んだ。  こんな調子で、二人はいつの間にか十年の知己のようになってしまった。  白丘ダリアの入所後はやくも五日のちには、赤外線テレヴィジョン装置がもう一と息で出来上るというところまで漕ぎつけた。  ところが其の朝に限って、いつもなら午前七時には必ず出てくる筈の白丘ダリアが、十時になっても姿を現わさなかった。学士は一人でコツコツと組立を急いでいたけれど、十一時になると、もう気力が無くなったと見え、ペンチを機械台の上に抛り出してしまった。 (どうして、白丘は出てこないんだろう?)  いろいろなことが、追懐された。何か本気で怒り出したのであろうか。それとも病気にでもなったのであろうか。考えているうちに、自分があの女学生に、あまりに頼りすぎていたことに気がついた。ひょっとすると、自分はもうあの少女の魔術にひっかかって、恋をしているのかも知れない。 (莫迦なッ。あんな小娘に……)  彼は身体を一とゆすりゆすると、実験衣のポケットへ、両手をつっこんだ。ポケットの底に、堅いものが触れた。 「ああ、桃枝から手紙が来ていたっけ」  今朝、用務員が門のところで手渡してくれた四角い洋封筒をとりだした。発信人は「岡見桃助」と男名前であるが、それは桃枝の変名であることは、学校内で学士だけが知っていた。開いてみると、どうやらそれは彼女の勤めているカフェ・ドランの丸卓子の上で書いたものらしく、洋酒の匂いがしていた。文面は想像のとおり、彼の訪ねて来ないことを大変寂しがっていること、今夜にでも店の方にでも、それともどっかで電話をかけて呼んで呉れれば直ぐ飛んでゆくからというような、当人達でなければ読んでいるに耐えないような文句が縷々として続いていた。桃枝は学士の内妻に等しい情人だった。彼は手紙を畳むと、ポケットへねじこんだ。 (今日はいっそのこと、仕事をよして、これから桃枝を引張り出しにゆこう)  深山理学士が実験衣を脱いで、卓子の上へポーンと抛り出したときに、廊下にコツコツと聞き覚えた跫音がして、白丘ダリアがやって来た。 「先生、先生」  扉をあけてやると、ダリアは兎のように飛びこんできた。 「先生済みませんでした。急用が出来たものですから……」 「一体どうしたというのです」深山理学士は桃枝のことなんか一時に吹きとばすように忘れてしまって、真剣な面持で聞いた。 「警視庁から呼ばれて、ちょっと行ったんですけれど……」 「なに、警視庁へ」 「あたしのことじゃないんですけど、伯父が呼ばれたんで、あたしも附いてこいというので行ってたんです。伯母さんが一週間ほど前に行方不明になったんで、そのことで行ったんですよ。随分この事件、面白いのよ。ひとには云えないことなんです、ですけれど……」  ひとには云えないといいながら、白丘ダリアは、それこそ油紙に火がついたようにベラベラ事件を喋り出した。  簡単に云うと、失踪した伯母さんというのは二十六歳になるひとだった。伯父との仲も大層よかったのに、一週間ほど前に急に行方不明になってしまった。遺書でもないかと調べたが、何一つ書きのこされていなかった。全く原因が不明だった。  例の身許の知れぬ轢死婦人のことも、一度は問題になったが、着衣も所持品も違っていた。といって外に年齢の点で似合わしき自殺者もなかった。生か死かも判然しなかった。伯父は捜索につかれ切って半病人になってしまった。そこへ警視庁から重ねての呼び出しが来たので今朝、姪のダリアを介添えに桜田門へ行ったというのだ。  本庁では、伯父に対して、どんな些細なことでもよいから、夫人について腑に落ちかねることが今までにあったならそれを話してみろということだった。  伯父は暫く考えていたが、ポンと膝を打った。 「そういえば思い出しましたが、妻の居るときに、妙な質問を私にしたことがありましたよ。江戸川乱歩さんの有名な小説に『陰獣』というのがありますが、あの内容に紳商小山田夫人静子が、平田一郎という男から脅迫状を毎日のように受けとる件があります。その脅迫状の内容というのは、小山田氏と静子夫人の夫婦としての夜の生活を、非常に詳細に書き綴ってあるのです。それは夫妻ならでは絶対に知ることのない内緒ごとでした。それにも係らず、平田一郎という陰険な男は、一体どこから見ているのか、実に詳しく、実に正確に、夫婦間の秘事を手紙の上に暴露してある。──この脅迫状のことを、私の妻が突然話題にしたのです。江戸川さんの小説では、この気味の悪い手紙の主は、実は平田とかいう男ではなくて、小山田夫人静子その人だった。夫人の変態性がこの手紙を書かせ、夫との夜の秘事に異常な刺戟を与えたというのでした。──私の妻は、最後にこんなことを訊いたことを覚えています。『このような脅迫状が、静子さん自身の手によって書かれたわけなら、静子さんは別に何とも恐ろしくはなかった筈です。しかしもしあの手紙が、本当に見も知らない人の手によって書かれたものだったとしたら、静子夫人の駭きは、どんなだったでしょうね』と、まアこんな意味のことを云ったことがあります。私は莫迦なことを云いだす奴じゃのうと、笑ってやったんです。しかし今となって思えば、あれも失踪の謎をとく一つの鍵のような気がしてなりません」  係官は、伯父の話に大変興味を持ったようだった。二人がもう席を立とうというときに一人の警官が円い小箱をもって来て、これに何か見覚えがないかと差し出した。それは茶色の硝子屑のようなものであった。勿論二人には思いもよらぬ品物だった。 「こんなになっているから判らないかもしれないが」と其の警官が云った。「これは映画のフィルムなんですよ。しかもそのフィルムが燃焼を始めたのを急にもみ消したとでも云いましょうか、フィルムの燃え屑なのです。それでも心当りがありませんか」  それは二人にとって更に見当のつかないことだった。話はそれまでとなって、白丘ダリアと伯父とは、警視庁を辞去した、というのであった。 「一体その伯父さんというのは、何という方なのかネ」学士が尋ねた。 「黒河内尚網という是れでも子爵なのですよ。伯母の子爵夫人というのは、京子といいました」 「黒河内京子──君の伯母さんか」 「先生、伯母をご存知ですの」 「なアに、知るものかネ」学士は強く首を左右に振った。「さあ、今日は遅れたから、急いで組立てにとりかかろう」  そういって深山理学士は実験衣を拾いあげると、洋服の袖をとおした。そのときポケットから、四角い封筒がパラリと床の上に落ちたのを、学士は気付かなかった。  ダリアの眼は悪戯者らしく爛々と輝いた。太い腕が、その封筒の方へニューッと延びていった。      4 「赤外線男というものが棲んでいる!」  途方もない「赤外線男」の存在を云い出したのは、外ならぬ深山理学士だった。それは苦心の赤外線テレヴィジョン装置が組上ってから二日ほど後のことだった。  大胆といおうか、気が変になったといおうか、深山理学士の発表に駭いたのは、学界の人達ばかりだけではなかった。逸早く帝都の諸新聞紙はこの発表をデカデカの活字で報道したものだから、知ると識らざるとを問わず、どこからどこの隅々まで、一大センセイションが颶風の如く捲きあがった。 「赤外線男というものが棲んでいるそうだ」 「そいつは、わし等の眼には見えぬというではないか」 「深山理学士の何とかという器械で見ると、確かに見えたというではないか」  などと、人の噂は千里を走った。  なにが「赤外線男」だ?  深山理学士の言うところによれば斯うだ。 「予はかねて学界に予告して置いた赤外線テレヴィジョン装置の組立てを、此の程完成した。これは普通のテレヴィジョンと殆んど同じものだが、変っている点は、赤外線だけに感ずるテレヴィジョンで、可視光線は装置の入口の黒い吸収硝子で除いて、装置の中には入れない。だから徹頭徹尾、赤外線しか映らないテレヴィジョンである。 「予はこの装置の完成するや、永い間の欲望を何よりも早く達したいものと思い、装置を使って、研究所の運動場の方向を覗くことにした。折から夕刻だった。肉眼では人の顔も仄暗くハッキリ見別けのつかぬような状態であったが、この赤外線テレヴィジョンに映るものは、殆んど白昼と変らない明るさであった。それは太陽の残光が多量の赤外線を含んで、運動場を照しているせいに違いなかった。勿論画面の調子から云って、吾人が既に充分に知っている赤外線写真と同じで、たとえば樹々の青い葉などは雪のように真白にうつって見えた。なんという驚くべき器械の魅力であるか。 「しかしこれは真の驚きではなかった。後になって予を発病に近いまでに驚倒せしめるものがあろうとは、今日の今日まで考えたことがなかった。それは実に、吾人がいまだ肉眼で見たことのなかった不思議な生物が、この器械によって発見されたことである。それは確かに運動場の上をゴソゴソと匍いまわっていた。予は眼のせいではないかと、器械から眼を離し、肉眼でもって運動場を見たが、そこにはその影もない。これはと思って、赤外線テレヴィジョン装置を覗いてみると、確かに運動場のテニスコートの棒ぐいの傍に、動いているものがあるのだ。その内に、彼の生き物は直立した。それを見ると驚くべし、人間である。しかも日本人の顔をした男である。背は相当に高い。がっちり肥えている。なんか真黒な洋服を着ているようだ。鳥渡悪魔のような、また工場の隅から飛び出してきた職工のような恰好である。それほどアリアリと眺められる人の姿でありながら、一度元の肉眼にかえると、薩張り見えない。赤外線でないと一向に姿の見えない男──というところから、予はこの生物に『赤外線男』なる名称をつけたいと思う。  しかし残念なことに、やがてこの『赤外線男』はこっちに気がついたものと見え、キッと歯をむいて怒ったような顔をしたかと思うと、ツツーっと逸走を始めた。そしてアレヨアレヨと云う裡に、視界の外に出てしまった。駭いてテレヴィジョン装置のレンズを向け直したが、最早駄目だった。しかし兎も角も、予は初めて『赤外線男』の棲んでいることを知った。われ等人間の肉眼では見えない人間が棲んでいるとは、何という駭くべきことだ。そしてまア、何という恐ろしいことだ」  深山理学士の発表は、大体こんな風の意味のものだった。 「赤外線男」という名詞で、一つの流行語になってしまった。帝都の市民は、この「赤外線男」が今にも自分の身近かに現われるかと思って戦々恟々としていた。  そのうちに、ボツボツ「赤外線男」の仕業と思われることが、警視庁へ報告されて来るようになった。  郊外の文化住宅の卓子の上に、温く湯気の立ち昇る紅茶のコップを置かせてあったが、主人公がさア飲もうと思ってその方へ手を出すと、これは不思議、紅茶が半分ばかり減っていた。これはきっと「赤外線男」が忍びこんでいて、グーッとやったんだろうというような話もあった。  ギンザ、ダンスホールの夜更け。ジャズに囃されて若き男と女とが踊り狂っている。そのときアブれて、壁際の椅子にしょんぼり腰をかけていた稍々年増のダンサーが、キャーッと悲鳴をあげると何ものかを払いのけるような恰好をし、駭いてダンスを止めて駈けよる人々の腕も待たず、パッタリ床の上に仆れてしまった。ブランデーを与えて元気をつけさせ、さてどうしたのかと尋ねてみると、彼女が椅子にかけているとき、何者とも知れず急にギュッと身体を抱きすくめた者があったというのだ。目を瞠っているが、人影も見えない。それなのに、ヒシヒシと肉体の上に圧力がかかってくる。これは赤外線男に抱きつかれたんだと思うと急に恐ろしくなって、あとは無我夢中だったという。──何が幸になるか判らないもので、「赤外線男」に抱きつかれたダンサーというので、いままでアブれ勝ちだったのが急に流行っ児になって、シートがぐんぐん上へ昇っていった。  こうなると何事も、暗闇だからといって安心してするわけにはゆかなかった。何時赤外線男にアリアリと覗かれてしまうか知れなかったのである。  これに類する報告は、日一日と殖えていった。しかし赤外線男のすることが、この辺の程度なら、それは悪戯小僧又は軽い痴漢みたいなもので、迷惑ではあるけれど、大して恐ろしいものではない。いやひょいとすると、それ等の小事件は赤外線男に対する疑心暗鬼から出たことで、本当の赤外線男の仕業ではないのじゃないか。或いは赤外線男といわれるものも、深山理学士の錯覚であって始めから赤外線男なんて、居ないのじゃないか。こんな風に、赤外線男に対する期待外れを口にする人も少くはなかった。  だがしかし「赤外線男」否定党が大きな顔をしていられるのも、永い時間ではなかった。ここに突如として赤外線男の魔手は伸び、帝都全市民の面は紙のように色を喪って、「赤外線男」恐怖症に罹らなければならなくなった。──それは赤外線男発見者の深山理学士の研究室が不可解な襲撃をうけたことだった。  これは午前二時前後の出来ごとだったけれど、警視庁へ報告されたのはもう夜明けの五時頃だった。場所が場所であるし、赤外線男の噂さの高い折柄でもあったので、直ちに幾野捜査課長、雁金検事、中河予審判事等、係官一行が急行した。  取調べの結果、判明した被害は、深山研究室の扉が破壊せられ、あの有名なる赤外線テレヴィジョン装置が滅茶滅茶に壊されているばかりか、室内のあらゆる戸棚や引出しが乱雑に掻き廻され、あの装置に関する研究記録などが一枚のこらず引裂かれているというひどい有様だった。  襲撃されたところは、もう一ヶ所あった。それは深山研究室に程近い研究所の事務室だった。ここでも同じ様な狼藉が行われているのみか、壁の中に仕掛けられた額のうしろの隠し金庫が開かれ、現金千二百円というものが盗まれてしまった。  さて当の深山理学士は、当夜例のとおり、研究室内に泊っていた筈だが、どうしていたかと云うと、赤外線男のために、もろくも猿轡をはめられ両手を後に縛られて、室内にあった背の高い変圧器のてっぺんに抛りあげられて、パジャマ一枚で震えていた。これを発見したのは係官の一行だった。 「この事件を真先に発見したのは、誰かネ」  と幾野捜査課長は、走せ集った研究所の一同を見廻わしていった。 「儂でございます」年寄の用務員が云った。「儂は毎晩研究所を見廻わっている役でございます」 「発見当時のことを残らず述べてみなさい」 「あれは午前二時頃だったかと思いますが、見廻わりの時間になりましたので、懐中電灯をもって、夜番の室から外に出ようとしますと、気のせいか、どっかで物を壊すようなゴトゴトバリバリという音がします。どうやら深山研究室の方向のように思いました。これは火事でも起ったのかと思い、戸口を開けて闇の戸外へ一歩踏み出した途端に、脾腹をドスンと一つきやられて、その儘何もかも判らなくなりました。大変寒いので気がついてみますと、もう夜は明けかかり、儂は元の室の土間の上に転がっているという始末。それから駭いて窓から外へ飛び出すと、門衛のいますところまで駈けつけて、大変だと喚きましたようなわけです」 「すると、お前が脾腹をやられたとき、何か人の形は見なかったか」 「それが何にも見えませんでございました」 「序に聞くが、お前は赤外線男というのを聞いたことがあるか」 「存じて居ります。昨夜のあれは、赤外線男でございましたでしょうか」老人は急に臆気がついてブルブル慄え出した。  課長は、用務員を下げると、今度は深山理学士を呼び出した。 「昨夜、貴方の襲撃された模様をお話し下さい」 「どうも面目次第もないことですが」と学士はまず頭を掻いて「何時頃だったか存じませぬが、研究室のベッドに寝ていた私は、ガタリというかなり高い物音に不図眼を醒してみますと、どうでしょうか。室の入口の扉の上半分がポッカリ大孔が明いています。これは枕許のスタンドを点けて寝るものですから、それで判ったのです。私は吃驚して跳ね起きました。すると、あの赤外線テレヴィジョン装置がグラグラと独り手に揺れ始めました。オヤと思う間もなく、装置の蓋が呀ッという間もなく宙に舞い上り、ガタンと床の上に落ちました。私が呆然としていますと、今度はガチャーンと物凄い音がして、あの装置が破裂したんです。真空管の破片が飛んできました。大きな廻転盤が半分ばかりもげて飛んでしまう。つづいてガチャンガチャンと大きなレンズが壊れて、頑丈なケースが、薪でも割るようにメリメリと引裂かれる。私は胆を潰しましたが、ひょっとすると、これはこの装置で見たことのある赤外線男ではないかしらと考えると、ゾーッとしました。見る可からざるものを視た私への復讐なのではないかしらと思いました。私はソッと逃げ出し、室の隅ッこにでも隠れるつもりで、寝床から滑り下りようとするところを、ギュッと抱きすくめられてしまいました。それでいて身の周りには何の異変もないのです。しかし身体の自由は失われて、恐ろしい力がヒシヒシと加わり、骨が折れそうになるので、思わず『痛い、助けて呉れ』と怒鳴りました。ところがイキナリ、ガーンと頭へ一撃くってその場へ昏倒してしまったのです。それから途中、全然記憶が欠けているのですが、イヤというほど横ッ腹に疼痛を覚えたので、ハッと気がついてみますと、私は妙なところに載っているのです。それが先刻、皆さんから降ろしていただいたあの背の高い変圧器の上です。口には猿轡を噛ませられ、手は後に縛られ、立ち上ることも出来ない有様です。下を見ると、これはどうでしょう。奇々怪々な光景が悪夢のように眼に映ります。実験戸棚の扉が、風にあおられたように、パターンと開く、すると棚に並べてあった沢山の原書が生き物のようにポーンポンと飛び出してきては、床の上に落ちる。引出しが一つ一つ、ヒョコヒョコ脱け出して飛行機の操縦のようなことをすると、中に入っていた洋紙や薬品の小壜などが、花火のように空中に乱舞する。いやその化物屋敷のような物凄い光景は、正視するのが恐ろしく、思わず眼を閉じて、日頃唱えたこともなかったお念仏を口誦んだほどでした」  理学士は、そこで一座の顔を見廻わしたが、憐愍を求めるように見えた。 「それから、どうしたです」課長は尚も先を促した。 「それからです。室内の騒ぎが少し静まると、こんどは、壊れた戸口がガタガタと鳴りました。何だか廊下に跫音がして、それが遠のいてゆくように聞えました。すると間もなく、向うの方で大きな響がしはじめました。掛矢でもって扉を叩き割るような恐ろしい物音です。それは今から考えてみますと、どうも事務室の入口のように思われました。その物音もいつしか消えて、こんどは又別の、ゴトンゴトンという音にかわり、何となく小さい物を投げつけているように思いましたが、それも五分、十分と経つうちに段々静かになり、軈て何にも聞えなくなりました。私は赤外線男がまだ此の室へ引返してくるのではないかと、気も魂も消し飛ばしてガタガタ慄えていましたが、幸にもその後、別に異変も起らず、やっと我れに返ったようなわけでした。いや何と申してよいか、あのように恐ろしいと思ったことはありませんでした」  そういって深山理学士は、大きい溜息をついたのであった。 「君は、そのとき、何か扉の閉るような物音をききはしなかったかネ」と課長が尋ねた。 「そうです。そういえば、跫音らしいものが空虚な反響をあげて、トントンと遠のくように思いましたが、別に扉がギーッと閉まる音は気がつきませんでした」 「ふふん、それはどうも……」課長は低く呻った。 「どうでしょうか、ちょっとお尋ねしますが」と事務員の一人がオズオズと進み出でた。「今の深山先生のお話では、赤外線男が、この建物から扉を閉めて出て行った様子がございませんが、そうしますと、赤外線男はまだこの建物の中でウロついているのでございましょうか」 「そりゃ判らんね」と太った刑事が云った。「この辺にウロウロしているかも知れないが、また一方から考えると、赤外線男が建物から出てゆくときにゃ、別に所長さんに叱られるわけではないから、君のように必ず扉をガタンと閉めてゆくとは限らないからナ」  そのとき一人の刑事と何か囁き合っていた雁金検事が、捜査課長の肩をつっついた。 「君、一つ発見したよ。この室の戸棚の隅に大きな靴の跡があったよ」 「靴の跡ですか」 「そうだ。これはちょっと変っている大足だ。無論、深山理学士のでもないし、またこれは男の靴だから、この室のダリア嬢のものでもない。寸法から背丈を計算して出すと、どうしても五尺七寸はある。それからゴムの踵の摩滅具合から云ってこれは血気盛んな青年のものだと思うよ」 「検事さん、待って下さい」と捜査課長は慌て気味に云った。 「その足跡は果して犯人のでしょうか、どうでしょうか」 「それは勿論、いまのところ戸棚の隅にあったというだけのことさ」 「それにですな、赤外線男というのは、眼に見えない人間なんじゃないですか。その見えない人間が、足跡を残すというのは滑稽じゃないでしょうか」 「しかし君」と検事も中々負けてはいなかった。「深山君の報告によると、赤外線男はこの運動場を人間のような恰好して歩いていたというぞ。してみれば、赤外線男とて、地球の重力をうけて歩いているので、空中を飛行しているわけではない。だから身体は見えなくても、大地に接するところには、赤外線男の足跡が残らにゃならんと思うよ」 「足跡が見えるなら、靴も見えたっていいでしょう。すくなくとも、靴の裏は見えたっていいわけです。そこには我々の眼に見える泥がついているのですからネ」  課長と検事とは喋っていながらも、この難問題が自分たちの畠ではないことに気がついた。 「ねえ、君」と検事が鼻に小皺をよせて囁くように云った。「これはどうも俺たちの手にはおえないようだよ。第一、知識が足りない」 「そうですヨ」と課長も苦笑した。 「仕方がないから、これは一つ例の男を頼むことにしてはどうかネ。帆村荘六をサ」 「帆村君ですか。実は私も前からそれを考えていたのです」  二人の意見は直ぐに纏った。そして新に呼び出されるべき帆村荘六という男。これはご存知の方も少くはないと思うが、素人探偵として近頃売り出して来た青年で、科学の方面にも相当明るいという人物だった。  こうして取調べも一と通り終り、報告書も作られたけれど、直接の被害の中にとうとう洩れてしまった一つの重大なる品物があった。それは深山理学士が戸棚の中に秘蔵していた或る品物だったが、彼はそれを係官に報告しなかった。それは決して忘れたわけではなくて、故意に学士の心に秘めたものと思われる。一体、その品物はどんなものだったか。  とにかく深山学士研究室の襲撃事件によりて、赤外線男の生態というものが、大分はっきりしてきた。      5  帆村探偵を交ぜた係官の一行が、深山理学士の研究室を訪ねたのは、新しい赤外線テレヴィジョン装置が出来上ったという其の日の夕刻のことだった。折角作った一台は、無惨にも赤外線男の破壊するところとなり、学士も助手の白丘ダリアも大いに失望したが、その筋の希望もあって、二人は更に設計をやり直し、新しい装置を昼夜兼行で組立てたのだった。白丘ダリアは、この事件以来というものは、住居にしている伯父黒河内子爵のところへ帰ってゆくことをやめ、深山研究室の中にベッドを一つ置き、学士と共に寝起きすることとなった。碌に睡眠時間もとらないで、この組立に急いだ結果、四日という短い日数のうちに、新しい第二装置ができあがった。しかし学士はあの事件以来、何とはなく大変疲れているようであった。その一方、白丘ダリアは益々健康に輝き頸から胸へかけての曲線といい、腰から下の飛び出したような肉塊といい、まるで張りきった太い腸詰を連想させる程だった。従って第二装置の素晴らしい進行速度も、ダリアの精力に負うところが多かった。  研究室の扉をコツコツと叩くと、直ぐに応えがあった。入口が奥へ開かれると、そこへ顔を出したのは、頭に一杯繃帯をして、大きな黒眼鏡をかけた若い女だった。先登に立っていた課長は、 (これは部屋が違ったかナ)  と思った位だった。 「さあ、皆さんどうぞ」  そういう声は、紛れもなく白丘ダリアに違いなかった。どうしてこんな繃帯をしているのだろう。それに黒眼鏡なんか掛けて……と不思議に思った。  一行中の新顔である帆村探偵が、深山理学士と白丘ダリアとに、先ず紹介された。 「いや、ダリアさんですか、始めまして」と帆村は慇懃に挨拶をして「その繃帯はどうしたんです」と尋ねた。  課長はこの場の様子を見て、いつもながら帆村の手廻しのよいのに呆れ顔だった。 「これですか」少女はちょっと暗い顔をしたが「すこしばかり怪我をしたんですの。繃帯をしていますので大変にみえますけれど、それほどでもないのです」 「どうして怪我をしたんですか」 「いいえ、アノ一昨晩、この部屋で寝ていますと、水素乾燥用の硫酸の壜が破裂をしたのです。その拍子に、棚が落ちて、上に載っていたものが墜落して来て、頭を切ったのです」 「そりゃ大変でしたネ。眼にも飛んで来たわけですか」 「何しろ疲れていたもので、直ぐ起きようと思っても起き上れないのです。先生は直ぐ駈けつけて下さいましたけれど、あたくしが、愚図愚図しているうちに、頭髪についていた硫酸らしいものが眼の中へ流れこんだのです。直ぐ洗ったんですが、大変痛んで、左の眼は殆んど見えなくなり、右の眼も大変弱っています」  ダリアは黒眼鏡を外して見たが、左眼はまるで茹でたように白くなり、そうでないところは真赤に充血していた。右の眼はやや充血している位でまず無事な方であった。 「全く危いところでしたよ。連日の努力で、もう身体も頭脳も疲れ切っているのです。神経ばかり、高ぶりましてネ」と理学士も側へよって来て述懐した。彼の眼の色も、そういえば尋常でないように見えた。 「もすこしで、どうかなるところでしたわ。そうだったら、今日は実験を御覧に入れられませんでしたでしょう」  ダリアは独り言のように云った。  一同は此の室に何だか唯ならぬ妖気が漂っているような気がした。 「じゃ、いよいよ働かせて見ます」と深山学士は立ち上った。「白丘さん。カーテンを閉めてすっかり暗室にして呉れ給え」 「はい、畏りました」  ダリアは割合に元気に窓のところに歩みよっては、パタンパタンと蝶番式にとりつけてある雨戸を合わせてピチンと止め金を下ろし、その内側に二重の黒カーテンを引いていった。窓という窓がすっかり閉ってしまうと、室内には桃色のネオン灯が一つ、薄ボンヤリと器械の上を照らしていた。隅によっていた幾野捜査課長、雁金検事、中河予審判事、帆村探偵、それから本庁の警部一名と刑事が二名、もう一人、事件の最初に出て来た警察署の熊岡警官と、これだけの人間が灯の下へゾロゾロと集ってきた。 「これは君、暗いネ」課長はすこし暗さを気にしていた。 「何だか、頭の上から圧えられるようだ」そういったのは白髪の多い中河予審判事だった。 「このネオン灯も消します。そうしないと巧く見えないのです」深山が云った。「しかしスウィッチは、ここにありますから、仰有って下されば、いつでも点けます」 「待ってくれ、待ってくれ」と雁金検事が悲鳴に近い声をあげた。「どこに誰がいるやら判らないじゃないか。よオし、諸君はとりあえずこっちに立っていて呉れ給え。僕たちは、この椅子に腰をかけていることにしよう」  幹部だけが、スクリーンを包囲して、椅子に席をとった。 「いいですか」 「いいよ」  パッとネオン灯は消えた。すると一尺四角ばかりのスクリーンの上に、朧気な映像があらわれた。 「馬鹿に暗いネ」と課長が云った。 「ピントが外れているのです。増幅器もまだうまいところへ調整がいっていません。直ぐ直ってきますよ」  なるほど映像はすこし明瞭度を加えた。テニスコートの棒くいや審判台らしいものが見える。そこへ人影らしいものが。 「人間が通っているぞ」課長が叫んだ。「早く肉眼で運動場を見せ給え」 「これは、こっちのレンズからお覗き遊ばして……」捜査課長の耳許でダリアの声がした。 「呀ッ」と課長は慌てたが「いやなるほど、よく見えます。──なあーンだ、例の用務員が本当に通ってやがる」  まず赤外線男ではなかったので安心した。 「この辺のところですから、さあ誰方も変りあってスクリーンを覗いて下さい」理学士が器械から離れながら云った。 「さあ順番に見ようじゃないか」検事が後の方から声をあげた。  ゴトリゴトリと靴音がして、スクリーンの前に観察者が入れ代っているようだった。 「どうも赤外線写真というものは、色の具合が、死人の世界を覗いているようだな」判事さんが呟きながら視ている。  そのとき真暗だった室内へ、急に煌々たる白光がさし込んだ。 「呀ッ!」 「どッどうしたんだ」理学士が叫んだ。  一つの窓のカーテンが、サーッとまくられたのだった。皆の眼は、この眩しい光に会ってクラクラとした。 「いいえ、何でもないのです。失礼しました」と、窓のところでダリアの声がした。 「困るじゃないか」深山は云った。 「アノちょっと何だか、あたしの身体になんだか触りましたのよ。吃驚して、窓をあけたんですの」 「ああ、もう出たかッ──」 「赤外線男!」 「窓を皆、明けろッ!」  そのとき白丘ダリアは朗らかな声で云った。 「いいえ、大丈夫ですわ。カーテンを明けてみましたら、帆村さんのお臀でしたわ。ホホホ」 「なあーンだ」  一座はホッと溜息をついた。 「じゃ早くカーテンを下ろしなさい」 「済みません」  カーテンはパタリと下りた。元の暗闇が帰って来たけれど、皆の網膜には白光が深く浸みこんでいて、闇黒がぼんやり薄明るく感じた。スクリーンの前では雁金検事が、しきりに眼をしばたたいていた。  ウームというような低い呻り声が聞えたと思った。ドタリ……と、大きな林檎の箱を仆したような音が、それに続いて起った。  素破、異変だ! 「どッどうした」 「まッ窓だ窓だ窓だッ」 「ランプ、ランプ、ランプ!」  さーッと、窓から白光が流れこんだ。ネオン灯もいつの間にか点いた。 「キャーッ」と喚いてカーテンに縋りついたのは、窓のところへ駈けよったばかりの白丘ダリアだった。床の上には、幾野捜査課長が土のような顔色をし、両眼を剥きだし、口を大きく開けて仆れていた。  もう赤外線テレヴィジョンも何もなかった。窓という窓は明け放された。室内の一同の顔には生色がなかった。 「赤外線男!」 「ああ、あいつの仕業だ」  いまにも自分の身体に、赤外線男の猿臂がムズと触れはしないかと思うと、恐ろしい戦慄が電気のように全身を走った。眼に見えない敵! そいつをどう防げばいいのだ。どうして其の魔手から遁れればいいのだ。  そのとき帆村探偵は、一人進み出て、捜査課長を抱え起した。課長の頭は、ガックリ前へ垂れた。 「呀ッ、こりゃ非道い!」  帆村は呟いた。幾野課長の頸の真うしろに一本の銀鍼がプスリと刺さっていた。  一同は吾れにかえると、赤外線男のことを鳥渡忘れて、課長の死骸の周囲に駈けあつまった。 「延髄を一と突きにやられている……」 「太い鍼だッ」 「指紋を消さないように、手帛でも被せて抜けッ」 「これは抜けますまい」と帆村が云った。  なるほど、力の強い刑事が引張っても抜けなかった。鍼に筋肉が搦みついてしまったものらしい。 「一体これは、どうして検べようか」判事が当惑の色をアリアリと現わして云った。 「どうも、相手が悪い」と検事が呟いた。 「赤外線男はそれとして置いて、普通の事件どおり、この部屋の中にいる者は、すっかり取調べることにして下さい」と帆村が云った。  そこで係官が代りあって係官自身と、帆村、深山理学士、白丘ダリアとを調べてみたが、別に怪しい点は何一つ発見されなかった。  結局、赤外線男の仕業ということが裏書きされたようなものだった。流石の帆村探偵も手も足も出せなかった。      6  捜査課長の殺害事件は、俄然日本全国の新聞紙を賑わした。それと共に、赤外線男の噂が一段と高まった。警視庁の無能が、新聞の論説となり、投書の機関銃となり、総監をはじめ各部長の面目はまるつぶれだった。  四谷に赤外線男が出た。三河島にも赤外線男が現われたと、時間と場所とを弁えぬ出現ぶりだった。尤もそれは皆が皆、本当の赤外線男とは思えず、一寸話を聞いただけで偽赤外線男だと看破出来るようなものもあった。  帆村探偵は、直接に攻撃されはしなかったけれど、内心大いに安からぬものがあった。彼は書斎のソファに身を埋めると細巻のハバナに火を点けて、ウットリと紫の煙をはいた。彼は元々赤外線男などという不思議な生物があるとは信じていなかった。しかしそれには別に根拠があるわけではなかったのだ。捜査課長の故幾野氏の惨死事件を考えてみるのに、あれは赤外線男なら勿論出来ることであるが、それと同時にあの部屋にいた人間にも出来ることではないかと思いかえしてみた。  雁金検事、中河判事──この二人は、まず犯人ではないであろう。彼等の本庁に於ける歴史も功績も古く大きいものだ。  警部、刑事も疑えば疑えないこともないが、日頃知っている仲だから先ず大丈夫。  熊岡警官はどうだ。これは始めて会った人ではあるが、Y署では模範警官といわれているから大丈夫だろう。但しいろいろと探偵眼のあるところが、平警官として多少気に入らないこともないが、一々疑ってはきりがない。  残るは深山理学士だ。これは確かに怪しくてもいい人物だ。しかし彼は赤外線男を見たという。赤外線男が二人もあるなら格別、一人なら彼の嫌疑は薄い。ことに彼は赤外線男に襲撃され、変圧器の上へ抛り上げられていた被害者ででもある。感心しない。  然らば白丘ダリア嬢はどうだ。「赤外線男」というからには、ダリア嬢では性別が違っている。男が女装しているものとはあの溌溂たる肉体美から云って信じられない。殊に課長がやられた日には、眼を悪くしていた。あのように視力の弱っているのに、延髄を刺すというような精密正確を要することが出来るであろうか。  いや凡そ、あの部屋にいた連中は皆、闇黒の中に沈澱していたのだ。誰も視力を奪われていた。暗闇で延髄を刺すということは、誰にも出来ない筈だ。  残る嫌疑者は自分であるが、これとても同じことが云える。  然らば、誰が課長を殺したか?  ああ、赤外線男! 貴様はやっぱり存在するのか。貴様でなければ、あの殺人は出来ないことにはなるが、貴様は一体何者だッ。  帆村は呻りながらも、まだ何か忘れているものがありはしないかと、痛む頭脳をふり絞った。  有るには有る。あの延髄を刺した鍼だ。調べてみると指紋はあった。しかし細い鍼の上にのった幅のない指紋なんて何になるのだ。  それから、深山理学士の室で発見された大きい靴跡だ。あれが赤外線男のものとして、背丈を出すと五尺七寸位。これはいい。  次に事務室で盗まれた千二百円だ。赤外線男に金が要るとは可笑しい。しかし靴を履いていたり、黒い洋服のようなものを着ているというからには、矢張り金が要るのかしら。しかし、その金をどうして使うのだ。彼自身が握っていたのでは、金は他人の眼に見えないだろうし、第一洋服店の前に立って、洋服を注文したところで、背丈肉付もわからなければ、店の方でも声ばかりするのでは驚いて、不思議な噂話がパッと拡がらねばならぬ。それも聞えてこないというのは、若しや赤外線男に手下があるのではあるまいか。  世間では、新宿のホームから飛びこんで轢死した婦人の身許もわからないし、地下に葬った筈の死骸が紛失した不思議さを、今も尚覚えていて、あれも赤外線男の仕業だろうと云っているようだ。死骸を奪ったのが赤外線男だとすると、それは何のためだ。外国の小説には、火星人が地球の人間を捕虜にし、その皮を剥いで自分がスッポリ被り、人間らしく仮装して吾れ等の社会に紛れこんでくるのがある。しかしあの婦人の顔面は滅茶滅茶だった筈だ。婦人に化けたとしても、あの顔をどうするのだ。顔をかくしている婦人なんて印度や土耳古なら知らぬこと、この日の本にありはしない。婦人の死骸の行方が判らない限りこの問題は解決がつかない。  それから熊岡警官が轢死婦人のハンドバッグから探し出したフィルムの焼け屑だ。あれは一体何だ。あれが判明すると、婦人の死因は勿論、身許まで解ることだろう。  赤外線男に関係あるかどうかは二段として、この婦人の問題を解いて置くことは、あまり困難でもない。その上に、隅田梅子という婦人と轢死婦人とが同じ衣類所持品をもっていたという暗合、それから黒河内子爵夫人が、行方不明で、今も尚生死が知れぬが、あの少し前に、乱歩氏の「陰獣」のことを言い出したという事──よし、明日から、この方面を徹底的に調べてみよう。  帆村は、こう考えると、静かに椅子から立ち上って卓子の灰皿へ長くなった白い葉巻の灰をポトンと落した。  そのとき卓上電話がジリジリと鳴った。帆村はキラリと眼を輝かすと、電話機を取上げた。 「帆村君を願います」性急な声が聞えた。 「帆村は私ですが、貴方は?」 「ああ、帆村君。私です。捜査課長の大江山警部ですよ」それは故幾野課長の後を襲った新進の警部だった。 「大江山さんですか。また何かありましたか」 「ええ、あったどころじゃないです。唯今総監閣下が殺害されました」 「ナニ総監閣下が……? 本当ですか」 「困ったことですが、本当です」 「一体どうしたのです。どこでやられたのです」 「今日は御案内したとおり、深山理学士の赤外線テレヴィジョン装置を、本庁の一室にとりつけたのです。それは警戒を充分にして、この装置で丹念に赤外線男を探しあてようというのです。深山さんに白丘さんと、お二人に来て貰って取付けました。実験は午後三時から開始するつもりで、貴方にもお出で願うよう申上げて置きましたが、先刻総監閣下が急に見たいと仰有るので到頭ご覧に入れちまったのです」 「そりゃ拙かったですネ」と帆村は腹立たしそうに云った。 「私ども始めはお止めしたのです。しかし閣下は他出される約束があって、その日の三時にはご覧になれないのです。それで強いてというお話ですし、一方例の用意もありまして大丈夫だと思ったのです」  例の用意というのは、深山理学士と白丘ダリア嬢には秘密で、この室内の一隅に小さい赤外線発生灯を点じ、隠し穴を通じて隣室からこの室内を活動写真に撮る。つまり肉眼で見えぬ光線を室内に送って置いて、室内の人々の動静を赤外線映画に収めてしまう。斯うすれば、その中で怪し気な行動をする者がフィルムの上に映った筈だから、後で現像すればそれと判る──こんな仕掛けを予め作って置いたのである。しかし総監閣下が犠牲になられたのでは、何にもならない。本庁の連中の愚鈍さに、帆村は呆れる外なかった。 「で、閣下がお入りになってから、フィルムを廻したのですネ」 「そうです。うまく撮ったつもりです。──だが閣下は殺害されました。兇器は鍼で、同じように延髄を刺しつらぬいています」 「現像は……」 「今やっています。直ぐこれからおいで願いたいのです」 「ええ、参ります」  帆村は憂鬱な返辞をした。  駆けつけてみると、本庁は上を下への大騒ぎだった。殺られる人に事欠いて、総監閣下が苟めの機会から非業の死を遂げたというのだから、これは大変なことである。 「どうです。フィルムの現像は出来ましたか」帆村は課長に会うと、真先に訊いた。 「出来たのですが……」 「どうしたんです?」 「駄目でした。赤外線灯の前に、どういうものかドヤドヤと人が立って、肝心のところは真暗で、何にも写ってやしません」  課長は、面目なげに下俯いた。 「深山氏とダリア嬢は、調べましたか」 「今度こそはというのでよく調べました。身体検査も百二十パーセントにやりました。ダリア嬢も気の毒でしたが、婦人警官に渡して少しひどいところまで、残る隈なく調べ、繃帯もすっかり取外させるし、眼鏡もとられて眼瞼もひっくりかえしてみるというところまでやったんですが、何の得るところもありません」 「ダリア嬢の眼はどうです」 「ますますひどいようですよ。左眼は永久に失明するかも知れません。右眼も充血がひどくなっているそうです」 「ダリア嬢は眼のわるい点でいいとして、深山氏の行動に不審はなかったんですか」 「ところが深山氏は閣下にいろいろと詳しく説明していた最中なのです。深山氏が喋っているのに、閣下はウーンといって仆れられたのです。深山氏を疑うとなれば、喋っていながら手を動かして鍼を突き立てるということになりますが、これは実行の出来ないことですよ」 「すると二人の嫌疑は晴れたのですか」 「まあ、そうなりますネ。二人もこれに懲りて、今後はどんなことがあっても、あの装置を働かす暗室内へは行かないと云っていますよ」 「では犯人は一体誰なんです」 「赤外線男──でしょうナ」 「課長さんは、赤外線男だといって満足していられるんですか」 「今となっては満足しています。昨日までは稍信じなかったですが、今日という今日は、赤外線男の仕業と信じました。この上は、私どもの手で、あの装置を二十四時間ぶっ通しに運転して、赤外線男を発見せずには置きません」 「しかし、レンズは室内を睨ませたがいいですよ。あの室内に赤外線男がウロウロしているのではネ」  帆村は、課長の勇猛心に顔負けがして、ちょっと皮肉を飛ばした。      7  その次の朝のことだった。  帆村荘六は早く起き出ると、どうした気紛れか、洋服箪笥からニッカーと鳥打帽子とを取り出して、ゴルフでもやりそうな扮装になった。  しかし別にクラブ・バッグを引張り出すわけでもなく、細い節竹のステッキを軽く手にもつと、外へ飛び出した。忌わしい第一、第二の犠牲者を、昨日一昨日に送ったとは思えないほど、麗かな陽春の空だった。  彼は先ず、警視庁の大きな石段をテクテク登っていった。 「どうです。何か見付かりましたか」彼は捜査課長の不眠に脹れぼったくなった顔を見ると、斯う声をかけた。 「駄目です」と課長は不機嫌に喚いてから、「だが、昨夜また犠牲が出たんです。今朝がた報せて来ました」 「なに、又誰かやられたんですか」 「こうなると、私は君まで軽蔑したくなるよ」 「そりゃ、一体どうしたというのです」帆村は自分でもなにかハッと思いあたることがあるらしく、激しく息を弾ませながら問いかえした。 「浅草の石浜というところで、昨夜の一時ごろ、男と女とが刺し殺された。方法は同じことです。女は岡見桃枝という女で、男というのが……」 「男というのが?」 「深山理学士なんだッ。これで何もかも判らなくなってしまった」  課長は余程口惜しいものと見えて、帆村の前も構わず、子供のような泪をポロポロ滾した。 「そうですか」帆村も泪を誘われそうになった。「じゃ貴方も深山理学士は大丈夫といいながら、一面では大いに疑っていたんですネ」 「そりゃそうだ。今となって云っても仕方が無いが、ひょっとすると、赤外線男というものは、深山理学士の創作じゃないかと思っていた」 「大いに同感ですな」 「視えもせぬものを視えたといって彼が騒いだと考えても筋道が立つ。──ところが其の本人が殺されてしまったんだから、これはいよいよ大変なことになった」 「僕は兎に角、見に行って来ます。あれは日本堤署の管内ですね」  課長は黙って肯いた。  警察へ行ってみると、現場はまだそのままにしてあるということだった。場所を教えて貰うと、彼は直ぐ警察の門を飛び出した。  そこから、桃枝の家までは五丁ほどで、大した道程ではなかった。彼は捷径をして歩いてゆくつもりで、通りに出ると、直ぐ左に折れて、田中町の方へ足を向けた。震災前には、この辺は帆村の縄張りだったが、今ではすっかり町並が一新してどこを歩いているものやら見当がつかなかった。どこから金を見つけて来たかと思うような堂々たる五階建のアパートなどが目の前にスックと立って、行く手を見えなくした。彼は忌々しそうに舌打ちをして、大田中アパートにぶつかると、その横をすりぬけようとした。そしてハッと気がついた。  見ると、アパートの高い非常梯子に、近所の人らしいのが十四五人も載って、何ごとか上と下とで喚きあっているのだ。 「どうしたんです」  帆村は道傍に立っている人のよさそうな内儀さんに訊ねた。 「なんですか、どうも気味の悪い話なんでござんすよ」と内儀さんは細い眉を顰めると、赤い裏のついた前垂を両手で顔の上へ持っていった。「あのアパートの五階に人が死んでいるんだって云いますよ。そういえば、このごろ、近所の方が、何だか莫迦に臭い臭いと云ってましたが、その死骸のせいなんですよ。まあ、いやだ」  内儀さんは、ゲッゲーッと地面へ唾をはいた。 「じゃ、よっぽど永く経った死骸なんですネ」 「そうなんだそうですよ。開けてみると、押入れの中にそれがありましてネ、もう肉も皮も崩れちゃって、まッ大変なんですって。着物を一枚着ているところから、女の、それも若いひとだってぇことが判ったって云いますよ」 「ナニ、若い女の屍体?」帆村はドキンと胸を打たれた。そうだ、今日は探しに歩こうと思っていたあの女の屍体かも知れない。日数が経っているところから云っても、これは見遁せないぞと、心の中で叫んだ。 「そこは、その女の人の借りている室なんですか」 「いいえ、そうじゃないですよ。あすこは潮さんという若い学生さんが一人で借りているんです。ところが潮さん、この頃ずっと見えないそうで……」 「その潮さんというのは、若しや背丈の大きい、そうだ、五尺七寸位もある人でしょう」 「よく知ってますね」と内儀さんは、はだけた胸を掻き合わせながら云った。「ちょいといい男ですわヨ、ホッホッホ」  帆村は苦笑した。 「あらッ、向うから潮さんが帰ってきちゃったわ」 「えッ」と帆村は駭いて、内儀さんの視線の彼方を見た。 「まア大変顔色がわるいけれど、あの人に違いない……」  その言葉の終らないうちに、帆村は向うから飄々とやってくる潮らしき人物の袂を抑えていた。 「潮君」 「呀ッ」  青年は帆村の手をヒラリと払って、とッとと逃げ出した。帆村はもう必死で、このコンパスの長い韋駄天を追駈けた。そして横丁を曲ったところで追付いて、遂に組打ちが始まった。そのとき青年の懐中から、コロコロと平べったい丸缶のようなものが転げ出て、溝の方へ動いていった。 「ああ──それは……」  と青年の腕が伸びようとするところを、帆村は懸命に抑えて、うまく自分の手の内に収めた。そこへバラバラと警官と刑事とが駈けつけたので、帆村は間違われて二つ三つ蹴られ損をしただけで助かった。彼が手に入れたものは一巻のフィルムだった。それも十六ミリの小さいものだった。  ああ、フィルムといえば、身許不明の轢死婦人のハンドバッグに、フィルムの焼け屑があったではないか。  帆村は、深山理学士と情婦の桃枝との殺害場所を点検すると、大急ぎで日本堤署へ引かえした。その頃には、本庁からも予審判事が駈けつけていたが、もう何事も観念したものと見え、潮十吉という青年は、墓場から婦人の死骸を掘りだして遁げたことを白状していた。しかし婦人が何者であるか、彼との関係はどうなのであるかについては中々口を緘んで語らなかった。フィルムのことは意外にも、深山理学士の室から奪ったものだと告白したが、事務室から千二百円の大金を盗んだことは極力否定した。  あとは本庁で調べることとし、意気昂然たる老判事は、潮十吉と帆村とを伴って、警視庁へ引上げた。  今朝の不機嫌をどこかへ落してしまった大江山捜査課長の前に、帆村探偵は手に入れた一巻のフィルムを置いて、いろいろと打合わせをした。 「じゃ、午後の五時に、本庁の第四映画検閲室で試写ということにするのですね」 「そう決めましょう。じゃ万事よろしく」捜査課長は、何が嬉しいのか、帆村の手をギュッと握った。      8  帆村は一名の警官と連れ立って、黒河内子爵を訊ねた。子爵の代りに、例の白丘ダリアが出て、子爵は重態で、看護婦が二人もついている騒ぎだからと云った。 「実は、失踪された子爵夫人のことに関し、是非ご覧願いたい映画の試写があるのですが、それは困りましたネ」と帆村は長くもない頤を指先でつまんだ。 「映画ですか。あたし、代りに行きましょうか」 「そうですか。じゃ子爵の御了解を得て来て下さい。よかったら御一緒に参りましょう」 「ええ、いくわ」  ダリアは、まだ繃帯のとれぬ大きな頭を振り振り奥に引きかえしたが、直ぐコートと帽子とを持ってあらわれた。 「さあ、お伴しますわ」  三人が警視庁についたのは、すこし早すぎた。 「ねえ、ダリアさん。まだ四十分もありますよ」 「退屈ですわネ」 「ちょっと永いですネ」と帆村は云った。「そうそう、この中に面白いものがありますよ。警官に射撃を訓練させるために、室内射的場がつくってあります。僕たちが行っても構わないのです。行ってみませんか」 「射的ですって? あたし、これでも射撃は上手なのよ」 「じゃいい。行ってみましょう」  呑気千万にも帆村は、ダリアを引張って、警官の射的室へ連れて来た。そこは矢場のように細長い室だが、手前の方に、拳銃を並べてある高い台があって、遥か向うの壁には、大きな掛図のような的がかかっていた。その的というのは、白い紙の上に、水珠を寄せたように、茶椀ほどの大きさの、青だの、赤だの、黄だの円が、べた一面に描いてあって、その上に5とか3とかいう点数が記してあった。 「僕やってみましょうか」帆村は気軽に拳銃をとって、覘いを定めると、ドーンと一発やった。3点と書いた大きな赤円に、小さい穴がプスリと明いた。 「どうです。相当なものでしょう」  そういいながら、彼は次から次へと、あまり点数の多くない色とりどりの円を、撃ちぬいていった。 「今度は、ダリアさん、やってごらんなさい」帆村は拳銃を彼女の方に薦めた。 「エエ──」とダリアは答えたが、「あたし、よすわ」とハッキリ云った。 「そんなことを云わないで、やってごらんなさいな」 「だってあたし……あたし、眼が悪くて駄目なんですわ」  そういってダリアは、カラカラと男のような声で笑った。  まだ時間はあったから、二人は食堂へ行った。そこでオレンジ・エードを注文して、麦藁の管でチュウチュウ吸った。 「警視庁なんてところ、随分開けてんのネ」ダリアは、帆村をすっかり友達扱いにしていた。 「それはそうですよ。貴女みたいな方をお招きすることもありますのでネ」 「だけど、このオレンジ・エード、なんだか石鹸くさいのネ。あたし、よすッ」  半分ばかり吸ったところで、ダリアは吸管を置いた。  そんなことをしている裡に時間が経って、警官がわざわざ二人を探しに来た程だった。  階段を地下へ降りて、長い廊下をグルグル廻ってゆくと、大変天井の低い暗いところへ出た。例の赤外線男が出て来そうな気配だったが、しかし仄暗いながら電灯がついているから停電でもしない限り先ず大丈夫だろう。  映画検閲用の試写室は、思いの外、広かった。壁は一様にチョコレート色に塗ってあり、まるで講堂のような座席が並んでいた。正面には二メートル平方位のスクリーンがあった。  もう七八人の人が入っていた。雁金検事、中河判事、大江山捜査課長の顔も見えた。  そこへ別の入口から、警官に護られて、潮十吉が手錠をガチャガチャ云わせながら入って来て、最前列に席をとった。そこは、帆村探偵と白丘ダリアとが並んである丁度その横だった。 「もうこれで皆さん全部お揃いですか」  警官の映写技師が、一番後方から声をかけた。 「うん、揃ったぞ。もう始めて貰おうか」  帆村のうしろにいた捜査課長が声をかけた。 「じゃ始めます。あれを演る前に、一つ調子をつけるために、実写ものを一巻写してみます。ウィーンの牢獄です」  スクリーンの上へ、サッと白い光が躍ると、室内の電灯がパッと消された。一座はハッと緊張した。まずスクリーンの明るさで、室の中は暗闇だというほどではないが、しかし椅子の下、後方の両脇などには、小暗い蔭があった。それにこうして平然と、画面に見入っていていいものかしら、赤外線男の出てくるには屈強な地下室ではないか。  しかし一巻の映画は、極めて短いものであった。そしてまだ映画がうつっているのに、早くも電灯がパッと明るく室内を照らした。 「さあ、いよいよこの次だ」 「一体どんな映画なのだろう」  人々は胸のうちに、あれやこれやと想像をめぐらせた。 「私を外へ出して下さい」潮十吉は隣りに遊んでいる警官に訴えた。 「いや、ならん」  警官の声はあっけなかった。  さあ、いよいよ問題の映画が写し出されようとしている。潮十吉が、深山理学士のところから奪って来たフィルムはこれだ。そして身許不明の轢死婦人のハンドバッグの底に発見せられたのも、矢張り同じフィルムだった。この映画が写し出されたが最後、意外なことが起るのではないか。既に靴の跡によって嫌疑の深い潮十吉であるが、この一巻の映画によって、彼の正体が暴露するのではあるまいか。赤外線男は潮十吉か。或いは赤外線男の合棒でもあるか。  カタリと音がして、スクリーンの上に、青白い光芒が走った。こんどは十六ミリであるから、画面はスクリーンの真中に小さくうつった。 「ああ、これは……」 「ウム……」  画面の展開につれ、人々は苦しそうに呻った。誰かが、いやらしい咳払いをした。  いまスクリーンに写っている画面には二人の人物が出ている。 「ああ、こっちは、潮十吉だな」帆村は、あえぐように叫んだ。 「ああ、あれは伯母様ですわ。伯母様に違いないわ。だけど、ホホ……まッ……」  といったきり、白丘ダリアは口を噤んだ。  さて画面に、それから如何なる情景が展開していったか、その内容についてはここに記すことが許されぬ。しかしそれは密閉されたる室のうちで演じられている怪しげなる戯れだった。斯かる情景は人目のつかぬ真夜中に行うべきものだと思うのに、それがまことに明るい光の下に於て行われている。そのいぶかしさは、尚も仔細に画面を点検すれば、次第に明瞭だった。それは赤外線で撮影した活動写真であったのだ。  恐らく場面は、真夜中であったろう。真暗な室の中に、この場のことは演ぜられたのに違いない。それにも係らず、この室にどこからか赤外線を当て、それを赤外線の活動写真に撮影したのだった。そして人物は子爵夫人黒河内京子と青年潮十吉!  さてこの呪うべき撮影者は、一体誰であるか。  潮はこの映画の写っている間は、頭を下げ顔を掩うたまま、一度も首をあげようとはしなかった。映画が終って、一座の深い溜息と共に、パッと電灯がついた。 「潮」大江山課長は声をかけた。「この撮影者は誰か」 「あいつです」青年はグッと首をもちあげた。「あいつです。深山楢彦──彼奴がやったんです。子爵夫人と僕とは間違ったことをしていました。深山は而も夫人に恋をしていたのです。彼奴は私達の深夜の室をひそかに窺って暗黒の中にあの赤外線映画をとってしまったんです。深山はそれをもって可憐なる子爵夫人を幾度となく脅迫しました。一度は夫人があのフィルムの一端を奪ったのですが、それは焼いてしまいました。バッグの底にのこっているフィルムの焼け屑は、あれだったんです。鬼のような深山は、赤外線利用の技術を悪用して、それまでにも、人の寝室を密かに写真にとっては、打ち興じていたという痴漢です。しかし飽くまで夫人に未練をもつ彼は、夫人が意に従わないときはあの映画を公開するといって脅かしたのです。夫人は凡てを観念し、とうとう新宿のプラットホームからとびこまれたのです。これも皆、深山の仕業です。夫人は身許のわかることを恐れて、いつもあのような服装を持って居られました。あれは最も平凡な、世間にザラにある持ちものを集められたのです。いわば月並の衣類なり所持品です。それがうまく効を奏して隅田氏の妹と間違えられたのです。顔面の諸に砕けたのは、神も夫人の心根を哀み給いてのことでしょう。僕は復讐を誓いました。そして深山の室に闖入して、あのフィルムを奪回したのです。彼奴を探しましたが、どうしたものかベッドはあっても姿はありません。早くも風を喰らって逃げてしまった後だったのです。それから僕は……」  このとき白丘ダリアは、先刻から耐えていた尿意が、どうにももう持ちきれなくなった。その激しさは、いまだ経験したことが無い位だった。彼女は慌てて試写室を出ると、薄暗い廊下に飛び出した。見ると、直ぐ間近かに、赤い灯火が点っていて、それに「便所」という文字が読めた。  彼女は、飛び立つ想いで、そこの扉を押した。扉があくと、そこには清潔な便器が並んでいる洋風厠だった。ダリアはその一つに飛びこんで、パタリと戸を寄せると、気持のよい程、充分に用を足した。  大きい鏡があったので、ダリアはそこで繃帯を気にしながら、硫酸の焼け跡のある顔へ粉白粉を叩いた。そして入口の扉を押して、廊下に出た。その途端にダリアはハッと駭いて、 「呀ッ」  と声をあげた。  そこには思いがけなくも、帆村を始め、捜査課長、検事、判事など十四五人が、ダリアの方に身構えをしていた。 「まア、どうしたんです。帆村さん」  ダリアの救いを求めた帆村は、最早、先刻、射的で遊んだ帆村とは別人のようであった。 「白丘ダリアさん。それは今大江山捜査課長から説明して下さるでしょう」  言下に大江山課長はヌッと前へ出た。 「白丘ダリア。いま汝を逮捕する」 「あたしを逮捕するって、冗談はよして下さい」 「まだ白っぱくれているな。吾々の眼はもう胡魔化されんぞ。白丘ダリアが嫌いだったら、『赤外線男』として汝を捕縛する。それッ」  ワッと喚いて、選りぬきの腕に覚えのある刑事が、ダリアの上に折り重なった。もう遁げる道もなければ、方法もなかった。 「赤外線男」は、それっきり自由を奪われてしまった。      *   *   *  事件が一段落ついた後の或る日、筆者は南伊豆の温泉場で、はからずも帆村探偵に巡りあった。彼は丁度事件で疲れた頭脳を鳥渡やすめに来ていたところだった。仄かに硫黄の香の残っている浴後の膚を懐しみながら、二人きりで冷いビールを酌み交わした。そのとき彼の口から、この事件の一切の顛末を聞くことが出来たのだった。彼は中学校で同級だったときのあの飾り気のない口調で、こんな風に最後の解決を語った。 「『赤外線男』が白丘ダリアといったんでは、警官の中にも本気にしない人があった位だよ。しかし要点を云うとネ、元々『赤外線男』という名称は、殺された深山理学士がつけたものなのだ。彼は『赤外線男』を見たといって、いろいろな話をしたが、本当は一度も見たわけじゃなかったのだ。それは彼が便宜上拵えた創作的観念であって、実在ではなかった。  何故そんなことをやったかというと、始めはあの新説で世間を呀ッと云わせて虚名を博しよう位のところだったらしいが、いよいよというときには事務室の金庫から彼が消費こんだ大金の穴埋めに、『赤外線男』を利用したわけだった。研究室が潮に襲われると、逸早く彼は避難したのだったが、そのチャンスを巧くとらえて、潮のかえった後の自室や事務室を散々自分で破壊してあるき、自ら変圧器の上にあがると、自分の身体を縛ったのだ。智恵のある人間には訳のないことだ。  しかしこの犯行の裏には三人の女が隠れているんだ。そういうと不思議に思うだろうが、一人は情婦という評判の女・桃枝だ。この女には秘密に大分貢いだものらしい。金庫の金に手をかけたのも、この女のためだ。  もう一人の女は子爵夫人京子だ。これには潮が云ってたように色ばかりではなく、むしろ慾の方が多かったのだ。夫人と潮との秘交を赤外線映画にうつしたのは、夫人に挑むことよりも莫大な金にしたかったのだ。もし夫人が相当の金を出したとしたら、深山は事務室の金庫を破る必要もなく、『赤外線男』をひねり出す苦労もしないで済んだことだろう。しかし京子夫人にそんな莫大の金の都合はつかなかった。夫人は死を選んだのだ。  そこへ、もう一人の女性、白丘ダリアという女がいけなかった。これは先天的に異常性を備えた人間だった。左の眼と、右の眼と、視る物の色が大変違うなんて、ほんの一つのあらわれだ。あの狒々のような大女は、自分と反対に真珠のように小さい深山先生に食慾を感じていろいろと唆かしたのだ。『赤外線男』も、ダリアから出たアイデアだったかも知れない。  しかしダリアの使嗾に乗った理学士も、金庫の金を盗んだり、それからダリアの喜びそうもない情婦桃枝のことを手紙から知られると、すっかりダリアに秘密を握られてしまった恰好になった。其の後に来るもの──それを考えると彼は安閑としていられなかった。そこで深山は、思い切って、ダリアが同じ室に寝泊りしているのを幸い、水素瓦斯を使って睡っている彼女を殺そうとしたが、水素乾燥用の硫酸の壜が爆発してダリアに目を醒まされ、不成功に終ってしまったのだ。  ダリアはこの事を勿論感づいた。しかしだネ、彼女は悪魔だけに賢明だった。事を荒立てる代りに、一層深山の弱点を抑えて、徹底的にこれを牛耳ってしまう考えだった。ところがあの騒ぎによって彼女の身体に大きな異変が起った。それは飛んで来た硫酸に眼を犯され、右眼は大した損傷もなかったが、左眼はまるで駄目になった。結局右眼一つというようなことになってしまった。しかし左眼が潰れたことが異変というのじゃない。左眼が潰れたために、残る一眼が急に機能が鋭くなったんだ。左右の肺の一つが結核菌に侵されて駄目になると、のこりの一方の肺が代償として急に強くなり、一つで二つの肺臓の働きをするなどということは、医学上よく聞くことだ。それと似て、ダリアは左眼の明を失うと同時に、右眼の視力が急に異常な鋭敏さを増加した。元々ダリアの右眼は、左眼よりも物が赤く見えるといっていたが、赤い光線を感ずる神経が発達していたんだ。そんなわけだから、一眼になって異常な視神経の発達により、普通の人には到底見えない赤外線までが、アリアリと彼女の網膜には映ずるようになったのだ。普通の人が暗闇と思うところでも、ハッキリ視える。──この異常な感覚を自覚したときのダリアの狂喜ぶりは、大変なものだったろう。しかしその狂喜は、同時に彼女の破滅を予約したものでもあった。ダリアは悪魔になりきってしまった。殺人淫楽者という恐ろしい犯罪者に堕ちたのだ。そして赤外線が視えるということが、彼女を裏切って秘密曝露の鍵にまでなってしまった。それは後の話だがネ」  そういって帆村は、何か恐ろしいことでも思い出したらしく、大きい溜息をつくと、ビールを口にもっていって、琥珀色の液体をグーッと呑み乾した。筆者は壜をとりあげると、静かに酌いでやった。 「それからあの殺人騒ぎだ。暗闇の中に、次から次へ起る恐ろしい殺人事件。疑いは一応もってみても、眼のわるいお嬢さんに、そんな芸当が出来ようとは誰も思っていなかった。一方『赤外線男』という『男』の観念がすっかり普及していてお嬢さんに眼をつけることが阻害された。誰があの暗黒のなかで、選りに選って非常に正確を要する延髄の真中に鍼を刺しこむことが出来るだろうか。『赤外線男』という超人でなければ、到底想像し得られないことだった。ダリア嬢は、然りその超人的視力をもつ『赤外線女』だったんだ。これはあとで判ったことだけれど、彼女はあの銀鍼をシャープペンシルの軸の中に隠して持っていたのだった。  これに対して僕の探偵力は、全く貧弱なものだった。どう考えていっても、『赤外線男』という超人を肯定するより外に仕方がなくなるのだ。僕はそんな莫迦気たことがと排斥していたのが、そもそも大間違いではなかったかと考え直し、それからもう一度一切の整理をやり返すと、始めてすこし事情が判って来た。 『赤外線男』が殺人をやるようになったのは極く最近のことだ。以前に於ては『赤外線男』の呼び声は高かったにしろ、殺人事件はなかった。そこに何物かがひそんでいると気が付いた僕は、殺人事件の発生が、ダリアの一眼失明を機会にして其の以後に連続して行われたということを発見した。同時に探索の結果、ダリアの両眼の視力異常についても聞きこむことが出来た。よし、それなれば、何としても化けの皮を剥いでみせるぞ。そういう意気ごみで、僕はダリアに近づくと、大変心安くなった。折しも幸運なことに深山の写した子爵夫人と潮との秘交の赤外線映画が手に入ったので、そこにチャンスを掴む計画を樹てた。僕は手筈をきめて、ダリア嬢を警視庁に呼び出したわけだった。  最初の計画は、残念ながら失敗に近かった。それは庁内の警官射的場で、青赤黄いろとりどりの水珠のように円い標的を二人で射つことだった。僕はドンドン気軽に撃って、彼女にも撃たせようとしたが、ダリアは早くも危険を悟って拳銃をとりあげようとはしなかった。若しあの場合、彼女も射撃を始めたとしたら、必ずのっぴきならぬ証拠が出来る筈だった。それはあの色とりどりの円い標的の間に残る白い余白には、あの裏面から赤外線で照明している深山の別個の標的があったのだ。彼女は赤外線も赤い色も判別する力はない。それは赤外線も、吾々が赤を識別できると同様、アリアリと眼に映るからだ。しかし彼女は危険を感じて、吾々の眼には見えない赤外線標的を撃つことから脱がれた。しかし射撃を拒んだということが、僕の予想を大いに力づけて呉れる効能はあった。  さて、最後のトリック──それには鬼才ダリア嬢も見事に引っ懸ってしまった。それはすこし下卑た話だ。けれども、あの便所の一件だ。例のフィルムの映写中に彼女は激しい尿意を催したのだった。それは勿論、すこし前に食堂で彼女が飲んだオレンジ・エードに、一服盛ってあったというわけサ。映画が終るや否やダリア嬢は気が気でなく廊下へ飛び出した。もうこれ以上我慢をすると、女の身にとって顔から火の出るような粗相を演ずることになる。彼女は極度に狼狽していたのだ。暗い廊下の向うを見ると、嬉しやそこには『便所』と書いた赤い灯がついている。彼女は扉を押して飛びこんだ。果してそこには奥深く便器が並んでいた。彼女は用を足した。しかし茲に彼女は、とりかえしのつかない大失敗をしたのだった。  それは、この『便所』と書いた赤い灯は、普通の視力をもった人間には、到底発見することの出来ない光だったのだ。つまり赤外線灯で『便所』という文字を照していたのだ。吾々のようなものならば、その前を無造作に通りすぎてしまう筈だった。赤外線の見える女の悲しさに、ダリア嬢はついそのような灯の下をくぐってしまったのだ。その場の光景は予て張番をさせて置いた監視員によって、すっかり見とどけられてしまった。とうとう異常な視力の持ち主は化の皮を剥がれてしまったのだ。流石のダリア嬢もこうなっては策の施しようもなく、とうとう一切を白状してしまった。『赤外線男』──いや『赤外線女』の事件は、ざっとこんな風だった」 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房    1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1933(昭和8)年5月号 ※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫) 入力:tatsuki 校正:土屋隆 2002年10月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。