追憶
萩原朔太郎
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若山氏の死について、遺族の方から御通知がなかつた爲、僕はずつと遲く、最近になつて始めて知つたわけであつた。明治大正の歌壇にかけて偉業を殘した、このなつかしい巨匠を失つたことは、個人としての友情以外に、深く痛惜に耐へないことである。
僕が始めて牧水氏を知り、文學上での交遊關係を結んだのは、以前の雜誌「創作」の頃からだつた。當時僕は、室生犀星君と共に詩壇に出て、北原白秋氏の雜誌「ザムボア」に寄稿してゐた。然るに「ザムボア」が廢刊になつた爲、白秋氏は僕の詩稿を保存して牧水氏の「創作」に𢌞送された。(これは當時の僕にとつて、非常に嬉しいことであり、未だに深く白秋氏の御親切を忘れない。)かうしたわけで、以後僕の詩篇は、ずつと牧水氏の雜誌に掲載されることになつた。當時僕と一所に、同じ「創作」に詩を書いてゐた人々は、室生君の外、白鳥省吾君、山村暮鳥君、中川一政君、吉川惣一郎君等であつたが、この内で吉川惣一郎君と室生犀星君とが、最も數多くの詩を毎號書いてゐた。(吉川惣一郎は今日の改名した大手拓次で、近頃「近代風景」で大に活動されてる詩人である。)
かうした關係から、僕も次第に牧水氏と文通し、遂に創作社を訪ねて逢ふことにした。僕が訪ねた時、牧水氏は二階の汚ない部屋に案内され、酒など出して待遇されたが、當時僕は頭髮など縮らして大にハイカラぶつて居たので、田舍者ムキ出しの牧水氏には、いささか意外の苦手らしく、妙な顏して僕を不思議さうに眺めてゐた。僕の方でも、牧水氏の意外に田舍者であり、百姓然たる風貌に少しく面喰つた形であつたが、その中に話してみると、非常に親しみがある人物なので、すつかり打解けて懇意になつた。
その後も幾度か、僕は牧水氏と一所になり、よく淺草公園の裏通りや、吉原の遊廓などを歩き𢌞つた。僕の驚いたことは牧水氏がよく人の腰を打つ癖のあることだつた。何とか言つては、「どうだね」と言つて僕の腰を叩く。それが如何にも百姓らしく、純朴な好人物を感じさせた。しかし僕の都會的な趣味性格と、牧水氏の田園的な野性とは、どこかで食ひちがふところがあるらしく、お互に好意と敬愛とを持ちながら、眞に氣心まで打ち解ける機會がなかつた。
此所でついでに話しておくが、當時の文壇と今日の文壇とは、色々な點で事情が大にちがつて居た。今日の文壇では、詩人や歌人が全く圈外に放逐され、一種の文壇的非人間として輕視されてゐる有樣だが、當時は尚「詩」の勢力が甚だ強く、牧水氏や白秋氏の名聲は、文壇全體の上に廣く輝やいて居たのである。また今日では、僕等の歐風的な敍情詩と、傳統的な詩形による歌や俳句やの短詩とが、全く交渉のない別天地の者になつてゐるが、當時はそれが一つであり、廣義の「詩」といふ觀念中に、歌や俳句や敍情詩(當時はそれを長詩と呼んだ)が、一所に取扱はれてゐたほどだつた。したがつて詩人と歌人とは、當時に於て極めて交情が密接であり、藝術上に於ても、互に批評を交換したりし合つたので、眞に文學上の兄弟と言ふ關係だつた。故に牧水氏を始めとし、前田夕暮氏でも齋藤茂吉氏でも、當時の歌人は皆僕等の詩を理解して居り、常に一家言の批評を持つてた。そして僕等の仲間は、彼等の歌人について批評を聞き、文壇的にも先輩として畏敬してゐたのである。
かうして牧水氏との友情は、さまで親密とは言へないながら、お互に深い敬愛と好情とを感じ合つて、割合に長く續いてゐた。僕はどうかして一度、牧水氏と思ひきり酒を飮み、倒れるところまでやつて見たいと考へてゐた。牧水氏の雅號が示す通り、その眞に牧歌的な風貌を考へると、何となく物なつかしく、いつでも逢ひたいやうな親しみを感じてゐた。端的に言ふと、僕は實に牧水氏の人物が好きだつたのだ。また牧水氏の方でも、一種の苦手とは感じながら、何となく僕が好きであつたらしい。なぜならその後も、機會ある毎に僕を訪ねて、わざわざ前橋の家まで來てくれたから。
これについて一度、どうしても牧水氏に氣がすまず、僕の詫をしたいと思つてることがある。それは丁度、或る年の九月頃であつたが、僕が折あしく外出してゐるところへ、飄然と牧水氏が訪ねて來て、玄關へ取次ぎを乞はれたのである。僕の父が出て來てみると、見知らぬ薄汚ない風采をした、一見乞食坊主のやうに見える男が──と父は後に僕に話した──横柄にかまへて「朔太郎君は居ますか」と言つたので、てつきり何かの不良記者かゆすりの類と考へ、散歩中の不在を幸にして、すげなく追ひ歸してしまつたさうだ。後に父からそれを聞いて、僕は風采から想像し、或はその乞食坊主が牧水氏でないかと思つた。それで父に向ひ、その人の名を聞いたかと問うたところ、聞いたと言ふ返事だつた。
「若山とは言はなかつたでせうか?」
「さう……たしかさうだつた。」
そこで僕は吃驚してしまつた。あの西行のやうな牧水氏が、遠いところから訪ねて來て追ひ歸され、孤影悄然として門を出て行く姿を考へ、名状できない寂しさと、氣のすまない思ひで一杯になつた。そこで父に向つて言つた。
「何故止めておかなかつたのです。あの人が有名な若山牧水ですよ。」
「なに? あれが歌人の牧水か? あの有名な若山牧水だつたのか?」
と言つて父もにはかに吃驚し、急に大騷ぎを始めたけれど、もはや牧水氏の行方はわからなかつた。
その後僕は、機會がなくて一度も牧水氏に逢ふことがなかつたので、遂にこの詫を言ふことができずにしまつた。未だに僕は、このことで牧水氏に氣の毒をしたと思つてゐる。しかし父の誤解にも、一面無理のないところがあつた。なぜなら牧水氏は、この年の前後に上州の温泉四萬へ行き、やはり風采上から安く踏まれて、非常な惡い待遇を受けたさうだ。牧水氏はそれを憤慨してゐたけれども、あの粗野な風采と態度を考へ、僕はユーモラスの微笑を禁じ得なかつた。
牧水氏はいつも好んで、場末の汚ない繩のれんで酒を飮んだ。銀座あたりの堂々としたカフエーには、どうしてもきまりが惡く、氣が引けて這入れないのださうである。僕はさうした話をきいて、いかにも牧水らしく、自然で、純朴で、愛すべき人物を考へた。さうした内氣な、恥しがりな素朴な心は、眞に敍情詩を本質してゐる人でなければ、決して持ち得ないものである。それにしてもこの懷かしい牧水氏と、遂に近年逢はずじまひに終つたのは、今更らながら殘念であり、深く殘り惜しい思ひがする。こんなことになるのだつたら、先年伊豆に旅行した時の歸りに、是非沼津へ寄ればよかつたのである。
その時僕等は、詩話會の諸君と一所であり、歸途に牧水氏からの傳言で、是非皆で寄れといふことであつた。僕等もその好意が嬉しく、久しぶりで逢ひたいと思つたけれども、何分多勢のことであり、且つ無理な旅行で疲れ切つてゐた爲に、折角の機會を失して、そのまま東京へ歸つて來た。今にして考へれば、あの時白鳥省吾君等の勸めた如く、一度逢つておけば好かつたので、全く殘り惜しい次第である。最近芥川龍之介君と言ひ、山村暮鳥君と言ひ、知人の不幸を聞くこと甚だ多い。人生計りがたく命數知りがたし。何んでも昔の友人には、生きてる中に機會を見て、しばしば逢つておくに限るやうだ。
終りに牧水氏の歌について、一言寸感を述べたいと思つたけれども、既に紙數が盡きたから止めておく。僕の見るところで故人の如きは眞の「生れたる歌人」であつて、その人間として歩いた道も、昔の芭蕉や西行と全くひとしい。世に詩歌人の數は多いけれ共、眞の詩情を有するところの、眞の本質的の詩人はすくない。そして牧水氏の如き、この得がたく稀少の者の一人であつた。
底本:「萩原朔太郎全集 第八卷」筑摩書房
1976(昭和51)年7月25日初版発行
底本の親本:「創作 第十六卷第十一號」
1928(昭和3)年12月号
初出:「創作 第十六卷第十一號」
1928(昭和3)年12月号
※「打解け」と「打ち解け」の混在は、底本の通りです。
入力:きりんの手紙
校正:岡村和彦
2019年8月30日作成
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