芥川龍之介を憶ふ
佐藤春夫




 自分と芥川との交友関係は、江口渙を中間にして始つた。芥川は将に流行児として文壇の檜舞台へ上らうとしてゐる前後であつた。自分はその五六年以前から二三の同人雑誌などに今顧みるときまりが悪いやうな幾つかの詩歌や散文の習作などを活字にして貰つた事があつて芥川の方でも自分の名前位は知つてゐたらしい。自分はその頃文学上の自信をなくし方向を見失つてゐた。さうして斯ういふ状態の常として自分に対しても元より世上一切のことを白眼で見る悪い癖が付いて了つてゐた。芥川の文学は自分に面白くないことはなかつた。自分は彼の「新思潮」にのつけた作品を二三読んで、此処に芸術上の血族が一人ゐることを発見して喜んだが、不満もなか〳〵無いではなかつた。日本の文壇に取つては非常に目新しい作風ではあつたが、アナトール・フランスなどを少しばかり見たり聞いたりしたことのある自分はそれ程驚かなかつた。自分は芥川の作品を全部読んでそれを批評すると同時に、自分の抱いてゐる文学論を披歴して見たいといふ気持ちがあつた。このことを当時の友人江口に話すと江口は彼が持つてゐた新思潮の一揃ひを自分に貸してくれた。自分は一読して自分の意見の一端を江口に述べた。江口はこの以前から芥川と交友があつたから自分のことを彼に伝へたものと見える。自分は或る日芥川から手紙を貰つた。手紙はたしか、江口方気付で、それがもう一度江口の手紙に巻き込まれて江口の新しい封筒で自分の手に届けられた。芥川からのその手紙は彼が一生使ひ通した松屋の原稿用紙へ書かれて一千字位はあつたと思ふ。この手紙を自分は保存してあるのだが、北海道に居る弟が持つて行つて了つてそれが蔵ひなくしでもしたのか、先日から催促をしてあるのだけれども未だに手元へ届かないのは残念である。全文を掲げることは出来ないが、横須賀へ行く汽車の中で書いたといふ文句があつたやうに思ふ。さうして、手紙の大意は「江口から君が僕のことを批評する意志があるのを知つたが、自分の芸術は未だ未熟なものだから今しばらく批評して貰ひ度くない、」と云ふことや、また「君が以前に書いた短篇『円光』などは僕にかう云ふ小説ならば自分にも出来さうだと云ふ暗示を与へたものだ、」と云ふことも三行ばかりあつたと憶えてゐる。また、「君のところに犬さへゐなければこちらから君を訪問したいとも思つてゐるが、」と云つて自分に遊びに来ることを歓迎してくれてゐた。──これは或は第二の手紙であつたかも知れない。第二の手紙と云ふのは自分が彼の第一の手紙に対して書いた返事に向つてまた折り返してくれたものであるが、之も北海道の弟が持つて行つて了つて今手元にない。自分の方から出した手紙はどんなことを書いたか憶えがない。大正六年の一月か二月であつたと記憶する。

 彼が大学を卒業したのはその前年で卒業論文は「ウヰリアム・モリス研究」であつたことは周知のことであるが、彼の話に依ると社会主義者としてのモリスや、理想を持つた事業家のモリスなどに就いては論究する暇がなかつたので、結局詩人としてのウヰリアム・モリスと云ふのが眼目であつたらしい。彼の諧謔を憶えてゐるが、詩人としてのモリスもどうやら論じ切れないらしいので、少年時代と改めようかなと云ふと、誰かが寧ろ嬰児時代としてはどうだね、と笑つたものださうだ。

 彼に始めて会つたのは文通を始めて間もなく三月の初旬であつたかと思ふ。自分は思ひ立つて独りで行つて見た。女中が曖昧な態度で取り次いだが、すぐに主人公自身が二階から下りて来て再び二階の書斎へ自分を伴うてくれたが、坐るとすぐに

「今朝程は有難う」

 と、云はれて自分にはちよつと意味が通じ難かつた。気がついて見ると一月程前自分が読売の文芸欄へ寄稿して置いた「雉子の炙肉」と云ふ小品がその朝偶然掲載されてゐて、それは芥川に献じてあつた。月曜附録が出た筈だから、するとその日は月曜であつたと見える。十分程話してゐたが、気が付いて見ると芥川はへんに落付のない様子であつた。終に彼は事情を話し出したが中央公論の創作の締切日が(手巾であつたか)迫つて居催促を下に待たしてゐるといふのである。

「さう云ふ訳で気が落付かない。何、創作を一日位遅らせるのは構はんとしても、切角始めて話をするのにかう云ふいら〳〵した気持ではお互に面白くない、君にも伝染をすると大変だからね」

 と、さう云ふ意味の言葉を気の毒さうに云つた。自分は別の日を約して帰つて来た。

 その頃芥川は日本室の畳の上へ椅子と卓子とで書いてゐた。床の間の傍が机を置けるだけ別にくぼんで造られてあつた。その狭苦しい所にきつちりと体をおさめて書くのが芥川らしいと思つた。後に谷崎潤一郎がそれを見て、あんな窮屈な状態でよく書けるもんだ、と、云つてゐたが、自分も体だけ這入るやうな小さな書斎は好きであるから、此点は芥川と似てゐる。似てゐると云へば外にも随分似てゐる所があるらしく自分がその頃飜訳しかけた「人間悲劇」を芥川も訳しようと企てたことがあると聞いた。──いや例の彼からの最初の手紙にこの事が書いてあつたらしい。斎藤茂吉の歌に感心する点も君と同じだと云ふやうな文句もたしかあつた。少し後にビアヅレエの「アンダー・ザ・ヒル」の話が出て、あの一癖ある文章をちよつと訳して見たいやうな気がする、と自分が云ふと、彼も以前にさう思つたことがあつたと云ふ。以前と云ふのは何れ大学を出た前後のことであらう。その外時々そんな暗合がある。後に之は文芸読本編纂の用事で四谷信濃町の自分の寓居を訪問してくれた時、確九月の末であつたと思ふが、自分の彼に進めた夏の座布団が、彼の家で使用してゐるものと全く同じ品であるさうで、彼は

「変な気がする」

 と、云つた。それは支那麻で中央には濃い浅黄で寿の字を、四方には蝙蝠を染め出したものだ。芥川の云ふ所では支那商人が上海の日本領事館の薦めで輸出したものださうだが、商人は一向に売れないと滾してゐるとのことであつた。つまり芥川と自分とはその一向売れないものを買つてゐた訳けである。その日はそればかりでは無かつた。暫時して一緒に散歩しようと云ふ段になつて、自分は着物を着換へて机の牽出しから時計を取り出すと、芥川は

「オイ、ちよつと〳〵」

 と、多少わざとらしい頓狂な声で笑ひ乍ら手を差出した。自分は自分の時計をあやしみ乍ら渡すと、彼は

「オイこれも一緒だよ」

 と云つて、袂から鎖もなんにもついてない時計を取り出して自分の前につきつけた。二十円そこ〳〵のニッケルの片側で文字板にはアラビア文字がクッキリと非常に大きく周囲一杯に書かれたものであつた。この二つの品物の暗合には自分も亦多少驚いて二人で「亦一奇」と云つて笑つた。



 自分が谷崎潤一郎と知り合ふやうになつた機縁も亦、芥川に関係してゐる。「羅生門」が出版されるに就いて、羅生門の会と云ふものをやらうと云ふ考へはどうも僕が最初に思ひ付いたものらしい。その以前に北原白秋の詩集の為めに「思ひ出の会」の前例はあつたが、当時では今日のやうにかう云ふ催が習慣的流行にはなつてゐなかつた。今日時々有名無名の著作物に関してその記念的祝宴があるのを見て自分は時々小うるさい感じがするのだが、思へばかう云ふつまらない時間つぶしの会合の習慣を作つたに就いては自分も多少その責任があるかも知れない。それは兎も角も、その「羅生門の会」の発起人として新思潮の同人や、また江口や自分達のやつてゐた同人雑誌「星座」の同人だけでは気勢が揚らないので、鈴木三重吉氏や、小宮豊隆氏やそれに谷崎潤一郎も加はつて貰ふと云ふことになつた。それで江口と自分とが当時原町にゐた谷崎を訪うたのは梅雨の季節の午後四時頃であつた。谷崎は昼寝をしてゐたが、起きて来て自分達の用向を承諾した。「羅生門の会」は、日本橋の通りへ新築したばかりの鴻の巣で開かれた。自分は着物が無かつたのでよれ〳〵の久留米絣へ袴は誰かから借りて行つた。梅雨あけの蒸し暑い晩で、この家の屋上へのぼるとなま温い風がきびしかつた。さうして遠方の燈火が初夏らしくきらめいてゐた。会が始まつて発起人の挨拶が必要だと云ふので、小宮氏などに頼んだが誰もうるさがつてやつてくれない。事実上の発起者がやるがいいと云ふので僕が立たされることになつて、よせばいいのに簡単なことだつたが何んかしやべつた。芥川はモーニングを着て出席してゐたやうに思ふ。この家の主人は文学者を愛好してゐたので、それに花の多い季節で、卓上にはどつさりスイトピーや薔薇などが盛られてあつた。自分は迚も希望のない自分の文学的生涯を考へ乍ら、颯爽として席の中心にゐる芥川を幸福だと思つた。会の終に此家の主人が稍々大きな画帳を持ち出して芥川に記念の揮毫を求めた。芥川は「本是山中人」の五字を六朝まがひの余り上手でない字で書いた。──四五日前谷崎とその頃の話をして谷崎はこの会へは出席した憶えがない、どう云ふ訳だか、多分旅行でもしてゐたらしいと云つてゐたが、今いろんなことを思ひ浮べてゐる中に会場の隣室の西洋風の床の上へ毛氈を敷いて、その上に膝をついて字を書いてゐる洋服姿の芥川を思ひ出すと同時に、その後に立つてそれを覗き込んでゐる谷崎もたしかにゐた。さうして谷崎は散会して階段を降りて行く後藤末雄を大声で呼び止めて、後藤が大きな体を大儀さうに階上へ上つて来ると

「君は字がうまいのだから、どうだね、序に書いては。」

 と云ふのを、後藤は何んだつまらないとか何とか云ひ乍ら、また降りて行くのを谷崎はいたづら小僧らしく笑つてゐた。この光景は決して僕の憶え違ひではないから、若しそれが羅生門の会でないとすれば何か別の会合であつたかも知れないが、自分にはどうもその会としか思はれない。

 此の会より稍後であつたと思ふが芥川が皆を誘つた。

「谷崎もあゝやつて誰も友達なしに独でゐるのだが時々は押しかけて行つて友達になつてやつたがいいよ、あれではいくら谷崎でも淋しいだらう」

 と云ふ意味のことを芥川は云つた。

 七月始頃の雨上りの日で、自分は泥土で汚れた足袋を谷崎の玄関で脱いたのを憶えてゐる。一緒に行つたのは少くとも五人以上だつたが芥川と赤木桁平と江口と自分とそれから外の人は忘れて了つた。皆は、一度どこかで落合つてから、勢揃へをして谷崎のところへ押かけたのだ。多分芥川か誰かが谷崎を訪問する日を打合せてあつたらしい。赤木を一番はつきり憶えてゐるのは、赤木がこの席上でも談論風発したからである。当時の近松秋江や長田幹彦の文学を排斥したこの遊蕩文学撲滅論者は、白樺の人々に批評的好意を寄せてゐてその日も長与善郎の戯曲を、皆には多少遠慮をし乍ら推賞した。赤木と云へば「芥の川の知識なりけり」と云ふ駄洒落を作つたのも、彼であつたらしい。谷崎を訪問した時に芥川がどんな話をしたかは忘れて了つた。ただ武林無想庵が加藤謙を連れて偶然吾々の仲間と一緒になり、谷崎の八畳の書斎は人で一杯になつて了つた。読売の訪問記者であつた加藤は年少でもあり遠慮して部屋の隅に小さくかしこまつてゐた。

「まるで親族会議で野良息子の加藤君が叱られてゐるやうではないか」

 そんなことを谷崎が云つた。皆は四時間ばかり谷崎の家にゐた。

 十二年前の事である。



 その間に自分は最初に同棲した女と別れて二度目の女と家を持つことになつた。最初は動坂で次に駒込神明町に住んだ。谷崎は曙町へ越して来た。自分の家は田端の芥川の家と谷崎の今度の寓居との殆ど中間位にあつた。それも多分殆ど同一直線上にあつただらうと思ふ。どちらかと云ふと谷崎の家が近かつた。さう云ふ地理的の関係もあり谷崎と自分とは思ひがけない程気が合ふ所があつたので、半年とは経たない間に日夕往来するやうになつた。時々二人連で芥川を訪問したこともあつた。谷崎と自分とは人の口真似をして会話をすると云ふ悪い癖を生じ、いつも自分の句調では物を言はずにいろんな共通の友人の真似をした。上山草人の句法と語調とが基調になつたが、その合間合間に久米正雄やら、芥川のやら、或は武林などの真似をした。久米正雄のはその所謂微苦笑を帯び乍ら「恐縮だな」と云ふのだし芥川のは「例へば?」と云ふのであつた。それはその頃よく議論などすると芥川は相手の議論の混線を整理するらしい調子で屡々この「例へば?」を繰り返すので自分たちはそれの真似をしたのだ。影で云つてゐるだけでは面白くなくなつて、仕舞には久米に向つて久米の真似をしたり芥川に向つて芥川の真似をする程この冗談は昂じて了つた。この無作法を久米は元より芥川も苦笑して許してくれたが、最近になつて聞く所に依ると、以前に非常に芥川と親密にしてゐた某君が後に稍々疏遠になつたのにはいろ〳〵理由はあるだらうが、某君が或時芥川と議論の末に芥川からやりこめられて了つて、苦しまぎれの冗談にこの「例へば?」のやうなことをやつたらしく、芥川は無礼だと云つてそのことを外の人にまで話したさうだ。さう云へば自分も一度鵠沼でその地へ避暑してゐた谷崎の所へ遊びに行つて、そこで落ち合つた久米の真似をあまり図に乗つてやり過ぎ温厚な久米の顔色を少し変らせたことがあつたやうに思ふ。思ひ出したから序に記してこゝに謝罪の意を表する。この鵠沼の時であつたが、吾々は皆海岸へ出た。皆で海に這入らうと云ふことになつたが、芥川は賛成しなかつた。自分はその頃洋服を着ると(妙な話だが)猿又を用ゐない習慣があつたので、そのことを云つて海へ這入れないと云ふと、芥川はそれではと彼のをその場で脱いで自分に貸してくれた。芥川が、佐藤は詩人にも似合はずなか〳〵立派な体をしてゐると、その後時々言つたのは、この時に自分の裸を見て以来である。

 自分は谷崎の友情に依つてどうやらかうやら文章が書けるやうになり、また世の中へも出して貰つて、兎も角も芥川の後にもついて行け、同じ仲間として議論をしたり話をしたりしてゐた。自分は無論芥川の書くものを好きとか嫌ひとか善いとか悪いとか云ふ以上に注目してゐた。自分の癖で、甚だ善くないとは思ふが、自分は誰かゞ悪いと云へばその中から善い所を発見せずにはゐられないし、また善いと云ふ人があるとその中にある欠点を数へ上げずにはゐられない。ところでその当時に於ける芥川の著作は到る所で好評であつた。自分は自然彼の作品の中から欠点を拾つては直接作者に、或は又間接にその芸術の欠点を述べることがよくあつた。自分は芥川の長所は充分に認めた上でのことなのだし、また芸術上の友達と云ふものは歯に衣被せず感じたことを云ひ合つて切磋琢磨することは当然のことだと考へるので、忌憚なくどん〳〵と何でも云つて除けると云ふ風があつた。かう云ふ点では昔も今も自分は一介の野人である。さうしてよく敵を作つてゐる。然し自分を殺して敵を作らないよりは仮令敵は作つても傍若無人に自分を表現した方が生き甲斐があると思つてゐる。理窟は抜にして自分は言ひ度い放題のことを何時でも云ふことにしてゐる。その代りには成べく陰口ではなく大つぴらに直接その人に聞えるやうな所で云ふやうに心掛けてゐる。このやうな自分の気質としては明けすけに云ふと云ふことが一種の親愛の表現なのである。

 芥川と自分との性格の相違は重にこの一点にあつたやうに思ふ。芥川は自分自身に対しては仲々忠実な妥協的な所の少い人であつたが、一面には他人に対してさう傍若無人に振舞へないらしかつた。例へば芥川は谷崎に向つて、

「それは佐藤の芸術はいいにはいいけれども、要するに一つ穴の笛なのだから心細い」

 と、云つたと聞いた自分が、その後の機会に芥川のその説に賛成して、

「全く今のままではいけないのだ、どうかしなければ。──一つ穴の笛で」

 と、言ひ出すと、芥川は

「しかし君がもし一つ穴の笛ならば、今日の文壇果して一つ穴でないものに誰があるかね」

 といふ。けれども猿又まで貸して貰ふ自分としては、どうも芥川の社交的な返事が気に入らない。かう云ふことが時々あるので、自分は芥川の言葉に表裏があるやうな気がしてその不服を谷崎によく漏らしたものだ。谷崎はすると自分をなだめて

「君は偏屈な一克な所があつて、田舎者だからさう思ふのだらうが、芥川は江戸つ児で社交性があるから自然さう云ふことになるので、それは君の方が悪いんだよ」

 さう云はれて見ると自分は黙つて了ふより仕方がない。その癖どうも芥川の、谷崎の所謂都会人芥川の社交性が矢張り気に入らない。

 或る時自分がポオーの「影」と云ふ小品を訳したことがあつたが、芥川が五六人の友人や後輩とこの飜訳の噂をして、間違ひだらけで迚も読んでゐられないと云ふ意味のことを言つたとかで、それをその席上にゐた一人のおしやべりが自分の所へ来て伝へた。自分は語学に就いてはまるで自信がないので、その訳文も発表するまでに谷崎やその外の友人にも見て貰つたり、直して貰つたりした程なのだから、若し時間さへあれば芥川にも見て貰ひ度いと思つてゐた。それで芥川がさう云つたと云ふのを聞き、甚だ心配すると同時に然し自分にも多少の己惚はあるから、まさか読んでゐられないと云ふ迄の酷いものとも自分で思ひ度くなかつた。自分はその感情を素直に述べて、近日芥川の所へ教へを乞ひに出掛けると、自分に芥川の言葉を伝へた男に言伝をした。後になつて分つたがこの男と云ふのが、まるで人格も何も無いやうな人物であつたから、その言葉をその儘に信用する訳にも行かなかつたし、またこちらの言伝てもどんな風に伝はつたか分らないのだが、兎も角も一週間と経たぬ中に、或る夕方芥川が自分の所を訪ねた。自分は彼の顔を見ると、先日から彼の所へ出掛けようと思つてゐたことを早速述べると、彼はちよつと早口で

「いや、実はそのことで来たんだがね、大へん失敬した。君の飜訳はゆつくり読んで見るとなか〳〵悪くないんだよ。これを進呈しよう」

 と云ひ乍ら彼はエドモンド・ゴスが訳したフーケの「ウンデイーネ」を懐から取り出すと自分の机の上に置いた。

 此の時に限らず自分は芥川に会ふと多少気に入らないことがあつてもすぐにそれを忘れて了つて急に親愛の感じの方が先に湧く。かう云ふと自分も卑屈な人間のやうに聞えるかも知れんが、自分は他の相手に対しては必ずしもさうではない。厭な人間に逢へばいきなり厭な顔もするし、厭でないまでも多少気に入らない気持を持つた相手にはその感情を顔にも言葉にもすぐに出して了つて、その後に了解して打ち解けるなり何なりするのだが、芥川の場合に限つては、彼に会ひさへすれば自分はその間だけ何の濁つた感じもなしに、素直な親しみを感じられるのであつた。今考へればそれは彼の一つの人徳であつたかも知れないのだが、その当時自分にはそれが明かに一つの重荷であつた。何んだか巧く丸められて了ふやうな気がした。さうして別れて了つてからまたしても都会人芥川の社交性を二重に呪ふのであつた。

 また一度かう云ふことがあつた。それは芥川が「妖婆」を書いた頃だから、調べて見ると大正八年の秋だ。さうして今の「影」のことがあつたのもその頃だが自分は当時新潮へ月評を続けてゐた。その月評で自分は宇野浩二の「苦の世界」と芥川の「妖婆前篇」とを取り上げて批評した。「妖婆」は芥川として明かに失敗の作品であつた。自分はこの批評で可なり判然とそれを説明した。その年の十二月も、さうだ大晦日であつたが、芥川は自分を散歩に誘ひ出した。芥川はオー・ヘンリーやアンブロース・ビアスの作品を自分の為めに紹介し乍ら本郷の通りを歩いてゐる夕方であつた。あそこの鉢の木と云ふ家へ行つて、夕飯を一緒に食つた。その時に芥川は話の序にかう云ふことを云ひ出した。

「君一つ友人としてかう云ふことを了解してくれないか。つまりお互に誰が見ても明かに失敗したと思ふ作品を書いたやうな場合には敬意を表し合つてその批評は緘黙し合ふことにしようぢやないか。天下の誤解を避ける為には、之は確に必要なのだよ。例へばまあ誰でもいいが、仮りに水守亀之助が一生一代の傑作を書いたとする。その同じ月に谷崎潤一郎が之は一生一代の悪作を書いたとする。それを並べて一遍に同じやうに論じ出したらその批評を読んだものは水守亀之助よりも谷崎潤一郎の方がつまらない作家の様な錯覚に陥入つて了ふ。之は明かに批評家としての本意ではない筈だからね」

 何処となく自分の気を兼ねるやうな句調であつた。自分は答へた。

「全くさうかも知れん。何しろ自分はもう批評はやらん。作家の為めにも成らず、自分の為めにもならず、読者だつて啓発出来るかどうだか分らないのだから……」

 慥その晩であつたと思ふが自分は外に憂鬱なる事件がありへんに淋しくつて芥川と別れ度くなかつた。その感情を彼に伝へると彼はそれでは自分の家へ来いといふ。そこで自分は彼について行つた。道々自分は芥川程の人物が、敢然と孤高の生活をすることをせず身辺に沢山の同輩や後輩を集めて何か世俗的の勢力のやうなものを喜びまた芸術上の精進を一心に練るだけで充分とせずに、社交的の方法でその市価を維持しようとするかのやうに考へた。四五回位で自然立ち消えのやうになつて了つたが、その頃あつた三土会といふものなども芥川などが中心になつて、その頃の有力な新進作家を有ゆる方面から網羅して毎月第三土曜日に集会する会合だつたが、この会なども、自分もこの会員ではあつたが何となく、一種の朋党的結社のやうな気がしないではなかつた。自分はそれ等のことを思切つて今晩彼に語つてもよいと考へたのだ。彼の家へ行くと彼はいつものやうにいろんな画集などを出して見せた。その頃彼はデューラーの版画が好きで殊にその「メランコリヤ」の隙間のない構図を大へん好いてゐた。またルーベンスの愛顧者でもあつた。前者の方は後年にはあんまり言はなかつたが、ルーベンスは後までもよく話の種になつた。その晩は吾々が座に落付くと間もなく芥川の所謂お隣の先生たる香取秀真氏が来られた。近世の日本の美術や工芸美術の話などが出た。夏雄の話が出て芥川はこの明治初期の金工の名家の名を知らなかつた。非常に熱心な態度で香取氏の話を注意してゐた。自分は彼の好学の気風を目のあたり見ると同時に彼がただ読書に依つてだけでなく沢山の各方面の先輩と交友することで見聞を広めてゐるのを見た。自分は香取氏の来訪の為めに言ひ度いことを言はずに了つたが、その感情が思はず漏れて

「君には文晁のやうな一面があるね」

 と、云つて了つた。芥川は真面に自分の顔を見つめたが、すぐに

「文鳥にでも目白にでもなれさへすればいいのだがね」

 と、軽く受け流した。

 自分は当時非常な神経衰弱で随つて物事をひがんで解釈してゐたのかも知れない。今にして考へると芥川は見かけの颯爽としてゐたに関はらずまた談論に俊邁の気があつたにも関はらず実際は非常に気の弱い細心な性格であつたのを自分は気付かなかつたのである。さうして自分は彼を一種の八方美人的な政策家だと誤解してゐた。この罪の大半は元より自分にあるが一半は彼もこれを認めなければなるまい。

 芥川は自分が彼をかう云ふ点で非難してゐることは知つてゐた。さうして或る時

「今日の文壇が政策的になつてゐるとは云ふけれども、それは何も今日とは限らない。森鴎外のやうな人でも、読売新聞は早稲田派になるから用心をしなければならん、と云ふやうな手紙を友人に書いてゐるんだから」

 と、云ふやうな言葉で、それとなく自己を弁護したことがあつた。



 自分が何かしよげたことがあつて故郷へ引き籠つてゐるやうな時には彼はいつも親切な友情を示した手紙をくれた。自分は痩我慢で生活に屁古垂れてゐるやうな素振も成る可くしなかつたし、また芥川に直接会ふ機会も少くなつた後にも、芥川は何よりもよく僕の生活の様子を呑み込んでゐるらしかつた。筆無精な自分も芥川には時々手紙を書いた。故郷にゐる時ばかりではない東京にゐてもすつかり参つてゐるやうな時に、彼はひよつくり自分で訪ねて来たり或は言伝を人に托して来たりした。自分が或る出来事で谷崎とも交友が絶え家庭も破壊して了つて東京の市中を半ば放浪するやうに生活してゐた頃、芥川は瀧田樗陰に言伝をして、「佐藤は僕が佐藤の好まないやうな沢山の友達を持つてゐたりなどするものだから何にかと僕まで誤解して僕にもいい感じはしないでゐるらしいのだが、その点よく言つて貰ひ度い。僕は恐らく何人よりも佐藤の才能を買つてゐるつもりなのだから」と云ふ意味を、瀧田が自分に伝へてくれた。全くその頃自分は二三年間殆ど文壇の何人とも交際しなかつた。随つて、今までとは格別の感情を懐いた訣ではなかつたが自然と芥川に逢ふ機会もなく交通も暫時絶えてゐた。自分は瀧田の言葉を聞くと芥川に手紙を書く気になつた。

 実際自分と彼とは一面に於いて非常な親愛の感情を持つてゐ乍ら、他の一面ではどうしても融合出来ないやうな何物かがあつた。ひよつとするとこれは吾々の二人の中に余り共通し過ぎる点があつたからかも知れない。芥川も此の点を不満に思つてゐた事は、震災後間もなくであつたが新潮の佐藤春夫の印象の中に、芥川が「佐藤の誤解」と云ふ文章を書いてゐるのを見ても分る。それは半分は冗談句調だけれども柔かな調子の中になかなかしつかりと抗議を申し込んだものを自分は受け取るのである。この一文は随筆集「梅馬鶯」の人物記の中に蔵められてあるが自分がそれを読むと彼と自分との性格の相違が可なりはつきりする。此の意味でこの短い文章は自分には非常に面白い。芥川は自分が彼を旗幟鮮明に物を言はないと批評したことがあつたのに対してかう云つてゐる。──

「僕はいつも旗幟鮮明である。まだ一度も莫迦だと思ふ君子に、聡なるかな、明なるかななどと云つたことはない。唯莫迦だと云はないだけである。それを旗幟不鮮明のやうに思ふのは佐藤の誤解と云はなければならぬ。」

 この引用文は芥川の生活態度をよく語り、また自分には彼と自分との相違をはつきり示した。成る程芥川は莫迦だと思ふ君子に聡なるかな明なるかなと言つたことは一度も無かつただらう。若しさう云つたとすればそれは旗幟不鮮明どころではなくて心にもないおべんちやらを云ふことになる。芥川はただ莫迦だと云はないだけであると云つてゐる。芥川の云ひ分は如何にも都会人らしい云ひ分である。仮令相手を馬鹿だと思つても相手を馬鹿呼ばはりすることは流石の田舎者の自分でも慎む。然し、芸術の世界などに於いては、就中、批評などでは自己を表現する必要上随分、馬鹿だと思つてゐる人物をその通りに告白しなければならない勢ひに駆られることは屡々ある。実に屡々ある。また文字に書いた批評ではない迄も文学上の交友の場合には一般社交の場合と違つて、凡ては明けすけに自己を表現し合つた方が愉快な結果が得られると自分は思つてゐる。恐らく論理としては芥川も自分の此の説を認めるだらうとは思ふが然し都会人としての彼の社交性とまた彼の気質の弱さとが邪魔をして、心中彼が馬鹿だと思つてゐる人物に対しても唯聡なるかな明なるかなと云はないだけで、唯莫迦と言はないどころではなく、態度に於て屹度相当の人としての好意を示しそれをまた人として当然の義務であると信じたに違ひない。さういふ彼の見地からすれば自分の如き粗野な態度は野蛮な不作法なものとして彼をいくらかは煙たがらせたには違ひない。それに彼に取つては殆ど無意識であつたらうが、最初に江口から自分の話を聞いて以来自分が彼の芸術を愛顧し乍らもなか〳〵文句があると聞かされてゐたので、それに自分の態度が今も云ふ通り時々無躾なので、彼は何んとなく警戒すべき相手として自分を感じたのではなからうかと思ふ。また自分としては最も不遇な時代に幸福な羨望すべき同輩として目に映じた彼に対する競争的心理が、無意識であつただけに一層露骨に現れることがあつたに相違ないと今になつて反省されるのである。

 世間の人々は芥川と自分との多少相容れない感情の方面だけをよく知つてゐてその根柢に於いて案外しつかり結ばれてゐる友情と云ふものに就いては一向気がつかないらしかつた。然し、当事者たる吾々同志はその両方を無論よく気付いてゐた。芥川は或る時かう云つて笑つたことがある。

「おい、君知つてゐるか、君と僕とは高村光太郎に依つてレオナルドとミケランゼロに比べられてゐるが、愉快だね。──いやかうなんだ、或る男が高村氏に、佐藤と芥川とはなぜああ仲が悪いんだらうと、云ふと、高村氏はおもむろに、一体昔から芸術家と云ふものはレオナルドとミケランゼロにしても……と云ひ出したと云ふんだよ。レオナルドとミケランゼロを持ち出した所が高村氏らしいね」

 また或る時、

「一体吾々の感情を時々疎隔させる奴があつて困るよ。君さう思はんか。×××××などの連中がすることなんだね」

 ×××××と云ふのは或る男の著書の名前で、此のくだらない雑文家は、以前「影」の飜訳の出来事に芥川と自分との間へ立つてお饒舌りをつとめた男であつた。

 芥川が編纂した文芸読本に就いてその中に作品を集録されてゐる或る先輩が著作権のことに就いて芥川の企に多少の不平があるらしかつた。若しその先輩が云ふ通りだとすると、自分もそれを聞いた以上芥川にそのことを伝へた方がいいと思つたので自分は別に誰がそれを云つたとも云はずにただしか〴〵の意見を述べてゐる人があつた、とだけ云ふと、芥川はすぐに頷付いて、その話ならばもう聞いてゐるがその人は直接君にもそんな話をしたか、と云ふから自分はさうだと答へると、芥川は、

「やつぱり君と僕と仲が悪いと思つてゐるんで大いに君の同感を求めた訳けなんだね。有難う、何んとか一つ誤解を解く方法を講ずるよ」

 と、答へた。

 余談だけれども芥川はこの先輩に対して如何なる訳か多少被害妄想的と思はれるばかりな一種の感情を持つてゐた。比較的新しいことであるが或時、

「某氏は僕のことを支那梅毒で何にも仕事が出来なくなつてゐる、気の毒だなあ、と云ひ触らしてゐる序でに君も同様の巻添ひを喰つてゐるぞ」

 と、云ふから自分は笑つて、

「某氏も一つ支那梅毒にでもなつたら仕事は出来なくなるかも知れんが、多少質のいいものは出来るでせう、と、連名でさう云つてやるかな」

 自分はたいして気にも止めずに聞いたが芥川はそんなことを云はれてゐると云ふので余程苦にしてゐるやうであつた。

 先日彼の全集のことで小島政二郎に逢ひ彼のことをいろいろ話したが、小島は自分と芥川との間柄は争友とも云ふ可きものだつたらうと評したが或ひはそれが適評であらう。

 兎も角も一種特別な友情がかうして十年近く続いてゐた。友達と云ふものを殆ど持たない自分としては、芥川は可なり重要な友人であつた。文通をしたばかりでなく、思ひ出したやうにではあつたが、芥川がわざ〳〵田端から或ひは四谷へ或ひは小石川へ出かけて、時には話し込んだり時には散歩に誘ひ出したりした。また自分を彼の家へ招いたりした。自分が故郷へ帰る前に約束をして置いて行けないことがあつた。恰度その日に行き合せた或人の話だと、今日は佐藤が来る筈だと云つて芥川はそわ〳〵して自分を待つてゐてくれたさうである。然し家を畳んで一年ばかり田舎で住む積りをしてゐた自分は、いざと云ふ時になつて用事が続出してたうたう彼を訪ねられなかつた。自分は大阪から事情を述べて彼に違約謝罪の手紙を出した。彼の返事では少し怒つてゐたが君の手紙を見て怒りが解けた、と云ふことや、田舎にゐる間に若し著書でも出すやうなことがあれば不便だらうから自分が代つてその為めに努力していいと云ふことなど何時もより特別に親切な文言があつた。後輩や文学青年や用事のある人は別として、同輩でお互に家を出入りするやうな友人は谷崎以外には芥川室生位よりない自分としては、芥川を何んと云つてもほんとうの友達に数へてゐたのだが、ただ恐れる所は芥川には自分などよりももつと古い親密な友人が沢山ある筈だから自分に取つて程彼に取つて自分は重要な友達ではないかも知れないと云ふ気持がいつも先に立つてゐた。それに前述のやうな一面に於いてはぴつたりと一致し難いやうな点があり別の一面では非常にしつくりと合つてゐるだけに一層もどかしく思ふ事がよくあつた。

 然し、今にして回想すると自分が諦めて此友情の為めにもう余り努力しなくなつてゐたにも関はらず、昔は自分の方から肉薄するとそれを避けるやうな傾きのあつた芥川は、今度は進んで自分との友情を深めやうとする跡が瀝々として見えるのである。第一に自分に手紙をくれる度数が非常に頻々になつた。それ等の手紙は一二を除いて残らず保存してあるし全集にも出るからこゝでは省略して置くが。

 然も自分は彼が亡くなつた後になつて始めてそれを悟つたのだから全くそのことを思ふ毎に断腸の感がある。然し徒らにそんな感傷を縷説するよりも出来るだけ事実を多く書いてせめては彼の風丰を後に伝へる方がよささうである。



 回顧すると大正六年の春から去年の七月まで満十年の間に吾々の友情は、三つの時期に分つことが出来る。第一は大正八年の暮位即ち鉢の木で芥川が自分の「妖婆」評に妥協的抗議を申出た頃までであり第二期はその後から震災の時まで位である。これ等の時期のことは大体今迄に書いたが、此の第二の時期は残念乍らその以前よりも疎遠になつて了つてゐたと云はなければならぬ。それでも今にして考へるとそれは自分の罪で芥川のせいではない。恋をも友情をも芸術上の自信をも失つて了つてゐたその頃の自分は思へば芥川の友情をも寧ろ自分の方から、消極的にではあつたが冷たく拒んでゐた傾きがある。自分は殻を閉ぢた磯の貝かなどのやうに芥川の暖い心を拒んでゐたやうな気がする。彼は決してさういふ積りでなかつたものを自分が彼から憐まれてゐるやうな気がして素直にそれを受け入れなかつたのだ。これ等の時期にでも芥川は実に屡々自分に友情を示して呉れたのを後になつてやつとはつきりと気がつくのだから吾乍ら、ひねくれた自分を恥かしく思ふ。瀧田樗陰を通じて自分を勇気附けるやうな言葉を伝へて呉れたのも、亦自分の作品「星」の訳文がアメリカの雑誌に出てゐると云つてそれを送つてくれたのも、亦自分が二三の支那の詩の訳を発表したのを見てデユーディス・ゴーテイヱヱの支那詩集の英訳を自分に呉れたのもこの時期のことである。だから彼の気持ではこの時期に於いても前の時期とは何んの変化も無かつたのであつたが、変つてゐたのは自分の方である。然しこの自分とても特に芥川にだけ冷淡でなかつたことを思へば彼に対する申訳も立ち自分でもいくらか慰められる。第三の時期は、震災の後の年頃から始つた。吾々の友情はその以後段々純粋なものになり、それが年と共に深められようとしつゝあつたのでさうして思ひ掛けなく絶えて了つたのだ。全く呪はれた友情の歴史だと云はねばならぬ。さうして、自分の回想の最も貴重な部分はその最後の時期の吾々の友情に関することであるのは云ふまでもない。

 支那麻の座蒲団とニツケルの片側時計との二重の暗合に吾々が打ち興じたことは前にも書いたが、そのことのあつた日自分は彼に誘はれるまゝに興津庵で御馳走になつた。食卓での話題は谷崎潤一郎論で終始した。また、風流では小説が書けないといふ説で我々は一致した。その帰りに日蔭町の村幸へ立ち寄つた。震災の翌年の九月頃のことでバラツク建の町の中は非常に暑かつた。村幸では芥川はギリシヤやペルシヤの陶器などを見てゐたが、その中の一つの緑色の光つた小さな壺を愛玩してゐる中に壺は不意にまるで卵の殻のやうにくしやくしやに潰れて了つた。芥川は喫驚して文字通り青くなつた。然しその壺は元からこな〴〵になつてゐたものを裏から紙で継ぎ合して原型を保存してあつたものであつた。さうしてこの店と馴染のある芥川の粗忽を店の主人は無論愛想よく取り做したが微細な砕らの一つ二つが見えなくなつたのを一生懸命さがしてゐた。芥川は実に驚いたを連発し乍ら屹度冷汗であつたらう、ハンケチを出して切りに額を拭いてゐた。彼は元禄古板の好色本の小册子の為めに百五十円(?)を支払つた。吾々は銀座を散歩し、震災後分り難くなつた街通りをうろつき乍ら白鳳社をさがした。用事は無かつたんだけれども覗いて見度かつたのだ。そこで吾々はゴヤやルーベンスを語つた。芥川がルーベンスを愛したことは前にも云つたがゴヤに対しても亦非常な愛好の情を寄せてゐた。自分はルーベンスは芥川が云ふ程よく分らなかつた。芥川は「小杉未醒はルーベンスを分らぬと、つまり油絵と云ふものが分らんことになるとまで云つてゐるよ」などと云つた。序にも少し絵のことを云へば、「或る阿呆の一生」の中で彼はゴツホの絵を見て以来芸術愛好するやうになつたと書いてあつたと思ふが、後にはセザンヌの方をより多く愛しゴッホは見てゐていらいらさせると云つたこともあつた。ずつと後には何処かで、ゴーガンの実物を見てそれ以来酷くそれを愛好し普通の絵などと云ふものよりも特別な生々しい実感があると云ひ、モスコーにあると云ふゴーガンのコレクションを切りに見度がつてゐた。──ゴーガンのことは、「文芸的な余りに文芸的な」にも出てゐたと思ふが。レンブラントは生涯尊敬してゐた。

 話が尽きなかつたのでその夜、我々は新橋の或旗亭へ上つて十時頃までそこにゐて帰つた。二人きりでさう云ふ家にゐたことは前後唯この時きりである。

 この散歩の時に自分は近い中に当分故郷で住むことになると話して一度それまでに彼を訪はうと云ふ約束をしたのだ。その約束を果さずに帰つて了つたことや、またそれを謝罪した大阪からの自分の手紙に対して彼が自分にくれた手紙のことなぞは前にも述べた。この頃彼は病気で鵠沼に引き籠つてゐると云ふことが折々の手紙にもあつたし、また東京から訪ねてくれた人の話では余程酷い神経衰弱のやうであつた。自分の頼に応じて彼は自作の今様風の詩を三つ書いてくれた。

「字はつまらんが紙は朝鮮で男女の相聞に使ふものださうだからこれだけを珍重してくれ給へ」

 と、云ふやうな文句の手紙が一緒であつた。これ等の手紙は前にも云ふ通り皆保存してあるが、唯湯ヶ原からくれた絵葉書が一枚紛失して了つてゐる。それは自分の「砧」と云ふ小品を読んで自分達夫婦の田舎の生活を想像してそんなものは一向羨ましくは無いよこちらにもこんな作があるがどうだと例の「沙羅の水枝に花咲けば」云々の詩を披露しただけのものであつた。自分はそれを書いてくれと云つてやつたに対してその外に別に二枚一月とは経たぬ中に書いてくれた訳である。その時自分が世話してゐた青年が自分の故郷で死んでそれに就いて自分は実に思ひがけない腹立たしい無責任な批難を受けたが、芥川はそのことでも心配して自分をなだめてくれた。自分の父は芥川の字を見て彼も芥川に書いて貰ひ度と云ふ欲望を起した。

 自分は一年ばかし田舎にゐて再び翌年の十一月に上京し小石川に寓居を構へると、その年の年末彼は早速自分を訪ねてくれた。実は彼の病気のことを知り乍ら、久し振りの上京に沢山の用事を控へてゐて、まだ彼を見舞ふこともせずにゐたのであつた。午後の四時頃に来て引止めると十一時頃まで話し込んで行つた。自分の父が彼の書を求めてゐることを話すと、彼は思ひの外喜んでそれを引受けた。画帳へ俳画と句とを書かうと云ふ。自分は田舎から持つて来たガラクタのやうな品物を──之は全く文字通りガラクタなやうな品物を彼に見せると、彼は一々それを取り上げて、何んか言つてくれた。それはその後半月程して室生犀星が来た時には、まるで見向きもしなかつた品物である。室生の態度を正直な露骨な田舎者らしさとすれば芥川のそれは、都会人らしいものであつた。室生の厳格な鑑賞家らしい態度も無論よかつたが、持ち主を劬はるやうな芥川の言ひ分ももと〳〵自分の蒐集をそれ程貴重としてゐないだけにその場合自分に取つては決して不愉快ではなかつた。実際このやうな社交的な場面に於いては芥川の態度は宜しきを得たもんであつた。その夜は堀口大学も同席であつたし、話は格別の題目でも無かつたが、病気と云ふにも似ず快活によくしやべつた。或人がワイルドのことを「彼は話をしてゐさへすればいつでも幸福に見えた」と伝へてゐるが、芥川に就いても全く同じことが云へる。さうして斯く云ふ自分も人が見たならば、或ひはその通りかも知れぬ。芥川の文章は彼の話振りの感興豊かなのに較べると、まるで光彩がない、喘えぎ〳〵で書かれてゐるやうな気がするが、その同じことが口で言はれる時には、殆ど言葉は跳梁してゐた。病人らしい影などは何処にもなかつた。ただ、胃酸過多症だと云つて食後の柑橘の類には手をつけなかつた。

 話しと云へば彼は無論芸術論がこの上なく好きであつたし、好んで書物を読んだことから話題を得てゐたが、また世上の所謂ゴシップ風の話もしないではなかつた。いや、どちらかと云ふとなか〳〵さう云ふ話題をも持つてゐた。自分は以前芥川としては少しつまらん事に興味を持ち過ぎると思つた程だつたが、後になると自分がさう感じなくなつたのか、芥川もあまり世上の誰彼の噂を面白さうにはしなくなつた。さうしてその代りに古人の逸話などをよくしたが、これは芥川らしくつて、如何にもよかつた。思ふに斯う云ふ些細な方面でも彼はその教養を自分で加へて行つたんだらうと思へる。

 父から芥川に頼んだ画帖は自分がその画帖を届ける暇もなく彼の方から彼自身でそれを用意して頼んでから一月とは経たぬ中に届けてくれた。絵はどうしても駄目だと云ふので元旦と四季の句とを記した掌大のものであつた。自分の父は間もなく病気になり自分は老体を案じて帰省したが、芥川はすぐに病状見舞の手紙を父の方へも自分の方へもくれた。その自分にくれたものゝ中には、彼自身の病苦を訴へて彼自身でも長い生命でないと云ふことを訴へてゐる。言外にある感傷を見て自分は彼を勇気付ける短い手紙を父の枕頭で書いた。「君に死なれることは君自身はどうでもいいとしても自分に取つては困ることだ。出来るだけ長生きをして自分の芸術が少しでもよくなる所を君に見て貰はなければならぬから」と云ふ意味をあつさりと自分は書いた。幸に自分の父は恢復した。芥川の画帖を非常に喜び父は仰臥したまゝで礼状を書き、さう云ふことで自分の父とも芥川は二三の文通をしてゐる。

 その年の秋の午後芥川は自分を訪ねた。その日は来てすぐに──と云つて二時間位はゐたやうに思ふが、格別の話もなく帰つた。自分に外に出て夕飯をすることを誘ふたやうに覚えてゐるが、自分は当日無一文で外出出来なかつた。自分は殆どいつでもいろんな点で芥川の世話になりつ離しであつた。これは、芥川のみには限らないで大概の人に向つて自分はその通りであるが、芥川は無論さう云ふ点でこせこせ考へるやうな人ではなく、自分も酷く呑気でヅウ〳〵しいから一向苦にもならんけれどもあんまりそれが度重つてゐた。それにその頃は自分の家庭に不和があつて芥川と散歩するとすれば何れ三時間や五時間はしやべり合ふのだらうが、その時間さへも誤解されさうな惧れがあつた。若しこの時一緒に散歩に出て、しみ〴〵と話し合つたとしたらもう一層早く彼との交情を深め得たであらうと思ふ。何故かと云ふのにその頃の彼は後に思へば非常な淋しさに襲はれてゐたらしいからである。──即ち一昨年の秋のことである。冬になつて彼は「梅馬鶯」と云ふ随筆集の装幀を自分に試みさせた。自分は喜んで引き受けると、彼はその用事で我々の中に立つた新潮社員渡辺に托して、それ等の用件を記した手紙の末に

「渡辺君に頼んで病余の退屈を紛らす為めに君の退屈読本を一册せしめた。『妖婆』の批評は今では、ちつとも悪い気持でなく読める。あの作は後に『アグニの神』といふお伽噺に書き直したから序があつたら見てくれ給へ」

 といふ意味の手紙をくれた。惜しいことにこの手紙は、どこかへ紛れてしまつて、未だに現はれない。自分は友人の手紙は決して捨てない事にしてあるのだからそのうちどこかから出て来るだらう。

 自分に装幀をたのんだのも彼らしい友情の表現である。さうして後に聞けば彼はこの頃、もう自殺の第一回を企ててみてゐたらしい。



 年を越えて、即ち去年、彼にとつては最後の年、その一月の下旬に、夕方、彼は自分の家へひよくりやつて来た。その時のことはもう一度書いた事があるから、ここでは簡単に記すけれども、これは彼が自分に示した友情の最も高潮に達したものであつた。夕刻の六時から翌朝の三時に及ぶ長い対談であつた。もしこの一夕がなかつたら、自分の彼に対する追憶も多分今日の半分も哀切でなくて済むであらうと思ふ。

 彼は「梅馬鶯」の装幀の御礼だと云つて、エローブックの第二巻をくれた。自分がそれを喜ぶと

「我々九十年代の文学者にはとにかく懐しい本だから君なら喜んでくれるだらうと思つて」

 と、云つた。また彼の極近い身内に刑事事件の嫌疑者があつて而もその人が鉄道自殺をして了つたが為めに、彼は病躯を以つて奔走してゐたと云ふので、彼はその事件には酷く参つてゐた。また見掛けも窶れてゐた。けれども「河童」を書き上げたすぐ後らしく新作の内容を話し出すと、段々元気がよくなつて来た。文学論をした。彼はメリメの書翰集などから、面白い二三節を話して聞かせた。その晩彼の云つた多くのことは「文学的な余りに文学的な」の中に沢山書かれてある。一体彼は此点も自分と同じでよく自分が書かうと思つてゐることを話して聞かせたのである。我々はお互に我々の文学的才能に就いて悲観した。十年前の抱負が失はれたことを告白し合つたのだ。

「君は自尊心が強いから」

 と、自分が云つた時に彼は強く頷いて、

「さうだよ僕は見得坊だから。見得坊だから見得の為めには随分犠牲を払つてゐる。だからそのお蔭で何をし出来でかすか分らない」

 と、そんなことをも云つた。それからまた

「見得の為めにはそんなことは云ひ度くないんだが、僕は自分の文学的生涯を君と一緒に踏み出す可きであつたと後悔してゐる。××や○○(ここで彼は一二の人名を揚げて)などと道連になつたのは間違つてゐた」

「それは気質から云つても、体質から云つても、芸術的見地から云つても、君と僕とは非常に似てゐるのは慥なのだから。今まで一緒に踏み出さなかつたとしたら何もこれからだつて遅くは無いんだからね」

「いや遅い。もう遅い」

 彼はいつに似ず非常にぶつきら棒に答へた。自分は彼と今迄もつと親密であることが出来なかつた重大な原因を自分自身のせいだと云つた。一体自分は努めて明けすけに生活しようとし乍ら、根柢にはやはり最後の一つの物をどうかすると人に打ち明けないでゐる。さうしてその為めに自分はいつも孤独であると云ふ犠牲を払つてゐる。自分は心の陰部に無花果の葉をいつもくつつけてゐる種属で、自分が此のやうな態度である限り他の人に向つて心持の全部を披瀝することを要求することは出来ない筈だつた。芥川を見得坊と云ふ意味に於いて自分も慥にさうでありさうしてまたその犠牲を払つてゐる。思ふに芥川と自分とはかう云ふ点に於いても非常に類似してゐた。然し田舎者である自分はそのことをはつきり偏屈に現はしてゐるのに八面玲瓏な都会人である芥川は彼の性格の癖をも巧みにぼかして了つてゐた。つまり「自分は或程度までは胸襟を開きますがそれ以上は御免を蒙ります」と云ふのに対して、芥川の態度は、よく「歯に衣着せず」と前置きし乍らなか〳〵思ひ通りに云はないこともあつた。彼の気の弱さを自分は一概に政策的だと思つたり彼の自己韜晦をただ一種聡明なずるさとのみ思ひ込んで彼も亦孤独の人であると云ふことを自分はほんとうに知らずに居たのだ。

「僕は君を誤解してゐた点が多々あるからね」

 と、自分が云ふと彼は

「君と僕とを近づかせなかつたものは、君と谷崎との友情だよ。僕は嫉妬を懐いてゐたんだね」

 彼はまた云つた。

「若し僕が死んだならば、覚えて置いてくれ給へ、誄を書くのは君なのだからね」

 自分はそれに対して出来るだけ正直に自分は彼の芸術を悉く賛成することは出来ないし充分なものとは思はないけれども彼が芸術に注いだ熱情とまた何事を為さうとしたかと云ふ意向とは充分に之を了解する積りだと答へると、彼はそれで満足すると云つた。冬の夜は更けて行つて自分たちとして勢一杯な程度で感傷的になつてゐた。

 彼は非常に盛に煙草を吹かし大きな火鉢のぐるりには吸殻が林立し気が付いて見ると部屋には煙が立籠め、障子を隙けて置いた位では間に合はなかつた。煙草の箱は何度もすぐに空になつて了つた。どんなに少く見積つてもその一晩中に彼は九十本以上は吸つてゐる。自分も煙草は休みなくふかす方だが、彼のは余りに極端で、どうしても健康上有害だと思つたから自分は忠告をしたが、彼は、「そんなことはどちらでも同じだ」と多少捨て身のやうなことを云つた。夜が更けるに随つて例に依つて話に実が入つたが、此日はいつに無く話すにつれて彼は段々不幸な人になつて来て了つた。彼は愚痴つぽく彼の肉体苦と心理苦とを訴へ出した。非常に簡単ではあつたが、彼の境遇などをも述べた。今までに無い事である。

「くよ〳〵こんなことを考へてゐるよりは何も彼も簡単に片を付けて了つて、是亦生涯と云ひたい気持になることが時々あるよ」

 と、云つた言葉がへんに実感を持つてゐた。そして彼がさつき云つた「僕はこの頃自殺の方法ばかり空想してゐるよ」とか、「鉄道自殺の現場の話を聞いてこの方法だけはよさうと思つた」とか、「若し僕が死んだならば誄を書く者は……」などの常談めいた言葉も、彼の是亦生涯云々の言葉と結びつくとそれは自分を不安にした。自分は彼が心の中に重大な苦しみを持つてゐるらしいことを察してそれを人に打ち明けることを薦めた。言つて了ふと云ふことは心の荷を軽くするからである。然もその時の自分の言葉は今にして考へると自責に堪えぬ程非常に無責任なものである。自分は云つた、

「然し今僕に打ち明けてくれても困る。一体僕はおしやべりで人の秘密を引受けるには適しない。それに君には屹度僕よりも親しい友達がある筈なんだから」

 芥川は自分の意見に対して彼の苦悶を少しづつ人に明すやうに努めてゐると答へた。さうして自分の不安を打ち消さうとするが如く

「さうしてもうどうやら峠は過ぎて了つたのだから、かう云ふ気持も今に癒るよ、今に癒るよ」

 彼はその身辺にゐる二三の友人や知人(それは多くは自分の未知の人であつたが)の恋愛的生活に関して話し出した。それは噂話などと云ふ程度のものではなく小説家らしい生彩ある描写に充ちてゐた。それ等の話の末に彼は嘆息した。

「何しろ身辺にかう云ふ豪傑がゐるものだから、ついうつかりその気にはなつても我々のやうな気の弱さでは迚もかう云ふ超人のやうには振る舞へるものでない。さうかと云つて俗人のやうにてきぱきと金銭で解決出来るやうな事件でもなければ仮令さうだつたにしてもそんな気持にはなれん。かう云ふ点××などは実際幸福だ。あゝ云ふ実際家も一面に於いては超人と同じだね」

 確に彼は若し自分が敢てそれを問はうとしたならば何も彼も自分に打ち明けていいやうな心持になつてゐたやうな気がする。而も自分はそれを引き出さうとはしなかつた。実際自分は交友の多い彼にはそれ等の打ち明け話を聞くのにもつと適切な人がいくらもあるやうな気がしたのだ。どうやらこれも自分の誤解であつたらしい。小穴隆一は彼のいい友達で彼の晩年の生活を偕にしたのは人の知る通りであるが、年少で比較的に交友の新しい小穴を芥川がそれ程力にしたかと思ふと友達が多いやうに見えてゐても実際は孤独に近い彼であつたかと思ふ。自分は余りに個人主義的なあの夜の自分の言ひ分に自ら腹が立つ。腹の立つのはそればかりではない。最期にもう一つ重大なことがあるのだ。

 自分は「処世術」と云ふほんの五六枚の小品を書いてゐる。それは或時つまらない週間刊行物から頼まれてほんの責を防ぐ為に書いたものだが芥川はそれを「退屈読本」の中で読んだらしい。さうしてその主人公とも云ふべき人物を彼のことだと自から感じたらしい。その晩話の途中で彼は殆不意に言ひ出した。

「君、かう云ふことは訊いていいものか悪いものかは知らないが若し差支へなかつたらちよつと一言漏らしては貰へないだらうか。君の『処世術』の中に出て来る人物はあれは僕のことか。違ふか」

 彼は如何にも思ひ切つて云つたと云ふ態度であつた。決して怒つてゐるのではなかつた。が、白刃を閃かしてゐるやうな意気込みだつた。僕に向つてと云ふよりは寧ろ彼自身の自尊心に対してと云ふべきである。自分は全く参つた。と云ふのは、処世術の中に漫画として表現したのは無論その全部が芥川であらう筈はなくまたその作中人物に対して持つてゐる感じはたとひ以前に書いたものではあつたけれども芥川に対する感情そのものではなかつた。然し、その部分の中には作者自身も書き乍ら芥川を決して思ひ浮べなかつたとは云へない部分があつた。さうして恐らく芥川もそこに注目したに違ひなかつた。この複雑した自分の感じを自分は成るべく簡単に云ひ度いと思つた。然も自分は相手の余りにひたむきな態度にちよつと狼狽して了つた。

「そんなことを君、あれは君、架空談ではないか。さう開き直つて問はれては……」

 自分がさう云ひかけると芥川は自分の言葉を引き取つて、

「困るか──漏してはくれられないか」

 自分は尚ほ一層うろたへ乍ら言つた。

「君のやうに独りできめて了つては困るな……」

 自分は寧ろ卑屈な態度でじつと芥川の顔をまともに見た。見ると彼の目には涙が浮んでゐた。自分は始て彼の顔をゆつくり見たやうな気がした。一杯涙の溜つて来た切れの長い大きな眼を美しいと思つた。自分は彼の気魄に呑まれて了つた。

「いいよ〳〵。漏らし度くなければいいのだよ」

 彼は相手をなだめるやうにやさしく云つた。さうして言ひ足した。

「僕は一種精神的のマゾヒストかも知れん。一遍散々に誰かゝら思ひ切つて言はれて見度いんだ」

 ちよつと沈黙した後で彼は自分の感情を隠さうとするかのやうに非常に多弁になつた。真夜中まで話に夢中になつて湯もたぎり立つてしまひ水さしの水さへなくなつてゐたのを見出して茶を用意しようと立つた自分の素足などを見て彼は、寒中に足袋を穿かないでゐた自分を驚嘆してそれからわざ〳〵彼の足を出して足袋を脱いで見せた。毛皮の裏のついた足袋を穿いてゐた。

 自分は後になればなる程あの時何故もつとはつきりと、今日では既に充分消えてゐたとは云へ以前に彼に対して持つたことのある不満を羅列しなかつたかと自分の卑怯な態度を自から激しく批難しないではゐられない。然しまた自分を弁護する。あの晩の彼は余りにもヒステリカルで立ち向ふにしては余りにも痛はしかつた。然し再び重ねて思ふ。その痛はしいばかり真剣な状態にゐる彼だつたればこそもつと何も彼も云つて了ふべきであつた。嗟。この夜、自分は友に対しては不信であり、自分に対しては卑屈であつた。

 その後廿日程して自分は谷崎に逢つた。さうしてその夜の芥川の状態を話し自分が彼の気魄に圧せられて怯えてしまつたことを告白した。谷崎は自分と一緒に云つた。

「さう云ふ心持で生きるやうになれば芥川もずつと偉くなるだらう」



 その一晩のことを、自分と彼とは宛も暗の中で恥かしいことをし合つた同士が、明るみで互に知らん顔をしてゐるやうに、その後人中で二人が顔を合した時にどちらも素振りには現はさなかつた。ただ彼の様子はその後非常に快活になり、又仕事も何時になく捗つてゐるのを見て自分は稍安心した。さうして或る時その喜びを簡単に彼に云ふと、

「有難う、あの時君があれだけ云つてくれただけでも余程助つた。感謝してゐるよ」

 彼は自分の耳元で囁くやうに云つた。その後彼はもつと客観的になつた。話の序に「何時か大いに夜更まで君を悩ました頃のことなのだ」などゝ云ふやうになつた。

 二月の末に我々は改造社の講演会の為めに大阪へ一緒に行つた。岡本の谷崎の家で一晩泊つた。岡本の梅林の中で彼は、

梅散りかゝる葱畑

と、云ふ句の上五字を案じわづらうてゐた。谷崎が酒を飲む為めに這入つた酒場で下戸の彼と自分とは手持無沙汰だつた。芥川はクンメルを飲まうと云ひ出した。酒を知らない自分は彼が薦めるまゝにそれを飲んでメルヘンの味がすると云つて喜んだ。彼は自分の批評に酷く賛成した。谷崎は我々にアニゼットを飲んで見よと薦めた。それはクンメル程うまくないと云ふのが二人の同じ意見だつた。

「クンメルをメルヘンの味ひとすればこれはただリリカルなだけだ」

 さう云つたものは芥川であつたか自分自身であつたか忘れて了つた程全く同意見であつた。この大阪行とどちらが先であつたか、とにかくやはり同じ頃にやはり改造社が招待した観劇会の帰りに自分は里見弴の自動車に誘拐されて、吉原の引手茶屋へ連れて行かれた。別の車の中に芥川もやはり酔払ひ達のポン引にかゝつた仲間だつた。自分と彼とは隣り合つて坐つてその場を逃出す時期を見はからつてゐた。外の人々は殆ど皆酒を飲むので大分酔態を演じてゐた。芥川は自分に囁いた、

「君は酒を飲んで躍る気持になれると思ふか、まあ歌位ならば微吟するかも知れないが」

「迚も〳〵、躍るなどは思ひもつかん、歌だつて醒めてゐたら却つて歌つて見るかも知れんが酔払つては迚も駄目だね」

「さうか、」彼は笑ひを浮べ乍ら「所詮吾等は屈原ぢや

 佐々木茂索や芥川と一緒にその場を抜け出した自分は一旦家へは帰つたがすぐに再び帝国ホテルに在留してゐる谷崎を訪ふ気になつた。行つて見ると谷崎は留守で、そこに宿を取つた佐々木夫妻の部屋に芥川が来てゐた。芥川は自分の借りた一室へ来て二人でしやべり出したが我々の声が大きかつたので隣室の宿泊者が怒つて向ふから壁を蹴つた。もう一時であつたのだから当然のことである。我々は仕方なくロビーの焚火してゐるストーブの前へ腰掛けた。間もなく留守だつた谷崎が帰つて来てやはり焚火の前に坐りその中にこれも引手茶屋にゐた連中の一人である久米がひよつくり表のドアを排してすぐに我々三人を見つけた。この焚火はすぐ玄関側にあつたからである。吾々の四人はこの一晩中段々勢の衰へて行く焚火の前で久し振りに芸術談で夜を徹した。どんなことを言ひ合つたかは頭が疲れてゐたからその翌朝既に思ひ出せなかつたが、自分と芥川とは時々外の人達よりも意見の合ふ所が多かつた。例へば谷崎はウェデキントを認めなかつた。自分は大いに認めると芥川は「彼の芸術には奇峭で孤高の点がある」と云つて自分に賛成した、自分がトルストイを余り推服しないのに反対して谷崎と芥川とは同じ意見であつた。然し芥川は自分がトルストイを偉大と思ひ乍ら好かない理由をすぐに了解した。我々この四人の芸術観或は芸術そのものを較べて見ると久米と自分とは互に一番遠距離で恰度その中間の二点に谷崎と芥川とがゐるやうな気がする。つまり久米と谷崎とは一定の距離を隔てゝ隣合つてゐるし、それと殆ど同じ位の距離を隔てゝ谷崎の隣りに芥川がゐるし、また同じだけの距離を隔てゝ別の端に自分がゐるやうな気がする。自分は交友の上に於いては谷崎とは非常に密接ではあり、芸術の上でも血族には相違無いが単に芸術の距離の近似に於いては谷崎よりも寧ろ芥川にずつと似てゐるやうな気がする。この一晩の偶然な会合を芥川は非常に喜んだ。それ等の対話が文字にすることも出来ず消えて了ふのを非常に惜んだ。さうしてその翌朝その時の議論を誠に我々は思ひ返さうとしたのだが、今も云ふ通りもう覚えてはゐなかつた。それ程頭が疲れてもゐたしまた話題が豊富でもあつたのだ。

 この頃自分はちよつと外国へ旅行したい考へがあつてそれを聞いた或る人が親切に自分の為めに物質的の便利をはかつてやらうと申込んだ。自分は自分だけでなく道連があるといいと思つた。その道連の一人として芥川を数へ上げると自分の後援者は芥川の為めにも旅費を支出していいやうな話であつた。この事を芥川に話すと、彼は非常に乗り気になつた。露西亜を通つて仏蘭西からスペインや伊太利の方を通りエジプトから土耳古近東の諸国若し出来るならペルシャなどへも行つて見たいと云ふ点で彼と自分との意見は殆ど全く一致してゐた。後に聞けば彼は某実業家が事業上の視察の目的で派出したアマゾン河流域の踏査団に投じ度いと云ふ希望も持つてゐたさうである。彼が愛好したアンブロース・ビアスのやうに行衛不明になつて了ふと云ふやうなロマンチックの考もあつたかも知れん。

 春の終りに書肆アルスが児童文庫刊行の計画でその一册として芥川と自分とに支那童話集を執筆させようと云ふので下相談があつた。ほぼ承諾した上で芥川は打ち合せの都合もあるし一度彼の家まで自分に来ることを希望した。さうしてアルスの編集員を使ひとして自分を迎ひに来さした。用談は簡単に済んで編輯上の意見として芥川は物語りを年代的に編纂して見たいと云ふことゝ出来るだけ早く原物を纒めようと云つた。後で思ふと出来るだけ早くと云ふことを力説してゐた。都合に依つては二三週間程、何処か温泉へでも出掛けてそこで一緒に仕事をしていいと云つた。二人で何処かへ出掛けると云ふことはその前にも云つてゐた。自分は四五年前に支那の詩を訳しようと思つて、然し自分では訳するのに適当の詩を選び出せないし、また切角選び出してもそれが難しかつたら中絶したりまた出来て見ても果して出来栄がいいか悪いかも心元ないので趣味の似通ふた芥川に相談して貰へるといいと云ふことを間接に申込んだことがあつた。芥川はそれを覚えてゐて何処か温泉宿でゞも支那詩集をやることにすれば滞在の費用位は出るし二人で遊べると云ふ考へがあつた。それを近年になつて自分に薦めたのだが自分は機会を得ずにゐた。支那童話集の話に就いて芥川は矢張りこの詩集と同じやうな方法を考へたのである。然し自分は家庭上の都合でちよつと当分出かけられさうもなかつた。アルスの編輯者は早く帰つて了つて──(こゝまで書いて来てちよつと不思議なことに芥川はその日自分に火燵の中へ這入ることを薦めたのを思ひ出すが、若しそれが外の時と混同してゐるんでないとすればこれは春の末ではなくて春の早い頃だつたかも知れぬ)兎もかくも二人切りになつた時に芥川は自分に云つた。

「ちよつと君に聞いて置いて貰ひ度いことがあるが、友達として相談をするがね。実は菊池がアルスと似たやうな、と云つてまるで同じでもないやうだが、ともかくもまあ少年物のシリーズを作らうと云ふので僕も編輯者の名を列ねることになつてゐる。所で今のアルスの話だが本来なら僕は引受けない方がいいのかも知れんが、君も知つてゐる通りアルスは僕に取つては最初に「羅生門」を出してくれた関係もあり、今まで頼まれるだけのことは何一つ断らなかつたのだ。今度もどうも断り度くないのでこの点を君含んで置いてくれ給へ。何れは同じものではないんだから差支はないと思ふが後になつて君がへんに思はんとは限らんからね」

 そんな話もあつた後で彼は沢山の愛玩品を取り出して自分に見せたり説明したりした。(さうだやつぱり春の初であつた、彼は二階から離の書斎の方へ下りて行つて書物を持つて来た。さうして「離れは君にはまだ見せないがあそこは冬は寒くつてね、」と云つたものだ)彼は三時間ばかりそんな品物を見せたり話たりして自分には旧い分銅の下つた真鍮の掛時計を柱からはづしてくれた。またルーベンスの大きな三色版、何かのデテールであつたと思ふが、それを見せて

「僕は谷崎潤一郎にルーベンスになることを要求し度いんだ」

 などゝも云つた。取り拡げた品物を片付け乍ら最後に、ちよつとしめやかな口調で、

「かう云ふ物などをもて遊んで、雅客を迎へるのも実に久し振りだなあ。もう何年振りかしら」

 夕刻自笑軒で御馳走になつたがその時には

「いま〳〵しいが葛西善蔵の芸術にはちよつといい所があるな」

 何故、自分は彼と一緒にあの時旅行して置かなかつたらう!



 六月、新潮合評会席上で芥川は彼の傍の椅子を敲いてそこへ自分を坐らせた。珍らしく彼はモーニングを着て白いネクタイには絢爛な蝶の刺繍があつた。古い支那の布である。血色は悪くなかつたけれども思ひ做しか今思ふと彼は何時に似合はず見当はづれの議論をしたやうな気がする。またその帰りがけには田端の彼の家と目白坂の自分の此家とを同じ方角だと云ひ出してどうしても同じ車で帰らうと云ふのである。さうしてたうとう彼は自分を送つてやると云つて自分の車に乗つた。片上伸は之は大塚で自分とは同じ近い方角だ。三人は車の中で余り話さなかつたがただ自分は今まで同じ席上にゐた正宗氏のことを思ひ出してその人が自分には分り難いと云ふと、芥川は

「あの人は非常に弱い人で人生が恐しいからいつも人生に対して白い牙を出してゐるのだ。僕には実によく分る」

 と云つた。果してそれが正宗氏をよく解釈してゐるかどうか知らないが少くともその言葉は芥川自身を可なりよく語つてゐるやうに思ふ。自分の車が自分の家の近所へ来た時淋しがつてゐるらしい芥川を自分の家へ誘ふた。

「それでは一度君の新しい家を見て置くかな

 彼はきつかり一時間自分の家にゐて恰度その頃精神に異常を来してゐた我々共通の友達のことを非常に委しく話した。をかしい位その話に興味を持ち、殆ど自分には何も話させず、また外の話題は一つも言はなかつた。帰りがけに自分がその頃八釜しくなつてゐた小学生全集対児童文庫の競争戦で彼も迷惑してゐるだらうと思つたのでちよつとそのことを云ふと、彼は門を出ながら、

「さう〳〵そのことでも君に云ふ可きことがあつたな」

 さう云つて車に乗つた。

 その翌日当時自分の家に来てゐた上海の文士田漢の為めに改造社の山本社長が一夕の宴を張つてくれたので芥川は自分で希望して飛入の客としてその席上へ来た。それ等のことは「人間事」と云ふ自分の記録的小説の中に記した。赤坂の旗亭の玄関で別れたのが最後であつた。この夜は夏羽織に袴をつけて白扇まで持つてゐた。瀟洒たる面影が今も自分の眼前に消えない。自分は彼の思ひ出に最後に会つたこの晩彼が着てゐた着物を片身分けとして貰ひ受けた。支那麻の古風な細い縞で泉鏡花をして坪いくらするかと云はせたものだ。当夜笑ひ乍らの芥川の話では反六円とかだと云ふ話であつた。六月に改造社は文士を各地方へ講演させた。自分は九州に行くことになつてゐた。芥川は北陸か北海道に行くことになつてゐた。彼は自分と同じ所へ行き度いと云つて自分をして改造社へその交渉をさせようとしたが、もう決定して了つてゐた。七月自分は上海から杭州南京楊州などの地方を旅行した。芥川の曾遊の土地であり自分はいつも彼のことを思ひ乍ら歩いた。二十八日に西湖を見て帰ると不意に上海の人から彼の死を教へられた。暫時は信じなかつたが思ひ合して頷けるやうな気がした。

 帰つて来て彼の家を訪ね細君からいろんなことを聞いてゐる中に、自分が海外へ彼を誘ふたのは彼の行詰つてゐる生活を救ふ為めに自分がわざ〳〵工風したものらしいと言つたと云ふことを聞き、自分が濺いでゐた友情よりも彼が自分に想像した友情の方がどれだけ深かつたかを思うて自分は胸が切なかつた。

 故人の宅への幾度目かの訪問に一番幼い子供は自分を見乍らその母に自分のことを亡くなつた父に似てゐると云ふ意味のことを云つた。自分はそのすぐ後で自分の妻を彼の霊前に案内し自分もそこへ額付くと涙が出た。その少し前に全集の講演旅行で関西へ行つて大阪から京都までの汽車の中で歯車を読み涙がにじんで来たこともあつたが、涙が落ちたのは、霊前で始めてであつた。歯車と云へばあの作品はアルス児童文庫のことで自分が訪ねた時彼が机辺からその最初の一章を取り出して自分に見せたものだ。その時題は「夜」と書いてあつた。その上に二三字消した跡があるので自分はそれを見てゐると彼は題が気に入らぬかと云つた。さうして消してあるのは東京の夜だと云つた。東京の夜は気取り過ぎるし「夜」ではあまり個性がなさ過ぎるので自分は「歯車」と云ふ題を薦めて見た。彼は即座にペンを取上げてさう直した。さう云ふ因縁もあるせゐか自分はこの作を彼の作中第一のものと思つてゐる。

 彼の遺書以来彼の死因の中に女人のゐることは人の知る通りであるが、さう云ふ問題に就いて自分は何にも知らない。ただ興津庵から村幸へ行つた日散歩の間に自分が宅では書けない為めに『売笑婦マリ』の書出しを山ノ手の或る小さなホテルで書いた話をすると、彼はそのホテルのことを細々と聞き最後に、

「その家はランデブーには適しさうだらうかね」

 と、云つたことがあつたのを思ひ出す。彼が何時からどう云ふ理由でそんなに陰鬱になつたか自分は知らないが、『支那游記』の中には友人ジョンスと共に人生は薔薇を敷いた道であるとも云ひまた辜鴻銘を訪ふた帰りには辜鴻銘の老を憐れみ彼自身の若さを讃美してゐる、あの書の中には少くとも彼の憂鬱の影はまだ翳してゐないのだが……

(彼の一周忌を前にして、六月九日)


追記。短かく書かうと思つて彼の芸術に就ては初からあまり書かなかつた。それでも予定の倍の長さになり、しかも校正を見ながら、たくさんの書きおとした事を思ひ出した。仕方がない。今はただこの不幸な友情の年代記だけを読んでもらふ。

底本:「定本 佐藤春夫全集 第20巻」臨川書店

   1999(平成11)年110日初版発行

底本の親本:「わが龍之介像」有信堂

   1959(昭和34)年9

初出:「改造 第十卷第七號」

   1928(昭和3)年71日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「ニッケル」と「ニツケル」、「ゴッホ」と「ゴツホ」、「ペルシャ」と「ペルシヤ」の混在は、底本通りです。

入力:夏生ぐみ

校正:津村田悟

2018年627日作成

青空文庫作成ファイル:

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