火の点いた煙草
一名──煙草蒐集家の奇禍
横光利一



 彼は恋愛を軽蔑した。彼は煙草を愛した。それ故彼は、愛の話を始められると、横を向いて彼の愛するモン・レツポを燻らせた。煙りの中から、恋愛の生れたためしは滅多にない。さうして、彼と彼女との恋愛も、たうとう一服の煙草のやうに楽しげに消えて了つた。

「さやうなら。」

「さやうなら。」

 後には、彼の煙りだけが一場の事件を煙りとして、気軽にふはふは立ち昇つただけである。──モン・レツポ、ダ・カツポ──

 さう云ふ或る日、彼は突然、彼女に代つて来たかのやうな、見知らぬ薄桃色の匂やかな一通の手紙を山国から受けとつた。中には、ただ彼に逢ひたいと傍目も振らずに書いてあつただけである。

「ふむ、これも桃色だ。」彼はそのまま、まるで黒色の封筒でも捜すやうに、旅に出ていつた。

 一ヶ月ほどして、彼がぶらりと帰つて来ると、また薄桃色は緑になつて、八通ほど机の上にたまつてゐた。

「しかし、これは、まことに華やかだ。」

 彼は色紙細工の家を建てるつもりで、机の上へ封筒を並べてから、一つづつ封を切つた。

 しかし、彼は読み行く中に、いつのまにかモン・レツポに火の消えてゐるのを忘れてゐた。

 一体此の女性はどうしたと云ふのだらう。前後八通の手紙に対して、一通の返事さへ与へない冷淡な男に、何ぜこれほどの怒りもなく、綿々として淑やかな手紙が書き得るのか。彼は俄に、自分の傲慢さに一鞭あてて煙草を吸つた。

 それにしても此の女性は、その文面に現れた淑やかさと、これはまた全然別に、いつまでも見知らぬ男に手紙を書き続ける大胆不敵な能力とを持ち合せてゐる所から押して見ると、その桃色の封筒は、あながちただの桃色ではなく、何か意想外の火の車でも吐き出して来さうに思はれてならなかつた。──モン・レツポ、ダ・カツポ──

 と、不意に八通目の緑色の封筒の中から、彼女が上京して来たと云ふ文面が飛び出て来た。

「これは早いスピードだ。もう始つてゐるではないか。よし、ではひとつ、逢つて煙草の煙りで燻べてみよう。」

 彼は直ぐ、煙草を下に置くと、

「お出下さるならば、」と冒頭を書き出した。

 彼は彼女を汚い女性だとは思へなかつた。もしも彼女が美しくないならば、かやうに度々、大胆不敵な桃色の封筒を、出し得る筈がなかつたからである。彼は女の美しさを防ぐやうに、愛する数々の煙草の箱を身近かに寄せて眺め出した。Russensorte, Mikruli, Mon Repos, Melachrino


 その翌日、彼は彼女から電話を受けた。明日の正午に来ると云ふ。彼は電話室から出て来ると立ち停つた。彼は彼女から貰つた八通の手紙を、一時に頭の中で咲かしてみた。──彼女は此の都会で学生生活をした筈だ。彼女は彼の書き物を八年間読み通して来たと云ふ。してみると、彼は八年の間、無意識に彼女を自分の個性の中へどこかで近かよせてゐたのにちがひない。それなら、一体自分の感覚と知覚が、どの程度にまで彼女の中を泳いでゐるか。彼はそれを思ふと明日の正午が待たれてならなかつた。──だが、此の煙草の味は── Yaka, Bouquets, Delight


 翌日の正午、彼は下宿の女中に呼ばれて玄関へ出ていつた。すると、彼女は大扉の前に、すらりと下つた藤のやうに立つてゐた。──貴品がある。紫だ。──

「ヤア、」

 が、彼女は彼のいつもの初対面に出す苦い顔の癖に叩かれて顔をひき締めた。

「どうぞ。」と彼は云つた。

「あの、私、もうここで失礼させていたゞきます。」

 何を馬鹿な。彼は黙つて急に彼女に背を向けると、ひとりどしどしと引き返した。が、彼女は彼について上らなかつた。彼は顔を顰めたまま振り返つた。

「いらつしやい。」

 彼女は彼の方へ上つて来た。

 二人は庭に向つた座敷で庭を向いて坐つたが、話題がどちらにも何もなかつた。彼は別れた女を燻べたやうに、また鼻の穴から強い煙草の煙りばかりを噴き出した。── Le kama, Perlas, High Life, Pothschilde, El Siglo, Mikruli.

「いま、あなたは寄宿舎ですね?」

「ええ。」

「あなたは煙草はお嫌ひでせう?」

「ええ、私、ちつとも吸へないのでございます。」

「ぢや、寄宿舎にいらつしやつても、お困りにならなくつていいですね。」

「ええ。」

「僕はこれが何より好きでして、」

「まア、」

 言葉より眼の方が早く動く顔である。彼に見られると、彼女は周章てて俯向いた。年の割りに人を見詰める賤しさがない。どこか広々とした屋敷の中で人に逢はず、勝手にひとり日の暮れるまで自由に遊び暮した娘である。表情に微笑の習練がたりないだけ、動かぬ顔は光つてゐた。その眼の美しさと口の線は殆んど修正の仕方はなく、動けば笑顔の中から過去の苦痛ばかりが現れて来る顔だ。──エル・ドミニオ、ラ・カルマ、──

「お父さんは、良くあなたひとりお出しになりますね。」

「ええ、もう父は、私の云ふことをなんでも聞いてくれますの。」

 なるほど、と彼は思つた。その父の限りない愛情の中から、彼女の苦痛の原因が生れて来てゐるのに相違なかつた。その彼女の全身につきまとうた富貴の柔かな悲しみには、心の対象を制限せられた快楽はどこにもない。──

 彼はときどき彼女の美しさに見惚れてゐた。動かなければ、確に彼女は満点だ。しかし、彼女の美しさに手を延ばしたい気は不思議に心の底から起らなかつた。彼は彼女に逢つて、初めて神が人々に醜さを与へた深い心意のほどがのみ込めた。

 三日たつたとき、彼は彼女から逢つて以来初めての手紙を受けとつた。

「お淋しい方、と、私は思ひました。恐い方でもございました。でも、私は此の次の日曜の来るのが楽しみになりました。どうぞ、もう一度、此の私に逢つてやつて下さいませ。空の色が、まアどうしてこんなに明るく見えるのでございませう。日毎日毎を尼さまのやうに暮して居りました私でございますのに。私はあなたさまに、こんなことを申し上げていいのでせうか。どうぞお赦下さいませ。」

 彼は読み終つても返事を書く気は起らなかつた。もし返事を書いて、その返事にまた返事が来れば、結局危険な淵を覗き込む破目になりさうに思はれたからである。

「愛、か。もう、こいつだけは御免かうむる。」と彼は呟いた。

 ダ・カツポ、ラ・カマ、ラ・ルビヤ。


 彼は次の日、そのまま旅に出ていつた。彼が旅から帰つて来ると、また彼女から一通の手紙が届いてゐた。

「どうしていらつしやるのでございませう。早くお逢ひしたうございます。私は淋しうございますので、今日は朝から教会へ行つてまゐりました。帰りましても、あちらの窓やこちらの窓から外を眺めながら、昨夜見ましたあなたさまのお夢ばかりを考へてをりました。どうぞ、もう一度、お逢ひなすつて下さいませ。」

 危い、と彼は思つた。またうんうん云つて、あの重たい愛をひつぱり歩く無格好な姿が眼に見えた。彼は直ぐ煙草を喰はへたまま、冷淡な返事を彼女に書いた。

「あなたは僕を淋しい男だと仰言いました。だが、僕から見れば、あなたは淋しい婦人に見えてなりません。淋しい男と、淋しい婦人が二人並んで、どちらも一緒に淋しいと云ひ出せば、その淋しさは確に三倍にはなる筈です。お心、たしかにお持ちなされて、お黙りにならなければいけません。」

 彼が新らしく買つて来た煙草の名── Excelsior, Ambassador, Club Royale Estrellas

 二日たつと彼女から返事が来た。

「お手紙いま頂きました。お正午休みでございます。お食事に帰りましたのに、御飯が咽喉に通りません。ただただ胸がいつぱいでございます。私は学校なんか何んでも宜敷くなりました。姉の赤ちやんのバスローブを縫ひかけてゐますのもお休みにして、おひるからお邪魔に上らうかと存じます。もうもう淋しくはございません。もつと沢山書きたいと存じますのに。生れて初めてのやうな明るい瞳を、いま鏡で眺めました。」

 失敗つた、と彼は思つた。いつの間にか淵へ来てゐる。しかし、どこにその淵があるのかと彼は考へた。彼は自分の心を見詰めてみた。すると彼女の喜ばしさを守らうとしたがる自分の胸に、大きな淵がひかへてゐた。それならどうしたら良いのであらう。彼は煙草を無茶苦茶に吸ひ出した。El Dominio, La Calma. ──しかし、それより何ぜ彼女の情熱を避ける必要があるのだらう。──だが、彼が、左様に考へたと云ふことが、すでによろよろしながら立ち上つた形であつた。──「だが、俺は、坐らなければ、逃げなければ。」──エル・ドミニオ、モン・レツポ──

 その日、彼女は夕暮れにやつて来た。彼は彼女とは最初のときのやうに、彼の吐き出す煙草の煙りの中で、暫く黙つて坐つてゐてから、

「さやうなら、」

「さやうなら、」

 と云つたゞけである。恐らくこれが最後にちがひないと思ひながら。──エル・ドミニオ、ラ・カルマ──

 三日たつと彼女から手紙が来た。

「編物をやりかけてゐましても、あなたさまのことばかり考へて、私は、南京玉の粒をいくど数へ違へたかわかりません。すぐ机の傍へ飛んで来て此の手紙を書きました。一度も夜中に眼を醒さない子でございましたのに、ぽつかりと、きつと一度は眼が醒めてしまひます。もしかしたら、あなたさまがまだ起きていらしつて、呼んで下さるのではないかとじつと私は耳を澄ませます。ほんとに嬉しいのか苦しいのか私にはわかりません。胸がいつぱいでございます。何といふいやな私でございませう。そんなことがあらう筈がございませんのに。私は何を見てもつまらなく、いつそう消えて了ひたいとどれほど願つたことかわかりません。でももうそんないやなことはいやになりました。あなたさまにお逢ひ出来ない日なんか、何ぜ私のそばにあるのでございませう。」

 彼は此の意想外の転換に驚いた。だが、此の手紙は何と柔い手紙であらう。彼は汚い足を洗ひ清められたやうな朗かな気持ちになつた。──モン・レツポ、ダ・カツポ──それにしてもあの美しい顔を始終黙らせて、こんなことばかりを彼女が考てゐるのかと思ふと、美しさと醜さとの違ひは皮膚一皮の相違だけだと彼は思つた。彼は直ぐ彼女に返事を書いた。

「いまお手紙をいたゞきました。しかし、僕には、あなたほどの美しい御婦人が、何ぜこんな愛の手紙なんかお書きになるのか分りません。もつと澄して、人々があなたに愛の手紙を書き送るまで、お書きにならない方が賢明かと存じます。僕はこんな手紙をいただいても、嘘と真実の境界線が幾行目にあるのか分りません。お慎みになるときではありますまいか。御油断あつてはなりません。僕は申しておきますが、此の煙草と云ふ奴が、あなたより遥かに好きな愛人です。」

 Avalon, Samoa, Dubec.

 その翌日彼女から返事が来た。

「私はどんなに嬉しさうにしてゐるのでございませう。お部屋にゐるお友達は、私が眩しくて見られないと申されます。私はわづかの間に、そんなにも明るい顔をしてゐるのでございませうか。でも、また黒い半衿が似合ふ子となりました。私は世界中の誰もが嫌ひでございました。それにあなたさまにお逢ひして、世界中の誰もが好きになりました。書くことがもつと山のやうにございますのに。何ぜ私には書けないのでございませう。ただただ日曜が待ち遠しくてなりません。お仕事のお邪魔になりはしないかと、今からそればかりが心配でございます。」

 此の次来れば、これは危くなるにちがひない。と彼は思つた。日曜には、早速どこかへ逃げて行かなければいけないと彼は考へた。──クラブ・ローヤル、エストレラ、マイン・クライネ、ラ・ルビヤ──


 次の日曜日には、彼は友人と喫茶店の白菓子ホワイトケーキの前で、キートンの無表情について、三時間も空腹を忘れて話込んでゐた。

 その夜彼は遅く家へ帰ると、矢張り、彼の留守に彼女の来たらしい形跡が部屋の中に見えてゐた。彼は直ぐ彼女に手紙を書いた。

「今日はあなたがいらつしやるにちがひないと思ひました。それで私は逃げたのです。逃げないではゐられません。恐らくどんな男といへども、あなたのやうに美しい女の方に追つ馳けられて、逃げないものはありますまい。これは何ぜだか御存知ですか。或る理髪師が私にかう云ふことを話しました。──『私はその美しい女に見られたとき、これは化されたのではないかと思ひました。』と。私はあなたに追つ馳けられると、此の理髪師と同じ心理になるんです。どうぞ、此の次からは、顔に墨を塗つて来て下さい。」

 彼の買つて来た煙草の名── Da Capo, Jako, Mikruli, Meine Kleine, Dubec.

 翌日、彼女から返事が来た。

「一昨日は、はらはらして参りましたのに。風のやうな方だと存じました。私はお部屋のカーテンを握つて、それから硝子戸を眺めました。あなたの出て行かれたドアが、もし此の硝子戸でありましたなら、どうして私の心が壁となつて、あなたさまの前に立ち塞がらなかつたかと、あなたさまのお部屋の真中でしよんぼりといたしました。私は髪にさして参りましたスヰートピーをくしやくしやに握りつぶして了ひました。どこにいらつしやるのか分りませんものを、私とて追つ馳けて参ることが出来ません。もうもう風のやうな所へは参るものかと存じました。御免下さいませ。いまお手紙をいたゞきました。私は直ぐに赤くなつてしまひます。私はもうはにかみ屋ではなくなつた筈だと存じますのに。お友達らは、私を幸福らしい方と申されます。幸福か不幸か、私は眼が廻つてしまひさうでございます。広さと狭さの空間で、私はいまたしかに不幸でございます。」

「うまい、」と彼は思つた。彼は彼女の此の名文を書き得た手腕に、扇を拡げてやりたくなつた。


 その夜、彼女は不意に彼の部屋へ這入つて来た。彼は周章てて、彼と彼女との間へ壁のつもりで大きな火鉢を持つて来た。

 しかし、もしかすると、此の火鉢を飛び越えさうな危険を感じたので、茶器と炭籠を石垣のやうに並べ出した。さうして、彼は彼女の顔を少しも見ずに、絶えず煙草の煙りで彼女を燻べながら、横ばかりを向いてゐた。見なければ、恐らくいかなる美女とて空気のやうに見えるにちがひない。── Da Capo, Le Cam, La Rubia, Mine Kleine, Kings down

「僕は、人の顔を見るのが嫌ひな性質で、譬へば、いま自分がその人を見詰めながら、相手の眼を見てゐるのだらうか鼻を見てゐるのだらうかと考へ出すと、もう見てゐる人の顔がきれぎれに分裂して、その人が鼻ばかりになつて了つたり、口ばかりになつたりするのです。だから、僕は、」と彼は云つたまま黙り出した。「あなたの顔が、空気のやうに見えてなりません。」と云ひたかつたからである。

 饒舌ることが、彼は彼女に逢ふといつもなくなつて了ふのが例である。しかし、いつまでもそのまま彼は黙つてゐることが出来なかつた。何かないか、何かと考へながら、ダ・カツポ、ヂヤツコ、アンバセダー──

「僕は、あなたに逢ふと、不思議に饒舌る必要がなくなります。これは、多分、あなたと僕とが、八年の間、顔も見ずに黙つて暮し続けて来たからでせう。」

 すると彼女は俯向いて笑ひ出した。彼は彼女が笑ふと美しさが砕けるのを思ひ出した。彼は急いで彼女の醜さを見ようとした。と、もう彼女の唇は小さな弓のやうに緊つてゐた。

「失敗つた。」と彼は思つた。あの唇を見て了へば、今夜は必ず、塀を乗り越す賊のやうに、火鉢と炭籠とを飛び越して了ふにちがひなかつたからである。──ダ・カツポ、ヂヤツコ、アンバセダー──

 十時が鳴つた。彼は一時間の間、火鉢と炭籠の高さばかりを計りながら黙つてゐた。

「では、私、失礼させていただきます。」と彼女は云つた。

 彼女は立ち上ると白いシヨールを忘れて出ようとした。彼はシヨールを拾つて彼女の肩に着せかけた。と二人は脊の高さを較べるやうに、動きとまつたまゝ黙つてゐた。

 成すべきことは分つてゐた。が、それにも拘らず、彼は、飽くまで高貴な言葉を自分に向つて呟かねばおけなかつた。

「俺は、彼女の手紙に書かれた名文に対して、乾杯する。」

 さて、そこで、酒を飲み干す唇のやうに、彼の口は彼女の唇に向つて徐ろに進んでいつた。次の瞬間、彼は神から一つの試験問題を呈出されてまごついた。

「どうして、かくも完全に美しき一人の女性が、自分の二本の腕の中に、かくも静静と納まつてゐるのであらうか。」と云ふ不可思議な問題で。


 その次の日、彼女から手紙が来た。

「世界が狭くなりました。何と云ふ深い花の色に、私の心が眼を開きかけたのでございませう。憎らしいこんなわが儘ものの、どこをあなたさまが愛して下さいますのかしら。ゆうべ帰りますと、私は泣けて泣けてなりませんでした。でもその後で、私の心はしつとりと落ちつきました。どうぞお赦し遊して下さいませ。もしや私が、あなたさまのお心を掻き乱すやうな言葉や、いやな瞳をお向けしましたのではございませんでせうかしら、お忘れになつて下さいませ。」

 彼はルツセンゾルテを吸ひながら、すぐその手紙に返事を書いた。

「私はお城の中から、姫君の小さな弓を、こつそり盗みとつた盗賊でございます。神よ、お罰をお与へなすつて下さいませ。」


 二日たつとまた、彼女から手紙が来た。

「萎れた花びらが、今朝まで生きてゐたので嬉しくてなりません。私の心も土曜の朝になりますと生き返つて参ります。此の頃は春の日ばかりを思ひ出します。いま私は、あなたさまが一番好きになりました。ああもう直ぐ故郷へ帰らなければなりません。私は消えてしまひ度うございます。私はいま髪を結つて、青い空を見てゐます。」

 彼は直ぐ彼女に返事をかいた。

「あなたはお帰りにならなければいけません。あなたは盗賊の傍へお寄りになつてはいけません。あなたは、あなたの唇をしつかとお圧へにならなければいけません。あなたは盗賊を好きだと云つてはいけません。もしもあなたが、これ以上僕を好きだと仰言れば、僕はあなたの宝物まで盗つて了ふに定つてゐます。あなたは僕を、これ以上の盗人にすることだけは、なりません。」


 翌日、彼は彼女から返事を受けた。

「ああ、なつかしきあなたさま、何ぜお答へになつては下さらないのでございませう。」

「これはいかん。」と彼は思つた。彼は手紙を読むのをやめて煙草を吸つた。が、また彼はもぢもぢしてから読み続けた。

「レモンを切つて吸ひますと、あなたのお心が咽喉に流れます。硝子戸が海の色に見えてなりません。夕もやの中をお蜜柑色の電灯がぼつぼつ町を縫ひ出す気配がいたします。私は風邪でお床の中に寝てゐます。誰れにも何にも申しません。いま私は花車のやうなひとりのお部屋に電灯を照けました。私は今年の春に、ミネルバの細いピンクと白の毛糸で赤ちやんのアフガンを編んだことがございます。でも編み上げますと、私には一生こんなものが入らないものと気がつきました。三角に折つて肩かけにしたくなりましたのに、それに、それに、いま星のいつぱいな爽かな初夏の夕暮を、あなたのお胸に、それは美しく白いアフガンが揺らめきます。ちつとも不思議ではございません。私の心は優しい羊のやうになりました。」

 彼は彼女の手紙を読み終ると、追ひつめられた賊のやうにぼんやりした。彼は逃げ場を捜すやうに、もう一度彼女の手紙を読んでみた。が、読めば読むほど、彼の恐れてゐる宝物がどこまでもどしどし追つ馳けてくるのを彼は感じた。もしもこれ以上こゝにゐれば、彼はいかに勇敢に恋愛を軽蔑し、いかに煙草にとりすがつたとしても、煙草と一緒に恋愛の上へ墜落するのは定つてゐた。──エル・ドミニオ、ラ・カルカ、クラブ・ローヤル、エルトレラ。

 彼はその次の日、たうとう彼女に黙つてまた旅へ逃げ出した。が、彼は旅先の宿から、また直ぐ彼女に手紙を書いて了つた。

「僕はまたあなたから、こんな所へ逃げて来ました。あなたは赤ちやんのアフガンを、僕の胸へ勲章のやうにかけようとなさるのです。しかし、僕は、まだその勲章を戴くには、あまりに功労がなさすぎます。いやそれより僕は、その勲章だけはいただくわけには参りません。もう一度申し上げますが、僕はあなたの家へ忍び込んだ賊なのです。僕はただもうあなたの美しい弓だけで結構です。此の上宝物まで戴いては、罰と云ふものが、立派な勲章になつて了ふではありませんか。あなたはまさか、僕に盗賊の徽章として、いつまでもぶらぶら勲章をぶらさげなさるおつもりではありますまい。」


 三日たつと彼女から返事が来た。

「いま私は教会から帰つて参りました。私はもう一人でゐることが苦しくてなりません。あなたさまが遠い所へわざわざ行つておしまひになりましたので、私も行きたくもない教会へふと参る気持ちになりました。私はただ賑やかに、『谷の百合』を歌ひました。帰つて参りますと、お友達がお故郷くにの林檎を下さいました。もう綺麗で綺麗で雪の上へ祈りたくなりました。いやなあなたさまの心臓は、きつとこんな色をしてゐましてよ。私の知人の聯隊長が、ドイツから持つて帰つて下さいましたコバルト色の線の入つたナイフで、細かに細かに刻んでしまひ度うございます。いゝえ、私の憎らしい心臓を。」

 彼は急に聯隊長がナイフに見えた。これはうかうか旅行をしてゐると、その暇に、自分の心臓から血が滴り出すにちがひないと彼は思つた。彼は自分の心臓に繃帯を巻きつけながら、直ぐ彼女に返事を書いた。

「僕は聯隊長のコバルト色のナイフが恐ろしくてなりません。もしもあなたが、そんな光つたナイフを持つて、僕を追つ馳け廻さうと仰有るなら、僕は心臓を出さずに、腹をあなたのナイフの前に差し出します。『よし、やれ。』と。だが、まア、ちよつとそのナイフを放して考へて御覧なさい。あの美しいあなたが、そんな姿で、ナイフを持つて。危い、危い。手が切れます。僕の心臓は、間違へてはいけません、決して雪の上に転つてゐる林檎ではありません。実は、白状しますが、此の心臓は、もうあなたに斬られて繃帯してゐる動物です。僕は、あなたが急に恐ろしくなつて参りました。多分、僕は、もうそんなナイフを持つた花の傍へは寄りますまい。」


 三日すると彼女から返事が来た。

「私はさつきから、青い空を見つめてをりました。私は何と云ふ幸福ものなのでございませう。何がこんなに、私の心を明るくいたしましたのか、誰も誰も存じません。私は讃美歌を謡ひたくてたまりません。あなたのお淋しさの、あなたのお嬉しさの、総てをおわかち遊して下さいませ。何をなすつていらつしやるのでございませう。私はあなたのお部屋を感じたく、吸へもしない煙草をこつそり買つて来て、いまもいまも、むせびながら此の煙草をくゆらします。」

 ナイフが煙草に化けて来た、と彼は思つた。彼は此の彼女の煙草には、胸に一本、動けぬ最後の釘を打ち込まれた。「もう駄目だ。」彼は斬られた心臓の繃帯をとりながら、朦朧とした手つきで返事を書いた。

「僕は、あなたに射落された的のやうに、ベタリと這ひつくばつてゐるのではありますまいか。胸が苦しくてなりません。僕は、あの理髪師の申したやうに、あなたに化されてゐるのではありますまいか。あなたはコバルト色のナイフをきらきら僕の眼の前に閃かせ、はツと云ふ間に、一服の煙草になさいました。これは魔法と申します。だが、それなら僕とて、一服の魔法を差し上げます。あなたは、僕があなたのお傍に行きつくまでに、いま一度、ミネルバのアフガンを編み上げなければなりません。御用意あつて然るべしと存じます。コバルト色の聯隊長の鼻の先へは、僕の煙草の煙りを吐きかけておやりなさい。」


 三日たつと彼女から返事が来た。

「私は父に手紙を書きました。あなたのことと、私のこととを子供のやうに。でも、うつかり書き過ぎまして恥しくなりました。私は家へ帰つて、綺麗な着物を染めて貰つて、賑やかな紫色のお嫁さんにならうかと、しつとりと考へます。何がこんなに嬉しいのでございませう。それから私は五月蝿くなく、あなたのお傍にいつて居させていただきます。ああ、私の希望は霧のやうに深いのです。あなたのやうな好い方にお逢ひ出来るものとは、いままでつゆ考へられませんでございました。かうしてゐますことが、私には不思議なことで、あなたのお傍にゐることが、自然なことに考へられてなりません、などと、ああ、何だか変でございます。」

 彼は直ぐ彼女に返事を書いた。

「僕も何だか変でなりません。もう暫く顔を隠してゐようではありませんか。僕は自棄に煙草の煙りを吹かせてゐます。これは魔法だと云ふことを知りたいために、こんなふはふはした煙りの中から、矢鱈に愛が飛び出して来ようとは、今までさらさら考へたことはありません。これは確に魔法です。でなければ少くとも煙草の害に相違ありません。僕は生涯煙草を吸はないことを誓ひました。でも、いま暫く、僕はあなたに顔を見られたくはありません。あなたは此の手を、まだ僕の顔からとり放さうとしてはなりません。」

 三日たつと彼女から手紙が来た。

「まだお帰りにならないのでございませうか。早くお帰り下さいませ。私はのんきに、母の黒い紋つきの裾に、ぱらりと小さい花のこぼれた模様を染めて下さるやうにと、母に願ひました。私はあなたのお傍にゐましても、楽ばかりいたしたいとはつゆ思ひませんけれど、また苦しいことや悲しいことをゆめ考へたこととてございません。あなたは泰山木の白い花よりも、もつと爽やかに、懐かしく、苦しくなく、私をお傍に置いて下さいます。さうしますと私は、黒いピアノのしづもり続けた講堂のゆふべを、鳴き続けた白い鳥よりも、単純な、やさしい心になつて、のびのびといたします。私は教会で袂に入れたまま押し潰して了つたゴツホの日向葵と、野茨の絵とを丁寧に拡げてお床の傍にかけて眺めてゐます。何が淋しい、何が苦しい世の中でございませう。」

「さうだ、何が淋しい、何が苦しい世の中でございませう。」と彼は一緒に呟いた。

 彼は急に彼女に逢ひたくなると、直ぐ馳け込むやうに停車場へ急いでいつた。彼は汽車に乗り込むだ。彼は煙草をぷかぷか吹かし出すと、煙草について、会心の微笑を洩らして考へた。──

「これや、確に、煙草と云ふ奴は、有害だ。こんなものは、火を点けて焼くが良い。」

 彼の頭の中で、火を点けられた無数の煙草の行列が、楽譜のやうに彼女を目がけて泳ぎ出した。

 ── Damas.

 ── Opera.

 ── High Life.

 ── Da Capo.

 ── Le Cama.

 ── La Rubia.

 ──何が淋しい、何が苦しい世の中でございませう。と踊りながら。

底本:「定本 横光利一全集 第二巻」河出書房新社

   1981(昭和56)年831日初版発行

   1999(平成11)年1020日二刷発行

底本の親本:「新選横光利一集」改造社

   1928(昭和3)年10

初出:「婦人公論 第十二年第四號」

   1927(昭和2)年41日発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:悠歩

校正:mitocho

2018年1124日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。