一条の繩
宮本百合子
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月の冴えた十一月の或る夜である。
二羽の鴨が、田の畔をたどりたどり餌を漁って居る。
収獲を終った水田の広い面には、茶筅の様な稲の切り株がゾクゾク並んで、乾き切って凍て付いた所々には、深い亀裂破れが出来て居る。
小路は霜で白く光り、寒げな靄に立ちこめられた彼方には、遠く高い山並みや木立の影が夢の様に浮き上って、人家の灯かげがところ、どころにチラチラと、小さく暖かそうに瞬いて居る。
そよりともしない夜更けの寒い静かな裡に、二つのひしゃげた影坊師がヨチヨチと動いて行くのである。
彼等は折々立ち止まって、水溜りに嘴を突込んでは意地の汚なそうな、ジュ、ジュジュ、ジュと云う音を立てながら歩いて行った。
「お月様は明るい。
餌はまあかなり工合の好い方だ。
おまけに、自分達は若いんだし、奇麗だし、仲は好いし……
ほんとに好い気持だなあ。
雄鴨は非常に愉快であった。
自分のすぐ傍を、小じんまりした形の好い形を左右に揺りながら、さも嬉しそうについて来る雌鴨を、目を大きくしてながめると、一杯にこみあげて来る満足を押え切れない様に、若い雄鴨は大羽ばたきをして、笛の様に喉をならした。
「まあ、其那声を出して……。どうしたの?
何が其那に嬉しいの。
一足前に出て、しきりに泥を掘じくって居た雌鴨は、首を振りながら、喫驚した様にきいた。
「何がってお前うれしいじゃないかねえ。
まあ考えても御覧よ、虫は此那にも居るしさ、お天気はもって来いだしさ。
その上お前まで、其那に奇麗なんだもんなあ嬉しくなくってどうするんだ。
まあ一寸此方を向けよ、ほんとに俺りゃ気持が好い。
「そうねえ。
ほんとに好い工合だわ。だけどそう喋らずに此れをたべて御覧なさいよ。随分美味しいわ、よーく肥ってるんだもの。
雌鴨は泥だらけの虫を、嘴で振り廻しながら云った。
「有難うよほんとに美味しいね。
けれ共考えて見りゃあ私共はほんとに、運が好いんだよ。今まで何処へ行ったって食べるものには困ったことはなし、其那にこわいと云う程の目にも会わないんだからねえ。どうかこれからも、そうですみます様にだ。ほんとに運が悪いとなると、あの片目の雌鴨みたいなのさえ居るんだからなあ。
「片目のって? どんなんだって? 第一そんなのと私共一緒に居た事があったかしらん。
「ほらお前もう忘れたの? ついこないだまで一緒に居たじゃないか、あのうんと大きな体のさ! よくお前と突つきあいばっかりして居た癖に。
「ああそうそう居ましたっけねえ思い出したわ、あの慾張りなんでしょう。私大きらい彼那の!
「まあきらいでもかまいやしないけど兎に角運の悪いんだってよ、ほら! 何ぞと云っちゃあ、一度捕えられて、人の家に飼われて居た時猫に目を片輪にされて、漸々逃げ出すと今度は又食べるもんがなくって、死にかけて居る所を又他の人につかまって、今度逃げて来たのは二度目だって云ってたじゃないか。
だから逃げる事だきゃあ上手だって自慢してたっけが今度って今度はもう駄目だろうねえ。
「そうねえ何んしろ繩だもの、きっと殺されるのねえ、あれは……
だけど私あの時は、可哀そうより気味の好い方が沢山だったわ、ほんとにもう何かと云っては、
『おちび! おちび! お前さんに何が出来る、え、
って云っちゃあいじめたんだもの。
「そうだったっけかなあ。けれ共とにかく自分達が此那に幸福に暮して行けりゃ何よりだねえ。
ほんとに何て有難い事だ!
雄鴨は小虫を一匹飲み込みながら、卵色の足を浮かせてもう一度、大きな大きな羽ばたきをして、雌鴨の小さい茶色の頭を擽った。
二羽は此上ないよろこばしさに胸をワクワクさせながら歩いた。
自分達の周囲には、不幸なものや、恐ろしい目に幾度も幾度も出喰わさなければならなかったものが、ウジャウジャ居るにもかかわらず、此の自分達は選りに選った様に、たった一度の不吉な事にも恐ろしい事にも出会う事なしに過ぎて来たのだと云うことは、どれ程深く彼等の心を感動させた事であろう。
彼は、俺は此上ないお恵みにあずかって居ると思った。彼女も、ほんとに私は運が好い何て有難い事だろうと思った。
そして、二羽は同じ様な歓喜と、同じ様な感謝に満ちて、爪立ち首を勇ましく持ちあげて、向うの杉の枝に座って被居っしゃるお月様に向ってお礼心の羽ばたきをした。
四つの厚い羽根が空気を打つバッサ、バッサ、バッサと云う音と、喉をならす、稍々細く切れぎれな声と、低いうねうねした声とは混り合って、靄のほの白いはるかにまで響いて行ったのである。
所々崩れ落ちて居る畔路を、ときどき踏みそこなって、ころがりそうになったり、大狼狽な羽ばたきをしたりして、先へ先へと歩いて行った雌鴨は、フト何か見つけたらしく小馳りに後戻りして来て、あわただしくクワッ、クワッと叫び立てた。
「オヤ、一寸御覧なさい何だろうかしらん、あすこに光ってるのは……?
ね? 見えるでしょう ホラ! 彼那にキラキラして居る──
「どれ? どこに光ってるって?
ちっとも私の所からじゃ見えない。
「駄目ねえ、じゃもっと此方へ来て御覧なさいよ。
ほらね、見えるでしょう?
御覧なさい、彼那に光ってるじゃあないの。
雄鴨は、危険なものに立ち向った時に、いつでもする様に体をズーッと平べったくし、首丈を長々とのばして、ゆるい傾斜の畑地の向うに、サラ……と音を立てて行く光ったものを見つめた。
「なあんだ、
フフフフなあんだお前水だよ。水が流れてる丈だよ
すっかりおどかされちゃった。
「まあそうなの? 流れてるの、水が?
ほんとにいやあね何だろう私。
そんならよかったわねえ私は又何かと思った。
「うまい工合だね一寸遊んで行こうよ、好いだろう。
「ええ、丁度おあつらえだわ。
二羽は、重い羽音を立てて飛び込んだ。
サラサラした水は快く彼等の軟い胸毛を濡して、鯱鉾立ちをする様にして、川床の塵の間を漁る背中にたまった水玉が、キラキラと月の光りを照り返した。
バシャバシャと云う水のとばしる音、濡れそぼけて益々重くなった羽ばたきの音、彼等の口から思わずほとばしり出るよろこびの叫び。
其等の種々な音をにぎやかに立てながら、彼等は堤の草の間をほじったり、追っかけっこをしたりして、四季の分ちなく彼等には無上のものである水を、充分にたのしむのであった。
「ああさっぱりした。何と云っても水ほど好い気持なものはないねえ。
雄鴨は、青い色に美くしい頸を曲げたり延したりして羽根に艷をつけながら云った。
「ほんとにねえ。まるで生れ換った様だこと。
雌鴨も、連れの傍によって、白い瞼を開けたり、つぶったりしながら、一生懸命に身繕いをし始めた。
可愛いく胸を張り腰を据えて、如何にも優しい身ごなしで、油をぬったり、一枚一枚の羽をしごいたりして居る雌鴨の様子を、わきからだまって見て居るうちに、雄鴨はどうしても離れられない様な愛着を感じた。
彼には、その体つきの、キリリシャンとした所から、真黒い眼が割合になみより小さいのも気に入って居た。
「ほんとに好い形恰だ。けれ共どうもちっとあれが気になる。
雄鴨は、割合に美くしくない相手の羽根の模様に、仔細らしく小首を傾けたけれ共その、羽根の黒いポツポツが順序よく定まった大きさについて居ないと云う事は、却って全体の姿に若々しい不釣合、愛嬌と云う様なものを添えるばかりであると思いつくと、彼にとっては、羽の模様がほかのと異うと云う事が、尊い只彼女のみの持って居る宝物ででも有るかの様に感じられて来たのである。
彼は晴ればれした心持で、可愛い連れの身繕いを手助ってやったり、羽根をしごく次第に一寸強く引っぱって見たり、擽って見たりした。
二羽は充分めかし込んだ。
出来る丈美くしくなった。
そして又、意気揚々と歩き出したのである。
「どっちへ行きましょうね。
「向うへ行って御覧、うんそうそうまっすぐの方へ。
二つの影は、かたい地面の上に縺れ合った。
「良い晩だわねえ。
「ああほんとにさ。一つ飛んで行こうか、
随分好い気持だろうよ。
「さあ、歩いた方がいい事よ此那好い虫が居るんだもの。
あら! まあ御覧なさい、早くいらっしゃいよ。
何て居るんだろう。
茶っぽい小虫の群が、草の根元にかじかんだ様になって居るのを雌鴨は見つけたのである。
彼女は思い掛けない発見物にすっかり心を奪われて仕舞った。
そして雄鴨とはまるで、何の関係もなく独りでズンズンと、わき道へそれて行って仕舞った。
後に一羽とりのこされた雄鴨は「ああ危いなあ」と思わずには居られなかった。
「若し『繩おとし』にでも掛ったら、どうする積りだろう
と思った彼は思わずあせって彼女の後を追おうとした時である。
彼はオヤ足に何か引っ掛ったなと思う間もあらせず、今まで非常に順序よく運ばれて居た体が大変動を起した。
何かに引っかかった足は、どうしても取れるどころか、身をもがけばもがくほどひどくしまって来て、大きな大きな叫び声と共に、彼の体はすっかり、でんぐる返しになって仕舞ったのである。
天地が真暗になった様な気がした瞬間に、彼はすべての事を知って仕舞った。
雄鴨は到頭、百姓の張って置いた繩落しに掛ったのである。
もう此処を先途と叫び立てる彼の声に驚かされて、飛び戻って来た雌鴨はまあどんな様子を見た事か!
彼女は第一に、宙を掻いて居る一本の卵色の足を見た。
次には、白黒くピクピクして居る腹をながめ、最後に口をあけハアハア云って叫んで居る雄鴨の顔を見た時!
彼女は氷をあびた様に感じた。
たまらない恐れが其処にジイッと、彼女をさせて置かなかった。
何の躊躇もなく、一二度羽根だめしをすると、彼女は死に物狂いな叫びを上げて、狂気の様に飛び上って仕舞った。
激しい羽音ばかりが、苦しんで居る雄鴨の心を強く打ったのである。
彼は、逃げ出す雌鴨を見ると、一層はげしく身をもがきながら叫んだ。
「ああ、
一寸待って、おい、一寸待って御呉れったら。
ああ、あ! 待っておくれって云うのに、
行っちまっちゃいやだよ、ああ一寸……
けれ共雌鴨の姿はすぐ見えなくなって仕舞った。
彼はもう夢中であった。
「どうしても逃げなけりゃならない。
「どうしても生きなきゃならない。
と云う願望が、気違いの様に羽ばたきをさせたり、空な足掻きをさせたりした。
白と黒の細かいだんだらの腹を、月の光りにさらしながら、頸ばかりを長く振りのばして、悲しい声に彼は叫びつづけたのである。
「何と云う事になったのだ!
彼は、自分を喰い殺して仕舞い度い程の、いまいましさと自放自棄を感じた。
散々叫びつづけ、鳴きつづけて喉もかれがれになると、彼はあきらめた様にだまり返って仕舞った。
そして、今の有様の体を少しでも楽にさせるために、ぴったり背中を地面につけて、死んだ魚の様な形をとったのである。
彼は激動の後の静かな心持で、もう恐らくは死ぬまで会う事の出来ないだろう、今飛び去った雌鴨の事を思い出して居た。
此の、ほんの一寸の前までの、彼の幸福彼のよろこびが、今斯うやって命まで投げ出して醜い姿になって居る自分の物だったのだと云う事は、自分ながら信じられない事である。
「ああ俺は幸福だった。
彼は溜息を吐いた。
そして、彼那に愛しながら、此の唐突な別れをした今になっては、余り明かに浮んで来ない雌鴨のあの小さかった頭、眼、細かった頸を思い出して居たのである。
其の薫わしい、若々しい追想は、少なからず彼の心を柔らげた。
「ああ、俺は運が好かったのだ。
さっきまで、彼の様に自分に深い恵みを垂れて居た神様は、此れから先も、決して自分には辛くばかりは御あたりなさるまいと云う事を、段々彼は感じ始めた。彼の可愛い雌鴨も、自分が又幸福な日に会うまでは、生きてどこかに自分を覚えて居るだろうと云う事は、空だのみではない様に思えたのである。
彼はもういくらもがいても無駄な事であるのを知って居る。
駄目だと知りつつ苦しさをいよいよつのらせるほかしない身もがきをするでもない。
彼は、右の片足をしっかり捕えて居る繩の条じ目を、ぼんやり痛く感じながら、静かに目を瞑って仰向きになって居るのである。
斯うして居るうちに、夜は百年昔と同じに、彼の幸福であったきのうの朝が明けた通りに、段々明るんで来た。
四辺の万物は体の薄黒色から次第次第に各々の色を取りもどして来、山の端があかるみ、人家の間から鶏共が勢よく「時」を作る。
向うの向うの山彦が、かすかに「コケコッコ──ッ」と応える。
目覚め、力づけられて活き出そうとする天地の中に、雄鴨は、昨日の夜中と同様に、音なしく仰向き卵色の水掻きをしぼませ、目を瞑って、繩に喰いつかれて居るのである。
彼の薄い瞼一重の上に、太陽は益々育ち始めた。
底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
1981(昭和56)年12月25日初版
1986(昭和61)年3月20日第5刷
初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
1981(昭和56)年12月25日初版
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年8月4日作成
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