富士登山
高浜虚子



 私が富士山に登ったのは十五六年前のことである。平々凡々の陸行であったので特に書き記すほどのこともない。殊に当時ホトトギス誌上には碧梧桐君が其記事を書いたので私は何も書かなかった。今書くとなるともう大方は忘れてしまっているので、いよいよ何も書くことはないわけであるが、それでも思い出し思い出し概略を記して見ることにする。

 十五六年前の富士登山は、今日ほど普通なものではなかった。その前年中村不折君が末永鉄巌君などと富士に登って来て盛んにわれ等を羨まがらせたので、負けぬ気になって、碧梧桐君や岩田鳴球君や菅能國手や其他数人を語らって出掛けたのは七月の末であったか、八月になってであったか、それも忘れてしまった。碧梧桐君は其頃から健脚をもって任じて居たので、もとより問題にならなかったが、「虚子に果して頂上まで登る勇気があるかどうか。」ということが子規居士枕頭の話題になっていた。殊に居士は其病弱の躯から推して到底私には頂上まで登る勇気はないものの如く推定したらしい口吻であった。「まア行って御覧や。」などと憐れむような口吻で居士は私に言った。

 御殿場の御殿場館とか言った宿に一夜を明かして夜半の三時頃から登山することになった。宿屋の光景などははっきり覚えて居らぬが、其前夜御殿場の町を歩いた時の一種の心持はまだ忘れることが出来ぬ。それは淋しい夜の町というのに過ぎなかったが、爪先上りになっている其町の前方に当って黒い大きな巨人の如きものがそばだっている。それが明日登る富士山であるということが何となく心を引きしめた。果して頂上まで登れるのであろうかという疑問は私自身にもあった。そう思って見上げた黒い巨人は私を威圧するように聳えていた。空には月がなくって星ばかりであった。盛夏の候に拘わらず単衣ひとえの肌は涼しすぎる位であった。われ等は其夜の町で金剛杖や草鞋わらじなどを買って来たように記憶する。

 其夜は早く寝て私は熟睡した。それでも二時過に起きるのは苦しかった。仕度を終えて表に出たのは三時頃であった。女馬子に曳かれた一隊の馬が暗い軒下にわれ等を待っていた。手当り次第の馬に跨ると、提灯を持った女馬子はの低い、菅笠ばかりが目立って大きく見える後ろ姿を見せながら、馬の口をとって先に立った。馬はおとなしくとぼとぼと歩いた。乗馬の経験のない私は、只謹んで馬の脊に跨っていた。

 前夜と変らぬ黒い巨人は矢張り目の前にあった。

 御殿場の町を通り抜けると馬はいつか森林の中に這入って、提灯の光に見える女馬子の脊中と馬の顔や首のあたりの他は殆んど何ものも目に入らなかった。私は只乱雑に響く自分の馬や他の馬の足音を聞きながら、夜半の森林の中を通りつつあった。

 われ等が曙の色を認めたのは、もう森林を通りぬけて桔梗ききょう撫子なでしこ女郎花おみなえしの咲き誇っている平原の中を行きつつある時であった。御殿場あたりなどからみると、もう余程登って来ているのであろうが、馬上に居るわれ等はあたかも秋の平野を行きつつあるような心持がした。朝日の色は美しかった。雲が真ッ赤に染って秋草には露が光っていた。此時靄のれるのに従って打ち仰がれた富士の峯は、意外にもすこぶる無格好のものであった。下界から見る芙蓉ふようの峯とは思いもつかぬような醜い形と色とをしていた。初め夜の明け切らぬうちは、それは富士の一部分だけしか見えて居らぬので、夜の明けるに従って白扇を懸けた富士の美しい姿を見ることが出来るものと予期して居ったのであるが、今になってみると其富士の一部分と思ったものが、富士の全体であったので、

「あんな汚い、あんな低い山か。」というような軽侮の念が起らずには居なかった。

 馬は二合半で乗り捨てて、それから金剛杖をついて歩くことになった。登りもそこから急になるのであった。それにした所で、平地を歩くというのに較べて幾らか勾配こうばいが強くなって来たというに過ぎない位のものであった。勢い込んで登る人もあったが、私は初めから覚悟をしていたので極めて大事をとって徐々として歩いた。荷物を脊負っている強力ごうりきも決して早くは歩かなかった。他の人々が遙かに前進している後方に私は強力と共に遅々として歩いた。足許には所々にあざみの花が咲いていた。二合半以上にはもう草も木も絶無であったが唯此の薊だけを見ることが出来た。そうして其れは七合目辺までもあった。今でも薊というとすぐ富士山を思い出す程に、此山に特有の花として頭に印象された。三合目に達して見ると、われ等が馬を乗り捨てた二合半は脚下に見下ろされて、際限もなく広々とした富士の裾は一望の裡にあった。四合目、五合目と進むに従って其眼界はいよいよひろくなって来た。麓を廻る森林も、ただ帯のように眺められた。然るに驚かされたのは、前面に仰ぎ見る富士の山はどこまで行っても同じことで、さきに曙の色の中にあんなに低いのかと軽蔑した時と少しも変らぬ高さをして依然として前方に峙っていた。眼下に見下ろす半腹より以下の展望は歩一歩偉大となるのであるが、前面に見上ぐる半腹以上の形は殆んど何の変りもない。流石に大きな山だと首肯うなずかれた。

 私の遅々たる徐歩主義は漸く勝を占めかけて、四合目五合目あたりから、先きに行った人をそろそろと追い越すようになった。私は格別呼吸の困難をも感じないでいたのであるが、初め勢いこんで駈け上った人は、もう息を切らして道端に休んでいた。確か七合目あたりで午飯を食ったように覚えているが、其頃の岩室は極めて粗末なもので、這入口は石で取かこまれていて、其中に這入るとむしろが敷いてあって、其奥に一人の人が居て手桶に汲んだ水が置いてある他に、かまどや、鍋や釜などが置いてあった。それから奥まった所に少しばかり蒲団が積んであって、其手前にビールの瓶や鑵詰類などが並べてあったように記憶する。岩室の中でも頂上に次では此の七合目あたりがいいのだと聞いて居ったが、それですらがこんな質素なものであった。尤も地中に掘り込んだ岩窟であるから非常に発達したという今日でもお大した変化はないかも知れぬが、その岩室の低い天井からランプを釣り下げて、其暗い灯かげに無愛想な顔をして一人の男が坐っていた光景は余りいい心持のものではなかった。われ等は強力に持たせて行った米を此の岩室で炊いて、携えて行った鑵詰類を菜にして午飯を食ったのであった。乏しい鑵詰の牛肉は取落した一片も砂を払いのけて食うほど珍重なものであった。

 八合目を過ぎて胸突八丁にかかってから今迄ただ砂漠を上るような感じのしていた山に岩骨が突出していて、其間の急勾配を登ることになるのであるから今迄に引替えて苦しくなって来た。それにもう空気が余程希薄になって来ているので、十間も歩くと息が切れて道端に休まねばならぬような有様になった。殊にここに登っている時私は一人になってしまっていた。私は十間歩いては休み五間歩いては休みしながら、私の後から来る人を待ち設けていたが、幾ら待っても登って来る人はなかった。其時、一陣の冷い風が頭上の屏風岩のあたりから吹いて来ると思うと瞬く間に霧が眼の前を流れて、大粒の雨が篠を乱して降って来た。寒気が一時に加わって頬や手の甲などは痛いほどの冷たさを覚えた。屏風岩が霧の間に隠れたり現われたりする光景だけでも物凄い眺めであったが、然し此時のようなすがすがしい清浄な心持のしたことは、殆んど絶無といっていい位のものであった。霧はもとより行方ばかりでなく脚下までも包んでしまっている。私の眼界は方数間に限られている。私は只一人其中に立って痛いほどの冷たい雨にからだを打たしている。そこには一点の塵気を止めようとしても止めることの出来ない潔い心持であった。然し此の天候は長くは続かないで屏風岩はだんだんと其姿を現わして来て雨も小降りになって来た。只寒さは、それ以来著しく強くなったので、銀明水の辺も急いで過ぎ去ってしまって、頂上の岩室に辿りついた。二三人はすでにそこにあったが、他の人も二十分三十分、遅くも一時間位の相違でだんだんと皆到着した。鳴球君だけが肥大の躯を持て除して七合目か八合目かの岩室に止まった。

 頂上の岩室は数が多い許りで、其麤末そまつさは七合目等のものと似たり寄ったりであった。われ等は晩飯をすますと皆草鞋を穿いたままで蒲団にくるまって寝た。寒気はいよいよ激しくなって枕元に置いた土瓶の上に飲みすてた茶碗をうつむけて置いたのが、忽ち凍りついいたのには流石に驚かれた。一行中の二三人がもういびきをかいて寝ている時分に、私は急に大便を催したので岩室を出て外かわやに行った。廁というのは岩の上に木を組みたてて出来ているものであって、下から吹き上げて来る風ははらわたから脳天にまで滲みこむように冷たかった。

 翌朝は未明に起き出でて駒ヶ嶽の近傍に御来光と呼ばれている日の出を拝みに行った。御来光や雲海の模様は壮大を極めているが其は文章には書けない。皆毛布やどてらにくるまって出掛けたのであるが、相当に寒かった。

 朝飯を済してから十八町のお鉢廻り=噴火口壁廻り=を試みた。剣ヶ峯の蟻の戸渡りとかいう所だけは流石に危険に感じたが、其他はそれほどでなかった。ただ其甲州に面した方面に直下一万尺、すぐ眼の下に森林帯の見える勾配の最も急な所を見下ろした時は、足の土ふまずがじんじんして厭な気持であった。豆粒大の石を落しても、それがだんだんと下の大きな石に当って、しまいには幾抱えもあるような大きな石が、何十分とか何時間とかを経て終に森林帯へまで落ちて行くとかいうような話もいい心持はしなかった。

 お鉢めぐりだけ済まして噴火口へは降りなかった。帰りは砂走りを一目散に走り降りつつあった時に、後ろから呼ぶ声がするので振り返って見ると其は強力の声であった。我等一行は散り散りに走り下りつつあったので互に豆程に小さく見えた。「そんな方に走って行くと宝永山の噴火口に飛込むぞ。」

 其方向に走りつつあった二三人は剛力の教える方に方向を換えて走った。登る時は半日かかった所を僅か一二時間で二合半まで走り降る事が出来た。しかし此砂走を走った為めに、私はすっかり足を痛めてしまって二合半から御殿場まで帰るのに非常な苦痛をなめねばならなかった。馬があれば乗りたいと思ったのだけれども無かったので仕方なしに歩いた。

 頂上の印をした金剛杖をついて一通りの勇者らしくわれ等は東京に帰って来た。其後根岸へ行った時に、

「割合元気にあったそうだな。」と子規居士は言った。

「富士山は何でもない。」と私は答えた。

底本:「紀行とエッセーで読む 作家の山旅」ヤマケイ文庫、山と溪谷社

   2017(平成29)年31日初版第1刷発行

底本の親本:「高浜虚子全集 第三卷」改造社

   1934(昭和9)年1219日発行

初出:「ホトトギス 第十九卷第十二號」

   1916(大正5)年91日発行

※「強力」と「剛力」の混在は、底本通りです。

入力:富田晶子

校正:雪森

2020年124日作成

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