朝のヨット
山川方夫
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曙の色がほのかに東の空を染めて、間もなくその日の最初の太陽の光が、はるかな海面を錫箔のように輝かせた。洋上はまだ薄暗く、空と海の境もはっきりしなかったが、とにかく、海には朝が来ていた。
鴎が一羽、そのヨットの上空で、ゆるやかに翼を上下していた。鴎は、まるでどこまでも離れない決心をしたもののように、そのヨットと方向と速度を一つにして、朝空を動くかなりの風の中を翔びつづけた。
「行ってくるよ」
少年はスナイプ型のヨットに乗り、その舫綱を解きながら、少女に声をかけた。
「ねえ、つれて行って。私も」
「だめだったら」
少年は、怒ったような声音だった。
「海は、二人でたのしみに出かける場所じゃない。人間が、一人きりでぶつかりに行く相手なんだ」
「私よりも、海のほうが好きなの?」
少年はいらだち、神経質に眉をよせた。
「君といっしょにいると、僕は、ときどきもう一人の自分が、ひどく遠いところに置き去りにされているような気分になる。僕は、そのもう一人の自分を取りもどすために海へ行くんだ。……海は、人間を本当の一人きりにしてくれる場所だからね」
「どうして一人きりになりたがるの?」
「女にはわからないさ」
少年はきびしい顔で答え、ふいに白い歯を光らせて笑いかけた。そして、いった。
「君を好きだよ」
スナイプは、すでに岸を離れていた。白い帆を斜めに、群青の午後の海をすべって行くヨットを見て、少女は目に涙がうかんできた。だが、少女は笑顔のまま手を振りつづけた。急速にひろがる二人の距離、明るいその海面の広さを、そのまま、遠ざかる帆の速さで彼女の胸を裂き、ひろがる一つの疵口のように感じながら。……
少年はそして海に消えた。沿岸や離島の各所からの返電はすべて『到着ナシ』であった。急変した天候、突風と小さな竜巻とが、どうやら、その理由を語っていた。
少女は海を見ていた。しめっぽく肌に重い早朝の潮風の中を、幾艘かのヨットが、少年のスナイプを求めてはしっていた。
黒い海は、やがてその底の蒼緑色と、表面の波立ちとをあきらかにし、舷に散る白い飛沫を縫い、ほのかに細い虹の脚が明滅した。糠雨のようなこまかな繁吹が少女の頬を濡らして、そのくせ澄んだ浅い色の空は、その日の上天気を約束していた。
海は、嘘のように凪いでしまっていた。
「……なぜなの? なぜ、一人きりになりに行かなくちゃならなかったの?」
少女は、昨夜から幾百回となくくりかえした言葉をまた唇にうかべた。ふと、砂浜での少年との愛撫の記憶がよみがえって、あの夜も砂を叩きつけ怒ったような顔で、逃げるように夜の海に走りこんだ少年を想っていた。何故なの? あのときもあなたは必死に「一人きり」にしがみつこうとしていた。まるで、私よりも、自分の孤独さの確認のほうを愛しているみたいに……。
でも、どうしてなの? 私たち、愛しあっていたのよ。私の中にあなたはいて、あなたの中に私はいて、どうしても、どこへ行っても「一人きり」になんかなれないのに。それなのに、どうして一人きりになんてなりたがるの? ……私を、きらいだったの? いいえ、そんなはずないわ。だって、あなた、「君を好きだよ」っていってくれたじゃない。
湧きつづける涙のため、明るく平坦な初夏の朝の海は、いつまでも少女の視野でぼやけ、揺れ動いた。……だが、その海こそが、いまは彼女の中の一つの巨大な疵口であり、そこに永遠の、無限の沈黙を見る少女の目は、もはやただ一つの問いかけなのでしかなかった。彼女はくりかえした。
「ねえ、教えて。あなた、なぜ、一人きりになりに行かなくちゃならなかったの?」
鴎は、どこまでもその少女とヨットを追い、翔びつづけた。薄らぎかかる記憶の中で、鴎は少女に自分がただ、自分だけの充実を追った幼い恋人だったことを告げたかった。自分が、臆病な一箇の旅人にふさわしいこの姿でいることを告げたかった。
だが、いくら喉をふりしぼって鴎が努力しても、その叫びは、猫に似た単調な啼き声にしかならなかった。……そして、いつのまにか鴎は自分の飛翔の意味を忘れ、孤独のさわやかさも、愛することの恐怖も屈辱もそのよろこびも忘れはてて、ただ少女のヨットの上、全身を洗う透明な朝の風の中で猫の啼き声をくりかえして、無心にそのゆるやかな翼の抑揚をつづけていた。
底本:「夏の葬列」集英社文庫、集英社
1991(平成3)年5月25日第1刷
2014(平成26)年6月17日第14刷
初出:「美術手帖 Vol.15 No.222」
1963(昭和38)年7月号
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
※「なぜ」「何故」の混在は、底本通りです。
入力:かな とよみ
校正:noriko saito
2020年1月24日作成
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