六白金星
織田作之助



 楢雄ならをは生れつき頭が悪く、近眼で、何をさせても鈍臭どんくさい子供だつたが、ただ一つ蠅をるのが巧くて、心の寂しい時は蠅を獲つた。蠅といふ奴は横と上は見えるが、正面は見えぬ故、真つ直ぐ手を持つて行けばいいのだと言ひながら、あつといふ間に掌の中へ一匹入れてしまふと、それで心が慰まるらしく、またその鮮かさをひそかに自慢にしてゐるらしく、それが一層楢雄を頭の悪いしよんぼりした子供に見せてゐた。ふと哀れで、だから人がつい名人だと乗せてやると、もうわれを忘れて日が暮れても蠅獲りをやめようともせず、夕闇の中でしきりに眼鏡の位置を直しながらそこら中睨み廻し、その根気の良さはふと狂気めいてゐた。

 そんな楢雄を父親の圭介はいぢらしいと思ふ前に、苦々にがにがしい感じがイライラと奥歯に来て、ギリギリと鳴つた。圭介は年中土曜の夜宅へ帰つて来て、日曜の朝にはもう見えず、いはばたまにしか顔を見せぬ代り、来るたびの小言だつた。

莫迦ばかな真似をせずに修一を見習へ。」

 そんな時、兄の修一はわざとらしい読本の朗読で、学校では級長であつた。見れば兄は頭の大きなところ、眉毛が毛虫のやうに太いところ、口をゆがめてものを言ふところなど、父親にそつくりで、その点でも父親の気に入りらしかつた。

 が、それにくらべると、楢雄はだいいち眉毛からしてフハフハと薄くて、顔全体がノツペリし、だから自分は父親に嫌はれてゐるのだと、次第にひがみ根性が出た。そして、この根性で向ふと、なほ嫌はれてゐるやうな気がして、いつそサバサバしたが、けれどもやはり子供心に悲しく、嫌はれてゐるのは頭が悪くて学校の出来ないせゐだと、せつせと勉強してみても、しかし兄には追ひ付けず、兄のうしろでこが異様に飛び出てゐるのを見て、何か溜息つき、溜息つきながら寝るときまつて空を飛ぶ夢、そして明け方には牛に頭をかじられる夢を見てゐるうちに、やがて十三になつた。

 ある夜、何にうなされたのか、覚えはなかつたが、はつと眼をさますと、蒲団も畳もなくなつてゐて、板の上に寝てゐると思つた、いきなり飛び起きて、

「泥棒や、泥棒や。畳がない。」

 乾いた声でおろおろ叫びながら、階下の両親の寝室へはいつて行くと、スタンドがまだついてゐて、

「え、泥棒……?」

 と、父親の驚いた手が母の首から離れた。

 母も父親の胸から自分の胸を離して、

「畳がどうしたのです。楢雄、しつかりしなさい。」

 くるりと床の間の方を向いて、達磨だるまの絵にむかつて泥棒や泥棒やと叫びながら、ヒーヒーと青い声を絞りだしてゐる楢雄の変な素振りを、さすがに母親の寿枝はをかしいと思つたのだ。

「二階の畳が一枚もない。眼鏡もとられた。」

 そして楢雄はつと出て行くと、便所にはいり、

「津波が来た。大津波が来て蒲団も畳もさらはれた。猿股さるまたの紐が流れてくる。」

 あらぬことを口走りながらジヤージヤーと板の間の上へ放尿したのち、ふらふらと二階へ上ると、けろりとした顔で元の蒲団の中へもぐり込み、グウグウいびきをかいた。隣の蒲団では、中学二年生の修一が亀の子のやうに首をひつこめて、こつそり煙草を吸ひながらトウシヤ刷りの怪しげな本に読み耽り、楢雄の方は見向きもしなかつた。

 それから一月ばかりたつた雪の朝、まだ夜の明けぬうちから突然玄関の呼鈴よびりんが乱暴に鳴つたので、驚いた寿枝が出てみると、楢雄が真青な顔で突つ立つてゐた。二階で寝てゐた筈だのにいつの間に着変へたのか、黒ズボンをはき、メリヤスのシャツ一枚で、びしよ濡れに雪が掛つてゐた。雪の道をさまよひ歩いて来たことが一眼に判り、どうしたのかと肩を掴んだが答へず、栓抜きへうたんのやうなフハフハした足取りで二階へ上つてしまつた。すぐいて上り、見れば枕元には本棚から抜きだした本が堆高うづたかく積み重ねられてあり、おまけにその頂上にきちんと畳んだ寝巻をのせ、その寝巻の上へ床の間の菊の花と鉛筆と蜜柑みかんが置かれてあつた。

「楢雄、これは何の真似です。」

 しかし、楢雄は答へやうがなかつた。寝てゐると、急に得体えたいの知れぬ力が自分に迫つて来たのだが、それを防がうとする自分の力が迫つて来る力に較べて弱すぎ、均衡バランスが破れたといふ感じがたまらなく怖くなり、何とかして均衡を保たうとして、本を積み重ねてみたり、その上ヘゴチヤゴチヤと置いてみたりしたが、それでも防げず、たまりかねて飛び出したのだといふ事情は、自分でもうまく言へなかつたし、言つても判つて貰へないと思つたのだ。

 その晩、圭介は寿枝から話をきいて、早発性痴呆症だと苦り切つた。


 中学校へはいつた年の夏、兄の修一がなに思つたのか楢雄を家の近くの香櫨園かうろゑんの海岸へ連れ出して、お前ももう中学生だから教へてやるがと、ジロリと楢雄の顔を覗き込みながら、いきなり、

「俺たちはめかけの子やぞ。」

 と、言つた。ふと声がかすれ、しかしそのためかへつてすごんで聴えた筈だがと、修一は思つたが、楢雄はぼそんとして、

「妾て何やねん?」

 効果をねらつて、わざと黄昏刻たそがれどきの海岸を選んだ修一は、すつかり拍子抜ひやうしぬけしてしまつた。

 修一は物心つき、次第に勘付いてゐるのだ。型を押したやうな父の週末の帰宅は、蘆屋で病院を経営するかたはら、大阪の大学病院へも出て忙しいためだとの母親の言葉は、もつともらしかつたが、修一はだまされなかつた。香櫨園の自宅から蘆屋まで歩いて一時間も掛らぬのに、つひぞ父の病院とやらを見せて貰つたこともなく、おまけに蘆屋中を調べてみても自分と同じ村瀬の姓の病院はない。しかも父の帰宅中は仔細ありげなひそひそ話、時には母の泣声、父の呶声どせいが聴かれるなど、思ひ合はせてみると蘆屋の方が本宅で香櫨園のわが家は妾宅だと、はつきり嗅ぎつけた途端、まづ生理的に不愉快になり、前途が真つ暗になつたやうな気持に悩まされたが、わづかに弟の楢雄を掴へて、寝耳に水の話を知らせてやるといふ残酷めいた期待に心慰まつてゐたのだつた。

 それだけに楢雄のそんな態度は修一を失望させた。そのため修一の話は一層誇張された。さすがの楢雄も急に顔色が青白んで来た。うなだれてゐる楢雄の顔をひよいと覗くと、眼鏡の奥が光つて、効果はやはりテキ面だつた。やがて眼鏡を外して上衣のポケットに入れ、するする落ちる涙を短い指の先でこすり、こするのだつた。ふと修一は不憫ふびんになつて、

「泣くな。妾の子らしう生きて行かう。」

 これは半分自分にも言ひ聴かせて、楢雄の肩に手を置くと、楢雄は汗くさい兄の体臭にふと女心めいた頼もしさを感じ、見上げると兄の眉毛はむくむく頼もしげに見え、しかし何だか随分父親に似てゐると思つた。

 その夏の休暇が済み、二学期の始業式に大阪の市内にある中学校へ行くと、兄弟二人とも村瀬の姓が突然中那尾に変つてゐた。楢雄はわけが判らず、けつたいな名になりやがつたと、ケツケツと笑つてゐたが、修一はさては籍がはいつたのかと苦笑し、友達の手前は養子に行つたのだと言ひつくらはうと咄嗟とつさ智慧ちゑをめぐらした。しかし、兄弟二人そろつて養子に行くといふのも変な話だと、さすがにうろたへもしてゐた。帰ると、赤飯とたひの焼物が出て、母は泣いてゐた。

 寿枝は岡山の病院で看護婦をしてゐた頃、同じ病院で医員をしてゐた圭介のために女医になる一生の希望をいきなり失つた。妊娠させられたのだ。圭介には月並みに妻子があつた。生れた子は修学第一の意味で圭介が修一と名をつけた。圭介はそんな親心を示したことは示したが、狭い土地ですぐ噂が立つてみると、折柄大阪の病院から招聘せうへいされるのは寿枝を置き去りにする好機会であつた。その通りにした。寿枝は修一を背負つてあとを追ひ、詰め寄ると、圭介もいやとはいへず、香櫨園に一戸を構へてやつた。そして十何年間、その間に楢雄も生れて、今日まで続いて来たが、圭介はなぜか二人の子を入籍しなかつた。本妻が承知しないからと、半分本当のことを言つて、寿枝の要求を突つ放して来たのだ。しかし、寿枝は諦めず、圭介を責めぬいて、そして今日のこの喜びだつた。

 と、そんな事情は無論きかされなかつた故自分は長女、父上は長男、だから今日まで戸籍のことが巧く行かなかつたのだと、寿技はこんな嘘を考へた。

「へえ? さうですか。」

 話半分で、修一は大きな頭を二三度右に振り左に振り、二階へ上つてしまつた。あとに楢雄が残り、かねがねお前は食事の時間が永すぎると父の小言の通り、もぐもぐ口を動かせてゐた最中ゆゑ、母の喜びを一身に背負つた。しかしそれも当然だと、寿枝は、

「兄さんは別として、お前はよくよく父上に感謝しなければいけませんよ。」

 その証拠に、最初圭介は楢雄の入籍は反対だつたのだと、うかうか本当のことを言つた。

御馳走ごつとさん。」

 それだけは言つて、楢雄はバタバタと二階へ上ると蠅たたきでそこら中はたき廻つた。翌日、一年F組の教室で、楢雄は教科書のかげで実におびただしい数の蠅をもてあそんでゐたといふかどで、廊下に立たされてゐた。三年B組の教室では、修一は教科書のかげで羽太鋭治の「性の研究」を読んでゐた。

 楢雄が羽太鋭治のその本や、国木田独歩の「正直者」、モーパッサンの「女の一生」、森田草平の「輪廻」などを、修一から読んでみろと貸して貰つたのは、三年生の時だつた。伏字の多いそれらの本が、楢雄の大人を眼覚し、女の体への好奇心がにはかにふくれ上つたある夜、修一が、

「おい、お前にもメッチェンを世話してやらうか。」

 さう言つて楢雄を香櫨園の浜へ連れ出す途々みちみち言ふのには、実は俺はある女学生と知り合ひになつたのだが、そいつにはいつも女中メイドがついてゐる、今夜も浜で会ふ約束をしてゐるのだが、女中がついて来るから邪魔だ、だからお前はその女中の方を巧くさばいてくれ、その間に俺はメッチェンの方を云々。

「巧いことやれよ。なに相手はたかが女中メイドや。喜んでお前の言ひなりになりよるやろ。デカダンで行け。」

 デカダンとはどんな意味か知らなかつたが、何となくその言葉のどぎつい響きが気に入つて、かねがね楢雄は、俺はデカダンやと言ひふらしてゐたのだつた。

「よつしや。デカダンでやる。」

「煙草飲め!」

 一本の煙草を飲み終らぬうちに、セルの着物を着た十七八の女が、兵児帯へこおびの結び目を気にするのか、しきりに尻へ手を当てながら、女中と一緒に、ものも言はず、すつと近づいて来た。どこか隙の多さうな醜い女ぢやないかと、少し斜視掛つたその女の眼を見てゐたが、しかし女中の方はで鼻の頭がまるく、おまけに色が黒かつた。楢雄はがつかりしたが、やがてノツポの修一が身体を折り曲げるやうにして女に寄り掛りながら歩きだすと、楢雄もあわてて女中に並び、君いくつになつたの。われながら嫌気がさすくらゐ優しい声になつたが、しかし心の中では、何となくその外ツ歯の女中が可哀想になつてゐたのだ。松林の所で修一はちらと振り向いた。途端に楢雄は女中のザラザラした手を握つた。手は瞬間ひつ込められたが、すぐ握り返され、兄の言ふ通りであつた。顔を覗くと、女中はきよとんとした眼で空を見上げてゐた。

「こつちへ行かう。」

 修一と反対の方向へ折れて行き、半町ほど黙つてゐたが、やがて軽い声で、

「おい!」

 ぐいと手を引つ張つてもたれ掛けさせると、いきなり抱き寄せて、口に触れた。

 歯がカチカチと鳴り、女中はガタガタと醜悪にふるへてゐた。生臭い口臭をかぎながら、ぺたりとその場に坐らせて、

「君、寒いのンか。」

 さう言つたまでは覚えてゐたが、あとは無我夢中になつて、好奇心と動物的な感覚が体をしびらしてしまつたが、女中は足を固くして、

「それだけは堪忍して、なツ、坊つちやん、それだけは堪忍して。あゝ。」

 身もだえしながら、キンキンした声で叫び、ふとみひらいた眼が白かつた。楢雄ははつと我に帰り、草の上へついた手の力ではね起きると、物も言はず、うしろも向かず、あぶない所だつた、俺はもう少しで罪を犯すところだつたと、心の中で叫びながら、真青になつて逃げ去つた。それだけは堪忍して、あツ、坊つちやんそれだけは堪忍して。あゝ。あゝといふその声は逃げて行く楢雄の耳の奥にいつまでも残り、身もだえしてゐた女の固い肢態はまぶたに焼きつき、追はれるやうに走つたが、松林を抜けて海岸の砂の上へ出た途端、妾になるといふことはあの辛さを辛抱することだつたのかといふ考へが、元来が極端に走り易い楢雄の、走つてゐる頭をだしぬけにかすめた。楢雄は家へ駈け戻ると、

「母さん、なんぜ妾なんかになつたんです。」

「…………」

 棒立ちになつた寿枝の顔をぢつと睨みつけると、

「僕に二十円下さい。」

 そして無理矢理母の手から受取ると、眼鏡の隙間からポタポタ涙を落しながら、家を飛び出したが、どこへ行くといふ当てもないと判ると、急に気の抜けた歩き方になり、家出の決心がふと鈍つた。

 ところが、阪神の香櫨園の駅まで来ると、海岸の方から仮面めんのやうに表情を硬張こはばらせて歩いて来る修一とぱつたり出会つた。楢雄はぷいと顔をそむけ、丁度駅へ大阪行の電車がはいつて来たのを幸ひ、おい楢雄とあわてて呼び掛けた修一の声をあとに、いきなりその電車に乗つてしまつた。修一は間抜けた顔でぽかんと見送つてゐた。楢雄はそんな兄をますます驚かせるためにも、家出をする必要があると思つた。そして家出した以上、自分はもう思ひ切り堕落するか、野たれ死にするか、二つのうちの一つだと思ひ、少年らしいこの極端な思ひつきにソハソハと揺れてゐるうちに、電車は梅田に着いた。

 市電で心斎橋まで行き、アオキ洋服店でジャンパーを買ひ、着てゐた制服と制帽を脱いで預けた。堕落するにも、中学生の制服では面白くないと思つたのだ。茶色のジャンパーに黒ズボン、ズボンに両手を突つ込んで、一かどの不良になつた積りで、戎橋えびすばしの上まで来ると、アオキから尾行して来たテンプラらしい大学生の男が、おい、坊つちやん、一寸来てくれと、法善寺の境内へ連れ込んで、俺の見てゐる前で制服制帽を脱いだり、あんまり洒落しやれた真似をするなと、十円とられて、鮮かなヒンブルであつた。簡単に自尊心を傷つけられたが、文句があるならいつでもアオキで待つてゐると立去つたそのテンプラの後姿を見送つてゐるうちに、家出の第一歩にこんな眼に会はされては俺はもうおしまひだ。堕落するにも野たれ死にするにもまづあの男をなぐつてからだと、キツとした眼になつた。法善寺を抜けると、坂町の角のひやし飴屋あめやでひやし飴をラッパ飲みし、それでもまだ乾きが収らぬので、松林寺の前の共同便所の横で胸スカシを飲んだが、こんなチヤチなものを飲んでゐるからだめなのだと、千日前の停留所前のビヤホールにはいつた。大ジョッキとフライビンズを註文し、息の根の停りさうな苦しさを我慢しながら、三分の一ばかり飲んで、ゲエーとおくびを出して、フーフーあかい顔でうなつてゐると、いきなり耳を引つ張られた。振り向いて、あツドラ猫だ。宮城といふ受持の教師だつたが、咄嗟とつさにその名は想ひ出せず、思はず、綽名あだなを口走つた。ドラ猫もまたそのビヤホールで一杯やつてゐたらしく、顔を真赤にして、息が酒くさかつた。耳を引つ張られたまま表へ連れ出されて、生徒の分際でこんな場所へ出入する奴があるかと、撲られた。すかさず、教師の分際でこんな場所へ出入する奴があるかと言ひ返してやれば面白いと思つたが、あゝこれで家出も失敗に終つたのかといふ情けない気持が先立つて、口も利けなかつた。

 翌日、母親と一緒に校長室へ呼びつけられた。ドラ猫は校長の前で、戎橋の上から尾行してビヤホールにはいつた所をつかまへたのだと言ひ、自分がさきにビヤホールで一杯やつてゐたことは隠すのだつた。楢雄は途端にドラ猫を軽蔑した。嘘をつくと承知しないぞ言はれたので、今までしたこと、あることないことを洒唖洒唖しやあしやあと言つた。理科教室の顕微鏡に胡椒こせうをぬりつけたこと、授業中に回転焼をいくつ食へるか実験してみたところ、相手の教師によつて違ふが、まづ八個は大丈夫だ云々、バスの切符をわざと渡さなかつたところ、女車掌が金切り声をあげて半町も追ひ駈けて来たこと、感ずる所あつて昼食のパンを五日食べずに、校長官舎の犬が痩せて栄養不良らしかつたのでその犬に呉れてやつたこと、その犬の尻尾には今も猫イラズを塗りつけてある筈だなどすらすらしやべり立てたが、しかし香櫨園の女中のことはさすがに言へなかつた。

 寿枝の順番が来ると、寿枝はなぜか急にいそいそとして、まず楢雄の夜尿症をなほした苦心を言ひ、そして今は癒つたが、しきりに爪を噛んだり、指の節をボキボキ折る癖があつて、先生、父もどんなにみつともないと気を揉んだことでせう。それから、今も暇さへあれば蠅ばかり獲つたり、ぶつぶつひとり言を言ふ癖がありまして、この頃はえきの本を読み耽つてゐるやうでございます……と、寿枝はここで泣き、部屋の中はもう暗かつた。

「ひとり言を言ふのは、心に不平がある証拠だが、易の本といふのは、君どういふ意味かね。」

 と、校長は、ドラ猫の方を向いた。ドラ猫は、

「はあ、皆私が到らぬからであります。」

 と、ハンカチで眼鏡を突き上げたかと思ふと、いきなり楢雄の腕をつかんで、

「君は、君は、何といふことを……。」

 泣きだしたので、さすがに楢雄もしみじみして、情けなく窓外の暮色を見たが、しかしなぜドラ猫が泣いたのか判らなかつた。

 説教が済み、校門を出ようとすると、そこでずつと待つてゐたらしく、修一が青い顔で寄つて来て、何ぞ俺の話出なかつたかと、声をひそめた。大丈夫だと言つてやると、修一はほつとした顔で、お前も要領よくやれよ。途端に修一は楢雄の軽蔑を買つた。帰りの阪神電車は混んでゐた。寿枝は白足袋を踏みよごされた拍子に、蘆屋の本妻の顔を想ひだした。すると香櫨園の駅から家まで三町の道は自然修一と並んで歩くやうになつた。そして、うしろからボソボソといて来る楢雄の足音を聴きながら、明日は圭介の知り合ひの精神科医のもとへ楢雄を連れて行かうと思つた。

 若森といふその医者は精神科医のくせにひどくせつかちの早のみ込みで、おまけに早口であつた。若森は寿枝の話を聴くなり、あ、そりや、エ、エ、エディプス・コンプレックス的傾向だね、お袋を愛する余り父親を憎むんだねと言ふと、寿枝は何だかよく判らぬままにニコニコしてうなづいた。楢雄はむつとして、若森が、

「君一つこの紙に、君の頭にうかんだ単語を二十個正直に書いてみ給へ。」

 と言ふとあつといふ間にその紙を破つて、

「あんたには僕の心を調べる権利はない筈や。人間が人間を実験するのは侮辱や。」

「これ、楢雄、何を言ふのです。」

「お母さんもお母さんです。あんたは自分の子供が蛙みたいに実験されてゐるのを見るのンが、そんなに面白いのですか。だいいち、こんな所イ連れて来るのが間違ひです。」

 キツと寿枝を睨みつけた眼の白さを見て、若森はお袋を愛する余り云々と言つた自分の言葉が、ふと頼りなくなつて来た。

 楢雄はその後何といはれても若森の所へ行かなかつたが、寿枝はひそかにそこへ行つていろいろ指図を受けて来るらしく、木の枕や瀬戸物の枕を当てがつたり冷水摩擦をすすめたりした。また、知らぬ間に蒲団の綿が何か固いものに変つてゐた。日記やノート、教科書などもひそかにひらかれた形跡があり、仔細ありげな母の眼付きがいそいそと自分の身辺を取り囲んでゐるやうな気がして、楢雄はそんな母が次第にうとましくなつて来た。


 翌年、楢雄は進級試験に落第した。寿枝の奔走も空しかつたわけである。その代り修一は京都の高等学校の入学試験に合格した。圭介は修一の入学宣誓式に京都まで出向いて、上機嫌で帰つて来たが、土産物みやげもの聖護院しやうごゐん八ツ橋をガツガツ食べてゐる楢雄を見ると、にはかに渋い顔になり、改めて楢雄の落第について小言を言つた。楢雄は折柄口が一杯になつてゐたので、暫らくもぐもぐと黙つてゐたが、やがて呑み込んでしまふと、頭の悪いのは言はれなくても自覚してゐます、自覚してゐればこそ頑張るだけは頑張つてゐるんです、しかし頭の点は先天的のものでどうにもなりません、考へてみれば、同じ親から生れて兄さんは頭が良くて、僕は悪いといふのは遺伝の法則からいつてどういふことになるんでせう、やはり僕を頭の悪い子供に生れさせた原因がほかに介在してゐるんでせうか、さういへば、僕の眉毛がレプラのやうに薄いといふ事実も何だか不思議ですね。ベラベラと喋り立てると、圭介は、莫迦ばか野郎、生意気を言ふな、遺伝とは何だ、原因とは何だ、不思議とは何だ、といきなり楢雄の胸を掴んで庭へ引きずり下すと、松の枝をボキリと折つて、圭介の掌と楢雄の顔が両方からボトボトと血が落ちるまで、打つて打つて打ち続け、停めようとした寿枝まで突き飛ばされ、圭介の折檻せつかんはふと狂気じみてゐた。楢雄は鼻の穴へ紙を詰めると、すぐ家出を考へたが、これは寿枝が停めたので、二階へ上り、ひそかに隠してあつた「運勢早見書」を開き、自分の星の六白金星と父の九紫火星とが相性あひしやう大凶であることを確め何か納得した。ついでに母の四緑しろく木星も六白金星とは合はぬと判つた。六白金星一代の運気は、「この年生れの人は、表面は気永のやうに見えて、その実至つて短気にて些細なことにも腹立ち易く、何かと口小言多い故、交際上円満を欠くことがある。親兄弟との縁薄く、早くより他人の中にて苦労する者が多い。また因循いんじゆんの質にてテキパキ物事のはかどらぬ所があるが、生来忍耐力に富み、辛抱強く、一端かうと思ひ込んだことはどこまでもやり通し、大器晩成するものなり……」

 一字一句が思ひ当り、この文章がわづかに楢雄を慰めた。そして一晩掛つてこの文句を覚えることで、父に撲られた口惜しさがまぎれるのだつた。

 翌日から楢雄は何思つたのか「将棋の定跡」といふ本を読み耽つた。著者の八段は「運勢早見書」によれば、六白金星で中年を過ぎてから三段になつて大器晩成の棋師だといふことだ。楢雄はその本を学校で読み、電車の中で読み、家で読み、覚えにくい定跡はカードを作つて覚えた。三月掛つてやつと覚えた頃、暑中休暇になり、修一が頭髪を伸ばして帰つて来ると、楢雄は早速将棋盤を持ち出したが、王手もせぬうちに簡単に負けてしまひ、あゝ俺はやはりだめだと青くなつた。

 修一は毎日海岸へ出て、相変らず女を物色してゐるらしかつたが、楢雄は海水着を着た女はわいせつだから見るのもいやだと言つて、一日中部屋に閉ぢこもり、いよいよ人間嫌ひになつたのかと寿枝をやきもきさせた。部屋に閉ぢこもつて何をしてゐるのかと、こつそり伺ふと、修一が持つて帰つた「カラマゾフ兄弟」を耽読してゐるらしかつた。楢雄にはその本はばかに難解だつたが、しかし楢雄はミーチャやイヷンの父親に対する気持が判つたと思ひ込み、夜更けに鏡を覗いてみると、表情が何となくすごみを帯びて見えた。眉毛の薄いせゐかも知れなかつた。それで一層深刻な顔になつてやらうと、眼をむき下唇を突き出すと、こんどは実に奇妙な顔になつた。しかし別にをかしいとも思はなかつた。イヷンを真似たのつそりした態度がやがて表面うはべに現はれて来て、そしてある夜楢雄は砒素ひそを飲んだ。

 うめき声で眼を覚した寿枝が二階へ上つて見ると、楢雄は土色の顔へ泡を噴きだしてのた打ちまはつてゐた。修一は夕方家を出て行つたきり、まだ帰つてゐなかつた。寿枝は楢雄の口ヘ手を差し込んで吐かせるとあわてて飛びだして近所の医者へかけつけて行つたが、途中でふと気が変り、よその医者に頼めば外聞の悪い結果になると、公衆電話へ飛び込んで、蘆屋の圭介の病院へ電話した。蘆屋と香櫨園はすぐ近くなのに市外通話になつてゐて、なかなか掛らず、もどかしかつた。圭介はダットサンを自分で運転して来た。それで助かつた。吐かせようとして抱きかかへると、ぷんと腋臭わきがめくにほひがしたが、それは永年忘れてゐたわが子のにほひだつた。注射を済ませると、寿枝が絆創膏ばんさうかうを貼つた。圭介はふと寿枝の顔を見た。寿枝も見た。お互ひふと岡山の病院でのことが頭をかすめ、想ひ出すべき歳月があつた。圭介は手を洗ひながら、しみじみと楢雄の寝顔を覗きこんだ。眼鏡のない眉毛の薄い顔は、まるでデスマスクのやうだつたが、しかし生命は取り止めたとしみじみ思つた。ところが、机の上にこれ見よと置いてある遺書を開いて読み終つた途端、圭介は思はず莫迦者と呶鳴どなつた。

 その遺書は右肩下りの下手な字で、おまけに鉛筆で、片仮名を使つて書かれてあり、それが文面の効果を一層どぎつくさせてゐた。

「恋愛ハ神聖ナリ。神ハ実在スルヤ否ヤ。俺ハ結核菌ノ所有者デアルガ、現在ノ父ニモ母ニモ結核菌ハナイ。スルト俺ハ現在ノ父母ノ子デナイトイフ理論ガ成リ立ツ。マタ、俺ノ眉毛ヤ俺ノ皮膚ハレプラニナル可能ガアル。シカルニ現在ノ父母ハレプラデハナイ。俺ハ誰ノ子デアルカ教ヘテクレ。俺ハコノ疑問ヲ抱イテ死ヌノダ

 俺ハ北畠ノ霊媒研究所ヘ行ツテ、十円出シテ霊媒シテ貰ツタ。ソノ結果、俺ハ双生児ノ片割レデアルトイフコトガ判明シタ。モウ一ツノ片割レハ今樺太カラフトノ炭坑ニヰルハズダ。

 嘘ノ世ノ中ニハアキアキシタ。俺ハイヷンノ如ク永遠ノ謎ヲ抱キナガラ死ヌ。誰モ俺ガ死ンデモ泣クマイ。俺ハ無垢ムクノ女ヲ凌辱リヨウジヨクシヨウトシタノダ

 圭介は近頃興奮するとくらくらと眩暈めまひがし、頭の中がじーんと鳴るので、なるべく物事に臨んで冷静に構へる必要があつた。だから、こんな莫迦げた妄想まうさうを起す奴を相手に興奮してはつまらぬと、煙草を吸ひかけたが、手がふるへた。寿枝はおろおろして燐寸マツチをつけた。その瞬間、二人ははつと顔をそむけた。寿枝の眉間みけんには深いしわが出来、母性を疑はれた不快さがぐつと来たのだつた。そして何といふことなしに修一のことが頼もしく想ひ出されたが、しかし修一はどこをうろついてゐるのか、夜が更けてゐるといふのに、まだ帰つてゐなかつた。


 二年がたつた。楢雄はむくむくと体が大きくなり、自殺を図つた男には見えなかつた。高等学校の入学試験にすべり、高槻たかつきの高医へ入学した時も、体格検査は最優良の成績だつた。

 圭介は家へ帰ると、薄暗い階下の部屋で灯もつけさせず、壁を睨んだままぺたりと坐り込んで何時間も動かなかつた。寿枝が呼んでも返辞せず、一所を見つめた眼を動かしもしなかつた。さすがの楢雄もあつけに取られて、圭介のうしろに突つ立つてゐると、

「何をしてゐるのか。」

 うしろ向きの姿勢で呶鳴られた。寿枝はそんな圭介の素振りを見て、何か心に覚悟を決めたらしく一分の隙もないきつとした顔を見せてゐた。

 圭介はやがてみるみる狂気じみて、蘆屋の病院で死んだ。危篤の知らせで駈けつけたのは修一ひとり、無論本妻の計らひであつた。死に目に会ふことも許されない寿枝と楢雄は香櫨園の家でソハソハしながら、不安な気持のまま何か殺気立つてゐた。何時間かたち、楢雄は急に、

「さア、お母さん、こんなことしてても仕方がありません。活動でも見に行こやありませんか。」

 と、言つて起ち上つた。まあと寿枝はあきれたが、しかし瞬間母子の情が通つたと思ひ、だから叱らうとはしなかつた。

 修一は葬式を済ませて帰つて来ると、臨終の模様を語つた。圭介は息を引き取る前不思議にも一瞬正気になり、枕元に集つてゐる中で修一だけをわざと一歩進ませて、母の面倒はお前が見るんだぞと言ひ、その時窓に映つてゐた西日が落ちたさうである。

「それでお前は何と答へたんですか。」寿枝はわれながらもぢもぢ訊くと、

「はあと言ひましたよ」

 と修一はひややかに答へ、そして、ちらつと寿枝の頭を見ると、

「蘆屋の奥さんから遺言書を見せて貰ひましたよ。お母さんは貰ふべきものはちやんと貰つてあるんですね。」

 寿枝ははつと虚をつかれた気持だつた。貰ふべき財産の分け前は、圭介の素振りがをかしくなつた時、寿枝は取つて置いたのである。寿枝、修一、楢雄の順で、修一、楢雄の分は学資用として無論修一の方が多かつたが、しかし寿枝の額は修一よりもはるかに多いのだ。田辺に嫁いでゐる妹が、姉さんは子供に頼つて行くといつても、子供とは籍が違ふのだからと入智慧いれぢゑし、子供といつても今に母親は妾だといつて邪魔にするかも知れないからねとまで言つたので、寿枝はその忠告に従つてさうしたのだつたが、修一の冷かな眼を見ると、やはりさうして置いてよかつたといふ気持が、心細く湧いて来て、最近修一の所へ来た女の手紙がふと想ひ出された。

「──この手紙を読んで何にも感じないやうでしたらあなたは精神のどこかに欠陥があるのです。」

 といふ恨みの籠つた手紙だつた。ひと様の娘御むすめごを何といふことだと、その時修一に見た冷酷さが今はわが身に振り掛るかと、寿枝は思つた。

 香櫨園の家は経費が掛るので、やがて寿枝は大阪市内の小宮町にこぢんまりした借家を探して移ることになつたが、果して修一は阪大医学部の卒業試験の勉強で忙しいと口実を設けて、一人で夙川しゆくがはの下宿へ移つた。寿枝はなぜかそれを停めることが出来なかつた。楢雄は、兄貴には香櫨園の界隈かいわいを離れがたいわけがあるのだと見抜いてゐた。修一が現在交際してゐる北井伊都子は浜甲子園の邸宅に母と二人住み、係累もなく、その代り父の遺産は三十万を超えてゐるのだと、修一はかつて楢雄に話したことがあつたのだ。

 修一のゐない家庭は寿枝には寂しかつた。だから、三月ばかりたつて、修一が小宮町へ顔を見せると、いそいそとして迎へたが、修一はお茶も飲まぬうちに、いきなり、

「僕、養子に行きますよ。何れ先方からこちらへ話がありますから、その時は良い返辞頼みますよ。」

 と、言つた。先方とは無論北井家のことだつた。北井伊都子は長女で嫁には行けず、だから修一が婿養子にはいるのだと、もう伊都子の母親にも会うて話を決めてゐたのだつた。

「学校を出ても、親父のくれた金では開業できませんからね。結局安月給の病院の助手になるよりほかに仕方ないとすれば、まアわれわれの身分では養子に行くのが出世の近道ですよ。木山さんの例もありますからね。」

 木山博士は圭介の友人で、大学を卒業するまでに二回養子に行き、卒業してから一回、博士になつてからも一回、都合四回養子先と女房を変へて出世した男であつた。

「ぢや、お前は木山さんのやうになりたいんですか。」

「木山さんには私淑ししゆくしてゐます。時々会うて世渡りの秘訣ひけつを拝聴してゐますよ。」

「お母さんのことはどう成つても構はぬのですか。」

「いや、もし何でしたら、お母さんも一緒に北井の家へ来て貰つても構ひませんよ。」

 太い眉毛は今こそ兄の顔になくてかなはぬものだと、楢雄は傍で聴きながらふと思つたが、しかし口をはさまうとはせず、寿枝が哀願めく眼を向けても、素知らぬ顔で新聞の将棋欄を見てゐた。

 半月許りたつて、五十前後の男が手土産らしいものを持つてやつて来た。浜甲子園の北井の使ひだといふので、寿枝はさつと青ざめた。ところが、その使ひは意外にも今後北井家では修一さんとの交際を打ち切ることにしたから悪しからずといふ縁談の断りに来たのだつた。使ひの男は寿枝の饗応きやうおうに恐縮して帰つた。

 修一は夙川の下宿を引き揚げて来て、妾の子だと知れたための破談だと、寿枝に八つ当つた。日頃の行状を北井家に調べ上げられたことは棚に上げてゐたのである。すつかり自信を無くしてしまつたらしい修一の容子ようすを見て、楢雄は将棋を挑んだが、やはり修一には勝てなかつた。

 楢雄は高槻の学校の近くにある将棋指南所へ毎日通つた。毎朝京阪電車を降りると学校へ行く足を指南所へ向け、朝寝の松井三段を閉口させた。楢雄は松井三段を相手に専門棋師のやうな長考をした。松井三段は腐つて、何を考へてゐるのかと訊くと、楢雄はにこりともせず、

「人間は一つのことをどれ位辛抱して考へられるか、その実験をしてゐるんだ。」

 と、答へた。楢雄は進級試験の日にも指南所へ出掛け、落第した。

「お前の金はあと二年分しかないのに、今落第されては困りますよ。」

 寿枝の小言に金のことがまじると、楢雄はかつとした。修一は口を出せば自分の金が減るといふ顔で黙つてゐた。楢雄はその顔をみると、もうわれを忘れて叫んでゐた。

「ぢや僕は下宿します。下宿して二年分の金で三年間やつて行きます。お母さんの世話にも兄さんの世話にもなりません。」

 言ひだしたらあとへ引かなかつた。その頑固な気性を口実に、寿枝は楢雄に言はれる通りの金を渡した。

「しかし、千円だけはお前の結婚の費用に預つて置きますよ。」

「そんな金は兄さんにあげて下さい。」

 千円減つたことで、自活の決心が一層固くなつた。

「ぢや、お母さんはお前に月々十円づつ、お母さんの金を上げます。」

「要りません。食へなかつたら家庭教師します。」

 さう言ふと、修一ははじめて口を利いて、

「お前みたいな頭の悪い奴に家庭教師がつとまるか。」

 と、わらつた。嗤はれたことも楢雄はこの際の勘定に入れた。そして学校の近くの下宿に移つた。寿枝は、下宿をしても洗濯物を持つて週に一回だけはぜひ帰るやうにと言ひ聴かせながら、自分は不幸だと思つた。


 修一は学校を出ると、附属病院の産婦人科の助手になつた。報酬は月に一円足らずで、日給の間違ひではないかとはじめ思つたくらゐだつたが、それでも毎日浮かぬ顔をして通つてゐた。学生服よりは高くついたが、着てみれば背広も安洋服だつた。患者の中には良家の者らしい若い女性もゐたが、産婦人科へ生娘きむすめが来るためしもすくなかつた。時々出稼ぎにあちこちの病院へ出張したが、その報酬は全部自分で使ひ、寿枝には一銭も渡さず、しかも家の費用はすべて寿枝が自分の金でまかなつてゐた。だから修一の金は少しも減らないと寿枝はひそかに田辺の妹に愚痴つてゐたが、それでも修一が家にをらないとやはり寂しかつた。修一は宿直と出張の口実を設けて月の半分は家をあけ、どうやら看護婦を相手にしてゐるらしかつた。寿枝は修一の留守中泊りに来てくれるやうにと、楢雄に手紙を出した。楢雄はやつて来て、寿枝の顔に、薄く白粉おしろいの粉が吹きだしてゐることよりも、髪の毛がバサバサと乾いてゐることの方を見て寿枝を千日前へ連れて行つて映画を見せたりした。下宿で随分切り詰めた暮しをしてゐるらしく、げつそりと青く痩せてゐる楢雄の横顔を見て、寿枝はそつと涙を拭いたが、しかし何日か泊つて下宿へ帰る日が来ると、楢雄はその何日分かの飯代を寿枝に渡した。何といふ水臭いやり方かと寿枝は泣けもせず、こんな風にされる自分は一体これまでどんな落度があつたのかと、振りかへつてみたが、べつに見当らなかつた。

 楢雄は煙草は刻みを吸ひ、無駄な金は一銭も使ふまいと決めてゐたが、ただ小宮町へ行つた帰りにはいつも天満てんまの京阪マーケットでオランダといふ駄菓子を一袋買つてゐた。子供の時から何か口に入れてゐないと、勉強出来なかつたのである。京阪マーケットの駄菓子はよそで買ふより安く、専らそこに決めてゐたのだが、一つにはそこの売子の雪江といふ女に心をかれてゐたのだ。栄養不良らしい青い顔をして、そりの強い眼鏡を掛けてゐてオドオドした娘だつたが、楢雄が行くたび首筋まであかくして、にこつと笑ふと、笑窪ゑくぼがあつた。ある日、楢雄が行くと、雪江は朋輩に背中を突かれて、真赤になつてゐた。おや、俺に気があるのかと思ひ、修一の顔をちらりと想ひだしながら、

「君、今度の休みはいつなの?」

 その休みの日、道頓堀でボートに乗りながらきくと、雪江の父は今宮で錻力ブリキの職人をしてゐるが、十八の歳、親孝行だから飛田の遊廓へ行けと酒を飲みながら言はれたので、家を飛び出して女工をしたり喫茶店に勤めたりした挙句あげく、今のマーケットへ勤めるやうになつた。しかし、月給の半分は博奕ばくち狂ひの父のもとへ送つてゐると、正直に答へた。父の家を逃げ出し、それでも送金してゐるといふ点と正直な所が楢雄の気に入り、また、他の店員のやうにケバケバした身なりもせず、よれよれの人絹を着てゐるのも何か哀れで、高槻の下宿へ遊びに来させてゐたところ、ある夜ありきたりの関係に陥つた。女の体の濡れた感覚の生々しさは、楢雄にもう俺はこの女と一生暮して行くより外はないと決心させた。しかし、香櫨園の女中のことも一寸頭をかすめた。

 間もなくビリの成績で学校を出たのをしほに、楢雄は萩ノ茶屋のアパートに移り、母に内緒で雪江と同棲した。そして学校の紹介で桃山の伝染病院に勤めた。母から受取つた金は無論卒業までにきちきち一杯に使つてゐたので、病院でくれる五十円の月給がうれしくて、毎日怠けず通つた。一つには人もいやがる伝染病院とはいかにもデカダンの俺らしいと、気に入つてゐたからである。もつとも病院の方では、楢雄が気に入つてゐるといふわけではなかつた。背広を作る金がなかつたので、ボロボロの学生服で通勤すると、実習生と間違へられ、科長から皮肉な注意を受けた。それでも、服装で病気を癒すわけではありませんからと、平気な顔をしてその服で通してゐると偏屈男だと見たのか、その後注意もなかつたが、しかし寿枝の方へはいつの間にかこつそり注意があつた。

 寿枝は驚いて萩ノ茶屋のアパートへ来た。管理人が気を利かせて、応接間へ通したので同棲してゐるところは知られずに済んだと、楢雄はほつとした。寿枝は洋服代にしろと言つて何枚かの紙幣を渡さうとしたが、楢雄は受け取らうとしなかつた。

「僕にはもういただく金はない筈です。」

「いいえ、お前の金はまだ千円だけ預つてあります。」

「あれは兄さんにあげたお金です。」

「ぢや、これはお母さんがお前にあげます。」

 それならいいだらうと、無理に握らせると、やはりふと寿枝を見た眼が渋々嬉しさうだつた。しかし、帰りしなに寿枝が、

「お前もいつまでも頑固なことを言はずに、少しは世間態といふことも考へなさい。お母さんもお前に背広も着せない母親だと言はれたら、どんなに肩身が狭いか判りませんよ。」

 と言つたので、楢雄の喜びは途端に消えてしまつた。それでも雪江には、

「おい背広作れるぞ。」

 と、喜ばせてやる気になつた。が、雪江は何だが不安さうだつた。

 果して、管理人にきいてみると、寿枝は楢雄と雪江の暮しを根掘り聴いて行つたといふことだつた。楢雄は恥しさと、そして二人のことを聴きながら素知らぬ顔で帰つて行つた母親への怒りとで、真赤になつた。翌日、阿倍野橋のアパートヘ移つた。

 移転先は内緒にしてあつたが、病院で聴いたのか、移つて五日目の夜寿枝はやつて来た。楢雄は丁度病院の宿直で留守だつたが、わざと留守の時をえらんで来たらしく、その証拠に寿枝は雪江を掴へて、どうか楢雄と別れてくれとくどくど頼んだといふことだつた。寿枝も寿枝だが雪江も雪江で、寿枝の涙を見ると、自分も一緒に泣いて、楢雄さんの幸福のために身を引きますと約束したといふ。

莫迦ばか野郎! 俺に黙つてそんな約束をする奴があるか。」

 と楢雄は呶鳴りつけて、「運勢早見書」の六白金星のくだりを見せ、

「俺は一旦かうと思ひ込んだら、どこまでもやり通す男やぞ。別れるものか。お前も覚悟せえ。」

 翌日、岸ノ里のアパートへ移つた。移転先は病院へも秘密にし、そして「俺ハ考ヘル所ガアツテ好キ勝手ナ生活ヲスル。干渉スルナ。居所ヲ調ベルト承知センゾ。昭和十二年九月十日午前二時シルス」といふ端書はがきを母と兄あてに書き送つた。

 ところが、それから三日目に田辺の叔母が病院へやつて来た。

「あんたの同棲してゐる女は今宮の錻力ブリキ職人の娘で、喫茶店にゐた女やいふさうやが、あんたは親戚中の面よごしや。それも器量のええ女やつたら、まだましやが……。」

 さう言つて叔母は、一ぺんこの写真の娘はんと較べてみなはれと見せたのは見合用の見知らぬ娘の写真だつた。楢雄は廊下に人が集つて来るほどの大きな声を出して、叔母を追ひかへした。そして三日目に病院をやめてしまつた。無論、叔母の再度の来訪を怖れてのことだつたが、雪江には、

「いくら伝染病院だといつても、あんなに死亡率が高くては、恥しくて勤めてゐられない。」

 と言ひ、しかしこれは半分本音であつた。


 病院をやめるとたちまち暮しに困つたので、やはり学校の紹介で豊中の町医者へ代診に雇はれた。夜六時から九時まで三時間の勤務で月給六十円だから、待遇は悪くはなかつたが、その代り内科、小児科、皮膚科、産婦人科の四つも持たされ、経験のない楢雄では誤診のないのが不思議なくらゐだつた。紹介する方も無責任だが、雇ふ方も無茶だと思つた。しかし、それよりもしたりげな顔をして患者に向つて居る自分には愛想がつきた。院長は金の取れる注射一点張りで、楢雄にもそれを命じ、注射だけで病気がなほると考へてゐるらしいのには驚いたが、しかしそんな嫌悪はすぐわが身に戻つて来て、えらさうな批判をする前にまづ研究だと、夜の勤務で昼の時間が暇なのを幸ひ、毎日高医の細菌学研究室へ通つた。

 そこでも、研究生の物知り振つた顔があつた。楢雄は俺は何も知らぬから、知つてゐることだけをすると言つて、毎日試験管洗ひばかししてゐた。試験管洗ひは誰もいやがる仕事で、普通小使がしてゐたのだ。それを研究費を出して毎日試験管洗ひとは妙な男だと重宝ちようはうがられ、また軽蔑された。しかし楢雄は、磨き砂と石鹸で見た眼に綺麗に洗ふのは易しいが、培養試験に使用できるやうに洗ふのは、なかなかの根気と技術の要る仕事だと、帰つて雪江に聴かせた。

 ある夏の日、二つ井戸へ医学書の古本をあさりに行つた帰り、道頓堀を歩いてゐると喫茶店の勘定場で金を払つてゐる修一を見つけた。ちらりとこちらを見た眼が弱々しい微笑をうかべてゐるので、ふとなつかしい気持がこみ上げたが、しかし、その微笑は喫茶店の前で修一の出て来るのを待つてゐる若い女に向けられたものだと、すぐ判つた。女はずんぐり肩がいかつて美人ではなかつたが、服装は良家の娘らしく立派であつた。相変らずだなと苦笑しながら、物も言はず通り過ぎたが、しかしさすがに修一も楢雄には気づき、帰ると、

「今日楢雄を見ましたよ。この暑いのに合服を着て、ボロ靴をはいて、失業者みたいなみすぼらしい恰好かつかうでしたよ。」

 と、寿枝に語つた。合服といふことがまず寿枝の胸をチクリと刺し、なぜ立ち話にでもあの子の居所をきいてくれなかつたのかと、修一の冷淡さを責めた。

 寿枝は私立探偵を雇つて、京阪マーケットに勤めてゐる雪江を尾行して貰ひ、楢雄のアパートをつきとめた。早速出掛けたが、二人は留守で、管理人や隣室の人にきいてみると、月給は雪江の分と合はせて九十五円はいるのだが、そのうち二十円は雪江の親元へ送金するほか、研究費とむやみやたらに買ふ医学書の本代に相当要るので、部屋代と交通費を引くといくらも残らず、予想以上にひどい暮しらしかつた。昼飯を抜く日も多いといふ。寿枝は帰ると為替かはせを組んで、夏服代だと百円送つたが、その金はすぐ送り返されて来た。

「ヒトノ後ヲ尾行シタリ隣室ヘハイツテ散々俺ノ悪口ヲ言ツタリ、俺ノ生活ヲ覗イタリスルコトハ、今後絶対ニヤメテクレ。コノ俺ノ精神ハ金銭デハ堕落シナイゾ。」

 といふ手紙が添へてあつた。寿枝はその手紙を持つて田辺へかけつけ、妹の前で泣いた。そして一緒にアパートに行くと、もう楢雄は引つ越したあとだつた。

 寿枝は楢雄の手紙を持つて親戚や知己を訪れ、手紙を見せて泣くのだつた。修一はそんな恥さらしはやめてくれと呶鳴り、そんな暇があつたら、僕の細君でも探してくれ、細君がないと僕は出世が出来んと、あかい顔もせずに言つた。寿枝は圭介の友人にたのんで、やつと修一の結婚の相手を見つけたが、見合では修一は断られた。妾の子はやはり駄目だと、修一は寿枝に毒づき、その夜外泊したのを切つ掛けに、殆んど家へ帰らず、たまに帰つても口を利かず、寿枝は老い込んだ。

 ある夜、楢雄が豊中からの帰り途、阪急の梅田の改札口を出ようとすると、老眼鏡を掛けてしよんぼりたたずんでゐる寿枝の姿を見つけた。待ち伏せされてゐるのだと、すぐ判つて、楢雄はいきなり駈けだして近くの喫茶店へ飛び込み、茶碗へ顔を突つ込むやうにして珈琲コーヒーすすりながら、俺は母を憎んでゐるのではないと自分に言ひきかせた。ちらつと見ただけだつたが、母の頭は随分白くなつてゐた。もう白粉も塗つてゐなかつた。寿枝は楢雄のうしろ姿を見て、靴のカカトの減り方まで眼に残り、預つてゐる千円を送つてやらうと思つたが、いや、あの金はあの子がまともな結婚をする時まで預つて置かう、でなければ蘆屋の本妻に合はす顔がないと気を変へて、夜更けのガラあきの市電に乗つてしよんぼり小宮町へ帰つて行つた。すると、翌日の夜、楢雄から速達が来て「俺ハ世間カラキラハレタ人間ダカラ、世間カラキラハレタレプラ療養所デ働ク決心ヲシタ。世間ト絶縁スルノガ俺ノ生キル道ダ。妻モ連レテ行ク。モウ誰モ俺ニ構フコトハ出来ナイゾ。」とあつた。寿枝は修一をかき口説くどいた。修一も楢雄がレプラ療養所などへ行けば、自分の世間もせまくなると、本気に心配したのか、一日中かけずり廻つてやつと楢雄のアパートをつきとめると、電話を掛けた。

「おい、強情はやめて、女と別れて小宮町へ帰れ。」

 楢雄の声をきくなりさう言ふと、

「無駄な電話を掛けるな。あんたらしくない。」

 電話のせゐか、ふだんより癇高かんだかい声だつた。

「とにかく一度会はう。」

「その必要はない。時間の無駄だ。」

「ぢや、一度将棋をやらう。俺はお前に二回貸しがあるぞ!」

 と、ちくりと自尊心を刺してやると、効果はあつた。

「将棋ならやらう。しかし、言つて置くが将棋以外のことは一言も口をきかんぞ。あんたも口を利くな。それを誓ふなら、やる。」

 約束の日、修一が千日前の大阪劇場の前で待つてゐると、楢雄は濡雑巾ぬれざふきんのやうな薄汚い浴衣ゆかたを着て、のそつとやつて来た。あをぐろくやつれた顔にひげがばうばうと生えてゐたが、しかし眉毛は相変らず薄かつた。さすがに不憫ふびんになつて、飯でも食はうといふと、

「将棋以外の口を利くな。」

 と呶鳴るやうに言ひ、さつさと大阪劇場の地下室の将棋倶楽部クラブへはいつて行つた。

 そして盤の前に坐ると、楢雄は、

「俺は電話が掛つてから今日まで、毎晩寝ずに定跡の研究をしてたんやぞ、あんたとは意気込みが違ふんだ。」

 と言ひ、そしていきなり、これを見てくれ、とコンクリートの上へ下駄を脱いだ。見れば、その下駄は将棋の駒の形に削つてあり、表にはそれぞれ「角」と「竜」の駒の字が彫りつけられてゐるのだつた。修一はあつと声をのんで、暫らく楢雄の顔を見つめてゐたが、やがてこの男にはもう何を言つても無駄だと諦めながら、さア来いと駒を並べはじめた。

(昭和二十一年三月)

底本:「現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集」筑摩書房

   1967(昭和42)年3月初版第1刷発行

※「日本文学全集39」新潮社、1967(昭和42)年9月の確認結果にもとづいて、疑問の箇所をあらため、その旨を注記しました。

入力:山根鋭二

校正:Tomoko.I

1999年1015日公開

2006年520日修正

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