お久美さんと其の周囲
宮本百合子



        一


 月に一二度は欠かさず寄こすお久美さんの手紙は、いつもいつも辛そうな悲しい事許り知らせて来るので蕙子は今度K村へ行ったら早速会って話もよく聞いて見なければと思って来は来たのだけれ共、其の人の世話になって居る家の主婦のお関を想うと行く足も渋って、待たれて居るのを知りながら一日一日と訪ねるのを延ばして居た。

 書斎にしてある一番奥の広い部屋の廊下に立って見ると、瑞々しい稲田や玉蜀黍等の畑地を越えた向うに杉の群木にかこまれたお久美さんの居る家が静かに望まれた。

 茶色っぽい蔵部屋の一部が、周囲の木の色とつり合って、七月始めの育ち切れない日光の下になつかしげにしっとりと見えて、朝霧の濃く立ちこめた朝早くなどは、そのじき傍を通って居る町への往還を行くおぼろげな人影や馬の嘶きなどのために小器用な背景となるその家は一しお心を引かれる様な姿であった。

 西洋洗濯をして居るので、朝から日の落ちるまで、時によると夜中白い洗濯物が高い所に張り渡された繩と一緒にヒラヒラと風に吹かれて居るのを見たりすると、五月蠅うるさい程沢山な髪を味も素っ気もない引きつめの束髪にして西洋人の寝間着の様に真白でブワブワしたものを着た胴を後まで廻る大前掛で押えたお久美さんが、肩までもまくり上げた丈夫らしい腕に一杯洗物を引っかけて手早く一つ一つ繩のより目に挾んでは止木を掛けて居る様子を思い浮べたりして居た。

 祖母の家に居るのだから出入に何にも億劫な事はないのだけれ共ついつい延び延びにして居て来てから七日目の晩大変好い月に気が軽くなった蕙子は、祖母を誘ってとうとう山田の家へ出かけて行った。

 庭からズーッと裏に廻った二人ははてしなく続いた畑地に出た。

 霧のしっとりした草深い小道の両側にはサヤサヤとささやかな葉ずれの絶えずする玉蜀黍がズーッと一列に並んで、薯や何かの低い地を被うて居る作物の上には銀粉を散らした様な細まやかな閃きが躍って居る上をフンワリとかぶせた様なおぼろげな靄が気付かない程に掛って居た。

 ゆるい勾配の畑をかなり行き抜けると小高くなった往還を越えた向うがもう山田の家で、高い杉並木が道一杯に真黒に重い陰を作って居る間から、チラチラと黄色い灯がのぞいて何かゴトゴトと云って居る人声が聞えて来た。

 高い中でも飛び抜けて太くて大きい二本杉が門の様になって居る所からだらだら坂を下りて右に折れるともう主屋で、何となしモヤモヤした空気と物の臭いが四辺に立ち迷って居た。

 今まで心の澄み透る様な中に居たのが急に蒸しっぽい芥々ごみごみした所に出て、気味の悪い息を胸一杯に吸って仕舞ったので、何かに酔いでもした様な気持になった蕙子は、眉をしかめて生唾を飲みながら暗い中に立ち止まって仕舞った。

 傍の三尺の入口からズーッと奥に続いて居る土間の陰気にしめっぽい臭いや乾いた穀物と青菜の入りまじった香りがすきまなくあたりをこめて、うす暗い電燈の光りがランプの火の様な色でどんよりとともって居る。

 蕙子は半年振りで見る山田の家の中を珍らしい様な気になりながらのぞいた。

 茶色になって虫の食った箪笥の上には小鏡台だの小箱だのがごたごたと乗って、淋しい音をたてて居る六角時計の下に摺鉢に入れた蚊いぶしの杉の青葉がフスフスとえむい煙を這わせて居る中に五つ六つの顔がポツリポツリと見えて居る。

 東北の人特有な鼻のつまった様な声が活気のない調子でやりとりされて居るのを見ると、寺の様に高い天井と黒く汚れた壁だの建具だのほか無い部屋の中がまるでお化けが出そうに陰気に感じられた。

 蕙子の目の前には割合に気持の好い自分の家の食堂だの書斎だのの色が一寸閃いて消えた。

 蕙子には掛り合わずにさっさと皆の中に入って行った祖母は急に蕙子を見失ったのを驚いた様に、

「おや、蕙子はどこへ行きましたろう。

と黒い中をすかし込むので出場を失った気味で居た蕙子はようよう次穂を得た様に出て行って、

「今晩は。

と御辞儀をした。

 祖母丈だと思って居たらしいお関は年に合わない肝高な浮々した声を出して、

「まあ何だろう、蕙子さんも居らしったんですか。

 そんな所に居らっしゃるんだもの、一寸も分りませんでしたよ。

 さ此方へいらっしゃい。

 ほんとにまあよく居らしったのね。

 いつ東京からお出でなすったんです。

と立てつづけに喋り出した。

 蕙子は薄笑いをしたまんま縁側に腰をかけて背を丸めて煙草を吸いつけている祖母の傍に座った。

「まあお蕙さん。

と押しつけた様な声で云ったきり動いて来ようともしないでじいっと此方を見て居るお久美さんは一番奥の方にいつものなりをして座って居た。

 髪を洗ったと見えて長くばあっと散らしていつもの白いダブダブを着た膝を崩して居るので二つのムクムクした膝頭やそれから上の所が薄い布の中ではっきり盛り上って居て、ゆるい胸の合わせ目から日焼けのした堅い胸がクッキリと出て居る様子は、まだ漸う十五六の小娘の様に無邪気らしくて、とても蕙子より二つも三つも年を重ねた人とは見えなかった。

 丸々した指を組み合わせて膝の間に落し、少しかがむ様にした上半身のこだわりのない様子、狭いけれ共、形のまとまった額つきが、髪の生え成りを大変器用にまとめて居る。

 半年振りで会うお久美さんの体の中には先にもまして熟れたリンゴの様な薫りが籠って居る様で、蕙子は胸が躍る様な気持になりながら麗々しい髪の一筋一筋から白い三日月の出て居る爪先までまじまじと眺め入っては折々目を見合わせて安らかな微笑みを交して居た。

 蕙子の顔を一目見た時お関の心の中には口に云い表わせない悩ましさが湧き上った。

 自分が受取ってかくして仕舞った二通の蕙子からの手紙の事も、又此れから二月もの間自分の意志を焼く様な事許りを二人でするのだろうと思ったりして、どことなくしんのある様な身のこなしを仕ながらお久美さんに許りは変らない上機嫌の顔を見せて居る蕙子が腹立たしくて腹立たしくてならなかった。

 まして、久々で東京から来たのに手土産一つ持って来ない事も気を悪くさせる種の一つになって居た。

 お関は年寄と話しながら絶えず二人の方を視て居た。蕙子が今年の正月頃用事で五日程来て居た頃にはまだ髪なんかも編み下げにして着物の着振りでも何でもが如何にも子供子供して居たのに、急に肩付がしなやかになって紫っぽい薄地の着物を優々しく着てうっすりお化粧をしてさえ居る今の蕙子を見ると、お関は堪えられない程のねたましさと憎みを感じて居た。

 妙に二つ分けにした髪が似合って居る事も気に入らなかった。

 お関は二人が口を利き出すのを待って居た。

 何か云い出したら此方に話を引っぱって困らせてやろうと云う明かに意識される程の毒々しい期待で、喉元まで声を出し掛けて居た。

 そして一方では蕙子に自分の心を知らさないために盛に年寄と喋った。

 張り切った心で半分覚えない様に小作人の噂をして居た時不意に蕙子は低い声で、

「お久美さん一寸。

と云い出した。

 それと同時にお関は風の様に蕙子の方を向いて、

「ああそう云えば、ね、お蕙さん。

 東京ではこの頃どんな浴衣が流行って居ましょうね。

と云うなり口元には、蕙子が気づいて不快を感じた程小気味の悪い満足の微笑がスーッと上った。

 チラリと目を見合わせて、

「ホラね、きっとそうだと思った。

と無言の中で云い合った二人は厭な顔をしてそっ方を向いて仕舞った。

 お関は尚憎体な笑をたたえて、

「ねえ蕙子さん、東京じゃあ今、

と執念く云うので、かくし切れない程気をいら立たせた蕙子はそれでも声だけは静かに云った。

「さあ、どんなんでしょう。

 皆各々自分のすきなのを着てるんだから一寸口じゃあ云えないでしょう。

 それにそんなに私は気をつけても居ません──

「そうですか。

 そいじゃあ何でしょう、貴女なんかハイカラさんなんだからどこからどこまで流行りずくめで居らっしゃるんでしょうねえ。

 そんな髪が流行るんですか。

 何て云う名なんでしょうね。

 珍らしい頭ですねえ。

「私みたいなおちびに似合う流行はどこにもないでしょう。

と戯談の様に云いは云っても、蕙子は腹立たしい気にならずには居られなかった。

「なあにそんな事あるもんですか。結構ですよ、女は、あんまり大きいと腰から下がしまりがなくっていやなものですよね。

 去年から見るとどれ位いいお嬢さんにおなんなすったか知れませんよねえお祖母様さぞお楽しみでしょうねえ。

 部屋の隅の方で帳面をつけて居た恭吉と云う洗濯男だの蠅入らずの前で何かごとごとして居た小女などは、田舎人の罪のない無作法と無遠慮でわざわざ頭をあげて蕙子の方を見て居た。

 お久美さんはだまって頭を下げて膝の所に浮いて居る白い布を集めたり手にのばしたりしながらお関に気兼をしいしい、折々蕙子の眼をのぞき込んでは気の毒そうな──自分も蕙子も──顔をして居た。

 蕙子はお久美さんと話したいと云う願望で胸がかたくなる様であったけれ共、仮りにも自分よりは一段下に居るべき者だと思って居る女の前で益々乗ぜられる様な素振りを現わす事はこらえる丈の余裕は有った。

 年の故で人の好くなって居る祖母は、たった一人の女の子の孫に与えられた賞め言葉ですっかり満足して仕舞って、子供の様な眼差しをしながら、他人から見れば立派でも美くしくもない孫の体を見上げ見下しして、

「ほんとにねえ、年と云うものは恐ろしいものですよ。去年来ました時には前の川で魚を取る事許りにこんをつくして居ましたっけが、此頃は一角大人なみに用を足してもくれましてね。

 けれども朝から晩まで机の前に座ったっ切りで居られるのは何より心配ですよ。

 第一躰のためによくありませんのさ。

 昔の労症労症って云ったのは皆座って居る者に限って掛ったものですからね。

と真面目らしく云うのを聞いて居た者は、皆笑って仕舞った。

 お久美さんは体を前後に振って永い間たまって居た心からの笑いが今あらいざらい飛び出しでも仕た様に涙をためて笑いこけた。

 静かに微笑みながらお久美さんを見守って居た蕙子は、鮮やかな赤い唇が開くびに堅そうに細かい歯ならびがはっきりと現われる単純で居て魅力のある運動に半ば心を奪われて居て、今自分が何を笑って居るのかと云う事さえもたしかではない様であった。

 一しきり笑いがしずまるとお関は又元の頑なな顔の表情に立ち返って、

「それにしてもまあ女の子の育つのを見て居る位不思議なものはありませんですよ、

 まるで何て云って好いか丁度日あたりの好い所に生えた芽生えの様なもんですね。

 一日一日とお奇麗におなんなさる。

 好いお嫁さんにおなんなさいますよ。

 私見たいに老耄おいぼれちゃもうお仕舞いですよ、ほんとうに、皺苦茶苦茶で人間だか猿だか分りゃあしない。と云い云い二人の娘を見た眼には明かに憤怒の色が漂って居た。

 蕙子は少し驚ろかされて此の四十五の恐ろしく嫉妬深い女の顔を眺めた。

 妙に厚ぼったく太い髪と顔下半分の獣的な表情は、そのゼイゼイした声と一緒にお関を余程下等な感じの悪い女にさせて居た。

 歯からズーッと齦まではかなり急な角度で出っ歯になって居て、その突出た歯を被うには到底足りないで一生僅か許りの隙間を作って居なければならない唇は、まるで大夜具の袖口の様で荒れて白く乾いた皮は石灰を振りかけた様にパサパサになって居た。

 男の様に育った喉仏はかすれた太い声の出る理由を説明はして居るものの不愉快な聞手の気持を和げる役には立たない。

 美くしいと云うまででなくても賢しこそうなと云う顔を好む蕙子はお関の顔を見るとどうしても哀れな模倣で一生を送る猿と違いはない様な感じを押える事は出来なかった。

「何の何のお関さん。

 四十代は男も女も働き盛りですよ。

 生れついた片輪の事を考えれば、人並みに生れついたのを有難いと思わなけりゃあなりませんよ。

 年をとれば皺の出来るのは、勿体ないがどんな立派な宮様だって同じですわね。

と云った祖母の言葉にお関は幾分か力を得て、又目前にもう七十を越した自分よりもっともっと皺だらけの美くしさも何にもない年寄が居るのをはっきり知って、

「ほんとうにそうですねえ。

 そう云って見りゃあ毎朝お天道様のお出なさるも有難い事ですねえ。

と云いながら、杏の砂糖漬けだの青梅から作った梅酒などを蕙子達にすすめた。

 お久美さんは蕙子の話し掛けるのを待ち兼ねて居る様にしてじいっと座って居た。

 蕙子も亦たった一度でもお久美さんに話す時を得たさに居たくもない所に座って、仕たくもない──平常なら此方から頭を下げても仕たく様な下らない馬鹿話しをからくり人形の様に、無神経な木偶の様にぐずぐずと喋って居なければならなかった。

 よく蕙子の気を見て居るお関は蕙子が口を切る様に少しの暇を与えては、漸うさぐり得た二人の話の緒をヒョイとわきから引っ浚っては楽しんで居る。

 蕙子は素直にお関の玩具になっては居られなかった。どうしたってお関は今夜話させまいと掛って居るのだと思うと半分むしゃくしゃになってつとめて面白そうに高声で東京の事だの親類の子供達の噂だのをした。

 話の最中に何を思ったかいきなりお関が、

「ああそうそうお久美、

 お前一寸洗場へ行ってね、さっき取りこんだシャツに鏝を掛けて来てお呉れ。

 恭は一寸出て行って居ないから。

と云いつけた。

 お久美さんは悲しそうな顔をして、それでも半句の不平も云い得ずにコトコトと暗い土間から外へ出て行って仕舞った。

 うつ向いた眉のあたりには苦痛を堪えるに練らされた様な堅い確かさと淋しさが浮んで居たのを見ると蕙子は何の為にわざわざ今頃になってからお関が人っ子一人居ない洗場へお久美さんを追い遣ったかが明かに見え透いて、譬様も無い程情無くなって仕舞った。

 少し珍らしい事になると話しまで聞かせない積りなのかしらん。

 蕙子はお関の極端な仕打ちに驚くと共に、あんなに柔順に無言で辛さに打ち勝って行けるお久美さんが偉い様に思われた。

 もうすぐ帰ろうと蕙子はしきりに思ったけれ共、お久美さんが行ってから幾分か心のおだやかになったお関は前よりはよほどくつろいだ調子で、ほんとうに話をして居る気になって種々の半年間に起ったこの猫の額程の村の「事件」を話して聞かせた。

 けれ共蕙子はもう浮腰になって仕舞って、どうしても落つけなかった。

 来なければよかったと云う悔と、お久美さんに対する一層のいつくしみが混乱した気持になってそれからじきに蕙子は祖母をせきたてて家へ帰って仕舞った。


        二


 次の日はどう天気がぐれたものか朝から秋の様にわびしい雨が降って居た。

 昨夜はあんなに好い月だったのにやっぱり天気がまだかたまらないと云いながら家の者は陰の多い部屋にこもって、各手に解き物をしたり、涼風が立つ頃になると祖母が功徳だと云って貧しい者に施すための、子供の着物だとか胴着だとか云うものを小切れをはいで縫ったり口も利かずにして居るので、皆から離れたがらんどうな大部屋にポツンと居る蕙子の周囲はこりかたまった様な静けさが満ちて居た。

 静かな所を望んで居る蕙子にはその時位嬉しい時は無い筈なのだけれ共、あんまりまとまりなく拡がった部屋なので、東京では三方を本箱で封じられた様に狭くチンマリした書斎に居つけて居る蕙子はどうしても此の部屋では専心に読み書きが出来なかった。

 殊に九尺の大床に幾年か昔に使った妙な鉄砲だの刀だのがあるのが武器嫌いな蕙子には真にたまらなかった。

 其の時も平常の通り大きな大きな机に頬杖を突いて、一方の指の先で髪をいじりながら、ぼんやりと障子にはめたガラスを透して、水銀が転げ廻っている様な芝生の雨の雫だの、遙か向うに有るか無しかに浮いて見える三春富士などの山々を眺めて居た。

 何の変化もない作りつけの様な総ての物の様子に倦きがきた頃不意に先ぐ目の前の梅に濡そぼけた烏が来て止まった。

 痩せこけて、嘴許り重そうに大きくて鳥の中では嫌なものの中に入れて居る蕙子なので、地肌にピッタリ張り附いた様な重い羽根にも「烏の濡羽」などと云う美的な感じは一寸も起らないで只、死人と烏はつきもので、死ぬ者の近親には如何程鳴き立てても聞えるものではないなどと云う凄い様な話し許りを思い浮べて居た。

「一体烏という鳥は決して明るい感じのものではないが」

と思って居ると、凝り固まった様にして居た烏はいきなり、もう仰天する様な羽叩きをして飛び出した。

 四辺が眠って居る様なので、バサ、バサ、バサと云うその音は途徹もなく大きく響いた。

 蕙子は、急に引きしまった顔になりながら、何故あんなに急に飛び立ったのかと少し延び上って外をすかして見ると思い掛けず隅の雨落ちの所に洋傘を半つぼめにしたお久美さんが立って居た。

 蕙子は息が窒る様になって仕舞って、こわばりついた様に口も利けなくなった。

 弾かれた様に立ち上って、此方を凝と見て居るお久美さんを見返したまま、暫く立ちすくんで居たがやがてそろそろと障子際までずって行くと敷居から脱れそうに早く障子を引きあけて、

「早くお上んなさいよお久美さん。

 さ早く。

と云うなり、此方へ寄って来たお久美さんの肩をつかまえて揺った。

 お久美さんは案外落ついて静かな調子で、

「駄目なのよ、

 足が大変汚れて居るから。

と云って、低い駒下駄の上に、びっしょりになって所々に草の葉の切れたのや泥のはねた足を見た。

「じゃ雑巾持って来るから。

 蕙子は長い廊下を台所までとんで行って雑巾をつまんで来ると、拭く間ももどかしくお久美さんを引きずる様にして障子の中に入れると、凡そ人間の入って来られる所々を一つも取り落しなくピタリピタリと閉め立てた。

 一箇所の風穴も無くて冬の最中の様になった部屋中を見廻して、少しは気が安まったらしい眼付になった蕙子は、漸うお久美さんの傍にピッタリと座って、堪らなく可愛い者の様にその手を自分の二つの掌の間に押えつけた。

「どうしたのお久美さん。

 私もう真とに真とに驚いちゃった。

と、始めて笑顔に成った時、自然と涙が滲み出て、物を云う声が震えるほどの満足が蕙子の胸に滾々と湧き上って来た。

 いつも物に感動した時にきっと表われる通りな、キラキラと眼を輝かせて、顔を赤くして口も利けない様に唇や頬の筋肉に痙攣を起して居た蕙子は、じいっとして下を見て微笑して居るお久美さんを、食べて仕舞い度い程しおらしい離されない人だと思って見入って居た。

 平常興に乗れば口の軽い蕙子は、斯う云う時に出会うと、殆ど唖に成った程、だまり込んで仕舞って、思いをこめて優しくお久美さんの手を撫ぜたり肩を触ったりが漸々であった。

「此の降る中をお久美さんは来て呉れた」それ丈の事が此の時に如何ほど重大な事件として蕙子の心に写った事だろう。

 お久美さんが少許の間を置いて静かに話し出したまで、ほんの一二分の間に、蕙子は今まで生れて此方一度も感じた事のない様々の思いに、熱くなった頭が、自分の云った事さえ後から思い出せない程、ごちゃ混に彼も此も攪き乱されて仕舞った。

 お久美さんの顔を見た瞬間に、「済まない」と云う気持が電光の様に蕙子の眼先に閃いた。

 せわしい中から丹念に寄こして呉れる便りにも、兎角返事が後れ勝ちで有ったと云う事、お久美さんはきっと、一日の大部分の時は私の事を頭の何処かには置いて居て呉れたのだろうが、自分はいくら頭を使う事が多いとは云え、殆ど一日中お久美さんの名の一字さえ思い出さぬ時が決して少なくは無かったと云う事、まだ其外いくらもいくらも口に云われない程の済まないと云う気持が一緒になって、真黒にかたまって、蕙子の上にのしかかって来た。

 が、その辛い思いも、お久美さんの静かな身のこなしに和げられると「お久美さんは自分のものだ」と云う不思議な喜びが渦巻き立って、自分の力が強められた様な誇らしい心持に移って行った。

 それ等の心の遷り変りは実に実に速くて、目にも止まらぬ程のものでは有ったけれ共、蕙子の心は非常に過敏に、明るくなったり暗くなったりして動かされた。

「私のお久美さんだ」と云う満足が押えても押えても到底制しきれない力で延びて行くと、病的な愛情が蕙子の胸を荒れ廻って、「若し万一此の人に自分でない者が斯うして居たら」と云う途徹も無い想像の嫉妬までおぼろに起って来までした。

 けれ共やがて、それ等の過激な感情が少しずつなりとも鎮まって来ると、純な愛情に溶かされた様な、おだやかな、しとやかな、何者かに感謝しずには居られない嬉しさに蕙子は我を忘れて居た。

 お久美さんは大変静まった様子をして居た。

 手を預けた儘打ち任せた寛やかな面差しで居るのを見て蕙子は何となし驚ろかされた様な気持になった。

 蕙子は両親が有って而も大切がられて、かなり暖かな気持に包まれて居てさえ此れ程感動するのに、不幸が離れる事のない哀れな暮しをさせられて来たお久美さんは自分の倍も倍もどうか有りそうなものだのに「若しかしたらそれを感じない程に荒んだ気持になって居るのでは有るまいか」と云う歎かわしい疑が一寸蕙子の頭に閃いたがそんな事は瞬きをする間に消えて仕舞って蕙子は純な涙を瞼に一杯ためて、尊い話でも聞く様にお久美さんが甘えた口調でゆるゆると話し出すのを聞いて居た。

「伯母さんが何か彼にか云っていやだからあさってのお昼っから池の所で話をしない事?

 丁度いい塩梅にS村の叔父さんの所へ行くんですって。

「まあそう、そんなら行きましょう。

 ゆうべは私もう腹がたって腹がたって居たたまれない様だった。

 貴女幾時頃まであんな所に行かせられて居たの。

 帰りしなによって行こうかと思ったらあのいやな人ったらわざわざ土間に下りて見てるんですもの駄目だったのよ。

「何でもよっぽどおそくまでだった事よ。

 私が上って来ると、

 『お蕙さんはお帰りだよ』

 と云って大きな声で笑ったのよ。

 私あんまりだと思ったからニコリともしないで居たけれ共何故あんなに邪魔が仕たいんでしょうね。

 私にはどうしたって気が知れないわ。

「彼の人のは病気なんだもの。

「だってひどすぎてよ。

 お久美さんはお関が変にやっかんで手紙の遣取りも会って話をするのもいやがって何ぞと云っては茶々を入れると云う事をおだやかなそれで居て思い入った口調で話すのを聞いて居る内に蕙子の心はすっかりその一語一語に引き込まれて仕舞ってどんな事があってもお久美さんの云う事に塵程の間違いもない様に思えた。

 自分の云う丈の事を話すとお久美さんは、あんまり遅くなるとよくないからと帰り仕度をし始めた。

「もう少し位居たって大丈夫よ。

 まだ十分位ほかなりゃあしない。

と蕙子が止めても、

「だめよ、一寸先生の所へ来た次手によったんですもの。

と振り切る様にして又元の雨落ちの所から下へ下りた。

 割合に何でもない様に気持悪く汚れた平ったい下駄を又履いたお久美さんは、裾をつまみあげて体に合わせては小さ過ぎる傘を右手に持つと、

「あさってね。

と云うなり内輪にさくりさくりと芝を踏んで拡がってある無花果の樹かげから生垣の外へ行って仕舞った。

 蕙子はお久美さんが居なくなってかなりの時がたつまで、何だかそわそわした誰かがどっかから隙見をして居るのを知りながら見出せない様な気持で居た。


        三


 お久美さんはちっとも奇麗な人ではなかったし勿論不幸な生活をして居るのだから蕙子と話が合うと云う頭の発達は少しも仕ては居なかった。

 けれ共十の時から今までのかなり長い間年に二度会うか会わないで居ながらどうしても弱らず鈍る事のない愛情を蕙子は持ちつづけて来た。

 お久美さんの両親のない事、力になるべき兄弟の一人も此の世に居ない事、ましての半病人の様なお関に養われて居なければならないと云う事はどれ程蕙子に思い遣りを起させたか知れない。

 小学校に入った時から飛び抜けて「仲よし」と云う友達を持ちたがらなかった蕙子は始めて会った瞬間から、

「この人は私大好き。

と子供心に思い込んで仕舞ったお久美さんに対しては年と共に段々激しいいつくしみを感じる様になって来た。

 年は自分より上であっても確かな後立てもなく厭なお伯母さんにホイホイして居なければならない人を想うと蕙子は只仲よくして居るとか可愛がって居るとか云う丈ではすまない気になって居た。

 自分の力の及ぶ限りお久美さんを安らかにさせてやらなければならないのだとも思い又あんな悲しい目をこらえて居られるのも二人の助け合いがさせて居るので、私がお久美さんを思わない時のない様に辛い涙のかげでお久美さんの呼ぶのは亡くなった両親でなければ自分だと云う事も信じて居た。

 十位の時からの交わりはお互の位置の違いだとか年の違いだとか云う事を離れさせて仕舞って居るので、十九のお久美さんは二つ下の蕙子に愛せられ大切にいつくしまれて、困る事と云えば打ちあけて相談するのが習慣になって居て、二人は打ちあけて話して居るのだとか上手く相談に乗って呉れようかくれまいかなどと云う事に関しては何も考えも感じもしない程「一緒の者」と云う気になりきって居た。


 蕙子が十の時二つ上のお久美さんは最う沢山に延びた髪を桃割に結ってまるで膝切りの様な着物の袖を高々とくくり上げて男の子の様に家内の小用事をいそがしそうに立ち働いて居た。

 始めて二人の会ったのは今でも有る裏の葡萄園であった。

 その年始めて一人で祖母の家へ避暑に来た蕙子はお関に連れられてそこに来た。

 その葡萄園は低い生垣で往還としきられて乗り越えても楽に入れる程の木戸から出入をする様になって居た。

 葡萄と云えば藤づるの籠か紙袋に入ったの許りを見なれて居た小さい蕙子はまるで南瓜の様に大きい勢の好い葉が茂り合って、薄赤い赤坊の髪の毛の様にしなしなした細い蔓が差し出て居る棚から藤の通りに紫色に熟れた実が下って居るのを見た時はすっかりおどろいて仕舞った。

 地面には葉の隙間を洩れて来る夏の日光がキラキラときららかな色に跳ね廻り落ちた実が土の子の様に丸まっちくころっとしてあっちこっちにある上を風の吹く毎にすがすがしい植物性の薫りが渡って行った。

 葉ずれの音は蕙子が之まで聞いた何よりもきれいだと思った程サヤサヤと澄んだ響を出し、こんなに広い広い園の中一杯に自分勝手に歩き廻る事もかけ廻る事も出来ると思うと空想的だった蕙子は宇頂天に成って、自分が、自分でよく作っては話して聞かせるのを楽しみにして居た「おはなし」の女王様になりでも仕た様な浮々した愉快な気持になって居た。

 独りで先に入って行ったお関は大変丸々とした頬の美くしい女の子をつれて来て、

「さあお前好いかい、

 すっかりよく熟したのを取っておあげ。

 お蕙ちゃん、私は一寸用があるから此の子と音無しく遊んで居らっしゃい。

 お久美って云う名ですからね。

と、その娘の肩を蕙子の方へ押す様にして引き合わせるとさっさと主屋の方へ行って仕舞った。

 少し極りの悪かった二人は顔を見合わせては罪の無い微笑を交して居たが、

「取りましょうね、甘い事よ。

とお久美さんが先に立って歩き出した。

 行く先々には踏台がお伴をしなければならなかった。斯うして二人はじきにすっかり仲よしになって仕舞った。

 一体蕙子は田舎の子は大嫌いだった。

 無作法に後について来たり蕙子の知らない方言で悪口を云ったりするのもいやだったけれ共、傍によるとプーンとする土くささと塵くささが尚きらいであった。一番始めに遊び友達に成ろうとした近所の娘の髪に非常に沢山虫の住んで居るのを見てからと云う者蕙子はどんな事があってもの子とは遊ぶまいとかたく思いきめて居た。

 けれ共お久美さんは赤くこそあったがさっぱりした髪をして居て傍によっても彼のいやな臭いはしなかった。

 それ丈でもかなり蕙子は嬉しかった上に会う所が先ずよかったので五分も立たない間に口に出してこそ云わなかったけれ共「仲よしに成りましょうね」と思い込んで居た。

 一時間程をその園の中で二人は此上なく面白い時を過す事が出来た。

 蔓からもいだ許りの実を各々が一粒ずつ拇指と人指指の間に挾んで蕙子のはお久美さんに、お久美さんは蕙子の口元へと腕を入れ違いにして置いて「一二三」で一時に相手の口の中に透き通る実を弾き込んだり、番小屋の汚れた板の間に投げ座りをしてお互に寄っ掛りながら得意で其の頃して居た口から出まかせのお噺を蕙子は息も吐かない様に話して聞かせたりした。

 今でも蕙子は何かの折に葡萄などを見ると、其の時の二人の幼ない様子と、あの甘く舌に溶ける様だった実の事を思い出す事が有る程、嬉しい、まあよかったと思った会合であった。

 其の次の日っから二人は一日の大抵は一緒に伴立って前の小川に魚を取りに行ったり、蕙子の部屋で沢山ためて持って居たカードだのお伽噺の安本などを見て遊んで居た。

 乗気になって明けても暮れてもお久美さんが居なけりゃあ生きてる甲斐が無いと思い込んで居た蕙子は、自分が桃色のリボンで鉢巻の様にはでな頭飾りをして居るのに比べて大切なお久美さんの頭はあんまり飾りないので、持ちふるしたのですまないと思いながら、うす紫に草花の模様のあるのをあげて、貴方も私みたいな髪におしなさいおしなさいと云ってもどうしても聞かなかったお久美さんは其れを桃割の髷前に頭からダラリと下る様に掛けて居た事なども有った。

 自分が折角よい様にさせて上げ様と思うのにきかれなかったり妙な眼付をして、

「お蕙ちゃんの髪は何て云うの。

 暑いでしょう。

 随分妙な結い方ねえ。

などと云われると、蕙子はすっかり悲しくなって仕舞って、長く遊んで居るときっと又厭になるだろうからもう明日から来ても会いますまいと思う事が十度に一度は無いでは無かったけれ共、一度お久美さんの口から其のまるでお話の様に可哀そうな身上話を聞いてからと云うものは、年に似合わない真面目さが加わって、蕙子は、どんな事が有っても私はお久美さんを大切によくしてあげなけりゃあならない、そうするために私共は仲よしに成ったのだと思いきめて仕舞った。

 その気持が今日になるまでざっと七年程も確かに取り守られ保たれて来ようとは蕙子は勿論お久美さんにしろ思いも掛けて居なかった事である。

 蕙子は好く自分を知って呉れる二親もあり物質的の苦労を殆ど知ら無いと云って好い位の幸福な日を送って居るのに、お久美さんは二親は早く失くし兄弟も友達もなくて、心の人と異った伯母に世話をされて居た。世間知らずで有るべき年の蕙子は山程積んで目を覚すとから眠るまで読んで居た非常に沢山のお話で、継母の辛さ、又は他人の家へただ世話になって居る小娘の心づかいをよく察しられる様になって居たので、自分の家のない事父母の死んだ事は甚く同情すべき事に感じられた。

 友達のむずかしい蕙子が此んな人を此上ない者に仕て居様等とは誰も思って居なかった。

 一時はお久美さんの事を話して、

「まあ貴女がそんな方と仲よしになって居らっしゃるの、

 ほんとに思い掛けなかったわ。

「ええそりゃあほんとうよ。

と、友達共が阿呆な目をしてびっくりするのが面白くて、やたらと自分とお久美さんの事を喋り散した事があった。

 けれ共或時何かにつれて、人を驚かす材料に自分の一番大切な人を使って居たと云う事が非常に下等な恥かしい事に思えたので暗闇に座って此上なく改まった気持で、

「お久美さん御免なさい。

と云った時以来人にきかれた時以外にお久美さんのおの字も口から出さなかった。

 そしてだまって居れば居る程自分に対するお久美さんが高まり尊く成りまさって行く様に思って居た。

 十四位の時、蕙子は丁度何でも世の中のすべての事に神様だの自然の大きな力を感じてどんな物にでも感歎せずには居られない心の状態にあった。

 そのためにお久美さんにやる手紙の中に、まるで祈祷を凝す様な気持で、

私共はまだ生れなかった先から今日斯うあるべき運命が神様から授けられて育ったのだと思うより外考え様がないと思います。

まるで見知らなかった二人の小さな子供が、彼那に急に彼那にしっかり彼の時彼処で結び付けられたと云う事は只偶然な事の成り行きだと云えましょうか。

と云ってやった事があった。

 勿論その意味が蕙子の思う程はっきり十六のお久美さんに解ろうとは思って居なかったけれ共そう云わずには居られないのであった。

 一日一日と蕙子の心は様々な遷り変りをした。

 或時は自分の周囲の者すべてを例えそれが人の命を奪った大罪人でも快い微笑と手厚さで迎えたい時が有った。

 又或る時には世の中の隅から隅までその中に蠢いて居、哀れに小っぽけな自分までが厭わしく醜くて自分の命、人の命などが何のために如何うしてあるのか無茶苦茶に成って仕舞った時も有ったけれ共、大海の底の水は小揺ぎもしない様に、幾多の心の大波の打ち返す奥の奥には「私のお久美さん」が静かに安らかに横わって居た。

 そしてどんな時でも世話をしてあげなければならない自分で有った。

 お久美さんはよく先の切れた筆でロール半紙にヌメラヌメラとまとまりなく大きく続いた字の手紙を寄こした。

 取り繕わない口調でたどたどと辛い事悲しい事を云ってよこされると蕙子の目の前には惨めなお久美さんの様子がありありと浮んで見えた。

 殆ど無人格な様な年を取った主人を無いがしろにして何でも彼んでもお関の命のままに事の運ばれて行く山田の家庭はごった返しに乱れて居て口汚い罵りや、下等な憤りが日に幾度となく繰返されて居る中で、突きあげられたり突き落されたりして居るお久美さんの苦しさは到底その上手くもとらない口で云い現わす事などの出来るものじゃあない事はよくよく蕙子も知って居た。

 お久美さんはお関に取ってたった一人しか無かった妹の娘なのだけれ共病的な心は真直に可愛がる事をさせないで、年と共にお久美さんが娘々して来るにつれて段々と激しい虐め方をした。

 お久美さんも其れを知って居た。

 蕙子もそれをさとって居た。

 けれ共時の力を押える訳には行かなかったのである。


        四


 お久美さんと約束の日が来た。

 蕙子は朝から何となし落ち付けない気持でカタカタと机の上を片づけたりして居たが、お昼を仕舞うと先ぐ、髪を一寸撫でつけるなり飛ぶ様にして家を出て行った。

 活々した葉が真昼の日光に堅く輝く桑の木の間を通って居る一番池への近路の畑中を抜けて、胸の高さ位の上を通って居る往還に登るとすぐ前を走って居る小川の土橋を渡った。

 渡り切った所はもう池である。

 力強い日が池の水面に漲り渡って、水浴をして居る子供達の日焼けした腕が劇しい水音を立てて水沫を跳ね飛ばしながら赤く光って、出たり入ったりして居る。

 鋭い叫び声とバシャバシャ、バシャバシャ云う音に混って如何にも愉快な木の葉ずれが爽やかに蕙子の躰を包んで、夏の嫌いな蕙子にも「此処許りは」と思わせた。

 向うの道から来るお久美さんに先ぐ見つかる様にと、往還に沿うて続いて居る堤の青草の上に投げ座りをして体の重味で伏した草が白い着物の輪廓をまるで縁飾りの様に美くしく巧妙に囲んで居るのを見たり、モックリと湧き上った雲の群の前にしっとりと青い山並が長く長く続いて、遙かに小さい森や丘が手際よく取りそろえられて居るの等を眺めながらお久美さんの足音を待って居た。

 お久美さんの姿が蕙子の目に入るまでには大変に長い時間が立った。

 恐ろしく長い間待って居たと蕙子は感じて居るのであった。

 心持上半身をうつむけて暑い中をせっせと歩いて来るお久美さんの紺色の姿が蕙子の目に入ると、彼女は弾かれた様に立ち上って、微笑のあふれる顔を真直にお久美さんを見ながら半ば馳ける様に出迎に行った。

 両方から急いで二人はお互に思ったより早く堤の終る所で会う事が出来た。

「まあよく来られた事。

 蕙子は手をお久美さんへ延しながら安心して震える様な声で云った。

「沢山お待ちなさって。

 伯母さんの出掛け様が遅かった上に今まで役場の人が来て居たんで……

「そう、

 大丈夫よ、幾らも待ちなんかしない事よ。

 私だって今一寸前に来たんだから。

「そう、そんなら好いけれ共。

 二人はゆるゆると歩いて、さっき蕙子が居た所に又並んで座った。

「今日は随分暑いわねえ。

 こんなじゃあ八月になるのが思いだわ。

 お久美さんは頬を火照らして平手で押えたり袂の先で風を送ったりして居た。

「そうでもありませんよ。

 風がよく通るんですもの。

 そんなじゃ東京へでも出て一夏送ったら暑い暑いで死んで仕舞いますよ。

「そう云えばそうだけれど……

 そんな事云ったって貴女だって矢っ張り、暑うござんすね暑うござんすね、まるで体中燃えてきそうだっておっしゃるじゃあ有りませんか。

 駄目よ、誰だって暑いんだもの。

 二人の間には罪の無い笑い話が取り交わされた。

 祖母の家へ来てから余り吐き出されないで居た持前の「おどけ」が後から後からと流れ出して、体も心も彼の青い空と水の中に溶け込んで仕舞った様になった蕙子は、思う事も云う事もないと云う風にお久美さんを見ては満足の笑を浮べて居た。

 頭をかしげて池と蕙子を半々に見て居たお久美さんはいきなり「ああそうそう、私どうしても貴女に伺おうと思って居た事が有る」と云い出した。

「あのね、先月の始頃私の所へ手紙を下すった事があって。

「先月の始め頃?

 どうして、私はっきり今覚えてないけれど。

 どうかしたの。

「いいえね、

 伯母さんがどうも手紙をかくすらしいのよ、

 大概のはね、受取ったものが私ん所へ持って来て呉れるけれど、誰も居ない時来たのは皆どうかなってしまうんじゃあ有るまいかと思う。

 何故ってこないだ貴女の行らっしゃった二三日前にね、何心なく伯母さんの針箱の引出しを明けたら何だか書いたものが小さく成って入ってるんでしょう。

 悪いと思ったけれどそうと出して見ると貴女のお手紙なのよ。

 私もうほんとにびっくりしちゃったわ。

 だってね、捨てる積りだったと見えて幾つにも幾つにも千切って順も何もなく重ねてあったんで、どんな事が書いて有るんだか分らなかったのよ。

 よっぽど出して知らん顔をして居ようかと思ったけれど、何だか怖いからそのまんまに仕て置いたけれど。

 貴女覚えて居らっしゃらない事。

「まあそんな事が有ったの。

 さあ先月の始め頃って云うと……

 ああそうそうあった事よあった事よ。大抵五六日頃でしたろう。

 西洋紙に書いて有ったんじゃあなくて。

「ええそうよ、真白い紙で棒縞の透しのついたのだったわ。

「そんならきっとあれだわ。

 あんなんならいくら見たってようござんすよ。

 何にも彼の人の事なんか一つも云ってなかった筈だから。

「そう。其れなら好かったけれ共。

 私の見たのは飛び飛びでまるで分らなかったから割合に心配してたの。

 あれだわねえ、こんな事があると、今までどれだけ見えない所へ入れられちゃったか知れないわねえ。

 ほんとにいやだわ、私。

「ほんとにねえ。

 手紙をかくすなんてあんまり卑怯だわ。

 そんな事をして楽しんで居るんですよ、彼の人の事だから。

 人が困るのや工合の悪くなるのを見るのが彼の人にとっては此上なく面白い嬉しい事なのですからね。

 私共で用心するばっかりだわ。

「用心するってどうするの。

 仕様がないじゃあないの。

「そうだけれど、まあそうっと彼の人の気を悪くさせない様に仕するのです。

 彼の人の事なんかは書いてあげない様にするの。

「そう、

 そうするより外仕様がないわね。

 だけれどつまらないわ。

「何が?

 まあとにかく、あんまり煙ったい事許り見ると、益々ひどく当る相手は貴女一人なんですもの。

 なるたけじいっとさせて置くのが好いんですよ。

 此頃よりひどく成って行ったらほんとうにたまったもんじゃあありませんよ、貴女一人で。

 どうかして丁度貴女が居る時にいきなり貴女の手に飛び込める様に手紙も利口になって呉れるといいけれどねえ。

 私共でさえこんな馬鹿なんだもの、それに書かれる手紙がそんなに利口で有ろう筈もなし。

 終りの言葉を蕙子がさもヤレヤレと云う様な何となし滑稽な調子で云ったので結び掛って居た二人の心は又元の通りの明るさに立ち帰る事が出来た。

 けれ共其れが緒に成ってお久美さんは段々淋しい話に許り向いて行った。

「私ほんとうにね、尼さんにでも成って仕舞う方が今よりはどんなにか好いと思うの。

「どうして?

 尼さんてそんなに好い者だと貴女は思ってるの?

「そんなに好いとは思いやしないけれどね。

 今よりは増しだと思うわ。

 一年ましに伯母さんはひどくなって来るし、

 どこにどうして居たって私はつまり不仕合せな人間なんだから。

「じゃあ何の尼さんになるの。

「何のってなあに。

「まあ、貴女の所じゃあ此頃キリスト教を信じて居るんでしょう。

 だから仏様の尼さんかキリスト教の尼さんかってきくんです。

 貴女成るんならどっちになるの。

「あら厭だ、私、

 あんなキリスト教の尼さんになんか成りたくもないわ。袋みたいな黒い着物を着てる人でしょう。

 衣を着た仏様の尼さんの方が余程好いわ。

 私なるんなら仏様の尼さんだわ。

「貴女仏様って何だか知って居て?

 年若い女に有り勝の何の根拠もない様に軽々と死にたいとか尼さんになりたいとか云う通りにお久美さんまで他人の話をする様な口調で「私成るんなら仏様の尼さんだわ」等と云って居るのを聞くと蕙子はフト不愉快な気持になった。

 此の出し抜けの問いは余程お久美さんをまごつかせた。

 気を計り知れない様に蕙子の方を一寸見て下目をしたっきりお久美さんはだまって仕舞った。

 当惑した様な頼りない様な顔を見ると蕙子は気の毒になって優しくお久美さんの手を取りながら、

「尼さんが好い等と云う事はね。

 はたでそう分るものじゃあありません。

 尼さんになったって貴女はやっぱり人間の女じゃあありませんか。

 尼さんになった日から何にも思わず好い事だらけだと思うのはあんまりよく考えすぎてますよ、ほんとに。

 そりゃあね、子供の内から頭を丸めてお経で育って来た人は別です。

 私や貴女位の年から辛い逃場所にお寺をしたって一年と辛棒がなるもんですか。

 きっと、貴女なんかは其の立派な髪に剃刀が触る時にああ飛んだ事をしたと思うにきまってます。

 そりゃあ私、受合いだ。

と云って笑った。

 お久美さんもつれられて微笑はしたけれ共何だかわだかまりの有るらしい様子で、

「でも私どうにかしてもう少し楽になりたいわ。

 此頃の様じゃあたまらないんですもの。

と鼻声になって云った。

「ええそりゃあそうでしょうって。

 そりゃあ私にだってよく分って居る事よ。

 どうかして好い事は無いかと思っては居るんですけれどね、何にしろ私は今何の働きもない寄生虫なんですからね、思う様に事の運べないのはあたり前でしょう。

 貴女の苦しい事も辛い事もよく分って心配しながらどうも出来ないで居るんだから私だってそりゃあ辛い。

 だからね、貴女も私もどうしてもそう外仕様がない時にはそこで出来るだけの事をして居る方がいいじゃあないの。

 今の私で出来るだけの事を私は貴女にしてあげる。

「ええほんとにそうね。

 私だって貴女がいつでも云っておよこしなさるからそうは思っても此れから先の事を考えるともう何にもするのがいやに成って仕舞うのよ。

 私が一生懸命して居ても報って来るものったらいつだって同じ大きな声で怒鳴られる事なんですもの。

 仕栄がないのもあたり前じゃあないの。

「そりゃあそうでしょうねえ、ほんとに。

 だけれ共一生貴女は彼んな人の傍について居ずとも好いんだからこれから先の事を好く思って居る外ないでしょう。

 皆な人間はそれで生きて居られるんですものねえ。

「そうねえ。

 だけれど彼の人は一生私を離さない積りで居るんでしょう、きっと。

「どうしてまあ。

 まさかそんな事は無いでしょう。

「いいえ、そうらしいの。

 それも近頃なんだけれど、

 ヒョッとした事で私知って仕舞ったのよ。

 伯母さんは私を片輪だって云い歩いたんですって。

 ほんとに私あんまりだと思った事よ。

 山崎のお婆さんが、私は嘘だと知って居るからと云って教えて呉れたの。

「片輪だって?

 まあ、片づけないようにそう云ってるの。

 ほんとにそれじゃああんまりひどい。

「ですもの知らない人はまさか伯母さんがと思うからほんとだと思って仕舞うじゃあないの。

 そんな事までして私の邪魔を仕様仕様として居るんですもの……

 有りもしない事云われちゃ亡くなった母さんや父さんにだってすまないわ。

 お久美さんは静かに涙をこぼして居た。

 蕙子は何と云って好いか分らなくなった。

 そんなにしてまで若い女を虐めずには居られないお関が此上なく憎く醜く思われて来ると共に、此那こんなに打ち明けて頼りにされて居る自分は又他人から世話にならなければならない年で、物質の助力は勿論、精神的にだって、そのためにどうと云う程の力添えも与えられないで居る事がどれ程不甲斐なく恥かしく思われたか知れない。

 まだ経験のない一日一日と育つ盛りにあるかたまらない考えでお久美さんを動かして行くと云う事は、まるで性質も之からの行き方も違って居る蕙子には不安の様でも不忠実の様でも有ったので、いつでもお久美さんの仕様と云い出した事を判断して居た。

 自分で自分が頼り無くて蕙子は青白い頬に涙を伝わらせた。けれ共お久美さんはじきに涙を止めて云い出した。

「恭がね、

 そりゃあ私に親切にして呉れるのよ。

 あんまり伯母さんが甚いってね。

 そいでこないだも一寸云ったんだけれ共、

 自分の家が信州に在って去年父親が亡くなって一人ぼっちで居る阿母さんが淋しがって、帰って来い来いて云って来るんですって。

 だから自分は近々に帰るつもりで居るからお久美さんも一緒に行らっしゃいって云うの。

 自分こそこんなにして居るけれど家ではちゃんとして居るからちゃんとお嬢さんにして好い様にしてあげますからって云うんだけれども私そんな事出来るこっちゃあないって断わったのよ。

 変ですものねえ。

「まあそんな事云ったの。

 ほんとにそんな事出来るっちゃあない。

 恭だって高が雇人じゃあ有りませんか。

 どんな素性だか分りもしないのに……

 恭も亦あんまりですね。

 仮にも主人の貴女にそんな事まで云うって。

 貴女恭は親切だってよく云うけれ共、一体ほんとに親切なの。

 あぶないじゃあないの。

「ええ、そんなにこわい声を出さずと好い事よ。

 誰もあれの云う事なんか真に受けないから。

 だけれどね、親切は親切だ事よ。

 いろいろ力をつけて呉れるわ。

 それに学問も有るんですものね。

「学問たって中学を出た位なもんでしょう。

「いいえそうじゃあないの。

 どっかの工業学校へ入った年に病気で落第したら頑固な父さんがあんまり怒るもんで自棄やけになって家を出て仕舞ったんですって。

 だから可哀そうな所もあるわ。

 何だかむずかしそうな英語の本も持ってる事よ。

「そりゃあそうかもしれないけれどね。

 あんな人に貴女が頼らずと好いじゃあ有りませんか。

 それに恭のほんとの心は知れませんからね。

 表面は好い様なおべんちゃらを並べて心じゃ何と思って居るか分りゃあしない。

 又恭がそう真面目に思って居たって周囲の人は単純にそれ丈の事として見るものじゃあ有りません。

 何にもしないで食べる人を一人世話する事はなかなかなんですからねえ、いくら田舎でもしっかり仕なきゃあだめですよ、ほんとに、お久美さん。

「ええ大丈夫よ。

 何ぼ私だって、そんな嘘のような言葉を信じるもんですか。

「いいえ、そう今は云ってますけれどね。

 人って妙なもので始終始終顔を見て居るとどんなに始めはいやだと思った人でも気にならなくなる様なもんだから、あんまり云われると、つい気がぐらついて来ないもんでも有りませんよ。

 貴女みたいな暮しをして居る人は、しっかり自分と云うものを分らせて居なきゃあいけないわ。

 どんなにお関にひどくされたって不仕合わせだって、ちゃんとしたお嬢様なんだもの。

 雇人風情に情けをかけてもらいたい様な、又同情されたい様な様子を決して仕ちゃあいけませんよ。

 しゃんと御主人らしくして居なけりゃあいけない。

 向うから気の毒に思って呉れたら只それだけを受けて居れば好いんですよ、ねえ、お久美さん。

 なさけに餓えて居る様な素振りを一寸でも出してはいけませんよ、ほんとに。

 質の悪い者なら皆そんな所へ足掛けをつくるんだから。

 蕙子は此村の若者の中では何方どちらかと云うと目に立つ程調った容貌と言葉を持っている二十三四の恭吉の姿を思い浮べながら、単純な頭で其を見て種々に感じて居るお久美さんを不安に思い出して来た。

 蕙子は、

「私をそんな馬鹿だと思ってるの。

とお久美さんが云うまで幾度も幾度も繰返して「不仕合わせだと云って卑屈になってはいけない」とか「自分はちゃんとした位置の者だと思って居なければいけない」とか心配そうに云って居た。

 身動きもしない様にして二人は日影が傾むくまで草に埋まって話をして居た。


        五


 お関の嫉妬深い事は此の村でも有名であった。

 山田の主人に用談が有ってもお関を通じてでなくてはうっかり口も利けない様なのを皆は笑い草にも鼻つまみにも仕て居たが、どう云う生れでどんな経歴のある女だか等と云う事は知る者が無かった。

 けれ共此の村が明治二十年頃開墾されてじきに、山田の主人と一緒に皆と同じ様に軽い荷と、頼り少ない財布でY県から普通の移住民として入って来て以来のお関は、もう二十年以上も絶えず噂の中心になり陰口の種にされて面白くもない日を送って居た。


 お関はY市の小機屋の娘であった。

 女二人限りの姉妹でありながら、性質がまるで異って居て、妹のお駒と云った五つ違いの娘と同じ腹から産れた者とは思えない程であった。

 お関は負け嫌いで小さい内からかなり身巧者に働いた代り何か気に入らないと、引きつめに毛の根のふくれる程きっちり銀杏返しに結って居るお駒の髷をつかんで引っぱったり、後からいきなり突き飛ばして、小柄な妹が毬の様に弾んで行って突調子もない柱等にいやと云う程体を打ちつけて泣き出したりするのを見て面白がって居た。

 近所では「あばれ娘のお関坊」と云う名を付けられて居たけれ共その文盲な親達はせっせっせっせとお関の働くのを何よりと思って居たので、

「家のお関も手荒らですが働きますからこんな貧亡者には下されものですよ。

と自慢さえして居た。

 そして何でも内場に内場にと振舞って体なども親に似げなく骨細に出来て居るお駒を却ってどうでも好い様に取り扱かって、祭りの着物なども、

「姉ちゃんは働くからな。

とお駒に去年のままをあてがって、お関にだけは新らしいのを作ってやったりするので益々図に乗ったお関は家中の殆ど主権者と云って好い位自惚うぬぼれて勝手気ままに振舞って居た。

 何にしろそう大して織物の出ると云うでもないY市のしかも小機屋であったお関の家が年中寒い風に吹かれて居たのは明かであった。

 朝から晩まで母親と父親と小さいお関までかかって、ギーッパタン、ギーッパタンやって居たところで入って来るもの等は実に軽少なので、片手間に畑を作ったりして居たけれど、段々娘になって来る二人を満足な装もさせられないので、十七の年お関は仲間の者の世話で程近いM町の生糸屋へ奉公に遣らせられた。

 M町はY町と山一重越した丈の事であったけれ共、まるで世の中の違う程すべての事が都風で、塵をかぶって髪の毛も何も、モチャモチャにして居たお関は、行って七日と立たない内にすっかりM町の生糸屋のお仲どんになりすまして、油のたっぷり付いた大形な銀杏返しに赤い玉のつながった根がけなどをかけて「おはしょり」の下から前掛けを掛ける事まで覚えて仕舞った。

 表面のはでに賑かな其処の暮しはお関に如何にも居心地がよくて、あばれでも手荒らでも何処か野放しの罪の無かったのがすっかり擦れて──自分の方からぶつかって擦れ切って仕舞った。

 いつとはなしに釣銭の上前をはねる事も覚え、故意わざと主人に聞える様な所で厭味を云う事も平気になって来ると、丁度すべてに変化の来る年頃にあったお関は種々の生理上の動揺と共に段々川を流されて行く砂の様に気付かない内に性質を変えられて来て居た。

 その時頃からお関の今だに強く成ろうとも抜ける事のない病的な嫉妬心が萌え出して来て居たのである。

 朋輩の仲よしをねたんで口を入れては仲違いをさせて見たり、煙草好きな主婦の大切がって居る煙管をちょっと布団の下にかくしてみたり、ちょいちょいした小悪戯をして居た。

 けれ共やっぱり子供の時からの癖で働く事もなかなかよく働くので主婦等はかなり目を掛けて、自分の煙管をかくされた等とは一向気付かず時には半衿だの小布れだのを特別にやったりして居た。

 用が激しいので大抵の者は厭に仕て居ますと云う様な、そうでなくてもお関程面白そうに賑やかにしながら立ち廻って居る者のない中なので主婦は、

「あれは年に仕ちゃあよく働くね。

 きっと永く居る積りなんだろ。

 こっちも重宝で好い。

などと話す事もあったしお関も又ずーっと居て此処からどっか似合いの所へ身の振り方も極めてもらおうなどとさえ思って居た。

 此の間にお駒は同じ町の或る士族へ小間使に入って居た。

 年寄夫婦と大きな息子が三人居る丈の至極静かな家だったのでお駒の気質に合って、主人達からも可愛がられ自分も仕事だの手紙の書き様だのを教えてもらって満足した日を送って居るうちに喘息を持病に病んで居た父親が急に貧亡敗けをしてポックリと死んで仕舞った。

 二人は泣いても叫んでも仕様がないので、前の通り奉公をつづけ、哀れな母親は独りで僅か許りの畑と機物で口を過して居る様になった。

 別にそう大して悲しがるでもないお関を見て主婦等は、

「こちらを一生の家にさせて戴きますのですから。

と云うお座なりをまんざらの偽とは聞き流さなかった。

 山の彼方で母親ばっかりが淋しく暮してお関が十九に成った時急に思いも掛けず手紙だの人だのをよこしておしむ主婦の言葉に耳もかさない様にしてお関を連れ戻って仕舞った。

「私ももう年も年でございますし、誰一人相談相手のありませんのは淋しくて堪りませんから御無理でしょうが。

と母に云わせて実家へ帰ったお関は六七ヵ月すると大きな赤坊を産んだのであった。

 お関はその子が男で有った事、重三と母親が付けたと云う事丈は知って居たが、碌に顔も見ずにすぐ近い村へ里子にやって仕舞った。


        六


 口を利く者が有って山田へ来たのはお関の二十の時であった。

 当時もう四十二三に成って居た主人はお関が来るとすぐY町から今居る村に移ったのであった。

 口利きが確かだからと云うので理屈なしに嫁入って来たお関は勿論自分の夫がどんな人柄だとか何が仕事か等と云う事は余り聞きもしず居たのだけれども愈々一つ家に住んで見ると流石のお関もあきれずに居られない様な事ばかりであった。

 一定の仕事の無い上に絶えず目算ばかり立派に立てて居る主人は何一つとしてまとまった事にはせず、年が年中貧亡に攻められながら「今に何かやって見せるぞ」と云う二十代からの望みをはたすためにあくせくして居た。

 けれ共彼のする事は皆人並を脱れた事ばかりで、出放題な悪口を云って見たり借り倒したり、僅か許りを小作男に賃貸してやって期限に戻さないと云って泣いてたのむのを聞かずに命より大切がって居る一段にも足りない土地を取って仕舞ったりして居たので、遠慮のない憎しみが山田の家へ村中から注ぎかけられて居た。

 若し山田の夫婦がもう少し人間並であったらもうとうに此の村等には居られない程長い間には種々ひどい事も云われて来たのだけれ共、図々しくなって居るお関と無人格な様な主人の耳にはかなり和らげられて響いて居たのである。

「なあに、何でもないさ。

 わし等を嫉んで奴等下らん事を云うとる。

と主人は楽観して居て、自分達に加えられる批難の多ければ多い程自分の仕事は大きな力ある物なのだとさえ考えて居た。

 或る時は鉱山師であり或る時は専売特許事務所の主人でありしたけれ共、いずれも只一時の事で、かなり山田の主人として成功した事と云えば七八年前から始めて今に至って居る西洋洗濯であった。

 それも大抵の事はお関が切り盛りして顧客の事から雇い男の事まで世話をして居たので漸々今まで続いたので、主人は相変らず選挙運動だ何だ彼だと騒いで居た。

 けれ共一二年前からはどうした事か急にキリスト教を盛に振り舞わして何ぞと云っては、

「それは神の御心に叛く事と云うものだ。

とか、

「我々が斯うやって飯を食えるのは一体どなたの御かげだ。

などと云って居た。

 山田の主人はキリスト教は只世間の「馬鹿共」へ対しての方便だと思い、

「な、そうだろ。

 だからやっぱり信じとった方がいい。

 誰もお前『神様、神様』と云うとるものが泥棒だとは思わんもんな。

 そうすりゃあ万事トントンに行くにきまってる。

とお関にも説き聞かせたのでお関もその気になって、

「うちでもね貴方この頃めっきり人が変りましてすよ、キリスト様を拝む様になりましてからね。

 前には随分気が荒くて困りましたけれど、もうちっとも大きな声も出しませんでね。あらたかなものでございますねえ。

などと云って居た。

 其那有様で、今は西洋洗濯でまあどうやら行って居るのだけれ共、主人が考えなしにポンポンと借りて来る金を返すにいつも追われる様なので、子供の時分から貧困に頑なにさせられたお関の病的な気持は又もう一度巡って来た変転期にすっかりかたく強められて仕舞ったのである。

 お関は自分達が惨めであればある程少しでもゆとりの有る生活をして居る者が嫉ましくて、彼れでさえあの位には暮して居るのにと思うのが原動力になって、季節季節には欠かさず養蚕をし、利益の多いと云う豚を飼い、裏の空地に葡萄棚さえ作って朝から晩まで落付く時なくせかせかして居た。

 けれ共豚は子をせっせと産んで行くばかりで、それをどうやったら一番上手な遣り方で儲けられるかと云う事も分らなかったし、葡萄もどうすると云う程は土地の故でならなかったので、夢にまで五円札十円札を見てうなされながらお関は進みも退きもしない貧しさの中に立ちどまって居なければならなかった。

 そんな時に、奉公先から片附けてもらって或る小間物屋の女房になって居たお駒が、顔に出来た腫物のために死んだ夫の一週忌もすまない内にその後を追いかける様にして自分も気病みが元で死んで仕舞った事は種々な点でお関を困らせた。

 たった一人残されたその時十一の娘のお久美さんをどうしても自分の方へ引きとらなければならない事は染々しみじみとお駒の在世をのぞませた。

 主人も「どうせ子供だね、知れたものだよ」と云って居るので到々広い世の中に寄る辺ないお久美さんは山田の「伯母さん、伯父さん」に育てられる事になった。

 お久美さんはお駒よりも却って父親に似て居たので、お関などとはまるで違った顔立ちと体つきを持って居た。

 髪等も房々と厚くてどこか素なおらしい体つきの子であったが、まだ十三四で、四肢も木の枝を続ぎ合わせた様に只長い許りで、肩などもゴツゴツ骨張った様な体の中は、お関はお久美さんに対して何にも殊った感じは持たなかった。

 時にはほんとに可哀そうな気になって、

「お前の様な者が好い身寄りを持たないのは不仕合わせだね。

 私共の様な所じゃあ何も出来ないからね。

などと云う事も有ったけれ共、一度一度と日の登る毎にメキメキと育って来たお久美さんがすべての輪廓にふくらみと輝やかしさを持って来ると、お関はその力の満ちた様な体を見る事だけでも、一種の押えられない嫉妬と圧迫を感じた。

 出来る丈見っともなく仕て置かなければならない気持でお関はいやがるお久美さんを捕えて、「働き好い」と云う口実での西洋人の寝間着の様なブカブカしたものを夏にさえなれば着させて置いた。

 けれ共其れは何にもつまりはならなくて、若さはその白い着物の下にも重い洗濯物を持ちあげるたくましい腕にも躍って、野放しな高い笑声、こだわりのない四肢の活動は却ってその軽く寛やかな着物のために明らさまな若い女の魅力を流れ出させた。

 お関は一人の娘を段々に仕立あげて行く時の力に反感を持たずには居られなかった。

 そして、お久美さんに或る自然的な変化が起った時にもお関は何の助言も与えずにまごまごして居るお久美さんの当惑した顔を見てむごい快感を得て居た。

 お関は可愛がろうと酷め様とお久美さんの事に就いては傍の者が口出しを出来ないのだとは思って居たけれ共、只一人蕙子と云うものが何かに付けてお久美さんの肩を持ち、事によったら自分を差し置いても種々な事を引き受け兼ねない様子で居るのが、何より不満でもあり不安でもあった。

 山田は蕙子の家の要求には或程度まで従って行かなければならない位置に有るので、思う通りの事をしてかなり自分の云い分を通して居る蕙子が真剣に成って其の周囲を説き付ければ或はお久美さん一人位の面倒は実際見ないものでもないと思う事はお関にとって苦痛であった。

 余裕のない生活の中からお久美さん一人の減ると云う事はその影響も小さい事ではなかったけれ共、若し自分の手元からはなれた彼女が思わぬ手蔓に思わぬ仕合わせに会う事が決して無いとは云えないと思うと、どうしてもお関は蕙子に油断が出来なかった。

 何かにつけては、

「彼那我儘な人と仲よしになったりして、一体お前はどうする量見なのかい。

 あのお蕙さんなんて、お前一体どんな人だと思って居るのかえ、

 御飯たく事も知らない様な人の云う事を一から十まで有難がって顎で指図をされて居るんだもの。

 今に好い様にされて仕舞うのはもう私にはちゃーんと見えて居る。

 馬鹿も好い加減におし。

などと云ったけれ共、お久美さんはだまって聞いて居るばかりで、お関の望んで居る様な結果になろう筈もなかった。

 お関は今更自分の迂闊が悔やまれて、子供の事だからと、今日の様な事を考えもしずに始めにかまわず遊ばせて置いたのがそもそもの手落ちであった等とも思い、見掛けによらず執念くして居る蕙子の気持を疑ったりして居た。

 けれ共まあ当分の間の事だ、お蕙さんが他家へでも行く様になれば総ては自分の都合通りになる等と云う事もお関の心の中には有った。


        七


 お関にはお久美さんの事も気になりながら、一方では自分の若い時の子の重三の事を種々近頃になって思い出して、丁度自分に子のないのを好い口実にしてどうにかして養子格にして家に入れたいと云う事を非常に願って居た。

 けれ共もう二十年以上も会わないのだからどんな男になって居るか、何をして居るのかまるで分らなかったし、又それを山田の主人に切り出す折もなくて居た。

 お関はY県に居る自分のたった一人の子の事を種々な不安と憧憬を以て折々考える様になって来て居た。

 所へ恭吉が洗濯男として山田の家へ住み込んだと云う事は種々な点でお関の心に動揺を与えたのである。

 町の呉服屋の世話で信州の生れだと云う彼の来たのは去年の春であった。

 紺の股引きに破れ絆纏ばかりの小汚い者を見つけて居るお関の目には、麦藁帽子を軽く阿彌陀にかぶって白い上下そろったシャツと半ズボンでどこかしゃんとした恭吉の姿が実物以上に立派に見えたのは確かである。お関は非常な興味を以て色白な顔だのまだ一度も砂ほこりを浴びた事のない様な艷やかな髪などを見て居た。

 かなり透明な声、陽気に調子よく吹く口笛、その他荷の中に持って来た何かの横文字の本、何から何までがお関には一種の幼い驚異の種であった。

 何だか「恭、恭」と呼び捨てにして此那仕事をさせて置いて好いのか知らんと云う気にさえなって、出来る丈の好意を以てあつかった。

 出来る丈給金も出し家の者同様にして居るお関は、恭吉が自分に対して下らない悪口を云っても只其れを気の利いた悪戯口と外聞かなかったし、一寸した意見を吐いても只「恭吉は横文字が読める」と云う事ばかりにでも或る尊敬を感じて居るお関には如何にも意味のある立派な心の所有者の様に感じられた。

 山田の主人も恭を今までの雇人とは異って持り扱って気持のよい身のこなしや小器用な仕事の仕振りを見ると、

「家もそろそろ養子の工面でもせんきゃあならんなあ。

等と云い出したりし、お関も亦重三の事がしきりに思われて、どんな立派な男に育って居るだろう、ぜひ一度は会いもしたし、出来る事なら家へ入れたいと云う願望がはげしく起って、長い間親知らずで放って置いた大切な息子へ気の毒であったり済まなかったりする気持が一方恭への態度をより丁寧に思いやり深くさせた。

 まだ二十三で何処かしら未熟の若い節々がお関に自分の子に対する様な気持を持たせるに充分であった。

 暑い日には町への使に出したくない、出来る事なら何にもさせずに楽をさせて置きたいと云う彼女等の階級の頭には先ず第一に起る姑息の愛情に全然支配されて、恭の口軽なのについ釣られて、自分等の内幕の苦しさを幾分誇張してまで話して聞かせる様な事さえもあった。

 けれ共恭は何処までもお関を飲んで掛って居た。

 お関が自分に対して持って居て呉れる好意を利用しない程自分は気の廻らない人間ではない等と思って居たので十九の時家を飛び出してから此の方彼処此処と働いて歩いた家々の中では一番住みよくもあり勝手の利く落付き場所であった。

 お関は恭に対しては実に静かな心持で接して居たのだけれ共、或る日フト恭が小女にからかってさも面白そうに並びの好い歯をチラチラさせて笑い興じて居るのを見ると、又今まで眠って居た種々の気持が徐々と目ざめて来たのであった。

「恭は男だ。

 此の言葉は非常に複雑した気持をお関に起させた。

「恭は男である。

 お関の目前には今までとまるで異った恭吉と云う二十三の男が若くて達者で見よい姿を以て現われて来たのである。

 お関は恭の前に近づくすべての女と云う女に対して自分は非常に堅固な防材とならなければならないさし迫った必要を感じたので、洗場へ行く者は只一人自分のみを選び「若い女」と云うお久美さんへ多大の注意を向けて居た。

 恭は如何にもちゃんとして居る。

 利口であり美くしくもある。

 今こそ斯うやって居ても近い未来に幸福になると云う事は分りすぎて居る位明白な事である。

 そしてお関は恭に対して明かに嫉妬を感じ始めたのであった。

 恭が何の差し支えもなくドンドンとはかどらせて行く幸福への道順を手放しで歩かせて見て居る気にはなれなかった。

 此の恭吉のために此の広い世の中のどっかの屋根の下に一刻一刻と育ち美くしくなりまさって居る娘のある事を考える丈でもお関の体は震える程ねたましかった。

 お関は様々の混乱した感情に攻められて何事も落付けない日を続けて居た。

 けれ共間もなく恭吉は狂気の様な熱心と執拗さで発表された四十を越した女の爛れた様な羞恥のない熱情の下で喘がなければならなかった。

 勿論、お関に対して恭は或る強味は持って居たのだけれ共、テラテラとした日の下で弛んだ筋肉のだらしなく着いた体を曲げたり伸したりして、其の獣の様な表情のある顔に大胆な寧ろ投げ遣りな影の差して居るのを見ると、胸の悪くなる憎しみと、侮蔑とを感じないわけには行かなかった。

 恭吉は徹頭徹尾お関を馬鹿にして居た。

 お関は恭吉に対して殆ど極端な嫉妬と不安とを持って居たにも拘わらず、不思議な悪戯者が何処か見えない所から二人を意地悪く操って居た。

 お関自身身を離れない仇敵として此上なく憎んで居る自分の調わない容貌と傾いた年齢とは此の時無意識の好意ですべての事の上を小器用に被うものとなった。

 山田の主人はその間中も恭を見る毎に自分の実子の無い淋しさをお関に訴えた。

「俺にも恭位の息子が有ればなあ。

と云う時の彼は実に落着いた淋しい気の毒な老年の男であった。

 彼の心が珍らしく真面目に悲しみを帯びて、自分の墓を守って呉れるべき若者を待ち望んで居るのを知ると、お関は、重三の生き返る日の来た事を非常に喜んだ。

「若し似て居さえしなければ。

 お関は押え切れない望みに動かされてY県に居る実の母と子に会いに行った。

 お関は二十幾年振りかで帰った故郷の有様に皆驚く事ばかりで有った。

 六十を五つ六つ越した母親が余り衰えもせずに、せっせと人仕事をしたり、重三と一緒に少しの土地を耕したりして、思ったよりはひどくない生活をして居るのも思い掛けない事ではあったのだけれ共、骨太に堅々と肉の付いた大男が自分の息子で有ろう等とは、「ひよめき」のピクピクしてフギャーフギャーと云って居た間二三日丈見て居た自分に実に驚くべき事で有った。

 身丈の気味の悪い程大きい体に玩具の様な鍬を下げて一人前の男にノッシリ、ノッシリと働いて居るのを見ると、しみじみ二十年余の月日が長かった事を思わずには居られなかった。

 お関は「可愛がるには大きすぎる」と云う様な感に打たれながら母親に耳打ちして、自分の頭に萌えて居る計画を話した。

「ウン、そりゃあよかろ。

 そんな訳合ならよく私も気をつけてやろ。

 お関は母親に二人の癖なり顔立ちなり身ごなしなりを非常な正直さと熱心で比較させた。

 如何にも重三の顔は土臭かったけれ共お関とはまるで異った骨骼と皮膚とを持って居た。

 離れたっきりで居たおかげで何一つとして同じ癖は持って居ない。

 まるで赤の他人同様だと見えたのである。

「ほんに好い都合じゃ。

 満足した囁きが又繰返され、お関は喜悦と一種の好奇心に胸を一杯にして機嫌よく帰って来た。

 それから後も屡々山田の主人は養子の事を云って居ると、お関が行って来てから三月目にY県の実母から手紙をよこして、

「矢吹さんの息子が二十六になって居て、次男でもあるしするからどこぞへ行きたいと云うてなさるが。

と云って来た。

 お関は平静な気持で、

「まあ矢吹の重ちゃんが其那にもなりましたかねえ。私の家に居た頃はまだほんの水っ子だったのにね。早いもんだ。

 私の婆さんになるのに無理はない。

等と主人に話して行った。

 山田は、矢吹の士族である事にすっかり気を引かれて、

「そうかい。そりゃあ好い。

 士族なら申し分はないな。此那に落ちぶれても元は斬り捨て御免の御武家さんじゃったんだから、平の土百姓からは養子も出来んと思うとった。

 なあお関。

 捨てる神あれば拾う神ありじゃわい。

 それにお前も前方から知っとりゃ情も移ると云うもんだ。

と非常な満足でお関の母の心遣いをよろこんで居た。


        八


 その前から蕙子の祖母は町の或る商人にかなりまとまった金を貸して居た。

 その男の娘が一年程家に来て居た事から泣きつかれて、今其れだけ拝借出来なければ一家散り散りばらばらに成って仕舞わなければなりません、とか何とか云うので、人だすけだと云って祖母が東京へは無断で出してやったのだった。

 きっと御返し致しますと証文まで書いた正月が過ぎてから幾度催促をしても寄さないので、誰か仲に入ってちゃんと口を利く人がなけりゃあ困ると思って居る所へ山田の主人が来てその話を聞くと、何の訳が有るものか、私がうけ合って取ってあげると約束をした。

 蕙子が来た時分きっと取ると云った山田からは音沙汰ないし、自分の方でもいつまでも穴をあけて置き度く無いからと云うので祖母は気を揉んで居る所だった。

「ほんとに山田さんもどうしたんだろうね。

 あんなに確り受合って居ながら何とも云ってよこさないんだよ。

 私もほんとに困って仕舞うよ。

 祖母は茶の間で新聞を読んで居る蕙子にこぼした。

「ほんとにねえ。

 だけれど、お祖母様も御たのみなさりようが悪かったもの。

 あんな人にどうして金の事なんか御委せなすったの。

「だけれどお前、丁度私が、来て居なすった小学校の先生とその事を御話し仕て居る所へ来て『ウン、そんならわしが引きうけた』と云うんだもの。

 彼の人に断ったってどうせは誰かにたのまなけりゃあならないのだから、又己を好いと断りながら誰に頼んだとか何とか云って面倒が持ちあがるから、仕様事なしにたのんで仕舞ったのさ。

「そりゃあ、そうかもしれないけれど、

 『そうですね。おたのみする様だったら又改めて私が上って種々お願い仕ましょう』

と云って置いた方がようございましたね。

 たのむ頼まないは此方の勝手なんだから彼の人が何と云おうが確かな人にした方がどれだけ安心でよかったか知れない。

「そりゃあお前はそう云うけれどね、

 きまり切った顔が殖えも減りもしない此の小さい村ではそんな事が大した事なんだからね。

 何でも私みたいに皆の世話に成らなけりゃあならない者は一人でも敵を作るのはよくないのだから。

「それもそうですね。

 それで何なの、お祖母様、どうなって居ましょうかってお聞きにでも成った事があって。

「あああるともね、この間中は日参して仕舞った。

 明日は町へ行きますから行らしって下さいって云うから行くと彼方の主人が居ませんからまた明日出なおして行きましょうと云ったりして、一日だってはっきりした事は分らないんだもの。私がいくら気長だって腹も立とうじゃあないか。

「一体どの位お貸しなすったの、そいで何をして居る家なの、彼方は。

「八十円ばかりなんだよ。

 生糸だの桑だのを商売にして居る家なのさ。

 かなり大きな家なのだよ、彼処いらではね。

 だから困ったと云っても其の時限りの話だったんだろうし、それに今年は生糸はいくさで下った代りに桑が大変好い価だって云う事を聞いたから、九十や百は何でもなく返せる筈なのだよ。

「まあそう。

 そいじゃあもっとどしどし云ってお遣りになれば好いじゃあ有りませんか。彼方の家へも山田の方へも。

「けれども又そうひどくも云えないからね。

「でも証文や何かを皆山田へお預けなさったの。

「証文は私が持って居るがね。

 万事好い様におねがいするとは云って置いたのさ。

 それでね、お前に一つ云ってもらいたいんだよ。

 東京から云われて来たって云う事をね。

「だって私にそんな談判が出来るもんですか。

 一口でへこまされて仕舞うでしょう。何にも知らないんですもの。

「そんな事あるもんかね。

 私より字も書け、読めもする癖に、そんな事が出来ないなんて事はないよ。

 ほんとに行っておくれでないかい。

「だってお祖母様。

 外の事なら仕てあげるけれど……

「そんな事云わずとさ。

 いろんな家の事の相談相手に成れるからこそお前だって来た甲斐が有るんじゃないか。

「相談相手にはなる事よ、いくらでも。

 だって私貸し金の催促に行かせられるのは生れて始めてですもの、厭だろうじゃ有りませんか。

 誰か外の人におしなさいよね、お祖母様。

「いいえ、お前が好いんだよ。

 東京の家でもどうにか仕たいと云って居ますからと云って様子だけ見て呉れれば充分だから。

「お祖母様御自分で行らっしゃいましよ。

「いやだよ、私は。

 後生の悪い業突婆見たいじゃないかい。

「そんなら私だって慾張り娘みたいでいやじゃあ有りませんか。

 蕙子は殊にお久美さんの事を思うと行き度く無くなった。

 若し山田の家で使い込んででも居る様だったら、その事を聞くお久美さんだって辛いだろうし、自分だって、僅かばかりの金にせくせくして居ると見られるのはいやであった。

 けれ共祖母が行って呉れ行って呉れと繰返し繰返したのむので、生れて始めての経験に胸をわくわくさせながら山田へ出かけて行った。

 主屋の方へ行くと長火鉢の前に恐ろしい眼付をしたお関が中腰になって居て、隅の方にお久美さんがしょんぼり眼を赤くしてうずくまって居た。

 蕙子は嵐の起ったらしい様子にちょっと躊躇したけれ共何でもない様にお関に挨拶をした。

 お久美さんは好い逃時の様に蕙子を一寸見たきり音も立てずに奥へ引っこんで仕舞ったあとで二人は下らない世間話をして居たが機を見て蕙子は却って金の催促をされる様な顔を仕ながら、

「あの橋本の事を種々御面倒になって居りますそうですけれど、どんな工合になりましたろうね。

 祖母も気を揉んで居りますし、東京の家でもなるたけ早く極りをつけたいと云ってますから。

とやっとの思いで口を切った。

「ああその事ですか。

 それはね、ほんとにお気の毒様なんですけれど、思う様に行きませんのですよ。

 第一向うは商人ですからね。

 そんな事になるとなかなか抜目なく立ち舞いましてね。素直においそれとは出しませんですよ。

「そりゃあそうでしょうってねえ。

 ああ云う風な商売をして居ては金を借りるのにもなれてましょうから。

 けれ共近頃に行らっしゃっていただけたでしょうか。

「さあ、どうでございますかね。

 もう此頃は何ですか、いそがしがって、御覧の通り今日ももう家に居ませんのですから。

 きっと又思いながら行かれないで居るんでございましょうよ。

 それにああ云う事はどうもしおが有りましてね。

「ほんとに御いそがしいのに御無理でしょうからね。

 祖母も、あんなに用が沢山御あんなさるのに御たのみして置くも心ないって云って居ますんですから、あんまり御面倒の様でしたら御遠慮なく御断り下すった方がようございます。

 僅かばかりの事なのですから、誰にでも出来ましょうから……

「いいえ迷惑の何のと云う事じゃあ有りませんのですよ、切角自分も思って仕始めた事だからどうしてもまとめて仕舞い度いとは申して居りますんですからね。

 只あんまり長く掛ってすみませんのですけれど。

「御迷惑でさえ有りませんでしたら此ちらも願って置いた方がいいんですけれ共……

 祖母も云って居るんですけれ共、どうせ返す見込みがないものならなかった物だと思って黙ってあげるけれど、こんなに延ばし延ばしして一度も顔も持って来ないのはひどいってね。

 一体彼方あちらは返すつもりで居るんでしょうか。

「そりゃ貴女、勿論拝借したものですもの、

 お返し仕様とは思って居ましょうよ。

「そうでしょうかねえ、

 そんならどうでも好い様な事だけれ共一度位云いわけに来そうなもんだけれ共……

 何か上手うまい方法はないでしょうかねえ、

 ほんとに困って仕舞う。

「そうですねえ。

 兎に角あれ丈のお金なんですから。

 でもまあ家で一生懸命物にする積りでやって居るのですし致しますから、あんまり外から口をお入れなさらない方がようございましょうよ。

 蕙子の心にはフッと或る事が浮んだ。

 そして鋭く聞いた。

「何故?

「いいえ、何故って、

 何故って事もありませんですけれどね。

 あんまり彼方此方から云われると却って変に出てなかなか出さない人が有りますですから。

「そうかも知れませんね。

 けれどあんまりはかどらないから丁度町に知った弁護士が居るから其の人に口を利いてもらいたいって云う事も云って居るんですけれど。

「さあ、それはどうでしょうかね、

 私なんかには分りませんけれど、それ程にする事はありますまいと思いますよ。

 まあ弁護士と云えば公になり勝ちでございますもん、事を荒だてて見た所でさほどの功も有りませんでしょうよ。

 まあ勝手な事を申しますが、当分は家にお委せなすって居らしってようございましょう。

 どうにかなりましょうから。

「そうですね。

 そいじゃあ山田さんがお帰りなすったらよくお話しなすっといて下さいまし。

 御いそがしいでしょうが、どうぞよろしくお願い申しますってね。

 蕙子は帰る道々、どうしても、彼方からは金は返ったのだけれ共山田の家で消えて仕舞った様な気がしてたまらなかった。

 他の人に口を利かせるなとか、事を荒だてるには及ばないとか云うのは、只此方の為にばかりではない様な気もした。

 第一金に饑えて居る様な人にこんな事をたのむのは、此方からそうする様に仕向ける様なものだ。

 お祖母様もあんまり不用心すぎる。

 そうなってからああ斯う云ったってもう仕て仕舞った事でどうも成りはしないのに。

 蕙子は祖母に山田からの報告をしながら、今まで思って居た事を云おうか云うまいかを迷っていた。

 云ったって好い様な事だけれ共、若しそれが事実だったらば、何の関係もないお久美さんにまで悪意を持たれる様になっては、そうでなくってさえよく云われて居ない家の娘と仲よくして居るのを不快に思って居る祖母はどんな事をするか知れないと云う不安があったので、其れがほんとだったら私が云わずとも自然に分って来る事なのだからと思って到々飲み込んで仕舞った。

 けれ共そんなこんなで、昔から山田のために掛けられた種々な迷惑な事を思い出して来た祖母は、蕙子が喫驚びっくりする位細々しい事まで話して聞かせて居たが、到々仕舞いにはお久美さんの事に落ちて行った。

「一体のことお前はどうした事なのだえ、

 私はほんとに不思議でしようがないよ。

などと、どうせよくは運が向いて来ない娘とそんな仲よく仕て居たって何にも成る物じゃあない、もっと得に成る友達を作るものだとか何とか云って蕙子に気を悪くさせて仕舞った。

「お前はほんとに変な人だよ。

 十一二の時から風変りなんだものね。

 高沢さんのお嬢さんが遊ぶから来い来いってお云いなさるのに行かないで、あんなお久美なんかと大騒ぎやって居るんだから。

 何にしろあの方だって男爵のお嬢さんなんだからね、つき合って居ればいいのさ。

「まあ、あの事をまだ覚えて居らっしゃるの。

 私もようく覚えて居るわ。あんまり腹が立ったから。

 だってあの時分あのお嬢さんはまだやっと八つか九つ位だったのに私の事を顎で指し図して、

 『之をおしなさい』『彼れをおしなさい』って小間使いの様に用を云いつけて切りたくもない人形の絵草紙だの何だのを切り抜かせられた時はほんとに腹が立った。

 ちゃんとして行ったお客様だのにと思ってね。

 あんな事をさせて喜んで見て居る親が随分馬鹿ですね。あんな事をして着物や人のお辞儀とお世辞のために生きて居る様な女に仕て仕舞うのだから。

 それから見ればお久美さんの方がよかった筈じゃあありませんかねえ。

 ほんとに可愛い子だった。

「そりゃあ彼の時分は可愛かったかもしれないけれど、此頃はどうだかしれないよ。

 家が家だからね。

 彼んな家に居てよくなれっこはないから用心しなけりゃあいけないよ。

 好い食いものになって仕舞うよ、人をよくして居ると。お前の様な世間知らずはじきだまされて仕舞う。

「疑ったらきりはないから、好い加減にして置かなけりゃあ駄目でしょう。

 そんな事思うと私はもういやになって仕舞う。

 ほんとに。

 蕙子はその晩種々な厭な事ばっかり思い浮べて涙をこぼしながら長い事眠られないで居た。


        九


 翌日の午頃蕙子はお久美さんに会いに山田へ出掛けて行ったけれ共、一番先に出て来たお関に、町へやって留守だと断わられた。

 木曜に集りが有るから其の用事で行ったのだとほんとうらしい顔をしてお関は説明したけれ共、蕙子は家に居ると云う事をはっきり感じて居た。

 どうにかして会いたいとは思ったけれ共、一度居ないと云われた者を執念く索すのも何だか厭なので蕙子は思い切れない様にして帰って来て仕舞った。

 お関の顔には明かに昨日の話を不愉快に思って居るらしい毒々しい表情が有った。

 それや此れやで蕙子は昨日持った疑問を益々はっきりさせられた様な気がして居た。

 お久美さんの町へ行った事は嘘だったけれ共、木曜に集りの有るのは確かで有った。

 山田の主人が半夢中で信じたキリスト教も、その年のおかげで、低いゴトゴト軋る様な声の祈祷や讚美歌が尊そうにさも分って居るらしいので、一年も立ったこの頃では月に一度二度ずつ祈祷会めいたものを開く様に成って、中学の生徒だの村の娘達だのが半分珍らしい物を見る様に、一度はまあ行って見ようやと云う調子で集まって来た。

 けれ共中には熱心な者も有って、集りがあればどんな天気でもかかさず来て世話を焼く娘も有った。

 山田の主人も、くつろいで涼める夜を片くるしい文句の講釈や口から出まかせの又聞き説法などには過したく無かったのは重々だったけれ共「先生、先生」と自分を呼んで有難がって居る若い者が、

「もう今月はなすっても好いでしょう。

 先々月からズーッとお休みつづけですからね。

などと几帳面に云って来るので、気乗りもしないがそれ等の者のためにと云う様で木曜日が定められた。

 昼間では働きに出るのに困ると云うので、其の日も夜から開かれた集りには十五六人の者が出席した。

 息づまる様に黄暗い電気の下で、小机だの針箱だのを積み重ねた上に白かなきんを掛けたテーブルをひかえて、落ちそうに目鏡を掛けた主人が小形のバイブルと讚美歌集を持って立った。

 敷く物もなしに取り澄した様子で居並んだ者達は、一種異った気持を持って、禿げ上った大きな額と白く光る髭の有る老人を見あげた。

 いつもの習慣通り家の者は一番後に座って各自に勝手な事を考えながら、壁に掛けられた十字架のキリストの絵だのマリアの石版画を眺めたり、平常馬鹿をつくしてお関に押えつけられて息もつけない様にして居る時とはまるで違って、ほんとに何か出来そうに見えて居る主人をるそうに見たりして居た。

 扇や団扇を話の間に使ってはいけないと云い渡されてあるので、物は方便だとあきらめて、妙な声を出してはアーメンと云うのも聞き捨てて居るお関は、都合さえよい様になるのならと素直に夫の命を守って、折々暑苦しそうに身を揺ったり、足に止まった蚊を無作法な音をたててたたいたりしながら云い訳に苦しんで居る橋本の金の事を考えて居た。

 自分の傍に引きつけて坐らせてある恭の方を時々見ながら、

「彼那に止めるのも聞かずに使って仕舞って、一体どうする積りなんだろう。

 使う時は勝手に使っといて、後の仕末はいつでも私にさせるものだと思ってる。

 さかさに立ったって今すぐ彼れ丈のものが右から左へ出るものではなし、若し彼の家で他の人でも頼んだら皆ばれて仕舞うのに、何て呑気な人なんだろう。

 アーメンどころじゃあ有りはしない。

 お関は、忌々しい様に落着いた様な調子で、

「神の我々を恵ませ給う事は……

と云って居る主人を上目で睨んで居た。

 蕙子が来てから不安がって居た問題が又お関の心に鮮やかに成って来て、毎日の様に別に之と云う考えもなく、苦しまぎれに、

「どうかするから、

 お前なんか介わんで置け。

と云う主人をつかまえては腹をたてて居た。

 訴えられでも仕様ものなら大事おおごとになる危い金まで使って、村長に成ろうとか何とか騒ぎたてて、揚句のはてに来たものは前よりも多い借金の証文と悪口であるだけでもむしゃくしゃするのに、橋本の金の事まで思うと、余り意地が焼けて一素の事首でも括ってやれとまで思って居た。

 そんな事を思うに熱中して居たお関には、今主人が何を云って居るのだか、前に背中を並べて居る者達が何を云って居るのだか、さっぱり知らないで居た。

 いつの間にか皆が皆首をズーッと下げて額を手で支えて中に自分一人ポッツリと頭をあげて居ぎたなく横座りに仕て居るのを気づくと、お関は周章あわてて前をかき合せて恭の顔色をうかがいながら下を向こうとした時、土間の方で誰かが案内をたのんで居るのが聞えた。

 お関は好い機にして立って行って見ると、北海道へ久しく行って居た清川と云う、主人と親しく仕て居る男が、まだ着いた許りと見えて鞄を片手に下げて立って居た。

「まあ、誰かと思ったら貴方で居らっしゃるんですね。さ、どうぞお上り下さいまし。

 今申して参りますから。

 お関は客を暗い土間に立たせたまま主人の所へ引き返して臆面もなくズカズカと皆の前に立って、

「まあ、貴方、清川さんが行らしったんですよ。

 お上げしましょう。

 早くいらっしゃい。

と云うなりバタバタと馳けて行った。

 静かに思いをこらして居た皆の者はあっけに取られて意外な破壊者を見送って、どうするのかと決心をうながす様に主人に目を向けた。

 厳らしい様子で落ついて居た主人は、急に、

「ああそうか、すりゃあ好く来なすった。

と云うと、皆に、

「今日はもう客がありますから一寸。

と二三度頭を下げてそそくさと暗い方へ行って仕舞った。誰も口を利く者も立つ者もない位魂を奪われた者達は、自分達をどうして好いのか惑う様に互に顔を見向わせて、静まり返って心の高まる様だったと思われて居た前の瞬間を不思議に思い浮べて居た。

 急に足元を浚われた様な皆は、始めの間こそ妙に擽ったい様な滑稽な気持になって居たけれ共、しばらくすると、自分達に加えられた無礼に対する反感がムラムラと湧き上って、前よりも一層引きしまった顔を並べて黙り返って居た。

 娘達は大嵐の起ろうとする前一刻の死んだ様な寂寞に身を置いて居る様な不気味さで互に袂のかげで手を堅く握り合ったり肩をぴったりすりよせたりして、何かたくらんで居るらしい若者の群を臆病に折々見合って居た。

 皆の心は怒で波立って居たけれ共、その時主人が最一度顔を出して何か一言、

「失礼してすみませんでした。

とでも云えば、

「いいえ、何。

と云う丈の余裕は有った。

 けれ共土間で声は聞えながら主人夫婦と客とはなかなか出て来なかったが、二階へ行くに通らなければならないので三人は一かたまりになって皆の座って居る傍を通った。

 白い洋服を着た男は主人を振り返りながら、

「お集りですね、どうぞおかまいなく。

と云うと主人は平手で人なみより大きい頭を叩きながら、

「いや何でもない。

 介わんのさ。

 ま、二階で一杯やるのさ。

 貧亡して居ると酒で憂さ晴しだよ。

と云って大声で笑いながらドヤドヤと皆なんか小蟻のかたまりとも思わない様子で行って仕舞った。

 若者の憤りは頂点に達して仕舞った。

 どっかの隅で誰かが、

「何て云うこったい。

と云ったのが導火線になって十二三人の口からは火の様な罵りが吹き出た。

「一年もよく化の皮を被り終うせたな、爺い、

 到々尻尾を出しやがった。

「偽善者!

 打っちまえ、打っちまえ。

 何かまうもんか、彼那奴。

「貧亡すると酒でうさ晴しだとよ。

 俺達に、酒は神のいましめ給うた何とかだなんて云いながら、お前だけには許し給うたのかい。

 あんまり馬鹿にしてもらいますまいよ。

 一人がドカドカと階子口に走けて行ったのにつれられて一人もあまさず一所にかたまった若者は、荒い北風と貧しい生活に育てられた野性を隠す所なく発揮して、さわがしく怒鳴りながら折々ワーッと鬨の声をあげた。

 彼等は皆極度の亢奮で顔を赤くし目を輝かせて、鍬を振い鋤を握るになれた力の満ち満ちた腕を訳もなく宙に振ったり足を踏みならしたりしながらその単純な胸の中を争闘の本能の意外な衝動に掻き乱されて、一人として静かな我を保って居る者はなかった。

 主人夫婦に対する憎しみは喉の張り裂けそうな声となって二階に犇めき上って行った。

 或る者は力まかせに階子を足蹴にしたり拳で叩いたりした。

 若者共は悪口の種をあさった。

 選挙の日、反対党を撲った事

 買収仕にかかって失敗した事

 その他あらゆるその男の恥辱になる事々を叫びながら、

 「殺して仕舞え」の

 「覚えて居ろ」の

 声をそろえて今にも逃げ路のない二階へ雪崩れを打って躍り込みそうな勢を示した。

 あまりの事に暫くの間黙って見て居た娘共は、物凄い叫び声と皆の顔に怯えて、音もたてずコソコソとかたまりあって黒い外へと逃げ出して、息を弾ませながら走り去って仕舞った。

 お久美さんは只恐ろしかった。

 今にも自分達が殺されてでも仕舞いそうになって、納屋の中に農具と一緒にかたくなって震えて居た。

 皆をなだめる筈の恭吉は真先に姿をかくして仕舞って居たし、集まった者の相当な年の者は最初主人が立ち去ると同時に帰って仕舞った。

 すべての様子が皆若者達が暴威を振うに適した状態にあった。

 互の声と激亢に煽られて急造の机を履み倒したり、キリストの絵を裂いたりして居ても二階からは人の顔がのぞきもしなければコトッと云う音さえもしなかった。

 主人と清川は運ばれたばかりのビール瓶を握って階子口の両側に立って、黒い頭の現われるのを待って息をのんで居た。

 お関は半ば失神した様になって戸棚の中にボーッとして居た。

 上と下とで互に相手の現われるのを待って居た。

 上から降りて来る者は誰も居なかった。

 下から昇って行く者は一人もなかった。

 両方の張りつめた心は少しずつゆるんで来た。若者共の叫びは折々思い出した様に繰り返された。

 けれ共彼等の目前には黄色の灯の下に取り乱された貧しい家具と引きさかれた絵が淋しく淋しく霊を地の底に引き込みそうに横わって居るばかりだった。

 十二三の喉が拡がって迸り出る声が無限に続いた闇の中に消え入って仕舞った後の沈黙は、激情の赴くがままに走った後の眠りを欲するまでに疲労した心の奥までしみ透って、互に目を見合わせて寄り合わずには居られない程の陰鬱と凄惨な気分が漲って居た。

 若者等の口からは太い吐息がもれた。

 そして涙のにじむ様な気持になって影の様に去って仕舞った。

 若者達の去ったのを知って上の男は始めて自分のそこにそうやって立って居る事を気づいた。

 気が抜けて崩れる様に座についた二人はだまったまま酒をつぎ合って喉の渇きの癒えるまで呷りつづけた。

 暖味が快く体中に廻って、始めて、

「いやどうもひどい事だった。

と主人が云った時にはお関もようよう気が落ついておそれながら下の様子を見に降りると、取りちらした中に恭とお久美さんがぼんやりたって居るのを見つけた。

 お関はカーッとなった。

 いきなり噛みつく様な声を出して云った。

「お久美、

 一体どうしたって云うのだい、それは。

 何心なく立って居たお久美さんは喫驚びっくりしてお関を見ると

 始めてその気持が分って、少し狼狽しながら、

「彼の人達が斯んなにして行ったのよ。

 私今来たばっかりで何にもしない。

と低い声で云ったけれ共お関は益々いら立って、

「さ、恭、

 お前あっちへお出で、此処はいいから。

と命じてから、

「お久美、まあお座り。

とお久美さんを自分の前へ引き据えた。

「お前は此処で何をして居たんだい、え、お久美、

 お云い。

 すっかり白状しておしまい。

 お関の口元は自分の家を滅茶滅茶にして行った若者に対しての憤怒とお久美さんに対しての嫉妬でブルブルと震えて居た。

 元よりお関だってお久美さんが只偶然恭の居る所へ来合わせて何の気なしに居たのだ位は分らないではなかったけれ共、若い者同志だ、何だか分ったもんじゃあないと云う気持と、恐怖と憎しみで乱されて居たお関は疑わずには居られなかった。

 お久美さんの顔を見て何か云って泣かせてやらなければ気がすまなかった。

 そしてお関は「白状しろ、白状しろ。え、何をして居たんだよ」とお久美さんを攻めたてた。

 お関の不法な怒りに会って只泣きながら震えて居たお久美さんはあまり幾度も幾度も攻めつけられるので、

「私、私何にも知らないのに……

 あんまりだわ。

 恭に聞いて御覧なさると好いわ。

 何ぼ何だって、私まさか。

と云うと、お関は益々声を荒々しくして、

「何があんまりだえ。

 よく口答えをおしだね。

 さ、何とでもお云い。

 ききますよ。

 人が不憫だと思って何でも手をひかえて居ると、増長して何でも勝手にする気になって居る。

 もう今夜と云う今夜はきかないよ。

と云いたてた。

「一体さっきだってお前が気さえ利いて居ればすぐ皆を好い様に云ってなだめるべきだのに、あんなに成るまで黙って見て居て、いざとなると、自分だけさっさと何処へか行って仕舞って……

 お前みたいな恩知らずはないよ。

 私みたいな者が何故撲り殺されなかったろうと口惜しかろうね。

 だが、そう上手くは行かないのが世の中なのさ。

「もう此那家に居ないが好いよ。

 どこでもお前のすきな所へ行くが好いじゃあないかい。

 お前の大切なお蕙さんの所もあるしね。

 私はもうそうやってふてて口も利かない様な人と一緒には居られないんだからね。

 恐ろしくて。

「今時の若い者なんて、何が何だか分りゃあしない。

 ね、お久美、

 お前云わないで好いのかえ。

 後で後悔おしでないよ。

 ほんとに図々しいにも程が有る。

 どうしても出て行ってもらった方がいいよ。


 逃げて帰った娘達の話に驚いた者達は相談ずくで七八人集まって山田の家へ来て、お久美が一人ぽつねんと叱られて居るのに少なからず驚かされた。

「何ーんの事だ。

と云う気が仕たけれ共、する事もないので来た者は二人の仲裁に入った。

「何かお久美ちゃんに落度が有ったら、俺がだまっては居ないさ。

 ね、お関さん、どうしたんだ一体。

 明けっぱなしに云ってお呉れな。

 叱る所はみっちり私が叱ってやるから。

 お久美ちゃんも何だ。

 お関さんに一から十まで面倒見てもらってるんだから決して我を張る様な事が有っちゃあならないのさ。

 ね、まあ訳を話しておくれな、お関さん。

 お関は自分でも何がほんとに叱る事なのかはっきりは分らなかったけれ共、口の中でゴトゴト何か云ったあとで、

「皆私が及ばないからなんですよ。

 こんな小娘にまで踏みつけられるかと思うと、

 この年をして生きて居る甲斐がなくなりますよ。

 ほんとに。

と泣き出した。

 来た者は皆お関の気心を知って居るので、お関を叱る様なお久美さんを叱る様な至極要領を得ない事をくどくどと繰返して到々仲なおりをさせてしまった。

 その騒ぎの最中二階では浮腰になって居る清川をまあまあと云って山田の主人が独りで機嫌よく酔って居た。


        十


 蕙子は翌日其の事を人伝に聞いた。

 其の場の様子等を種々想像しながらお久美さんの身に恙がなかった事を喜んだけれ共、自分が風邪を引いて床に居たので会う事も出来ずに四五日を送った。

 村の者は、口先でこそ会えばお関に、

「飛んでもない事でした。

位は義理から云ったけれ共、心の中では十人が十人、日頃からのお関や主人に対する鬱憤を晴して呉れた事を快く思って居た。

 其の夜若者共に加えた無礼な仕打ち等が段々知れて来ると、益々山田夫婦には面白く無い噂ばかり耳に入る様に成ったので、急に思い立ってお関は兼てから主人に話してある養子の話を進行させて迎えにY市へ行く事を云い出した。

 主人も此頃は嫌な事ずくめで、自分の立てて居る目算がバタバタとわきから崩れる有様なので、当分気を抜くに其れも好かろうと云うので、僅かの着換えを持って旅立つ事に成った。

 明日立つと云う晩に成ってからお関は急にお久美さんを独りで留守させて置く事を不安がり始めた。

 人家の稀れな所にポツネンと若い娘一人置くと云う事より、お関にとっては、自分の居ない幾日かを恭吉と小女ばかりの中に置くと云う事は必ず何事かを引き起さずにはすまない事だと感じられた。

 留守の間も洗濯を頼んで来ないものではないから恭を他所へやる事も出来ない。

 お関は独りで種々思い惑った末、久し振りで暇が出来たからと云って町に居る宣教師の所へ手伝いにやるに限ると思いついた。

 お関はお久美さんを呼んで、

「今度ね、Y市の人で家へ養子が定まったからその人を迎えに明日の朝立とうと思うんだがね、

 若い者ばっかり家に残してくのも気掛りだから四五日の間お前町の辻さんの所へ手伝に行ってお出で。

 あすこでもこの間赤ちゃんが生れて手無足で居るんだから丁度好いやね。

と是も非もなく云い渡した。

 お久美さんは総ての事のあんまり突然なのに喫驚しながら、殆ど無意識に、

「ええ。

と返事をして、自分達の部屋に来てから始めて落着いた気持になって、今度来ると云う養子の事を考えた。

 養子が来る。

 お久美さんは直覚的に或る事を悟った。

 にわかに世の中が明るく成った様な、自分の体が延びた様な歓びがお久美さんの心を領して、薄暗い灯の下で、白い布に包まれた自分の成熟した体を、喩え様の無い愛しみを以て眺めて居た。

 どんな人だろう。

 目の前には今まで見た若者の顔のすべてが現れ出て、朧気ながら髪の厚い輝やかしい面が微笑を湛えて見えたり隠れたりした。

 其の晩、お久美さんは今まで有った事の無い幼児の様に安らかな明けの日の楽しい眠りに陥ちた。

 九時過の汽車に山田夫婦を送り出してから、お久美さんは、珍らしく蕙子を訪ねた。

 その前の日に漸う床を離れた許りで、まだ頭の奥が重い様な気持で、何事も手に就かないで居た蕙子は意外なお久美さんの声に驚きもし喜びもして、年に似合わしい浴衣を軽く着て、髪等もまとまりよく結ったふだんとはまるで人の違う様な姿を楽しそうな眼差しでながめやった。

「今日はどうしたの、

 どうして此那に早く来られたの。

「今日?

 まあね、そりゃあ好い事が有るのよ。

 伯母さん達がY市へ行って留守になったの。

「そう、まあ、そいで、

 いつ立ったの、昨日。

「いいえ、今もう一寸さっきなの。

 私ね、町の辻さんの所へ行かなきゃあならないんだけれ共、行きがけに一寸およりしたの。

 思い掛けない事が有るわねえ。

「ほんとにねえ

 いつ頃帰るの。いずれあすこまで行ったんだから四五日か一週間位は掛るんでしょう。

「ええ、大抵四五日だって。

「じゃあ毎日家へ来て居らっしゃい。

「駄目よ。

 辻さんの所へ行って居なけりゃあならないから。

「どうして。

 ずうっと行ってるの。

「ええ帰って来るまで。

「まあ、そう。

 そいじゃあ仕様がない。

 ああ、そうそう、

 この間木曜に大騒ぎだったんだってねえ。

 貴女何ともなかったの。

 心配したんですけどねえ、私も丁度工合が悪かったもんで行かれもしなかったけれど。

「なんでもなかったのよ、

 彼那事。

 伯父さん達があんまりな事を仕たんだから、あたり前だわ、あの位されるのは。

「そんならよかったけれど、

 あの一寸前の日に貴女の所へ行ったんだけれ共、彼の人に追い帰されて仕舞ったのよ、

 貴女が町へ行って留守だって。

「あらまあ、一体いつなの、それは。

 この頃、私、町へなんかちっとも行かないのに、随分ね。

 会わせない積りでそんな出鱈目を云ったのね。

「きっとそうなのよ。

 私もそうだと思ったから何んでもない様な顔をして、

 『そうですか』

 ってさっさと帰って来た。

 私がきっと捜したり何かするだろうと思って居るんですからね。

「ええ、そりゃあそうだわ。

 困らして見たくて仕様がないんですもんね。

「だから当をはずさせて遠くの方から見て居るんです。自分の思う様に困ったりがっかりして呉れないと彼の人はもうもう世は末だと思うんですよ。

「ほんとにね。

 でも考えて見れば、彼れもやっぱり気違いに違いないわね。

 私どうもそうらしい。

 二人は他意の無い気持に成って笑った。

 お久美さんの歯はいつもの通り堅そうで美くしかった。

 けれ共今まで一度も見た事の無い表情がのびやかな眉の間にも輝いた頬にも漂うて居るのを見付けた蕙子は不思議さに眼を見開いた。

 歓楽の音ずれを待ちあぐねて居る様な緊張と物倦い倦怠とが混乱したなまめかしさが如何にも若々しい弾力の有る皮膚を流れて、何物かに心を領されて居る快い放心が折々、折々其の眼をあて途も無い様に見据えさせたり、夢の様な微笑を唇に浮べさせたりした。

 蕙子は明かにお久美さんの霊を宇頂天にさせて居る何かが有るのを知ると共に、常とまるで異って感じの鋭くはでやかに成って居る顔を面白く見守って居た。

 いつも此の位晴れ晴れと美くしくあって欲しいとさえ思われた。

「ほんとにまあ、貴女も辛いわねえ、

 あんな人の傍に居るんだから。

 何か好い事が無いでしょうかねえ。

「ええ、ほんとよ。

 伯母さんさえ人並で居て呉れたらと思う事よ。

 伯父さんは変だけれ共彼那じゃあないもの。

 でも此頃はほんとに好いわ、私。

 最後の一句をお久美さんは何とも云えない細く優しい声で心から云って、こみあげて来る感情を押えるに力の足りない様に膝をムズムズ動かしたり下を向いて後れ毛を丁寧に耳のわきに掻き上げたりした。

 蕙子は何だか心に陰が差して来る様な気持になって、

「何がそんなに好いの、此の頃。

 私にも半分位分けても好いでしょう。

 貴女みたいに嬉しそうな事はちっとも私には来ないんだから。

と云って淋しく微笑んだ。

「まあ。

 何でもないのよ。

 第一私そんなに嬉しがってやしないわ。

「そう。

 それはそうと彼の人達は何のために今頃行ったの。

 暑いのに大変でしょうねえ。

「養子に成る人を迎えに行ったのよ。

「え?

 養子。

 まあ養子なんかするの、彼那家だのに。

「まあ、可哀そうに、

 いくらあんな家だって貧亡ながら後取りは入用るわ。

「へえ。

 私始めて聞いた。一体いつから出て居たの、其那話。

「いつからも何も有りはしないわ、

 昨日の晩始めて私聞いたんですもの。

「そいで、今日もう迎に行くの。

 まあ何て突拍子もない家なんでしょう。

 養子なんて云う大切な事をそうじきにさっさと片づけて仕舞うなんてね。

 一体どんな人なの。

「私知らないわ。

「年も名も知らないの。

「ええ。

 私に聞かせないんですもの。

「だって、まあ、あんまりじゃあ有りませんか。

 まあ、それにしても変ですねえ、

 そうじきに養子に丁度好い人が見付かるなんて。

 第一、先の人は彼の家がどんな家でどんな人が集まって居るんだか知って居るんでしょうか。

 知って居ちゃあ来る者がなさそうだけれど。

「ほんとにね。

 だけれ共、矢っ張り縁が有るんでしょう。

 お久美さんは何を思ったのかポーッと顔を赤くしてはにかむ様に微笑するのを見て蕙子は何も彼もすっかり分った様な気がして薄笑いをしながら頭を左右に揺り動かして、苦労をしながらも単純な女らしい夢心地に支配されて居るお久美さんの可愛らしい霊を想って居た。

 来るべき歓びを期待して居る成熟した体の隅々に普く行き渡って居る柔和と謙譲と恥らいを見出すと蕙子は殆ど痛ましい様な気持になって仕舞った。

 未知の若者を自分の王者とも君主とも想像して居るお久美さんは此の力強い夏の日をどれ位幸福に感じて浴して居るのだか知れない。

 幾日かの後、自分の前に展らかれる永劫の花園の微な薫香を吹き渡る風に感じて居るのに違いない。

 年若い娘の中に在って、自己の征服者を待ち焦れて居る彼女等の願望の強さ、強者の前に身も心も捧げ様とする若い霊の焔に驚かされもし悲しまされても居る蕙子は、不幸に不幸の続いた十九年の年月を暗く送ったお久美さんが不意に現われ様として居る若者に対して自分の幸福な世界の開拓者で有ると思うのは決して無理では無い。

 其れが事実と成って開展され得る事なら蕙子は共に微笑もし夢見る様な歓びを分つ事も出来様。

 けれ共決してそうは成らない事とは蕙子に明かに分って居た。

 お関の病的な心は、若しお久美さんが当然その位置に有ってもその頭に新婦の環飾りをのせさせるものではない。

 輝いたお久美さんの体、押え切れない力で差し上って来るおだやかな微笑を蕙子は、寒い様に悲しい気持で見て居た。

 いずれは見なければならない悲しみの極みまで無心で居るお久美さんを歩ませて行くのは忍び難い事で有ったけれ共、又今切角お久美さんの心の前に美くしく現われて居る蜃気楼を自分の一言で打ち崩す事も出来なかった。

 若しかするとと云う偶然を頼んで蕙子は到々一言もお久美さんの心に立ち入った事を云わずに仕舞った。

 年若い娘の羞恥から自分のときめいて居る心を、小躍りして歌って居る思いを「何でもない」静けさで被うて居ようと自分の前に努力つとめて居るいじらしい様子を見ると、余り可哀そうな之からの事を思うて蕙子は口も利けない様であった。

 自分はあまりひどくお久美さんを悲しませない様に見守って行く丈なのだ。

 歓びには極が有る。喜びに躍る心は自分で鎮められる時は遠からず来るものである。

 けれ共悲しみの深さは量り知れない。

 心の底の底まで喰い入って行く悲しみの中に、静かに手厚く慰める者の有る事は決して無駄には成らないと蕙子は思って居た。

 歓ぶ者の前に其の歓ぶ者を悲しむ者が居るのは痛ましい事だ。

 蕙子は二つ年上の「娘」を種々な思いに耽りながら眺めて居た。


        十一


 辻へ行ってからのお久美さんは実に優しい可愛い娘で有った。

 絶えず輝いて居る顔、静かながら情の籠った声は、辻の全家族に好い感じを起させた。

 主人は神の御恵に浴し得た霊の輝きだとか何とか云って居たけれ共、主婦や老人は延々としたお久美さんの体を頼もしそうに眺めながら、

「好い娘さんになりましたねえ。

 年頃と云うものは争われないもんですねえ、先の時分は痩せた様な体をして居なすったっけが、声でも何でもまるで違う。

と笑いながら云って居た。

 赤い着物に包まった赤坊をお久美さんは宝物の様な気持で抱く事が出来た。

 世界中の事と人とが皆自分の為に動いて居る様で、哀れな者に恵まずには居られなかった。

 人の罪を庇わずには居られなかった。

 今まで無心に繰して居た祈祷も今は明かに自分の慰めと成り、神の名を一度称える毎に心が高まって行くのを感じて居た。

 朝夕の祈りに敬虔な気持で連り、静かな夜の最中、冴え渡った月の明るい時などには云い知れぬ霊感に打たれて、髪を震わせながら涙をこぼす事さえ有った。

 お久美さんの身内には幸福が血行と共に高鳴りして居るので有った。

 一日一時を非常に長く、お久美さんは四五日の日を送った。

 六日目の日午後から三人で帰ると云う知らせを受けて、お久美さんは体中が堅く成った様に感じながら村の家へ帰った。

 黙ってせっせとそう片付け栄えもしない家の中を掃除して、珍らしく掛花に昼顔の花を插して見たり、あやしげな山水の幅を掛けたりして漸う家らしくなった中に、小ざっぱりと身じまいをして薄く白粉さえ付けたお久美さんは喜びと恐怖の混じった表情を面に浮べて立ったり座ったり落付きなく動いて居た。

 畑地を隔てた彼方に白々と続いて居る町からの往還をながめやったり小女のせっせと土間を掃いて居る傍に訳もなく立って見たり、遠い向うの木の間から三台の人力が小さくポコポコと立つ砂煙りの中に走って来るのを見つけるまでの間は、お久美さんにとっては居ても立っても居られない苦しい時の歩みであった。

 三つのチョコチョコと動いて来る者を見つけると、お久美さんは無意識に顔を火照らして、掛鏡で一寸顔をのぞくと、大いそぎで裏へ出て仕舞った。

 豚の騒がしい鳴声の聞える小路を行ったり来たり仕て居たけれ共それでもまだ好い隠れ場所では無い様な気になって、まだ果の青い葡萄畑へ入って行った。

 徐々そろそろ陰って来た日影は茂った大柄な葉に遮られて涼しい薄暗さを四辺あたり一杯に漂わせて、うねうねと曲りくねった列に生えて居る其等の幹と支柱とを隙して見る、向うの斜面の草地、すぐそばの菜園等が皆目新らしくお久美さんを迎えた。

 番小屋に腰を下して立て並べた膝に支えた両手の間に顔を挾んで安らかな形に落付いたお久美さんは眼を細めて、葉擦れの音と潤いのある土の香りに胸から飛び出しそうな心臓の鼓動を鎮め様と努めた。

 けれ共総ては無駄で有った。

 漸う息苦しくない呼吸を始めた時、いきなり耳元で途轍もなく大きな声が、

「旦那、どっちから入るんですえ。

 向うからですかい。

と怒鳴った事によってすっかり乱されて仕舞った。

 山田の主人が、

「うん向うから。

と云う声を夢の様に聞きながらお久美さんは両手をしっかり握り合わせて化石した様に夕闇の葉陰から音もなく這い出る中に立って居た。

 間もなく主屋に人声がざわめいて、

「お久美は一体どこへ行ったんだい。

 お前捜してお出で。

とお関が云って居るのも手に取る様に聞えて居たけれ共お久美さんは動こうとも仕なかった。

 パタパタと草履を叩きつける様にして小女はズーッと葡萄畑の方へ来て、入るのを怖れる様に入口の木戸を半開きにして、

「お久美さん居ないんですか。

 皆さんがお帰りですよ。

と大声を出した。

 喉が渇いた様な気のして居たお久美さんはすぐ声を出せなかった。

 暫く黙って返事を待って居た小女がもう一度、

「お久美さん居らっしゃらないんですか。

と云った時漸々、

「なあに。

と云って出て来たお久美さんの顔は小女が気味を悪くしたほど真面目に凝り固まって居た。

 非常に厳な気持でお久美さんが主屋へ行った時は山田の主人と新らしく来た人とが向い合って座って居るわきでお関が突き衿を仕い仕い大きく団扇の風を送って居る所だった。

「お帰んなさいまし。

とお辞儀をすると、山田の主人は機嫌よく若者の方を見ながら、

「はい只今。

 さあ、この人が重三さんと云ってな、今日から家の若旦那だよハハハハハハ。

と酒に酔った様な顔をして云った。

 お久美さんは又黙って頭を下げてお関の傍に座って下を向いたなり団扇を動かして居た。

 前よりもずうっと気が落付いて来て、澄んだ目で遠慮勝ちながら確かに若者の顔を見た時、お久美さんは淡い失望に迫られた。

 其の顔は如何にも下等に逞しくて、出張った頬の骨と小さく鈍く動いて居る眼い目とは、厚く垂れ下った様な唇と共に、どんな者が見たって利口だとは思えない表情を作って居る。

 お久美さんは丈の足りない様な紗の羽織から棒の様に糸織の袴の膝に突出て居る二本の真黒な腕と気味の悪い程大きい喉仏をチラリと見て、淋しそうな眼を自分の膝に伏せて仕舞った。

 お関夫婦は如何にも嬉しそうに下にも置かず待遇して有るっ丈の食物を持ち出したり、他愛もない事を云って笑ったりして居た。

 お久美さんは夢の醒めた様に飽気無い気がして、何処かの小作男の様な若者を何時しか湧き上った軽い侮蔑を以て見下して居た。

 始めて恭吉の容貌と挙動が人に勝れて居るのに気付くと共に此那半獣の様な男が自分の生涯の道連れであると云うのは余りみじめな、蕙子に対しても恥かしい事だと云う思いがどうしてもまぎらされなかった。

 果物などを食べながら皆がさも面白そうに下らない事を云って笑い興じて居る間に、お久美さんは独りで土間の前に立って、身の置き所の無い様な失望と激しい情無さで、さっきまでの喜びを跡片もなく洗い去る程の涙をポロポロとこぼして居た。

 生きて居ても仕様の無い様な淋しさが心一杯に拡がって来るので有った。

 翌日は午前に、重三はお関に連れられて近所廻りに行った。

 来た時の通りな装りをして足の下に隠れて仕舞う様な籐表ての駒下駄を履いて固く成ってついて行く様子を見送って、井戸端に居た恭吉は、

「へ、好い若旦那だ。

と云って嘲笑った。

 小女とお久美さんは其れを小耳に挾んで井戸端の方へ振向きながら、

「聞えると大事だよ。

と云って笑ったけれ共、お久美さんには、恭が濡れた手先をズーッとのばして白いシャツの腕で額の汗を拭いた時の様子が目に残って居た。

 一番先に道順でも有るのでお関は蕙子の家を訪ねた。

 女中は、いつもになく改まって丸帯に帷子かたびらを着て、

「御隠居様はお居でですか。

と云ったお関にも驚いたけれ共尚々その後に控えて居る重三の様子にすっかり面喰った。

 其の様子を聞いた祖母も蕙子もちゃんとした身じまいをしてわざわざ滅多に人の行かない客間を明けて通した。

 蕙子は大方其の養子とか云うのだろうとは思ったけれ共黙って出て行って見ると、将してそうで、得意の鼻を高々とお関は二人に養子を紹介した。

「重三と申しましてね。取って二十六になりますんですよ。

 Y市の士族の二番目なんでございますがね、余り話が急にまとまりましたんで、まだ何処様へもお話し申して置きませんでしたから、さぞ喫驚遊ばしたでございましょうねえ。

 行き届きませんが、どうぞ何分よろしく御願い申します。

 祖母は流石年を取って居るだけあって度魂を抜かれながらも、

「まあそうですか。

 そりゃあ何より結構な。

 お年頃もよし、お体もお健者そうで、何よりですわ。

 まあまあ、其れで御主人も御安心でしょう。

と云った。

 蕙子は、二人がしきりに喋って居る間中静かに座ったままで其の重三と云う二十六の男を観て居た。

 殆ど滑稽に感じた程其の男の態度は取りたての熊的で有った。

 まるで借り着をした様な着物の着振りから、上の空の様に座って居る座布団付の悪さから、どうしても昨日まで鍬を握って居た男とほか思えない筋肉の異常な発達を見ると始めて、軽い安心仕た様な気持に成った。

 之ならお久美さんも自分に無関係で有った事を喜ぶに違いない。

 蕙子は心の中で却って重三の愚直らしい顔つきから物腰しをよろこんだ。

 黒々と日に焼けた角張った顔、重々しく太った鼻、頭の地にぴったり貼り付いた様に生えて居る細い縮れてまばらな髪、其等は皆蕙子に不吉な連想を起させた。

 どうしてお関夫婦も此那見掛けからして利口でないに定まった様な男を養子にする積りに成ったのだろう。物好きだと思って何の気なしお関と重三の顔を見くらべて居た蕙子は、二人が余り以て反っ歯なのに驚ろかされた。

 猿に近い程にお関は歯がズーッと出て生えて居る。

 重三はお関程ひどくはない。

 けれ共唇が合い切れない様に僅かの隙を作って外に向いた歯を被うて居る所は、どう見ても似て居ないとは云えない。

 蕙子は好奇心に動かされて尚幾度も幾度も見なおしたけれ共、一度毎にその事は明かになって来て、気のせいか頸の辺の皮膚の荒さまでそっくりの様に思えて来た。

 忌わしい疑問が忽ち蕙子の胸一杯に拡がった。

 十五分程して他所へも行かなければならないと云って二人が帰るまで、蕙子は怖ろしい気持に成って、二つの顔を見くらべて居た。

 帰って仕舞ってからも蕙子の家は一日中お関の養子の噂で持ち切って居た。

 皆その突然な仕打ちを笑ったり、木偶の様に口一つ利かないで行った重三の気の利かなさを彼此れ云った丈で、その蕙子を喫驚させた口元については気のついた者もないらしかった。

 蕙子は他家の事だと思って黙って居た。


        十二


 山田で養子をした事は此の狭い村での一事件で有った。何の話も無くて居た所へ突然お関が重三を連れて、

「今度之が家の後を取る事に成りましたから、何分とも宜敷く。

と云って廻った事は皆の反感を買って、数える様な家並みでどうせ後から知れる様な事々は相談する様な体裁で吹聴仕合って居る者達は、

「余り踏み付けた仕打ちじゃあ有りませんか。

 お前達なんかはどうでも好いぞと云う様な風を見せられちゃ、何ぼ私共みたいな土百姓でも虫が黙って居ませんや。

などと云い合って、当分は何処でもその噂で持ち切りの有様だった。

 蕙子の家へ来る者共でも、

「山田さんでは妙な事ばっかりなさいますんですね。

 今度の御養子の事だって何にも伺って居ませんでしたのにいきなり先日その御養子さんとかを御連れなすって御披露なんですものねえ、御隠居様。

 それに賤しい事を申す様ですけれ共、彼あ云う御縁組をなされば何は無くても知り合いを集めて御酒の一杯も御出しなさるべきですのにね。

 そんな事もまるで無かった様でございますよ。

 御夫婦とも左様そう申しちゃ何ですけれど一寸変って被居いらっしゃいますから無理もありませんでしょうが。

等と云う者が少くなかった。

 人が勝手に好きでする事を矢鱈に干渉して自分の徳に成るでもない事を一生懸命に云って居るのを蕙子は可笑しくも思ったけれ共実際其の唐突な事の成り行きとの妙な重三の事を思うと変に考えずには居られない様でもあった。

 単調な明暮に倦いて居る者は好い事にして騒がしく彼此と噂して居た。

 山田の家も此の重三が入ってから種々混み入った様子に成って来た。

 自分がフト思い付いた事が、自分の予期以上にスラスラと運んで行って、何と云っても憎かろう筈の無い実の子を大びらに家に入れる事の出来たお関はそりゃあ満足して居たには違いなかったけれ共、一方恭吉が自分に向ける意味有り気な眼を気に掛けずには居られなかった。

 何か不満が有るらしく、自分が何か云ってもてて鼻歌で行って仕舞ったり、わざと聞える様に重三の悪口を云ったりする様子がお関には不安で有った。

 若しかすると重三のことをすっかり知って居るのでは無るまいかと云う怖れ。

 自分が恭に向って仕向けた種々の事を自分から洩す魂胆をして居るのでは有るまいかと云う不気味さ。

 非常に多くの弱味を持って居るお関は、恭がジーッと自分を見守る目から逃れる気味に成って居た。

 今まで何事も控目に仕て居た恭吉は主人が居ない様な時には昼日中ひるひなかあたり介わずにお関に小使をねだったり何と云っても仕事を仕ずにゴロンとなって講談本か何かを読み耽ったりする様に我儘になり出した。

 お関は如何うして好い者か恭に就いてはほとほと困って居た。

 只解雇しても好いには好いかも知れないけれど、それを不服な男が何といって此の家を掻き廻す様な事を云わない者でもないし、其の口止めとして恭の満足する丈の金をやる事もお関の今の有様では出来なかった。

 相談する者も無くてお関は独りで思い惑いながら爆裂弾を抱えて火の傍に居る様な思いをして居た。

 丁度お久美さんを使にやり、主人と重三は町へ出て行った留守で有った。

 お関は恭と二人限り此の家に居る事を少くなからず不安に思いながら主屋で洗濯物を帳面に付けて居ると、洗場の方からブラリとやって来た恭は暫く黙って立って居たが、やがて縁側に腰をかけると何となし意味の有りそうな笑いを浮べながら、

「ねえお内儀かみさん。

 一体彼の重三さんてえのはどうした人なんです。

と云い出した。

 お関は努めてせわしそうに帳面から目を放さずに、

「重三かえ、

 どうした人ってお前家の養子だろうじゃあ無いか。

 何か彼れがしたかい。

と非常な不安を以て云った。

「いいえ何も仕た訳じゃあ有りませんがね、

 恐ろしくおのろですぜ。

 よく彼那のを養子になんか仕なさいましたね。

 まるで三春の馬車屋っても有りゃしない。

「何だね、そんな毒口を叩いて。

 彼れだって主人格な男なんだよ、お前から見れば。

 そんなにつけつけ云ってお呉れでないよ。

「有難い御主人さね、へっ。

 恭は地面に叩きつける様に唾を吐いた。

「まあお前、今日はどうかして居るね。

「もうとっくに如何うか仕て居ますよ、

 御陰様で。

 ねえ、お内儀さん、

 彼の重三って人を貴女は後とりに定めたんですか。

「そうさね、

 定めずに連れて来る者は居ないじゃないか。

「へえ、そうですか。

 あんな薄馬鹿にゆずるんですか。

 そいじゃあ一体私はどうなるんです。

 このまんま御払い箱はひどすぎますぜ。

 お関は急に今までの恭の様子がすっかり飲み込めた。

「何だね、そいじゃあお前は此の家を望んで居たんだね。

「あたり前ですよ。

「そんな事って有りゃあ仕ない。

 そりゃあ余りだよ。

 第一そんな事が有っちゃあ御先祖にすまないじゃあないか。

「そいじゃあ何故貴女彼那事を仕たんですえ。

 好きな時には勝手に慰んで居ようが、邪魔に成ったら早速お払い箱か。

 そいじゃあすみますまいよ。

 私もこんな事こそ仕て居るが男一匹です。だまって、はいそうですかと云えると思ってなさるんですかね。

 年よりゃあ此れでも苦労人ですよ。

 そんなお坊っちゃんじゃあ有りませんや。

 お関は真青な顔をして下を向いて黙って居たが、いきなり頭を上げると噛み付く様に鋭い声で、

「お前、人を強請ゆする気だね。

 若しそんな事をすりゃあ、只じゃあ置かないよ。人を馬鹿にして。女だと思って馬鹿にするんだろうが、いくら女だって霊いが有るよ。

 主人は主人さ、人面白くもない。

と傍に有った物尺を握って神経的に口元をビクビクと震わせた。

 恭は皮肉に笑いながら、

「お内儀さん、

 一寸の虫にも五分の魂ってね。

 そう踏みつけてもらいますまい。

 貴女の蒔きなすった種は貴女が刈りなさるのさ。

と云ってニヤニヤしながら又洗場の方へ行って仕舞った。

 恭は愉快で有った。

 重い鏝の火加減を見ながら口笛を吹いたり唄を唄ったりしてお関の醜い間誤付いた様子を思い出して居た。

 恭吉は元よりこんな貧亡な有っても無くっても同じ様な家を欲しい等とは夢にも思っては居なかった。

 やると云われても此方から逃げたい様であったけれ共、重三の来た事を好い機会に今まで一杯にたまって居たお関に対しての不快な胸の悪くなる様な憎しみを爆発させる材料に使って居るまでの事で有った。

 恭は、自分の打つ芝居にお関が巧く乗って来て、講談本で読んだ通りの啖呵を切ると、丁度書いてあった通りの様子に出て来るのが面白かった。

 シャツに鏝をかけながら、

「あれでもう少し云ってやって、

 『さあそんなに恨みなら斬るなり突くなりしておくれ』

 とぶっつかって来ると面白いな。

とさえ思って居た。

 お関は恭の心を知る事は出来なかった。

 真個ほんとに自分が家をもらう積りに成って居た所へ重三が出て来て目算をがらりと崩して仕舞ったのを恨んで居ると外思えなかったので、非常な不安が湧き立って、恭を巧く納得させるか自分か重三が身を引くより仕様がないとまで思った。

 只一つ自分の弱味に付け込む男の勢力の強い事をお関は怖れずには居られなかった。

 今にきっと何か起る。

 お関は重三と自分の生命にさえ不安を感じて冷やかな刃がぴったり差しつけられて居る様に感じた。


        十三


 お関は一かどでは無い苦労を仕ながら重三に段々西洋洗濯を覚え込ませ様とした。

 彼那恭の傍へ置くのは気味が悪くも有ったけれ共、又他所へでも頼めば其れを根にも持とうかと云うので臆病に成ったお関は、子供に云う様に、

「恭は長くも居る者だしよく飲み込んでも居るしするから、よくお前云う事を聞いて覚えてお呉れ。

と云って重三に洗い方から習わせた。

 重三は半分其の仕事を馬鹿にして居たし、呼吸の大切な節々を中々腹に入れないので、夕食の後主屋で皆が集まって居る時などわざと恭はお関に、

「ねえお内儀さん、

 私はこの大坊ちゃんを持て余して居ますよ。

 さっき覚えるともう今皆どっかへすっぽかして来るんですからね。

 やり切れたもんじゃあない。

等と云って嘲笑っても赤い顔をするのはお関とお久美さん丈で当人は一向何処を風が吹くかと云う様にして一緒にニヤニヤ顎を撫でながら笑って居た。

 しまりの無い口元や始終眠って居る様な目を見るとお久美さんの心は暗く成らずには居られなかった。

 何を云われても感じの無い様な男を捕えて恭がツケツケと軽口に悪口を云うのを辛く聞きながら、一日淋しそうにコトコトと働いて居るお久美さんには誰も気を付けなかった程、重三は家内の者の注意を一身に集めて、何ぞと云っては小女にまでからかわれて居た。

 お関は、どうかして見掛けだけでも気の利いたらしい若者に仕立てたがって、わざわざ自分で町へ出て流行ると云う鍔の狭い帽子を買って来たり、恭の着る様な白いシャツを着せたりして居たけれど、身装が恭に似て来れば来る程、掛け離れて気の廻りの鈍いぼんくらな取りなしが目立って来た。

 恭にはチョクリチョクリと芝居を打たれ、楽しみに頼りにもと思って連れて来た息子は人前にも出されない様だし、蕙子の祖母へ云い訳の立たない事をして居るのでお関は、朝から晩まで家を外に出歩いて、近くに出来る水道の貯水池の地所を買い占めに口を利いてやっさもっさして居る主人を捕えて、

「どうするんですよ、彼れは。

 此間蕙子さんが来てからもう幾日立って居ると思ってるんです。

 ほんとうに町の人でも中に入って御覧なさい、

 皆知れて貴方は赤い着物だのにね。

 一日たのまれもしない人の世話を焼いて自分の始末も出来ないなんて、お話しにも成りゃあしない、馬鹿馬鹿しくて。

と責め立てても、畳の上にごろ寝をして煤のたまった天井をながめながら主人は、

「俺は知らんよ、

 勝手におし。

 お前みたいに怒鳴ったら使った金が戻るだろうよ。

 なあ重。

と、傍に長く成って居る重三に同意を求める様な事許り云って真面目に聞こうとも仕なかった。

「重、お前も少しは考えておくれな。

 私一人でどうにも成るもんじゃあない。

と泣き就いても重三は重三で、

「わしは何の事か知らん──お阿母さん。

と云う許りなので、お関は気でもどうか成りゃあ仕まいかと思う程無茶苦茶に成って仕舞って、陰気な様子でせっせと動いて居るお久美さんを罪も無いのに当り散らしたり故意と引きかぶった様子をして一日長火鉢の傍へ、へばり付いて居たりした。

 一日一日と立つに連れて贔屓目ひいきめで見て居るお関にも重三の足りないのが目に余って来るので、自分の夫、周囲の人全体を偽って其那子を連れ出して来た罪が皆自分一人に報いられて来る様な気がして居た。

 今の内なら理屈の付かない事もないから帰して仕舞う方も好いかと思ったりしたけれ共、切角斯うやって運が向いて、阿母さん阿母さんと呼ばれて一緒に暮して居られるものを無理にそうも出来兼ねてお関は今までに覚えた事のない程気の弱い日を送った。

 重三の嫁の事等は勿論お関の念頭に無かった。

 村の者等が話の次手に、

「それで何ですか、

 お久美さんとでも御一緒になさるお積りなんですか。

と云い等すると、

「いいえね、

 お久美はお久美で彼れには彼で別に何ぞ似合いの人が有ったら御世話願おうとも思ってますんですが、

 何ですか一向どうも。

と云っては居たけれ共、お関には重三一人の事でさえ荷にあまって居るのだから其の嫁どころの騒ぎではなかった。

 今更仕過ぎたと思わないではなかった。

 重三は山田の主人と一緒に至極大揚に構えて居た。

 傍の者が自分を何と批評仕様が仕まいが、まるで介わずに、自分は自分だと云う様にのろのろと洗場で恭に云いつけられた用事を気が利かなく足しては嘲笑れたり、悪口を云われたりして居た。

 何を云っても笑ってばかり居るので、恭は愚にも付かない事に叱ったりして、お関に対する腹立ちを此の重三を通して療して居た。

 荒れた畑地を耕して麦粥を啜って居た今までに比べれば重三は今の境遇に充分満足して居た。

 僅か許りの水を汲んだり火を燃したりする丈で三度の物は好きな丈食べられ、鼻もひっかけられない様だった自分が兎に角、来る者から、

「重三さん、御精が出ますね。

「重三さん、お暇が有ったらお茶でもあがりに行らっしゃってはどうです。

と云われる事は真に気持が好かった。

 只、自分がお関の実の子だと云う事の出来ないのは何となし不都合な事の様では有ったけれ共、それとて生れ落ちるとから離れて居たので、はっきりどうと云う程心に銘じて居は仕ないので、矢吹が自分の生れた家だとして置いても差し支えは無かった。

 殆ど十位の子供程単純な一色の心を持って居る重三は世の中の不平を知らないで生きて来た。

 朝から日の落ちるまで鍬を握って泥掘りをして居た時も之が自分の運だと思って居た。

 今斯うして、山田の家の若旦那に成り、重三さん重三さんと云われるのも運だと思って居るから、振り返って見る今までの事が非常に辛かったとは思わないが、今の身分もそうひどく大切では無かった。

 けれ共、勿論種々な点で前よりも身体の労働の少くなった事を大変気持好く感じて居た。

 其れから又、自分の毎日の生活にお久美さんと云う若い娘が加わって居る事も重三には珍しかった。

 今まで朝夕顔を見合わせて居たのはもう六十を越した老女で有ったに拘らず、何処から何処まで力の張り切った様な滑かな皮膚と艷やかな髪を持ったお久美さんは、重三の目に殆ど神秘的に写って、素足が小石混りの熱い地面を走って通る時、重そうな釣瓶を手繰るムクムクした手を見ると、黙って見ては居られない様な気が仕て居た。

 けれ共物馴れない重三は其那時自分の取るべき方法を知らないので近寄りもしずに遠くから気の毒そうに眺めて居る許りであった。

 上半身をズーッと下げて、下の板間に敷いた紙にサラサラサラサラ音を立てながら素早い手付きで髪を梳いて居る姿、湯上りの輝いた顔を涼風に吹かせて凝り固った様にして居る様子等は、皆重三に自分とはまるで異った美くしいものだと思わせた。

 素直な崇拝者が其の偶像に対した時と同じ気持で、別世界から降って来た様なお久美さんを見て居た。

 容貌の美醜等と云う問題は重三の頭になく、只珍らしい、何だか奇麗に違いないらしい気持がして、出来る丈度々声も聞き姿も見て居たかった。

 けれ共お久美さんは出来る丈重三と顔を合わせまいとして居た。

 目の前に其の魂を何処かへ置き忘れて来た様な顔が出ると、其処に居たたまれない程不愉快に情なく成って、重三が此那で有れば有る丈お関は否応なしに自分と一緒にするに違いないと云う事が動かせない事の様に思われた。

 恭吉に顎で使われて、何を云われ様が頓と怒った顔を見せた事のない程鈍いのに、体許り鴨居に支えそうに縦横に大きい銅羅声の重三をどう思い返しても好くは思われなくて、其の馬鹿正直に、嘘などをさかさに立っても云いそうもない所等は却ってお久美さんに厭な思いをさせる許りで有った。

 諦めなければならないと云う事をお久美さんは知って居た。

 けれ共彼れ程好く嬉しく想って居た事が斯うまで裏腹に行こうとは余り思い掛けなかった。

 大切に育てて居た子を急病で一息の間に奪われて仕舞った時の様な諦め様にも諦めのつかない歎きが心の奥深く染み込んで、重三を見る度にその堪えられない苦痛が鮮やかに浮み上って、お久美さんを苦しめるので有った。

 お久美さんは蕙子に皆話して仕舞おうかと思っても見たけれ共、自分より年下のそんな事を云いも考えも仕ないで居るらしい者に恥じに成ろうとも知れない其等の事を明すには何だか不安であった。

「まあ厭だ、

 私そんな事知らないわ。

と一口に笑われて仕舞いそうに思えて、今まで一言も云った事の無い事を切り出す勇気は無かった。

 お久美さんは蕙子が何の屈託も無さそうに一日中好きな物を読んで好きな事を考えて、厭になれば響ける様な声で歌を歌ったりして居る様子を思い浮べた。

 彼那に楽に彼那に好きに仕て居れば誰だって利口になれると思えた。

 どんな人だって、自分に仕て呉れる位の力添えや相談は仕て呉れるにきまって居ると思えた。

 彼んな暮しを仕て居る人に到底今の私の苦労が分るものじゃあ無いと、お久美さんは此頃めっきり育って、種々蕙子の知っては居ないと思われる感情を経験した自分の心を尊く眺めた。

「お蕙さんなんてほんとに世間知らずだわね。

 そりゃあ呑気なのよ。

 彼那子供みたいな風をして一日中勝手な事ばっかりして暮して居るんだもの。

 やっぱり年が若いんだわね。

等と独言の様に云って蕙子の事と云えば賞めるとしか思って居ない小女を驚かせたりして居た。

 お久美さんは今までの此那に長かった間何故自分が斯う思わずに過して来られたかと云う事が疑われる様で、七年の間の事が皆他所の噂を聞く様な気がした。

「お蕙さんと私とは生れからして違うんだもの、

 どうせ分りっこありはしないわ。

 私の心配は私一人で切り盛り仕て行かなけりゃあならない、ましてこの頃の様な事はね。

と云う事をはっきり思って居た。


        十四


 山田の養子の事や何や彼で皆がザワザワと口数多く成って居る間に蕙子の祖母が気に病んで居た橋本の貸し金の事は思わぬ落着を告げた。

 重三が来た許りだのに金の話でも有るまいと控えて居た祖母もあんまり埒が明かないのに業を煮やして、到々人をやって、もう公に成っても自分は介わないから町の弁護士に頼むからと云った晩、山田の主人は来て、他人の噂をして居る様な口調で、橋本からはすっかり借りた丈の物に礼まで添えて返したのだけれ共、種々已を得ない事情が有ったので、自分が又借りを仕て仕舞ったと云う事を話して行った。

 祖母は涙の出る程怒って、

「そりゃあ私もお返しする積りで居るんですからな、

 まあ、もうちっとお待ちなすって下さい

と云ったと云う事を幾度か幾度か繰り返して蕙子に話して聞かせた。

「ほんとにひどい。

 あも悪く出来た人は見た事がないよ。

 それもさ、

 丁寧に訳でも話して願って来れば又どう考えなおすまい者でもないのに、お前、まるであたり前の様な顔をして、

 『種々な必要に迫られたものでしてな、

 お断りせんかったのは悪かった』

 と云った丈だよ。

 そりゃあね、彼の人が今年はどの位困ったかは大凡おおよそ分って居るのだから、事を分けて返した物は返した物でそっくり持って来てから話しでも有れば相見互な事だから用立てても上げ様ものをさ、

 年寄りだと思って踏みつけられて居るのを思うと、それ丈でも口惜しくって口惜しくって居られないよ。

 だから、ほら、先お前が行った時、お関が種々云って間へ外の人を入れさせまいとしたのさ、

 私はもうほんとに考えた丈でブルブルするよ。

 よってたかって剥ぎ取る工面許りして居るのを思うと、夜もおちおちは眠られやしない。

 だまそうと掛れば掛る程此方じゃだまされちゃ居られないだろうじゃあないか。

 お人を好くして居たら三日も立たない内に住む所も無くされて仕舞う。

 ああああ、厭な世の中さ。

 此那世の中に生きて居るより死んだ方がいくら好いか知れやしない。

 長く生きて居れば厭な事を余計見るばっかりだよ。

 お前見たいな世間知らずはよく此那事を覚えて置くものだよ。

 祖母は気の毒な程歎息をして居た。

「だけれどね、お祖母様、

 之から金の事なんか頼むのは金にあんまり困らない人になすった方が好い。


 彼那、金と云えば夢にまで見たい程饑えて居る人に頼むなんて、此方も手ぬかりだったんだから、諦めるより仕様が有りませんわ。

と蕙子が云っても聞かない祖母は段々山田の家族の事を悪く云い出して、お関の事、お久美さんの事を頭ごなしに仕た。

 蕙子は赤くなってお久美さんを弁解した。

「今度の事なんかお久美さんに何にも罪は無いじゃあ有りませんか、

 山田の夫婦で仕た事なんですもの。

 そう何でも彼んでも憎い者に仕ないだって。

「お前はそうお云いだけれ共ね、

 彼れ丈の年に成って居て出入りする金の事位大抵は分って居るものだよ、

 それでさ、

 橋本からのだと知って居ながらそれで自分も食わせられたり着せられたり仕たんだもの、やっぱり同じ穴の狐なのだよ。

「そりゃあね、

 お久美さんが彼の家の実の娘で有ったんなら、それを使わせない様にするとか何とか出来るかもしれないけれ共、世話になって居る身分なんですものね、

 悪いと思ったって彼の人達で仕て行く経済の事まで口を出せないでしょうもの、

 それを彼れ此れ云うのは無理ですわ。

 お久美さんなんて、ほんとに気弱な可哀そうな人なんですもの。

「そんなに贔屓したって駄目だよ。

 今に御覧、きっとお前が目を覚ます様な事が出来るから。

 彼那何処の如何した子か知れもしない者を養子に連れて来たり、他人の金を横取りして使う様な家にちゃんとした者が居られると思うのかい。

 お前は矢っ張り何と云ってもお嬢様だよ、

 巧く彼の娘に綾吊あやつられて居るのさ。

「いいえ、そんな事はない、

 そりゃあどうしたって無い。

 一年や二年ちょっとの友達ならだまされて居られるかも知れないけれど、此那に長い間の事ですもの。

「そこがなお都合が好いのさ。

 長い間だと思ってお前は好い気になって居る。

 二月や一月一緒に居る間位はどんな振りでも仕て居られる者だからね。

 お前がそんなに一生懸命になって云って居る事が今に見ておいで、

 まるで異った事になって来るから。

 祖母は平常に無い雄弁で云い立てた。

 けれ共蕙子は場合が場合だったので格別気にも止めないで聞き流して居た。

 意外に踏み付けた行為をされた憤りを忘れる方便に年寄が此の位その周囲の者を悪く云う位は何でも無い事だし、四五日もすれば又その記憶から薄らいで仕舞うものと思って居た蕙子は、如何してもお久美さんを疑う気にはなれなかった。

 却って、この頃の様に種々の事が起って来て、世の中に馴れて居る様でまごつき易い心がひどく動揺して居るらしい事を想うと気の毒になって、人の勝手な噂さを他場事よそごとの様に聞いて居る自分がお久美さんに対して余りに思い遣りのない様な、もう少しどうにか仕ても上げられそうなと考えられたりした。

 けれ共、その事を非常に残念に思って居た老人は、少し種々な事を打ち明けて居る者が来ると、

「此処限りの話なのだがね。

と断り書きを付けながら、かなり芝居たっぷりに山田の主人の常軌を逸した行動を批難して話して聞かせた。

 聞いた者は皆驚きの目を見張りながら、

「まあそんな事までするんですかなあ。

 彼のヤソ爺様なかなか凄腕ですな。

 何にしろ尻押が神様と来てるから御隠居さん、なかなかやる事もドシッとした事ですわい。

と戯談の様に云う者もあれば、

「そりゃあ御隠居さん、泣寝入りは人が好すぎますよ。出すべき所へ出せばちゃんと此処に理が有るんだから、貴女さえウンとおっしゃれば一肩脱がない者でも有りませんよ。

と云ったりする者があると、

「何、もうやったものと思う外ないのさ。

 彼れ丈の金で罪人を作るでもないからね。

とは云いながら年寄は非常にその熱心らしい調子が気に入って、東京の塩瀬のお菓子と云う因縁付きの取って置きの物まで食べさせたりした。

 そしていつでも引き合いにお関とお久美さんが出て、蕙子が居たたまれない程種々有る事ない事、お久美さんの噂にまで話は拡がって行って、来た者の帰った後ではきっと、

「お前は夢中で贔屓してお居でだけれどね。

と、目先の利かないと見られて居る蕙子が小一時間も山田の一家の事並びにお久美さんの解剖を聞かなければならなかった。

 毎日きっと一度は同じ事を聞かされて居たけれど、蕙子はどうしても祖母の言葉を信じる事が出来なかった。

「彼那お関等のために誤解されて種々下らない事を云われて居なければならないお久美さんを考えればほんとに可哀そうにならずに居られません。

 あの位苦労をして辛い思いをして居ながら心の素直な人はあんまり居ないでしょうのにね。

 百人の中九十九人、彼の人を何か彼にか云っても、私だけはちゃんと彼の人を守って行かれる丈しっかりした考えを持って居ます。

と云って、祖母に嘲笑われながらそんな事が一度一度と度重なるに連れて、

「自分丈は正しい理解を持った同情者であり得る。

と云う考えが深さを加えて行くばかりであった。

 蕙子はお久美さんに対しては純な混気のない心が働いて行くのを頼もしく有難い事に思って居た。

 橋本の金の事が有って以来、蕙子は山田の家へ行く事を祖母に云う事が出来なかった。

 一度などは祖母が止めるのも聞かずに出掛けて行くと、漸々山田の家の垣根まで行くか行かないに男を走らせて、

「御隠居様が、用事があるから私と一緒にお帰りなさる様にとおっしゃいます。

と云ってよこさせた。

 蕙子は余程帰るまいかとも思ったけれど、男に対して祖母の面目を失わせる様ではと思うと渋々ながら又戻って行った事さえあった。

 極端に、その名を聞いてさえ虫酸むしずが走る程山田に悪感を持つ様になった祖母は、そんな家へ行きでも仕様ものなら一生払い落す事の出来ない「つきもの」にとりつかれて仕舞いでもするか、髪の一本一本にまで厭な彼の家の空気が染み込んででも仕そうに感じて居たのだから、お久美さんに会う等と云う事は以ての外の事で有った。

 けれ共蕙子は会わずには居られなくなった。

 時々裏の方へ歩きに出た次手に立ちよって、細い畠道を二人でたどりながら小一時間費す事さえもあった。

 重三と恭とに気を奪われて居るお関は、お久美さんに対しては、何か考えて居る所が有るのじゃあないかと思われる程、手をつけずに放って居た。

 その御かげでお久美さんは折々それも一週に一二度ではあったけれ共外で立ち話しも出来る余裕を与えられた。

 一時間近くも、又時によるとそれよりも長く蕙子が出たり帰らない時は祖母は、又お久美さんの所へ出掛けたのだと云う事は感付いて居たのだけれ共、あんまりやかましくは云わなかった。

 割合に単純な心は、一々確かに云ってからされるより、だまってされて居る方が自分としては堪えられる様でも有った。

 会う度毎に蕙子はお久美さんの屈託の有るらしい様子に気が付かないではなかったけれ共、若し別にどうと云う事も思っては居ないのに自分の言葉で、

「ああほんとにそうだ。

と潜んだ気持まで呼び起す様な事が無いものではないと思って居たので、出来るだけ気を引き立てる様に気を引き立てる様にとはしながら別に立ち入った気持まで聞く様な事は仕ずに居た。


        十五


 お久美さんは「お蕙さんになんて今の私の心が分るものか、彼の人は呑気なんだもの」と思いながら種々案じて居るらしく気遣って居る蕙子の様子を見ると、又何となし頼りの有る縋って居たい様な気にもなったのだけれ共、喉まで出掛って居る最初の一言を云い出す決心が付かないで、蕙子に会う毎に、云いたい事は有っても云えない苦しさに攻められて居た。

 山田の家でも此頃は種々な事がゴタゴタと起って来て、お関の見当違いな怒りを受けてお久美さんや小女は身の置所の無い様に成る事も一度や二度ではなかったけれ共、そんな時には、すこしずつ家に居馴れて来た重三が低い地を這う様な声で、

「いかんなあ、

 まあそう気にせんでおかし。

 今に俺も何とかして云うといてやるわ。

と、如何にも思案の有るらしい様子で慰めたりしたけれ共、そんなにされるとお久美さんは却って、付元気をして、厭な重三の口を利け掛ける機会も与えない様にせっせと立ち働いた。

「彼那獣みたいな男、私大嫌い。

 此頃ではお久美さんは、はっきりその言葉を心に感じて居たので、声を聞いた丈でも自分が情なく成って来るのであった。

 重三は勿論お久美さんを見た瞬間から自分の半身になる者だと思って居たので、単純な頭で、お久美さんが自分をさけたり、口を利くまいとして居るのは只自分に対しての羞恥とつつましやかさのさせる事だとばかり思って居たので、重三が行くとチラッと流し目を呉れたまんま、さっさと何処かへ行って仕舞う様子等は其の長く黒い髪と、輝いた頬と共に重三にとっては幻の倉で有った。

 すべてを善意にばかり解釈して居る彼にお久美さんのする事のすべて、持って居るあらゆる物は此上なく不思議な魅力有るものであった。

 そして丁度とろ火にかけたお粥の様な愛着をお久美さんに持って居たのである。

 重三からすっかり離れ、お関にも好意は持って居ないお久美さんの心は、今までより一層はっきりと恭吉の一挙一動に見開いた眼を以て注意して居た。

 重三に比べて何と云う違い様で有ったろう。

 お久美さんは滑らかに薄赤いつややかさを持って居る恭の皮膚を想い浮べると一杯に黒毛の被うて居る堅そうに醜い重三の等はまるで同じ人間ではあるまいと思われる程お久美さんの目に見っともなく写った。

 太い峰の、息をするさえ苦しそうな鼻、

 垂れ下った眼と唇、

 喘ぐ様な声と四辺の静けさを破って絶えず響いて居るフー、フーと云う呼吸の音は、お久美さんに小屋の豚共を連想させずにはすまなかった。

 戯談一つ云えず、笑う時も憤る時も知らない様な重三の前に軽口に気の利いた悪る口も云い、戯談で人を笑わせ、抜目のない取りなしをして居る恭吉が如何程目立ったか分らなかったのである。

 お久美さんは今となって恭が自分に非常な力を持って居そうな事を感じた。

 その調った容貌を見てはその心までも疑う余地を与えられなかった。

 重三は醜いと思う裏面に恭吉のまとまった様子が一日一日と広い領域を占め出して、彼の云う事も笑う事も皆自分に何処かで関係がありそうだと云う事までも、心の底には感じられて居た。

 恭は段々とそれに気付かない程ほんとにお坊っちゃんではなかった。

 殆ど下等なと云って好い位の想像を以て恭はお久美さんの此頃の態度を推察して居た。

 恭吉は洗場で洗濯物に火延しを掛けながら小唄を唄って万事を胸にのみ込んで、渦巻の中に落ち込んだ軽い塵の様に自分自身を自分の感情に攻めつけられて居るお久美さんの若い姿をジイッと見て居た。

 そして或る期待で恭は軽い心のときめきをさえ感じて居たのである。

 自分の気持が自分で分らなくなるにつれて、お久美さんはすべての周囲を恐れ出した。

 恭吉は怖ろしい者であった。

 お関も重三も気味が悪かった。

 人間と云う人間のすべてが、自分の心をのぞき込んで居る様な、何にか自分を仕様と掛って居るのではあるまいかと云う様な不安が湧いて、どうせ自分はたった一人世の中に放り出されて居るものなのだからと云うおぼろげな投げやりまで育って来て、自分なんかが居たって居なくったって日の出る事はいつも同じだ等と、その年頃に有勝ちな病的な悲哀に捕えられて居た。

「どうせ私」と思って居たお久美さんは、すべてを成り行きのままに委せて仕舞って居たけれ共、蕙子に会ったりすると、心の中にたまって居た沢山の愚痴が皆流れ出して、丁寧に掛けられる同情の言葉に又何処か休所の出来た様にも思えたりした。

 其の日も蕙子は裏へ出た次手にお久美さんを訪ねて畑道をゆるゆると歩きながら種々の事を話し合った。

 二人共自分達の話すべき事は此ではないと云う事をはっきり意識しながら、何だかその一番の所へ触れるのを互に遠慮して居る様に満たない気持であて途も無い事を喋って居たが、到々お久美さんは思い切った様に、

「ねえお蕙さん、

 私もう他所へ出ようかと思って居るのよ、此頃。

と口を切った。

「どうして?

「もう彼の家が厭で厭でたまらないんですもの、

 ほんとに居たたまれないわ、私。

「そんななの、

 だって、今まで彼那に長い間貴女堪えて来たんじゃあないの。

「だって、この頃は余計そうなのよ。

 私もうほんとにいや。

「だっても家を出るって、どうするの。

「どっかへ奉公にでも行く事よ。

 もうその方がどい丈好いか知れないわ。

 つまらないんですもの、斯うして居たってね。

 蕙子はお久美さんの打ち明けかねて居る気持を大方は察しる事が出来たけれ共、どれ程の思い違いと混惑が起って居るのかは知る事が出来なかったので、到々思い切ってお久美さんの気を引くために、

「貴方の所へ今度来た方ね、

 どんな人。

と云って見た。

「重三さん?

「ええ。

「私、分らないわ。

「そんな事あるもんですか。

 一体どんな性質なの。

 お久美さんは引きしまった顔をうつむけて乾いた土を見て居たが、いきなり頭をもたげると、

「大馬鹿よ!

と、蕙子が喫驚した程鋭い声で叫ぶ様に云って、ニヤニヤと意味ありげな微笑を洩した。

 蕙子はその古代の彫像の或る者に現わされて居る様な計り知れない程複雑した微笑のかげから何物かを得ようとして、常とはまるで異って居るお久美さんを厳格な気持で眺めた。

 蕙子は陰気になって、その高く短く空の中に飛び去って仕舞った

「大馬鹿よ!

と云う一句の響きを思い返した。

 非常に皮肉らしくあった。

 又大変悲しそうでもあった。

 苦しい苦しい物を吐き出した様な響であった事を思うと、お久美さんが単に重三の噂の心持にはなれないで居たに違いないと思われて来ると、恐ろしい気持が蕙子の胸一杯になった。

「まあ、まさか。

 でも大馬鹿でも介いやしませんね。

 彼の人が好きで自分の養子に仕たんだもの、

 貴女には何にも関係がない。

 ほんとに何にも関係がありゃあしないんだもの、

 ねえ、お久美さん。

 蕙子は殆ど涙の出そうなまで悲しい気持になって居た。

「ええ、そうでしょうよ。

 お久美さんは非常に投げやりな口調で云うと、恐ろしく神経的に袂の先をピンピン引っぱりながら涙を一杯目に浮べて来た。

 その様子を見ると蕙子は堪えられない様になりながら非常に興奮して、

「お久美さん、貴女何か思い違いをして居ますよ。

 あの人は只彼の家の息子になって来たので貴女にはほんとに何でもない人なんですよ。

 貴女きっと自分について何か不安がってるんでしょう。

 第一お関って云う人がそう事を運んで行く人じゃあありませんもの。

 ほんとうに貴女は何か取り越し苦労をして居るんじゃあないの。

 私には大抵分っては居るけれど、そりゃあ余り心配の仕すぎじゃあ有りませんか。

「貴女は何も知らないからそんな呑気な事云って居らっしゃるけれど、どうだか分らないじゃあないの。

 彼の人があんな足りない者だから余計私を苦しめる積りでどうかするかもしれないじゃあないの。

「だから、それが思いすぎなのよ。

 貴女に対して感じて居る通りの嫉妬を矢っ張り今度来た人にだって持つに極って居るじゃあありませんか。

 貴女の邪魔をする通りに重三とか云う人の事も取り扱って行くにきまって居るわ。

 重三と云う人にだって一生嫁は取らせない積りで居るんでしょう、きっと。自分が先に死ななくちゃあならないなんて思わずに。

 だから大丈夫よ。

「いいえ、大丈夫だなんて分るもんですか。

 私はきっと彼の人の事だからそうでもするに極って居ると思うわ。

 第一そりゃあ自分で大切がって居るんですもの。

「大切がるなんて……

 そりゃあ只珍らしい内の事丈なんでしょう。

 何にしろ貴女なんか今のままなのだから安心して居らっしゃいよ、ね。

 心配したって仕様がないわ。

 そりゃあきっとそうならないと私断言する。

「貴女みたいに苦労のない人はありゃあしないわ、ほんとうに。

 貴女ばっかり受け合って呉れたって、伯母さんがそうしたらどうするの。

 お蕙さんがそう云いましたなんて云ったって仕様がないじゃあないの、

 駄目よ。

 蕙子は今まで聞いた事のない乾いたガサガサなお久美さんの声を聞いた。

 こわばった様な頬付をして病気の様な眼をして居る様子を見ると、その心配にどれ位お久美さんは悩まされて居るかと云う事が思いやられて、自分の力で取り戻しのつかない遠くの方まで走らせて仕舞った様な悔みと不安がじいっと仕て居られない程激しく蕙子を苦しめた。

 蕙子も又お久美さんを自分の力で如何うもする事は出来ない事だと云う事をかすかながら感じ始めて居た。

 非常に淋しかった。

 けれ共「それはそうに、とうの昔からきまって居る」と云う気持が一滴の涙もこぼさせなかった。

 それから暫くして少しずつ気の落着くに連れてお久美さんは普通な口調で、どっかちゃんとした家で自分の居られそうな所を心掛けて置いて呉れと頼んで、重苦しい様な足取りで家に帰って行った。


        十六


 蕙子はお久美さんに就て非常に心配を仕始めた。

 辛い悲しい事ばかりに会って居るので、すべて世の中の事々をどんな事までも暗い情無い方にばかり傾けて考える様に馴らされた心を哀れがらずには居られなかった。

 ほんとにお久美さんが自分で云った通り、外へ出て暮すのも好いかもしれない、彼那家に取り越し苦労ばっかり仕て居るよりも却って他人でも人並の者の中に入って居た方が苦労も少ないだろうし後のためにもなるかもしれないと思ったりしたので、非常に年を取った者の様な地味な気持で三間もある様な手紙を東京の家へ出した。

 不断幾度も話して居た事では有ったけれ共、細々とお久美さんの気の毒な身の上を書き連ねて、どうぞどっか好い所が有ったら世話をして上げて呉れる様にと、涙まじりの願いを母へ送った。

 五六日立ってから来た返事には、お久美さんの境遇には同情するけれ共、今差しあたってその位の年頃の人の行く様な所も見当らないし又私として直接女中の世話も出来ないのだからと云ってあった。

 家で使うならと云う様な事が有ったので、蕙子は早速、決して家で使う等と云う事は出来ない、私が帰った時呼びずてにして用を云いつける事は到底出来ないのだから、どうぞいそがないでもどっか見つけてあげてくれと、前にもまして丁寧に願ってやった。

「お久美さんの心配な程私も心配して居りますし、私としては出来る丈の事をしてお久美さんを好く仕てあげなけりゃあならないんでございますもの。

と云う様な文句を書きながら、度はずれの様な事許りする自分を母はどう思って一字一字を読んで呉れるだろうと思ったりして居た。

 寛大に自由にして居て呉れる母も自分とお久美さんとの間に対しては或る不安を持って居ない事はないことを蕙子は知って居た。

 普通の友達以上に親しく離れられない者同志の様にして居ると云う事はよく学者仲間の問題になる病的な心理状態にあるのでは有るまいかと云う危惧が押えられず湧いて居たと云う事は折々其れとなく与えられる注意で蕙子も覚って居たけれ共、自分がお久美さんを「仲よし」と云う以上に愛して居るのは事実としても其れが何にも憚かられる事とも亦危ない事とも考えられないので、遠慮もなくすべてを頼んで居た。

 そして、おそかれ早かれ孰れはお久美さんに都合よくなる様な事が見つけられるにきまって居ると云う安心が心の底にあった。

 毎日毎日蕙子はお久美さんの行かれそうな家を知人の間に物色して見たり、自分が充分働けて一つ家に同じ様にして暮して居られたらさぞ気持の好い事だろう等と、或る時は非常に実際的に又或る時は此上なく空想的に彼女の身の振り方を案じて居た。

 そんな時にも蕙子は永年の間に馴らされた心と云うものを考えずには居られなかった。

 少しずつ字と云う物が自分の言葉を表わして呉れるものになってからまだ二三年外立たない年にある自分にとっては、七年と云う時間は殆ど一生と云っても好い位の長いものである。

 まだ心の育ちかけの漸々赤坊と云う名からついさっきはなれたと云う様な時に「お久美さんは可愛い」と思い込んだのが一種の感情の習慣になって、お久美さんと云えば憎めないもの、可愛いものとなって来て居るのが気味の悪い位種々な時にフイフイと現われて来た。

 蕙子はお久美さんを疑い切れなかった。

 はたの者がどんなに散々とこなそうともつまりの時にためらわぬ弁護を加える気持を持って居た。

 そして、自分とお久美さんの間には何の隔りもなかった──女に有り勝な物質上の遠慮だとか嫉妬だとか云うものは完く姿をかくして居たのである。

 女姉妹のない蕙子は子供の時からまるで年上では有っても妹に対する様な気持をお久美さんに持って居たので、勿論たまには不快に思う事又は激しい感情に動かされて殆ど普通に有り得ない気持になる事はあったとしても、揺がぬ基礎になって居るその感情は二人の永年の間をあきない丁度米の飯の様な味を出させて居た。

 と、蕙子は、その時もたった一人で思って居るのであった。


        十七


 其の頃から村中には、重三に対して種々な噂が立ち始めた。

 誰が云い出した事かは知らなかったが、

「お関さんと何て似て居らっしゃるんでしょう。

と云う低いつぶやきが皮肉に彼処此処の村人の中に繰り返された。

 勿論蕙子もそれを聞いて寒い思いをした。

 祖母は皆と共に嘲笑って居た。

「大きい声では申されません事ですけれどね、どことなし似て居らっしゃる所が有りそうでございますね。

 そんなにはっきりは分りませんけれど、どうもね。

 怪しいものでございますよ。

 それ等の言葉は、要領を得なければ得ない丈、曖昧であればある丈、物ずきな人間の心に種々の想像を起させて、陰気に低くボソボソとそれで居てなかなか執拗に山田の家を被いに掛った。

 云い出した者は勿論、お関や何かに積った悪意を持って居る者共だとは思って居たけれど、お関は気の顛倒する程の恐怖に襲われた。

 自分で調える事をなし得ないまでに混乱した頭になって仕舞った。

 非常に臆病になって蚊のつぶやき程の人の噂にも全身の注意を集めて聞き落すまいとし「お関」と云う言葉「重三」と云う声に霊の底の底まで震わせながらも、外見はちっとも常とかわらない落付き──年のさせる図々しさと虚勢を張り通す事を仕つづけて居た。

 実際お関は平気らしく見えた。

 少くとも彼女の周囲の者の目は内心の争闘まで見透かす事は出来ない事であった。

 お関は平気で居る重三──我が子を見た。

 冷笑を以て朝から晩まで自分を見る恭吉の眼を厭った。

 何にも知らない様にしてせっせと人の仕事に口を出して町まで汗だくだくで日参して居る罪のない主人を見た。

 そして自分の周囲には多くの目が芥一本も見のがすまいと自分等の行動を見守って居る事を考えると、正直な良心の攻めに合って、自分の生きて居ると云う事さえ堪まらない事に思えて来た。

 お関は偽らない心で今日死のうか明日死のうかと云う日を続けた。

 その時は、自分の死によって今までのすべての悪いと云わるべき行為が浄められるものだと云う様な感じを持って居た。

 大病が自分を一瞬に引き攫う事も、天災が此の村全体を無に帰させて仕舞えばと云う事も真正直に望まれる事であった。

 実際、お関は最後の逃げ場所を死に求め様として居たのである。

 けれ共或る晩、お関は静かに自分の死ぬ方法を考えた。

 種々の前例が目の前に行ったり来たりしたけれ共、一つとしてああそうやってと思う様なのはなかった。

 頸を括ろうか、水に溺れ様か、喉を突こうか…………

 彼れこれと思って居る内にお関は暗い床の中で反物屋の店先に立った様に左から右へそりゃあよくないそれもいけないと死に方を選んで居る非常に滑稽な自分を気づいた。

 お関はこたえられなく可笑しくなって、思わずフフフフと云う笑さえ洩した。

「死ぬなんて馬鹿馬鹿しい事が出来るものか。

 そしてお関の頭の中からは死の観念は全く姿を消して仕舞って、どうしたら巧く仮面を被り終せ様かと云う熱心がグングンとこみあげて来た。

「ああ、ほんとにそうだ。

 若し私が此処で死になんか仕様ものなら、そら見ろ気がとがめて死んで仕舞ったじゃあないかと云われるにきまって居る。

 何と云われ様が死んで云い返すわけにも行かないから、ま生きて上手くやりこなして行くのが一番利口なのさ。

 生きるために、天道様は人間をお作りなすったんだものね。

 非常に力強い後援を得た気持がしてお関は床の上に起きあがった。

 そして手を膝にちゃんとのせて、どうしたら巧く事が運んで行きそうだかと云う事を考え始めた心の中には今まで覚えなかった力と快感が満ちて居た。

 やや暫く暗い中にじいっとして居たお関は、

「ああ、それに限る。

と云うとさも満足したらしく──自分自身の心の働きを感謝する様な合点をすると、大きな溜息を一つして又床についた。

 けれ共寝付かれないらしくモタモタと体を動かして居たお関は、今度はスーッと音も立てずに起きあがると、白い浴衣の姿を暗い中に気味悪く浮べて影の様に次に並んで居る布団に手をかけた。

 枕の所へ口を押しつけて何か囁いては揺り、揺っては囁いて居ると、その床からムックリ立ち上った黒く大きい影と一緒に開け放した土間の方へ幻の様に裾を引いて下りて行った。

 静まり返って死んだ様になって居る土間に微かなカタカタと云う音とシュッと云う音が聞えたきりあとは前にもました静寂な四辺一杯に拡がって主屋からは主人の大きないびきが重苦しく流れて来て居た。

 農具とその他の樽や古箱等の積んである土間の一番の隅に一かたまりの様になってお関と重三が立って居た。

 塵の厚く積った様な桶の底に燈されて居る豆ランプはピクピク、ピクピクとひよめいて一息毎に湿った土間に投げ込まれたまま幾年か立って居る廃物を淋しく照し出し、二つの影を魔物の様に崩れて恐ろしく大きく震わせては藁の出た荒壁に投げつけた。

 ホッ、ホッと立つ細い油煙の臭いと土の臭味の満ちた中にお関は自分の髪結いに用う大形の鏡を持って立って居るのであった。

 お関は鏡を高く持ち上げて互の顔の高さまでにした。

「あ、お前これをお持ち。

 顔をもっとこっちへお寄せ。

 お関は鏡を重三に持たせて自分は豆ランプをかざした。

 灰色になった髪の汚なく寝乱れて、横皺の深く刻み込まれた額の下に三角形の目のある鼻の低い猿の様な口元の顔は、世の中の最も醜い者として選ばれた様な若者の顔と並んで長方形の枠の中に現われた。

 弱い光線は二つの顔を照すには充分でなかった。

 明る味の届かない所には肉の腐れ落ちて居る様な不気味さを以て暗く、そうでない所は身震いの付く程の黄黒さを以て描き出された。

「私のする通りにおし。

 死魚の様な目は大きく見開かれた。

 四つの瞳は冷たい水銀の上に凝りかたまった。

 上下にと引き分けられた厚い唇の間から非常に大きく乱杭な歯と細ー長い列とが現われて消えた。

 腐敗に赴いた死顔の様な二つの顔の筋肉は機械的に延びたり縮んだり、かたまったり、ゆるんだりする度に奇怪な絵の様な物凄く不完全な種々の表情が鎮まり返って居る鏡面に写っては消え、消えては写った。

 暫くの間その意味あり気な運動は繰返されると小さい灯は吹きけされ、外界から洩れ入る薄明りの中に鋭く青白い鏡の反射が一条流れた時小虫さえ憚かる囁きが繰返された。

「お前は私の子ではないよ。

「ああ。


        十八


 人々は異常な興味を以てお関を見て居た。

 彼那に云ったら何か云い訳位は仕て廻る事だろうと云う事が各自の頭にあった。

「あんまり一生懸命で云い開きを付け様とでもすればそれこそ怪しいんですよ。

等と、お関が一々事を分けて弁明して歩く事を十人が十人期待して居たのだけれ共、総てはそれとまるで反対に行って、お関はそんな事があるのですかと云う様なゆさりともしない様子を保ちつづけて、伝えられて行く噂さにビクとも仕ないらしく見えた。

 種々鎌をかけて此那事も彼那噂もありますと云って行ってもお関は静かに笑いながら、

「まあ仰っしゃりたい様に云って居らっしゃるがようござんすわね。

 どっちに扇が上るかはお天道様の御心次第ですからね。今にどうかきまりましょう。

と云う許りで、ちっとも周章てた暗そうな事がないので、いつとはなしに噂は下火になりかけた。

 お関は自分の作戦の成功を心で飛び立つ程喜びながら表面はあくまで平静らしく事のなり行きを見て居た。

 お関は正直者が勝を必ず占める世の中ではない事を知って居るのだった。

 人間は妙なもので、偽だと十中の八九までは分って居ても、嘘を云う者が余り押し強くその立ち場を守って居ると、却って、それじゃあ自分の方がと云う怪しみが湧いて来るものである。

 そこを上手く利用する丈お関は世間を見知った年頃であった。

 所謂正直な者達は難なくその手に乗せられて、多くの者の中には、

「ほんとにお関さんの様子を見るとどうしたって其那事が有ろうとは思えませんよ。

 一寸でもやましい所のある人があれ程何でもなく落付いて居られるものですか。

 うっかりした事は云われないものですね。

等と云う者が出来て来ると、皆が皆いつの間にかその気持になって、

「ほんとに飛んだ噂の立ったものですね。

 一体火元は何処なのでしょうね。

 お関さんこそ好い迷惑だと云うものですよ。

等と臆病らしく自分等の風評を立てた責任を何処かへ押しつけ様押しつけ様と仕始めた程であった。

 お関はつまり勝利を得たのであった。

 自分の技倆に非常の自信を持つ様になったお関はすべての行為を前よりも数倍大胆に大股に行って行ったけれ共、恭吉に対して丈は何となし一目を置かなければならない何物かが有る様に感じて居た。

 この事のあった間中蕙子はお久美さんの行く先をあれ此れと心配し、又今度起った根拠のありそうな噂のためにお久美さんの心が乱される事を案じて居た。

 八月も末になって居るので、もうじき東京へ帰らなければならないのに、思って居る事の一つもまとまらない所か却って種々お久美さんにとっては厭な事許りが殖えて此れから益々辛い事だらけになって行きそうな有様なので、殆ど神経病みの様になって、蕙子は毎日毎日気を揉んで居た。

 東京からは何とも云って呉れないので、もう十日程の先にせまって来て居る帰京の日を思って蕙子はやきもきして居ると、思いがけず好い報知を手にする事が出来た。

「蕙子の家と縁つづきになって居る或る華族の小間使いとして話しをして置いたから来て見てもよい。けれ共人柄や何かは私が五六度会った事もあるしするから大抵は分って居る様なものの責任を持つ事になるから四五日家に居させてからよかったら遣ろう」と云う手紙を受けとったとき蕙子はどの位喜んだか知れなかった。

 そこの主婦も知り家も知って居る蕙子は大変に好いと思ったけれ共、お関達の承諾を受ける事は殆ど不可能な事だろうと云う事に思い及ぶと、どうしたものかと云う躊躇が起った。

 そんな事を不用意に頼んでやった事を自分の不行届きとして悔まなければならなかったけれ共、先ず話し丈けも仕て置こうと云うので、その日早速蕙子はお久美さんを訪ねた。

 いつもの通り畑道を歩きながら、蕙子は東京からの手紙を見せた。

「斯う云ってよこして呉れたんですけれど、

 貴女どうするの、私は好いと思うけれど。

「そうねえ。

 お久美さんはその手紙をだらりと下げたまんま呆やり立って居たが、

「私矢っ張り極らないわ。

と元気なく云って、蕙子に手紙を返した。

「そう。

 でも貴女この間中はどうしても他家へ入る方が好いと云って居たじゃあないの。

「ええ。

「この頃に又変ったの。

「そうじゃあないわ。

「じゃあ、どうしたの。

 私ちっとも分らないわ。

 まあでもね、貴女の気の進まないのを無理にと云うのじゃあないからどうでも介いやしないけれど。

 そいでこれからもずーっと彼の家に居る事にきめたの。

「ええ。

「そいじゃあ何にも此那に騒ぐ事もなかったわね、

 貴女の一番好い様にした方が好いんだから、そんならそれが一番好い事よ。

 でも、まあ少し考えて、あの人にも相談して御覧なさいね。

 どうせ、いけないって云うだろうけれど、

 …………

 貴女今日少し変ね、どうしたの、

 躰が悪いの、ちっとも勢がない、

 顔だって妙にうるんで居る──

「そう、何でもないわ、

 気の故でしょう。

 お久美さんは懈るそうに左手をあげて顔中をぶっきら棒に撫で廻した。

 いつもになくたるんだ体中の筋肉、力の弱った様な眼の輝きを見ると、この頃の事で受けたお久美さんの苦痛が皆裏書きされて居る様に思えて気の毒で気の毒でたまらなかった。

「ほんとに体を大切にしなけりゃあ駄目よ、ね、

 お久美さん。

 もっと元気をお出しなさいよ。

 またあしたあたり来るから、もっとピンピンして居らっしゃいね。

 ほんとにどうかして居るわ。

「有難う、大丈夫よ。

 お久美さんが気抜けの様な形恰をして居るのを見た蕙子は家に帰ってからも心配であった。

 種々な想像が浮んで寝つかれない様な夜が明けると蕙子は大変に朝早かったけれどお久美さんの所へ行った。

 そうして見ると又昨日の不安は一層加えられる程お久美さんは疲れた様子をして居て、今まで見た事もない程の青さでかたくなって居る様だった。

 蕙子は喫驚してどこか悪いのだから早く手あてをした方が好いと云っても只せわしそうに、

「ええ、ええ、

 そいだけれど、大丈夫よ。

 そいでね、

 昨日の事私やめるの、どうせだめですもの。

 だからお母様によろしくね。

「そう、そうきめたらその方が却って好かったかもしれないわね。

 ほんとに体が悪そうよ、見ておもらいなさいな。

「ええ、ありがとう。

 今ね、いそがしいから、悪いけれどもう御免なさいな。

 又いつか会いましょうね。

 お久美さんは何だか蕙子が冷たいものを吸い込んだ様に感じた微笑を残して意外な顔をして立って居るのを置いたまんまさっさと家へ入って仕舞った。


 恭吉はかなり美くしかった。

 今度の噂が立つと非常に細々とお関と重三との人相書を作って、似て居る点をあげてお久美さんに見せた。信州の家でちゃんとした母親が一人で自分を待って居る事を話した。

 そして蕙子の行った晩お久美さんは恭吉の影の様になって此の村から去って仕舞ったのである。

底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年1225日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

初出:「宮本百合子全集 第一巻」河出書房

   1951(昭和26)年6月発行

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2008年518日作成

2010年226日修正

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