プウルの傍で
中島敦
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グラウンドではラグビイの選手達が練習をしていた。彼等は黒地に黄色の、縞のユニフォオムを着けていた。それは何となく蜂のような感じを与えた。次から次へと球を渡しながら、十人ばかり横に並んだのが一斉にグラウンド一杯に走り出して、パススィングの練習をはじめた。と、又、それが密集してドリブルの稽古に移ったりした。陽は斜めに、丘の上にある昔の韓国時代の仏蘭西領事館の赤い建物の上に傾いていた。まだ暮れるには間があった。
グラウンドに続いた丘を少しのぼると、そこには小さなプウルが出来ていた。三造が此の中学校の生徒だった頃、そこは確か葱畑であった。教練を済ませて、鉄砲の油と革の交った匂をかぎながら、銃器庫の方へ帰って行くとき、彼はいつも、その場所に、細い青い葱が植わっているのを見たようであった。それが今はプウルになっている。ごく最近出来たものにちがいなかった。二十五米に十米の小さなプウルであった。周囲にはずっと丸い石が敷かれていた。水はあまり澄んでいなかった。コオスの浮標はみんな上げられて、石の上に長々と伸びていた。真黒な顔をした、三造よりもずっと大きな中学生が一人立っていた。上は海水着で、下は制服のズボンをつけていた。三造が近づくと、その少年は一寸頭をさげた。
「先輩ですか?」
「ええ」と、答えて、三造は一寸気恥ずかしいものを感じた。
「もう、ウォオタア・ポロの練習もすんだですから、どうぞ、泳がれてもいいです。」
その、ぶきっちょな、何処か兵営での、それに似た言葉遣いが、三造に、彼自身の昔の、この学校での生活の匂をひょいと嗅がせるのであった。彼は返事を口の中でしながら、それでも上着のボタンを外しにかかった。自分の生っ白い、痩せた身体が、その中学生に対して恥ずかしかったので、着物を脱ぐと彼は直ぐに水に飛込んだ。水はなまぬるく、そして意外にも浅かった。彼のせいが丁度立つ位であった。こんな丈の立つ所で、ウォオタア・ポロの練習が出来るのかしらん。彼はそれを言おうと思って、上にいる、さっきの中学生の姿を求めた。少年は、だが、最早居なかった。ラグビイの方でも見に行ったのであろう。三造は水の上にあおむけに寐て浮んだ。彼は深く息を吸った。空は青かった。そろそろ夕方らしい透った藍色が加わって、その隅っこに、黄色く陽に染った小さな雲の一片が浮いていた。彼はフウーッと息をはいた。生ぬるい水が耳のあたりをぴちゃぴちゃ音をたてながら、くすぐっていた。彼はじっと眼を閉じた。まだ身体がゴトゴト揺れているように感じていた。この一週間ほど、毎日汽車に揺られ続けていた其の感じが未だに残っているのであった。満洲旅行からの帰途、道を朝鮮に取った三造は八年ぶりで京城の地を踏んだ。そうして真先に、自分が四年の月日を其処で過した中学校の庭を訪れて見たのである。
一昨日の真昼、奉天駅の待合室は堪えがたく暑かった。暑い空気の中を銀蠅がうるさく飛んでいた。桃の木の下に、前髪を垂れた支那美人の立っているビラを、十四五の露西亜少年が見上げていた。彼の髪は美しい金色で半ズボンの下から見える脛がすなおに細かった。それは何かしら男色を思わせる美しさであった。そのビラに書かれてある支那文字が何を意味するかは、そのロシアの少年にも、三造にも解らなかった。ただ、その紙の一番下には大きく横文字で MUKDEN と記されていた。それだけは少年にも読めたと見えて、「ムクデン」「ムクデン」と誰にいうともなく少年は大きな声で繰返した。それから、ひょいと後を向いて、三造の視線にあうと、その独り言を咎められでもしたかのように、あわてて眼を転じた。美しい、乞食のような灰色の眼であった。
三造と並んで、赤いワンピースを着け黒い地の透いた帽子をかぶった十六七の少女が一人腰掛けていた。支那の金持らしい老人と、中年のロシヤの女が、三造と向い合った椅子に並んでいた。二人とも同じように肥って、同じように鼻の頭に汗をかいていた。突然、ロシア女の方が立上って此方へ来ると、三造の隣りの少女に向って英語で時間を訊ねた。少女は困ったような顔をして、妙に間の抜けた笑いを浮べながら、でもとにかく質問の意味は解ったらしかった。彼女は答のかわりに自分の腕時計を相手に見せた。相手はそれに満足して、サンキュウと言いながら帰って行った。少女は三造の方を見ると、顔を赧らめながらきまりの悪そうな微笑を見せようとした。三造は横を向いた。そこの壁には「小心爾的東西」の紙がうす汚れていた。ピストルのケースをさげた日本の憲兵が時々入口から中をのぞきに来た。
突然、水が鼻から少しはいった。鼻のしんが刺すように痛んだ。彼は底に足を着けて立って強く鼻をつまんだ。それから又泳ぎはじめた。一つタァンをすると、もとの所へかえって来て、再びあおむけになって浮んだ。遠くで鐘の音が響いた。寄宿舎の夕食の鐘にしては少し早すぎるようであった。空には先刻の黄色い小さな雲が見えなくなっていた。蜻蛉がすいと、彼のすぐ顔の上を掠めて行った。
三造の記憶の中で、一昨日通った奉天と、八年も前に、彼がこの中学校の生徒だった時分、修学旅行に行ったときの奉天とが混じり合っていた。駅の食堂で、黄色い袈裟を着た日本の老いた坊さんが、剃りたての真蒼な頭をした小僧をつれて、巧みにナイフとフォオクを操りながらビフテキを喰べていた。それは一昨日のことであったか。それとも八年前の記憶であるか。それを考えるのさえ、彼には今はものうかった。彼は眼を瞑り、先程まで、水際のアカシアの葉を洩れて、うすく落ちていた夕方の日影が、この時、ほっと消えて、あたりが急に、うすら青い影にはいったのを、閉じた眼蓋の裏から、ぼんやり感じながら、水に浮んでいた。
その修学旅行は、中学生の彼等にとって、かなりな小遣いを持たせられて、家から離れて自由に振舞うことの出来た殆ど最初の機会であった。彼等は興奮し、はしゃいでいた。旅行のさきざきには、彼等にくらべて見て、ほんの僅かの自分達の優越を、彼等に対して、常に示したがっている先輩達がいた。彼等は後輩の少年達を連れて、料理屋や酒場を歩きまわった。色々な形の、様々な色彩のラベルを貼った酒壜が薄暗い棚に並び、その前に赤黒く光ったソオセエジがぶらさがっていたりする。そしてその下で、黒い褐色の鬚の中に大きなパイプを突込んだ、亡命の白系露西亜人らしい赭ら顔の爺さんが灰色の上衣を着て立っている。そういう異国的な酒場の風景が、中学生の三造にはたまらない魅力であった。彼なんかとは話もしないで、先輩ばかり相手にしているロシア女の、黒く太い植え睫毛や、緑色に深くとった眼のくまや、腋臭くさい肩から、むき出しになっている女の腕の、銀緑色の生毛などを、如何に少年らしい興奮を以て、彼は眺めたことであったろう。一かどの冒険でもした気になって外へ出ると、のぼせた眼に、初夏の星がひどく美しかった。その頃彼等の間には「解剖」という性的な悪戯が流行っていた。酒と興奮とに酔った顔を隠しながら教師の眼をぬすんでこっそり宿屋にかえると、その悪戯で大騒ぎであった。それを恐れる少年は、旅行中、汽車の中でも網棚の上に上って寝た。教師も仕方なしに黙認して苦笑していた。「教師もやってやれ。」と誰かが言った。「よせよ。汚ないだけだよ。」と誰かが答えて、みんなで笑った。奉天を発つ晩は美しい夕方であった。駅前へ集合する時間の少し前、彼は、一番親しかった友達と二人きりで裏通りのレストランにはいって行った。全く美味いビフテキであった。血がたらたらと垂れて、厚さが一寸近くもあったような気がした。レストランを出ると、外はひどく晩い日の暮であった。駅からすぐに拡っている郊外の野原がだだっぴろく、空はまだ明るかった。教師の吹く集合の笛が、がらんとした駅前の広場に悲しげに響いた。
誰かプウルの縁を歩いて行くものが小石をとばしたと見えて、ボチャンと小さな音が、彼の足のさきの方で聞えた。と、腕を胸の上に組んで浮んだまま、ぼんやり空に向けていた彼の視線の片隅を、細長い竿の影がとおって行った。ひょいと首を向けて見ると、それは棒高跳のポォルであった。肩の所で袖の切れたユニフォオムを着た、背の高い一人の少年がそれをかついで、プウルの縁伝いに通って行くのである。そのあとから、もう一人、眼鏡をかけた背の低い少年が、これは両手に一つずつ円盤をさげてついて行った。三造は、彼が中学の四年のとき、何かの機会から柄にもなく急に棒高跳の名手になりたいと思い立って、一人で練習をはじめたことを憶い出した。その競技のフォオムの美しさが、気まぐれな彼を惹きつけたのでもあったろう。人に笑われるのがいやさに、彼は誰にも教わろうとはしなかった。ひとりで、こっそりと自家の物干竿を持出して、人のいない頃を見すましては、近くの小学校の運動場で練習したのであった。勿論、友達にも誰にも話しはしなかった。三米近くも跳べるようになってから、みんなを驚かしてやろうと思ったのである。が、結局、竹竿の刺を掌に何度か突立てたのち、彼のポォル・ヴォオルトは二米位で止ってしまった。
その頃彼ははじめてハモニカを吹くことを覚えた。夕方になると、その金属の冷たい手触りを喜びながら、植民地の新開地じみた場末の二階の窓から、茜色の空を眺めてはハモニカを吹くのであった。彼は十七歳であった。一匹の黒猫を例外として、彼は誰をも愛さなかったし、又誰にも愛されなかったように思われる。それは中学四年の奉天旅行から少し後のことであった。
三造は彼を生んだ女を知らなかった。第一の継母は、彼の小学校の終り頃に、生れたばかりの女の児を残して死んだ。十七になったその年の春、第二の継母が彼のところに来た。はじめ三造はその女に対して、妙な不安と物珍しさとを感じていた。が、やがて、その女の大阪弁を、また、若く作っているために、なおさら目立つ、その容貌の醜くさを烈しく憎みはじめた。そして、彼の父が、彼なぞにはついぞ見せたこともない笑顔をその新しい母に向って見せることのために、彼は同じく、その父をも蔑み憎んだ。その頃五つ位になっていた腹異いの妹に対しては、彼自身に似た、彼女の醜い顔立の故に、之を憎んでいた。最後に、彼は、彼自身を──その醜い容貌を──最も憎み嫌った。近眼でショボショボして、つぶれそうな眼や、低くて、さきの方ばかり申しわけのように上を向いている小さな鼻や、鼻より突出している大きな口や、黄色い大きな乱杭歯や、それらの一つ一つを、彼は毎日鏡を見ながら呪った。それに、その青黒いがさがさした顔には到る処に面皰が吹出していた。時々、腹を立てた彼は、まだ若い面皰を無理につぶして血膿を出させたりした。
ある朝、父が、新しい母のこしらえたおみおつけを賞めるのを聞いて、三造は顔色を変えた。今まで、父はおみおつけなどを少しも好まなかったことを三造は良く知っていた。彼は自分が恥ずかしい目に逢ったように感じて、急に箸をおくと、お茶も飲まないで、鞄をさげて、外へ飛出した。もう家の奴なんかと口はきくまい、と彼は考えていた。家族と口をきいて、後で後悔か羞恥かを感じなかったためしはない、と彼は思った。
夜になると、彼は、小学校の時から飼っていた大きな黒猫を抱いて寝た。その真黒な獣がゴロゴロと咽喉を鳴らすのを聞きながら、その柔かい毛の感触を咽喉や顎のあたりに感じながら、彼は毎晩寝に就いた。そのような時だけ、彼は、その肉身に対する軽蔑や憎悪を辛うじて忘れることが出来た。決心した通り、彼は決して家族と言葉を交さなかった。彼は、何とかして彼等の破廉恥に対する罰を与えてやろうと考えていた。その一つとして、彼は、自分の学校の成績を悪くしようと考えた。彼は、不思議に学校の成績だけは良かった。父はそれを人に誇っていた。それさえも彼には腹立たしかった。父が彼を学校に通わせているのは、この小さな虚栄のためだと彼は考えた。その上、この父の容貌が──殊に段のある鼻つきが、それから又その吃りぐせが、そっくりそのまま自分に遺伝してきているのが、たまらなく不愉快であった。彼は目の前に、自分の醜くさを見せつけられているように思って堪えられなかった。
けれども、すべて此等の周囲の圧迫的な状況にも拘わらず、三造の中の青春は次第にその芽を伸ばしつつあった。時として、どうにもならない爆発的な力が、踊り跳ねたいような衝動が、彼の身体中に一杯になるのであった。これは彼ばかりではない。彼の友人達もみんな同じであった。彼等は、彼等の身体に溢れるその力をもてあつかいかねていた。その活力は途方もない悪戯や乱暴となって溢れて行った。彼等は、わけもなく、いきなり相手にとびかかって行って、呼吸をせきながら、ねじ倒してみたり、教室で急に大きな叫びを立てて、新任の教師を驚かせたりした。公衆電話の受話器をねじ切って、代りに石ころを結びつけて来た少年もいた。その少年は、又、夜、物理の実験室に忍び込んで、望遠鏡だのフィルムだのを盗み出し、それをみんなに分けた。六月になると学校の裏山には桜桃がなった。少年達は昼の休みにそれを取りに行って、みんな紫色の脣をして帰って来た。パチンコで雀を落して、自分で毛を毮って、学校の隣の支那料理屋で焼いて貰って、喰べながら、教室へはいってきた男もいた。どうして手に入れたのか、一人が春画を持って来た。級中は忽ち沸騰した。昼の休みにも誰も外へ出なかった。絵は次から次へと廻された。少年達は呼吸をはずませ、その様子を人にけどられるのを恥じる気持もなく熱心に見入りながら、生唾を呑んだ。一人の少年が──それは顔の上にうすい透明な蝋を引いて、その上に白い粉を撒いたような美しい肌をした少年であったが──蟇口を机の上に置き、目の縁を赤くして、きまりの悪そうな笑いを浮べながらも思い切った調子で言った。
「売ってくれんか。三円ほどあるんじゃ。」
その絵を持って来た少年は、だが、ずるそうに笑って仲々承知しようとはしなかった。
その頃、彼等は、狼という綽名のある、少尉あがりの軍事教官の外は、どの教師をも恐れなかった。彼等の恐れるのは、ただ、上級生──といっても、今は五年しかなかったが──の制裁ばかりであった。
家では堅く自分の殻の中に閉じこもっていた三造も、学校へ来ると、自然に周囲に同化されて、別人のように快活になるのであった。彼はようやくその頃から学業を怠ることを覚えた。これは彼の計画である「成績を悪くすること」のためにも必要であった。彼は幾人かの仲間と一緒に、昼休みの時間に裏山の凹地へ行って、こっそりと煙草をのむ稽古をした。彼等の一人は非常に巧みに、まるい輪を吹くことができた。それが何かひどくえらい事のように、──つまり、その男が他の少年達よりも大人である証拠であるかのように、彼等には思われたのであった。
丁度、その少し前頃から、彼は不自然な性行為を覚えた。誰に教わったのでもなく、ある晩、床にはいってから、ほんのひょいとした拍子におぼえたのであった。それが何であるかを、はじめ彼は知らなかった。ただ、それは限りない愉楽であった。後にその意味がわかってからも、そして、それを行った後で必ず慚愧と自己嫌悪とに襲われるようになってからも、彼はその誘惑から抜出すことができなかった。時として、彼は昼日中に、往来で、その慾望に対する烈しい衝動を感じることがあった。自然に呼吸がはずみ、関節という関節のあたりで脈がはげしく打った。それと闘う彼の表情は、みにくく、ねじれ歪んだ。そんな時に彼の見上げる夏の空は、ぎらぎらと青く油ぎって堪えがたく眩しかった。彼は図書館で、色々な辞書を持出し、猥褻な意味をもつ字句を引いて、その解を読みながら、ひそかな興奮を感じた。彼は、また、古本屋などで、その方面の、図入りの解説書を熱心に立読みしたりした。それが彼にとって何よりも内心から渇望された知識であるばかりでなく、それについて少しでも多く心得ていることが、彼等の間で優越を示すことにもなるのであった。
彼等の学校は、生徒の映画を見ることを禁じていた。そこで、その禁を犯して活動写真館へ行くことが彼等の間の誇りとなった。午後の授業をなまけて、彼等は屡々活動小舎に行った。彼も、勿論、その中の一人であった。映画が面白いためというよりも、それは、禁を破ったという意識が彼等に満足を与えるからに違いなかった。その学校は昔の朝鮮の宮殿の趾に立っていた。蔦のからんだ古い城壁を伝って、こっそり学校を抜出したり、夏の真昼の強い光の下に、あくどい色彩の絵看板を仰いだりする気持が、少年らしい、かすかな冒険心をそそるのである。が、それにもまして、たまらなく彼の気持をそそり立てたのは、夜の街の灯であった。夜になって、街に灯がはいり出すと、どうにも彼はじっとしてはいられなかった。彼は顔の面皰を気にしながら、こっそりと継母の美顔水をつけたりして、ふらふらと街へ出て行った。何か空気の中に胸のふくらむものがはいってでもいるかのようであった。飾窓の装飾も、広告燈も、朝鮮人の夜店も、灯の光の下では、すべてが美しく見えた。そういう夜、若い女とすれちがった時の、甘い白粉の香は、少年の三造を途方もない空想に駆立てた。が、友達と落合っても、金銭のない彼等には、結局、大したことのできよう筈はなかった。最上の豪遊は、カフェーにでもはいって、みんなして一本のビイルを飲むことであった。それも、年増の女給が側へ来たりすると、妙にみんなぎごちなく押黙ってしまうのであった。
水の上に軽く浮いていた彼の気持を、回想が静かに快くゆすった。彼は眼をうすくあけて真上に拡る夕方の空を見た。少年の日の青空は、今見上げる空よりも、もっと匂やかな艶がありはしなかったか? 空気の中にも、もっと、華やかな軽い匂いがあったのではなかったか? 思出したように吹いてくる風は、時々、濡れた顔を心地よく撫でて行った。三造は、旅の疲れのものうさと、帰郷の心に似た情緒との交った甘ずっぱい気持で、長々と水の上に伸びをするのであった。
中学四年生の彼は、偏執的に彼の黒猫を愛していた。彼は、彼の噛んだものを口移しに猫に与えるのであった。一週間ばかり、その黒猫が失踪した時ほど、純粋な不安と絶望とに彼が陥ったのを、彼の家人達は見たことがなかった。それは、もう老猫で、曾ては美しかった真黒な毛も、うすよごれて艶を失っていた。それによく風邪をひいて、くしゃみをしたり、涕を垂らしたりした。それ故、家の者は皆、彼女をひどく嫌った。それがまた彼には、猫をいとおしく思わせる一つの理由になるのである。彼が学校から帰る時分には、黒猫はいつも犬のように門の所に出迎えて待っていた。彼が抱上げると、彼女は、寒天質の中に植物の種子を入れたような、草入水晶に似た瞳をむけて、甘えた声で訴えるのであった。
ある日、三造が妹と女中とで夕飯をたべていると、父と新しい母とが外から帰ってきた。彼等は一緒に何か物を見に行って、帰りに飯もすませて来たといった。それを聞きながら、彼は妙に気持がとがって来るのを感じた。何故妹を連れて行ってやらないんだ、と、彼は妹を愛していなかったにも係わらず、とっさにそう思った。明かに嫉妬であると彼は自分でも気がつき、気がついただけ余計に腹が立った。彼等はみやげだといって蒲焼のおりを三造に与えた。それがまた理由もなく彼の気持に反撥した。彼は苦い顔をして一口それを喰べた。それから、その残りを卓子の下にいた猫に与えた。突然、父が黙って立ち上った。そして咽喉を鳴らしながら喰べている猫を蹴とばし、三造の着物の襟を左手でつかむと、右手で続けざまに彼の頭を三つ四つ殴った。それから、はじめて、父は、怒りにふるえた声で、どもりながら叫んだ。
「何ということをするんだ。折角、買ってきてやったのに。」
三造は黙っていた。父はもう一度繰返した。息子はみにくく顔をゆがめながら強いて笑った。
「一度貰った以上、それからはどう処分しようと、僕の勝手じゃありませんか。」
激怒が再び彼の父を執えた。父は、その拳がいたくなる位、はげしく息子の頭を打った。打っている中に次第に病的な兇暴さが加ってくるのが、打たれている三造にまで感じられた。彼は、しかし、少しも防ごうとはしなかった。むしろ打たれるのを楽しむような気持さえ何処かにあった。彼は、それよりも、父が、彼の猫を蹴とばしたことに憤りを感じていた。明らかに、これは猫の関係したことではないのだ。新しい母は、あっけにとられて、止めるのも忘れていた。老いた女中も同様であった。猫は庭に逃出し、妹は涙を浮かべてふるえていた。
やがて、彼の父は、その手を止めた。そしてしばらく茫然と、三造を見下して立っていた。丁度夢からさめたような恰好であった。三造は、わざと冷然と、父の顔を見上げた。その視線にあうと、父はあきらかに狼狽の色を見せて、眼を外らした。今や、彼の父こそ、完全に敗北者であった。息子は息子で意地悪く考えていた。これでも、父はいつものように、「親が子を叱るのは、子を愛するからだ。」といえる積りであろうか。自分の感情にまけて子を打つのではない、と、いえる積りであろうか。
そして、それから、大分経って、やっと彼の心の中に、「親子という関係の前には、如何なる人格も無視される」という事実に対する純粋な憤りが徐々に湧いてくるのであった。
追憶が今度は苦く彼の心を噛んだ。いきなり彼は水の上で身をひるがえすと、顔を水につけたまま、足をバタバタさせて、クロオルの真似事をやり出した。十五米も行かない中に呼吸が続かなくなって了った。彼は顔を上げて底に足をつけて立った。すると、水で曇った眼鏡の前に、いつの間に現れたのか、女の子らしい黄色い姿が見えた。眼鏡の硝子に溜った雫をぬぐって、よく見ると、黄色い汚れた朝鮮服を着た女の子が、プウルの縁から一間ほど離れて、彼のばかばかしい泳ぎぶりを見ていた。年は十一、二位であろう。髪をおさげにして赤い細いリボンで結えていた。三造は口の中で、あやうく「キチベエ」といおうとした。キチベエというのは「女の子」という意味の朝鮮語であった。「まだ、これでも朝鮮語を少しは覚えているな」という考えが彼を微笑させた。
彼の家でも、かつて、妹が赤ん坊の時分に、この年位の朝鮮の少女を雇ったことがあった。その時、彼は少女を「キチベエ」と呼んだり、「カンナナ」と呼んだりした。カンナナもキチベエと同じ意味の言葉であった。
黄色い服の少女は三造に見つめられて困ったように後を向き、何か彼に分らない言葉で呼びかけた。すると、その向うの木蔭から、三つ位の裸の男の児がよちよち出て来た。何よりも先ず、そのひどく出っぱった大きな臍が彼を失笑させた。少女は男の児の頭をコツンと一つ軽く叩くと、その手を引いて遠ざかって行って了った。その汚らしい女の子の後姿が、彼に、彼の最初の妖しい経験を思い出させるのであった。
ある晩、三造は一人の友達と一緒に街を歩いていた。その友達は、春画を買おうといった美しい少年であった。湯上りの、ほんのり染まった少年の顔には、小さな吹出物が一つ、塗ったように紅い、その脣のそばに出来ていた。それがへんに性慾的な美しさであった。三造は家へ帰りたくなかった。帰れば、毎晩帰りのおそい彼に対して、絶望的に悲しげな父の顔と、おずおずと困ったような継母の顔が待っているばかりであった。父はもう彼を打たなくなった。それだけ、その父の悲しげな顔を見るのが、彼には厭であった。彼は出来ることなら、何時迄も歩いていたかった。路は大通りのはずれから坂になって、のぼって行った。それが、どのような場所へ導く道であるかを、彼も友達もぼんやり知っていた。三造は、ふと立止って友達の顔を見た。友達も彼を見かえした。二人は何のこともなく微笑した。瞬間、彼等の眼附の中に、疑惧と躊躇と好奇心とが入交ってあらわれた。次の瞬間に二人はもう一度微笑をかわすと、黙って、また坂を上りはじめた。浴衣がけの、その友達は、顔の吹出物を気にしながら。まだ制服のままの三造は、ポケットに朱色の小型のウェルテル叢書をしのばせながら。その本は「ポオルとヴィルジニイ」であった。
そういう街がその方面にあることは知っていたけれど、そこへ足を入れるのは、彼等にとって初めてであった。アカシヤの並木の続いた暗い坂を登りつくすと、もうそこには、そのような店が明るくならんでいた。三造は急に動悸がはげしくなるのを感じた。こんな経験ははじめてではないということを示したい、お互いの見栄から、二人は黙って、いい加減に見当をつけて、暗い露地にはいった。低い土造の朝鮮家屋の門毎に、真白に塗立てた女達が四五人ずつ立っていた。彼女達はすべて朝鮮人であった。そこらあたりの軒燈は、みな、古風な青い瓦斯燈を使っていた。その白い光の下で、紅だの、緑だの、黄色だの、さまざまな彼女達の下袴の色が、ちらちらと目に映ってくるだけで、その一人一人の顔は、まるで、彼には弁別できなかった。
女達は二人を見ると、不慣れな日本語で呼びかけた。「アガンナサイ、アンタ。」とか、ただ「アンタ、アンタ。」とか、時々は「ホントニ、イロオトコダネ。」とか、そんな片言であった。その最後の言葉が明らかに彼の友達にのみ向って、いわれているのに気がつくと、三造はそんな興奮と狼狽の中にあっても、なお、かすかな不快を感じていた。女達はしまいに、とび出して来て、しつこく彼等を離さなかった。彼等はすっかり狼狽した。彼の友達は浴衣の袖をほころばせ、まっ先に一人で逃出した。逃げおくれた三造は、それでも女共をふり切って友達のあとを追った。よほど、あわてたものと見えて、友達はずっと先の方まで駈出して行って了ったらしかった。三造にはくねくね曲った小路がよく分らなかった。が、とにかく、軒燈の一寸とだえた所まで来たので、もう大丈夫だと思った。ところが、そこの角を一つ曲った所に、思いがけなく、また小さな低い土の門があって、青白い瓦斯燈がついていた。そして、その下に一人の──今度はたった一人の女が立っていた。そこまで来て、どうしたはずみか、ひょいと三造は、その時笑った。それがいけなかった。女も微笑を返した。そして、つかつかと歩み寄って、小さな手で、しっかり彼をつかまえ、もう一度笑いながら日本語で、「イキマショウ」と言った。彼は反射的にその手を払いのけた。女は案外弱く、よろよろとよろけたが、彼の制服の上衣をつかんだ手は離さなかった。三造はもう一度烈しく女を突飛ばして身を退いた。ビリッと布の裂ける音がした。彼の上衣のボタンが二つ三つ土の上にころがった。そのいきおいに女は驚いて手を放し、瞬間、許しを乞うような女らしい表情を浮べた。が、すぐに今度は、急いで、そのボタンを拾った。「ボタンを返してくれ。」と、彼は手を出しながら言った。女は嬉しそうに笑って頭を横にふった。「返してくれよ。」と、彼はむきになってもう一度言った。女は又笑ってボタンを見せながら、後の家を指して、不器用な口つきで言った。「アガンナサイ。」
三造はしばらく女を睨んでいた。女は家にはいりそうな素振を見せた。彼はほんとに腹を立てた。
「いらないぞ。そんな物。勝手にしろ。」
彼はそう言って後を向いて歩き出した。そして女の方はふりむきもせずに、急ぎ足で友達のあとを追った。
彼の友達は、その小路を一つ曲った所に立って待っていた。二人は並んで、さっき登って来た淋しい坂をおりはじめた。彼等は互いに自分の狼狽を見られたことを恥じでもしているかのように、殆ど口をきかないで歩きつづけた。彼等がものの半丁も歩いたかと思う頃、後からバタバタと小刻みな足音が聞えた。三造はふりかえった。思いがけなく、先刻の女であった。女は大きな眼で三造の顔を真直に見ながら、近附いて来た。「ポタン。」と女は言った。そうして、さっきのボタンを三つ、小さな掌をひらいて彼の前に出し、「コメンナサイ。」と言った。駈けて来たと見えて呼吸がはずんでいた。そこは坂の中途で、アカシアの街路樹が少し断れて、暗い街燈の立っている所であった。彼は今度こそ、落着いて相手を見ることが出来た。
女は小柄であった。まだ子供だろうと彼は思った。描眉毛もうすく、鼻もうすく、脣もうすく、耳も肉がなく、小さかったが、大きな朝鮮人らしくない、くりくりした眼附が割にその顔を派手にしていた。下袴はうすい紅で、右の腰のあたりで、大きく蝶結びに結ばれていた。安物らしくピカピカ光った上衣の袖から、華奢な小さな手が出ていた。
ボタンを渡すために女は三造の手を求めた。彼は手を出した。少女はボタンを置き、そのまま自分の手を彼の手の中に握らせた。柔かく冷たく、しめり気のある感触であった。少女はその姿勢のまま、じっと真直ぐに三造の眼を見上げて言った。
「キナサイ。」
それは少しも媚を含んだ態度ではなかった。あたりまえのことを請求するような態度であった。三造は、妙な混乱を──先刻のとはちがった種類の混乱を感じた。彼は、彼の手の中にある少女の小さな柔かい手を強く握って、「さよなら。」と言った。「サヨナラ、イヤ。」と、とっさに少女は、そう反射的に言いかえして、彼の手をしっかり握った。一寸首を傾げて、黒瞳で彼を見上げた、その表情に、その時、はじめて媚らしいものが現れた。三造は頭をふって、もう一度「さよなら。」と言った。そして、受取ったボタンをズボンのポケットに入れて、十間程、さきに待っていた友達の方へ歩き出した。二人並んで坂をおりはじめた時、やっとふだんの平静さにもどった態度で、友達は三造の背中を強く叩いて、──だが、彼らしく女性的に──笑った。
「うまく、やっとるぞ。達者だなあ。君は。」
彼は、そうして、自分もそのほころびた袖を見せて、またおかしそうに笑った。三十歩ほど歩いてから振返ると、先刻の街燈の下に、まだ、あの少女の立っているのが小さく見えた。坂をおりて、内地人町の大通りへ出てから、友達はもう家へ帰ると言出した。
「君も、もう帰るんだろう?」
「うん。」と、三造は答えた。
友達と別れてから、しかし、彼は家へは帰らなかった。彼は内ポケットから財布を取出して、中を検めると、再びそれをしまった。それから、自分の興奮と動悸とを静めるために、ことさらに大胯に、今おりて来た坂道をまた登りはじめた。
その部屋は天井の低い、三畳ほどの温突であった。床にはずっと渋色の油紙が敷かれていた。中庭に向って、四角な小さい窓が開いていて、障子の代りに青い簾が下っていた。部屋の中には何の飾りもなかった。隅っこに夜具が積まれ、その側に、朱い塗のはげた鏡台があった。黄と赤と緑の、けばけばしい色の、それだけは新しい、鏡掛けが、それにかかっていた。それはいかにも朝鮮人らしい好みであった。その鏡の横に、前髪を垂らした日本の子供の人形が立てかけられていた。それが此の部屋のたった一つの飾りであった。少女は彼を連れて部屋にはいると、堅い床の上にペタリととんび足に坐って、鏡をのぞいて紅を脣にさした。それから後を向いて、立っている三造にむかって「坐れ」というような手真似をしながら朝鮮語で何か言った。坐ろうにも、堅い土の温突の上に座蒲団もなかった。彼は仕方なしに、床と同じように渋紙を張った壁にもたれて、しゃがんだ。彼は最初に「オルマヨ(いくらだ)。」と聞いた。それは彼の知っている少数の朝鮮語の中の一つであった。「イクラ、カマワナイ。」と逆に少女が日本語で答えた。それから、しばらく考えて、また、「ヤスイヨ。」とつけ加えた。弱々しそうな身体つきと顔立をした少女が、やさしい表情をしながら、変な日本語を使うのが、彼に妙な気持をさせた。片言は片言なりに美しさのある場合もあるけれども、男が使うような荒い言葉や下品な文句を、それと知らないで、しゃべっているのは、彼女の表情とちぐはぐな滑稽なものを感じさせた。
彼女は立上って、蒲団を敷きはじめた。彼女は、まだ、彼が帰りはしまいかということを恐れているようであった。彼は、今晩の客は彼一人であるか、どうか、を訊ねた。「ヒトリデナイ。タクサン。」と女は答えた。それが、どうも彼のもとめた返事ではなく、此の家には彼女の朋輩がまだいるという意味らしかった。彼は諦めて質問をやめた。床を敷いてしまうと、女は彼を、訊ねるような眼附で見上げた。彼は、自分の意図を伝えるのに骨を折った。彼はただ、こういう所を見に来ただけなのだ。だから、彼は勝手に寝るから、彼女も勝手に寝るがいい。こういう意味を、彼は、彼の知っている限りの朝鮮語を、日本語と交ぜて使いながら説明しようとした。併し、それはついに無益であった。何か訳の分らないことをむきになって、しゃべっている客を前にして、女は全く当惑しきっていた。しまいに、彼は寝床を指して言った。
「とにかく、お前は寝ろ。」
やっと、それだけは分ったと見えた。彼女は言われた通り、全く言われたとおりに、着物も脱がずに、ゴロリと蒲団の上に横になった。彼はそれに背中を向け、部屋の隅の暗い電燈の下に坐って、ポケットから「ポオルとヴィルジニイ」を取出した。外の軒燈は瓦斯なのに、室内は電燈になっていた。彼は上衣を脱いで、その悲しい恋物語の続きを読もうとした。気が散って、同じ所を幾度読んでも、中々意味がとれなかった。それでも彼は読んでいるふりを続けていた。涼しい夜風が簾の外からはいって来た。しばらくすると、後で、女がごそごそ起きて来た。彼は知らん顔をして本を読んでいるふりをしていた。女は彼の横に来て、坐った。彼はまだ知らん顔をしていた。しばらくして、「アカイホン」と、女が独り言のように言った。三造は、はじめて顔を上げて女を見た。女は手持無沙汰で困惑した面持であった。「寝るんだよ。」と彼は、又、床を指して言った。女は益々困ったような、泣笑いのような表情をした。彼女には、どうにも、客の気持がのみこめないのであった。彼女は、間の抜けた、困却しきった微笑を浮べて横に首をまげながら、媚びていいものか、どうか、という風に、客の顔色をうかがった。「寝るんだよ。」と、もう一度、今度はやや烈しい口調で彼は言った。彼女は怯れたように身を退いた。彼が機嫌を悪くしている時、それに媚びようとする彼の黒猫の眼附が、今のこの女の表情に似ていた。突然彼は上衣の内ポケットから財布を出し、五十銭銀貨を四つ取出して、それを彼女の鏡台の上に重ねた。彼女は、更に恐れたように、三造と銀貨とを見較べながら、手を出そうとしなかった。彼はふと、女が可哀そうになり、やさしい調子で言った。
「いいんだよ。怒ってるんじゃないんだ。いいから銭をとって、お前だけ寝ればいいんだよ。」
女はまだ怪訝な表情を続けていた。それを見ていると、次第に、今度は、また腹が立って来そうなので、彼は女に構わずに「ポオルとヴィルジニイ」を読出した。が、やはり読めなかった。同じ処を何度も何度も繰返していた。その中に女は立上って、今度は、ほんとうに、身仕舞をして、床にはいったようであった。
プウルの上を渡る風が、そろそろ寒くなってきたようである。半身を水から出して立っていた三造は、くしゃみを一つすると、もうあがらなければいけない、と思った。わざと鉄梯子の所へ行かずに、水から二尺ほど高いたたきの縁に手を掛けて上ろうとすると、疲れているのか、妙に腕に力がはいらなかった。やっと上りきった時、右の手が滑って、たたきの角で一寸肱の所を擦りむいてしまった。はじめは一寸白くなった皮膚のおもてが、次第に桃色を帯びてきて、到頭プツリと真赤な血の粒が一点から盛上ると、見る見るそれが大きくなり、やがて糸をひいて、ぽとりと土の上に垂れるのであった。彼は他人事のように綺麗だなと思った。
乾いた手拭で身体をふきながら、彼は、すぐ眼の前の、梨の木の枝に、鵲が一羽止って、こちらを見ているのに気がついた。嘴の黒い、胸の白い、両翼の紫色をした朝鮮鴉であった。内地にいて、久しく此の鳥を見なかった彼には、全く何年ぶりかであった。三造は手拭をふって追う真似をして見た、が、仲々逃げなかった。彼は、そろそろ、その梨の木の方へ歩いて行った。三造がその木から二間ばかりの所へ来たとき、鵲は短い濁った鳴声を残して、飛立ってしまった。
その最初の冒険が(或いは冒険未遂が)どうして洩れたものか、三造には分らなかった。三日ばかり経った日の昼休みに、二人の五年生が三造を無理に裏山につれて行った。二人とも比較的硬派で、正義派と見なされている生徒等であった。彼等はいずれも身体が大きく、腕力が強かった。三造は仕方なしに彼等について行った。学校の裏には昔の宮殿の趾が残っていた。黄色い塗のはげた、高い屋根の下に「崇政殿」と書いた額が正面を向いていた。屋根の峯には鳳凰だの、獅子だの、奇怪な形をした瓦が並んでいた。中には、いつも、学校の、こわれた椅子や机が置かれてあった。竜の紋様を施した、古い石の階段を上って、上級生達は三造を、その崇政殿の後に連れて行った。青くさい臭が急に鼻を衝いた。石垣を隠すほどに、黒々と夏の雑草が生えていた。葉桜を洩れた六月の陽が、カッと、その上に照りつけていた。
「学校ができるかと思って、あまり生意気な真似をするな。」と、五年生の一人が彼に言った。他の一人は何も言わなかった。三造も何も弁解しなかった。彼は明らかに恐怖に襲われていた。たかが殴られるだけのことじゃないか、と、そう思って、強いて、気を落着けようとした。にも拘らず、自然に動悸が高まり、顔色が蒼くなってくるのを、彼は感じた。そして、眼だけは外さずに、強く、彼等の一人を見詰めていた。「眼鏡を取れ。」と、彼が眼を注いでいなかった方の一人が言った。殴る時に、眼鏡をこわさないように、というのであった。三造はひどい近眼で厚い眼鏡をかけていた。彼はひどく脅やかされていたにも拘らず、いわれた通りに眼鏡をとるのは、意気地がないと感じていた。そうして黙って、二人の上級生を睨みつづけた。突然、一人の手が伸びて、彼の眼鏡のつるを掴んだ。それを防ごうとした三造は、その瞬間、右の頬をしたたか平手で叩かれて、眼鏡を落した。カッとなった彼は、夢中で彼等にとびかかって行った。忽ち彼は草の上に投出された。起上ろうとする所を、二人がのしかかって来て、目茶苦茶に殴った。いい加減殴ってしまうと、二人は黙って帰って行った。
三造は草の上に倒れたまま、しばらくじっとしていた。少しも痛くは感じなかった。涙の粒が彼の眼から草の上に落ちた。俺は意気地のない男だ、と彼は考えていた。せめて、自分から進んで眼鏡をとらなかったことだけが、わずかに彼の自尊心を慰めた。ふと、自分が何か神通力でも得て、散々に今の二人を苛める場面を、彼は頭の中で空想して見た。その空想の中で、彼は孫悟空のように色々な妖術をつかって、さんざんに彼等を悩ますのであった。空想はしばらく続いた。それから覚めると、また新しい憤りが湧いて来た。腕力がないということが、現在の彼にとって如何に致命的なことであるかを、彼は考えて見た。その前には、学校の成績の如きものは、何等の価値もないのであった。それは、どうにも口惜しいことであった。しかも、それは彼にとって、どうにもならないことであった。涙が再び彼の頬を流れた。眼鏡は彼の顔のすぐ前に落ちていた。彼は、背中が陽にあたって暑くなっているのを感じた。石垣の間から、とかげがちょろ、ちょろと出てきて、彼の鼻の先まで来ると、不思議そうに、その小さな瞳をくりくり動かして、彼を眺めた。それから、また、茂った草の間にはいって行った。はげしい草いきれと、土の匂の中に顔を押付けたまま、彼は長い間、泣いた。………
ラグビイの選手達はもうみんな引揚げてしまって、運動場には誰もいなかった。二本の棒に横木を渡したゴオルだけが寂しく残っていた。日はすでに落ちて、旧ふらんす領事館と、その森の、黒い影絵がくっきりと黄色い空を染抜いていた。外の電車通りと運動場とを隔てる囲いには、昔の城壁が利用されていた。遠い運動場の隅の入口も、やはり、朱と黄とで塗った、古い朝鮮の宮殿の門であった。その門から朝鮮人が長い煙管をくわえながら、水桶をさげてはいって来た。門の内側に泉が湧いていて、彼等はその水を汲みに来るのであった。何年か前、夏の教練に疲れた三造は、よく其処の水を手ですくって飲んだものであった。
空の色は次第に黒みを帯びた紺色に変りつつあった。プウルでは、三人の中学生が並んで泳いでいた。競泳の選手ででもあるらしく、いずれも、鮮やかな泳ぎぶりであった。彼等は全く良い体格をしていた。その真黒な身体を、素直に伸びた足を、筋肉の盛上った肩つきを、三造は此の上なく羨ましいものに思った。彼は自分の生っ白い腕を眺め、彼等に対して、ひけめを感じない訳にはいかなかった。丁度何年か前、上級生に打たれた時に感じた、あの「肉体への屈服」と、「精神への蔑視」とを、彼は再び事新しく感じるのであった。
底本:「中島敦全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年5月24日第1刷発行
※「ロシヤ」と「ロシア」の混在は、底本通りです。
※底本の編集者による小口注は省略しました。
入力:渡辺奈穂美
校正:坂本真一
2018年4月26日作成
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