母の死
中勘助
|
これらの断片は昭和九年九月の初旬母が重態に陥ったときから十月の初旬その最後のときまでのあいだに書かれたものである。
断片。この愛別離苦のうちから私が人人におくる贈り物は「律法を妄りに人情の自然のうえにおくな」という忠告である。私どもは世の親と子があるように、はたあるべきようにお互に心から愛しあっていながら、すくなくとも私のほうではよくそれを承知していながら真にうち解けて馴れ親しむことができず、いつも一枚のガラスを隔てて眺めてるような趣があった、そこには律法のほかに別にまたいろいろ錯雑した理由、原因もあっただろうけれども。
今夜私は連日のみとりに疲れた人たちを休ませ、看護婦さんとふたりで夜どおし母のそばについていた。きのうの脈搏不整からきょうの結滞。浮腫、チアノーゼ。力弱く数の少い呼吸が見てるうちにときどきとまる。看護婦さんが軽く胸をたたく。と、息を吹きかえす。母は麻酔剤のために些の苦痛もなく眠りつづけてはいるが、それは母という特殊の意味で親しい肉体を戦場としての生と死との最後の戦いであり、力つきた生が今しも打ち倒されようとする瀬戸際である。その音もなく形もない凄じい戦いを極度に澄明な、静寂な、胸に充満しながらどこまでもひろがってゆくような感慨をもって凝然と、また茫然と眺めつくしている。そのうち看護婦さんがなにかの用で台所のほうへ立っていったあとに私はとんだ悪いことでもするようにそっとひとつ母の額に口つけた、私にとっても母にとっても生れて最初の、そしておそらくは最後となるであろうところの愛の表示! すべて体の使用されない部分が萎縮し退化するといわれるとおり、私の愛の表示もその肝心な幼若の時期において不自然な束縛と禁遏をうけたがために奇怪にも特に父母のまえに萎縮し退化してしまった。で、母に対する私の愛もいわば内攻して、その表示も間接的であった。そうして母が独りになり、年をとり、淋しくなって私にもっと直接な、もっと明瞭な、もっと熱情的な愛の表示を求めるようになったときには幾十年の宿痾はすでに膏肓に入ってもはや如何ともすることができなかった。十年もまえのことだったろうか、夏、母と二人きりでこちらの留守番をしてたときに母は私に訴えるようにいった。
「このせつは話し相手もないし私はそりゃ淋しいもんよ」
私は胸いっぱいになりながらしかも眉毛一本も動かさない無表情で答えた。
「私も淋しいんですよ」
これが余人に対しては全く自由な、あまりに自由な、しばしば粗野、非礼にさえわたるほどの愛の表示をする私である。
断片。昨夜は重態のままどうにか越した。朝、私が茶の間から行って病室の障子をあけたら□□さんが坐っていた。おお 私はそんなことをいってなにか挨拶をしたらしい。姉が知らせたので長野から夜行で今著いたところだった。
「折角いいものを送って下すったのに……」
そういいかけたらいちどきに涙がこぼれそうになったのをそのままさりげなく茶の間のほうへきてしまった、先頃母へ自分で編んだ温かそうなちゃんちゃんこを送ってくれたそのお礼もいおうと思ったのだが。
断片。ただ末期をらくにするために思いきり注射した麻酔剤がきいてるあいだの昏昏とした眠りから醒めたときに母は奇蹟的に元気を恢復した、病苦もなく、浮腫もへり、脈も呼吸もよくなり……蘇ったように、しかし結局は寿命はないのだけれど。たぶん時の問題が日数の問題になったのであろう。病苦と共に心の煩いも忘れて静に横わっている。
「みんなきとくれたわねえ」
母はもう一遍あいた目で枕べによる児孫たちの顔を見まわしながらそんなことをひと言いう。凡てが自然と天命である。逝く者もとどまる者も落ちついている。
断片。母は今度病気が重くなってから 末さ 末さ と姉を呼んでばかりいる。病気といえばいつもよく看護してもらったからというばかりではなく偶然の事情から充分に姉を信頼することができたからである。お互はもとより私たち皆にとってまことに仕合せなことである。
断片。母の力ないとぎれとぎれのひと言ひと言を私は金言のようにききのがさない、若い母親がはじめての子供にするように。それは生への進軍の最初の雄たけびなるがゆえに、これは死への退却の最後のかたみなるがゆえに貴い。
断片。私はちょいちょい病室の様子を見にいって換気のためすかしてあるガラス障子の間からのぞく。眠っていればそうっと帰ってくるし、醒めていればはいって暫く顔を眺めたり、枕もとに坐ったり、短い言葉をかけたりする。朝はいちばん母の気分がいいので私は大抵起きぬけに寝巻のなりいって おはよう をいう。母もゆっくり微に おはよう という、はなれたところから反響してくるように間をおいて。はじめのうちの衰えながらも晴れやかな おはよう が日がたつにつれて張りのないうす暗いものになってきた。
母を見舞う私は看護婦さんのいないときには──後ではいてもやるようになったが──二、三度しずかにその頬をなでる。あるとき母はけげんそうに
「くるとどうしてさするの?」
といった。私たちが笑ったもので母も釣り込まれて笑いの影を浮べた。愛撫──これが私の愛の特質らしくも思われる。私は何人に対してもそうした愛をもつ。過日の重態ののち母が急に病み耄けて子供らしくなったために私は憚るところなくこのように母を愛撫し、母もまた快くそれを受けることができるのである。
断片。母は目はみえても人の識別ができないことがあるらしい。で、私は仰向けに寝て目をあいてる母のうえへ身をかがめ顔を近づけて名のりながら
「かわいいでしょう」
といった。と、青天の霹靂とでもいうように
「そりゃ子だもの」
といった。皆が一度に笑った。よくわかってたのだ。
断片。ちょうど病室に兄がいたときに──健康なじぶんからこんな場合になると兄は私よりもずっと気が弱いのだが、今は自分もものがいえないのではたの見る目も気の毒なほどしょんぼりと心配そうに母を見まもっている。──母のところへ葛湯がきた。母は葛湯ときいて
「葛湯なら半分おじいさんにあげましょう」
と微かながらそれはそれはいい笑顔をみせた。可愛いのだろう。平生は名をよんでたのに今度悪くなってから兄のことをおじいさんといいだした。葛湯がたいした珍味ででもあるかのように飲み残しの半分をくれるというのをほしくもなさそうにためらってる兄にそばから私たちが 折角だから とすすめて飲ませる。どちらも病いに暗まされた頭である。あわれに涙ぐましい。
母は姉にむかって
「□□さんにおじいさんのことをよう頼んでちょうだい」
といった。私に兄の世話を頼むというのだ。病身の子を思うのである。私は母のほうへ顔を出して
「心配することはありません。これがいるから大丈夫です」
と自分の鼻の先を指でちょんと叩いてみせた。
断片。□□さんがなにかたべさせながら
「たんとたべて八十八のお祝いをなさらなくちゃ」
といえば母は
「まあ生きたいことない。はよ死にたいが死ねん」
という。ふだんは生に対する執著が随分強かったがこうなると自然そんならくな気にもなるとみえる。どことも疎遠な私は知らないけれども家に子供がないので母はよその孫たちを可愛がったのであろう。かわるがわる見舞にきては枕べに坐ってゆく。そんなにされながらもはや生への執著も後に残る心配もなく、あすのおやつの果物の注文や好物のあずき粥のことなど考えながらこの世を去ってゆく母は。
断片。この頃は頬を撫でてももう笑顔をみせなくなった。いよいよ衰弱が加わってきたのだ。きょうまたそうしたときに母は
「さすっとくれてももうようならん」
といった。アイスクリームを匙にすこしずつとって子供みたいな口をあいて待ってる母にたべさせる。記憶にはないが私も母にこうしてもらったことがあるにちがいない。反哺という言葉の味をしみじみと知る。
断片。何遍となく顔を見にゆく。いつも眠っている。すやすやと眠りつづける母を呼びさましたい気もちだ、子供のときのように。脈管が糸のようになってきた。目をあいたらしらせてくれるようについてる□□さんに頼んでおいて茶の間でこれを書く。
断片。目をあいたといって呼びにきた。行って冷たい手をとる。こんなときよく母の目にわずかに涙がにじむことがあるのは偶然かしら。それともなにかの涙かしら。私は笑顔が見たいばっかりに訳もなく笑う。と、表情を失った顔、殊にその目と唇に微笑の影がほのめいた。私はそれにたんのうせず人さし指で母の鼻の頭を軽く叩いて笑ったらどこにどうとはいえないが微笑の影が濃くなった。それで満足した。そして舌の先を見せたまま小さくあいている口へ一匙二匙の水をいれた。
母が目をぱっちりあいた
待ちかねた目をぱっちりと
みんなこい
みんなこい
目をあいたぞぱっちりと
けさから待ちかねた目を
けさからさ
見える?
かすかなうなずき
水?
かすかなうなずき
一匙 二匙 三匙
ついぞ見ないみみずくみたいな顔をして
三匙 四匙 五匙
不思議にのんだ 目をあいた母が
断片。鼻を叩いて笑わせたのはきのうの朝だった。ものがいえん といったのがその午後だった。きょうはもう微笑の影もない。朝病室へいったら目をあいていた、妹の最後のときのそれとおんなじ切れの長い目を。蒲団のうえをずらすようにそろそろと私のほうへのばす手をとって前屈みに顔をよせる。母は顔をしかめながら苦痛と衰弱にもつれる舌をようやく働かせて
「きょうは死ぬ」
というのを
「灌腸がきいたかららくになったでしょう」とそらせる。その返事もただやっとこさとうなずくばかりである。妹の死ぬときもそうだった。
断片。子供子供した気嫌のいい顔はもう見られなくなった。目をさました母はいつも悩んでいる。覚醒して苦しんでるのよりは麻酔した寝顔のほうが見たい。赤子みたいに力なくうめいている。母よ、母よ。膝のうえに手をとっていても母は刻刻に私を離れてゆく。
断片。魚のように喘ぎつづける。痩せ細ったその手をとりつつ思う、私どもは五十年母と呼び子と呼びあった。お互のこの呼び名もいま暫くのあいだである。
大きな自然の力によって律法、道徳、等、等多年の障碍が取除かれたがために私どもは赤裸裸の親子として完全に相愛することができた。これがいわば最高の道徳である。
母とのみいわず、凡て家人に対するこの年頃の奉仕に何らかの報恩、または悔過の意味があるとするならばそれは甚しい誤りである。これは私の自然であり、持って生れた愛である。そうして律法的にはもとよりただのあたりまいのことだけれども、道徳的にはしがない私の生涯における最も大きな建設である。
断片。病勢? は急に進んできた。呼吸困難。昏睡。
お互に認識しあう機会は永久に去ったかとあきらめてたら夜の十一時になってひょいと目をあいた。手をとる。みず みず というので少しずつ匙でのませる。やっと嚥下することができる。一夜の宿をかした旅人の別れ去ったのがふとふりかえって遠くからもう一度挨拶をしたような気もちだ。
断片。右にも左にも向くことができず、舌がもつれてものもいえず、仰臥したまま徒に意識ばかりはっきりしてる母の手をとって一日を暮す。老衰して命を終えるにさえもこれほどの苦痛をうけなければならないとは。
断片。意識は確だが目をあかなくなった。母よ、母よ。私はもっと見てほしいのに。
断片。朝目をさますと ああまだ母は生きてたなあ と思う。呼び起されなかったからだ。
けさは綺麗な夢をみた。うつつの国の言葉のたどたどしさは夢の国の有様、夢みる人の心もちを十に一つもいい現わすことができないけれども、今試みに書いてみようならば、西のほうの海岸にみるような赤ちゃけた地肌のあらわな花崗岩の丘がぎざぎざに連り、うねうねと彎曲して、かなり間遠く両岸を形づくっている。そこには小松などまばらに生えてたように思う。そのあいだをよく南画などにある一面隙間なく小波のたった海が流れてゆく。見かけからは河とか瀬戸とかいうべきだろうがそれがどうしてか海だった。かと思えばあるところは潟みたいに水が溜ってもいる。そうして全体の景色がパノラマのようにどんよりおどんで霞んでいる。せいせいと柔に潤いのある眺めである。私はその丘のひとつの峯に立って無数の小さな入江をつくりながらどこまでもうねってゆく岸に沿うて見わたした。荒涼として人影もない。里遠いところだなあ と思うと同時にいいしらぬ寂寥が一時に襲ってきた。それがまた目のまえの自然に反映していっそうその淋しみ懐しみを深くした。と見るとあちらこちらの入江にすこしばかりの人が水をあびている。それが寂寥の精ででもあるかのように微塵も風情をそこなわない。私も潮をあびようと思うが夢の常のもどかしさでどうしてもはいることができない。はいれないのかはいらないのかもはっきりしない。ただはいろうはいろうとするらしく丘のうえを彷ってるうちに目がさめた。蒲団からのり出した右腕が冷たくなっていた。ひえびえとした時雨の朝である。私はすぐに母を思った。そしてまた思った、これほどまでに思ってるのに夢のなかには母もなければ生死もなく、ただ夢ばかりがあるのはあやしくもまた不思議なことである。
断片。夏の留守番のあいだ母の希望によって私どもは隣り合いの部屋に寐る習慣だったが、それでもまだ淋しがって母は境の襖をあけて眠った。そうして度度うなされては私に呼びさまされて ありがとう(国風にがの字にアクセントをつけて) 牛にぼわれた(追われた) なぞといった。よくそんな夢をみるのだった。
断片。蒼白い死の色の漂うなかに鉢植えの雞頭の花ばかりが燃えさかる生の色をめざましく日光に耀かしている。
断片。きのう耳下腺のあたりが脹れる痛みで悩んでた母は脹れてしまったきょうは痛みもなくらくらくとしてまたみみずく顔になった。ぶくぶくしたところに皺がすいすいとよっている。ぱちっとあいた切れの長い目。赤ん坊みたいにあいた歯のない口。私はいわば幾十年このみみずくにあこがれ、待ちこがれたのである。
断片。けさは気嫌のいい笑顔をみせたそうだ。私は寐坊をしたためにそれを見そこなってしまった。夕がたの診断によるとあと一両日だろうとのことだ。もう見られないかもしれぬ笑顔だったものを。冷たい手を自分の温い手のあいだに挟んでたらなにかいいたい様子なので耳をよせる。あした というだけがやっとききとれた。あした死ぬというのかもしれない。
夜。母の眠ってるひまに茶の間で兄と碁を打ってるとき目をさましたという知らせがきた。碁を崩してゆく。顔を近づける。切れぎれに細ぼそと あした といった。それから先は声がつづかないのだ。なぜか「あした」にこだわっている。あしたは死ぬ だろうと思う。で、額を撫でながら
「あしたはきょうよりらくになりますよ。今日は昨日よりらくになったでしょう」
と話をそらせば
「そうお」
という。すこし口をしめしたらじきにまた眠った。
断片。妹の死から二十幾年を経て私の智慧はいかほどかより明になったかもしれないが、年をとった私の気は目にみえて弱くなった。私は母を失う悲しみにくずおれてしまいそうだ。
断片。吐気がくる。けさはかた目だけ半分あいた。しかし見分けはつく。口をしめしたらじきに眠った。
断片。いよいよ最後の時が迫ってきたようだ。ときどき見えそうな目をあいて見まわしたり、人の顔に視線をとめたりするがわかる様子もない。なにをきいてもうなずくこともしない。ただ反射的に手足を動かしてるらしい。苦痛もない。おそらく苦痛を感ずる力もないのだろう。私との感情関係は母のほうからはもう断たれてしまった。きのうあの力ない声できょうのこの状態を予感したかのように あした といったっけが。
夜。冷っこくなった母はこの世につくべき息の残りをしずかについている。母の臨終が精神的にも肉体的にも安らかなのが嬉しい。おりおり首をうごかして ひゅう と微かな声を出す。ひとりでに出るのかもしれない。そんなとき急に母が近よってきたみたいな気がする。母か、これはもうなかば母の記念像である、最初に私を抱愛したであろうときから五十年母であったところの人の。
断片。夢からさめてまじまじしてるとき□□さんに呼ばれた。母の様子がおかしいという。起きて行く。ひと息ふた息の間にあった。昭和九年十月八日午前四時十五分、母は八十六年の長い寿命を終えた。
不信の信
無道の道
白玉
琅玕
母の死霹靂のごとく
音なき谷のごとし
五十にしてわれ幼な児のごとく呼ばん
母よ 母よ
去りてゆくところをしらず
雲のごとく
風のごとし
とどまるものもおなじ
すべて虚空にひとし
ああ不信の信
無道の道
白玉
また琅玕
底本:「中勘助随筆集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年6月17日第1刷発行
底本の親本:「中勘助全集 第二巻」角川書店
1961(昭和36)年1月30日
初出:「思想 一五一」岩波書店
1934年(昭和9)年12月
入力:呑天
校正:小山優子
2018年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。