永井荷風といふ男
生田葵山




 私が永井荷風君を知つたのは卅七八年も以前のこと、私が廿二歳、永井君は十九歳の美青年であつた。永井君の家は麹町の一番町で以前は文部省の書記官だつた父君は當時、郵船會社の横濱支店長をして居て宏壯なものだつた。永井君は中二階のやうになつた離れの八疊を書齋に當てゝ、座る机もあつたが、卓机もあつて籐椅子が二脚、縁側の欄干に沿うて置かれてあつた。その籐椅子を私はどんなに懷かしがつたものか。訪問おとづれて往くと先づ籐椅子に腰を降して、對向つた永井と語るのは、世間へ出ようとお互に焦慮あせつて居る文學青年の文學談であつた。

 その頃荷風君は能く尺八を吹いた。時折それを聞かして貰つた。荷風君の幼年時からの友人である井上唖々君が高等學校の帽子を冠つて同じやうに絶えず訪問れて來た。それから早死した清國公使館の參讃官の息子の羅蘇山人も時々やつて來た。私等は話に倦むと連立つて招魂社の境内を散歩した。私がトオスト麺麭の味を知つたのは荷風君のその中二階で、私が行く頃やつと眼覺めた荷風君へ、女中が運んで來る朝飯のトオストを、私が横合から手を出して無作法にムシヤ〳〵やるのも常例であつた。

 談文學になると仲々雄辯になる永井君であつたが、現在の永井君のやうに私生活に就ては何にも私達に洩らさなかつた。井上唖々君が代辯していろ〳〵と私達に話した。附屬の中學に往つて居たが、體操を嫌ひその時間を拔けるので、教師に怒られ、同級生の腕節の強いのから酷められたりして、その爲に上の學校へ上るのを放棄したと云ふやうなことであつた。成程體操嫌ひらしい永井君は腺病質で、色の青白い、長身の弱々しい體格であつた。唖々君が猶も洩らしたのは此の上の學校へ上らぬのと、文學を志して居るのが、父君の氣に入らず、母君の心配の種になつて居ると云つて居た。

 貧乏人の私などは遊廓の味をまだ知らなかつたが、永井君は既に知つて居るやうだつた。永井君自身も私に自分は早熟だとは語つて居た。麹町の英國公使館裏に快樂亭と云ふ瀟洒な西洋料理店があつて、其處にお富と云ふ美しい可憐な娘があつた。當時四谷見附け外にあつた學習院の若い公達が非常に快樂亭を贔負にして、晝も夜も食事に來て居た。料理も相應なものであつたが、それよりもお富ちやんのサアビイスを悦んだのである。永井君も此快樂亭へは能く出懸けて往つた。此のお富ちやんは私の知人の畫家の妻となり、今も健在だが、永井君へ烈しい思慕の情を寄せるやうになつた。今一人永井君へ想ひを寄せる女があつた。招魂社横の通りに江戸前の散髮屋があつて、兄息子の散髮師が上海歸りで外人の刈り方の通を云ふところから仲々繁昌し、私達仲間も行きつけであつたが、其處の看板娘が荷風君を戀ひ慕つたのである。近所が富士見町の藝者屋町なので、その娘にしても華美な花柳界の態に染まり、いつも髮を島田髷に結ひ、黒繻子の衿の懸つた黄八丈の着物を着て、白粉も濃く塗つて居た。私達金がないので風采も揚らない止むを得ざる謹直組は、荷風君のかうした艷聞をどんなに羨ましく思つたことか。此の看板娘は今も日比谷公園近くに盛大に或種の店舖を構へ、いつも店頭にすつかり皺くちや婆になつた顏で坐つて居るので、私が時折今の荷風君に、

『君を戀した女、君も嫌ひでなく芝居へ連れていつてやつたりした女を見に往かうぢやないか。』

 銀座の茶房で逢つたりする折に云ふと、流石に嫌がつて言葉を外らして了ふのである。

 荷風君や私達は巖谷小波先生の宅で開かれる木曜會へ毎木曜日に出席して、各自に創作したものを朗讀して、お互に讀んで批評して研鑚し合つて居た。木曜會は小波先生を中心にして久留島武彦君、今の名古屋新聞副社長になつて居る森一眞君、木戸孝允公と深い縁故のある前滿鐵鑛山課長の木戸忠太郎君。夫に黒田湖山君、西村渚山君、井上唖々君やゝ遲れて押川春浪君も加はつて來て總人數は廿人餘り集つて居た。荷風君は前に廣津柳浪子の許へ教へを乞ひに往つて居たのが、木曜會の方へ移つて來たのである。時代は硯友社全盛で、尾崎紅葉先生がまだ金色夜叉を書かず、多情多恨で滿都の人氣を集めて居た。荷風君は文章體でなく、書く小説は柳浪張りの會話を主體としたものであつた。その木曜會員は紅葉先生が中心になつて出來て居た俳句會の紫吟社へ出席し得られたので、荷風君にしても其處で私同樣硯友社の多くの先輩を知り、鏡花、風葉、秋聲、春葉氏等と、知り合ふやうになつたのである。

 私は京都から東京へ出て來た當時、小波先生の家でお厄介になつて居たのを、小石川原町の一行院と云ふ寺に寄宿するやうになつたが、麹町戀しく、殆ど隔日位ゐに麹町へ出て行き、出て行く度毎に一番町の荷風氏を訪れ、能く夕飯のお馳走に預かつた。然うして時折母堂の居室へ往つて話を伺ひ、現在は農學博士となつて居る末弟の伊三郎君、母方の鷲尾家へ養子に行つて早世した次の弟の人も知合つた。小波先生の引きで博文館の少年世界や其他の雜文で漸く衣食の資を得て居た私から見ると、生活の苦勞が少しもなくて悠々小説に精進して居られる荷風君は羨望に堪えない地位で、私がいつもそれを口にすると、

『それは淺見だよ、之で僕には僕丈けの悲みや苦勞があるんだよ。』

 之は文學者となるのを好まぬ父君との間の隔離を仄めかしたものである。それでも私は羨ましかつた。其中に私は衣食の爲に神戸新聞へ務めるやうになり、荷風君初め木曜會員に送られて往つたが、社會部長の江見水蔭氏と仲合が善くなく僅に一ヶ月にして歸京して來て、又一行院へ這入つたが、直に麹町の五番町の下宿屋へ移轉した。其處は荷風君の家と相距る四丁程であつた。それから三番町の一心館と云ふのに轉宿したが、其處はより多く永井君の家と近かつた。此の下宿で私は新小説に文壇の初陣した團扇太鼓を書いたのであるが、永井君は既にその前年に、中村春雨、田村松魚君と一緒に、新小説の懸賞小説に當選して掲載され、文壇人として認められて居た。

 文壇の天下は紅葉先生が金色夜叉を書出して一世を風靡して居たが同時に鏡花、風葉、秋聲、春葉、宙外、天外、花袋と新進作家が轡を並べて居て華やかなものであつた。私は依然一心館に居て大學館と云ふ書肆から發行する活文壇と云ふ文學雜誌を、井上唖々君の助力で編輯して居たが、荷風君は私に取つて善い編輯の助言者であつた。小栗風葉君が時々此一心館へ、私を訪れて來た。併しそれは風葉君が態々私を訪問してくれたのでなく、富士見町に狎妓があつて、待合で遊び疲勞れた姿を見せるのであつた。その待合は一心館の直ぐ横町なので、時には私を呼出すのである。或日私を呼出し、同時に謹直な蒲原有明君と永井荷風君を呼んだ。文壇花形の風葉君からの使なので、兩君もやつて來たが、惡戯好きの風葉君は兩君へ女を取持たうとした。然う云ふ場面に馴れない蒲原君は愕いて、自分が酒を飮んだ丈けの金を拂ふと云つて持合せの金を差出して這々の體で遁げたが、荷風君は悠々と落附き、女が來たにかゝはらず厠へ行くやうな顏をして、するりと歸つて了つた。風葉君の口惜しがるまいことか。その夜を泊つた風葉君は翌日又も私等三人を呼び、眞晝間大勢の藝者を連れて、天河天神の向側のいろは牛肉店へ歩いて飯を食ひに行くのに同行を強ひられ、蒲原君も私も知人の多い麹町なので遲れて歩き、流石の風葉君も通行人に見らるゝにてれて私達の側へ來たのに、荷風君一人平然として藝者に取捲れ、談笑して歩く大膽さに一同は舌を捲いて了つた。

 側から見て此頃が荷風君の經歴で暗黒時代でないかしらと思はるゝのは、當時の文士の登龍門である文藝倶樂部や新小説へ時々作品を發表して居るにかゝはらず、他の方向へ身を轉換しようとしたのである。文壇に思ふやうに作品を公にせられないのに焦慮した失望か、それとも家庭が面白くないのでそんな決心をしたのか、福地櫻痴居士を訪問れて、歌舞伎座の作者部屋へ這入つて黒衣を着て見たり、かと思ふと落語家の大家を訪問して門下生にならうとしたり、私は後で唖々君から聞いたのであるが、何うやら家を出て生活しようとしたのである。或る事件──それは戀愛問題であつたかもしれない、父君と衝突して家に居るのが面白くなかつたらしい。併し此の兩方の務口も永井君の豫想と反して居たので中止して、やはり家へ落着くやうになつた。家に落附くと小説道へ一層精進の心を燃し、ゾラのルウゴン・マツカアル叢書を英文で讀み出したのである。

 私はツルゲネフを崇拜して、手當り次第にツルゲネフの飜譯を集めて熟讀した。永井君もツルゲネフは嗜好であつた。蒲原君もツルゲネフやドウデ黨であつた。私達は顏を合すとツルゲネフの作品を論じ合つたが、或日私と荷風君と黒田湖山、西村渚山、紅葉門下の藤井紫溟それから平尾不孤その他二人程で芝公園へ遊びに出懸け、其處の山上で文壇を論じ、硯友社の傾向を罵倒し、假令現在は容られずとも歐洲大家の作品に倣つて勉強し未來の文壇に覇を稱へようと熟議したのであつたが、その望みを達したのは永井君一人であるのを思ふと、私は忸怩とせざるを得ない。此の芝公園の議論は誰かゞ雜誌で素破拔いたので、硯友社の先輩から睨まれて、當座擽つたい思ひをしたものであつた。

 木曜會の黒田湖山君は何うしたものか、硯友社の先輩に作品價を認められず、紅葉門下の勢力圈の新小説へ作品を送つても掲載されないのに業を煮やし、川上眉山氏の許に居て時折木曜會へ顏出して居た赤木巴山君を説附け、赤木君の資本で美育社と名づける出版社を設け、先づ自身の作品から初めて、知人の作品を單行本として出版してくれた。第二に選ばれたのは永井君の地獄の花であつた。永井君が暫時友人とも離れてゾラを讀んだ後の創作である。それを讀んだ時私は全く驚かされたし、恐れもした。それ迄永井君の作品は云つては惡いが内容も外形も柳浪式であつて私はそんなに重きを置いて居なかつたが、地獄の花は文章にしても、内容にしても、今迄永井君が書いたものと、全然異なつて居て、戀愛物語の小説から一歩も二歩も踏出したものであつた。批評家は擧て賞讃したし、從來の朋友は違つた眼で荷風君を見るやうになつた。ゾラを讀んだ影響が永井君の心境を一變さしたのである。永井君がモウパツサンを推賞するやうになつたのは、此の時期である。不思議な因縁は此の美育社の資本主の赤木巴山君は、永井君に戀した散髮屋の看板娘を當時愛人として居たことである。



 永井君の創作態度の變化に驚かされた私達は、永井君の性質が外は極めて柔でありながら内は正反對の剛で粘靱性に富んで居るのに眼を瞠り出した。例はいろいろとあるが、如何に父君に反對されても文學者たらんとする意を曲げようとしないのもその一つである。知人に對して怒つた顏を見せたことはなく、他人からいくら説かれても意に滿たなければ、微笑の中に行はうとしない。と云つて少しも隱險な心地はなく、友人には明るく情誼を盡しはするが、私のやうな單純で、くわつと熱して物事を裁いたり、行ふたりする者には喰足りなく思はれた行状が屡々あつた。つまり青年らしく一所に躍つてくれないのである。話は少し以前に溯るが小波先生が獨身時代、惡性な藝者に附纏はれ、紅葉先生の諫めも聞入れず同棲したことがあつた。

 先生思ひの木曜會員はそれを非とし、小波先生の側近からその女を退けようとして種々智惠を絞つても甲斐がなかつた。その時分我武者羅の私が我慢しかねてその女と爭論し、それからその女の惡徳を算へて先生に追放を迫つた。久留島武彦君と私が紅葉先生の許に走せて事情を述べて應援を乞ふと、

諾矣よし、善くやつた。直ぐ巖谷に逢つて女を退治してやらう。』

 かうした紅葉先生の言葉を聞いて、小波先生の家に集つて居た木曜會員に報告して悦こばしたのであつたが、ひとり荷風君は私が訪問して示威だから來てくれと頼んでも、

『小波先生が好きで然うして居るんだから、放擲つて置けばいゝぢやないか。』

 然う云つて何としても顏出してくれなかつた。事件は紅葉先生の盡力で、女は出て行くやうになつて解決したが、永井君の此の態度は可なり私を失望せしめたが、後になつて性格の相違でもあり、自由主義者である永井の心地も解つたが、兎に角青年時代から永井君は今と同じく他人に干渉するのが嫌ひで、自分が動かうとしない以上、他人の言葉で動かなつた。

 私にしても小説家として何うかこうか生活出來るやうになつたので麹町の下宿を引拂ひ、千駄ヶ谷に傭婆を使つて一軒些やかな住居を構へた。先住者として黒田湖山が千駄ヶ谷に居た。小波先生も結婚して麹町から青山北町三丁目へ移轉されたし、永井君の家も麹町を去つて大久保余丁町へ引越して往つた。永井君の家は樹木が欝蒼として居て廣く玄關は大名の敷臺のやうに廣かつた。父君の室とは放れた裏側の庭に面した室が荷風君の書齋であつた。私達は相變らず繁く往來して居た。押川春浪君が木曜會へ這入つて來てからは、荷風君は春浪君と仲善しになり、遊びの行動を共にして居た。それと云ふのが春浪君も親懸りで、人氣のあつた冒險小説の單行本を出版して得た金は總て小遣として使用し得られたし、永井君にしても得た原稿料は總て小遣ひなので自然と二人は近くならざるを得なかつた。その餘慶を蒙るやうに私と井上唖々君が、自分の財布では行けない場所へ誘はれた。然うして、日と月が經つて行く中に、永井君は父君の命令で、亞米利加へ留學するやうになつたのである。

 之より先き小波先生は獨逸へ旅立たれて、滿二年在獨して歸つて來られ、久留島武彦君も歐米漫遊の旅に上り永井君は木曜會からは三人目の洋行でありはしたが、どんなに私達は羨んだものか。考えると私はその頃も今も此後とても生涯永井君を羨み通して死んで行くことであらうと思ふ。私達は心ばかりの別宴を張つて永井君を送つたのであつた。

 旅立つて行つた先から永井君は度々手紙を寄せてくれた。筆不精な人であるのに海外の寂しい生活の行爲か、長い手紙であつた。私も絶えず返辭を書いた。日本の文壇の動きに就ては絶えず注意の眼をみはつて居るらしく、いろ〳〵と日本の文壇人の作の批評を寄越した。私が文藝倶樂部に川波と題する小説を掲戴したのに、譽め言葉をくれたのは飛上る程悦しかつた。然うして思掛けなかつたことは永井君がキリスト教を信仰するやうになり、毎日曜には寺參りをして説教を聽聞して居るとの報知せであつた。從つて來る手紙の中には若し神許宥し給ふならばと云ふやうな嚴肅な言葉が書かれて居た。如何に米國が宗教國であるにしても永井君が神の教えを信ずるとはと、私ばかりでなく木曜會同人一同の愕きであつた。

『永井君は變つた。歸朝したら純潔な處女と交際したり、處女の戀愛を求めるやうになるだらう。』

 唖々君の言葉であつた。日本に居た時荷風君は境遇が然うさしたのかも知れないが素人女をば女性でないやうに思つて交際しやうとせず、專ら柳暗花明の巷の女にのみ接して青春を過したからである。

 亞米利加から能く作品を小波先生の許へ送つて來た。それを私か唖々君が木曜會の席上で朗讀し、一同批判した後、小波先生の手で文藝倶樂部や新小説へ送つて掲戴せられる手續きを取つた。亞米利加物語も然うした順序を經て、之は博文館から出版された。

 荷風君の洋行中に木曜會員は大抵結婚したが、私は依然として獨身で、荷風君が亞米利加から佛蘭西へ渡り、在留合せて三ヶ年の日を過して、日露戰爭が終り、日本の民衆がポウツマウス條約に不服で日比谷公園の暴動を起した日に歸朝したのを迎へた。歸朝後の永井君は眞に素晴らしく、態度に重味を加え、然うして朝日新聞に紅茶の後を連戴して、外遊中に蘊蓄醗酵した清新な情操を日本の文壇へ齎らした。其の後の永井君は總てが順風滿帆で慶應大學が新に文科を設けた際、森鴎外先生の推薦で教授になり、生活樣式もそれに連れて規則正しく、洋行前の永井君と別人の觀があつた。永井君に取つて何よりも嬉ばしいことは、父君との和解で、父君は自己の交遊社會や親戚の前で、初めて自分の息子を文學者として認める言を發するやうになつたのである。

 引換へて其頃の私は不幸であつた。私の作品は風俗壞亂と當局から睨まれて、單行本も短篇も發賣禁止となり、書肆は私の原稿を危んで買つてくれないやうになつた。そんな中で私は結婚したのであつたが、結婚後四ヶ月目に中耳炎に罹り、膿が頭腦を犯した爲め、知覺も認識力も不足し、醫師からは今後恐らく執筆は難かしからうと宣告を受けたばかりでなく、病中二度迄も裁判所へ召喚されて發賣禁止となつた私の作品に就て公判を受けねばならなかつた。それは罰金刑で濟みはしたが、爾後病は一進一退し極端な神經衰弱症となり、文壇と離れて四年間湘南の地に蟄居せねばならぬやうになつた。從つて荷風君との交際も絶たれて居たが此間に荷風君は、父母の撰んだ妻君を迎へて盛大な結婚式を擧げたのである。

 一度病中の私が上京して新婚後間もない荷風君を訪問れ、高島田に結つた美貌の新夫人を見はしたが、一年と經ない中にその破婚が湘南に居る私の耳に傳つて來た。何うして破婚になつたか、唖々君さへも知らなかつた。ずつと後に荷風君に逢つて訊くと、その問題に觸るゝを厭ひ、かへりみて他を云ふ態なので、家庭の祕事として私は重ねて問はず今以て、委しい事情を知らない。只しかし荷風君はその以後深窓に育つた處女を再び厭ふやうになり、昔に返つて商賣人の女を相手にし、商賣人の女でなくては話相手とするに足りないと云ふやうになつたのは事實である。何かしら烈しい失望を感じたのであらうとは私に察せられるのである。

 私の結婚にしても破局に終り、明治四十三年の年の暮に東京へ歸つて來た時は獨身者であつた。泉岳寺側に住居を構へ、破婚の寂しさを紛らはさん爲に知人や朋友を集めて文學談話會をこしらへると、永井君は二度ばかり出席してくれた。永井君は妻に別れた影響など微塵なく、慶應大學で教へる傍ら三田文學を主宰して、文壇の輝かしい存在であつた。私達は以前の交際を取返して日夕往來したが私がその頃の新劇運動の中心舞臺であつた有樂座と關係が生じたので、劇壇に深い興味を持つ永井君は絶えず有樂座へ姿を見せ、劇場が閉場はねた後は、銀座裏のプランタンへ集つて無駄話に時を過した。小山内薫君や吉井勇君も同じグループだつた。

 此のプランタンで永井君に取つても私に取つても新聞の三面欄を賑はす餘り芳しからぬ事件が生じた。或晩永井君が有樂座に或る新劇團の興行があつて見物にやつて來て居ると後に永井君の正夫人になつた新橋藝者の巴屋の八重次が見物に來て居た。永井君が妻と別れて以來、八重次と關係を生じて居るのは私も知つて居た。八重次は永井君の側へ寄つて往つて閉場後プランタン行きを勸めた。私も八重次とは永い間の知己なので連立つこととなり、それから田中榮三君達がやつて居る劇壇に屬する女優の小泉紫影が側に居たので誘つて同行するやうになつた。

 プランタンへ行くと押川春浪君が阿武天風君外二人の青年を連れて盃を擧げて居た。荷風君も私も酒は飮まないし女連れなので押川君に眼で會釋した丈けで二階の席へ上つて往つた。それが押川君の氣に障つた。荷風君と押川君とは舊く仲善しであつたのに、押川が深酒をするのを厭つて荷風君と少し疎遠になつて居たし、それに悲憤慷慨家の押川君は荷風君が慶應大學の教職にあるのに、藝者と馴染を重ね、世間から兎や角と云はれながらも何等省るところがないと指摘して、遭遇であつたら忠告すると平生から意氣込んで居たのに顏を合したのがけなかつた。私達が食事しかけて居る處へ押川君一人やつて來たが、單に氣色ばんで居る限りで何事もなかつたのに押川君を追つてやつて來た醉つて居た青年二人は、押川君の意中を勝手に推量して粗暴な擧動を見せ、特に八重次に向つて狼藉を働いたのである。醉つて居ない阿武天風君が上つて來てくれたので後事を托し、各自にプランタンを遁れ出たのであつたが、醉つた青年二人は八重次を苛め足らなかつたらしく、八重次の屋號の巴屋を目當てに家を探し、街燈を壞し、看板を割つたりなどしたんだが、その巴屋は八重次の家の巴屋でなく、全く關係のない待合だつたので、警官が出張して青年二人は拘引せられたのを、誇張して二つの新聞に大きく書かれたのである。

 私の見るところでは此事あつて以來、荷風君の心は八重次へ一層寄つて往つたやうであつた。押川君の非難に對する抗辯として、何故に藝者がそんなに賤しいか、彼女達は家族を養ひ一家を支えて居る生活の鬪士ではないか、日本の現在の結婚制度の妻にしたつても、何れ丈け藝者と光榮を爭ふ價値があるか、或意味で娼婦と遠からざる存在ではないか──之は私が永井君の意中を忖度した丈けの言葉で、永井君から聽いたのではないから間違つて居るかもしれない。もう一つ私が永井君で感じて居るのは、自分が強いて結婚を求めようとしない心地から、接する女を單に快樂の目標物とのみしようとする殘酷さである。此の事に就てはもつと後に述べやう。



 プランタンの事があつた數ヶ月後、私は外遊の途に上るやうになつたので、又も荷風君との交遊は斷たれた。私は外遊中に荷風君の父君の卒然の逝去を聞いた。それから八重次に藝者を止さして、靜枝の本名を名乘らして四谷區に圍つて居ると唖々君が伯林に居る私へ報知して來た。軈て又荷風君は遂に靜枝と結婚するやうになり、媒酌者は左團次君夫妻であつて、今は宏壯なあの家に靜枝は新夫人となつて納つて居るとやはり唖々君から便りがあつた。私は何故かしら畏友荷風君に温良貞淑な良家の處女を娶らしたいと願つて居たので、此結婚を左程目出度いものに思はれなかつた。すると半年程した後に、永井君は靜枝と別れたと、之は黒田湖山君からの手紙であつた。私が歸朝後、荷風君からも聽いたし、唖々君初め荷風君の知人達の話を綜合して靜枝さんとの結婚が荷風君に取つては非常に高價なものであるのを知つた。

 高價な第一は未亡人の母堂が家を去つたことである。第二は弟の農學博士伊三郎君初め名門揃ひの親戚と仲違ひしたことである。母堂は荷風君と靜枝さんとの結婚を無論初めは反對であつたが、或人が仲に這入つて説いた爲め、結婚式に列席せぬのを條件にして諾意を見せた。荷風君は在來通り母堂と新夫婦は一所に住むものとのみ思つて居たのに、結婚式から歸つて來ると母堂は伊三郎君の家に去つて了つて居た。弟の伊三郎君なりその夫人は共に堅い基督教信者であつて、靜枝さんの經歴を賤しみ姉と呼ぶに堪難いと云つて籍さへ脱いて別戸主となつたのである。親戚達は母堂の意嚮や伊三郎君に追從して往來を絶つやうになつたので、永井君は總ての血縁者に背かれて了つたのである。

 かうしようと思ふと必ず遂行する強い永井君ではあるが、果して平心であつたらうか。他人の意を損ずるのが嫌ひであつた性質だし殊に母堂思ひなので相當苦痛であつたに違無からう。結婚半年にして靜枝さんと別れたのは、靜枝さんも強い性格で我意を張つたのであらうが永井君のかうした苦痛の反射が働き懸けないとは思はれない。然うして後日永井君が偏倚館なぞと自宅に名稱を附して門戸を閉ぢたのも、母堂とは直ぐに和解したが、他の血縁者とは今以て和解が出來ず、孤立し續けた心の影響がさしたことと、私は思つて居る。

 私が外遊三年の旅を終へて歸つて來て、永井君を大久保余丁町に訪問すると、在來の家と棟續きに瀟洒な數奇屋好みの小家が建築されてある中に、唯一人座して居た。全く唯一人座して居たので、女中さへ居ないのである。何うした理由かと問ふと、女中は今朝歸つて往き、今一人居た女も昨日から歸つて來ないとの答へであつた。廣い母家の方の雨戸は總て閉されたまゝで、樹木の多い庭は荒れ果て、永井君は其の日は仕出し屋から食事を取寄せて自分を賄つて居る容子が其邊に顯はれて居た。昨日から歸つて來ない今一人居た女と云ふのは神樂坂から請出した藝者であるのを、私は唖々君から聞いて知つて居た。

『今一人の女つて請出した藝者なんだらう。』

『然うだよ。』

『君は藝者を請出して之で三人目と云ふぢやないか。みんな直ぐ嫌になつて別れて了ふんだつてね。』

『然うぢやない。女の方から去つて往つて了ふんだよ。』

 悉しい話を聞くと、寂しさについ遊びに出懸けて一人の藝者を知る。身上を打明けられて身受けを強請されるので、憐を覺えて借金を拂つてやつて、親元へ預けるなり何處かへ圍つて置いたりする。と次に必ず無法な要求を持出して來たり、惡が附いて居るので、遠退いて了ふんだと、そんな女に對して未練も執着もなく、當座々々の悠々たる遊びであるのが解つた。それにまして費用が勿體ないではないかと云ふと、勿體ないからもう止めようと思ふとの返辭であつた。別れた靜枝さんの話に觸れたが、言葉の裏に自身は夫婦と云ふものを持續して行く資格がないかの樣にすつかり結婚を思諦めて居る心地が讀まれた。その時此の邸宅が餘りに廣く、掃除にも困るし、女中は夜など寂しがつたり怖がつたりして、その爲め居附かないと云ふ話だつた。

 私は澁谷に家を持つたのであつたが、外國生活の疲勞が出たのでもあるまいに、以前の神經衰弱が再發して、二ヶ年程は思ふやうに書きものが出來なかつた。その間永井君とも稀にしか遇はなかつた。唖々君の口から永井君が莫大な金額ではあつたが時價よりは安く大久保の邸宅を賣放して、築地へ借宅したと聞かされた。慶應大學へ教えに往くことも止して、此頃は清元を習ひ出して居るとの風聞をも聽いた。此築地の家へは私は一度も訪問する機會がなかつた。私の病ひが怠つて永井君に遇つたのは、永井君が有樂座で清元のお浚ひ會に、一段語る日であつた。その次に遇つたのは劇場關係の人が外國へ旅立つて行くのを中央停車場へ見送りに行つた時であつたが永井君の姿を見て私は吃驚りさせられた。私等小兒の時分に町内の老人連が着て居るのを見はしたが、今は芝居の舞臺の上でなくては見得られない小紋の羽織を着て居るではないか。着物、帶、持物とそれに準じ煙管筒から煙管を拔いて煙草を吸ふ容子に、私ばかりか他の誰もが眼を瞠つて居た。

 趣味で然うした服裝をするにしても、餘りとは時代と逆行したものだと私は非難する思ひに燃えたが、不圖考え直してクツ〳〵とひとりでに笑はれて來た。清元を習ひ出すと氣分迄も清元にしようとする凝り性の顯はれだと解つたのである。他人が笑はふと非難しやうとそんなことを念頭に置かないのが荷風式だと思ひもした。小山内君が側に居て、

『變つて居るね。』

 私に囁いた。併しそんな服裝も清元も永く續かなかつた。築地から現在の麻布市兵衞町に西洋館を新築して移轉すると、家に居る時も洋服を着るやうになつた。私は病も怠つたので二度目の結婚をしたが、永井君は相變らずの獨身で、外國でした學生生活の樣式で生活するやうになつた。

 荷風君と私との往來が繁くなつたのは、青年時代からわれおれで交際して居た永井君の舊い友人が唖々君を初め、春浪、湖山、薫と漸次に死んで往つたので、隔てなく昔を語り合はれるのは、私位ゐなものになつて了つたからである。それに私は二度目の妻が震災の年から今以て脊髓を患つて足腰が立たず、獨身同樣な寂しさがあるまゝ、自然獨身者の永井君と話も合ひ、散歩も共にせらるゝのである。

 荷風君が今以て萬年筆を使はず毛筆で原稿を書いて居るのは世間周知の事實であるが、清元を習ふと小紋の羽織を着る迄徹底さす氣分に外ならないので、自分の文章は毛筆でなくては生れないものとして居る。全く一章句たりとも苟くもしない遲筆で、何遍も書直しもする。然うして稿が成つても猶氣に入らないと机の曳出しに納ひ込んで了ふので、そんな未定稿は數あると思ふ。市兵衞町へ引越して間もない時のこと、私が書齋へ這入つて行くと、荷風君は一つの稿を前に置いて沈吟して居た。然うして書上げたものが氣に入らないから發表せない心算だと云ふ。讀んで聞かし給へと勸めて、荷風君の朗讀を聽いたのだが、私は名文に感心して發表を強いたんだがそれは見果てぬ夢の短篇であつた。牡丹の客も然うであつた。女には放膽な荷風君も、事文學に這入るとそれ程細心で、チミツドなのである。彼氏が大名を唱はれるのは故あるかなである。

 世間でいろ〳〵と風評される女との關係にしても、私の見る目は違ふ。若い時代はいざ知らず、近時の荷風君對女問題は、荷風君の方が利得して居るので、世間の風評を腹の底で笑つて居るかもしれない。それと云ふのが女を總て試驗臺にして居るからで、私が荷風君を女に冷酷だと評するのは然うした點も含まれて居る。女が惡であれば惡でよし、それに近接して凝と見据えて取材にして居る。女が彼氏に嫉妬のないのを氣味惡がつたり、怒るのは然うした理由である。花袋氏は女に對して相當情熱をもつて進み、それを客觀視したが永井君は然うではない。それであるのに荷風君に近寄られると、女の方は自惚れ、永井君の内剛なるを知らずに、表面些つと女性的に見えて柔しいので、甘く見てかゝり、無理な強請りなどしての破綻である。近く荷風君と噂を立てられたタイガアのお久にしても富士見町の女にしても、然うである。

 私の氣が附くところでは、永井君は女に放膽ではあるが能く自分を守つて居る。決して彼女に尻尾を押へられるやうな言動を示したことがない。無論物惜しみをせず女に物資ものをくれてやり得らるるからではあるが、女に損を爲せないと云ふのが永井式やり方である。之は友人や知人にも用ゆる手で、他人に迷惑を懸けるのは大嫌ひで、恐く今迄に他人をそんな目に遇はしたことはなからう。いつだつてちやんと心の獨立と矜恃をもつて居たので用意周到なものである。いざと云ふ場合對手に一口だつて突込まれない戰鬪準備をして居ると云つてもいゝので、冷靜そのものである。

 私が永井君に飽足らぬものが一つある。それは眞の貧乏の味を知らないことで、若し君にして生活苦を知つて居たなら、作品は違つたであらうし、社會や人を見る眼も違つたらうと思ふ。もう一つ殘念なのは純な處女との戀愛を知らぬことで、それも作品に大きな影響を及ぼして居る。若し荷風君がそんな娘と結婚し、人の子の父であつたならば、もつともつと違つた作品が生れ出たであらう。更に若し父君が初から永井君を文學者になるのを許容して居たなら、違つた荷風氏が生れ出て居ただらうと思ふ。

(完)
(昭和十年十月号)

底本:「「文藝春秋」八十年傑作選」文藝春秋

   2003(平成15)年310日第1

   2003(平成15)年45日第3

初出:「文藝春秋」文藝春秋社

   1935(昭和10)年10月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。

入力:sogo

校正:きりんの手紙

2018年1124日作成

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