思い出す事など
夏目漱石
|
ようやくの事でまた病院まで帰って来た。思い出すとここで暑い朝夕を送ったのももう三カ月の昔になる。その頃は二階の廂から六尺に余るほどの長い葭簀を日除に差し出して、熱りの強い縁側を幾分か暗くしてあった。その縁側に是公から貰った楓の盆栽と、時々人の見舞に持って来てくれる草花などを置いて、退屈も凌ぎ暑さも紛らしていた。向に見える高い宿屋の物干に真裸の男が二人出て、日盛を事ともせず、欄干の上を危なく渡ったり、または細長い横木の上にわざと仰向に寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんな逞しい体格になって見たいと羨んだ事もあった。今はすべてが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬと云う不慥な点において、夢と同じくはかない過去である。
病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度の病に罹って、寝たまま東京へ戻って来ようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は潜らずに釣台に乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。
帰る日は立つ修善寺も雨、着く東京も雨であった。扶けられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に入らなかった。目礼をする事のできたのはその中の二三に過ぎなかった。思うほどの会釈もならないうちに余は早く釣台の上に横えられていた。黄昏の雨を防ぐために釣台には桐油を掛けた。余は坑の底に寝かされたような心持で、時々暗い中で眼を開いた。鼻には桐油の臭がした。耳には桐油を撲つ雨の音と、釣台に付添うて来るらしい人の声が微かながらとぎれとぎれに聞えた。けれども眼には何物も映らなかった。汽車の中で森成さんが枕元の信玄袋の口に挿し込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。
釣台に野菊も見えぬ桐油哉
これはその時の光景を後から十七字にちぢめたものである。余はこの釣台に乗ったまま病院の二階へ舁き上げられて、三カ月前に親しんだ白いベッドの上に、安らかに瘠せた手足を延べた。雨の音の多い静かな夜であった。余の病室のある棟には患者が三四名しかいないので、人声も自然絶え勝に、秋は修善寺よりもかえってひっそりしていた。
この静かな宵を心地よく白い毛布の中に二時間ほど送った時、余は看護婦から二通の電報を受取った。一通を開けて見ると「無事御帰京を祝す」と書いてあった。そうしてその差出人は満洲にいる中村是公であった。他の一通を開けて見ると、やはり無事御帰京を祝すと云う文句で、前のと一字の相違もなかった。余は平凡ながらこの暗合を面白く眺めつつ、誰が打ってくれたのだろうと考えて差出人の名前を見た。ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。ただかけた局が名古屋とあるのでようやく判断がついた。ステトと云うのは、鈴木禎次と鈴木時子の頭文字を組み合わしたもので、妻の妹とその夫の事であった。余は二ツの電報を折り重ねて、明朝また来るべき妻の顔を見たら、まずこの話をしようかと思い定めた。
病室は畳も青かった。襖も張り易えてあった。壁も新に塗ったばかりであった。万居心よく整っていた。杉本副院長が再度修善寺へ診察に来た時、畳替をして待っていますと妻に云い置かれた言葉をすぐに思い出したほど奇麗である。その約束の日から指を折って勘定して見ると、すでに十六七日目になる。青い畳もだいぶ久しく人を待ったらしい。
思いけりすでに幾夜の蟋蟀
その夜から余は当分またこの病院を第二の家とする事にした。
病院に帰り着いた十一日の晩、回診の後藤さんにこの頃院長の御病気はどうですかと聞いたら、ええひとしきりはだいぶ好い方でしたが、近来また少し寒くなったものですから……と云う答だったので、余はどうぞ御逢いの節は宜しくと挨拶した。その晩はそれぎり何の気もつかずに寝てしまった。すると明日の朝妻が来て枕元に坐るや否や、実はあなたに隠しておりましたが長与さんは先月五日に亡くなられました。葬式には東さんに代理を頼みました。悪くなったのは八月末ちょうどあなたの危篤だった時分ですと云う。余はこの時始めて附添のものが、院長の訃をことさらに秘して、余に告げなかった事と、またその告げなかった意味とを悟った。そうして生き残る自分やら、死んだ院長やらをとかくに比較して、しばらくは茫然としたまま黙っていた。
院長は今年の春から具合が悪かったので、この前入院した時にも六週間の間ついぞ顔を見合せた事がなかった。余の病気の由を聞いて、それは残念だ、自分が健康でさえあれば治療に尽力して上げるのにと云う言伝があった。その後も副院長を通じて、よろしくと云う言伝が時々あった。
修善寺で病気がぶり返して、社から見舞のため森成さんを特別に頼んでくれた時、着いた森成さんが、病院の都合上とても長くはと云っているその晩に、院長はわざわざ直接森成さんに電報を打って、できるだけ余の便宜を計らってくれた。その文句は寝ている余の目には無論触れなかった。けれども枕元にいる雪鳥君から聞いたその文句の音だけは、いまだに好意の記憶として余の耳に残っている。それは当分その地に留まり、充分看護に心を尽くすべしとか云う、森成さんに取ってはずいぶん厳かに聞える命令的なものであった。
院長の容態が悪くなったのは余の危篤に陥ったのとほぼ同時だそうである。余が鮮血を多量に吐いて傍人からとうてい回復の見込がないように思われた二三日後、森成さんが病院の用事だからと云って、ちょっと東京へ帰ったのは、生前に一度院長に会うためで、それから十日ほど経って、また病院の用事ができて二度東京へ戻ったのは院長の葬式に列するためであったそうである。
当初から余に好意を表して、間接に治療上の心配をしてくれた院長はかくのごとくしだいに死に近づきつつある間に、余は不思議にも命の幅の縮まってほとんど絹糸のごとく細くなった上を、ようやく無難に通り越した。院長の死が一基の墓標で永く確められたとき、辛抱強く骨の上に絡みついていてくれた余の命の根は、辛うじて冷たい骨の周囲に、血の通う新しい細胞を営み初めた。院長の墓の前に供えられる花が、幾度か枯れ、幾度か代って、萩、桔梗、女郎花から白菊と黄菊に秋を進んで来た一カ月余の後、余はまたその一カ月余の間に盛返し得るほどの血潮を皮下に盛得て、再び院長の建てたこの胃腸病院に帰って来た。そうしてその間いまだかつて院長の死んだと云う事を知らなかった。帰る明る朝妻が来て実はこれこれでと話をするまで、院長は余の病気の経過を東京にいて承知しているものと信じていた。そうして回復の上病院を出たら礼にでも行こうと思っていた。もし病院で会えたら篤く謝意でも述べようと思っていた。
逝く人に留まる人に来る雁
考えると余が無事に東京まで帰れたのは天幸である。こうなるのが当り前のように思うのは、いまだに生きているからの悪度胸に過ぎない。生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏み外した人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない。
ただ一羽来る夜ありけり月の雁
ジェームス教授の訃に接したのは長与院長の死を耳にした明日の朝である。新着の外国雑誌を手にして、五六頁繰って行くうちに、ふと教授の名前が眼にとまったので、また新らしい著書でも公けにしたのか知らんと思いながら読んで見ると、意外にもそれが永眠の報道であった。その雑誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳をもって逝かるとあるから、指を折って勘定して見ると、ちょうど院長の容体がしだいに悪い方へ傾いて、傍のものが昼夜眉を顰めている頃である。また余が多量の血を一度に失って、死生の境に彷徨していた頃である。思うに教授の呼息を引き取ったのは、おそらく余の命が、瘠せこけた手頸に、有るとも無いとも片付かない脈を打たして、看護の人をはらはらさせていた日であろう。
教授の最後の著書「多元的宇宙」を読み出したのは今年の夏の事である。修善寺へ立つとき、向へ持って行って読み残した分を片付けようと思って、それを五六巻の書物とともに鞄の中に入れた。ところが着いた明日から心持が悪くて、出歩く事もならない始末になった。けれども宿の二階に寝転びながら、一日二日は少しずつでも前の続きを読む事ができた。無論病勢の募るに伴れて読書は全く廃さなければならなくなったので、教授の死ぬ日まで教授の書を再び手に取る機会はなかった。
病牀にありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから幾日目になるだろう。今から顧みると当時の余は恐ろしく衰弱していた。仰向に寝て、両方の肘を蒲団に支えて、あのくらいの本を持ち応えているのにずいぶんと骨が折れた。五分と経たないうちに、貧血の結果手が麻痺れるので、持ち直して見たり、甲を撫でて見たりした。けれども頭は比較的疲れていなかったと見えて、書いてある事は苦もなく会得ができた。頭だけはもう使えるなと云う自信の出たのは大吐血以後この時が始てであった。嬉しいので、妻を呼んで、身体の割に頭は丈夫なものだねと云って訳を話すと、妻がいったいあなたの頭は丈夫過ぎます。あの危篤かった二三日の間などは取り扱い悪くて大変弱らせられましたと答えた。
多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三日ばかりで面白く読み了った。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として、類推で哲学の領分に切り込んで行く所を面白く読み了った。余はあながちに弁証法を嫌うものではない。また妄りに理知主義を厭いもしない。ただ自分の平生文学上に抱いている意見と、教授の哲学について主張するところの考とが、親しい気脈を通じて彼此相倚るような心持がしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する辺りを、坂に車を転がすような勢で馳け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。
今でも覚えている。一間おいて隣にいる東君をわざわざ枕元へ呼んで、ジェームスは実に能文家だと教えるように云って聞かした。その時東君は別にこれという明暸な答をしなかったので、余は、君、西洋人の書物を読んで、この人のは流暢だとか、あの人のは細緻だとか、すべて特色のあるところがその書きぶりで、読みながら解るかいと失敬な事を問い糺した。
教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難渋な文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で云われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。──病中の日記を検べて見ると九月二十三日の部に、「午前ジェームスを読み了る。好い本を読んだと思う」と覚束ない文字で認めてある。名前や標題に欺されて下らない本を読んだ時ほど残念な事はない。この日記は正にこの裏を云ったものである。
余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた長与病院長は、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、空漠なる余の頭に陸離の光彩を抛げ込んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。
菊の雨われに閑ある病哉
菊の色縁に未し此晨
(ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どう面白いかここに詳説する余地がないのは余の遺憾とするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題は Time and Free Will(時と自由意思)と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派である。)
病の重かった時は、固よりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変って行った。自分にもわが心の水のように流れ去る様がよく分った。自白すれば雲と同じくかつ去りかつ来るわが脳裡の現象は、極めて平凡なものであった。それも自覚していた。生涯に一度か二度の大患に相応するほどの深さも厚さもない経験を、恥とも思わず無邪気に重ねつつ移って行くうちに、それでも他日の参考に日ごとの心を日ごとに書いておく事ができたならと思い出した。その時の余は無論手が利かなかった。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。そうして余の頭を掠めて去る心の波紋は、随って起るかと思えば随って消えてしまった。余は薄ぼけて微かに遠きに行くわが記憶の影を眺めては、寝ながらそれを呼び返したいような心持がした。ミュンステルベルグと云う学者の家に賊が入った引合で、他日彼が法庭へ呼び出されたとき、彼の陳述はほとんど事実に相違する事ばかりであったと云う話がある。正確を旨とする几帳面な学者の記憶でも、記憶はこれほどに不慥なものである。「思い出す事など」の中に思い出す事が、日を経れば経るに従って色彩を失うのはもちろんである。
わが手の利かぬ先にわが失えるものはすでに多い。わが手筆を持つの力を得てより逸するものまた少からずと云っても嘘にはならない。わが病気の経過と、病気の経過に伴れて起る内面の生活とを、不秩序ながら断片的にも叙しておきたいと思い立ったのはこれがためである。友人のうちには、もうそれほど好くなったかと喜んでくれたものもある。あるいはまたあんな軽挙をしてやり損なわなければいいがと心配してくれたものもある。
その中で一番苦い顔をしたのは池辺三山君であった。余が原稿を書いたと聞くや否や、たちまち余計な事だと叱りつけた。しかもその声はもっとも無愛想な声であった。医者の許可を得たのだから、普通の人の退屈凌ぎぐらいなところと見たらよかろうと余は弁解した。医者の許可もさる事だが、友人の許可を得なければいかんと云うのが三山君の挨拶であった。それから二三日して三山君が宮本博士に会ってこの話をすると、博士は、なるほど退屈をすると胃に酸が湧く恐れがあるからかえって悪いだろうと調停してくれたので、余はようやく助かった。
その時余は三山君に、
遺却新詩無処尋。 嗒然隔牖対遥林。
斜陽満径照僧遠。 黄葉一村蔵寺深。
懸偈壁間焚仏意。 見雲天上抱琴心。
人間至楽江湖老。 犬吠鶏鳴共好音。
と云う詩を遺った。巧拙は論外として、病院にいる余が窓から寺を望む訳もなし、また室内に琴を置く必要もないから、この詩は全くの実況に反しているには違ないが、ただ当時の余の心持を咏じたものとしてはすこぶる恰好である。宮本博士が退屈をすると酸がたまると云ったごとく、忙殺されて酸が出過ぎる事も、余は親しく経験している。詮ずるところ、人間は閑適の境界に立たなくては不幸だと思うので、その閑適をしばらくなりとも貪り得る今の身の嬉しさが、この五十六字に形を変じたのである。
もっとも趣から云えばまことに旧い趣である。何の奇もなく、何の新もないと云ってもよい。実際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもショウでもない。その代りこの趣は彼ら作家のいまだかつて知らざる興味に属している。また彼らのけっして与からざる境地に存している。現今の吾らが苦しい実生活に取り巻かれるごとく、現今の吾等が苦しい文学に取りつかれるのも、やむをえざる悲しき事実ではあるが、いわゆる「現代的気風」に煽られて、三百六十五日の間、傍目もふらず、しかく人世を観じたら、人世は定めし窮屈でかつ殺風景なものだろう。たまにはこんな古風の趣がかえって一段の新意を吾らの内面生活上に放射するかも知れない。余は病に因ってこの陳腐な幸福と爛熟な寛裕を得て、初めて洋行から帰って平凡な米の飯に向った時のような心持がした。
「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。ようやく生き残って東京に帰った余は、病に因って纔かに享けえたこの長閑な心持を早くも失わんとしつつある。まだ床を離れるほどに足腰が利かないうちに、三山君に遺った詩が、すでにこの太平の趣をうたうべき最後の作ではなかろうかと、自分ながら掛念しているくらいである。「思い出す事など」は平凡で低調な個人の病中における述懐と叙事に過ぎないが、その中にはこの陳腐ながら払底な趣が、珍らしくだいぶ這入って来るつもりであるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新らしい人々と今の苦しい人々と共に、この古い香を懐かしみたいと思う。
修善寺にいる間は仰向に寝たままよく俳句を作っては、それを日記の中に記け込んだ。時々は面倒な平仄を合わして漢詩さえ作って見た。そうしてその漢詩も一つ残らず未定稿として日記の中に書きつけた。
余は年来俳句に疎くなりまさった者である。漢詩に至っては、ほとんど当初からの門外漢と云ってもいい。詩にせよ句にせよ、病中にでき上ったものが、病中の本人にはどれほど得意であっても、それが専門家の眼に整って(ことに現代的に整って)映るとは無論思わない。
けれども余が病中に作り得た俳句と漢詩の価値は、余自身から云うと、全くその出来不出来に関係しないのである。平生はいかに心持の好くない時でも、いやしくも塵事に堪え得るだけの健康をもっていると自信する以上、またもっていると人から認められる以上、われは常住日夜共に生存競争裏に立つ悪戦の人である。仏語で形容すれば絶えず火宅の苦を受けて、夢の中でさえいらいらしている。時には人から勧められる事もあり、たまには自ら進む事もあって、ふと十七字を並べて見たりまたは起承転結の四句ぐらい組み合せないとも限らないけれどもいつもどこかに間隙があるような心持がして、隈も残さず心を引き包んで、詩と句の中に放り込む事ができない。それは歓楽を嫉む実生活の鬼の影が風流に纏るためかも知れず、または句に熱し詩に狂するのあまり、かえって句と詩に翻弄されて、いらいらすまじき風流にいらいらする結果かも知れないが、それではいくら佳句と好詩ができたにしても、贏ち得る当人の愉快はただ二三同好の評判だけで、その評判を差し引くと、後に残るものは多量の不安と苦痛に過ぎない事に帰着してしまう。
ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑かな春がその間から湧いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、出来栄の如何はまず措いて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため、閑に強いられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳ね返って、むっちりとした余裕を得た時、油然と漲ぎり浮かんだ天来の彩紋である。吾ともなく興の起るのがすでに嬉しい、その興を捉えて横に咬み竪に砕いて、これを句なり詩なりに仕立上げる順序過程がまた嬉しい。ようやく成った暁には、形のない趣を判然と眼の前に創造したような心持がしてさらに嬉しい。はたしてわが趣とわが形に真の価値があるかないかは顧みる遑さえない。
病中は知ると知らざるとを通じて四方の同情者から懇切な見舞を受けた。衰弱の今の身ではその一々に一々の好意に背かないほどに詳しい礼状を出して、自分がつい死にもせず今日に至った経過を報ずる訳にも行かない。「思い出す事など」を牀上に書き始めたのは、これがためである。──各々に向けて云い送るべきはずのところを、略して文芸欄の一隅にのみ載せて、余のごときもののために時と心を使われたありがたい人々にわが近況を知らせるためである。
したがって「思い出す事など」の中に詩や俳句を挟むのは、単に詩人俳人としての余の立場を見て貰うつもりではない。実を云うとその善悪などはむしろどうでも好いとまで思っている。ただ当時の余はかくのごとき情調に支配されて生きていたという消息が、一瞥の迅きうちに、読者の胸に伝われば満足なのである。
秋の江に打ち込む杭の響かな
これは生き返ってから約十日ばかりしてふとできた句である。澄み渡る秋の空、広き江、遠くよりする杭の響、この三つの事相に相応したような情調が当時絶えずわが微かなる頭の中を徂徠した事はいまだに覚えている。
秋の空浅黄に澄めり杉に斧
これも同じ心の耽りを他の言葉で云い現したものである。
別るるや夢一筋の天の川
何という意味かその時も知らず、今でも分らないが、あるいは仄に東洋城と別れる折の連想が夢のような頭の中に這回って、恍惚とでき上ったものではないかと思う。
当時の余は西洋の語にほとんど見当らぬ風流と云う趣をのみ愛していた。その風流のうちでもここに挙げた句に現れるような一種の趣だけをとくに愛していた。
秋風や唐紅の咽喉仏
という句はむしろ実況であるが、何だか殺気があって含蓄が足りなくて、口に浮かんだ時からすでに変な心持がした。
風流人未死。 病裡領清閑。
日々山中事。 朝々見碧山。
詩に圏点のないのは障子に紙が貼ってないような淋しい感じがするので、自分で丸を付けた。余のごとき平仄もよく弁えず、韻脚もうろ覚えにしか覚えていないものが何を苦しんで、支那人にだけしか利目のない工夫をあえてしたかと云うと、実は自分にも分らない。けれども(平仄韻字はさておいて)、詩の趣は王朝以後の伝習で久しく日本化されて今日に至ったものだから、吾々くらいの年輩の日本人の頭からは、容易にこれを奪い去る事ができない。余は平生事に追われて簡易な俳句すら作らない。詩となると億劫でなお手を下さない。ただ斯様に現実界を遠くに見て、杳な心にすこしの蟠りのないときだけ、句も自然と湧き、詩も興に乗じて種々な形のもとに浮んでくる。そうして後から顧みると、それが自分の生涯の中で一番幸福な時期なのである。風流を盛るべき器が、無作法な十七字と、佶屈な漢字以外に日本で発明されたらいざ知らず、さもなければ、余はかかる時、かかる場合に臨んで、いつでもその無作法とその佶屈とを忍んで、風流を這裏に楽しんで悔いざるものである。そうして日本に他の恰好な詩形のないのを憾みとはけっして思わないものである。
始めて読書欲の萌した頃、東京の玄耳君から小包で酔古堂剣掃と列仙伝を送ってくれた。この列仙伝は帙入の唐本で、少し手荒に取扱うと紙がぴりぴり破れそうに見えるほどの古い──古いと云うよりもむしろ汚ない──本であった。余は寝ながらこの汚ない本を取り上げて、その中にある仙人の挿画を一々丁寧に見た。そうしてこれら仙人の髯の模様だの、頭の恰好だのを互に比較して楽んだ。その時は画工の筆癖から来る特色を忘れて、こう云う頭の平らな男でなければ仙人になる資格がないのだろうと思ったり、またこう云う疎な髯を風に吹かせなければ仙人の群に入る事は覚束ないのだろうと思ったりして、ひたすら彼等の容貌に表われてくる共通な骨相を飽かず眺めた。本文も無論読んで見た。平生気の短かい時にはとても見出す事のできない悠長な心をめでたく意識しながら読んで見た。──余は今の青年のうちに列仙伝を一枚でも読む勇気と時間をもっているものは一人もあるまいと思う。年を取った余も実を云うとこの時始めて列仙伝と云う書物を開けたのである。
けれども惜しい事に本文は挿画ほど雅に行かなかった。中には欲の塊が羽化したような俗な仙人もあった。それでも読んで行くうちには多少気に入ったのもできてきた。一番無雑作でかつおかしいと思ったのは、何ぞと云うと、手の垢や鼻糞を丸めて丸薬を作って、それを人にやる道楽のある仙人であったが、今ではその名を忘れてしまった。
しかし挿画よりも本文よりも余の注意を惹いたのは巻末にある附録であった。これは手軽にいうと長寿法とか養生訓とか称するものを諸方から取り集めて来て、いっしょに並べたもののように思われた。もっとも仙に化するための注意であるから、普通の深呼吸だの冷水浴だのとは違って、すこぶる抽象的で、実際解るとも解らぬとも片のつかぬ文字であるが、病中の余にはそれが面白かったと見えて、その二三節をわざわざ日記の中に書き抜いている。日記を検べて見ると「静これを性となせば心其中にあり、動これを心となせば性其中にあり、心生ずれば性滅し、心滅すれば性生ず」というようなむずかしい漢文が曲がりくねりに半頁ばかりを埋めている。
その時の余は印気の切れた万年筆の端を撮んで、ペン先へ墨の通うように一二度揮るのがすこぶる苦痛であった。実際健康な人が片手で樫の六尺棒を振り廻すよりも辛いくらいであった。それほど衰弱の劇しい時にですら、わざわざとこんな道経めいた文句を写す余裕が心にあったのは、今から考えても真に愉快である。子供の時聖堂の図書館へ通って、徂徠の蘐園十筆をむやみに写し取った昔を、生涯にただ一度繰り返し得たような心持が起って来る。昔の余の所作が単に写すという以外には全く無意味であったごとく、病後の余の所作もまたほとんど同様に無意味である。そうしてその無意味なところに、余は一種の価値を見出して喜んでいる。長生の工夫のための列仙伝が、長生もしかねまじきほど悠長な心の下に、病後の余からかく気楽に取扱われたのは、余に取って全くの偶然であり、また再び来るまじき奇縁である。
仏蘭西の老画家アルピニーはもう九十一二の高齢である。それでも人並の気力はあると見えて、この間のスチュージオには目醒しい木炭画が十種ほど載っていた。国朝六家詩鈔の初にある沈徳潜の序には、乾隆丁亥夏五長洲沈徳潜書す時に年九十有五。とわざわざ断ってある。長生の結構な事は云うまでもない。長生をしてこの二人のように頭がたしかに使えるのはなおさらめでたい。不惑の齢を越すと間もなく死のうとして、わずかに助かった余は、これからいつまで生きられるか固より分らない。思うに一日生きれば一日の結構で、二日生きれば二日の結構であろう。その上頭が使えたらなおありがたいと云わなければなるまい。ハイズンは世間から二返も死んだと評判された。一度は弔詩まで作ってもらった。それにもかかわらず彼は依然として生きていた。余も当時はある新聞から死んだと書かれたそうである。それでも実は死なずにいた。そうして列仙伝を読んで子供の時の無邪気な努力を繰り返し得るほどに生き延びた。それだけでも弱い余に取っては非常な幸福である。その頃ある知らない人から、先生死にたもう事なかれ、先生死にたもうことなかれと書いた見舞を受けた。余は列仙伝を読むべく生き延びた余を悦ぶと同時に、この同情ある青年のために生き延びた余を悦んだ。
ウォードの著わした社会学の標題には力学的という形容詞をわざわざ冠してあるが、これは普通の社会学でない、力学的に論じたのだという事を特に断ったものと思われる。ところがこの本のかつて魯西亜語に翻訳された時、魯国の当局者は直ちにその発売を禁止してしまった。著者は不審の念に打たれて、その理由を在魯の友人に聞き合せた。すると友人から、自分にもよくは分らぬが、おそらく標題に力学的という字と社会学という字があるので、当局者は一も二もなくダイナマイト及び社会主義に関係のある恐ろしい著述と速断して、この暴挙をあえてしたのだろうという返事が来たそうである。
魯国の当局者ではないが、余もこの力学的という言葉には少からぬ注意を払った一人である。平生から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物のように、研究の材料を取り扱いながらかえって平気でいるのを、常に飽き足らず眺めていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこの弊に陥りやすく、また陥りつつあるように見えるのを遺憾と批判していたから、参考のため、一度は魯国当局者を恐れしめたというこの力学的社会学なるものを一読したいと思っていた。実は自分の恥を白状するようではなはだきまりが悪いが、これはけっして新しい本ではない。製本の体裁からしてがすでにスペンサーの綜合哲学に類した古風なものである。けれどもまた恐ろしく分厚に書き上げた著作で、上下二巻を通じて千五百頁ほどある大冊子だから、四五日はおろか一週間かかっても楽に読みこなす事はでき悪い。それでやむをえず時機の来るまでと思って、本箱の中へしまっておいたのを、小説類に興味を失したこの頃の読物としては適当だろうとふと考えついたので、それを宅から取り寄せてとうとう力学的に社会学を病院で研究する事にした。
ところが読み出して見ると、恐ろしく玄関の広い前置の長い本であった。そうして肝心の社会学そのものになるとすこぶる不完全で、かつせっかくの頼みと思っているいわゆる力学的がはなはだ心細くなるほどに手荒に取扱われていた。今更ウォードの著述に批評を下すのは余の目的でない、ただついでに云うだけではあるが、今に本当の力学的が出るだろう、今に高潮の力学的が出るだろうと、どこまでも著者を信用して、とうとう千五百頁の最後の一頁の最後の文字まで読み抜けて、そうして期待したほどのものがどこからも出て来なかった時には、ちょうどハレー彗星の尾で地球が包まれべき当日を、何の変化もなく無事に経過したほどあっけない心持がした。
けれども道中は、道草を食うべく余儀なくされるだけそれだけ多趣多様で面白かった。その中で宇宙創造論と云う厳めしい標題を掲げた所へ来た時、余は覚えず昔し学校で先生から教わった星雲説の記憶を呼び起して微笑せざるを得なかった。そうしてふと考えた。──
自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常な仕合のように喜んでいる。そうして自分の癒りつつある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かしておきたいとのみ冀っている。自分の介抱を受けた妻や医者や看護婦や若い人達をありがたく思っている。世話をしてくれた朋友やら、見舞に来てくれた誰彼やらには篤い感謝の念を抱いている。そうしてここに人間らしいあるものが潜んでいると信じている。その証拠にはここに始めて生き甲斐のあると思われるほど深い強い快よい感じが漲っているからである。
しかしこれは人間相互の関係である。よし吾々を宇宙の本位と見ないまでも、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の沙汰である。三世に亘る生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則に因って無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、その間に微かな生を営む人間を考えて見ると、吾らごときものの一喜一憂は無意味と云わんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。
限りなき星霜を経て固まりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨脹して瓦斯に変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日まで分離して運行した軌道と軌道の間が隙間なく充たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰の区別を失って、爛たる一大火雲のごとくに盤旋するだろう。さらに想像を逆さまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の一片を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ燄々たる一塊の瓦斯に過ぎないという結論になる。面目の髣髴たる今日から溯って、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に引張れば、一糸も乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽の御蔭によって生息する吾ら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時──永劫に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時──を貪ぼるに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。
平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心遣さえした事がない。その心根を糺すと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、──地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある──活溌なる酸素が地上の固形物と抱合してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球の表面に瓦斯のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝く他人を悲しみ、友を懐しみ敵を悪んで、内輪だけの活計に甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。
進んで無機有機を通じ、動植両界を貫き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間なく発展して来た進化の歴史と見傚すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一頁を埋むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭に上りつめたと自任する人間の自惚はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛きジスイリュージョンを甞めている。
種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一疋の大口魚が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣になるとそれが二百万の倍数に上るという。そのうちで生長するのはわずか数匹に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者であり、徳義上には恐るべく残酷な父母である。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を易えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当の成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟は毫も存在していないだろう。
こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間大磯で亡くなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のために手向の句を作った。
有る程の菊抛げ入れよ棺の中
忘るべからざる八月二十四日の来る二週間ほど前から余はすでに病んでいた。縁側を絶えず通る湯治客に、吾姿を見せるのが苦になって、蒸し暑い時ですら障子は常に閉て切っていた。三度三度献立を持って誂を聞きにくる婆さんに、二品三品口に合いそうなものを注文はしても、膳の上に揃った皿を眺めると共に、どこからともなく反感が起って、箸を執る気にはまるでなれなかった。そのうちに嘔気が来た。
始めは煎薬に似た黄黒い水をしたたかに吐いた。吐いた後は多少気分が癒るので、いささかの物は咽喉を越した。しかし越した嬉しさがまだ消えないうちに、またそのいささかの胃の滞うる重き苦しみに堪え切れなくなって来た。そうしてまた吐いた。吐くものは大概水である。その色がだんだん変って、しまいには緑青のような美くしい液体になった。しかも一粒の飯さえあえて胃に送り得ぬ恐怖と用心の下に、卒然として容赦なく食道を逆さまに流れ出た。
青いものがまた色を変えた。始めて熊の胆を水に溶き込んだように黒ずんだ濃い汁を、金盥になみなみと反した時、医者は眉を寄せて、こういうものが出るようでは、今のうち安静にして東京に帰った方が好かろうと注告した。余は金盥の中を指していったい何が出るのかと質問した。医者は興のない顔つきで、これは血だと答えた。けれども余の眼にはこの黒いものが血とは思えなかった。するとまた吐いた。その時は熊の胆の色が少し紅を含んで、咽喉を出る時腥い臭がぷんと鼻を衝いたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと云った。玄耳君が驚ろいて森成さんに坂元君を添えてわざわざ修善寺まで寄こしてくれたのは、この報知が長距離電話で胃腸病院へ伝って、そこからまた直に社へ通じたからである。別館から馳けて来た東洋城が枕辺に立って、今日東京から医者と社員が来るはずになったと知らしてくれた時は全く救われたような気がした。
この時の余はほとんど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった。苦痛のほかは何事をも容れ得ぬほどに烈しく活動する胸を懐いて朝夕悩んでいたのである。四十年来の経験を刻んでなお余りあると見えた余の頭脳は、ただこの截然たる一苦痛を秒ごとに深く印し来るばかりを能事とするように思われた。したがって余の意識の内容はただ一色の悶に塗抹されて、臍上方三寸の辺を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。余は明け暮れ自分の身体の中で、この部分だけを早く切り取って犬に投げてやりたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早くどこへか打ちやってしまいたい気がした。またできるならば、このまま睡魔に冒されて、前後も知らず一週間ほど寝込んで、しかる後鷹揚な心持をゆたかに抱いて、爽かな秋の日の光りに、両の眼を颯と開けたかった。少くとも汽車に揺られもせず車に乗せられもせず、すうと東京へ帰って、胃腸病院の一室に這入って、そこに仰向けに倒れていたかった。
森成さんが来てもこの苦しみはちょっと除れなかった。胸の中を棒で攪き混ぜられるような、また胃の腑が不規則な大波をその全面に向って層々と描き出すような、異な心持に堪えかねて、床の上に起き返りながら、吐いて見ましょうかと云って、腥いものを面のあたり咽喉の奥から金盥の中に傾けた事もあった。森成さんの御蔭でこの苦しみがだいぶ退いた時ですら、動くたびに腥い噫は常に鼻を貫ぬいた。血は絶えず腸に向って流れていたのである。
この煩悶に比べると、忘るべからざる二十四日の出来事以後に生きた余は、いかに安住の地を得て静穏に生を営んだか分らない。その静穏の日がすなわち余の一生涯にあって最も恐るべき危険の日であったのだと云う事を後から知った時、余は下のような詩を作った。
円覚曾参棒喝禅。 瞎児何処触機縁。
青山不拒庸人骨。 回首九原月在天。
忘るべからざる二十四日の出来事を書こうと思って、原稿紙に向いかけると、何だか急に気が進まなくなったのでまた記憶を逆まに向け直して、後戻りをした。
東京を立つときから余は劇しく咽喉を痛めていた。いっしょに来るべきはずでつい乗り後れた東洋城の電報を汽車中で受け取って、その意のごとくに御殿場で一時間ほど待ち合せていた間に、余は不用になった一枚の切符代を割り戻して貰うために、駅長室へ這入って行った。するとそこに腰囲何尺とでも形容すべきほど大きな西洋人が、椅子に腰をかけてしきりに絵端書の表に何か認めていた。余は駅長に向って当用を弁ずる傍、思いがけない所に思いがけない人がいるものだという好奇心を禁じ得なかった。するとその大男が突然立ち上がって、あなたは英語を話すかと聞くから、嗄れた声でわずかにイエスと答えた。男は次にこれから京都へ行くにはどの汽車へ乗ったら好いか教えてくれと云った。はなはだ簡単な用向であるから平生ならばどうとも挨拶ができるのだけれども、声量を全く失っていた当時の余には、それが非常の困難であった。固より云う事はあるのだから、何か云おうとするのだが、その云おうとする言葉が咽喉を通るとき千条に擦り切れでもするごとくに、口へ出て来る時分には全く光沢を失ってほとんど用をなさなかった。余は英語に通ずる駅員の助を藉りて、ようやくのことこの大男を無事に京都へ送り届けた事とは思うが、その時の不愉快はいまだに忘れない。
修善寺に着いてからも咽喉はいっこう好くならなかった。医者から薬を貰ったり、東洋城の拵えてくれた手製の含漱を用いたりなどして、辛く日常の用を弁ずるだけの言葉を使ってすましていた。その頃修善寺には北白川の宮がおいでになっていた。東洋城は始終そちらの方の務に追われて、つい一丁ほどしか隔っていない菊屋の別館からも、容易に余の宿までは来る事ができない様子であった。すべてを片づけてから、夜の十時過になって、始めて蚊㡡の外まで来て、一言見舞を云うのが常であった。
そういう夜の事であったか、または昼の話であったか今は忘れたが、ある時いつものように顔を合わせると、東洋城が突然、殿下からあなたに何か講話をして貰いたいという御注文があったと云い出した。この思いがけない御所望を耳にした余は少からず驚いた。けれども自分でさえ聞かずにすめば、聞かずにいたいような不愉快な声を出して、殿下に御話などをする勇気はとても出なかった。その上羽織も袴も持ち合せなかった。そうして余のごとき位階のないものが、妄りに貴い殿下の前に出てしかるべきであるかないかそれが第一分らなかった。実際は東洋城も独断で先例のない事をあえてするのを憚って、確とした御受はしなかったのだそうである。
余の苦痛が咽喉から胃に移る間もなく、東洋城は故郷にある母の病を見舞うべく、去る人と入れ代ってひとまず東京に帰った。殿下もそれからほどなく御立になった。そうして忘るべからざる二十四日の来た頃、東洋城は余に関する何の消息も知らずに、また東海道を汽車で西へ下って行った。その時彼は四五分の停車時間を偸んで、三島から余にわざわざ一通の手紙を書いた。その手紙は途中で紛失してしまって、つい宿へ着かなかったけれども、東洋城が御暇乞に上がった時、余の病気の事を御忘れにならなかった殿下から、もし逢う機会があったなら、どうか大事にするようにというような篤い意味の御言葉を承ったため、それをわざわざ病中の余に知らせたのだそうである。咽喉の病も癒え、胃の苦しみも去った今の余は、謹んで殿下に御礼を申上げなければならない。また殿下の健康を祈らなければならない。
雨がしきりに降った。裏山の絶壁を真逆に下る筧の竹が、青く冷たく光って見えた幾日を、物憂く室の中に呻吟しつつ暮していた。人が寝静まると始めて夢を襲う(欄干から六尺余りの所を流れる)水の音も、風と雨に打ち消されて全く聞えなくなった。そのうち水が出るとか出たとか云う声がどこからともなく耳に響いた。
お仙と云う下女が来て、昨夕桂川の水が増したので門の前の小家ではおおかたの荷を拵えて、預けに来たという話をした。ついでにどことかでは家がまるで流されてしまって、そうしてその家の宝物がどことかから掘り出されたと云う話もした。この下女は伊東の生れで、浜辺か畑中に立って人を呼ぶような大きな声を出す癖のあるすこぶる殺風景な女であったが、雨に鎖された山の中の宿屋で、こういう昔の物語めいた、嘘か真か分らないことを聞かされたときは、御伽噺でも読んだ子供の時のような気がして、何となく古めかしい香に包まれた。その上家が流されたのがどこで、宝物を掘出したのがどこか、まるで不明なのをいっこう構わずに、それが当然であるごとくに話して行く様子が、いかにも自分の今いる温泉の宿を、浮世から遠くへ離隔して、どんな便りも噂のほかには這入ってこられない山里に変化してしまったところに一種の面白味があった。
とかくするうちにこの楽い空想が、不便な事実となって現れ始めた。東京から来る郵便も新聞もことごとく後れ出した。たまたま着くものは墨がにじむほどびしょびしょに濡れていた。湿った頁を破けないように開けて見て、始めて都には今洪水が出盛っているという報道を、鮮やかな活字の上にまのあたり見たのは、何日の事であったか、今たしかには覚えていないけれども、不安な未来を眼先に控えて、その日その日の出来栄を案じながら病む身には、けっして嬉しい便りではなかった。夜中に胃の痛みで自然と眼が覚めて、身体の置所がないほど苦い時には、東京と自分とを繋ぐ交通の縁が当分切れたその頃の状態を、多少心細いものに観じない訳に行かなかった。余の病気は帰るには余り劇し過ぎた。そうして東京の方から余のいる所まで来るには、道路があまり打壊れ過ぎた。のみならず東京その物がすでに水に浸っていた。余はほとんど崖と共に崩れる吾家の光景と、茅が崎で海に押し流されつつある吾子供らを、夢に見ようとした。雨のしたたか降る前に余は妻に宛てて手紙を出しておいた。それには好い部屋がないから四五日したら帰ると書いた。また病気が再発して苦んでいると云う事はわざと知らせずにおいた。そうしてその手紙も着いたか着かないか分らないくらいに考えて寝ていた。
そこへ電報が来た。それは恐るべき長い時間と労力を費して、やっとの事無事に宛名の人に通ずるや否や、その宛名の人をして封を切らぬ先に少しはっと思わせた電報であった。しかし中は、今度の水害でこちらは無事だが、そちらはどうかという、見舞と平信をかねたものに過ぎなかった。出した局の名が本郷とあるのを見てこれは草平君を煩わしたものと知った。
雨はますます降り続いた。余の病気はしだいに悪い方へ傾いて行った。その時、余は夜の十二時頃長距離電話をかけられて、硬い胸を抑えながら受信器を耳に着けた。茅ヶ崎の子供も無事、東京の家も無事という事だけが微かに分った。しかしその他は全く不得要領で、ほとんど風と話をするごとくに纏まらない雑音がぼうぼうと鼓膜に響くのみであった。第一かけた当人がわが妻であるという事さえ覚らずにこちらからあなたという敬語を何遍か繰返したくらい漠然した電話であった。東京の音信が雨と風と洪水の中に、悩んでいる余の眼に始めて暸然と映ったのは、坐る暇もないほど忙しい思いをした妻が、当時の事情をありのままに認めた巨細の手紙がようやく余の手に落ちた時の事であった。余はその手紙を見て自分の病を忘れるほど驚いた。
病んで夢む天の川より出水かな
妻の手紙は全部の引用を許さぬほど長いものであった。冒頭に東洋城から余の病気の報知を受けた由と、それがため少からず心を悩ましている旨を記して、看病に行きたいにも汽車が不通で仕方がないから、せめて電話だけでもと思って、その日の中には通じかねるところを、無理な至急報にして貰って、夜半に山田の奥さんの所からかけたという説明が書いてあった。茅ヶ崎にいる子供の安否についても一方ならぬ心配をしたものらしかった。十間坂下という所は水害の恐れがないけれども、もし万一の事があれば、郵便局から電報で宅まで知らせて貰うはずになっていると、余に安心させるため、わざわざ断ってあった。そのほか市中たいていの平地は水害を受けて、現に江戸川通などは矢来の交番の少し下まで浸ったため、舟に乗って往来をしているという報知も書き込んであった。しかしその頃は後れながらも新聞が着いたから、一般の模様は妻の便りがなくてもほぼ分っていた。余の心を動かすべき現象は漠然たる大社会の雨や水やと戦う有様にあると云うよりも、むしろ己だけに密接の関係ある個人の消息にあった。そうしてその個人の二人までに、この雨と水が命の間際まで祟った顛末を、余はこの書面の中に見出したのである。
一つは横浜に嫁いだ妻の妹の運命に関した報知であった。手紙にはこう書いてある。
「……梅子事末の弟を伴れて塔の沢の福住へ参り居り候処、水害のため福住は浪に押し流され、浴客六十名のうち十五名行方不明との事にて、生死の程も分らず、如何とも致し方なく、横浜へは汽車不通にて参る事叶わず、電話は申込者多数にて一日を待たねば通じ不申……」
後には、いろいろ込み入った工面をして電話をかけた手続が書いてあって、その末に会社の小使とかが徒歩で箱根まで探しに行ったあげく、幽霊のように哀れな姿をした彼女を伴れて戻った模様が述べてあった。余はそこまで読んで来て、つい二三日前宿の下女から、ある所で水が出て家が流されて、その家の宝物がまたある所から掘り出されたという昔話のような物語を聞きながら、その裏には自分と利害の糸を絡み合せなければならない恐ろしい事実が潜んでいるとも気がつかずに、尾頭もない夢とのみ打ち興じてすましていた自分の無智に驚いた。またその無智を人間に強いる運命の威力を恐れた。
もう一つ余の心を躍らしたのは、草平君に関する報知であった。妻が本郷の親類で用を足した帰りとかに、水見舞のつもりで柳町の低い町から草平君の住んでいる通りまで来て、ここらだがと思いながら、表から奥を覗いて見ると、かねて見覚のある家がくしゃりと潰れていたそうである。
「家の人達は無事ですか、どこへ行きましたかと聞いたら、薪屋の御上さんが、昨晩の十二時頃に崖が崩れましたが、幸いにどなたも御怪我はございません。ひとまず柳町のこういう所へ御引移りになりましたと、教えてくれましたから、柳町へ来て見ると、まだ水の引き切らない床下のぴたぴたに濡れた貸家に畳建具も何も入れずに、荷物だけ運んでありました。実に何と云って好いか憐れな姿でお種さんが、私の顔を見ると馳け出して来ました。……晩の御飯を拵える事もできないだろうと思って、御寿司を誂えて御夕飯の代りに上げました……」
草平君は平生から崖崩れを恐れて、できるだけ表へ寄って寝るとか聞いていたが、家の潰れた時には、外のものがまるで無難であったにもかかわらず、自分だけは少し顔へ怪我をしたそうである。その怪我の事も手紙の中に書いてあった。余はそれを読んで怪我だけでまず仕合せだと思った。
家を流し崖を崩す凄まじい雨と水の中に都のものは幾万となく恐るべき叫び声を揚げた。同じ雨と同じ水の中に余と関係の深い二人は身をもって免れた。そうして余は毫も二人の災難を知らずに、遠い温泉の村に雲と煙と、雨の糸を眺め暮していた。そうして二人の安全であるという報知が着いたときは、余の病がしだいしだいに危険の方へ進んで行った時であった。
風に聞け何れか先に散る木の葉
つづく雨の或る宵に、すこし病の閑を偸んで、下の風呂場へ降りて見ると、半切を三尺ばかりの長に切って、それを細長く竪に貼りつけた壁の色が、暗く映る灯の陰に、ふと余の視線を惹いた。余は湯壺の傍に立ちながら、身体を濡めす前に、まずこの異様の広告めいたものを読む気になった。真中に素人落語大会と書いて、その下に催主裸連と記してある。場所は「山荘にて」と断って、催しのあるべき日取をその傍に書き添えた。余はすぐ裸連の何人なるかを覚り得た。裸連とは余の隣座敷にいる泊り客の自撰にかかる異名である。昨日の午襖越に聞いていると、太郎冠者がどうのこうのと長い評議の末、そこんところでやるまいぞ、やるまいぞにしたら好いじゃねえかと云うような相談があった。その趣向は寝ている余とは固より無関係だから、知ろうはずもなかったが、とにかくこの議決が山荘での催しに一異彩を加えた事はたしかに違ないと思った。余は風呂場の貼紙に注意してある日付と、裸連の趣向を凝らしていた時刻を照らし合せつつ、この落語会なるものの、すでに滞りなくすんだ昨日の午後を顧みて、裸連──少くとも裸連の首脳の構成る隣座敷の泊り客……の成功を祝せざるを得なかった。
この泊り客は五人連で一間に這入っていた。その中の一番年嵩に見える三十代の男に、その妻君と娘を合せるとすでに三人になる。妻君は品のいい静かな女であった。子供はなおさらおとなしかった。その代り夫はすこぶる騒々しかった。あとの二人はいずれも二十代の青年で、その一人は一行のうちでもっともやかましくふるまっていた。
誰でも中年以後になって、二十一二時代の自分を眼の前に憶い浮べて見ると、いろいろ回想の簇がる中に、気恥かしくて冷汗の流れそうな一断面を見出すものである。余は隣の室に呻吟しながら、この若い男の言葉使いや起居を注意すべく余儀なくされた結果として、二十年の昔に経過した、自分の生涯のうちで、はなはだ不面目と思わざるを得ない生意気さ加減を今更のように恐れた。
この男は何の必要があってか知らないけれども、絶えず大道で講演でもするように大きな声を出して得意であった。そうして下女が来ると、必ず通客めいた粋がりを連発した。それを隣坐敷で聞いていると、ウィットにもならなければヒューモーにもなっていないのだから、いかにも無理やりに、(しかも大得意に、)半可もしくは四半可を殺風景に怒鳴りつけているとしか思われなかった。ところが下女の方では、またそれを聞くたびに不必要にふんだんな笑い方をした。本気とも御世辞とも片のつかない笑い方だけれども、声帯に異状のあるような恐ろしい笑い方をした。病気にのみ屈託する余も、これには少からず悩まされた。
裸連の一部は下座敷にもいた。すべてで九人いるので、自ら九人組とも称えていた。その九人組が丸裸になって幅六尺の縁側へ出て踊をおどって一晩跳ね廻った。便所へ行く必要があって、障子の外へ出たら、九人組は躍り草臥れて、素裸のまま縁側に胡坐をかいていた。余は邪魔になる尻や脛の間を跨いで用を足して来た。
長い雨がようやく歇んで、東京への汽車がほぼ通ずるようになった頃、裸連は九人とも申し合せたように、どっと東京へ引き上げた。それと入れ代りに、森成さんと雪鳥君と妻とが前後して東京から来てくれた。そうして裸連のいた部屋を借り切った。その次の部屋もまた借り切った。しまいには新築の二階座敷を四間ともに吾有とした。余は比較的閑寂な月日の下に、吸飲から牛乳を飲んで生きていた。一度は匙で突き砕いた水瓜の底から湧いて出る赤い汁を飲まして貰った。弘法様で花火の揚った宵は、縁近く寝床を摺らして、横になったまま、初秋の天を夜半近くまで見守っていた。そうして忘るべからざる二十四日の来るのを無意識に待っていた。
萩に置く露の重きに病む身かな
その日は東京から杉本さんが診察に来る手筈になっていた。雪鳥君が大仁まで迎に出たのは何時頃か覚えていないが、山の中を照らす日がまだ山の下に隠れない午過であったと思う。その山の中を照らす日を、床を離れる事のできない、また室を出る事の叶わない余は、朝から晩までほとんど仰ぎ見た試しがないのだから、こう云うのも実は廂の先に余る空の端だけを目当に想像した刻限である。──余は修善寺に二月と五日ほど滞在しながら、どちらが東で、どちらが西か、どれが伊東へ越す山で、どれが下田へ出る街道か、まるで知らずに帰ったのである。
杉本さんは予定のごとく宿へ着いた。余はその少し前に、妻の手から吸飲を受け取って、細長い硝子の口から生温い牛乳を一合ほど飲んだ。血が出てから、安静状態と流動食事とは固く守らなければならない掟のようになっていたからである。その上できるだけ病人に営養を与えて、体力の回復の方から、潰瘍の出血を抑えつけるという療治法を受けつつあった際だから、否応なしに飲んだ。実を云うとこの日は朝から食慾が萌さなかったので、吸飲の中に、動く事のできぬほど濁った白い色の漲ぎる様を見せられた時は、すぐと重苦しく舌の先に溜るしつ濃い乳の味を予想して、手に取らない前からすでに反感を起した。強いられた時、余はやむなく細長く反り返った硝子の管を傾けて、湯とも水とも捌けない液を、舌の上に辷らせようと試みた。それが流れて咽喉を下る後には、潔よからぬ粘り強い香が妄りに残った。半分は口直しのつもりであとから氷クリームを一杯取って貰った。ところがいつもの爽かさに引き更えて、咽喉を越すときいったん溶けたものが、胃の中で再び固まったように妙に落ちつきが悪かった。それから二時間ほどして余は杉本さんの診察を受けたのである。
診察の結果として意外にもさほど悪くないと云う報告を得た時、平生森成さんから病気の質が面白くないと聞いていた雪鳥君は、喜びの余りすぐ社へ向けて好いという電報を打ってしまった。忘るべからざる八百グラムの吐血は、この吉報を逆襲すべく、診察後一時間後の暮方に、突如として起ったのである。
かく多量の血を一度に吐いた余は、その暮方の光景から、日のない真夜中を通して、明る日の天明に至る有様を巨細残らず記憶している気でいた。程経て妻の心覚につけた日記を読んで見て、その中に、ノウヒンケツ(狼狽した妻は脳貧血をかくのごとく書いている)を起し人事不省に陥るとあるのに気がついた時、余は妻は枕辺に呼んで、当時の模様を委しく聞く事ができた。徹頭徹尾明暸な意識を有して注射を受けたとのみ考えていた余は、実に三十分の長い間死んでいたのであった。
夕暮間近く、にわかに胸苦しいある物のために襲われた余は、悶えたさの余りに、せっかく親切に床の傍に坐っていてくれた妻に、暑苦しくていけないから、もう少しそっちへ退いてくれと邪慳に命令した。それでも堪えられなかったので、安静に身を横うべき医師からの注意に背いて、仰向の位地から右を下に寝返ろうと試みた。余の記憶に上らない人事不省の状態は、寝ながら向を換えにかかったこの努力に伴う脳貧血の結果だと云う。
余はその時さっと迸しる血潮を、驚ろいて余に寄り添おうとした妻の浴衣に、べっとり吐きかけたそうである。雪鳥君は声を顫わしながら、奥さんしっかりしなくてはいけませんと云ったそうである。社へ電報をかけるのに、手が戦いて字が書けなかったそうである。医師は追っかけ追っかけ注射を試みたそうである。後から森成さんにその数を聞いたら、十六筒までは覚えていますと答えた。
淋漓絳血腹中文。 嘔照黄昏漾綺紋。
入夜空疑身是骨。 臥牀如石夢寒雲。
眼を開けて見ると、右向になったまま、瀬戸引の金盥の中に、べっとり血を吐いていた。金盥が枕に近く押付けてあったので、血は鼻の先に鮮かに見えた。その色は今日までのように酸の作用を蒙った不明暸なものではなかった。白い底に大きな動物の肝のごとくどろりと固まっていたように思う。その時枕元で含嗽を上げましょうという森成さんの声が聞えた。
余は黙って含嗽をした。そうして、つい今しがた傍にいる妻に、少しそっちへ退いてくれと云ったほどの煩悶が忽然どこかへ消えてなくなった事を自覚した。余は何より先にまあよかったと思った。金盥に吐いたものが鮮血であろうと何であろうと、そんな事はいっこう気にかからなかった。日頃からの苦痛の塊を一度にどさりと打ちやり切ったという落ちつきをもって、枕元の人がざわざわする様子をほとんどよそごとのように見ていた。余は右の胸の上部に大きな針を刺されてそれから多量の食塩水を注射された。その時、食塩を注射されるくらいだから、多少危険な容体に逼っているのだろうとは思ったが、それもほとんど心配にはならなかった。ただ管の先から水が洩れて肩の方へ流れるのが厭であった。左右の腕にも注射を受けたような気がした。しかしそれは確然覚えていない。
妻が杉本さんに、これでも元のようになるでしょうかと聞く声が耳に入った。さよう潰瘍ではこれまで随分多量の血を止めた事もありますが……と云う杉本さんの返事が聞えた。すると床の上に釣るした電気灯がぐらぐらと動いた。硝子の中に彎曲した一本の光が、線香煙花のように疾く閃めいた。余は生れてからこの時ほど強くまた恐ろしく光力を感じた事がなかった。その咄嗟の刹那にすら、稲妻を眸に焼きつけるとはこれだと思った。時に突然電気灯が消えて気が遠くなった。
カンフル、カンフルと云う杉本さんの声が聞えた。杉本さんは余の右の手頸をしかと握っていた。カンフルは非常によく利くね、注射し切らない内から、もう反響があると杉本さんがまた森成さんに云った。森成さんはええと答えたばかりで、別にはかばかしい返事はしなかった。それからすぐ電気灯に紙の蔽をした。
傍がひとしきり静かになった。余の左右の手頸は二人の医師に絶えず握られていた。その二人は眼を閉じている余を中に挟んで下のような話をした(その単語はことごとく独逸語であった)。
「弱い」
「ええ」
「駄目だろう」
「ええ」
「子供に会わしたらどうだろう」
「そう」
今まで落ちついていた余はこの時急に心細くなった。どう考えても余は死にたくなかったからである。またけっして死ぬ必要のないほど、楽な気持でいたからである。医師が余を昏睡の状態にあるものと思い誤って、忌憚なき話を続けているうちに、未練な余は、瞑目不動の姿勢にありながら、半無気味な夢に襲われていた。そのうち自分の生死に関する斯様に大胆な批評を、第三者として床の上にじっと聞かせられるのが苦痛になって来た。しまいには多少腹が立った。徳義上もう少しは遠慮してもよさそうなものだと思った。ついに先がそう云う料簡ならこっちにも考えがあるという気になった。──人間が今死のうとしつつある間際にも、まだこれほどに機略を弄し得るものかと、回復期に向った時、余はしばしば当夜の反抗心を思い出しては微笑んでいる。──もっとも苦痛が全く取れて、安臥の地位を平静に保っていた余には、充分それだけの余裕があったのであろう。
余は今まで閉じていた眼を急に開けた。そうしてできるだけ大きな声と明暸な調子で、私は子供などに会いたくはありませんと云った。杉本さんは何事をも意に介せぬごとく、そうですかと軽く答えたのみであった。やがて食いかけた食事を済まして来るとか云って室を出て行った。それからは左右の手を左右に開いて、その一つずつを森成さんと雪鳥君に握られたまま、三人とも無言のうちに天明に達した。
冷やかな脈を護りぬ夜明方
強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経て妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。子供のとき悪戯をして気絶をした事は二三度あるから、それから推測して、死とはおおかたこんなものだろうぐらいにはかねて想像していたが、半時間の長き間、その経験を繰返しながら、少しも気がつかずに一カ月あまりを当然のごとくに過したかと思うと、はなはだ不思議な心持がする。実を云うとこの経験──第一経験と云い得るかが疑問である。普通の経験と経験の間に挟まって毫もその連結を妨げ得ないほど内容に乏しいこの──余は何と云ってそれを形容していいかついに言葉に窮してしまう。余は眠から醒めたという自覚さえなかった。陰から陽に出たとも思わなかった。微かな羽音、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂い、古い記憶の影、消える印象の名残──すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽してようやく髣髴すべき霊妙な境界を通過したとは無論考えなかった。ただ胸苦しくなって枕の上の頭を右に傾むけようとした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めただけである。その間に入り込んだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とはそれほどはかないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃めいた生死二面の対照の、いかにも急劇でかつ没交渉なのに深く感じた。どう考えてもこの懸隔った二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得できなかった。よし同じ自分が咄嗟の際に二つの世界を横断したにせよ、その二つの世界がいかなる関係を有するがために、余をしてたちまち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、茫然として自失せざるを得なかった。
生死とは緩急、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常一束に使用される言葉である。よし輓近の心理学者の唱うるごとく、この二つのものもまた普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにしたところで、かく掌を翻えすと一般に、唐突なるかけ離れた二象面が前後して我を擒にするならば、我はこのかけ離れた二象面を、どうして同性質のものとして、その関係を迹付ける事ができよう。
人が余に一個の柿を与えて、今日は半分喰え、明日は残りの半分の半分を喰え、その翌日はまたその半分の半分を喰え、かくして毎日現に余れるものの半分ずつを喰えと云うならば、余は喰い出してから幾日目かに、ついにこの命令に背いて、残る全部をことごとく喰い尽すか、または半分に割る能力の極度に達したため、手を拱いて空しく余れる柿の一片を見つめなければならない時機が来るだろう。もし想像の論理を許すならば、この条件の下に与えられたる一個の柿は、生涯喰っても喰い切れる訳がない。希臘の昔ゼノが足の疾きアキリスと歩みの鈍い亀との間に成立する競争に辞を託して、いかなるアキリスもけっして亀に追いつく事はできないと説いたのは取も直さずこの消息である。わが生活の内容を構成る個々の意識もまたかくのごとくに、日ごとか月ごとに、その半ずつを失って、知らぬ間にいつか死に近づくならば、いくら死に近づいても死ねないと云う非事実な論理に愚弄されるかも知れないが、こう一足飛びに片方から片方に落ち込むような思索上の不調和を免かれて、生から死に行く径路を、何の不思議もなく最も自然に感じ得るだろう。俄然として死し、俄然として吾に還るものは、否、吾に還ったのだと、人から云い聞かさるるものは、ただ寒くなるばかりである。
縹緲玄黄外。 死生交謝時。 寄託冥然去。
我心何所之。 帰来覓命根。 杳窅竟難知。
孤愁空遶夢。 宛動粛瑟悲。 江山秋已老。
粥薬髩将衰。 廓寥天尚在。 高樹独余枝。
晩懐如此澹。 風露入詩遅。
安らかな夜はしだいに明けた。室を包む影法師が床を離れて遠退くに従って、余はまた常のごとく枕辺に寄る人々の顔を見る事ができた。その顔は常の顔であった。そうして余の心もまた常の心であった。病のどこにあるかを知り得ぬほどに落ちついた身を床の上に横えて、少しだに動く必要をもたぬ余に、死のなお近く徘徊していようとは全く思い設けぬところであった。眼を開けた時余は昨夕の騒ぎを(たとい忘れないまでも)ただ過去の夢のごとく遠くに眺めた。そうして死は明け渡る夜と共に立ち退いたのだろうぐらいの度胸でも据ったものと見えて、何らの掛念もない気分を、障子から射し込む朝日の光に、心地よく曝していた。実は無知な余を詐わり終せた死は、いつの間にか余の血管に潜り込んで、乏しい血を追い廻しつつ流れていたのだそうである。「容体を聞くと、危険なれどごく安静にしていれば持ち直すかも知れぬという」とは、妻のこの日の朝の部に書き込んだ日記の一句である。余が夜明まで生きようとは、誰も期待していなかったのだとは後から聞いて始めて知った。
余は今でも白い金盥の底に吐き出された血の色と恰好とを、ありありとわが眼の前に思い浮べる事ができる。ましてその当分は寒天のように固まりかけた腥いものが常に眼先に散らついていた。そうして吾が想像に映る血の分量と、それに起因した衰弱とを比較しては、どうしてあれだけの出血が、こう劇しく身体に応えるのだろうといつでも不審に堪えなかった。人間は脈の中の血を半分失うと死に、三分の一失うと昏睡するものだと聞いて、それに吾とも知らず妻の肩に吐きかけた生血の容積を想像の天秤に盛って、命の向う側に重りとして付け加えた時ですら、余はこれほど無理な工面をして生き延びたのだとは思えなかった。
杉本さんが東京へ帰るや否や、──杉本さんはその朝すぐ東京へ帰った。もっとおりたいが忙がしいから失礼します、その代り手当は充分するつもりでありますと云って、新らしい襟と襟飾を着け易えて、余の枕辺に坐ったとき、余は昨夕夜半に、裄丈の足りない宿の浴衣を着たまま、そっと障子を開けながら、どうかと一言森成さんに余の様子を聞いていた彼人の様子を思い出した。余の記憶にはただそれだけしかとまらなかった杉本さんが、出がけに妻を顧みて、もう一遍吐血があれば、どうしても回復の見込はないものと御諦らめなさらなければいけませんと注意を与えたそうである。実は昨夕にもこの恐るべき再度の吐血が来そうなので、わざわざモルヒネまで注射してそれを防ぎ止めたのだとは、後になってその顛末を審らかにした余に取って、全く思いがけない報知であった。あれほど胸の中は落ちついていたものをと云いたいくらいに、余は平常の心持で苦痛なくその夜を明したのである。──話がつい外れてしまった。
杉本さんは東京へ帰るや否や、自分で電話を看護婦会へかけて、看護婦を二人すぐ余の出先へ送るように頼んでくれた。その時、早く行かんと間に合わないかも知れないからと電話口で急いたので、看護婦は汽車で走る途々も、もういけない頃ではなかろうかと、絶えず余の生命に疑いを挟さんでいた。せっかく行っても、行き着いて見たら、遅過ぎて間に合わなかったと云うような事があってはつまらないと語り合って来た。──これも回復期に向いた頃、病牀の徒然に看護婦と世間話をしたついでに、彼等の口からじかに聞いたたよりである。
かくすべての人に十の九まで見放された真中に、何事も知らぬ余は、曠野に捨てられた赤子のごとく、ぽかんとしていた。苦痛なき生は余に向って何らの煩悶をも与えなかった。余は寝ながらただ苦痛なく生きておるという一事実を認めるだけであった。そうしてこの事実が、はからざる病のために、周囲の人の丁重な保護を受けて、健康な時に比べると、一歩浮世の風の当り悪い安全な地に移って来たように感じた。実際余と余の妻とは、生存競争の辛い空気が、直に通わない山の底に住んでいたのである。
露けさの里にて静なる病
臆病者の特権として、余はかねてより妖怪に逢う資格があると思っていた。余の血の中には先祖の迷信が今でも多量に流れている。文明の肉が社会の鋭どき鞭の下に萎縮するとき、余は常に幽霊を信じた。けれども虎烈剌を畏れて虎烈剌に罹らぬ人のごとく、神に祈って神に棄てられた子のごとく、余は今日までこれと云う不思議な現象に遭遇する機会もなく過ぎた。それを残念と思うほどの好奇心もたまには起るが、平生はまず出逢わないのを当然と心得てすまして来た。
自白すれば、八九年前アンドリュ・ラングの書いた「夢と幽霊」という書物を床の中に読んだ時は、鼻の先の灯火を一時に寒く眺めた。一年ほど前にも「霊妙なる心力」と云う標題に引かされてフランマリオンという人の書籍を、わざわざ外国から取り寄せた事があった。先頃はまたオリヴァー・ロッジの「死後の生」を読んだ。
死後の生! 名からしてがすでに妙である。我々の個性が我々の死んだ後までも残る、活動する、機会があれば、地上の人と言葉を換す。スピリチズムの研究をもって有名であったマイエルはたしかにこう信じていたらしい。そのマイエルに自己の著述を捧げたロッジも同じ考えのように思われる。ついこの間出たポドモアの遺著もおそらくは同系統のものだろう。
独乙のフェヒナーは十九世紀の中頃すでに地球その物に意識の存すべき所以を説いた。石と土と鉱に霊があると云うならば、有るとするを妨げる自分ではない。しかしせめてこの仮定から出立して、地球の意識とは如何なる性質のものであろうぐらいの想像はあってしかるべきだと思う。
吾々の意識には敷居のような境界線があって、その線の下は暗く、その線の上は明らかであるとは現代の心理学者が一般に認識する議論のように見えるし、またわが経験に照らしても至極と思われるが、肉体と共に活動する心的現象に斯様の作用があったにしたところで、わが暗中の意識すなわちこれ死後の意識とは受取れない。
大いなるものは小さいものを含んで、その小さいものに気がついているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己らの寄り集って拵らえている全部に対しては風馬牛のごとく無頓着であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、また結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識もまたより大いなる意識の中に含まれながら、しかもその存在を自覚せずに、孤立するごとくに考えているのだろうとは、彼がこの類推より下し来るスピリチズムに都合よき仮定である。
仮定は人々の随意であり、また時にとって研究上必要の活力でもある。しかしただ仮定だけでは、いかに臆病の結果幽霊を見ようとする、また迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力をもって彼らの説を奉ずる事ができない。
物理学者は分子の容積を計算して蚕の卵にも及ばぬ(長さ高さともに一ミリメターの)立方体に一千万を三乗した数が這入ると断言した。一千万を三乗した数とは一の下に零を二十一付けた莫大なものである。想像を恣まにする権利を有する吾々もこの一の下に二十一の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
形而下の物質界にあってすら、──相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみもっともと首肯くだけである。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云うまでもない。よし物理学者の分子に対するごとき明暸な知識が、吾人の内面生活を照らす機会が来たにしたところで、余の心はついに余の心である。自分に経験のできない限り、どんな綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事だけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合できよう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を他人に待つばかりである。
迎火を焚いて誰待つ絽の羽織
ただ驚ろかれたのは身体の変化である。騒動のあった明る朝、何かの必要に促がされて、肋の左右に横たえた手を、顔の所まで持って来ようとすると、急に持主でも変ったように、自分の腕ながらまるで動かなかった。人を煩らわす手数を厭って、無理に肘を杖として、手頸から起しかけたはかけたが、わずか何寸かの距離を通して、宙に短かい弧線を描く努力と時間とは容易のものでなかった。ようやく浮き上った筋の力を利用して、高い方へ引くだけの精気に乏しいので、途中から断念して、再び元の位置にわが腕を落そうとすると、それがまた安くは落ちなかった。無論そのままにして心を放せば、自然の重みでもとに倒れるだけの事ではあるが、その倒れる時の激動が、いかに全身に響き渡るかと考えると、非常に恐ろしくなって、ついに思い切る勇気が出なかった。余はおろす事も上げる事も、また半途に支える事もできない腕を意識しつつそのやりどころに窮した。ようやく傍のものの気がついて、自分の手をわが手に添えて、無理のないように顔の所まで持って来てくれて、帰りにもまた二つ腕をいっしょにしてやっと床の上まで戻した時には、どうしてこう自己が空虚になったものか、我ながらほとんど想像がつかなかった。後から考えて見て、あれは全く護謨風船に穴が開いて、その穴から空気が一度に走り出したため、風船の皮がたちまちしゅっという音と共に収縮したと一般の吐血だから、それでああ身体に応えたのだろうと判断した。それにしても風船はただ縮まるだけである。不幸にして余の皮は血液のほかに大きな長い骨をたくさんに包んでいた。その骨が──
余は生れてより以来この時ほど吾骨の硬さを自覚した事がない。その朝眼が覚めた時の第一の記憶は、実にわが全身に満ち渡る骨の痛みの声であった。そうしてその痛みが、宵に、酒を被った勢で、多数を相手に劇しい喧嘩を挑んだ末、さんざんに打ち据えられて、手も足も利かなくなった時のごとくに吾を鈍く叩きこなしていた。砧に擣たれた布は、こうもあろうかとまで考えた。それほど正体なくきめつけられ了った状態を適当に形容するには、ぶちのめすと云う下等社会で用いる言葉が、ただ一つあるばかりである。少しでも身体を動かそうとすると、関節がみしみしと鳴った。
昨日まで狭い布団に劃された余の天地は、急にまた狭くなった。その布団のうちの一部分よりほかに出る能力を失った今の余には、昨日まで狭く感ぜられた布団がさらに大きく見えた。余の世界と接触する点は、ここに至ってただ肩と背中と細長く伸べた足の裏側に過ぎなくなった。──頭は無論枕に着いていた。
これほどに切りつめられた世界に住む事すら、昨夕は許されそうに見えなかったのにと、傍のものは心の中で余のために観じてくれたろう。何事も弁えぬ余にさえそれが憐れであった。ただ身の布団に触れる所のみがわが世界であるだけに、そうしてその触れる所が少しも変らないために、我と世界との関係は、非常に単純であった。全くスタチック(静)であった。したがって安全であった。綿を敷いた棺の中に長く寝て、われ棺を出でず、人棺を襲わざる亡者の気分は──もし亡者に気分が有り得るならば、──この時の余のそれと余りかけ隔ってはいなかったろう。
しばらくすると、頭が麻痺れ始めた。腰の骨が骨だけになって板の上に載せられているような気がした。足が重くなった。かくして社会的の危険から安全に保証された余一人の狭い天地にもまた相応の苦しみができた。そうしてその苦痛を逃れるべく余は一寸のほかにさえ出る能力を持たなかった。枕元にどんな人がどうして坐っているか、まるで気がつかなかった。余を看護するために、余の視線の届かぬ傍らを占めた人々の姿は、余に取って神のそれと一般であった。
余はこの安らかながら痛み多き小世界にじっと仰向に寝たまま、身の及ばざるところに時々眼を走らした。そうして天井から釣った長い氷嚢の糸をしばしば見つめた。その糸は冷たい袋と共に、胃の上でぴくりぴくりと鋭どい脈を打っていた。
朝寒や生きたる骨を動かさず
余はこの心持をどう形容すべきかに迷う。
力を商いにする相撲が、四つに組んで、かっきり合った時、土俵の真中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分と経たないうちに、恐るべき波を上下に描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が幾条となく背中を流れ出す。
最も安全に見える彼等の姿勢は、この波とこの汗の辛うじて齎らす努力の結果である。静かなのは相剋する血と骨の、わずかに平均を得た象徴である。これを互殺の和という。二三十秒の現状を維持するに、彼等がどれほどの気魄を消耗せねばならぬかを思うとき、看る人は始めて残酷の感を起すだろう。
自活の計に追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。吾らは平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾らと吾らの妻子とに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、日々自己と世間との間に、互殺の平和を見出そうと力めつつある。戸外に出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いの中に殺伐の気に充ちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回向院のそれのように、一分足らずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生続かなければならないという苦しい事実に想い至るならば、我等は神経衰弱に陥るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる。
かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、朋友もある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、㷀然として独りその間に老ゆるものは、見惨と評するよりほかに評しようがない。
古臭い愚痴を繰返すなという声がしきりに聞えた。今でも聞える。それを聞き捨てにして、古臭い愚痴を繰返すのは、しみじみそう感じたからばかりではない、しみじみそう感じた心持を、急に病気が来て顛覆したからである。
血を吐いた余は土俵の上に仆れた相撲と同じ事であった。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただ仰向けに寝て、わずかな呼吸をあえてしながら、怖い世間を遠くに見た。病気が床の周囲を屏風のように取り巻いて、寒い心を暖かにした。
今までは手を打たなければ、わが下女さえ顔を出さなかった。人に頼まなければ用は弁じなかった。いくらしようと焦慮っても、調わない事が多かった。それが病気になると、がらりと変った。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。妻が来た。しまいには看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。
「安心して療養せよ」と云う電報が満洲から、血を吐いた翌日に来た。思いがけない知己や朋友が代る代る枕元に来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またあるものは眼の前に逼る結婚を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病気を知って来たと云った。仰向に寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住み悪いとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。
四十を越した男、自然に淘汰せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病に生き還ると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊す者を、永久の敵とすべく心に誓った。
馬上青年老。 鏡中白髪新。
幸生天子国。 願作太平民。
ツルゲニェフ以上の芸術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつつあるドストイェフスキーには、人の知るごとく、小供の時分から癲癇の発作があった。われら日本人は癲癇と聞くと、ただ白い泡を連想するに過ぎないが、西洋では古くこれを神聖なる疾と称えていた。この神聖なる疾に冒かされる時、あるいはその少し前に、ドストイェフスキーは普通の人が大音楽を聞いて始めて到り得るような一種微妙の快感に支配されたそうである。それは自己と外界との円満に調和した境地で、ちょうど天体の端から、無限の空間に足を滑らして落ちるような心持だとか聞いた。
「神聖なる疾」に罹った事のない余は、不幸にしてこの年になるまで、そう云う趣に一瞬間も捕われた記憶をもたない。ただ大吐血後五六日──経つか経たないうちに、時々一種の精神状態に陥った。それからは毎日のように同じ状態を繰り返した。ついには来ぬ先にそれを予期するようになった。そうして自分とは縁の遠いドストイェフスキーの享けたと云う不可解の歓喜をひそかに想像してみた。それを想像するか思い出すほどに、余の精神状態は尋常を飛び越えていたからである。ドクインセイの細かに書き残した驚くべき阿片の世界も余の連想に上った。けれども読者の心目を眩惑するに足る妖麗な彼の叙述が、鈍い色をした卑しむべき原料から人工的に生れたのだと思うと、それを自分の精神状態に比較するのが急に厭になった。
余は当時十分と続けて人と話をする煩わしさを感じた。声となって耳に響く空気の波が心に伝って、平らかな気分をことさらに騒つかせるように覚えた。口を閉じて黄金なりという古い言葉を思い出して、ただ仰向けに寝ていた。ありがたい事に室の廂と、向うの三階の屋根の間に、青い空が見えた。その空が秋の露に洗われつつしだいに高くなる時節であった。余は黙ってこの空を見つめるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾むけてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。また何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹緲とでも形容してよい気分であった。
そのうち穏かな心の隅が、いつか薄く暈されて、そこを照らす意識の色が微かになった。すると、ヴェイルに似た靄が軽く全面に向って万遍なく展びて来た。そうして総体の意識がどこもかしこも稀薄になった。それは普通の夢のように濃いものではなかった。尋常の自覚のように混雑したものでもなかった。またその中間に横わる重い影でもなかった。魂が身体を抜けると云ってはすでに語弊がある。霊が細かい神経の末端にまで行き亘って、泥でできた肉体の内部を、軽く清くすると共に、官能の実覚から杳かに遠からしめた状態であった。余は余の周囲に何事が起りつつあるかを自覚した。同時にその自覚が窈窕として地の臭を帯びぬ一種特別のものであると云う事を知った。床の下に水が廻って、自然と畳が浮き出すように、余の心は己の宿る身体と共に、蒲団から浮き上がった。より適当に云えば、腰と肩と頭に触れる堅い蒲団がどこかへ行ってしまったのに、心と身体は元の位置に安く漂っていた。発作前に起るドストイェフスキーの歓喜は、瞬刻のために十年もしくは終生の命を賭しても然るべき性質のものとか聞いている。余のそれはさように強烈のものではなかった。むしろ恍惚として幽かな趣を生活面の全部に軽くかつ深く印し去ったのみであった。したがって余にはドストイェフスキーの受けたような憂欝性の反動が来なかった。余は朝からしばしばこの状態に入った。午過にもよくこの蕩漾を味った。そうして覚めたときはいつでもその楽しい記憶を抱いて幸福の記念としたくらいであった。
ドストイェフスキーの享け得た境界は、生理上彼の病のまさに至らんとする予言である。生を半に薄めた余の興致は、単に貧血の結果であったらしい。
仰臥人如唖。 黙然見大空。
大空雲不動。 終日杳相同。
同じドストイェフスキーもまた死の門口まで引き摺られながら、辛うじて後戻りをする事のできた幸福な人である。けれども彼の命を危めにかかった災は、余の場合におけるがごとき悪辣な病気ではなかった。彼は人の手に作り上げられた法と云う器械の敵となって、どんと心臓を打ち貫かれようとしたのである。
彼は彼の倶楽部で時事を談じた。やむなくんばただ一揆あるのみと叫んだ。そうして囚われた。八カ月の長い間薄暗い獄舎の日光に浴したのち、彼は蒼空の下に引き出されて、新たに刑壇の上に立った。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の霜に、襯衣一枚の裸姿となって、申渡の終るのを待った。そうして銃殺に処すの一句を突然として鼓膜に受けた。「本当に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、傍に立つ同囚に問うた言葉である。……白い手帛を合図に振った。兵士は覘を定めた銃口を下に伏せた。ドストイェフスキーはかくして法律の捏ね丸めた熱い鉛の丸を呑まずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。
彼の心は生から死に行き、死からまた生に戻って、一時間と経たぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。そうしてその三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。その変化だけでも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然これから五分のうちに死ななければならないと云う時、すでに死ぬときまってから、なお余る五分の命を提げて、まさに来るべき死を迎えながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、さらに突き当ると思った死が、たちまちとんぼ返りを打って、新たに生と名づけられる時、──余のごとき神経質ではこの三象面の一つにすら堪え得まいと思う。現にドストイェフスキーと運命を同じくした同囚の一人は、これがためにその場で気が狂ってしまった。
それにもかかわらず、回復期に向った余は、病牀の上に寝ながら、しばしばドストイェフスキーの事を考えた。ことに彼が死の宣告から蘇えった最後の一幕を眼に浮べた。──寒い空、新らしい刑壇、刑壇の上に立つ彼の姿、襯衣一枚のまま顫えている彼の姿、──ことごとく鮮やかな想像の鏡に映った。独り彼が死刑を免かれたと自覚し得た咄嗟の表情が、どうしても判然映らなかった。しかも余はただこの咄嗟の表情が見たいばかりに、すべての画面を組み立てていたのである。
余は自然の手に罹って死のうとした。現に少しの間死んでいた。後から当時の記憶を呼び起した上、なおところどころの穴へ、妻から聞いた顛末を埋めて、始めて全くでき上る構図をふり返って見ると、いわゆる慄然と云う感じに打たれなければやまなかった。その恐ろしさに比例して、九仞に失った命を一簣に取り留める嬉しさはまた特別であった。この死この生に伴う恐ろしさと嬉しさが紙の裏表のごとく重なったため、余は連想上常にドストイェフスキーを思い出したのである。
「もし最後の一節を欠いたなら、余はけっして正気ではいられなかったろう」と彼自身が物語っている。気が狂うほどの緊張を幸いに受けずとすんだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度を料り得ぬと云う方がむしろ適当かも知れぬ。それであればこそ、画竜点睛とも云うべき肝心の刹那の表情が、どう想像しても漠として眼の前に描き出せないのだろう。運命の擒縦を感ずる点において、ドストイェフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。
それにもかかわらず、余はしばしばドストイェフスキーを想像してやまなかった。そうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、襯衣一枚で顫えている彼の姿とを、根気よく描き去り描き来ってやまなかった。
今はこの想像の鏡もいつとなく曇って来た。同時に、生き返ったわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかって行く。あの嬉しさが始終わが傍にあるならば、──ドストイェフスキーは自己の幸福に対して、生涯感謝する事を忘れぬ人であった。
余はうとうとしながらいつの間にか夢に入った。すると鯉の跳ねる音でたちまち眼が覚めた。
余が寝ている二階座敷の下はすぐ中庭の池で、中には鯉がたくさんに飼ってあった。その鯉が五分に一度ぐらいは必ず高い音を立ててぱしゃりと水を打つ。昼のうちでも折々は耳に入った。夜はことに甚しい。隣りの部屋も、下の風呂場も、向うの三階も、裏の山もことごとく静まり返った真中に、余は絶えずこの音で眼を覚ました。
犬の眠りと云う英語を知ったのはいつの昔か忘れてしまったが、犬の眠りと云う意味を実地に経験したのはこの頃が始めてであった。余は犬の眠りのために夜ごと悩まされた。ようやく寝ついてありがたいと思う間もなく、すぐ眼が開いて、まだ空は白まないだろうかと、幾度も暁を待ち佗びた。床に縛りつけられた人の、しんとした夜半に、ただ独り生きている長さは存外な長さである。──鯉が勢よく水を切った。自分の描いた波の上を叩く尾の音で、余は眼を覚ました。
室の中は夕暮よりもなお暗い光で照らされていた。天井から下がっている電気灯の珠は黒布で隙間なく掩がしてあった。弱い光りはこの黒布の目を洩れて、微かに八畳の室を射た。そうしてこの薄暗い灯影に、真白な着物を着た人間が二人坐っていた。二人とも口を利かなかった。二人とも動かなかった。二人とも膝の上へ手を置いて、互いの肩を並べたままじっとしていた。
黒い布で包んだ球を見たとき、余は紗で金箔を巻いた弔旗の頭を思い出した。この喪章と関係のある球の中から出る光線によって、薄く照らされた白衣の看護婦は、静かなる点において、行儀の好い点において、幽霊の雛のように見えた。そうしてその雛は必要のあるたびに無言のまま必ず動いた。
余は声も出さなかった。呼びもしなかった。それでも余の寝ている位置に、少しの変化さえあれば彼等はきっと動いた。手を毛布のうちで、もじつかせても、心持肩を右から左へ揺っても、頭を──頭は眼が覚めるたびに必ず麻痺れていた。あるいは麻痺れるので眼が覚めるのかも知れなかった。──その頭を枕の上で一寸摺らしても、あるいは足──足はよく寝覚めの種となった。平生の癖で時々、片方を片方の上へ重ねて、そのままとろとろとなると、下になった方の骨が沢庵石でも載せられたように、みしみしと痛んで眼が覚めた。そうして余は必ず強い痛さと重たさとを忍んで足の位置を変えなければならなかった。──これらのあらゆる場合に、わが変化に応じて、白い着物の動かない事はけっしてなかった。時にはわが動作を予期して、向うから動くと思われる場合もあった。時には手も足も頭も動かさないのに、眠りが尽きてふと眼を開けさえすれば、白い着物はすぐ顔の傍へ来た。余には白い着物を着ている女の心持が少しも分らなかった。けれども白い着物を着ている女は余の心を善く悟った。そうして影の形に随うごとくに変化した。響の物に応ずるごとくに働らいた。黒い布の目から洩れる薄暗い光の下に、真白な着物を着た女が、わが肉体の先を越して、ひそひそと、しかも規則正しく、わが心のままに動くのは恐ろしいものであった。
余はこの気味の悪い心持を抱いて、眼を開けると共に、ぼんやり眸に映る室の天井を眺めた。そうして黒い布で包んだ電気灯の珠と、その黒い布の織目から洩れてくる光に照らされた白い着物を着た女を見た。見たか見ないうちに白い着物が動いて余に近づいて来た。
秋風鳴万木。 山雨撼高楼。
病骨稜如剣。 一灯青欲愁。
余は好意の干乾びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感じた。
人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論ありがたい。けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でも何でもない。したがって義務の結果に浴する自分は、ありがたいと思いながらも、義務を果した先方に向って、感謝の念を起し悪い。それが好意となると、相手の所作が一挙一動ことごとく自分を目的にして働いてくるので、活物の自分にその一挙一動がことごとく応える。そこに互を繋ぐ暖い糸があって、器械的な世を頼母しく思わせる。電車に乗って一区を瞬く間に走るよりも、人の背に負われて浅瀬を越した方が情が深い。
義務さえ素直には尽くして呉れる人のない世の中に、また自分の義務さえ碌に尽くしもしない世の中に、こんな贅沢を並べるのは過分である。そうとは知りながら余は好意の干乾びた社会に存在する自分を切にぎごちなく感じた。──或る人の書いたものの中に、余りせち辛い世間だから、自用車を節倹する格で、当分良心を質に入れたとあったが、質に入れるのは固より一時の融通を計る便宜に過ぎない。今の大多数は質に置くべき好意さえ天で持っているものが少なそうに見えた。いかに工面がついても受出そうとは思えなかった。とは悟りながらやはり好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。
今の青年は、筆を執っても、口を開いても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から承れば、小憎しい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」をあえてして憚かるところなきまでに押しつめたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。「自我の主張」の裏には、首を縊ったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩悶が含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。
こうは解釈するようなものの、依然として余は常に好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。自分が人に向ってぎごちなくふるまいつつあるにもかかわらず、自らぎごちなく感じた。そうして病に罹った。そうして病の重い間、このぎごちなさをどこへか忘れた。
看護婦は五十グラムの粥をコップの中に入れて、それを鯛味噌と混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた。余は雀の子か烏の子のような心持がした。医師は病の遠ざかるに連れて、ほとんど五日目ぐらいごとに、余のために食事の献立表を作った。ある時は三通りも四通りも作って、それを比較して一番病人に好さそうなものを撰んで、あとはそれぎり反故にした。
医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実も葢もない話である。けれども彼等の義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から透かして見たら、彼等の所作がどれほど尊とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独りで嬉しかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。
子供と違って大人は、なまじい一つの物を十筋二十筋の文からできたように見窮める力があるから、生活の基礎となるべき純潔な感情を恣ままに吸収する場合が極めて少ない。本当に嬉しかった、本当にありがたかった、本当に尊かったと、生涯に何度思えるか、勘定すれば幾何もない。たとい純潔でなくても、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓の真中に保存したいと願っている。そうしてこの感情が遠からず単に一片の記憶と変化してしまいそうなのを切に恐れている。──好意の干乾びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感ずるからである。
天下自多事。 被吹天下風。 高秋悲鬢白。
衰病夢顔紅。 送鳥天無尽。 看雲道不窮。
残存吾骨貴。 慎勿妄磨礲。
小供のとき家に五六十幅の画があった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干の折に、余は交る交るそれを見た。そうして懸物の前に独り蹲踞まって、黙然と時を過すのを楽とした。今でも玩具箱を引繰り返したように色彩の乱調な芝居を見るよりも、自分の気に入った画に対している方が遥かに心持が好い。
画のうちでは彩色を使った南画が一番面白かった。惜しい事に余の家の蔵幅にはその南画が少なかった。子供の事だから画の巧拙などは無論分ろうはずはなかった。好き嫌いと云ったところで、構図の上に自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれで嬉しかったのである。
鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの弊はあったろうが、名前によって画を論ずるの譏りも犯さずにすんだ。ちょうど画を前後して余の嗜好に上った詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきか悪むべきかいずれとも意見を有していない。)
ある時、青くて丸い山を向うに控えた、また的皪と春に照る梅を庭に植えた、また柴門の真前を流れる小河を、垣に沿うて緩く繞らした、家を見て──無論画絹の上に──どうか生涯に一遍で好いからこんな所に住んで見たいと、傍にいる友人に語った。友人は余の真面目な顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうに云った。この友人は岩手のものであった。余はなるほどと始めて自分の迂濶を愧ずると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。
それは二十四五年も前の事であった。その二十四五年の間に、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。崖を降りて渓川へ水を汲みに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。ことに病気になって仰向に寝てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。
すると小宮君が歌麿の錦絵を葉書に刷ったのを送ってくれた。余はその色合の長い間に自と寂びたくすみ方に見惚れて、眼を放さずそれを眺めていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生れたいとか何とか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬ事が書いてあったので、こんなやにっこい色男は大嫌だ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然の香が好きだと答えてくれと傍のものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕元へ坐って、自然も好いが人間の背景にある自然でなくっちゃとか何とか病人に向って古臭い説を吐きかけるので、余は小宮君を捕えて御前は青二才だと罵った。──それくらい病中の余は自然を懐かしく思っていた。
空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日が蒼い所を目の届くかぎり照らした。余はその射返しの大地に洽ねき内にしんとして独り温もった。そうして眼の前に群がる無数の赤蜻蛉を見た。そうして日記に書いた。──「人よりも空、語よりも黙。……肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」
これは東京へ帰った以後の景色である。東京へ帰ったあともしばらくは、絶えず美くしい自然の画が、子供の時と同じように、余を支配していたのである。
秋露下南礀。 黄花粲照顔。
欲行沿澗遠。 却得与雲還。
子供が来たから見てやれと妻が耳の傍へ口を着けて云う。身体を動かす力がないので余は元の姿勢のままただ視線だけをその方に移すと、子供は枕を去る六尺ほどの所に坐っていた。
余の寝ている八畳に付いた床の間は、余の足の方にあった。余の枕元は隣の間を仕切る襖で半塞いであった。余は左右に開かれた襖の間から敷居越しに余の子供を見たのである。
頭の上の方にいるものを室を隔てて見る視力が、不自然な努力を要するためか、そこに坐っている子供の姿は存外遠方に見えた。無理な一瞥の下に余の眸に映った顔は、逢うたと記すよりもむしろ眺めたと書く方が適当なくらい離れていた。余はこの一瞥よりほかにまた子供の影を見なかった。余の眸はすぐと自然の角度に復した。けれども余はこの一瞥の短きうちにすべてを見た。
子供は三人いた。十二から十、十から八つと順に一列になって隣座敷の真中に並ばされていた。そうして三人ともに女であった。彼等は未来の健康のため、一夏を茅が崎に過すべく、父母から命ぜられて、兄弟五人で昨日まで海辺を駆け廻っていたのである。父が危篤の報知によって、親戚のものに伴れられて、わざわざ砂深い小松原を引き上げて、修善寺まで見舞に来たのである。
けれども危篤の何を意味しているかを知るには彼らはあまり小さ過ぎた。彼らは死と云う名前を覚えていた。けれども死の恐ろしさと怖さとは、彼らの若い額の奥に、いまだかつて影さえ宿さなかった。死に捕えられた父の身体が、これからどう変化するか彼らには想像ができなかった。父が死んだあとで自分らの運命にどんな結果が来るか、彼らには無論考え得られなかった。彼らはただ人に伴われて父の病気を見舞うべく、父の旅先まで汽車に乗って来たのである。
彼らの顔にはこの会見が最後かも知れぬと云う愁の表情がまるでなかった。彼らは親子の哀別以上に無邪気な顔をもっていた。そうしていろいろ人のいる中に、三人特別な席に並んで坐らせられて、厳粛な空気にじっと行儀よく取りすます窮屈を、切なく感じているらしく思われた。
余はただ一瞥の努力に彼らを見ただけであった。そうして病を解し得ぬ可憐な小さいものを、わざわざ遠くまで引張り出して、殊勝に枕元に坐らせておくのをかえって残酷に思った。妻を呼んで、せっかく来たものだから、そこいらを見物させてやれと命じた。もしその時の余に、あるいはこれが親子の見納めになるかも知れないと云う懸念があったならば、余はもう少ししみじみ彼らの姿を見守ったかも知れなかった。しかし余は医師や傍のものが余に対して抱いていたような危険を余の病の上に自ら感じていなかったのである。
子供はじきに東京へ帰った。一週間ほどしてから、彼らは各々に見舞状を書いて、それを一つ封に入れて、余の宿に届けた。十二になる筆子のは、四角な字を入れた整わない候文で、「御祖母様が雨がふっても風がふいても毎日毎日一日もかかさず御しゃか様へ御詣を遊ばす御百度をなされ御父様の御病気一日も早く御全快を祈り遊ばされまた高田の御伯母様どこかの御宮へか御詣り遊ばすとのことに御座候ふさ、きよみ、むめの三人の連中は毎日猫の墓へ水をとりかえ花を差し上げて早く御父様の全快を御祈りに居り候」とあった。十になる恒子のは尋常であった。八になるえい子のは全く片仮名だけで書いてあった。字を埋めて読みやすくすると、「御父様の御病気はいかがでございますか、私は無事に暮しておりますから御安心なさいませ。御父様も私の事を思わずに御病気を早く直して早く御帰りなさいませ。私は毎日休まずに学校へ行って居ります。また御母様によろしく」と云うのである。
余は日記の一頁を寝ながら割いて、それに、留守の中はおとなしく御祖母様の云う事を聞かなくてはいけない、今についでのあった時修善寺の御土産を届けてやるからと書いて、すぐ郵便で妻に出さした。子供は余が東京へ帰ってからも、平気で遊んでいる。修善寺の土産はもう壊してしまったろう。彼等が大きくなったとき父のこの文を読む機会がもしあったなら、彼等ははたしてどんな感じがするだろう。
傷心秋已到。 嘔血骨猶存。
病起期何日。 夕陽還一村。
五十グラムと云うと日本の二勺半にしか当らない。ただそれだけの飲料で、この身体を終日持ち応えていたかと思えば、自分ながら気の毒でもあるし、可愛らしくもある。また馬鹿らしくもある。
余は五十グラムの葛湯を恭やしく飲んだ。そうして左右の腕に朝夕二回ずつの注射を受けた。腕は両方とも針の痕で埋まっていた。医師は余に今日はどっちの腕にするかと聞いた。余はどっちにもしたくなかった。薬液を皿に溶いたり、それを注射器に吸い込ましたり、針を丁寧に拭ったり、針の先に泡のように細かい薬を吹かして眺めたりする注射の準備ははなはだ物奇麗で心持が好いけれども、その針を腕にぐさと刺して、そこへ無理に薬を注射するのは不愉快でたまらなかった。余は医師に全体その鳶色の液は何だと聞いた。森成さんはブンベルンとかブンメルンとか答えて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。
やがて日に二回の注射が一回に減じた。その一回もまたしばらくすると廃めになった。そうして葛湯の分量が少しずつ増して来た。同時に口の中が執拗く粘り始めた。爽かな飲料で絶えず舌と顋と咽喉を洗っていなくてはいたたまれなかった。余は医師に氷を請求した。医師は固い片らが滑って胃の腑に落ち込む危険を恐れた。余は天井を眺めながら、腹膜炎を患らった廿歳の昔を思い出した。その時は病気に障るとかで、すべての飲物を禁ぜられていた。ただ冷水で含嗽をするだけの自由を医師から得たので、余は一時間のうちに、何度となく含嗽をさせて貰った。そうしてそのつど人に知れないように、そっと含嗽の水を幾分かずつ胃の中に飲み下して、やっと熬りつくような渇を紛らしていた。
昔の計を繰り返す勇気のなかった余は、口中を潤すための氷を歯で噛み砕いては、正直に残らず吐き出した。その代り日に数回平野水を一口ずつ飲まして貰う事にした。平野水がくんくんと音を立てるような勢で、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であった。けれども咽喉を通り越すや否やすぐとまた飲みたくなった。余は夜半にしばしば看護婦から平野水を洋盃に注いで貰って、それをありがたそうに飲んだ当時をよく記憶している。
渇はしだいに歇んだ。そうして渇よりも恐ろしい餓じさが腹の中を荒して歩くようになった。余は寝ながら美くしい食膳を何通りとなく想像で拵らえて、それを眼の前に並べて楽んでいた。そればかりではない、同じ献立を何人前も調えておいて、多数の朋友にそれを想像で食わして喜こんだ。今考えると普通のものの嬉しがるような食物はちっともなかった。こう云う自分にすらあまりありがたくはない御膳ばかりを眼の前に浮べていたのである。
森成さんがもう葛湯も厭きたろうと云って、わざわざ東京から米を取り寄せて重湯を作ってくれた時は、重湯を生れて始めて啜る余には大いな期待があった。けれども一口飲んで始めてその不味いのに驚ろいた余は、それぎり重湯というものを近づけなかった。その代りカジノビスケットを一片貰った折の嬉しさはいまだに忘れられない。わざわざ看護婦を医師の室までやって、特に礼を述べたくらいである。
やがて粥を許された。その旨さはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。東君はわざわざ妻の所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のように始終食物の話ばかりしていておかしいと告げた。
腸に春滴るや粥の味
オイッケンは精神生活と云う事を真向に主張する学者である。学者の習慣として、自己の説を唱うる前には、あらゆる他のイズムを打破する必要を感ずるものと見えて、彼は彼のいわゆる精神生活を新たならしむるため、その用意として、現代生活に影響を与うる在来からの処生上の主義に一も二もなく非難を加えた。自然主義もやられる、社会主義も叩かれる。すべての主義が彼の眼から見て存在の権利を失ったかのごとくに説き去られた時、彼は始めて精神生活の四字を拈出した。そうして精神生活の特色は自由である、自由であると連呼した。
試みに彼に向って自由なる精神生活とはどんな生活かと問えば、端的にこんなものだとはけっして答えない。ただ立派な言葉を秩序よく並べ立てる。むずかしそうな理窟を蜿蜒と幾重にも重ねて行く。そこに学者らしい手際はあるかも知れないが、とぐろの中に巻き込まれる素人は茫然してしまうだけである。
しばらく哲学者の言葉を平民に解るように翻訳して見ると、オイッケンのいわゆる自由なる精神生活とは、こんなものではなかろうか。──我々は普通衣食のために働らいている。衣食のための仕事は消極的である。換言すると、自分の好悪撰択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。そう云う風にほかから圧しつけられた仕事では精神生活とは名づけられない。いやしくも精神的に生活しようと思うなら、義務なきところに向って自ら進む積極のものでなければならない。束縛によらずして、己れ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。こう解釈した時、誰も彼の精神生活を評してつまらないとは云うまい。コムトは倦怠をもって社会の進歩を促がす原因と見たくらいである。倦怠の極やむをえずして仕事を見つけ出すよりも、内に抑えがたき或るものが蟠まって、じっと持ち応えられない活力を、自然の勢から生命の波動として描出し来る方が実際実の入った生き法と云わなければなるまい。舞踏でも音楽でも詩歌でも、すべて芸術の価値はここに存していると評しても差支えない。
けれども学者オイッケンの頭の中で纏め上げた精神生活が、現に事実となって世の中に存在し得るや否やに至っては自から別問題である。彼オイッケン自身が純一無雑に自由なる精神生活を送り得るや否やを想像して見ても分明な話ではないか。間断なきこの種の生活に身を託せんとする前に、吾人は少なくとも早くすでに職業なき閑人として存在しなければならないはずである。
豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心の機まないときはけっして豆を挽かなかったなら商買にはならない。さらに進んで、己れの好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおの事商買にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平の灯を点けなければならない。公平と云う美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的と云う醜い本体を有しているに過ぎない。一分の遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、正に両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端を七分三分とか六分四分とかに交ぜ合わして自己に便宜なようにまた世間に都合の好いように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべく天から余儀なくされている。これが常態である。たまたま芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とするような場合ですら、その芸術が職業となる瞬間において、真の精神生活はすでに汚されてしまうのは当然である。芸術家としての彼は己れに篤き作品を自然の気乗りで作り上げようとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、売高の多いものを公けにしなくてはならぬからである。
すでに個人の性格及び教育次第で融通の利かなくなりそうなオイッケンのいわゆる自由なる精神生活は、現今の社会組織の上から見ても、これほど応用の範囲の狭いものになる。それを一般に行き亘って実行のできる大主義のごとくに説き去る彼は、学者の通弊として統一病に罹ったのだと酷評を加えてもよいが、たまたま文芸を好んで文芸を職業としながら、同時に職業としての文芸を忌んでいる余のごときものの注意を呼び起して、その批評心を刺戟する力は充分ある。大患に罹った余は、親の厄介になった子供の時以来久しぶりで始めてこの精神生活の光に浴した。けれどもそれはわずか一二カ月の中であった。病が癒るに伴れ、自己がしだいに実世間に押し出されるに伴れ、こう云う議論を公けにして得意なオイッケンを羨やまずにはいられなくなって来た。
学校を出た当時小石川のある寺に下宿をしていた事がある。そこの和尚は内職に身の上判断をやるので、薄暗い玄関の次の間に、算木と筮竹を見るのが常であった。固より看板をかけての公表な商買でなかったせいか、占を頼に来るものは多くて日に四五人、少ない時はまるで筮竹を揉む音さえ聞えない夜もあった。易断に重きを置かない余は、固よりこの道において和尚と無縁の姿であったから、ただ折々襖越しに、和尚の、そりゃ当人の望み通りにした方が好うがすななどと云う縁談に関する助言を耳に挟さむくらいなもので、面と向き合っては互に何も語らずに久しく過ぎた。
ある時何かのついでに、話がつい人相とか方位とか云う和尚の縄張り内に摺り込んだので、冗談半分私の未来はどうでしょうと聞いて見たら、和尚は眼を据えて余の顔をじっと眺めた後で、大して悪い事もありませんなと答えた。大して悪い事もないと云うのは、大して好い事もないと云ったも同然で、すなわち御前の運命は平凡だと宣告したようなものである。余は仕方がないから黙っていた。すると和尚が、あなたは親の死目には逢えませんねと云った。余はそうですかと答えた。すると今度はあなたは西へ西へと行く相があると云った。余はまたそうですかと答えた。最後に和尚は、早く顋の下へ髯を生やして、地面を買って居宅を御建てなさいと勧めた。余は地面を買って居宅を建て得る身分なら何も君の所に厄介になっちゃいないと答えたかった。けれども顋の下の髯と、地面居宅とはどんな関係があるか知りたかったので、それだけちょっと聞き返して見た。すると和尚は真面目な顔をして、あなたの顔を半分に割ると上の方が長くって、下の方が短か過ぎる。したがって落ちつかない。だから早く顋髯を生やして上下の釣合を取るようにすれば、顔の居坐りがよくなって動かなくなりますと答えた。余は余の顔の雑作に向って加えられたこの物理的もしくは美学的の批判が、優に余の未来の運命を支配するかのごとく容易に説き去った和尚を少しおかしく感じた。そうしてなるほどと答えた。
一年ならずして余は松山に行った。それからまた熊本に移った。熊本からまた倫敦に向った。和尚の云った通り西へ西へと赴いたのである。余の母は余の十三四の時に死んだ。その時は同じ東京におりながら、つい臨終の席には侍らなかった。父の死んだ電報を東京から受け取ったのは、熊本にいる頃の事であった。これで見ると、親の死目に逢えないと云った和尚の言葉もどうかこうか的中している。ただ顋の髯に至ってはその時から今日に至るまで、寧日なく剃り続けに剃っているから、地面と居宅がはたして髯と共にわが手に入るかどうかいまだに判然せずにいた。
ところが修善寺で病気をして寝つくや否や、頬がざらざらし始めた。それが五六日すると一本一本に撮めるようになった。またしばらくすると、頬から顋が隙間なく隠れるようになった。和尚の助言は十七八年ぶりで始めて役に立ちそうな気色に髯は延びて来た。妻はいっそ御生やしなすったら好いでしょうと云った。余も半分その気になって、しきりにその辺を撫で廻していた。ところが幾日となく洗いも櫛ずりもしない髪が、膏と垢で余の頭を埋め尽くそうとする汚苦しさに堪えられなくなって、ある日床屋を呼んで、不充分ながら寝たまま頭に手を入れて顔に髪剃を当てた。その時地面と居宅の持主たるべき資格をまた奇麗に失ってしまった。傍のものは若くなった若くなったと云ってしきりに囃し立てた。独り妻だけはおやすっかり剃っておしまいになったんですかと云って、少し残り惜しそうな顔をした。妻は夫の病気が本復した上にも、なお地面と居宅が欲しかったのである。余といえども、髯を落さなければ地面と居宅がきっと手に入ると保証されるならば、あの顋はそのままに保存しておいたはずである。
その後髯は始終剃った。朝早く床の上に起き直って、向うの三階の屋根と吾室の障子の間にわずかばかり見える山の頂を眺めるたびに、わが頬の潔よく剃り落してある滑らかさを撫で廻しては嬉しがった。地面と居宅は当分断念したか、または老後の楽しみにあとあとまで取っておくつもりだったと見える。
客夢回時一鳥鳴。 夜来山雨暁来晴。
孤峯頂上孤松色。 早映紅暾欝々明。
修善寺が村の名で兼て寺の名であると云う事は、行かぬ前から疾に承知していた。しかしその寺で鐘の代りに太鼓を叩こうとはかつて想い至らなかった。それを始めて聞いたのはいつの頃であったか全く忘れてしまった。ただ今でも余が鼓膜の上に、想像の太鼓がどん──どんと時々響く事がある。すると余は必ず去年の病気を憶い出す。
余は去年の病気と共に、新らしい天井と、新らしい床の間にかけた大島将軍の従軍の詩を憶い出す。そうしてその詩を朝から晩までに何遍となく読み返した当時を明らさまに憶い出す。新らしい天井と、新らしい床の間と、新らしい柱と、新らし過ぎて開閉の不自由な障子は、今でも眼の前にありありと浮べる事ができるが、朝から晩までに何遍となく読み返した大島将軍の詩は、読んでは忘れ、読んでは忘れして、今では白壁のように白い絹の上を、どこまでも同じ幅で走って、尾頭ともにぷつりと折れてしまう黒い線を認めるだけである。句に至っては、始めの剣戟という二字よりほか憶い出せない。
余は余の鼓膜の上に、想像の太鼓がどん──どんと響くたびに、すべてこれらのものを憶い出す。これらのものの中に、じっと仰向いて、尻の痛さを紛らしつつ、のつそつ夜明を待ち佗びたその当時を回顧すると、修禅寺の太鼓の音は、一種云うべからざる連想をもって、いつでも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。
その太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、前後を切り捨てた上、中間だけを、自暴に夜陰に向って擲きつけるように、ぶっきら棒な鳴り方をした。そうして、一つどんと素気なく鳴ると共にぱたりと留った。余は耳を峙だてた。一度静まった夜の空気は容易に動こうとはしなかった。やや久らくして、今のは錯覚ではなかろうかと思い直す頃に、また一つどんと鳴った。そうして愛想のない音は、水に落ちた石のように、急に夜の中に消えたぎり、しんとした表に何の活動も伝えなかった。寝られない余は、待ち伏せをする兵士のごとく次の音の至るを思いつめて待った。その次の音はやはり容易には来なかった。ようやくのこと第一第二と同じく極めて乾び切った響が──響とは云い悪い。黒い空気の中に、突然無遠慮な点をどっと打って直筆を隠したような音が、余の耳朶を叩いて去る後で、余はつくづくと夜を長いものに観じた。
もっとも夜は長くなる頃であった。暑さもしだいに過ぎて、雨の降る日はセルに羽織を重ねるか、思い切って朝から袷を着るかしなければ、肌寒を防ぐ便とならなかった時節である。山の端に落ち込む日は、常の短かい日よりもなおの事短かく昼を端折って、灯は容易に点いた。そうして夜は中々明けなかった。余はじりじりと昼に食い入る夜長を夜ごとに恐れた。眼が開くときっと夜であった。これから何時間ぐらいこうしてしんと夜の中に生きながら埋もっている事かと思うと、我ながらわが病気に堪えられなかった。新らしい天井と、新らしい柱と、新らしい障子を見つめるに堪えなかった。真白な絹に書いた大きな字の懸物には最も堪えなかった。ああ早く夜が明けてくれればいいのにと思った。
修禅寺の太鼓はこの時にどんと鳴るのである。そうしてことさらに余を待ち遠しがらせるごとく疎らな間隔を取って、暗い夜をぽつりぽつりと縫い始める。それが五分と経ち七分と経つうちに、しだいに調子づいて、ついに夕立の雨滴よりも繁く逼って来る変化は、余から云うともう日の出に間もないと云う報知であった。太鼓を打ち切ってしばらくの後に、看護婦がやっと起きて室の廊下の所だけ雨戸を開けてくれるのは何よりも嬉しかった。外はいつでも薄暗く見えた。
修善寺に行って、寺の太鼓を余ほど精密に研究したものはあるまい。その結果として余は今でも時々どんと云う余音のないぶっ切ったような響を余の鼓膜の上に錯覚のごとく受ける。そうして一種云うべからざる心持を繰り返している。
夢繞星潢泫露幽。 夜分形影暗灯愁。
旗亭病近修禅寺。 一榥疎鐘已九秋。
山を分けて谷一面の百合を飽くまで眺めようと心にきめた翌日から床の上に仆れた。想像はその時限りなく咲き続く白い花を碁石のように点々と見た。それを小暗く包もうとする緑の奥には、重い香が沈んで、風に揺られる折々を待つほどに、葉は息苦しく重なり合った。──この間宿の客が山から取って来て瓶に挿した一輪の白さと大きさと香から推して、余は有るまじき広々とした画を頭の中に描いた。
聖書にある野の百合とは今云う唐菖蒲の事だと、その唐菖蒲を床に活けておいた時、始めて芥舟君から教わって、それではまるで野の百合の感じが違うようだがと話し合った一月前も思い出された。聖書と関係の薄い余にさえ、檜扇を熱帯的に派出に仕立てたような唐菖蒲は、深い沈んだ趣を表わすにはあまり強過ぎるとしか思われなかった。唐菖蒲はどうでもよい。余が想像に描いた幽かな花は、一輪も見る機会のないうちに立秋に入った。百合は露と共に摧けた。
人は病むもののために裏の山に入って、ここかしこから手の届く幾茎の草花を折って来た。裏の山は余の室から廊下伝いにすぐ上る便のあるくらい近かった。障子さえ明けておけば、寝ながら縁側と欄間の間を埋める一部分を鼻の先に眺める事もできた。その一部分は岩と草と、岩の裾を縫うて迂回して上る小径とから成り立っていた。余は余のために山に上るものの姿が、縁の高さを辞して欄間の高さに達するまでに、一遍影を隠して、また反対の位地から現われて、ついに余の視線のほかに没してしまうのを大いなる変化のごとくに眺めた。そうして同じ彼等の姿が再び欄間の上から曲折して下って来るのを疎い眼で眺めた。彼らは必ず粗い縞の貸浴衣を着て、日の照る時は手拭で頬冠りをしていた。岨道を行くべきものとも思われないその姿が、花を抱えて岩の傍にぬっと現われると、一種芝居にでも有りそうな感じを病人に与えるくらい釣合がおかしかった。
彼等の採って来てくれるものは色彩の極めて乏しい野生の秋草であった。
ある日しんとした真昼に、長い薄が畳に伏さるように活けてあったら、いつどこから来たとも知れない蟋蟀がたった一つ、おとなしく中ほどに宿っていた。その時薄は虫の重みで撓いそうに見えた。そうして袋戸に張った新らしい銀の上に映る幾分かの緑が、暈したように淡くかつ不分明に、眸を誘うので、なおさら運動の感覚を刺戟した。
薄は大概すぐ縮れた。比較的長く持つ女郎花さえ眺めるにはあまり色素が足りなかった。ようやく秋草の淋しさを物憂く思い出した時、始めて蜀紅葵とか云う燃えるような赤い花弁を見た。留守居の婆さんに銭をやって、もっと折らせろと云ったら、銭は要りません、花は預かり物だから上げられませんと断わったそうである。余はその話を聞いて、どんな所に花が咲いていて、どんな婆さんがどんな顔をして花の番をしているか、見たくてたまらなかった。蜀紅葵の花弁は燃えながら、翌日散ってしまった。
桂川の岸伝いに行くといくらでも咲いていると云うコスモスも時々病室を照らした。コスモスはすべての中で最も単簡でかつ長く持った。余はその薄くて規則正しい花片と、空に浮んだように超然と取り合わぬ咲き具合とを見て、コスモスは干菓子に似ていると評した。なぜですかと聞いたものがあった。範頼の墓守の作ったと云う菊を分けて貰って来たのはそれからよほど後の事である。墓守は鉢に植えた菊を貸して上げようかと云ったそうである。この墓守の顔も見たかった。しまいには畠山の城址からあけびと云うものを取って来て瓶に挿んだ。それは色の褪めた茄子の色をしていた。そうしてその一つを鳥が啄いて空洞にしていた。──瓶に挿す草と花がしだいに変るうちに気節はようやく深い秋に入った。
日似三春永。 心随野水空。
牀頭花一片。 閑落小眠中。
若い時兄を二人失った。二人とも長い間床についていたから、死んだ時はいずれも苦しみ抜いた病の影を肉の上に刻んでいた。けれどもその長い間に延びた髪と髯は、死んだ後までも漆のように黒くかつ濃かった。髪はそれほどでもないが、剃る事のできないで不本意らしく爺々汚そうに生えた髯に至っては、見るから憐れであった。余は一人の兄の太く逞しい髯の色をいまだに記憶している。死ぬ頃の彼の顔がいかにも気の毒なくらい瘠せ衰えて小さく見えるのに引き易えて、髯だけは健康な壮者を凌ぐ勢で延びて来た一種の対照を、気味悪くまた情なく感じたためでもあろう。
大患に罹って生か死かと騒がれる余に、幾日かの怪しき時間は、生とも死とも片づかぬ空裏に過ぎた。存亡の領域がやや明かになった頃、まず吾存在を確めたいと云う願から、とりあえず鏡を取ってわが顔を照らして見た。すると何年か前に世を去った兄の面影が、卒然として冷かな鏡の裏を掠めて去った。骨ばかり意地悪く高く残った頬、人間らしい暖味を失った蒼く黄色い皮、落ち込んで動く余裕のない眼、それから無遠慮に延びた髪と髯、──どう見ても兄の記念であった。
ただ兄の髪と髯が死ぬまで漆のように黒かったのにかかわらず、余のそれらにはいつの間にか銀の筋が疎らに交っていた。考えて見ると兄は白髪の生える前に死んだのである。死ぬとすればその方が屑よいかも知れない。白髪に鬢や頬をぽつぽつ冒されながら、まだ生き延びる工夫に余念のない余は、今を盛りの年頃に容赦なく世を捨てて逝く壮者に比べると、何だかきまりが悪いほど未練らしかった。鏡に映るわが表情のうちには、無論はかないと云う心持もあったが、死に損なったと云う恥も少しは交っていた。また「ヴァージニバス・ピュエリスク」の中に、人はいくら年を取っても、少年の時と同じような性情を失わないものだと書いてあったのを、なるほどと首肯いて読んだ当時を憶い出して、ただその当時に立ち戻りたいような気もした。
「ヴァージニバス・ピュエリスク」の著者は、長い病苦に責められながらも、よくその快活の性情を終焉まで持ち続けたから、嘘は云わない男である。けれども惜しい事に髪の黒いうちに死んでしまった。もし彼が生きて六十七十の高齢に達したら、あるいはこうは云い切れなかったろうと思えば、思われない事もない。自分が二十の時、三十の人を見れば大変に懸隔があるように思いながら、いつか三十が来ると、二十の昔と同じ気分な事が分ったり、わが三十の時、四十の人に接すると、非常な差違を認めながら、四十に達して三十の過去をふり返れば、依然として同じ性情に活きつつある自己を悟ったりするので、スチーヴンソンの言葉ももっともと受けて、今日まで世を経たようなものの、外部から萌して来る老頽の徴候を、幾茎かの白髪に認めて、健康の常時とは心意の趣を異にする病裡の鏡に臨んだ刹那の感情には、若い影はさらに射さなかったからである。
白髪に強いられて、思い切りよく老の敷居を跨いでしまおうか、白髪を隠して、なお若い街巷に徘徊しようか、──そこまでは鏡を見た瞬間には考えなかった。また考える必要のないまでに、病める余は若い人々を遠くに見た。病気に罹る前、ある友人と会食したら、その友人が短かく刈った余の揉上を眺めて、そこから白髪に冒されるのを苦にしてだんだん上の方へ剃り上げるのではないかと聞いた。その時の余にはこう聞かれるだけの色気は充分あった。けれども病に罹った余は、白髪を看板にして事をしたいくらいまでに諦めよく落ちついていた。
病の癒えた今日の余は、病中の余を引き延ばした心に活きているのだろうか、または友人と食卓についた病気前の若さに立ち戻っているだろうか。はたしてスチーヴンソンの云った通りを歩く気だろうか、または中年に死んだ彼の言葉を否定してようやく老境に進むつもりだろうか。──白髪と人生の間に迷うものは若い人たちから見たらおかしいに違ない。けれども彼等若い人達にもやがて墓と浮世の間に立って去就を決しかねる時期が来るだろう。
桃花馬上少年時。 笑拠銀鞍払柳枝。
緑水至今迢逓去。 月明来照鬢如糸。
初めはただ漠然と空を見て寝ていた。それからしばらくしていつ帰れるのだろうと思い出した。ある時はすぐにも帰りたいような心持がした。けれども床の上に起き直る気力すらないものが、どうして汽車に揺られて半日の遠きを行くに堪え得ようかと考えると、帰りたいと念ずる自分がかなり馬鹿気て見えた。したがって傍のものに自分はいつ帰れるかと問い糺した事もなかった。同時に秋は幾度の昼夜を巻いて、わが心の前を過ぎた。空はしだいに高くかつ蒼くわが上を掩い始めた。
もう動かしても大事なかろうと云う頃になって、東京から別に二人の医者を迎えてその意見を確めたら、今二週間の後にと云う挨拶であった。挨拶があった翌日から余は自分の寝ている地と、寝ている室を見捨るのが急に惜しくなった。約束の二週間がなるべくゆっくり廻転するようにと冀った。かつて英国にいた頃、精一杯英国を悪んだ事がある。それはハイネが英国を悪んだごとく因業に英国を悪んだのである。けれども立つ間際になって、知らぬ人間の渦を巻いて流れている倫敦の海を見渡したら、彼らを包む鳶色の空気の奥に、余の呼吸に適する一種の瓦斯が含まれているような気がし出した。余は空を仰いで町の真中に佇ずんだ。二週間の後この地を去るべき今の余も、病む躯を横えて、床の上に独り佇ずまざるを得なかった。余は特に余のために造って貰った高さ一尺五寸ほどの偉大な藁蒲団に佇ずんだ。静かな庭の寂寞を破る鯉の水を切る音に佇ずんだ。朝露に濡れた屋根瓦の上を遠近と尾を揺かし歩く鶺鴒に佇ずんだ。枕元の花瓶にも佇ずんだ。廊下のすぐ下をちょろちょろと流れる水の音にも佇ずんだ。かくわが身を繞る多くのものに彽徊しつつ、予定の通り二週間の過ぎ去るのを待った。
その二週間は待ち遠いはがゆさもなく、またあっけない不足もなく普通の二週間のごとくに来て、尋常の二週間のごとくに去った。そうして雨の濛々と降る暁を最後の記念として与えた。暗い空を透かして、余は雨かと聞いたら、人は雨だと答えた。
人は余を運搬する目的をもって、一種妙なものを拵らえて、それを座敷の中に舁き入れた。長さは六尺もあったろう、幅はわずか二尺に足らないくらい狭かった。その一部は畳を離れて一尺ほどの高さまで上に反り返るように工夫してあった。そうして全部を白い布で捲いた。余は抱かれて、この高く反った前方に背を託して、平たい方に足を長く横たえた時、これは葬式だなと思った。生きたものに葬式と云う言葉は穏当でないが、この白い布で包んだ寝台とも寝棺とも片のつかないものの上に横になった人は、生きながら葬われるとしか余には受け取れなかった。余は口の中で、第二の葬式と云う言葉をしきりに繰り返した。人の一度は必ずやって貰う葬式を、余だけはどうしても二返執行しなければすまないと思ったからである。
舁かれて室を出るときは平であったが、階子段を降りる際には、台が傾いて、急に輿から落ちそうになった。玄関に来ると同宿の浴客が大勢並んで、左右から白い輿を目送していた。いずれも葬式の時のように静かに控えていた。余の寝台はその間を通り抜けて、雨の降る庇の外に担ぎ出された。外にも見物人はたくさんいた。やがて輿を竪に馬車の中に渡して、前後相対する席と席とで支えた。あらかじめ寸法を取って拵らえたので、輿はきっしりと旨く馬車の中に納った。馬は降る中を動き出した。余は寝ながら幌を打つ雨の音を聞いた。そうして、御者台と幌の間に見える窮屈な空間から、大きな岩や、松や、水の断片をありがたく拝した。竹藪の色、柿紅葉、芋の葉、槿垣、熟した稲の香、すべてを見るたびに、なるほど今はこんなものの有るべき季節であると、生れ返ったように憶い出しては嬉しがった。さらに進んでわが帰るべき所には、いかなる新らしい天地が、寝ぼけた古い記憶を蘇生せしむるために展開すべく待ち構えているだろうかと想像して独り楽しんだ。同時に昨日まで彽徊した藁蒲団も鶺鴒も秋草も鯉も小河もことごとく消えてしまった。
万事休時一息回。 余生豈忍比残灰。
風過古澗秋声起。 日落幽篁瞑色来。
漫道山中三月滞。 詎知門外一天開。
帰期勿後黄花節。 恐有羇魂夢旧苔。
正月を病院でした経験は生涯にたった一遍しかない。
松飾りの影が眼先に散らつくほど暮が押しつまった頃、余は始めてこの珍らしい経験を目前に控えた自分を異様に考え出した。同時にその考が単に頭だけに働らいて、毫も心臓の鼓動に響を伝えなかったのを不思議に思った。
余は白い寝床の上に寝ては、自分と病院と来るべき春とをかくのごとくいっしょに結びつける運命の酔興さ加減を懇ろに商量した。けれども起き直って机に向ったり、膳に着いたりする折は、もうここが我家だと云う気分に心を任して少しも怪しまなかった。それで歳は暮れても春は逼っても別に感慨と云うほどのものは浮ばなかった。余はそれほど長く病院にいて、それほど親しく患者の生活に根をおろしたからである。
いよいよ大晦日が来た時、余は小さい松を二本買って、それを自分の病室の入口に立てようかと思った。しかし松を支えるために釘を打ち込んで美くしい柱に創をつけるのも悪いと思ってやめにした。看護婦が表へ出て梅でも買って参りましょうと云うから買って貰う事にした。
この看護婦は修善寺以来余が病院を出るまで半年の間始終余の傍に附き切りに附いていた女である。余はことさらに彼の本名を呼んで町井石子嬢町井石子嬢と云っていた。時々は間違えて苗字と名前を顛倒して、石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首を傾げながらそう改めた方が好いようでございますねと云った。しまいには遠慮がなくなって、とうとう鼬と云う渾名をつけてやった。ある時何かのついでに、時に御前の顔は何かに似ているよと云ったら、どうせ碌なものに似ているのじゃございますまいと答えたので、およそ人間として何かに似ている以上は、まず動物にきまっている。ほかに似ようたって容易に似られる訳のものじゃないと言って聞かせると、そりゃ植物に似ちゃ大変ですと絶叫して以来、とうとう鼬ときまってしまったのである。
鼬の町井さんはやがて紅白の梅を二枝提げて帰って来た。白い方を蔵沢の竹の画の前に挿して、紅い方は太い竹筒の中に投げ込んだなり、袋戸の上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白い香をしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、明日はきっと御雑煮が祝えるに違ないと云って余を慰めた。
除夜の夢は例年の通り枕の上に落ちた。こう云う大患に罹ったあげく、病院の人となって幾つの月を重ねた末、雑煮までここで祝うのかと考えると、頭の中にはアイロニーと云う羅馬字が明らかに綴られて見える。それにもかかわらず、感に堪えぬ趣は少しも胸を刺さずに、四十四年の春は自ずから南向の縁から明け放れた。そうして町井さんの予言の通り形ばかりとは云いながら、小さい一切の餅が元日らしく病人の眸に映じた。余はこの一椀の雑煮に自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかも何等の詩味をも感ぜずに、小さな餅の片を平凡にかつ一口に、ぐいと食ってしまった。
二月の末になって、病室前の梅がちらほら咲き出す頃、余は医師の許を得て、再び広い世界の人となった。ふり返って見ると、入院中に、余と運命の一角を同じくしながら、ついに広い世界を見る機会が来ないで亡くなった人は少なくない。ある北国の患者は入院以後病勢がしだいに募るので、附添の息子が心配して、大晦日の夜になって、無理に郷里に連れて帰ったら、汽車がまだ先へ着かないうちに途中で死んでしまった。一間置いて隣りの人は自分で死期を自覚して、諦らめてしまえば死ぬと云う事は何でもないものだと云って、気の毒なほどおとなしい往生を遂げた。向うの外れにいた潰瘍患者の高い咳嗽が日ごとに薄らいで行くので、大方落ちついたのだろうと思って町井さんに尋ねて見ると、衰弱の結果いつの間にか死んでいた。そうかと思うと、癌で見込のない病人の癖に、から景気をつけて、回診の時に医師の顔を見るや否や、すぐ起き直って尻を捲るというのがあった。附添の女房を蹴たり打ったりするので、女房が洗面所へ来て泣いているのを、看護婦が見兼て慰めていましたと町井さんが話した事も覚えている。ある食道狭窄の患者は病院には這入っているようなものの迷いに迷い抜いて、灸点師を連れて来て灸を据えたり、海草を採って来て煎じて飲んだりして、ひたすら不治の癌症を癒そうとしていた。……
余はこれらの人と、一つ屋根の下に寝て、一つ賄の給仕を受けて、同じく一つ春を迎えたのである。退院後一カ月余の今日になって、過去を一攫にして、眼の前に並べて見ると、アイロニーの一語はますます鮮やかに頭の中に拈出される。そうしていつの間にかこのアイロニーに一種の実感が伴って、両つのものが互に纏綿して来た。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、雑煮も、──あらゆる尋常の景趣はことごとく消えたのに、ただ当時の自分と今の自分との対照だけがはっきりと残るためだろうか。
底本:「夏目漱石全集7」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年4月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年6月26日公開
2011年1月13日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。