佛蘭西人の觀たる鴎外先生
永井荷風
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佛蘭西人アルベール・メーボン著今日の日本と云ふ書に著者が鴎外先生を上野博物館に訪問したる記事あり。大意左の如し。
森氏は一千八百六十年に生れたり。陸軍の醫官たりとの一事は直に氏が教養の全く獨逸風なることを知らしむるに足るべし。(略)その作舞姫は小説家として氏の名を顯著ならしめたり。年わかき獨逸の女が日本の戀人の修練せられしマリボオ風ともいふべき態度言語に心をひかれ愛慕の情を傾く。其作意にはやゝ晦澁なる所なきに非らず。一般の批評家より修飾の文學と言はれしものなり。
審美學に關する幾多の評論を見るに森氏は美の研究につきては其方面の何たるを問はず好奇的興味を示したり。氏は隱れたる物の中より一思想を發見するや殆んど肉感的なる衝動を催し、これを解剖し其記録をつくりぬ。氏は純然たる藝術家にして常に宇宙の動勢を凝視し、定りなき物象と人間とを觀察して啻に精神的たるのみならず又官能的興味を求めたり。
余は一日グランド・ルヴューの訪問記者たる任務を帶び氏を訪ひぬ。余の提出せし問題は佛獨兩國の文學は歐洲大亂のために何等か決定的なる影響を蒙りしや否やと云ふに在りき。
森氏は既に數年前より東京なる帝室博物館の長となりゐたれば、余は徳川將軍の靈廟の立てる上野の丘陵を登らざる可からず。博物館はこの丘陵の上に希臘式獨逸風の建築物を示せるなり。館長は宛然陣營の中に坐するが如く思はれたり。年齒は想像し難けれど、其身長は高からず身體はすらりとしたるが如く其擧動は物しづかにて其態度は官吏風なり。其生々として樂し氣なる明き目容は思想生活の豐富なることを證明したり。口元に憂鬱なる陰影を見るは鋭敏なる感覺より來れるものなるべし。森氏は余の言ふところにつきて言語の意義と章句との關係を遺佚せしめざらんがため沈重なる努力を以て耳を傾けたり。氏は平素佛蘭西語を耳にすること極めて稀なるを以てなり。されど氏はこの場合に於て他國の語を用ることを好まざりしと見え、紙と鉛筆とを取り眼元に不斷の微笑を漂はせ一考して後字句を消し改めつゝ書くところを見るに
「われは戰爭が直接形に現れて其影響を文學に及すものとは思はざりしなり。文學は豫言的なり。他の語を以てすれば洞察的なり。過去の時代を見よ。佛蘭西大革命の代表的文學者にはジヤン・ジヤク・ルソーありき。歐洲大戰の時代の豫言者風なる作家を求むれば現代作家の中に之を見ることを得べし。即ちモリス・バレス、バザン、デルレート等なり。ボルシヱイズムの實行せらるゝ前には其派の詩人の出でたるあり。ゴルキイの如きアンドレーフの如き人物は其先進者なるべし。文學は本來の性質よりして囘顧的のものにあらざるなり。」
鉛筆の尖端は暫く句點の上に淀滯せられ紙面に穴を穿ちぬ。森氏は面をあげぬ。思索の影は其眼より消え輕き笑顏と共に C'est tout と言ひぬ。
余は甚粗末なる單脚の圓卓を間にして佛蘭西の詩人及び小説家につきて語るところありき。森氏がフレデリツク・ミストラルの作に興を覺え初めしは久しからざる以前のことなるべし。絶えず新しきものに牽きつけらるゝかの熱烈なる好奇心を以て、森氏はプロワンス州の詩人の事について余に質問せられたりき。
氏は宮内省に入りてより同省の許可を得て現在は歴代の天皇の系譜を調査せり。此詩人にして藝術家たる氏は歴史を修するに當つて近世心理學の溌溂たる意義と獨得の文體とを并せ有する一派を興しぬ。こは徳川時代の官能的洗練の時代を追慕する享樂派作家の喜んで其本領となすところなり。
此派の作家は好事家が骨董商の奧座敷を窺知れるが如く、根本より江戸時代を熟知す。此人々は常に東京市中の下町の小道、又は其土地固有の物を料理する古き茶屋の立てる河岸を散策し、水と空との間より月の昇るを眺む。かゝる下町には雜然たる卑俗の中に、過去の薫りの殘れるものありて、今は忘却せられし昔の好き風俗を見ることを得べし。そは宛ら古錢の面より殆消失せんとする肖像を見るにも似たり。かゝる下町には毎夜沈滯せる濃霧の中に花と寶石と衣裳とに飾られたる情死と合戰との演劇ありて看客を招き集るなり。是即ち音樂と舞踊との召集にして、かゝる處には言語と表情と擧動と音響との陶醉あり。猶又往古の版畫、掛物、詩集、遊女俳優の着たりし衣服の古ぎれ、刀劍、甲冑、古びて雅致ある器物、破れ黄ばみながらも墨色の變化せざる支那哲學の古書など、凡て研究室と圖書館とには慊らざる眞の文章家の官覺を修練せしむるものゝ存在するあり。森氏は完成したる美を崇び醇化したる江戸時代の支那學に精通し、享樂派の浩博なる學識と其平易なること恰も現代人日常の談話の如き文體とを融合せしめたるなり。これ誠に魔術者の如き文章家と謂ふ可し。
底本:「荷風全集第十五卷」岩波書店
1963(昭和38)年11月12日第1刷発行
1972(昭和47)年4月5日第2刷発行
底本の親本:「勳章」扶桑書房
1947(昭和22)年5月10日発行
初出:「太平 第二卷第一號」時事通信社
1946(昭和21)年1月発行
入力:菜夏
校正:きりんの手紙
2018年12月24日作成
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