晩菊
林芙美子



 夕方、五時頃うかがいますと云う電話があったので、きんは、一年ぶりにねえ、まア、そんなものですかと云った心持ちで、電話を離れて時計を見ると、まだ五時には二時間ばかり間がある。まずその間に、何よりも風呂へ行っておかなければならないと、女中に早目な、夕食の用意をさせておいて、きんは急いで風呂へ行った。別れたあの時よりも若やいでいなければならない。けっして自分の老いを感じさせては敗北だと、きんはゆっくりと湯にはいり、帰って来るなり、冷蔵庫の氷を出して、こまかくくだいたのを、二重になったガーゼに包んで、鏡の前で十分ばかりもまんべんなく氷で顔をマッサアジした。皮膚の感覚がなくなるほど、顔があかくしびれて来た。五十六歳と云う女の年齢が胸の中できばをむいているけれども、きんは女の年なんか、長年の修業でどうにでもごまかしてみせると云ったきびしさで、取っておきのハクライのクリームで冷い顔をいた。鏡の中には死人しびとのようにあおずんだ女のけた顔が大きく眼をみはっている。化粧の途中でふっと自分の顔に厭気いやけがさして来たが、昔はエハガキにもなったあでやかな美しい自分の姿がまぶたに浮び、きんはひざをまくって、太股ふとももはだをみつめた。むっくりと昔のように盛りあがったふとりかたではなく、細い静脈の毛管が浮き立っている。ただ、そうせてもいないと云うことが心やすめにはなる。ぴっちりと太股が合っている。風呂では、きんは、きまって、きちんと坐った太股のくぼみへ湯をそそぎこんでみるのであった。湯は、太股のみぞへじっとたまっている。っとしたやすらぎがきんの老いを慰めてくれた。まだ、男は出来る。それだけが人生の力頼みのような気がした。きんは、またを開いて、そっと、内股の肌を人ごとのようになでてみる。すべすべとして油になじんだ鹿皮のような柔らかさがある。西鶴の「諸国を見しるは伊勢物語」のなかに、伊勢の見物のなかに、三味しゃみくおすぎ、たま、と云う二人の美しい女がいて、三味を弾き鳴らす女の前に、真紅の網を張りめぐらせて、その網の目から二人の女のかおをねらっては銭を投げる遊びがあったと云うのを、きんは思い出して、紅の網を張ったと云う、その錦絵にしきえのような美しさが、いまの自分にはもう遠い過去の事になり果てたような気がしてならなかった。若い頃は骨身にみて金慾に目が暮れていたものだけれども、年を取るにつれて、しかも、ひどい戦争の波をくぐり抜けてみると、きんは、男のない生活は空虚で頼りない気がしてならない。年齢によって、自分の美しさも少しずつは変化して来ていたし、その年々で自分の美しさの風格が違って来ていた。きんは年を取るにしたがって派手なものを身につける愚はしなかった。五十を過ぎた分別のある女が、薄い胸に首飾りをしてみたり、湯もじにでもいいような赤い格子縞こうしじまのスカートをはいて、白サティンの大だぶだぶのブラウスを着て、つば広の帽子で額のしわを隠すような妙な小細工はきんはきらいだった。それかと云って、着物の襟裏えりうらから紅色をのぞかせるような女郎のようないやらしい好みもきらいであった。

 きんは、洋服はこの時代になるまで一度も着た事はない。すっきりとした真白い縮緬ちりめんの襟に、藍大島あいおおしまかすりあわせ、帯は薄いクリーム色の白筋博多。水色の帯揚げは絶対に胸元にみせない事。たっぷりとした胸のふくらみをつくり、腰は細く、地腹は伊達巻だてまきで締めるだけ締めて、お尻にはうっすりと真綿をしのばせた腰蒲団こしぶとんをあてて西洋の女のいきな着つけを自分で考え出していた。髪の毛は、昔から茶色だったので、色の白い顔には、その髪の毛が五十を過ぎた女の髪とも思われなかった。大柄なので、すそみじかに着物を着るせいか、裾もとがきりっとして、さっぱりしていた。男にう前は、かならずこうした玄人くろうとっぽい地味なつくりかたをして、鏡の前で、冷酒ひやざけを五しゃくほどきゅうとあおる。そのあとは歯みがきで歯をみがき、酒臭い息を殺しておく事もぬかりはない。ほんの少量の酒は、どんな化粧品をつかったよりもきんの肉体には効果があった。薄っすりと酔いが発しると、眼もとがあかく染まり、大きい眼がうるんで来る。あおっぽい化粧をして、リスリンでといたクリームでおさえた顔のつやが、息を吹きかえしたようにさえざえして来る。紅だけは上等のダークを濃く塗っておく。紅いものと云えばくちびるだけである。きんは、爪を染めると云う事も生涯しょうがいした事がない。老年になってからの手はなおさら、そうした化粧はものほしげで貧弱でおかしいのである。乳液でまんべんなく手の甲をたたいておくだけで、爪は癇性かんしょうなほど短くって羅紗らしゃきれみがいて置く。長襦袢ながじゅばん袖口そでぐちにかいま見える色彩は、すべて淡い色あいを好み、水色と桃色のぼかしたたづななぞを身につけていた。香水は甘ったるいにおいを、肩とぼってりした二の腕にこすりつけておく。耳朶みみたぶなぞへは間違ってもつけるような事はしないのである。きんは女である事を忘れたくないのだ。世間の老婆の薄汚なさになるのならば死んだ方がましなのである。──人の身にあるまじきまでたわわなる、薔薇ばらと思えどわが心地する。きんは有名な女の歌ったと云うこの歌が好きであった。男から離れてしまった生活は考えてもぞっとする。板谷の持って来た、薔薇の薄いピンクの花びらを見ていると、その花の豪華さにきんは昔を夢見る。遠い昔の風俗や自分の趣味や快楽が少しずつ変化して来ている事もきんにはたのしかった。一人寝の折、きんは真夜中に眼が覚めると、娘時代からの男の数を指でひそかに折り数えてみた。あのひととあのひと、それにあのひと、ああ、あのひともある……でも、あのひとは、あのひとよりも先に逢っていたのかしら……それとも、後だったかしら……きんは、まるで数え歌のように、男の思い出に心が煙たくむせて来る。思い出す男の別れ方によって涙の出て来るような人もあった。きんは一人一人の男にいては、出逢いの時のみを考えるのが好きであった。以前読んだ事のある伊勢物語風に、昔男ありけりと云う思い出をいっぱい心にめているせいか、きんは一人寝の寝床のなかで、うつらうつらと昔の男の事を考えるのは愉しみであった。──田部からの電話はきんにとっては思いがけなかったし、上等の葡萄酒ぶどうしゅにでもお眼にかかったような気がした。田部は、思い出にられて来るだけだ。昔のなごりが少しは残っているであろうかと云った感傷で、恋の焼跡を吟味しに来るようなものなのだ。草茫々ぼうぼう瓦礫がれきの跡に立って、只、ああと溜息ためいきだけをつかせてはならないのだ。年齢や環境にいささかの貧しさもあってはならないのだ。慎み深い表情が何よりであり、雰囲気ふんいきは二人でしみじみと没頭出来るようなただよいでなくてはならない。自分の女は相変らず美しい女だったと云う後味のなごりを忘れさせてはならないのだ。きんはとどこおりなく身支度が済むと、鏡の前に立って自分の舞台姿をたしかめる。万事抜かりはないかと……。茶の間へ行くと、もう、夕食のぜんが出ている。薄い味噌汁みそしると、塩昆布しおこんぶに麦飯を女中と差し向いで食べると、あとは卵を破って黄身をぐっと飲んでおく。きんは男が尋ねて来ても、昔から自分の方で食事を出すと云うことはあまりしなかった。こまごまと茶餉台ちゃぶだいをつくって、手料理なんですよと並べたてて男に愛らしい女と思われたいなぞとは露ほども考えないのである。家庭的な女と云う事はきんには何の興味もないのだ。結婚をしようなぞと思いもしない男に、家庭的な女としてびてゆくいわれはないのだ。こうしたきんに向って来る男は、きんの為に、いろいろな土産物みやげものを持って来た。きんにとってはそれが当り前なのである。きんは金のない男を相手にするような事はけっしてしなかった。金のない男ほど魅力のないものはない。恋をする男が、ブラッシュもかけない洋服を着たり、肌着のボタンのはずれたのなぞ平気で着ているような男はふっと厭になってしまう。恋をする、その事自体が、きんには一つ一つ芸術品を造り出すような気がした。きんは娘時代に赤坂の万竜まんりゅうに似ていると云われた。人妻になった万竜を一度見掛けた事があったが、惚々ほれぼれとするような美しい女であった。きんはその見事な美しさにうなってしまった。女が何時いつまでも美しさを保つと云う事は、金がなくてはどうにもならない事なのだと悟った。きんが芸者になったのは、十九の時であった。大した芸事も身につけてはいなかったが、只、美しいと云う事で芸者になり得た。その頃、仏蘭西フランス人で東洋見物に来ていたもうかなりな年齢の紳士の座敷に呼ばれて、きんは紳士から日本のマルグリット・ゴオチェとして愛されるようになり、きん自身も、椿姫つばきひめ気取りでいた事もある。肉体的には案外つまらない人であったが、きんには何となく忘れがたい人であった。ミッシェルさんと云って、もう、仏蘭西の北の何処どこかで死んでいるに違いない年齢である。仏蘭西へ帰ったミッシェルから、オパールとこまかいダイヤを散りばめた腕環を贈って来たが、それだけは戦争最中にも手放さなかった。──きんの関係した男達は、みんなそれぞれに偉くなっていったが、この終戦後は、その男達のおおかたは消息もわからなくなってしまった。相沢きんは相当の財産を溜め込んでいるだろうと云う風評であったが、きんはかつて待合まちあいをしようとか、料理屋をしようなぞとは一度も考えた事がなかった。持っているものと云えば、焼けなかった自分の家と、熱海あたみに別荘を一軒持っているきりで、人の云うほどの金はなかった。別荘は義妹の名前になっていたのを、終戦後、折を見て手放してしまった。全くの無為徒食であったが、女中のきぬは義妹の世話であったがおしの女である。きんは、暮しも案外つつましくしていた。映画や芝居を見たいと云う気もなかったし、きんは何の目的もなくうろうろと外出する事はきらいであった。天日にさらされた時の自分の老いを人目に見られるのは厭であった。明るい太陽の下では、老年の女のみじめさをようしゃなく見せつけられる。如何なる金のかかった服飾も天日の前では何の役にもたたない。陽蔭ひかげの花で暮す事に満足であったし、きんは趣味として小説本を読む事が好きであった。養女を貰って老後の愉しみを考えてはと云われる事があっても、きんは老後なぞと云う思いが不快であったし、今日まで孤独で来た事も、きんには一つの理由があるのだった。──きんは両親がなかった。秋田の本庄ほんじょう近くの小砂川こさかわの生れだと云う事だけが記憶にあって、五ツ位の時に東京に貰われて、相沢の姓を名乗り、相沢家の娘としてそだった。相沢久次郎と云うのが養父であったが、土木事業で大連だいれんに渡って行き、きんが小学校の頃から、この養父は大連へ行きっぱなしで消息はないのである。養母のりつは仲々の理財家で、株をやったり借家を建てたりして、その頃は牛込うしごめ藁店わらだなに住んでいたが、藁店の相沢と云えば、牛込でも相当の金持ちとして見られていた。その頃神楽坂かぐらざか辰井たついと云う古い足袋屋たびやがあって、そこに、町子と云う美しい娘がいた。この足袋屋は人形町のみょうが屋と同じように歴史のある家で、辰井の足袋と云えば、山の手の邸町やしきまちでも相当の信用があったものである。紺の暖簾のれんを張った広い店先きにミシンを置いて、桃割ももわれに結った町子が、黒繻子くろじゅすえりをかけてミシンを踏んでいるところは、早稲田わせだの学生達にも評判だったとみえて、学生達が足袋をあつらえに来ては、チップを置いて行くものもあると云う風評だったが、この町子より五ツ六ツも若いきんも、町内では美しい少女として評判だった。神楽坂には二人の小町娘として人々に云いふらされていた。──きんが十九の頃、相沢の家も、合百ごうひゃくの鳥越と云う男が出入りするようになってから、家が何となくかたむき始め、養母のりつは酒乱のような癖がついて、長い事暗い生活が続いていたが、きんはふっとした冗談から鳥越に犯されてしまった。きんはその頃、やぶれかぶれな気持ちで家を飛び出して、赤坂の鈴本と云う家から芸者になって出た。辰井の町子は、丁度その頃、始めて出来た飛行機にふり袖姿で乗せて貰って洲崎すざきの原に墜落したと云う事が新聞種になり、相当評判をつくった。きんは、欣也きんやと云う名前で芸者に出たが、すぐ、講談雑誌なんかに写真が載ったりして、しまいには、その頃流行のエハガキになったりしたものである。

 いまから思えば、こうした事も、みんな遠い過去のことになってしまったけれども、きんは自分が現在五十歳を過ぎた女だとはどうしても合点がゆかなかった。長く生きて来たものだと思う時もあったが、また短い青春だったと思う時もある。養母がくなったあと、いくらもない家財は、きんの貰われて来たあとに生れたすみ子と云う義妹にあっさり継がれてしまっていたので、きんは養家に対して何の責任もないからだになっていた。

 きんが田部を知ったのは、すみ子夫婦が戸塚に学生相手の玄人下宿をしている頃で、きんは、三年ばかり続いていた旦那だんなと別れて、すみ子の下宿に一部屋を借りて気楽に暮していた。太平洋戦争が始った頃である。きんはすみ子の茶の間で行きあう学生の田部と知りあい、親子ほども年の違う田部と、何時か人目を忍ぶ仲になっていた。五十歳のきんは、知らない人の目には三十七八位にしか見えない若々しさで、まゆの濃いのが匂うようであった。大学を卒業した田部はすぐ陸軍少尉で出征したのだけれども、田部の部隊はしばらく広島に駐在していた。きんは、田部を尋ねて二度ほど広島へ行った。

 広島へ着くなり、旅館へ軍服姿の田部が尋ねて来た。革臭い田部の体臭にきんはへきえきしながらも、二晩を田部と広島の旅館で暮した。はるばると遠い地を尋ねて、くたくたに疲れていたきんは、田部のたくましい力にほんろうされて、あの時は死ぬような思いだったと人に告白して云った。二度ほど田部を尋ねて広島に行き、その後田部から幾度電報が来ても、きんは広島へは行かなかった。昭和十七年に田部はビルマへ行き、終戦の翌年の五月に復員して来た。すぐ上京して来て、田部は沼袋のきんの家を尋ねて来たが、田部はひどく老けこんで、前歯の抜けているのを見たきんは昔の夢も消えて失望してしまった。田部は広島の生れであったが、長兄が代議士になったとかで、兄の世話で自動車会社を起して、東京で一年もたたない間に、見違えるばかり立派な紳士になってきんの前に現われ、近々に細君を貰うのだと話した。それからまた一年あまり、きんは田部に逢う事もなかった。──きんは、空襲の激しい頃、捨て値同様の値段で、現在の沼袋の電話つきの家を買い、戸塚から沼袋へ疎開していた。戸塚とは眼と鼻の近さでありながら、沼袋のきんの家は残り、戸塚のすみ子の家は焼けた。すみ子達が、きんのところへ逃げて来たけれども、きんは、終戦と同時にすみ子達を追い出してしまった。もっとも追い出されたすみ子も、戸塚の焼跡に早々と家を建てたので、かえっていまではきんに感謝している有様でもあった。今から思えば、終戦直後だったので、安い金で家を建てる事が出来たのである。

 きんも熱海の別荘を売った。手取り三十万近い金がはいると、その金でぼろ家を買っては手入れをして三、四倍には売った。きんは、金にあわてると云う事をしなかった。金銭と云うものは、あわてさえしなければすくすくと雪だるまのようにふくらんでくれる利徳のあるものだと云う事を長年の修業で心得ていた。高利よりは安い利まわりで固い担保を取って人にも貸した。戦争以来、銀行をあまり信用しなくなったきんは、なるべく金を外へまわした。農家のように家へ積んで置く愚もしなかった。その使いにはすみ子の良人おっとの浩義を使った。幾割かの謝礼を払えば、人は小気味よく働いてくれるものだと云う事もきんは知っていた。女中との二人住いで、四間ばかりの家うちは、外見には淋しかったのだけれども、きんは少しも淋しくもなかったし、外出ぎらいであってみれば、二人暮しを不自由とも思わなかった。泥棒の要心には犬を飼う事よりも、戸締りを固くすると云う事を信用していて、何処の家よりもきんの家は戸締りがよかった。女中はおしなので、どんな男が尋ねて来ても他人に聞かれる心配はない。その癖きんは、時々、むごたらしい殺され方をしそうな自分の運命を時々空想する時があった。息を殺してひっそりと静まり返った家と云うものを不安に思わないでもない。きんは、朝から晩までラジオをかける事を忘れなかった。きんはその頃、千葉の松戸で花壇をつくっている男と知りあっていた。熱海の別荘を買った人の弟だとかで、戦争中はハノイで貿易の商社を起していたのだけれども、終戦後引揚げて来て、兄の資本で松戸で花の栽培を始めた。年はまだ四十歳そこそこであったが、頭髪がつるりと禿げて、年よりは老けてみえた。板谷清次と云った。二三度家の事できんを尋ねて来たけれども、板谷は何時いつの間にかきんの処へ週に一度は尋ねて来るようになっていた。板谷が来始めてから、きんの家は美しい花々の土産でにぎわった。──今日もカスタニアンと云う黄いろい薔薇ばらがざくりと床の間の花瓶かびんに差されている。銀杏いちょうの葉、すこしこぼれてなつかしき、薔薇の園生そのうの霜じめりかな。黄いろい薔薇は年増としまざかりの美しさを思わせた。誰かの歌にある。霜じめりした朝の薔薇の匂いが、つうんときんの胸に思い出を誘う。田部から電話がかかってみると、板谷よりも、きんは若い田部の方にかれている事を悟る。広島ではつらかったけれども、あの頃の田部は軍人であったし、あの荒々しい若さも今になれば無理もなかった事だとつまされて嬉しい思い出である。激しい思い出ほど、時がたてば何となくなつかしいものだ。──田部が尋ねて来たのは五時を大分過ぎてからであったが、大きな包みをさげて来た。包みの中から、ウイスキーや、ハムや、チーズなぞを出して、長火鉢ながひばちの前にどっかと坐った。もう昔の青年らしさはおもかげもない。灰色の格子こうしの背広に、黒っぽいグリンのズボンをはいているのは如何にもこの時代の機械屋さんと云った感じだった。「相変らず綺麗だな」「そう、有難う。でも、もう駄目ね」「いや、うちの細君より色っぽい」「奥さまお若いンでしょう?」「若くても、田舎いなか者だよ」きんは、田部の銀の煙草ケースから一本煙草を抜いて火をつけて貰った。女中がウイスキーのグラスと、さっきのハムやチーズを盛りあわせた皿を持って来た。「いい娘だね……」田部がにやにや笑いながら云った。「ええ、でも唖なのよ」ほほうと云った表情で、田部はじいっと女中の姿をみつめていた。柔和な眼もとで、女中は丁寧に田部に頭をさげた。きんは、ふっと、気にもかけなかった女中の若さが目障めざわりになった。「御円満なのでしょう?」田部はぷうと煙を吹きながら、ああ僕ンとこかいと云った顔で、「もう来月子供が生れるンだ」と云った。へえ、そうなのと、きんはウイスキーの瓶を持って、田部のグラスにすすめた。田部は美味うまそうにきゅうとグラスをけて、自分もきんのグラスにウイスキーをついでやった。「いい生活だな」「あら、どうして?」「外はあらしがごうごうと吹きさんでいるのにさ、君ばかりは何時までたっても変らない……不思議な人だよ。どうせ、君の事だから、いいパトロンがいるンだろうけど、女はいいな」「それ、皮肉ですか? でも、私、別に、田部さんに、そんな風な事云われる程、貴方あなたに御厄介かけたって事ないわね?」「おこったの? そうじゃないンだよ。そうじゃないンだ。あンたはしあわせな人だって云うンだよ。男の仕事って辛いもンだから、つい、そンな事を云ったのさ。いまの世は、あだやおろそかには暮せない。うか喰われるかだ。僕なンか、毎日ばくちをして暮しているようなもンだからね」「だって、景気はいいンでしょう?」「よかないさ……あぶない綱渡り、耳鳴りがする位辛い金を使っているンだぜ」きんは黙ってウイスキーをなめた。壁ぎわでこおろぎがいているのがいやにしめっぽい。田部は、二杯目のウイスキーを飲むと、荒々しくきんの手を火鉢越しにつかんだ。指環をはめていない手が絹ハンカチのように頼りないほど柔い。きんは手の先きにある力をじっと抜いて、息を殺していた。力の抜けている手は無性に冷たくてぼってりと柔い。田部の酔った眼には、昔の様々が渦をなし心に迫って来る。昔のままの美しさで女が坐っている。不思議な気がした。絶えず流れる歳月のなかに少しずつ経験が積み重なってゆく。その流れのなかに、飛躍もあれば墜落もある。だが、昔の女は何の変化もなく太々ふてぶてしくそこに坐っている。田部はじいっときんの眼をみつめた。眼をかこむ小皺こじわも昔のままだ。輪郭もくずれてはいない。この女の生活の情態を知りたかった。この女には社会的の反射は何の反応もなかったのかもしれない。箪笥たんすを飾り長火鉢を飾り、豪華に群生した薔薇の花も飾り、にっこりと笑って自分の前に坐っている。もう、すでに五十は越しているはずだのに、におうばかりの女らしさである。田部はきんの本当の年齢を知らなかった。アパート住いの田部は、二十五歳になったばかりの細君のそそけた疲れた姿をまぶたに浮べる。きんは火鉢のひき出しから、のべ銀の細い煙管きせるを出して、小さくなった両切りをさして火をつけた。田部が、時々膝頭ひざがしらをぶるぶるとゆすぶっているのが、きんには気にかかった。金銭的に参っている事でもあるのかも知れないと、きんはじいっと田部の表情を観察した。広島へ行った時のような一途いちずな思いはもうきんの心から薄れ去っている。二人の長い空白が、きんには現実に逢ってみるとちぐはぐな気がする。そうしたちぐはぐな思いが、きんにはもどかしく淋しかった。どうにも昔のように心が燃えてゆかないのだ。この男の肉体をよく知っていると云う事で、自分にはもうこの男のすべてに魅力を失っているのかしらとも考える。雰囲気ふんいきはあったにしても、かんじんの心が燃えてゆかないと云う事に、きんはあせりを覚える。「誰か、君の世話で、四十万ほど貸してくれる人ない?」「あら、お金のこと? 四十万なンて大金じゃないの?」「うん、いま、どうしても、それだけ欲しいンだよ。心当りはない?」「ないわ、第一、こんな無収入な暮しをしている私に、そンな相談をしたって無理じゃないの……」「そうかなア、うんと、利子をつけるが、どうだろう?」「駄目だめ! 私にそンな事おっしゃっても無理よ」きんは、急に寒気だつような気がした。板谷との長閑のどかな間柄が恋いしくなって来る。きんは、がっかりした気持ちで、しゅんしゅんと沸きたっているあられの鉄瓶てつびんを取って茶をれた。「二十万位でもどうにかならない? 恩にきるンだがなア……」「おかしな人ね? 私にお金のことをおっしゃったって、私にはお金のない事よくわかっていらっしゃるじゃないの……。私がほしい位のものだわ。私に逢いたい為に来て下すったンじゃなく、お金の話で、私のとこへいらっしたの?」「いや、君に逢いたい為さ、そりゃア逢いたい為だけど、君になら、何でも相談が出来ると思ったからなンだよ」「お兄様に相談なさればいいのよ」「兄貴には話せない金なンだ」きんは返事もしないで、ふっと、自分の若さも、もうあと一二年だなと思う。昔の焼きつくような二人の恋が、いまになってみると、お互いの上に何の影響もなかった事に気がついて来る。あれは恋ではなく、強くきあう雌雄だけのつながりだったのかも知れない。風に漂う落葉のようなもろい男女のつながりだけで、ここに坐っている自分と田部は、只、何でもない知人のつながりとしてだけのものになっている。きんの胸に冷やかなものが流れて来た。田部は思いついたように、にやりとして、「泊ってもいい?」と小さい声で、茶をんでいるきんに尋ねた。きんは吃驚びっくりした眼をして、「駄目よ。こんな私をからかわないで下さい」と、眼尻めじりしわをわざとちぢめるようにして笑った。美しいしろい入れ歯が光る。「いやに冷酷無情だな。もう、一切金の話はしない。一寸、昔のきんさんに甘ったれたンだ。でも、──ここは別世界だものね。君は悪運の強い人だよ。どんな事があったってくたばらないのは偉い。いまの若い女なンか、そりゃアみじめだからね。君、ダンスはしないの?」きんは、ふふんと鼻の奥でわらった。若い女がどうだって云うンだろう……。私の知った事じゃないわ。「ダンスなンて知らないわ。貴方あなたなさるの?」「少しはね」「そう、いい方があるンでしょう? それでお金がいるンじゃないの?」「馬鹿だなア、女にみつぐ程、ぼろい金もうけはしていない」「あら、でも、とても、その身だしなみは紳士じゃないのよ。相当なお仕事でなくちゃ、出来ない芸だわ」「これははったりなンだ。ふところはぴいぴいなンだぜ。七転ななころ八起やおきもこの頃はあわただしくてね……」きんはふふふとふくみ笑いをして、田部の房々とした黒髪にみとれている。まだ、十分房房として額ぎわにたれている。角帽の頃の匂う水々しさは失せているけれども、頬のあたりがもう中年のあだめかしさを漂わせて、品のいい表情はないながらも、たくましい何かがある。猛獣が遠くから匂いをぎあっているような観察のしかたで、きんは、田部にも茶を淹れてやった。「ねえ、近いうちにお金の切りさげってあるって本当なの?」きんは冗談めかして尋ねた。「心配するほど持ってるンだな?」「まア! すぐ、それだから、貴方って変ったわね。そンな風評を人がしてるからなのよ」「さア、そンな無理なことはいまの日本じゃ出来ないだろうね。金のないものには、まず、そンな心配はないさ」「本当ね……」きんはいそいそとウイスキーのびんを田部のグラスに差した。「ああ、箱根かどっか静かなところへ行きたいな。二三日そんな処でぐっすり寝てみたい」「疲れてるの」「うん、金の心配でね」「でも、金の心配なンて貴方らしくていいじゃアありませんの? なまじ、女の心配じゃないだけ……」田部は、きんの取り澄しているのが憎々しかった。上等の古物を見ているようでおかしくもある。一緒に一夜を過したところで、ほどこしをしてやるようなものだと、田部は、きんのあごのあたりを見つめた。しっかりしたあごの線が意志の強さを現わしている。さっき見たおしの女中の水々しい若さが妙に瞼にだぶって来た。美しい女ではないが、若いと云う事が、女に眼の肥えて来た田部には新鮮であった。なまじ、この出逢いが始めてならば、こうしたもどかしさもないのではないかと、田部は、さっきよりも疲れの見えて来たきんの顔に老いを感じる。きんは何かを察したのか、さっと立ちあがって、隣室に行くと、鏡台の前に行き、ホルモンの注射器を取って、ずぶりと腕に射した。肌を脱脂綿できつくこすりながら、鏡のなかをのぞいて、パフで鼻の上をおさえた。色めきたつ思いのない男女が、こうしたつまらない出逢いをしていると云う事に、きんは口惜くやしくなって来て、思いがけもしない通り魔のような涙を瞼に浮べた。板谷だったら、膝に泣き伏すことも出来る。甘えることも出来る。長火鉢の前にいる田部が、好きなのかきらいなのか少しも判らないのだ。帰って貰いたくもあり、もう少し、何かを相手の心に残したいあせりもある。田部の眼は、自分と別れて以来、沢山の女を見て来ているのだ。かわやへ立って、帰り、女中部屋を一寸のぞくと、きぬは、新聞紙の型紙をつくって、洋裁の勉強を一生懸命にしていた。大きなお尻をぺったりと畳につけて、かがみ込むようにしてはさみをつかっている。きっちり巻いた髪の襟元が、艶々つやつやと白くて、見惚みとれるようにたっぷりとした肉づきであった。きんは、そのまままた長火鉢の前へ戻った。田部は寝転んでいた。きんは茶箪笥ちゃだんすの上のラジオをかけた。思いがけない大きい響きで第九が流れ出した。田部はむっくりと起きた。そしてまたウイスキーのグラスを唇につける。「君と、柴又しばまた川甚かわじんへ行った事があったね。えらい雨に降りこめられて、飯のないうなぎを食った事があったなア」「ええ、そンな事あったわね、あの頃はもう、食べ物がとても不自由な時だったわ。貴方が兵隊さんになる前よ。床の間に赤い鹿百合ゆりが咲いててさア、二人で、花瓶を引っくり返したこと覚えている?」「そンな事あったね……」きんの顔が急にふくらみ、若々しく表情が変った。「何時かまた行こうか?」「ええ、そうね、でももう、私、おっくうだわ……もう、あそこも、何でも食べさせるようになってるでしょうね?」きんは、さっき泣いた感傷を消さないように、そっと、昔の思い出をたぐりよせようと努力している。そのくせ、田部とは違う男の顔が心に浮ぶ。田部と柴又に行ったあと、終戦直後に、山崎と云う男と一度、柴又へ行った記憶がある。山崎はつい先達せんだって胃の手術で死んでしまった。晩夏でむし暑い日の江戸川べりの川甚の薄暗い部屋の景色が浮んで来る。こっとん、こっとん、水揚げをしている自動ポンプの音が耳についていた。カナカナが鳴きたてて、窓べの高い江戸川堤の上を買い出しの自転車が競走のように銀輪を光らせて走っていたものだ。山崎とは二度目のあいびきであったが、女に初心うぶな山崎の若さが、きんにはしみじみと神聖に感じられた。食べ物も豊富だったし、終戦のあとの気の抜けた世相が、案外真空の中にいるように静かだった。帰りは夜で、新小岩へ広い軍道路をバスで戻ったのを覚えている。「あれから、面白い人にめぐりあった?」「私?」「うん……」「面白い人って、貴方以外に何もありませんわ」「うそつけ!」「あら、どうして? そうじゃないの? こんな私を、誰が相手にするものですか……」「信用しない」「そう……でも、私、これから咲き出すつもり、生きている甲斐かいにね」「まだ、相当長生きだろうからね」「ええ、長生きをして、ぼろぼろに老いさらばえるまで……」「浮気はやめない?」「まア、貴方って云うひとは、昔の純なとこ少しもなくなったわね。どうして、そンな厭なことを云う人になったンでしょう? 昔の貴方は綺麗だったわ」田部は、きんの銀の煙管きせるを取って吸ってみた。じゅっと苦味にがやにが舌に来る。田部はハンカチを出して、べっとやにを吐いた。「掃除しないからつまってるのよ」きんは笑いながら、煙管を取りあげて、散り紙の上に小刻みに強く振った。田部は、きんの生活を不思議に考える。世相の残酷さが何一つ跡をとどめてはいないと云う事だ。二三十万の金は何とか都合のつきそうな暮しむきだ。田部はきんの肉体に対しては何の未練もなかったが、この暮しの底にかくれている女の生活の豊かさに追いすがる気持ちだった。戦争から戻って、只の血気だけで商売をしてみたが、兄からの資本は半年たらずですっかり使い果していたし、細君以外の女にもかかわりがあって、その女にもやがて子供が出来るのだ。昔のきんを思い出して、もしやと云う気持ちできんの処へ来たのだけれども、きんは、昔のような一途いちずのところはなくなっていて、いやに分別を心得ていた。田部との久々の出逢いにも一向に燃えては来なかった。躯をくずさない、きちんとした表情が、田部には仲々近寄りがたいのである。もう一度、田部はきんの手を取って固く握ってみた。きんはされるままになっているだけである。火鉢に乗り出して来るでもなく、片手で煙管のやにを取っている。

 長い歳月にらされたと云う事が、複雑な感情をお互いの胸の中にたたみこんでしまった。昔のあのなつかしさはもう二度と再び戻っては来ないほど、二人とも並行して年を取って来たのだ。二人は黙ったまま現在を比較しあっている。幻滅の輪の中に沈み込んでしまっている。二人は複雑な疲れ方で逢っているのだ。小説的な偶然はこの現実にはみじんもない。小説の方がはるかに甘いのかも知れない。微妙な人生の真実。二人はお互いをここで拒絶しあう為に逢っているに過ぎない。田部は、きんを殺してしまう事も空想した。だが、こんな女でも殺したとなると罪になるのだと思うと妙な気がした。誰からも注意されない女を一人や二人殺したところで、それが何だろうと思いながらも、それが罪人になってしまう結果の事を考えると馬鹿々々しくなって来るのだ。たかが虫けら同然の老女ではないかと思いながらも、この女は何事にも動じないでここに生きているのだ。二つの箪笥の中には、五十年かけてつくった着物がぎっしりと這入っているに違いない。昔、ミッシェルとか云った仏蘭西人に贈られた腕環を見せられた事があったけれども、ああした宝石類も持っているに違いない。この家も彼女のものであるにきまっている。唖の女中を置いている女の一人位を殺したところで大した事はあるまいと空想を逞しくしながらも、田部は、この女に思いつめて、戦争最中あいびきを続けていた学生時代の、この思い出が息苦しく生鮮を放って来る。酒の酔いがまわったせいか、眼の前にいるきんのおもかげが自分の皮膚の中に妙にしびれ込んで来る。手を触れる気もないくせに、きんとの昔が量感を持って心に影をつくる。

 きんは立って、押入れの中から、田部の学生時代の写真を一枚出して来た。「ほほう、妙なものを持っているンだね」「ええ、すみ子のところにあったのよ。貰って来たの、これ、私と逢う前の頃のね。この頃の貴方って貴公子みたいよ。紺飛白こんがすりでいいじゃない? 持っていらっしゃいよ。奥さまにお見せになるといいわ。綺麗ね。いやらしい事を云うひとには見えませんね」「こんな時代もあったンだね?」「ええ、そうよ。このままですくすくとそだって行ったら、田部さんは大したものだったのね?」「じゃア、すくすくとそだたなかったって云うの?」「ええ、そう」「そりゃア、君のせいだし、長い戦争もあったしね」「あら、そンな事、こじつけだわ。そンな事は原因にならなくてよ。貴方って、とても俗になっちゃった……」「へえ……俗にね。これが人間なンだよ」「でも、長い事、この写真を持ち歩いていた私の純情もいいじゃアないの?」「多少は思い出もンだろうからね。僕にはくれなかったね?」「私の写真?」「うん」「写真はこわいわ。でも、昔の私の芸者時代の写真、戦地に送って上げたでしょう?」「どっかへおっことしちゃったなア……」「それごらんなさい。私の方が、ずっと純だわ」

 長火鉢のとりでは、仲々崩れそうにもない。田部は、もうすっかり酔っぱらってしまった。きんの前にあるグラスは、始めの一杯をついだままのが、まだ半分以上も残っている。田部は冷い茶を一気に呑んで、自分の写真を興味もなく横板の上に置いた。「電車、大丈夫?」「帰れやしないよ。このまま酔っぱらいを追い出すのかい」「ええ、そう、ぽいと放り出しちゃうわ。ここは女の家で、近所がうるさいですからね」「近所? へえ、そンなもの君が気にするとは思わないな」「気にします」「旦那が来るの?」「まア! 厭な田部さん、私、ぞっとしてしまってよ。そンなこと云う貴方ってきらいッ!」「いいさ、金が出来なきゃ、二三日帰れないンだ。ここへ置いて貰うかな……」きんは、両手で頬杖ほおづえをついて、じいっと大きい眼を見はって田部の白っぽい唇を見た。百年の恋もさめ果てるのだ。黙って、眼の前にいる男を吟味している。昔のような、心のいろどりはもうお互いに消えてしまっている。青年期にあった男の恥じらいが少しもないのだ。金一封を出して戻ってもらいたい位だ。だが、きんは、眼の前にだらしなく酔っている男に一銭の金も出すのは厭であった。初々ういういしい男に出してやる方がまだましである。自尊心のない男ほど厭なものはない。自分に血道をあげて来た男の初々しさをきんは幾度も経験していた。きんは、そうした男の初々しさにかれていたし、高尚なものにも思っていた。理想的な相手を選ぶ事以外に彼女の興味はない。きんは、心の中で、田部をつまらぬ男になりさがったものだと思った。戦死もしないで戻って来た運の強さが、きんには運命を感じさせる。広島まで田部を追って行った、あの時の苦労だけで、もうこの男とは幕にすべきだったと思うのだった。「何をじろじろ人の顔見てるンだ?」「あら、あなただって、さっきから、私をじろじろ見てて何かいい気な事考えていたでしょう?」「いや、何時いつ逢っても美しいきんさんだと見惚みとれていたのさ……」「そう、私も、そうなの。田部さんは立派になったと思って……」「逆説だね」田部は、人殺しの空想をしていたのだと口まで出かけているのをぐっとおさえて、逆説だねと逃げた。「貴方はこれから男ざかりだから愉しみだわね」「君もまだまだじゃないの?」「私? 私はもう駄目。このまましぼんでゆくきり、二三年したら、田舎へ行って暮したいのよ」「ぼろぼろになるまで長生きして、浮気するって云ったのはうそ?」「あら、そんな事、私云いませんよ。私って、思い出に生きてる女なのよ。只、それだけ。いいお友達になりましょうね」「逃げてるね。女学生みたいな事を云いなさンなよ。ええ。思い出だのってものはどうでもいいな」「そうかしら……だって、柴又へ行ったの云い出したの貴方よ」田部はまた膝をぶるぶるとせっかちにゆすぶった。金が慾しい。金。何とかして、只、五万円でも、きんに借りたいのだ。「本当に都合つかないかねえ?店を担保に置いても駄目?」「あら、また、お金の話? そンな事を私におっしゃっても駄目よ。私、一銭もないのよ。そンなお金持ちも知らないし、あるようでないのが金じゃないの。私、貴方に借りたい位だわ……」「そりゃアうまくゆけば、うんと君に持って来るさ。君は、忘れられない人だもの、……」「もう沢山よ、そンなおせじは……お金の話しないって云ったでしょう?」わあっと四囲あたりいちめん水っぽい秋の夜風が吹きまくるようで、田部は、長火鉢の火箸ひばしを握った。一瞬、すさまじい怒りがまゆのあたりにう。なぞのように誘惑される一つの影に向って、田部は火箸を固く握った。雷光のようなとどろきが動悸どうきを打つ。その動悸に刺戟しげきされる。きんは何とない不安な眼で田部の手元をみつめた。いつか、こんな場面が自分の周囲にあったような二重写しを見るような気がした。「貴方、酔ってるのね、泊って行くといいわ……」田部は泊って行くといいと云われて、ふっと火箸を持った手を離した。ひどく酩酊めいていしたかっこうで、田部はよろめきながら厠へ立って行った。きんは田部の後姿に予感を受け取り、心のうちでふふんと軽蔑けいべつしてやる。この戦争ですべての人間の心の環境ががらりと変ったのだ。きんは、茶棚ちゃだなからヒロポンの粒を出して素早く飲んだ。ウイスキーはまだ三分の一は残っている。これをみんな飲ませて、泥のように眠らせて、明日は追い返してやる。自分だけは眠っていられないのだ。よくおこった火鉢の青い炎の上に、田部の若かりし頃の写真をくべた。もうもうと煙が立ちのぼる。物の焼ける匂いが四囲にこもる。女中のきぬがそっと開いているふすまからのぞいた。きんは笑いながら手真似てまねで、客間に蒲団ふとんを敷くように云いつけた。紙の焼ける匂いを消す為に、きんは薄く切ったチーズの一切れを火にくべた。「わア、何焼いてるの」厠から戻って来た田部が女中の豊かな肩に手をかけて襖からのぞき込んだ。「チーズを焼いて食べたらどンな味かと思って、火箸でつまんだら火におっことしちまったのよ」白い煙の中に、まっすぐな黒い煙がすっと立ちのぼっている。電気の円い硝子笠ガラスがさが、雲の中に浮いた月のように見えた。あぶらの焼ける匂いが鼻につく。きんは、煙にむせて、四囲の障子や襖を荒々しくけてまわった。

底本:「林芙美子傑作集(一)」新潮文庫、新潮社

   1951(昭和26)年715日発行

   1969(昭和44)年35日第32刷改版

   1969(昭和44)年1030日第33

初出:「別冊文藝春秋」文藝春秋

   1948(昭和23)年11

入力:金子南

校正:中島瑠香

2019年1124日作成

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