虫の生命
夢野久作
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炭焼きの勘太郎は妻も子も無い独身者で、毎日毎日奥山で炭焼竈の前に立って煙の立つのを眺めては、淋しいなあと思っておりました。
今年も勘太郎は炭焼竈に楢の木や樫の木を一パイ詰めて、火を点けるばかりにして正月を迎えましたが、丁度二日の朝の初夢に不思議な夢を見ました。
勘太郎は睡っているうちに、どこからともなく悲しい小さい声で歌う唱い声が聞こえて来ました。
街には人の冬ごもり
明るい楽しい美しい
樹々には虫の冬ごもり
暗い悲しいたよりない
冬の夜すがら鳴る風や
降る雪霜のしみじみと
たよりに思う樫の樹は
伐りたおされて枯らされて
炭焼竈に入れられて
明日は深山に立つけぶり
その樫の樹ともろ共に
灰か煙りかかた炭か
あとかたもなく消えて行く
悲しい悲しいそのいのち
たれがあわれと思おうか
小さい小さい虫一つ
たれがあわれと思おうか
このうたがだんだん耳に近くに聞こえて来ましたから、勘太郎はフッと眼を開いて見ましたら、真暗な中に美しいお姫様が一人突立って、奇麗な両袖を顔に当て、さめざめと泣いている姿がありありと見えました。
勘太郎は驚いてはね起きますと、これは夢で、もう夜が明けていて、表には一パイ雪が降り積っているのが見えました。
勘太郎は寝過ぎたと思って、急いで竈の前に行って火を入れようとしましたが、どうしても昨夜の夢が気になってたまりません。カマドの中には樫の樹も沢山に入れてあるのですから、その中には虫が一匹もいないという事はありません。又樫の樹に限らず他の樹にも虫が住んでいない筈はありませんから、どちらにしても虫共が今日その住居ごと焼き殺される事を知ったら、きっと悲しがるに違いありません。
「ちいさいちいさい虫一つ
たれが憐と思おうか」
という夢の中の歌が、雪に包まれた竈の中から勘太郎の耳に聞こえて来るように思われました。
勘太郎は思い切って、折角築いた竈を打ち破りました。そうして一本一本積んだ樹を取り出して、隅から隅まで調べはじめましたが、不思議な事には、今度積み込んだ樹に限って一本も虫穴の明いたのがありません。
勘太郎は馬鹿馬鹿しい事をしたと思いました。これを焼かなければ御飯を食べる事が出来ないのに、つまらない夢なんぞを本当にして残念なことをしたと思いました。
そのうちにだんだん調べて来て、一番おしまいに一本の丸太が残りました。
それは大きな樫の丸太で、その幹の真中あたりに小さな虫穴が一つやっと見付かりました。
勘太郎は、扨はこれが昨夜の虫の住居かと思いましたが、中を覗いても何も知れませんし、又斧で割ったり何かして、中にいる虫まで殺すような事があっては、折角助けた甲斐がありません。勘太郎は仕方なしにお弁当を作って、この樫の丸太を荷いて、山奥の山奥のその又山奥のとても人間の来そうにもない処に持って行って、只ある岩の間へそっと立てかけて置きました。その中には春が来て、虫がはい出して、蝶か何かになって飛びまわる事が出来るだろうと思ったからです。
虫の方は助ける事が出来ましたが、勘太郎はもう炭焼きなんぞはする気になりませんでした。しかし生れて炭焼きしかした事のない勘太郎は他の仕事を一つも知りませんでした。何をしようかといろいろ考えて帰るうちに道を見失って、だんだん山深く迷い入ってしまいました。
行っても行っても山ばかりで、食べ物も何もありません。日が暮れ夜が明けても同じ事です。しまいには飢え凍えて死にそうになりましたから、勘太郎は草の根を掘って食べたり、枯れ葉を綴って身体に着たりして、仙人のようになって、自分の家の在る方へと山又山を越えて行きました。
雪に降られ雨風に打たれて、木の皮や草の根を食べながら行く苦しさはたとえようもありません。これというのも、たった虫一匹の生命を助けたため、その虫を助けたのは初夢を本当にしたためと思えば、勘太郎は口惜しいやら情ないやら涙をポロポロコボして行きました。
その中に春が来たらしく、雪も降らず風もあたたかくなって、勘太郎が行く山道を横切る雪も白くふわふわとして来ました。あたたかい太陽の下の木々には芽が萌え出し、楽しげな鳥の声が方々から聞こえるようになりました。
しかし勘太郎はもうすっかり飢え疲れて、眼が見えなくなって来ました。あっちへ行っては石に引っかかり、こっちへよろけては樹にぶっつかり、ヒョロヒョロして行くうちに、とうとうどこだかわからぬ処でバッタリ行きたおれてしまいました。
小さな虫を救うても
救うた生命は只一つ
象の生命を助けても
助けた生命は只一つ
虫でも象でも救われた
その有り難さは変らない
虫でも象でも同様に
助けた心の美しさ
人の生命を助くるは
人の心を持った人
虫の生命を助くるは
神の心を持った人
みんな仕えよ神様に
御礼申せよ神様に
こんな歌がどこからともなく晴れやかに聞こえて来ましたので、勘太郎は不思議に思って眼を開きますと、自分はいつの間にか見事な寝台の上に寝かされて、傍には大勢の美しい天女が寄ってたかって介抱しています。勘太郎は又夢を見ているなと思って眼を閉じようとしますと、不図自分の枕元にこの間夢で見たお姫様がニッコリ笑って立っているのに気が付きました。
勘太郎は驚いてはね起きますと、どうでしょう。自分はいつの間にか髪から髯まで真白になって、神様のような白い大きな着物を着ています。それと一所に気持ちまでも神々しく清らかになって、今までの苦しかった事も悲しかった事もすっかり忘れてしまいました。
「そら、神様のお眼ざめだ」
と大勢の天女たちは皆一時にひれ伏しました。
勘太郎はそのまま神様の気持ちになってそこに止まりました。もう何も食べる事も心配する事もありません。只毎日天女たちの春の歌を聞き、面白い春の舞を見ているばかりでした。
或る日、勘太郎は大勢の天女たちと一所に住居を飛出しました。門口を出てからふり返って見ると、自分達の住居はこの間山奥の岩の間に立てかけた樫の丸太の中程にある小さな小さな虫の穴でした。
勘太郎は何より先に自分の昔の住家の処に来て見ました。見るとそこには昔の通りに自分の家があって、前にはこれも昔の通りに炭焼竈があります。オヤ、今度は誰が炭を焼いているのだろうと思って見ていますと、間もなく家の中から出て来たものは昔の勘太郎そっくりの男で、着物までも同じ事です。その男は神様の勘太郎の姿を見てこう云いました。
「ああ、蝶が沢山飛んで来たな。今年の正月、あの夢を本当にしてあの樫の木の虫を助けておりゃあ、今頃はあんな蝶になって飛びまわっているかも知れない。その代りおれの方は日干しになって死んでいるだろう。馬鹿馬鹿しい事だ。こっちの生命と虫の生命と換えられるもんか。どれ一つ炭を焼き初めようか。今度のは特別に虫の穴が多かったようだぞ」
と云いながら炭焼竈に火を入れましたので、やがて煙が濛々と大空に向って湧き出しました。
神様の勘太郎はまだ夢を見ているのか、それとも本当の事なのかさっぱり訳がわからなくなりました。
底本:「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年5月22日第1刷発行
※底本の解題によれば、初出時の署名は「海若藍平」です。
入力:柴田卓治
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月31日公開
2006年5月3日修正
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