變な音
夏目漱石




 うと〳〵したと思ふうちに眼がめた。すると、隣のへやで妙な音がする。始めは何の音とも又何處から來るとも判然はつきりした見當が付かなかつたが、聞いてゐるうちに、段々耳の中へ纒まつた觀念が出來てきた。何でも山葵卸わさびおろしで大根だいこかなにかをごそごそつてゐるに違ない。自分は確に左樣さうだと思つた。それにしても今頃何の必要があつて、隣りのへや大根卸だいこおろしを拵えてゐるのだか想像が付かない。

 いひ忘れたが此處は病院である。まかなひは遙か半町も離れた二階下の臺所に行かなければ一人もゐない。病室では炊事すゐじ割烹かつぱうは無論菓子さへ禁じられてゐる。して時ならぬ今時分何しに大根卸だいこおろしこしらえやう。是は屹度きつと別の音が大根卸だいこおろしの樣に自分に聞えるのに極つてゐると、すぐ心のうちで覺つたやうなものゝ、さてそれなら果して何處から何うして出るのだらうと考へるとぱり分らない。

 自分は分らないなりにして、もう少し意味のある事に自分の頭を使はうと試みた。けれども一度耳に付いた此不可思議な音は、それが續いて自分の鼓膜に訴へる限り、妙に神經にたゝつて、何うしても忘れる譯に行かなかつた。あたりはしんとして靜かである。此棟このむねに不自由な身を託した患者は申し合せた樣に默つてゐる。寐てゐるのか、考へてゐるのか話をするものは一人もない。廊下を歩く看護婦の上草履うはざうりの音さへ聞えない。その中に此ごし〳〵と物を擦り減らす樣なな響だけが氣になつた。

 自分のへやはもと特等として二間ふたまつゞきに作られたのを病院の都合で一つづゝに分けたものだから、火鉢などの置いてある副室の方は、普通の壁が隣の境になつてゐるが、寢床の敷いてある六疊の方になると、東側に六尺の袋戸棚ふくろとだながあつて、其傍そのわき芭蕉布ばせうふふすまですぐ隣へ徃來ゆきかよひが出來るやうになつてゐる。此一枚の仕切をがらりと開けさへすれば、隣室で何をてゐるかは容易たやすく分るけれども、他人に對して夫程それほどの無禮を敢てする程大事な音でないのは無論である。折から暑さに向ふ時節であつたから縁側は常に明け放した儘であつた。縁側はもとより棟一杯細長く續いてゐる。けれども患者が縁端えんばたへ出て互を見透みとほす不都合を避けるため、わざと二部屋毎に開き戸を設けて御互の關とした。それは板の上へ細いさんを十文字に渡した洒落しやれたもので、小使が毎朝拭掃除をするときには、下から鍵を持つて來て、一々此戸を開けて行くのが例になつてゐた。自分は立つて敷居の上に立つた。かの音は此妻戸つまどうしろから出る樣である。戸の下は二寸程いてゐたが其處には何も見えなかつた。

 此音は其後そのごもよく繰返された。ある時は五六分續いて自分の聽神經を刺激する事もあつたし、又ある時は其半そのなかばにも至らないでぱたりとんで仕舞ふ折もあつた。けれども其何であるかは、つひに知る機會なく過ぎた。病人は靜かな男であつたが、折々夜半よなかに看護婦を小さい聲で起してゐた。看護婦が又殊勝しゆしような女で小さい聲で一度か二度呼ばれると快よい優しい「はい」と云ふ受け答へをして、すぐ起きた。さうして患者の爲に何かしてゐる樣子であつた。

 ある日回診の番が隣へ廻つてきたとき、何時いつもよりは大分だいぶ手間が掛ると思つてゐると、やがて低い話し聲が聞え出した。それが二三人で持ち合つて中々捗取はかどらないやうなしめを帶びてゐた。やがて醫者の聲で、どうせ、さう急には御癒りにはなりますまいからと云つた言葉だけ判然はつきり聞えた。それから二三日して、かの患者のへやにこそ〳〵出入ではいりする人の氣色けしきがしたが、いづれもおのれの活動する立居たちゐを病人に遠慮する樣に、ひそやかに振舞つてゐたと思つたら、病人自身も影の如く何時いつにか何處かへ行つて仕舞つた。さうして其後そのあとへはすぐあくから新しい患者がはいつて、入口の柱に白く名前を書いた黒塗の札が懸易かけかへられた。例のごし〳〵云ふ妙な音はとう〳〵見極はめる事が出來ないうちに病人は退院して仕舞つたのである。其うち自分も退院した。さうして、の音に對する好奇の念はそれぎり消えて仕舞つた。



 三ヶ月ばかりして自分は又同じ病院にはいつた。へやは前のと番號が一つ違ふだけで、つまり其西隣であつた。壁一重ひとへ隔てた昔の住居すまひには誰が居るのだらうと思つて注意して見ると、終日かたりと云ふ音もしない。いてゐたのである。もう一つ先が即ち例の異樣の音の出た所であるが、此處には今誰がゐるのだか分らなかつた。自分は其後そののち受けた身體の變化のあまりはげしいのと、其劇しさが頭に映つて、此間からの過去の影に與へられた動搖が、絶えず現在に向つて波紋を傳へるのとで、山葵卸わさびおろしの事などはとんと思ひ出す暇もなかつた。それよりは寧ろ自分に近い運命を持つた在院の患者の經過の方が氣に掛つた。看護婦に一等の病人は何人ゐるのかと聞くと、三人だけだと答へた。重いのかと聞くと重さうですと云ふ。それから一日二日して自分は其三人の病症を看護婦から確めた。一人は食道癌しよくだうがんであつた。一人は胃癌ゐがんであつた、殘る一人は胃潰瘍ゐくわいやうであつた。みんな長くは持たない人ばかりださうですと看護婦は彼等の運命を一纒ひとまとめに豫言した。

 自分は縁側に置いたベゴニアの小さな花を見暮らした。實は菊を買ふ筈の所を、植木屋が十六貫だと云ふので、五貫に負けろと値切つても相談にならなかつたので、歸りに、ぢや六貫やるから負けろと云つても矢つ張り負けなかつた、今年は水で菊が高いのだと説明した、ベゴニアを持つて來た人の話を思ひ出して、賑やかな通りの縁日の夜景を頭の中に描きなどして見た。

 やがて食道癌しよくだうがんの男が退院した。胃癌ゐがんの人は死ぬのは諦めさへすれば何でもないと云つて美しく死んだ。潰瘍くわいやうの人は段々惡くなつた。夜半よなかに眼を覺すと、時々東のはづれで、附添つきそひのものが氷をくだく音がした。其の音がむと同時に病人は死んだ。自分は日記に書き込んだ。──「三人のうち二人死んで自分け殘つたから、死んだ人に對して殘つてゐるのが氣の毒の樣な氣がする。あの病人は嘔氣はきけがあつて、向ふの端から此方こつち果迄はてまで響くやうな聲を出して始終げえ〳〵吐いてゐたが、此二三日それがぴたりと聞こえなくなつたので、大分だいぶ落ち付いてまあ結構だと思つたら、實は疲勞のきよく聲を出す元氣を失つたのだと知れた。」

 其後そののち患者は入れ代り立ち代り出たりはいつたりした。自分の病氣は日を積むに從つて次第に快方に向つた。仕舞には上草履うはざうり穿いて廣い廊下をあちこち散歩し始めた。其時不圖ふとした事から、偶然ある附添の看護婦と口を利く樣になつた。暖かい日の午過ひるすぎ食後の運動がてら水仙の水を易へてやらうと思つて洗面所へ出て、水道のせんねぢつてゐると、其看護婦が受持のへやの茶器を洗ひに來て、例の通り挨拶をしながら、しばらく自分の手にした朱泥しゆでいはちと、其中に盛り上げられた樣にふくれて見える珠根たまねを眺めてゐたが、やがて其眼を自分の横顏に移して、此前御入院の時よりもうずつと御顏色が好くなりましたねと、三ヶ月まへの自分と今の自分を比較した樣な批評をした。

「此前つて、あの時分君も矢張り附添で此處に來てゐたのかい」

「えゝつい御隣でした。しばらく○○さんの所に居りましたが御存じはなかつたかも知れません」

 ○○さんと云ふと例の變な音をさせた方の東隣である。自分は看護婦を見て、これがあの時夜半よなかに呼ばれると、「はい」といふ優しい返事をして起き上つた女かと思ふと、少し驚かずにはゐられなかつた。けれども、其頃自分の神經をあの位刺激した音の原因に就ては別に聞く氣も起らなかつた。で、あゝ左樣さうかと云つたなり朱泥の鉢を拭いてゐた。すると女が突然少し改まつた調子でんな事を云つた。

「あの頃貴方の御室おへやで時々變な音が致しましたが……」

 自分は不意に逆襲を受けた人の樣に、看護婦を見た。看護婦は續けて云つた。

「毎朝六時頃になると屹度きつとする樣に思ひましたが」

「うん、れか」と自分は思ひ出した樣につい大きな聲を出した。「あれはね、自働革砥オートストロツプの音だ。毎朝髭をるんでね、安全髮剃を革砥かはどへ掛けてぐのだよ。今でもつてる。嘘だと思ふなら來て御覽」

 看護婦はたゞへえゝと云つた。段々聞いてみると、○○さんと云ふ患者は、ひどく其革砥かはどの音を氣にして、あれは何の音だ何の音だと看護婦に質問したのださうである。看護婦が何うも分らないと答へると、隣の人は大分快だいぶんいいので朝起きるすぐと、運動をする、其器械の音なんぢやないか羨ましいなと何遍も繰り返したと云ふ話である。

そりや好いが御前の方の音は何だい」

「御前の方の音つて?」

「そら大根だいこおろす樣な妙な音がしたぢやないか」

「えゝれですか。あれは胡瓜きうりつたんです。患者さんが足がほてつて仕方がない、胡瓜きうりつゆで冷してくれと仰しやるもんですからわたしが始終つて上げました」

「ぢや矢張大根卸やつぱりだいこおろしの音なんだね」

「えゝ」

「さうかそれで漸く分つた。──一體○○さんの病氣は何だい」

直腸癌ちよくちやうがんです」

「ぢや到底とても六づかしいんだね」

「えゝもううに。此處を退院なさるとぢきでした、御亡おなくなりになつたのは」

 自分は默然もくねんとしてわがへやに歸つた。さうして胡瓜きうりの音でひとらして死んだ男と、革砥かはどの音を羨ましがらせてくなつた人との相違を心の中で思ひ比べた。

明治四四、七、一九─二○

底本:「漱石全集 第十七巻」岩波書店

   1957(昭和32)年112日第1版発行

   1960(昭和35)年910日第2

入力:山田豊

校正:Juki

1999年1218日公開

2011年63日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。