漁師の娘
徳冨蘆花
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常陸の国霞が浦の南に、浮島と云って、周囲三里の細長い島がある。
二百あまりの家と云う家はずらり西側に並んで、向う岸との間は先ず隅田川位、おおいと呼べば応と答えて渡守が舟を出す位だが、東側は唯もう山と畠で持切って、それから向うへは波の上一里半、麻生天王崎の大松も、女扇の絵に画く子日の松位にしか見えない。
此の浮島の東北の隅の葭蘆茫々と茂った真中に、たった一軒、古くから立って居る小屋がある。此れは漁師の万作が住家だ。夏から冬にかけては、人身よりも高い蘆が茂りに茂って、何処に家があるとも分らぬが、此あたりを通って居ると、蘆の中から突然に家鴨の声が聞えたり、赤黒い網がぬっと頭を出して居たり、または、一条の青烟の悠々と空に消えて行くのを見ることがある。併し其れよりも著しいしるしがある。其は此の蘆の中から湧いて来る歌の声──万作の娘お光が歌う歌であった。
「浮島名物、一に大根、二に鮒鰻、三にお光の歌……」などとよく島の若い者が歌う位、実にお光の歌と云ったら此のあたりに知らぬ者はない。秋の夕日が西に入って、紺色になった馬掛の𡽶から水鳥が二羽三羽すうと金色の空を筑波の方へ飛んで、高浜麻生潮来の方角が一帯に薄紫になって、十六島の空に片破れ月がしょんぼりと出て、浮島の黄ろく枯れた蘆の根もとに紅色の水ゆらゆらと流るる時分、空より湧いて清い一と声、秋の夕の森とした空気を破って、断続の音波が忽ち高く忽ち低く蘆の一葉一葉を震わして、次第次第に霞が浦の水の上に響いて行く時は、わかさぎを漁して戻る島の荒し男も身震いして橈をとどめた。実に此の歌こそは浮島の名物であった。
ああ、しかしながら其の歌は最早聞かれない。万作が小屋は今も浮島の蘆の中に立って居る。併し最早其の歌は聞かれない。日の入るまで立ち尽しても、最早其の歌は聞かれない。
十四五年も前の事だ、白髪だらけの正直万作、其頃はまだ隻手で櫓柄あげおろす五十男で、漁もすれば作も少しはする。稼ぐに追付く貧乏もないが、貧乏は唯子のないのが是れ一つ。若い内は左もなけれど、五十の坂目かけては、是れほど心配はないもので、夫婦寝ざめにも此事を語り合い、朝夕筑波さまを拝んで居た。或日万作潮来へ網糸買いに往って、晩く帰って来たが、「それ土産だ」と懐から取出したのを見ると、当歳の美しい女の子だ。「どうしたんべい、此の孩児は」。「此れか、此れか、此れは……婆、筑波さまに御礼申しや」
万作夫婦、夜は二人がからだを屏風にして隙もる風にもあてぬ。乳がないので、毎日粥を作って粥汁をのませる。歯が生え出すと、鯉鮒の肉をむしって、かけかかった歯に噛んでくくめる。「這えば立て、立てば歩めと親ごころ、吾身につもる老を忘れて」。万作夫婦老を忘れてお光を愛する。這う。立つ。歩む。独りで箸を持つ。それはそれは愛らしい。だがどうも変だ。万一唖じゃあるまいかと万作夫婦心配した位、口をきかない。其のかわりようく物を見る、ようく聴いて居る。極小さい時分から自在にかけた薬缶の湯気の立のぼるを不思議そうに見送る。蝶々の飛ぶのを不思議そうに眺める。花でも草でも摘んでやれば、唯もう何時までも見とれて居る。風、雨、鳥の音、何でも耳引立てて真から聞き惚れる。大きくなって舟に乗せると、不思議そうに山を見水を見て居たが、頓て楓のような手に水を掬ってはこぼし掬ってはこぼして、少しも恐れる様子がない。或時万作が何処から買って来たか、ガラスの球に金魚を入れたのをやると、お光は見て居たが、やがて汀に持ち出して水ながら湖にうつして仕舞って、洋々として泳いで行く金魚の影を見送って、手をたたいた。鳥を非常に愛して、よく諸鳥の鳴声を覚えて、雀や鴉を見ると、お光は直ぐ両手を羽の様にひろげて、舞う真似をする。水鳥の蘆辺を立って、遥に筑波の方に飛んで行くを見送っては、半時も一時間も、見えなくなっても、猶空を眺めて居る。
三つ四つの頃から、お光は口をきかぬかわり、よく歌った。如何にも清い、銀鈴の様な声をもって居る。内に居ても、外に居ても、遊んでも、必ず何か歌って居る。誰が教えたと云うでもなく、独りで歌う。其歌と云ったら、意味のある様なないようなものだが、如何にも美しい声で節面白う歌うので、聞く者は皆含笑む。また如何にも奇妙な言をいう。「おっかあ、あたい蝶々になりたいねえ。まんまたべないで、花を吸って飛んであるきたいよう」。「とっちゃん、あのけむけむはどうして上って行くの、天に行くの、あたいも行きたいねえ、よう、あたいをけむけむにしてよう」。また或冬万作が黐網で鴨をとって来て毛をひくのを見て、「あらとっちゃん、とっとの衣服をとってしまうの。とっとが寒い寒いって泣くわ」。また或時万作が鯉を漁って来て料理するのを見て居たが、其右の手にすがって「あらとっちゃん、いやいやあたいもうお魚たべるのはいや」。そして其可愛らしい手で鯉の鰭から流れる血汐を拭って、其落ちた鱗を一枚一枚はめにかかった。万作夫婦は日々に生いたつお光に慰められて、蝶花と愛しみながら、「妙な子だのう」「妙な子だよ」斯く語り合った。
文化の沢は此の島村にも及んで、粗末ながら小学校の設けがある。お光八つにもなると路が遠いに伴もないからよせと父母の拒むも聞かないで、往来一里の路を日々弁当さげて通う。何処の誰の血を承けたか、口数はきかないが学才すぐれて、暫の間に村長の子と威張る十一二の小供までも追い越して級第一の位を占めた。先生は可愛がる。嫉妬が起る。女連は同盟して、お光を法外にする。男児連は往来毎にお光を窘める。併しお光は避け隠れして取り合わぬ。其の内誰かお光坊は拾いっ子だ、捨てっ子だ、といい出して、果はみんなが拾っ子やあいやあい、と囃し立てる。其の夕お光は家に帰るといきなり、母に向い「母ちゃん、あたいは拾いっ児? え、捨っ児?」。母はぎょっとしたが取り直し「あに、拾いっ児なもんか。嘘よっ」
明夕お光はまた帰って来るとすぐ「母ちゃんあたい拾いっ児なの、え、拾いっ児」。「あに」と言いは言ったものの、其れから毎晩毎晩思い込んでせきかけせきかけお光が問うので、母も外で漏れては内で塞いでも詮ないとでも思ったか、或夜お光を膝にかき抱きて、涙ながらに話し聞かした。即ちお光は七年前、木がらしの恐ろしく寒い夜、潮来と牛堀の間の蘆の中に棄てられて、息も切れる程啼いて居たのを、万作が拾い上げて来たので、何のしるしもなかったから、生の父母は誰か何人か一切分らぬ。七年の間夢にもそれと、知ったでもないから、今は全く此家の女だ、と云う事をこまごまと話した。お光は黙然として聞いて居たが、聞き終って涙ぐんで俯むいてしまった。其の顔をのぞき込んで「光よ。おいらは最早段々年寄って来た。是れから力にするは手前ばかりぞよ」と云うと、お光はほろほろ涙こぼしていきなり婆の頸にかじりついた。
それから、最早如何様に言っても学校には行かない。始終家で遊んで居る。一度「おっかあ、捨児ってどうするの」と聞いたが、母が心を傷むる様子を見てからは、もう何も聞かぬ。真の父母のありやなしや、更に聞かぬ。併し口にこそ言わぬが、其小さい心に一点の暗愁立ち去らぬ霧の如く淀んで居るのは、余所目にも見られる。可愛想にまだ八つ七つのお光は始終捨児真の父母など云うことを、思うともなく思って、独り解かれぬ疑問に心を苦しめて居る。之を知る者は只天道様ばかりだ。
万作が住家は前にも言った通り浮島の東北の隅の一軒家で、眺望にかけては恐らく浮島第一の風景を控えて居る。
後は畑からすぐ山つづき、左と右は唯もう茫々たる葭葦の何段ともなく生い茂って居て、前の方ばかり少し開けて居る。此の開けて居る間から溶々として家の戸口まで這入って来るのが霞が浦で、此の開けて居る間を横一文字に遥に限って居るのが筑波の連山だ。家の前には水の中に杭打って板をわたし、霜の朝に顔洗うも、米洗い、洗濯、あと仕舞い、または夕立に網あらい、ただしは月の夕に泥鍬を洗うのも、皆此処だ。水の中には何時も茶碗のかけ飯粒菜葉などが落っこちて小魚や水馬が群って居る。すぐ向うの杭には、常に一艘の小舟が筑波とすれすれに繋がれて、其のあたりには家鴨が始終ぽちゃぽちゃやって居る。其の向うには、鰻や鮒を入れた大きな魚籃が半分水に浸って、もう其の向うは乱れ葦の縦横に生い茂って、雲つく程伸びたのもあれば、半からぽっきと折れたのもあり、葉が浮くやら、根が沈むやら、影が水に映って、水が影を揺かして、影か形か、形か影か、深いか浅いか、一切分らない。右の方は物干竿が立って其の向うの蘆の少し開けた処に大きな柳の古株があって、此処に腰かけると霞が浦は一眼だ。それ水鳥が飛ぶ、白帆が走る、雲が出て筑波が潜む、魚がはねて水に環を画く。いやもう言われぬ。
此の絶景を占領して居る万作が家は主人だけ無風流だ。歌に詠んでこそ海人が家だが、内はしきりもない一間に炉を切って、煤だらけな自在をかけ、其処らじゅう漁の道具何かで一ぱいだ。家の後は壁一重にすぐ鶏や鶩の小屋があって、朝夕は中々かしましい。東が白むと万作一家三人直と起きて、霞が浦の水掬いあげて顔を洗って、日輪さまを拝んで、それから鳥屋を明けて鶩を出してやるのがお光の役で、万作は時節相応鯉鮒鰻などの釣に出掛けることもあれば、網曳に雇われて行くこともあり、時々はまた鴨を猟りに行くこともあり、さもなければ裏の畑に麦蒔き大根作ることもある。薪取り草取り縫針飯炊は婆の役で、お光は時々爺と一処に、舟に乗って行くこともあれば、ひとり勝手に遊ぶこともある。夜は万作は大概寝酒に酔ってしまい、さもない時は草履を作ったり簑を織ったり、母は薄暗い行燈のかげでつづれをさしたり、網の繕をしたりすると、お光は学校已めて後も矢張手習読書をせっせと勉強する。誰が心をつけるのであろう?
お光の身体は万作夫婦の手で育ったが、お光の心を育て上げたものは筑波と霞が浦だ。山は天気予報、水は魚類の動静を見る外には、霞が浦が如何あろうと筑波がこうあろうと頓着もない万作が眼には何も見えぬが、お光の眼には、四季刻々うつりかわる景色が如何様に面白く珍らしく見えたであろう! 背戸の柳緑の糸をかけそめて枯葦の間からぽつぽつ薄紫の芽がふく頃となれば、それ「雪は申さず先ず紫の筑波山」霞ゆえに遠くなって名詮自称霞が浦は一面春霞だ。其の間に此処に一つ、彼処に二つ、掌に載る程の白帆が走るともなく霞の奥にかくれ行く其の景色は、如何様にゆかしくお光の心に覚えたであろう。それ夏が来る。四面は只もう真青の葦だ、葦だ、葦だ。世間の風と云う風は一つになって此処に吹くと云う位。それ夕立だ。筑波の頭から空を劈いて湖に落込む電ぴかりぴかりと二筋三すじ、雷が鳴る、真黒の雲見る見る湖の天に散って、波吹き立つる冷たい風一陣、戸口の蘆のそよと言い切らぬ内に、麻生の方からざあと降り出した白雨横さまに湖の面を走って、漕ぎぬけようとあせる釣舟の二艘三ばい瞬く間に引包むかと見るが内に、驚き騒ぐ家鴨の一群を声諸共に掻き消して、つい鼻先の柳の樹をさっと一刷毛薄墨にぼかしてしまう。晴るる、暮れる、真黒い森の背ぽうっと東雲に上る夕月、風なきに散る白銀の雫ほたほた。闇は墨画の蘆に水、ちらりちらりほの見えて、其処らじゅう蛍ぐさい。お光の心は如何様に涼しく感じたであろう。秋になる。万頃の蘆一斉にそよいで秋風の辞を歌う。蘆の花が咲く。雁が鳴く。時雨が降る。蘆は次第に枯れそめる。やがて限りなき蘆の一葉一葉に朝霜白く置いて、磨ぎ澄ました霞が浦の鏡一面、大空につく息白く立ち上る頃は、遠かった筑波も毛穴の見える位近々と歩み寄って、夕日の頃は、其の下に当る相見崎観音の石段の数も殆どよまれる。お光の心はどんなに此の清い景色を吸い込んだであろう。冬が来る。景色は寂びれ行く。鴨の羽音冴えかえって胸にこたえる。それに雪が降り出すと、空と湖と一かたまりになって、筑波処か、すぐ先も見えぬ位、ちらちらちらちら降って降って降りしきり、櫓の音もしなければ、鳥の声もせず、唯時々つもる雪の重みに枯葦のぽきぽき折れる音ばかりだ。此様な時には、お光の心は如何様に淋しくあわれに感じたであろう。
学校に行かなくなってからなおなお世間に遠かって、捨児と聞いてから万作夫婦の愛は昔にかわらぬが何となく心に欠陥があるらしく、何か始終思い沈んで居る。それを聊か慰むるは歌と筑波山だ。お光は言わぬさきに先ず歌ったと云っても宜い位だ。何を歌うのか。よく此島で歌う俚歌ではない。文句は薩張分らぬが、如何にも深い思いがあるらしく、誰かをさして訴うるらしく、銀の様な声をあげては延ばし、延ばしては収め、誰教うるともない節奏自然妙に入って、吾ながら吾声に聞きほれて、とんと夫れで自ら慰めて居る様だ。仕事をするにも歌う。遊ぶにも歌う。内に居ても外でも歌う。が、其の最も好む所は、夕焼の美しい時分、家の前の柳の古株に腰かけて、遥に筑波の方を眺めながら歌うのだ。筑波山は幼い時からお光の友であった。其の筈だ、朝起きて顔を洗って眼をあげると、にっこり笑って、とんと「お光坊、おはよう」といわんばかりに此方を向いて居るのは筑波山だ。夕方飯をしまってまた柳の古株に来て眺めると、とんと「お光坊おやすみ、あすもね」といわぬばかり、此方を向いて居る。何処へ往っても、眼をあげさえすれば、筑波は始終此方を向いて居る。時々は蘆のかげに「居ない居ない」をするが、少しでも隙があれば「ばあ、お光坊、此処に居たよ」と云わぬばかりに顔を出す。斯様に小供の時から始終見馴れて居るので、お光の心には筑波が生きて居るように思われて、幼い時から筑波を見ては「あらお山が紫の着物着た。そら浅葱の着物着た。あら白い衣物着た。あれ幕の中に入ってしまった」などという。冬になって骨あらわに瘠せて見えると「あらお山が寒そうな」という。雪げに見えなくなると、お光は終日悵然として居る。年とる程親みが深うなって、見れば見る程山はいよいよいきて見える。心に悲しい思があって、柳の根株に腰かけてつくづくと眺めて居ると、お光の眼には山が段々近うなって、微笑んで小手招ぎするように思われる。「お光坊何を案じて居るの。何を考えて居るの。真正のお父さんお母さんに逢いたいの。何が悲しいの。お泣きでないよ、わたしたちが見て居るよ」といい顔にじっと此方を眺めて居る。見れば見るほど、嬉しく、悲しく、恋しく、なつかしく、霞が浦の水の面をさらさらと走ってお山に抱きつきたいとお光は思って、飛ぶ鳥の翼を羨んで居ると、「お案じでないよ、今にね、わたし達の傍に来られる、それまでは辛抱して御出で」と慰め顔に此方を眺める。眺め眺めて日は入って、恋しい思の筑波も黄昏の奥に入ってしまっても、猶立たないで「お光ちょう、日がくれたに何をしてるよう。よう、早う来う」とかしましく呼ぶ養母の声が聞ゆるまでは眺め入って居る。実にお光の眼には、男体女体二つ並んで水と空の間にゆったりと立った筑波が、宛らに人のようで、またさらに二親のように思われて、其のゆったりとしてやさしく大きく気高く清い姿がなつかしくてなつかしくて、其の前に歌う時は、恰ど父母の膝に突伏して、余所での悲しさを思い入れ泣くような心地がして、歌って果は泣いて、それが為に心は慰められた。
霞が浦の秋幾たびか立ちかえって、漁師の娘お光十四の春を迎えた。木綿縞の古布子垢づいて、髪は打かぶって居るが、生の父母の縹緻も思われて、名に背かず磨かずも光るほどの美しさ。色雪を欺いて、乱れて居れど髪つややかに、紅梅の唇愛らしく、眉細くして、第一眼は玉とも露とも秋の水とも譬えかたなく澄んで美しい。それに少しも引きつくろう容子もなく、何時も袖なしの着物で古手拭打かぶって、洗濯をしたり、飯を焚いたり、時々は爺と一所に漁に出かけたり、それに櫓も小腕に似合ぬほど達者に漕ぐ。が、天の生せる麗質で、爺と潮来に行った時、女郎屋の亭主お光を見て「これは大したものだ、三百両の代物だ」と云ったこともあった。島の若者どもが時々其の姿を見てちやほやするが、お光は頓と気もつかぬらしい。
秋も次第に老けて、猟の好時節となった。或日お光は背戸に大根を乾して居ると「お光ちょう、お光ちょう」と母の声がするので、庭の方に出て見ると、洋服出立で鉄砲をもった若い男三四人、それに兎だの鴨だの一ぱい入れた網嚢を舁いだ男が一人──此れは島の者だ──どやどや騒いで立って居る。「お光ちょう、爺が居ねえからお客さま方を牛堀までお伴して来う」と母が云った。此れは東京あたりの猟組で、後の山を越えて来たので、渡を頼むのだと思われる。手ばしこく船を用意して、薄べり敷いて客をのせ、すぐ漕ぎ出す。客の一人が旅は遠慮もなく、一人のコートの裾を牽き、お光を顋で指し「中々美人だねえ、此処らにゃ惜しいもんじゃないか」と云う。網を担いで居た男が、ほほと笑って、「お光坊、旦那方が賞めらっしゃるだに、一つ歌って御聞かせ申さねえかい、のうお光坊」。客の一人「歌が上手なのかね」。「上手って、此処ら一の名人でさあ。浮島名物と云うんでさあ」。「ほう、そいつは妙だ。おい、みいちゃん、何ぞ歌って聞かせぬかい」。「其様だ其様だ、此いつは土産だ。一つ聞きたいな」などと囂しく言うのを聞かぬ風で一同に顔見られるのを五月蠅そうにお光は顔をそむけて漕ぎながら、時々見るともなく眼を側てて見ると、たちまち眼についた者がある。何様此れは一行の主とでもいいそうな、たしかに華族の若殿様だ。年頃は二十四五、眉濃く眼きりりとした色白の美男子だ。浅葱天鵞絨の鳥打帽子を被って、卵色薄羅紗の猟装束を着て、弾帯をきりりとしめて、薄皮の行膝をはめて、胡坐をかきながら、パイプを軽くつまんでマニラを吹いて居る。うっかり見とれて居ると、其の殿様がふっと此方を向いたので、お光は狼狽えて此方へ向いて俯向いて櫓を押す拍子に、水に映った乱髪の姿が見えたので、さっと顔を赤めた。影も顔を赤めた。ふっと気づいて、片手は櫓を押しながら、片手は鬢をなでた。客はがやがや騒いで居る。吾事ではあるまいかと耳を傾けて見ると、何左様でもないが、何か胸騒ぎがして人に聞えはしまいかと思うように動悸がうつ。兎角して牛堀について、一行はどやどや上って行った。「美人御苦労だったね、此れは少しだが簪でも買いなさい」と、一人が紙に幾干か捻って渡したのを受取ったまま、お光は何か本意なさそうに跡見送って、ほっと溜息ついて、頓て棹を返そうとすると、舟の中に白いものが落ちて居る。拾って見れば、白絹のハンケチで、縁を紫で縫ったものだ。お光は何思ったかそっと頬を摩でて見て、懐にしまった。
「婆、光あどうしたんだんべい、変だのう」此れは右の事があって十四五日してから万作が嚊に話した言葉だ。何さま変だ。昔から妙な児であったが、近来は殊に変だ。何時となく歌も歌わなくなった。山も眺めなくなった。仕事はする。が、気が入らぬようす。始終溜息ばかりついて居る。それに今迄と違って、髪も気にする。水鏡も見る。両親に対しては前よりも一入言わぬ。何処をあてともなく茫然として溜息をつく。好人の万作も年寄っては愚痴っぽく、また邪気もちっとは出るかして、お光の阿魔め実の親が恋しいので己等を疎略にするのじゃあるめえかと思ったと見え、時々は今迄になく叱ったりすることもあるが、お光は唯黙って聴いて、一言もあらそわぬので、万作の方から気の毒になってやめて仕舞う。「光にかぎって其様な事はありゃしねえよ」。是は婆が万作を宥める言だ。
左右する内、二三ヶ月たって、お光十五の二月となった。お光は爺と舟に乗って加藤洲に行って、それから潮来に寄って、用を達して帰りかかって居ると、隣に人待顔に立派な毛氈敷いて烟草盆茶盆まで揃えた舟があって、頓て一人の男が鉄砲三四挺一所にかついでやって来たが、其跡からどやどや人の跫音して、男女づれが大勢やって来た。舟の方へ下りて来ると芬と酒の臭がして、真先に女しかも女郎の肩に手をかけてぐでんぐでんに酔って、赤い眼をとろとろさせて、千鳥足に下りて来るのを見ると、此は驚いた、去年の秋の頃吾舟に乗せたことのある、あの美男子の若殿様だ。其若殿様が正体なく酔って、舟にのるといきなり大の字に倒れてしまったので、お光ははっと驚いて、如何にも不思議相に、それから哀しそうに、無念そうに眺めて居たが、爺に催促して、跡の騒ぎや女郎などの「どうぞまたおほほほほほ」など蓮葉ないやらしい笑声を聞き捨てて、舟を出してしまった。「何だよ光、何をすてる? 其の白いものあ。うん、ハンケチか。何する」お光は答えない。黙ってしまった。
其日帰ってから幾月ぶり思い出したようにお光の歌うのをきいて、万作は「のう媼。お光ちょうは変な児だのう、久しゅう歌わねえからどうしたんべいと思ったら、ひょっくら歌い出したのう」と言った。成程お光は久し振りに歌い出して、また久しぶりに柳の根株に腰をかけた。そして久しぶりに筑波の方を眺めた。すると筑波は「久しゅう逢わなんだねえ光ちゃん。何様したんだえ。よう帰ってお出でだ」と云いそうに依然ゆったりとして気高く清く眺められた。
お光は今迄にもまして人中に出るを厭がり、男などが戯言云いかけても、ふいと側を向いてしまう。其のかわり両親には今迄にもまして孝行をする。口数はきかないが、それはそれは細に心をつける。生の親の事は忘れたのであろうか。否々万作夫婦の前では左もないが、独居る時は、深く深く思案に沈むことがある。其時は直ぐ歌う。如何にも悲しそうに歌う。歌うと泣く、泣くと直ぐ柳の根株に行って筑波を眺める。ややしばし眺める。筑波は常にお光の心を慰めた。
万作夫婦も今は六十の上越して、段々体は不自由になって来るし、わけて万作は此頃僂麻質斯で右の腕をいためて時々は久しく仕事を休むこともあり、それに不漁が続くやら網を破くやらで活計も段々困難になって来るので、果ては今迄になく大酒をのみ出して、酔っては罪もないお光を叱り飛ばすこともある。が、お光は一言もあらそわぬ。やっと十五になるかならぬの小腕で、鰻をとったり、網を張ったり、せっせと働いて居る。其上夜も少し暇さえあると、先生に書いて貰った手本を出して、習字をする。万作も時々は叱りとばすものの、斯うやさしくせられては、めそめそ泣き出してお光を抱きしめ、お光も万作にすがりつきて、何とはなしに親子差向いて泣くこともある。
其の内万作は僂麻質斯が段々こうじて、果は床につくようになる。生計はますます困って来る。八月の中旬となった。或日万作が識人で同じ島の勘太郎という男が尋ねて来て、斯ういう話をした。其れは潮来一の豪家の子息某、何時かお光を見染め、是非妾にしたい、就いては支度金として五十円、外に万作夫婦には月々十円と網一具やろうとの話だ。万作は一々頷き勘太郎を返して、直ぐお光を呼んで斯々と話して見ると、お光は情なさそうにじっと爺の顔を見つめて居たが、頭を掉って外へ出てしまった。万作は腹を立てる。勘太郎は三日にあげず来て催促する。婆は中に居て万作には「無情い事をしなさんな」と諫める。お光には「爺もああではなかったが、のうお光ちょう、あの年でのうお光ちょう、それにあの病気でのう、お光ちょう、気にかけなさんなよ、のうお光ちょう」と慰める。お光は人の見る所でこそ泣きもせぬが、少し暇さえあればすぐ柳の根株に行って、小声に歌いながら、天外遥に筑波の双峯を眺めて思いに沈む。
其の内九月となった。月のはじめから暑いような寒いようないやな天気であったが、日を逐うて空の模様怪しゅうなって、月の中旬に入ると、それはそれは天の戸一時に破れたかと思うばかり大雨大風となって、それからというものは、毎日毎日降り明し降りくらし、降って降って降りぬく程降りつづける。「湖の水まさりけり五月雨」で、諸処方々の水はどんどん霞が浦に流れ込む。霞が浦の水は段々南に押し出して来る。浮島は其の正面に当るから、どうもたまらぬ。水は万作が家の戸口を越した。やがて床につかえる。樽を並べて戸板を敷いて居ても、もう其の内水はどんどん押して来て、家の内では堪え切れぬ。万作も少しは塩梅も宜いから、強めて起きて、親子三人大骨折して後の山にようよう雨露を凌ぐばかりの仮小屋を建てて其処に住んだ。斯様からだをつかったせいか、其晩から万作が腕は非常に痛み出して、少し熱さえ出て渇を覚ゆると見え、頻りに焼酎が飲みたい飲みたいとくりかえしていう。譫言のようにいう。焼酎! 此水に焼酎! 島には到底ない。一里半の水を押切って麻生まで行かなければない。お光は藁の上に坐って、爺の腕を静に摩りながら、熱に浮かされて赤みばしった爺の眼を見、其の白髪頭から其の皺だらけの額から大粒の汗の湧くを見、其の唇のいらいら乾くを見て居たが、そっと腕を置いて、そこにあった一升徳利をとって、外へ出た。
雨は已んで、空は星だらけだ。月も出て居る。下の方を見ると、吾家も半水に浸って、繋いだ舟は背戸の柳の幹の半に浮いて居る。手を翳して向うを見ると、水漫々として飛ぶ鳥の影もなく、濁浪渦まいて流れ行くのが月下に見える。麻生の方は眼に見えぬほど沈んで、大海を隔てたようだ。遥に北の方を眺むれば、常見る霞が浦俄に浮き上ったように、水淼々として遥に天腹を浸し、見ゆる限りの陸影皆小く沈んで、唯遥に筑波山の月影に青く見えるばかりだ。更に南の方を見ると、北利根、横利根、新利根の水一処に落ち合って、十六島は何処に行ったか影も見えぬ。唯水勢浩々渺々として凄じく南の方に押して行くのが荒海のように聞える。
「婆さん、お光あ何してる」。「ほんに、お光あ何してるだんべい」、飯焚いて居た媼はふっと気づいて其まま声を立て「お光ちょうお光ちょう」と呼んだが返事がない。仮屋のむしろ戸明けて半分頸を出し見まわしながら「お光ちょうお光ちょう」と叫んで見ても返事がない。俄に狼狽えて走り出で下を見まわすと、繋いであった舟の影もない。若しやと思って伸びあがって手をかざし、月の光にすかして見ると、成程一艘の小舟が荒波を押切って麻生の方へ向って居る。耳をすますとごうごう鳴りどよむ水音の間々にかすかに櫓の音が聞える。「爺さんお光が──お光ちょう、お光ちょうい」のび上って叫べば、万作もころげ出でて木にすがり泣声あげて「お光ちょうい、おー光ちょうい」と叫んで見ても、舟は次第次第に陸を離れて、果は櫓の音も聞えぬ。「お光ちょうい。内のお光ちょうい」。老夫婦が力の限り根限り叫ぶ声は徒に空明に散ってしまって、あとはただ淼々たる霞が浦の水渦まいて流れるばかり。
大水は久しく湛えて終に落ちた。万作夫婦も仮小屋を出て、水余の家に帰った。併しお光は帰って来ない。帰らぬ、帰らぬ、今日までもまだ帰らぬ。万作夫婦は朝夕涙に暮れて、茶断塩断して、いつもお光が腰かけた柳の根株にしめなわかけて筑波さまあらぶる神さまに願をかけても、一向に帰って来ぬ。帰って来たのは、唯万作が見覚えある徳利の如何して流れついたか浮島の南端に流れよったばかりだ。
島の者は色々に評議を凝らした。大方は舟が覆えったのだと云う説であったが、中には何処かへ流れついて其のまま帰って来ないのだろうと云う者もあった。尤も此れは其の後の話だが、島の次郎八と云う漁師が、或朧月の夜晩くわかさぎを漁して帰る時、幽かに聞いた歌の声が、全くお光の声の様で、耳を澄して聞くといよいよ夫れに違いない様だから、次郎八は声をしるべに舟を漕いで行くと、何処まで行っても茫々とした朧月夜の湖で、人の影もない。よくよく聞くと、其歌う声が水の底にあるようでもあり、空にあるようでもあって、稍久しく迷って居たが、終に思い切って舟を返すと、其の歌の声は遠くなり近くなり、久しい間幽かに響いて居たと云うことであった。併し其れは水鳥の声だと云う者もあった。
苦調凄金石、 清音入杳冥、 くちょうきんせきよりもすさまじく せいおんようめいにいる
蒼梧来怨慕、 白芷動芳馨、 そうごはえんぼをいたし はくしはほうけいをうごかす
流水伝湘浦、 悲風通洞庭、 りゅうすいしょうほにつたわり ひふうどうていにつうず
曲終人不見、 江上数峰青、 きょくおわりてひとみえず こうじょうすうほうあおし
底本:「梅一輪・湘南雑筆(抄)徳冨蘆花作品集 吉田正信編」講談社文芸文庫、講談社
2008(平成20)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「蘆花全集 第三卷」蘆花全集刊行會
1929(昭和4)年2月1日発行
初出:「家庭雑誌」
1897(明治30)年1月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※本文末の漢詩の訓読は底本の親本にはありませんので、編者吉田正信氏によるとおもわれます。
入力:hitsuji
校正:きりんの手紙
2019年11月24日作成
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