無題(三)
宮本百合子


 未練も容謝もない様に、天から真直な大雨が降って居る。

 静かな、煙る様な春雨も好いには違いないけれ共、斯うした男性的な雨も又好いものだ。

 木端ぶきの書斎の屋根では、頭がへこむほどひどい音をたてて居るし、雨だれも滝の様で見て居ると目がくらむ。

 到底軒の玉水などとやさしい事を云うどころではない。木の根元をくぐったり、草の根をすり抜けたりして、低い方へあとからあとから追っかけて流れる河が幾筋も出来、ポカポカと泡をただよわせながら、どしどし、どしどしとながれて行く。

 震えて居る木の葉でも水玉でもあらゆるものが躍って居る様に見える。

 私は軒の長い御かげでとばしりの来ない部屋に座って蟻塚は崩されたり埋められたりすまいか、蟻地獄の摺鉢も、大方流れたろうなどと思う。こんな時に、野鳥の巣はどうなるのかしらん。

 それはそうと、今朝早く起きて岡田さんのところへ行くなどと云って居たが好い事をしたと思う。

 私のすきでさして居る頭ほか入りそうにない小さい傘を幾本さしたところで、この雨では凌げるものではないもの。

 電車の停留場に臆病らしく裾をつまんだ私が不安そうな眼つきをしてたって居る様子を想像する。

 そんな時には好い加減きれいな人でも見っともなくなってしまうものだから、そんないやな様子を、人々に見つめられると云う事も堪えがたい事だ。

 先ず先ず無事ですんでよかったとつくづく思う。

 フト気が付いて見ると、その騒ぎの中に槇の木と、その傍のうす赤い葉の楓はゆさりともしずに居る。

 紫陽花だの樫だのが、石橋の振車の様に頭を振りに振って居るのに、二つだけは作りつけの様にじいっとして居る。

 あんまり静かな姿が、私には堪えられないほど怖ろしい。

 沈黙をかたくとり守って居る様な姿があまり他とはなれて居るので、気をつけまいとしてもつい気を引かれる。

 多くの群の中に一寸異ったものにはすぐ気がつく。平常いくら動かない木を見ても別に異った感じを抱く事はないけれ共他の動く木の中に、じっとたったまま小ゆるぎさえしないのを見ると非常に珍らしい。尊げに見える。

 人間の非凡だとか偉大だとか云う事の分れるのも斯うした場合があっての事だろう。

底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年1225日初版

   1986(昭和61)年320日第5

初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年1225日初版

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2009年322日作成

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