半七捕物帳
春の雪解
岡本綺堂
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「あなたはお芝居が好きだから、河内山の狂言を御存知でしょう。三千歳の花魁が入谷の寮へ出養生をしていると、そこへ直侍が忍んで来る。あの清元の外題はなんと云いましたっけね。そう、忍逢春雪解。わたくしはあの狂言を看るたんびに、いつも思い出すことがあるんですよ」と、半七老人はつづけて話した。「勿論お話の筋道はまるで違いますがね。舞台は同じ入谷田圃で、春の雪のちらちら降る夕方に、松助の丈賀のような按摩が頭巾をかぶって出て来る、その場面の趣があの狂言にそっくりなんですよ。まあ、聴いてください。わたくしの方は素話で、浜町の太夫さんの粋な喉を聴かせるなんていうわけには行かないんですから、お話に艶はありませんがね」
慶応元年の正月の末であった。神田から下谷の竜泉寺前まで用達に行った半七は、七ツ半(午後五時)頃に先方の家を出ると、帰り路はもう薄暗くなっていた。春といっても此の頃の日はまだ短いのに、きょうは朝から空の色が鼠に染まって、今にも白い物がこぼれ落ちそうな暗い寒い影に掩われているので、取り分けて夕暮が早く迫って来たように思われた。先方でも傘を貸してやろうと云ってくれたが、家へ帰るまで位はどうにか持ちこたえるだろうと断わって、半七はふところ手でそこを出ると、入谷田圃へさしかかる頃には、鶴の羽をむしったような白い影がもう眼先へちらついて来たので、半七は手拭を出して頬かむりをして、田圃を吹きぬける寒い風のなかを突っ切って歩いた。
「ちょいと、徳寿さん。おまえさんも強情だね。まあ、ちょいと来ておくれと云うに……」
女の声が耳にはいったので、半七はふと見かえると、どこかの寮らしい風雅な構えの門の前で、年頃は二十五六の仲働きらしい小粋な女が、一人の按摩の袂をつかんで曳き戻そうとしているのであった。
「お時さん。いけませんよ。きょうはこれから廓にお約束があるんですから、まあ堪忍しておくんなさいよ」と、按摩は逃げるように振り切って行こうとするのを、お時という女はまた曳き戻した。
「それじゃああたしが困るんだからさ。按摩さんはほかにも大勢あるけれども、花魁はお前さんが御贔屓で、ほかの人じゃあいけないと云うんだから、素直に来てくれないと、あたしが全く困るんだよ」
「御贔屓にして下さるのはまことにありがたいことで、いつもお礼を申しているのでございますが、きょうは何分にも前々からのお約束がありますので……」
「嘘をおつきよ、お前さんは此の頃毎日そんなことを云っているんだもの。花魁だってあたしだって本当に思うかね。ぐずぐず云ってないで早く来ておくれよ。焦れったい人だねえ」
「でも、いけませんよ。まったくきょうばかりは堪忍して下さい」
どっちもなかなか強情で、容易に埒が明きそうにもなかった。しかし格別に面白そうな事件でもないので、半七は好い加減に聞き流して通り過ぎた。雪は景色ばかりで、家へ帰りつく頃には歇んでしまったが、それから陰った日が二日ほどつづいた。三日目に半七はふたたび竜泉寺前へ行かなければならない用事が出来た。
「きょうこそはあぶねえ」
かれは雨傘を用意してゆくと、大きい雪が果たして落ちて来た。帰りはやはり七ツ過ぎになって、入谷の田圃はもう真っ白に埋められていた。重い傘をかたげて、このあいだの寮の前まで来ると、日和下駄の前鼻緒があいにく切れた。半七は舌打ちをしながら塀ぎわに身を寄せて、間にあわせにつくろっていると、雪を踏む下駄の音がきこえて、門の中からこの間の女が飛石伝いに出て来た。
「まあ、いつの間にか積ったこと」
独り言を云いながら、彼女は人待ち顔にたたずんでいたが、傘を持っていない彼女は髪を打つ雪に堪えないと見えて、やがて内へ引っ返してしまった。
手が亀縮んでいるので、鼻緒を立てるのに暇がかかって、半七はようように下駄を突っかけて、泥だらけの手を雪で揉んでいるころへ、このあいだの按摩が馴れた足取りですたすた歩いて来た。その下駄の音を聞き付けたとみえて、女は待ち兼ねたように内からぬけ出して来た。前に懲りたのであろう。今度は傘をすぼめて差していた。
「徳寿さん。きょうは逃がさないよ」
呼びかけられて、按摩はおびえたように立ち停まったが、きょうも何か頻りに云い訳して摺り抜けて行こうとするのを女はまた曳き戻した。こうした捫着がたびたび続くので、半七も少しおかしく思って、もうつくろってしまった泥下駄を再びいじくるような風をして横眼でそっと窺っていると、按摩はあくまでも強情に振り切って、きょうも逃げるように此処を立ち去ってしまった。
「ほんとうにしようのない人だねえ」
口小言を云いながら女は内へ引っ込んだ。そのうしろ姿の消えるのを見送って、半七はもう五、六間ゆき過ぎている按摩の傘の白い影を追った。彼はうしろから声をかけた。
「おい、按摩さん。徳寿さん」
「はい、はい」
聞き慣れない声に按摩は少し首をかしげて立ち停まると、半七は傘をならべて立った。
「徳寿さん。寒いね。べらぼうに降るじゃあねえか。おまえにゃあ廓で二、三度厄介になったことがあったっけ。それ、このあいだも近江屋の二階でよ」
「はあ、左様でございましたか。年を取りますと、だんだんに勘がわるくなりまして、御贔屓様に毎々失礼をいたして相済みません。旦那もこれから廓へお出かけでございますか。こういう晩にお通いもまたお楽しみなものでございます。わが物と思えば軽し傘の雪とか申しましてね。ははははは」
こっちの出鱈目を知っているのか、知らないのか、徳寿は如才なく調子をあわせた。
「なにしろ悪く寒いね」
「この二、三日は冴え返りました」
「これから田圃を突っ切るのは楽じゃあねえ。どうだい、あすこで蕎麦の一杯も啜り込んで威勢をつけて行こうじゃねえか。おまえも附き合わねえか。廓へはいるのはまだちっと早かろう」
「はい、はい、どうも御馳走さまでございます。わたくしは下戸でございますけれど、御酒を召しあがるお方は一杯あがらなければ、この田圃はちっと骨が折れます。はい、はい、ありがとうございます」
一町ばかりを引っ返して、半七は小さな蕎麦屋の暖簾をくぐると、徳寿は頭巾の雪をはたきながら、古びた角火鉢へ寒そうに咬り付いた。半七は種物と酒を一本あつらえた。
「これはあられでございますね。江戸前の種物はこれに限ります。海苔の匂いも悪くございませんね」と、徳寿は顔じゅうを口にして、蕎麦のあたたかい匂いを嬉しそうに嗅いでいた。
蕎麦屋の女房は門の行燈に灯を入れると、その薄暗い灯かげに照らされて、花びらのような大きい雪が重そうにぼたぼた落ちているのが暖簾越しに見えた。一本の酒をやがて半分ほど飲んだ頃に、半七は話し出した。
「徳寿さん。おまえが今あすこで立ち話をしていたのは何処の寮だえ」
「旦那はあの辺においでなさいましたか。ちっとも存じませんで。はははは。いえ、あすこは廓の辰伊勢という家の寮でございますよ」
「先方じゃあ頻りに呼び込もうとするのを、おまえは無暗に逃げていたじゃあねえか。廓の寮ならば好いお得意様だ」
「ところが、旦那。どうもあすこは工合が悪いんでしてね。いえ、別に代をくれないの何のという訳じゃないんですが、なんですかこう、気味の悪いような家でしてね」
半七は飲みかけた猪口をおいた。
「気味の悪い家……。そりゃあどういうんだね。まさかに化けものが出る訳でもあるめえ」
「へえ、別にそんな噂もないんですが、わたくしはどうも気味が悪うございまして……。あすこで呼ばれると何だがぞっとして、逃げるように断わって来るんですよ」と、徳寿は鼻の頭の汗を手の甲で拭きながら云った。
「変な話だね」と、半七は笑った。「どういうわけで気味が悪いんだろう。判らねえな」
「わたくしにも判りません。ただ何となしに襟もとから水を浴びせられたように、からだ中がぞっとするんです。眼が見えませんからなんにも判りませんけれど、なにかこう、おかしなものが傍にでも坐っているような工合で……。まったく変でございますよ」
「一体あの寮には誰が来ているんだね」
「誰袖さんという花魁でございます。二十一二の勤め盛りで、凄いような美い女だそうでございますが、去年の霜月頃から用事をつけて、あの寮へ出養生に来ているんでございますよ」
「暮から春へかけて店を引いているようじゃあ、よっぽど悪いんだろうね」
それ程でもないらしいと徳寿は云った。勿論、盲人の彼には詳しい様子もわからないが、いわゆるぶらぶら病いで寝たり起きたりしているらしいとの事であった。それにしても、その辰伊勢の寮がなぜそれほどに気味が悪いというのか、その仔細が半七には判らなかった。徳寿がもうたくさんだと辞退するのを、無理に蕎麦の代りを取らせて、かれは酒を飲みながらおもむろにその仔細を訊き出そうとした。
「それが何と云って、お話のしようもないんですよ」と、徳寿は顔をしかめてささやいた。
「まあ、旦那。聞いてください。わたくしが奥へ通されて、花魁の肩を揉んでいますと……大抵いつも夜か夕方ですが……花魁のそばに何か来て坐っているような工合で……。いいえ、それが新造衆や女中達じゃありません。そんな人達ならば何とか口を利くでしょうが、初めから終いまで一度も口を利いたこともないので、座敷のうちは気味の悪いほどにしんとしているんです。まあ、早く云えば、幽霊でも出て来て、黙っているんじゃないかと思われるようで……。わたくしは身体がぞっとして、どうにもこうにも我慢が出来ないんでございます。それですから、仲働きのお時さんには気の毒ですけれども、この頃は無理に振り放して逃げてくるので……。いえ、もう、一軒のお得意ぐらいはしくじっても仕方がございません」
なんだか理窟があるような、理窟がないような、一種奇怪な物語をこの盲人から聞かされて、半七も黙ってかんがえていた。日が暮れても雪はまだ降りやまないらしく、白い花びらが暖簾をくぐって薄暗い土間へときどき舞い込んで来た。
もとより盲の云うことで、別に取り留めた証拠もないのであるが、半七はそれを一種の不思議な話として、ただ聞き流してしまうわけには行かなかった。彼はあくまでその不思議の正体を突き止めたかった。その晩は徳寿に別れて、神田の家へまっすぐ帰ったが、あくる朝、浅草の馬道にいる子分の庄太を呼びにやった。
「おい、庄太。廓は田町の重兵衛の縄張りだが、おれが少しちょっかいを出して見たいことがあるんだ。てめえ一つ働いてくれ。江戸町に辰伊勢という女郎屋があるだろう。あすこの誰袖という女のことを少し洗って貰いてえんだ」
「誰袖は入谷の寮に出ていると云うじゃありませんか」と、庄太は心得顔に云った。
「それを調べてくれと云うんだ。実は少しおれの腑に落ちねえことがあるから……。つまりあの女には情夫でもあるか、なにか人から恨みでも受けているようなことでもあるか。それから如才もあるめえが、その辰伊勢という店の内幕も一と通りは調べあげてくれ」
「わかりました。二、三日中にはみんな調べあげてまいります」
庄太は受け合って帰った。二、三日という約束が四、五日を過ぎても、庄太は顔を見せなかった。あいつ何をしているのだろうと思ったが、一日を争う仕事でもないので、半七もそのまま打っちゃって置くと、二月の初めになって庄太がぶらりと訪ねて来た。
「親分。申し訳がありません。実は小せえ餓鬼が麻疹をやったもんですから」
「そりゃあいけねえな。軽く済みそうか」
「へえ、好い塩梅に軽そうです」と、庄太は云った。「そこで親分、例の辰伊勢の一件ですが、まあ一と通りは洗って来ましたよ」
庄太の報告によると、辰伊勢は江戸町でも可なり売ったが、安政の大地震のときに、抱えの遊女を穴倉へ閉じ籠めて置いて、みんな焼き殺してしまったとかいうので、それから兎角にけちがついて、商売の方もあまり思わしくない。尤も吉原では暖簾の旧い店でもあり、ほかにも地所や家作などをもっているので、まず相当に店を張っている。当時はおまきというのが女主人で、永太郎という今年二十歳の伜の後見をしているが、死んだ亭主と違って、おまきは情けぶかい方で世間の評判も悪くない。誰袖はお職から二枚目の売れっ妓で、去年の二の酉が済んだ頃から入谷の寮に出養生をしているが、女に似合わない大酒であるから、酒毒で胸を傷めたのだろうという噂である。年は二十一で、下谷の金杉の生まれだと女衒が話した。
「いや、御苦労。まずそれで一と通りは判った」と、半七はうなずいた。「そこで、その女には情夫とか何とかいう者はねえのか。それだけの売れっ妓なら何かあるだろう」
「それがはっきりと見当が付かねえそうで……。もちろん馴染みの客は大勢あるんですが、なかなか手取り者らしいんで、どれがほんとうの情夫なんだか、店の者にもよく判っていないということです。これには私も困りましたよ」
それだけのことでは、半七も考えの付けようがなかった。
「きょうは嬶が留守だから、見舞はいずれ後から届けるが、小児が病気じゃあ困るだろう。まあ、取りあえずこれだけ持って行け」
半七は庄太に幾らかの金をやって、まあ午飯でも食っていけと云うと、庄太は喜んで鰻飯の馳走になった。その間に彼は又こんなことを話した。
「こりゃあ別の話ですがね。やっぱり金杉の方から吉原へ辻占を毎晩売りに来る娘があるんです。十六七で、容貌がいいのに声がいいというので、廓でもだいぶ評判になって、素見なんぞは大騒ぎをしていたんだが、それがどうしてか、去年の暮頃からちっとも姿を見せなくなってしまったので、おせっかいの奴らがいろいろ詮議したがどうもわからない。たぶん情夫でも出来て、駈落ちでもしたんだろうということになってしまったんですが、田町の重兵衛はそれに何か目星をつけた事でもあるのか、子分に云い付けてその娘のゆくえを捜させているそうです」
「そうか」と、半七は考えた。「そんなことがあるのか。おらあちっとも知らなかった。土地のことだけに重兵衛は眼が早えな。その辻占売りの娘というのは容貌がいいんだな。年は十六七……。むむ、間違げえのありそうな年頃だ。名はなんというんだ」
「おきんというんだそうです。親分も何かお考えがありますか」
「まだ確かなことは云えねえが、少し胸に浮かんだことがある。まあ無駄足だと思って、その金杉へ行ってみようよ。おまえも御苦労だが、一緒に来てくれ」
「ようがす」
飯を食ってしまって、二人はすぐに金杉へ行った。きょうはのどかな日で、上野の森の上には薄紅い霞が流れていた。
「誰袖の家は金杉だな」と、半七は途中で云った。「どっちを先にしようか。まあ、やっぱりその辻占売りの方から取りかかろう。おまえ、そのおきんという娘の家を知っているのか」
庄太は知らないと云った。どうで根よく探すのは覚悟の上であるから、二人はあたたかい日を背負いながら金杉の方へぶらぶら歩いて行った。そのうちに何を見付けたのか、半七は急に立ち停まった。
「おい、徳寿さん、どうしたい」
按摩の徳寿は杖にすがってちょっと考えたが、勘のいい彼はこのあいだの蕎麦屋の旦那の声を忘れなかった。彼は頻りにその時の礼を云っていた。
「よいお天気になりまして結構でございます。旦那様、今日はどちらへ……」
「丁度いい所でおまえに逢った。お前もこの近所だそうだが、ここらにおきんという辻占売りの家はねえかしら」
「へえ。おきんはわたくしの近所におりましたが、昨年の暮から何処へか行ってしまいましたよ」
「本人はいなくっても、親か兄妹があるだろう。ひとり者じゃあるめえ」
「それが旦那。こういう訳なんでございますよ」と、徳寿は仔細らしく話した。
「おきんは兄貴と二人で暮していたんですが、その兄貴の寅松というのは博奕打ちの道楽者でしてね。おきんのゆくえが知れなくなると、それから半月ばかり経って、これも何処へか夜逃げのように姿を隠してしまいました。なんでも博奕場で喧嘩をして、人に傷をつけたとかいうので、それが面倒になって何処へか飛んで行ってしまったらしいんです。そういうわけですから、家はもう空店になってしまって、二、三日中にほかの人が越して来るとかいう噂でございます」
田町の重兵衛が眼をつけているのは、おきんの問題より恐らくこの寅松に関係している事件であろうと半七は想像した。かれは更に徳寿に訊いた。
「あの辰伊勢の寮にいる誰袖という女も、やっぱり金杉の近所の者だというじゃあねえか。お前、知らねえか」
「存じて居ります。誰袖さんの花魁も金杉の生まれで、やっぱりおきんの近所で育ったんだそうですが、両親ともにもう死に絶えてしまいまして、これも跡方はございませんよ」
すべての手掛りが断えてしまったので、半七は失望させられた。それでも彼は強情にこの按摩から何かの手蔓を探り出そうと試みた。今もむかしも根気が乏しくては出来ない仕事である。
「ねえ、徳寿さん、このあいだ聞いていりゃあ、その誰袖の花魁は大変おまえを贔屓にして、ほかの按摩さんじゃいけねえと云っているというじゃあねえか。おかしなことを訊くようだが、どうしてお前、そんなに花魁の気に入ったんだえ。揉み方の上手ばかりじゃあるめえ。何かほかに訳があるだろう」
「へえ」と、徳寿はにやにや笑っていた。
半七と庄太は顔を見あわせた。なんと思ったか、半七は紙入れから一歩の銀を出して徳寿の手に握らせた。そうして、ちょいと其処まで来てくれと云って、彼を左側の横町へ連れ込んだ。柳原家の抱え屋敷と安楽寺という寺の間をぬけると、正面には一面の田畑が広く開けていた。田の畔を流れる小さい水のはたで、子供が泥鰌をすくっているほかに、人通りもないのを見すまして、半七はまた訊いた。
「おまえ、隠しちゃあいけねえ。こんな野暮なことを云いたくねえが、おれは実はふところに十手を持っているんだ」
徳寿は俄かに顔の色を変えて、おし潰されたように、小腰をかがめた。わたくしの知っているだけの事はなんでも申し上げますと、かれはふるえながら答えた。
「じゃあ、正直に云ってくれ。おまえ、誰袖に頼まれて、なにか内証の文使いでもするんじゃあねえか」
「恐れ入りました」と、徳寿は見えない眼をとじて頭を下げた。「お察しの通りでございます」
「その文使いをする相手は誰だ」
「それは辰伊勢の若旦那でございます」
半七と庄太は顔をみあわせた。
徳寿の話はこうであった。
誰袖はおととしの秋頃から主人の伜の永太郎と忍び逢っている。突き通しは廓の禁物で、それが知れると面倒であるから、誰袖は病気にかこつけて入谷の寮へたびたび出養生にゆく。そこへ永太郎が忍んでゆく。普通の店と違って、女主人が情けぶかいのと、誰袖が売れっ妓であるのとで、辰伊勢の店でも余りやかましくは云わないで、誰袖を寮の方へ出してやる。万事の首尾は仲働きのお時が呑み込んでいて、ほかの者にはちっとも知らさなかった。
若主人の永太郎はまだ部屋住みも同様の身の上で、勝手に店をあけて度々出あるくわけにもゆかないので、誰袖が寮に出ているあいだも毎日かならず逢いに来ることは出来なかった。女はそれをもどかしく思って、男が二日も顔をみせないとすぐに呼び出しの手紙をやる。その文使いの役は徳寿であるので、彼が誰袖に可愛がられるのも無理はなかった。
「それほど可愛がってくれるところへ、お前はなぜ忌がって寄り付かねえんだ」と、半七はまた訊いた。「あとの係り合いが面倒だと思うのか」
「それもありますが……。それはおかみさんがいい人ですから、そうむずかしいこともあるまいと思いますが……。このあいだも申し上げました通り、あすこの寮へ行って、花魁のそばに坐っていますと、何だかぞっとしてどうしても我慢が出来ないのでございます。どういう訳ですか、自分にも一向わかりません」と、徳寿も思案に余るような顔をして見せた。
「あすこの店で此の頃に死んだ女でもあるかえ」
「そんな話は聞きません。大地震の時には大勢死んだそうですが、その後は一人も無いようです。なにしろ、先の旦那と違って、おかみさんも若旦那も善い人ですから、抱えの妓どもをいじめたという噂も無し、心中した妓もないようです」
「よし、判った。きょうのことは誰にも云っちゃあならねえぜ」
口止めをして半七は徳寿に別れた。
「どうしても、今度はその寅松という野郎を探し出さなけりゃあならねえ」
半七は寅松兄妹が住んでいたという裏長屋をたずねて、その家主に逢った。家主も兄妹のゆくえを知らなかった。しかし去年の押し詰まりに、寅松がどこからかそっと舞い戻って来て、近所の寺へ幾らかの金を納めて行ったという噂があると話した。二人はすぐに其の寺をたずねてゆくと、寺でも最初はあいまいなことを云っていたが、結局去年の暮の十五日に寅松が不意に顔を出して、五両の金を納めて行ったと打ち明けた。
「寅松の両親はこの寺に埋まっているんですが、なにしろあの通りの道楽者ですから、近所にいながら盆暮の附け届けも碌々したことはないんです。それが何と思ったか、不意にたずねて来て、なにぶん御回向を頼むと云って五両という金をめずらしく置いて行きました」と、住職も不思議そうに話した。「そうして、こんなことを云っていました。妹も先頃からゆくえ知れずになってしまって、何処にどうしているか判らないから、家出の日を命日だと思って、どうか御回向を願いたい……。わたくしが承知してやったら、寅松もたいそう喜んで、礼を云って帰りました」
寺を出ると、庄太はささやいた。
「なるほど、寅松という野郎は変ですね」
「むむ。どうしても野郎を引き挙げなけりゃあいけねえ。博奕を打つというから友達もあるだろう。おめえ、なんとか工夫してそいつの居どこを突き留めてくれ」
「ええ、なんとかなりましょう」
「頼んだぜ」
二人は約束して別れた。そのあくる日、半七の女房が馬道の庄太の家へ見舞にゆくと、子供の麻疹が思いのほかに重くなって、庄太夫婦も手放すことが出来ないらしかった。その話を聴いて、寅松の一件も当分は埒があくまいと半七は思っていると、果たして庄太はその後ちっとも姿をみせなかった。二月にはいってから暖い日和がつづいたので、もう春が来たものと欺されていると、それから四、五日たって夕方から急に寒くなって来た。夜中から降り出したと見えて、朝起きてみると真っ白になっていた。
「春の雪だ。大したことはあるめえ」
こう云っているうちに雪はやんで、四ツ(午前十時)頃には、屋根から融けて落ちる音が忙がしそうにきこえた。この二、三日はさしかかった用もないので、半七は午飯をすませるとすぐに家を出た。庄太のたよりを何時までもぼんやり待っていられないと思ったので、彼は雪解け路をたどって金杉へ出かけた。徳寿の家をたずねて、彼をそっと呼び出すと、徳寿はすぐに出て来た。
「路のわるいのに気の毒だが、このあいだのところまで来てくれねえか。おれが手を引いてやるから」
「なに、大丈夫でございます」
屋敷と寺の間をぬけて、二人は雪の残っている田圃路に立った。
「早速だが、その後に辰伊勢の寮へ行ったかえ」と、半七は訊いた。
「どうしまして」と、徳寿は頭を振った。「それにお時さんの方でも根負けがしたと見えて、もう無理に呼び込もうともしませんから、わたくしの方でも仕合わせでございます。それに辰伊勢の店の方で聞きますと、お時さんももう暇を出されるんだとかいうことです。ところが、お時さんの方じゃあ容易に動かないというので、なんだか内輪ではごたごたしているようでございますよ」
「お時という女の家はどこだえ」
「本所だとかいうことですが、わたくしもよく存じません」
「そうか。路の悪いのにわざわざ呼び出して済まなかった。これも御用だ。堪忍してくんねえ」
徳寿を帰してやって、半七はしばらく考えた。いろいろの材料がそれからそれへとあつまって来ながら、彼はそれを取りまとめて一つの断案を下すことが出来なかった。一体自分は何を調べているのか、それも確かな見当は付いていなかった。取り留めのない按摩の話を手がかりにして辰伊勢の寮を探ろうとしているうちに、辻占売りの娘の駈落ち事件に突きあたった。この二つが結び付いているものか、或いはまったく無関係の出来事か、それもまだ想像が付かなかった。折角調べあげたところで、それが果たしてどれほどの効果を生み出すか、それも一切判らなかった。併し一種の好奇心ばかりでなく、半七はどうも此の事件をそのままに投り出してしまいたくなかった。なんだか此の事件には深い奥行きがありそうに思われてならなかった。
「骨折り損だと思って、もう少しほじって見ろ」
彼は上野の山下まで用達に行って、すぐに家に帰ろうとしたが、また思い返して入谷田圃へ足を向けた。雪あがりの底冷えのする日で、田圃へ出る頃にはすっかり暮れてしまった。お荷物になる傘をさげて、雪解け路を一と足ぬきに歩きながら、辰伊勢の寮のそばまで来ると、門のなかから一人の女が出て来た。顔は確かにみえないが、その格好がどうもかのお時らしいので、半七はすぐにその後を尾けてゆくと、女はこの間の蕎麦屋へはいった。
こっちの顔を識っている筈はないと多寡をくくって、半七も少しあとからその暖簾をくぐると、狭い店にはお時のほかにもう一人の男が来ていた。唐桟の半纒を着て平ぐけを締めたその男の風俗が、堅気の人間でないことは半七にもすぐに覚られた。男は二十五六で、色のあさ黒い立派な江戸っ子であった。彼はここでお時を待ち合わせていたらしく、女と向い合って酒を飲んでいた。半七は隅の方に坐って、好い加減な誂え物をした。
男も女も時々こっちを後目に視ていたが、格別に気を置いてもいないらしく、火鉢に仲よく手をかざしながら、小声でしきりに話していた。
「もうこうなっちゃあ、仕方がないやね」と、女は云った。
「おれが出なけりゃあ幕が閉まらねえかな」と、男は云った。
「ぐずぐずしていて……。心中でもされた日にゃあ玉無しだあね」と、女は小声でおどすように云った。
それから先きは聴き取れなかったが、心中という一句を聞いて、半七は胸をおどらせた。おそらく誰袖という女が心中するのであろうと思われた。
事件はいよいよこぐらかって来たらしいので、半七も息をのみ込んで耳を澄ましていたが、話はよほどこみいった相談らしく、女の声はいよいよひそめいて、眼と鼻のあいだにいる半七の耳にも其の秘密を洩らさなかった。じれったいのを我慢して、ただその成り行きを窺っていると、二人はやがて相談を決めたらしく、勘定を払ってここを出た。
二人をやり過ごして、半七も起った。かれは蕎麦の代を払いながら女に訊いた。
「おかみさん。今出て行った女は辰伊勢の寮のお時さんというんだろう」
「左様でございます」
「連れの男は誰だえ」
「あれは寅さんという人でございます」
「寅さん」と、半七の眼は光った。「寅松というんじゃねえか。辻占売りのおきん坊の兄貴の……え、そうかえ」
「よく御存じでございますね」
半七は急に面白くなって来た。かれは好い加減に挨拶して表へ出ると、一本路をならんでゆく二人のうしろ影が、消え残っている雪明かりに薄黒く見えた。半七は足もとに気をつけながら、大根卸しのように泥濘っている雪解け路を辿ってゆくと、二人の影は辰伊勢の寮の前で止まった。ここでも又何かささやいているようであったが、二つの影はやがて離れて、女は門のなかへ消えた。
男はどうするかと見ていると、彼はまた引っ返して元来た方角へ歩き出そうとして、自分のあとを尾けて来た半七とちょうど向い合った。一本路をすれ違って行こうとする彼を、半七は追うように呼び止めた。
「おい、あにい、寅大哥」
寅松は黙って立ち停まった。
「おめえ、久しく顔を見せねえじゃあねえか。どこに引っ込んでいたんだ」と、半七は続けて馴れ馴れしく声をかけた。
「おめえは誰だ」と、寅松は薄暗いなかで用心深そうに透かして視た。
「まあ、誰でもいいや。孔雀長屋の二階で二、三度逢ったことがあるんだ」
「嘘をつけ」と、寅松は身構えをしながら云った。「てめえは今、そこの蕎麦屋にいた野郎だろう。どうも面付きが気に食わねえと思った。田町の重兵衛の子分にてめえのような面を見たことはねえ。てめえ達の食い物になる俺じゃあねえ。おれを連れて行きたけりゃあ重兵衛を呼んで来い」
「大哥、ひどく威勢が好いな」と、半七はあざわらった。「まあ、なんでもいいから其処までおとなしく来てくれ」
「馬鹿をいえ。今度伝馬町へ行けば仕舞い湯だ。てめえ達のような下っ引にあげられて堪まるものか。もち竿で孔雀を差そうとすると、ちっとばかり的がちがうぞ。おれを縛りたけりゃあ立派に十手と捕り縄を持って来い」
むやみに気が強いので、半七も持て余した。もうこうなれば忌でも泥仕合いをするよりほかはない。この雪あがりに厄介だとは思ったが、多寡が遊び人ひとりを手捕りするのはさのみむずかしくもない。もう腕ずくで引き摺って行こうと思った。
「やい、寅。てめえのような半端人足を相手にして、泥沫をあげるのもいやだと思って、お慈悲をかけてやりゃあ際限がねえ。おれは立派に御用の十手を持っているが、てめえを縛ってから後で見せてやる。さあ、素直に来い」
一と足すすみ寄ると、寅松は一と足さがってふところに手を入れた。岡っ引を相手に刃物などを振り廻すのは素人である。こいつは口ほどでもない奴だと半七はすぐに多寡をくくってしまった。
併しその素人がかえって剣呑であるから、彼は相手の胆をおびやかすために一つ呶鳴った。
「寅松。御用だ。神妙にしろ」
この途端に、誰か半七のうしろから忍んで来て、両手でその眼隠しをする者があった。不意を喰らって彼もすこし慌てたが、その手触りでそれが女の手であることを半七はすぐに覚った。女は云うまでもなく、かのお時であろう。彼は肩を沈めて相手の腕を引っ掴むと同時に自分の爪先へ投げ出すと、その上を飛び越えて寅松が突いて来た。かれの手には匕首が光っていた。
「御用だ」と、半七はまた叱った。
寅松の刃は空を二、三度突いて、彼のからだが右へ左へただようとみるうちに、右の手につかんでいる刃物はもう叩き落されてしまった。左の手首には縄がかかっていた。相手がなみなみの者でないと覚って、かれは急に弱い音を吹き出した。
「親分。どうもお見それ申しました。お手数をかけてまことに申し訳がございません。まあ、勘弁して下さいまし」
「今だから行って聞かせる。おれは神田の半七だ」と、半七は名乗った。「往来なかじゃあどうにもならねえ。おい、お時。てめえもかかり合いだ。主人の家へ案内しろ」
泥まぶれになって這い起きたお時と、縄付きの寅松とを引っ立てて、半七は辰伊勢の寮へはいると、奥から小女が泣き声をあげて駈け出して来た。
「若旦那と花魁が……」
辰伊勢の息子と誰袖とは、奥の八畳の座敷に逆さ屏風を立てまわして、二人ともに剃刀で喉を突いていたのであった。
「その時にはわたくしも面喰らいましたよ」と、半七老人は云った。「なるほど、お時の口から心中というようなことを聞いていましたが、さすがに今すぐとは思いませんでしたからね。なにしろ、一方には縄付きが二人出る。一方には二人の死骸の検視を受ける。辰伊勢の寮は大騒ぎで。それからそれへと噂が立ったと見えて、夜の更けるまで門の前はいっぱいの人でしたよ」
「辰伊勢の息子と誰袖はどうして心中したんです。それが又なにかお時と寅松とに関係があるんですか」
私にはまだその訳がちっとも判らなかった。半七老人は更に詳しく説明してくれた。
「その誰袖という女は人殺しをしているんです。辻占売りのおきんという娘を殺したのは誰袖の仕業なんです。なぜそんなことをしたかと云うと、前にもお話し申した通り、誰袖は主人の伜の永太郎と深い仲になって、証文を踏み倒すの何のという魂胆でなく、男にほんとうに惚れ抜いていたんです。すると、どうしたはずみか、その永太郎が辻占売りの評判娘と関係が出来てしまったので、誰袖はそれを聞いてひどく口惜しがって……。ああいう商売の女のやきもちは人一倍で、そりゃあ実におそろしいもんですからね。ふだんから仲好しの仲働きに云い付けて、おきんが廓から夜遅く帰って来るところを、無理に寮のなかへ呼び込んで、さんざん怨みを云った上で、まあひどいことをするじゃありませんか。打ったり抓ったりした揚句に、自分の細紐でおきんをとうとう絞め殺してしまったんです。まさかにそんなことにはなるまいと思っていたので、仲働きのお時も一時はびっくりしたんですが、こいつがなかなかしっかり者で、しかもおきんの兄貴の寅松という遊び人と、とうから情交があったんです」
「不思議な因縁ですね」
「そういうわけで、おきんも前からお時を識っているので、ついうかうかと辰伊勢の寮へ引っ張り込まれて飛んだ災難に逢うことになったのでしょう。そこで、お時はすぐに兄貴の寅松を呼んで来て、なにもかも打ち明けて後の始末を相談すると、寅松もびっくりしたんですが、こいつも根が悪い奴ですから、自分の情婦の頼みといい、内分にすれば纒まった金がふところにはいると聞いて、妹のかたきを取ろうという料簡も無しに素直に承知してしまったんです。そして寮の床下を深く掘って、おきんの死骸をそっと埋めて、みんなが素知らん顔をしていたんです。何でもその口止めに差当り百両の金をお時の手から寅松に渡したということです」
「その金はどこから出たんですか」と、わたしは根掘り葉掘り詮議した。
「その金はつまり永太郎の手から出たんです」と、半七老人は云った。「誰袖はその明くる日すぐに永太郎を呼び付けて、これも正直に打ち明けて、わたしは口惜しいからあのおきんをいじめ殺した。さあ、それが悪ければどうともしてくれと膝詰めで談判したんです。永太郎は蒼くなってふるえたそうですけれども、もともと自分にも落度はあり、そんなことが表沙汰になった日には辰伊勢の暖簾にもかかわることですから、とうとう誰袖の云うなり次第に内済金の百両を出すことになったんですが、悪銭身に付かずの譬えで、寅松はその百両を賭場ですっかり取られてしまって、おまけに盆の上の喧嘩から相手に傷をつけて、土地にもいられないようなことになってしまいました。それでもさすがに気が咎めるのか、それとも兄妹の人情というのでしょうか、まだふところに金のある間に自分の菩提寺へ久し振りでたずねて行って、妹の回向料の積りで何となしに五両の金を納めて行ったんです。それから草加の在の方へ行って、ひと月ばかり隠れていたんですが、江戸者が麦飯を食っちゃあいられませんから、又こっそりと江戸へ帰って来て、お時から幾らかずつの小遣いを強請って、そこらをうろ付いているうちに、田町の重兵衛に眼をつけられて、お時と情交のあることも知れてしまったんです。重兵衛は自分の縄張り内ですから辰伊勢に引き合いを付けるのも気の毒だと思って、早くお暇を出してしまえと内々で教えてやったんですが、それが却って仇となって……」
「お時は素直に出て行かなかったんですか」
「そりゃあ素直に動きませんや。永太郎と誰袖の急所を掴んでいるんですもの、ここで少なくも二百と三百と纒まった金を貰わなければ、おとなしく出て行くわけにはゆかないと云って、しきりに二人をおどかしていたんですが、永太郎も部屋住みの身の上で、とてもそんな金が出来る筈はなし、誰袖もこれまでに度々お時に強請られているんですから、身の皮を剥いでも工面は付かず、二人ともに弱り抜いているうちに、なんにも知らない辰伊勢のおふくろが無暗に引き合いを怖がって、一日も早くお時に暇を出そうとする。お時は情夫の寅松を加勢に頼んで、自分たちの云い条を素直に肯いてくれなければ、おきん殺しの一条を恐れながらと訴え出ると、蔭へまわって永太郎と誰袖とを脅迫している。もうどうにもこうにもしようがなくなって、誰袖は永太郎と一緒に死のうと覚悟を決めた。それをお時が薄々感付いたので、二人を心中させては玉無しになるから、その前に寅松に意地をつけて、いよいよ辰伊勢の帳場へ坐り込ませようというところを、わたくしにみんな引き揚げられてしまったんです。誰袖は所詮助からない命ですから、いっそ心中した方がましだったかも知れませんが、永太郎はまさかに死罪にもなりますまいから、もう一と足のところで可哀そうなことをしました」
これで辰伊勢の寮の秘密もすっかり判ったが、まだ一つの疑いがわたしの胸に残っていた。
「すると、その徳寿とかいう按摩はなんにも知らなかったんですね」
「徳寿という奴は正直者で、誰袖の文使いをしたほかには、全くなんにも知らなかったようです」
「その徳寿が辰伊勢の寮へ行くことを、なぜそんなにいやがったんでしょう。誰袖のそばには何か坐っているなんて、めくらの癖にどうして感付いたんでしょう」
「さあ、それは判りませんね。そういうむずかしい理窟はあなた方のほうがよくご存じでしょう。辰伊勢の寮の床下にはおきんの死骸が埋まっていたんです」
半七老人はその以上に註釈を加えてくれなかった。わたしが、この物語を「春の雪解」と題したのは単に半七老人の口真似をしただけのことで、事実はかの直侍と三千歳との単純な情話よりも、もっと深い恐ろしいもののように思われてならない。
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(一)」光文社文庫、光文社
1985(昭和60)年11月20日初版1刷発行
入力:tat_suki
校正:おのしげひこ
1999年6月27日公開
2012年6月12日修正
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