無題(一)
宮本百合子



 旅人はまだ迷って居ます。暗い森から暗い森の中へと、雪は一寸もやまず木々の梢と落葉のつもった地面とをせっせとお化粧をして居ます。まだ十六にみたない若い旅人は母の最後にくれたキッスと村はずれまで送って呉れた小さい小鳥のように美くしい女の笑顔を思い出して身ぶるいをしながら歩いて居ます。暗い暗い森は中々つきそうにもありませんでした。遠く遠くつづいて「どっちが西でどっちが東かしら、私はどっちに行ったら彼の美くしい国に行かれるのかしら」。旅人は八十になる白い頭巾をかぶって大キイ目鏡をかけた祖母に教えられてその住む村から七里西にある水の青い山の紫な乙女の頬の美くしい国へ歌枕さぐりに行くんです。コマカい小さい雪はかたまって大きい形になって落ちて来ます。

 みどり色のこいマントの上、赤い帽子の上とそしてやわらかで赤い長靴の上をポトリポトリとしめして行きます。頬はさむい風に吹かれて光をもって赤く、黄金色の毛は赤い帽子をもれてゆるく波をうってかたにかかって居ます。バラを一ひらつんで置いたような唇はキッとむすばれて時々かすかに歯をあらわして雪の詩をうたって居ます。若い旅人は若々しい情のある血のような詩をうたう人です。森の中に深く迷い入って困って居ながらも白銀のような粉雪を讚美するのを忘れませんでした。葉をふるいおとされて箒のようになって立って居る楢の木のしげみが段々まばらになって木こりのらしい大きながんじょうな靴のあとが見出されました。赤い唇は遠慮なくひらかれて「村に出た出た」と云いました。眼は一層大きく開かれて足元は定まって居ませんでした。「アア、村──村」小さいみどりの体は白い雪の中に一つ線をひきました。村に出た気のゆるみのためでしょう。けれ共、おこす人もなければなぐさめる人もありません。森から出た許の所、しかも雪の深い日ですもの。向うの遠い所から人が来ます。男じゃあありません。髪の長い美くしい白い着物の人です。スーとそばに来ました。そしてひざまずいて白いやさしい手で頭をかるくこすって青ざめた頬にべに色の頬をよせました。

 若い幸多い詩人の目はひらかれました。頬には段々紅の色がみなぎり出しました。眼にはよろこびとおどろきに此の上もなく美くしくかがやいて居ます。女は美くしいとおったこえで「どうなすったの、もうおなおりになって」詩人は森の中に育った児のように、たまに村から出た女達のするようにその気高い姿を見あげ見下しました。けれ共さとい美くしい詩人の胸には若い人の心にふさわしい思い出がわき上りました。きっとそうだそうにちがいないと小さい腕を胸に組んで「有難う、雪の姫様。貴女は私が不断から雪をこのんで居るのでこうやってたすけて下さったのでしょう。ありがとう姫様」とふるえた小さい声で云って女の美くしい手の甲に唇をよせました。

 女はかすかに身をふるわせながら「イイエイイエ、私はそんな者じゃあないんですの。ケドまア気がついてよかった。そうしてあなたはなぜこんな雪の日に一人旅をなさるの」「私は村から七里西の美くしい国に歌枕をさぐりに行くんです」「マア、そんな美くしい方があの美くしい国に行く、ほんとうに」と云ってその手を取ってだまってその美くしい瞳を見つめました。しばらく立って「行らっしゃい」美くしい女は立ち上りました。詩人はこのまままたつづいた旅をしたいんですけれ共何だか行かなくては悪いような、いつも自分を可愛がって呉れるとなりの十八の娘に会った時のようになつかしい、何かに引かれるような気持でだまったままそのあとにつきました。指のそろって長い女は赤いかわのギリシャの女神のはいて居るような靴をはいて白い衣の裾をヒラヒラと切ってかるくかるく行きました。詩人はそのあとを小走りについて、その時、若しそこに人が居たならそれを何と見たでしょう。キット、古い人のかいた名画の中の人がこの美くしい雪の色に誘われて来たんだと思ったでしょう。旅人は夢のような気持で何か暖いものに抱かれたような気持で歩きました。いつの間にか目の前に美くしい小さい家が出ました。白い煉瓦で形よくつまれて、まわりにはつたがからまって居ます。みんな紅葉したのが一っぱい白い花が咲いてまどには紫のガラス。「ここが私の家ですの、入って頂戴」詩人は女に手をとられて中に入りました。すぐ美くしいかおりは身のまわりをこめて来ます。雪の光は紫のカーテンやガラスにさえぎられて部屋一面に薄紫、椅子もテーブルも皆趣きのある形をして居ます。美くしい形にきられたストーブには富と幸福を祝うように盛に火がもえて居ます。マーブルのような女の美くしい頬にてりそってチラチラして居ます。

女「寒かったでしょう、早くあったかくなってそして人の世の話をきかせてちょうだい」

 女はぬれたみどりのマントをぬがせて自分のわきの椅子に腰をかけさせて、

女「小さくて美くしい方、貴方は何と云う御名」

子「私? 名はないんです、ただとなりの娘もお母さんも私の事を□□□って云うんです、だから私も自分の名はそう云うんだと思って居ます」

女「マア可愛いい名、年は?」

小「十五」

女「妹さんがお有んなさるの? 毎日何をしていらっしゃるの」

小「私、妹も兄もないんです。私は毎日朝飯をたべると隣の娘と奥の牧場に行って今年生れた小羊を相手にリンゴの木かげで遊ぶんです。となりの娘はローズって名の通りの美くしい娘であの白い細いうでで私の首をかかえてじっと私のかおを見ながらいつも美くしい話をして呉れます。お昼になると家にかえっていろいろな話をするんです。それから日が少し西に落ちかけて森の上が赤くなる頃、私は銀笛を持ちローズは歌の本をもって小さい川を渡って森ん中に行き、紫の山を見て木の幹によっかかりながらローズは美くしい声でうたをうたい私はそれに合せて笛を吹きます。そうするともう気も遠くなるほどいい気持になって二人で手を組み合ったままだまってしまいます。そうするとキット私の頭の中に一つ詩がうかびます。それを紙に書いて月の出る頃又川を渡って家にかえってその詩を母に見せて窓から頭を出してとなりのまどのローズに『サヨーナラ』といって白い床に入ってねるんです。ローズは私の姉さんのようにして呉れます。母も許して呉れるので」

と赤い唇をうごかしながら軽くうたでもうたって居るような声音で女の体に身をよせながらその様子をしのぶような目をして話します。女は、

女「そのローズさんはどんな風をして居ますの」

小「ローズですか。そりゃあ美くしい人です。私によく似て居て目がみどりで大きく毛はほんとうの黄金でいつでも何にもしないでさげて、白い着物を着て羊の皮の靴をはいて居て声の美くしい人なんです。私の姉さんなんですもの美くしいのもあたり前じゃありませんか」

女「ほんとうにネ。これからいつまでも私の家に居てちょうだい。私はいつでも美くしいうたをうたってあなたを可愛がりましょうネ」

 小さい手を力一ぱい握って瞳をかがやかしながらそう云うんでした。旅人は嬉しそうに又困ったらしく、

小「エエ居てもいいですけど私はまだ行く所があるんですもの」

女「もう行きたい所ってここより外にないでしょう。ここが貴方の来たいと思って居らっしゃった所なんですもの。これから毎日そこいら中におつれしましょう。ネ、いいでしょう。どうぞ居て下さい。私は一人で淋しくてしようがないんですもの。私、いくつだとお思いになって、まだ十八なの。けれど私一人でこんな所に居るの。私は不思議な人なんですのよ」

とその旅人の頭に頬をのせながらいいました。

小「エッ一人? マア可愛そうに、お一人でいらっしゃるのこんな淋しい所に。マアそして不思議な人って。話して下さいネ。私はいつまでもここに居ましょうネ」

女「有難う、お話しましょう。私はもとはすてごだったんです。あの向に一つ松が見えましょう、あすこに捨てられて居たんですの。そうするとネ一匹の大きなそれは立ぱな鹿が一匹来ましてネ、私をひろってこの家につれて来たんですの。それは私の四つの時でしたワ。それからそのしかはいろいろにそだてて呉れて彼の森に居るこま鳥に歌を習わせたり、川の流れに詩を習わせたり、野辺に咲く花に身のつくり方をおしえてもらったりして今日まで大きくなりましたの。それでその鹿は『お前は必して私の生きて居る内人に会ってはならない若し会うと私が大変な目に合うから』といって外に出しませんでしたの。けれ共その鹿はもう三月前に死んでしまいましたの。それで私は一人でこうやって暮していますのよ」

 詩人はとどろく胸をおさえてその話をききほれて居ました。

小「マア何と云うおもしろい話だろう。だから貴女はきっと人ではないでしょう。だけれ共私はいつまでもここに居ましょう。ネ、お姉さま」

 お姉さまと小さく云って赤いかおをして女を見上げました。女の目は絶えず詩人のかおにそそがれて居ました。

女「有難う」と旅人の手をとってそっと口によせました。かすかに身をふるわせながら、そのやさしい肩を両手で抱きながら、

女「どうしてこんなに美くしいんだろう」と云いました。詩人にはきこえませんでしたけれ共。此の女は始めて若いそうしてしかも美くしい男に会ったんですもの、不思議なほど美くしいと思ったのも無理ではありません。

女「もう疲れていらっしゃるでしょう、早くやすみましょう。私がこもり歌をうたってあげましょう、私の美くしい人」とほほ笑みました。

 美くしい旅の詩人は不思議な美くしい女に助けられてこの家に住む事になりました。二人は青草のようなじゅうたんをかるく靴のさきで押えて寝室に入りました。マッシロに美くしいベッドのわきには桃色の絹のおおいのかかったランプがついて四方にはうす紫の帳がたれこめて居りました。美くしい女は旅人をその上にねせて、自分はその頭を手で巻きながらかたわらの椅子に腰をかけて小さい清いほんとうに小川のささやきのような声で子守うたをうたいます。旅人はその胸の方にかおを向けてしずかに夢の国に入ろうとして居ます。桃色のやわらかい色は二人を美くしく包んで暖い空気は春のようにかおって居ます。旅人は安心した様にすやすやとね入りました。女はソーとその手を引きながらもなおその目をはなしませんでした。そして小さい声で、

女「ほんとうに美くしい人、これで私の心がわかるかしら」あこがれるような眼をしてそのかるくむすんだ、やわらかい唇にいかにも乙女らしくキッスしてそして見かえりがちに出て行きました。二人の夢はまどらかにむすばれて森のこま鳥の声と一所に夜があけました。かるい朝食をすまして二人は森に行きました。雪はすっかりやんで美くしい朝日にそれはそれは何とも云われないほど立派にかがやいて居ます。二人はその上をかるく歩みながらよっぽどあるきました。段々雪がまばらになってもうすっかり雪のない所に来ました。二人は青い草の中に足をのばしてこまどりの声をききながら歌をうたうような軽いしめやかな調子で話す女の物語をききました。その物語は、女の小さい時に森の中のくるみのすきなリスからきいたのだそうです。可愛い小さいお話でした。女は詩人の頸を白い手でしっかり巻いてしずかに波うつ胸によせながら何事か頬を赤めながら旅人のかおを見つめて居ます。向うの山の手の一粒に見える所に日が落ちて詩人の黄金の毛は美くしくかがやき女の小指のさきは美くしくすき通って居ます。

女「もうかえりましょう。日も落ちましたワ」と空を見あげてうっとりとした声で云います。

詩「ほんとうにネお姉さま、貴女のかげと私の影がまっくろになって頭の方は一所になっていますワ。私の心は今、何とも云われない美くしい思いがしています。どうぞも少しこうやっておいて下さいネ」

女「エエ、エエ、いくらでも。美くしい詩を私にきかせて下さい」と女はその美くしい想をやぶるまいとするようにそっとその手をにぎったまま、向うの山の上の方に目をやって、小さい口を少し開いて居る横顔を尊いマーブルの像でも見るような目をしてみています。旅人の口はかるく開いて夕づゝを讚美のうたはまっかなハートからほとばしり出るようにうたわれました。情のたかまった若い十六にみたない詩人は此の世の人とも思われない女の胸によったまま手で胸を押えて目は上を見ながら美くしい美くしい声でうたって居ます。大きな目には一杯涙をためて頬は紅さしています。女は細い可愛いペンで薄色の紙に書きつけて行きます。はるかに羊の群をよび集める笛の音がかすかにひびいて来ます。少年のうたはいつか休みました。女の手の働もいつかおさまりました。二人は一つのかたまりになったまま身じろぎもしませんでした。詩人の目からは美くしいつゆが流れています。手は胸をおさえたまま。女は

女「どうなさったの、私の美くしい人。お家が恋しくなったの」

少「イイエそうじゃアないの。私はいつでも夕方になると悲しくなるんですの。ローズと山に行って居てもきっと涙がこぼれるんですの。そう云う時ローズはだまって涙をこぼさせておいてから、あとで私の頭を胸によせて『私の可愛い人もうおなきなさるな』と云って自分の頬で私の顔の涙をぬぐって呉れます。そう云う時私はいつでも又一しきり胸にあたまをおしつけたまま泣くんです。時々ローズも一所に泣いて呉れます。自分もなぜだか分らずローズもなぜだか分らないんですの」胸の手はほどけて下に落ちました。

 女はだまったまま詩人の手を取って、

女「さあもうすっかり日も落ちました。かえりましょう」と云いました。詩人はだまって立ち上りました。二つの影は森の中に消えました。その夜のゆめもまどらかでした。けれども女は一度寝てから又起き上って長く長くのばした髪を指さきでいじりながらこんなことを云って又ねました。

女「いくらローズが何と云ってもだめだ。私は彼の美くしい若い詩人を愛しているんだもの。どんな事があってもだめだ、私はほんとうに」

 翌日もその翌日も又その次の日も自分が前からのぞんでいたような美くしい日の暮し方をしました。一日に三つも四つも詩をうたいました。そのうちのどれもみな今までにないような美くしいのばかりでした。そこで二月くらしました。毎日、いろいろなめずらしい美くしい所許り見て、今日で二月になると云う日の夕今日も二人は森の中に居ました。夕日は美うあたりにかがやいて居た時でした。白い衣にマッカのルビーのブローチをして、水色のバンドをしめた女は若い詩人の頬に頬をよせて小さいふるえた声でささやくように云いました。

女「美くしい私の心の人、貴方は□□と云う事を知っておいで」年若い人の頬にはほんのりと血がさしていつもより一しお美くしい声で云いました。

詩「私は知りません、けれ共ローズもそう云っていましたし又外の人の云うのもきいたことがあります『人の心の一番美くしく慾も誉も仇も争もなくなった時は恋した時の心だ』と云ったのを、私も物語で知っています、ほんとうに美くしそうなものです。けれども私は只心で思っている丈ですもの」と云いました。ほんとうに美くしい事をはなすにはふさわしく、美くしい声音で。

女「エエ、エエ、ほんとうに美くしい事ですワ、世の中にこれほど美くしいものは有りませんでしょう。ここにネ若し、或る一人の女が居るんです。その女がね、自分より年下のそれはそれは此の上もない美くしい人をもうたまらないほどに思っていたんですの。けれ共その人はあんまり若すぎました。それだもんでいくらどうしても女の心はわかりませんでした。それで女は死んでしまうほど悶えていたと云う話があるんですの。貴方はどうお思いになるの」少し頭をかかげて熱心に云いました。詩人は一寸困ったと云うような顔をしましたけれ共想像力の強い頭にはすぐうかんだ事がありました。

詩「可愛そうです事。私が若し女だったら、ネ、キットそうするでしょう。あこがれのあるやさしい心を持ったまま自分のすきな海か沼に入って死んでしまいましょう、その前にその男に会ってキッスしてもらってから。私ならキットそうするでしょう」と自分の身の上のように云いました。

女「それではネ、若しあなたをそれほどまでに思って居る人がすぐそばに居たら?」

詩「わかりませんワ。ほんとうに居るか居ないか知れないんですもの。あったと云って私はわからないんですもの」と、前ににげないそっけない事を云いました。女は情ない、たよりなげな顔をして両手を胸に交叉して云いました。

女「そんな御心、ソウ」と云ったきり何も云いませんでした。けれ共いつものようにうたをうたって胸によったまま詩をうたってかえりました。詩人は別に気にもとめませんけれ共女の顔には此の上もない愁の色がみなぎっています。片手を少年のうでによせてうつむき勝にかえっていつもの時間に「さようならよい夢を」と云って別れました。

 詩人はすぐ床に入るが早いか夢に入りましたけれ共女は中々ねられませんでした。桃色のランプの影で細い頭をかかえてたえ入るような声で云いました。

女「アアやっぱり思った通りだった。どうしよう。けれ共しかたがないでしょう。まだ年がネ。アアさっきの言葉、美くしい思いを抱いたまま死ぬでしょうって。アそうだ、私はこんな胸を抱いて居るにはあんまり若すぎる。彼の人が行ってしまったらキット私はどうしても彼の人の心に入らなければアア」と云って白いクッションに頭を埋めたまま淋しい深い森の中にまよっている夢に入りました。翌日も翌日も女は年の若い詩人の耳に謎のような事をささやいていました。十日たってからの朝小い旅人は女に云いました。

詩「お姉様私の頭には詩が一っぱいになりました。だから家にかえってほんとうに書きたいんですけれど」すまないようなかおをしながら。

女「もうおかえんなさるの。ではお帰りなさいませ。そして一生懸命にお書きなさい。私はそばに始終居て守っていましょう。けれ共どうぞ森の中に一人で住んで居る鹿にそだてられた女の事をわすれずにちょうだい。どうぞね、きっと。そのしるしに」と云ってまっかなルビーを一つ美くしい人の手の上にのせました。そしてそのまんま手を握りながら、しめやかなしぼるようなそれでも美くしい声で云いました。

女「貴方はとうとう私の心がわからないでかえっておしまいなさるのね──けれ共、いつか思い出して下さい。私の二人とない美くしい人。さようなら、さようなら貴方の道案内は小さい白犬がするでしょう。忘れて下さいますな、美くしいやさしい人」

詩「さようならさようなら」と帽子を振りながら門を出ました。女のかおはいつまでもいつまでもみどりの木立の間に見えていました。

 旅人は小さい白い小犬に誘われていつにもなく足早にそしてつかれずに歩きました。森を三つ許り越えた時目の前にもう村の入口が見えました。白い小犬の姿は見えませんでした。詩人はそこの立石のわきに腰をおろして汗をぬぐいながらいつの間にか、初夏の装をした村の様子を見まわしました。女達の着物はみんな薄色になって川辺には小供達がボートをうかべています。いつも行く森はまっくろいほどにしげってその中に美の女神の居る様な沼の事や丈高く自分の丈より高く生えている百合の事などを詩の人の頭にうかばせました。若い旅の詩人は大きい目をくるくる働らかせながら云いました。

詩「ああ、とうとう村に来た。もうすぐ私の家だ。私はもう彼の不思議な女と四月もくらして居たのだ。そして私はその間に不思議な所も見不思議な話もきいた。私は此れからそれを書かなくては。そろそろ私は早くかえらなくては。あの時ローズは私の手をにぎって涙を流しながらもほほえんで『私はネ貴方と遊べなくなるのがそれは悲しいのだけれども貴方のためだから泣きますまい。私は貴方のかえるまで誰とも遊びますまい。私のまって居るのを忘れてはいやよ』って云って私を送ってくれた。ほんとうにさぞまっていたんだろう。そうだ私は」と嬉しさのこもった声で云って前よりも一層早足で歩き出しました。やがて向うに六角の家が見えました。あれこそ若い旅の人の家とローズの住居なんですの。

詩「見えた見えた」

と呼んだ人はもうたまらないと云ったように走り出しました。六角の家の南がわの家の一番すみの窓に向って笑をまじえた美くしい声をはりあげて、

詩「ローズローズ、今かえったの」嬉しさに声はふるえています、やがて階を下りて来るかるい足音がきこえ出しました。重々しい扉はかるく開かれて闇の中にういたように白い美くしいかおがあらわれました。旅人は両手を胸に組んでそのかおを見つめました。美くしいかおは「アラ」とはじかれたように旅人のそばによりました。桃色の着物に白い靴の乙女と、水色の着物に白いリボンをむすんだ赤皮の靴をはいたしなやかな生え初めたわらびの様な二つの体は重いとびらの前にういたように見えて、そよ風は乙女の黄金色の髪と詩人の白いリボンとをゆらしてどこかに消えて行きます。足許に無雑作になげ出された真赤な毛糸は二人の足許にからみついてフワリフワリ何か謎をささやいている様にしています。嬉しさに何も忘れたとは云いながら三つ上のローズは、

ロ「貴方もうお母さんの所に行ったの」とききました。

 気がついた詩人はすまない様な声で、

詩「まだ行かないの」

ロ「行っていらっしゃい。貴方のお母さんはどんなにまっていらっしったでしょう。夕方になると貴方の行った森の方を望めて『まだかえらない』と云っていらっしゃったのよ。そして又来てちょうだい」くびに巻いていた手をほごしました。

詩「エエ、行って来ましょう。あしたから私は書かなくてはならないの、そして不思議なお話を貴女にきかせなくてはならないんですもの。ローズ、またあとで」

 美くしい人のかげはとなりの門の中に入りました。詩人は内に入るとすぐ、

詩「お母さん、会いたかったのに」と云ってかけ入りました。詩人のまだ若い母はまどのそばでぬいとりをしていました。その声をきいてはじかれたように立ち上って、

母「マア、よくかえってお呉れだった事」

 こう云った時にもう詩人の胸は母の胸によっていました。白い巾はみどりの波の上にういたようになって花びんのローズは美くしい子の帰ったのをよろこぶ様にかるくゆれています。その声をききつけてすずしい部屋でうとうとしていたお婆さんも、かるいかおをして入って来て、

婆「よくかえってナ」と云ってかれたような手で頭をなぜて白いなめらかな額にキッスして呉れました。にわかに家の中は色めき渡って急に夕飯のおこんだてをかえた母は白いエプロンのメイドと一所に心地よく働いています。

 美くしい詩人は旅のつかれにやわらかいソファーにやわらかい光をあびて夢を見て居ります。白い頭巾のお婆さんは自分の孫の此の上なく美くしい寝がおを見守っています。詩人が目をさましました時夕飯の頃にもうなって居て自分はいつの間にか雪の様に白いベッドの中にうつされて枕元には着かえるべきサッパリした着物も出て居ました。詩人は大きく目を開いて天井の一隅を見つめました。何故か大きい力のある目はうるんで居ます。美くしい詩人は彼の森の女が泣きたおれて正体もない様子を夢見たんでした。それは只夢でしたけれ共、若い心をもった詩人の心からは涙が出るんでした。けれども起きなおってその着物を着て髪をかきつけて出て行きました。夕飯はたのしくすみました。詩人は母が好物だというのでわざわざとってくれたローズの目の様な美くしいブドーを吸いながら、雪の日に旅立って門を出た時の事から今日門をくぐる時までの所を丁寧に話しました。母親も祖母も不思議な物語の様な話に耳をそば立てました。朗な声の調子は丁度奇麗な物語をよんでいる様に様々の事を話して行きます。やがて話はおわってお婆さんは息を深くしていいました。

婆「貴方は幸なお子じゃ、きっと偉い詩人におなりじゃろう」

母「ほんとうにおはげみなさい、幸の多い子ですこと」とよろこばしそうに云って又もう一つブドウをつまみました。詩人はだまって手をふきました。頬には紅がさしています。しばらく立って詩人は私は書かなくてはなりませんからと云って桃色の燈火の美くしい部屋に入って鵝ペンにインクをふくませました。目は上を見て手は生き物のようにみどりのラシャの上によこたわっています。そのやわらかい胸の中には何かうかびました。白い紙の上に一字、しなやかな美くしい字がそめられました。又一字、また一字、二枚の紙は美くしい文字にうずまり、また一枚も一枚も、テーブルの上には四枚の紙が黒い文様をつけて散りました。そうするとどこかで美くしい歌の声がきこえます。筆の行かなくなった詩人の耳はその方にかたむきました。乙女らしい細いやわらかいふるえる声はやみの中にしめってつたわって来ます。声はローズにちがいありません。少年は、二階にかけ上りました。一番はじのまどをあけて歌の調子に合せる様に、

詩「ローズ、ローズ、私よ」高く低く夢を見るような声で。

 歌の声はやんで白い姿がやみの中にうくように見えます。

詩「ローズ、なぜ歌をやめたの、私は今まで書いていたけれ共貴女のうたにさそわれてここまで来たのに」女のような声でうらむように云いました。

 詩人の頬は少しあつくなりました。白いかげは云いました。

ロ「私は貴方の声をしばらく聞きませんワ。どうぞ一つきかせてちょうだい。美くしい可愛い私の弟」ふるえている声です。空に月はありません。小ぬか星はキラキラまたたいて下の芝生に白い花は見上げるように咲いています。詩人はそれを見下してその目を上げて云いました。

詩「姉さま、私の姉さま、何かうたいましょう、そしたら姉さまも一つ」

 詩人はそのやさしい腕をむねにくんで赤い唇を開いてうたいました、それは即興の美くしいやさしい詩でした。それは、「私は今美くしいローズの香をあびて身をふるわして居る。けれ共、意志の悪い夜のとばりは黒いまくでおおってしまってどうしても私に姿を見させて呉れない。にくい夜の闇よ、意志悪な夜の神よ」と云う意味のものでした。まるでやさしいこんな夜によく似合った美くしい詩でした。詩人が両手をほどいた時に白い影から美くしい声が起りました。それは詩人がいつかローズと一所に野に行った時に即興にうたった歓迎の詩をたくみないかにもよろこばしそうにうたいました。若々しい声は夜の空気の中に美くしい脈をうちました。詩人はよろこびにみちた声で、

詩「有難う有難う、お姉さま。私の家に来てちょうだいナ」

ロ「有難う。だけれ共もうおそいでしょう。あしたあがりましょう。私の美くしい弟、もうおやすみなさい、またあした。そこにいつまでも居るとどくですもの」と云いました。詩人はつまらなさそうな声で云いました。

詩「エエ」

 両方共に声はありません。青い星がスーイと尾を引いて飛びました。闇の中にかすかな声で、

詩「ローズ」

と云う声が起りました。向うの白いかげもかすかな美くしい声で、

ロ「私の美くしい弟、早くお入りなさい、寒くなりますよ。いくら夏だと云っても、もう入りましょう。又あした。私は今夜ねむれますまい。キットあした又、あの山に行きましょう。さようなら私の弟、おやすみなさい」と云って白い影は動きました。

 詩人も、

詩「それじゃアもう入りましょう、さようなら、お姉さま」

 二つの影は内に入りました。詩人は又元の部屋で筆を運ばせました。筆がにぶるといつもやわらかい手が自分の手を持ちそえるような気持がして早く、かるく、美くしく筆が動くんでした。手燭をもって母が入って来ました。

母「貴方まだ書くんですか、つかれて居るんでしょう、もうおやすみなさい、私ももうねますからネ、またあしたの朝でもお書きなさい」と云って後に立ちました。

 詩人は、

詩「エエもうよしましょう。けれ共、いまやめると忘れてしまいますものもう一寸だけ」

 ねがうような目で見上げました。

母「それじゃあお書きなさい」と云って手燭の火を消して美くしい思を一寸でもこわさない様にと云うようにつまさきで歩いて白い手で達者に走らすペンのさきを見ています。細い鵝ペンの先からは美くしい貴いこれまで母の見た事のない美くしい程立派な詩が生れて来ます。母の目はよろこびと驚とにかがやきました。紙は十枚を出ました。

母「もう休んでもよいでしょう、あしたになさい」

 手しょくの火は焔のまわりだけ丸くかがやいています。母はもうゆるいナイトコートを着て房々した毛もとかれて居ます。詩人はおとなしくたち上って紙をかさねてその上にインクスタンドを置いて、

詩「お母さん、どうもおまち遠さま。我まま云ってすみませんでした」

 美くしい詩を作る人は親にもやさしゅうございました。

母「いいえようござんすとも。立派な物さえ出来るなら私なんかいつまでおきていても」

 かるく答えて先に立ちました。若い子の夢はつぶらでした。朝まで白いベッドの中で、頬を赤くして唇をかるく開いたままで、朝起た時はもう日がスッかり出て居ました。隣のローズは薄色の着物を着てまどのそばに出て黄金色の大きな波うった毛を梳いて居ました。詩人は白いブカブカの寝着をきたまんまトントンと母の居間の戸をたたきました。母はうれしそうに笑みながら椅子から身を起して、云いました。

 「お早う、よくねられましたか、着物をきかえて御飯をたべたら、ローズの所へ行って行らっしゃい。朝早く来て、よんでましたよ」

詩「そう、お母さま、どの着物着たらいいでしょう。私の体は少しは育ったでしょう。御飯はここでたべましょう」

母「着物、そうネ、それじゃア、今出しましょう、顔を洗ってネ」

 嬉しそうにして出て行きました。詩人はほほ笑みながら、今日は何をして何をしてと上の方を見ながら思って居ました。母は水色のかるそうなそして白いかおに似合う着物をもって来ました。詩人はそれを着て御飯を飯べて、庭づたいにローズの居る窓の下に行きました。ローズの部屋の窓は低くて花園は前にあり、窓の中にはローズが一番窓に近いイスによって一心に何かよんで居ました。詩人は、ソーと窓から頭を出して見るとローズは一寸も気がつかない様子、ソーと身をうかせて手をのばして、そしてその柔な、うるおいのある頬を一寸小指のさきで突きました。そして又すばやく体をかくしてダリヤの色の中に身をうずめました。

ロ「オヤ、誰」若々しい声が窓の外にもれました。そしてその力のあるさとい目は赤い色の中にうずくまる小さいそして形のいい水色の体を見出しました。

ロ「お早う、そんなにして居て貴女のその美くしい水色の着物がそのいやな色の花の汁にそんでしまうと大変よ、早く出て来て私が今朝貴方のために二度もあるいたお礼をしてちょうだい」

詩「バア、お早う、夕べは失礼、おかげでいい夢を見ましの」

 若い美くしい人は朝日に小指の先をすかせながらまぶしそうに手をかざして云いました。戸口は開かれて、まだゆるい着物を着て、桃色のリボンの帯を裾に引くまでして片手に青い表紙の小形の本をもって顔だけ出しました。細い形の体はスーと吸い込まれた様にかくれました。まもなくそのまどの中に美くしい笑声がもれました。一時間がたちました。また美くしい細い形は戸口にあらわれて、

ロ「キットネ」と云う声に送られて自分の家の戸口に立ちました。

 二人は夕方から又向の山に行って歌をうたいましょうって約束したんです。それから夕方近くになるまで一人部屋で書いて居ました。時々窓をあけて新らしいすずしい空気を吸い込んで青い山や、紫の雲の影を見ながら又新らしくけずった鵝ペンに墨をふくめて書き綴けました。白い紙はみどり色のテーブルクロースをかけた、丈の高いいい形の矩形の上に雪の降った様にたまりました。それをかたはしからとじてよみかえしてそしてほほ笑みました。わりに早く夕方になりました。まだ日はすっかり落ちきれません、窓のわきのユーカリの葉がまっくろい化物の様な影を机の上に落して居ます。

詩「アア、おそくなると悪い、すぐ行こう、サゾ待って居らっしゃるだろう」と云ってそのまま庭つづきに出て行きました。手には白いかみとそして鉛筆をもって、

詩「ローズー、ローズ、まってたでしょう、行きましょう」窓の下で心地のいい声を上げました。

ロ「まってたの、早く行きましょう」机の上から何か小さい白い紙を取り上げました。二人のつり合った形のいい影は細い道をつたって森の中にかくれました。二人はなお遠く遠く歩きました。段々森のしげみが深くなって白百合の香が深くなって来ました。急に目の前に大きな水の緑の湖が開かれて向うの山はボーとかすんで居ます。二人はその岸の柔い草の上に坐を占めてしずかな世ばなれのした所で夢の中に居る様な柔いそして又たのしみの多い気持になって居ます。ローズは口を開いて、

ロ「アノ雪のひどく降る日貴方を出してから私は美くしい花びらを流の早い川に流した時の様な心地がして一日あの森の見える窓に立ちつくして居ましたの。心配でしたワほんとうに」と今更その時の様子を思い出す様な目をしました。年少い詩人もその時のたよりなかった時の心地から今日内にかえる時まで一寸の落もなく丁寧に話しました。まだ若くて珍らしいものをこのむローズの心には自分がいつか読んだ事のある物語がほんとうにあらわれて来た様な心地でききほれました。そして二人とも不事なそしておたがいにいくらかそだった体を見る事の出来たのを、「ほんとうに有難う神様」とくりかえしてよろこび合いました。不事にかえる筈ですわ、詩人は若くて美くしくてそして才があって家には沢山まちあぐんで居る人があったんですもの。日はもうすっかり暮れてくろくなった山のきわが月の出る時の何とも云えない美くしい神々しい色になって遠くに見えたし、もの置いた様な羊ももういつのまにか影をかくしてしまいました。細くしなやかな銀笛は赤い詩人の唇によせられました、白いペンをもつよりほかにしらないきゃしゃな十の指はその夕やみの中に動いて小さい金具の歌々からはゆるいなつかしい夕暮の空にふさわしい音がふるえながらわき出しました。吹き出した夕暮の風はローズの金黄色の毛と笛を吹きすます詩人の髪とを美くしくもつらして居ます。笛の音は遠く遠く、羊を追う牧童の胸をまでそそるようにどっしりとして夕暮の闇をはいて居る木の間をくぐって遠く遠く、そのすぐわきに足をのばして白い靴のさきを見つめながら笛に気をとられて居たローズの目は段々に上を見つめて又その目は下に落ちて段々色々な色に変って行く湖の上に目を落しました。詩人は目をねむって短くてそしてほそい銀の笛にたましいをとられたようになって吹いて居ます。折まわした曲の末は遠く向うの山のかげに吸い込まれて笛の音は休みました。

ロ「ありがとう」

 夢からさめた人のようにほほ笑みをうかべながら云いました。白い紙はひるがえされて白い歯の間からは美くしいそして娘らしい声がころび出ました。その文句はみな年若な人の鵝ペンのさきになったもんでした。始めの声はゆるやかにそしてひくく、次第に月の光の銀色になるにつれて歌声もだんだんたかくそうしてすんで行きます。詩人はその形のいい頭を女の白いやわらかい胸によせて目をねむってその歌をききとれました、ほんとうに美くしい声です。胸のかるい鼓動の音は詩人の心の底までひびいて行く様にうっています。女の手は白い紙からはなれてその若い人の美くしい頸を巻きました。やがてうたの調子はかわって夢をさそう様な美くしいやさしい子守うたになりました。詩人は目をねむったまま深い夢に誘われてしまいました。月は高くのぼりました。女の顔と三つ下の人のかおとを美くしく気高くてらして絵にもかかれない様な美くしさ、女の歌はやんで手は前よりも一層強くくびを巻きました。女の瞳はおののいた様にそしていい勢にかがやいてこの美くしい人をどうかするものがあったならどうして呉れようと云う様に水の上から山の方まで見わたしました。湖の上には白金の波がくだけて美くしい音楽を奏でて居ます。夜風が身にしみてふっと詩人は目をさましました、そして物おじをした様に女の胸にすがりつきました。そしてまだすっかり夢のさめない様な目ざしで神様の様な女の顔を見上げました。自分の身のまわりに百人の武士が守って居るより心づよい気がして。

 二人はそのまんまいつまでも居たい気がしました。けれどもつめたい夜の空気は薄著な二人の体につめたくあたります。三つ上の女は自分の大切な人に風を引かせてはと思ってやさしい声で云いました。

女「もうかえりましょう。寒くなりましたもん、家でもまってるでしょう、ネまた明日来ればいいでしょうネ、サア、もうお月さまもあんなに高くなったんですもの」

 二人は月のさす小道を銀を引きのべた様な湖を後に家に向いました。森を出ると家々の灯はもうすっかりともされていかにも夏の夜らしい景色、二人は足をはやめてはじから三番目の灯の方に向いました。二人は戸口で、

「さようなら、よいゆめを、又あしたネ」

と云い合って別れました。お母さんとお祖母さんはかえりのおそいのに、少しいやな気持をしていましたけれど戸口にあらわれた快活な美くしいかおを見ては、

「マア、おかえり、少しおそすぎましたネ。おなかがすいたでしょう、早く召上れ、お茶もあついから」とよりほか云われませんでした。

 お飯をたべて又自分の部屋に入って鵝ペンに墨をふくませました。それから白い紙の上をペンが走ると耳のそばで彼の森の女の通りな声で文句をよみます。それを自分の頭でねって綴りました。二枚三枚は見るまで五枚六枚またたくひまに書かれてしまいました。けれ共それにあとで赤い字を一字も入れるすきはありませんでした。いつの間にか入って来た母親はその句の美くしさとその筆の動とに思をうばわれて居ました。そして思いました。

母「ほんとうにこの子は天才の子だ。私の望んで居た通り、否キット神様ののぞんで居らっしゃった通りの子なんだろう。マア、あの筆の動く様子。マアあの文の美くしさ。だれがあれが十六の子の文と思おうか。私はもうあの子がいつまで森に居ても体にさえさわらないなら叱る事はしますまい。あんな立派なものがずんずん出来るんだもの、ほんとうに」

 筆は益々かるく文は益々美くしく、白い手は段々早く走って少年の詩人の思は夜と一所にさえて行きます。しばらく立って見て居た母親も知らない間に来て知らない間に出て行きました。三時間立って時計が十二時をうった時又、母親はのぞきました。けれどもまだ灯の下で走るペンの音はやみませんでした。翌朝今日が向の山を出ると云う時に母親が詩人の部屋をのぞいた時は、机の上には白い紙にすきまなく文字のかかれたのが高くつんであって詩人はその間に安心したらしい顔つきでつよい朝日をよこがおにうけてかすかないびきをして居ました。母親はそうっと自分のもって居たやわらかい絹のショールをかけてつまさき立てて部屋を出ました。詩人が星の様な目を見開いた時にはもう台所から肉をむす湯気が立ちのぼって居る時でした。自分の体にかけられたショールを見それから昨夜の事から今までの事までを古い時によんで物語を人の話で思い出す時の様な気持で思い出しました。

「私はローズと森から帰って来て、御飯をたべてここに来て、紙をのべてそれから一行書き出した時、耳のそばで森の女の通りな声で一寸つまると美くしい文句を教えてくれる、それを書きとって行くと後から人声がする。誰かと思って見るとあの時の通りのなりをした森の女が立ってジーと見て居た、だまって私のわきに来て手をとって筆をはこばす夢の様な柔い気持になってされるままになって居ると美くしい文は泉の様にとばしり出て白い紙には美くしくインクの模様が書かれる。そしてその森の女は手を置いて自分の耳のはたで、

『私の小さい美くしい人、まだ私をお覚え。今夜っきり、おお今夜っきりもうあいますまい、けれどもいつか、キットいつか、そうださようならおたっしゃで』

と美くしいすごみのある声で云って見えなくなってしまった、それからのことは自分の一寸も知らない、そしてそれから私は今までねつづけてしまったのだ。不思議な森の女、彼の女は森で別れる時に何と云っただろう。

『私の小さい美くしい人、この森の中の一人ぽっちな女をいつまでも忘れないで居てちょうだい』と云ったっけ。

 不思議だ、私は何だか気味がわるくなった。早くあっちに行って母っかさんに会ってローズにも会おう」

 美くしい小さな詩人は冷たい風に吹かれる様な様子で部屋を出ました、そして急いでお昼をすましてすまない様な恐ろしい様な心地を抱いて又裏の花園からローズをたずねました。ローズはうしろむきに何かして居ました。けれども嬉しそうにその美くしい裾をヒラヒラさして出て抱える様にして部屋に入れました。一時間二時間若い詩人と美くしい三つ年上の女とは夢の様に淡いそして強い香を持った霧に立ち込められた様な柔いそして又つかれた気分で四時間位は夢の様にすぎてしまいました。左様ならをして家にかえったあとにローズが小さいやわらかくふるえた声で詩人の美くしい髪をなでながら、

ロ「貴方が十五で私が十八、三つ上」

と云ったのと深い心がありそうな目つきで見つめて居たローズの目の様子はどうしても忘られませんでした。その夜は詩人は外にも出ず書きもせず黒ずくめの着物を着た母のわきで祖母を対手にかるい調子で世間話をするのをききながら時々はりのある声で笑ったり時々母の話にあやをつけたりして床に入ってしまいました。翌朝まだ日の出ない内に詩人の部屋からは燈の光がもれてそしてペンの紙をする音が寝しずまった空気をふるわして居ました。朝母がもう起きたのと云う声をかけた時にはもう机の上には墨の模様のついた紙が沢山散って居ました。

 それから一週間ほど食事の時毎にかおを合せるきりローズにも誰にもかおを見せないで一生懸命に書いて居ました。たった七日の間でした。時間にしたって百六十八時間の間でしたけれどもローズにはどんなにつらいそして長い時だったでしょう。旅に出て居た時にはいくら思っても帰ってくるまではと思っていましたけれどとなりどうししかも声をかけたらきこえる所に居ながら一日も合わずに七日もすごす、ずいぶんつらかったんですけれども、

ロ「私の大切な人は今大変立派な物を書いて居るのだ。あの人の名誉は私の名誉、又この土地の名誉、我まんしましょう」

 強い勇ましい心をもって我まんしていました。八日目の夕方久振、ほんとうに久ぶりにローズの部屋に可愛い形をした詩人の姿が現れました。戸口を入るといきなり、

詩「ローズローズ、見て下さい、とうとう出来ましたよ。私はまア、どんなにうれしいでしょう。私は貴女に見てもらってから町に行って本にする様にたのんで来ましょう。馬でネ、二人で行きましょう」

 はずんだ声で云ってさし出した手にはあついあつい、書いたものがのって居ました。

 ローズは「もうたまらない」と云う様なそわそわしてそして又いつもより一層娘らしい形をして立ったままそれをよみました。そして紙の上を走って居る目は驚とよろこびと一所になってそれはそれは美くしい光がさして居ます。書いたものは厚い厚いものです。中々一日によみきれそうにもありませんでした。所々、紙を重ねてめくって終まで来た時、

ロ「マア、なんと云う立派な詩でしょう、早くお出しなさい、私すぐ馬の用意をして服を着かえますよネ」

 うれしくてたまらないと云った様な様子をしてローズの姿が戸口から消えてから十分立つとかるい色のいい形の乗馬服を着たローズの姿がまた戸口から出ました。

 五分たってから真白な馬は二匹頭をそろえてみどりの森の間をくぐって燈の光の多い町に急ぎました。三十分立った時二匹の馬は町のにぎやかな所の本屋に立って居ました。詩人は柔い雅号で出版の手つづきをすませて又二匹の馬は村に向いました。詩人の母や祖母はふるえる様によろこんでこの美くしくて幸多い人の行末をどうぞまっすぐに行く様にと夕のおいのりはいつもより倍も倍も久く時をかけました。その翌日もその翌日も楽しく嬉しく望多い日が経ました。一週間たって若い力のある人々のあつまって居る文壇に一つの可愛い姿をした詩集が顔を出しました。何か変ったものがほしい、何かめずらしいものがほしいと思って居た人々はそのめずらしいお客様を早速手にしました。人々はそのめずらしい旅の様子に驚かされその美くしくてやさしい歌言葉に驚かされました。本の評判は見る見るあがって日々の新聞にはいろいろの人がいろいろな目をもって評して居ました。けれどもどれ一つとしてそのものを悪く云ったものは一つもありませんでした。その筆の達者な美くしい詩を書く人はどんな世なれた人かと思ってその住居を訪ねた人は母にたすけられて出て来た美くしい女の様な目の大きな少年がその作者ときいて驚はますます深められました。世間の人々は美くしい人をなお美くしく云いひろげて世の中からは詩の神様が人の世に姿をあらわしたかの様に尊びました。家の中、村の中はこの一人の少年のために嬉しさがみちみちてあの様な立派な詩人をもって居る村、あの様なえらい人を産んだお母さんと云いそやされました。ローズは自分よりもよろこんで朝夕人の噂にはほほ笑んで居ました。三日たち四日たち十日位は夢の様に立ちました。十日立っての日ローズの部屋を訪れた詩人のかおは今までになく青ざめて目はうるんで何とも云わない内にローズの胸にすがって大きい目から涙を流して居ます。ローズは何でも動きやすい若い詩人の心をよく知って居ました。しずかにその頭を抱いてしずかなやさしい声で云いました。

ロ「どうしたの、どうして悲しいの。お母さんにしかられて。それとも美くしい小鳥か、貴方の知ってる人が死んだの」

 詩人はだまって頭を左右にふって目をふせて居ます。ローズは、花の落ちるのにも小鳥のつめたくなったのにも涙を落す、詩人の心をさっしてするままにまかせて居ます。けれどもその胸と目にはやさしみと暖さがみちて居ました。しばらく立って白い歯の間から細いふるえた声で、

詩「ローズローズ、あなた外姉さまはないんモンネ」

 あとは何とも云わないで大きい目を見はった美くしい人の口からもれる声をまって居ます。

ロ「そうでしょう、それともそうじゃあないの。何? どうしたの、云って頂戴」

 自分が待ちもうけて居た答よりあんまりあっけない答を聞いてがっかりした様に又目をつぶって胸に若い乙女の柔さ温さを包んだ胸に人の涙を誘うほど美くしい詩の書ける貴い頭をうずめました。しばらくの間そのまんま、「アラビヤン・ナイト」の手をさわるとすぐ動けなる石にさわった人の様に身じろぎもしないで美くしい絵の中の人の様にして居ました。少年の顔は段々紅さして涙にうるんで居た眼は新らしい望を一っぱいにためた様にかがやきました。かすかな美くしい声は云いました。

詩「ネエ、姉さま人間は一度は死ぬんですネ、私が年をとったらいやでもおうでも別れて死んで行くんでスネ。一変は死ぬものです、人間は、ネエ、そうでしょう、どうせ一度しななくてはならないんですもん」

 淡く紅さした頬は白い歯を出して淋しい笑をうかべました。その様子の美くしかった事。

ロ「私の可愛い人何故今日に限ってそんな事を云うの。何か貴方につらい事でも出来たの。どうぞ、貴方の一人しきゃあない私におしえて頂だい。まだ若い貴方がどうしてそんな事を考えたの。お忘れなさい。そして華な将来をお考えなさい。世界に有名な詩人、その人のそばに始終かげの様について居た私のその時の嬉しさ、ネ、考えて御らんなさい。私悲しくなって来る」

 教える様にさとす様に云いましたけど、ローズだってまだ娘なんですもん、美くしい小い詩人の頭の中に考えられて居る事がどうして世間知らずの生娘に分るもんですか。自分までたよりない様な悲しい気持になって目からは熱いものがにじみ出ました。考えるともなしに今までの事を思い出して居ました。フト森の女、白鹿に育てられた女、と云う事がスーと目の前を走りすぎた車の提灯の光の様に思い出されました。

ロ「アアあの森の女、キット常の世のものとはちがうにきまって居る、それにあの別れる時に何と云っただろう、『あなたはとうとう私の心を知らずにかえっておしまいになるのネ。いつか貴方が思い出す時がありましょう。私はどうしてもあなたの心に入らなくてならない』オオ、マア、何と云う気味悪い言葉だろう、キット、キット、あの森の女の蛇の様な心がこの美くしい詩人の心をいためて居たにちがいないんだ。おお恐ろしい、オオ気味の悪い」

 身ぶるいをしながらソット詩人をのぞきこむと安心したらしい安なかおをして暖い胸によってかすかないびきを立てて居ました。

ロ「マア、いつのまにか、キット夜ねられないで居るのだろう、可愛そうに、私は胸が折れてしまうほどつかれてもこの美くしい人の眼はあけさせますマイ」

 ふるえた小さい声で云ってしなやかな体をきつくだきしめました。話す相手もなく人形のような人を胸に抱いて居るローズは森の女の一度だき〆めたら死ぬまではなさないと云う様な目や、つめたい空気にみがかれた青白い細いかおを思い出しました。そして今自分の胸によって居る人の命がその目の見る度に段々、短くなって行く様な気がして、

ロ「イイエ何と云ったって駄目なんだから、ここに私が自分の命にかけても守って居るんだもの、どんな悪魔だって、エエエ、大丈夫だ、きっとどんなにでもして守らなくてはならない。大丈夫なんだから。だけれども何だか悲しい。ネ、私の可愛い人。どんな事があっても森の女の手から逃れなくてはいけなくてよ」

 家のまずしい娘が始て美くしい着物をもらって着る事を忘れた時の様な気持でローズは自分の胸によって居る人の自分の身に似つかない尊い人の様に思われました。日が段々西に落ちて窓のガラスは五色にかがやいて居ます、けれども詩人のねむりはまださめません。「一ツ星を見つけた、運がよくなれー」と半ズボンの小供が叫ぶ頃ようやく目をさました人は、今更の様に自分がよくねて居たのを驚く様に又自分がついウトウトとしはじめてから今までの間ずいぶん長い間、自分をビクともなせないで胸をかして呉れた人の心が段々心にしみて来てたまらない様な声で〔以下欠〕

底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年1225日初版

   1986(昭和61)年320日第5

初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年1225日初版

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2009年129日作成

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