春は馬車に乗って
横光利一



 海浜の松がこがらしに鳴り始めた。庭の片隅かたすみ一叢ひとむらの小さなダリヤが縮んでいった。

 彼は妻の寝ている寝台のそばから、泉水の中の鈍い亀の姿をながめていた。亀が泳ぐと、水面からり返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。

「まアね、あなた、あの松の葉がこの頃それは綺麗きれいに光るのよ」と妻は云った。

「お前は松の木を見ていたんだな」

「ええ」

「俺は亀を見てたんだ」

 二人はまたそのまま黙り出そうとした。

「お前はそこで長い間寝ていて、お前の感想は、たった松の葉が美しく光ると云うことだけなのか」

「ええ、だって、あたし、もう何も考えないことにしているの」

「人間は何も考えないで寝ていられるはずがない」

「そりゃ考えることは考えるわ。あたし、早くよくなって、シャッシャッと井戸で洗濯せんたくがしたくってならないの」

「洗濯がしたい?」

 彼はこの意想外の妻の慾望に笑い出した。

「お前はおかしな奴だね。おれに長い間苦労をかけておいて、洗濯がしたいとは変った奴だ」

「でも、あんなに丈夫な時がうらやましいの。あなたは不幸な方だわね」

「うむ」と彼は云った。

 彼は妻をもらうまでの四五年に渡る彼女の家庭との長い争闘を考えた。それから妻と結婚してから、母と妻との間にはさまれた二年間の苦痛な時間を考えた。彼は母が死に、妻と二人になると、急に妻が胸の病気で寝てしまったこの一年間の艱難かんなんを思い出した。

「なるほど、俺ももう洗濯がしたくなった」

「あたし、いま死んだってもういいわ。だけども、あたし、あなたにもっと恩を返してから死にたいの。この頃あたし、そればかり苦になって」

「俺に恩を返すって、どんなことをするんだね」

「そりゃ、あたし、あなたを大切にして、……」

「それから」

「もっといろいろすることがあるわ」

 ──しかし、もうこの女は助からない、と彼は思った。

「俺はそう云うことは、どうだっていいんだ。ただ俺は、そうだね。俺は、ただ、ドイツのミュンヘンあたりへいっぺん行って、それも、雨の降っている所でなくちゃ行く気がしない」

「あたしも行きたい」と妻は云うと、急に寝台の上で腹を波のようにうねらせた。

「お前は絶対安静だ」

「いや、いや、あたし、歩きたい。起してよ、ね、ね」

「駄目だ」

「あたし、死んだっていいから」

「死んだって、始まらない」

「いいわよ、いいわよ」

「まア、じっとしてるんだ。それから、一生の仕事に、松の葉がどんなに美しく光るかって云う形容詞を、たった一つ考え出すのだね」

 妻は黙って了った。彼は妻の気持ちを転換さすために、柔らかな話題を選択しようとして立ち上った。

 海では午後の波が遠く岩にあたって散っていた。一そうの舟が傾きながら鋭いみさき尖端せんたんを廻っていった。なぎさでは逆巻く濃藍色のうらんしょくの背景の上で、子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑かみくずのように坐っていた。

 彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。このそれぞれに質を違えて襲って来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初において働いていたように思われたからである。彼は苦痛を、たとえば砂糖をめる舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味うまかったか。──俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、ず透明でなければならぬ。と彼は考えた。


 ダリヤの茎が干枯ひからびたなわのように地の上でむすぼれ出した。潮風が水平線の上から終日吹きつけて来て冬になった。

 彼は砂風の巻き上る中を、一日に二度ずつ妻の食べたがる新鮮な鳥の臓物を捜しに出かけて行った。彼は海岸町の鳥屋という鳥屋を片端から訪ねていって、そこの黄色いまないたの上から一応庭の中を眺め廻してからくのである。

「臓物はないか、臓物は」

 彼は運好く瑪瑙めのうのような臓物を氷の中から出されると、勇敢な足どりで家に帰って妻の枕元に並べるのだ。

「この曲玉まがたまのようなのははと腎臓じんぞうだ。この光沢のある肝臓はこれは家鴨あひる生胆いきぎもだ。これはまるで、み切った一片のくちびるのようで、この小さな青い卵は、これは崑崙山こんろんざん翡翠ひすいのようで」

 すると、彼の饒舌じょうぜつ煽動せんどうさせられた彼の妻は、最初の接吻せっぷんを迫るように、はなやかに床の中で食慾のために身悶みもだえした。彼は惨酷に臓物を奪い上げると、直ぐなべの中へ投げ込んで了うのが常であった。

 妻はおりのような寝台の格子こうしの中から、微笑しながら絶えずき立つ鍋の中を眺めていた。

「お前をここから見ていると、実に不思議なけものだね」と彼は云った。

「まア、獣だって、あたし、これでも奥さんよ」

「うむ、臓物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前は、いつの場合に於ても、どこか、ほのかに惨忍性をたたえている」

「それはあなたよ。あなたは理智的で、惨忍性をもっていて、いつでも私の傍から離れたがろうとばかり考えていらしって」

「それは、檻の中の理論である」

 彼は彼の額に煙り出す片影のようなしわさえも、敏感に見逃みのがさない妻の感覚を誤魔化すために、この頃いつもこの結論を用意していなければならなかった。それでも時には、妻の理論は急激に傾きながら、彼の急所を突き通して旋廻することが度々たびたびあった。

「実際、俺はお前の傍に坐っているのは、そりゃいやだ。肺病と云うものは、決して幸福なものではないからだ」

 彼はそう直接妻に向って逆襲することがあった。

「そうではないか。俺はお前から離れたとしても、この庭をぐるぐる廻っているだけだ。俺はいつでも、お前の寝ている寝台から綱をつけられていて、その綱のえがく円周の中で廻っているより仕方がない。これはあわれな状態である以外の、何物でもないではないか」

「あなたは、あなたは、遊びたいからよ」と妻は口惜くやしそうに云った。

「お前は遊びたかないのかね」

「あなたは、他の女の方と遊びたいのよ」

「しかし、そう云うことを云い出して、もし、そうだったらどうするんだ」

 そこで、妻が泣き出して了うのが例であった。彼は、はッとして、また逆に理論をきわめて物柔らかに解きほぐして行かねばならなかった。

「なるほど、俺は、朝から晩まで、お前の枕元にいなければならないと云うのはいやなのだ。それで俺は、一刻も早く、お前をよくしてやるために、こうしてぐるぐる同じ庭の中を廻っているのではないか。これには俺とて一通りのことじゃないさ」

「それはあなたのためだからよ。私のことを、一寸ちょっともよく思ってして下さるんじゃないんだわ」

 彼はここまで妻から肉迫されて来ると、当然彼女の檻の中の理論にとりひしがれた。だが、果して、自分は自分のためにのみ、この苦痛を噛み殺しているのだろうか。

「それはそうだ、俺はお前の云うように、俺のために何事も忍耐しているのにちがいない。しかしだ、俺が俺のために忍耐していると云うことは、一体誰故だれゆえにこんなことをしていなければ、ならないんだ。俺はお前さえいなければ、こんな馬鹿な動物園の真似まねはしていたくないんだ。そこをしていると云うのは、誰のためだ。お前以外の俺のためだとでも云うのか。馬鹿馬鹿しい」

 こう云う夜になると、妻の熱はきまって九度近くまで昇り出した。彼は一本の理論を鮮明にしたために、氷嚢ひょうのうの口を、開けたり閉めたり、夜通ししなければならなかった。

 しかし、なお彼は自分の休息する理由の説明を明瞭めいりょうにするために、この懲りるべき理由の整理を、ほとんど日日し続けなければならなかった。彼は食うためと、病人を養うためとに別室で仕事をした。すると、彼女は、また檻の中の理論を持ち出して彼を攻めたてて来るのである。

「あなたは、私の傍をどうしてそう離れたいんでしょう。今日はたった三度よりこの部屋へ来て下さらないんですもの。分っていてよ。あなたは、そう云う人なんですもの」

「お前と云う奴は、俺がどうすればいいと云うんだ。俺は、お前の病気をよくするために、薬と食物とを買わなければならないんだ。誰がじっとしていて金をくれる奴があるものか。お前は俺に手品でも使えと云うんだね」

「だって、仕事なら、ここでも出来るでしょう」と妻は云った。

「いや、ここでは出来ない。俺はほんの少しでも、お前のことを忘れているときでなければ出来ないんだ」

「そりゃそうですわ。あなたは、二十四時間仕事のことより何も考えない人なんですもの、あたしなんか、どうだっていいんですわ」

「お前の敵は俺の仕事だ。しかし、お前の敵は、実は絶えずお前を助けているんだよ」

「あたし、さびしいの」

「いずれ、誰だって淋しいにちがいない」

「あなたはいいわ。仕事があるんですもの。あたしは何もないんだわ」

「捜せばいいじゃないか」

「あたしは、あなた以外に捜せないんです。あたしは、じっと天井を見て寝てばかりいるんです」

「もう、そこらでやめてくれ。どちらも淋しいとしておこう。俺には締切りがある。今日書き上げないと、向うがどんなに困るかしれないんだ」

「どうせ、あなたはそうよ。あたしより、締切りの方が大切なんですから」

「いや、締切りと云うことは、相手のいかなる事情をも退けると云う張り札なんだ。俺はこの張り札を見て引き受けて了った以上、自分の事情なんか考えてはいられない」

「そうよ、あなたはそれほど理智的なのよ。いつでもそうなの、あたし、そう云う理智的な人は、大嫌だいきらい」

「お前は俺の家の者である以上、他から来た張り札に対しては、俺と同じ責任を持たなければならないんだ」

「そんなもの、引き受けなければいいじゃありませんか」

「しかし、俺とお前の生活はどうなるんだ」

「あたし、あなたがそんなに冷淡になる位なら、死んだ方がいいの」

 すると、彼は黙って庭へ飛び降りて深呼吸をした。それから、彼はまた風呂敷ふろしきを持って、その日の臓物を買いにこっそりと町の中へ出かけていった。

 しかし、この彼女の「檻の中の理論」は、その檻につながれて廻っている彼の理論を、絶えず全身的な興奮をもって、殆ど間髪かんはつ隙間すきまをさえもらさずに追っ駈けて来るのである。このため彼女は、彼女の檻の中で製造する病的な理論の鋭利さのために、自身の肺の組織を日日加速度的に破壊していった。

 彼女のかつての円く張ったなめらかな足と手は、竹のようにせて来た。胸はたたけば、軽い張子のような音を立てた。そうして、彼女は彼女の好きな鳥の臓物さえも、もう振り向きもしなくなった。

 彼は彼女の食慾をすすめるために、海からとれた新鮮な魚の数々を縁側に並べて説明した。

「これは鮟鱇あんこで踊り疲れた海のピエロ。これは海老えびで車海老、海老は甲冑かっちゅうをつけて倒れた海の武者。このあじは暴風で吹きあげられた木の葉である」

「あたし、それより聖書を読んでほしい」と彼女は云った。

 彼はポウロのように魚を持ったまま、不吉な予感に打たれて妻の顔を見た。

「あたし、もう何も食べたかないの、あたし、一日に一度ずつ聖書を読んで貰いたいの」

 そこで、彼は仕方なくその日からよごれたバイブルを取り出して読むことにした。

「エホバよわが祈りをききたまえ。願くばわが号呼さけびの声の御前にいたらんことを。わが窮苦なやみの日、み顔をおおいたもうなかれ。なんじの耳をわれに傾け、我が呼ぶ日にすみやかに我にこたえたまえ。わがもろもろの日は煙のごとく消え、わが骨は焚木たきぎのごとくやかるるなり。わが心は草のごとくうたれてしおれたり。われかてをくらうを忘れしによる」

 しかし、不吉なことはまた続いた。或る日、暴風の夜が開けた翌日、庭の池の中からあの鈍い亀が逃げて了っていた。

 彼は妻の病勢がすすむにつれて、彼女の寝台の傍からますます離れることが出来なくなった。彼女の口から、たんが一分毎に出始めた。彼女は自分でそれをとることが出来ない以上、彼がとってやるよりとるものがなかった。また彼女は激しい腹痛を訴え出した。せきの大きな発作が、昼夜をわかたず五回ほど突発した。その度に、彼女は自分の胸を引っき廻して苦しんだ。彼は病人とは反対に落ちつかなければならないと考えた。しかし、彼女は、彼が冷静になればなるほど、その苦悶の最中に咳を続けながら彼をののしった。

「人の苦しんでいるときに、あなたは、あなたは、ほかのことを考えて」

「まア、静まれ、いま呶鳴どなっちゃ」

「あなたが、落ちついているから、憎らしいのよ」

「俺が、今狼狽あわてては」

「やかましい」

 彼女は彼の持っている紙をひったくると、自分の啖を横なぐりにきとって彼に投げつけた。

 彼は片手で彼女の全身から流れ出す汗を所をえらばず拭きながら、片手で彼女の口から咳出す啖を絶えず拭きとっていなければならなかった。彼のしゃがんだ腰はしびれて来た。彼女は苦しまぎれに、天井をにらんだまま、両手を振って彼の胸を叩き出した。汗を拭きとる彼のタオルが、彼女の寝巻にひっかかった。すると、彼女は、蒲団ふとんりつけ、身体をばたばた波打たせて起き上ろうとした。

「駄目だ、駄目だ、動いちゃ」

「苦しい、苦しい」

「落ちつけ」

「苦しい」

「やられるぞ」

「うるさい」

 彼はたてのように打たれながら、彼女のざらざらした胸をさすった。

 しかし、彼はこの苦痛な頂天に於てさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬しっとの苦しみよりも、むしろ数段の柔かさがあると思った。してみると彼は、妻の健康の肉体よりも、この腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与えられていると云うことに気がついた。

 ──これは新鮮だ。俺はもうこの新鮮な解釈によりすがっているより仕方がない。

 彼はこの解釈を思い出す度に、海を眺めながら、突然あはあはと大きな声で笑い出した。

 すると、妻はまた、檻の中の理論を引きり出して苦々しそうに彼を見た。

「いいわ、あたし、あなたが何ぜ笑ったのかちゃんと知ってるんですもの」

「いや、俺はお前がよくなって、洋装をきたがって、ぴんぴんはしゃがれるよりは、静に寝ていられる方がどんなに有難いかしれないんだ。第一、お前はそうしていると、あおざめていて、気品がある。まア、ゆっくり寝ていてくれ」

「あなたは、そう云う人なんだから」

「そう云う人なればこそ、有難がって看病が出来るのだ」

「看病看病って、あなたは二言目には看病を持ち出すのね」

「これは俺の誇りだよ」

「あたし、こんな看病なら、して欲しかないの」

「ところが、俺がたとえば三分間向うの部屋へ行っていたとする。すると、お前は三日もったらかされたように云うではないか、さア、何とか返答してくれ」

「あたしは、何も文句を云わずに、看病がして貰いたいの。いやな顔をされたり、うるさがられたりして看病されたって、ちっとも有難いと思わないわ」

「しかし、看病と云うのは、本来うるさい性質のものとして出来上っているんだぜ」

「そりゃ分っているわ。そこをあたし、黙ってして貰いたいの」

「そうだ、まあ、お前の看病をするためには、一族郎党を引きつれて来ておいて、金を百万円ほど積みあげて、それから、博士を十人ほどと、看護婦を百人ほどと」

「あたしは、そんなことなんかして貰いたかないの、あたし、あなた一人にして貰いたいの」

「つまり、俺が一人で、十人の博士の真似と、百人の看護婦と、百万円の頭取の真似をしろって云うんだね」

「あたし、そんなことなんか云ってやしない。あたし、あなたにじっと傍にいて貰えば安心出来るの」

「そら見ろ、だから、少々は俺の顔がゆがんだり、文句を云ったりする位は我慢しろ」

「あたし、死んだら、あなたをうらんで怨んで怨んで、そして死ぬの」

「それ位のことなら、平気だね」

 妻は黙って了った。しかし、妻はまだ何か彼にりつけたくてならないように、黙って必死に頭をぎ澄しているのを彼は感じた。

 しかし彼は、彼女の病勢を進ます彼自身の仕事と生活のことを考えねばならなかった、だが、彼は妻の看病と睡眠の不足から、だんだんと疲れて来た。彼は疲れれば疲れるほど、彼の仕事が出来なくなるのは分っていた。彼の仕事が出来なければ出来ないほど、彼の生活が困り出すのもきまっていた。それにもかかわらず、昂進こうしんして来る病人の費用は、彼の生活の困り出すのに比例して増して来るのはあきらかなことであった。しかも、なお、いかなることがあろうとも、彼がますます疲労して行くことだけは事実である。

 ──それなら俺は、どうすれば良いのか。

 ──もうここらで俺もやられたい。そうしたら、俺は、なに不足なく死んでみせる。

 彼はそう思うことも時々あった。しかし、また彼は、この生活の難局をいかにして切り抜けるか、その自分の手腕を一度はっきり見たくもあった。彼は夜中起されて妻の痛む腹をさすりながら、

「なお、憂きことの積れかし、なお憂きことの積れかし」

 とつぶやくのが癖になった。ふと彼はそう云う時、茫々ぼうぼうとした青い羅紗らしゃの上を、かれたたまがひとり飄々ひょうひょうとして転がって行くのが目に浮んだ。

 ──あれは俺の玉だ、しかし、あの俺の玉を、誰がこんなに出鱈目でたらめに突いたのか。

「あなた、もっと、強く擦ってよ、あなたは、どうしてそう面倒臭がりになったのでしょう。もとはそうじゃなかったわ。もっと親切に、あたしのおなかを擦って下さったわ。それだのに、この頃は、ああ痛、ああ痛」と彼女は云った。

「俺もだんだん疲れて来た。もう直ぐ、俺も参るだろう。そうしたら、二人がここで呑気のんきに寝転んでいようじゃないか」

 すると、彼女は急に静になって、床の下から鳴き出した虫のような憐れな声で呟いた。

「あたし、もうあなたにさんざ我ままを云ったわね。もうあたし、これでいつ死んだっていいわ。あたし満足よ。あなた、もう寝て頂戴な。あたし我慢をしているから」

 彼はそう云われると、不覚にも涙が出て来て、でてる腹の手を休める気がしなくなった。


 庭の芝生が冬の潮風に枯れて来た。硝子戸ガラスどは終日辻馬車つじばしゃとびらのようにがたがたとふるえていた。もう彼は家の前に、大きな海のひかえているのを長い間忘れていた。

 或る日彼は医者の所へ妻の薬を貰いに行った。

「そうそう。もっと前からあなたに云おう云おうと思っていたんですが」

 と医者は云った。

「あなたの奥さんは、もう駄目ですよ」

「はア」

 彼は自分の顔がだんだん蒼ざめて行くのをはっきりと感じた。

「もう左の肺がありませんし、それに右も、もう余程進んでおります」

 彼は海浜に添って、車に揺られながら荷物のように帰って来た。晴れ渡った明るい海が、彼の顔の前で死をかくまっている単調な幕のように、だらりとしていた。彼はもうこのまま、いつまでも妻を見たくないと思った。もし見なければ、いつまでも妻が生きているのを感じていられるにちがいないのだ。

 彼は帰ると直ぐ自分の部屋へ這入はいった。そこで彼は、どうすれば妻の顔を見なくて済まされるかを考えた。彼はそれから庭へ出ると芝生の上へ寝転んだ。身体が重くぐったりと疲れていた。涙が力なく流れて来ると彼は枯れた芝生の葉を丹念にむしっていた。

「死とは何だ」

 ただ見えなくなるだけだ、と彼は思った。しばらくして、彼は乱れた心を整えて妻の病室へ這入っていった。

 妻は黙って彼の顔を見詰めていた。

「何か冬の花でもいらないか」

「あなた、泣いていたのね」と妻は云った。

「いや」

「そうよ」

「泣く理由がないじゃないか」

「もう分っていてよ。お医者さんが何か云ったの」

 妻はそうひとり定めてかかると、別に悲しそうな顔もせずに黙って天井を眺め出した。彼は妻の枕元の籐椅子とういすに腰を下ろすと、彼女の顔をあらためて見覚えて置くようにじっと見た。

 ──もうぐ、二人の間の扉は閉められるのだ。

 ──しかし、彼女も俺も、もうどちらもお互に与えるものは与えてしまった。今は残っているものは何物もない。

 その日から、彼は彼女の云うままに機械のように動き出した。そうして、彼は、それが彼女に与える最後の餞別せんべつだと思っていた。

 或る日、妻はひどく苦しんだ後で彼に云った。

「ね、あなた、今度モルヒネを買って来てよ」

「どうするんだね」

「あたし、飲むの、モルヒネを飲むと、もう眼が覚めずにこのままずっと眠って了うんですって」

「つまり、死ぬことかい?」

「ええ、あたし、死ぬことなんか一寸もこわかないわ。もう死んだら、どんなにいいかしれないわ」

「お前も、いつの間にかえらくなったものだね。そこまで行けば、もう人間もいつ死んだって大丈夫だ」

「でも、あたしね、あなたに済まないと思うのよ。あなたを苦しめてばっかりいたんですもの。御免なさいな」

「うむ」と彼は云った。

「あたし、あなたのお心はそりゃよく分っているの。だけど、あたし、こんなに我ままを云ったのも、あたしが云うんじゃないわ。病気が云わすんだから」

「そうだ。病気だ」

「あたしね、もう遺言も何も書いてあるの。だけど、今は見せないわ。あたしの床の下にあるから、死んだら見て頂戴ちょうだい

 彼は黙って了った。──事実は悲しむべきことなのだ。それに、まだ悲しむべきことを云うのは、やめて貰いたいと彼は思った。


 花壇の石の傍で、ダリヤの球根が掘り出されたまま霜に腐っていった。亀に代ってどこからか来た野の猫が、彼のいた書斎の中をのびやかに歩き出した。妻は殆ど終日苦しさのために何も云わずに黙っていた。彼女は絶えず、水平線をねらって海面に突出している遠くの光った岬ばかりを眺めていた。

 彼は妻の傍で、彼女に課せられた聖書を時々読み上げた。

「エホバよ、願くば忿恚いきどおりをもて我をせめ、はげしき怒りをもてらしめたもうなかれ。エホバよ、われをあわれみたまえ、われしぼみ衰うなり。エホバよわれをいやしたまえ、わが骨わななき震う。わが霊魂たましいさえもいたくふるいわななく。エホバよ、かくて幾その時をへたもうや。死にありてはなんじを思いずることもなし」

 彼は妻のすすり泣くのを聞いた。彼は聖書を読むのをやめて妻を見た。

「お前は、今何を考えていたんだね」

「あたしの骨はどこへ行くんでしょう。あたし、それが気になるの」

 ──彼女の心は、今、自分の骨を気にしている。──彼は答えることが出来なかった。

 ──もう駄目だ。

 彼は頭を垂れるように心を垂れた。すると、妻の眼から涙が一層激しく流れて来た。

「どうしたんだ」

「あたしの骨の行き場がないんだわ。あたし、どうすればいいんでしょう」

 彼は答えの代りにまた聖書を急いで読み上げた。

「神よ、願くば我を救い給え。大水ながれきたりて我たましいにまで及べり。われ立止たちとなき深き泥の中に沈めり。われ深水ふかみずにおちいる。おお水わが上をあふれ過ぐ。われ歎きによりて疲れたり。わがのどはかわき、わが目はわが神を待ちわびて衰えぬ」


 彼と妻とは、もうしおれた一対の茎のように、日日黙って並んでいた。しかし、今は、二人は完全に死の準備をして了った。もう何事が起ろうとも恐がるものはなくなった。そうして、彼の暗く落ちついた家の中では、山から運ばれて来る水甕みずがめの水が、いつも静まった心のように清らかに満ちていた。

 彼の妻の眠っている朝は、朝毎に、彼は海面から頭をもたげる新しい陸地の上を素足で歩いた。前夜満潮に打ち上げられた海草は冷たく彼の足にからまりついた。時には、風に吹かれたようにさ迷い出て来た海辺の童児が、生々しい緑の海苔のりすべりながら岩角をよじ登っていた。

 海面にはだんだん白帆が増していった。海際うみぎわの白い道が日増しににぎやかになって来た。或る日、彼の所へ、知人から思わぬスイトピーの花束が岬を廻って届けられた。

 長らく寒風にさびれ続けた家の中に、初めて早春がにおやかに訪れて来たのである。

 彼は花粉にまみれた手で花束をささげるように持ちながら、妻の部屋へ這入っていった。

「とうとう、春がやって来た」

「まア、綺麗きれいだわね」と妻は云うと、頬笑ほほえみながらせ衰えた手を花の方へ差し出した。

「これは実に綺麗じゃないか」

「どこから来たの」

「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春をき撒きやって来たのさ」

 妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚こうこつとして眼を閉じた。

底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社

   1969(昭和44)年820日発行

   1995(平成7)年41034

入力:MAMI

校正:もりみつじゅんじ

2000年91日公開

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