笑う唖女
夢野久作



「キキキ……ケエケエケエ……キキキキッ」

 形容の出来ない奇妙な声が、突然に聞こえて来たので、座敷中皆シンとなった。

 それはこの上もない芽出度めでたい座敷であった。

 甘川あまかわ家の奥座敷。十畳と十二畳続きの広間に紋付もんつきはかまの大勢のお客が、酒を飲んでワイワイ云っていた。奇妙な謡曲をうたう者、流行節を唄い唄い座ったままおどり出しているもの……不安とか、不吉とかいう影のミジンもしていない、醇朴じゅんぼくそのもののような田舎いなかの人々の集まりであった。それが皆、突然にシンとしてしまったのであった。

「……何じゃったろかい。今の声は……」

「ケダモノじゃろか」

「鳥じゃろか」

「猿と人間と合の子のような……」

「……春先にもずかん筈じゃが……」

 皆、その声の方向に顔を向けて耳を澄ました。二間の床の間に探幽の神農しんのう様と、松と竹の三幅対さんぷくつい。その前に新郎の当主甘川澄夫と、新婦の初枝。その右の下手に新郎の親代りの村長夫婦。その向い側には嫁女よめじょの実父で、骨董品然とせこけた山羊鬚やぎひげ頓野とんの羊伯と、その後妻の肥った老人。仲人役の郡医師会長、栗野医学博士夫妻は、流石さすがにスッキリしたフロックコートに丸髷まるまげ紋服で、西日にしびの一パイに当った縁側の障子しょうじの前に坐っていた。その他、村役場員、駐在所員、区長、消防がしら、青年会長、同幹事といったような、村でも八釜やかましい老若が一ダースばかり下座しもざに頑張って、所狭しと並んだ田舎料理を盛んにパク付いては、氏神様から借りて来た五合、一升、一升五合入の三組の大盃を廻わしている。皆相当酔っているとはいうものの、まだ、ほんの序の口といってもいい座敷であった。

 縁側の障子際しょうじぎわに坐っている仲人役の栗野博士夫妻は最前からしきりに気をんで、新郎新婦に席をはずさせようとしていたが、田舎の風俗に慣れない新郎の澄夫が、モジモジしている癖にナカナカ立ちそうになかった。やっと立上りそうな腰構えになると又も、盃を頂戴ちょうだいに来る者がいるので又も尻を落付けなければならなかった。そうして、やっと盃が絶えた機会を見計みはからって本気に立上ろうとしたところへ、今一度前と違った奇怪な叫び声が聞こえたので、又もペタリと腰をおろしたのであった。

「アワアワアワ……エベエベ……エベ……」

「何じゃい。アレおしヤンの声じゃないかい」

「唖ヤンの非人が何か貰いに来とるんじゃろ」

「ウン。お玄関の方角じゃ」

「ああ、ビックリした。俺はまた生きた猿の皮をぎよるのかと思うた」

「……シッ……猿ナンチ事云うなよ」

 そんな会話を打消すように末席から一人の巨漢が立上って来た。

「なあ花婿どん。イヤサ若先生。花嫁御はなよめごはシッカリあんたに惚れて御座るばい」

 そう云ううちに新郎の前へ一升入の大盃を差突けたのはこの村の助役で、村一番の大酒飲の黒山伝六郎であった。見るからに血色のいい禿頭はげあたまの大入道で、澄夫の膳の向うに大胡座おおあぐらをかいた武者振は堂々たるものであったが、袴の腰板を尻の下に敷いているので、花嫁の初枝が気が附くと真赤になって下を向いた。

 澄夫はうやうやしく大盃を押戴おしいただいたが、伝六郎が在合ありあ熱燗あつかんを丸三本分逆様さかさまにしたので、飲み悩んだらしく下に置いて口を拭いた。

 伝六郎は両肱を張って眼を据えた。座敷中に響き渡る野天声のてんごえを出した。

「なあ若先生。イヤサ澄夫先生。惚れとるのは花嫁御ばかりじゃないばい。村中の娘が総体に惚れとる。俺でも惚れとる。なあ。この村で初めての学士様じゃもの。しかも優等の銀時計様ちうたら日本にたった一人じゃもの……なあ。学問ばっかりじゃない。テニスとかペニスとかいうものは学校でも一番のチャンポンとかチンポンとかいう位じゃげな」

 仲人の郡医師会長夫妻と、頓野老夫婦と、新郎新婦が、腹を抱えて笑い出した。下座の方の若い連中が又続いて大声でゲラゲラ笑い初めたので、伝六郎はその方に入道首をじ向けて舌なめずりをした。

「……何かい。何が可笑おかしかい。俺の英語が何が可笑しい。まだまだ知っとるぞ畜生。なあ頓野先生。そうじゃろがなあ。男ぶりチウタならトーキー活動のロイドよりも、まっとまっとええ男じゃしなあ。阪妻ばんつまでも龍之介でも追付おいつかん。トーキー及ばんチウ言葉は、これから初まったゲナ……ええ。笑うな笑うな。貴様達はトーキー活動ちうものをば見た事があるか。あるめえが。この世間知らずの山猿どもが。キングコングのかすどもが……」

「アハハハ……もうわかったわかった。もう止めてくれ給え伝六君。腹の皮がじ切れる。アハハハハ……」

「オホホホホホホホホホ」

「まあ、そう云わっしゃるな。その盃をばツーッと一つ片付けさっしゃい。なあ若先生。俺あ要らん事は一つも云いよらん。皆に云うて聞かせよるとこじゃ。なあ……若先生は村でタッタ一人のお医者様じゃ。しかしこげな山の中の素寒貧村すかんぴんむらには過ぎた学士様じゃ。先代の仲伯先生も云うちゃ済まんが、学校は出ちゃ御座らん漢方の先生じゃ。今度の医師会長のお世話で、隣村の頓野先生のお嬢さん……しかも女学校をば一番で卒業さっしゃったサイエンス……ええ……何が可笑しいか。馬鹿ア。ナニイ……サイエン? サイエンが本真ほんまチウのか……馬鹿あ。ヘゲタレエ。スの字が附くと附かぬだけの違いじゃないか。ウグイスとウグイ……カマスとカマ……ナニイ大違いじゃあ……大違いじゃとも。サイエンスの方がサイエンよりもヨッポド上等じゃ。問題になるけえ。上等の証拠にコレ程の別嬪べっぴんさんが日本中に在ると思うか。なあ医師会長さん。サイエンスちうのは別嬪さんの事だっしょう。西洋の小野の小町というてみたような……ヘエヘエ。それみろ。俺の英語は本物じゃ。よう聞いとけ。ロイドちうのは色男の事ぞ。舶来の業平なりひらさんの事ぞ。セルロイドと間違えるな。その日本の業平さんと、小野小町とこの村で結婚さっしゃる。新式の病院を開業さっしゃる。お蔭で村の者が一人残らず長生きする。なあ……これ位芽出度めでたい事は無いなあ医師会長さん。死んだ先生も喜んで御座ろう」

 伝六郎は床の間の上に並んでかっている二枚の額を見上げた。古びた金縁の中に極めて下手な油絵の老夫婦の和服姿が乾涸ひからびたままニコニコしていた。

「ああ。喜んで御座る喜んで御座る。なあ老先生。もう絵になってしもうて御座るけんどなあ老先生。あなた方御夫婦はこの村の生命いのちの親様じゃった。四十年この村に御奉公しとる私がよう知っとる。御恩は忘れまっせんぞえ。決して決して忘れませんぞえ……なあ。せめて今一年と半年ばかり生かいておきたかったなあ。今日というきょうこの席へ座らせたかったなあ。若先生御夫婦には、この伝六が附いとるというて安心させたかったなあ。今までの御恩報じに……」

 伝六郎の声が次第に上釣うわずって涙声になって来た。満場ただ伝六郎の一人舞台になってシインとしかけているところへ、縁側の障子の西日の前に一人の小女こおんなの影法師がチョコチョコと出て来てひざまずいた。障子を細目にかしてまぶしい西日をのぞかせた。

 仲人の医師会長栗野博士が、その障子の隙間に胡麻塩ごましお頭を寄せて、少女の囁声ささやきを聞くと二三度軽くうなずいて立上った。その後から博士夫人が続いて立上ると、見送りのつもりであろう新郎新婦が続いて立上った。

「イヤ、よろしい」

 と栗野博士が振返って手を振った。新婦の母親の頓野老夫人も、ちょっと中腰になって押止めにかかったが、新夫婦が強いて行こうとするのを見た頓野老人が、山羊鬚をしごいて老夫人を押止めた。小声で囁いた。

「婆さん。留めるな留めるな。もうえもう良え。立たしとけ立たしとけ。こげな式の時には見送りに立たぬものと昔からなっとるが、今の若い者は流儀が違うでのう。心配せんでもえわい」

 床の間の前では話の腰を折られて唖然となった伝六郎が、新郎の残して行った大盃に気が付くと、

「勿体ない。お燗がめる」

 と云って両手で抱え上げながら顔を近付けてグイグイと一息に飲み初めたので、見ていた下座の連中がゲラゲラ笑い出した。


 玄関に近い中廊下の暗がりまで来ると、栗野博士がニコニコ顔で新夫婦を振返った。

「イヤ。これは恐縮でした。……実は玄関に妙な患者が来たという話でな。あんた方は今日は、そげな者を相手にされん方がえと思うたけに、私が立って来ましたのじゃが」

「ハッ。恐れ入ります。そんな事まで先生をわずらわしましては……」

 新郎の態度と言葉が、如何いかにも秀才らしくテキパキとしているのを、背後から花嫁の初枝が惚れぼれと見上げていた。栗野博士はそれに気付きながら気付かぬふりをしていた。

「いや。実はなあ。その患者が精神病者きちがいらしいでなあ」

「エッ……キチガイ……」

「そうじゃ。玄関に坐って動かぬと云うて来たでな。今日だけは私に委せておきなさい。まだ時間はチット早いけれども、ちょうど潮時しおどきじゃけにモウこのまま、離座敷はなれに引取った方がよかろうと思うが……あんな正覚坊連中でもアンタ方が正座に坐っとると、席が改まって飲めんでな。ハハハ……」

「……ハイ……」

「私たちもアトから離座敷はなれへチョット行きますけに、お二人で茶でも飲んで待っておんなさい。今一つ式がありますでな」

「……ハ……ハイ……」

 新郎新婦は狭い、暗い処で折重なるようにお辞儀をした。そのままに立って見送っていた。


 玄関の夕暗ゆうやみの中をズウーッと遠くの門前の国道まで白砂をいて掃き清めてある。その左右の青々とした、新しい四目垣よつめがきの内外には邸内一面の巴旦杏はたんきょうと白桃と、梨の花が、雪のように散りこぼれている。その玄関に打ち違えた国旗と青年会旗の下に、男とも女とも附かぬ奇妙な恰好かっこうの人間が、両手をいて土下座している。

 頭は蓬々ほうほうと渦巻き縮れて、火を付けたら燃え上りそうである。白木綿に朱印をベタベタとした巡礼の笈摺おいずりを素肌に引っかけて、腰から下に色々ボロ布片きれを継合わせた垢黒あかぐろい、大きな風呂敷ようのものを腰巻のように捲付まきつけている恰好を見ると、どうやら若い女らしい。全体に赤黒く日に焼けてはいるが肌目きめの細かい、丸々とした肉付の両頬から首筋へかけて、お白粉しろいのつもりであろう灰色の泥をコテコテと塗付けている中から、切目の長いめじりと、赤い唇と、白い歯を光らして、無邪気に笑っている恰好はグロテスクこの上もない。

 今しも台所から出て来たこの家の下男の一作が、赤飯せきはん握飯にぎりめしを一個遣って追払おうとするのを、女はイキナリ土の上に払い落して、大きく膨脹ぼうちょうした自分の下腹部したはらを指しながら、頭を左右に振った。けだものとも鳥とも附かぬ奇妙な声を振絞ふりしぼった。

「アワアワアワアワアワ。エベエベエベエベエベ」

「コン畜生。唖女おしやんの癖にケチを附けに来おったな。コレ行かんか。殺すぞ」

 一作が薪割用のおのを振上げて見せると、唖女おしおんなは、両手を合わせて拝みながら、蓬々たる頭を左右に振立てた。下腹部したはらを撫でて見せながら今一度叫んだ。

「エベ……エベ……エベエベエベ」

 その時に栗野博士夫婦が玄関へ出て来た。

「コレコレ。乱暴な事をしちゃ不可ん。穏やかにして追返さんと不可いかん」

 唖女が急に向直って栗野博士のフロック姿に両手を合わせた。下腹部したはらを指して奇声を発し続けた。

「何だ。妊娠しとるじゃないか」

 一作が手拭を肩から卸した。斧を杖に突いてペコペコした。

「ヘエヘエ。これは先生。この唖女おしやんはモトこの裏山の跛爺ちんばじいの娘で、あそこの名主どんの空土蔵あきどぞうに住んでおった者で御座いますが……」

「フウム。まだ若い娘じゃな爺さん」

「ヘエ。幾歳いくつになりますか存じませんが。ヘエ。去年の夏の末頃までこの裏山に住んでおりまして、父親の跛爺の門八は、村役場の走り使いや、避病院ひびょういんの番人など致しておりましたが……」

「フーム。村の厄介者じゃったのか」

「ヘエ。まあ云うて見ればソレ位の人間で御座いましたが、それが昨年の秋口になりますと大切な娘のこの唖女おしやんが、どこかへ姿を隠しましたそうで、門八爺は跛引き引き村の内外を探しまわっておりますうちに、あの土蔵の中で首をくくって死んでおりました事が、程経てわかりましたので大騒動になりましてな」

「ウムウム」

「それから後、この唖女おしやんの姿を見た者は一人も居りませんので……ヘエ……」

「ふうむ。誰が逃がいたのかわからんのか」

「ヘエ。それがで御座います。御覧の通り唖娘おしむすめの上に色情狂いろきちがいで、あの裏山の中の土蔵の二階窓から、山行の若い者の姿を見かけますと手招きをしたり、アラレもない身振をして見せたり致しますので、跛の門八じいが外に出る時には、必ず喰物を内に残いて、外から厳重しっかりと締りをしておったそうで御座います。それでも門八が帰りがけには、途中みちなかで拾うた赤い布片きれなぞを持って帰ってやりますとこの花子が……この娘の名前で御座います……コイツが有頂天も無う喜んでおりましたそうで、その喜びようが、あんまりイジラシサに門八爺が時々、なけなしの銭をハタいて、安物の練白粉ねりおしろいや、口紅を買うて帰ってやったとか……やらぬとか……まことに可哀相とも何とも申様もうしようの無い哀れな親娘おやこで御座いましたが」

「……まあ……」と博士夫人がタメ息をして眼をしばたたいた。

「ふうむ。してみると誰かこの女にイタズラをした村の青年わかてが、その土蔵くらの戸前を開けてやったものかな」

「ヘエ。そうかも知れませぬが、跛の門八が戸締を忘れたんかも知れませぬ。だいぶ耄碌もうろくしておりましたで……それで娘に逃げられたのを苦に病んで、行末の楽しみが無いようになりましたで、首を吊ったのではないかと皆申しておりましたが」

「うむ。そうかも知れんのう。つまりこの娘を逃がいた奴が、門八爺を殺いたようなもんじゃ」

「ヘエ。まあ云うて見ればそげな事で……」

「しかし、それから最早もう、かれこれ一年近うなっとるが、どこに隠れていたものかなあこの女は……」

「それがヘエ。やっぱりどこか遠い処を、当てもなしに非人してまわりよりまするうちに、誰やらわからん×××を宿して、久し振りに父親の門八爺が恋しうなりましたので、故郷へ帰って来ますと、あの裏山の土蔵はけてアトカタも御座いませんので、途方に暮れておりまするところへ、コチラ様の前を通りかかって、御厄介になりに来たのではないかと、こう思いますが……」

「ふうん。しかし物を遣っても要らんチウし、自分の腹をゆびさいて何やら云いよるではないか」

「ヘエ。もう産み月で痛み出して居るかも知れませんがなあ。ちょうどこの村から姿を隠いた時分から数えますと十月とつきぐらい。………そうとすればはらませた者は、この村の青年かも知れませんが……ヘヘヘ……」

「うむ。困った奴じゃのう」

「何せい相手が唖女おしやんで、おまけの上にキチガイと来ておりますけに、何が何やらわかったものでは御座いません」

「しかしここが医者の家チウ事は、わかっとる訳じゃな」

「さあ。わかっておりますか知らん。オイオイ花チャン。ここ痛いけん」

 一作爺が自分の腹を指して見せながら、唖女おしおんなの顔を覗き込んだ。

 しかし唖女のお花は答えなかった。最前からの二人の問答を、自分の事と察しているらしく、無邪気な、真剣な眼付で二人の顔を代る代る見比べていたが、そのうちに、栗野博士夫妻の背後から、物珍らしそうに覗いている新郎新婦の中でも、先に立っている新郎澄夫の青白い顔に気が付くと、お花は見る見る眼を丸くして口をポカンと開いた。泥だらけの手足を躍らして小犬のように跳ね上ると、玄関の式台へ泥足のまま駈け上って、栗野博士を突除つきのけながら、澄夫の袴腰はかまごしにシッカリと抱き付いた。同時に「アッ」と小さな声を立てた花嫁の初枝を、背後から抱きかかえるようにして栗野夫人が、廊下の奥の方へ連れ込んで行った。

 澄夫はハッと度を失った。花嫁の方を振返る間もなく、唖女の両手を払いけて飛退とびのこうとしたが、間に合わなかった。ガッシリと帯際を掴んだ女の両腕を、そのまま逆にガッシリと掴み締めると、眼を真白くき出し、舌をダラリと垂らした。そうして気を落付けようとしているのであろう。周章あわててその舌を嚥込のみこみ嚥込み眼をパチパチさせた。その顔を下から見上げた唖女はサモサモ嬉しそうに笑った。

「ケケケ……ケケケケケケケケケ……」

 若様らしい上品な澄夫の顔が、その笑い声につれて見る見るしわだらけの鬼婆のような、又は髪毛を逆立てた青鬼のような表情に変った。反対に澄夫の方が発狂しているかのように見えた。

 栗野博士も一作爺も、澄夫と一所いっしょに度を失った。

「コレコレ……退かんか……」

「コラッ……コン外道げどう……」

 と二人が声を揃えて怒鳴り付けるうちに一作が、女の襟首へ手をかけると、古びた笈摺おいずり背縫せぬい脇縫わきぬいが、同時にビリビリと引離れかかった。その手を非常な力で跳ねけながら唖女は、涙をボロボロと流した。澄夫の顔を指し、又自分の腹部を指し示して、情なさそうな奇声を発しながらオドオドと三人の顔を見廻わした。

「エベエベ……アワアワ。アワアワアワアワ……」

 澄夫は絶体絶命の表情をした。唇を血の出る程噛んで、肩をキリキリと逆立たした。


「イヨオ。これは芽出度めでたい」

 という頓狂とんきょな声がして、澄夫の背後の廊下から伝六郎が躍出おどりだして来た。又も大盃をあおり付けて、素敵に酔払っているらしく、吉角力きちずもうの大関を取ったという双肌もろはだを脱いで、素晴らしい筋肉美を露出している。

「ヨオヨオ。これは芽出度い、婚礼の門口にはらみ女とは芽出度い、イヤア……なれあ裏山のお花坊じゃねえかい。こん外道人間。片輪者とはいいながら親の死んだ事も知らじい、どこをウロ付きおったかい。どこの×××××をばはろうで来おったかい。ええ。コレ……コレ……」

 と云ううちにお花の両脇の下に手を入れて軽々と抱き上げた。お花は引離されまいとする一生懸命さに、片手で色々な手真似をしいしい、線香花火のように暴れ出した。繿縷布片ぼろきれの腰巻が脱け落ちそうになったまま叫び続けた。

「アワアワアワ。エベエベエベエベ。ギャアギャアギャアギャアギャ」

「アハハハ、わかったわかった。感心感心。ウムウム。エベエベエベじゃ。ベッベッ。臭いなあ貴様は……アハハハ。わかったわかった。つまり近いうちに子供が生まれるけに、この若先生に頼んで生ませてもらいたいチウのか……ウムウム。なかなか良うわかっとる。エベエベ。感心感心」

「エベエベエベエベエベ」

「ええ。泣くな泣くな。縁起の悪い。ウムウム。わかったわかったそうかそうか。よしよし。俺が頼うでやる頼うでやる。柔順おとなしうしとれ」

「エベエベエベエベ」

「なあ若先生。魂消たまげなさる事はない。これあ芽出度い事ですばい。たとい精神異状者きちがいじゃろが、唖女じゃろが何じゃろが、これあ福の神様ですばい。何も知らじい来た、今日のお祝いの御使姫つかわしめですばい。何とかして物置の隅でも何でも結構ですけに、置いてやって下さいませや。本来ならば役場で世話せにゃならぬところですけれど、この村にゃ設備が御座いませんけに、なあ先生。功徳で御座いますけに……きょうのお祝いに来た人間なら何かの因縁と思うて、なあ若先生……これ位、芽出度い事は御座いまっせんばい」

「……………」

「どうぞもし……どうぞ若先生。先生の病院はこの功徳の評判だけでも大繁昌だいはんじょうですばい。アハハ……なあ花坊。祝い芽出度の若松様よ……トナ……さあ。花ちゃん。この手を離しなさい。柔順おとなしうこの帯を離しなさい。この若先生がてやると仰言おっしゃるけに……」

 双肌脱もろはだぬぎの伝六郎が、音に聞こえた強力で、お花の腕をぎ離そうとする度に、帯際を掴まれている澄夫は式台の上でヨロヨロとよろめいた。

「コレコレ。離せと云うたら。恐ろしい力じゃ。コレコレここ、離しおれと云うたら……云うたて聞こえんけに往生するのう。袴の紐が切れるてや。ええ若先生。この袴と帯を解かっしゃれ。アトは私が引受けますけに……」

 今にも気絶しそうに生汗をらしながら唖女の瞳を一心に凝視していた澄夫は、この時やっと気を取直したらしく、伝六郎の顔を見て真赤になった。暗涙を浮かめた瞳で背後の栗野博士を振返ると、すこしばかり頭を下げた。やっとの思いで唇をわななかした。

「誠に……恐れ入りますが、モルフィンを少しばかり、お願い出来ますまいか……一プロ……ぐらいで結構ですが……」

「オット。モルヒネなら失礼ながら私が作りましょう。長らくこの病院の留守番をさせられて、案内を知っておりまするので……」

 栗野博士の背後から頓野老人が山羊鬚を突出した。

「二番目の棚の右の端で御座ったの」

 と云ううちに自分で二つ三つうなずきながら、大仰に袴の両岨りょうそわを取った頓野老人は、玄関脇の薬局にヨチヨチと走り込んだ。ホントウにこの家の案内を知っているらしく、突当りの薬戸棚の硝子ガラス戸を開いて、旧式の黒柿製の秘薬ばこを取出して調薬棚の上に置いた。その中からつまみ出した小型の注射器に蒸溜水を七分目ほど入れて、箱の片隅の小さな薬瓶の中の白い粉を、薬包紙の上におとすと、指の先で無雑作に抓み取りながら注射器の中へポロポロとヒネリ込んだ。活栓かっせんと針を手早く添えて、中味の液体をシーソー式に動かすと、薬の残りを箱の中の瓶に返して、右手にアルコールをひたした脱脂綿と、万創膏ばんそうこうを持ちながら薬局を出て来た。

「ヘッヘッヘ。わしは元来胆石たんせきでなあ。飲み過ぎると胸が痛み出す。痛み出すと自分でこの注射をやって眠るのが楽しみでなあ。ヒッヒッ。この見量なら下手な天秤よりもヨッポドたしかじゃ。生命いのちがけの練習しとるけになあ。……さあ作って来ました。六分ゲレンの一じゃからちょうど一プロの一グラムじゃ。相手が相手じゃけに相当利きまっしょう。さあ……」

 澄夫は、こうした頓野老人の自慢の離れわざを格別、驚いた様子もなく受取った。無造作に狂女の右腕を捕まえて注射した。

 唖女のお花は痛がらなかった。かえって何となく嬉しそうに注射器と澄夫の顔を見比べてニコニコしていたが、注射が済むと、何と思ったか急に温柔おとなしく手を離して、伝六郎と一作に手を引かれながら、繿縷ぼろの腰巻を引擦り引擦り立ち上った。もう真暗になった軒下を、裏手の物置納屋の処へ来た。

 納屋の前まで来た時、彼女はモウ眠気を感じているらしかった。先に立った一作が造ってくれた古藁と、古茣蓙ござの寝床へコロリと横になって眼を閉じた。大きな腹の上に左手を投げかけると、もうスヤスヤと寝息を立てていた。


 かつて殿様のお鷹野たかのの時に、御休息所になったという十畳の離座敷はなれざしきは、障子が新しく張換はりかえられ、床の間に古流の松竹がけられて、びの深い重代の金屏風きんびょうぶが二枚建てまわしてある。その中に輪違いの紋と、墨絵の馬を染出そめだした縮緬ちりめんの大夜具が高々と敷かれて、昔風の紫房の括枕くくりまくらを寝床の上に、金房の附いた朱塗の高枕を、枕元の片傍かたそばに置いてあった。

 その枕元に近い如鱗じょりんの長火鉢の上にかった鉄瓶からシュンシュンと湯気が立っていた。

 仲人栗野博士から、唖女に対する伝六郎の口上を、身振り手真似、声色こわいろ入りで聞かされた花嫁の初枝は、たしなみも忘れて、声を立てながら笑い入った。そうして、

「まあまあ大事にしてやんなさい。医者の人気というものはコンな事から立つものじゃけに……そのうちに私が県庁へ手続きをして行路病人の収容所へ入れて上げるけに……」

 という博士の話を聞いて初枝はスッカリ安心したらしく、両手を突いて頭を下げながらホッとタメ息をしてみた。しかし新郎の澄夫は両手をキチンと膝に置いて頸低しなだれたまま、ニンガリもせずに謹聴していた。

 それから博士夫妻の介添かいぞえで、床盃とこさかずきの式が済んで二人きりになると、最前から憂鬱ゆううつな顔をし続けていた澄夫は、無雑作に………………、………………………………………………………………………。塗枕と反対側の床の間の方を向いて、両腕を組んで、両脚を縮めたまま凝然じっと眼を閉じた。

 澄夫の着物を畳んで、衣桁いこうにかけた花嫁の初枝は、…………………………………………、…………………、……………………。………………………………………………、透きとおるような声で、

「おやすみ遊ばせ」

 とハッキリ云うと、石のように頬をこわばらせたまま冷然と眼を閉じている………………………………………………………、……………………………………………………………、出来るだけ静かに………………………、……………………………………。

 しかし澄夫は動かなかった。呼吸をしているのか、どうかすら判然わからない位凝然じっと静まり返っていた。初枝も天鵞絨びろうどの夜具のえりをソット引上げて、水々しい高島田のたぼを気にしいしい白い額と、青い眉を蔽うた。

 白湯さゆの音がシンシンと部屋の中に満ち満ちた。

 新郎──澄夫は、その白湯の音に耳を澄ましながら、物置の中に寝ている唖女の事ばかりを一心に考え続けていた。


 それは去年の八月の末の事であった。

 暑中休暇の数十日を田舎の自宅でつぶして、やっとの事で卒業論文を書上げた彼は、正午ひる下りの晴れ渡った空の下を、裏山の方へ散歩に出かけた。

 彼の両親はもう、三個月ばかり前に老病で相前後して死んでいた。後の医業しごとは彼の父の友人で、せがれに跡目を譲って隠居している隣村の頓野老人が来て、引受けてくれていたので、彼はただ一生懸命に勉強して大学を卒業するばかりであった。しかも天性柔良じゅうりょうで、頭のいい彼は、各教授から可愛がられていたし、自分自身にも首席で卒業し得る自信を十分に持っていた。卒業論文が出来上れば、もう心配な事は一つも無いといってよかった。

 彼は完全な両親の愛の中で育ったせいであろう。庭球以外には何一つ道楽らしい道楽を持っていなかった。もちろん女なんかには、こっちから恐れて近附き得ないような所謂いわゆる、聖人型だったので、二十四歳の大学卒業間際まで、完全な童貞の生活を送っていた。それは大学時代の一つの秘密の誇りでもあった。

 だから来年に近附いて来た結婚に対する彼の期待は、彼の極めて健康な、どちらかといえば脂肪ぶとりの全身に満ち満ちていた。田圃たんぼ道でスレ違いさまにお辞儀じぎをして行く村の娘の髪毛かみのけの臭気をいでも、彼は烈しいインスピレーションみたようなものに打たれて眼がクラクラとする位であった。

 だから、そんなものに出会うのを恐れた彼はこの時にも、わざと傍道わきみちへ外れて、彼の家の背後の山蔭に盛上った鎮守の森の中へフラフラと歩み入った。そのヒイヤリとした日蔭のを横切って行く、白い蝶の姿を見ても、又は、はるか向うの鉄道線路をい登って行く三毛猫の、しなやかな身体附からだつきを見ただけでも、云い知れぬ神秘的な悩みに全身をうずかせつつ、鎮守の森の行詰まりの細道を、降るような蝉の声に送られながら、裏山の方へ登って行った。

 たちまち、たまらない草イキレと、木蔭の青葉にれ返る太陽の芳香においが、おそろしい女の体臭のように彼を引包ひきつつんだ。行けば行くほどその青臭い、物狂おしい太陽の香気が高まって来た。彼は窒息しそうになった。

 むろん医学生である彼は、その息苦しくなって来る官能の悩みが、どこから生まれて来るかを知っていた。同時にその悩ましさから解放され得る或る…………誘惑を、たまらなく気附いているのであった。だから彼は、現在、蒸れ返るような青葉の芳香の中で、その誘惑を最高潮に感じたトタンに、自分のフックリと白い手の甲に……附いた。汗じみた、甘鹹あまからい手の甲の皮膚をシッカリと…………て気を散らそうと試みた……が……しかしその手の甲の肉から湧き起る痛みすらも、一種のタマラない……………のカクテルとなって彼の全身に渦巻き伝わり、狂いめぐるのであった。


 彼は突然に眼を閉じ、唇を噛締かみしめて、雑木藪ぞうきやぶの中を盲滅法めくらめっぽう驀進ばくしんし初めた。あたかも背後から追かけて来る何かの怖ろしい誘惑から逃れようとするかのように、又は、それが当然、意志の薄弱な彼が、責罰として受けねばならぬ苦行であるかのように、袷衣あわせぎぬ一枚の全身にチクチク刺さる松や竹の枝、あらわな向うずねから内股をガリガリと引っ掻き突刺す草や木の刺針の行列の痛さを構わずに、盲滅法に前進した。全身汗にまみれて、息を切らした。そうして胸が苦しくなって、眼がまわりそうになって来た時、突然に、前をさえぎる雑木藪の抵抗を感じなくなったので、彼はヒョロヒョロとよろめいて立佇たちどまった。

 彼はまだ眼を閉じていた。はだかった胸と、あらわになった両脚を吹く涼しい風を感じながら、遠く近くからまばらに聞こえて来るツクツク法師の声に耳を傾けていた。山中やまじゅうの静けさがヒシヒシと身にみ透るのを感じていた。

 突然、鳥ともけだものとも附かぬ奇妙な声がケタタマシク彼を驚ろかした。

「ケケケケケケケケケ……」

 彼はビックリして眼を見開いた。彼は山の中の空地の一端にたたずんでいたのであった。

 そこは巨大な楠や榎に囲まれた丘陵の上の空地であった。この村の昔の名主の屋敷あとで、かなりに広い平地一面に低い小笹がザワザワと生えかぶさっている。その向うの片隅に屋根が草だらけになって、白壁がボロボロになった土蔵が一戸前、朽ち残っていた。

 その倉庫の二階の櫺子れんじ窓から白い手が出て一心に彼をさし招いている。その手の陰に、凄い程白く塗った若い女の顔と、気味の悪い程赤い唇と、神々こうごうしいくらい純真に輝く瞳と、額に乱れかかったおびただしい髪毛が見えた。それが窓からし込む烈しい光線に白い歯を美しく輝やかした。

「……キキキ……ヒヒヒ……ケケケ……」

 その幽霊のように凄い美くしさ……なまめかしさ。眼もくらむほどの魅惑……白昼の妖精……。

 彼は骨の髄までゾーッとしながら前後左右を見まわした。

 彼の頭の上には真夏の青空がシーンと澄み渡って蝉の声さえ途絶とだえ途絶えている。彼を見守っているものは、空地の四方を囲む樹々の幹ばかりである。

 彼は全身を石のように固くした。静かに笹原を分けて土蔵の方へ近付いた。

 窓の顔が今一度嬉しそうにキキと笑った。すぐに手を引込めて、窓際から離れて、下へ降りて行く気はいであった。

 土蔵の戸前には簡単な引っかけ輪鉄が引っかかって、タヨリない枯枝が一本挿し込んで在るキリであった。それを引抜くと同時に内側で、落桟を上げる音がコトリとした。彼は眼が眩んだ。呼吸をはずませながら重い板戸をゴトリゴトリと開けた。

「キキキキキキキキキ……」


 そこまで考え続けて来ると彼は寝床の中で一層身体を引縮めた。背後にスヤスヤと睡っているらしい花嫁……初枝の寝息を鉄瓶の湯気の音と一所に聞きながらなおも考え続けた。


 ……それは彼の生れて初めての過失であると同時に、彼の良心の最後の致命傷であった。

 その後、その重大な過失の相手である唖女のお花が行衛ゆくえ不明となり、そのお花の言葉を理解し得るタッタ一人の父親、門八が、彼女を無くした悲しみの余りに首をくくって死んだと聞いた時には彼は、正直のところホッとしたものであった。最早もはや、天地の間に彼の秘密を知っている者は一人も無い。この僅かな秘密の記憶一つを、彼自身がキレイに忘れてしまいさえすれば、彼は今まで通りの完全無欠の童貞……絶対無垢の青年として評判の美人……初枝をめとる事が出来るのだ。

「おお神様。神様。どうぞこの秘密をお守り下さい。この私の罪をお忘れ下さい。もう決して……決して二度とコンナ事をしませんから……」

 と彼は人知れず物蔭で、手を合わせた事さえ在ったくらい、そうした思い出そのものを恐れ、おののき、後悔していた。そうして彼は幸福にも一日一日と日を送って行くうちに、もう殆んど、そうした良心の傷手いたでを忘れかけていた。彼は彼自身の社会に対する一切の野心と慾望をなげうって、美人の妻と一所に田舎に埋もれるという、涙ぐましいほどに甘美な夢を、安心して、夜となく昼となくい続けているところであった。

 その甘美な夢が、今、無残むざんにもタタキ破られてしまったのであった。

 時も時……折も折……忘れるともなく忘れて、消えるともなく消え失せていた彼の過去のかすかな秘密が、突然に、何千、何万、何億倍された恐ろしい現実となって彼の眼の前に出現し、切迫して来たのであった。

 見るも浅ましいはらみ女。物をわぬ聾唖者。それが口にこそ云い得ね、手真似にこそ出し得ね、正当な彼の妻である事を現実に立証し、要求すべく立現われて来たのであった。それは、ほかの人間たちには絶対にわからない、ただ彼にだけ理解される恐ろしい、不可抗的な復讐に相違なかった。

 ……もしも彼女がタッタ一言でも物を云い得たら……否々いないな。一人でも彼女の手真似を正当に理解し得る者が居たら……そうして、それだけの恐怖、不安、戦慄を、今日の日に限ってこの家の玄関に持込んで来たのが、彼女の意識的な計劃であったら……。

 ……それがさながらに悪魔の智慧ちえで計劃された復讐のように残酷な、手酷てきびしい時機と場面を選んで来た事はトテモ偶然と思えない。白痴の一つ記憶おぼえ式の一念で、云わず語らずのうちに彼女がそうしたところを狙って、時機を待っていたかのようにも思える。又は全然そうでないかのようにも思える……。

 ……そうした判断の不可能な事を考え合せると、その恐怖、不安、戦慄が更に更に神秘数層倍されて来るのであった。

 彼は思わず今一度ゾッとして身体を縮めた。パッチリと眼を見開いて、静かに振返ってみると花嫁の初枝は、夜具の襟に顔を埋めてスヤスヤと眠っているようである。

 彼は極めて注意深くソロソロと夜具を脱け出した。枕元の障子をすこしずつすこしずつ音を立てないように開けて廊下に出て、足音をぬすみ窃み渡殿わたりどの伝いに母屋おもやの様子を窺った。

 家中が森閑しんかんと寝静まって給仕人の足音も途絶えている。勝手の方の灯も消えてしまって、ただ奥座敷に寝ているらしい伝六郎の寝言ねごととも歌とも附かぬグウダラなけ声が聞えている……その声を聞き聞き彼は真暗な中廊下を抜けて、玄関脇の薬局の扉を開いた。

 薬局の三方硝子ガラス窓の外は雪のように輝やいていた。西に傾いて一段と冴え返った満月に眩しく照らされた巴旦杏はたんきょうの花が、鉛色の影を大地一面にただよわしていた。

 中央の調薬台の前に立った彼は恍惚としてその白い光りに見惚みとれていた。そうして今日までに彼が見たり聞いたりした幾多の所謂いわゆる成功者、すなわち立志伝中の人々が……如何に残忍な、血も涙も無い卑怯な方法をもって弱者を蹂躙じゅうりんし、踏殺ふみころして来たかを聯想し、想起し続けていた。

 ……俺もその一人にならなければならぬ。否々。もっともっと強い人間にならねばならぬ。貴い俺自身の一生涯……これだけの頭脳と、智識と……この若い血と、肉と、豊かな情緒とをあの見苦しい、さびしい廃物同然の唖女の一生と釣換つりかえにしてたまるものか……これは当然の事なのだ、天地自然の理法なのだ。ちっとも恥ずるところはない。とがめられるところもない。ただ他人に見咎みとがめられさえしなければ……疑われさえしなければいいのだ。ちっとも構わない。何でもない事なのだ。

 そんな事を考えまわしているうちに、いつの間にか、雪の光りに包まれたような寒さを感じ初めたので、彼はハッとしてわれに帰った。

 頭のシンはむくてたまらないのに、意識だけはシャンシャンと冴え返っているような気持で彼は、正面の薬戸棚の抽出ひきだしから小さなカプセルを一個取出した。それから突当りの薬戸棚の硝子戸を開いて、きょう昼間、頓野老人が持出した黒柿の秘薬箱を今一度取出して、調合棚の上に置いた。その中から、やはり今日頓野老人が扱った塩酸モルヒネの小瓶をつまみ出して、その中の白い粉末の小量を、月の光りに透かしながらカプセルに落し込んだが、多過ぎると思ったらしく又、その中の極微量を小瓶の中へ落し返してからカプセルの蓋をシッカリとおおうた。それから何もかもモト通りに直して、薬戸棚の硝子戸をピッタリと閉じた。

 その時に彼の背後の、開放あけはなしにして来た廊下の暗闇で微かな、深い溜息が聞こえたように思ったので、彼はハッとばかり固くなった。慌ててカプセルを右手に握り込んだまま、指先走りに廊下に出てみたが、しかしそこには何の人影も無く、真暗な中廊下の向うの、閉め忘れて来た渡殿わたりどのの入口の片側に、白桃の花が白々と月あかりに見えたので、今度は彼自身が思わず、深いタメ息をさせられた。

 彼は彼自身を勇気付けるかのようにタッタ一人で微笑した。悠々と薬局に帰って、小型のビーカーを取上ると常水を六分目程満たした。塩酸モルヒネ入りのカプセルと一所に左手に持って、薬局用のスリッパを爪探つまさぐった。薬局の横の扉の掛金をはずして、勝手口の外側に出た。

 軒下の暗がり伝いに足音をぬすみ窃み、台所の角に取付けた新しいコールタぬり雨樋あまどいをめぐって、裏手の風呂場と、納屋の物置の廂合ひさしあいの下に来た。

 そこでは西へ傾いた月が、かなり深い暗がりを作って、直ぐ横手の白光りする土蔵の壁を、真四角に区切っていた。


 彼は絶対に音を立てないように……まだ痲酔まひしているであろう唖女の眼を醒まさないように、用心しいしい納屋の扉の掛金を外した。

 ……すると……納屋の中の暗がりで、突然にガサガサとわらの音がし初めた。たまらない乞食臭い異臭がムウと襲いかかって来た。……と思う間もなく獣のように髪を振乱した怪物……逞ましい、………………………唖女が飛出して来て、イキナリ彼に抱き付いた。心から嬉しそうに笑った。

「キイキイキイ……キキキキキ……」

 そのもずさながらの声は月夜の建物と、その周囲をめぐる果樹園に響き渡って消え失せた。

 彼は一切が破滅したように思った。眼も眩むほど胸がドキンドキンとした。全身にゾーッと生汗なまあせを掻きながら今一度、静かに左右を振返ってみたが、その彼のおびえた視線は、タッタ今通って来た台所の角の、新しい黒い雨樋の処へピタリと吸い寄せられた。同時に彼の全神経が水晶のように凝固してしまった。

 そこには離座敷から、彼の行動をけて来たらしい花嫁の初枝の、冴え返った顔が覗いていた。昨夜のままの濃化粧と、口紅のクッキリとした、高島田の金元結きんもとゆいなまめかしい、黒い大きな瞳を一パイに見開いた人形のような瓜実顔うりざねがおが、月の光りに浮彫うきぼりされたまま、半分以上雨樋の蔭から覗き出して、彼の姿を一心に凝視しているのであった。

 彼はソレを月の光りに照し出された巴旦杏の花の幻覚かと思った。右手で左右の眼をグイグイと強くコスッて今一度よく見直した。

 それは、たしかに花嫁の初枝の顔に相違なかった。びんのホツレ毛が二三本、横頬に乱れかかっているのが、傾いた月の光りでハッキリと見えた。その二つの黒い瞳が、マトモに此方を凝視したまま大きく、ユックリと二つばかりまたたいたのが見えた。同時に、その真白い頬から大粒の涙の球が、キラリキラリと月の光りを帯びて、土の上にしたたり落ちるのが見えた。

 彼は、彼の足元の大地が、その涙の落ちて行く方向にグングンと傾いて行くように感じた。持っているビーカーを取落しそうになった。

 その時に彼に取縋とりすがっているオドロオドロしい姿が、泥だらけの左手をあげて、初枝の顔を指した。勝誇るように笑った。

「ケケケケ……エベエベエベ……キキキキ……」

 人形のような高島田の顔が、静かに雨樋の蔭から離れた。長々と地面に引擦ひきずった燃立つような緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばんの裾に、白いすねと、白い素足がかわる交る月の光りを反射しいしい、彼の眼の前に近付いて来た。

 彼はカプセルを自分の口に入れた。ビーカーの水を……その中にゆらめく月の光りを凝視しつつ……思い切ってガブガブと飲んだ。

底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房

   1992(平成4)年924日第1刷発行

入力:柴田卓治

校正:小林繁雄

2000年621日公開

2006年314日修正

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