學生時代の菊池寛
恒藤恭



    

 菊池寛は明治四十三年夏のはじめに一高の入學試驗をうけたが、私もやはりその時の受驗生の一人だつた。身體檢査の際に、みんなが猿又一つのまる裸になつて、一列にならびながら自分の順番を待つてゐるとき、丁度私のすぐ前に同君が立つてゐた。その頃から同君は年齡よりはずつとふけて見える顏つきだつたが、若い女のやうな、むつちりした曲線的な肉つきをしてゐる癖に、四角張つた、いかつい、恐ろしさうな顏をしてゐて、高い調子の聲でなんだか私に話しかけたことを、今でもよく記憶してゐる。それで、同君の生前のことを彼れ是れと心に思ひうかべると、その時にあたへられた、肉體的矛盾の極めて鮮明な第一印象が何よりもはつきりと思ひ出されるのである。

 その年の九月になつて、英文科一年の教室で、四十人ばかりの同級生の中に、私は再び菊池寛のすがたを見出した。おたがひに『やあ』、『やあ』とあいさつをかはしたものだつた。

 當時は方々の中學校から優秀の成績の卒業生を推薦し、その中から選拔して高等學校に無試驗で入學させる制度が行はれてゐた。そのやうな無試驗組の者が私たちのクラスには七八人あつたかと思ふ。その中には佐野文夫や芥川龍之介や久米正雄などの人々がゐた。それから採點がきびしいので有名だつた岩元先生のドイツ語の試驗に祟られて原級に留まつた者が十人あまりあつた中には、山本有三、土屋文明などの諸君がゐた。殘りの二十人足らずの者が、菊池寛や私などのやうに新たに受驗して入學した連中だつたわけである。

    

 間もなく十一月のはじめに、行軍のために全校の學生が甲府をさして出かけて行つた。本郷にあつた元の一高の校舍の門を出るときから、雨がしきりに降つてゐて、私たちは釣り鐘マントの上に舊式の小銃をかつぎながら、飯田橋の驛まであるいて行つた。甲府の手前で下車して、笛吹川の沿岸で演習をやつたが、そのあひだも雨はふり續いてゐた。甲府の聯隊から將校がやつて來て演習のさしづをしたので、中々きびしい演習のしかただつた。夕方ちかく演習が終了し、將校の講評があつた後、甲府の町をさして行進をはじめたころには、みんなすつかり疲勞してゐて、隊伍を亂してあるいた。扁平足の菊池寛は殊にへこたれて、あゆみなやんだので、誰かが彼の小銃をかつぎ、ほかの誰かが彼をたすけて雨のそぼふる田舍みちをあるいて行つた。

    

 著しい特色をもつた學生の多いクラスだつたが、その中でも菊池寛は異彩を放つてゐたやうに思ふ。いつもずんぐりとふとつた上半身の臍のあたりから下に袴をつけてゐるものだから、袴の裾を地べたに曳きずるやうにしながら、教室の廊下や校庭などを小股にあるいてゐたものだつた。きつい音痴で、寮歌をうたふにも、音譜を無視して、黄いろい聲を突拍子に張りあげながら、自分勝手な節をつけて歌つてゐた。

 事情のために高等師範を中途で退學して、一高に入學したのであつたが、彼の英語の力はふつうの高等學校の生徒よりは遙かにまさつてゐたやうであつたし、なかなかの勉強家で、いろいろ英文學の書物をよく讀んでゐたやうであつた。よる學校の中の圖書館の廣い讀書室の一隅で、撫で肩の上に載つかつてゐる頭をかがめて書物によみふけつてゐる菊池のすがたを見うけることもまれではなかつた。そんなときは、後からはいつて行つて、かろく彼の肩を抑へると、あの猪首をあげて、眼鏡の奧の兩眼をしよぼ〳〵とまたゝきながら微笑をもつて答へる慣ひであつた。

    

 大正二年の七月に私は一高を卒業し、九月には京都大學の法科に入學した。當時は四年制だつたので、一囘生に割當てられた講義の時間數もさまで多くなかつた爲に、法科の講義のほかに幾つもの文科の講義に出席した。その中の一つに、藤代博士のドイツ文學の時間があつたが、ある日其の時間に隣りの席に菊池寛がこしかけてゐるのを見出して、しばらくぶりに話しあつた。それはドイツ文學の時間といつても、ある現代小説──著者の名も書物の名も忘れてしまつた──を藤代さんがずんずん講讀して行かれるのであつた。その次の時は、やはり菊池がとなりの席にこしかけてゐたので、先生の來られるのを待つあいだ、二人がいろ〳〵の教授たちの講義についての感想をお互ひに話し合つた中に、『藤代さんのドイツ語のアビリチイはすばらしいものだね』と同君が激賞したことをおぼえてゐる。

    

 後年ときどき上京すると、田端にあつた芥川龍之介の家に滯在したものだつたが、そこで時たま菊池寛と顏を合はせることもあつた。學生時代には全く身なりに無頓着で、いつも垢じみたきものを着てゐた同君であつたが、しだいにととのつた服裝をするやうになつたことが眼についた。そのほかは、いつ會つて見ても元のまゝの菊池寛であつた。しかし同君の名が文壇に重きをなすやうになつた頃には、私が上京する機會はまれになつた。

 昭和二年の夏に芥川龍之介自殺の報に接して上京し、七月二十七日に谷中の齋場で行はれた告別式に參列したとき、友人を代表して弔詞をよんだ菊池寛が、なかばにして聲涙相下るといつたやうな調子になつたのを思ひ出す。芥川龍之介と菊池寛とは、さまざまの點において異なる性格をもつてゐた友人同志ではあつたけれど、たがひに深く信頼し合つてゐたやうに思ふ。

 近年久しく菊池と顏を合はせる機會が無かつたが、一昨年の春に選擧應援演説のために同君が京阪地方にやつて來たとき、或場所で久しぶりに會ふ筈だつたところ、急に日程を變更せねばならぬやうになつたとかで、その機を逸したことは、かへす返すも殘念な次第であつた。

(法博・大阪商大學長)

底本:「文藝春秋 昭和二十三年十月號」文藝春秋新社

   1948(昭和23)年101日発行

初出:「文藝春秋 昭和二十三年十月號」文藝春秋新社

   1948(昭和23)年101日発行

入力:sogo

校正:富田晶子

2018年11日作成

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