人外魔境
天母峰
小栗虫太郎
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わが折竹孫七の六年ぶりの帰朝は、そろそろ、魔境、未踏地の材料も尽きかけて心細くなっていた私にとり、じつに天来の助け舟のようなものであった。では、それほど私を悦ばせる折竹とはいかなる人物かというに、彼は鳥獣採集人としての世界的フリーランサーだ。この商売の名は、海南島の勝俣翁によってはじめて知った方もあろうが、日本はともかく、海外ではなかなかの収入になる。ことに折竹は、西南奥支那の Hsifan territory──すなわち、北雲南、奥四川、青海、北チベットにまたがる、「西域夷蛮地帯」通として至宝視されている男だ。
たとえば、フィリッピンのカガヤン湖で獲れる世界最小の脊椎動物、全長わずか二分ばかりの蚤沙魚を、北雲南麗江連嶺中の一小湖で発見し、動物分布学に一大疑問を叩きつけたのも彼。さらに、青い背縞のある豺の新種を、まだ外国人のゆかぬ東北チベットの鎖境──剽盗 Hsiancheng 族がはびこる一帯から持ちかえったのも彼だ。そうして今では、西域夷蛮地帯のエキスパートとして名が高い。
しかし折竹は、どうも採集人というそれだけではないらしい。理学士の彼が教室にとどまらず、とおく海外へながれて西南奥支那へ入りこみ、ほとんどを蛮雨裡に探検隊とともに暮していることは……いかに自然児であり冒険家である彼とはいえ、少々それだけは、首肯しかねる節があるように思われる。
事実、折竹には別の一面があるのだ。彼は、外国探検隊員という絶好の名目を利用して、その都度、西南奥支那の秘密測量をやっている。日本が他日、この地方への大飛躍を試みるとき、その根底となる測地の完成が、いま彼の双肩にかかっている。つまり、外国製地図の誤謬をただし、一度も日本人の手で実測が行われていない、この地方の地図を完璧なものにしようとするのだ。
しかしそれは、忍苦と自己犠牲の精神に富んだ日本人中の日本人、彼折竹を俟ってはじめてなし得ることだ。彼でなければ、誰が事変中の支那奥地へのこのこと乗りこめるだろう。あの海外学会への名声がなければ、誰が外国旗のもとに万全の保護をしてくれるだろう。いま私は、その百万に一人ともいう珍しい男をみている。顔は嶽風と雪焼けで真っ黒に荒れ、頬は多年の苦労にげっそりと削けている。私はなんだか鼻の奥がつうんと痛くなるような気持で、しばらくじぶんの用件をもち出すのも忘れていたほどだ。そこへ、折竹が察したような態度で、
「君は、Lha-mo-Sambha-cho を知っているかね」と訊いた。
「Lha-mo……⁈」私が、しばらく目を見はったのみでなにも言えなかったほど、それほど、のっけから唖然となるような名前だ。彼が……では、Lha-mo-Sambha-cho へ行ったのか、いやいや、あすこへは決して行けるわけがないと、心では打ち消しながらやはり訊かずにはいられない。
「君が、まさか往ったのではないだろうね」
「いや、往けばこそだよ。あすこは、米国地学協会のダネック君が、ここ数年間執拗な攻撃を続けていた。僕は、その最後の四回目のとき往ったのだが……そのときの、想像を絶する悲劇のさまを君に話したい。じっさい僕も、そのときの衝撃で休養が必要になったのだ」
といわれ、はじめて気がついたように折竹をみると、色こそ、猓玀の𤠫〓(「けものへん+敕」)のような夷蛮と異らないが、どこかに影がうすれたような憔悴の色がある。これは、きっと肉体的な衝撃よりも精神的なものだろうと、思うとともに期待のほうも強まってくる。彼はたしかに、なにか想像もできぬような異常な出来事に打衝ったにちがいない。
ところでまず、Lha-mo-Sambha-cho について簡単な説明をしておこうと思う。
支那青海省の南部チベット境を縫い、二万五千フィート以上の高峰をつらねる巴顔喀喇山脈中に、チベット人が、「天母生上の雲湖」とよぶ現世の楽土、そこにユートピアありと信じている未踏の大群峰がある。またそこを、鹹湖「青海」あたりの蒙古人は Kuso-Bhakator-Nor──すなわち、「英雄のゆく墓海」と称している。
成吉思汗が、甘粛省のトルメカイで死んだというのみで、その後彼の墓がいずこか分らないのも、おそらく此処へ運ばれたのではないかといっている。そうしてそこは、揚子江、黄河、メーコン三大河の水源をなし、氷河と烈風と峻険と雪崩とが、まだ天地開闢そのままの氷の処女をまもっている。では、ここはたんなるヒマラヤのような大峻嶺かというに、ここほど、さぐればさぐるほど深まる謎をもつところはない。まず私たちは名称について考えよう。
山でありながら、蒙古称もチベット称も山といっていない。一つは雲湖、一つは墓海──。してみると、その連嶺の奥に湖水でもあるのかというに、そこはまだ、飛行機時代の今日でありながら俯観したものがないのだ。エヴェレストでさえ、フェロース大尉らによって空中征服がなし遂げられている。ところが、ここではそれも出来ないというのは、主峰をつつむ常住不変の大雲塊があるからだ。うごかぬ雲、おそらく天地開闢以来おなじままだろう雲──。およそ雲といえば流動を思う読者諸君は、ここでまず最初の謎を知ったわけだ。
なるほど、モンスーンの影響をうける季節のこの連嶺の密雲はすさまじい。しかし、その季節以外は時偶霽れて、Rim-bo-ch'e(紅蓮峰)ほか外輪四山の山巓だけが、ちらっと見えることがある。しかし主峰は、いつも四万フィートにもおよぶ大積乱雲に覆われている。だいたいこれは、気象学の法則にないことで、二万五千フィートの上空には巻層雲しかない。それが、時には雷を鳴らし電光を発し、大氷嶺上で時ならぬ噴火のさまを呈する──その怪雲は明らかに不可解だ。と同時に、雲湖とチベット人がいい、墓海と蒙古人がいうわけも、読者諸君にのみ込めたことだろうと思う。
じっさい、裾はるかを遊牧する土民中の古老でさえ、その主峰の姿をいまだに見たものはない。したがって、高さも一体どのくらいなのか分らず、あるいは、そこには山がなく雲だけではないのか⁈ それとも、エヴェレストを抜く三万フィート級の、世界第一の高峰が知られずに隠れているのではないかと……いま世界学界の注視と臆測をいっせいに浴びているこの大氷巓は、またラマ僧が夢想するユートピアの所在地だ。
かの大雲塊でさえ容易ならぬことだのに、時偶、姿をあらわす外輪四山の山巓が、それぞれちがった色の綺らびやかな彩光をはなつのだ。すなわち、紅蓮峰は紅にひかり、さらに、白蓮、青蓮、黄蓮と彩光どおりの名が、それぞれの峰につけられている。でここに「絵入ロンドン・ニュース」の短文ではあるが、第一回「天母生上の雲湖」探検記を隊長ダネックが寄せたなかから、彩光に関する部分を抜きだして掲げてみよう。
──この霞んだ空のひかりと淡い曇りをさして、この地方の土民は晴天だといっている。それほど、碧い空と陽のひかりは滅多に訪れてこない。私たちはいま、ここが人界の終点だろうと思うバダジャッカの喇嘛寺で、いまに現われるという彩光をみようとしている。
やがて、頬をさすような冷たい霧が消えたむこうに、まるで岬をみるような山襞が隠見しはじめ、と思うまに、はるかな雲層をやぶって霧が峰とでもいいたいような、ぼやっと白けた角のような峰があらわれた。私が、かたわらの高僧にあれですかと聴くと、いいえと、銅びかりのしたその老人は首をふった。その峰は、ここが海抜約一万六千フィートとすれば、おそらくそれを抜くこと八千フィートあまりだろう。私はそこで、首の仰角をさらにたかめて空をみた。
まもなく、よもやそこにと思われる中空の雲のあいだから、ぬうっと突きでた深紅の絶巓──。おう、まだ地球が秘めている不思議の一つと思うまに、その紅の峰は瞬くまに姿を消した。とそこへ、麦粉と犛牛のバタを焼く礼拝のにおいがするので、みると、いまいた高僧をはじめ大勢が祈っている。私が、あの峰をなぜ拝むのかと訊くと、その高僧がつぎのように語ってくれた。
「チベット蔵経の、正蔵秘密部の主経に、孔雀王経と申すのがあります。そのなかに現われる毘沙門天の楽土が、そもそもあのお峰でござりまする。ではそれが、孔雀王経にはなんと書かれてありましょう。それは、ヒマラヤを越え北へゆくこと数千里、そこに氷に鎖される香酔なる群峰があり、その主峰をよんで阿羅迦槃陀といい、すなわちそれは、高原中の大都なる意でござりまする。おう、蓮芯中の宝玉よ、アーメン」
と、私は祝福され若干のお布施をとられた。これで、私の来世がはなはだ良いそうなのである。高僧は、なおも節のようなものをつけて、勿体そうに語ってゆく。
「で、そこには、四大河の水源をなす九十九江源地なる湖水あり、その湖上には、具諸衣宮殿なる毘沙門天の大宮殿。さらに、外輪山はこれ四峰あり、阿吨曩吨、倶曩吨、波里倶娑曩吨、曩拏波里迦。そうしてそれぞれの峰には、発する彩光の色により、四とおりの別名あり。紅にかがやくは、紅氷蓮の咲く花酔境、白光を発するは、白氷蓮の咲く吉祥酔境などでござりまする。そこは、氷嶺とは申せ気候春のごとく、あらゆる富貴、快楽を毘沙門天がお与えくださいます。私どもも、そこへ行き着きとうて修行いたしますなれど、まだ花酔境の裾をみたものもございませぬ」
ユートピア、これこそ喇嘛の夢想楽土であるが、しかし孔雀王経中の四峰の彩光といい、すべてが現実そのままなのも奇怪だ。花酔境とは、すなわち今いう紅蓮峰であろうし、九十九江源地とは、三大河の水源という意味であろう。理想郷も、よし今はなくも遺跡ぐらいはあろうと、ますます大氷嶺の奥ふかくのものに心をひかれ、いま冷い密雲に鎖されうしなわれた地平線のかなたを、私はしばらく魅入られたようにながめていた。
しかし、あの彩光の怪は科学的に解けぬものだろうか。私は、あれが水晶の露頭ではないかと考える。しかもそれが、そばのラジウム含有物によって着色されたのではないかと、推察する。ラジウム、含有瀝青土⁈──私は、神秘境「天母生上の雲湖」を大富源としても考えている。
だが、登行を果さずになんの臆測ぞやだ。これから、外輪紅蓮峰の裾まで八十マイル強、そこの大氷河、堆石のながれ崎岠たる氷稜あり雪崩あり、さらに、風速七十メートルを越える大烈風の荒れる魔所。私たちは、やがて犛牛をかり地獄の一本道をゆかねばならぬ。
ところが、三年をついやし三回の攻撃を続けても、ついにダネックらは紅蓮峰の裾の、大氷河を越えることはできなかった。そこを、吹きおろす風は七十メートルを越え、伏しても、はるか谿底へ飛ばされてしまうのだ。──以上が私の、「天母生上の雲湖」についての貧しい知識である。それへ折竹が、三回の探検による科学的成果と、偶然、彼が発見した新援蒋ルートの話を加える。
「ではまず、本談に入るまえにだね。ダネックの、失敗中にも収穫があったことを話しておこう。それは、バダジャッカのある洪積層の谿谷から、前世界犀の完全な化石が発見されたことだ。こいつは、高さが十八フィートもあるおそろしい動物で、まだそのころは犀角もなく、皮膚も今とちがってすべすべとしていた。ところが、こいつがいたのが二十万年ほどまえの、第三紀時代のちょうど中ごろなんだ。洪積層は、それから十万年もあとだよ。すると、後代の地層中にいる気遣いのない生物がいるとなると、当然まだ、『天母生上の雲湖』にはそういうものが残っているのではないか。第三紀ごろから出た原始人類も、やや進化した程度でそのままいるんじゃないか。とマア、こういうような想像もできるわけだね」
「うん、できるだろう。それで、その連中の史前文化のさまを唱ったのが、とりも直さず孔雀王経ではないかとなるね」
「そうだ、だが、いまのところは話だけにすぎんよ。ところで、ダネックは紅蓮峰の彩光をラジウムのせいだといっているね。なるほど、いちばん毛唐にピンとくるのは欲の話だからね。しかし僕は、どんな富源でも後廻しにしなきァならん」
「なぜだね」
「それはね。香港封鎖後の新援蒋ルートなんだ。インドシナから、雲南の昆明をとおってゆくやつは爆撃圏にある。彼らは、じつに不自由な思いをする夜間輸送しかできんのだ。ところが、事実は然らずというわけで、さかんにイギリス製の軍需品がはいってくる。これは、可怪しいというので僕へ指令がきた。イギリスの勢力圏であるチベットをとおって、重慶へ通ずる新ルートがあるのではないか⁈ しかしそれは、『天母生上の雲湖』の裾続きで遮断される。裾といっても、二万フィートを下る山はないのだからね」
「すると」
「ところが、僕は予想を裏切られた。マアこれは、本談のなかで詳しく話すことにしよう。で、『天母生上の雲湖』で起ったおそろしい出来事だが……惜しいことに、僕には君のような文士を納得させるような喋り方が出来ない。サア、なんというか文学的というのかね。それほど、これは人間のいちばん奥ふかいものに触れている」
折竹は次のように語りはじめた。
襤褸よりも惨め──とは、失敗した探検隊のひき上げをいう言葉だろう。ダネックは、基地の察緬へ這々の体でもどってきた。ここは、折竹が三年もいる土地である。西雲南の、東経百度の線と北回帰線のまじわる辺り、そこだけ周囲とかけはなれた動物区をいとなんでいる、いわゆる察緬小地区の盆地だ。
折竹は、アメリカ地理学協会の依頼で探検には加わらず、もっぱらここで採集に従っていたのだ。すると、その第三次「天母生上の雲湖」探検の犠牲者のなかに、〝Kellett〟全覆式オートジャイロの操縦者でタマス木戸という、彼の腹心ともいう二世の青年がいたのである。折竹が、それに気付いたときの失意のさまといったら、剛毅な彼とはとうてい思えなかったほどだ。木戸は飛行中「天母生上の雲湖」の主峰の雲にひき込まれたのだ。
「とにかく、木戸君を酷使した嫌いがあったかもしれん。しかし、それは上空からの偵察で登攀の手がかりを見つけにゃならんし、じつに、飛行回数百二十一という記録だった。ところが、白、黄、青の三外輪はひっきりなしの雪崩だ。ただ紅蓮峰の大氷河だけに口が空いているが、そこは、君も知る大烈風が吹き下している」
その夜──。インドのビルマちかい巨竹の森のここでは、ぷんぷんジャングルの風が腐竹のにおいを送ってくる。豺が咆え、野豚が啼く熱林のなか──。そこに、アメリカ地理学協会が建てた丸太小屋がならんでいて、いまダネックが胸毛をあおぎながら、木戸の最期のさまを折竹に話している。
「しかしだよ、木戸君の犠牲でやっと分かったのは、あの『天母生上の雲湖』の主峰の雲の正体だ。あれは、おおきな気流の渦巻なんだ。海には、ノルーウェーの海岸にメールストレームの渦がある。メッシナ海峡にはカリブジスがあるね。しかしそういう、退潮と逆潮とでできる海流の渦のような気流は、残念なことにあの上空にはない。きっと僕は、主峰があるといわれるあの雲の下が、もの凄い大空洞ではないかと思うんだ。サア、陥没地、大梯状盆地というかね。それも、上空に渦をおこさせるほど、ものすごく深いもんだ」
「じゃそれを、木戸君が確めたのかね」
「いや、ただ最後の無電でそう推察できるんだ。機はいま、旋流にまきこまれ、主峰の雲へ近付いていく──それがまず最初のものだった。続いて、もう我らには旋流をのがれる手段はない。神よ、隊員諸君とともにあれ──とあった。と間もなく、たしか五、六分経ってからだろう、とつぜん『大渦巻』というあの一言がはいった。僕らは、もう絶望し胸せまって十字を切った。するとだよ」
「ふむ」
「それからは、誰も感慨ぶかげな顔でものも言わない。そこへ、もうないと断念めていたころ、ふいに最後の通信がきた。見た──という、たった一言だが、見たというんだ。そして木戸は、その謎語をのこしたまま無電のオーハラとともに、おそろしい魔境の神に召されたのだ」
その無電のうち「大渦巻」と打ったころは、たしかに木戸の機は怪雲に入っていたにちがいない。それがたんなる巨大な渦雲にすぎないということは、ただその一言だけでも容易に想像がつくことだ。それから、機は旋回しながら墜ちこんで行ったのだろう。そして、「天母生上の雲湖」の真核の地上ちかくになって、木戸はたしかに何物かを見たのだ。
ユートピア⁈ 数マイル切り下れた大空洞の底。そこは、零下六十七度の地表とはちがい和やかな春風が吹き、とうてい想像もできぬような桃源境があるのではないか⁈ いや、木戸はそれを見たのではないか⁈ と、最後に木戸が投げつけた謎語をめぐりながら、よくやった、最後まで気力を失わなかったのはやはり日本人だと、涙と奇靉をひろげる夢想世界のなかで、しばらく折竹は一言もいえなかった。
そこへ、きゅうにダネックが激越な調子になって、
「いよいよ僕も、『天母生上の雲湖』とはお別れということになったよ。探検を、一時中止しろという厳命がくだってしまった。それで、いま俺は返電をやったよ。お前らは、この俺に信頼がもてないのか、それとも費用が惜しくて続けられないのかと、いま訊きかえしてやったところだ」
ダネックが帰ると、きゅうに折竹の目から堰を切ったような涙がながれてきた。それとともに、なにやら独り言のように俺がやるぞと言いながら、彼は亢奮し、とり乱したようになってしまった。
なるほど、木戸への哀惜の念もあろう。しかし、折竹ほどの、男の目にさんさんたる粒が宿るということは、もっと、大きな大きな感情の昂まりでなければならぬ。では、なにが折竹をそうさせたかというに……さっき彼が私に話した新援蒋ルートの所在を、木戸が「天母生上の雲湖」をさぐる飛行中に発見したからである。
揚子江上流の一分流の Zwagri 河が、「天母生上の雲湖」とバダジャッカの中間あたりを流れている。絶壁と、氷蝕谷の底を、ジグザグ縫うその流れは、やがて下流三十マイルのあたりで激流がおさまり、みるも淀んだような深々とした瀞になる。そしてその瀞が、断雲ただよう絶壁下を百マイルも続いている。
ところが一日、木戸がその瀞をゆく見馴れぬかたちの舟をみたのだ。どうも、土地のタングウト土人の樅皮舟ともちがう。しかも、それが一つや二つではなく二、三十艘も続いている。で結局、それが英海軍でつかう兼帆艀だったのだ。とにかく、チベットを横切り「天母生上の雲湖」を左に見、Zwagri の大瀞をくだって陸揚げしたものを、一路重慶へもちこむ新援蒋ルートだ。
折竹は、木戸からその報を得たとき、これは黙視できぬ、と考えた。といってそこは、万嶽雲にけむる千三百キロのかなたである。彼は、切歯扼腕、歯噛みをして口惜しがったのだ。
するとそこへ、もしもそこへ行けたならという仮定のもとに、そのルート破壊の大奇案がうかんできた。
それは、奔湍巌をかむ急流の Zwagri が、なぜそこまでが激流で、そこからが瀞をなすのか──それを、折竹が謎として考えたからだ。瀞とは、数段の梯状をなす小瀑の下流か、それとも、ふいに斜状の河床が平坦になるかなのだが、この Zwagri の場合はいずれのものでもない。とここに、「天母生上の雲湖」の九十九江源地からでて、地下の暗道をとおり水面下に注ぐ川があるのではないか。暗黒河は、中央アジアの大名物である。それが、「天母生上の雲湖」付近に必ずしもないとはいわれまい。
つまり、Zwagri のその点をさぐって暗河道をふさぐか、それとも「天母生上の雲湖」へわけいって源流を閉じるか、──その二者以外に遮断の方法はないと考えていた。なぜなら、水量が減れば激流となって、そこの舟行がたちまち杜絶するからである。
「くそっ、カーネギーの金庫を背負った学会がなんて醜態だ。二度や三度の、失敗で平張るなんて、外聞があるぞ。俺も、今度こそは往ってと思っていたのに……」
ダネックがいった探検中止の報が真実とすれば、支那事変終止を早からしめる援蒋ルートの遮断も、魔境「天母生上の雲湖」征服もいっぺんに飛んでしまう。みすみす、機会を目のまえにしながら、なんて事だろう、焦ればあせるほど眠れなくなって、その夜折竹はまんじりともしなかった。すると、それから三日後に、いよいよ探検中止確定をダネックがしらせにきた。
「これで俺も、いよいよハーヴァードの地学教室へもどるんだ。遠征五年、隊員十六名を失っただけで、なんの得るところもない。ねえ、『天母生上の雲湖』は永劫の不侵地かね」
ダネックも、さすがその日はぐったりしていた。彼は、アメリカに籍はあるがチェコ人。精悍、不屈の闘志は面がまえにも溢れている。三十代に、加奈陀ロッキーの未踏氷河 Athabaska をきわめて以来、十年、彼は恒雪線とたたかっている。雪焼けはとうに、もう地色になっていて、彼は自他ともゆるす世界的氷河研究家だ。
「弔い合戦」と、のぞき込むような目でダネックが言った。それは、彼自身にとっても身を焼くような執着である。
「君も、今度は木戸のために闘うところだったね。『天母生上の雲湖』に復讐するところだったね」
「そうだ。ところで、君に言おうかどうかと迷っていたんだが……」と、とつぜん折竹が改まったように、切りだした。
「さっき、白夷人の召使が聴き噛ってきたんだがね。ここへ何でも、『天母生上の雲湖』ゆきの新隊がのり込んできたというのだ」
「なに、われわれ以外の探検家とはどこの国のだ⁈」
みるみる、ダネックの目がすわり、額が筋ばってくる。これが、彼のいちばん不可ないところだった。じぶんを持することあまりに高いために、すぐ人と争い猜疑心を燃やす癖がある。いまも這々の体でもどったところへ新しい隊と聴き、彼はさながら身を焼くような思いだったろう。ところが、折竹が含みわらいをして、
「マアマア、話は全部聴いてからにし給え。それがね、探検隊とはいえ、じつに妙なものなんだ。触れ込みはそうでも、総員男女二人しかいない」
「なんだ⁈」 ちょっと、ダネックの顔色が和らいだ。案外、事実を知ったら吹きだすようなものかもしれない。彼は、バンドを揺って、嗤いながら立ちあがった。「そうか、其奴が、僕の『天母生上の雲湖』における経験を聴きたいというのだね。よろしい、今夜そのちんまりとした探検屋に逢ってやろう」
アメリカ地理学協会「天母生上の雲湖」攻撃隊は隊員二十一名、人夫は、苗族、猓玀、モッソ各族を網羅し二百余名なのに、ここに、あらたに現われた新隊の人数総員二名とは、まずまず聴けばままごとのような話である。ダネックと折竹は、その日の夕がた新来者の宿を訪れた。
そこは、折竹と懇意な漢人の薬房で、元肉、当帰樹などの漢薬のくすぶったのが吊されている。店をとおって奥まった部屋へとおされた。そこには、浮腫でもあるのか睡たそうな目をした、五十がらみのずんぐりとした男が立っている。丁抹の、クロムボルグ紀念文化大学の教授ケルミッシュといった。やはり彼も、チェコ人で梵語学者である。
「ここで、国のお方にお逢いできるとは、望外な倖せです。私は、『天母生上の雲湖』登攀の希望をもって、いささか仏教文学の方面からもあの地を究めておりますので……」
「それは」とダネックが無遠慮に遮った。
「あなたのは、つまり、教室だけの『天母生上の雲湖』でしょう。あの辺と、古代インドの交通を書いた大集月蔵という経がありますね。しかし、登行には科学的準備が要ります。もちろん、科学的鍛練、経験もものをいいます。僕は、これでも氷河とは十年も暮してますが、あの、『天母生上の雲湖』には赤児のように捻られますぜ」
「では、私なんぞには登れぬと仰言るのですね。なるほど、私にはなんの鍛練もない。氷斧を、どう使うかも知らないし、アルプスの空気も知りません。素人です。僕は、全然の無経験者です」
それには、折竹もダネックも少なからず驚いた。冗談や粋狂でゆける「天母生上の雲湖」ではない。きっとこれは、いい加減なところまで往って引き返したうえ、「わが天母生上の雲湖死闘記」などと空々しいものを発表する、許しがたい売名漢ではないのか。ダネックも、さいしょは彼の競争者として警戒を怠らなかったのが、もう聴くも阿呆らしいというような素振りになった。もちろん、そこまでのケルミッシュはいかにもそうであったろうが……。
「ですが、ダネック教授」とケルミッシュが改まったように、言った。
「私は、些かながらあの魔境について知っております。あなたが、五か年の辛苦のすえやっと究めたもの以上を、私は、ヨーロッパにおりながら不思議にも存じているのです。ねえ、まだ短文以外の探検記の発表はありませんね。隊員中、途中で帰国した方も一人もないと思いますが」
「ふうむ」ダネックは愚弄されたように唸った。五年間、人力がつくせる最高のエネルギーを発揮して、氷河と、大烈風とひっ組んだじぶんのあの労苦を、いま舌三寸で事もなげにいうこのペテン師と、彼は怒気あふれた目で、ぐいと相手をにらみ据えた。
「君が、そんな魔法使いなら羽くらいはあるだろう。どうだ、僕を『天母生上の雲湖』まで、乗せて飛んでいってくれ」
「いやいや、ただ私という男がけっして無価値なものでない──それを、ともかくお知らせしとこうと思うのです。ところで、あの外輪四山のうちの紅蓮峰の嶺ですね。あれは、東南からのぞめば角笛形をしているが、ちょっと、西へまわると隠れていた稜角がでて、その形が円錐になりますね」
これには、さすがのダネックもあっと驚いた。まだ、あの山嶺の写真は一つしか発表してない。西側からのは、実をいうと写真にもとってないのだ。それを、万里の雲煙をへだてたヨーロッパにいて知るとは、なんという化物のような男だろうか。
ダネックが、打ちのめされたように茫然となっているところへ、ケルミッシュのもの静かな声が続く。
「これで、ダネック教授もお分りになったことと思う。私は、今次の探検についてあなたの協力を求める。いや、ぜひお力添えを得たいと思う。それに就いて……」
と言いかけたとき、バタンと扉があいた。西日が叢葉のすきから流れるなかへ金髪が燃え、ひとりの、白人女がふらふらと入ってきた。
「ああ、ケティ」ケルミッシュが、ちょっと眉をしかめ立ちあがって肩を抱いた。
見ると、金髪の色といい碧眼の澄みかたといい、一点、非のうちどころのないドイツ娘である。しかし、それ以外の部分はなんという変りかた⁈ 厚い唇をだらりと空けた様。
顔はだだ広く鼻は結節をなし、ほそい目の瞼がきりっと裂けている──まさに、このほうは完全な蒙古人だ。そのうえ、一目で白痴であるのが分るのだ。
これかと、ダネックも折竹も唖然と目をみはった。これが、ケルミッシュの同伴者とはますます出でて奇怪だ。癡呆を連れてきてあの大魔境へのぼる⁈ さっきの紅蓮峰の山嶺のことでグワンとのめされた二人は、いよいよ神秘錯雑をきわめるこのケルミッシュのために、いまは、引かれるままの夢中裡の彷徨だ。
日が落ちた。巨竹の影が消え角蛙が啼きだした。暑さはいくぶん退いたが、二人のこの汗は。
その夜から、ダネックの懊悩がひどくなった。なんの、ペテン師、売名漢と初手から見くびったケルミッシュが、さながら人間以上のおそろしい力をもっている。もしも、彼ダネックが優秀な科学者でなければ……、ケルミッシュもあの娘も魔境「天母生上の雲湖」の、ユートピアの住人がひそかにあらわれたくらいに思うだろう。
だが、この場合懼れるのは登攀の成功だ。魔境の大偉力に対するダネックの科学より、むしろ神秘対神秘力でケルミッシュではないのか。辛酸五年の労苦が水泡に帰したところへ、あらたな力を抱いて魔境へゆくケルミッシュをみる、ダネックの胸のなかの切なさ。ところへ、二、三日経って二度目の会見が行われた。
「きょうは、全部のことを包まずお話しようと思うのです」
相変らず、ケルミッシュを鬱々としたものが覆っている。二人は前回の影響もあり、白昼幽霊をみる思い。
「私が、なぜヨーロッパに居りながら、あの魔境のなかを知っているか。それにはじつをいうと次のような話があるのです。あなた方は、『宣賓の草漉紙』『メンヤンの草漉紙』という名の漂着物をご存知ですか。一つは揚子江の流れをくだり四川省の宣賓、一つはメーコン河をくだって仏領インドシナのメンヤンへ、それぞれ流れついたものがあったのです。
それは、古来から何処にもないような草漉紙でした。そしてそれに、チベット文字のようなジャワ文字のような、とにかく、その系統にはちがいないが判読できぬという、じつに異様な文字が連っていました。たいていの学者は、それをなにかの悪戯のように考えたらしいですが、私は、それに執心五年、やっと読み解くことができたのです。
宣賓のには、紅玉光をはなつ峰のさまが書かれてある。それが先日、私がたしかめた紅蓮峰の山巓でした。あの二つの草漉紙は、それぞれ『天母生上の雲湖』の九十九江源地から流れてきたのです。私は、あの大氷嶺のなかの天母人の文化、魔境の、天険のなかにも桃源境があると思うと、思わず、われ行かんユートピアへと叫んだのです。
いま、国をうしなったチェコ人の願いは、どこか地図にない国があれば、そこへ往きたい。そして、亡国よという声を聴かずにいたいというのです。折竹さん、これは国運日々にすすむ東亜の盟主、日本のあなたはとうてい分りますまい。いや、あなたは亡国者の無気力の夢と嗤うでしょう」
見ると、ケルミッシュの双頬が二筋三筋濡れている。折竹は、しみじみ神国にいるじぶんの幸福を感じたが、案外、おなじチェコ人でもアメリカ育ちの、ダネックは感じないようにみえた。ケルミッシュは、涙に気づいたのか、慌てたように亢奮をおさめた。
「それから、『メンヤンの草漉紙』のほうは孔雀王経です。やはりあれは、天母人の大文化を唱ったものです。それには、一、二か所ちがったところがありまして、あに竜の森へゆくを得んや──というところがある。その竜という字が棘蛇とかわっているのです」
「棘蛇」とダネックがちょっと目を剥いた。
「棘蛇、あの第三紀ごろにいた游蛇類ですか」
「そうです、少くともそう思われますね」と熱したダネックの目を冷ややかにみて言った。
「それで略、前世紀犀が十万年もあとの、洪積層から出た理由も分ります。要するにそこは、人獣ともに害さぬ仏典どおりの世界でしょう。それこそ、つらい現実からのがれる倔強な場所です。私は……そうして理想郷を見つけました」
「では、無躾なようですが連れのご婦人は?」と折竹がたまらなくなったように訊いた。しかし、それは、ケルミッシュが続けて言おうとするものだった。
「ケティ……そうです。あれは、じつに珍しい完全な蒙古型癡呆です。蒙古型癡呆とは、お二人には説明も要りますまいが、遠い、遠い昔入りこんだ蒙古人の血が、ぼつりと、数万年後のいま白人種にでるのをいうのです。彼らは、蒙古人のするとおりの真似をする。胡坐をかく、手掴みで食い、片手で馬を捌く。しかし、智能の程度は小学生をでぬ。とマア、こういったもんです。
でケティは、もとサーカスの支那驢馬乗りでした。そして白痴なもんで虐待をうけていた。すると、その金髪碧眼に蒙古的な顔という、奇妙な対照が僕の目をひいたのです。もともと私は、白人文明の破壊性が心から厭で、東洋思想に憧れればこそ、梵語などをやりましたが……。一夕、ケティをよんで飯を食わしたことがあるのです。
その席上、偶然私がとり出した『宣賓の草漉紙』をみてケティがなにやら音読のようなものを始めた。そこで私は、学校によんで録音をさせました。それから、時経てからまたケティに読ます。しかし、やはりなん度読ましても、おなじように読む」
「なるほど」ダネックが始めて相槌をうった。
「つまり、私は意味は分るが音読ができぬ。ところが、ケティは意味は分らぬが音読はできる。と、こんな工合で、はじめて『天母生上の雲湖』の言葉が完全に読めたわけです。ケティは蒙古型癡呆というよりも、天母型癡呆ですよ」
「すると」と折竹が口をはさんで、「きっと太古に、ヨーロッパへきた天母人の一族があったのでしょう」
「そうです。その血が、なんでいまの白人種に絶無といえるでしょう。ですから、私は東洋思想に溶けこんでいるせいか、有色人蔑視をやる白人種を憎みます。ナチスの浄血、アングロサクソンの威──かえって彼らは、じぶんらにある創成の血を蔑んでいる」
続いてケルミッシュは、いずれなにかの役にきっと立つと思うので、ケティを連れてきたといった。世界に一人、秘境「天母生上の雲湖」の言葉を読む白痴のケティ、その彼女を連れて魔境のなかへ消えようという……このケルミッシュの探検ほどおよそ奇怪なものはない。
折竹は、それから懸命にダネックを説いた。途中は、麗江のあたりから二万フィート級の嶺々が、約七、八百キロのあいだをぎっしりと埋めている。それに、KoLo のように慓悍な夷蛮はあり、ともかく西域夷蛮地帯をゆくには経験に富んだ、ダネックのようなエキスパートを俟たねばならぬ。しかし、ついに折竹は相手を説き伏せた。名を、ダネック探検隊とするということにして、ともかく、名利心を釣り納得させたのである。よかったと、彼はホッと吐息をした。これで、いよいよ援蒋ルート遮断の日も近いと、ひそかに故国の神へ折竹は感謝した。
これには、富有なケルミッシュが全資産を注ぎこみ、いよいよ準備成った翌年の三月、蜿蜒の車輛をつらねる探検隊が察緬をでた。そこから大理、大理から麗江、じつにそこが西域夷蛮地帯の裾だ。北緯二十六度、V字型の谿には根樹の気根、茄苳、巨竹のあいだに夾竹桃がのぞいている。
「おい、どうした君、歩けないかね」
ケルミッシュが、おそらく老年の豹でもあるいたらしい泥濘の穴に足をとられ、ぺたりと、面形を地につけ動けなくなってしまった。そこには、暖水をこのむ大蟻が群れている。陰湿の、群葉のしたは湯気のような沙霧だ。
「さあ、足を踏んばって……、おいケティ、ケルミッシュ君に肩を貸してやれ」
「なんて、意気地がない。男ざかりが、泡アふっくらって可笑しくなるよ。おや、なんてえ滑っこい肌だろう」
この、疲れをしらない石人のような頑健さ。時々ケティは弱いケルミッシュの生杖になっていた。
しかし、そこからは一歩一歩がたかく、それまで栴檀のあいだに麝香鹿があそんでいた亜熱帯雲南が、一変して冬となる。揚子江の上流金沙江の大絶壁。じつに、雲をさく光峰からくらい深淵の河床にかけ、見事にも描くおそろしい直線。それが、一枚岩というか屏風岩といおうか、数千尺をきり下れる大絶壁の底を、わずかな苔経をさぐり腹這いながらゆくようなところがある。そこは、鳥も峡谷のくらさにあまり飛ばないところ……。そこを、やっと抜けでて西康省に入ればいよいよ崎嶇をかさねる西域夷蛮地帯の山々。
あるいは恒雪線にそい、あるいはすこし下って、一万フィートあたりの石南花帯をゆく。巨峰、鋸歯状の尾根が層雲をぬき、峡谷は濃霧にみち、電光がきらめく。そして、雹、石のような雨。またその間に岩陰に目をむく、土族を追えば黒豹におどされる。まったく、それは四月間の地獄のような旅だった。そうして、七月のはじめバダジャッカに着いたのである。
そこには、バダジャッカの喇嘛寺があり、人煙はそこで杜絶える。しかし、そこから「天母生上の雲湖」へかけては大高原をなしている。
その夜、断雲からもれる月が雪のうえに輝いていた。巌の輪郭をきざんだ手近の尾根をながめながら、折竹とダネックがひそかに語っている。それは、ゆうべダネックが見付けたことであるが、ケティが深夜ケルミッシュの部屋へ入ったというのだ。
「どうも、白痴がケルミッシュ君に惚れてるらしいんだ。悪女の、なんとか情とかでケルミッシュ君も、ゆうべは辟易していたらしかったよ。それがね、僕が寝ようとした時だった」
犛牛の乾脂の燃える音が廊下を伝わってくる。ひょいと覗くと、ケティが平らな顔をニタリニタリとさせながら、向うのケルミッシュの部屋のなかへ入ってゆく。ダネックは、もの好き半分、扉のすきから覗きこんだ。
「なに、なんの用できたね」ケルミッシュが空咳をした。見るとなんだか、不味いものがいっぱい詰まったような顔だ。
「なんだといって……⁈ なんだか、あたいにも訳が分らないんだよ」
と言うと、すすっと寄ってきて舌っ足らずの声で、
「先生……マア起きていたんだね。あたいを、先生は待っていてくれたんじゃないのかね」
と、ケルミッシュが辟易するさまを、ダネックが笑いながら話したのである。あんな白痴を、ただ天母語が読めるだけで連れてくるもんだから、ケルミッシュ君も、えらい目に逢うんだ。だいたい、無思慮、無成算でケルミッシュ君は駄目だ。やはり、これは俺の探検だねと、ダネックが鼻高々に言うのである。しかしそれは、ただ浅いとこしか見えぬ、人間の目にすぎない。翌朝から、すべてが白痴ケティを中心に廻転してゆくようになった。
朝まだき、とつぜん銅鑼や長喇叭の音がとどろいた。みると、耳飾塔や緑光瓔珞をたれたチベット貴婦人、尼僧や高僧をしたがえて活仏が到着した。生き仏さま、おう、蓮芯の賓石よ、南無──と、寺中が総出のさわぎだった。探検隊がそれに相当の寄進をしたので、午後、隊のための祈願をすることになった。読経の合間合間に経輪がまわっている。むせっぽい香煙や装飾の原色。だんだんケティは眩暈のようなものを感じてきた。すうっと、目のまえのものが遠退いたと思うと、ケティはそれなりぐたりと倒れた。
気がつくと、瑜伽、秘密修験の大密画のある、うつくしい部屋に臥かされていた。黄色い絹の天蓋に、和闐の絨緞。一見して、活仏の部屋であるのが分る。すると、西蔵靴をかたりかたりとさせながら、活仏の影がすうっと流れてくる。むくんだ、銅光りのする顔がちょっと覗いたが、それはやがてひれ伏した。
「生き観音、おう、まことの観音とは貴女さまじゃ。毘沙門天の富、聖天の愉楽を、おう、われに与えたまえ」
ケティには、なんでそういわれたのか、考える頭脳はない。常人でも、それはじつに解しがたいことだ。しかし彼女は、それを機会にてんで無口になった。それまでの、のへのへと笑み妄言を言うケティは、もう何処かへ消えてしまったのだ。ただ、「天母生上の雲湖」を覆う密雲をのぞんでは、時々、きらっと光っては消える大氷河のかがやきに……そのときの笑みはてんで違うものになっていた。彼女は、なにかの叫び声をうけはじめたのだ。
「ケティは、何処にいるね」ダネックがちょっと意気込んだ声で折竹に訊いたが、相手の様子をみるといきなり言い紛わせ、「いやね、大氷河のしたのAF点の傾斜を測りたいんだ。ケルミッシュ君がいじっていた経緯計はどうしたね。君、ケルミッシュ君を見かけなかったかね」
それは、やはり折竹も気付いていたことだったけれど、きゅうにケティが美しくみえてきたのだ。あるいはそれは、周囲の自然の線が微妙な作用をするのだろうか。荒茫ただ一色の雪の高原にたち……風や雷にきざまれた鋸状の尾根を背にしたケティは、あの醜さを消し神々しいまでに照り映える。と急に、彼女をみる男の目もちがってくる。ダネックもケルミッシュも、ケティを雄のように追いはじめたのだ。
「ダネック君、君は近ごろどうかしているね」折竹が、もしケティの問題でこの探検隊が崩れるようではと、一日、ダネックをとらえて真剣に問いはじめたのだ。
「どうしたって⁈ 僕は相変わらずの僕さ」
「いや違う。まえには、もっと剛毅不屈なダネックだったね。それが、山男のくせに女の尻を追いまわす。それも白痴のケティとは、呆れたもんだと思うよ。ケティは……やはり白痴で醜い女さ。ただ、それをみる君たちの目が、妙な工合に違ってきただけなんだ」
「そうか、僕もそういや気がついていることがあるんだ。君がケティをみる目も尋常じゃないよ」
折竹は、俺もかと思うとぞっと気味わるくなった。じぶんだけは、男のなかでも超然として、なんの白痴女と些細も思わぬと考えていたのに、やはり、ダネックがみるじぶんの目もちがっている⁈ それが、「天母生上の雲湖」の不思議な力だろうか。いまに、このバダジャッカで愚図付いているうちには、全員が気違いになってしまうのではないか。さすが、援蒋ルートをふさぐ大使命をもつだけに、まだ折竹は正常さをうしなっていない。
そこで、二人を急きたてて攻撃準備をいそぎ、いよいよその三日後魔境へ向うことになった。海抜一万六千フィートのここはなんの湿気もない。ただ烈風と寒冷が髭を硬ばらせ、風は隊列を薙いで粉のような雪を浴びせる。やがて、櫛のような尖峰を七、八つ越えたのち、いよいよ「天母生上の雲湖」の外輪四山の一つ、紅蓮峰の大氷河の開口へでた。
そこは、天はひくく垂れ雲が地を這い、なんと幽冥界の荒涼たるよと叫んだバイロンの地獄さながらの景である。氷河は、いく筋も氷の滝をたらし、その末端は鏡のような断崖をなしている。まったく、そこで得る視野は二十メートルくらいにすぎない。暗い積雲と霧のむこうに、不侵地、「天母生上の雲湖」が、傲然と倨坐している。
「ここまでだ。前の三回とも、ここからは往けなかったのだ」ダネックが、感に耐えたような面持で、大氷河の開口を指さした。
「ホラ、あれがバダジャッカでも絶えず聴えていた音だよ。千の雪崩の音、魔神の咆哮と──僕が報告に書いたがね。それは、この開口をのぼった間近で合している二つの氷河の、右側のを吹きおろす大烈風だ。だから、たとえ僕らがこの開口をのぼっても、すぐに地獄の五丁目辺になってしまうのだ。ケルミッシュ君、ここが、人間力の限度、人文の極限だ。どうだ、ゆくかね」
「ゆこう」ケルミッシュは一瞬の躊躇もなく答えた。「往けるところまで……それは君にお願いすることだがね。僕は大烈風を衝いてもなお先きへ行く」
すると、ケティが無言のまま頷いた。で、とにかく、人間がゆける最後まで往こうと、人夫をそこに残し開口をのぼりはじめた。壁や裂け目から、氷の不思議な青い色がのぼっている。そして、それは一足ごとが生命の瀬、なんだか故郷が思われ、孤独の感が深くなってくる。やがて四人は、すぐ大烈風へでる岩陰にかたまって、この魔境をまもる大偉力をながめていた。
まさに、カリブ海の颶風の比ではないのだ。それは、飈という疾風の形容より、むしろもの凄い地鳴りといったほうがいいだろう。
飛ぶ氷片、堆石の疾走──みるみるケルミッシュに絶望の色がうかんでくる。
すると、この難関をあくまで切り抜けて、ぜひ魔境に入り九十九江源地の、Zwagri の水源をふさがねばならぬ折竹は……。しばし、目をとじていたが、ポンと手をうって、
「ある、名案がある」とさけんだ。
「えっ、一体どんなことがあるんだ?」
「それはね、氷河の表面をゆかず底をゆくことなんだ。たとえ、どんな大科学者がどんな発明をしようと、たとえば、千ポンドの錘りをつけようと、この風のなかは往けぬよ。しかし、氷罅をくだって洞を掘ったら、どうだ」
「なるほど」ダネックもともども叫んだのである。
「そうだ。表面氷河は氷斧をうけつけぬ。しかし、内部は飴のように柔かなんだ。掘れるよ。とにかく、折竹のいうとおり氷罅を下りてみよう」
やがて、青に緑にさまざまな色に燃える氷罅の一つを四人が下りていった。試しに氷斧をあてると、ボロッとそこが欠けた。
それは、大レンズのなかへ分け入ってゆくような奇観だった。さいしょは、疲労と空気の稀薄なためおそろしい労作だったが、だんだん先へゆくにしたがい氷質が軟かくなる。しかも、地表とはちがい、ほかつくような暖かさ。そこで諸君に、氷河の内部がいかなるものか想像できるだろうか。
四人はいま、微妙なほんのりした光に包まれている。しかも、四方からの反射で一つの影もない。円形の鏡体、乱歩の「鏡地獄」のあれを、マア読者諸君は想像すればいいだろう。そのうえ、ここはさまざまな屈折が氷のなかで戯れて、青に、緑に、橙色に、黄に、それも万華鏡のような悪どさではなく、どこか、縹渺とした、この世ならぬ和らぎ。これが、人間をはばむ魔氷の底かと、時々四人はぐるりの壁に見恍れるのである。そのうち、ケルミッシュがアッと叫んだ。みると、氷のむこうにまっ黒な影がみえる。
「大懶獣」と呼吸を愕っと引いて、ダネックが唸るように言った。「あれも、第三紀ごろの前世界動物だ。高さが、成獣なれば二十フィートはあるんだがね」
それは、やや距離があってか、そう巨きくは見えない。しかしこれで、「天母生上の雲湖」の秘密の一部を明かにした。
やがて往くと、一本その長毛が氷隙から垂れている。ダネックは、それを大切そうに蔵いこんだ。すると、四人の間に期待とも、不安ともつかぬ異様なものがはじまった。どうもそれが、氷河に埋ったようにはみえない。なんだか、大懶獣のいるあたりが空洞のように思われて、いまにも、氷壁をくだいた手が躍りかかりそうな気がする。そこへ、ダネックが息窒ったような叫びをした。
「どうした」
みると、頸筋を撫でた手がべっとり血を垂らしている。そこで、恐怖は絶頂に達したが、別に、氷をやぶって突きでた爪のようなものもない。それに、ダネックの頸には傷もなく、痛みもないのになんとしたことか。あくまで、粘ったまっ赤な血だ。ダネックはじっとながめていたが、「なアんだ」とフフンと笑い、「紅藻の、じつに細かいやつだ」と言った。
見ると、紅藻をふくんだ天井の氷が飴のように垂れてくる。しかも一層、四人がうごく微動につれ甚だしくなってくる。氷河氷の雨が、簾を立てたように降りしきるかと思えば、また、太く垂れて石筍をつくり、つるつる壁を伝わる流れは血管のように無気味だ。そして今にも、ゆるい弧をえがいて、天井が垂れてきそうな気がする。四人は、いま氷河のちょうど核へ達したのだ。
「天地開闢以来、地球はじまって以来、まだ、氷河の芯にあるこの泥水をみたものはあるまい」
折竹が、驚異と感動にぶるっと声をふるわせると、
「そうだよ。しかし、どうも僕は勘違いをしていたらしい。それは、紅蓮峰の嶺のあの怪光なんだが、さいしょ僕は、ラジウムの影響をうけた水晶とばかり思っていた。ところがどうやら、氷のしたのこの紅藻らしいんだよ。こんな聖地で欲をだしたんで失敗したのかも知らんね」とダネックが自嘲気味にいうのだった。
やがて、芯の泥氷部をさけて二、三時間も掘ると、なつかしい外光がながれ入ってきた。
出ると、大烈風はもう背後になっている。そこは先刻は岩陰でみえなかったが、まるで色砂を撒いたような美しい蘚苔が咲いている。ところが、前方をながめれば、これはどうしたことか、そこは、流れをなす堆石の川だ。せっかく、大烈風を破ったと思えば危険な堆石のながれ。四人は、そこでもう前方へ進めなくなってしまった。
「これまでだ。もう、われわれは断念めようじゃないか」とダネックが力なげに言いだした。「僕らは、あの危険な開口をのぼり、大烈風をやぶった。それだけでも、前人未達の大覇業ということができる。帰ろう。今夜は蘚苔のなかへ寝て、明日は戻ろう」
しかし、それがもう出来なくなっていたというのは、なにも、さっき掘った洞が塞ったというのではない。とにかく、その夜四人を包みはじめた不思議な力をみれば分る。つまり「天母生上の雲湖」の掟に従わされたのだ。その夜、なにやらケティが草に言いはじめた。
「マァニの草、あたしに惚れたって、お前じゃ駄目よ。そんなに、べたべた付着いたって、あたしゃ嫌」
よく、野葡萄の巻鬚の先の粘液が触れるように、ケティにベタベタ絡みついてくる草がある。その情緒を知らせる微妙な力が、彼女をじわりじわりと包んでいった。そこへ、相応じたようにケルミッシュも言う。
「そうかね、この草は寒いと言っている。サアサア、がたがた顫えなくても僕が暖めてやる」
それは、咳嗽菽豆に似た清潔好きな小草で、塵がはいると咳嗽のようなガスをだす。そして、いきんだように葉をまっ赤にして、しばらく、ぜいぜい呼吸をきるように茎をうごかしている。そういう植物の情緒や感覚が触れてくる、二人はもう普通の人ではない。ダネックも折竹もつつき合うだけで、見るも聴くも気味悪そうに黙っていた。魔境「天母生上の雲湖」へ溶けこんでゆくこの二人を、救い出すのはどうしたらいいのだろう。
「サア、行こう。ここで愚図愚図してたって仕様がないよ、君」翌朝、さんざん押問答のすえ焦らついてきたダネックが、語気を荒げていう。しかし、ケルミッシュの態度は水のように静かだ。
「だけど、これが僕の希望なんだからね。あくまで、踏みとどまって登攀の機をねらうよ。それに、折竹君も僕とくるというし、とにかく、ダネック君にだけ一先ず帰ってもらう」
「そうか」と棘だった目でぎろっと折竹を見て、「君もか⁈ このダネック探検隊の……隊長だけが帰って何になる。それとも、君らが死にたいというなら、別だがね」
「死にはせん。僕にはこの堆石の川を突っきれる自信がある。ただ、方法は分らぬが、そうなるような予感がある」
「止せ」ダネックは堪らなくなったように、叫んだ。なにより、彼を掻きたてたのはケルミッシュに寄り添っているケティの像のような姿だ。
「君は帰れ! 僕は引き摺っても、君を連れてゆく」
とケルミッシュの腕をぐいと捉えたとき、止めようと、馳せよった折竹の目にそれは怖ろしいものが映った。堆石のながれを越えた向うの断崖の積雪が、みるみる間に廂のように膨れてきた。雪崩⁈ と思ったとき氷塊を飛ばし、どっと、雲のような雪煙があがったのである。とたんに視野はいちめんの白幕に包まれた。折竹は、暫時その場で気をうしなっていたのだ。
やがて気がつくと、堆石のうえが雪崩で埋まっている。そして、四つの足跡が向うまで続いているのだ。これが、ケルミッシュの予感というものか。彼とケティは雪崩のうえを渡り、「天母生上の雲湖」の奥ふかくへと消えたのである。折竹も、続こうとしたが起きあがることが出来ぬ。その間に、ごうごうと続く堆石のながれが、しだいに橋となった雪崩を払ってゆくのだ。
「ああ、せめて這いでもできれば、俺は往くんだのに……」
万斛の恨みが、いま分秒ごとに消えてゆく雪橋のうえに注がれている。援蒋ルートをふさぐ……九十九江源地へゆく千載の好機が、いま折竹の企図とともに永遠に消えようとしている。彼は、打撲と凍傷で身動きも出来なくなっていた。
「本望だろう。ケティは、遠い遠いむかしの、血の揺籃のなかへ帰った。ケルミッシュは、現実をのがれて夢想の理想郷へいった。二人はいいが……せっかく此処まで漕ぎつけて失敗る俺は哀れだ」
となおも手をついて起き上ろうと試みたとき、ふと掌のしたに紙のような手触りを感じた。みると、ケルミッシュが書いた走り書きのようなものだった。
折竹君──
僕とケティは、これからこの世界の向う側の国へゆく。君は、現実逃避をする僕を嗤うだろう。しかし、素志を達した僕は、このうえもなく満足だ。あの「天母生上の雲湖」には何があるだろう。ユートピア⁈ しかし僕は、小説にあるような美しさは求めてない。きっとそこには、冬眠生理でもあるような人間がいるだろう。ながい冬は眠り、短い春は耕す──そういう世界にこそユートピアはあるのだ。
君よ、悠久うごかぬ雲に覆われた魔境「天母生上の雲湖」とともに、時々、僕とケティのことも思いだしてくれ給え。なおダネックは雪崩のしたにいるよ。
雪橋をわたるまえとり急ぎ
その夜、主峰の雲のなかで囂々と雷が荒れた。電光が、尖峰をわたりながら、アジアの怒りのように……ダネックへは死、ケティとケルミッシュは己が手におさめ……一人ただ日本人折竹のみに生還を許したのである。そして折竹は、猓玀の人夫の背に負われて、Zwagri、九十九江源地と囈言を言いながら魔境をでた。
底本:「人外魔境」角川ホラー文庫、角川書店
1995(平成7)年1月10日初版発行
底本の親本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
1978(昭和53)年6月10日発行
※副題は底本では、「天母峰」となっています。
※底本は新字です。なお「癡呆」は、底本通りです。
入力:笠原正純
校正:福地博文
1999年2月13日公開
2014年7月1日修正
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