黒馬車
宮本百合子



 時候あたりだろうと云って居た宮部の加減は、よくなるどころか却って熱なども段々上り気味になって来た。

 地体夏に弱い上に、此の間どうしたのか頭の工合を悪くして三日ほど床について居た揚句にたべたかつおの刺身がさわったのだと云う事は確な事であった。

「まあほんとに不養生な、

 白肉しらみのでさえたべない様にして居るのにねえ。

 あんなに云って置いたのをきかないからなんだよ。

と主婦は顔をしかめながら、例の人の難儀をすてて置かれない性分で早速、医者を迎えた。今じきにあがりますと云いながら、夕方になっても来て呉れないので、家の者は、書生が悪いと云ったので一寸逃れをして居るのだろう、お医者なんて不親切なものだなどと云い合って居た。

 物に熱し易い娘は、

 人の命の色分けはないじゃあありませんか、もう一度そう云って見ましょうよね。

 若しそいで来なけりゃあ私云ってやる。

と怒った太い声を出して云ったりした。

 手洗の水までそろえてまって居るのに来て呉れないので娘は到々催速の電話をかけた。

 午前中からおたのみしてあるのに御都合がつきませんでしょうかと、あんまりいかめしい調子で云い迫ったので向うの奥さんらしい声はへどもどしながら、少し工合が悪くて横になって居るが、もうじきあがる様に申して居りましたと返事するのをきいて、常套手段の少々加減がを腹だたしく思わないわけには行かなかった。

 夕飯の仕度にせわしい頃漸々来て呉れた医者は、

 どうも、チブスの疑があると云って帰って行った。

 家中の者は、万更思わぬではなかったけれども、こう明らさまに云い出されると、今更にはげしい不安におそわれて、どうぞそうなりません様にと思う傍ら、いなずまの様に避病院の黒馬車と、白い床の中に埋まって居る瘠せほうけた宮部を一様に思い浮べて居た。

 今まで通って居た便所に消毒薬を撒いたり、薬屋に□□錠の薄める分量をきいたりしてざわざわ落つきのない夜が更けると、宮部の熱は九度一分にあがってしまった。

 台所では二つの氷嚢に入れる氷をかく音が妙に淋しく響き主夫婦は、額をつき合わせて何か引きしまった顔をして相談して居るのを見ると娘は、じいっとして居られない様な気持になって、何事も手につきかねた風に、あてもなくあっちこっちと家中を歩き廻って居た。

 親元に報じてやる手紙が出されるのを見てから赤子のわきに横になりはなっても、自分が経験した病気に対する、あらゆる悲しさや恐ろしさが過敏になった心に渦巻きたって、もうどうしても死なねばならないときまってしまった様な厳な気持になったりして、いつとなし眠りに落ちるまで、もごもごと寝返りを打ちつづけて居た。

 明る朝は誰も彼も起きぬけに宮部の容態を気にしあって、夜中に二度ほど行って氷をとりかえてやった女中は、そこいら中で捕えられて喋らされた。

 いつ行っても、天井を見て起きて居るんでございます。

 きっと一晩中まんじりともしなかったんでございましょうよ、可哀そうに。

 他人の中でむほどつらい事はございませんものねえ。

 此処へ来て一日ほど立って、指をはらして二月も順天堂に通った事のあるその女中は、ほんとうに思いやりがあるらしく涙声で云った。

 その日一日八度から九度の間を行き来して居た宮部の熱は、夜になっても別にあがりもしなかった。

 それでも病人の部屋のわきの竹縁に消毒液をといた金□がならんであったり、氷の音がしたりすると、皆は、いやなものをさしつけられた様な気持になって不安げなつぶやきが低く起った。

 それから二三日は何の変りもなくって退屈に立って行ったが、五日目に七度二分に熱った時には、皆がもう生き返った様な面差しになって、

「もう大丈夫ですよ、ええ。

 チブスなら、どんな事があったって今頃下るって云う事はないのです。

 それに、先生が云っていらっしゃったけれど、何にも下熱剤をつかってないと云うんですもの。

 まあまあ何よりでしたねえ、

 今夜からよくねられる様になるでしょう。

 主婦などは、そう云って自分の事の様に喜んで、わざわざ、宮部の部屋まで出かけて、

 もう大丈夫だから安心して早くよくおなり。

となぐさめて居たが、六日七日と立つにつれて又元に戻った熱は下り様ともしなくなった。

 不安がまた人の心にはびこり出した。

 どうも、変だと云って□の反応をしらべた医師の報告は一更おびえさせて、無智から無精に病をこわがる女中共は、台所にたったまま泣いたりし始めた。

 当人には云わずに居た事だけれども、種々の様子からいつとはなし悟ったと見えて、

 僕、どうしたってチブスなんかにゃあならないよ。

 黒馬車にのっけられるのはいやだもの。

と云ったと云うのをきいたりすると、いくらしっかりして居ると云ったって二十前の息子が他人の家で病う気持が思いやられて、娘は、他人事でない様な、只書生の云う事だと云いきってしまわれない様な深い思いやりが湧いた。

 進みも退きもしない容態で十日ほど立ったけれども医師の診断はどうしても違わないと云う事になって来た。

 チブスならパラチブスで極く軽いのだけれどもお家へお置きなさるのはどうでしょうと、主婦が神経質なのを知って居る医師が病院送りの相談を持ちかけたけれども、他人の息子をあずかって居ると云う事に非常な責任を感じて居る主婦は、出来るだけの事はしてやるつもりだからもう四五日しての様子を見ると云って断ってしまった。それだのに、誰も知らない内に、

 お前避病院に行っちゃあどうだい。

といきなり当人に云ったと云う医者の態度があまり親切気がない様で切角主婦がああ云って居るのにそんな事を云っていやな思いをさせずともと、娘はすっかりいやな気持になって、

 医者なんてまるで冷血動物だ。

 死にかかった病人に、お前もう死ぬよと云えるのはお医者なんです。

 ほんとうに思いやりがないじゃあありませんか。

 こっちに先に相談して、若しやるとでも云ったら、その時になって、おだやかに云ってやったってわけの分る事だのにねえ。

 お前避病院に行かないかい。

 なんてあんまり人を馬鹿にして居る。

 自分のためにそうして置いた方が安全だからですよ。

と母を相手に散々腹をたてた。

 日に幾度も幾度も娘は境の障子の外から、

 どんなだい、

 熱は?

とたずねてやって居たけれども、小さい弟共の事などを思うと、思い切って中に入って見る事もしかねたし又骨だった顔を見る事もつらかった。

 牛乳と、スープと重湯を時間をきめてたべさせるさしずに主婦は常よりも余程いそがしいらしかった。

 只猫可愛がりになり勝な二十七になる女中は、主婦がだまって居ると、涼しい様にと、冷しすぎたものを持って行ったり、重湯に御飯粒を入れたり仕がちであった。可愛がって、自分の子を殺して仕舞う女はこんなんだろうと思うと、只無智と云う事のみが産む種々雑多のさい害のあまり大きいのを怖ろしがらずには居られなかった。

 十二三日目になった時、様子を見に行った主婦は、気味悪く引きしまった顔になって帰って来た。

 どうも面白くないねえ。

 物を書いて居た娘のわきに座りながら云った。

 どうして。

「まるで声が変ってしまって居るのだよ。

 それにもう疲れて便所へも行かれないんだって、

 だから、どうしてもチブスなんだねえ。

 でも考えて見ると、去年お前が悪かった時なんかは九度以上の熱が十日以上続いて居たが、つかまって便所へは行けて居たからねえ。

 そうして見ると、よっぽど悪性の熱だと見える。

 どうかしなくちゃあならない。

 その晩早速、親元へ電報を打ってやった。

 只身の廻りの世話位なら誰もいやがるものもないけれども、何から何までとなると、女達も気の毒だし、第一、思う様には手が廻らないのが分って居る。

 その上世話をするのもいいけれどいろいろな物に手をつけた体で子供の事をするなどはいくら消毒したと云っても危険であるから親を呼んで相談して見ようと云う主婦の意見に反対する事は出来なかった。

 翌朝早く停車場からすぐ来た宮部の実父は、あまり息子に似て居ないので皆に驚ろかれた。

 体の小柄な、黒い顔のテカテカした年より大変老けて見える父親は、素末な紺がすりに角帯をしめて、関西の小商人らしい抜け目がないながら、どっか横柄な様な態度で、主婦の事を、

 お家はん、お家はん。

と云って、話して居た。

 此方こちらで種々手厚くしてやる事をあたり前だと云う様な調子で聞いて居るので、感謝されるのが目的でした事ではないと云ってもあんまりよい気持を起させなかった。

「ちっとも朴突なうまみのあるところがない

と主婦はいやそうに云って居たけれども、添え手紙をもらって医者に話をきいて来た男の様子は、皆が可哀そうがって、涙組むほど、しおれて心配げに変って見えた。

 急にざわめきたった家中は、電話のはげしいベルの絶間ない響と、急にひどくなった雨の騒々しさに満たされて、書斎に物を書いて居る主人と娘は居たたまれない様にあちこちあるき、主婦は何か考えに沈んだ様にしてじいっと椅子から動かなかった。

 避病院に関しての迷信、

 子供の間から、駒込に曲って行く黒馬車や吊台を見るとにげるくせのついて居る娘は、家に居るよりは当人のためになるとは知りながら、何だか悪い事のある様な、恐ろしい気持にならずに居られなかった。

「なおるでしょうねえ。

と云って、

「どうしてそんな事を云うのだい。

 なおるものはなおるに定まって居るじゃあないか。

 馬鹿な事を云う人だ。

と叱られたりした。

 主婦は、斯うしたかなりの家から駒込送りの病人を出した事を非常に恥辱の様に思い、子供達は気味も悪がり、女中共は涙をこぼし、主は、

「道徳だの頭の程度の違うものと生活するのはよくない事だ。

と云って居た。

 斯うした種々の気持は皆一まとめになって物音もしない熱気の漲る病人の小部屋にながれて行くのであった。わびしそうな姿をして、口をもきかずに息子のわきについて居る父親は、自分の子をつれて行く黒馬車を待ちながら堪えられぬ怖れに迫られて居る様に、時々土間に下りては、暗い中を、遠い門の方をながめてぼんやり立ちくらして居るのを見ると、女親の様に、涙も気ままにこぼせない意地で保つ心根が、何かやさしい言葉をかけて、なぐさめてやりたいほどに思われた。

 雨の夜は更けるのが早い。

 娘は、自分の書斎の机の前に座って白いまま重ねられてある原稿紙をながめて下目をしたまま身動きもしなかった。

底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年1225日初版

   1986(昭和61)年320日第5

初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年1225日初版

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2009年129日作成

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