台風
與謝野晶子
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八月十三日。
昨夜は夜通し蒸暑くて寝苦しかつた。夕刊の新聞に台風が東京をも襲ふ筈だと書いてあつたが、夜の十時頃から果してそれらしい風が吹き出した。併し雨はまだ小降であつた。蚊遣線香が無くなつたので十一時で筆を止めて蚊帳の中に入つたが、寝苦しいままに何時しかうとうととすると、アウギュストが啼いたので目が覚めた、もう夜明である。白んだ戸の隙間から吹き込む風で蚊帳が凄じい程煽られて居る。次の室から起きて来た二人の女の児が戸の間から庭を覗いてコスモスもダアリヤも折れて仕舞つたと言つて居る。劇しい風雨の音が山中で聴いて居るやうである。
台風と云ふ新語が面白い。立秋の日も数日前に過ぎたのであるから、従来の慣用語で云へば此吹降は野分である。野分には俳諧や歌の味はあるが科学の味がない。勿論「野分の又の日こそ甚じう哀れなれ」と清少納言が書いた様な平安朝の奥ゆかしい趣味は今の人にも伝はつて居るから、野分と云ふ雅びた語の面白味を感じないことは無いが、それでは此吹降に就ての自分達の実感の全部を表はすことが不足である。近代の生活には科学が多く背景になつて居る「呂宋を経て紀伊の南岸に上陸し、日本の中部を横断して日本海に出で、更に朝鮮に上陸す」と気象台から電報で警戒せられる暴風雨は、どうしても「台風」と云ふ新しい学語で表はさなければ自分達に満足が出来ないのである。
清少納言は野分の記事の中に萩や女郎花の吹き倒されたのを傷ましがつて居るが、ダアリヤやコスモスの吹き倒される哀れさは知らなかつた。おなじ草花でも彼と是とは感じが異ふ。今の人は歴史的な萩や女郎花の趣も知つて居る上に、舶載の花の新味も知つて居るのであるから、今の台風は昔の野分に比べて趣味の点から云つても内容が複雑になつて居る。新しい詩人は台風を歌つて屹度歌や俳諧にある野分以上の面白い新篇を出すであらう。文明と云ふものは前代の文明の中から今日にも役に立つ純粋な美点だけを伝えて、其上に今日の生活が生んだ新しい美点を加へようとするので、自然、前代の用語では現代の文明が盛り切れなくなつて、是非とも新しい用語や新しい形式が必要になる。それを覚らない人は不知不識現代の生活から孤立して、偏したり、僻んだり、なんでも新しい世態に難癖を附けたりする保守気質の人になつて仕舞ふ。忠孝道徳や賢母良妻主義の教育やで押通さうとする人などが矢張それである。忠孝も賢母良妻も其必要なことは今の人に取つて解り切つたことである。併し今の人はそれのみでは生活が出来ない、其上に世界の文明と呼吸の合ふいろんな思想を内容とした生活をして居るから、この現代生活の律動を象徴する標語として忠孝や賢母良妻を応用しようとするのは非常に不十分なのである。
自分はこんな事を考へながら顔を洗つて、朝の食事を子供等と一所に済ませた。例の様に麺包と珈琲だけで朝の食事を別に座敷で済ませた良人は、戸が開けられないので電燈を点けた儘十種に近い新聞を読んで居る。其側へ行つて自分も二三の新聞を読んだ。欧州には今戦争と云ふ怖しい台風が吹いて居る。其れが東洋にも波及しようとして居る。自分は平生戦争を忌はしく思つて居る一人であるけれど、今度の戦争は之が最後の戦争となる程敵も味方も手疵を負つて、世界を震慄させ、目を覚させて、野蛮な武力の競争を永遠に廃絶する土台となる為に、一時出来るだけ大戦争の開かれることを望んで居る。今日の新聞にある電報では独逸の大軍が仏蘭西と白耳義の国境へ集中され、カイゼル自身が国境戦の声援に出馬したやうである。リエイジュの一敗位に懲りる様な独逸ではないから、英仏の連合軍を相手に激しい大会戦が行はれるであらう。新聞の予測のやうに仏軍が必ず強いとも限らないから、互に一勝一敗は免れまい、一度に運命の決することは無いであらう。
良人も自分も仏蘭西贔負であるから、仏蘭西が戦争に対して上下とも整然たる秩序を保つて居ると云ふ電報を読んだ時は嬉しかつた。それから少時良人と巴里の今日此頃をいろいろ想像して話し合つた。オラル・ド・井ロンの製作室で、ロダン翁は平気でモデルを相手に下図を試みて居るであらう。詩人ヹルアラン翁はサン・クルウの家で新詩集「高き焔」の校正をして居るであらう。自動車の音が厭だと云つてヹルサイユの郊外へ隠居したアナトオル・フランス翁と、此春その新劇「忍冬」を巴里で十日間上場して不評に終つた挙句一時大患に罹り、近く新劇「鶏頭」を巴里への面当に羅馬、ミラノ、ゼノア、フィイレンチェの四箇所で同時に上場しようとして居たのに、戦争で当分伊太利へ帰られなくなつたダンヌンチョとは厭な顔をして居るであらう。オペラも芝居も休まずに居るであらうか。ベルンナイムの店で未来派の画家が壮んな戦争画の会を開いて居るかも知れない。こんな事を良人が云つたので、自分も今頃若し巴里に居たら戦争の事なんか忘れて、リユクサンブルの美術館でロダン翁の作の「鼻の欠けた人」の首でも恍惚と眺めて居るかも知れないと思つた。
昨日までは彼方の窓下や此方の室の隅へ日を避けて、濡手拭で汗を拭き拭き筆を執つて居たが、今日は涼しい代りに何の室も戸が開けられない。雨風の音を聴きながら電燈の附いた書斎で之を書いて居ると、なんだか海の底に坐つて居る気がする。電燈が突然消えた。いくら待つても点かない。東京の電燈が夏の間だけ昼も点くのは旋風器に送電するからである。今日は涼しくて旋風器の用がないから会社で送電を止めたのであらう。良人は蝋燭を点けて二階へ何か読みに行つた。肴屋が来たと咲が知らせて来た。もう正午前になつたのである。自分は戸を細目に開けて其明りで之を書き終つた。
底本:「日本の名随筆19 秋」作品社
1984(昭和59)年5月25日第1刷発行
1991(平成3)年9月1日第12刷発行
入力:渡邉つよし
校正:浦田伴俊
2000年6月22日作成
2005年1月26日修正
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