半七捕物帳
勘平の死
岡本綺堂




 歴史小説の老大家T先生を赤坂のお宅に訪問して、江戸のむかしのお話をいろいろ伺ったので、わたしは又かの半七老人にも逢いたくなった。T先生のお宅を出たのは午後三時頃で、赤坂の大通りでは仕事師が家々のまえに門松かどまつを立てていた。砂糖屋の店さきには七、八人の男や女が、狭そうに押し合っていた。年末大売出しの紙ビラや立看板や、紅い提灯やむらさきの旗や、にごった楽隊の音や、かん走った蓄音機のひびきや、それらの色彩と音楽とが一つに溶け合って、師走しわすの都のちまたにあわただしい気分を作っていた。

「もうかぞだ」

 こう思うと、わたしのような閑人ひまじんが方々のお邪魔をして歩いているのは、あまり心ない仕業しわざであることを考えなければならなかった。私も、もうまっすぐに自分のうちへ帰ろうと思い直した。そうして、電車の停留場の方へぶらぶら歩いてゆくと、往来なかでちょうど半七老人に出逢った。

「どうなすった。この頃しばらく見えませんでしたね」

 老人はいつも元気よく笑っていた。

「実はこれから伺おうかと思ったんですが、歳の暮にお邪魔をしても悪いと思って……」

「なあに、わたくしはどうせ隠居の身分です。盆も暮も正月もあるもんですか。あなたの方さえ御用がなけりゃあ、ちょっと寄っていらっしゃい」

 渡りに舟というのは全くこの事であった。わたしは遠慮なしにそのあとについて行くと、老人は先に立って格子をあけた。

老婢ばあや。お客様だよ」

 私はいつもの六畳に通された。それから又いつもの通りにいお茶が出る。旨い菓子が出る。忙がしい師走の社会と遠く懸け放れている老人と若い者とは、時計のない国に住んでいるように、日の暮れる頃までのんびりした心持で語りつづけた。

「ちょうど今頃でしたね。京橋の和泉屋で素人芝居のあったのは……」と、老人は思い出したように云った。

「なんです。しろうと芝居がどうしたんです」

「その時に一と騒動持ち上がりましてね。その時には私も少し頭を痛めましたよ。あれは確か安政うま年の十二月、歳の暮にしては暖い晩でした。和泉屋というのは大きな鉄物屋かなものやで、店は具足町ぐそくちょうにありました。家中うちじゅうが芝居気ちがいでしてね、とうとう大変な騒ぎをおっ始めてしまったんです。え、その話をしろと云うんですか。じゃあ、又いつもの手柄話を始めますから、まあ聴いてください」

 安政五年の暮は案外にあたたかい日が四、五日つづいた。半七は朝飯を済ませて、それから八丁堀の旦那(同心)方のところへ歳暮にでも廻ろうかと思っていると、妹のおくめが台所の方から忙がしそうにはいって来た。お粂は母のお民と明神下に世帯を持って、常磐津の師匠をしているのであった。

「姉さん、お早うございます。兄さんはもう起きていて……」

 女中と一緒に台所で働いていた女房のお仙はにっこりしながら振り向いた。

「あら、お粂ちゃん、お上がんなさい。大変に早く、どうしたの」

「すこし兄さんに頼みたいことがあって……」と、お粂はうしろをちょっと見返った。「さあ、おはいんなさいよ」

 お粂の蔭にはまだ一人の女がしょんぼりと立っていた。女は三十七八の粋な大年増おおどしまで、お粂と同じ商売の人であるらしいことはお仙にもすぐにさとられた。

「あの、お前さん、どうぞこちらへ」

 たすきをはずして会釈えしゃくをすると、女はおずおずはいって来て丁寧に会釈した。

「これはおかみさんでございますか。わたくしは下谷に居ります文字清と申します者で、こちらの文字房さんには毎度お世話になって居ります」

「いいえ、どう致しまして。お粂こそ年が行きませんから、さぞ御厄介になりましょう」

 この間にお粂は奥へはいって又出て来た。文字清という女は彼女に案内されて、神経のとがったらしい蒼ざめた顔を半七のまえに出した。文字清はこめかみに頭痛膏を貼って、その眼もすこし血走っていた。

「兄さん。早速ですが、この文字清さんがお前さんに折り入って頼みたいことがあると云うんですがね」

 お粂は仔細ありそうに、この蒼ざめた女を紹介ひきあわした。

「むむ。そうか」と、半七は女の方に向き直った。「もし、おまえさん。どんな御用だか知りませんが、私に出来そうなことだかどうだか、伺って見ようじゃありませんか」

「だしぬけに伺いましてまことに恐れ入りますが、わたくしもどうしていいか思案に余って居りますもんですから、かねて御懇意にいたして居ります文字房さんにお願い申して、こちらへ押し掛けに伺いましたような訳で……」と、文字清は畳に手を突いた。「お聞き及びでございましょうが、この十九日の晩に具足町の和泉屋で年忘れの素人芝居がございました」

「そう、そう。飛んだ間違いがあったそうですね」

 和泉屋の事件というのは半七も聞いて知っていた。和泉屋の家じゅうが芝居気ちがいで、歳の暮には近所の人たちや出入りの者共をあつめて、歳忘れの素人芝居を催すのが年々の例であった。今年も十九日の夕方から幕をあけた。それはすこぶる大がかりのもので、奥座敷を三ほど打ち抜いて、正面には間口まぐち三間の舞台をしつらえ、衣裳や小道具のたぐいもなかなか贅沢なものを用いていた。役者は店の者や近所の者で、チョボ語りの太夫も下座げざ囃子方はやしかたもみな素人の道楽者を狩り集めて来たのであった。

 今度の狂言は忠臣蔵の三段目、四段目、五段目、六段目、九段目の五幕いつまくで、和泉屋の総領息子の角太郎が早野勘平を勤めることになった。角太郎はことし十九の華奢きゃしゃな男で、ふだんから近所の若い娘たちには役者のようだなどと噂されていた。若旦那の勘平ははまり役だと、見物の人たちにも期待された。

 舞台では喧嘩場から山崎街道までの三幕をとどこおりなく演じ終って、六段目の幕をあけたのは冬の夜の五ツ(午後八時)過ぎであった。幾分はお追従ついしょうもまじっているであろうが、若旦那の勘平をぜひ拝見したいというので、この前の幕があく頃から遅れ馳せの見物人がだんだんに詰めかけて来た。燭台や火鉢の置き所もないほどにぎっしり押し詰められた見物席には、女の白粉や油の匂いがせるようによどんでいた。煙草のけむりも渦をまいてみなぎっていた。男や女の笑い声が外まで洩れて、師走の往来の人の足を停めさせるほど華やかにきこえた。

 併しこの歓楽のさざめきは忽ち哀愁の涙に変った。角太郎の勘平が腹を切ると生々なまなましい血潮が彼の衣裳を真っ赤に染めた。それは用意の糊紅のりべにではなかった。苦痛の表情が凄いほどに真に迫っているのを驚嘆していた見物は、かれが台詞せりふを云いきらぬうちに舞台にがっくり倒れたのを見て、更におどろいて騒いだ。勘平の刀は舞台で用いる金貝かながい張りと思いのほか、さやには本身ほんみの刀がはいっていたので、角太郎の切腹は芝居ではなかった。夢中で力一ぱい突き立てた刀の切っ先は、ほんとうに彼の脇腹を深く貫いたのであった。苦しんでいる役者はすぐに楽屋へ担ぎ込まれた。もう芝居どころの沙汰ではない。驚きとおそれとのうちに今夜の年忘れの宴会はくずれてしまった。

 角太郎は舞台の顔をそのままで医師の手当てをうけた。蒼白くつくった顔は更に蒼くなった。おびただしく出血した傷口はすぐに幾針も縫われたが、その経過は思わしくなかった。角太郎はそれから二日二晩苦しみ通して、二十一日の夜なかにもがじにのむごたらしい終りを遂げた。その葬式とむらいは二十三日のひるすぎに和泉屋の店を出た。

 きょうはその翌日である。

 併しこの文字清と和泉屋とのあいだに、どんな関係が結び付けられているのか、それは半七にも想像が付かなかった。

「そのことに就いて、文字清さんが大変に口惜くやしがっているんですよ」と、お粂がそばから口を添えた。

 文字清の蒼い顔には涙が一ぱいに流れ落ちた。

「親分。どうぞかたきを取ってください」

「かたき……。誰の仇を……」

「わたくしのせがれの仇を……」

 半七はけむにまかれて相手の顔をじっと見つめていると、文字清はうるんだ眼をけわしくして彼を睨むように見あげた。その唇は癇持ちのように怪しくゆがんで、ぶるぶるふるえていた。

「和泉屋の若旦那は、師匠、おまえさんの子かい」と、半七は不思議そうに訊いた。

「はい」

「ふうむ。そりゃあ初めて聞いた。じゃあ、あの若旦那は今のおかみさんの子じゃあないんだね」

「角太郎はわたくしの伜でございます。こう申したばかりではお判りになりますまいが、今から丁度二十年前のことでございます。わたくしが仲橋の近所でやはり常磐津の師匠をして居りますと、和泉屋の旦那が時々遊びに来まして、自然まあそのお世話になって居りますうちに、わたくしはその翌年に男の子を産みました。それが今度亡くなりました角太郎で……」

「じゃあ、その男の子を和泉屋で引き取ったんだね」

「左様でございます。和泉屋のおかみさんが其の事を聞きまして、丁度こっちに子供が無いから引き取って自分の子にしたいと……。わたくしも手放すのはいやでしたけれども、向うへ引き取られれば立派な店の跡取りにもなれる。つまり本人の出世にもなることだと思いまして、産れると間もなく和泉屋の方へ渡してしまいました。で、こういう親があると知れては、世間の手前もあり、当人の為にもならないというので、わたくしは相当の手当てを貰いまして、伜とは一生縁切りという約束をいたしました。それから下谷の方へ引っ越しまして、こんにちまで相変らずこの商売をいたして居りますが、やっぱり親子の人情で、一日でも生みの子のことを忘れたことはございません。伜がだんだん大きくなって立派な若旦那になったという噂を聴いて、わたくしも蔭ながら喜んで居りますと、飛んでもない今度の騒ぎで……。わたくしはもう気でも違いそうに……」

 文字清は畳に食いつくようにして、声を立てて泣き出した。



「へええ。そんな内情いきさつがあるんですかい。わたしはちっとも知らなかった」と、半七はみかけていた煙管きせるをぽんと叩いた。「それにしても、若旦那の死んだのは不時の災難で、誰を怨むというわけにも行くめえと思うが……。それとも其処にはなにか理窟がありますかえ」

「はい、判って居ります。おかみさんが殺したに相違ございません」

「おかみさんが……。まあ落ち着いて訳を聞かしておくんなせえ。若旦那を殺すほどならば、最初から自分の方へ引き取りもしめえと思うが……」

 訊く人の無智をあざけるように、文字清は涙のあいだに凄い笑顔を見せた。

「角太郎が和泉屋へ貰われてから五年目に、今のおかみさんの腹に女の子が出来ました。お照といって今年十五になります。ねえ、親分。おかみさんの料簡りょうけんになったら、角太郎が可愛いでしょうか。自分の生みの娘が可愛いでしょうか。角太郎に家督を譲りたいでしょうか。お照に相続させたいでしょうか。ふだんは幾ら好い顔をしていても、人間の心は鬼です。邪魔になる角太郎をどうして亡き者にしようか位のことは考え付こうじゃありませんか。まして角太郎は旦那の隠し子ですもの、腹の底には女の嫉みもきっとまじっていましょう。そんなことをいろいろ考えると、おかみさんが自分でしたか人にやらせたか、楽屋のごたごたしているすきをみて、本物の刀とり替えて置いたに相違ないと、わたくしが疑ぐるのが無理でしょうか。それはわたくしの邪推でしょうか。親分、お前さんは何とお思いです」

 和泉屋の息子にこうした秘密のあることは、半七も今までまるで知らなかった。なるほど文字清のいう通り、角太郎は継子ままこである。しかも主人の隠し子である。たとい表面は美しく自分の家へ引取っても、おかみさんの胸の奥に冷たい凝塊しこりの残っていることはいなまれない。まして其の後に自分の実子が出来た以上は、角太郎に身代を渡したくないと思うのも女の情としては無理もない。それがこうじて、今度のような非常手段をたくらむということも必ず無いとは受け合えない。半七はこれまで種々の犯罪事件を取り扱っている経験から、人間の恐ろしいということも能く識っていた。

 文字清は無論、和泉屋のおかみさんを我が子のかたきと一途いちずに思いつめているらしかった。

「親分、察してください。わたくしは口惜しくって、口惜しくって……。いっそ出刃庖丁でも持って和泉屋へ暴れ込んで、あん畜生をずたずたに切り殺してやろうかと思っているんですが……」

 彼女は次第に神経がたかぶって、物狂おしいほどに取りのぼせていた。ここでうっかりけしかけるようなことを云ったら、病犬やまいぬのような彼女は誰にくらい付こうも知れなかった。半七は逆らわずに、黙って煙草をすっていたが、やがてしずかに口をあいた。

「すっかり判りました。ようがす。わたしが出来るだけ調べてあげましょう。如才じょさいはあるめえが、当分は誰にも内証にして……」

「いくら自分の子になっているからと云って、角太郎を殺したおかみさんは無事じゃあ済みますまいね。おかみできっとかたきを取って下さるでしょうね」と、文字清は念を押した。

「そりゃあ知れたことさ。まあ、なんでもいいから私にまかせてお置きなせえ」

 文字清をなだめて帰して、半七はすぐに出る支度をした。お粂はあとに残って義姉あねのお仙と何かしゃべっていた。

「兄さん。御苦労さまね。まったく和泉屋のおかみさんが悪いんでしょうか」と、半七の出る時にお粂はうしろからささやくように訊いた。

「そりゃあ判らねえ。なんとか手を着けてみようよ」

 半七はまっすぐ京橋へ向った。いくら御用聞きでも、何の手がかりも無しにむやみに和泉屋へ乗り込んで詮議立てをするわけには行かなかった。彼は鉄物かなもの屋の店さきを素通りして、町内の鳶頭かしらうちをたずねた。鳶頭はあいにく留守だというので、彼はその女房とふた言三言挨拶して別れた。

「これから何処へ行ったものだろう」

 往来に立って思案しているうちに、半七はうしろから自分を追い掛けて来た人のあるのに気がついた。それは五十以上の町人風の男で、悪い生活の人ではないということは一と目にも知られた。男は半七のそばへ来て丁寧に挨拶した。

「まことに失礼でございますが、お前さんは神田の親分さんじゃあございますまいか。わたくしは芝の露月町ろうげつちょうに鉄物渡世をいたして居ります大和屋十右衛門と申す者でございますが、只今あの鳶頭の家へ少し相談があって訪ねてまいりますと、鳶頭は留守で、おかみさんを相手に何かの話をして居ります所へ、お前さんがお出でになりまして……。おかみさんに訊くと、あれは神田の親分さんだというので、好い折柄と存じまして、すぐにおあとを追ってまいりましたのですが、いかがでございましょうか。御迷惑でもちょいとそこらまで御一緒においで下さるわけには……」

「ようございます。おともいたしましょう」

 十右衛門に誘われて、半七は近所の鰻屋へはいった。小ぢんまりした南向きの二階の縁側にはもう春らしい日影がやわらかに流れ込んで、そこらにならべてある鉢植えの梅のおもしろい枝振りを、あかるい障子へ墨絵のように映していた。あつらえのさかなの来るあいだに二人は差し向いで猪口の献酬やりとりを始めた。

「親分もお役目柄でもう何もかも御承知でございましょうが、和泉屋の伜も飛んだことになりまして……。実はわたくしは和泉屋の女房の兄でございます。今度のことに就きまして、死んだ者は今さら致し方もございませんが、さて其の後の評判でございますが……。人の口はまことにうるさいもので、妹もたいへん心配して居りますので……」

 十右衛門は思い余ったように云った。角太郎の変死については生みの母の文字清ばかりでなく、その秘密を薄々知っている出入りの者のうちには、やはり同じような疑いの眼の光りをおかみさんの上に投げている者もあるらしい。十右衛門はそれを苦に病んで、きょうも町内の鳶頭のところへ相談に行ったのであった。

「どうして本身の刀と掏り替っていたか、内々それを調べて貰いたいと存じまして……。万一つまらない噂などを立てられますと、妹が実に可哀そうでございます。兄の口からう申すもいかがでございますが、あれはまったく正直なおとなしい女でございまして、角太郎を生みの子のように大切にして居りましたのに……。それを何か世間にありふれた継母ままはは根性のようにでも思われますのは、いかにも心外で……。ともかくも葬式とむらいはきのう済みましたから、これから何とか致してその間違いの起った筋道を詮議いたしたいと存じて居るのでございます。その筋道がよく判りませんで、妹が何かの疑いでも受けますようでございますと、妹は気の小さい女ですから、あんまり心配して気違いにでもなり兼ねません。それが不憫ふびんでございまして……」と、十右衛門は鼻紙を出してはなをかんだ。

 文字清も気違いになりかかっている。和泉屋のおかみさんも気違いになるかも知れないと云う。文字清の話がほんとうであるか、十右衛門の話がいつわりであるか。さすがの半七にも容易に判断がつかなかった。

「芝居の晩にはおまえさんも無論見物に行っておいでになったんでしょうね」と、半七は猪口ちょこをおいて訊いた。

「はい。見物して居りました」

「楽屋には大勢詰めていたんでしょうね」

「なにしろ楽屋が狭うございまして、八畳に十人ばかり、離れの四畳半に二人。役者になる者はそれだけでしたが、ほかに手伝いが大勢で、おまけに衣裳やらかつらやらがそこら一ぱいで、足の踏み立てられないような混雑でございました。しかしみんな町人ばかりでございますから、そこに大小などの置いてあろう筈はないのでございます。最初にめいめいの小道具類を渡されました時に、角太郎も一々調べて見ましたそうですから、その時には決して間違って居りませんので……。いよいよ舞台へ出るという間ぎわに多分取り違ったか、掏り替えられたか。一体誰がそんなことをしたのか、まるで見当が付きませんので困って居ります」

「なるほど」

 半七は殆ど猪口をそのままにして腕をんでいた。十右衛門も黙って自分の膝の上を眺めていた。一匹の蠅が障子の紙を忙がしそうに渡ってゆく跫音あしおとが微かに響いた。

「若旦那は八畳にいたんですか、四畳半の方ですか」

「四畳半の方におりました。庄八、長次郎、和吉という店の者と一緒に居りました。庄八は衣裳の手伝いをして、長次郎は湯や茶の世話をしていたようでした。和吉は役者でございまして、千崎弥五郎を勤めて居りました」

「それから、おかしなことを伺うようですが、若旦那は芝居のほかに何か道楽がありましたかえ」と、半七は訊いた。

 碁将棋のたぐいの勝負事は嫌いである、女道楽の噂も聞いたことがないと、十右衛門は答えた。

「お嫁さんの噂もまだ無いんですね」

「それは内々きまって居りますので」と、十右衛門はなんだか迷惑そうに云った。「こうなれば何もかも申し上げますが、実は仲働きのお冬という女に手をつけまして……。尤もその女は容貌きりょうも好し、気立ても悪くない者ですから、いっそ世間に知られないうちに相当の仮親でもこしらえて、嫁の披露をしてしまった方が好いかも知れないなどと、親達も内々相談して居りましたのですが、思いもつかないんなことになってしまいまして、つまり両方の運が悪いのでございます」

 この恋物語に半七は耳をかたむけた。

「そのお冬というのは幾つで、どこの者です」

「年は十七で、品川の者です」

「どうでしょう。そのお冬という女にちょいと逢わして貰うわけには参りますまいか」

「なにしろ年は若うございますし、角太郎が不意にあんなことになりましたので、まるで気抜けがしたようにぼんやりして居りますから、とても取り留めた御挨拶などは出来ますまいが、お望みならいつでもお逢わせ申します」

「なるたけ早いがようございますから、お差し支えがなければ、これからすぐに御案内を願えますまいか」

「承知いたしました」

 二人は飯を食ってしまったら、すぐ和泉屋へ出向くことに相談をきめた。十右衛門が待ちかねて手を鳴らした時に、あつらえの鰻をようよう運んで来た。



 十右衛門は急いで箸をとったが、半七は碌々に飯を食わなかった。彼は熱いのをもう一本持って来てくれと女中に頼んだ。

「親分はよっぽど召し上がりますか」と、十右衛門は訊いた。

「いいえ、野暮やぼな人間ですからさっぱりけないんです。だが、きょうは少し飲みましょうよ。顔でもあかくしていねえと景気が付きませんや」と、半七はにやにや笑っていた。

 十右衛門は妙な顔をして黙ってしまった。

 女中が持って来た一本の徳利を半七は手酌でつづけて飲み干した。南に日をうけた暖い座敷で真昼に酒をのみ過したので、半七の顔も手足も歳のまちで売る飾りの海老えびのように真っ紅になった。

「どうです。渋っ紙は好い加減に染まりましたか」と、半七は熱い頬を撫でた。

「はい、好い色におなりでございます」と、十右衛門は仕方なしに笑っていた。

 そうして、こんなに酔っている男を和泉屋へ案内するのは、なんだか心許こころもとないようにも思ったらしいが、今更ことわるわけにも行かないので、かれは勘定を払って半七を表へ連れ出した。半七の足もとは少し乱れて、向うから鮭をさげて来る小僧に危く突き当りそうになった。

「親分。大丈夫ですか」

 十右衛門に手を取られて半七はよろけながら歩いた。飛んだ人に飛んだことを相談したと、十右衛門はいよいよ後悔しているらしく見えた。

「旦那。どうぞ裏口からこっそり入れてください」と、半七は云った。

 しかし、まさかに裏口へも廻されまいと十右衛門は少し躊躇していると、半七は店の横手の路地へはいって、ずんずん裏口の方へまわって行った。その足取りはあまり酔っているらしくも見えなかった。十右衛門は追うように其の後について行った。

「すぐにお冬どんに逢わしてください」

 裏口からはいった半七は、広い台所を通りぬけて女中部屋を覗いたが、そこには三人のあから顔の女中がかたまっていて、お冬らしい女のすがたは見えなかった。

「お冬はどうした」と、十右衛門は障子を細目にあけると、赭ら顔は一度にこっちを振り向いて、お冬はゆうべから気分が悪いというので、おかみさんの指図で離れ座敷の四畳半に寝かしてあると答えた。その四畳半は十九日の晩、角太郎の楽屋にあてた小座敷であった。

 縁伝いで奥へ通ると、狭い中庭には大きな南天が紅い玉を房々と実らせていた。ふたりは障子の前に立って、十右衛門が先ず声をかけると、障子は内から開かれた。障子をあけたのはお冬の枕辺に坐っていた若い男で、お冬は鬢も隠れるほどによぎを深くかぶっていた。男は小作りで色のあさ黒い、額の狭い眉の濃い顔であった。

 十右衛門に挨拶して、若い男は早々に出て行ってしまった。あれが先刻さっきお話し申した千崎弥五郎の和吉ですと、十右衛門が云った。

 衾を掻いやって蒲団の上に起き直ったお冬の顔は、半七がけさ逢った文字清の顔よりも更に蒼ざめてやつれていた。生きた幽霊のような彼女は、なにを聞いても要領を得るほどの捗々はかばかしい返事をしなかった。かれは恐ろしい其の夜の悪夢を呼び起すに堪えないように、唯さめざめと泣いているばかりであった。この二、三日の春めいた陽気にだまされて、どこかで籠の鶯が啼いているのも却って寂しい思いを誘われた。

 お冬の胸に燃えていた恋の火は、灰となってもうくずれてしまったのかも知れない。彼女は過去の楽しい恋の記憶については、何も話そうとしなかった。しかしみじめな彼女の現在については、不十分ながらも半七の問いに対してきれぎれに答えた。旦那やおかみさんは自分に同情して、勿体ないほど優しくいたわってくださると彼女は語った。店の人達のうちでは和吉が一番親切で、けさから店の隙を見てもう二度も見舞に来てくれたと語った。

「じゃあ、今も見舞に来ていたんだね。そうして、どんな話をしていたんだ」と、半七は訊いた。

「あの、若旦那がああなってしまっては、このお店に奉公しているのも辛いから、わたしはもうお暇を頂こうかと思うと云いましたら、和吉さんはまあそんなことを云わないで、ともかくも来年の出代りまで辛抱するがいいとしきりに止めてくれました」

 半七はうなずいた。

「いや、有難う。折角寝ているところを飛んだ邪魔をして済まなかった。まあ、からだを大事にするが好いぜ。それから大和屋の旦那、お店の方へちょいと御案内を願えますまいか」

「はい、はい」

 十右衛門は先に立って店へ出て行った。半七はよろけながら付いて行った。さっきの酔いがだんだん発したと見えて、彼の頬はいよいよほてって来た。

「旦那。店の方はこれでみんなお揃いなんですか」と半七は帳場から店の先をずらりと見渡した。四十以上の大番頭が帳場に坐って、その傍に二人の若い番頭が十露盤そろばんをはじいていた。ほかにもかの和吉ともう一人の中年の男が見えた。四、五人の小僧が店の先で鉄釘かなくぎの荷を解いていた。

「はい。丁度みんな揃っているようでございます」と、十右衛門は帳場の火鉢のまえに坐った。

 半七は店のまん中にどっかりと胡坐あぐらをかいて、更に番頭や小僧の顔をじろじろ見まわした。

「ねえ、大和屋の旦那。具足町で名高けえものは、清正公せいしょうこう様と和泉屋だという位に、江戸中に知れ渡っている御大家ごたいけだが、失礼ながら随分不取締りだと見えますね。ねえ、そうでしょう。しゅう殺しをするような太てえ奴らに、飯を食わして給金をやって、こうして大切に飼って置くんだからね」

 店の者はみんな顔をみあわせた。十右衛門も少し慌てた。

「もし、親分。まあ、お静かに……。この通り往来に近うございますから」

「誰に聞えたって構うもんか。どうせ引廻しの出るうちだ」と、半七はせせら笑った。「やい、こいつら。よく聞け。てめえたちは揃いも揃って不埒な奴だ。主殺しを朋輩に持っていながら、知らん顔をして奉公しているという法があると思うか。ええ、嘘をつけ。このなかに主殺しの磔刑はりつけ野郎がいるということは、俺がちゃんと知っているんだ。多寡たかが守っ子見たような小女一人のいきさつから、大事の主人を殺すというような、そんな心得ちげえの大それた野郎をこれまで飼って置いたのがそもそもの間ちげえで、ここの主人もよっぽどの明きめくらだ。おれが御歳暮に寒鴉かんがらすの五、六羽も絞めて来てやるから、黒焼きにして持薬にのめとそう云ってやれ。もし、大和屋の旦那。おめえさんの眼玉もちっとくもっているようだ。物置へ行って、灰汁あくで二、三度洗って来ちゃあどうだね」

 何をいうにも相手が悪い、しかも酒には酔っている。手の着けようがないので、ただ黙って聴いていると、半七は調子に乗って又呶鳴どなった。

「だが、おれに取っちゃあ仕合わせだ。ここで主殺しの科人とがにんを引っくくっていけば、八丁堀の旦那方にも好い御歳暮が出来るというもんだ。さあ、こいつ等、いけしゃあしゃあとしたつらをしていたって、どの鼠が白いか黒いか俺がもう睨んでいるんだ。てめえ達の主人のような明きめくらだと思うと、ちっとばかりあてが違うぞ。いつ両腕がうしろへ廻っても、決しておれを怨むな。飛んだ梅川の浄瑠璃で、縄かける人が怨めしいなんぞと詰まらねえ愚痴をいうな。嘘や冗談じゃねえ、神妙に覚悟していろ」

 十右衛門は堪まらなくなって、半七の傍へおずおず寄って来た。

「もし、親分。おまえさん大分酔っていなさるようだから、まあ奥へ行ってちっとお休みなすってはどうでございます。店先であんまり大きな声をして下さると、世間へ対して、まことに迷惑いたしますから。おい、和吉。親分を奥へ御案内申して……」

「はい」と、和吉はふるえながら半七の手を取ろうとすると、彼は横っ面をゆがむほどになぐられた。

「ええ、うるせえ。何をしやがるんだ。てめえ達のような磔刑野郎のお世話になるんじゃねえ。やい、やい、なんでひとの面を睨みやがるんだ。てめえ達は主殺しだから磔刑野郎だと云ったがどうした。てめえ達も知っているだろう。磔刑になる奴は裸馬に乗せられて、江戸じゅうを引き廻しになるんだ。それから鈴ヶ森か小塚ッ原で高い木の上へ縛り付けられると、突手つきてが両方から槍をしごいて、科人とがにんの眼のさきへ突き付けて、ありゃありゃと声をかける。それを見せ槍というんだ、よく覚えておけ。見せ槍が済むと、今度はほんとうに右と左の腋の下を何遍もずぶりずぶり突くんだ」

 この恐ろしい刑罰の説明を聴くに堪えないように、十右衛門は顔をしかめた。和吉も真っ蒼になった。ほかの者もみな息をんで、云い知れぬ恐怖に身をすくめていた。どの人も、死の宣告を受けたように、たたきもしないで少時しばしは沈黙をつづけていた。

 冬の空は青々と晴れて、表の往来には明るい日のひかりが満ちていた。



 半七はとうとうそこに酔い倒れてしまった。店の真ん中に寝そべっていられては甚だ迷惑だとは思ったが、誰も迂濶うかつにさわることは出来なかった。

「まあ、仕方がない。ちっとの間、そうして置くが好い」

 十右衛門は奥へはいって、主人夫婦と何か話していた。店のものは思い思いに自分の受け持ちの用向きに取りかかった。やがて小半時こはんときも経ったかと思うと、今まで眠っているように見せかけていた半七は、俄かに起き上がった。

「ああ、酔った。台所へ行って水でも飲んで来よう。なに、おかまいなさるな。わっしが自分で行きます」

 半七は台所へ行かずにまっすぐに奥へまわった。中庭の縁からひらりと飛び降りて、大きい南天の葉の蔭に蛙のように腹這って隠れていた。それから少し間を置いて、和吉の姿がおなじくこの縁先にあらわれた。彼は抜き足をしながら四畳半の障子の前に忍び寄って、内の様子を窺っているらしかった。やがて彼がそっと障子をあけた時、南天の蔭から半七が顔を出した。

 障子の内では男のうるんだ声がきこえた。その声があまりに低いので、半七にはよく聴き取れなかった。しまいには焦れったくなったので、彼はそろそろと隠れ場所から抜け出して、泥坊猫のように縁に這い上がった。

 和吉の声はやはり低かった。しかも涙にふるえているらしかった。

「ねえ。今も云う通りのわけで、わたしは若旦那を殺した。それもみんなお前が恋しいからだ。わたしは一度も口に出したことはなかったが、とうからお前にれていたんだ。どうしてもお前と夫婦になりたいと思い詰めていたんだ。そのうちにお前は若旦那と……。そうして、近いうちに表向き嫁になると……。わたしの心持はどんなだったろう。お冬どん、察しておくれ。それでも私はおまえを憎いとは思わない。今でも憎いとは思っていない。唯むやみに若旦那が憎くってならなかった。いくら御主人でももう堪忍ができないような気になって、わたしは気が狂ったのかも知れない……今度の年忘れの芝居をちょうど幸いに、日蔭町から出来合いの刀を買って来て、幕のあく間ぎわにそっと掏り替えておくと、それが巧く行って……。それでも若旦那が血だらけになって楽屋へかつぎ込まれた時には、わたしも総身に冷水みずを浴びせられたように悚然ぞっとした。それから若旦那がいよいよ息を引き取るまで二日二晩の間、わたしはどんなに怖い思いをしたろう。若旦那の枕もとへ行くたびに、わたしはいつもぶるぶる震えていた。それでも若旦那がいなくなれば、遅かれ速かれおまえは私の物になると……。それを思うと、嬉しいが半分、苦しいが半分で、きょうまでうして生きて来たが……。ああ、もういけない。あの岡っ引はさすがに商売で、とうとう私に眼をつけてしまったらしい」

 彼が死んだような顔をして身をおののかしているのが、障子の外からも想像された。和吉は鼻をつまらせながら又語りつづけた。

「岡っ引は店へ来て、酔っ払っている振りをして、主殺しがこの店にいると呶鳴った。そうして、当てつけらしく磔刑はりつけの講釈までして聴かせるので、私はもうそこに居たたまれなくなった位だ。そういう訳だから私はもう覚悟を決めてしまった。ここの店から縄付きになって出て、牢へ入れられて、引き廻しになって、それから磔刑になる。そんな恐ろしい目に逢わないうちに……わたしは一と思いに死んでしまうつもりだ。くどくも云う通り、わたしは決してお前を怨んじゃあいない。けれどもお前という者のために、わたしが斯うなったと思ったら……勿論お前から云ったら、若旦那を殺した仇だとも思うだろうけれど、わたしの心持も少しは察して、どうぞ可哀そうだと思っておくれ。若旦那を殺したのはわたしが悪い。私があやまる。その代りに私が死んだあとでは、せめて御線香の一本も供えておくれ。それが一生のお願いだ。ここに給金の溜めたのが二両一分ある。これはみんなお前にあずけて行くから」

 声はいよいよ陰って低くなったので、それから後はよく判らなかったが、お冬のすすり泣きをする声もおりおりに聞えた。石町こくちょうの八ツ(午後二時)の鐘が響いた。それに驚かされたように、障子の内では人の起ちあがる気配がしたので、半七は再び南天の繁みに隠れると、縁をふむ足音が力なくきこえて、和吉は縁づたいにしょんぼりと影のように出て行った。泥足をはたいて半七は縁に上がった。

 それから再び店へ行ってみると、和吉の姿はここに見えなかった。帳場の番頭を相手にしばらく世間話をしていたが、和吉はやはり出て来なかった。

「時に和吉さんという番頭はさっきから見えませんね」と、半七は空とぼけて訊いた。

「さあ、どこへ行きましたかしら」と、大番頭も首をかしげていた。「使に出たはずもないんですが……。なんぞ御用ですか」

「いえ、なに。だが、外へでも出た様子だかどうだか、ちょいと見て来てくれませんか」

 小僧は奥へはいったが、やがて又出て来て、和吉は奥にも台所にも見えないと云った。

「それから大和屋の旦那はまだおいでですか」と、半七はまた訊いた。

「へえ。大和屋の旦那はまだ奥にお話をしていらっしゃいますようで……」

「わたしがちょっとお目にかかりたいと、そう云ってくれませんか」

 襖を閉め切った奥の居間には、主人夫婦と十右衛門とが長火鉢を取り巻いて、昼でも薄暗い空気のなかに何かひそひそ相談をしていた。おかみさんは四十前後の人品の好い女で、眉のあとの薄いひたいを陰らせていた。半七はその席へ案内された。

「もし、旦那。若旦那のかたきは知れました」と、半七は小声で云った。

「え」と、こっちへ向いた三人の眼は一度に輝いた。

「お店の人間ですよ」

「店の者……」と、十右衛門は一と膝乗り出して来た。「じゃあ、さっきお前さんがあんなことを云ったのはほんとうなんですか」

「酔った振りしてさんざん失礼なことを申し上げましたが、科人とがにんはお店の和吉ですよ」

「和吉が……」

 三人は半信半疑の眼を見あわせているところへ、女中の一人があわただしくころげ込んで来た。何かの用があって裏の物置へはいると、そこに和吉が首をくくって死んでいたというのであった。

「首を縊るか、川へはいるか、いずれそんなことだろうと思っていました」と、半七は溜息をついた。「さっき大和屋の旦那からいろいろのお話を伺っているうちに、若旦那とお冬どんのことが耳に止まりました。それから芝居のときに若旦那と同じ部屋にいたという和吉のことが気になりました。若旦那とお冬どんと和吉と、この三人を結びつけると、どうしても何か色恋のもつれがあるらしく思われましたから、まずお冬どんに逢ってそれとなく訊いて見ますと、和吉が親切にたびたび見舞に来てくれるという。いよいよおかしいと思いましたから、店へ行ってわざと聞けがしに呶鳴りました。大和屋の旦那はさぞ乱暴なやつだとも思召おぼしめしたでしょうが、正直のところ、わたくしは店のためを思いましたので……。私が彼奴を縛って行くのは雑作ぞうさもありませんが、あいつが入牢じゅろうして吟味をうける。兇状が決まって江戸じゅうを引き廻しになる。吟味中もいろいろの引き合いでこちらが御迷惑をなさるでしょうし、第一ここのお店から引き廻しの科人が出たと云われちゃあ、お店の暖簾のれんに疵が付きましょうし、自然これからの御商売にも障るだろうからと存じましたから、どうかして彼奴を縄付きにしたくない。あいつとても引き廻しや磔刑はりつけになるよりも、いっそ一と思いに自滅した方がましだろうと思いましたので、わざとああ云っておどかしてやったんです。もう一つには、わたくしも確かに彼奴と見極めるほどの立派な証拠を握ってはいないんですから、まあ手探りながら無暗にあんなことを云って見たんで……。もし、まったく本人に何の覚えもないことならば、ほかの人達と同じように唯聞き流してしまうでしょうし、もし覚えのあることならば、とてもじっとしてはいられまいと、こう思ったのが巧く図にあたって、あいつもとうとう覚悟を決めたんです。詳しいことはお冬どんからお聴きください」

 三人はつばんで聴いていた。

「半七さん。いや、恐れ入りました」と、十右衛門は先ず口を切った。「科人を縛るのがお前さんのお役でありながら、自分の手柄を捨ててこの家の暖簾に疵を付けまいとして下すった。そのお礼はなんと申していいか、それに甘えてもう一つのお願いは、どうかこれを表向きにしないで、和吉は飽くまでも乱心ということにして……」

「よろしゅうございます。親御さんや御親類の身になったら、さか磔刑にしても飽き足らねえと思召すでもございましょうが、どんなむごい仕置きをしたからと云って、死んだ若旦那が返るという訳でもございませんから、これも何かの因縁と思召して、和吉の後始末はまあ好いようにしてやって下さいまし」

「重ね重ねありがとうございます」

「だが、旦那、このことは無論内分にいたしますが、江戸中にたった一人、正直に云って聞かせなけりゃあならない者がございますから、それだけは最初からお断わり申して置きます」と、半七は男らしく云った。

「江戸じゅうに一人」と、十右衛門は不思議そうな顔をした。

「この席じゃあちっと申しにくいことですが、下谷にいる文字清という常磐津の師匠です」

 和泉屋の夫婦は顔をみあわせた。

「あの女も今度のことについては、いろいろ勘違いをしているようですから、得心とくしんの行くように私からよく云って聞かせなけりゃあなりません」と、半七は云った。「それから余計なお世話ですが、若旦那のお達者でいるあいだは又いろいろ御都合もございましたろうが、もううなりました上は、あの女にもお出入りを許してやって、ちっとは御面倒を見てやって下さいまし。あの年になっても亭主を持たず、だんだん年はる、頼りのない女は可哀そうですからねえ」

 半七にしみじみ云われて、おかみさんは泣き出した。

「まったくわたしが行き届きませんでした。あしたにも早速たずねて行って、これからは姉妹きょうだい同様に附き合います」


「すっかり暗くなりました」

 半七老人は起って頭の上の電燈をひねった。

「お冬はその後も和泉屋に奉公していまして、それから大和屋の媒妁なこうどで、和泉屋の娘分ということにして浅草の方へ縁付かせました。文字清も和泉屋へ出入りをするようになって、二、三年の後に師匠をやめて、やはり大和屋の世話で芝の方へ縁付きました。大和屋の主人は親切な世話好きの人でした。

 和泉屋は妹娘のお照に婿を取りましたが、この婿がなかなか働き者で、江戸が東京になると同時に、すばやく商売替えをして、時計屋になりまして、今でも山の手で立派に営業しています。むかしの縁で、わたくしも時々遊びに行きますよ。

 八笑人でもお馴染みの通り、江戸時代には素人のお座敷狂言や茶番がはやりまして、それには忠臣蔵の五段目六段目がよく出たものでした。衣裳や道具がむずかしくないせいもありましたろう。わたくしもよんどころない義理合いで、幾度も見せられたこともありましたが、この和泉屋の一件があってから、不思議に六段目が出なくなりました。やっぱり何だか心持がよくないと見えるんですね」

底本:「時代推理小説 半七捕物帳(一)」光文社文庫、光文社

   1985(昭和60)年1120日初版1刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:湯地光弘

1999年510日公開

2012年611日修正

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