御身
横光利一



     一


 末雄が本を見ていると母がさしを持って上って来た。

 「お前その着物をまだ着るかね。」

 「まだ着られるでしょう。」

 彼は自分の胸のあたりを見て、

 「ぜ?」とかえすと、母はやはり彼の着物を眺めながら、

 「赤子あかのお襁褓むつにしようかと思うて。」と答えた。

 「赤子って誰の?」

 「姉さんに赤子が出来るのや。」母はぜだか普通の顔をしていった。

 彼は姉にそんなことがあるのかと思うと、何ぜか顔があからんだ。しかし、全く嬉しくなった。

 「ほんとうか?」

 「もうその着物いらんやろ。代りのをこしらえてあげるでほどこうな。」

 「ほんとうに出来るのか。」

 母は答えずにそのまま下へ降りてしまった。彼はちょっと腹が立った。が、その腹立たしさの中から微笑がはみ出るように浮んで来た。いくら顔をひき締めてみても駄目だった。

 彼と姉とは二人姉弟きょうだいで、姉は六年前に人妻になっていた。それにまだ子供は一人もなかった。


     二


 晴れた日、彼は山を越して姉のおりかの家へ行った。赤子のことをくのがはずかしかったので黙って時々気付かれぬように姉の帯の下を見た。しかし、彼の眼では分らなかった。ただ何となく姉は生々としていた。姉は間もなく裏の山へ行こうといい出した。二人は山へ来るとこけの上へ足を投げ出して坐った。真下に湖が見えた。錆色さびいろの帆が一点水平線の上にじっとしていた。深い下の谷間からは木をく音が聞えて来た。

 「ボケを一本ひいて帰ろ。もうき花が咲くえ。」

 姉はそういいながら立って雌松林めまつばやしの方へ登っていった。彼はひとり長々と仰向あおむきに寝て空を見ていた。長い間姉と二人でこういう所へ来てこういう風に遊んだことはなかった。彼は姉がたいへんに好きであった。

 「こいつ、かたいわア。」と姉の声が頭の上でした。

 彼が振り返って姉の方を見ると、姉は丁度躑躅つつじをひき抜こうとしている両肱りょうひじを下腹にあてがって後へかえろうとしている所であった。彼は姉の大切な腹の子供に気がついて跳ね起きた。

 「よせ。」

 彼はけていって姉を押しのけると自分でその躑躅をひいてみた。根はなかなか堅かった。

 「堅いやろ。二人かかるとええわ。」

 そう姉はいってまた躑躅に手をかけようとした。

 「行こう行こう。」

 彼が姉の手を持ってもとの所へ戻ろうとすると、姉は未練そうに後を見返りながら、

 「もうじき綺麗きれいな花が咲くえ。あれ餅躑躅もちつつじえ。葉がねばねばするわ。ああしんど。」といった。

 彼は姉の下腹をうかがった。躑躅をひくときの姉の様子を浮かべると、肱で子供がつぶされていそうに思えてならなかった。しかし、それをどうして吟味ぎんみしてよいものか分らなかった。姉に訊いてみることも羞しくて出来ないし、これは困ったことになったと彼は思った。

 姉は足もとの処でまた一本小さな躑躅を見つけると、

 「末っちゃん、これなら引けるえ。」といってその方へ寄りかけた。

 「うるさい。」と彼は叱った。

 「たまに来たのに一本ぐらい引いて帰らにゃもったいない。」

 「もう帰るんだ。」

 「もう帰るん?」姉は彼の顔を見ると、

 「何アんじゃ。」といって笑い出した。

 彼は黙ってさきになって歩いた。実際彼には姉の腹のことがひどく気になり出した。もうそれ以上遊ぶ気がしなくなった。

 「お腹すかないか。」

 と彼は不意に姉に訊いてみた。いていると答えれば、幾分か肱で腹の子供を押し潰したそれだけ空いているのだとそんな他愛もない考えから訊いたのだが、姉は空かないと答えた。しかし無論その答えだけでは承知が出来なかった。

 「おれはちょっと腹が痛いんだ。姉さん処の昼のさかなが悪かったんじゃないかね。姉さんは?」

と彼はたずねた。

 姉は顔をしかめるようにして彼を見ながら、

 「うちどうもないえ、ひどう痛むの?」と訊き返した。

 姉も痛むといえばまた姉の腹部の子供にさわりが出来ているにちがいないという考えから、彼はそういうかけひきで訊いたのだった。ところが姉の腹は痛んでいなかった。少し安心が出来かけるとまた親の腹部の感覚と子供の感覚とは全く別物だと気がついた。親の腹が痛くなくとも子の身体は痛んでいるかも分らなかった。もう医者に姉の腹を見せるより仕方がないと彼は思った。しかし、見せるとすればまたどうしても一度は彼の心配の仕方を姉に話さなければならなかった。これが彼には羞しくて厄介やっかいだった。正式な結婚で姉は人妻になっているとはいえ、とにかくいずれ不行儀な結果から子供が産れて来たにちがいない以上、それをお互に感じ合う瞬間が彼にはいやであった。彼が黙っているので姉も黙っていた。

 「まだ痛い?」と姉はしばらくして訊いた。

 「もういいんだ。」

 「降りたら薬屋があるわ。小寺さんなら近いし。痛い?」

 小寺さんとは近くの医者の名であった。

 「もうなおったよ。」と彼はいうと、

 「それでもてもろうておく方がええやないの。」と、今度は姉から彼に医者をすすめ出した。

 彼は聞かぬ振りをしてどしどしと山を下った。


     三


 四月には彼は東京にいた。女の子が生れたという報知しらせを姉の良人おっとから受け取ったのは五月であった。

 「しめた!」と彼は思った。そして、今まで誰にもいわずにかくしていた不安は、全く馬鹿気たことだったのだと思って可笑おかしかった。

 「やっと叔父おじさんになったぞ。」

 そう思うと彼は文句なしに人間が一段えらくなったような気がした。


     四


 六月に末雄は帰省した。彼は姉の家へ着くと直ぐ黙って上ろうとした。が、足が酷く汚れていたのでひざめいの寝ているらしい奥の間の方へした。黄色い坐蒲団ざぶとんまるめたようなものが見えた。

(いるいる。小っぽけな奴だ。)

 彼はにたりと笑いながら姪の上へ蚊帳かやのようにかぶさった。

(待て、こりゃ俺に似とるぞ。)

 彼は姪の唇を接吻した。つるつるすべる乳臭い唇だ。姪は叔父を見ながら蝸牛かたつむりのようなこぶしくわえようとして、ぎこちなく鼻の横へりつけた。

(こいつ、俺そっくりじゃないか。)

 彼は不思議な気がすると、笑いながら、俺の子じゃないぞと思った。

(よし。一人増した!)

 彼は何かしらをめてやりたかった。これこそ俺の味方だ、うそではないぞ、と思った。

 姉のおりかは笑いながら晴れやかな顔をして縁側えんがわから上って来た。

 「何時の汽車、二時?」

 「こ奴俺に似とるね。似てないかね。」

 おりかは娘を見下みおろすと、黙って少しあかい顔をして肩からたすきをはずした。

 「ね、似とるよ、何っていう名だね?」

 「ゆきっていうの。」

 「ゆき?」

 「幸村ゆきむらゆきっていう字。」

 「さいわいか?」

 「そやそや。」

 「あんな字か、俺ちゃんと考えといてやったんだがな。辞引じびきひっぱったのやろ?」

 「漢和何とかいうの引いたの。末っちゃんに考えてもらえってうちいうたのやけど、義兄にいさんったらきかはらへんのや。いややなアそんな名?」

 「こりゃ可愛かわいい子だ。俺に似るとやっぱり美人だな。」

 「そうかしら、お風呂で芸者はんらがな、こんな可愛らし子どうして出来るのやろいうて取り合いしやはるのえ。」

 「いい子だよ。苦労するぜ姉さんは。」

 末雄は姉を見て笑うと、急に自分のませた態度が不快になった。彼は立って井戸傍いどばたへ足を洗いに行った。それから疲れていたので姪の傍にくっついて寝たが、姉が見ていなかったので姪の手を引っぱったり鼻をつまんだりしてなかなか眠つかれなかった。


     五


 彼は遠くで赤子の泣き声のしている夢を見て眼がめた。すると、傍で姪がもつれた糸をほどくように両手を動かしながら泣いていた。

 「アッハ、アッハ、アッハ、アーッ。」

 そういう泣き方だ。彼は前に読んだ名高い作家の写生的な小説の中で、赤子の死ぬ前にそれと同じ泣き方をする描写があったのを思い出した。彼は不安な気がして姉を呼んだ。姉はいなかった。で、姪を抱き上げて左右にゆるゆすってやると直ぐ泣きやんだ。

 「死ぬのじゃなかった。」

 そう思って彼はしずかに寝かしてやると、また、「アッハ、アッハ。」と泣き出した。彼はまた抱き上げた。するとやはり泣きやんだ。こんな同じことを辛抱強く四度ほど繰り返すうちに、もう彼は面倒臭くなって来て、身体に力をめながら欠伸あくびを大きくした。姪は腹のあたりを波立たせて、「アッハ、アッハ。」と泣いた。

 彼はいらいらして来た。が、姪はしきりに泣き続けた。

 「泣け泣け。」

 彼はじっと憎々しい気持ちで姪を眺めながらそういった。が、そのうちにもうとてもたまらなくなって来た。彼はッと姪の黄色な枕の下へ手を入れて彼女の頭を浮き上らせると、姪はぴたりと泣きやんだ。彼は姪を抱き上げてやる気はなかった。で、にたりと笑いながらまた静に手放すと、彼女は前より一層声を張り上げて全身の力で、「アッハ、アッハ、アッハ。」と泣き立てた。

 彼はうまい手を覚えたつもりでもう一度それを繰り返そうとした。が、ふと、幸子ゆきこは生れて今初めてだまされたのではなかろうかと思った。

(その最初の瞞し手がこの叔父だ。)

 そんな風に考えると、彼は自分のしたことがそう小さいことだとは思えなくなった。彼は姪を抱き起した。そして、謝罪の気持ちで姉が帰って来て乳を飲ませるまで抱き通してやった。


     六


 次の日、山越しに彼は家へ帰った。

 「まア昨日きのう帰ると思うていたのえ。お寿司すしこしらえといたの腐ってしもうた。」

 そういって母はたらいに水をとってくれた。

 「昨日着いたんだけれど、一日姉さんとこの小女こめと寝転んでいた、あの小女は可愛らしい顔をしてますね。」

 「それでもおへそが大きいやろ。あんまり大き過ぎるのでれて血が出やへんかしら思うて、心配してるのやが、どうもなかったか?」

 「そうか、そんなに大きいのか。」

 彼は足を洗いながらある女流作家の書いた、『ほぞのお』という作の中で、嬰児えいじの臍から血が出て死んでゆく所のあったのを想い出すとまた不安になって来た。

 「そんなことで死んだ子ってありますか?」

 「あるともな。」

 「死にゃせぬかなア。」

 母は黙っていた。

 「どうしたらなおるんだろう、お母さん知りませんか。」

 「うちおりかに二銭丸にせんだまを綿で包んで臍の上へ載せて置けっていうといたんやが、まだしてたやろな?」

 「ちっとも見ない。」

 「そおか。う──んと気張ると、お前の胃みたいにごぼごぼお臍が鳴るのや。お前胃はもうちょっと良うなったかいな?」

 彼は足を洗ってしまったのに、まだあがかまちに腰を下したまま盥の水を眺めていた。しばらくして、

 「死にゃせぬかしら。」とまたいった。

 「どうや知らぬわさ。お前髪をシュウッととき付けたらええのに、せて見えて。」

 母はちょっと眉を寄せてそういうと盥の水を捨てに裏の方へ行った。

 彼は気が沈みそうになると、

 「くそッ死ね!」といって一度背後へひっくり返ってから勢好く立ち上った。


     七


 幸子の臍はその後だんだん堅まっていった。初め彼の見た時には、腹部を漸く包んだ皮膚の端を大きくひねって無雑作むぞうさにまるめ込んだだけのように見えた。そして、彼女が泣く時臍は急に飛び出て腹全体が臍を頭としたヘルメットのような形になってごぼごぼ音を立てた。それはいつ内部のはらわたが露出せぬとも限らぬ極めて不安心な臍だった。それにおりかは割りに平気であった。ある時彼は姪の臍の上に二銭丸の載っていない所を見付けた。彼は自分の読んだ書物の中で、そのような臍は恐るべきいのちとりだと医者がいっていたということを、巧妙な嘘を混じえて姉にいいきかしておどかした。

 「そうかしら。」

 そう姉はいうとちょっと笑って、

 「死ぬものか、これ見な。」といって娘の臍をぽんと打った。

 「馬鹿。」と末雄は笑いながらにらんだ。

 するとおりかはまた二、三度続けさまに叩いてから、「ちょっと指を入れとおみ。」といった。

 彼はふといらってみる気になって、人差指で姪の臍の頭をソッと押してみた。指さきは何の支えも感じずに直ぐ一節ひとふしほど臍の中に隠された。それ以上押せば何処どこまででも這入はいりそうな気がしてゾッとすると、

 「いやだ。」といって手を引っこめた。

 しかしこんな不安は間もなくとれた。そして、る日おりかは彼に幸子が笑い出したと嬉しそうにいった。

 見ているとなるはど時々幸子は笑った。それは何物が刺戟しげきを与えるのか解らない唐突とうとつな微笑で、水面へ浮び上った泡のように直ぐ消えて平静になる微笑であった。しかしまたその微笑を見せられた者は、これは人生の中で最も貴重な装飾だと思わずにはいられない見事な微笑であった。


     八


 夕暮、人の通らない電車道の傍でにわとりにやるはこべを捜していると、男の子が一人石をりながら彼の方へ来た。彼はその子の家に黒い暖簾のれんが下っていたのを思い出して、誰が死んだのかと訊いた。男の子は黙っていた。

 「だれが死んだのや。」

 ともう一度訊くと、

 「赤子あかや。」と答えた。

 「ふむ赤子か、どうして死んだ?」

 すると男の子は羞しそうな顔をしてそうとした。彼は男の子の手首を素早く握った。

 「なアどうしてだ、うむ、いったらえらいぞ。」

 が、男の子はやはり答えずに彼の握った手を振り放そうとして口をゆがめた。

 彼は少し恐い顔をして手首を放した。男の子は逃げもせずそろそろと電車道まで来ると、レールの上へまたがって腰を下ろした。

 彼はその方を向かないようにして草の中にしゃがんでいると、男の子は向うから、

 「教えてやろうか、なア?」といい出した。

 「アア教えてくれ、どうして死んだんだ?」

 男の子は硝子ガラスの破片でレールのさびを落しながら暫く黙っていてから、

 「いやや。」とまたいった。

 彼は男の子を黙って見詰めていた。すると、

 「お母アが乳で殺さはったんや。」とその子はいった。

 「乳でってどうしてだ?」

 「あのな、昼寝してて殺さはったんや。」

 彼には全く何のことだか解らなかったので子供の顔を見続けていた。男の子はぜだかまぶしそうな顔をしてちょっと彼を見上げると、急に向うの方へ馳け出した。

 暫くして彼は、男の子の母親が赤子に添い寝をしていて乳房ちぶさ鼻孔びこう閉塞へいそくさせたのだと近所の人から教わった。そんな殺し方は彼には初耳だった。が、なるほどと思った。それから急に彼は姉の乳房が気になり出した。

 次の日彼は姉の家へ出かけて行くと直ぐそのことを話した。

 「そりゃ死ぬわさ。ようあることや。」と姉はいった。

 「知ってたのか。」

 「そんなこと知らんでどうする、末っちゃんはあてを子供見たいに思うてるのやな。何んでも知ってるえうちら。」

 そういって姉は笑った。彼は少し安心が出来た。が、その直ぐ後で姉は、幸子と三日違いに生れた隣家の赤子が三日前に肺炎で亡くなったということや、久吉の友人の赤子も今肺炎にかかっていてもう医者に手を放されたということを話した。

 「やれやれ。」と彼は思った。生き続けて大きくなってゆくということは、よほどむずかしいことのように思われて気が重苦しくなってしまった。

 二、三日してから彼は上京した。上京する時ちょっと姉の家へ寄ると、久吉の友人の赤子がとうとう死んだと聞いた。彼は淋しくなった。縁側に立っていると、隣家から赤子の回向えこうかねの音が聞えて来た。初秋の涼しい夜だ。すると、

 「昔丹波たんば大江山おおえやま。」と子供の歌う声がして、急に鉦はそれと調子を合せて早く叩かれた。

 「阿呆あほやな。」と直ぐ母親らしい叱る声がした。

 彼がこちらで笑い出すと、おりかも何処か暗い処で笑い出した。


     九


 次の春の休暇に帰って彼が姉の家へ着いた時、幸子は彼の母の膝の上で、一枚の新聞を両手で三度に引き破っている所だった。

 「ソラ。」

 彼は玩具おもちゃの包みを炬燵こたつの上へ置くと、自分も母や姉のように蒲団ふとんの中へ足を入れた。母は包みを解いて中からセルロイドの人形を出した。

 「そうれユウちゃん。兄さんがな。」

 「兄さんやない叔父さんやはなア。」と姉は幸子を見ていった。

 「アそかそか、叔父さんがな、遠い所でこんなにええ物うて来ておくれはった。アーええこと、ソーラ。」

 彼の母が人形を差し出すと幸子は祖母の顔と人形とをしばらかわばんこに眺めていてから、そろそろと人形の方へ手を出した。

 「あの顔。」といっておりかは笑った。そして、自分でまた別の猿の頭をゴムで作った小さい玩具を出して幸子の鼻の前へ持っていった。

 「そうれユウちゃん、こんどはえてさん。」

 するとおりかは猿の頭を押したと見えて、猿の口から細長い袋になっている赤い舌が飛び出した。幸子は眼をパチパチさせてかえったが、頭が母の胸でめられると眼をつむって横を向いてしまった。皆が笑った。が、彼は疲れていたのでひとりこわい顔をして、

 「大きゅうなったね。」と一口言った。

 「そう、大きゅうなってる? お母さん、ユウが大きゅうなったって。」

 と姉は傍にいる母にいってきかせた。

 「そりゃ大きゅうなってるわさ。」

 「そうかしら、ちっとも大きゅうなったように見えやへんけど、傍にいるでやな。」と姉は嬉しそうにいった。


     十


 二、三日してさき日向ひゅうがへ行っている彼の父から母に早く来いといって来た。母は孫の傍から離れてゆくのをいやがったがとうとう行くことになった。

 出発の時、汽車の窓から首を出している彼女の前には、久吉とおりかと、おりかの肩から顔を出している幸子とそれから彼とが並んで立っていた。彼も皆も今別れれば何日いつまた会えるか解らなかった。

 汽車が動き出した。

 「バーゆうちゃん、バーア、行って来るえ。バーア。」

 彼の母は孫の顔ばかりを見ていた。彼はもう母が自分の方を向くか向くかと待っていた。

 おりかは片肩を歪めて幸子を前へ突き出すようにしたが、幸子は口を開いて汽車の動くのを眺めていた。

 「バーア、ゆうちゃんゆうちゃん、バーア、行って来るえ、バーア。」

 遂々とうとう母は彼の方を一度も見なかった。汽車が見えなくなると、彼は姉夫婦から離れてさきに急いで改札口から外へ出た。子よりも孫の方が可愛いらしい、そう思うと、その日一日彼はふさいでいた。


     十一


 休暇が終ると彼は上京した。その前日去年生れた赤子の種痘しゅとうを近日するという印刷物が姉の家へも配られた。久吉とおりかは別に掛り医の所でさそうといっていたが、彼はそれさえも出来ることならさせたくなかった。何となく姪が汚なくなるような気がしたからだ。

 二週間ほどして、姉から末雄の所へ来た手紙の中に、幸子は種痘してから五日にもなるがまだ熱がひかないので弱っているということが書いてあった。子供に種痘をすれば暫く熱が出ること位彼も知っていたが、それは五日も続くものだろうか、何か他の病気になったのではなかろうかとそんな掛念けねんが起って来た。姉の手紙の書き方が彼の想像を限定させないので彼は困った。そして、直ぐ容子ようすを訊き返した手紙の中に是非返事を直ぐれるようにと書いて出した。が、返事は四日たっても来なかった。彼は外から帰って来るたびに手紙が来ていないかと女中に訊いた。外へ出ている時にも、返事がもう来ているだろうと思うと急に下宿へ引き返した。が、返事は一週間たっても来なかった。彼は腹を立てて、

 「どうにでもなれ。」という気を出そうといてつとめてみた。が、絶えず何かにおびやかされているような気持ちでまた一週間待った。その夜姉から手紙が来た。それは所々塗抹ぬりつぶされた粗雑な文字で、

 「幸子は種痘から丹毒たんどくになりましたが、漸く片腕一本で生命が助かりました。」

 とただそれだけが書いてあった。

 彼は片腕を切断された幸子が、壊れた玩具のように畳の上でごろごろ転っている容子ようすを頭に浮かべると、対象の解らない怒りが込み上げて来た。彼はペンをとって葉書へ、

 「幸子を姉さんのような不注意者にあずけて置いたということが、こんな罪悪を造ってしまったのだ。」

 と書いた。書いているうちに涙が出て来て、インクを次ぐ時壺の中へうまくペンのさきがまらなかった。

 彼はその葉書を持って外へ出た。

 「とうとうやって来た。」

 彼は自分を始終脅かしていた物の正体を明瞭に見たような気持ちがした。その形が彼の前に現れたなら必死になってとり組んでやると思った。不思議な暴力がいて来たがしかしどうとも仕様しようがなかった。その中に幸子の大きくなってから一生彼女の心を苦しめる不幸を思うと、もう彼は暗い小路の中に立ち停ってしまった。

 「俺の妻にしてやろう。」

 ふと彼はそんなことを考えると、自分と姪の年の差を計ってみた。それから、自分の顔と能力とを他人にくらべた。

 「何アに、俺に不足があるものか、必ず幸福にしてみせるぞ。他人の誰よりも俺は愛してやる。よしッ、何アに。」

 彼はまた歩き出した。が、壊れ人形のような姪の姿がちらちらするとまた涙が出て来た。

 「罪悪だ、実に馬鹿にしている、罪悪だ!」

 彼は何か出張でばった石の頭につまずいてよろけた。

 「くそッ!」と彼は怒鳴どなった。

 蕎麦屋そばやの小僧が頭に器物うつわものを載せて彼の方へ来た。彼はその器物を突き落とそうとしてにらみながら小僧の方へ詰め寄っている自分を感じた。小僧は眼脂めやにをつけた眼で笑いながら、

 「ヤーイ。」というと彼の方へ片足をあげた。

 彼は素通りした。三間さんげんほども行き過ぎてから、器物を落とされたときの間の抜けた顔をしている小僧が浮ぶと、彼は唐突に吹き出して笑った。と、笑いながら酔漢よっぱらいのように身体を自由にぐらぐらさせて歩きたくなって来た。自棄酒やけざけを飲みたくなった。

 片腕のとれた姪を見る気がしなかったので、もう彼は直ぐ来る夏の休みにも帰るまいと思った。そして、日向の父にそのことをらせると、父からは直ぐ返事が来て、幸子が腕を切断したというのは何かの間違いだろう、心配することはない、と書いてあった。すると偶然その日義兄の久吉からも手紙が来て、幸子も毒が片腕に廻っただけで身体へ来なかったため一命は助かり、今では元のように健全にまわっていると書いてあった。

 彼は直ぐペンをとると、手紙を粗雑に書くのもほどがあるというような意味の怒った手紙を姉に書き始めた。が、それも力抜けがして中途でしてしまった。彼は重味のとれた怠惰たいだな気持ちでぼんやり庭の白躑躅しろつつじを眺めていた。それから暫くたった時、今日はうまい物を腹いっぱい食べてかねつかってしまってやろうと思った。寿司すしが第一に眼についた。

 彼は下宿を出た。が、気持ちがせかせかして周章あわててばかりいた。人が一といっている時自分が二といっているようだ。何かあやまちをしそうな気がした。


     十二


 休暇になると彼は直ぐ姉の処へ帰った。

 幸子は一人おもて格子こうしさんを両手で握ってごとごとゆすっていた。彼女は二つだ。

 「ゆき、帰ったぞ。」

 彼が音高く姪の前へどんと坐った。姪はわそうな顔をして一つ桟を向うへ渡った。

 彼は自分の長い頭の髪が恐く見えるのだと思ったので、帽子ぼうしを深くかぶって髪を隠すと前へいざり出た。

 「こりゃ、さア来い。」

 するとゆきは少し周章あわててまた二つ三つ桟を向うへ渡ってから彼の方を振り向いた。

 「うむ? 何んだい。」

 彼が立って抱こうとすると、姪は桟を持ったまま叩かれたせみのように不意に泣き出した。彼はぼんやりとしてしまった。


     十三


 休暇中の彼の仕事はほとんど幸子の見張りのために費された。無論それは誰からも命令いいつけられた役目ではなかった。しかしそれにもかかわらず、幸子は不思議なほど彼になつかなかった。彼は顔をいろいろゆがめて彼女を笑わせたり、やり過ぎるほど菓子をやったりしたあとで、もういいだろうと思ってわ「御身よ御身よ。」といいながら彼女の手を握る。すると、幸子は直ぐ「ふん、ふん。」と鼻を鳴らせて手を引いた。そんな時彼は淋しい気がした。何か子供の直感で醜さをにおいのようにぎつけているのではないかと恐れることもあった。

 「俺はなるほどいけない奴だ、だけど俺はお前が可愛かわいくっての。」

 彼はそんなことを口の中でいいながら抱きたい気持ちを我慢していた。が、時々衝動的に抱きたくなることがあった。

 ある時いやがる姪を無理に膝の上へ抱きあげた。姪は初めの間かえって鼻を鳴らしていた。彼はそれをもかまわずだんだん力をめて抱きすくめてゆくと泣き出した。が、放してやれば直ぐ泣き止むらしい泣き方だったので放さないでいると、いよいよ悠長な本泣ほんなきに変ってきた。彼は前へ押し出してやった。幸はいかにも恐ろしい手から逃がれでもするように急いで遠くまで這い出してから、裸体はだか膝頭ひざがしらを二つ並べたませた格好に坐っていつまでも泣いていた。彼はもう一度抱いてやるぞという意を示してどっと身体を動かすと、彼女は泣き声を一層張って周章あわてて後へすざった。

(俺のどこがそんなに嫌いなのだろう、それに此奴こいつがこんなに可愛いのだろう。)

 彼は直ぐ友達へ出す葉書にこう書いた。

 「愛という曲者くせものにとりつかれたが最後、実にみじめだ。何ぜかというと、われわれはその報酬を常に計算している。しかしそれを計算しなくてはいられないのだ。そして、何故計算しなくてはならないかという理由も解らずに、しかも計算せずにはいられない人間の不必要な奇妙な性質たちの中に、愛はがっしりと坐っている。帳場ちょうば番頭ばんとうだ。そうではないか?」

 とにかく彼は幸子に触れずに終日見張りをしていなければならなかった。この仕事はなかなか神経を疲らせた。そうかといって、姉が彼の番を信用して溜っているいろいろの仕事にかかっている以上彼は姪をっておくわけにはいかなかった。うかうか本に読みふけっているともう彼女は母を捜そうとして壁を伝いながら危険な腰つきで縁側えんがわあがかまちの端へ行き、「ばア、ばア。」といいながら見えない向うの庭の方をのぞこうとする。すると、彼は泣くのもかまわずへやの中へ連れて来る。また出る。また連れ込む。こんなことを一日に幾回となく繰り返す。全く彼は幸子と一緒にいると遊ぶことも出来なければ、自分の仕事も出来なかった。ただ彼女の見える室の中に坐っていらいらしながらぼんやりしているより仕方がなかった。時々それが耐えられなくなると、彼は声を張り上げて幸子の周囲をおどりながら呼吸の続く限り馳け廻った。すると幸子は意味の通じぬことを口走って上機嫌になる。彼がへとへとになって仰向きに倒れて、「アーア。」というと、彼女も同じように彼の横へ寝転んで、「アー。」という。しかし彼が少しでも手を触れると直ぐ泣き顔をして口をとがらして起き上る。

 「御身よ、御身よ。」彼はただそういって見ているより仕方がなかった。

 彼は姉の家を去る時、もうへは帰るまいと思った。


     十四


 しかし、次の夏またやはり彼は姉の処へ帰ってしまった。彼が姉の家へ着いた時誰もいなかったので、一人茶の間に寝転んで本を見ていた。しばくすると姉が帰って来て、幸子を背から下ろした。

 彼はいきなり幸福を感じた。

 「そうら、あれ、誰あれ?」と姉はいって彼を指差した。

 幸子は顔をしかめて、彼を見ながらだんだん後へ退さがってゆくと、あがかまちから落ちかけようとして手を拡げた。

 「あぶない。」とおりかはいって幸子を受けた。

 「知らんのかお前、あれ叔父ちゃんえ。」

 幸子はおりかの肩へ手を置いてやはり彼を眺めていた。

 「お前忘れんぼやな、あれ叔父ちゃん。」

 「叔父おいちゃん。」と幸子は真似た。

 彼は何ぜだかはずかしい気がした。黙って笑っていると、幸子はくるりと向うをむいて母親のえりの間へ顔をせた。


     十五


 彼は自分の幸子に対する愛情の種類を時々考えて、

 「俺は恋をしてるんだ。」とまじめに思うことがあった。

 彼のせめてもの望みは、幸子を一度、ただの一度でいいしっかりと抱いてやる、そして、彼女はぴったりと彼に抱かれることだった。更にそれ以上の慾をいえば、いつでも彼の欲する時に彼女が彼に抱かれることだった。実際彼はこのことに苦しめられた。しかし、彼の受けた愛の報酬もやはり前の夏の休暇と同じようにつめたいものであった。彼は幸子を憎く感じる日がだんだん増して来た。

 「幸子はなぜ俺に抱かれないのだろう。」

 と彼は姉にたずねた時、姉は、

 「お前あらっぽいからや。」とひと口でいった。

 しかしそんなことではなさそうだった。が、幸子は彼以外の男にはそう親しみのない者にでも温和おとなしく自分を抱かせる所から見ると、あるいはそうであるかもしれないとも思った。とにかく幸子の一番嫌いな者はこの叔父であるらしかった。そして、叔父の一番好きな者は幸子であった。

 「俺はもうゆきもりはこりこりだぞ。俺が傍にいるからと思って安心されると困るよ。殊に俺のような男は信用されればされるほどお人好しになるからな。だけどもう知らないぞ、うるさい。」

 こんな前置きをいっておいてもやはりおりかは彼を信用して仕事をした。信用されると彼もその気で愚痴ぐちをいいながら幸子の守をした。そして、彼女にさわらないようにと欲望を耐えて、いろいろ顔を歪めたり逆立ちをしたりして、幸子を笑わそうと自分の自尊心を傷つけた。彼女が笑うと、彼はいよいよ乗り気になって赤い顔をしながら本気に犬の真似をしたり、坂道を昇る自転車乗りのペタルを踏む真似をしたりしてはしゃいだ。が、途中で急に彼は不気嫌になって黙ってしまった。すると、幸子はひとり首を振り振りペタルを踏む真似をして、「チンチンチン。」といいながらへやの中を馳け廻った。彼女にとっては、この叔父さんは全く壁に等しい代物しろものであるらしかった。

 「今に見ろ。」そう彼は幸子を見てひとごとをいった。

底本:岩波文庫「日輪 春は馬車に乗って 他八篇」岩波書店

   1981(昭和56)年817日第1

   1997(平成9)年515日第23

入力:大野晋

校正:しず

1999年79日公開

2000年411日修正

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