お墓の中の坊や
ハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen
矢崎源九郎訳



 家の中は、ふかい悲しみで、いっぱいでした。心の中も、悲しみで、いっぱいでした。四つになる、いちばん下の男の子が、死んだのです。この子は、ひとり息子むすこでした。おとうさんと、おかあさんにとっては、大きなよろこびであり、また、これから先の希望でもあったのです。

 この子には、ねえさんがふたり、ありました。上のねえさんは、ちょうどこの年、堅信礼けんしんれいを、受けることになっていました。ふたりとも、おとなしくて、かわいらしい娘たちでした。けれども、死んだ子供というものは、だれにとっても、いちばんかわいいものです。それに、この子は末っ子で、ひとり息子だったのです。ほんとうに、悲しい、つらいことでした。

 ねえさんたちは、若い心をいためて、悲しみました。おとうさんとおかあさんが、なげき悲しんでいるのを見ると、いっそう悲しくなりました。おとうさんは、深くうなだれていました。おかあさんは、大きな悲しみにうちまかされていました。

 おかあさんは、夜も昼も、病気の坊やにつききりで、看病したり、だいてやったりしたものでした。おかあさんは、この子が、自分の一部だということを、はっきりと感じました。坊やが死んで、お棺に入れられ、お墓の中にうめられるなどということは、おかあさんにとっては、どうしても考えることができませんでした。神さまだって、まさか、この子をお取りあげになるようなことはなさるまい、と、おかあさんは思ったのです。それなのに、その坊やが、とうとう、死んでしまったのです。おかあさんは、あまりの悲しさに、われを忘れてこう言いました。

「神さまは、ごぞんじないのですね。神さまは、なさけを知らないしもべを、この世におつかわしになったのです。なさけしらずのしもべたちは、自分かってなふるまいをして母親の祈りを、聞いてはくれないのです」

 おかあさんは、悲しみのあまり、神さまを見うしなってしまいました。すると、暗い考えが、死の考えが、しのびよってきました。人間は、土の中で土にかえり、それとともに、すべてはおわってしまう、という、永遠の死の考えです。こういう考えにつきまとわれては、もう、なに一つ、たよるべきものもありません。おかあさんは、底しれない絶望のふちへ、深く深くしずんでいきました。

 いちばん苦しいときには、おかあさんは、泣くことさえできませんでした。もう、娘たちのことも、考えませんでした。おとうさんの涙が、自分のひたいの上に落ちてきても、目をあげて、おとうさんを見ようともしませんでした。おかあさんは、死んだ坊やのことばかり思いつづけていたのです。いまのおかあさんは、ただひとえに、坊やの思い出を、坊やの言ったむじゃきな言葉を、一つ一つ、呼びもどそうとするために生きているようなものでした。

 いよいよ、お葬式そうしきの日がきました。それまでというもの、おかあさんは、一晩も眠ったことがありませんでした。その日の明けがた、おかあさんは、くたびれすぎて、つい、うとうとしました。そのあいだに、みんなは、坊やのお棺を、離れの部屋へやに運んでいって、そこで、ふたを打ちつけました。もちろん、それは、くぎを打つ音が、おかあさんに聞えないように、というためだったのです。

 おかあさんは、目をさますといっしょに、起きあがって、坊やを見ようとしました。すると、おとうさんが、涙を浮べて、言いました。

「もう、ふたをしてしまったよ。一度は、そうしなければならないのだ」

「神さまが、わたしに、こんなにつらくなさるのなら」と、おかあさんはさけびました。「人間が、よくなるはずはありません」

 おかあさんは、わっと、涙にかきくれました。

 坊やのお棺は、お墓に運ばれました。希望をうしなったおかあさんは、娘のそばにすわって、ただぼんやりと、娘のほうを見ていました。でも、ほんとうに見ているのではありません。心の中で考えていることは、もう、のこった家族のことではありませんでした。おかあさんは、ただ、悲しみに身をまかせきっていました。ちょうど、かいとかじとをうしなった小船が、荒海にもてあそばれるように、おかあさんは、悲しみにもてあそばれていました。

 こうして、お葬式の日はすぎました。それからは、おも苦しく悲しい日が、幾日も幾日もつづきました。家の人たちは、みんな、悲しみにしずんで、うるんだ目と、くもったまなざしとで、おかあさんを見つめるばかりでした。おかあさんをなぐさめようとしても、そんな言葉には、耳をもかたむけようとしないのです。それに、家の人たちにしても、いったい、どんななぐさめの言葉を言うことができたでしょう。みんなの心は、あまりにも悲しすぎて、なぐさめの言葉を口にすることもできなかったのです。

 おかあさんは、まるで、眠りというものを、忘れてしまったようでした。しかも、その眠りだけが、おかあさんのからだを強くし、おかあさんの心の中に、平和を呼びもどすことのできる、いちばんいいお友だちでしたのに。

 おかあさんは、みんなにすすめられて、ようやく、寝床に横になりました。そして、まるで眠っている人のように、じっと横になっていました。

 ある晩のことです。おとうさんは、おかあさんのね息を、しばらく、うかがっていました。今夜は、おかあさんは、気持よく、ぐっすりと眠っているようです。そこで、おとうさんは、両手を合せて、お祈りをすますと、自分も横になって、すぐに、ぐっすりと寝こんでしまいました。ですから、そのあとで、おかあさんが寝床から起き出して、着物を着、そっと、家をぬけ出していったのには、すこしも気がつきませんでした。

 いま、おかあさんが、行こうとしているところは、おかあさんが、夜となく昼となく、思いつづけているところ、つまり、かわいい坊やのはいっているお墓だったのです。おかあさんは、家の庭を通りぬけて、畑へ出ました。畑からは、町の外側を通っている、細い道が、墓地まで通じています。おかあさんは、だれにも見られませんでした。おかあさんのほうでも、だれの姿をも見かけませんでした。

 その晩は、お星さまのキラキラかがやいている、美しい夜でした。やっと、九月になったばかりで、空気はまだおだやかでした。

 おかあさんは、墓地にはいって、小さなお墓のそばへ行きました。そのお墓は、かおりのよい、一つの大きな花たばのように見えました。おかあさんは、そこにすわって、顔をお墓に近づけました。まるで、あつい地面の中に、かわいらしい坊やの姿が見えるはずだとでもいうようです。すると、坊やのほほえみが、ありありと思い出されてきました。病気の床に寝ていたときでさえも、坊やが見せた、あのかわいらしい目つき。あの目つきは、とうてい忘れられるものでありません。それから、おかあさんが、寝ている坊やの上に、からだをかがめて、自分では動かすことのできなくなった、小さな手をとってやると、坊やの目は、あんなにも、ものを言いたそうに、かがやいたではありませんか。

 いま、おかあさんは、坊やの寝床のそばにすわっていたときと、同じような気持で、お墓のそばにすわっていました。でも、あのときとはちがって、いまは、涙がとめどもなくあふれ出て、お墓の上に流れおちました。

「おまえは、子供のところへおりていきたいのだね」という声が、すぐそばでしました。その声は、はっきりと、低くひびいて、おかあさんの心の中までも、しみ入りました。

 目をあげて見ると、そばに、大きな喪服を着た人が立っています。ずきんを、まぶかにかぶっていますが、その下から顔も見えました。きびしい顔つきですが、いかにも、たよりになりそうです。その目は、若者の目のように、かがやいていました。

「坊やのところへ!」と、おかあさんは答えました。その声には、絶望しきって、お願いするひびきが、こもっていました。

「わしについてくる勇気があるかな」と、その人は、たずねました。「わしは、死神だが」

 そこで、おかあさんは、はいというように、うなずいてみせました。

 と、とつぜん、空の星という星が、満月のようにかがやきはじめました。お墓の上の花も、色とりどりの美しさにかがやきました。地面が風にゆれるうすぎぬのように、静かに、静かにしずんでいきました。おかあさんもしずんでいきました。そのとき、死神は、黒いマントを、おかあさんのまわりにひろげました。あたりは、まっ暗な夜になりました。それは、死のやみ夜でした。おかあさんは、墓ほりのシャベルでも、とどかないくらい、深いところまでしずんでいきました。墓地は、頭の上のほうに、ちょうど天井みたいに横たわっていました。

 マントのはしが、わきへのけられました。見ると、おかあさんは、いつのまにか、気持のよい広々とした、りっぱな広間の中にきています。まわりにはぼんやりと、うす明りがさしています。

 気がついてみると、目の前に、死んだ坊やがいるではありませんか。その瞬間しゅんかん、おかあさんは、坊やをしっかりと胸にだきしめました。坊やはおかあさんに、かわいらしくほほえみかけました。見れば、前よりも、ずっと大きくなっています。おかあさんは、思わず大きな声を出しました。でも、その声は、すこしもひびきませんでした。なぜなら、美しいふくよかな音楽が、おかあさんのすぐそばで鳴ったかと思うと、今度は、ずっと遠くで、それからまた近くで、というふうに、たえず鳴りひびいていたからです。おかあさんは、いままでに、こんなにも楽しい音楽を聞いたことがありませんでした。その音楽は、この広間を大きな永遠の国からへだてている、まっ黒な、あついとばりのむこうから、ひびいてくるのでした。

「大好きなおかあさん! ぼくのおかあさん!」と、いう坊やの声がしました。それこそ、かたときも忘れたことのない、かわいい坊やの声です。

 おかあさんは、かぎりない幸福を感じて、坊やにキスの雨をふらせました。すると、坊やは、まっ黒なとばりのほうを指さして、言いました。

「地の上は、こんなにきれいじゃないねえ。ごらんよ、おかあさん。みんな見えるでしょ。あれは、幸福というものだよ」

 けれども、おかあさんには、なんにも見えません。坊やが、指さしたところにも、まっ暗な暗やみのほかは、なんにも見えないのです。おかあさんは、この世の目でもって、ものを見ていたのでした。神さまが、おそばへお召しになった、坊やのようには、ものを見ることができなかったのです。それでも、音楽だけは聞えました。でも、信じなければならない言葉は、ひとことも聞えなかったのです。

「おかあさん。ぼくは、いまは、とぶこともできるんだよ」と、坊やは言いました。「元気のいい子たちといっしょに、みんなで、神さまのところへとんでいくの。ぼく、とっても行きたいんだけど、でも、おかあさんが、いまみたいに泣くと、おかあさんのところから、離れることができなくなっちゃうんだよ。

 でも、ぼく、神さまのところへ、とっても、とっても行きたいの。行ってもいいでしょ。おかあさんだって、もうじき、ぼくのところへ来るんだものね」

「いいえ、いいえ、ここにいておくれ。ここにいておくれ!」と、おかあさんは言いました。「ほんの、もうすこしのあいだだけでも。もう一度だけでいいから、おまえの顔を見せておくれ。キスをさせておくれ。おかあさんの腕に、しっかりとだかれておくれ」

 おかあさんは、坊やにキスをして、しっかりとだきしめました。

 そのとき、上のほうから、おかあさんの名前を呼ぶ声が、聞えてきました。その声には、悲しいひびきがこもっていました。いったい、それは、なんだったのでしょうか?

「ほら、おかあさん」と、坊やは言いました。「おとうさんが、ああして、おかあさんを呼んでるじゃないの」

 それから、すこしすると、今度は、深いため息が聞えてきました。なんだか、すすり泣いている、子供の口からもれてくるようです。

「ああ、ねえさんたちだ」と、坊やが言いました。「おかあさん。ねえさんたちのこと、忘れちゃいないね」

 言われて、おかあさんは、この世にのこしてきた人たちのことを、思い出しました。と、きゅうに、心配になってきました。前のほうを見ると、人のかげが、ひっきりなしに、ふわふわと通りすぎていきます。なかには、たしかに見おぼえのある、かげも、いくつかあります。そういうかげは、死の広間を、ふわふわと通りすぎて、黒いとばりのほうへ行き、そこで姿を消しました。

「もしかしたら、おとうさんと、娘たちが来たのかしら。いいえ、そんなことはないわ。だって、みんなの呼び声や、ため息は、まだ上のほうから聞えるもの」

 おかあさんは、死んだ坊やのために、もうすこしで、みんなのことを忘れてしまうところでした。

「おかあさん、いま、天国の鐘が鳴っているよ」と、坊やは言いました。「おかあさん、いま、お日さまが、のぼってくるよ」

 そのとき、一すじの強い光が、おかあさんのほうに流れてきました。──坊やはいなくなりました。おかあさんのからだは、だんだん、上へ上へと、ひきあげられていきました。──

 と、きゅうに、寒くなりました。頭をあげてみると、おかあさんは、墓地の中の坊やのお墓の上に、たおれているではありませんか。神さまは、夢の中で、おかあさんの足のささえとなり、おかあさんの考えの光となってくださったのです。おかあさんは、すぐに、ひざまずいて、お祈りをしました。

「ああ、神さま! 永遠の魂を、かってに、わたくしのそばに、引きとめようとしましたことを、どうか、おゆるしくださいませ。そしてまた、わたくしには、生きている人たちへの、義務がありましたのに、それを忘れましたことも、どうか、おゆるしくださいませ」

 こう、お祈りをしますと、おかあさんの心は、すっかり軽くなったような気がしました。

 そのとき、お日さまがあらわれました。一羽の小鳥が、頭の上で、さえずりはじめました。

 やがて、教会の鐘が、朝のお祈りのために鳴り出しました。あたりは、こうごうしい気分でいっぱいになりました。おかあさんの心の中も、こうごうしい気持で、いっぱいになりました。おかあさんは、神さまを知ることができました。義務をも、知ることができました。いまは、あこがれで、胸をいっぱいにふくらませて、いそいで家にかえりました。

 おかあさんは、寝ているおとうさんの上に、身をかがめました。おとうさんは、おかあさんのま心こめた暖かいキスで、目をさましました。ふたりは、心を開いて、胸にしまっていることを話しあいました。おかあさんは、一家の主婦として、強く、やさしくなりました。おかあさんのくちびるからは、なぐさめの泉が、わき出ました。

「神さまのみ心が、いつも、いちばんよいものです」

 すると、おとうさんがたずねました。

「おまえは、いったいどこで、それほどの力と、それほどの心のなぐさめを、きゅうに、もらってきたんだね?」

 おかあさんは、おとうさんにキスをし、それから、娘たちにもキスをして、こう言いました。

「神さまからいただきましたの。お墓の中の、坊やのおかげで」

底本:「マッチ売りの少女 (アンデルセン童話集)」新潮文庫、新潮社

   1967(昭和42)年1210日発行

   1981(昭和56)年53021

入力:チエコ

校正:木下聡

2020年124日作成

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