堀辰雄のこと
佐藤春夫
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堀辰雄とは何時から交際をはじめたらうか。さういふ事にかけては割合に記憶の悪くないわたくしだが、あまり明確には思ひ出せない。多分まだ「驢馬」の同人であつたころ彼があまりあざやかな文学上の特性を現はさないころ、芥川家で偶然に落ち合つた青年の一人として彼を最初に見たためではあるまいか。それならば一時にあまり沢山に同じやうな人びとを見たために印象がぼやけてしまつたのかも知れない。尤も芥川や室生から彼の噂をその前後によく聞いて、殊に、そのむし歯のことを歌つた短い詩を芥川が推賞した時、それはわたくしも既に注目して置いたもので即座に芥川に同感した事はよくおぼえてゐる。それで今度抒情詩のアンソロジイを編むに当つても彼のはそれと他に一篇とを採録することにしたものであつたが。
芥川が歿した直後、彼の印象が僕にだんだんと鮮明になつて来たのは彼の文学活動のためではなく(といふのは彼がその真価を発揮しはじめたのはもう少し後であつたやうに思ふから)彼がさう頻頻とではないが、ときどき僕のところへ遊びに来るやうになつたためであつたとおぼえてゐる。僕はよい作家としてよりも以前に好もしい人がらの青年として彼を先づ認めたのであつた。温厚で高雅な人なつつこい人であつた。芥川や室生との関係からであらう。その頃芥川や室生とは親しかつた僕に対して、彼はまるで文学上の叔父さんに対するやうな素直な敬愛の情を示してくれた。彼はめつたに人を入れた事のないわたくしの二階の書斎へ入つたことのある僅に二三人のうちのひとりである。あまり使はない部屋で乱雑にしてゐるのとあけつぴろげのやうであるが実は最後の一線では人の好き嫌ひのはげしいわたくしはむやみと自分の書斎などへ人を入れたくない一面があるからである。それを知つてか知らないでか、彼は或る時ごく無邪気に、
「僕、あの二階の塔見たいなお部屋へ入つて見たいな、いけませんか」
かう切り出されては、これを拒否すべき理由もなく、乱雑にしてゐるけれどと云ひながら導いて行くと、いよいよ部屋に入らうとする前になつて、
「僕ほんたうは佐藤さん(といつもさういふ風に僕を呼んだ)の本が見たいのだ」
と云ひ出したので僕は実は少々閉口して「芥川君とは違ふ碌に本なんかありやあしないぜ」と云ひながらも今さら引きかへすこともならず、いよいよ書斎へ入つて行くと部屋のなかをと見かう見して、部屋の広さや天井のことなどを問ひ、実は少々風変りな部屋だからであらう。さうしてお世辞ではなくその部屋をほめた上で壁に沿うてあつたちやちな本棚の前に近づき立つて遠慮深さうに、──僕に対してではなく、本そのものに対して──幾册か抽き出して見た上で最後に小さな版のロオレンス・スターンのセンチメンタルジャニイを借りたいと云ひ出した。夏になれば今年も追分へ行くからそこで読みたいと云ふのである。わたくしは無論すぐに承諾した。もうそれでこの部屋を出てもいいのかと思ふと、
「この部屋で少し話ししてはいけませんか」
と云ふ。この云ひ方もごく自然なものであつた。そこにはあまり坐りどころのいい椅子もなかつたからそのことを云ふと、それもかまはぬといふから、わたくしは窓を明け机をへだてて相対して話した。堀はおもに追分での生活そこの宿屋やその周囲の自然を云ふのであつた。その時の話に興を催してゐたからわたくしはその数年たつて油屋にも一泊し、彼の話したその近くの林のなかを歩きもした。そんな話のうちに女中はお茶をここに運んで来ようかと聞きに来ると堀は二階へ運んでもらふのは大儀だからといつもの下の応接の方へ自分から下りて来た。わたくしはこの時の堀の好奇心の深かさうなさうして遠慮勝ながらに自分のしたい事をどんどんする様子、それでゐてお茶を運ぶに大儀だらうといふところまでよく気のつく点など、面白い性格だと思ひながら見た。
ところがこの時に貸した一册が、偶然にも油屋の火事に遭つて焼けたといふので彼は早速にハガキでお詫びを云つてよこしたばかりか、そのハガキにあつたとほり帰京すると改めての詫びのために、わざわざわたくしのところへ出かけて来た。かへつてこちらが気の毒なほどに詫び入るその律気さに、あの本はさう云ふ運命だつたのだらう。僕の書斎に欠くべからざる書物といふのでもなし、ほしければまたいつでも買ひ代へる。まだ惜しむほどに手なれてもゐなかつたとこちらでかへつていろいろと慰めたほどであつた。彼の時々の訪問の間で忘れられないのはこの二回と更に十年あまりも後になつて、戦争がはじまつてから甘いものが珍重になつたころ、その前に訪ねた時の土産をよろこんでくれたので(といふその時のことはもうおぼえないが)わざわざ僕のために長命寺の桜餅を持つて来てくれた時の事である。病気の見舞を云ふと、だんだん快方で実は今日も天気はよし気分はよし少し遠いかと思ひながら出かけたら、坂のところで少し苦しかつたと云つて息切れがしてゐる様子であつた。格別の話も用事もない訪問のための訪問、ほんたうに久しぶりに好物を持つてわたくしを喜ばせるために自分が苦しんで来てくれたやうな、純粋の友情を感じたものだが、その時、家内は憂色を帯びて堀君のあへいでゐるのを案ずるから、あの坂(目白坂)は誰にでも苦しい急坂だと云つたら、家内もそれ以上は何も云はなかつたが、同じ病人を兄弟に持つた事のある家内は彼の帰つた後で堀さんの歯は大ぶんぼろぼろになつてゐたと案じてゐた。わたくしはうつかりしてそんな観察もしてゐなかつたが、この時の訪問で一しよに桜餅を食べた印象は深い。さうして彼の訃を聞く十日あまり前であつたらうか、二十年(?)ぶりで人に誘はれて浅草公園に遊び、帰途を向島に葉桜を見て桜餅を食べながら家内と彼の噂をした。
彼に関する思ひ出はみな春や秋の好季節なのは不思議なやうで実は当然であらう。病弱な彼は格別な用件とてもなかつたのだから多くは散歩のついでなどに、もしくは桜餅の時のやうにそれ自体を散歩として訪問したのだから気分のいい日温暖ないい季節いい天気に限つたはずである。
彼の病気と僕のものぐさとのために彼との交際は終にこれ以上に深まらなかつたのは残念でもあり僕のせゐと申わけもない。二十年の春以来わたくしは佐久に疎開して、地は追分とは僅に五里ばかりバスで半時間足らずであつたから病人はともかく、わたくしは一度ぐらゐ病床を見舞はないのは省みて彼の友情に対して酬ゆるところが足りなかつたと云はねばならない。事実彼の重態はわたくしの村へも二三度は伝へられてゐたが、わたくしがぐづぐづしてゐる間には続いて危機を脱して追々快方の噂が来るので、おしまひには重態の噂もまた「狼が来た」羊飼の話のやうな気がした。田舎人の事を好んで大げさに伝へるのを悪み、かういふ風にして八十の寿を保つた病人がゐた例を思ひ出して気安めでなく安心してゐたし、一度などは天気の温い日を見計らつてたづねたいといふ手紙が来た程で、待つてゐると上京してまた病状を悪化させてしまひお訪ねの約を果すこともできなくなつたから再び静養の上機を見てといふやうな手紙であつたが、それつきり消息もない、この時こそ毎日見舞にと思ひながら、出不精がうまい口実を見つけてしまつた、快方ならば何も急いで見舞ひに出かける程の事もない、もしまだ悪いやうならば、あの律気な人を見舞ふ事はただ病床の人の肉体と精神とを騒がせるだけの事ではあるまいか。もう少し静かに見てゐようと思つてゐるうちに東京へ出て来ることになり、ほんの一冬と思つたのがそのまま東京に居ついてしまひ、この四月中旬にも一度村に帰つて彼の追分の寓居の前はバスで通りもしたが、いつも彼の病状を大げさに伝へる人もこのごろは大ぶんいい様子といふので、そのまま素通りして来てしまつた。
それでもわたくしが「佐久の草笛」を出した時には一本を枕頭に贈り、それに対する先方の礼状からはじまつてわたくしからも手紙を出し彼と手紙の往復は数回にも及んだであらう。わたくしは大の手紙ぎらひでそのため何かと義理をかくほどで、血族でなくてわたくしの手紙を五通も持つてゐるのはわたくしの愛人だと日ごろ戯れてゐるほどであるが、そのわたくしの手紙は彼のところには五通には達しなくとも三四通はあるはずだからもう少しで愛人といふわけである。病床の彼が律気に手紙をくれたのに対して山居のわたくしもつれづれに返事を書いたといふやうなわけではあるが。
文芸の記者巌谷君が来て堀君が昨夜永眠と思ひかけぬ訃を聞かされた時は、終に病床を見舞はなかつたといふ恨と同時に品格といふものが全く忘れられてゐる時代に品格のあつた好もしい作家を一人失つたといふ恨とが重つた。昨夜急死の悲報がそれにつづいて報ぜられ、彼に伝へ聞いたところでは永年の闘病にさすがに頑健な(むかしはラグビーの選手をしたとか巌谷は云つてゐたが)彼の体力も尽きたのか血痰のからんだとたんに心臓の活動がやまつて何らの苦痛もなく絶息したらしい。
彼の告別式には彼の友人や先輩が多く誄を読んだが一片の形式ではなくみな心の籠つた本当の事を云つてゐたのも故人の人徳の反映であつた。文芸家協会代表の青野季吉が彼の文勲を最新の欧米の文学思潮を国文学の伝統のなかに摂取して独自の新文学を遺したと讚へたのも本当なら、室生犀星がいつも死と隣して生きた彼こそ本当に生きた人であると云つたのも悲しい真実であつた。折口さんのものは敬愛の至情が溢れ、中野丸岡両君のもそれぞれに深い友情を披瀝してゐたのに、思へば、わたくしのは三十年来の旧友を弔ふ老友のものとしては鈍いものであつた。悲しみは時を経て後、折にふれて、またあらたに全身に沁むのであらう。
きのふも彼の友人で、わたくしのところへも時々はふたり三人で来たこともあるKと、ともに彼をしのび語つた。Kの語るところでは堀の信頼した友人と、また逆にいやな奴だとかつまらぬとか、才能がないとか、堀は見かけによらぬ断乎たる言葉であつさり人をかたづけるかと思へば、真に敬服する人の敬服すべき点をずばりと云ふなど見かけによらぬ剛気な、はつきりした肚のすわつたところがあつたといふので、試みに彼の好まなかつた、某、某など三四の名とそれに対する評語とを聞いてみると、なるほど一々同感できるものでその人を見る目のたしかさがわかるとともに、彼が身の純潔を守るために邪魔になりさうな人物を排斥してゐたその本能的な見解が面白いものに思へた。若くして死ぬ運命の彼は二十年前から既に老成してゐたのである。
底本:「定本 佐藤春夫全集 第24巻」臨川書店
2000(平成12)年2月10日初版発行
底本の親本:「現代日本随筆選8 机上枕上歩上・貝殻追放」筑摩書房
1954(昭和29)年1月
初出:「文学界 第七巻第八号」
1953(昭和28)年8月1日発行
※初出時の傍題は「愛すべき人がら品格ある作品」です。
入力:焼野
校正:菜夏
2018年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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