影男
江戸川乱歩
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三十二、三歳に見えるやせ型の男が、張ホテルの玄関をはいって、カウンターのうしろの支配人室へ踏みこんでいった。
ずんぐりと背が低くて丸々と太ったちょびひげの支配人がデスクに向かって帳簿をいじくっていた。そばの灰ざらにのせた半分ほどになった葉巻きから、細い紫色の煙がほとんどまっすぐに立ちのぼっていた。ハバナのかおりが何か猥䙝な感じで漂っていた。
「来ているね?」
やせ型の男がニヤッと笑ってたずねた。
「うん、来ている。もう始まっているころだよ」
「じゃあ、あのへやへ行くよ」
「いいとも、見つかりっこはないが、せいぜい用心してね」
やせ型の男はネズミ色のセビロを着て、ネズミ色のワイシャツ、ネズミ色のネクタイ、くつまでネズミ色のものをはいていた。どんな背景の前でも最も目だたない服装であった。かれはまったく足音をたてないで階段を駆け上がり、二階のずっと奥まった一室のドアをそっとひらいて、中にすべりこむと、電灯もつけず、一方の壁にある押し入れの戸を用意のカギでひらき、その中へ身を隠した。
まっくらだけれど、かれはそのへやの構造を手にとるように知っていた。そこは普通のホテルの客間で、寝室と居間とを兼ねた五坪ほどの狭いへやであった。一方の壁に押し入れのように造りつけた洋服戸だながあって、かれが忍びこんだのは、そのからっぽの洋服戸だなであった。
戸だなの中はパッと目もくらむほど明るく、ギラギラした異様の光線にあふれていた。そこの正面の壁に三尺四方もある一枚ガラスのショーウインドーみたいな窓がひらいていたからである。
なんとも不思議千万な押し入れだが、これはやせ型の男が、太っちょの支配人に十万円のわいろを与えたうえ、経費二十万円を支出して、ひそかに工事をさせたショーウインドーであった。警察で被疑者の言動をのぞき見するためにくふうされた、表面は鏡で、裏側から見れば普通のガラスのように透き通っているという、あの仕掛けなのである。
この工事の壁をくり抜く仕事は、幾人もの別々の職人に一部分ずつやらせて、ガラスの取り替えは、ガラス工場から届けられた仕掛けガラスを、深夜ひそかに支配人みずからはめこみ、慣れぬコテを使って、周囲にモルタルを塗ったのである。のぞき見の必要がないときは、もとどおりちゃんと板をはめて、それと見分けられぬようにできていた。
この秘密は、支配人とやせ型の男のほかは、だれも知らなかった。主人はホテルに住んでいないし、雇い人たちはまだ真相を看破していなかった。ここは表向きは温泉マークなんかではなく、もっと高級な静かなホテルなのだが、内密は、特定の富裕な顧客に秘密のへやを提供して、不当の利益をむさぼっていた。そういうホテルのことだから、雇い人たちも、たとえ秘密めいた工事が行なわれても、別に怪しむこともなかったのである。この不思議な仕掛けの押し入れの戸には、やせ型の男と支配人だけが持っているカギでなければ、けっして開かないような精巧な隠し錠がついていた。
そこからのぞくガラス窓の向こう側の光景は、狂人の幻想めいて、異様をきわめていた。それは十畳ぐらいの鏡のへやで、四方の壁と天井とがすっかり鏡張りになり、床にはまっかなじゅうたんが敷きつめられ、そのまんなかにはでな模様の日本のふとんが敷いてあった。そして、そのふとんの上で、ギョッとするような異様な動作が演じられていたのである。
かっぷくのよいがんじょうなからだの五十男が、まっぱだかで、そのふとんの上にエビのようにからだを曲げてうずくまっていた。薄くなった頭のさらのようなはげが、こちらから真正面にながめられた。へいぜいは、まだはげていない左側の毛を長くのばして、それをすだれのようになでつけて、はげを隠しているのだが、その長い左側の毛が額にたれさがって、お化けのようにぶきみであった。うつむいた額の下にあぶら汗にまみれた、あから顔のたるんだほおが見えていた。
この奇怪な五十男のうしろに、ひとりの美しい女が、またをひろげて仁王立ちになっていた。三葉三四郎が編纂した『世界映画史』の口絵写真にある、今から四十年まえに大人気を博した女賊映画の主人公プロテアのような姿の美女であった。
ぴったり身についたメリヤスふうのシャツとズボンだけになっていたが、それが実にはでな色彩で、五寸ほどの太さの赤と黄色のだんだら染めなのである。シャツもズボンも同じ染めだから、この美人はまっかなシマウマのように見えた。
すべての曲線をあらわにした彼女のからだは、ギリシャ彫刻のように均整がとれていた。足は長くて、おしりはみごとにふくらんでいて、腹はハチのようにくびれ、もり上がった胸が激しい身動きをするたびに、ゼリーのように震えた。その胸の上に、かっこうのよい長い首と、プロテアの顔がついていた。といっても、彼女は西洋人ではない。西洋人のようなからだをした日本人なのだ。年は二十五、六歳であろうか。
それだけでもじゅうぶんあやしい光景なのに、そのふたりの姿が、天井と四方の壁に張りつめた鏡に幾重にも重なり合って反射し、無数のだんだら染めの女と、無数の裸体の五十男とが、あるいは上から、あるいは横から、うしろから、あらゆる角度の映像となって、眼界いっぱいにウジャウジャとうごめいていた。むろん、男も女も、かれら自身のあらゆる角度からの映像を見ることができる。実は、この鏡のへやのあやかしのたくらみがそこにあったのである。
ピシリッと裂帛の音がした。だんだら染めの美女が、獅子使いのむちで宙を打ったのだ。
この二つのへやの音響は完全に遮断されていた。こちらの押し入れの中で少々音をたてても、相手に気づかれる心配はなかった。では、どうしてガラスの向こうのむちの音が聞こえるのか。そこにはやせ型の男と太っちょの支配人との行き届いたくふうがこらされていた。隣室の天井のすみに、それと見わけられぬマイクロフォンが取りつけられ、押し入れの中にはその受話装置ができていたのである。
「ジャンゴ。もうまいったのか。チンチンだ。ほら、チンチンだ!」
美女の赤いくちびるから、獅子使いの激しい声がほとばしった。鏡面の百千の赤いくちびるが同時に動いた。そして、ピシリッと、こんどは男の背中にむちが鳴って、みるみるかれの太った背中に赤い毛糸のようなあとがついた。鏡面の百千の背中に、百千の赤い毛糸がはった。
ジャンゴとはこの雄獅子の愛称なのであろう。かれは不思議なかっこうで中腰に立ち上がると、両手をネコの手にして、胸の辺でモガモガやりはじめた。上から、横から、うしろから、前から、無数の奇怪なチンチンモガモガが、鏡面に目まぐるしく交錯した。
「よろしい。こんどはお馬だ!」
そして、むちが宙にはためく。
獅子男は四つんばいになった。鏡の中の百千のはだか男が四つんばいになった。そして、ぽかんとひらいた厚いどす黒いくちびるからよだれをたらして、けだもののような卑屈な、狡猾な横目で、女獅子使いのさっそうたる立ち姿を盗み見た。百千の狡猾な目が、百千の女を、あらゆる角度からなめまわした。
空中曲芸師のようにしなやかで敏捷なだんだら染めの美しいからだが、ひらりと雄獅子ジャンゴの背中にまたがった。どこから取り出したのか、手綱代わりの同じだんだら染めのひもが男の口にくわえさせられ、その両端を持って、ハイシイドウドウと、お馬の曲乗りがはじまった。百千のはだか馬と、赤い縞の女騎手とが縦横にはせまわった。せつなせつなに、例のむちが、ときに空を、ときに男の毛むくじゃらの大きなおしりを、ピシリ、ピシリと打ち、おしりにはまっかな毛糸の網模様ができていった。天井と四方の鏡は、この醜いけだものと、美しい騎手とを、あらゆる角度から、狂気のまぼろしのように、目もくらむ無数の映像として映し出した。
五十男の雄獅子ジャンゴは、全身にタラタラ汗を流しながら、十畳のへやの中を、グルグルはいまわった。
「もっと早く、もっと早く!」
そして、ピューッとむちが……だんだら染めの騎手のかかとが、男のダブダブの太鼓腹に角を入れ、締めつけた。
男はゼイゼイ息をはずませながら、まっかに充血した顔からポトポト汗をたらして、全力をふりしぼって、死にもの狂いにはいまわった。恐ろしい速さで、ひざをすりむきながら、その血がじゅうたんをぬらすほども走りまわった。
奇怪な馬が魔法鏡の前を通るたびに、ギョッとする大映しになって、のぞき見する男を眩惑させた。縦横にむちの血の川を描いた巨大なおしりと、その上に重なっているだんだら染めの大きな桃のようなおしりとが、弾力ではずみ、ゆらぎ震えて、眼前一尺の近さを通りすぎた。
やがて、男の力がだんだん尽きていった。しかし、獅子使いは許さなかった。へとへとになって、ぶっ倒れるまで曲乗りをやめなかった。
男は乗りつぶされて、ぐったりとふとんの上に横たわったまま動かなくなった。
大きなからだは汗とほこりと血にまみれ、どろのようによごれて、激しい息づかいに、肩と胸と腹が大波のようにゆれていた。
「ウ、ウウウウウ、もっと……もっと……ふんづけてくれ……ふんづけて、踏み殺してくれい!」
ことばともうめきともわからぬ音が、男の口から漏れてきた。プロテアの美女は、横倒しになった醜悪なけだものを見おろして、嫣然と笑った。ボタンの花が開くように笑った。
彼女はその笑いをやめないで、右足をあげると、男の肩先をぐっと踏みつけた。獅子退治の女勇士が誇らかにみえをきった。それから、彼女の足は、ダブダブと肥え太った男のからだじゅうを、まるで臼の中のもちを踏むように踏みつづける。そのたびに、男の口から、けだものの咆哮に似た恐ろしいうめき声がほとばしった。
その足は、男のあおむきになった息も絶えだえの紫色の顔の上さえも、目も、鼻も、口も、ところきらわず踏みつづけた。いや、足ばかりではない。その顔の上へ、二つの丸いだんだら染めのおしりが、はずみをつけて落ちていき、そのまま顔をふたしてしまった。男は鼻と口との呼吸をとめられて、苦しさに手足をのたうち、断末魔のようにもだえるのであった。
そして、ついには、まったく息絶えたかのように、ぐったりと伸びて、雄獅子は静止してしまった。
そこで美女はやっと呵責を許し、静かに男からはなれて、美しい形で立ち上がった。顔には汗ひとつ見えず、呼吸もおだやかに、例のボタンの嫣笑をつづけながら、ごうぜんとして、倒れたけだものを見おろしていた。
押し入れの中のやせ型の男は、この壮大な曲芸を見終わって、手にした小型写真機をポケットに納めると、ニヤリと異様な笑いをもらした。
かれは雄獅子ジャンゴが何者であるかを、よく知っていた。知っていればこそ、支配人買収の手数をかけ、多額の費用を使ってこののぞき見をもくろんだのである。
雄獅子は此村大膳という古風な名まえの、S県随一の大富豪であった。工場をいくつも持っていたし、戦後起こした金融会社で巨利をむさぼっていた。その余力で代議士に当選し、不良政治家の見本のような世渡りをしていた。
やせ型の男がニヤリとしたのは、これでまた相当の資金が手にはいるわいと考えたからである。こののぞき見のために、かれは三十万円を使ったが、少なくともその十倍近くにはなる勘定であった。
では、このやせ型の男は、憎むべきゆすりの常習犯であったのか。ある意味ではそうであった。しかし、かれの立場は世の常の犯罪者とは少しく異なっていた。
このやせ男は速水荘吉、あるいは綿貫清二、あるいは鮎沢賢一郎、あるいは殿村啓介、あるいは宮野緑郎、あるいは、あるいは……と、無数の名を持っていた。そのうちの一つの名では小説家でさえもあった。佐川春泥という犯罪小説家は、その世の常ならぬ奇怪な題材によって、二、三年まえから読み物界でひっぱりだこの流行児になっていた。このような怪奇異風の小説は、いかなる人物が書いているのか、佐川春泥とはそもそも何者なのか、編集者も、読者も、その秘密に異常な魅力を感じて、かれの作品の実質以上の人気となった。
無数の名を持つこの男、──かりに速水荘吉と呼んでおこうか──その速水は、佐川春泥の正体を絶対に知られない用心をした。この秘密がかれの小説の売れ行きを倍加しているのだし、また、かれの不思議な生活のためにも、自分の正体を知られることは、あくまで防がなければならなかった。雑誌社との交渉はすべて手紙によることとし、雑誌社からの依頼状や稿料支払いは、そのつどちがった郵便局留め置きで受け取ることにしていた。雑誌社のほうでは、かれの正体をつきとめようとして、その郵便局に記者を張りこませたりしたが、かれはそんなことは百も承知であった。局へ手紙や為替を受け取りに来るのは、タクシーの運転手とか、酒場のボーイとかで、かれ自身は一度も姿を現わさなかったし、それらの使いの者も、もしうさんくさい尾行者などがあれば、けっしてかれのところへもどってこないように厳命されていた。ある場合には、そういう使いの者を二重三重に頼んで、次から次とリレー式に手紙などを運ばせることもあった。その途中で少しでも怪しいことがあれば、使いの者はかれのところへ近よらなかったし、かれ自身も八方に目をくばって、共産主義者の街頭連絡以上の手数と技巧を惜しまなかった。
速水──やはり、かりにこう呼ぶのだが──速水はある私立大学の文科に籍を置いたことがあるが、卒業はしていなかった。その大学の図書館で各方面の書籍を乱読したばかりであった。
かれはまたあらゆるスポーツを好み、乗馬、自動車の運転、飛行機の操縦なども会得していた。非常に運動神経の発達した男で、あるときは曲馬団にはいって空中曲技を習い、ほとんど一人まえの曲芸師になっていた。
かれがどうしてそんな思想を持つようになったか。精密には遺伝や幼時の環境を調べてみる必要があるが、筆者にはそこまではわかっていない。おそらくは、持って生まれた性格と、大学時代に乱読した書物の影響であろう。かれは人間というものの探求を生きがいとするようになっていた。だが、その探求の意味が、かれの場合には、まったく風変わりな異様な角度のものであった。
物には表裏があり、人間にも表裏がある。かれはその裏側のほうの人間を探求しようとしたのである。それも社会学的、心理学的にではなく、しいていえば犯罪学的に探求しようとした。しかし、普通犯罪学者がやるような一般的研究ではなくて、これと目ざした個々の人間の、世間にも、その人自身の家族にさえも知られていない秘密の生活を探求することが、かれの生きがいであった。
この探求は自由主義者には蛇蝎のごとく憎悪せられる種類のものであった。お互いに個人の秘密を尊重するというのが、自由主義者のモットーであった。医師が患者の病状を他人には絶対に口外しないという、あの秘密主義が自由主義者の考え方であった。したがって、かれのこの探求は、自由主義の世界ではスパイ行為として極度にけいべつせられるばかりか、多くの場合犯罪でさえあった。その意味で、いや、その意味以上に、かれは犯罪者であった。
人間というものは、たったひとりでいるとき、そばに人目のないときには、どんな異様な行為をするかわからないということを、かれは自分の体験から割り出して知悉していた。体験ばかりでなく、かれがそういう生活をはじめてからの数々の経験が、これを証明していた。表側の人間と裏側の人間とが、どんなにちがっているか、それを知ることは、怪談のように恐ろしかった。手袋を裏返すように、人間を裏返すと、そこには思いもよらない奇怪な臓物が付着していた。かれはそういう裏返しの人間を見ることに、こよなき興味を持った。つまり、かれの探求欲は、唾棄すべきスパイ精神と相通ずるものがあったのである。
この探求には副産物があった。富裕な人間の裏側を見たときには、それを武器として、相手から多額の金銭をゆすり取ることができた。探求にはずいぶん元手がかかるけれども、ゆすりによって、その何倍の収入があった。どんな商売よりも有利な金もうけであった。ゆすりは明確に犯罪である。だから、かれは争う余地のない犯罪者であった。ただ、相手のほうに告発しえないという弱点があるので、最も安全な犯罪であって、いつまでもその所業をつづけることができるというにすぎなかった。
だが、相手が悪人であった場合には、逆スパイを使ってかれを窮地におとしいれることもできるだろうし、場合によっては生命をねらわれるおそれさえあった。速水はそういうことも予想して、あらゆる用心を怠らなかった。かれはまたそういう用心にはもってこいの知恵と、体力と、技術を身につけていた。
相手に気づかれず、その人の裏側を探求するためには、隠れみのが必要であった。ウエルズの『透明人間』が理想の境地であった。速水はひとつ透明人間になってやろうと考えた。むろん、文字どおり透明になれるはずはない。そこで、できるだけ体色をぼかし薄めて、影のような人間になることをくふうした。それには日本の古代の忍術というものが大いに参考になった。忍術師はある意味で透明人間になりえたのである。かれらは盗賊のまやかし術から出発して、戦国武将のもとになくてかなわぬ存在となり、くふうと修練を重ねて、巧みな技術を編み出していた。速水の隠身術は、いわばこれを近代化したものであった。
かれのくふうの一つに、色メリヤスのシャツとズボンがあった。ごく薄手の弾力のあるメリヤス地を、ネズミ、黄、茶、赤、黒など各種の色に染めて、常に身辺に用意していた。たとえば、夕がたの薄やみを利用して行動する場合には、ぴったり身についたネズミ色のシャツとズボンを着用した。シャツのそでの先はそのまま手袋になっていたし、ズボンのすそはそのままくつ下につづいていた。それを着用すれば、首から上をのぞいた全身が、夕やみ色のネズミ一色になった。場合によっては、同じ色の覆面を、頭からすっぽりかぶることもあった。目と口に小さな穴のあいた袋である。それがメリヤスの弾力でぴったり顔にくっつくようになっていた。
黄色い壁や茶色の壁の日本建築にはいるときには、黄色や茶色のシャツを着るし、赤いカーテンのまえでは赤いシャツに着替え、森の中では濃緑のシャツ、くらやみには黒のシャツというわけであった。
忍術では、やみ夜にはまっくろな衣装よりは、かわいた血のようなどす黒い赤が最も目に見えないと言い伝えられているが、速水はむろん、そういうどす黒い赤のシャツも用意していた。
つまり、保護色なのである。動物や昆虫の保護色の原理を、色シャツの手早い取り替えという方法で応用したのである。ごく薄手のメリヤスだから、何枚重ねてもたいしてからだがふくらむわけではない。そのつどつど、いくつかの背景にふさわしい色シャツを適当に組み合わせて重ね着し、とっさにそれを脱いだり、別の色シャツを上から着こんだりして、動物界の体色の変化と同じ働きをさせるので、その脱いだり着たりする手早さには修練を要したし、シャツとズボンの作り方にもさまざまのくふうが必要であった。
古い建物の壁に住む、おしつぶしたように平べったい灰色の大グモがある。あの灰色のからだが、やっぱり保護色で、古壁の色と見わけがつかず、あの大グモが目にもとまらぬ早さで壁をはいまわる様子は、なんだかかすみのようで、虫類遁形の術という感じだが、影男速水荘吉の色シャツ応用の隠身術は、あの平グモにそっくりであった。
これは影男の技術のほんの一例にすぎないが、まあそういうふうな奇術と曲芸に類する数々の隠身術を発明し、それぞれの道具をくふうしていたのである。
かれの人間裏返しの探求には、いま一つの副産物があった。かれはその探求によって得た資料に基づいて、怪奇犯罪小説を書き、一躍名をなしたのである。編集者や読者は、かれの作品を荒唐無稽な純空想の産物と考えていた。現実とはなんの関係もない作りごとと考えていた。
速水──いや、佐川春泥のほうでも、まったくの空想と見せかけるような書き方をしたのだが、事実はその大部分が現実の資料によるものであった。かれの「裏返しの人間探求」の副産物にすぎなかった。
佐川春泥の人気があがるにつれて、原稿料も増してきたから、その収入もばかにならなかったが、しかし、かれは金もうけのために書くのではなかった。隠身術による人間探求の結果を、小説の形でそれとなく世間に見せびらかすのが楽しかったのである。ゆすりのほうでばくだいな収入があったのだから、いくら高くても原稿料など問題でなかった。かれ自身の秘密をこれ見よがしに見せつけて、しかも世間のほうでは、世にもまれなる空想力の作家と思いこんでいる、そのまやかしが愉快でたまらなかったのである。
速水は三十三歳の、むちのように強靭で、しなやかなからだの、やせ型の好男子であった。だが、かれは顔面扮装術においても、俳優以上の技術を持っていたから、ほんとうの素顔はだれにも見せていなかった。衣装ばかりでなく、顔面や頭髪などにも、絶えず化身の術を応用し、場合によっては七十歳の老人にも、二十代の美女にも化ける才能を持っていた。
遁形術者のかれは、住まいも一定しているはずはなかった。同時に、多くの居どころを持っていたが、それに限定されるわけではなく、あらゆる場所がかれの住まいとなりえた。帝国ホテルも、山谷あたりのドヤ街の木賃宿も、上野公園のベンチでさえも、お茶の水渓谷の洞窟でさえも、差別なくかれの住まいとなりえた。
かれはまた、多くの恋人を持っていた。そして、そのおのおのの恋人が、自分こそかれの唯一の愛人だと信じていた。かれの恋人のなかには、十七歳の美少年さえ含まれていた。それらの恋人を、かれは人間探求事業の助手として巧みに駆使していた。恋人たちはお互いにほとんど知り合っていなかった。
張ホテルの秘密室で、S県の多額納税者、此村大膳の醜態を三十六枚のフィルムに撮影した結果は、上々の首尾であった。まず書留親展の手紙にその写真の一枚を封入して送っておいて、此村の自宅に電話をかけ、ゆすりの金の受け渡しの時間と場所を指定すると、相手は一言もなく三百万円の金包みを持って、みずからその場所へ出向いてきた。
此村は明治神宮外苑の入り口で車を捨て、オーバーのえりで顔を隠した忍び姿で外苑の森の中へはいると、指定された石のベンチに腰かけて、つくねんと待っていた。速水は夜の森の色と同じ色シャツと覆面で、此村のうしろからもうろうとして立ち現われ、金包みを受け取ると、残る三十五枚のフィルムを投げ返しておいて、そのまま得意の隠形術で、森の立ち木の中へ溶けこむように消えていった。
そのとき、仮の名速水荘吉は、ネズミ色のセビロ、ネズミ色のオーバー、ネズミ色の鳥打ち帽といういでたちで、東京周辺のある繁華街にまだ残っているブラック・マーケットの迷路の中を歩いていた。小さなきたならしい廃退的な酒場が、狭い間口でめじろおしに並び、あやしげなおしろいの女の、いやらしい嬌声があたりにあふれていた。
突然、そういう酒場の一軒の店先から、ぼろをまるめたような大きな物体が、恐ろしい勢いで速水の足もとへころがり出してきた。
「もうこの辺をうろつくんじゃねえぞ。わかったか、アル中こじきめ!」
ジャンパーのよた者ふうの青年が、そうどなって、ペッとつばをはいて、店の中へもどっていった。
そこの地面にころがっているぼろぼろの物体は、五十五、六歳に見える一個の人間であった。よごれてよれよれになったカーキ色の上着の胸がはだけ、中から無数に破れ穴のある茶色の毛糸のチョッキがのぞいていた。ズボンはすその裂けた黒ラシャで、ちびたサンダルげたが足もとにころがっていた。
しらがまじりのもじゃもじゃ頭、無精ひげでうす黒い紫色の太った顔、太っているだけにいっそうみじめな、どこか好人物らしい酔っぱらいであった。その男は、ぶっ倒れたまま、何かブツブツつぶやきながら、起き上がろうともしない。起き上がる力もないらしく見えた。どこか、ひどく打ったのかもしれない。
しばらく立ちどまって見ていても、だれも助け起こしてやる者もない。通行の人たちは、まるで別世界の人種のように、そしらぬ顔で通りすぎていく。速水は見かねて、そのぼろぼろのかたまりに近より、両手をわきの下に入れて抱き起こしてやった。
「しっかりしたまえ。うちはどこだ」
すると、みじめな五十男は、口をモガモガやっていたが、速水のしゃんとした身なりを見て、少しおそれをなした表情になり、やっと意味のとれる口をきいた。
「ほっといてくれ。おれは人外なんだ。人外とは、人間でないということだ。おまえさんにゃわかるまい」
その声が何かしら惨澹たる哀調をおびていたので、速水はふと、この五十男を探求してみる気になった。むろん、このぼろ男は、こじきとまでいわれているのだから、ゆすりの種にはならない。だが、速水荘吉は常にゆすりのためにのみ動いているわけではなかった。
かれはぼろ男の腕をかかえて歩きだした。重い荷物だった。酔いつぶれたぼろ男は、自分で歩く力はなく、全身の重みでよりかかってきた。悪酒のにおいと異様な体臭がムンムン鼻をうった。
ブラック・マーケットを通りぬけて、表通りに出ると、やや広い大衆酒場があった。速水はぼろ男をつれて、その店の片すみの床几に腰をおろした。
「何か飲むか」
「チューといこう。チューだ、チューだ」
ボロ男が回らぬ舌で注文した。速水はよごれたエプロンの男ボーイに、焼酎と日本酒を持ってくるように命じた。
コップが来ると、ぼろ男はがつがつと口をつけて、よだれをたらしながら、一気に半分ほど飲んだ。そして、残りの半分の液体をじっと見つめていたが、やがて、赤く充血した目がなんとなくいきいきしてきた。泥酔していても、新しい酒が腹にはいると、やはりいくらか活気がもどってくるらしかった。
「おまえさん、おれをおごってくれるんだね」
念を押すように、こちらの顔をじろじろ見ながらいった。
「うん、いくらでもおごるよ。きみはかわいそうな男らしいからね」
「ああ、こんな親切な若い衆に出会うのは久しいこった。おらあアル中の人外だからね。だれも相手にしちゃくれねえんだ」
目に感謝の色を浮かべて、好人物らしくニヤリと笑った。無精ひげにおおわれた顔が、大黒様のようになごやかになった。
やがて、コップをからにしてしまうと、物ほしそうな、実にいやしい顔になって、
「もう一杯、ね」
と、ねこなで声を出した。そして、新しく来たコップをまた半分ほど飲んだが、そのころから、何かうつろな目になって、考えごとをはじめた。しばらくむっつりと黙りこんでいたが、血走った大きな目を(このぼろ男の目は、団十郎のように大きな二かわ目であった)パチパチやったかと思うと、目の中がわくようにふくれ上がって、ポロポロと大粒な涙がこぼれた。
「おまえさん、聞いてくれるかね。おらあ、おまえさんに話したいことがあるんだ」
そして、犬のようにあどけなく首をかしげて、じっとこちらを見た。
「うん、聞くよ。話してごらん」
男は大きな目を細くして、赤い舌でペロペロとくちびるをなめた。
「若い衆、おれをなんだと思うね……人外さ。それはわかってらあ。だが、おれの前身をなんだと思うね」
速水は人間観察に慣れていたので、この質問に答えるのはわけもなかった。
「軍人だろう。それも将校だ。大尉かね」
「えらい。おまえさん、人相見かね。そのとおりだよ。おれは陛下の忠勇なる陸軍大尉だった。生涯、軍に身をささげるつもりだった」
そういって、またポロポロと涙をこぼした。この五十男は、兵卒から経上がった職業軍人らしかった。そういう体臭が感じられた。
「りっぱな軍人だった。金鵄勲章もいただいとる。感謝状を何本ももらっとる。北支の戦場では、元野部隊長閣下が、親しくおれの手を取って『えらいやつだ』と涙をこぼして感謝された。おれは百三十人の生き残りの部下とともに、五十六高地の孤塁を守って、三千の敵を追いちらし、後続部隊との連絡を全うした。それは大作戦の成否にかかわる重大地点だった。おれの金鵄勲章は、その功績によるものだ」
ぼろ男も、それを語るあいだだけは、姿勢もしゃんとして、百戦錬磨の古強者らしく見えた。だが、かれはまたぐったりとなってしまった。そして、しきりに大粒の涙を流した。
「おれは申しわけない。実に申しわけない。忠勇なる陛下の軍人ともあろうものが、このざまはなんだ。畜生道におちて、人外になってしまった。おらあ死にたい。そこいらのやつをみんな殺して、死んでしまいたい。だが、もう手おくれだ。日本が降伏したとき、切腹することができなかった。なぜできなかったか、おれにもわからない。もともと、おれは人外だったんだ。軍という組織をはなれたら、何一つできないぐうたらべえだったんだ。あれからというもの、落ちた、落ちた、世の中の底の底まで落ちた。そして、人外のけだものになりさがってしまった」
男は酒場の中をグルッと見まわした。かれの声がだんだん大きくなったので、酒場の客たちのうちには、好奇の目でじろじろこちらを見ているものもあった。
「若い衆、おれが人外だという証拠をひとつ話そうか……おらあ、かかあがある。それから、ちっちゃい娘がある。それだけだ。掘っ立て小屋に住んでいる。おれが木ぎれを拾い集めて造ったんだ。娘はまえのおっかあの子だ。そのおっかあは死んじまった。だから、娘は今のおっかあのままっ子だ。いじめられる。今のおっかあは肺病やみで、寝ているんだ。寝ていて娘をこき使い、ひっぱたくんだ。その娘をいくつだと思うね。まだ十二なんだぜ。学校なんか行けやしない。毎晩夜ふけまで、酒場へ花を売りに行くんだ。十二の子のその収入が、おれたちの全部の収入だ。え、わかるかね。軍人の恩給証書なんて、とっくに高利貸しにとられちゃった。おれがみんな飲んだのさ。おれのかわいい娘は、いまにパンパンになるんだ。え、どうだね。金鵄勲章をいただいた忠勇なる帝国軍人のひとり娘が淫売になるんだぜ。
おらあ、日本が降伏してから、いろんな勤めをやってみたが、とても続かない。軍人にゃあ、せちがらい浮き世は渡れねえんだ。みんなしくじった。あっさりしくじっちゃった。おれはもともとのんべえだったが、アル中こじきにおちぶれたのは、いくさに負けたからだ。
おれだってさめてるときもある。だが、つらくって、苦しくって、さめたままじゃいられねえんだ。だから、肺病やみのおふくろの着物という着物を、みんな質屋へたたきこんで飲むんだ。十二の娘の、かわいいかわいい娘の、花の売り上げをちょろまかして飲むんだ。おっかあも娘も食うものがねえ。飢え死にしそうなんだ」
泥酔のぼろ男は、そこで一段声をはりあげて叫びだした。
「そこいらのみんな、聞いてくれ。人外というものを知っているか。ここにいるおれがその人外だ。人間の形をして人間でない化けもののことだ。肺病やみのおっかあが飢え死にしそうになっている。十二の花売り娘がひもじがって、ぶっ倒れている。そのかわりに、おれがこうして、酒を飲んでるんだ。ちくしょうッ、人外だッ。人外っていうなあ、おれのこった!」
男はからになった焼酎のコップを卓上にたたきつけ、たたきつけて、こなごなに割ってしまった。そして、その鋭いガラスのかけらの上を、握りこぶしで「こんちくしょう、こんちくしょう」となぐりつづけた。無数のガラスの破片が手の甲に刺さって、針ネズミのようになり、タラタラと血が流れた。
突然、なんともいえぬ不思議な音が起こった。けだものの遠ぼえのようでもあった。生まれたばかりの赤んぼうの泣き声のようでもあった。酒場の客たちの顔が、みんなこちらを見つめていた。カウンターの老主人も、よごれたエプロンのボーイたちも、みんなこちらを見つめていた。
もと陸軍大尉のぼろ男が、ポトポト血のたれるガラスのかけらのハリネズミのような手で、顔をおさえて、ワーワーと子どものように泣いていたのだ。身もだえをして、はだしの足をバタバタやって、だだっ子のように泣きわめいていたのだ。
十二歳の大曾根さち子は、父も母もただ恐ろしい人であった。まだしも、夜ふけの酒場で花を売っているのが、いくらかしあわせなひとときであった。
彼女は客たちからいくらぶあいそうにされても平気だった。めそめそした哀れっぽい声は出さなかった。人間の愛情というものをまったく知らず、あまえることも知らなかったので、ただ機械的に、花束を持って、酔っぱらいの一団のうしろに立っているだけであった。しかし、このやせた小娘には、どこかうっとりと夢見ているようなところがあって、人の心をひいた。存外花を買ってくれる客があり、酔客が頭をなでてくれるようなことさえあった。だから、ほかの少女売り子たちに負けるわけでもなかった。
女親分のような年増女がいて、うわまえをはねたし、容赦なくひっぱたかれることもあった。そのうえ、仲間の年上の少女たちにもずいぶんいじめられたが、さち子はそういうことに不感症になっていたので、泣きもしなかった。悲しいたびに泣いていたら、朝から晩まで泣いていなければならなかったからである。この少女は、泣くことさえ、もう忘れているように見えた。それにしても、大曾根とは、あのぼろぼろ男にとって、なんといかめしい姓であろう。また、さち子(幸子)とは、この哀れな少女にとって、なんという皮肉な名であろう。あのぼろ男が陸軍大尉時代には、大曾根という姓をわが武勇にふさわしい氏と誇っていたことであろう。そして、その最初の愛児に、行く末めでたかれとて、さち子という名をつけたのでもあろう。
人通りのとだえた暗い夜の町を、小さな女の子が、穴のあいた赤い毛糸の上着に、セイラー服の短いスカート、素足にぞうりばきで、ペタペタと歩いていた。
大曾根さち子が花を売りつくし、うわまえをはねられて、三百七十円の札束をポケットに、家路についたのはもう十二時すぎであった。彼女は渋谷の酒場街の仕事場から、十数町の掘っ立て小屋へ帰る道すがらが、いちばんしあわせであった。うちには鬼が待っている。その鬼に会うまでの二、三十分が何よりもしあわせな時間であった。
彼女は歩きながら、小さな声で歌をうたいさえした。まだ小学校へ行っている時分に習った幼い歌を口ずさんだ。そして、頭に浮かんでくるあらゆる想念を、半ばは口に出し、半ばは頭の中で物語っていた。それは彼女が暇さえあれば考える不思議な美しいおとぎばなしの世界であった。
「ハトのように羽根がはえて、空が飛べたらどんなにいいでしょう。そうすると、高い空からなんでも見られるわ。かあちゃんも空までは追っかけられないし、とうちゃんも来られないわ。お金もうけもしなくていいわ。青い青い空を、歌をうたって飛んでいればいいんだわ。なにか食べたくなったら、ハトのようにスーッと町へおりてきて、今川焼きの店からあたたかい今川焼きを二十も三十もさらって、またスーッと空へあがってしまえばいいんだわ。だれも追っかけてこられやしないわ。そうして、おいしい今川焼きをたべながら、歌をうたって飛んでればいいんだわ。
青い空の上の上のほうには、死んだかあちゃんがいるんだわ。学校の先生が、人間が死ぬとみんな空へのぼるんだっていってたもの。だから、あたしのかあちゃんもきっと空にいるんだわ。そして、ハトになれば、かあちゃんに会えるんだわ。でも、ハトはそんなに高く高くのぼれるかしら……」
さち子は三歳のときに実母と死別したので、その顔はうろ覚えだったが、暖かいふっくらとした乳ぶさと、やさしい笑顔が幻になって、いつでも目の前に浮かんできた。そのころは、おとうちゃんも、まだ飲んだくれにならないやさしいおとうちゃんであった。
「ねえ、きみ、今川焼きがどうしたの? それから、空を飛ぶってなんのことなの?」
突然うしろから声をかけられて、びっくりした。おずおず振り向くと、ネズミ色のオーバーを着て、ネズミ色の鳥打ち帽をかぶった、すらっと背の高いおじさんが立っていた。
それを見ると、さち子の顔がにわかに陰鬱になってしまった。楽しい夢がどっかへふっ飛んで、つらい浮き世が帰ってきた。彼女はうわ目づかいに男を見上げて、おしだまっていた。
「きみは大曾根さち子ちゃんだろう。ね、そうだろう」
少女はニコリともしないで、わずかにうなずいてみせた。
「そうだね。今、花を売って、おうちに帰るところだね。きみはかわいそうな子だね。なんにも楽しみがないのだね」
すると、少女はおこった顔になって、他人行儀な声で答えた。
「あたし、かわいそうな子じゃないわ。楽しいことだってあるわ」
「その楽しいことというのは、ハトのように空を飛ぶことだろう。おじさんはちゃんと知ってるよ。空から神様が、きみをお迎えに来るんだね。金色の神様よ。そして、きみをかわいがってくださるんだ。いまにきっと空へ行けるよ。そして、おかあさんにも会えるだろうよ」
それを聞くと、少女はいっそうこわい顔になって、くるっと向こうをむき、歯と歯のあいだから「チッ」という下品な音を出したかと思うと、いきなり駆けだしていった。恐ろしい勢いで、まるで人殺しに追っかけられてでもいるように駆けだしていった。
少女ながら、侮蔑を感じたのだ。からかわれていると思ったのだ。いや、それよりも楽しい夢を破られたのがいちばんしゃくにさわったのかもしれない。人間知りのネズミ色の服の男は、少女の気持ちがよくわかった。かれはあとを追おうともせず、その場所に立ったまま、意味ありげに微笑していた。全能の神の楽しさで微笑していた。
数日後、速水荘吉、あるいは綿貫清二、あるいは鮎沢賢一郎、あるいは殿村啓介、あるいは宮野緑郎、あるいは佐川春泥、その他無数の名を持つ影男は、帝国ホテルの一室におさまっていた。
ここでは、かれは大阪の貿易商社の若い社長鮎沢賢一郎であった。ゆうべおそく大阪から着くと、かれのへやときまっている二間つづきの一室にはいったが、ぐっすり朝ねぼうをして、翌日の昼ごろ起き出して、ゆっくりバスにはいってから、気に入りのボーイに軽い朝食を自室へ持ってこさせ、それを平らげると、あらかじめ呼んでおいたひとりの客を引見した。かれはここでは、呼びよせた客以外には、だれにも会わないことにしていた。
それは二十三、四歳のはでな洋装の美しい女であった。自室の居間のほうに通して、まず長い接吻をしてから、長イスにからだをくっつけて腰かけた。
「上流婦人の秘密結社があるのよ。あなたの趣味にぴったりだし、十万円ぐらいのごほうびの値うちありそうよ」
女の鼻はかわいらしくツンと上向いていた。笑うと左のほおに片えくぼができた。目が愛らしかった。シガレットを気どった手つきでふかしていた。
「詳しく話してごらん」
影男の鮎沢は、女のえくぼを見ながら、微笑してたずねた。
「首領──といっちゃおかしいけれど、その婦人団の団長みたいな人ね、それはもと侯爵夫人で、たいそうお金持ちなの。春木夫人っていうのよ。団員は十五、六人らしいわ。みんなお金持ちの猟奇マダムよ。はじめは競馬の仲間だったらしいのね。それがマージャンやトランプのパーティーをひらいているうちに、だんだん秘密の楽しみにふけりだしたわけよ。いまではほんものの秘密結社だわ。みんな黒いガウンを着て、黒い覆面ずきんをかぶって、そのために借り入れてある秘密の家で密会するのよ。そして、悪事をたくらむのだわ」
「たとえば?」
「不倫のエロ遊びよ。ずいぶん思いきったことをやっているらしいわ」
「それじゃきみは会員じゃないんだね」
「どういたしまして。地位と財産がなくっちゃあ、その結社にははいれないのよ。それでね、十万円の値うちっていうのは、その会合の場所と時間だわ。どう? 買ってくれる?」
鮎沢は無言でポケットから小切手帳をとり出し、十万円の金額を書きこんで捺印した。それを相手に手渡しながら、
「で、その場所と時間」
「代々木の原っぱの中の一軒家。広い地下室があるんですって。団員はガウンの上にオーバーを着ていって、門の前でオーバーをぬぎ、覆面をかぶるのよ。そして、門に番をしている人にサインをすると、入れてくれるんです。サインはこうよ」
女は真言秘密の呪文のような手つきをしてみせた。そして、代々木の密会所の位置を詳しく説明した。
「どう? よく探ったでしょう。その会合が、あすの晩十時から開かれるのよ」
「うん。それで、きみに教えてくれたのは、団員のひとりなんだろう」
「教えてくれたんじゃない。あたしのほうで、鮎沢さん直伝の手でもって、吐かしたんだわ。相手は、あたしなら危険はないと思って、安心しているのよ。でも、けっして他言しちゃいけないって、青い顔になって、念をおしていた。よほどこわい制裁があるんだわ」
「その人の名」
「琴平咲子。新興実業家の奥さまよ。まだ三十になっていない美しい人よ」
えくぼを深めてニヤリと笑った。
「背は高いかい?」
「あたしより五センチぐらい。でも、鮎沢さんよりはずっと低いわ」
「そのくらいならなんとかなる。背を低くしたり高くしたりするのも一つの忍術だからね。もうわかっているだろう。ぼくがその女に化けるのだ。そのあいだ、咲子さんのおもりはきみの役目だ。でなきゃ十万円の値うちはないよ。で、ぼくと咲子さんと会うのは、このホテルのグリルということにしよう。わかったね」
そのとき、びっくりさせるように、電話のベルが鳴った。鮎沢はそこへ歩いていって受話器をとった。
「うん、おれだよ……なに、使いに出たまま、うちへ帰らないで、郊外へ郊外へと……わかった。どこまでもあとをつけるんだ。十分ごとに、電話のある家を見つけて、そこの人にここへ電話をかけさせろ。その家の位置がわかればいいのだ。用件はどうとでも作り出せる。あたりに家がなくなるまで、それをつづけるんだ。百姓家だって電話のある家がある。そこへ駆けていくんだ。相手は子どもの足だ。見失う心配はない。わかったな。じゃあ」
受話器をおくと、しかめていたまゆを急にひらいて、ニッコリと女を見た。
「なんだか別の事件があるらしいのね。鮎沢さんって忙しい人ね」
「いつでも十ぐらいの事件が継続中だ。忙しくなくっちゃ生きがいがないよ。今の電話は、善神をつとめるほうの事件だ。ぼくは悪神になる場合が多いが、善神にもなれるんだぜ。たとえば、きみに対しては、いつでも善神なんだからね」(軽い笑い)
「あたしだけに善神じゃなくて、たくさんの女の子にも、でしょう」(笑い)
その実、そのたくさんの女のひとりでも、彼女が知っているわけではなかった。
「わかった、わかった。ぼくは男の女王バチだっていってるじゃないか。女王バチにはたくさんの異性を愛する権利がある」(笑い)
「異性ばかりじゃないわ。鮎沢さんは、男の子にだって善神になるんじゃありませんか」(笑い)
「むだごといってるときじゃない。ぼくは忙しいのだ。それじゃ、わかったね。あすの晩六時に、ここのグリルへ、咲子さんを連れてくるんだぜ。六時だよ。そのまえに、できればぼくに電話をかける。いいね。それじゃ、きょうはこれだけ……」
鮎沢の両手がのびて、はすっかけに女を抱き上げた。そして、くちびるを合わせたままドアのところまで歩いていって、そっとそこへおろし、ドアをひらいて、さあどうぞと片手で廊下のほうをさし示し、騎士のように正しい姿勢で、軽く一礼した。
女が「負けた」という顔つきで、笑いながら立ち去っていくと、鮎沢は、電話のところへ飛び帰って、今日新聞の航空部を呼び出した。
「飛行士の北野君いませんか。こちらは大阪の鮎沢……ああ、北野君、いてくれてよかった。このあいだ頼んでおいたこと、すぐにやってもらいたいんだ。一つの善事だからね。社をクビになったら、きみの身がらはぼくが引きうける。(笑い)場所はいまに電話でいってくるから、きみのほうから、飛行の準備ができしだい、ここへ電話してくれたまえ。じゃあ、大急ぎでたのんだよ」
今日新聞でも、ホテルでも、電話交換手は忙しくて、盗み聞きなんかしている暇のないことを知っていた。鮎沢はそういう細かいところへ気をくばって、ぎりぎりの線まで危険を冒すことが楽しかったのである。
もう一つ電話。
「みや子かい、ぼく、鮎沢。今は鮎沢なんだ。このあいだ頼んでおいたこと、いよいよきょうだよ。すぐに例の衣装を持って、ここへ来てくれたまえ。きょうはきみといっしょに善神になるんだ。善なる全能の神になるのだ。楽しいぜ。じゃあ、すぐにね」
みや子というのは、かれのあまたの愛人のひとりで、こういうことにはうってつけの善女であった。
十二歳の大曾根さち子は、肺病の継母に卵を一つだけ買ってくることを命じられて家を出たが、ふと夢見る子の異常な心理になって、そのままどこまでも、どこまでも歩いていった。東京から山は見えなかったけれど、「山のかなたに住むという」何かを求めていたのだ。その道を、果ての果てまで歩いていったら、まったく別の世界があるのではないかという、鬼の国から離れたい子ども心のさせたわざである。
両側に商家のある町が、いつまでもつづいていた。かわいい男の子がおとうさんの自転車のおしりにのせてもらって、おとうさんの大きな腰にしがみについて、楽しそうに通りすぎていった。学校帰りの女の子がおおぜいつながって、電車通りを横切っていった。先に立ってうしろ向きに歩いているのは、やさしそうな男の先生だった。意地のわるそうな大きな子がいた。キャッキャと笑っている子がいた。ひとり列をはなれてしょんぼり歩いている子もいた。
一時間も歩いていると、町がだんだん寂しくなってきた。さち子には珍しいわらぶきの家もあった。原っぱがつづいたり、お社の森があったりした。町の家並みのうしろに、畑が見えてきた。一軒のわらぶきの家では、タバコや、荒物や、菓子を売っていた。菓子を入れた箱のガラスのふたに、白くほこりがつもっていた。やさしそうなおばあさんが、店先で居眠りをしていた。
道のそばを小川が流れていた。いなかの子どもたちが、網でさかなをすくって遊んでいた。小さなバケツが置いてあるので、のぞいてみると、メダカみたいなかわいらしいさかなが二、三匹、チロチロ泳いでいた。子どもたちは、みんな意地わるでなさそうに見えた。そのなかに、かわいらしい子がひとりいた。
もう家がなくなってしまった。両側は畑ばかりであった。大きな原っぱがあったので、そのほうへ曲がっていった。白い土の道であった。さち子は知らなかったが、そこはある大きな土地会社の分譲地であった。まだ地盛りもできていなかったけれど、土地会社の所有地という柱が立っていた。どこにも家はなく、人もいなかった。遠くこんもりした森がいくつもちらばっていた。空は青々として、やわらかい日ざしが地面をあたため、ユラユラとかげろうが立っていた。むこうの草が、湯気を通して見るように、ゆらいでいるのが不思議だった。
さち子はだんだん夢見ごこちになっていった。自分の掘っ立て小屋から遠く遠く離れてしまって、もう帰るにも帰られないという考えが、彼女の小さい胸をからっぽにして、フワッとからだが軽くなるような、これまでまったく経験したことのない一種異様の情感がわいてきた。この二、三年、一度も泣かなかったさち子の目に、涙がふくれあがって、それがほおを伝って、とめどもなくポロポロとこぼれ落ちた。
どこか遠いところから、ブーンというアブの羽音のようなものが聞こえてきた。さち子はグルッとからだを回して、目のとどくかぎりを見た。音は空から来ることがわかった。そのほうに目をやると、青々と底知れぬ空のかなたに、一つの黒点が見えた。何か日を反射して、星のようにチカッチカッと光っていた。
その黒点はみるみる大きくなってきた。鳥ではない。胴体をはなれた上のほうで、トンボの羽のようなものが、ブンブンまわっている。頭がでっかくて、キラキラ光っている。さっき星のように見えたのは、この部分にちがいない。さち子はいつか見て知っていた。それはヘリコプターという飛行機であった。
機体の形が大きくなるとともに、音も大きくなってきた。ガラスのへやのような透明な操縦席にいる小さな人の姿も見える。
「どこへ行くのかしら」
さち子は、自分たちの生活からは遠い空飛ぶ機械を、まぶしく見上げていた。
ヘリコプターは、彼女の頭の真上まで来ると、地上に向かって、形を大きくしてきた。オヤッ、この辺へおりるつもりかしら。音は耳を聾するばかりで、機体は目を圧して巨大になり、サーッとあらしのような風が吹きつけてきた。
草が波のようにゆれて、土ぼこりが目の前に舞いあがり、からだが吹きとばされそうになった。さち子は両手で顔をおおって、息もできなくなって、その場にしゃがんでしまったが、やがて風がやんだので、目をひらいてみると、原っぱの二十メートルほどの近さに、ヘリコプターが降りていた。そして、ガラスのへやからひとりの妙な男の人が降りてくるのが見えた。
ほんとうに夢のようであった。さっきの土ぼこりで目をとじているうちに、世界が一変したかと思われた。ガラスの中から降りてきたのは、学校の掛け図で見た西洋の大昔の武人のような、からだにまきつく大きなマントを着て、たてがみのような羽根のはえた鉄かぶとをかぶり、長い剣をさげ、丸い楯を持っていた。そのこわい武人が、ノッシノッシとこちらへ近づいてくるのだ。
さち子は思わず逃げ出したが、おとなの足にかなうものではない。たちまち追いつかれてしまった。
「きみは大曾根さち子だろう。こわがることはない。空の神様からお迎いに来たのだ。空にはきみのしあわせが待っている。さあ、こちらへ来なさい」
無我夢中で、こわい武人に手を引かれてヘリコプターに近づき、大きなガラスのようにすき通ったへやへ抱きあげられた。そこに美しい女の人が腰かけていた。やっぱり学校の掛け図で見たことのある西洋の天女のような(おとなのことばでいえば聖母のような)女の人であった。掛け図の絵の天女は、はだかの赤んぼうを抱いていたが、この天女は何も抱いていなかったので、そのやさしい両手をひろげて、きたない毛糸の服を着たさち子を、暖かく抱きよせてくれた。なんだか死んだおかあちゃんに抱かれているような気がした。
「さあ、これから天国へのぼるんだよ。今きみの抱かれている人が、これからきみのおかあさんになるんだ。きみはまったく生まれかわって、しあわせな子になれるんだよ」
こわい武人は、ヘリコプターの運転席について、機械を動かしながら、やさしい声でいった。そして、ゆらゆらと機体がゆらいだかと思うと、いつのまにか、ヘリコプターは地上をはなれていた。
青い空を、上へ上へとのぼっていくにつれて、目の下のけしきがおもしろくひろがっていった。森の社や農家がおもちゃのように小さくなり、広大な東京の市街が目の届くかぎりひろがっているのが見わたせるようになった。そして、海が……品川の海、東京湾、その向こうに太平洋。一方には富士山がまわりの山々をしたがえて、くっきりとそびえていた。
「まあ、あたし、ほんとうにハトになれたんだわ。そして、ひろい空を、思うままに飛びまわっているんだわ」
ハトになれたうえに、おかあさんの代わりの、おかあさんより百倍も美しい天女が、しっかり抱きしめていてくれるのだ。さち子は夢に夢見る思いであった。いや、どんな夢にも一度も見たことがないほど幸福であった。
………………………………………
十二歳のあわれな小娘、大曾根さち子は、このおとぎばなしの夢を見たあとで、影男鮎沢の愛人のひとりであるみや子のアパートに引きとられ、夜から昼へのようなしあわせな生活にはいった。新しいセーラー服を着せられて、学校へも通うようになった。
もと陸軍大尉のアル中ぼろ男大曾根は、さち子の幸運を聞いて涙を流した。そして、自分たちも大阪の実業家鮎沢氏の世話になることを承諾した。かれら夫妻は鮎沢氏の手でいちおう病院に入れられ、夫の大曾根のほうはまもなく病院を出て、ある会社の守衛長に就職した。これもむろん鮎沢氏の計らいであった。もう掘っ立て小屋にも住まず、アル中もほとんど快癒していた。
その翌日の深夜、代々木の原っぱの一軒家の地下室で、異形の化けものが十数人集まっていた。
化けものどもは黒い覆面ずきんと黒いガウンで全身を包んでいるので、正体は何者ともわからなかったが、かれらが人間であることは、その肢体から、またかれらが皆女性であることは、その話し声から推察できた。
地下室は十坪以上もあった。床にはネズミ色のじゅうたんが敷きつめられ、天井と壁はコンクリートのはだがむき出しになっていた。天井からさがったコードに、二百ワットのはだか電球が輝いていた。
十数人の怪物は円陣を作り、その一方の端に立っているひとりが演説口調でしゃべっていた。それは中年の女性の声であった。
「皆さま、われわれはこの一年間、そのときどきの幹事のかたがたのご努力によって、普通社会では見ることのできない怪奇異常の光景を見、あらゆるスリルを味わい、戦慄を楽しんでまいりました。われわれは、いかなる猟奇の男性も味わいえないほどの、極度の妖異を経験してきたのであります。あるときは深夜の墓地に死人と語りました。あるときは強盗暴行の犯人を囲んで、その体験談を聞きました。あるときは多くの男性裸体モデルを雇って、写生と写真撮影に興じました。あるときは男女混合の覆面舞踏会を開いて、抽籖でパートナーを定め、一夜の自由行動を許しました。あるときは、ありとあらゆるかたわものを集めて、共に飲み、共に踊ることを楽しみました。あるときは、われわれ一同が、見苦しい女こじきとなり、またあるときは、覆面のチンドン屋となり、そこに伸びてくるさまざまの誘惑と暴行を体験しました。一方においては、われわれは男性美と賭博の興味とを結びつけた遊戯をも忘れませんでした。全裸の男性の拳闘、レスリング、そして、その勝負に金銀、宝石、はては貞操をさえ賭けたこともあります。
しかし、われわれは、断じて犯罪者にはなりません。売笑婦にはなりません。お互いの地位と名誉の生活を捨てないのです。社会生活を全うしつつ、人間本来の欲望を発散する安全弁として、この秘密クラブを組織したのです。われわれはこの覆面をし、ガウンに身を包んだときだけ、社会から完全に隔離します。あらゆる身だしなみと虚飾を捨てて、生まれたままの人間になるのです。そして、その欲するがままを行なうのです。しかし、ひとたび覆面をとれば、われわれは皆、つつましやかな社会人です。夫につかえ、子女を教訓し、召し使いに範を示す貞節なる妻であり、淑女であります。
われわれは、そういう社会生活の倫理を全うするためにこそ、この秘密の会合を必要とするのです。どんな淑女でも、夜の夢では、昼間の生活からは想像もできない猥雑残虐の行動をすることがあります。それは夢が抑圧された本能のはけ口だからと申します。われわれのこの会合は、いわばその夢に代わるものです。しばらく覆面の隠れみのにかくれた、ひと夜の夢を楽しむのです。
皆さますでにご承知のことを、長々と申しのべましたが、慣例ですからお許しください。毎回、行事にはいるに先だって、結社の趣意を繰り返し、われわれの団結をかたくする、これはまあ、われわれの祝詞のようなものであります。
さて、今夜はいよいよスリルの極致『闘人』の競技を見物することになりました。当番幹事の皆さまのおほねおりで、実に理想的なふたりの青年が見つかったからです。
今夜の競技は、当番幹事のかたがたのほかは、どなたもご存じないのですから、ちょっと説明いたしますが、世に『闘牛』あり、『闘犬』あり、『闘鶏』あり、あに『闘人』なからんや、という着想から出発したのが、今夜の催しであります。これは『人間狩り』のスリルにも相通ずるものです。警察官は町に放たれた犯罪者を、四方から包囲して狩り出すのが任務であります。これは公許の『人間狩り』です。昔の暴君は、罪人を無人の島に放ち、時間を限って、かれが島のジャングルに隠れ、追っ手の包囲を巧みにまぬがれることができたら無罪放免するという、一種の競技的スリルを考え出したものです。罪人は死か放免かのせとぎわに立ち、限られた時間中、息も絶えだえに逃げまわる。それを狩猟する暴君の家来たち。この『人間狩り』のスリルは、闘牛などの遠く及ぶところではありません。
しかし、今夜の『闘人』は、そういう大がかりな『人間狩り』ではありません。ひとりとひとりの戦いです。牛と人間ではなくて、人間と人間なのです。グローブをはめない拳闘、それにレスリング、角力、柔道、どんな手を用いても反則ではありません。一方がまったく闘志を失って、ふたたび立つことができなくなるまでの戦いです。
この闘人の優勝者には、二十万円の賞金が与えられます。また、皆さまもどちらかの闘士に賭けをなさることができます。つまり、青春の肉弾相うつ闘争と、賭けの勝負との二重のスリルを味わおうというわけです。
では、闘士をご紹介します」
これがおそらく団長の春木夫人であろう。解説を終わって片手で合い図をすると、地下室の入り口の近くにいた当番幹事とおぼしきひとりが、ドアをひらいた。すると、ドアの向こうのやみの中から、ふたりの全裸の美青年が少し面はゆげに円陣を作った覆面の婦人たちのまんなかに立ち現われた。
よくもこんな青年がふたりもそろったと思うほど、顔もからだも理想的な闘士であった。覆面の人々は、しばらくは声を飲んで、みごとな二青年の姿に見とれていたが、やがて、さっきの団長らしい覆面の人が口をひらいた。
「このかたたちの名まえや職業はしばらく伏せておきます。拳闘、レスリング、角力、柔道その他いかなる闘技の専門家でもないことを保証いたします。ごらんのとおり、いずれ劣らぬりっぱなからだの持ち主です。力量もおそらく甲乙がないことでしょう。こちらのかたをかりに『黒』と呼びます。あちらよりも少し皮膚の色が黒いからです。あちらを『白』と呼びます。西洋人のように白い膚をしていらっしゃるからです」
「黒」はまゆが濃く、鼻が大きく、くちびるの厚い好男子であった。目と口辺に不思議なあいきょうがあった。黒いといってもキツネ色の膚がなめらかで、がっしりとした肩と、盛り上がった腕の筋肉、豊かな胸毛、下腹部の筋肉の隆線がギリシャ彫刻のようにみごとであった。
「白」は桃色の膚がなまめかしく、高い鼻、赤くて薄いくちびる、二重まぶたの目が女のように優しく、ふっくらとして、しかもよく締まったしりからももの線が、うっとりするほど美しかった。
「では、どちらかに賭けてください。いま幹事がお申し込みを手帳に控えることにします。皆さまのお名まえをおっしゃってはいけません。いつものとおり、ABCです。覆面のすみに縫いつけてあるアルファベットで、お申し込みください」
幹事が手帳を持って、円陣を一巡した。口々に「黒」「白」の別と賭け金額が告げられた。「黒」への賭け金総計三十四万円、「白」は二十九万円と呼びあげられた。
ふたりの闘士は、この「闘人」には反則というものが何もなく、ただ相手を徹底的にやっつければよいということを、まえもって聞かされていた。今は幹事の闘争開始の合い図を待つばかりである。
合い図があった。
二青年はパッと左右に分かれて、股をひろげ、両のこぶしを握って、仁王立ちににらみ合った。
覆面の婦人たちは、シーンと静まり返って、身動きをするものもなかった。ある覆面の下では、すでに呼吸が激しくなっていた。
長い長いにらみ合い。そのあいだに、両青年の筋肉ははち切れそうに緊張していった。ついに機が熟した。双方から恐ろしい勢いで突進した。肉弾が激しくぶつかり合った。
はじめは、拳闘めいた突き合い、なぐり合いであった。筋ばった四本の腕が交錯して、ピストンのように活動した。「白」のほおに最初の血が流れた。「黒」も目の下を傷つけられた。
相手のこぶしを避けるために、肉団は期せずして接近した。組みうちとなった。「白」の腰投げがきまって、「黒」はじゅうたんの上に、のけざまに倒れた。「白」がその上にのしかかった。戦いはレスリングの様相を呈してきた。
押えこみ、はねかえし、もつれ合ってゴロゴロところげまわり、二本の足がさかだちをして相手の顔をはさみ、しめつけ、ふりほどき、上になり、下になり、横転し、逆転し、そのたびごとに、二つの肉団のあらゆる部分が、筋張り、ふるえ、躍動した。
「白」が上に「黒」が下に、おさえこみの長い時間、巨大な桃尻がモクモクと揺れ、ももと腕の筋肉がかたまりとなってグーッと上下に移動し、全身が緊張の極度にブルブルと震えた。もう二つの肉塊は汗にまみれてつかむ手がすべるほどテラテラしていた。二百ワットの電光に、そのキツネ色と桃色の膚が美しく輝いてみえた。
覆面の見物たちは、はじめのうちは、一種の恐怖のためにわなわな震えているものがあったが、そういう人々も、いつしか恍惚境にはいっていた。全身が汗ばみ、ほおはほてり、心臓は異様に鼓動していた。団員は年配の婦人ばかりではないのであろう。われわれは、影男とその愛人との会話によって、三十に満たない琴平咲子という女性もその一員であることを知っているが、彼女が最年少者とはきめられない。目と口と三つの穴のある奇怪な黒覆面の陰には、どんな顔が隠されていることであろう。それらの顔が、全裸の美青年の、この物狂わしき熱闘を見て、どのような表情をしていることであろう。
闘士はふたたびサッと左右に別れて立ち向かった。そして、キツネ色と桃色の肉団が、追いつ追われつ、地下室の壁から壁へ、縦横にはせ違った。覆面の人々はそのたびに悲鳴をあげて身をよけたが、ときには肉団の体当たりを食って倒れるものさえあった。
ツバメのように飛びかう肉塊、逃げまどう覆面婦人、地下室はわきたぎる鼎の混乱となり、その中に闘士のゼイゼイという息づかいと、けもののような怒号、婦人たちの歓喜と恐怖の叫び声が満ちあふれた。
またもや、こぶしの突き合いとなった。グワンというアッパーカット、向こうの壁までふっ飛ぶ肉団、その反動で、足から先に飛び返り、その足が相手の腹をけって、逆に相手が反対側の壁にぶっつかる。
一転して接近戦となれば、顔といわず、胸といわず、腹といわず、双方のこぶしが機関銃のように突きまくり、キツネ色の皮膚にも、桃色の皮膚にも、無数の傷口がひらき、全身に網目の血の川が流れた。
そのからだで、またしても上を下への組み打ちとなる。たまりかねた覆面婦人たちの悲鳴のような声援が、「ブラック!」「ホワイト!」と交錯し、地下室はむせ返る熱狂の極点に達し、ある婦人たちは、いまにも失神せんばかりのありさまであった。
格闘一時間二十分。闘士たちは、もう足もとも定まらず、よろめいていた。目は流れこむ血に視力も弱り、口は大きくひらいたままヒューヒューという音をたて、肩と胸は瀕死に波打ち、足はガクンガクンして、しばしばつまずき倒れた。
しかし、まだ勝負はきまらない。
見物たちもヘトヘトになっていた。声援の声もかれて、今は小娘のようにさめざめと泣きだすもの、えたいの知れぬたわごとをわめき散らすもの、興奮の極、狂気の様相を呈しはじめた。
やがて、「白」はじゅうたんのまんなかに、ぐったりと、あおむけに倒れていた。全裸を衆目にさらして、恥もなく倒れていた。「黒」はその足もとに、疲労という彫像のように、うずくまっていた。
戦いは終わったかと見えた。見物たちも一瞬鳴りをひそめて、哀れな二つの肉団に見入った。静寂があたりを占めた。
このとき、思いもよらぬ異変が起こった。
「白」が血みどろのからだで、ふらふらと立ちあがったのだ。それは残虐な化けもののように見えた。かれは立ちあがると、見物たちのあいだを、よろめきながら、ドアのほうへ歩いていった。ドアを通りすぎ、暗い廊下へ姿を消していった。
「黒」は視力の弱った目で、その後ろ姿を見やり、自分もものうげに立ちあがった。
「白」は戦い敗れて逃げ出したのであろうか。あとに残った「黒」が勝者なのであろうか。
それは「アッ」と思うまのできごとであった。ドアの外の廊下のほうから、サーッと一陣の風が吹きつけるように感じられた。そして、そのドアから、赤いものが、鉄砲玉のように飛び出してきた。それは全身血まみれの「白」であった。しかし、その形は人間としては目に映らなかった。あまりに速い速度のために、一つの赤いかたまりとしか見えなかった。そのかたまりが、一直線に「黒」に向かって突進した。
その勢いで、「黒」と「白」とが一団となって、背後の壁にぶつかった。いやな音がした。ぶっつかって静止したときに、はじめて事の子細がわかった。「白」は最後の力をふりしぼって「黒」の胸に頭突きを試みたのである。「白」の頭が「黒」の胸に突き刺さっているように見えた。「白」が廊下へ出ていったのは、距離を増して速度をつけるためであった。
「黒」の顔色はみるみる青ざめ、壁ぎわにぐったりとすわったまま動かなかった。「白」も折り重なって倒れていたが、やがて、もぞもぞと身動きをはじめた。しかし、「黒」はいつまでたっても動かなかった。もう全身が血にまみれた古布のような色に変わっていた。
覆面婦人たちは、それぞれの場所にうずくまったまま、放心状態で、このありさまをながめていた。地下室は墓場のようにシーンと静まり返った。
「どうしたの? もうおしまいなの?」
だれかが、眠いような声でつぶやいた。
「でも、なんだか変だわ。あの人、どうして動かないんでしょう」
しばらくして、別の眠そうな声がきこえた。
さすがに、最初立ち上がったのは、団長らしい覆面婦人であった。彼女はよろよろしながら、壁ぎわの「黒」のところへ近より、そのからだにさわったり、脈を見たり、口の前に手をやったりしていたが、のろのろとこちらを向いて顔をぐっと前につき出し、ないしょ話でもするようなかっこうで、
「死んでいる」
と、ひとこといったまま、そのままの及び腰の姿勢で、いつまでもじっとしていた。
「闘人」に興じていた十数名の覆面婦人は、それを見てシーンと静まりかえってしまった。過失致死である。ほうっておくわけにはいかぬ。このまま逃げてしまうことはできない。だが、警察に調べられたら、彼女らの秘密悪質遊戯団体の存在が知れわたり、地位と名誉を何よりもだいじにしている彼女らの主人たちに累を及ぼし、ひいては彼女ら自身の身の破滅となる。だから、警察にはどうしても知らせてはならない。といって、ここにひとりの青年が死んでいる。このままにしておいたら、恐ろしい殺人罪にもなりかねない。
十数名の覆面婦人たちは、めいめいにこのことを考えて、心臓もとまるほどの恐怖におののいた。もっと手軽なできごとならば、「どうしましょう」「どうしましょう」と泣き声をかわすところだが、そんな声さえも出なかった。彼女らは失神の一歩手前で凝固していた。分別ありげな団長の春木もと侯爵夫人さえ、うろうろと死人のそばをよろめき歩くばかりで、なんの知恵も浮かばぬ様子であった。
そのとき、覆面にEという縫い取りのある婦人が、団長の春木夫人のそばによって、なにかしばらく耳うちしていたが、すると団長夫人は、深くうなずいて、一同に向かい、
「皆さん、いま医者をむかえることにしましたから、今夜の幹事のCさんだけのこって、あとのかたは上の応接間に集まってください。それから、この人も」と「白」青年を指さし、「みんなで上へつれていってあげてください。あなた歩けますか」
「白」青年は、泣き笑いのような表情で、うなずいてみせた。
「では、この人に服を着せて、寝室のベッドに、しばらく寝させておいてください。食堂の戸だなの中に何か飲みものがあるでしょうから、飲ませてあげてください。寝室ご存じですわね」
ひとりの覆面婦人が、「わかっています」といって、青年の手をとった。そして、一同はぞろぞろと廊下に出て、一階への階段をあがっていった。
あとには、団長春木夫人と、当番幹事のC婦人と、さっき団長に何かささやいたE婦人とだけがのこった。幹事のCは二宮友子という製薬会社社長夫人であり、Eは新興貿易商社社長の夫人で、まだ三十にもならない琴平咲子であることを、団長はよく知っていた。
Eの琴平咲子は、倒れた「黒」青年の上にかがみこんで、しきりに様子をしらべていたが、絶望の身ぶりをして、
「まったく死んでいます。頭がわれているのです。息もしなければ、心臓も完全にとまってます」
「でも、まったくだめということが、あなたにおわかりになって?」
団長夫人が不安らしく反問した。
「あたし、そのほうの経験がありますの。どんな名医だって、もうこの人を生きかえらせることはできません」
「でも、あなたは今、医者を呼ぶからといって、皆さんを遠ざけるようにおっしゃったじゃありませんか」
「ええ、呼ぶのです。そして、この人が命をとりとめたように皆さんに発表して、おうちへ帰っていただくのです。そうしないと、おおぜいの会員のことですから、だれの口から秘密がもれるかもしれません。むろん、相手の青年にも、この人が死んだなんていうことは伏せておくのです。安心して引きとらせるのです」
団長夫人は首をかしげないではいられなかった。あの若くて美しい琴平咲子が、こんなに冷静な、しっかりした人だったのかと、あっけにとられるばかりであった。
「で、あなたはこの死体をどうしようとおっしゃるの?」
「隠すのです。今夜のできごとはまったくなかったことにするのです。そうしなければ、皆さんの破滅じゃありませんか。それで、幹事のCさんに伺いたいのですが、ふたりの青年はどこから連れていらしったのですか。どういう身もとの人ですか」
Cの二宮友子も、Eのてきぱきした口のきき方におどろきながら、
「この人は浅草で拾ったのです。バーを流して歩く艶歌師です。むろん、知り合いではありません。偶然に見つけて、体格がよくて強そうなので、当たってみたのです。すると、報酬に目がくれて、この人はすぐ承知しました」
「ここへ来たことを、この人の仲間は知っているのですか」
「いいえ、知りません。ひとりだけのとき話したのです。そして、ここへ来ることはだれにもいってはいけないと、かたく口どめしておきました。さっき戦いがはじまるまえにも、念をおして尋ねてみましたが、だれにもいわなかったと、はっきり答えていました」
「なんという名で、どこに住んでいるのです」
「小林昌二というのです。九州の出身ですが、両親とも死んでしまって、東京にはひとりの身寄りもない独身の青年です。浅草の向こうの山谷の旭屋という簡易旅館に、仲間といっしょに泊まっているのだといっていました」
「もうひとりの白いほうの青年も艶歌師ですか」
「いいえ、ふたりはお互いにまったく知らないのです。あの青年は、銀座に出ているサンドイッチマンです。張り子の顔をかぶって、プラカードを持って歩いているのを、あたしの友だちが喫茶店に誘いこんで話をつけたのです。これも即座に承知しました。井上というのです。名のほうはちょっと忘れました。身の上も詳しいことは知りません。でも、それは本人にきけばわかることですわ」
「あなたすみにおけませんわね。あんな魅力のある青年をふたりも手に入れるなんて。いつも、ああいうのを物色して歩いていらっしゃるのでしょう」
Eの咲子は、こんな際にも余裕しゃくしゃくたるものであった。団長も二宮夫人も、ますますおどろきを深くした。あのかわいらしい琴平咲子に、今夜は何かの精がのりうつっているのではないかと疑われるほどであった。そういえば、咲子の声の調子も、いつもとは違っているように感じられた。
「あなた琴平咲子さんですわね」
団長が不安らしく尋ねてみた。
「身代わりですの」
「エッ、身代わりって?」
団長と二宮夫人とは、ギョッとして、思わずEのそばから身をよけるようにした。
「あたし覆面をとります。あなたがたもおとりになってね。こういうときには、素顔のほうがしんけんにお話ができますわ」
E婦人はそういって、頭からすっぽりかぶっていた怪奇な覆面を取り去った。その中から出てきたのは、どこか琴平咲子に似た美しい顔であったが、よく見るとちがっていた。
「あなたは、いったいだれです?」
団長春木夫人は、恐怖の声をたてた。
「あたしは、そうですね、シルエットと呼んでいただきましょう。影のような男です」
「エッ、男ですって?」
ふたりの夫人の口から驚愕の叫びがほとばしった。
「ハハハハハ、じつは男なんですよ。琴平さんをごまかして、琴平さんに化けて、あなたがたのおもしろい遊びを拝見に来たのです。いや、ご心配なさることはありません。ぼくはあなたがたの味方です。あなたがたのために、ひとはだぬぐつもりでいるのです。もし、琴平さんの代わりにぼくが来ていなかったら、今夜の事件を、あなたがただけの力では、どうすることもできなかったでしょう。じつにしあわせでしたよ。ぼくならそれができるのですからね」
いうまでもなく、それは琴平咲子に化けた影男であった。
「そうでしたか。それじゃ、あなたはあたしたちの本名もご存じでしょうね。ねえ、二宮さん、こうなったら、もうしかたがないわ。覆面をとりましょうよ」
団長のことばに、ふたりは同時に覆面を取り去った。でっぷり太った春木夫人の顔は、雑誌などの写真でおなじみだった。五十歳を越した遊蕩夫人で、いかにも女親分のかっぷくである。二宮友子は三十五、六歳に見える遊蕩美人、あのふたりの好青年を捜し出してきた腕まえからも、その日常生活のほどが察しられた。
「で、あなたは、どんなふうにして、あたしたちを助けてくださるのですか」
春木夫人は、さすがにおちつきを取りもどしていた。そして、ふたりとも、このふしぎな女装の美男子に、激しい好奇心を催しはじめた様子である。
「まずあなたがた全部のアリバイを作らなければなりません。この会合場所はだれも知らないとしても、あなたがたが今夜お宅におられなかったことは知れ渡っているのですから、それを隠すのです」
「まあ、そんなことができるのでしょうか」
ふたりの夫人には、目の前の女装男子が、なんだか魔法使いのように見えてきた。
「できるのです。なんでもないことですよ。この小林昌二という青年が、あすまで生きていて、あす行くえ不明になったことにすればいいのです。そして、あなたがたは、あすじゅうは秘密の行動をしないで、いつ聞かれても答えられるようなアリバイを作っておけばいいのです。事件を今夜からあすに移すわけですね」
魔法使い「シルエット」は、いよいよ妙なことをいいだした。
「事件をあすに移すって、そんなうまいことができるのでしょうか」
「ぼくにならできるのです。いまその手並みをお目にかけますよ。上に電話があるのでしょうね。皆さんの集まっているへやですか。いや、それでもかまいません。ぼくはそのへやへ行って、電話で医者を呼んできます。みんなには知り合いの医者を呼んでいるような口をきいて、じつはぼくの腹心の部下を呼びよせるのです。そんなおしばいぐらい朝めしまえですよ。その部下が、手品の種になるのです。かれが必要な道具なども持ってくるのです……いや、ご案内には及びません。あなたがたはそれまでここに残っていてください。ぼくはどんな建物でも、自分の住まいと同じことです。けっしてへやをまちがえるようなことはありませんよ」
そう言いのこして、女装の「シルエット」は、ふたたび覆面をかぶると、すばやく廊下に姿を消した。それから二十分もたたないうちに、医者と称する若い男が、大きなカバンをさげて到着した。ちょびひげをはやし、めがねをかけて、じみなセビロを着た、いかにも医者らしい男であった。影男はすぐにかれを地下室に案内して、そこに待っていたふたりの夫人にひきあわせた。
「ぼくはたくさんの部下を持っていますが、これはそのひとりで、ここに死んでいる小林青年に、いちばん背かっこうや顔だちの似た男です」
そういわれて見比べると、この医師と称する男は、小林青年の死体と、顔の輪郭がよく似ていた。
「まず最初に、上にいる人たちを、うちへ帰さなければいけません。この医者の診察の結果、小林青年は命をとりとめることが明らかになったといって、安心させて帰すのです。むろんうそですが、会員たちや、相手の井上青年が、小林が死んだことを知っていては、事の破れるもとだからです。そうしておいて、われわれだけが残って、第二段の手段に着手するのです。いや、けっしてこわがることはありません。あなたたちも、いまに『なるほど』と得心します。さあ、春木さん、上に行って、小林はだいじょうぶだということを皆に告げて引きとらせてください。そして、会員たちには、あすは公然の用事のほかは、外出しないで、うちにいるように言いふくめてください。しかし、アリバイのことなど、うちあけてはいけませんよ。小林の容体がわるくなったような際には、連絡の必要があるからだといっておけばいいでしょう。さあ、早くしてください」
「あたしにはまだよくわかりませんが、あなたのおっしゃるとおりにするほかはありません。じゃあ行ってきますが、今夜の『闘人』の賞金は、やっぱりやらなければなりますまいね。それから、みんなの賭け金も」
「やってください。でないと疑いを起こさせます。お金の用意はしてあるのでしょうね」
「むろん、用意してあります。あたしたちは後日払いなんて危険なことはしないのですよ」
そして、春木夫人はひとりで上にあがっていったが、やがて、みんなを帰したといってもどってきた。
「では、これから第二段の仕事をはじめます。上に化粧室というようなへやはないでしょうか」
「鏡と洗面台のあるへやがあります」
「ぼくとこの男とふたりは、しばらくそのへやへはいります。そのまえに、ふたりで小林の死体を上にあげましょう。それから、小林の着ていた服は、どこか上のへやに置いてあるのでしょうね。その服が入り用ですから、二宮さんは、それをわれわれの閉じ込もる化粧室へ入れておいてください。帽子やくつもですよ」
そうさしずをしておいて、影男とその部下とは、小林青年の死体を上の一室にはこんでおいてから、化粧べやに閉じ込もった。ふたりの夫人は、がらんとした応接間のイスに腰かけて、不安な顔を見合わせていた。
十五分もたったであろうか、突然応接間のドアがひらいて、ひとりの男がはいってきた。ふたりの夫人は、それを見るとまっさおになり、目が眼窩から飛び出すほど大きくなった。そして、イスにしばりつけられたように、身動きもできなくなってしまった。
そこに、死んだはずの小林昌二青年が、浅黒い顔をにこやかにほころばせて、立っていたからである。
「アハハハハ……」青年のうしろから、影男の顔がのぞいて、人もなげに笑った。「おどろいたでしょう。しかし、これは小林の幽霊じゃありません。さっきのお医者さんです。ぼくの部下です。つけひげやめがねをとって、小林の服を着せて、頭の毛のときかたを変え、顔にちょっとお化粧をすると、こういうことになるのですよ。これが変装というものです。ぼくはその道の熟練工ですからね」
春木夫人も二宮夫人も、あいた口がふさがらなかった。そして、「シルエット」と自称する奇怪な男への不思議な信頼感が、いよいよ深まってくるのを感じた。
「まあ、これが変装ですの? この人と小林さんとは、背かっこうや顔だちが、もともと似ていたけれど、こんなにそっくりになるとは、ほんとうに不思議です。笑い方まで似ていますわ」
二宮夫人が感嘆の声をたてた。
「ただ、声を似せることがむずかしいのです。この男は小林の声を聞いていませんからね。しかし、それにはまた手がないではありません。だれにも似ていないような、まったく中間の声を出すのです。純粋の東京弁でも、いなかなまりでもない中間のことばを話すのです。つまり、万人の声と口調の最大公約数というやつですね。これが忍術者の秘伝です。この男はそういう芸当ができるのですよ。きみ、なにか話してごらん」
すると、小林とそっくりの若者は、つかつかと二宮夫人に近づいて、ニヤリと笑った。
「奥さん、浅草のバーではじめてお目にかかったとき、ぼくは何を歌いましたっけ?」
中音の東京弁に九州なまりが軽微に加味されていた。二宮夫人はそれを聞くと、思わず手を打って笑いだした。
「まあ、そっくりよ。聞きもしないで、どうしてそんなにまねられるのでしょう。すばらしい才能だわ」
「いえ、まぐれ当たりですよ。ぼくの友人に九州出の男がいるので、その口調をまねてみたのですよ」
その言い方がまた、小林青年に実によく似ているのであった。
「この変装は、おふたりの前で合格しましたね」影男が今後の計画を話しはじめた。「この男は今からすぐ、小林青年として、山谷の旭屋という簡易旅館へ帰るのです。今は十二時ですから、自動車をとばしていけば、だいじょうぶ旅館はまだ起きています。それに、小林の仲間の艶歌師たちは、おそらくまだ帰っていますまい。あの連中の仕事は、一時すぎまでもつづくのですからね。それから一杯やって、帰るのは二時三時でしょう。
この男は、旭屋の番頭に声をかけて、たしかに帰った証拠を残すのです。それから自分のへやを捜すのですが、そういうことには慣れています。まったく知らない家でも、けっして戸惑うことはありません。臨機応変の手段があります。もし、仲間がさきに帰っていたら、酔ったふりをして、話もしないで、ふとんを敷いて寝てしまう。仲間が帰っていなければ、仕事は非常に楽です。やっぱり、自分だけさきにふとんにもぐりこんで、寝たふりをしてごまかすのですね。
そして、みんなが寝込んでしまってから、そっと起きて、小林の持ち物をさがすのです。手帳でもあればしめたものです。そこに書いてある小林の筆跡をまねて、紙切れに置き手紙を書くのです。もし小林の筆跡が見つからなければ、かまいません。艶歌師なんてあまり字を書かないでしょうから、いいかげんのへたな鉛筆書きで置き手紙をのこすのです。それには『友だちに会って、うまい仕事が見つかったから、きみたちと別れる』というようなことを書いて、仲間のまくらもとへ置いておけばいいのです。そして、夜あけそうそうに宿を抜け出して、姿を消してしまうのです。これで小林があすの朝まで生きていたという証拠ができあがります。逆にいえば、あなたがたのアリバイが成立するのです。おわかりになりましたか。
しかし、それだけでは、まだ安心はできません。男の仲間は置き手紙ですんでしまうでしょうが、もし小林に恋人があったら、恋の一念というやつは恐ろしいですからね。その女はあくまで小林の行くえを捜すでしょう。そして、恋人の鋭敏な神経で、何か感づかないとも限りません。それを防ぐために、われわれはまず、小林に恋人があったかどうかと、その女の執念深さの程度を探り出さなければなりません。あっさりあきらめてしまったとわかればめんどうはありませんが、執念深く小林を捜しているとすると、小林の生きている姿を、ときどきその女に見せておく必要があります。それには、この男が、この変装で、夕がたとか夜など、その女の目の前を通りすぎてみせるのです。なるべく人込みの中がよろしい。相手が気づいたなと思ったら、すばやく人込みに隠れて、逃げてしまうのです。そうすれば、女は小林が生きていると信じて、どこまでも捜そうとします。死んだのではないかという疑いをいだく心配はけっしてありません。これがぼくのアリバイ作りの方法ですよ。おわかりになりましたか」
春木夫人は深くうなずいていたが、まだ安心がならぬという顔つきである。
「なるほど、うまいやり方です。この人の変装の手ぎわから考えても、そのやり方はきっと成功するでしょう。しかし、もう一つ心配なことがあります。小林の死骸をどうすればいいのでしょう。人間ひとりのからだを、完全に隠すなんてことができるでしょうか。死骸が見つかれば、何もかもだめになってしまうじゃありませんか」
「それは実に簡単ですよ」
影男はこともなげに答えたものである。
影男のむぞうさな答えに、両夫人はまたしても、あっけにとられてしまった。
「え、死骸を隠すのが、簡単だとおっしゃるのですか」
「そうです。絶対に発見される心配のない、しかも至極簡単な方法があります。しかし、それに着手するまえに、ひとつご相談があるのですが、まずこの男を早く山谷の簡易旅館へやらなければいけません。きみ、それでは、すぐに出発してくれたまえ。ぬかりなくやるんだよ。そして、連絡はいつものところだ」
小林になりきった若者は、一礼して出ていった。影男はそれを見送ってから、「ちょっと」と断わって、どこかへ電話をかけた。
「別の部下を呼びよせたのですよ。死体運搬のためにね。ところで、さっきいったご相談ですが……」
春木夫人がすばやくそれを受けとめて、
「お金のことでしょうか」
と、勘のよさを示した。
「さすがにお察しがいいですね。そのとおりです。縁もゆかりもないぼくが、これほど皆さんのために働くのには、何かわけがあるはずです。それはお金ですよ。ぼくは、実は、こういうことを商売にしているものです。人生の裏街道を歩きまわって、そこからお金もうけを捜し出し、ぼくの持っている知恵と技術を提供して、ぼろいもうけをするのがぼくの職業です。どろぼうのうわまえをはねるというやつですね。いや、失礼、つい口がすべりました。あなたがたのことじゃありません。いつもどろぼうや人殺しを上顧客にしているものですから、失礼なことをいってしまったのです。お許しください」
両夫人は、それを聞くと、薄気味わるくなってきた。女装怪人の美貌には引きつけられていたし、その腕まえには深く信頼していたけれども、どろぼうや人殺しのうわまえをはねる商売と聞いては、ゾッとしないではいられなかった。
「で、その金額は?」
春木夫人は虚勢を張って、さりげなく尋ねた。
「そうですね。これが男のお金持ちの場合だったら、千万とか二千万とかいうのですが、いくらお金持ちの夫人がたでも女ですからね。無理なことはいいません。あなたがたのへそくりを集めれば支出しうる程度の額でがまんしましょう。三百万円です。会員の数で割れば、ひとり二十万円ほどですみます。このくらいの額なれば、ご主人にないしょで、へそくりからお出しになることができましょう。ぼくは掛け値は申しません。これが最後の金額です。また、あとを引いて、それ以上ねだるようなことは、けっしてしません。ぼくは、これよりも大きな仕事にいくつもかかり合っていて、忙しいからだです。一つの事件で、あとを引くようなけちなまねはしませんよ。
三百万円、ご承知ですか。それとも、おいやなれば、おきのどくですが、この死体をほうり出して、ぼくはあなたがたと縁を切ります。いかがです」
両夫人は顔を見合わせたが、十数人の破滅を救うためには、考えてみれば三百万円は安いものであった。そのくらいの額なれば、非常な無理をしなくても作れると思った。春木夫人は未練たらしく値切るようなことをしないで、承知の旨を答えた。
そこで、影男は死体運搬のために部下がやって来るまでの時間を利用して、両夫人を相手に、死体隠匿術の講義をはじめたものである。
「古来、殺人犯人は、死体隠匿術について、実に苦労をしてきました。土に埋めれば、掘り返した跡が残る。水に沈めれば、浮き上がる。首、胴、両手、両足と六つに切断することが、一時西洋で流行しました。そうすれば遠くへ運びやすいし、離ればなれに隠す便宜もあるというのですが、よく考えてみると、こんなおろかな手段はありません。いくら離ればなれに隠したって、発見されることは同じです。なるほど、死体鑑別には少々ほねがおれるが、一部分でも発見されれば恐ろしいセンセイションをまき起こすので、警察は全力を尽くして捜査することになり、けっきょくは犯人が見つかってしまいます。日本のバラバラ事件だって、みんな犯人がつかまっているのでもわかるでしょう。世間を騒がせて事を大きくするだけの、最もおろかな方法ですよ。
そのほかにいろいろな方法が考え出されたのですが、いちばんいいのは、死体をあとかたもなく消滅させてしまうことです。その最も幼稚なのは、大きな暖炉の中で死体を焼いてしまうという着想です。ヨーロッパの有名な学者殺人魔がこれをやって、みごとに失敗しました。暖炉の煙突から火葬場のにおいがして、付近の人に気づかれたからです。これも実におろかな方法です。溶鉱炉へ投げ込むという手もあります。また、死体を棺に入れて、葬式と見せかけて火葬場へ送り込む手もあります。しかし、これらの場所には厳重な警戒があって、よほどうまく条件がそろわないと実行は不可能です。たとえできたとしても、非常な危険を冒さなければなりません。
死体消滅の方法としては、こういうのもあります。タンクの中へ硫酸を満たして、死体をその中につけて溶かしてしまうのです。骨もなにも、あとかたもなく溶けてしまいます。昔アメリカにホームズという極悪人があって、死体溶解のタンクを備えたりっぱな殺人御殿を建て、おおぜいの人を溶かして金もうけをしたことがあります。ばかばかしいようですが、実際にあったことです。むろん、警察に発見されました。あまり堂々とやっていたので、その筋の盲点にはいったわけでしょう。しかし、硫酸タンクなんておおがかりな設備をすれば、いずれは見つかるにきまっています。やはり、おろかな手段です。
ぼくの死体隠匿術は、そういうばかばかしいものではありません。気がつきさえすれば、だれにでもできる至極簡単なことです。しかし、それを具体的にお話しすることはさし控えなければなりません。あなたがたはなんといっても女です。たとえわが身の破滅とわかっていても、場合によっては、感情に支配されて、秘密を漏らされるようなことがないともかぎりません。また、春木さんはぼくより年上ですから、縁起でもないことをいうようですが、臨終の床で、いっさいをざんげするような気持ちになられることが、ないとはいえません。そんなことがあっては、ぼく自身の破滅です。
ですから、残念ながら、ぼくの死体隠匿術を詳しくお話しすることはできませんが、どこにでもあるものを使うのです。しかも、その使い方が実に簡単なのです。そうすれば、死体は完全にこの世から消えうせてしまうのです。小林の死体は、永久にだれにも発見される心配はありません。
いまにぼくの部下が自動車を運転して、ここへやって来ます。その部下が大きな麻袋を持ってくるのです。ぼくらは小林の死体を麻袋に入れて、自動車にのせます。ぼくもその車に乗って、ある場所へ急ぐのです。そして、あすになれば、死体は完全にこの世から消滅します。
お約束の謝礼金は、一カ月のちにいただきます。受け渡しの方法は、ぼくにお任せください。ぼく自身にも、あなたがたにも絶対に危険のない方法で、必ずちょうだいします。それまでにまちがいなく三百万円をまとめておいてくださればいいのです。わかりましたね。死体隠匿方法を説明できないのは残念ですが、一カ月のあいだなにごとも起こらないということで、ぼくの手腕を信じてくださるほかはありません。おわかりになりましたか」
両夫人は「そんなうまい方法があるのだろうか」と半信半疑であったが、平然として一カ月の猶予を与えた相手の自信に圧倒された形で、影男の申し出を了承した。
まもなく部下の自動車が到着し、影男は小林の死体を入れた麻袋と同乗して、車はやみ夜の中を、どこともしれず走り去ったのである。
影男はいろいろな名義で、東京都内の諸方に、多くの土地を持っていた。かれのふしぎなゆすり稼業によって得た資金によって、適法に買い入れたものである。その土地の多くは、戦災によって焼け野原となった二百坪三百坪のあき地で、そこには必ず古井戸があった。かれはそういう古井戸のあるあき地ばかりを捜し求めて買い入れたのである。
かれは、それぞれの土地の付近の住民には、善良なる地主として知られていたが、あき地の中の古井戸は危険だから、いずれ埋めてしまうつもりだといって、トラックで土を運ばせ、井戸のそばに盛りあげておいた。
その夜、小林の死体をのせた自動車は、それらの土地のうちで代々木からは最も遠い尾久のあき地に到着し、ヘッドライトを消して停車した。非常に寂しい場所で、人家も遠く、まして深夜のことだから、人に見とがめられる心配はなかった。
影男と部下とは、死体入りの麻袋を両方からつりさげて、あき地のまんなかの古井戸に急ぎ、麻袋をその井戸の底へ投げ込んだ。それから、用意してきたシャベルで、そばに盛り上げてあった土を井戸におとし、懐中電灯で照らしてみて、麻袋がまったく見えなくなるまでそれをつづけた。
これで第一段の仕事は終わったのである。麻袋を自動車からおろしてから十分とはかからなかった。実に簡単な仕事である。かれが両夫人の前で広言したことはうそではなかった。なんという手軽な死体処理法であろう。
ふたりはそのまま自動車にもどって、また、いずくともなくやみの中に消えていった。だが、まだ第二段の処置が残っていた。
その翌朝、影男は尾久のあき地へ、地主綿貫清二となって姿を現わした。和服にもじり外套を着てソフトをかぶった小金持ちというかっこうである。
かれはあき地の中を歩きまわり、古井戸をのぞきこんで、なんの手抜かりもなかったことを確かめると、その土地の仕事師の親方の家をたずねた。この親方とは地所を買い入れるときに世話になった関係もあって、知り合いの間がらである。
早朝のことなので、親方はまだ家にいて、玄関へ出てきた。影男の綿貫は、そこの土間に立ったまま、ふたことみこと、さりげないあいさつをかわしたあとで、さっそく用件にはいった。
「親方、この先のわたしの土地だがね、いろいろお世話になったけれど、こんど事情があって売りに出すことにした。それでまあ、少し整地をしてから買い手に見せたいのだが、至急にひとつ地盛りをやってもらえないだろうか。できるなら、きょうからでも始めてもらいたいのだが」
「ようがす。ちょうどいま手すきの若い者が二、三人おりますから、すぐにかかりましょう。地盛りをするとなれば、あの古井戸もお埋めになるのでしょうね」
「それだよ。埋めようと思って、土だけは運んでおいたのだが、ついそのままになっていた。むろん、埋めてもらいたいね。どうせ水の出ない井戸だからね」
「承知しました。それじゃ、ごいっしょに現場へ行って、地盛りの見積もりをして、すぐにじゃり屋に土を運ばせましょう」
綿貫は親方をつれてあき地にもどり、地盛りの規模などを打ち合わせたが、親方は手早く計算をたてて、じゃり屋に電話をかけるために、自宅へ引っ返していった。
しばらくすると、ひとりの若い仕事師が、シャベルをかついでやって来た。
「だんな、おはようございます。親方がだんなに聞いて、古井戸を埋めてこいといいましたので……あの井戸ですね。土はちゃんと用意してあるんだから、わけはありませんや。さっそく埋めてしまいましょう。この辺はあまり子どもが遊びに来ないからいいようなものの、あぶない落とし穴ですよ」
「そうだよ。わたしもそれが気になってね。まわりのかきねは破れているし、だれかここへはいって、落ちでもしたら申しわけないと思ってね。もっと早く埋めてもらえばよかったんだが」
「ほんとにそうですよ。じゃあ、ひとつ早いとこやっちゃいましょう」
威勢のいい若者は、そのまま古井戸のそばへ行ってシャベルで土の山をくずし、その土を井戸の中へ落としていった。そして、四、五十分もすると、深い井戸がすっかり埋まってしまった。
影男の綿貫はそのあいだ、あき地を歩きまわったり、近くのタバコ屋へタバコを買いに行ってもどってきたりして、穴埋めのすむまでは現場を離れなかった。
古井戸が三分の二ほど埋まったころに、親方が別の若者をつれて、あき地へやって来ていた。そして、ところどころへ杭を打ったり、なわを張ったりして、地盛りの用意をはじめたのだ。しかし、綿貫にはそんなものを見ている必要はなかった。穴埋めが終わったとき、親方のほうはまだ仕事のさいちゅうだったが、
「親方、あとは任せるから、なにぶんよろしく。地盛りができあがった時分に、また見に来るからね」
と、声をかけておいて、急いでその場を引き揚げた。これで死体隠匿の第二段の処置も終わり、すべてが完了したのである。
古井戸の深さは四メートルほどあったから、たとえこの土地が人手に渡っても、地下室のあるビルでも建てないかぎり、死体が掘り起こされる心配はなかった。綿貫氏は、ビルを建てるような相手には、けっして地所を売らないであろう。いや、かれが生きているあいだは、おそらくこの土地は、どんな買い手にも売られることはないであろう。
影男は、春木、二宮夫人に死体隠匿談義を聞かせたとき、土に埋めるのは最も初歩の手段で、発覚しやすいようにいったが、それは死体を埋めるためにわざわざ穴を掘る場合のことであった。穴を掘り、ふたたびそれを埋めれば、どんなに巧みに隠しても、けっきょくは土の色で掘った跡がわかり、発覚の端緒となる。また、掘ったり埋めたりするのには、長い時間を要し、人目をさけてそういう作業をするのは、非常に困難なことでもある。
人々はなぜその逆を考えないのであろうか。影男の悪知恵は、すべて物の逆を考えることから発していた。裏返しの人間探求というかれの事業は、つまり物の逆を探ることであった。そういう考え方からして、かれはこの場合も、掘ることを要せず、埋めるのも公然と埋められるようなものを捜し求めた。そして、水のかれた古井戸という絶好の場所を発見したのである。
かれはその着想が浮かんだとき、何かの場合に備えるために、いくつかの古井戸を用意しておきたいと考えた。そして、ただちに実行に着手し、広く手をまわして、古井戸のあるあき地を物色し、ゆすり事業で得た資金でそれらの土地を手に入れていった。今その一つが役にたったのである。土地はそのまま自分のものとして、たいした労力も費用もかけず、三百万円がころがりこんできたのである。
怪奇を探り、犯罪を利用するゆすりを本業とする影男が、世の中の裏の裏を探検した体験により、佐川春泥という筆名で犯罪小説を発表し、大いに人気を得ていることはすでにしるした。その原稿依頼状や原稿料の送付は、そのつど、東京都内のちがった郵便局の留め置きとして、使いにこれを受けとらせ、佐川春泥の正体をかたく秘密にしていたこと、この奇怪なる秘密性のためにかれの人気がいっそう高まりつつあることも前述した。
影男は、あるいは速水荘吉、あるいは鮎沢賢一郎、あるいは綿貫清二、等々の人物として、そのときどきの使いのものから、この局留め郵便物を受け取っていたが、その中に、近ごろは毎回のように、ある一人物からの奇妙な手紙がまじっていた。その文面はいつも大同小異で、こちらが返事を出すまでは執拗に投函をつづける決意をかためているように見えた。ここにその一通を例示すると、
わたしはあなたの小説の愛読者です。しかし、なみなみの読者ではありません。あなたが会えば、きっと非常な興味を持つような読者です。この手紙のあて先は、雑誌『黒ネコ』編集部から聞きました。一度あなたとふたりだけで、ひそかに会いたいのです。会えば必ずあなたにも利益があります。むろん、わたしのほうにも利益があります。実は、ある不思議なことがらについて、あなたの知恵が借りたいのです。そのかわりに、わたしのほうでは、その不思議なことがらというのを、あなたにお話しします。小説の材料にお使いくださってもかまわないのです。実に奇々怪々、さすがのあなたもアッと驚くようなことがらです。
もし面会をお許しくださるならば、この手紙と同じ局留め置きで、日時と、あなたのほうの電話番号をお知らせください。場所は電話でお打ち合わせします。
そんな手紙が、半月ほどのうちに、総計十通に及んだ。影男の春泥は、この執拗さに興味を持った。読者からの手紙は多いけれども、こういう性格的なのは少なかった。つい「どんなやつか一度会ってみよう」という気持ちになった。
先方のいうとおり、日時と電話番号だけ書いて、局留め置きにしておくと、その日のその時間に、正確に電話がかかってきた。そのとき、影男は速水荘吉の名で、麹町のあるアパートにいた。
「ぼく、佐川春泥です。お会いしてもいいが、場所はどこにします?」
「銀座裏にルコックという小さな暗いバーがあります。そこにちょっと仕切りをした、別室のようになったへやがあるのです。時間はきょうの九時としましょう。九時といえば、バーのにぎわうさいちゅうですが、かえってそのほうが安全なのです」
「承知しました。じゃあ、九時に、そこへ行きましょう。道順は?」
相手はその道順を教えて、電話を切った。
影男の春泥は、ちょうど九時に、そのバーを捜し当てて、薄暗い地下室へはいっていった。
「須原という人来てる?」
スタンドのマスターらしい中年の男が、これに答えて、奥の院のような感じの、暗い場所をさし示した。ドアはないけれど、壁で半分仕切りができていて、スタンドの前の客からは見えないようになっている。そこに細長いテーブルを隔てて、低い長イスとひじ掛けイスが向かい合っていた。
その長イスのすみに、黒い服を着た、やせた小男がちょこんと腰かけていた。
「須原さんですか」
「そうです。佐川先生ですね」
春泥は須原に向かい合って腰をおろした。須原はボーイを呼んで、ハイボールを注文した。かれはタバコ好きとみえて、灰ざらにタバコが五、六本たまっていた。春泥もタバコを出して火をつけた。
「ここなら普通の声で話してもだれにも聞こえませんね」
「だいじょうぶです。それを確かめてから、ここにきめたのです」
「それじゃ、お話を伺いましょう」
ハイボールが来たので、お互いに、ちょっとささげ合って、口をつけた。
「佐川さん、あなたがただの小説家でないことは、お書きになるものからもじゅうぶん想像されますし、わたしたちは、いくらかあなたのことを調べてもあるのです。ですから、秘密はお互いさまというものです。こちらも安心してお話しできるわけですよ」
須原と名のる男は、この話しぶりでもわかるように、なかなか頭の鋭い男らしく見えた。細面の青ざめた顔をしている。小がらで力はなさそうだが、こういう男はおそろしく肝が太くて、かみそりのような切れ味を持っている場合が多い。年は三十五、六に見えた。
「わたしたちとおっしゃると?」
春泥もゆだんはしなかった。
「三人の仲間です。会社のようなものを作っているのです。そのうちひとりは女です。いずれお引き合わせしますよ」
「ここにおられるのですか」
「いや、ここはぼくひとりです。ここのマスターも別に知り合いじゃありません。ご心配には及びません」
「で、用件は?」
「われわれは、あなたの秘密も多少知っているのですから、こちらの秘密もある程度うちあけます。秘密はお互いに厳守するという約束でね」
「わかりました」
「実は、おり入ってお願いがあるのです。それについては、ぼくたちの会社の性質を説明しないとわかりませんが、これはぼくたちは妻にも恋人にもうちあけない、三人だけの絶対の秘密ですから、そのおつもりで。あなたに話せば、世界じゅうで四人だけが知っていることになります。もし、これっぽっちでも漏らせば、その人の命はたちどころに失われます。わかりましたか」
表のほうで電蓄が音楽をやっているので、須原のボソボソ声は、春泥にさえ聞きとりにくいほどであった。
「秘密結社のたぐいですね」
「まあそうです。しかし、結社といわないで、会社といっております。また、思想的な組合でもありません。実は、営利会社なのです。むろん、登録した会社ではありません。営利を目的とするものですから、まあかってに会社と呼んでいるわけです。その会社の名をいえば、秘密のほとんど全部がわかってしまいます。それが最大の秘密なのです。しかし、こうしてお呼びたてした以上、それをいわなければ、お話ができません。あなたは犯罪小説家ですから、たいして驚かれることもないでしょうが、気をおちつけて聞いてください」
須原はそこでぐっと前にからだをのり出して、春泥の耳に口をつけんばかりにしてささやいた。
「殺人請負会社です」
かれの口は異様に大きかった。青白い顔にくちびるだけがまっかだった。この青白さは病身のせいではなく、生まれながらの殺人者の相貌なのであろう。
「おもしろいですね。それで、営業方法は?」
春泥はにこやかに聞き返した。
「さすがは佐川さんですね。少しも驚かないところが気に入りました。営業方法とおっしゃるのですか。ウフフフ、こいつは宣伝するわけにいきませんからね。といって、だまってっちゃあ、おとくいはやって来ません。それで、われわれ三人の重役の仕事は、おとくいさまを捜し歩くことなんです。いわば探偵みたいな仕事ですね。しかし、犯人を捜すのでなくて、金持ちで人を殺したがっているやつを捜すのです。そして、いくらいくらという値段をきめて、代理殺人をやるのです」
「なるほど、おもしろい商売ですね。しかし、それで営業になりますか。命がけでしょうからね。よほどの利潤がないと……」
まるで、ふたりの実業家が、商売の話をしているように見えた。かれらはそれほど平然として、この驚くべき会話を取りかわしていたのである。
「だから、大金持ちばかりをねらうのです。社会的地位が高くても、案外、人を殺したがっているのがあるものですよ。金があり、地位があるだけに、自分では殺せない。自分には絶対に迷惑のかからない方法があれば、殺したいという虫のいい考えですね。ほんとうのことをいうと、これはだれでも持っている殺人本能というやつじゃないでしょうか。ただ、道徳でこれを押えているのです。いや、たいていの人は、殺したいけれども、殺せば自分が社会的の制裁を受ける。つまり、法律によって罰せられる。それがこわさにがまんをするくせが、遠い先祖以来、ついてしまっているのですね。本心の底の底をいえば、だれだって殺したい相手のひとりやふたりはあるものですよ。犯罪映画やチャンバラ映画を見て楽しめるのは、そういう潜在願望のはけ口になるからですね。
そういうわけで、地位のある大金持ちのほうが、何かといえばすぐにジャックナイフやピストルを出すよた者なんかに比べて、この殺人願望がはるかに強いのです。だから、かれらは絶対安全とわかれば、金はいくらでも出します。金では計算ができないほど強い欲望なのですからね。そこで、ぼくらの会社の営業がじゅうぶんなりたつというわけですよ」
もうささやき声ではなかった。まるで小説の筋でも話しているといった、屈託のない調子であった。さすがの影男春泥も、この須原と名のる小男のしたたかさには、内心あきれ返っていた。
「いったい、そんな会社を、いつから始めたのです。そして、今までに、どれほどの業績をあげているのです?」
春泥はハイボールの残りをグイと干して、こちらも平気な顔でたずねた。
「オーイ、お代わりだ」
小男はびっくりするような大きな声で、ボーイに命じた。ふたりの話を人に聞かれても平気だという大胆不敵の態度である。しかし、かれは要所要所では、けっして漏れ聞かれないように、綿密な注意を怠ってはいなかった。やっぱり、かみそりのように鋭い男だ。
「まだ一年にしかなりません。こういう事業の相談がなりたつのには、よほどうまい条件がそろわないとだめなものですが、ぼくら三人はその点では申しぶんなく気が合っているのです。古風にお互いの血をすすり合うというようなまねはしませんけれども、それ以上の仲です。生死を共にする仲です。そういう三人が偶然知り合ったから、うまくいっているのですよ。
みんなインテリです。鋭い知恵を持っています。ぼくは学者くずれ、もうひとりの男は評論家くずれ、女は女医くずれです。
業績ですか。ぼくらの会社はこの一年間に、三十人をこの世から抹殺しています。もっとも、二十五人は集団殺人でしたがね。つまり、たったひとりを殺すために、なんの関係もない二十四人を犠牲にしたのです。ですから、依頼件数でいえば六件にすぎません。しかし、それから受けた会社の収益は数千万円にのぼっています」
「その集団殺人というのは、汽車ですか、バスですか、船ですか、それとも飛行機ですか」
春泥はだんだん興味を持ちはじめていた。
「フフフ、さすがにすばやいですね。実は汽車でした。場所は申しませんが、高いがけの下を通って、急カーブを切る、そのかどのところへ、がけの上から、列車の来るのを見すまして、岩をころがしたのです。岩はレールに落ち、列車は見通しがきかないために、それにのり上げて、客車の一部が反対側の谷底に転落しました。二十五人というのは、死者だけの数ですよ」
「それで、うまく目的を達したのですか」
「偶然、目的の人物が死者の中にはいっていました。やりそこなえば、また別の手段をとるつもりでしたがね」
「だれが岩を落としたのです」
「むろん、ぼくらじゃありません。罪のない子どもです。その子どもに、ちょうどその時間に岩を落とさせるようにしたのは、ぼくらのひとりでしたがね。子どもは岩がレールに落ちるなんて少しも考えないで、ただいたずらをやってみたにすぎません。こうすれば、こんな大きな岩が動くという暗示を受けて、おもしろがってやってみたのにすぎません。それを教えたのは、どこから来て、どこへ行ったとも知れぬ旅の男です。しかも、少しも悪意はなかったように見えたのです。ですから、この事件は犯罪にはなりませんでした」
「おもしろい。ぼくもそういう小説を書いたことがある」
「そうですよ。そのあなたの小説から思いついたのですよ」
「え、ぼくの小説から?」
「だから、愛読者だといったじゃありませんか。普通の愛読者じゃないというのは、ここのことですよ」
須原と名のる男は、そういってニヤリと笑ったが、さらに話をつづける。
「そのほかの五つの場合も、それぞれにくふうをこらしました。海水を洗面器に入れて、顔をその中へ押しつけて殺し、死体をその海水をとった海へ投げこんで、溺死を装わせるとか、なぐり殺した死体を自動車にのせて峠道をのぼり、がけのそばでこちらは運転台から飛びおり、谷底へ転落させて、死んだ男が運転をあやまったように見せかけるとか、どれもこれも創意のあるくふうをこらしたのです。いわば、芸術的殺人ですよ。われわれは芸術家をもって任じています。いくら金もうけのためといっても、平凡な人殺しはしたくありません。そして、芸術的であると同時に、いつも完全犯罪でなくてはならないのです。絶対に犯人が発見せられてはならないのです。
それについては、犯人になってくれる男を雇う場合もあります。うすのろのルンペンで刑務所にはいったほうが食いものがあっていいというようなやつをですね。その場合には、計画殺人ではなく、過失致死という形にします。そうすれば、死刑になるようなことは絶対にありませんし、刑期もごく短いのですからね。やっぱり、そういう犯人の代役がなくては困る場合もあるのですよ」
この話は、要所要所はささやき声で話されたし、全体の会話が電蓄に消されてもいたけれど、宵の銀座のバーの中でこういう話をするというのは、まことに傍若無人、常規を逸しているように見えた。しかし、ほんとうは、こういう場所がかえっていちばん安全なのかもしれない。それは、「秘密は群衆の中で行なうべし」とか、「最上の隠し方は見せびらかすにあり」とかいう、最も賢い悪人の箴言に一致していたのかもしれない。
「あなたの会社の事業は、だいたいわかりました。ところで、ぼくにお頼みというのは?」
春泥がたずねた。ふたりとも、そのころは三杯めのハイボールをあけていた。
「一口にいいますと、ぼくらは顧問がほしいのです、あなたの天才的な知恵が貸してほしいのです。芸術的であって、まったく安全な殺人方法というものは、そうそう考え出せるものではありません。一方、依頼者はますますふえるばかりです。われわれはこの際、どうしても有能な顧問がひとりほしいのです。
たとえばですね、あなたは最近のお作に、古井戸に死体を隠すことをお書きになった。そういう場合に備えて、ほうぼうに古井戸つきの地所を買っておくという新手をご発表になった。われわれは、あれを読んで感嘆したのです。そして、あなたは小説だけでなく、実際にそういう古井戸つきの地所をいくつも持っておられるとにらんだのです。違いますか?」
「ハハハハハ、あれは小説ですよ。実際と混同されては困る」
「その言いぐさは、だれかほかの人に使ってください。ぼくらにはだめです。だから、最初に、あなたの秘密はいくらか握っていると申し上げたじゃありませんか」
須原はそういって、白い目でじろりと相手を見た。千軍万馬の春泥にも、その目つきは薄気味わるかった。須原は話をつづける。
「死体をほうり出しておいても安全な場合もありますが、そうでない場合も多いのです。そこで、これは将来の話ですが、必要なときにはそのあなたの古井戸つきの地所を利用させてもらいたいのですよ。土地に対しては時価の十倍をお払いします」
「それは、ぼくがそういう土地を持ってればという仮定で、承諾しておきましょう。要するに、ぼくとしてはアイディアだけを出資すればいいのですか」
「そうです、そうです。出資とはうまいことをおっしゃった。そのとおりです。命まで出資してくださいとは申しません。あなたは取締役ではないのですからね」
「で、顧問料は?」
「奮発します。四人で山分けです。つまり、会社の全収入の二十五パーセントですね。配当はあなたも取締役なみというわけです」
「で、もしぼくが不承知だといったら?」
「まさか殺しゃしませんよ。秘密を漏らしたら消してしまうというのは、契約を取り結んでからです。それまではお互いに自由ですよ。もし、あなたが今夜の話をその筋に告げるようなことがあっても、ぼくは平気です。今夜話したことは、全部荒唐無稽の作り話で、小説家佐川春泥のごきげんをとりむすんだばかりだと答えます。常識人には、殺人会社なんてとっぴな話は、なかなか信じられるものではありませんよ。それに、こんなに客のいるバーの中で、まじめに人殺しの話をしたなんて、だれも本気にするはずがありませんからね。その意味でも、バーは最適の場所だったのですよ」
影男の春泥は、この須原と名のる小男が気に入った。こういう知恵の回るやつとなら、いっしょに仕事をしてもおもしろいだろうと思った。
「よろしい。きみが気に入った。ぼくはきみたちの会社の顧問を引きうけましょう」
それを聞くと、小男はニヤリと笑って、
「ありがとう。では、約束しましたよ。契約書も取りかわさなければ、血をすすり合うわけでもありません。何も証拠は残らないのです。それは、われわれの場合は、違約をしても、法廷に持ちこむことはできないからです。もし違約すれば、ただ死あるのみです。今日ただいまから、あなたは責任を持たなければなりません。もし、われわれの秘密をこれっぽっちでも漏らしたら、あなたはこの世から消されてしまうのです。わかりましたか」
「いや、きみたちのほうで消すつもりでも、ぼくは消されやしないが、そのスリルはおもしろいですね。けっして秘密なんか漏らしませんよ。秘密はお互いさまですからね。そのうち、だんだんぼくの正体も、きみたちにわかるでしょうよ。で、さしあたって、ぼくはどういう知恵をお貸しすればいいのです?」
「それはここでは話せません。あす、別の場所で話しましょう。あす午前中に、きょうのところへ電話をかけます。あすも、あのアパートにおいでですか」
「実は忙しいのだが、一日ぐらい、きみたちのために延ばしてもいいです。あすこにいますよ」
「速水荘吉という名でね。あなたにはそのほかに鮎沢賢一郎という名もおありですね。ウフフフフフ、どうです。ぼくたちの調査力もバカになりますまい」
「ますます気に入った。きみのような友だちができて、ぼくもしあわせです。じゃあ、あす、お電話を待ちますよ」
春泥は帽子を取って立ちあがった。
その翌日の午後一時、佐川春泥と須原正とは、電話で打ち合わせたうえ、浅草公園の花屋敷の入り口で落ち合った。ふたりとも、サラリーマンというかっこうで、目だたぬセビロを着ていた。
花屋敷にはいると、空中にそびえる大きな観覧車が回っていた。ふたりは切符を買って、回転が終わるのを待ち、一つの箱に乗りこんだ。ちょうどふたり乗りになっている。ほかには、はるかへだたった箱に、若い男女の一組みが乗っているばかりだ。観覧車はふたたび回転をはじめた。
「どうです、秘密話にはもってこいの場所でしょう。目の下に東京の市街をながめながら、はるかに品川の海を見ながら、だれに立ち聞きされる心配もなく、ゆっくり相談ができるというものです」
「きみのやり口は、いちいち気に入りました。すばらしい密談の場所ですね。では、聞かせてください。さしあたって、ぼくにどういう知恵を貸せというのですか」
「いま話します。こういうわけです」
須原と名のる小男は、タバコに火をつけた。春泥もそれをまねて、自分のタバコを出した。空はよく晴れていた。ふたりの乗った箱は、風のない小春びよりを、ゆっくりゆっくり大空へのぼっていった。
「その人の名は、いずれわかりますが、かりにX氏としておきましょう。新興成金です。まだ四十になっていません。奥さんはありますが、病身で、ほとんど寝たっきりです。子どもはありません。このX氏に愛人があったのです。妾宅に住ませていましたが、今いうように奥さんが病身ですから、この女が奥さんも同様だったのです。すばらしい美人ですよ。
ところが、この女が若い男と不義をしました。そして、長いあいだX氏をだまして、金をしぼりとり、その男にみついでいたのです。顔に似合わない悪女です。恐ろしい女です。X氏は本気でこの女を愛し、また愛されていると信じていたので、非常に立腹しました。その女をなぶり殺しにしてやったら、どんなに快いだろうと、そればかり考えているのです。相手の男は、まだ若くて、女から誘惑されたことがわかっていますし、男のほうではさほどでないのを、女が血道をあげていることもわかっているので、男はどうでもいいのです。ただ、女にふくしゅうしたい、思い知らせてやりたいという気持ちですね。しかし、自分を犠牲にする気はない。自分には絶対に嫌疑のかからない方法で、女をなぶり殺しにしたいというわけですね。
ぼくらの会社は、このX氏の心持ちを探知しました。そして、交渉をはじめたのです。こういう場合いつもそうですが、X氏はなかなか本心をうちあけない。ぼくらを信用しないのです。それで、ゆうべあなたと話したようなぐあいに、いろいろな例をあげて、ぼくらの会社の実力を納得させました。そして、けっきょくX氏はわれわれの依頼人となったのです。報酬は五百万円、ほかに実費は百万でも二百万でも支出するという条件です。
しかし、なかなか注文がむずかしい。自分は絶対に安全な方法で……自分が手をくだすのでもなく、その場にいるのでもなく、しかも女の殺されるところを見たいというのです。ぼくらはいろいろ考えてみたが、どうも名案がありません。そこで、あなたに顧問就任の第一着手として、ひとつ知恵を貸していただきたいのですよ」
空はまっさおに澄んでいた。すぐ頭の上を一台の飛行機が飛んでいく。銀色の機体がキラキラと光って見える。ふたりの乗っている箱は、巨大な観覧車の輪の頂上に達していた。富士山の雄大な姿もくっきりと見えている。この大空での殺人の話は、何かおとぎばなしめいた架空なものに感じられた。
「そのX氏は、どこに住んでいるのです」
「世田谷の高台の広壮な邸宅です」
「高台ですね」
「見はらしのいい高台です」
「二階建てでしょうね」
「そうです」
「そこの窓から見えるところにあき地がありますか」
「あき地だらけですよ。あの辺はまだ畑が多いのです」
「その二階から見えるあき地……なるべくX氏の家から遠いほうがいいのですが……そういうあき地を百坪か二百坪、手に入れることはできませんか。そのあき地の付近には、なるべく人家がないほうがいいのです」
「そういうあき地は、むろんありますよ。また、値さえ奮発すれば、たやすく手にはいるでしょう」
「では、一つの案があります。会社のだれかの名義でその土地を買うのです。金はむろんX氏が出すわけですよ。そして、そこへ板べいをめぐらすのです。高台のX氏の二階からだけ見えて、付近からは見えないように板囲いをするのです。それから、その地面の適当な場所に穴を掘るのです。この穴だけは、あなたがた会社の重役みずから掘らなければいけません。なあに、わけはないですよ。さしわたし一間もあればよろしい。深さは二間半から三間ですね。男がふたりかかれば半日で掘れますよ。
それからあとが少しむずかしい。これもきみたちがやらなければいけないのですが、その掘り出した土を、ふるいにかけて、こまかい土だけにしたうえ、水を加えてどろどろにして、もとの穴へもどすのです。そういうどろどろの土で穴がいっぱいになるようにするのです。これで準備はできたわけです。あとは、きみたちの会社の女重役が、X氏の女と心やすくなって、その板べいの中へおびき出せばいいのです」
「はてな、それだけの準備で、X氏の条件のとおりのことができるのですか」
「条件とぴったり一致するのです」
「おびき出しの役を勤めるわれわれの女重役に危険はありませんか。絶対に安全でなくちゃ困るのですが」
「X氏の女以外の人に顔さえ見られなければよろしい。だから、女の家ではなくて、どこかほかの場所で知り合いになるのですね。変装はしたほうがよろしい。また、現場へ来るまでにたびたび自動車を乗りかえ、最後の自動車は、男重役のひとりが運転するのです。きみか、もうひとりの重役に運転ができますか」
「ふたりとも、いちおうはできますよ」
「それですべてそろいました。もう成功したも同然です」
須原は春泥の構想がおぼろげにわかったらしく、ニヤリと笑った。
「さすがに春泥先生だ。これは名案です。X氏は思うぞんぶんふくしゅう心を満足させることができますね」
「きみにはもうわかったのですか。えらいもんだな」
「いや、こまかいことはわからないが、大筋は想像できますよ。これは恐ろしいふくしゅうだ。きみはずいぶん残酷なことを考えたもんですね」
ふたりはそこでまた、ニヤニヤと悪魔の笑いをとりかわした。
それから、さらに細部にわたって打ち合わせをすませてから、ふたりは観覧車を出て、花屋敷の入り口で、さりげなくわかれを告げた。
世田谷区榎新田には、まだ畑がたくさん残っていた。収穫物のためではなくて、土地の値上がりを待っていて、地主がなかなか手離さないからである。その中にちらほら新築の住宅が散在していたが、まだ住宅街を作るにはいたっていない。住宅と住宅とのあいだが、半町も一町もへだたっているような寂しい一郭であった。
その畑を見おろす高台に、一軒の広壮な新築の邸宅があった。築地塀に似た屋根つきの土のへいをめぐらした広い敷地の中に、うっそうたる大樹に囲まれて、純日本ふうの二階家が、あたりを睥睨するようにそびえていた。
この大邸宅は、付近で榎御殿と呼ばれていたが、そこの主人公は戦後擡頭した製薬会社の社長で、まだ四十そこそこの毛利幾造という億万長者であった。
毛利氏はこのほど、倍率十二という高価な双眼鏡を買い求めて、二階座敷から、毎日のように、目の下の畑地をながめていた。その畑地のまんなかに、百坪ほどの地所が、地ならしをされ、新しい板べいで囲まれているのが見えた。毛利家からは三町ほど隔たっているが、そのあいだに一軒も家がないので、双眼鏡でながめると、板べいの内部が手にとるように見えるのだ。
毛利氏は板べいの工事がはじまるときから、それがわずか二、三日で完成されるのを、楽しそうに観察していた。へいの中の地面には、海岸から運んだような、まっしろなこまかい砂が一面に敷かれていた。その砂を敷くまえに、深夜なにか作業が行なわれているようであったが、暗くて見えもしなかったし、毛利氏はそれについて、何も聞かされていなかった。
高台の上にも、その板べいの中を見おろすような建物は、まだ一軒も建っていなかった。通りがかりの人が見おろすというような道路もなかった。板べいの工事に着手するまえに、それらの点が、入念に確かめられていた。つまり、その板べいの中の地面は、毛利邸の二階からのほかは、どこからも見通せないような位置にあり、毛利氏だけが独占的にその中をながめていたのである。
板べいが完成した三日ほどのち、毛利家に不思議な電話がかかってきた。直接毛利氏を電話口に呼び出し、それが毛利氏にまちがいないことをくどく確かめたうえで、電話の向こうの男はこんなことをいった。
「いよいよ、あすの真昼間、午後一時からはじめます。見のがさないようにしてください。それから、お宅の中の人物配置をまちがいなく手配しておいてください。わかりましたね」
相手は同じことを三度くり返して、電話を切った。
その翌日、毛利氏は二階座敷の障子と、ガラス戸を一枚だけひらき、わざと縁側の籐イスを避けて、座敷の中の紫檀の卓に座ぶとんを置き、それに腰かけて、双眼鏡をのぞいていた。一点の雲もなく、うららかに晴れわたった日であった。一羽のトビが、まるでそのことを予知するように、大空に輪を描いて飛んでいた。
二階の真下の庭園には、庭師の若者と、毛利家のじいやのふたりが、さっきから植木の手入れに余念がなかった。広い二階にはだれもいなかったが、階下には毛利夫人の病室もあり、多くの召し使いがいた。玄関横の四畳半には書生ががんばっていた。台所ではふたりの女中が中食のあとかたづけをしていたし、その外のせんたく場には、別の女中がせんたくをしていた。これがつまり、電話の男がいった邸内の人物配置である。玄関にも裏口にも要所要所に召し使いがいるのだから、毛利氏は人目につかないで外出することは、まったく不可能であった。残されたたった一つの道は、屋根伝いに庭に降り、へいをのり越して外に出ることだが、そこには庭師とじいやが植木の手入れをしていた。
もし後日、毛利氏がなんらかの疑いを受けるようなことがあっても、同氏が二階にいたことは、全部の召し使いが証明するであろう。つまり、完全なアリバイを用意したわけである。けっしてにせのアリバイではない。毛利氏は、その時間のあいだ、二階座敷から一歩も出ないのだから、少しの欺瞞もないアリバイなのである。
ちょうど一時、一台の自動車が、板べいから一町もへだたった道路に停車した。毛利氏はすぐにそのほうに双眼鏡を向けて観察した。自動車が五、六間先のように大きく見える。自動車のドアがひらいて、ふたりの女が降りた。さきに降りたのは三十五、六の洋装婦人で、毛利氏の知らない女。そのあとから、二十五、六歳の非常に美しい洋装の女が降りてきた。彼女の傲然とした美貌が、すぐ目の前に見える。毛利氏を裏切り、ののしり、はずかしめた比佐子である。毛利氏はそれを見ると、ギリギリと歯ぎしりをかんだ。額の静脈がおそろしくふくれ上がった。
注意して、そのあたり一帯を双眼鏡でながめまわしたが、だれも見ている者はなかった。人家には遠いし、季節はずれの畑には人影もなかった。
さきほどのトビは、獲物を期待するもののように、空に大きな輪を描いて、とびつづけていた。
ふたりの女は、かりの門をあけて、板べいの中にはいった。双眼鏡はずうっとそれを追っている。へいの中は、何の建物もなく、一面の白い砂だ。ふたりの女は、その白砂の上を、前後してこちらへ歩いてくる。
そのとき、先に立っていた年増女のほうが、何を思ったのか、いきなり走りだした。まっすぐではなく、変な曲線を描いて走った。アッというまに、砂の上に転倒した。助けを求めてもがいている。
比佐子はそれを見ると、びっくりして、そのほうへ駆けよろうとした。彼女は当然、曲線を描かないで、まっすぐに走った。そして、十歩ほど走ったとき、恐ろしい異変が起こった。比佐子のハイヒールの足が動かなくなった。白い砂の中へ、吸いこまれるように引きつけられて、歩けなくなった。
足を抜こうとして、一方の足に力を入れると、その足のほうがさらに深く吸いこまれた。双眼鏡の中に、彼女の驚きの表情がはっきり見える。だが、彼女はまだこわがってはいない。ただ驚いているばかりだ。
彼女はしきりに手を振って、足を抜こうともがいた。しかし、もがけばもがくほど、ぐんぐん足がはまりこんでいく。もうひざの近くまで砂の中にはいってしまった。こうなっては、足をあげようとしても、あがるものではない。足首を堅く縛られて、地の底へ引き入れられているのも同然だ。
やっと彼女は悟った様子である。そこがなんの足がかりもない底なしのどろ沼であることを悟った様子である。彼女の顔が恐怖にゆがんだ。目がとび出すほど見ひらかれ、口が大きくひらいた。そして、その口から叫び声がほとばしった。何を叫んでいるのかわからないが、もうひとりの女に救いを求めているのであろう。
だが、つい目の先に倒れている年増女は、比佐子を助けようともしなかった。双眼鏡をその顔に向けると、彼女がニタニタ笑っていることがわかった。さも小気味よげに笑っていて、立ち上がろうともしないのだ。
双眼鏡を比佐子にもどす。もうももまで没していた。スカートがふわりと水に浮いたように、砂の上にひらいている。しかし、もう白い砂ばかりではなかった。彼女がもがくにつれて、砂の下のどろ土がこねかえされ、スカートをよごしていた。
比佐子は何かにとりすがろうとして、手をのばして砂をつかんだ。しかし、そこも同じどろ沼であることがすぐわかったので、あわてて手を引きもどした。堅い地面のように見えていて、砂の層の下は、手の届くかぎりどろ沼であることがわかった。目の前に砂がある。地面がある。しかし、それは彼女をささえる力がないのだ。固体ではなくて、半流動体なのだ。すぐ向こうに、彼女の連れの女が倒れている。その女は沈まない。どろ沼は比佐子の周辺だけなのだ。あすこまで行けばいい。ほんの一メートル歩けばいい。しかし、どうして歩くのだ。ももまで吸いこまれていて、どう身動きができるのだ。
比佐子は美しい女の一寸法師に見えた。スカートが浮いているので、ももから上だけの人間のように見えた。その一寸法師が苦悶している。美しい顔をけだもののようにゆがめて絶叫している。その声をだれかに聞かれやしないかと心配になった。だが、だいじょうぶだ。それを救いを求める声だと悟られるほどの近さには、一軒の人家もないのだ。遠くの家にかすかに聞こえたところで、犬の遠ぼえほどにも感じないだろう。
もう腹まで沈んでいた。これほどの恐怖がまたとあるだろうか。すぐ目の前に堅い大地がある。だが、ちょっとのことで、そこへ手が届かないのだ。比佐子は髪をふり乱して狂乱していた。自由な両手だけを、めったむしょうに振り動かして、空気にさえ取りすがろうとしていた。醜くゆがんだ顔は、汗と涙によごれ、口は白い歯がむき出しになって、化けもののように大きくひらいていた。
そのころになって、やっと年増女が起き上がった。そして、苦悶する比佐子のほうに向きなおり、そこにしゃがんで、何かしゃべりだした。毛利氏に代わって、恨みごとを述べているのだ。どうだ、悪女め、思い知ったかと、さもここちよげに笑いののしっているのだ。
もう胸まで沈んでいた。あと数分で顔までどろが来るだろう。そして、息ができなくなるだろう。比佐子は知りすぎるほど、それを知っていた。その苦しみを想像すると、恨みに燃える毛利氏の心中にも、いささか憐愍の情がわかないでもなかった。だが、いまさらどうなるものでもない。彼女を助けようとしたら、その行動によって、こちらの罪がばれるのだ。そして、こんどは逆に、彼女のほうから、どんなふくしゅうをされるか知れたものではない。
もう首まで沈んでいた。首のまわりを、スカートのすそが、石地蔵のよだれかけのように取り巻いていた。首だけの女は、もうわめいていなかった。断末魔の恐怖に、目は眼窩を飛び出し、ほおはどろによごれていた。それが血にまみれているのかと錯覚された。年増女も、さすがに顔をそむけていた。殺人会社の女重役も、この苦悶を正視するに耐えない様子であった。
徐々に、徐々に、口、鼻、目と沈んでいった。目が沈むときが最も恐ろしかった。毛利氏は思わず双眼鏡をはなして、ため息ともうなりともつかぬ声を出した。かれはもう激しく後悔していたのだ。いまさらどうにもできないことを、底なし沼に沈みつつある女と同じほど恐怖していたのだ。
もう髪の毛も隠れ、さし上げた両手だけが残っていた。それが白い二匹の動物のように、地上にもがいていた。凄惨な踊りを踊っていた。
だが、その両手さえも、一センチずつ、一センチずつ隠れていって、最後に、何かをつかもうとする手首だけが地上に残り、五本の足のカニのように、どろの上をはいまわっていたが、それすら、ぼかすようにどろの中に消えていった。しばらくは、砂まじりのどろの表面がブクブクとあわだっていたが、やがて、それも、なにごともなかったように静まり返ってしまった。
一面の白砂の中に、さしわたし一間ほど、丸くどろによごれた個所が残った。もうその表面は固体のように動かなかった。キラキラとまぶしく光る真昼の陽光が、その上を静かに照らしていた。あの黒いトビは、さきほどよりもずっと低く、その上に輪を描いてとんでいた。
影男はその恐ろしい光景を目撃したわけではない。ただ殺人業者たちに案を与えたにすぎない。
それでも、その案がみごとに実現されたと聞き、富豪からの謝礼金の分けまえを分配されたときには、実にいやな気持ちがした。もがき叫びながらどろの中に沈んでいく美しい女の姿が、むざんな幻影となってかれを苦しめた。
この憂さはらしには、遊蕩紳士殿村啓介に変身して、いまわしい記憶を洗い落とすほかはないと思った。影男は、速水、綿貫、鮎沢、宮野などの別名を持っていたが、殿村啓介はそれらの別名の一つで、希代の遊蕩児であった。底なし沼事件ののちの数日間、影男はその殿村啓介になりきって、紅灯緑酒のちまたを遊弋した。
そして、その晩は、銀座のキャバレー『ドラゴン』のフロアの正面、最上の客席の一郭を占領していた。京の祇園から呼びよせただらりの帯の舞い子が四、五人、柳橋の江戸まえのねえさんたちが四、五人、西洋道化師に扮装した幇間が四、五人、キャバレーの盛装美人が七、八人、それらおおぜいのきらびやかな色彩に取りまかれて、殿村遊蕩紳士は、酒杯を重ね、女たちの和洋とりどりの冗談に応酬し、舌頭の火花に興じていた。
フロアにはアクロバット・ショーが演じられていた。全身に金粉を塗った三人の美女が、キラキラ光りながら、ヘビのアクロバット踊りを踊っていた。立っているひとりの胸にもうひとりの黄金女が、大蛇のように巻きついて、首と胸とに顔のある一身二頭の異形の舞踊を踊っていた。
そのショーの舞台には、赤、青、黄色と、五色の照明が交錯し、客席からはテープ花火がポンポンと発射され、五彩のテープが三人の金色の踊り子の頭上に雨と降り、無数の巨大なゴム風船が、五色のクラゲの群れのように空間を漂い、はでなバンドの気ちがいめいた奏楽が、ギラギラした色彩の混乱と相応じて、場内数百人の男女を狂気の陶酔に導いていた。
耳もろうする奏楽、テープの発射音、泥酔男の蛮声、女たちの嬌声の中に、ふと、異様なささやき声が、影男の殿村の耳たぶをくすぐった。
ひょいと顔を向けると、そこに、白髪白髯の老人の顔があった。かつらのようなまっしろなふさふさした髪、ぴんとはねあがったまっしろな口ひげ、胸までたれたみごとな白ひげ、黒いセビロを着た上品なおじいさんだ。上品のうちにも、どこかメフィストめいたぶきみさをたたえた不思議な老人だ。それが殿村のイスのうしろからおよび腰になって、殿村の耳に口をつけんばかりにして、同じことをくりかえしささやいているのだ。
「つまらないですね、こんなもの。たいくつですね。さびしいですね。あなたお金持ちでしょう。そんなら、こんなものより百倍もすばらしいものがあるんですがね」
この上品な老人が、猥䙝見せ物のポンピキとは考えられなかった。ありふれた痴技の見せ物でないとすると……。
「それは、どこにあるんだね」
影男の殿村も、つい好奇心を起こさないではいられなかった。
「東京ですよ。自動車で一時間もかかりません」
「きみが案内するというのかい?」
「そうですよ」老人はぐっと声をひそめて、「現金で五十万円いりますがね……」
「今は持っていないが、いつでも、そのくらいなら出せるよ」
「そうですか。では、ご相談にのりましょう。しかし、女たちは帰してください。あなたおひとりでないと困るのです」
「ここに待たせておいてもいいが、時間はどのくらいかかるんだね」
「いや、とても待たせておくわけには行きません。一日かかるか、二日かかるか、あなたのお気持ちによっては、一週間でも、一カ月でも、ひょっとしたら一年でも……」
メフィストめいた上品な顔が、ニヤリと笑った。
殿村は、それを聞くと、いよいよ好奇心がつのってきた。この老人はほんとうに五十万円のねうちのある不思議なものを見せようとしているのか。それとも、粋人の座興か。あるいは、悪質の詐欺か。いずれにしても、誘いに乗ってみるねうちはある。
「それじゃあ、女たちは帰してもいい。しかし、金は今夜はまにあわないが……」
「わかってます。わかってます。ほんとうにそこへ行くのは、あすのことです。それまでに、よくご相談をしなければなりません。あなたも、内容も聞かないで五十万円は投げ出さないでしょうからね。これからそのご相談がしたいのですよ」
「どこで?」
「静かな別室のあるバーがあります。すぐ近くです。そこへご案内しましょう」
影男の殿村は、この不思議な老人に深い興味を感じたので、いうがままに、女たちを引きとらせ、老人について銀座裏の小さなバーにはいり、奥の狭い別室に対座した。酒を命じておいて、老人はひそひそと話しはじめる。
「これは絶対に秘密ですよ。わかりましたか。わしは、三日というもの、あんたのあとをつけて、じゅうぶん観察した。そして、この人ならばだいじょうぶと考えて、話しかけたのです。わしは高級客引きを専門にやっている者です。名まえは申しません。あんたのお名まえも聞きません。この取り引きには、名まえなど必要がないのです。あんたのほうでは五十万円の現金を出せばいいのだし、わしのほうではその場所へご案内すればいいのですからね」
「それはどこです?」
「中央線の沿線で、荻窪の少し向こうです」
「そこにそういうものがあることは、だれも知らないのですね」
「もちろんです。五十万を出して、そこを見た人が幾人かありますが、その人たちも、堅く秘密を守ることになっています。それから、そこに住んでいる人たちと、このわしのほかには、だれも知りません」
「そこに住んでいる人たちというと?」
「それが秘密です。いまにあんたの目でごらんになれば、わかりますよ。そこは、われわれの世界とはまったく別の場所なのです。天国といってもいいし、地獄といってもいいでしょう。ともかく、この世のものではないのです」
「しかし、やっぱり一種の見せ物でしょうね。いくら変わった見せ物でも、五十万円という入場料は、桁はずれじゃありませんか」
「その場所が桁はずれだからです。それに、めったな人には見せられない場所です。五十万円さえ出せば、だれにでも見せるというわけではないのです」
「それにしても、ばくだいな見物料を払うからには、何かの歓楽が得られるのでしょうね」
「むろんです。驚愕と、恐怖と、歓楽とです。この世のほかのものです。想像を絶したものです」
「危険も伴いますか」
「あるいは危険があるかもしれません。つまり、冒険の快味ですね。多少の危険をおかさなくては、最上の歓楽は得られません。あんたは、そういうことがわかるおかただと見て、お誘いするのです。もし、わしの見ちがいでしたら、これでお別れにしましょう」
白ひげの老人は、そういって、席を立ちそうにした。これも高級ポンピキのかけひきの一つなのであろう。
「よろしい。あすの晩、五十万円を持ってきましょう。何時にどこへ行けばいいのですか」
「ふうん、さすがにわかりが早いですね。こんなに早く決心をしたお客さんははじめてです……場所はこのバーにしましょう。時間は午後の九時です」
そして、翌日の午後九時ごろ、ふたりは同じバーで落ちあった。
殿村が千円札で五十万円の束をさし出すと、老人はそれをちょっと調べて、すぐ返した。
「前金ではありません。先方に着いてから、引きかえでよろしい。これは先方の主人の収入で、わしはこのうちのごく一部をもらうだけですからね」
ふたりは老人が用意してきた自動車に乗った。運転手は老人の仲間のものらしく感じられた。四十分ほど走って、目的地についた。コンクリートべいでかこまれた、ひどく大きな屋敷の門前であった。老人はカギを出して、唐草模様の古風な鋳物の鉄のとびらをひらいて、殿村を門内へ案内した。
すぐ目の前に、大きな建物が黒くそびえていたが、どこか裏手のほうに、ぼんやりあかりがついているだけで、どの窓もまっくらであった。
「もとはりっぱな住宅だったが、いまでは荒れはてて、ある会社の倉庫に使われているのです。その番人の老人夫婦が、この広い家に、ただふたり住んでいるだけです。だが、わたしたちはこの家には用はありません。裏に池があるのです。その池の中へはいるのですよ」
老人はそんなことをささやきながら、先に立って歩いていく。
「池の中へはいるとは?」
殿村がおどろいてたずねると、老人はかすかに笑い声をたてて、
「いや、水の中へはいるのではありません。いまにわかりますよ」
そのまま、ふたりともだまりこんで、やみの中を歩き、やがて、広い庭園に出た。樹木の多いりっぱな庭らしいのだが、常夜灯があるわけでなく、燈籠にあかりがはいっているわけでもなく、まったくのくらやみだから、そのけしきを見ることはできない。足もとに雑草がはえ茂っているところをみると、久しく手入れをしない荒れはてた庭のようである。曇っていても、空はうす明るく、その余光で、およその物の形はわかる。大きな木が林のように立ちならんでいる中に、広い池の水が見えてきた。
老人は殿村の手をひっぱって、この池の岸に腰をおろした。さし渡し十四、五メートルはあろうか、庭園の中心を占めた不規則な楕円形の池である。黒い水が、じっと静まり返っていた。
「さっき、ちょっと知らせておきましたから、いまに不思議なことがおきますよ。池の中をよく見ててください」
老人がやはりささやき声でいった。
この深夜の古池が、何かしら不思議な見せ物への木戸口とすれば、実にきばつな趣向であった。怪奇に慣れた影男でさえ、異様な好奇心に、胸のときめくのを感じた。
目がやみに慣れるにつれて、あたりがだんだんはっきり見えてきた。思ったよりも広い庭、深い木立ちであった。ふと気がつくと、岸から三メートルほどの池の中に、黒い杭のようなものが立っている。水面から二尺ほどもつき出している。
だが、よく見ると、それは杭ではなかった。頭がキセルのがん首のように曲がった径四センチほどの鉄管のようなものであった。
「気がつきましたか。あれ、なんだと思います。どっかでごらんになったことはありませんか」
老人がいうので、考えてみたが、想像がつかなかった。だまっていると、老人が説明した。
「あれは潜望鏡ですよ。ペリスコープですね」
「潜航艇の中から、海の上をながめるあれですか」
「そうです」
「じゃあ、あの池の中から、だれかが潜望鏡でのぞいているのですか」
「まあそうですね。もっとも、こんなに暗くちゃ見えません。のぞくのは昼間だけですがね」
さすがの影男も、あきれかえってしまった。庭の古池の中にひそんで、長い潜望鏡をつき出して、外のけしきをながめている人物とは、いったい何者であろう。世間の裏側ばかり捜しまわっている影男も、こんなへんてこなやつに出くわしたのははじめてであった。
「こいつは五十万円の値うちがありそうだぞ」
かれはゾクゾクするほどうれしくなってきた。
見ていると、池の中から突き出した潜望鏡がぐんぐん伸びていた。もう三尺を越す長さになっていた。すると、そのとき、池の水が異様に動いて、何か大きなものが浮き上がってくるように感じられた。
黒い怪物がニューッと頭をもたげた。さし渡し一メートル以上もあるような、黒い円筒形のものである。その表面は平らになっていて、すみのほうから、さっきの潜望鏡が突き出ていた。やっぱり、潜航艇の司令塔のてっぺんのような感じである。では、こんな小さな池の中に、潜航艇が沈んでいたのであろうか。
「ほんものの潜航艇ですか」
「いや、そうじゃありません。これだけのものです。あの太い円筒形のシリンダーが、出たりはいったりするだけですよ。そして、これが目的地への、たった一つの出入り口になっているのです」
「目的地というと」
「あんたに見せるもののある場所です。天国と地獄です」
機敏な影男は、たちまちその意味を察した。目的の場所は、地底にあるのだ。そして、この池の中のシリンダーは、そこへの入り口なのだ。いつもは池の中に沈んでいるので、こんなところに出入り口があるとは、だれも考えない。そのシリンダーが、夜なかにニューッと水面上に首を出して、そこから人が出入りするのだ。用がすめば、また池の底へ隠れてしまう。なんという用心深さであろう。それに、このシリンダーを動かすのには、モーターもいることだろうし、たいへんな費用がかかる。それほどまでにして保とうとする秘密とは、いったいどのようなものであろう。影男は、そう考えると、はち切れそうな好奇心に、いよいよ胸がおどるのであった。
径一メートルの鉄の円筒が水上二尺ほどにのびたとき、その上部の平らな部分の円形鉄板のふたが、ちょうつがいでパッと上にひらき、その中から鉄ばしごのようなものがするすると伸びて、池の岸の岩の上にかかった。
その次には、円筒の中から、人間がはい上がってきた。やみに慣れた目には、その姿がじゅうぶん見わけられる。その男は、ぴったり身についた黒いシャツとズボン下のようなものを着ている。それは夜の保護色であり、また狭い円筒内の身動きに便したものであろう。影男も、こういう保護色のシャツをよく利用するので、すぐにその意味を察することができた。
その黒い男は、今わたした鉄ばしごを渡って、岸にあがると、こちらへ近づいてきた。老人が客を連れてここにいることを、よく知っている様子である。
老人のほうでも立ちあがって、その男を迎え、何かボソボソと立ち話をしていたが、やがて影男の殿村のほうに向き直って、やっぱりささやき声で、その黒い男を引き合わせた。
「これからは、この人が案内係です。お金は、あとで、この人に渡してください。わしはここで失礼します」
「この人はだれですか」
影男がたずねると、老人は手を振って、
「名まえなんかありません。ただ、あんたを不思議の国へ案内する人です。不思議の国には、たくさんの人間がいますが、だれも名まえはないのです。あんたのほうでも、名まえを名のる必要はありません。この男は、わしを信用して、あんたを受け取る。あんたはこの男を信用してついていけばよいのです。これがすなわち冒険の妙味ですよ」
老人はニヤニヤと笑ったらしい。そして、そのまま、どこかへ立ち去ってしまった。
あとに残った黒シャツの男は、影男の手をとって、
「どうか、こちらへ」
といいながら、鉄ばしごのほうへ導く。その声はまだ若々しく、三十前後の感じであった。
だまってついていくと、鉄ばしごを渡り、円筒の上にのぼった。そこに丸い口がひらいている。
「この中にも、たてにはしごがついています。それを降りるのです」
黒い男が、足から先に穴の中へはいっていって、下から声をかけた。影男もそれにならって円筒の内側のはしごを降りる。ふたりが円筒の中へはいってしまうと、自動的に、外の鉄ばしごが円筒の中へすべりこみ、たてのはしごと重なる。そして、丸い鉄のふたがしまり、内部は真のやみとなった。エレベーターに乗っているような気持ちになる。つまり、円筒が池の中へ沈んでいるのだ。
ふたりは狭い円筒の下部にからだをくっつけ合って立っていたが、円筒の沈下が止まると、目の前の鉄の壁に、たてに糸をさげたような銀色の光がさし、それがだんだん太くなっていく。円筒の壁の一部がドアになっていて、それがひらいているのだ。その向こう側には電灯がついているらしく、ドアがひらくにつれて、光がさしこんでくる。
池の底では、円筒が二重になっているらしく、出入り口も二重ドアで、それがひらいても、けっして水が漏れてくるようなことはない。ふたりがそこから出ると、二重ドアは自然にしまり、いよいよ地底に密閉された感じになる。
そこはセメントで自然の岩を模した洞窟のようであった。どこにあるのか、薄暗い電灯の光がその辺を照らしている。その光で見ると、黒い男の着ているのは、黒ビロードのシャツとズボン下であることがわかった。顔にも目隠しの黒ビロードのマスクをつけている。
洞窟の入り口のそばに岩の枝道があり、鉄のとびらがしまっていたが、男はそれをひらいて、中に案内した。そこは、やはりコンクリートの岩壁で囲まれた小べやで、簡素なデスクと長イスが二脚置いてあり、デスクの上には電話機と文房具がのっている。一方の岩壁には配電盤がとりつけられ、ずらっとスイッチが並んでいる。
ふたりはそこのイスにかけて、向かい合った。
「ここで取り引きをします。五十万円をお出しください」
覆面の男が、そっけない事務的な調子でいった。いわれるままに、札束を手渡して、さて、質問をしようとすると、相手はそれを止めるように手をあげて、
「いや、何をお尋ねになってもむだです。わしは門番です。門番はいっさいお答えしないことになっています。やがて、何もかもおわかりになるときが来るでしょう。サスペンスとスリルというやつですね。まず地底の別世界をゆっくりお楽しみください。ここを出て、奥へ奥へとおいでになればよろしいのです。一本道です。すると、じきに美しい案内者にお出会いになるでしょう……では、これで失礼します」
鉄のとびらをひらいて待っているので、出ないわけにはいかなかった。もとの洞窟に出ると、うしろでとびらがぴったりと締まった。いわれたとおり、奥へ奥へと歩いていくほかはない。
どこに光源があるかわからない薄暗い光で、人工の岩壁は自然の洞窟そのままに見える。そこをひとりとぼとぼと歩いていくのは、いかにも心細い。
しばらく行くと、洞窟がまがっているかどへさしかかった。そのかどをひょいと出ると、目の前に白いものが立っていた。それは、さすがの影男もアッといって立ちどまるほど美しいものであった。
黒い岩はだの前に、全裸の美女が立っていた。黒髪はうしろにさげたまま、身に一糸をもまとわぬ自然のおとめである。日本の女に、こんな均整のとれたからだがあるのかと疑われるほどであった。顔も美しかった。それが少しのはじらいもなく、にこやかに笑って近づいてくる。
あきれて、ぼんやりと突っ立っていると、おとめはかれの手をとって、無言のまま、どこかへ導いていく。こちらも唖のようにだまりこんでついていく。
洞窟の少し広くなった場所に出た。おとめが岩壁のどこかへ手を当てる。目の前の岩の一部がゆらゆらとゆれて動きだし、そこに大きな穴ができた。つまり、岩のとびらがひらいたのである。
ほおをかすめる暖かい風。岩穴の中は、もうもうとたちこめる一面の白い煙。やがて、それが煙ではなくて、湯気であることがわかった。
おとめは影男をその湯気の中へ引き入れたが、すると、いまひとりの同じ姿のおとめがどこからともなく現われて、ふたりがかりでかれの洋服を脱がせはじめた。美しい追いはぎのように、シャツからさるまたまで、はぎとってしまった。そして、かれは岩のあいだにたたえられた温泉のような湯の中につけられ、じゅうぶん暖まってそこからはいだすと、こんどはなめらかなまないた岩の上に寝かされて、ふたりのおとめが全身を手のひらでこすって、あかを落としてくれた。そして、また湯にはいって、あがると、からだの水分をきれいにふきとってくれ、新しいシャツとさるまた、その上に黒ビロードのぴったり身についた衣装を着せてくれた。さっきの門番が着ていたのと同じものだ。
おとめたちはにこやかに笑うばかりで、ひとことも口をきかなかった。影男もわざとものをいわなかった。しかし、お互いにじゅうぶん用は足りたのである。
「人界のことばを忘れさせ、人界のあかを落とし、人界の衣服もとりかえて、これから地底の別世界の住人となるのだな。この段どりはなかなかよろしい。気に入った。このぶんだと、この世界の設計者は、よっぽど気のきいたやつにちがいない」
すっかり悦にいって浴場を出た。すると、かれのうしろで、岩のとびらがぴったりしまり、ふたりのおとめはその中に隠れてしまった。かれは岩をひらくすべを知らないので、そのままもとのどうくつを、入り口と反対の方角へ歩いていくほかはなかった。
行くにしたがって洞窟の幅は狭くなり、天井は低くなって、やっと人間ひとり通れるほどのトンネルに変わってきた。照明もだんだん薄暗くなり、ついにはまったくのくらやみにとざされてしまった。しかし、影男は引っ返さなかった。これもこの世界の設計者の計算された巧知にちがいないと思ったからだ。
その細い暗い道をしばらく行くと、ついに行きどまりになってしまった。あたりは真のやみであった。手さぐってみると、右も左も前もがんじょうな岩はだで、通り抜けるようなすきまはどこにもない。それでも、かれは引っ返さなかった。なにごとかを予期して、そのくらやみにじっと立ちどまっていた。
かれの予想は的中した。前面の岩がスーッと横に動いて、そこにぽっかり通路ができた。ここにも岩のとびらが待っていて、それが自働的にひらいたのだ。
ひらいた岩のうしろに、急な上りの階段があった。ためらわずそれを上っていった。上りきると、眼界がパッとひらけた。ああ、なんということだ。そこは、見渡すかぎり、際涯もない大海原のまっただなかであった。ありえないことが起こったのだ。
くらくらと目まいがした。魔法つかいの目くらましか、それとも、おれはさいぜんから、ずっと夢を見つづけていたのか。
ドウドウと波のうちよせる音がひびいていた。空は青々と晴れ渡り、一点の雲もなかった。はるかの水平線が地球の丸さを現わしていた。目路のかぎり島もなく、船もなく、ただ空と水ばかりであった。
足もとを見ると、かれが立っているのは、三メートル四方ほどの岩の上である。いつのまに島流しされたのであろう。大洋のなかの点のような岩の上に、たったひとり取りのこされているのだ。
もし、かれが頭の真上を見上げたならば、そこには丸い大きな笠のようなものが、あるいは屋根のようなものが岩上三メートルほどの空中にぶらさがっているのを知り、たちまちこの魔法の秘密を悟ったであろう。その丸屋根のようなものは、いったいどこからさがっていたのか。まさか空中に漂っていたのではあるまい。そこにこの目くらましのいっさいの秘密があった。
影男ほどの知恵者が、これに気のつかぬはずはない。しかし、とっさには、そこまで考える余裕がなかった。地底の洞窟が、たちまちにして際涯のない大海原に一変した不可思議に、ただあきれ果てているばかりであった。
そのとき、かれのすぐ目の前の海中に、不思議な現象が起こった。
その個所だけ異様に波だったかと思うと、おそろしく巨大な魚類の尾びれが、白い水しぶきを上げた。その尾びれは五月のぼりのコイほどの大きさがあった。ひればかりでなく、魚類の下半身が波間におどった。銀色に光るうろこの一枚一枚が一寸ほどもあった。
いや、それよりももっと驚くべきことが起こった。その巨大なさかなは、人間の顔を持っていた。ひらりと身をひるがえして、上半身を水面に現わしたとき、その上半身は、まばゆいばかり美しい人間の女性であった。黒髪が波に漂っていた。二本の美しい手が、空にひらめいた。うろこのある下腹部の上に、白い二つの乳ぶさがもり上がっていた。首の線も美しく、ぬれた黒髪のあいだからのぞいている顔は、うっとりするほど愛らしかった。その顔が、赤いくちびるから真珠のような歯を見せて、岩上のかれにニッコリと笑いかけた。それは一匹の美しい人魚であった。
やがて、またしても、海面が波立って、水底からスーッと白いものが浮き上がってくるのが見えた。そして、水面に顔を出したのは、これもまた美しい人魚であった。
「お客さま、ようこそおいでくださいました。これから、わたくしどもが、海の底へご案内いたしますのよ」
一匹の人魚が、小首をかしげて、あでやかに笑いながら、話しかけた。
「海の底だって? ぼくは人間だから、海の底なんかへもぐれやしないよ」
影男は、岩の岸にしゃがんで、二匹の人魚をかたみがわりにながめながら答えた。
「いいえ、それはたやすいことでございます。わたくしたちも、海にもぐるときは、こういうものを使いますの。あなたさまにも、これを当ててさしあげますわ」
人魚たちは透明な仮面のようなものをさしあげて見せ、それを自分たちの美しい顔にかぶった。目、口、鼻、耳をおおい隠すすき通ったプラスチックらしい仮面であった。その仮面にはやはり透明で柔軟な細い管がついていて、その管の先に、これも透明な小型の酸素ボンベがついていた。人魚たちはそのボンベをわきの下にくくりつけた。
「お客さまも、これをおつけになれば、いくらでも水の底にもぐっていられますのよ」
二匹の人魚は、岩の岸にはいあがり、水ぎわに腰かけた形になって、透明仮面とボンベとを、かれの顔とわきの下につけてくれた。影男の殿村は、やさしい人魚たちのなすがままに任せた。
「さあ、わたくしたちがお手を引いてさしあげます。そして、海の底の不思議を見にまいりましょう」
両方から手をとられて、海中に身を浮かせた。少しも冷たくはなかった。人はだほどのなま暖かい水だ。それに、ぴったり身についた黒ビロードの衣類は、中にゴムでもはいっているのか、少しも水を通さなかった。首と、手首と、足首できゅっと締まっていて、そこから水がしみ入るようなことはなかった。
黒ビロードの人間の姿が、二匹の美しい人魚にはさまれて、海底へ沈んでいった。ともすれば浮き上がりそうになるからだを、両側の人魚が巧みに下へ下へと引きおろしてくれた。仮面の中へボンベの酸素が適度に漏れているらしく、少しも息苦しくはなかった。
見かけによらず、その辺の海の底は浅かった。底の岩とすれすれに、人魚たちはかれを導いていった。
行く手には巨大な海藻の林があった。幅一尺も二尺もあるコンブに似た植物が、巨獣のたてがみのように、無数にゆらいでいた。人魚たちは、そのぬるぬるした藻の林をかきわけて進んだ。
しばらく行くと、海藻がまばらになって、向こうの見通しがきくようになったが、そこは海底の谷間とでもいうような、深いくぼみになっていた。底のほうほど暗くなって、ぼんやりとしかわからなかったが、その青い水の層を通して、世にも異様なものがながめられた。
黒い斜面の岩はだに、いくつかの巨大な花が咲いていた。それはどんな植物の本でも、一度も見たことのないような、ぶきみにも美しい桃色の巨花であった。
だんだん近づくにつれて、その桃色の花は、いよいよ巨大に見えてきた。さしわたし四メートルもあろうかと思われる奇怪な五弁の花であった。
中心のシベに当たるところに、五つの美しい顔が笑っていた。その顔はみな、例の透明なビニールの仮面をつけていたことがあとになってわかったが、遠目には、透明仮面は少しもじゃまにならないで、あからさまな五つの美女の顔が、岩はだに密着していた。五人の全裸の美女は、そうして頭を寄せ合って、放射状に、長々と横たわっていた。彼女たちの胸から腹、そろえた二本の桃色の足が、それぞれ一枚の花弁となっていた。海底の人花であった。あるいは巨大な美しいヒトデであった。その人花は、谷間のもっと下のほうにも、二つほど咲いていた。それより底は、暗くて見えぬけれど、谷間のいたるところに、この巨大な人花が咲いているのではないかと想像された。
薄暗く青くよどんだ水底の、桃色の人花の美しさと恐ろしさは、比喩を絶するものがあった。それはデ・クィンジーのアヘンの夢であった。影男はどんな悪夢の中でも、これほど妖異な巨大な美を見たことがなかった。
黒ビロードの影男と二匹の人魚は、真上からその人花に向かって降下していった。そのとき、もっと別のギョッとするような巨大な長いものが、すぐ目の前を横切っていった。太さは二十センチに近く、長さは五メートルもあるニシキヘビであった。海中にこんな大きなヘビがすんでいるはずはない。いずれはこれも人工のものにちがいないのだが、美女の巨花を背景に、青黒い水中を、うろこをにぶい銀色に光らせて、ヘビがくねくねと身をよじらせながら横切っていく光景は、やはり胸おどる妖異であった。
ヘビがその上を通りすぎるとき、巨大な人花は、五対の桃色の足をキューッと上にあげ、腰のところで二つに折れるほど曲げて、花がつぼんだ形になった。ネムの木の葉がつぼむように、あるいは虫取りスミレがつぼむように、外部の刺激に反応したのである。それを上から見ると、十本の足の先が、五つの顔を隠して中心に集まり、五つのハート形のおしりが外輪となった桃色のつぼみの花であった。
ヘビが底のほうへ下っていくにつれて、そちらの人花も、同じつぼみの形になったが、やがて、ヘビが底深くやみの中へ姿を消すころには、つぼんだ人花が、もとのとおりに、パッと大きくひらくのであった。
影男は、二匹の人魚の手をはなれて、にこやかな五つの顔の花粉を慕う黒いミツバチの姿で、その人花の中心に向かってスーッと進んでいった。
透明マスクの五つの顔は、赤いくちびると白い歯で花のように笑っていた。だが、その笑いが獲物を毒手におとしいれる誘惑であった。かれが五つの顔に近づくと、美女たちの十本の腕がヒトデの足のように伸びて、黒ビロードのからだを、四方からがんじがらめに捕えてしまった。そして、五対の足がキューッとつぼんで、かれのからだを花弁の中に包みこんでしまった。巨大な桃色の虫取りスミレとなった。獲物を包むヒトデの姿となった。
虫取りスミレもヒトデも、毒液を出して、獲物を殺したうえ、吸収してしまうのだが、この人花は毒液を分泌するわけではなかった。獲物は身動きもできぬほど、桃色の肉団に包まれているばかりだ。影男の顔は、透明マスクを隔てて、五つの顔の一つに接していた。眼前三寸の近さに、赤いくちびるが白い歯で笑っていた。愛情にうるんだ大きな目が、じっとこちらを見つめていた。十本のはだかの腕は、かれのからだを抱きしめ、十本の桃色の太ももが、かれのからだを絞めつけていた。ムッとする暖かさであった。そして、かれは母の乳ぶさにうとうととまどろむ嬰児の心を味わっていた。
まもなく、かれは、つぼんだ人花の中で、真実の眠りについていた。人花の一つの手が、かれのわきの下のボンベのネジを動かした。そこに何か仕掛けがあって、かれのマスクの中に送られる気体の質が一変し、麻酔の作用をしたのであろう。かれは海底の人肉の花の中で、前後不覚に寝入ってしまった。
かれはそのあいだも、極彩色の甘美なアヘンの夢を見つづけていた。カレイドスコープがガラッ、ガラッと転回して、あらゆる原色の色彩がかれの脳髄をいっぱいにしていた。
どれほどの時間がたったのか、ふと気がつくと、そこはもう海の底ではなくて、かれはまったく別の次元にはいっていた。そこに別の宇宙があった。
見渡すかぎりの不思議な山であった。かれの理性はそれを否定したけれども、眼前の事実をどうすることもできなかった。麻酔の夢ではなくて、現実に山ばかりの世界がそこにあった。かれはそこが東京都内の地下であることを記憶していた。その地下に、見渡すかぎり果てしもない大洋があった。そして、今はまた、その地下に、見渡すかぎり山また山がつづいていた。夢ではない。かれは明らかに目ざめていた。夢でないとすれば、人知を絶した魔法である。さきほどの五十万円は、地底の魔術の国への入場料であった。
かれはやっぱりビロードのシャツを着ていた。それはもうぬれてはいなかったし、透明マスクもボンベも、いつのまにか取り去られていた。そして、何かしら柔らかいものの上に寝そべって、果て知らぬ山のけしきをながめていた。
その山容は、この世のものではなかった。青い木は一本もはえていなかった。ただのはげ山でもなかった。ごちゃごちゃとした目まぐるしい陰影があり、全体におしろいでも塗ったような、不思議な山であった。そのけしきからは、むせ返るような脂粉の香が立ちのぼっていた。そして、もっと不思議なことには、全山が絶えまなく、うようよとうごめいているかに感じられた。
目の前は急な山すそになっていて、その底にかれは寝そべっていた。遠くの山容から、前の山すそに目を移すと、その山には無数の目と、無数のくちびると、無数の手と足とがあることがわかってきた。かすりのように点々として黒いものが見えるのは、女たちの髪の毛であった。顔の上に太ももが重なり、腕と腕とがもつれ、なめらかなかっこうのよいおしりが、無数に露出していた。それは幾千幾万とも知れぬ裸女を積み重ねた人肉の山であった。死体の山ではなかった。それは皆生きていた。生きて積み重なっていた。
影男は、やっとそれを気づいたとき、自然に口がぽかんと開いてしまった。そして、大きな口をあけたまま、痴呆のように、この圧倒的な人外境の風景に見とれていた。
かれが寝そべっていた柔らかい谷底が、やはり女体によって構成されていることがわかった。それは揺籃のようにかすかにうごめいていた。暖かくて、脂粉の香に満ちていた。そこにも無数のにこやかな美しい顔が横たわっていた。地面全体が、花のような顔と、すべっこい桃色のからだとで、かれのほうに笑いかけていた。
すぐ前の女体は大きく、顔もはっきりわかったが、山すそからかれの目が上のほうへ移るにしたがって、顔は小さく見わけられなくなって、はては一面に白っぽい女体のつらなりの中へ溶けこんでいた。それが、はるかかなたの空にかすむ山頂まで無限につづいている光景は、言語に絶する壮観であり、むしろ神々しくさえあった。この世の裏を見つくした影男にも、東京の地下にこれほどの驚異が隠されていようとは、思いも及ばぬことであった。
地下に無限の大洋を広げ、地下に無限の山脈をつらね、その山脈を女体によって築くとは! その女体の数は、幾千幾万を数えてもまだ足りぬことであろうが、いったいこれほどの女を、どこから狩り集めたのであろう。それらの地下の構成のすべては、古来のいかなる王侯の富をもってしても、遠く及ばぬところではないだろうか。今の世にありえないことだ。しかも、夢ではない。どんな魔法でも、これほどの驚異を生み出すことはできない。
かれはむせかえる女体とにおいに包まれ、うごめく豊満な肢体に接し、人肉の大海に漂うただひとりの男性であった。かれはぴったり身についた黒ビロードのバレリーナの軽快な姿で女体の上に立ちあがり、女体のスロープを山頂に向かってのぼりはじめた。
足の下には、すべっこく柔らかい無数の曲面が連なっていた。乳ぶさがふるえ、おしりがゆがみ、もものあいだにあやうく足がすべり、美しいほおや鼻さえも踏みつけたが、女体どもは痛さをこらえて沈黙していた。叫び声をたてるものはひとりもなかった。
女体の数にして五、六人も登ったとき、予期せぬ異変が起こった。二つの女体が、ちょっと身動きしたかと思うと、そのあいだに細いみぞができ、かれの両足がそのみぞの中にはまった。それと同時に、その辺一体の女体がぐらぐらとゆれて、みぞはいよいよ大きく口をひらき、アッと思うまに、かれのからだは人肉の底なし沼に没していった。
女体の下に女体が、幾層にも重なり合っていた。下敷きの女体の苦しさが思いやられた。その女体のうずの暗い裂けめへ、影男の全身が徐々に沈んでいくのだ。前後、左右、上下のあらゆる面に、すべっこくて柔らかい曲面が連なっていた。男の黒ビロードのからだは、それらの曲面におしつぶされながら、底知れぬ深みへと吸いこまれていった。女体の熱気と、脂粉と、芳香と、甘い触感の底へ、深く深く吸いこまれていった。
そのとき、全山をゆるがして、おそろしいどよめきが起こった。幾千幾万の女体が、声をそろえて、なまめかしく笑いだしたのだ。赤いくちびるの嬌笑が大合唱となって、峰から峰へとこだまし、全世界が途方もない笑いのうず巻きに包まれていった。
影男は、ふたたび失神したのであろう。それからいくときが経過したのか、ふと目ざめると、そこにまた別の次元があった。別の夢の国があった。
そこは逢魔が時の薄やみの国であった。女体山脈のつづきかと思われたが、必ずしもそうではなかった。かれはそのとき、柔らかくて暖かいスロープに、足を投げ出してよりかかっていた。それはアームチェアでもソファーでもなく、なにかえたいの知れぬ巨大なクッションであった。
かれは立ち上がって、自分がもたれていたものを観察した。白い巨大な曲線が、うねっていた。急には、それがどういう形だか見当もつかなかった。それは一つの大きなへやのように感じられたが、天井も、壁も、床もなく、それらのことごとくが、不思議な曲線と曲面におおわれていた。さきほどの連想からであろうか、じっと見ていると、それらの曲面が、アヘンの夢に拡大された、巨大な裸女の肢体のように感じられた。天井から鍾乳洞のようにたれさがっている無数のふくらみは、あれは乳ぶさのむれであろうか。あれは巨大な腕、あれは巨大なわきの下、あれは座ぶとんを二枚かさねた女のくちびる、かれが今までよりかかっていたのは、ひとりの巨大な裸女のうつぶせの寝姿であった。表面がゴムあるいはビニールでおおわれているらしく、なめらかで弾力があり、どういう仕掛けなのか、それには体温さえもあった。それが実物の十倍の偉大なる体躯をうつぶせに横たえている。
かれはまたもとの快適な位置に足をなげ出した。かれの両側に巨大な大腿部があった。それをひじ掛けにして、うしろのうず高い桃われの臀部の小山にビロードの背中と頭とをもたせかけ、夕暮れの薄やみの中に適度の弾力と温度に包まれて、ぐったりとしていた。
突然、パッと正面の壁が明るくなった。どこからか舞台照明のライトが光を投げたのだ。正面の壁といっても、そこもゴムかビニールの巨大なる曲面におおわれていた。すべてが女体のあらゆる部分を、ばくぜんとかたどっているように見えた。
白いライトの中へ、全裸の若い男女が現われた。全身に化粧をほどこしているらしく、女のからだは絖のように白く光り、男のからだはキツネ色につやつやと光っていた。ふたりとも腰に皮のバンドを巻き、それに、銀の柄、銀の鞘の短剣がさがっていた。
どこからか、かすかに管弦楽が聞こえてきた。男と女は、左右にわかれて、舞踊にはいるポーズをとった。楽の音は、だんだん音を大きくしながら、ゆるやかに、はなやかにかなでられ、それにつれて、男女の優美な舞踊が進行した。キツネ色と白との二つのからだは、あるいは離れ、あるいは抱き合い、女体は男の頭上にささげられ、手をとってくるくると引き回され、しなやかに倒れ、男はその上にのしかかり、呪文の手ぶりに、女はうっとりと夢見る姿。やがて、音楽は急調に転じ、女体は引き起こされ、狂暴に抱きしめられ、ふりほどいて突きはなされ、男は飛び上がり、女はうち倒れ、コマのように回転し、ヘビのようにのたうち、もつれ合ってころげまわり、女が風のように逃げ走れば、男は悪鬼のように追いすがる。
音楽がさらに一転して狂気の様相を呈するや、ふたりは腰の短剣を抜きはなって、相対した。そして、いっそう狂暴な舞踊がつづき、ふたりのからだが、あるいははなれ、あるいは接するたびごとに、スーッと一筋、また一筋、キツネ色の皮膚にも、純白の皮膚にも、まっかな血潮の川が流れた。
見つめる影男は、この絶妙の趣向に手を打って感嘆した。これまでのあらゆる驚異に、ただ一つ欠けている色彩があった。それは深紅の色であった。血の刺激であった。今、その血が流されようとしているのだ。かれの心臓は、何物かから解きはなされたように、ドキドキとおどりだした。原始人の本能が、かれの体内によみがえり、胸いっぱいの快哉を絶叫していた。
音楽も踊りも狂暴の絶頂に達した。白い女体は、こけつまろびつ逃げまわり、寸隙を見ては、疾風のように男に飛びかかっていった。二本の短剣は空中に切りむすび、いなずまのようにギラギラときらめき、男体、女体ともに、額にも、ほおにも、肩にも、腕にも、乳ぶさにも、腹にも、背にも、腰にも、しりにも、ももにも、全身のあらゆる個所に無数の赤い筋がつき、そこから流れ出すあざやかな血潮が、舞踊につれて、あるいは斜めに、あるいは横に、あるいは縦に、流れ流れて、美しい網目を作り、ふたりの全身をおおいつくしてしまった。
それほど狂暴な踊りにもかかわらず、男も女もうれしそうに笑っていた。傷つけ、傷つけられることが、かれらにとっては最上の歓喜ででもあるように見えた。嬉々として逃げ走り、追いすがり、重なってころがり、抱き合って転々し、しかし、身動きのたびごとに、ふたりの傷はますますふえていった。
もはや、顔もからだも一面の鮮血にぬれて、ふたりは巨大な紅ホオズキのように見えた。まっかに染まった男の顔、女の顔。それが笑っていた。さも楽しげに笑っていた。影男の眼前一尺に近づいて、シネマスコープの大写しになって、赤いよだれをたらしながら狂笑した。赤き血の笑い。赤き血の舞踊。
ふと気づくと、女体のへや全体がゆれうごいていた。影男のよりかかった巨女の臀部も太腿も、生けるがごとくふるえゆらめき、かれは両側の巨大な人肉に締めつけられ、おしつぶされるのではないかと疑った。
突如として、舞台照明さえも、深紅の光に変わった。まっかな中にうす白く見える二つの影が踊り狂った。ふたりの狂笑のデュエットが、へやいっぱいに響きわたった。そして、ついに最後が来た。女が先に倒れ、しばらく物狂わしくうごめいていたが、やがて、動かなくなった。死体のように動かなくなった。男の赤い姿は、その上に重なって倒れた。そして、二、三度立ち上がろうともがいたが、やはりぐったりとなって、かれも動かなくなってしまった。
ふたりの狂笑の余韻も消えて、死の沈黙がおとずれた。舞台照明は消えて、真のやみとなった。影男がよりかかっている巨女のからだも、もはや微動だもせず、あの暖かかった体温さえも急激に冷却し、死人のはだのように冷たくなっていった。
「お客さま、いかがでした」
やみの中から、男の声が聞こえてきた。
「これでおしまいではありません。もっともっと恐ろしい趣向が残っているのです。しかし、そのまえに、ちょっとお話がしたいのです。お客さまもお疲れでしょう。あちらのへやで、何か飲みものをさしあげながら、ゆっくりお話しいたしましょう。では、どうかこちらへ……」
影男は何者かに手をとられた。そして、相手の導くままに、人造女体の丘を踏みこえて、やみの中を、どことも知れず導かれていった。
導かれたのは豪奢な地底の客間であった。近代様式の明るい洋室。家具調度のたぐいもアブストラクトふうの最新様式のものがそろえてあった。影男はその長イスのひじ掛けに身をもたせて、最も安易な姿勢をとり、かれを導いた男は、その向こう側のアームチェアに、行儀よく腰かけた。まったく露出光のない間接照明で、広いへやがいぶし銀のように輝いていた。
その男は四十歳ぐらいに見えた。色白で、よく太っていて、まるまるした顔に、かっこうのよいちょびひげをたくわえていた。口もとが女のようにやさしくて、異常に赤いくちびるをしていた。太いけれど薄いまゆの下の二重まぶたの大きな目が敏捷に動いた。いきな仕立てのダブルブレストの新しい服を着て、ブライヤのパイプを口から離さなかった。
そこへ、まっかな洋服を着た十五、六歳のかわいらしい少女が、いろいろな洋酒のびんを並べた銀色の手押し車を押してはいってきた。
「お好みのものをどうぞ。それから、ここにフィガロ・タバコもございます」
影男は、いわれるままに、エジプトの紙巻きタバコをとり、少女のさし出すライターの火をつけた。それから、ブランデーをつがせて、二口に飲み、おかわりを命じた。タバコも酒も極上の口あたりで、さきほどからの刺激の連続に疲れ果てたからだが、しゃんとするような快感をおぼえた。
「お客さま、いかがでございましたか、わたくしどもの趣向は?」
色白のちょびひげの紳士は、西洋流のゼスチュアで、うやうやしくたずねた。
「すてきです。ぼくはめったに物に驚かぬ男ですが、きょうはかぶとをぬぎました。ほんとうにびっくりしたのです。ところで、あなたがここのご主人ですか。それとも、社長さんというのですか」
影男は少し身を起こして、ブランデーのグラスをテーブルに置いた。
「まずそのようなものです。名まえはわざと申し上げません。お客さまのお名まえも、伺わないことになっております」
「それはわかっています。しかし、この目くらましの秘密について、少しおたずねしてもいいでしょうか。東京の地下に、こんな恐ろしい別世界を現わすのは、いったいどこの国の幻術なのですか」
ちょびひげの男は、ニッコリ笑って、
「それを伺って安堵しました。あなたさまはひょっとしたら、目くらましの種を見破っていらっしゃるのではないかと心配しておりましたが……」
「やっぱり、種があるのですね。ぼくは夢を見せられたのでも、催眠術にかかったのでもありませんね」
「種あかしは、かえって興ざめかもしれません。しかし、わたくしは、あれをごらん願ったあとで、必ずこのへやで種あかしをすることにしております。まやかしの暴利をむさぼらないことを知っていただきたいからです。わたくしとしましては、いまごらん願ったものが自慢なのですが、五十万円の売りものは、実はもっとほかにあるのです。これまでのまやかしの世界は、いわばお景物にすぎません。そのほんとうの売りものについては、あとでお話しいたします。そのまえに、わたくしの発明について、ちょっと自慢話をさせていただきたいのですが……」
「それはぼくも望むところですよ。あれが夢ではなくて、現実だったとすれば、どうしても種明かしが聞きたい。それでこそ満足するわけです。どうか、じゅうぶん自慢話をしてください」
影男は、かたわらの少女に、四杯めのブランデーをつがせて、またひじ掛けによりかかり、ほとんど寝そべった形になって、相手のちょびひげと赤いくちびるを見つめた。
「一口に申せば、パノラマの原理です。お客さまは日本でも明治時代に流行したパノラマ館というものをご存じでしょうか」
「残念ながら、見たことがありません。話に聞いているばかりです」
「実は、わたくしも大正生まれなので、明治時代のパノラマ館というものは見ておりません。物の本で読んでいるばかりです。それによりますと、十九世紀のフランス人が、あれを発明したのです。わたくしは偉大な発明の一つだと信じます。その発明者は、この現実の世界の中に、まったく別の世界を創造しようといたしました。演劇、映画なども別の世界を目の前に見せてくれるものにちがいありませんが、舞台の額縁の中やスクリーンの上だけが別世界で、たとえ見物席を暗くしても、そこに現実世界が残っているのですから、『おしばい』とか『絵そらごと』とかいう感じを払拭することができません。見物たちは心のすみで劇場なり映画館なりの見物席を意識しながら、舞台やスクリーンを見ているのです。そこに架空と現実の混淆があり、純粋に架空のリアルに徹することができません。そういう不純な現実面を完全に取りのぞいてしまおうとしたのが、パノラマ館の偉大な着想だったのです。
パノラマ館はガス・タンクのような円形の建物でした。入り口をはいると、暗いトンネルのような地下道があって、そこをくぐり抜けて階段を上がると、われわれの目から、この東京という現実の世界がまったく消えうせて、そこに別の一つの世界が出現します。地下道から階段を上がったところは、島のようになった狭い見物席です。そこが円形の建物の中心なのです。見物は暗い地下道を通っているあいだに、現実世界と絶縁します。そして、階段を上がって、パッと眼界がひらけたとき、そこに広漠たる別の世界があるのです。東京の現実の町を無視して、見渡すかぎりの大平原や大海原があるのです。小さなパノラマ館の建物の中に無限の空が広がり、はるかに地平線がつづいているのです。
明治時代の日本のパノラマ館は、多くは満州などの戦争のけしきを現わしていました。暗道を出て、パッと眼界がひらけると、そこに満州の広野が無限のかなたまでひろがっていました。かなたの丘には敵の要塞があり、すぐ目の前には日本軍の野砲の列、兵士が砲弾を運び、砲口は火を吹き、煙を吐いています。それが敵の要塞に命中し、そこに火災がおこっています。日本軍の歩兵隊は、砲火の援護をうけて、要塞の丘に進軍し、敵兵団はこれを阻止しようと丘から駆けくだって、そこに白兵戦が起こっています。騎馬の指揮官は縦横にはせまわり、銃剣で刺される兵士、長剣で首をはねられ、その首が中天に舞い上がっている光景、岩石を吹きとばす地雷の爆発、空一面に炸裂する敵味方の砲火、何千という軍人が、見物の目の前で悽惨な戦いをつづけているのです。
小さな円形建物の中に、どうしてそんな大戦場が実現するのか。それには、パノラマ発明者の巧緻なまやかしがあるのです。この光景のバックは円形建物の壁です。そこに真に迫った油絵の風景を描くのです。地平線から上の空は、建物の丸天井につらなり、そこにも青空と雲とが描かれています。見物は、場内のどちらを向いても、地平線がつづいています。そして、頭の上には無限に見える大空がひろがっているのです。
そのころはまだ電灯照明を使うことがむずかしかったので、建物の天井にあかりとりの窓をあけなければなりません。そのあかりとりのガラス窓を隠すために、見物席のすぐ上に、笠のような小屋根を作ったものです。見物にその小屋根の上は見えませんので、建物のドームの空を、少しの裂けめもない真実の大空と錯覚しました。
戦場の数千人の軍人たちのうち、何十かが実物大の生き人形でした。生き人形というのも、今では見られなくなりましたが、明治時代にはそれの名人がいたそうです。キリの木に細かい彫刻をして、胡粉を塗り、みがきをかけて、人はだそっくりの人形を作ったのです。ですから、パノラマ館の人物どもは、ほんとうに生きているように見えたのです。地面にはほんとうの土を敷き、ほんものの樹木を植え、そこに生き人形の人物を配し、それと背景の油絵との境めを巧みにごまかして、絵にかいた人物も、やはり立体的な生き人形と差別がつかぬようにしたのです。ほんものの土と、油絵の土とが、そっくり同じに見えるくふうをしたのです。このくふうによって、狭い円形建物の内部が無限の広野に見え、数十体の生き人形が、油絵の人物と混淆して、数千人の大軍団に見えたのです。
わたくしは、書物によって、そういうパノラマ館の秘密を知りました。そして、このすばらしい原理を応用して、地底に無限の別世界を創造しようと考えたのです。世界のどこのパノラマ館にもなかったような、美の極致を実現したいと念願したのです。そして、四年の歳月と、一億の資金を費やして、それをなしとげました。わたくしは、密貿易によって、一億以上の資産をかせぎためておりました。それをことごとく使いはたしたのです。
これでもうおわかりでございましょう……さきほど、あなたさまがごらんになった無限の大洋は、さし渡し十間あまりの円形パノラマにすぎなかったのです。地底に円形の空洞を作り、その円形の周囲と天井とに、巨大なカンバスを張りつめ、空と海との油絵を描かせたのです。あなたさまの頭の上に、小さな丸い屋根のあったことをご記憶でございましょう。あの上にすべての照明が隠されていたのです。明治時代とちがって、今は自由に電力を使うことができます。ガラス張りのあかりとりなどは、少しも必要がないのです。
むろん、背景の前には、ほんとうの水があります。しかし、それは小さな池にすぎないのです。一カ所だけ海底の谷間のような場所がこしらえてあって、そこに美人の花が咲いているのですが、そのほかは、ごく浅い池なのです。あの美人の花も、無数に咲いているように見えますけれども、ほんとうの人間の花は三つしかないのです。それより底のほうにぼんやり見えていましたのは、ビニールの作りものにすぎません。あの部分には、水の中に隠れた照明があります。その照明のくふうによって、谷を無限に深く見せ、無数の花が咲いているように見せかけてあるのです。
もう一つの美女ばかりでできた山脈も、同じパノラマの原理によるものです。あの円形空洞のさしわたしは、実は七、八間しかありません。ほんとうの女は、六十人にすぎないのです。あとはマネキン人形と、油絵です。その実物と絵との境めが、巧みにごまかしてありますので、数千、数万の女人の山脈に見えるわけです。すべてパノラマの幻術にすぎません……いかがでしょうか。こんなに種明かしをしてしまっては、せっかくの興がおさめになったのではございませんでしょうか」
ちょびひげの社長は、映画俳優アドルフ・マンジューを太らせたような顔に奇妙な微笑を浮かべて、長話を終わった。
「いや、興ざめどころですか。ますます感服しましたよ。ぼくは世間の表面に現われていない裏の秘密をいろいろ研究しているものですが、日本にあなたのような人がおられることは、少しも知りませんでした。地底のパノラマ国の王様というわけですね。いや、驚きました。夢を作り、夢を売るご商売ですね。この世で最もぜいたくなご商売ですね」
影男は真実に感嘆していた。この魅力あるちょびひげの男と親友になりたいものだと思っていた。
「ここをひらいてから、まだ半年にしかなりませんが、あなたさまが十六人めのお客さまでございます。ポンピキじいさんのことばを信用して、五十万円を投げ出すかたが、半年に十六人もあるというのは、わたくしにとっても驚異でございました」
「それにしても、二つのパノラマに百人に近い娘が働いているわけでしょうが、どういうふうにしてお集めになったのです。なみなみの給料では引きとめておくことはできないでしょうが」
「そこにまた、わたくしどもの秘密があるのです。あれらにはじゅうぶんうまいものを食わせ、好きなようにさせていますが、この地下からは一歩も外へ出ることを許しません。親兄弟とも絶縁です。給料も払いません。いわば牢獄にとじこめられているわけですが、不思議なもので、最初はいやがっていますけれど、だんだん慣れるにしたがって、これほど楽しい仕事はないように感じてくるのですね。親を捨て、恋人さえも捨てて、地下の住人になりきってしまうのです。もっとも、ここには何人かの若い男がおります。彼女たちを引きとめておくためのえさなのです。たくましく、美しく、あらゆる愛欲の技巧を会得した不良青年どもです。ひとりで彼女たち五、六人を、なかには十人以上をあやつっているものもあります。ですから、そういう青年は十五、六人でじゅうぶんです。この青年どもは、わたくしの命令には絶対に服従する子分なのです」
「すると、その青年たちが、手分けをして、地上の娘を誘拐してくるというわけですね」
「アハハハハ、その辺はご想像におまかせいたします」
ちょびひげ社長は、女のようなはにかみ笑いをしてみせた。
「最後に見た血の踊りの男役も、そういう青年のひとりなのですか」
「さようです。あれもなかなか美青年でございましょう」
「で、あのふたりは、ほんとうに血を流したのですか。これもパノラマ式の目くらましだったのですか」
「いや、ほんとうに血を流しました。深く切るわけではありませんから、命には別状はありませんが、あれだけの傷が癒えるのには相当の日数がいります。でも、あのふたりは、傷つけたり、傷つけられたりすることが、心から好きなのです。報酬によってやっているのではございません」
社長はそこでことばを切って、奇妙な微笑を浮かべて、影男の顔を見た。そして、少し声を低くして、さも一大事をうちあけるような口調になった。
「さて、さきほど、ちょっと申しあげました最もたいせつなご相談になるのですが、あなたさまは、この女と一日でもいいからいっしょになってみたいというような相手はおありになりませんか。あなたさまのお力で自由になる女ではいけません。非常に好きだけれども、どうしても手出しができないというような人です。大家の箱入り娘、がんこにはねつけているジャジャ馬女、あるいはご友人の奥さま、女社長、女学者、どんな地位の人でも、むずかしければむずかしいほどけっこうです。そういうおかたをひとり思い出していただきましょう。わたくしどもの秘密の手段によって、必ずここへ連れてまいります。そして、あなたさまのおぼしめしにかなうようにいたします」
影男はまたしてもどぎもをぬかれた。ちょびひげ社長の奥底の知れぬ悪党ぶりに驚嘆をあらたにした。
「なるほど、そこに五十万円のねうちがあるというわけですね。むろん、誘拐でしょうね」
「誘拐にはちがいありませんが、けっして手荒なことはいたしません。また、けっして人に気づかれる心配もありません。そこが、わたくしどもの秘密の技術なのです」
「つまり、恋人誘拐引き受け業ですか」
「さよう、恋人誘拐引き受け業でございます。殺人請負業よりはおだやかでもあり、いろっぽくもございますね」
ちょびひげ社長は短い足を組み、腕を組んで、その右手でパイプを口にささえながら、ニヤニヤと笑った。
影男にとっては、今まで見た驚くべき風景だけでも、むしろ安いものに思われたのだが、ちょびひげ紳士は、あんなものは景物にすぎない。五十万は実はこの恋人誘拐の謝礼に引きあてるのだと、サービスぶりを発揮する。
だが、相手が悪かった。名にし負う影男には、「高嶺の花」なんていうものはなかった。かれの字引きには「不可能」という文字がないのだから、どんな女性だって、手に入れようと思えば、必ず手に入れる力を持っていた。また、事実、手にも入れていた。かれはサルタンの後宮にも比すべき数十人の恋人があった。電話一本で、いつでもはせ参ずる美姫の群れを所有していた。そのなかには、普通では絶対に近よることもできないような、高貴、高名の異性も幾人か交じっていた。
「恋人誘拐引き受け業とはおもしろいですね。それなら、五十万は実にやすいもんだ。どんなむずかしい相手でも、即座に誘拐してみせるというのですからね。せっかくですが、ぼくにはその必要がない。ぼくは自分でやるほうがおもしろい。そして、必ずやってみせる技術を持っているのです。だから、実際に誘拐してくださるには及びません。お話が伺いたい。あなたのやり方が聞きたい。それだけでいいのです。つまり、五十万円の権利を放棄する代わりに、最もおもしろそうな実例を一、二お聞かせねがいたいというわけですよ」
影男の恬淡ぶりが、ちょびひげ紳士をびっくりさせた。かれは西洋流に両手を横に広げるゼスチュアをしてみせて、
「これは驚きましたな。わたくしは、あなたさまのお名まえも存じあげませんが、それほどにおっしゃるところをみますと、あなたさまは、その道の大先達でいらっしゃる。もうお話し申しあげるまでもありますまい。とっくにお察しでございましょう」
「なるほど、これはあなたの秘密かもしれませんね。秘密をしゃべってしまっては、五十万円のねうちがなくなる」
「いや、いや、けっして話しおしみするわけではございません。なにごともあけすけに申し上げて、赤心を人の腹中におくというのがわたくしのやり方で、悪事はこれにかぎりますよ。コソコソとないしょごとをやるのは、いわばしろうとでございますからね」
「えらい。やっぱり、あなたとは友だちになりたい。どうです、友だちになってくれますか」
「光栄のいたりです。わたくしのほうからお願いしたいと考えていたところでございます。先生、お手を、ね、お手を!」
ふたりは手を握りあった。ちょびひげの手は女のように白くて、きめがこまかくて、暖かかった。
「では、ぼくからいってみましょうか。あなたの恋人誘拐の秘密を」
「エッ、あなたさまから?」
「いや、具体的にではありません。その骨法をですね」
「はい、伺いましょう。これは聞きものです」
「西洋にこういうおとぎばなしがあります。万能の知恵者がありましてね、王様がお出しになる難題を、次々とやってのけるのです。まったく不可能なことをやってみせるのです。そこで、王様は、ご自分がその上に寝ておられるベッドのシーツを一晩のうちに盗み出してみよ、と仰せになった。すると、知恵者は、女官をぐるにして、お台所でカレーのような黄色いどろどろの液体を作らせ、それをそっと王様のシーツの上にたらさせておいたのです。王様は夜中に目をさまして、腰のあたりがべっとりしているので、驚いてお調べになると、黄色いどろどろです。や、とんだしくじりをやった、臭い臭いと、鼻をつまんで、そのシーツを丸め、窓の外へほうり出された。知恵者はそれを拾って、翌朝、はい、このとおりと、王様にお目にかけるというわけです。すべてこの手ですね。つまり、先方の弱点をつくのです。恋人誘拐の場合は、主として相手の好奇心に訴えるのです。こちらを主人公にしないで、先方を主人公にして、先方から謝礼さえ取れる場合もあるわけですね」
ちょびひげはこれを聞くと、はたとひざをたたいた。
「いや、恐れいりました。それです、それです。先方を主人公にして、先方の好奇心に訴える。一つ一つの細かい手法はいろいろですが、帰するところはそれでございますよ。女優とか芸能人は、いくら有名なかたでも、わけはありません。有名なかたほど好奇心が強いものですからね。ぐっと上流の家庭の奥さまでも、箱入りのお嬢さまでも、好奇心の強いかたは、なんとでも手段があります。苦手は好奇心の乏しいおかたです。そういうおかたは、この地底世界へおつれすることさえむずかしい。これにはまた、まったく別の手段がいるのですが」
「その場合は、お客の男のほうに細工をする」
「エッ、なんとおっしゃいました?」
「たぶんそうだろうと思ったのです。ぼくならぼくをですね、その女の人のご主人なり、恋人なりに化けさせる」
「いや、驚きました。あなたさまはほんとうにわたくしの親友です。カムレードです。さあ、もう一度お手を、お手を」
ちょびひげの柔らかい手が、ギュッと握りしめてきた。豊満な女の手であった。かれはそのまましゃべりはじめる。
「こういう例がございました。ある老年の高位高官のおかたが、ご自分の年の三分の一の若い美しいお嬢さまと再婚なさったことがあります。ここへこられたあるお客さまが、その若い新婦を連れてこいとおっしゃるのです。有名な結婚式から一週間もたっていないのです。それに、新婦になられたお嬢さまというのが、実にしつけのよろしい、封建的な家庭に育ったおかたで、ごくごく内気なおかただものですから、このご要求は難題中の難題でございました。
わたくしは、しかたがないので、お客さまに変装をしてもらいました。つまり、その高位高官のご老人に化けていただいたのです。わたくし、変装術は多年研究しております。特殊の化粧料、かつら、つけひげのたぐいは、ことごとくそろえております。それでもって、お客さまをすっかり変装させたのです。そして、ここから地上世界へつれ出しました。
一方、高位高官のご老人を、有名な宗匠のお茶会に連れ出して、ある手段によって、夜ふけまでひっぱっておいたのです。そして、ご老人になりすましたお客さまを、その晩、お屋敷へ送りこみました。むろん、表門からではありません。裏庭のへいのくぐり戸の錠をはずしておいて、そこからどろぼうのように忍びこませたのです。
これには数人のわき役がいります。お屋敷の女中のひとりも味方についていました。あらかじめ、ご老人とそっくりの声で電話がかかり、『今夜はおそくなるから、若奥さまはさきにやすむように』と伝えてある。やすむまえのお茶に、適量の眠り薬が入れてある。寝室にはぼんやりしたまくら電灯がついているだけです。ね、それでうまくいったのですよ。お客さまはまたこっそり庭のくぐり戸から逃げ出しました。そのあとへ、ほんもののご老人がお帰りになったというわけです。
え、あとでばれたかとおっしゃるのですか。ところが、ばれません。ちゃんとその心理が計算にはいっていたのです。内気な、しつけのよい若奥さまが、死んでもそんなことを口外するものではありません。だまされっぱなしというわけです。若奥さまに生涯の秘密ができたわけです……この世の裏側には、どんなことがあるか、わかったもんじゃございませんね」
ちょびひげは色白の顔をかわいらしくゆがめて、まっかなくちびるでニヤニヤと笑ってみせた。
「なにごとも原理は簡単ですね。しかし、実行がむずかしい。一分一厘の狂いがあっても、たいへんなことになるのですからね。つまりは、まったくすきのない注意力と、才能ですね。あなたにはその才能がおありになる。やはり、天才を要する事業です」
「いや、おほめで恐れ入ります。まったくさようでございますね。大軍を指揮する注意力と才能がいります。そこが楽しいところでございます」
「ここへは、女のお客はありませんか」
「一度だけございました。お金持ちの未亡人で、まだ四十に間のある美しいおかたでした」
「その注文は?」
「有名な俳優とか芸能人は、いつでも思うままになるから珍しくないとおっしゃるのですね。角力とり、スポーツ選手、大学生、そういうものは、なで切りにしているような、おぞましいおかたでございました。そして、おっしゃるには、位人臣をきわめたおかたに、一度会ってみたいとおっしゃるのです。つまり、高官中の高官でございますね。
ところが、女のお客さまの場合は、どんなむずかしそうなご注文でも、こちらとしましては、実にたやすいのです。つまり、相手方を主人公にして、その好奇心をそそり、先方から望むようにしむければ、もう百発百中でございますね。ちょうどあなたさまが、あの白ひげのじいさんの誘いに乗ってここへおいでになったのと同じことです。適当な誘いてを使って、適当に誘惑すれば、偉い人であればあるほど、ひっかかりやすいと申すものです。芸者などが、しろうとの女には思いも及ばない有名なかたを、なんなくものにするというのも、まあ同じ心理によるものでございましょう。その高官中の高官のおかたも、ある宴席からの帰りがけ、酔いにまかせて、わたくしどもの婦人客の望みをかなえてくださいましたですよ」
地底王国の主人公、ちょびひげ紳士は、万能の名医のように、柔和な顔、赤いくちびるにおだやかな笑みをたたえて、じっとこちらの顔を見つめるのであった。
人生の裏側を探検することを生涯の事業とする影男にとって、地底パノラマ国の見聞は最も楽しい経験の一つであった。かれはそこでは、いつものゆすりを行なう気にもならず、地底の主人公のちょびひげ紳士と親交を約して別れをつげ、地上世界に立ち帰った。そして、速水荘吉となって、麹町の高級アパートにはいったが、すると、そこにはいくつもの用件が待ちかまえていたなかに、かれの恋人のひとりである山際良子から、急用とみえて、ひんぴんとしてかれに電話のあったことがわかった。
すぐに良子に電話をかけると、至急にお会いしたい、あなたの喜ぶことだ、今夜、ひとりの娘をつれておじゃまするということであった。それまでに、ほかの緊急な用件をすませておいて、からだをあけて待っていると、約束の七時に、良子ともうひとりの娘とが、やって来た。影男の速水は、ふたりをアパートの客間に請じて、対座した。
良子は富裕家庭の有閑令嬢であった。S大学の大学院に籍を置いている二十四歳のインテリ娘だが、ふとしたことから影男の速水と知り合い、かれの崇拝者となり、恋人のひとりとなったもので、戦後型美貌の持ち主であった。
彼女がつれてきた娘は、富豪川波家の小間使いで、まだ二十を越したばかりの、ういういしい、つつましやかな少女であった。ふたりの娘は長イスにかけ、アームチェアの影男と相対した。
「このかた、千代ちゃんていうのよ。川波良斎、ご存じでしょう。あすこの小間使いなの。あたし、あることで知り合いになって、妹のようにかわいがっているのよ。この人、きょうお昼すぎに、あたしのところへ駆けつけてきて、警察へ届けたものでしょうか、どうしましょうって、泣きだすのよ。聞いてみると、あなたの世界だわ。いつもあなたから頼まれている人世の裏側の、とびきりの事件らしいわ。だから、警察へいうのはあとまわしにして、連れてきたのよ。お聞きになるでしょう」
良子が小間使いを引き合わせておいて、雄弁に説明した。
「それは、よく来てくれた。今夜は何も約束がないから、ゆっくり話が聞ける。川波さんのうちに、何かあったの?」
川波良斎という漢方医みたいな名の男は、戦後成金として世に知られていた。表面は製薬工場主であったが、裏面では何をやっているかわからなかった。長者番付の三十位までにはいるほどの資産家だった。
「川波さんていう人、ご存じ?」
良子がたずねる。
「いや、名まえしか知らない」
「千代ちゃんに聞くと、なんだか気味のわるい人よ。おそろしく執念深い、ヘビみたいな人らしいのよ」
「金もうけの天才には、変わり者が多いね」
「それが並みたいていじゃないらしいのよ。じっと見られると身がすくむような目をしているっていうし、うちの中を歩くのもヘビのような感じで、足音がしないんですって」
「それで何かあったの?」
「なんだかゾーッとするようなことらしいのよ。千代ちゃん、お話ししてあげて」
小間使いの千代は、それまでうつむいていたが、呼びかけられて、ハッとしたように顔をあげた。青ざめた顔に、目だけがギラギラ光っている。
「奥さまが、行くえ不明になったんです。でも、だんなさまは捜そうともなさらないのです」
「奥さまって、どんなかた? いくつぐらい?」
良子がよこあいから口を入れる。
「お若いのですわ。山際さんぐらいに見えますわ、美しい、弱々しいかたです。あたしどもにも、それは優しいかたですわ」
「まあ、あたしぐらいなの? そんなに若いの?」
「だんなさまは、いつも奥さまを嫉妬していらっしゃいました。わたしどもにも、だんなさまのおるす中の奥さまのことを、うるさいほどおききになりますの……ゆうべのことです。奥さまのところへ、篠田さんという男のかたが来られました。奥さまよりちょっと年上の若いかたです。結婚まえからのお友だちらしいのです。だんなさまは、この篠田さんを、いちばん嫉妬していらっしゃいました。篠田さんのうわさが出ると、だんなさまのお顔が変わるくらいでした。
その篠田さんが、奥さまのおへやにいらっしゃるときに、だんなさまが外からお帰りなすったのです。だれが来ているんだってお尋ねになったので、篠田さんですと申し上げると、玄関で、だんなさまのお顔色がサッと変わりました。もう夜ふけだったのです」
千代はおびえた目であたりを見まわしたが、またしゃべりつづける。
「だんなさまは、そのまま着替えもしないで、奥さまのおへやへおはいりになりました。しばらくすると、コーヒーを持ってこいとおっしゃって、さだ子さんが(あたしと同じ小間使いですの)お台所で作って持っていきました。だんなさまと、奥さまと、篠田さんの三人で、長いあいだ、何か話していらっしゃいました。おまえたちはもう寝てもいいとおっしゃるので、わたしたち、やすんでしまいました。別に騒がしいようなことはありませんでした。何かあれば、わたしどもにわかるはずですもの。そして、朝起きてみると、奥さまと篠田さんが、どっかへ行ってしまって、見えないのです。だんなさまにおききしますと、ちょっと旅行をしたのだとおっしゃるのですが、うちじゅうのだれにきいても、おふたりが出発されたことを知らないのです。みんな不思議がっていました。
すると、けさ、妙なことがわかったのです。お屋敷の庭は五百坪もあるのですが、お座敷の前の庭が、裏手のほうにつづいて、その境めは狭くなっているのです。その境めの立ち木に、ずっと綱が幾重にも張ってあるのが見えました。裏のほうにも綱が張ってあって、その中の裏庭へはだれもはいれないようになっているのです。だんなさまは、あの綱の中へはいってはいけないって、こわい顔をして、わたしどもにおっしゃいました。
庭番のじいやにきこうとしましたが、いつの間にか、いなくなっているのです。じいやはきのう、だんなさまのお言いつけで、箱根の別荘の庭の手入れをするために、そちらへ行ったのだというのです。
わたし、不思議でたまらないものですから、そっと綱のところへ行って、向こうのほうをのぞこうとしました。でも、木が茂っていて、なにも見えないのです。そのとき、茂みの中に、サーッという音がしました。なんだか大きなヘビが、こちらへやって来るような気がしたんです」
千代はそこでちょっとことばを切って、そっとうしろを見た。その辺に怪しいものが隠れてでもいるような、恐怖のしぐさだった。
「すると、不意に、そこへだんなさまの姿があらわれたのです。そして、じっと、わたしをにらみつけていらっしゃるのです。そのお顔! ほんとうに、人間のヘビのようでしたわ。何もおっしゃらないで、じっとわたしの顔をみつめていらっしゃるのです。青ざめた顔に、目だけがウサギのようにまっかでした。口が半分ひらいて、牙のような白い歯が出ていました」
「ご主人には、そんな牙のような歯があるの?」
「いいえ、そう見えたのです。ほんとうに牙があるわけではないのです……わたし、みいられたようになって、からだがしびれてしまって、声をたてようとしても出ないのです。しばらくそうしていました。だんなさまは何もおっしゃらないで、ただじいっとこちらを見つめていらっしゃるばかりです。気がちがったのじゃないかと思いました。わたし、死にものぐるいで、やっと、あとじさりに歩くことができました。そして、おもやのほうへ駆けだしたのです。
それから一時間もたったころ、わたしどもみんなが、お座敷へ呼ばれました。そこにヘビのようなだんなさまがすわっておいでになったのです。そして、今夜わたしは長い旅に出るから、おまえたちみんな暇をやる。夕がたまでにここを出ていくようにとおっしゃって、それぞれお手当をくださいました。ですから、みんなお暇をいただいたのです。わたしは、うちに帰るまえに、山際さんのところへ行って、ご相談しました。警察へ届けたものでしょうか? って」
「そういうわけなのよ」良子が引きとって、「それで、警察へ届けるまえに、いちおうあなたのお耳に入れておくほうがいいと思って」
「ほかの召し使いたちはどうだろう。だれかが警察へ行きゃしなかっただろうか」
「いいえ、そういうことをした人はないと思います」千代が答える。「だんなさまのこわい姿を見たのはわたしだけで、わたしはだれにもそのことをいわなかったのです。みんな、だんなさまがとっぴなことをなさる癖は、よく知ってました。また始まったぐらいに思っているのですわ。それに、お手当もたくさん出たものですから、だれも不服をいうものはなかったのです。みんな喜んで、うちへ帰っていますわ」
「店もあるだろうし、工場もあるんだろう? そのほうはどうしたのかしら?」
「よく知りませんけど、店や工場はそのままだろうと思います。両方とも主任のかたがいて、だんながおるすでも、ちゃんとやっていけるのですもの」
「よし、わかった。あんたは、ともかくうちへお帰りなさい。きみもひとまず引き揚げてくれたまえ。あとはぼくにまかせておけばいい。あ、それから、川波さんのうちの見取り図をここへ書いておいてください」
影男の速水は、テーブルに紙をひろげて、千代に鉛筆を渡した。彼女が考え考え、見取り図を書き終わると、速水は要所要所の質問をして、屋敷のもようをすっかり頭に入れてしまった。
「これでよし。さあ、ぼくは忙しくなるぞ。いろいろ準備がいるからね。じゃあ、ふたりとも、さようなら」
かれはニコニコして立ち上がった。千代がさきに、良子はあとからドアを出たが、そのとき、影男は、千代に知られぬように、良子の腰に手を回し、すばやい接吻をかわすことを忘れなかった。
その夜一時、川波家の庭園に、黒い影が動いていた。月も星もないまっくらな夜だった。黒い影はへいをのりこしたらしく、夜の木立ちのあいだをくぐって、裏のほうへ回っていった。そのものは、黒の覆面で頭部全体をおおい、二つの目と口のところだけに、穴があいていた。からだには、ぴったりくっついた黒のシャツと、ズボン下を着て、黒い手袋、黒いくつ下、黒いくつをはいていた。いうまでもなく、やみ夜の保護色を装った影男である。
庭園には大小の樹木が森のように茂っていた。二カ所ほど常夜灯がついているけれど、木の葉にさまたげられて、遠くまで光は届かない。黒い影は、そのやみの中を、忍術使いのように、ちろちろと消えたり現われたりしながら、綱をめぐらした裏庭へはいっていった。
裏庭には樹木にかこまれた十坪ほどのあき地があった。この辺は座敷から見えないので、手入れが行き届かないのか、一面に雑草がはえていた。
影男は一本の太い木の幹にかくれて、その雑草のあき地をじっと見つめた。常夜灯の光はほとんど届かないが、目が慣れるにしたがって、曇り空にもほのあかりがあるので、地面が見わけられるようになってきた。
そこにはえているのは、二、三寸の短い雑草ばかりだったが、その平らなあき地に、二つの丸い大きな石ころがころがっていた。よく見ていると、その石ころが、生きもののように、かすかに動いていることがわかった。
影男は木の陰にしゃがんで、二つの石ころに目を凝らした。石ころには目と鼻と口とがあった。一つは男の顔、一つは女の顔をしていた。男のほうは、もじゃもじゃに乱れた髪の下に、濃いまゆと、大きな目と、彫刻のような鼻と、くいしばった口があった。女のほうは、カールの髪が乱れて、顔にかかっていた。ゾッとするほど美しい顔だった。やみの中にも、彼女の顔だけが白く浮き出しているように見えた。
二つの首は一間ほどへだたって向かいあっていた。男は二十七、八歳、女は二十四、五歳であろうか、夜目のためにそう見えるのか、珍しいほどの美男美女だった。不思議な地上の獄門であった。切断された二つの首が、そこにさらしものになっているのかと思われた。だが、それにしては、かすかにうごめいているのは、なぜであろう。胴体から切り離されても、残る執念のために、まだ死にきれないでいるのだろうか。
二つの首は、向き合って、お互いの顔をじっと見つめているように見えた。何かものいいたげであった。しかし、双方とも口はきけなかった。四つの目は、千万無量の意味をこめて、見つめ合っていた。
影男は上半身を前に出して、二つの首と地面との境を凝視した。首のまわりには草がはえていない。地面が露出している。首と土との境めは、どうも切断された切り口のようには感じられなかった。血も流れているようではなかった。
ああ、なんという残酷な刑罰だ! さすがの影男も、その着想のむざんさに、がくぜんとした。それは生き埋めであった。そうとしか考えられなかった。姦夫姦婦をはだかにして、庭にうずめたのだ。そして、首だけを地上に残して、お互いにながめ合えるようにして、かれらの恐怖を最長限に引き延ばそうとしたのだ。
だが、かれらはなぜ叫ばないのであろう。いくら広い邸内といっても、大声をたてれば付近の家や道路に聞こえないこともなかろう。そして、だれかが救い出してくれるかもしれないのだ。それを、あんなにだまりこんでいるのは? ああ、わかった。外からは見えぬが、口の中に布ぎれか何かが丸めて押しこんであるのだろう。それを吐き出す力がなくて、口がきけないのであろう。
影男はいまにも木陰から飛び出していって、地面を掘りおこし、ふたりを助けようとした。そして、一歩踏み出そうとしたとき、向こうの茂みが、サーッと音を立てた。風ではない。大きなヘビのようなものが近づいてくる音だ。小間使い千代のことばを思い出した。ヘビではない、この屋敷の主人川波良斎が、深夜仇敵をこらしめるために、忍びよってきたのにちがいない。
かき分けられた茂みに、薄黒い人の姿が現われた。茶っぽいネルの寝巻きを着た四十男だ。影男はすばやく木の幹に隠れたし、やみの保護色に包まれているので、相手は少しも気づかない。かれはのそのそと二つの首に近づいてきた。見ると、手に妙なものを持っている。大きな鎌だ。もう一つは大きな草刈りばさみだ。鎌は普通の倍もあるような巨大なもので、そのとぎすました半月形の刃が、やみの中でも白く光っている。草刈りばさみのほうも、それに劣らぬ大きさで、長い木の柄がつき、二つに割れたはさみの先が、二本の出刃包丁のように光っている。
こいつは気ちがいだ。妻の不義に目がくらんで、気がちがったのだ。あの鎌とはさみで、地上にはえた二つの首を、草でも刈るように、ちょん切るつもりかもしれない。
しかし、すぐには切らなかった。あまり早くやってはもったいないという様子で、二つの光る道具を見せびらかしながら、首と首との中間にうずくまった。
「ウフフフフ」
気味のわるい笑い声が、ヘビのように地面をはっていった。
「これを見たかね」
そういって、二つの首切り道具をガチャガチャといわせた。三本の青白い刃が草の上にきらめいた。
「だが、まだ殺さない。おれの恨みは、もっと深いのだ。きさまたち、ここへうずめられるときには、気を失っていた。ゆうべ女中が持ってきたコーヒーに、おれがそっと眠り薬を入れておいたからだ。きさまたちは、おれがここへ穴を掘ってひとりずつうずめてしまうまで、ぐったりとして、何も知らないでいた。気がつくと、からだ全体が、重い冷たい土で締めつけられているのを知って、驚いただろう。目の前に恋人の首がある。え、きさまたち恋人だからね。主人の目を盗んで、ちちくり合った恋人どうしだからね。お互いの顔がよく見えるようにしておいてやった。そうすれば、きさまたちのこわさ苦しさが二倍になるのだ。ウフフフフフ、ざまあ見るがいい。なんてかっこうだ。きさまたち、かわいそうに、首だけになっちまったじゃないか」
ふくしゅうの鬼はヘビのように、自分の首をニューッとのばして、男の首の前に近づけた。顔と顔とが三寸の近さでにらみ合った。
「やい、なんとかいえッ! その目はなんだ。くやしいのか。口をモグモグやってるな。おれのさるぐつわは、そんなことで取れるものじゃないぞ。こら、よくも、おれの目を盗んで、おれの命から二番めの女を横取りしやがったな。ちくしょうッ、思い知ったかッ!」
かれはいきなり立ち上がると、げたばきの足で、ゴツン、ゴツンと、男の首の額のあたりをけりつけた。逃げることも、叫ぶこともできない植物のような首は、ただ目をつむって歯を食いしばっていた。おそらく、皮膚が破れて、血が流れたことであろう。額からほおにかけて、一面に黒くなっているのが、かすかにながめられた。
狂人川波は、次に女の首に近づいた。やっぱりヘビのようにぶきみに首をのばして、顔と顔とがくっつくばかりにした。
それを、うしろから、半面黒あざになった男の首がにらんでいた。今は目を飛び出すほどもひらいて、憎悪に燃えてにらんでいた。その眼球が血を吹いて、サッと川波の首筋へ飛びついていくかと怪しまれた。
「やい、美与子、虫も殺さぬ顔をしてやがって、よくもおれを裏切ったな。昔からいう憎さが百倍というやつだ。もう未練はない。ちっともないぞ。ウフ、泣いてるな。まるで、噴水のように涙がわき出るぞ、いい気味だ。やい、その目はなんだ。いまさら哀願するのか。おれに媚を売るのか。売女め。うん、きさまが泣くとかわいい顔になる。どうだ、接吻してやろうか。そこにいる男の目の前で、熱烈な接吻というのをしてやろうか。きさま、それにこたえるか」
狂人の顔が女の首に密着した。両手をついて、地面に腹ばいになって、ほんとうに巨大なヘビのかっこうで、女のくちびるをむさぼった。くちびるとくちびるとがぬめぬめと交錯した。
「ふふん、やっぱり媚びてやあがる。くちびるでおれをごまかそうとしてやあがる。それほどいのちが惜しいのか」うしろをふりむいて、「おい、篠田、見たか。この女はおれに接吻を返したぞ。くちびるで、ほんとにおれが好きだったといっているぞ。ざまあ見ろ。女ってこんなもんだ。だが、おきのどくだが、そのくらいのことで、おれの虫は納まらないぞ。殺してやるのだ。ふたりともぞんぶんにいじめたうえで、殺してやる。鎌とはさみで、雑草のように、その首を刈りとってやる。そして、二つの首は離ればなれに地中深くうずめて、その上からコンクリートを流してやる。コンクリートの池を造るのだ。きさまたちの首は、池の下で、ウジムシにくわれるのだ」
狂人はそれだけしゃべると、いくらか虫が納まったのか、しばらくだまりこんでいたが、ゆっくりと立ち上がった。そして、そこにほうり出してあった大鎌を拾いとった。
曇り空の薄あかりが、巨大な鎌をふるう死に神の姿を映し出した。刃わたり二尺もある大鎌が、あのとぎすました刃が、青白くきらめき渡った。狂人はそれを縦横に振りまわしているのだ。振りまわすたびに、風を切る音がピューンとものすごく聞こえ、鎌の刃はプロペラのように輝いた。
「さあ、覚悟をしろ。いまきさまたちの首を、この鎌でちょん切ってやるからな。ワハハハハハ、首が宙に舞い上がるぞ。サーッと血の噴水だぞ。どっちを先にちょん切ろうかな。篠田! きさまだッ。美与子はよく見ていろ。おまえの大好きな男の首が、宙に飛ぶんだ。それから、それから、ゆっくりと、おまえのほうを料理してやるからな」
執念の鬼と化した川波良斎は、夢中に毒口をたたきながら、大鎌をクルクルと頭上にふりまわした。その巨大な刃が、遠くの常夜灯のにぶい光を受けて、キラキラとものすごくきらめいた。
そのとき、あわや大鎌が篠田青年の首に向かってふりおろされるかと見えたとき、とほうもない奇怪事がおこった。
大鎌が良斎の手をはなれて、ふわふわと宙に浮いたのである。まるで生あるもののように、やみの大空に向かって、スーッと昇天したのである。
良斎はびっくりして、両手をひろげて、大鎌に飛びつこうとしたけれど、及ばなかった。鎌はあざ笑うように、ひょいひょいと空中におどった。「ここまでおいで」と、気ちがい良斎をバカにした。
神が残虐殺人者を罰しているのかもしれない。広い庭園の木立ちに包まれたあき地、空には星もないやみ夜、遠くの常夜灯のほのあかりの中に奇跡がおこったのだ。しかし、気ちがい良斎には神を恐れる心もなかった。妻を奪われたふくしゅうにこりかたまり、恐れを感じている余裕さえないように見えた。かれは昇天する鎌はあきらめて、地上に投げ出してあった第二の武器を取ろうとした。巨大な草刈りばさみを取ろうとした。
すると、不思議、不思議、その草刈りばさみが、また、ひょいひょいとおどりだしたのである。おどりながら、スーッと空中にのぼっていく。
「ちくしょうめ、ちくしょうめ!」
良斎はのろいの叫び声を発した。おどり上がった。草刈りばさみをつかもうとして、気ちがい踊りを踊った。だが、空中の大ばさみは、キラキラ光る二枚の刃をチョキンチョキンと動かしながら、あざ笑っている。空中を左右に浮遊して、いまにも手が届きそうになると、ひょいと飛び上がる。また下がってきて、スーッと昇天する。
気ちがい良斎の気ちがい踊りが、はてしなくつづいた。地上の二つの首も、この不思議な光景を、驚きの目で見つめていた。
やがて、大鎌も草刈りばさみも、思うぞんぶん良斎をからかったあとで、ついにやみの空中に消え去ってしまった。良斎は地上にしりもちをついて、ぐったりとなっていた。気ちがい踊りに疲れはてたのだ。
すると、そのとき、またしても不思議なことがおこった。やみの木立ちの中に、一匹の巨大なクモが現われたのだ。
全身まっくろで、目と口のところだけ三角の小さな穴があいている。手足は四本しかない。そいつが立ち上がって、歩いているのだ。手から黒い糸がくり出される。おしりではなくて、手の中からクモの糸が出る。その糸で、気ちがい良斎のからだを、グルグルまきつけているのだ。
良斎はしりもちをついたままぼんやりしていたので、やみの中の黒い怪物を見わけることができなかった。二本足で立ち上がった巨大なクモが、かれのまわりをグルグル回っているのを、少しも気づかなかった。
そのうちに、良斎のからだが、グイグイと、一方の大きな木の幹のほうへひっぱられていった。黒い絹糸のようなもので、かれのからだを十重二十重にまきつけて、それで木の幹のほうへひっぱられるので、痛さに、知らず知らずじりじりとそのほうへいざっていく。そして、ついには、太い幹にしばりつけられたかっこうになってしまった。
巨大なクモと見えたのは、全身まっくろな衣装をつけ、頭部も黒覆面で包んだ影男であった。かれは川波の屋敷に忍びこんで、二つの首の怪事を見ると、すべての事情を察して、やみの木陰にかくれていた。そこへ気ちがい良斎が大鎌と草刈りばさみを持って現われたのだ。影男はその大鎌と草刈りばさみの柄に、そっと黒い絹糸を結びつけておいて、その糸玉を持って、そばの大木の上によじのぼり、その上から、絹糸で二つの武器をつり上げたのだ。
強くて太い絹糸にはさまざまの用途がある。影男は隠形術七つ道具の一つとして、長い糸玉をいつも身につけていた。それが、この暗中奇術の役にたったのである。
かれは二つの首切り道具を樹上に隠してしまうと、スルスルと幹を伝い降りて、こんどは絹糸の玉を持って、しりもちをついている良斎のまわりをグルグル回りはじめた。そして、良斎のからだに絹糸を巻きつけ、それを木の幹のほうへグイグイと引きしめて、とうとう幹にしばりつけてしまった。
「ワハハハ、どうです、このクモの糸は。絹糸でも何十回と巻きつければじょうぶなものですよ。川波さん、もうあきらめるんですね。ふたりを助けてやりなさい。土埋めにして、これだけ苦しめたら、もうじゅうぶんですよ」
影男は、そのまっくろな姿で、良斎の前に立ちはだかっていた。
やみの中の黒坊主だから、なかなか見わけられない。しかし、そいつが人間の声でしゃべったので、良斎にもやっと事情がわかってきた。
「き、きさまは、いったい、何者だッ」
気ちがいの声でどなりつける。
「あんたとは一度も会ったことはない。見ず知らずの他人だが、これはほうっておけなかった。いくら不義を働いたからといって、あんまりかわいそうですよ。まあ、助けてやることにしましょう。それについてね、あんたに相談があるんだが、このふたりに当座のこづかいと、ぼくに口止め料がいただきたい。あんたの小切手帳と実印のあるところを教えてください。ぼくが取ってきますよ」
「いやだ。きさまなどに金をやるような義理はないッ」
良斎は、まだ自由になっている両手をむやみにふりまわして、どなり返した。
「義理はないかもしれないが、そうしないと、あんたの身の破滅なんだ。わかりませんか。もし、小切手帳のありかを教えなければ、ぼくはこのまま警察へ届けますよ。そうすれば、あんたは殺人未遂罪だ。とらわれの身となるんだ。川波良斎が捕縛されたとなれば、世間は大騒ぎですよ。そして、あんたの信用はゼロになって、商売も何もできなくなる。どうです。それでもかまいませんか。それよりも、あり余る財産を少しばかり減らしたほうが得じゃありませんかね。よく考えてごらんなさい」
ふくしゅうの鬼となった気ちがい良斎でも、利害の観念は失っていなかった。しばらくだまりこんで考えていたが、
「わかった。すると、きみは今夜のことはだれにもいわないというんだね」
と、念をおした。
「もちろんですよ。小切手帳に適当な金額さえ書いてくださればね。さあ、小切手帳のありかです」
「小切手帳も実印も、書斎の金庫の中だ」
「書斎は知ってます。で、金庫の暗号は?」
「み、よ、こ、だ」
「み、よ、こ、ああ、ここに埋められているあんたの奥さんの名ですね。それほど愛していたのですね。いや、無理はない。無理はないが、これほどにすることはないでしょう。それに、このふたりを殺せば、いつかは発覚する。あんた自身が死刑にされる。そんなバカな取り引きはおよしなさい。日がたてば忘れますよ。奥さんは好きな男にやってしまいなさい。あんたの金力なら、かわりの女は思うままじゃありませんか。では、しばらく待っていてください。なわをかけさせてもらいますよ。絹糸だけでは、逃げられる心配がありますからね」
影男はどこからか一本の細引きを取り出して、良斎を厳重に木の幹にしばりつけ、両手も動かないようにしてしまった。そして、すばやくやみの中へ消えていったが、しばらくすると、いろいろな物をかかえてもどってきた。埋められているふたりの衣類、シャベル、それからポケットに小切手帳と実印と万年筆。衣類とシャベルを地上に置くと、良斎のなわを少しゆるめて、両手を自由にしてやったうえで、懐中電灯を照らしながら、小切手帳と万年筆を突きつけた。
「ぼくが代筆をしてもいいが、やっぱり、あんた自身で書くほうが安心でしょう。洗いざらいもらおうとはいいません。あんたの財産のほんの何十分の一でいいのですよ。今、金庫の中の当座預金通帳を見てきたが、五百万円あまり残ってますね。そのうちの二百万円でよろしい。このふたりに百万円、ぼくに百万円です。安いものでしょう」
良斎は小切手帳を手に取ろうともせず、だまっている。
「アハハハハハ、二百万が惜しいのですか。それとも、このふたりの命を助けたうえ、金までやるのがくやしいというのですか。だが、よく考えてごらんなさい。このふたりは生活能力がないのです。このままほうり出したら、やけになって、あんたを警察に訴えるかもしれない。その口ふさぎですよ。楽な生活ができれば、恨みも忘れようというものです。これもみんなあんた自身の安全をはかるためだ。そう思えば安いものじゃありませんか、さあ、署名をしてください。金額は二百万円です」
良斎は金もうけの達人だから、利害の打算は早かった。いわれてみれば、けっきょくそのほうが得だと考えたのであろう。しぶしぶ小切手帳を手に取ると、金額を書き入れ、署名をした。
影男は、それに捺印して、その一枚を切り取ると、実印と小切手帳と万年筆を良斎のふところにねじこみ、また細引きを厳重に縛りなおして、身動きもできないようにしたうえ、手ぬぐいを取り出して、さるぐつわまではめてしまった。
「このうち百万円は、たしかにふたりに渡します。そして、今夜のことは水に流すように申しつけます。けっしてご心配には及びません」
影男はそれからシャベルをふるって、土を掘りはじめた。そして、三十分あまりで、はだかのふたりを土の中から救い出すことができた。ふたりがからだをふいて、そこに置いてあった服を着おわり、いよいよ立ち去ろうとするとき、影男は良斎にこう言いのこした。
「じゃ、ふたりはぼくが引きうけました。どこかに住まいを見つけて、百万円を渡し、当分楽に暮らせるようにしてやります。あんたは、しばらく、そうしてがまんしていてください。あす銀行から、この二百万円を引き出したあとで、だれかをここへよこします。この者があんたのなわを解いてくれるでしょう。そのとき、どろぼうがはいって、しばられたとうそをいうのですよ。そうしないと、かえってあんたが不利になる。わかりましたね。あすの午前までのしんぼうです。じゃ、さよなら」
そして、まっくろな怪物は、篠田青年と美与子を引きつれて、やみの中をいずこともなく消えていった。
影男は約束をたがえなかった。その翌日午前十時、ひとりの浮浪者のような男が、川波家の庭にはいってきて、なわを解いてくれた。
「きみはゆうべの男の手下かね」
さるぐつわがとれたとき、良斎の口から最初に出たことばはそれであった。
「手下だって? ぼくはそんなもんじゃありませんよ。この先の銀行の前で日なたぼっこをしていると、変なやつが来て、五百円くれたんです。このうちへ行って、門はあいたままになっているから、裏庭へ行くと、寝巻きを着たここのうちのだんなが、木にしばられているから、なわを解いてやれっていうんです。そうすりゃ、たんまりお礼がもらえるからってね。それで、やって来たんですよ」
良斎は立ち上がって苦笑いをした。あの黒いクモみたいな男は何者だろう。なんて抜けめのないやつだ。
「そうか。そりゃありがとう。じゃ、こっちへ来たまえ。お礼をあげるから」
良斎は家にはいって、数枚の紙幣を持ってきて、男に与えた。愚かものらしいその男は、深くも疑わず、それ以上の欲も出さないで、そのまま帰っていった。
それから数日のあいだ、良斎は悶々として楽しまぬ日を送った。雇い人を全部追い出してしまったので、会社に電話をかけて、家政婦をふたりよこすように命じ、やっと食事にありついたが、気分がわるいからといって、会社へも工場へも行かなかった。客もみな断わって、ひと間にとじこもり、酒ばかり飲んでいた。
すると、五日ほどたったある日、取り引き銀行の支店長がたずねてきた。おり入ってお話があるというので、利害関係のあることだから、追い帰すわけにもいかず、応接間に通させておいて、行ってみると、見も知らぬ小男が、大きなアームチェアにちょこんと腰かけていた。
「あなたは……? 支店長が替わられたのですか」
良斎が不審顔に尋ねると、小男はイスから立って、ニヤニヤ笑いながら、おじぎをした。
「非常に重大な用件で伺ったのです。じつは、わたしはこういうものです」
といって、名刺をさし出した。受け取ってみると、それにはギョッとするような肩書きが印刷してあった。
読者はご存じの名まえである。いつか影男が人工底なし沼の殺人技術を教えてやったあの殺人会社の須原正であった。しかし、良斎はそういう不思議な会社の存在をまったく知らなかったので、こいつ精神病者ではないかと、びっくりして相手の顔を見つめた。
「いや、お驚きはごもっともです。いきなりこんな物騒な名刺をだれにも出すわけじゃありません。銀行支店長の名をかたったりして、あなたに追い帰されては困ると思いましてね。その予防策に、ちょっとお驚かせしたのです。しかし、この名刺はでたらめじゃありません。わたしは、こういう会社を経営しておるのです。たぶん、あなたはこんな事業に興味をお持ちになると思いますが……」
小男の須原は、いつかと同じ黒い服を着ていた。サルのような顔をした風采のあがらぬ男だ。そのサルの顔で、ニヤニヤ笑いながらいうのである。
「殺人請負会社というのは、つまり人殺しを引き受ける会社という意味ですか」
良斎はあきれた顔で聞き返した。ズバリとそんな名刺を出した大胆不敵さに、まだ納得ができないのだ。
「そうです。料金をいただいて、人殺しを請け負うというわけですよ」
ますます恐ろしいことをいう。やっぱり気ちがいではないのかしら。
「で、わたしがそういう会社に興味を持っているというのは?」
良斎はむずかしい顔をして、相手をにらみつけた。
「アハハハハ、それはもう、蛇の道はヘビですよ。わたしは五日ばかり前の晩の、ここのお庭でのできごとを、何もかも知っているのです。だからこそ、お伺いしたのですよ」
良斎はこんどこそ、ほんとうにギョッとして、思わず顔色が変わった。しかし、さりげなく、
「ここの庭で、どんなことがあったというのです?」
「いや、お隠しになることはありません。わたしはすっかり知っているのです。それに、他人に漏らすようなことはけっしてありません。わたしの会社としては、だいじな財源ですからね。あなたは大きなおとくいさまになられるかたですからね。しかし、ただこう申しても、ご信用がないかもしれません。では、わたしがどれほど知っているかということをお話しいたしましょう。
あなたは、奥さんと、奥さんの情人とを、庭の土の中へ生き埋めになさった。そして、首だけを土の上に出しておいて、大きな鎌で、その二つの首を刈り取ろうとなすった。ところが、そこへ不思議な人物が現われた。黒い覆面をして、まっくろなシャツのようなものを着たやつです。あなたはそいつに縛られてしまった。そいつは土に埋められていたふたりを助け出して、どこかへ連れ去ってしまった。どうです。これだけいえば、もうご信用くださるでしょうね」
良斎はそういわれても、まだ相手を信用する気になれなかったので、だまっていた。小男須原はしゃべりつづける。
「もう一つ、わたしはあなたのご存じないことまで知っています。それは、あのとき、あなたをひどいめに会わせたまっくろな怪物の正体です……」
「エッ、きみはそれを知っているのですか?」
良斎は思わず聞き返した。須原は相手の驚きを見て、それ見たことかと、いっそうおちつきはらって、
「あれは恐ろしい男です。名まえを五つも六つも持っていて、変幻自在の奇術師です。自分では悪事を働きませんが、犯罪者をゆすって、そのうわまえをはねるというすごい男です。つまり、世の中の裏側を探検して、ばくだいな金をもうけ、またそれを材料にして、一つの変名で小説まで書いているのです。まず天才でしょうかね。実は、わたしの会社も、あの男の知恵を借りて仕事をしたことがあるのです。ちょっと残酷なふくしゅう殺人でしたがね。あの男はその案を授けておきながら、こんな残酷なことはいやだといって、われわれから離れていきました。惜しいことに、真の悪人ではないのですね。しかし、われわれの会社としては、いろいろな意味で注意すべき人物ですから、できるだけかれの情報を手に入れる努力をしているのです。あなたの事件にかれが関係したことは、そういうわけで、われわれも知っているのですよ」
須原は何もかも正直にぶちまけて語ったが、むろんそれは、かれが善人だからではない。真の悪人というものは、この人ならばだいじょうぶという見通しをつけた場合は、まるでお人よしのように、隠しだてをしないものだ。こういう話し方をするからには、かれは川波良斎が必ず会社の依頼人になるという確信を持っていたにちがいないのである。
良斎も商売上の取り引きにかけては、わかりの早いのを自慢にしているほどの男だから、ここまで聞けば、もうちゅうちょすることはないと思った。須原というサル面の小男は、見かけによらぬ大胆不敵な悪党で、信頼するに足るという感じがしてきた。
「それで、きみがきょう、わたしをたずねてくださった意味は?」
わかりきったことを、わざと尋ねてみた。
「この際、殺人請負業者にご用がおありだと思いましてね」
相手もすましている。
「そんなにやすやすとやれますか」
「相手によって、むろん難易はあります。しかし、わたしどもの会社は、いまだかつて、途中で手を引いたことはありません。必ずなしとげるのです。しくじれば、われわれ自身のいのちにかかわるのですからね。また、万一われわれが逮捕せられるようなことがありましても、そして、たとえ死刑の宣告を受けようとも、けっして依頼人の名は出しません。その保証がなければ、この商売はなりたちません。大枚の報酬をいただくのですから、それは当然のことですよ」
「大枚の報酬というのは、いったいどれほど……」
良斎はなにげなく尋ねたが、その目にしんけんな色がちらっときらめいた。
「それも場合によります。仕事の難易と、依頼者の資産から割り出すのです」
「すると、わたしの場合は?」
たとえドアの外で家政婦が立ち聞きしていたとしても、ふたりの声はけっして聞きとれないほどの低さであった。
「篠田ですか、美与子夫人ですか」
「両方です。そのほかにもうひとりあります」
「あのまっくろな怪物ですか」
「そうです。あいつは、いったい、なんという名まえなんです」
「わたしにもわかりません。わたしが会ったときには佐川春泥という小説のほうのペン・ネームを使っていましたが、そのほかに速水荘吉、鮎沢賢一郎、綿貫清二など、いろいろの名を持っています。住所もそれぞれ違いますし、名によって、顔つきまで変わってしまうのです。変装の名人です」
「そんなやつが、きみの手におえますか。それに、その男はきみの会社の顧問のようなことまでやった関係がある。それでもやっつけることができるのですか。商売上の徳義というものもあるでしょう」
それを聞くと、小男はニヤリと笑った。ふてぶてしい笑いだった。
「あいつは、先方からわれわれを捨てて逃げたのです。今は何の縁故もありません。ああいうやつを敵に回せば、おおいに張り合いがあるというものですよ」
「それで、報酬は?」
「三人ともこの世から消せばいいのでしょうね。そして、それがあなたにはっきりわかればいいのでしょうね。消し方についての特別のご注文はないのでしょうね。それによって報酬がちがってくるのです」
「注文をつけないとしたら?」
「あの黒い怪物だけは別です。普通の場合の数倍いただかなければなりません。最低二千万ですね。ほかのふたりは、三百万円ずつでよろしい。むろん、仕事が成功して、その結果をあなたが確認したあとで、お払いになるのです。着手金などはいただきません」
「あとになって支払わない場合はどうなさる?」
「ハハハ、それは少しも心配しません。依頼者その人を消してしまうからです。つまり、いのちが担保ですよ。どんなばくだいな報酬でも、いのちには替えられませんから、けっきょくは支払うことになるのです。今までにもそういう例がいくつかあります。この事業は、けっして報酬を取りはぐる心配がないのです」
かれらのあいだの丸テーブルの上には、良斎がさっきからちびちびやっていたウイスキーびんとグラスがあったが、良斎はそのとき、立っていって、飾りだなからもう一つグラスを出してきて、須原の前に置いた。
「一杯いかがです」
と、びんの口をとると、小男は舌なめずりをして、グラスを手にした。
「目がないほうです。しかし、このグラスなら三杯ですね。それ以上はやりません。酔うからです。酔っては商談にまちがいがおこります」
「じゃ、乾杯しましょう」
二つのグラスがカチンとぶっつかり合った。
「ご依頼しました。三人とも消してください。そして、その確証を見せてください。幾日ほどかかりますか」
「ふたりは一カ月もあればじゅうぶんです。しかし、あの黒いやつは、その倍も見ておかなければなりません。まず全体で二カ月というところでしょうね」
「よろしい。それじゃ約束しましたよ」
良斎はそういって、ぐいとウイスキーを飲みほすと、さも楽しそうに笑いだすのであった。
篠田昌吉と川波美与子のふたりは、あの晩は覆面の男の麹町のアパートに一泊して、その翌日、百万円を預金通帳にしてもらって、それを受け取ると、黒覆面の世話で、その日のうちに、墨田区吾嬬町の小さなアパートにひと間を借りた。篠田青年はそれまで渋谷のアパートに住んで、丸の内の東方鋼業に通勤していたのだが、そのアパートを引きはらって、行く先も告げず移転した。会社も無断でやめてしまった。
良斎の執念深いふくしゅうを避けるためである。覆面の男は、速水荘吉と名のった。あの晩、川波邸から二、三町はなれた町かどに自動車が待っていて、三人でそれに乗りこむと、男は覆面をとり、クッションの下から変装用の大カバンを引き出して、車内でセビロを着た。覆面の怪物がりっぱな青年紳士に早変わりをしたのだ。そして、速水荘吉と名のり、ふたりをひとまず麹町のアパートへ連れていったのだ。
吾嬬町のアパートへ引っ越して一週間ほどたったある日、篠田昌吉がびっこを引いて帰ってきた。友だちをたずねての帰途、建築中のビルの下を通りかかったとき、突然、上から鉄筋の断片が落ちてきて、足先に当たったというのだ。
くつ下を脱いでみると、小指の辺がおそろしくはれ上がって、紫色になっていた。
「ちょっとのちがいで助かった。もしあれが頭に当たっていたら、死んでしまったかもしれない」
「で、それを落とした人は、わからなかったの?」
美与子が尋ねた。
「建築事務所へどなりこんでやったが、先方はあやまるばかりで、技師は、そんなものが人道へ落ちるはずがない、おかしい、おかしいと首をかしげているばかりさ」
さっそく、医者に見てもらったが、心配したほどのこともなく、十日もすれば直るだろうといって、手当をしてくれた。でも、しばらくはくつもはけず、ぞうりばきで、びっこを引いて歩かなければならなかった。
そのびっこが直らないうちに、かれはまた外出した。ちょっと足ならしに散歩するつもりのが、つい遠くまで行ってしまった。見なれない大通りだった。ステッキにすがってゆっくり歩いていると、向こうから一台の自動車が走ってきた。あまり交通のはげしくない通りなので、おそろしいスピードを出している。
アッと思うまに、もう目の前に近づいていた。瞬間のできごとだったが、左へよければ先方も左へ、右によければ先方も右へ、こちらの逃げるほうへ迫ってくるように思われ、道のまんなかでドギマギしたが、とっさに心をきめて、相手にかまわず、一方へ駆けだした。足の痛みも忘れて走った。しかし、傷ついた足は、やはり思うままにならず、パッとステッキが飛んで、かれのからだはアスファルトをたたきつけるようにころがっていた。
自動車のタイヤは、かれのからだとすれすれのところを、うなりを生じて飛び去っていった。うしろの番号を見るひまも何もなかった。たちまち向こうの町かどを曲がって、見えなくなってしまった。
さいわいたいしたケガはなかったけれど、むりに走ったので、足の傷が痛みだした。アパートへ帰りつくのがやっとだった。
「どうもおかしい。あの自動車は、ぼくの逃げるほうへ追っかけてきた。ぼくをひき殺そうとしているようなけんまくだった。車には人相のわるい運転手がひとり乗っているばかりだった。タクシーじゃない。ハイヤーか自家用車らしい」
篠田がそれを話すと、美与子も心配そうに、
「へんだわねえ。あなたが外へ出るたんびに、あぶないことが起こるのだわ。ねえ、もしかしたら……」
「エッ、もしかしたら?」
「川波が、あたしたちがここに住んでいることを気づいたのじゃないかしら。そして、だれかにたのんで、あなたのいのちをつけねらっているんじゃないかしら。あの人、まるで気ちがいなんだから、何をするかわかりゃしないわ」
「まさか、このアパートを気づくはずはないよ。あの人にはまるで縁のない方角だもの。それに、もとのぼくのアパートにも、会社にも、ここのことは何もいってないんだからね」
「でも、あたし、なんだか不安でしかたがない。この二、三日、買い物に出るたびに、だれかに尾行されているような気がするのよ。ですから、ときどき、ひょいと突然ふり返ってやるんだけど、べつに怪しい人は見当たらない。それでいて、絶えずだれかに監視されているように思われるの。あたしこわいわ」
「きみは神経質だよ。まさか、このアパートを気づいてはいまい。おそらく偶然だ。びくびくしているもんだから、そんな気がするんだよ」
必ずしも偶然とは思っていないのだけれど、昌吉はわざとのんきらしくいってみせた。しかし、かれも、良斎が殺人請負会社に依頼して、ふたりのいのちを取ろうとしていることまでは、想像もしていなかった。
「でも、あたしも気味のわるいことがあるのよ。ちょっとでも外へ出ると、きっとだれかが、あたしをじっと見つめているような気がするの。歩けば、あとからついてくるのよ。で、不意にひょいと振り向いてやるんだけど、いつでも向こうのほうがすばやいらしいわ。パッとどこかへ隠れてしまうのよ」
美与子は、気味わるそうに、うしろを見た。
「それも気のせいかもしれないぜ。ぼくの場合と同じで、はっきりしたことは何もないじゃないか」
「だからこわいのよ。相手がはっきりわかってれば、速水さんに相談もできるんだけど。まるで幽霊みたいに正体を現わさないでしょう」
昌吉は、ふくしゅうの悪念に燃えた川波良斎の顔を思い出した。ヘビのようにサーッと音をたてて草むらを歩くという、あの男のことを思い出した。かれは立っていって、そっと窓のガラス戸を細めにひらき、前の往来を見おろした。
自転車に乗ったご用聞きらしい小僧が通っていった。アパートの隣家の娘が盛装をして、どっかへ出かけていくのが見えた。保険の勧誘員みたいな、カバンをさげたあぶらっこい顔つきの中年男が、てくてくと通りすぎた。自転車のうしろに大きな金網のかごをつけた郵便配達が、アパートの前で自転車を降り、かごの中からいくつかの小包郵便を取り出して、下の入り口に姿を消した。どこにもうろんな人影はなかった。電柱の陰にも、向こう側の路地の中にも、人の隠れている様子はなかった。
「怪しいやつはいないよ」
それが当然だという顔をして、もとの席にすわった。
「そうよ。あたしも、ときどき、そこからのぞいてみるんだけれど、怪しい人はいないわ。それでいて、外へ出ると、だれかがあたしをじっと見ているのよ」
もしかしたら、その怪しいやつは、アパートの外ではなくて、中にいるのではないか。こうしている今も、ドアの外の廊下で、じっと聞き耳を立てているのではないだろうか。ふと、そんなことを考えると、ゾーッと背中が寒くなった。
そのとき、コツコツと、ドアにノックが聞こえた。ちょうどそのドアのことを考えていたので、ふたりともギョッとして、おびえた目を見合わせたが、ドアがひらいて顔を出したのは、アパートの主人の奥さんだった。四十五、六のあいそうのよい奥さんが、ニコニコして、何か大きな小包をさし出した。
「これ、いま来ましたのよ」
さっきの郵便配達が置いていったのにちがいない。
昌吉が受けとって、美与子に渡した。薄べったい大きな箱だ。差し出し人は速水荘吉となっている。気ちがい良斎の大鎌からふたりを助けてくれたあの人物だ。包みを解くと、きれいなチョコレートの大箱が出てきた。ふたりが世を忍んで窮屈な思いをしているのを慰める意味で贈ってくれたのであろうか。それにしては、なんとなく唐突な贈り物であった。
昌吉はふたをとって、丸いチョコレートを一つつまんで、口へ持っていこうとした。
「あら、ちょっと……」
美与子がそれを止めるようなしぐさをしながら、妙にのどにつまったような声でいった。
「なぜ」と目できくと、
「気のせいでしょうか。なんだか変だわ。探偵小説のことを思い出したの。西洋の探偵小説に、毒入りチョコレートを贈って、人を殺す話があるでしょう。このあいだから、あんなことがつづいたんだから、気になるのよ。このチョコレート、あぶないと思うわ」
昌吉は笑いだした。
「ハハハハハ、きみはほんとうに、どうかしているよ。速水さんはぼくらを助けてくれた人じゃないか。その速水さんが、ぼくらを殺そうとするはずがないよ」
「だから、速水さんの名をかたって、あたしたちをゆだんさせようとしたのかもわからないわ」
「じゃあ、これを送ったのは速水さんじゃないというの?」
昌吉もしんけんな顔になった。
「速水さんに電話をかけて、たしかめてみるわ。それまで、たべないでね」
美与子は大急ぎで下の電話室へ降りていったが、しばらくすると、青ざめた顔でもどってきた。
「やっぱりそうだったわ。速水さん、送った覚えがないんですって。そして、アパートを変わるほうがいいっていってたわ。ぼくが別のアパートを捜してあげるって」
ふたりは、しばらく顔見合わせて、だまっていた。良斎の恐ろしい顔が、すぐ近くに漂っているような気がした。
「でも、速水さんて人、よくわからないわね。わたしたちを助けてはくれたけれど、やっぱり悪人にはちがいないわ。良斎をゆすって、お金を取るために助けたようなもんだわ」
「そうだよ。ぼくもなんだか安心ができないような気がする。このチョコレートは、ほんとうは警察に届けたほうがいいんだがね」
「でも、そんなことしちゃ、速水さんが迷惑するでしょう。困ったわね。いのちを助けてくれた人が、まともな世渡りをしていないなんて」
「それに、ぼくたちのほうにも弱みがあるんだしね」
「あたし、このあいだから考えていることがあるのよ」
美与子の目に、妙な輝きが加わったので、昌吉は、不思議そうに、その顔を見つめた。
「明智小五郎っていう私立探偵知ってるでしょう? あの人ならば、警察じゃないんだから……」
「相談してみるというの?」
「ええ、このチョコレートも、あの人のところへ持っていって、分析してもらえばいいと思うわ」
「ぼくが行ってみようか」
「そうしてくださる? でも、尾行される心配があるわ。よほど注意しないと」
「タクシーをいくつも乗りかえるんだよ。逆の方角へ行って、別の車に乗って、また別の方角へ行くというふうに、何度も乗りかえて、尾行をまけばいい」
「そうね。じゃ、あなた行ってくれる?」
相談がまとまったので、美与子は下へ降りていって、電話帳で明智探偵事務所を捜して、電話をかけた。すると、明智はさいわい在宅で、待っているからという返事だった。昌吉はチョコレートの箱を新聞紙に包んで、出かけていった。
二時間ほどして帰ってきた。もう夜になっていた。
「だいじょうぶ?」
美与子が心配そうに、かれの顔を見上げて尋ねた。
「尾行のことかい?」
「ええ」
「タクシーを乗りかえるたびに、じゅうぶんあたりを見まわして、ほかに車のいないことを確かめたから、絶対にその心配はないと思う。だが、タクシー代はずいぶんかかったよ」
昌吉はそこにすわって、タバコをつけた。
「あのチョコレートには、やっぱり青酸化合物がはいっていた。明智さんが簡単な反応試験をやってくれた」
「まあ、やっぱり……」
「きみが注意してくれたので、いのち拾いをしたよ」
だが、美与子には、いのち拾いをしたということよりも、今後の恐怖のほうが大きかった。
「で、明智さんは、なんておっしゃるの?」
「アパートを変わるのもわるくはないが、相手に見つからないように変わるのは、ちょっとむずかしいだろうというんだ。明智さんは速水さんのことも知ってたよ。あれは不思議な男だといってた。なんだか速水さんのことを、まえから調べてるらしいんだよ。あの人は、やっぱり相当悪いことをしているんだね。それからね、明智さんは、毒チョコレートを送ったり、ぼくに自動車をぶっつけようとしたのは、川波良斎自身じゃない。第三者が介在しているというんだよ。その第三者というのが、なんだか恐ろしいやつらしい。明智さんは、そいつに非常に興味を持っているように見えた」
「良斎がその男に頼んだのね」
「うん。明智さんはそうらしいというんだ。なにかいろいろ知っている様子だが、ぼくにははっきりしたことはいわなかった」
「で、あたしたちはどうすればいいの?」
「なるべく外出しないようにしていろっていうんだ。速水さんがアパートをかわれというなら、かわってもいいが、引っ越しのときは、じゅうぶん気をつけるようにというんだ」
「それで?」
「どういう方法か知らないが、明智さんがぼくらを守ってくれるというんだ。報酬なんかいらない。速水という男も、良斎が頼んだもうひとりの男も、非常に興味のある人物だから、進んで調べてみるというんだよ」
「それだけでだいじょうぶかしら?」
「ぼくが不安な顔をしているとね、明智さんは、絶えずあなたがたの身辺を見守っているから、わたしに任せておけばいい。少しも心配することはないと、請け合ってくれた」
ふたりはいちおうそれで満足しておくほかはなかった。警察に届けられないとすれば、これ以上の方法は考えられないからだ。
だが、そういううちにも、悪魔の触手はすでにしてこの可憐なる恋人たちの身辺に迫っていたのである。
それから三日ほどは、なにごともなく過ぎ去った。ふたりは注意に注意をして、アパートにとじこもっていた。
四日めの午後、速水から電話がかかってきた。港区の麻布に、しろうと家の離れ座敷を見つけたから案内する。一時間もしたら自分の自動車が迎えに行くから、それに乗って来るように、自分は先方で待っている、というのであった。むろん、ふたりでいっしょに行くことにした。少しでも離ればなれになっているのは心細かったからだ。
やがて、キャデラックが表に着き、ひとりの運転手が速水の手紙を持って上がってきた。手紙には、一度家を見てから、改めて引っ越せばいいのだから、荷物は持ってくるに及ばない、と書いてあった。また、この運転手は長くわたしが使っていて、気心の知れたものだとも書いてあった。運転手は四十五、六歳に見える実直そうな男だった。服装もきちんとしていた。
ふたりは自動車に乗るとき、じゅうぶん町の右ひだりを見まわしたが、近くに別の自動車はいなかったし、怪しい人影もなかった。
車は隅田川を越して、浅草から上野へと走った。
「速水さんは、向こうに待っていらっしゃるのでしょうね」
美与子が確かめると、運転手はニコニコした顔で振り返って、
「向こうのご主人とお話があるといって、わたしひとりでお迎えにあがったのです。まちがいなく向こうにいらっしゃいますよ」
と答えた。
五十分近くかかって、六本木にほど近い住宅街にとまった。門内に庭のある古い西洋館だった。車を降りて玄関をはいると、三十前後のセビロを着た男が出てきて、「どうかこちらへ」と先に立った。
「速水さんはいらっしゃるのでしょうね」
「はい、あちらでお待ちになっています」
長い廊下を通って、奥まった一室に案内された。男は、「しばらくお待ちください」といって、ドアをしめて出ていってしまった。
なんとなく異様なへやであった。広さは六畳ぐらい。まんなかに小さな丸テーブルと、そまつなイスが二脚置いてあるばかりで、飾りだなも何もない殺風景な小べやだった。窓というものが一つもないので、昼間でも電灯がついていた。四方とも壁にかこまれていて、それにけばけばしい花模様の壁紙がはりめぐらしてある。へや全体はひどく古めかしいのに、この壁紙だけが新しいのが、妙に不調和だった。
いつまで待っても、だれもやって来ない。さっきの男は、いったいどうしたのだろう。速水荘吉はどこにいるのだ。ふたりはだんだん不安になってきた。
昌吉がドアのところへ行って、ひらこうとした。だが、いくらノッブをまわし、ガチャガチャやっても、ドアはひらかない。
「外からカギがかかっている」
かれは美与子を振り返ってつぶやいた。顔色がまっさおになっている。
「だれかいませんか。ここをあけてください。速水さんはどこにいるのです」
どなりながら、ドアを乱打した。しかし、なんの反応もない。家の中はひっそりと静まりかえっている。いよいよただごとでない。
さては、良斎のわなにはまったのかな。ふたりはどちらからともなく駆けよって、手を取り合った。
すると、そのとき、どこからともなく変な声が聞こえてきた。
「きのどくだが、速水はここには来ていない。ちょっとあれの名を使って、きみたちをおびき出したんだよ」
それは電気を通した声、つまりラウドスピーカーの声であった。昌吉は思わず天井を見まわした。ああ、あれだ。天井の一方のすみに、細かい金網が張ってある。声はその拡声器から漏れてくるのだ。
「ぼくたちは速水さんに用事があってやって来たんだ。ここに速水さんがいないとすれば、一刻もこんなへやにいる必要はない。早く帰らせてくれたまえ」
昌吉は、むだとは知りながら、ともかくも叫ばないではいられなかった。すると、その声が相手に聞こえたとみえて、またラウドスピーカーから、ぶきみなしわがれ声が漏れてくる。
「そっちに用がなくても、こっちにだいじな用があるんだ。苦労をしておびきよせたきみたちを、帰してたまるものか」
「ぼくたちになんの用事があるんだ。そして、きみはいったい何者だ」
こちらはもう震え上がっているのだけれど、虚勢を張ってどなり返す。
「おれは人殺しのブローカーだよ」
「エッ、なんだって?」
「人殺し請負業さ。わかったかね」
「それじゃ、きさま、川波良斎に頼まれたというのか」
「だれに頼まれたかはいえない。営業上の秘密だよ。いま川波良斎とかいったな。そんな人は知らないよ。聞いたこともないよ」
そのとき、美与子が昌吉のそでを引いた。ふりむくと、彼女のおびえた目が、ドアの側の壁の天井に近いところを見つめている。昌吉もその視線を追った。今まで少しも気づかなかったが、その壁の上部に、一尺四方ぐらいの小さな窓があった。窓といっても通風のためのものではなくて、厚いガラス板がはめこんである。ひらかない窓だ。
その四角なガラスの向こうに、何かもやもやとうごめいていた。よく見ると、人間の顔であった。見知らぬ中年男の顔であった。それが薄気味わるくニヤニヤと笑っていた。昌吉はその顔を下からにらみつけて、
「おい、きみはぼくたちをどうしようというのだ?」
すると、ガラスの向こうの男の口がモグモグ動いた。そして、見当ちがいのラウドスピーカーから、いやらしい、しわがれ声が聞こえてきた。
「それが聞きたいかね。よろしい、聞かせてやろう。きみたちはそのへやへはいるときに、ドアのところだけが廊下の壁から深くくぼんでいるのを気づかなかったかね。壁からのくぼみが六、七寸もあるんだ。そのアーチのようになった内側は、ちかごろ塗りかえたように、漆喰が新しくなっているのを見なかったかね。
このへやはね、つい一カ月ほどまえまでは、そのドアの外も壁になっていたのさ。わかるかね。ドアの外の壁のくぼみいっぱいにレンガを積んで、漆喰でかためて、廊下の壁と見分けがつかぬようになっていたのさ。つまり、外から見たのでは、こんなところにへやがあることは、少しもわからなかったのだよ。ハハハハハ、まあ、ゆっくり考えてみるがいい。それが何を意味するかをね」
そして、ガラスの外の顔が消えると、その四角な窓がまっくらになってしまった。ふたを締めたらしい。
昌吉は、もう一度ドアにぶつかっていった。
勢いをつけて走っていって、肩で突き破ろうとした。しかし、ドアはびくともしない。よほどがんじょうな板でできているらしい。
かれはあきらめて、ぐったりとイスにかけた。美与子もその前のイスにかけていた。ふたりはだまって目を見かわすばかりだった。
「さっきの電話は、たしかに速水さんの声だったのかい?」
「ええ、速水さんとそっくりだったわ。でも、そうじゃなかったのね。だれかが速水さんの声をまねてたんだわ」
ふたりは速水の筆跡を知らなかったけれど、あの運転手が持ってきた手紙も、速水の筆ぐせがまねてあったのかもしれない。なんという悪がしこい悪魔だ。
あいつはさっき「おれは殺人ブローカーだ」といった。気ちがい良斎が頼んだのにきまっている。だが、こんなへやへ閉じ込めて、どうする気なのだろう。ふたりが飢え死にするのを待つのだろうか。それとも……。
あいつは変なことをいった。ドアの外にレンガが積んであったといった。それはどういう意味なのだ。飢え死によりも、もっと恐ろしいことではないのか。
ああ、残念だ。ピストルさえあったらなあ。たまをドアの錠にぶちこめば、わけなくひらくのだが、せめてナイフでもあれば、錠を破ることができるかもしれないのだが、それさえ持っていない。
昌吉はまたいらいらと立ち上がって、へやのまわりをぐるぐる歩いた。そして、けばけばしい花模様の壁紙をたたきまわった。壁紙が何かを隠しているかもしれない。もしや、その下に、秘密の出入り口でもあるのではないかというそら頼みからだ。
その壁紙はひどく不完全なはり方なので、たたいたり、ひっかいたりしているうちに、その一カ所が破れた。紙の下には白い壁があった。その表面に縦横に傷がついている。そのよごれを隠すために、壁紙をはったのかもしれない。
「おやッ!」
昌吉は、壁紙の破れた個所を見つめた。縦横のかき傷は、落書きの文字であることがわかった。
「ここは人殺しの」
と読まれた。だれかがつめで壁に字を書いておいたのだ。昌吉は急いで壁紙をもっと大きくはがしてみた。そこにはこんな恐ろしいことばが彫りつけてあった。
ここは人殺しのへやだ。おれはこれほどの恨みをうける覚えはない。あいつはおれを人殺し会社の手に渡した。おれはいま殺されようとしているのだ。
このへやには先客があったのだ。そして、苦しまぎれに、こんな落書きを残していったのだ。まだほかにも書いてあるかもしれない。昌吉は手当たりしだいに壁紙をはがしはじめた。すると、あった、あった。また別のことばが彫りつけてあった。
ドアのそとに妙な音がしている。もう一時間もつづいている。恐ろしい。人殺しの専門家が、おれを殺す準備に忙殺されているのだ。ドアの外へレンガを積んで、コンクリートでかためているのだ。あれが完成したら、このへやは完全に密閉される。空気が通わなくなる。おれは飢え死にかと思っていたが、窒息だった。人殺しのやつは、おれを窒息させるつもりなんだ。
ああ、そうだったのか。レンガ積みは、そういう意味だったのか。昌吉は急いでドアの前に行って、耳をすました。まだ聞こえない。レンガ積みの作業は、まだはじまっていない。だが、やがてはじまるのだ。そして、ふたりは、この先客と同じ運命におちいるのだ。
そうとわかると、もっと落書きが見たかった。まだ書いてあるにちがいない。また壁紙破りをつづけた。美与子も、さっきの落書きを読んでいた。そして、昌吉といっしょになって、壁紙を破りはじめた。のりがよくついていないので、はがすのはわけもなかった。
「ここ、ここ!」
美与子が指さすところを見ると、また別の文字があった。
ガラス窓から、あいつがのぞいた。今までは人殺し会社のやつだったが、レンガ積みが終わって、いよいよおれの最期が近づくと、とうとう、あいつが顔を出した。おれを殺させようとしている張本人だ。ふくしゅうにひんまがった醜悪な顔。人間の顔が、あんなにもみにくくなるものだろうか。
その横手をはがすと、つづきのことばがあった。二人は顔をくっつけるようにして、息もつかず、それを読んだ。
あいつの恨みのありったけを並べやあがった。そして、最後に恐ろしい宣告をした。ガスだ。毒ガスだ。おれはあさはかにも、一度は餓死を想像し、二度めには窒息を想像したが、やつの刑罰はそんななまやさしいものではなかった。このへやのどこかに、毒ガスの吹き出す口があるのだ。あいつは、その毒ガスの中で、おれが気ちがい踊りを踊るのを、ガラス窓から見物してやるとぬかしゃあがった。道理で、このへやには、電灯がついているのだ。おれのためじゃない。外からのぞいて楽しむためなんだ。
ふたりは手の届くかぎり、四方の壁紙を破った。壁という壁がぼろでおおわれたような醜い姿になった。ふたりは壁に顔をつけるようにして、落書きを捜しまわった。
ああ、ここにもあった。つめ書きの文字は、ひどく乱れて読みにくくなっていた。
ああ、音がする。シューシューと、かすかな音がする。ガスが漏れているのだ。へやのすみの床に近いところに鉛管がひらいている。そこから黄色い毒煙が吹き出しているのだ。それがヘビのように床をはって、おれのほうへ近づいてくる。ああ、もう逃げられない。黄色いヘビが、足をはい上がる。
「ここよ、ここよ」
美与子が、泣き声で叫んだ。そこには、見るもむざんなたどたどしい字で、断末魔の一句がしるしてあった。
もうだめだ。黄色い煙は、へやいっぱいになってしまった。苦しい。くるしい。たすけてくれ。
その最後の行は、もうほとんど文字の形をなしていなかった。もがき苦しむつめのあとにすぎなかった。
昌吉と美与子は、ひしと抱き合って、へやのすみに立っていた。そして、どんなかすかな音も聞きもらすまいと、耳をすましていた。いまにもドアのそとに、レンガ積みの作業がはじまるのではないかと思うと、生きたそらもないのだ。
そのとき、どこかで音がした。ドアの外らしい。コツコツとつづいている。ああ、いよいよレンガ積みがはじまったのであろうか。
だが、そうではなかった。スーッとドアがひらいた。何者かがはいってきた。それはさっき、ふたりをここに運んできた自動車の運転手であった。大きな新聞紙の包みをこわきにかかえていた。
かれはニヤニヤ笑いながら、無言のまま、ふたりのほうへ近よってきた。こちらはいっそうひしと抱き合って、じりじりとへやのすみへ、あとじさりしていくばかりだった。
それから少したって、へやの外ではレンガ積み作業がはじまっていた。さっきの運転手が、上着を脱いで、ミックスしたセメントをコテですくいながら、一つ一つレンガを積み上げていた。
「やあ、ご苦労、ご苦労、なかなかはかどったね。うまいもんだ。レンガ職人をやったことでもあるのかい」
殺人請負会社の専務取締役、小男の須原がちょこちょことやって来て、声をかけた。
「ヘヘヘヘヘ、ご冗談でしょう。こう見えたって、子どもからのやくざですよ。レンガなんかいじくるのは、今がはじめてですよ。しかし、人のやっているのを見たことはある。見よう見まねってやつですね」
この運転手は、須原の手下の斎木という男であった。よほど信任を得ているらしい。
「おれもてつだうよ。きみはコテのほうをやってくれ。おれはレンガを並べるから」
「オッケー」
職人がふたりになると、みるみる仕事がはかどっていった。
「だが、中のやつら、どうしてる。ばかに静かじゃないか」
「さっき専務さんがのぞいたあとでね、やつら、すっかり壁紙をはがして、あれを読んじゃったんですよ。まるで幽霊みたいな顔してましたぜ。ふたりが抱き合って、すみっこにうずくまってまさあ」
「壁の落書きというやつは、なかなかききめがあるね。やつら、耳をすましてレンガ積みの音を聞いてるだろうな。落書きでちゃんと暗示があたえてあるんだから、まさか聞き漏らすことはあるまい」
「ウフフ、地獄ですねえ。ネズミとりにかかったネズミみたいに、心臓をドキドキさせてるこってしょう。ですが、専務さん、依頼者はもう来ているんですかい?」
「うん、さっきから応接間に来ている。今までぼくが応対していたんだ。これができ上がったら呼ぶつもりだよ」
「ずいぶん執念深いもんですねえ。だが、ああいうお客がなくちゃ、会社の経営はなりたちませんからね」
かれらは、室内には聞き取れぬほどの小声で、ボソボソ話し合いながら、せっせと仕事をつづけていたが、まもなくドアの部分のくぼみがレンガでいっぱいになった。あとは外側に、廊下の壁と同じ漆喰を塗ればよいのだ。
「じゃ、きみ、漆喰のほうをはじめてくれ。ぼくは依頼者を呼んでくるからね」
小男の須原は、そう言いのこして、廊下の向こうへ立ち去ったが、やがて、依頼者川波良斎と肩を並べてもどってきた。
「いよいよ密閉されました。まるで金庫の中へ閉じこめたようなもんですよ」
「で、そののぞき窓というのはどれです」
「このキャタツにおのりください。ほら、あの窓です。ふたを上にひらくと、中に厚いガラスがはめこんであります。八分も厚みのある防弾ガラスですから、中からピストルをうっても、突きぬけるようなことはありません。少しも危険はありませんよ」
気ちがい良斎は、舌なめずりをしてキャタツの上にのぼり、窓のふたをひらいて、中をのぞきこんだ。
「おやッ、だれもいないようだが」
ちょっと見たのでは無人のへやのようであったが、あちこち視線を動かしていると、
「アッ、いる、いる。こちら側の壁にもたれてうずくまっているので、顔が見えない。服のすそと足が見えてるばかりだ……おいッ、美与子、篠田、わしの声がわかるか」
だが、へやの中のふたりは、何も答えなかった。壁の落書きで、こういうことが起こるのをちゃんと予知していたので、いまさら驚くこともないのだ。
「おい、おまえたち、ドアの外にレンガの壁ができたのを知ってるだろうな。ここは気密のへやになったのだぞ。だから、ほうっておいても窒息するのだが、それではお待ちどおだ。ガスだよ。黄色い毒ガスが、このへやいっぱいになる。その中で、おまえたちはもだえ死ぬのだ。これも自業自得というものだぞ。わしの恨みのほどがわかったか。どうだ。ワハハハハハ、ふるえているな。ほら、耳をすまして、よく聞くがいい。どこかでシューシューという音がするだろう。鉛管から毒ガスが吹き出しているのだ。おまえたち、いくら強情にだまりこんでいても、いまにみろ、毒ガスの苦しさに、気ちがい踊りを踊るのだ……さあ、ガスを、ガスを」
と、須原を見おろして催促する。
「もうネジをあけました。ガスは吹き出していますよ」
「そうか。もう吹き出しているのか。うん、うん、黄色い毒蛇が床をはいだした。美与子、こわいか。今こそおまえの断末魔だぞ。ウフフフフフ、ブルブルふるえているな。ざまあ見ろ、いくら篠田にとりすがったって、そいつはおまえを助ける力なんぞありゃしない。わあ、ガラスの前まで黄色い煙がはい上がってきたぞ。もうへやの中は毒ガスでいっぱいだ。はっきり見えなくなった。美与子、篠田、どこにいるんだ。気ちがい踊りをはじめたか。アッ、ちらちら見える。踊っている。踊っている。ワハハハハハ、わしは二度ふくしゅうをとげたんだぞ。一度は土の中にうずめて獄門のさらし首にしてやった。こんどは黄色い毒蛇だ。ガスの中の気ちがい踊りだ。速水とかいうやつのおかげで、わしは二度の楽しみを味わったというもんだ。ワハハハハハ、ワハハハハハ」
あやうくキャタツの上からころがり落ちそうになった。須原がすばやく駆けよって、助けおろした。
「わが社の仕事ぶりがわかりましたか。まずこういったぐあいです。ごらんなさい。ドアの前のレンガは、すっかり漆喰で塗りつぶされました。これがかわけば、廊下の壁と見わけがつかなくなるのです」
須原は得意らしく、そこを指さした。運転手が、やっと仕上げのコテを置いたところである。
「あとは、あの窓を塗りつぶすだけです。きみ、すぐに窓のほうにかかってくれたまえ」
いわれて運転手は、漆喰のバケツとコテを持って、今まで良斎が使っていたキャタツの上へのぼっていく。
「どうです。ふたりの死骸だけでなく、へやそのものを抹殺してしまうのです。この建物の中から、一つのへやが消えうせてしまうのです。これがわれわれのやり口です。思いきってずばぬけた着想、これが最も安全な道です。びくびくして、こまかいことを考えていたら、かえって失敗します。つまり、世間の意表を突くというやつですね。
「この計画のために、わたしはこの家全体を買い入れたのです。そして、今後はけっして人に売ったり貸したりはしません。わたしの別宅として使うのです。ですから、この消えうせたへやの秘密は、永久に保たれるわけですよ。
それから、ご安心のために、もう一つ説明しておきますが、きょうの仕事は、わたしと、この運転手をつとめた男と、ふたりだけでやったのです。われわれの会社には、わたしのほかにふたりの重役がおりますが、ひとりは女ですし、こういう仕事には不向きなのです。むろん、きょうの仕事は知らせてあります。しかし、直接関係はしなかったのです。人間関係としても、この秘密はけっして漏れることはありません。
この男ですか? むろん、運転手が専門じゃありません。わが社創立当時からの幹部社員です。斎木というのですが、曲馬団出身の冒険児で、わたしの第一の腹心です。一生めんどうをみてやるつもりです。斎木のほうでも、わたしからは生涯はなれないといっております。ですから、もしこの事件がばれるとすれば、川波さん、あなたの口からですよ。くれぐれも注意してください。お互いのいのちにかかわることですからね」
須原の長い説明がすむと、良斎は感にたえて、
「ふうん、おそれいった。さすがはその道の専門家だね。死骸を隠すために一軒の邸宅を買い入れて、その中の一室を消してしまうとは、思いきった手段だ。ずいぶん資本もかかるわけだね。しかし、まだひとり残ってますぞ。速水とかいう怪人物だ。あれはきょうのふたりとはちがって、よほど手ごわいだろうからね」
「手ごわいだけにおもしろいですよ。いよいよ次はあいつの番です。まあ、見ていてください。斬新な手口をお目にかけますよ……ごらんなさい。これでもう、あとかたもなく、一つのへやが消えうせました」
斎木という男は、もうすっかり窓を塗りつぶして、キャタツを降りてきた。ドアものぞき窓も消えて、そこには廊下の壁があるばかりだった。
「建物の中のへやべやの内のりを計って合計した長さを、建物の外側の長さから引くと、壁の厚さの合計が出ます。それを壁の数で割れば、平均の壁の厚さが出るわけです。この建物をそうして計算してみますと、壁の厚さの平均がおそろしく厚いものになるでしょう。なぜといって、いま塗りつぶしたこのへやが、やはり壁として計算されるからです。これが昔から秘密のへやを捜し出す手段なのです。わたしはそれをよく知っています。ですから、そういう計算をするような人間は、けっしてこの家に入れませんよ。しっかりした執事を置いて、わたしのるす中もまちがいのないように計らいます。その点は、わたしをお信じください」
こうして、川波良斎はその目的を達し、満足して引き揚げていった。
影男は小説家佐川春泥として小説執筆のための風変わりな書斎を建築したばかりであった。影男は東京にも地方にも多くの家を持っていたが、世田谷区の蘆花公園の近くにも、樹木の多い広い地所と、隠居所ふうのささやかな日本建ての家があった。その庭の林の中に、十坪ほどの赤レンガの書斎を建てた。
とんがり帽子のようなスレートぶきの屋根もでき上がり、完成もまぢかに見えた。青々とした大樹にとりかこまれた奇妙な赤レンガの建物は、いかにもうつりがよくて、大昔の西洋の風景画を見るような感じだった。
影男の佐川春泥は、厚手の縞セビロに、十九世紀のフランスの詩人がつけていたように大型のリボンのような黒いちょうネクタイを、胸にフワフワとさせていた。
かれはでき上がった書斎の家具などをさも楽しそうに見まわったあとで、おもやの玄関前に置いてあった自動車を、自分で運転して、遠く隅田川の河口に向かった。
午後二時ごろ、霊岸島の魚仙という舟宿に着いた。座敷に通ると、そこに約束しておいた殺人会社専務の須原正が待っていた。ちょっと一口やってから、ボートを頼んだ。船頭を雇うのはぐあいがわるいし、ふたりとも和船はこげなかったので、ボートを借り出してもらったのだ。
影男は、殺人会社の仕事はもうごめんだと思っていたが、須原から執拗に呼び出しの手紙が来た。影男の本拠の一つであるアパートへ数回手紙が来て、るす中の机の上に積み上げてあった。
影男はある理由から、それに応じることにした。極秘の話だというので、電話で打ち合わせて、海の上で話し合うことにした。
小男の須原は、力がないので、影男のほうがオールをあやつって、ボートをお台場のほうに向けた。
「遠くへ行くこともない。このへんでいいでしょう」
影男はオールを横にして、こぐのをやめた。ボートは波のまにまに漂っている。天気がよく、風がないので、海は湖水のように静かだ。はるかに数隻のつり舟が見えるくらいのもので、かれらは広い海面にたったふたりぽっちだった。
「いつかは観覧車の空の上で密談しましたが、あれよりもこのほうがいっそう安全ですね。海上の密談とはいい思いつきだ」
小男の須原が、はればれとしたあたりを見まわしながら、ニヤニヤしていった。
「そのかわり、命のやりとりにも絶好の場所ですね。須原さん、あなた泳ぎができますか?」
影男の佐川春泥が、これもニヤニヤして、気味のわるいことをいいだした。
「できますとも、三里ぐらいは平気ですよ。あなたは?」
「青年時代に東京湾を横断したことがあります。すると、お互いに溺死させられる心配は、まずないわけですね?」
「次に凶器ですか?」
「そう。なにかお持ちですか」
「これを持ってますよ」
小男はそういって、ポケットから黒っぽい小型のピストルを出して、手のひらの上でひょいひょいと躍らせて見せた。そして、またニヤリとする。
「ウフフ、お互いに護身の道具は忘れませんねえ。実は、ぼくも持っているのですよ」
影男もポケットからそれを出して見せた。まったく同形のコルトである。
「ふふん、さすがですね。二五口径のコルトでしょう。すっかり同じだ。握りに馬のはねてる模様が浮き彫りになってますね。どれ、見せてごらんなさい」
お互いに取り替えっこをして、見比べたが、すっかり同じ型のピストルであることがわかった。
「というわけですな」
影男も笑い返した。
「そこで、凶器でも五分五分というわけですね」
「実に公平です。撃ち合えば、どちらが早く火を吹くかだが、すばやさではひけはとりませんよ」
「では、こんなものは、ポケットに収めておきましょう。きょうは決闘をやりに来たのではありませんからね」
ふたりはお互いのピストルを取り返して、もとのポケットに入れた。
「ところで、きょうは、また一つ、あなたの知恵が借りたいのですがね。このまえの『底なし沼』のトリックは実にすばらしかった。もう一度だけ、ああいうのを考えていただきたいのですよ」
小男の須原が、ごきげんとりのねこなで声でいった。
「それはわかってますよ。そのほかに用事があるはずはない。しかしね、ぼくはこのまえの底なし沼で懲りたのです。あまり残酷で、どうもあと味がわるい。それで、実はあなたがたから逃げていたのですが、こんどは、ちょっと相談に乗ってみようかなという気が起こった。ちょっと訳があってね」
影男もあいそがよかった。
「では、さっそく用件にとりかかりますがね。ある富豪から、ひとりの青年紳士をやっつけてくれと頼まれたのです。これには相当の報酬が出ます。ですから、あなたの立案料も、こんどは五百万円まで奮発しますよ。そのかわり、会社のほうへ絶対に疑いのかからないような、とびきりの名案をひとつ考えていただきたいのです」
ボートはゆらゆらと快適に揺れていた。風はなく、空は青々と晴れて、暖かい陽光がさんさんと降りそそいでいた。そのボートの中のふたりは、にこやかに笑いかわしながら、のんびりと、とりとめもない世間話でもしているように見えた。
「よろしい。取っておきの名案をさし上げましょう。それにしても、立案料が五百万とは奮発しましたね。あなたの受け取る報酬はその何倍ですか」
影男が、やっぱり笑いながら、皮肉にいった。
「どういたしまして、せいぜい二倍ですよ。こんどの件は、相手がしたたかものなので、よほど慎重にやらないとあぶないのです。だから、立案料に半分出そうというわけです」
須原はぬけぬけとうそをついた。読者も知るように、川波良斎への要求額は二千万円であった。つまり、影男を抹殺する代金が二千万円だった。なんということだ。このずぶとい小男は、これから殺そうと思っている当人に、その殺人方法を立案させようというわけなのである。
あぶない、あぶない。さすがの影男も、そこまでは気がつくまい。いくらなんでも、自分を殺そうとしているやつが、その殺し方を自分に教わりに来るとは、考えも及ばないであろう。
「あなたは今、取っておきの名案があるとおっしゃいましたね。それをひとつご伝授願いたい。さだめし、すばらしい名案でしょうな」
小男は両手をこすり合わせて、舌なめずりをした。
「ぼくの名案というのは、密室ですよ」
「え、密室?」
「探偵小説のほうで有名な、あの秘密の殺人というやつです」
「ふん、ふん、わかります。わかります。それで?」
「つまり、そのへやの内部から完全な締まりができていて、犯人の逃げ出すすきまが絶対にない。それにもかかわらず、そのへやには、被害者の死体だけが残されて、犯人の姿は見えないというやつですね。古来いろいろな犯人が、この密室の新手を考えた。百種に近い方法がある。しかし、ぼくの秘蔵しているのは、いまだかつてだれも考えたことのない新手です。五百万円では安いもんだ。しかし、教えてあげますよ。なんとなく、あんたが好きになったからだ」
「ありがとう、ありがとう。ぜひ、教えてください。恩に着ますよ」
小男の顔が、まるで好々爺のように笑みくずれた。
「それにはね、ちょうど今、ぼくはレンガ建ての書斎を建てている。これがもう二、三日でできる。それを提供しますよ。むろん、一時お貸しするだけだが、殺人の現場となっては、あとは使えない。この建築費が三百万円かかっている。これは実費として別途支出ですよ。いいでしょうね」
「三百万円! すると、合わせて八百万円のお礼ということになりますね。それはちと高い。もっと安い建物はありませんか」
「アハハハハハ、家を買う話じゃない。そのぼくの書斎でなければ、うまくいかないのです。説明すればすぐわかるんだが、まず報酬をさきにもらわなくてはね。ぼくの売り物は形のない知恵なんだから、それをさきに話してしまっては、取り引きにならない。きょうでなくてもよろしい。報酬の用意をしていただきたい」
「それはもう、ちゃんと用意しております。あなたがそういわれることは、わかっていましたのでね。しかし、こちらは五百万ときめていたのだから、それだけの小切手しかありませんが」
小男はそういいながら、内ポケットから大きな札入れを出して、一枚の小切手を抜き出した。
「これです。ぼくの振り出しじゃありません。大銀行から都内の支店あての小切手だから、まちがいのあろうはずはない。とりあえずこれだけお渡ししますから、その名案というやつを聞かせてください。残金の三百万は、実行に着手するまえに必ずお払いしますよ」
影男はその小切手を受け取って、ちょっと調べてから、内ポケットに収めた。
「よろしい。あんたを信用して、伝授することにしましょう。断わっておくが、密室というものの利点はですね、情況判断からして、どんなに疑わしい人物があっても、それを処罰することができない。密室のなぞが解けるまではどうすることもできないという点にある。だから、絶対に解くことのできない密室さえ構成すれば、それは完全犯罪になるのです。わかりましたか。しかも、ぼくの考えているやつは、犯罪史上にまったく類のない新手で、絶対に解けない密室なのです。それはね、こういう方法なのです……」
影男はそれから二十分ほど話しつづけた。
小男須原はそれを謹聴していたが、すっかり聞き終わると、はたとひざをたたいて、「ふうん、なるほど、考えましたね。いかにも斬新きばつの名トリックですよ。これなら、どんな名探偵だって、わかりっこありませんよ。ありがとう。ところで、それはいつ実行しますかな」
「もう建物はでき上がっているんです。早いほうがよろしい」
「で、そのあなたのレンガ建ての書斎はどこにあるのです」
「世田谷区のはずれの蘆花公園のそばですよ」
「一度、下検分をしておきたいものですね」
「よろしい。それでは明後日の夜八時ごろがいいな。世田谷のぼくのうちをたずねてください。そのころには、書斎の家具などもはいっているでしょう」
といって、自宅への道順を教えた。
「では、そういうことにしましょう。いや、おかげで、わしも安心しました。やっぱり、あんたの知恵袋はたいしたもんだ。そういう名案があろうとは思わなかったですよ」
須原はほめ上げながら、心中ではペロリと舌を出していた。この男は、自分が殺されるのも知らないで、完全犯罪の手段を教えてくれた。さすがの知恵者もいっぱい食ったな。おれのほうが役者が一枚上だわいと、ほくそえんでいた。
須原はすでに篠田昌吉と川波美与子を毒煙で倒して、その死体を小べやの中に塗りこめてしまっていた。このほうは首尾よく目的を果たした。残る影男は、とても手におえまいと思ったが、逆手を用いて、犠牲者自身に殺人方法の知恵を借りてみたら、その意表外の度胸がまんまと成功して、相手は少しもそれに気がつかず、うまい方法を教えてくれた。やっこさんも存外あまいもんだな。
須原は小さなからだがはちきれるほどの自信で、その日はひとまず帰ることにした。ボートを舟宿にもどして、また一杯やったあとで、明後日を約して別れた。
影男はこの小男のために、うまくしてやられたのであろうか。裏には裏のあるくせ者どうし、影男のほうにだって、どんな秘策が用意されていまいものでもない。この悪知恵比べ、最後の勝利を得るものは、両者のいずれであろうか。
それから二日後の午後八時、須原は約束どおり、蘆花公園に近い影男の隠れ家をたずねた。影男はおもやの日本間のほうへ須原を上げて、ちゃぶ台の上に出してあったウイスキーを勧めた。玄関へも主人みずから出迎えた。いつまでたっても、女中も書生も現われない。うちじゅうがシーンと静まり返って、まるであき家にでもいるような感じだ。
「だれもいないのですか」
ついきいてみないではいられなかった。
「ぼくがここに滞在するときには、召し使いを連れてくるのですが、今夜はそういう者もいないほうがいいと思ったので、ぼくひとりでやって来て、きみを待っていたのですよ」
ふたりはウイスキーをチビチビやりながら、しばらく話したあとで、いよいよ庭のレンガ造りの書斎を検分することになった。
「このあいだのお話で、理屈はよくわかっているのだが、やっぱり実地に当たって見ておきませんとね」
小男の須原はそういって立ち上がった。
ふたりは懐中電灯を持って、まっくらな庭へ出ていった。林のような木立ちの中を歩いて、その奥にある奇妙なレンガ建てに近づいた。
それから三十分ほど、影男は建物の内外を歩きまわって、詳しく説明した。
「よくわかりましたよ。実にきばつなトリックだ。これならだいじょうぶです。きっとうまくやってみせますよ」
須原はいっさいを了解して、ほくほくしている。
検分をすませると、もう九時になっていた。ふたりはうっそうと茂った林の中を、おもやのほうへ引っ返しはじめた。あたり一帯は寂しい場所なので、街灯は遠くに立っているばかりだし、なんの光もなく、自動車の警笛も聞こえず、まるで山の中でも歩いているような気持ちだった。
「なんだか変だな。今まで、ぼくはそれを一度も聞いていない」
影男の佐川春泥が、何か思い出したようにつぶやくのが聞こえた。
「え、なんです。なんとおっしゃった?」
「その人は、いったい、どういう人物なんだね」
「その人って?」
「きみの会社が依頼されている人物、つまり殺される人物さ」
「ああ、そのことですか。わしもいうのを忘れてましたがね、実に恐ろしい相手です。悪知恵にかけては、まず天下無敵でしょうね。その男は、いくつも名まえを持ってましてね、まるで想像もつかないような別人に化けて、悪事を働いている。まあ悪質なゆすりですね。不正な金もうけがうまいこと驚くばかりです。それに、実にすばしっこくてね、まだ一度もつかまったことがないというやつです。あんた、そいつは小説家にさえ化けるんですよ」
小男の須原は、やみの中でクスクス笑った。
「なんだって? それじゃ、まるでぼくとそっくりじゃないか」
影男は、びっくりしたように立ち止まった。
「そういえば、なるほど、そっくりですね。不思議なこともあるもんだ」
「で、名まえはなんというんだ」
「いろんな名があるんですよ。速水荘吉、綿貫清二……それから佐川春泥……」
それを聞くと、影男がパッと飛びのいて身構えをした。
「それが、きみが殺そうとしている男か」
「そうですよ。こんどの事件の被害者というのは、おまえさんなのさ」
いうかと思うと、須原はポケットからピストルを出して構えていた。
「おいッ、おれを殺すと後悔するぞッ、恐ろしいことがおこるぞッ」
影男はじりじりとあとずさりしながら、しかりつけるように叫んだ。
「ワハハハ、おどかしたってだめだよ。おまえさん、自分が殺されるとも知らないで、おれに完全犯罪のやり方を教えてくれたじゃないか。おれのたくらみを、少しも気づかなかったじゃないか。なんの用意ができているものか。さあ、覚悟しろッ」
空気を裂くような鋭い音がしたかと思うと、影男のからだが、地上にどっと倒れていた。
須原はピストルを構えたまま、じっと見ていたが、影男は少しも動かない。一発で息が絶えたのであろうか。
須原は懐中電灯を点じて、死体に近づいていったが、電灯の丸い光があおむきに倒れた影男の顔を照らすと、思わず、「ウーッ」とうなって、あとずさりした。ピストルのたまは顔面に当たって、顔一面がどろどろした赤い液体でおおわれていたからだ。
しばらくためらっていたが、光を顔に当てないようにして、また近づいていった。そして、死体のそばにしゃがんで、胸に手を当ててみた。鼓動はとまっていた。念のために右の手くびをおさえてみたが、そこにも脈はまったくなかった。
「あっけないもんだなあ。さすがの悪党も、これでお陀仏か。ウフフフ、じゃあ、これからきみのおさしずに従って、絶対に処罰されない手段にとりかかることにするよ」
須原は死体はそのままにしておいて、おもやに引き返し、どこかへ電話をかけた。そして、勝手元から一枚のござを捜し出すと、それを持って、林の中へはいっていった。死体を動かすまでそれをかぶせて、おおい隠しておくためである。
それから十分ほどして、ひとりの男がおもやの玄関へはいってきた。殺人会社の重役のひとりが、近くに待機して、須原の電話を待っていたのだ。その男は四十ぐらいの、やせて背の高い男で、わざと労働者のような服装をしていた。
須原はその男を出迎えて、しばらくささやき合ったあとで、ふたりづれで、まっくらな庭の林の中へ消えていった。密室構成の仕事をはじめるためだ。それから、ふたりはレンガ建ての書斎のあたりで、夜明け近くまで、何かゴトゴトと、しきりに働いていた。
須原が影男を射殺した翌々日の昼ごろ、京王電車の蘆花公園駅に近い交番へ、妙なじいさんが駆けこんできた。
「たいへんです。わしの主人が殺されました」
日に焼けたしわだらけの顔に、白い口ひげとあごひげをはやしている。服は二、三十年まえに流行したような、つんつるてんの黒いセビロ。よごれたワイシャツは着ているが、ネクタイもしていない。子どものように小がらな、しなびたようなじいさんだ。
交番の警官は、じいさんの姿をじろじろ見ながら、疑わしそうに聞き返した。
「殺されたって、どこでだ。そして、きみの主人というのは、いったいどこのだれなんだ」
「主人は烏山××番地の佐川春泥という小説家です。わしは、そこに長年使われている谷口というものです。主人は変わりもので、庭の林の中に、レンガ建ての書斎を造って、その中で仕事を始めたんじゃが、それが、おとといから、書斎を出てこんのです。
主人は、今もいうとおり変わりものじゃから、書斎へはいったら、飯も食わんで、一日じゅう閉じこもっていることがよくある。そこで、わしもきのう一日はほうっておいたが、けさになっても出てこん。十時になっても、十一時になっても出てこん。これはどうも変だと思ったので、書斎の裏の窓にはしごをかけてのぞいてみた。すると、どうじゃ、主人はじゅうたんの上にぶっ倒れている。うつぶせに倒れているんじゃが、その顔に血が流れている様子じゃ。いつまで見ていても、身動きもせん、死んでいますのじゃ。
わしは書斎の中へはいって確かめようと思った。ところが、入り口のドアに中からカギがかかっている。がんじょうな戸じゃから、ぶちやぶることもでけん。窓はたった一つしかなくて、それには鉄ごうしがはまっている。わしの力ではどうにもなりませんのじゃ。急いで見に来てください」
じいさんの説明を聞くと、交番の警官も、もう疑わなかった。すぐに電話で本署に連絡しておいて、じいさんといっしょに現場に駆けつける。少しおくれて、所轄警察の署長みずから数名の係官をつれて、自動車でやって来た。
広い庭の林のような木立ちにかこまれて、古風なレンガ建てがぽつんと立っていた。とんがり帽子のようなスレートぶきの屋根、窓というものがたった一つしかなく、それに鉄ごうしがはめてある。まるで牢獄のような不思議な建物だ。広さは十坪ぐらいであろうか。
正面のたった一つの出入り口のドアには中からカギがかかっているので、署長や係官も、じいさんが裏側の高い窓にかけておいたはしごをのぼって、その窓から内部をのぞいてみた。じいさんのいうとおり、ひとりの男がうつぶせに倒れている。そのかっこうが、死んでいるとしか思えない。
窓から正面のドアを見ると、これはまたなんという厳重な戸締まりであろう。内側に幅の広い鉄のかんぬきががっしりとかかっている。これでは合いカギがあったとしても、とてもドアをひらくことはできない。
窓の鉄ごうしを破ったほうが早いかもしれぬと、よく調べてみたが、これがまたひどくがんじょうにできていて、どうすることもできない。また正面の入り口の前にもどって、警官たちが体当たりでドアを破ろうとしてみたが、これもまったく見込みがないことがわかった。厚い板戸で、要所要所には鉄板がうちつけてある。
「まだ建ってまもないようだね」
署長が谷口じいさんに尋ねる。
「はい、まだ使いはじめてから三、四日にしかなりません。それに、もうこんなことが起こるというのは、方角がわるかったのじゃ。わしがいくらとめても、主人は耳にもかけず、とうとう建ててしまった。見るがいい。案の定、この始末じゃ」
じいさんはぶつくさと無遠慮にこぼしてみせる。
「きみはここの主人に長く使われているのかね」
「はい、十年の余になります。わしの主人は不思議な人で、いくつも名を持っておりましてね、住まいもほうぼうにあるのです」
「主人の職業は?」
「それが、わしにもとんとわかりませんのじゃ。まあ、お金持ちのぼっちゃんですからね。ずいぶんぜいたくな暮らしをして、遊びまわっている。そうかと思うと、何か書きものをするとみえて、そのためにこんな書斎を建てましたのじゃ」
「ふん、よほど変わった人だね。この建物だってそうだ。窓はあんな小さいのが一つしかなくて、へやの中はまっくらだし、入り口のドアのこの厳重な締まりはどうだ。いったい、どういうわけで、こんな用心をするのだ。この中には、何かよほどだいじなものでも置いてあるのかね」
「わしもよくは知らんが、だいじなものなんて、何もありゃしない。本が少しばかり置いてあるだけです。この戸締まりを厳重にしたのは、そういうことではない。主人は勉強しているときにだれかがはいってくるのが、おそろしくきらいじゃった。だから、カギをかけただけでは気がすまないので、でっかいかんぬきまでつけさせたのです。わしには主人の気持ちはわかりません。何かをこわがっていたようでもある。主人には敵が多かったらしいからね。いや、わしは知らんが、主人がときどきそんなことをいっていた。敵が多いから用心しなくちゃ、とね」
「窓の鉄ごうしも、そのためにとりつけたというわけだね」
「そんなこってしょう」
じいさんはそれ以上何も知らなかったので、ともかくドアを破って室内を調べることにした。
署長は部下に命じて仕事師を呼んでこさせた。若い仕事師は、大きな掛け矢をかついでやって来た。この掛け矢でドアがこわされ、署長たちは室内を調べることができた。
被害者はピストルで顔面をやられ、顔じゅうがまっかに染まっていた。死体は動かさないで、室内がくまなく調べられた。ドアのカギは中からかけられ、かんぬきも完全にかかっていた。カギは机の上に置いてあった。ただ一つの窓の縦横に組んだ鉄棒は、深く窓わくのコンクリートの中にはめこんであって、少しの異常も認められなかった。鉄ごうしの内側にガラス戸が密閉され、掛け金がかかっていた。壁は厚いレンガ積みで、室内の側には漆喰が塗られ、ナラの腰板がうちつけてあった。天井にも床にも、怪しむべき個所はまったくなかった。完全無欠の密室である。
そうしているところへ、本署から通報をうけた警視庁の捜査課と鑑識課の人たちが自動車で到着した。
室内の再調べが行なわれ、室内外の写真がとられた。鑑識課の医員が被害者を検診したうえ、ひとまずおもやのほうへ運んだ。
被害者はピストルでやられているのに、室内にはそのピストルが発見されず、室外からピストルを打ちこむ可能性もまったくなかった。唯一の窓にはガラス戸が密閉され、そのガラスにはなんの傷あともないのだ。すると、犯人は室内で被害者を撃ったと考えるほかはないのだが、その犯人はどこから出ていったのか。そういうすきまはどこにもなかった。
鑑識課の係員は、密室構成の知識を持っていた。ドアのカギ穴を通して行なわれる種々のトリックにも通暁していた。ところが、調べてみると、この建物のドアには、そういうトリックを行なうことが、絶対にできないことがわかってきた。
普通のドアは、外側からも同じカギで開閉できるように、カギ穴はドアを貫通しているものだが、ここのドアは特別の構造になっていた。内側からのカギ穴と外側からのカギ穴が、別々にできていて、両方ともドアを貫通せず、先の方がふさがっていた。カギそのものも、内側のと外側のとまったく形がちがっていた。これは変わり者の被害者が、合いカギで外からかってにドアをあけられることを恐れたのと、もう一つは、カギ穴からのぞかれるのを防ぐために、こういう内外別々のカギ穴という構造を考えついたものであろう。
ドアのトリックは、カギ穴ばかりでなく、ドアの下部のすきまがなくてはできないのだが、ここのドアにはそういうすきまもなかった。ドアの上下左右とも、ぴったり外わくに食いこむようにできていて、細い絹糸を通すほどのすきまさえないのだ。
人々はただ顔見合わせるばかりだった。いくら考えても、この密室のなぞを解くことはできなかった。そこで、ともかく被害者を病院に送って解剖することにした。致命傷は顔面から頭部の貫通銃創とわかっていても、こういう異様な事件では、いちおう解剖の手続きをする慣例であった。
やがて、救急車が呼ばれ、死体が運び出されたが、それとひきちがいに、ひとりの妙な男が、一同の集まっている庭のほうへ、のこのことはいってきた。めがねをかけ、濃い口ひげのある三十五、六歳のりっぱな紳士だ。被害者の友人が、何も知らないでたずねてきたのかもしれないと思ったので、ひとりの警官が、そのほうに近づいて声をかけた。
「どなたですか。今、重大な事件がおこって、ごらんのとおり、とりこんでいるのですが」
「わたしはこの近所に住んでいる松下東作というものです。職業は弁護士です。ここのご主人とは知り合いでもなんでもありません。実はさっき、作蔵という出入りの仕事師が、わしのうちへやって来て、殺人事件のことを話していったのです。あなたがたに頼まれて、掛け矢でドアを破ったあの男ですよ。あれの話によると、被害者の倒れていたへやが、内側から完全に締まりができていて、犯人の逃げた方法がわからないということですね。つまり、密室事件というわけでしょう。それについて、ちょっとわたしの考えをお耳に入れたいと思いましたのでね」
それを聞いた警官は、向こうへ行って、警視庁のおもだった人々や、所轄警察の署長などに、松下氏の来意を伝えたが、りっぱな紳士だし、職業が弁護士だというので、ともかく話を聞いてみようということになった。
「どういうお話があるのでしょうか」
署長が松下氏に近づいて尋ねた。他の警察官たちも、そこへ集まってきた。その中に佐川春泥の召し使いだという谷口じいさんもまじっていた。
松下という紳士は、一同の作った円陣のまんなかに立って、まるで講演でもするような、気どった調子で話しはじめた。
「ぼくは密室の犯罪というものを、日ごろからいささか研究しているのです。作蔵の話によって、その事件の密室がどういうものであるかも詳しくわかっております。そこで、この密室のなぞについて、ご参考までに、ぼくの意見を申しあげてみたいと思って、実は、わざわざ出向いてきたわけです。
この建物は、ドアに仕掛けるトリックはまったく不可能な構造であること、また、窓にも完全な鉄ごうしがはまっていて、なんら策をほどこす余地のないこともわかっております。すると、犯人はいったいどこから外に出ることができたか。これが与えられた問題ですね。
ところが、アメリカに、ドアにも窓にも関係なく密室を造ることを考え出した犯人があります。それは屋根です。屋根の横木を、ジャッキの力で上にあげて、そこに人間ひとり出入りできるすきまを作るのです。そして、出たあとはもとのとおりにしておくのですから、ちょっと気がつきません。密室トリックには、こういう新手があるのですね」
それを聞くと、警視庁鑑識課のおもだったひとりが、思わず口をはさんだ。
「ところが、あの書斎の天井は白い漆喰で塗りかためてあるのですよ。漆喰をこわさないでは絶対に出はいりできない。そして、その漆喰には少しもこわれたあとがないのです」
松下という紳士は、少しも騒がず、それを受けて、
「わかりました。しかし、ぼくはこの事件の犯人が、屋根から出はいりしたと申したわけではありません。こういうきばつな例もあるということを、お話ししたまでです。屋根といえば、もっときばつな手を使った犯人が日本にあります。つい五、六年まえのことです。山形県のいなかで、小さな家の屋根にロープをかけて、その家の上に太い枝を張っている大きなカシの木にいくつも万力をつけ、屋根全体を上に持ち上げて、そのすきまから逃げ出し、屋根はまたもとのようにしておくという、気ちがいめいたことをやった犯人がありました。
ところが、これも四、五年まえのことですが、こんどはアメリカに、それに上越すとっぴなトリックを考えついたやつがあるのです。その男は、ある原っぱで人を殺しました。そして、それを不可能な犯罪に見せかけるために、という意味は、そうすれば犯人の物理的なアリバイがなりたつわけですからね、そのために、その原っぱの死体の上に、一晩のうちに一軒の家を建てたのです。ドアにも窓にも、中からカギをかけておいて、それから板壁をうちつけたのです。そうすれば密室のなぞができ上がります。犯人はドアや窓からではなくて、壁から出入りしたのです。そして、外側から板壁を打ちつけたのです。まさか、人を殺しておいてから、その上に家を建てるなんて、だれも想像しませんからね。いかがです、この話は今度の事件のご参考にはなりませんか」
そのとき、警官たちの中にまじって、この話を聞いていた谷口じいさんが、こそこそとどこかへ立ち去ろうとしたが、松下紳士は目早くそれを見つけて、声をかけた。
「そこの白ひげのおじいさん。あなたはここのうちの人でしょう。あとでちょっとお話があります。どこへも行かないで、もうしばらくぼくの話を聞いててくれませんか」
そのひとことで、立ち去りそうにしたじいさんがくぎづけになってしまった。じいさんは気まずいにが笑いをして、もとの場所にもどった。
「人を殺してから、家を建てる。この着想は実におもしろいと思う。ここのレンガ建ての離れ家は、聞けば、ごく最近でき上がったということです。皆さんは建築が完成してから殺人が行なわれたとお考えになっている。まことにもっともなお考えです。人は全部建築ができてからでなければ、そこに住まないのが普通ですからね。
ところが、それを逆にしてみたらどうでしょう。犯罪者のトリックというものは、いつも常識の逆をいって、人の虚を突くものです。つまり、常識の盲点を利用するわけですね。こんどの殺人は、建物が完成するかしないかの、きわどいときに行なわれました。もし、トリックをろうする余地ありとすれば、そこにこそあるべきです。
ぼくは見ていたわけではありませんから、どこをどうしたという具体的なことはいえません。ただ、原理を申しあげるにすぎないのです。あの離れ家の壁が全部でき上がらないうちに、ドアや窓を完成したと仮定します。そして、ドアには中からカギをかけ、かんぬきをおろし、窓には鉄ごうしをはめ、ガラス戸に掛け金をかける。しかし、まだ壁には人間の出はいりできるほどの穴があいているのです。その穴から犯人が逃げ出して、外からレンガで、その穴をふさいでしまう。これも一つの着想です。建築の方式にない順序ですから、人の意表を突くのです」
そのとき、またさっきの鑑識課員が、口をモゴモゴやって、何かいいだしそうなふうに見えたので、紳士はそれを手で制して、
「あなたのおっしゃろうとしていることはわかります。それをこれからお話しするのです。いま申しあげた方法は、こんどの場合にはあてはまりません。なぜといって、壁はレンガだけでなくて、室内の側には、レンガの上から漆喰が塗ってありますし、また、板の腰張りがあります。犯人が外に出てから、こういう内側の細工をすることは、とてもできません。ですから、こんどの場合には、この方法は除外しなければならないのです。
では、ほかにどんな方法があるのか。実に簡単な方法があるのです。レンガ職人でも左官屋でもかまいません。それをひとりだけ残しておいて、殺人のあとで仕事をさせるのです。どこの仕事か──。窓の鉄ごうしをはめる仕事です。おわかりですか。鉄ごうしをはめるまえに殺人をやるのです。そして、犯人は窓から逃げ出す。そのとき、窓ガラス戸の掛け金は、まだかかっておりません。
それからどうするのか、犯人は職人に死体を見せてはたいへんなので、逃げ出すまえにシーツのようなものを死体の上にかぶせておきます。そして、そのシーツのどこかに太い糸を結びつけて、その糸のはじを、窓の外から手をのばせばつかめるような個所に、ちょっと結んでおくのです。ガラス戸の掛け金に結びつけてもかまいません。
さて、窓から出たら、ガラス戸をしめて、それから職人を呼んで鉄ごうしをはめさせるのです。聞けば、こうしの鉄棒は一本ずつセメントの中に深く埋めてあるということですから、そのセメント塗りの仕事をやるわけですね。そして、鉄ごうしが完成して、職人が帰ったあとで、外から窓のガラス戸をひらき、さっきの糸のはじをひっぱって、シーツを外へ引き出してしまう。それから、ガラス戸の掛け金を上にあげておいて、静かに戸をしめてから、掛け金の外側を強くたたくと、掛け金がその響きで受け金の中に落ちて、戸締まりができるというわけです。乾燥剤を入れたセメントを使えば、一日でかわきます。そして、二、三日たってから事件を起こせば、建物全体が新しいのですから、どこが最後に仕上げられたか見分けられるものではありません。これなら、どこにも不合理なところはありますまい。いかがです。これはただ一例ですが、こういう方法も可能だということを申し上げたかったのです。
それから、もう一つだけ申しそえることがあります。いま仮定したのは、室内で殺人をやって、犯人が外へ逃げる場合ですが、その逆も考えうるということです。あらかじめ屋外で殺人をやっておいて、工事の進行のちょうど適当なときに、職人が帰ったあとで、その死体を、今の例でいえば、窓から室内に持ちこむという方法です。この場合も、ほかの点は、すべてまえと同じ順序なのです。
ぼくの申し上げたいことは、これだけです。では、皆さん、失礼します」
松下という紳士は、そこでていねいに一礼すると、あっけにとられている人々のあいだをくぐるようにして、門のほうへ歩いていった。
門を出ると、一町ほど向こうを、つんつるてんの黒セビロを着た谷口じいさんが、ちょこちょこと小走りに歩いて行くのが見えた。じいさんは、いつのまにか、庭の人々のあいだから逃げ出していたのだ。
松下紳士は、駆けるようにしてそのあとを追い、たちまちじいさんに近づいていった。
「やっぱり逃げ出しましたね。あれほどぼくがいっておいたのに」
うしろから声をかけられて、じいさんはギョッとしたように振り返った。
「おや、あなたはさっきのおかた」
「しらばっくれてもだめだよ。せっかくの密室トリックも、すっかり種が割れてしまったんだからね」
紳士のことばがにわかにぞんざいになった。
「といいますと?」
じいさんはきょとんとしている。
「ハハハハハ、おしばいはうまいもんだね。だがね、さっきの死体がにせものだってことは、もう今ごろ、病院でばれてるころだぜ」
「え、え、なんとおっしゃる。あの死体がにせもの……」
じいさんは、ほんとうにびっくりした様子だ。
「ハハハハハ、おどろいているな。おい、じいさん、もうそのひげを取ったらどうだ」
「え、このひげを?」
まだしらばくれようとするのを、紳士はいきなりじいさんに飛びかかって、白い口ひげとあごひげを、むしりとってしまった。すると、その下から現われたのは、意外にも、殺人会社専務、須原正の泣きだしそうなしかめづらであった。
「須原君、さすがのきみも、まんまとしくじったね」
だが、須原には、この紳士が何者だか、まだ判断がつかなかった。
「で、あんたは、あんたは、いったいだれです?」
哀れな声で尋ねた。
「わからないかね。ぼくだよ。この口ひげとめがねがないものと思って、よく見てごらん。ほら、ね。ウフフフフフ」
「あんた変装していなさるのか。はてな、どうもよくわからんが……」
小男の須原は、まぶしそうに目をパチパチやっている。
「ハハハハハ、わからないかね、ほら、おれだよ」
弁護士はそういって、めがねをはずし、口ひげを取り去って、ヌッと顔をつき出してみせた。
「や、や、あんたは佐川春泥⁉ これはどうしたというのだ」
須原は、キツネに化かされでもしたような顔つきで、ぼうぜんと相手を見つめるばかりであった。
「どっかでゆっくり話をしよう。おれのほうじゃ、まだもらうものがあるんだからね」
影男の佐川春泥は、発案料の残金三百万円を、まだ取り上げようとしているのだ。
「よろしい。わしのほうでも、聞きたいことがある。ああ、あすこに神社の森がある。あの中で話そう。こういう話は、うちの中じゃあぶないからね」
すぐそばに、神社の深い森があった。ふたりは、まるで仲よしの友だちのように、肩をならべて、その森の中へはいっていった。
「このへんがよかろう。きみも掛けたまえ」
小男の須原が、大きなカシの木の根に腰かけると、影男も向きあって腰をおろした。
「いったい、これはどうしたわけだ。残念ながら、わしにはまだわからないよ。まんまといっぱいくわされたね」
須原がふしぎそうな顔でいうと、影男はニヤニヤ笑いながら、説明をはじめた。
「東京港のボートの中で、お互いにピストルを見せあったね。きみが二五口径のコルトを持っていることは、まえから知っていた。それで、おれも同じコルトを手に入れたが、それがまったく同じ型かどうかを、あのとき確かめたのだよ。そして、このあいだの晩、きみがたずねてきたとき、そっときみのポケットのピストルとすり替えておいたのだ」
「エッ、すりかえた? いつのまに? これはおどろいた。きみは奇術師だ」
「奇術師だよ。おれのような世渡りには、奇術が何よりたいせつだからね。専門家について習ったものだ。そういうわけで、きみのポケットへすべりこませておいたピストルの最初の一発はから玉だった。あとは実弾だが、おれは一発で死ぬつもりだったから、それでよかったのだ。きみがあとになってピストルを調べても、残っているのは皆実弾だから、まさか最初の一発だけがから玉だったとは気がつくまいからね」
小男須原の顔に驚嘆の色が現われた。
「おそろしい度胸だ。わしがもし二発めを撃ったら、きみはほんとうに死んでいたのだぜ」
「ハハハハハ、そこが心理学さ。一発で相手が倒れて、動かなくなったら、二発めは撃たないものだ。犯人は音をたてることを、ひどく恐れるからね。
きみはおれのすり替えておいたピストルで、おれを撃った。きみが撃つだろうということは、ちゃんとわかっていた。だから、おれはしばいの血のりを用意しておいてね、きみがピストルを撃つと、すぐに倒れながら、自分の顔に血のりを塗りつけて、ピストルが顔にあたったように見せかけた」
そこまで聞いても、須原にはまだがてんがいかなかった。
「ちょっと待ってくれ。それはおかしいよ。わしの目の前で倒れたのは、たしかにきみだった。ところが、わしはあのとき、心臓にさわってみたし、手首の脈もとったが、どちらも完全にとまっていた。わしはぬかりなく確かめたつもりだ。それが生き返るなんて、考えられないことだ」
「あれも奇術さ」
「エッ、奇術で脈がとまるのか」
「心臓をとめるのはむずかしい。だから、おれはシャツの中に、胸の形をしたプラスチックの板を当てておいたのだ。そうすれば、さわっても鼓動は感じない。手首のほうはプラスチックをかぶせるわけにはいかない。これは昔から奇術師のやっている方法を用いた。わきの下にピンポンの玉より少し大きいぐらいの堅いゴム玉をはさんで、腕の内側の動脈にあてがって、グッとしめつけているんだ。そうすると、そこから先の手の脈はとまってしまう。ちょっとのあいだ脈をとめてみせるなんて、わけのないことだよ」
「うーん、そんな手があるとは知らなかった。さすがにきみは『影男』だよ。で、わしがきみの死骸にむしろをかぶせておいて、仲間へ電話をかけているあいだに、きみはのこのこ起き上がって、別のほんものの死体と入れかわったってわけか」
「きみのたくらみは、海の上でピストルを見せあったときからちゃんとわかっていたので、医科大学の実験用の死体のなかから、おれに近い年配、背かっこうのものを盗み出させ、レンガの書斎のそばの木の茂みの中へ隠しておいた。この死体のほうは、ほんとうに顔に傷つけて、血だらけにして、それにおれの服を着せておいたので、きみはうまくごまかされたのだよ」
須原はいよいよ感にたえた顔つきであった。
「きみみたいな奇術師にあっちゃあかなわない。そもそものはじめから、わしはやられていたんだね。わしのほうでは、犠牲となるきみ自身に完全犯罪の計画をたてさせ、そのきみの計画できみを殺そうという、思いきった手を考えついたんだが、きみは早くもそれを察して、裏の裏の手段を用意していた。わしのほうが底が浅かったことを認めるよ。だが、わしはまだ負けたわけじゃない。裏の裏には、またその裏があるかもしれないからね」
小男の須原が、顔じゅうをしわだらけにして、ニヤニヤと笑った。
影男はその表情を見て、「しまった」と思った。思わずポケットに手をやったが、ピストルは持っていなかった。立ち上がろうとしたが、もうおそかった。うしろから、がんじょうな腕がニューッと首に巻きついてきた。木の陰に、もうひとりの敵が隠れていたのだ。
それを見ると、須原も前から飛びかかってきた。小男の須原はたいしたこともなかったが、うしろの敵はおそろしい力を持っていた。鋼鉄のような腕を持っていた。
影男は、全身の力をふるって、首に巻きついた腕をもぎはなし、すばやく立ち上がった。それから五分ばかり、激しい死闘がつづいた。
敵はふたり、味方はひとり、それに、新しく現われたやつがおそろしく強いので、さすがの影男も、とうとう組み伏せられてしまった。うしろにねじあげられた両の手首に、細引きがグルグル巻きついてきた。それから、両方の足首にも。そして、ごていねいに、さるぐつわまではめられてしまった。
「ハハハハハ、きみにも似合わないゆだんだったね。まさかこの森の中に伏兵がいようとは、思いもおよばなかっただろう。これで、つまるところ、わしの勝ちというわけだね」
小男は息を切らしながら、毒口をたたいた。
もうひとりの男は、影男は知らなかったけれども、昌吉と美与子のふたりを小べやの中に塗りこめたとき、ドアの外のレンガ積みをやったあの斎木という運転手であった。
「さあ、急いで車まで運ぼう」
小男のさしずで、ふたりがかりで影男をかかえ、森の奥深くはいっていった。そして、神社の境内を囲む生けがきの破れから道路に出ると、そこに一台の自動車が待っていた。
影男はその後部席に押しこまれ、須原がとなりに腰かけて監視役をつとめた。運転手は前部席にはいって、ハンドルを握った。車はゆっくりとすべりだした。
徐行させながら、運転手はうしろを振り向いて、殺人会社専務取締役の須原に話しかけた。
「専務さん。実はちょっと心配なことがあるんです。こいつを車にのせるのを急いだので、今までだまっていましたが、大敵が現われたのですよ」
「エッ、大敵とは?」
須原は驚いて、運転手の横顔を見つめた。
「こいつに聞かれてもかまわないでしょうね。さるぐつわははめたけれど、耳は聞こえるんだから」
「かまわないとも、こいつはもうのがしっこないからね。まもなく、この世をおさらばするやつだ。何を聞かせたってかまやしない」
須原は、こんどこそ、よほどの自信があるらしい。
「それじゃいいますがね、明智小五郎のやつが、われわれの事業を感づきゃがったのですよ」
「エッ、明智小五郎が?」
「ぼくはここへ来るまで、六本木の事務所にいたんですが、専務さんが出かけられてまもなく、変な電話がかかってきたんです。相手はだれだかわかりません。明智小五郎が感づいたから注意しろという警告です。からかいかもしれません。しかし、用心に越したことはありませんからね。六本木のうちへはいるのは、よくあたりを調べてからにしたほうがいいでしょう」
「そうか。それがほんとうだとすると、薄気味のわるい話だな。明智が動きだせば、そのうしろには警視庁がいる。そんなことになったら一大事だぞ。で、ほかのふたりの重役は、それを知っているのか」
「符丁電話で知らせておきました。おふたりさんは、もう今ごろは安全地帯へ逃げ出していますぜ」
須原は腕組みをしてだまりこんでしまった。
運転手も正面を向いて自動車の速度を増した。
「よし、この辺でとめろ。きみは降りて、ちょっとうちの近くを見てきてくれ」
六本木にはいると、須原がさしずを与えた。運転手は車をとめて、ひとりで降りていったが、しばらくすると、しんけんな顔つきになって帰ってきた。
「いけません。うちの裏表に、五、六人はりこんでいやあがる。刑事かどうかわかりませんが、とにかく、われわれの帰るのを待ち伏せしているのはたしかですよ」
「そうか。それじゃ、品川の事務所へやれ。御殿山の家だ」
車はふたたび走りだした。御殿山にも殺人会社の事務所があるものとみえる。事務所というのは、つまりかれらの隠れ家なのだが、この調子では、そういう隠れ家をほうぼうに持っているらしい。それほどの用意がなくては、殺人会社などというだいそれた事業はできないのであろう。
御殿山の近くまで走ると、また車をとめて、運転手だけが物見に出かけていったが、まもなく、顔色をかえて走りもどってきた。
「だめだ。ここにも張りこんでいやあがる。こんどはどこにしましょう」
「尾久だ」
須原はひとこといったきり、だまりこんでしまった。車は矢のように走った。品川から尾久までは相当の距離であった。尾久の隠れ家に近づくころには、もうあたりが薄暗くなっていた。
驚いたことには、尾久の隠れ家にも見張りがついていた。
小男須原の顔には、四方から追いつめられた野獣の相貌が現われてきた。
車はさらに三カ所の隠れ家に走ったが、どこにも手まわしよく見張りの者がついていた。これはもう、私立探偵単独の行動ではない。警視庁も力を合わせているのだ。
右に左に逃げまどっていた野獣が、ついに逃げ場を失ったように、須原たちの自動車は世田谷区の、とある街道に立ち往生をしてしまった。
須原は長いあいだ考えこんでいた。このぶんでは、もう非常線が張られているかもしれない。東京から外へ出ようとするのは危険だ。といって、都内の大道路でもいつ検問を受けないともかぎらない。早くどこかへ隠れなければならぬ。
須原はとうとうかぶとを脱いだ。こういう場合には何よりも鋭い知恵が頼みだからである。かれは後部席のすみにぐったりとなっている影男の肩をそっとつついて話しかけた。
「様子はきみも聞いていただろう。わしがつかまれば、きみも同罪だ。きみはわしの仕事をてつだったばかりじゃない。きみ自身でも、ずいぶん悪事を働いている。つかまったら、当分日の目を見ることはできまい。だからね、ものは相談だ。隠れ場所を教えてくれ。明智の手も、警視庁の手も、絶対に届かぬような、安全な隠れ場所を教えてくれ。教えてくれる気なら、さるぐつわをといてやるが、どうだ」
それを聞くと、影男が深くうなずいてみせたので、すぐさるぐつわを解いてやった。
「また仲直りか」
影男は口がきけるようになると、直ちに皮肉の一矢を放った。
「うん、しかたがない。お互いの利害が一致すれば、一時休戦だ。とにかく、今はきみもわしも、身の安全を図らなければならない。こういう場合、いつも名案を持っているのは、きみのほうだ。お互いのために、ひとつ知恵をしぼってくれ」
「窮余の講和というわけか。きみもずいぶんかってなやつだな。まあいい、それほどにいうなら、ひとつ名案をさずけてやろう。影男は融通むげ、窮するということを知らない人間だからな」
「たのむ、たのむ。こうなれば、きみの知恵にすがるばかりだ」
「それじゃあ、この細引きを解いてくれ。からだの自由がきかなきゃ、名案も浮かばないよ」
「うん、解いてやる。だが、だいじょうぶだろうな。わしを裏切って、逃げ出す気じゃないだろうな」
「そんなに疑うなら、よしたらいいだろう。おれのほうから頼んだわけじゃない」
「わかった、わかった。それじゃあ、解いてやる。そのかわり、もし逃げようとすれば、わしもやけくそだ。ピストルをぶっぱなすよ。ほら、これだ。こんどはから玉じゃないぞ」
須原は例のコルトを見せておいて、細引きを解いてやった。
影男は自由になった両手をさすりながら、
「ここはどこだ」
「下高井戸の近くだよ」
運転手がふりかえって答えた。
「荻窪まで、どれほどかかる?」
「十五、六分だな」
「よし、荻窪だ。荻窪から青梅街道を少し行ったところだ。そのまえに電話をかける。公衆電話があったら止めてくれ」
車は走りだした。西の空の夕焼けがだんだん薄らいで、街灯の光が目だちはじめていた。
じきに公衆電話のボックスがあった。影男は、ポケットの中でピストルを構えた須原につき添われて車を降り、ボックスにはいった。
「うまいぐあいだ。隠れ場所が見つかったぞ。これから、きみにおもしろいものをみせてやる」
影男は、やがてボックスを出ると、ニヤニヤ笑いながら、そんなことをいった。
ふたたび車は矢のように走りだした。国鉄の線路をこえて、青梅街道に出ると、影男が右、左とさしずをした。そして、止まったのは、高いコンクリートべいでかこまれた大きな屋敷の門前であった。電話で知らせてあったためか、車がとまると、アラベスクのすかし模様の鉄の門扉が、音もなくいっぱいにひらいた。車はその中へすべりこんでいった。すると、門扉は静かに、ふたたびとざされた。
門内に車をとめて、三人が降りると、どこからか黒ビロードのシャツとズボンを着けた男が影のように浮き出してきて、影男と何かささやきかわしたかと思うと、そのまま先に立って、裏庭のほうへ回っていった。
そこには森のように木が茂っていた。そして、大きな池が黒く見える水をたたえていた。黒い男の手まねで、三人はその池の岸に立ちどまった。影男はこれから何が起こるかをよく知っていたけれども、須原と部下の運転手は、はじめてここに来たのだから、一種異様の不安を感じないではいられなかった。
「妙なところへ来たが、これからどうなるんだね」
須原が影男の耳に口をつけるようにして、心配そうにささやいた。
「この池の中へ隠れるんだよ」
影男は、自分自身の経験を思い出して、心の中でクスクス笑いながら、わざと思わせぶりな答え方をした。
「エッ、なんだって? この池へはいるのかい」
「うん、はいるのだよ。水の中へもぐるんだよ。ウフフフフフ。だが、安心したまえ、直接もぐるんじゃない。それにはうまい方法があるんだ。いまにわかるよ。まあ、見ていたまえ」
みなだまりこんでいた。広い邸宅ばかりの寂しい場所だし、この庭そのものが森林のように広いので、何の物音も聞こえてこない。夕やみは刻々に迫り、一つのあかりも見えず、あたりはもう見分けられぬほどの暗さになっていた。やみと静寂とが、異常な別世界を感じさせた。
黒い池の表面がかすかにゆれているように見えたが、突然、そこから棒のようなものが現われてきた。棒の先がキセルのがん首のように曲がっている。ペリスコープだ。それが三フィートほども伸びると、池水はさらに激しくゆれ動いて、直径三フィートもあるまっくろな円筒形のものが、池中の怪獣のようにヌーッと巨大な頭をもちあげてきた。
鉄の円筒が水上二フィートほどで静止すると、その上部の円形のふたが静かにひらき、その中から、鉄ばしごがスルスルとのびて、池の岸に掛けられた。
「じゃあ、どうか」
黒ビロードの男がささやくようにいって、まっさきにそのはしごを渡り、円筒の中へもぐりこんでいった。
「あの中へはいるんだ。これが別世界への入り口だよ。別世界へはいってしまえば、もうこの世とは縁が切れるのだ。絶対の安全地帯だよ。さあ、おれについてくるんだ」
影男は須原と運転手にそういって、はしごを渡りはじめた。ふたりはそのあとにつづく。
鉄の円筒の内側には、縦のはしごがついていた。ひとりずつそれを伝い降りて、円筒の底に立った。狭い場所なので、からだをくっつけ合っている。
影男は経験ずみだが、須原と運転手ははじめてなので、まっくらな円筒の底にとじこめられ、これからどうなることかと、異様の不安に襲われないではいられなかった。
どこかでモーターの音がして、円筒がゆらゆらと揺れたかと思うと、なんだか目がくらむような気がした。ちょうどエレベーターの下降する感じだった。
円筒が池の底へ静かに沈下しているのだ。円筒がふたたび静止すると、目の前の鉄の壁に、縦に糸を張ったような銀色の光がさし、それがみるみる太くなっていく。円筒の壁の一部がドアになっていて、それがひらいている。向こう側の電灯が、ドアがひらくにつれてさしこんでくるのだ。
池の底では円筒が二重になっていて、出入り口も二重ドアなので、けっして水が浸入するようなことはない。人々が円筒を出ると、二重ドアは自然にしまっていく。
「こちらへ」
黒ビロードの男が先に立って、地底の洞窟を奥へ進んで、岩膚と見わけのつかぬ一枚のドアをひらくと、そこに接客用の小べやがあり、イスやテーブルが置いてあった。
「これはようこそ。お電話がありましたので、お待ち申しておりました」
まるまると太った色白の顔にちょびひげのある紳士が、イスから立ち上がって、西洋流のゼスチュアであいさつした。
「ぼくは二度めですが、このふたりははじめてです。例の極楽を見せてやりたいと思いましてね」
影男がふたりを引き合わせて、みなが席につくと、案内役をつとめた黒ビロードの男が一礼して立ち去ろうとするので、影男はこれを呼びとめた。
「ぼくらの乗ってきた自動車は、ガレージに入れておいてください。門の外から見られないようにね」
男はうなずいて、また一礼して引きさがっていく。
「ところで、規則に従って、まず観覧料をお支払いします。まえのとおりでよろしいですね」
「はい、さようで」
色白のちょびひげ男は、もみ手をして答える。
影男はポケットから小切手帳と万年筆を取り出し、百五十万円の金額を書き入れて、さし出しながら、
「ぼくの小切手ですが、まちがいはありません。もうおなじみになっているんだから、ご信用願えるでしょうね」
「もちろんでございます。あなたさまのばくだいなご収入については、わたくしどものほうでも、よく承知いたしておりますので」
ちょびひげはちょっとウインクをして、ニヤリと異様に笑ってみせた。
「では、三人いっしょに奥へ行ってもよろしいですか」
「もちろんでございます。ですが、ちょっとお断わりしておきますが、あなたさまがこのまえご覧になりましたけしきは、がらり一変いたしておりますよ。このまえは海でございましたが、こんどは森でございます。艶樹の森と申しまして、別様の風景を作り上げたのでございます。それから、第二のパノラマ世界もまた、すっかり変わっております。それは荒涼たるこの世のはてでございます。そこへ行く通路は……いや、これは説明いたしますまい。艶樹の森をさまよっておいでになれば、自然とそのもう一つの別世界に出られるようになっております……では、どうか廊下を奥へお進みいただきます。案内のものは、このまえと同じように、途中までお出迎えしておりますから」
ちょびひげに送り出されて、三人はトンネルのような洞窟の中を奥のほうへ進んでいった。どこかに隠しあかりがついているとみえて、洞窟のゴツゴツした岩膚が、ぼんやりと見えている。
しばらく行くと、洞窟の奥から、まっしろなものが現われてきた。このまえと同じ全裸の美女である。三人はこの裸女の案内で岩屋の湯にはいり、着替えをすませた。すべてまえのときと同じである。三人のうち、斎木運転手だけは、なぜか湯にはいらないで、着替えだけにした。着替えたのは、例のぴったりと身についた黒ビロードのシャツとズボンである。
それから三人は、例のまっくらな洞窟の中へはいっていった。トンネルはだんだん狭くなり、ついには四つんばいにならなければ通れないほどになった。そして、やがて行きどまりだ。だが、影男は経験ずみなので、迷わなかった。じっと待っていると、正面の岩がスーッと横に動いてそこにぽっかり通路がひらいた。
ひらいた岩の向こうに、急な上りの階段があった。それを上っていくと、そこに不思議な世界がひらけていた。
三人がはい出した穴は、目の届くかぎり果てしもしらぬ大森林のまんなかであった。
ここは地上ではない。むろん、地底世界のつづきなのだ。地底にこんな大森林があるはずはない。むろん、この世界の経営者の巧みな目くらましにちがいない。このまえには、地底に無限の大洋がひろがっていた。それはパノラマ原理の応用であった。この大森林も、おそらくそれに似た幻術なのであろう。
だが、この森は地上では見ることのできない不思議な森であった。そこの巨樹たちも、いかなる植物学者も目にしたことのない異様の妖樹であった。
そのふたかかえもある太い幹は、白、桃色、またはキツネ色の複雑な曲線におおわれ、それが絶え間なくむくむくとうごめいていた。うごめく樹幹の上には、巨大なシュロの葉のようなものが、空を隠して繁茂していた。
森の中にはなま暖かく甘い芳香が、むせ返るように漂っていた。それは若い女性の肉体から発散する香気であった。
三人は手近の一樹の幹に近づいて、こわごわそれを観察した。その幹は、裸女の肉体の密集からなりたっていた。おそらく、中心に一本の堅い棒が立っているのであろう。その棒の頂上からシュロの葉が四方にひろがっているのであろう。だが、幹は生きて動いている。棒の下から頂上まで、裸女がそれに取りすがって、折り重なり、ひしめき合っているのだ。そして、うごめく白と桃色とキツネ色の幹ができ上がっているのだ。
からだとからだとがすきまなく密着し、重なり合っているので、全体がなまめかしい曲線を持つ一本の太い柱になっている。古代インドの石窟の柱には、これに似た彫刻がきざまれていた。しかし、あれは動かぬ石の彫刻、ここのは生きてうごめく肉の彫刻である。
よく見ると、ひとりの女のわきの下にはさまれ、別の女の顔がこちらを向いて、にこやかに笑いかけていた。ひとりの女のゆたかなおしりの下に、別の女の乳ぶさが震えていた。腕と腕とがねじれ、足と足とがからまり、ある腕や足は肉の枝となって横ざまに伸び、ふりみだした黒髪は、巨木にまといつくツタカズラとも見えて、それらがつとめて静止してはいるのだが、若い生きもののことだから、むくむくと、絶えずどこかが動いている。
それがただ一本の幹ならば、さして驚くこともないのだが、何百何千本、同じような裸女の巨木が目もはるかに、無限のかなたまでつづいている。こんなことがはたしてありうるのであろうか。
一本の木に十数人としても、数百本、数千本となっては、ほとんど数えきれない裸女を動員しなければならない。この地底世界に、それほどの巨資があるのであろうか。このまえにちょびひげがいっていたのでは、地底世界の女の数は百人ぐらいのはずであった。そのくらいの人数で、この見るかぎり裸女で埋まっている森林ができ上がるはずはない。
やっぱりパノラマの原理で、遠方の木は壁画にすぎないのであろうか。だが、それにしては、はるかかなたの小さく見える木々までも、みな生あるもののごとくうごめいているのは、どうしたわけであろう。
三人はあまりの妖異に、ものいうことも忘れて、ふらふらと、裸女の幹から幹へとさまよっていった。かれらの右ひだりを、白、桃色、キツネ色の、あらゆる曲線が送りまた迎えた。顔を外向けにしているのはごくまれであったが、その顔は皆、三人の旅行者にみだらなほほえみを送った。顔のまわりには、ふくよかな腰、腹、乳、肩、しり、もも、腕がひしひしと取りかこんで、微妙に蠕動していた。ある膚は白くなめらかに、ある膚は桃色に上気し、ある膚はにおやかに汗ばんでいた。
「おやッ、見たまえ、あっちから、黒ビロードの見物人がやって来るぜ」
須原が地底にはいってから、はじめて口をきいた。
見ると、向こうの樹間に、ちらちらと黒い人影が見える。やっぱり三人づれでこちらへやってくる。
「アッ、あっちにもいる」
そのほうを見ると、そこにも同じような三人づれ。
「ごらんなさい。うしろからもやって来る」
運転手の声にふり返ると、後方の樹間にやっぱり三人の黒い人影。
「や、あすこにも!」
「おや、こちらからも!」
三人はグルグルまわりながら、四方をながめまわしたが、四方八方の立ち木のかなたに、無数の黒い人影がちらついていることがわかってきた。そればかりではない。二十メートルほどのところに立っている三人の黒衣のはるか向こうに、また同じような人影がちらつき、そのまた向こうの、かすんで見わけられぬほどの遠方にも、小さな人影が見えている。四方八方そのとおりなのだから、この森の中にいる黒ビロードの見物人は、ほとんど数えきれないほどの数である。
いよいよ、ただごとではない。こちらが気でも狂ったのではないか。恐ろしい夢を見ているのではないか。
「アハハハハハ」
突然、影男が笑いだした。ほかのふたりはギョッとして、その顔を見つめる。
「わかった。手品の種がわかったよ。鏡だ。鏡が四方にはりつめてあるんだ。いや、四方じゃない。ここは八角形のへやで、八方が鏡になっているんだ。だから、ほんものの女体の木は十本ぐらいで、あとは鏡に写ったその影なんだ。八面の鏡に反射し、逆反射するので、無限に遠くまでつづいているように見えるんだ。黒ビロードの見物もそのとおり、ほんものはわれわれ三人きりだが、それが八方の鏡に映って、あんなにおおぜいに見えるんだ。
地上世界の見せ物でこんなことをやれば、すぐに種がわかってしまうが、地底の洞窟という好条件がある。それに、照明が実にうまくできている。そこへもってきて、女ばかりでできた木の幹というずばぬけた着想だ。ひょいとここへいれられた見物は、どぎもを抜かれて、つい目もくらもうじゃないか」
手品の種がわかっても、目の前の不思議なながめは、少しも魅力を失わなかった。ともかくも、何十人というほんものの裸体の娘が、巨木の幹の代理をつとめているのだ。その一つ一つにちがった膚の色、肉のふくらみ、曲線の交錯、サイレンのようにみだらな笑顔、それらの細部を見つくすまでは、男心を飽きさせることはないのだ。
そのとき、どこからともなく、おどろおどろしく太鼓の音が聞こえてきた。怪談作家ブラックウッドが、アマゾン川の流域の無人の境で聞いたというあの別世界の音響のように、所在不明の太鼓の音が響いてきた。
三人は慄然として立ちどまり、互いの目をのぞき合った。
太鼓についで、静かに起こる弦楽の音、十数張りのバイオリンのかなでるこの世のものならぬ妖異のしらべ。それにつれて、裸女の森林をゆるがす大音響がわき上がった。美しく、雄大きわまる女声の四部合唱。木々の幹なる裸女どもが、口をそろえて歌っているのだ。その歌声は洞窟にこだまし、八方の鏡にはねかえされて不思議な共鳴を起こし、無限のかなたまでつづく大森林全体が、歌に包まれ、歌に揺れているように感じられた。
耳をろうする歌声は、あるいは低く、あるいは高く、いつまでもつづいた。そのリズムに取りまかれ、リズムに身も浮き上がり、三人のからだが徐々に調子を合わせて動揺しはじめたのも無理ではなかった。
ぴったり身についた黒ビロードのメフィストたちは、しなやかに手を振り、静かにステップを踏んで、歌うたう裸女どもの幹から幹へと、身ぶりおかしくめぐりはじめた。
めぐりめぐれば、次々と笑いかける愛らしい目、におやかなくちびる。木の枝になぞらえてバレーのように高々とあげた裸女の足、裸女の手も、歌声に合わせて、ゆるやかに律動していた。その中を、踊りながらめぐり歩く黒ビロードのメフィストは、ゆらぐ裸女の手に触れ、足に触れ、肩をなで、乳ぶさをかすめ、はては、歌うたうくちびるにさえ触れるのであった。
「や、あれはなんだ?」
須原のとんきょうな声に、指さす方をひと目見ると、さすがの影男も、アッと声をのんで、立ちすくんでしまった。
妖異の森には、妖異のけだものがすんでいた。かなたの樹間に現われたのは、裸女の幹と同様、一見してはなんともえたいの知れぬ怪獣であった。
前にも、横にも、うしろにも、美しい人間の顔がついていた。そして、十本の腕、十本の足、巨大な桃色の怪獣が、その十本の足をムカデのように動かして、こちらへ近づいてくるではないか。
前後左右の五つの顔は、赤いくちびるで歌をうたい、十本の手はなよなよとそれに合わせて拍子をとり、十本の足も巧みにステップを踏んでいる。それは五人の裸女がからだを異様に組み合わせ、ねじり合わせて、一匹のなまめかしい巨獣となったものであった。
洞窟にはいってから二時間あまり、黒いメフィストは時を忘れ、追われている身を忘れ、地上のいっさいの煩いを忘れ、艶樹の森と、地底世界をどよもす音楽と、歌声と、踊り狂う五面十脚の美しい怪獣とに、果てしもなく酔いしれていたが、ふと気がつくと、またしても、ただならぬ奇怪事が起こっていた。
八方の鏡に映る黒ビロードの人影が、刻一刻、その数を増していくかに感じられた。はじめのうちはだれも気づかなかったが、こうも人数がふえてきては、もう気づかぬわけにはいかぬ。影男がまず立ちどまり、つづいて須原が立ちどまった。
「これはどうしたことだ。おれの目が酔っぱらっているのか。それとも、またしても何か地底の魔術がはじまったのか」
「わしの目もどうかしている。鏡の影が倍になった。いや、三倍、四倍になった。見ろ、木の幹のすきまというすきまは黒い人間でいっぱいじゃないか。おかしいぞ。ほら、わしはいま手をあげた。だが、手をあげないやつがいっぱいいる。わしらの影じゃない。別の人間がはいってきたのか?」
ふたりは手を上げ足を上げて、八方の鏡を見まわした。手足をあげている影は、全体のほんの一部分にすぎない。やっぱり、別の黒ビロードがはいってきたのだ。ひとりやふたりではない。五人、十人と、新まいの客がつめかけてきたのであろう。
音楽も歌声も、少しもとぎれないでつづいていた。耳をろうする音響が、かれらの思考力を混迷させたのであろうか。
いや、そうではない。鏡の影とは見えぬ実物の黒ビロードが、前から、うしろから、右から、左から、ふたりのほうへ近づいてくるのがはっきり認められた。その近づきかたが、ただごとではない。賊を包囲した警官隊が、包囲の輪をじりじりとせばめてくるあの感じであった。しかも、その包囲陣は少なくとも十人を下らないように見えた。
ふたりはもう身動きができなかった。いまわしい予感がひしひしと迫ってきた。
だが、音楽と歌声は最高潮に達していた。木々の裸女たちのゆらめきも、物狂わしくなっていた。ワーン、ワーンという響きに八方の鏡もゆらぎ、洞窟そのものも揺れ動いているかと感じられた。
その大音響が、一瞬にしてぴたりと止まった。裸女どもも、人形のように静止した。何かただならぬ鋭い物音が聞こえたからである。それは銃声であった。ピストルの音であった。そのあとのあまりの静けさに、耳鳴りだけがジーンと残っていた。
ハッとして見まわすと、四方から迫った黒ビロードの人々の手に、ことごとくピストルが構えられていた。実物は七、八人だが、八方の鏡に映る何百何千人。そのおびただしい黒衣の人々が、百千の銃口をこちらに向けておびやかしているのだ。
「手を上げろ」
まっさきに進んだひとりが、死の静寂を破ってどなった。
影男も須原も、すなおに両手を高く上げた。妖異な環境と、みごとな不意討ちが、さしもの悪党どもを、いっせつな、無力にしてしまったのだ。
「殺人請負会社専務、須原正、通称影男、速水荘吉を逮捕する」
それは警官の声であった。どうしてこの地底世界へ、警官がはいりこんできたのか。そんなことは不可能ではないか。だいいち、警察官がぴったり身についた黒ビロードのシャツなど着ているというのは、考えられないことだ。
「きみたちは、いったいだれです」
「ぼくは警視庁捜査一課第一係長の中村警部だ。逮捕状もちゃんと用意している」
黒ビロードの人は、そういって、ふたりの前に一枚の紙片を差し出してみせた。一見して、正規の逮捕状であることがわかった。
これはいったい、どうしたことだ。地底世界の経営者が内通したのだろうか。あのちょびひげが、友誼にそむいて警察に知らせたのであろうか。そんなことはありえない。この地下装置による不当営利事業をその筋に知られたら、かれも重い処罰を受けるはずではないか。かれではない。かれが内通するはずはない。では、いったいだれのしわざか?
「おい、須原君、きみの部下の運転手はどこへ行ったのだ。その辺に見えないじゃないか」
影男が恐ろしい顔で須原をにらみつけた。
「うん、わしもさっきから、それが気になっていたのだ。オーイ、斎木、斎木はいないか」
その呼び声に、うしろのほうから黒衣の人々をおしわけて、運転手の斎木が顔を出した。そして、両手をさし上げているふたりのこっけいな姿を見ると、驚く様子もなく、ニッコリと笑って見せた。
「おふたりとも、もう年貢の納めどきですよ」
腹心の部下と信じきっていた斎木が、思いもよらぬせりふを口にしたので、小男の須原は、アッとぎょうてんした。顔は紫色になり、まぶたから飛び出さんばかりの目で、食い入るように相手をにらみつけた。
「おい、斎木、なにをいってるのだ。きさま、気でもちがったのかッ」
小男の須原が、満面に怒気をふくんで、どなりつけた。
「気がちがったのじゃない。きみのほうで、とんでもない思いちがいをしていたんだよ」
斎木運転手は、社長にむかって、ぞんざいな口をきいた。そして、そばの刑事たちにちょっと目くばせすると、ふたりの警官が、それぞれ、影男と須原のからだをしらべて、凶器の類を隠し持っていないことを確かめた。
「思いちがいだって?」
須原が目をむき出して、一種異様の渋面を作った。
「ぼくを斎木だと思いこんでいたのがさ」
「エッ、それじゃ、きみは斎木じゃないのか」
そのとき、斎木と呼ばれる男が、片手で自分の頭の毛をつかむと、力まかせにそれをひきむいてしまった。かつらだった。その下から、あぶらけのないもじゃもじゃ頭があらわれた。
かれは、こんどは両手で自分の顔をおおって、しばらく何かやっていたかと思うと、つるりと、その手をなでおろした。すると、その下から、斎木とよく似ているけれども、しかしどこかまったくちがった顔があらわれた。
影男はその顔を知っていた。新聞や雑誌の写真で見たことがある。もじゃもじゃ頭が目じるしだった。
「アッ、きみはもしや……」
「私立探偵の明智というものだよ」
相好の変わった運転手が、ニコニコ笑っていた。あたりがシーンと静まりかえった。影男も、須原も、急にはものがいえなかった。
やっとして、須原が不思議にたえぬ顔つきで口を切った。さすがにかれは、一瞬のろうばいから、もうおちつきを取りもどしていた。
「ふん、あんたが音に聞く明智先生ですかい。お見それしました。だが、いったい、いつのまに……? 変装の名人とは聞いていたが」
「六本木の毒ガスと塗りこめ事件の少しまえからね。斎木がどこかぼくと似ているのをさいわい、ぼくは斎木をある場所に監禁して、こっちが斎木になりすまし、きみの忠実な部下となった。そして、たった今まで、忠勤をぬきんでていたというわけだよ」
明智はやっぱりニコニコ笑っていた。
「ハハハハハ、これはおかしい。すると、きみは人殺しのてつだいをしたわけだね。篠田昌吉と川波美与子を毒ガスで殺して、へやの中へ塗りこめたとき、きみはレンガ積みまでやったじゃないか。ガスのネジをあけたのもきみだ」
「それがたいへんな思いちがいだというのさ」
「エッ、なんだって?」
「ガスのネジをひらいたり、レンガを積んだりしたときには、ふたりはもう、あのへやにはいなかったのだよ」
「バカなことを。おれたちは、絶えずドアの外で見はっていた。出入り口は、あのドアのほかには絶対になかった」
「見張ってはいたさ。きみとぼくと代わりあってね」
「エッ、代わりあって?」
「ふたりをあのへやに閉じこめて、きみはのぞき窓からしばらくからかっていた。いやがらせをいっていた。それから、川波良斎を迎えに行った。あとの見張りは、このぼくに任せておいてね」
小男の須原の目が、いっそうとび出した。そして、ウーンといったまま、二の句がつげなかった。
「あのすきに、ぼくはへやにはいって、ふたりを逃がした。ふたりは廊下の窓から出て、木のかげを伝って裏口へまわった。そこにぼくの部下が待ちうけていた」
「いや、ちがう。そんなはずはない。良斎をつれてきて、のぞき窓からのぞかせたとき、良斎がふたりの姿を見ている。見なければ、あいつが承知するはずはない」
「そこに、ちょっとからくりがあったんだよ。まあ手品だね。ぼくはズボンとスカートと二足のくつを、新聞紙に包んで、あの廊下の物置きべやに隠しておいた。それと同じ物置きべやにあった古服なんかを持ってあのへやにはいった。そして、ふたりにズボンと、スカートと、くつをぬがせ、ぼくの用意しておいたのとはきかえさせて、逃がしたのだ。残ったふたりのズボンと、スカートと、くつで、古服なんかを芯に入れて、人間の下半身をこしらえた。それを、のぞき窓の下の壁ぎわにならべて置いた。真上の窓からのぞくと、壁ぎわの上半身は見えないから、ふたりが絶望して、壁にもたれて、足をなげ出していると信じてしまったのだ」
「ちくしょう! やりやがったな」
須原が、じだんだを踏むようにして、とんきょうな声をたてた。
影男は興味深くそれを傍観していた。すべてかれには初耳であった。昌吉と美与子が助けられたことをこのときはじめて知り、名探偵の手ぎわを、ヤンヤとほめてやりたいような気持ちだった。小男須原のろうばいは小気味がよかった。
それにしても、ここは名探偵と犯罪者の対決の場として、なんという異常な背景であったろう。うじゃうじゃとひしめく無数の肉体のまっただなかで、探偵理論が語られているのだ。凶悪殺人があばかれているのだ。
裸女たちは黒衣の警官隊の侵入におそれをなして、過半はもう木の幹からおりて、明智とふたりの犯人のまわりにむらがり立っていた。この場を逃げ出したい恐怖心よりも、彼女らの性格として、ふてぶてしい好奇心が勝ちを占めた。なにか見せ物でものぞくように、三人のまわりにむらがって、不思議な問答に聞き耳を立てていた。
明智は話しつづけた。
「すべては斎木の信用にかかっていた。きみは腹心の部下として斎木を信頼しきっていた。それがなければ、ぼくのトリックは成功しなかっただろう。きみの信用をさらに強めるために、ぼくはここにいる佐川君、それとも速水君かね、この人物を森の中で襲って、とりこにした。それから、自動車を運転して、東京のいたるところにあるきみの根城をまわりあるいた。だが、その根城のことごとくに、警察の見張りがついているといったのは、やっぱりぼくのトリックだった。あれはみんなうそなのだ。きみは斎木としてのぼくを信頼しきっていたので、そのうそを見やぶることができなかった。
なぜ、そんなうそをいったか。窮余の一策として、きみが佐川君の知恵を借りるのを待っていたのだ。佐川君がぼくたちをどこへ連れて行くか、それが知りたかったのだ。すると、こういうおもしろい地底の世界を見せてくれた。そして、ここでまた不思議な犯罪者を発見することができた。
三人が三人とも、さすがのぼくも今までに出会ったこともないとびきりの異常犯罪者だった。ひとりは殺人請負会社の専務、ひとりはこの世の裏を捜しまわって恐喝を常習とする影男、ひとりは地底にパノラマ王国を築いてそれを営業とする怪人物、ぼくは一石にして巨大な三鳥を得た。すばらしい獲物だったよ。ハハハハハ」
明智はそのときはじめて、心からのように大きく笑った。その軽やかな、はずむような哄笑が、裸女群の頭上を漂って、八角の鏡の壁に反響した。
すると、影男がこれもニコニコ笑いながら、一歩明智に近づいて、口を切った。
「それにしても、明智先生は、この地底の世界へははじめて来られたのでしょう。それで、どうしてこんなに手早く警察と連絡できたのでしょうか。これにも何か手品の種があるのですかね」
「それは種があるんだよ」
明智はまるで親しい友だちにでも話しかけるような口調であった。
「きみはぼくの少年助手に小林という子どものいることを知っているだろうか。その小林が、ぼくたちの乗ってきた自動車のうしろのトランクの中に隠れていたのだよ。ぼくが隠しておいたのだよ。それはいつだというのか? きみを縛るまえに、あの神社の森のそばでさ。
ここのうちの門をはいってから、小林はそっとトランクから抜け出して、近くの電話で、警視庁の中村警部に場所を知らせた。中村君は部下をつれて、このうちに駆けつけ、へいのまわりに待機していた。
一方、ぼくは地底世界で、ちょっと荒療治をやった。さっき、しばらくのあいだ、ぼくはきみたちのそばを離れたね。きみたちが艶樹と艶獣を観賞しているあいだに、ぼくはひと仕事やったのだ。
きみたちに気づかれぬように、もとの道を引き返して、入り口に近い事務室で、主人のちょびひげを手ごめにしてどろを吐かせた。地底世界の様子が、あらましわかった。ここには八人の男が使われていた。その八人を、次々と事務室に呼んで、次々と縛り上げてしまったのだ。ぼくはこう見えても腕力に自信がある。ひとりとひとりなら、どんな猛者にもひけをとるものじゃない。
それから、ちょびひげを脅迫して、池のシリンダーを浮き上がらせ、待機していた十人の警官を地底世界に引き入れた。そして、八人の男の黒ビロードをぬがせて、中村警部と七人の部下にそれを着せた。この艶樹の森へ黒衣の警官が侵入してきたのは、そういうしだいなのさ。残るふたりの警官は、事務室に縛り上げてあるちょびひげと八人の男を見張っているのだよ。
ここでは詳しく話している暇はないが、ぼくがきみたちの秘密をにぎったのは、山際良子の口からだよ。佐川君のあまたあるガールフレンドのひとりだ。あの子は久しくきみのところへ顔を見せないだろう? それはぼくが手中のものにしたからさ。といっても、恋人にしたわけじゃない。ぼくの熱意にほだされて、悪人の手先から足を洗ったのさ。そして、彼女の知っているだけのことを、ぼくに話してくれた。だから、ぼくはきみの旧悪をあらかた知っている。川波良斎のふくしゅう事件には、ぼく自身とびこんでいったんだから知ってるのはあたりまえだが、そのほかに、春木もと侯爵夫人らの依頼を受けて、小林という艶歌師を古井戸に埋めた事件、須原君の殺人会社の依頼で、世田谷の毛利という富豪の愛人を人造の底なし沼におとしいれる案をさずけた事件など、いくつも確証を握っている。
きみのことを調べていると、須原君の殺人会社のこともわかってきた。きみたちふたりが、ときに味方となり、ときに敵となってもつれ合ってきた関係も明らかになった。それからぼくは須原君の腹心の部下斎木に化けて殺人会社の一員となったので、恐るべき請負会社の過去の悪行の数々を調べあげることができた。
そこで、ぼくはきみたちふたりを、一挙に撲滅する計画をたてた。そして、その計画はみごとに成就したばかりか、まったくぼくの知らなかったこの地底魔境という思わぬ収穫さえあった」
明智が語り終わるころには、影男と須原は、そっと目くばせをして、少しずつ、少しずつ、あとじさりをはじめていた。もう三メートルも、明智とのあいだがひらいた。ふたりは、そうして、裸女の群衆の中へまじりこもうとしているかに見えた。
明智は、それを見ても、なぜか平然としていた。予期していたことだとでもいうように、見て見ぬふりをしていた。
「アッ、明智君、あいつら、逃げるつもりだぞッ」
中村警部がそばによって、明智の腕をつついた。だが、もうおそかった。ふたりの犯人は、群がる裸女の中に突入していた。白と、桃色と、キツネ色の肉団の密集の中を鏡の壁に近づこうとしていた。八人の黒衣が、それを追って、裸女の海を泳いだ。だが、なかなか近づくことはできない。もうピストルも物の役にたたなかった。撃てば女たちを傷つけるにきまっているからだ。
八角形の鏡のへやは、いまや沸きたぎる人肉のるつぼと化した。鏡の影を合わせて、幾千人の裸女と黒衣が、乱れ、もつれ、あわだち、ゆらいだ。百千の口からほとばしる悲鳴は、阿鼻叫喚の地獄であった。
影男と須原とは、この混乱の中を、ようやく一方の鏡の壁に達していた。かれらは手をつなぎあってギラギラ光る壁づたいに走った。その行く手に立ちふさがる女体は、次々と転倒し、足を空ざまにして悲鳴をあげた。
この鏡の壁をつたって一周すれば、どこかに別のパノラマ世界への出口があるだろう。ふたりは期せずして、それを考えたのだ。ちょびひげの説明のなかに、ちらとそんな口ぶりがあったのを忘れなかったのだ。別のパノラマ世界へはいれば、そこにはまた、別の逃亡手段がないとはかぎらない。ちょびひげはそこをこの世の果てだといった。追いつめられた極悪犯人の逃げるところは、もうこの世の果てのほかにはないのだ。
鏡をつたって走っていると、鏡の内側にも、外側にも、無数のひしめく肉体があった。それが押し合い、押し返し、はねのけ、つかみ合い、うめき、叫び、泣き、わめいていた。
かどを一つ、二つ、三つ、四つ、ふたりは執念ぶかく鏡から離れなかった。そして、手の届くかぎりの鏡の面を押し試みた。隠し戸はないかと、たたき、けり、からだごとぶっつかってみた。
「アッ、ここだッ!」
影男がとんきょうなこえをたてた。鏡板の一部がぐらっとゆれて、そこにぽっかりと黒い口がひらいた。ふたりは手をつないで、その中へまろび入った。すると、鏡の隠し戸は、またもとのように、ぴたっと閉ざされてしまった。だれも追ってくるものはなかった。ふたりはやっと別世界にはいることができたのだ。そこにはもう、女どもの悲鳴も、警官の怒号も聞こえなかった。それは死の国であった。
明智小五郎は、中村警部やその部下とともに、地底世界の入り口に近いいわゆる事務室にもどっていた。
そこには、この世界の持ち主のちょびひげ紳士と、八人の男が、手足をしばられてうずくまり、それをふたりの警官が監視していた。
「地底王国のご主人、ふたりの犯人は、もう一つのパノラマ国へ逃げこんだ。あの鏡の壁に、隠し戸があったのだね」
明智がちょびひげの前に行って尋ねると、かれはうしろ手にしばられた上半身をおこして、恨めしそうな顔でこちらを見上げた。
「そうですよ。でも、ご見物衆はあの隠し戸からはいるまでに気を失うのです。気を失ったところを、そっと運んでおいて、パッと目をひらくと、そこにまったく別の世界があるというのが最も効果的ですからね。それには、わたしがくふうした麻酔ガスを用います。艶樹の森をじゅうぶん観賞なさったころに、美しい魔女が、見物衆にまといつきながら、パイプのネジをひらいて、その鼻先に麻酔ガスを吹きかけるのです。
ですから、あのおふたりが、正気のまま鏡の隠し戸をひらいて別の世界へはいられたとすれば、せっかくの趣向がぶちこわしですよ。それでは、二つの世界が連続してしまいます」
ちょびひげは、捕われの身でも、おしゃべりのくせはやまなかった。
「きみはさっき、その別の世界は、この世の果てだといったね。そこはどんなけしきなのだね」
「まったくのこの世の果てですよ。荒涼たる岩ばかりの無限の大渓谷です。地球の果てです」
「ここには、その二つの世界のほかに、まだ何かあるんじゃないか」
「ありません。二つの世界で、わたしの地底王国はいっぱいですよ」
「で、そこから外への抜け道はないだろうね」
「あるものですか。外への出口は、池の中のシリンダーただ一つですよ。ですから、あなたがたは、ここにがんばってれば、絶対にふたりを逃がす心配はありません」
「ぼくもそうにちがいないと思って、わざとふたりを見のがしておいたんだがね。それで、この世の果ての世界では、どんなことが起こるんだね」
「美しい天女の雲が、舞いさがってくるのです。しかし、だれかが機械を動かさなければ、そういうことは起こりませんよ」
「そして、最後に、やはり麻酔ガスで眠らせるのかね」
「そうですよ。一つの世界ごとに、一度ずつ眠らせるのです。それも、機械を動かさなければ、ガスは吹き出しません」
「で、きみはその機械を動かせるだろうね」
「もちろんですよ。わたしが設計した機械ですもの」
「よろしい。それじゃ、なわをといてやるから、その機械を動かしてくれたまえ。もっとも、ぼくが絶えずきみにつきそっているという条件だよ」
「承知しました。それじゃ、早くなわをといてください……ところで、このわたしは、いったいどうなるのですかね。やっぱり、ひっぱられるのですか。わたしは何も悪いことはしていないのですよ。人を殺したわけじゃなし、物を盗んだわけじゃなし、自分の財産で、自分の地所の下に穴を掘らせて、その中に雄大な別世界を造りあげたというばかりですよ。もし罪があるとすれば、無届け営業ぐらいのものだとおもいますがね」
「たぶん、たいした罪にはならないだろう。しかし、いちおう取り調べられることは、まぬがれまいよ。きみが少しも悪事を働いていないかどうかは、調べてみなければわからないのだからね」
だが、ちょびひげは、「恋人誘拐引き受け業者」なのだ。「殺人請負業」ほどではないにしても、けっして刑罰をのがれられるものではない。
なわをとかれたちょびひげは明智につき添われながら、急なのぼり坂の岩のトンネルを幾曲がりして、いわゆる機械室についた。
大きな歯車がかみあって、太い心棒にワイヤーがまきついている。どこかエレベーターの機械に似た装置である。一方には、たくさんのスイッチのついた配電盤がある。そのスイッチの操作をしていればよいのらしい。
機械室の外は、床一面に厚ガラス板がはってある。ところどころ継ぎめがあるけれど、その一枚一枚が六尺四方もあるような大きなガラス板だ。
「この下に、この世の果てがあるのですよ。ほら、あすこに二尺四方ほどの透き通ったところがあるでしょう。あすこから、下の世界が見えるのです。このガラスはね、下側は一面の鏡ですが、あの透いて見えるところだけ、上からのぞけるようになっているのですよ。下から見ては、ほかの部分と少しも変わりのない鏡ですがね。上からのぞくために、ああいう透き通った個所が作ってあるのです」
そこから見おろすと、黒々とした岩の裂けめが、巨大な井戸のように、底も見えぬほど深くえぐられていた。それが上部から俯瞰したこの世の果てであった。
影男と須原の両人は、まっくらな岩穴の中を、しばらく行くと、パッと眼界がひらけた。そして、そこに恐ろしいけしきがあった。
両側には、切り立った黒い岩山が、無限の空にそびえていた。地球の中心にとどくかと思われるほどの、深い岩の裂けめであった。渓谷にはちがいない。だが、渓谷と呼ぶにはあまりに恐ろしいけしきだった。世界のいかなる渓谷にも、これほど異様にものすごい場所はないにちがいない。
ふたりの犯罪者は、岩の割れめの底の二匹のアリのように、そこにたたずんでいた。
両側の断崖は、その高さ何百メートルともしれなかった。そのはるかはるかの切れめに、夜の空があった。星が美しくまたたいていた。
「あれはほんとうの空だろうか。そして、ここは、そんなに深い地の底なのだろうか」
小男須原は、この壮絶な風景に接して、悪心を忘れ、貪欲を忘れ、ひたすら震えおののいているかに見えた。
「そんなはずはない。ぼくたちが夢を見ているのでなければ、ここはやっぱり洞窟の中なのだ。これもきっとパノラマふうの目くらましだよ。おそらく、天井に鏡が張りつめてあるのだ。それに映って、この谷の深さが倍に見えるのだ。いや、岩の作り方による錯覚で、何倍にも見えるのだ。星は豆電球かもしれない。それとも、鏡の面へどこかから投映しているのかもしれない」
影男は奇術師の性格を持っていたので、あくまで奇術ふうに解釈した。
ふたりはそこのくらやみにうずくまって、ぼうぜんとして、はるかの岩の裂けめを見上げていた。この不思議なけしきが、しばらく現実を忘れさせ、かれらを夢幻の境に誘った。私立探偵とか、警察官とかいうものは、なにかしら遠い昔の夢のように感じられた。
はるかの岩の裂けめが、徐々に明るくなっていた。またたく星が一つ一つ消えていった。そして、裂けめの空が、まず紫になり、エビ茶色になり、次にあざやかな朱色に染まった。夜が明けたのだ。朝日の光は断崖の上部までさしこみ、でこぼこの岩膚を、朱と紫のだんだらぞめにした。しかし、日の光は、この谷底までは届かなかった。はるかの上部を照らしているばかりであった。
朱色がだんだんあせていくと、空は真珠のような乳色に変わった。谷底までも、ほのかにしらんできた。そして、それが、いつ移るともなく、水色から濃紺に変じていって、一点の雲もない紺碧の空となった。
ほのかに風の渡る音が聞こえてきた。そして、その風に送られるように、裂けめの一方から、桃色がかった不思議な形の白い雲が現われ、静かに裂けめの上を流れていく。
「アッ、あれは雲じゃない。美しいはだかの女だ。数人の女たちが、手を組み、足を組んで、一団の白い雲となって、横ざまに流れているのだ」
「羽衣をぬいだ天女のむれだ。女神の一団が天空を漂っているのだ」
女人の雲は、漂いながら、たちまちにしてその色彩を変えていった。桃色となり、オレンジとなり、草色となり、紫となり、青となり、赤となり、あるいは半面は緑、半面は臙脂の異様な色彩となり、虹の五色に変化した。
その女人雲は、動くと見えて動かなかった。いつまでも岩の裂けめの、はるかの空に漂っていた。
「何か巧みなくふうで、下から見えぬように、ロープかなんかでつっているのだな」
影男はちらっと現実的なことを考えた。
紺碧の空が、ドス黒く曇ってきた。そこに現われた一点の深紅の色が、みるみる広がっていった。広がるとともに、それは雄大なひだを作って、カーテンのようにさがってきた。夢の中の緋色であった。その緋色のカーテンが、うねうねと曲線をなして、空一面をおおいつくし、いつまでも下へ下へとたれてくるように見えた。
「きみ、あれは北極のオーロラだよ。何かの絵で見たオーロラとそっくりだよ」
緋色の光のカーテンは、横ざまに流れる天女の雲をおおってたれさがってきた。おおわれても透明なカーテンだから、女人雲のなまめかしい姿は、緋色の紗に隔てられたように、ありありと見えている。
「アッ、きみ、あの雲は、谷の中へおりてくる。だんだんこちらへ近づいてくる」
ほんとうに、そのなまめかしい天女の雲は、少しずつ、少しずつ下降していた。もう緋色の光のカーテンをはずれて、その複雑な曲線は桃色に輝いて見えた。
雲そのものの下降とは別に、七人の女体が、それぞれに優美な身動きをするたびに、絶え間なく雲の形が変わった。
それはもう断崖のなかほどまで下降していた。断崖の岩膚はまっくろな陰になっているのに、天女の雲だけが、みずから光を発するかのように、乳色と桃色に輝いていた。それがもう、目を圧するばかりに、ふたりの犯罪者の頭上に迫っているのだ。
そのとき、どこからともなく、かすかに異様な音楽が聞こえてきた。こずえを吹く風の音のようでもあった。谷川のせせらぎのようでもあった。肉声とも、管楽とも、弦楽とも聞き分けられなかった。そのどれかのようでもあり、全部のようでもあった。悠久なるふるさとを恋うる音色であった。それには、神と、死と、恋との音調がまじっていた。
それと同時に、谷底のふたりのそばの岩のすきまから、ほのかに青い煙が漂いだしていた。立ち上らない煙であった。重く地底をはう煙であった。うずくまっているふたりの腰にたゆたい、胸にただよい、ついに顔をおおいはじめた。不思議に甘いにおいがあった。かれらはその煙に酩酊を感じた。
いつのまにか、天女の雲は頭上五メートルに迫っていた。眼界いっぱいに広がる巨大なる桃色の雲となっていた。肉体の雲は、裸女のあらゆる陰影を刻んで、ふくれ、くぼみ、もつれ、からまって、うごめきうごめき下降しつづけた。
その不思議な美しさは、何ものにも比べることができなかった。瞠目すべき悪夢の中の妖異であった。七つの顔が、巨大な花と笑っていた。十四の乳ぶさが、七つの桃型に輝くしりが、十四のなめらかな肩が、腕が、ももが……つややかに、うぶ毛を見せて光っていた。やがて、頭上三メートル、二メートル、ひとりひとりの裸女が、シネラマの巨人となった。もはや雲の全体を見ることはできなかった。わずかにその一部分、ひとりかふたりの巨像を見上げるばかりであった。
耳には天上の楽の音があった。鼻にはむせかえる香料と女人のはだのにおいがあった。目には深いくぼみを持つ豊満な肉塊があった。肉塊はふたりの上にのしかかってきた。もうひとりの全身をさえ見ることができなかった。それは巨大なる女体の一部分であった。あぶらづいた筋肉とうぶ毛の林であった。
ふたりは肉塊の圧迫に耐えかねて、徐々に首をちぢめ、ついには谷底の岩の上に仰臥してしまった。その顔の上に、はちきれんばかりにつややかな肉塊が迫ってきた。皮膚が接触した。すべすべした冷たいはだざわりだった。顔の上をぴったりと、弾力のある肉塊がふたしてしまった。眼界がまっくらになるいっせつなまえ、そこに顕微鏡的な女体の皮膚があった。巨大な毛穴、ギラギラ光るうろこ型の角質。
女体の圧迫に窒息したのではない。そのまえに、岩のすきまからはい出した、あのうす青い煙におかされていた。ふたりの犯罪者は、谷底に降下した天女の雲におしつぶされ、その下敷きとなって、意識を失ってしまった。
影男のまっくらな心眼の中を、あらゆる過去の映像が、めまぐるしく駆けめぐった。
「ウ、ウ……もっと、もっと、ふんづけてくれい。ふんづけて、ふみ殺してくれい」
……美女の足は、ダブダブと肥え太った獅子男のからだじゅうを、まるで臼の中のもちを踏むように踏みつづける。そのたびに、男の口から、けだものの咆哮に似た恐ろしいうめき声がほとばしった……足ばかりではない。男の顔の上へ、二つの丸いだんだら染めのおしりが、はずみをつけて落ちていき、そのまま男の顔をふたしてしまった。
……女が足を抜こうとして、一方の足に力を入れると、その足がさらに深く吸いこまれた。もがけばもがくほど、ぐんぐん足がはまりこんでいく……もうももまで没していた。スカートがフワリと、水に浮いたように、どろの上に開いている。彼女は美しい女の一寸法師に見えた。スカートが浮いているので、ももから上だけの人間のように見えた……もう胸まで沈んでいた。もう首まで沈んでいた。首のまわりを、スカートが、石地蔵のよだれかけのように取りまいていた。徐々に、徐々に、口、鼻、目と沈んでいった。目が沈むときが最も恐ろしかった……もう髪の毛も隠れ、さし上げた両手だけが残っていた。それが白い二匹の小動物のように、地上をもがいていた。凄惨な踊りを踊っていた。
……最後に手首だけが地上に残り、五本の足のカニのように、どろの上をはいまわった。その手首も消えさると、しばらくは砂まじりのどろの表面が、ブクブクとあわだっていたが、やがて、それも、なにごともなかったように、静まり返ってしまった。
……その山には無数の目と、無数のくちびると、無数の手と足とがあることがわかってきた。顔の上に太ももが重なり、なめらかなかっこうのよいおしりが無数に露出していた。それは幾千幾万とも知れぬ裸女を積み重ねた生きた人肉の山であった。
……かれは女体の山をのぼった。二つの女体がちょっと身動きしたかと思うと、そのあいだにみぞができ、かれの足がそのみぞにはまった。それと同時に、あたりの女体が、グラグラとゆれ動き、みぞはいよいよ大きく口をひらいて、かれのからだは人肉の底なし沼に没していった。前後、左右、上下のあらゆる面にすべっこくて柔らかい裸女の曲面がつらなっていた。かれの黒ビロードのからだは、それらの弾力ある曲面に押しつぶされながら、底知れぬ深みへと吸いこまれていった。脂粉と、芳香と、甘い触感の底へ、深く深く吸いこまれていった。
……音楽も、踊りも、狂暴の絶頂に達した。
……白い女体は、こけつまろびつ逃げまわり、寸隙を見ては、疾風のように男に飛びかかっていった。二本の短剣は空中に切り結び、いなずまのようにギラギラとひらめき、男体、女体ともに、腕にも、乳ぶさにも、腰にも、しりにも、ももにも、全身のあらゆる個所に無数の赤い傷がつき、そこから流れ出すあざやかな血潮が、舞踊につれて、あるいは斜めに、あるいは横に、あるいは縦に、流れ流れて美しい網目をつくり、ふたりの全身をおおいつくしてしまった。
……樹木にかこまれた十坪ほどのあき地、そこにはえているのは二、三寸の短い雑草ばかりだったが、そのあいだに、二つの丸い大きな石ころがころがっていた。その石ころが、生きもののように、かすかに動いていた。石ころには、目と、鼻と、口とがあった。一つは男の顔、一つは女の顔をしていた。二つの首は一間ほどへだてて向かいあっていた。不思議な地上の獄門であった。切断された二つの首が、そこにさらしものになっているのかと思われたが、よく見るとそうではなかった。それは生き埋めであった。姦夫姦婦を裸にして、庭にうずめたのであった。
からだがおそろしくゆれていた。地震にちがいないとおもった。逃げようとしたが、足が動かなかった。
「助けてくれ……」
死にものぐるいに叫んだ。パッと目がひらいた。それは地震ではなくて、車がゆれているのだった。ぐったりとうしろにもたれかけていたからだを起こした。すぐ前に三人の制服警官が並んで腰かけていた。そのまんなかのは、見覚えのある中村警部だった。みんな腰にピストルをさげていた。
広い車だった。両側に堅い長イスがあって、三人ずつ向かいあっていた。手が痛い。見ると、手錠がはまっていた。右となりにちょこんと腰かけている男にも見覚えがあった。殺人会社の専務、須原だった。かれも手錠をはめられていた。左どなりのまるまっちい色白の男も知っていた。ちょびひげをはやしていた。地底パノラマ王国の持ち主だ。かれも手錠をはめられていた。
「ははあ、これは罪人護送のバスだな」
影男は夢からさめたように、やっとそこへ気づいて、となりの小男須原と目を見合わせた。須原はニヤッと笑った。こちらもニヤッと笑って見せた。
「気がついたようだね。きみたちは谷底で眠っていた。車まで運ぶのに、ずいぶんほねがおれたよ」
中村警部が柔和な顔でいった。
「で、ぼくたちは、これから警視庁へ行くんですか」
「そうだよ。きみたちも、もう年貢の納めどきだからね」
鉄棒のはまった小さな窓のむこうに、運転手の制服巡査の背中が見えていた。普通のバスのような窓がないので、町を見ることはできなかった。お互いに顔見合わせているほかはなかった。
三人の犯罪者は、殺風景な留置室を頭に描いていた。それから刑務所の光景が浮かんできた。影男とちょびひげはそれ以上のことは考えなかったが、小男の須原だけは、絞首台を幻想していた。ブランとさがった、あのいやなかたちが、かれの心臓のあたりをフワフワ漂っていた。考えてみると、二十数名の委託殺人をやっている。死刑はまぬがれないな。共同経営者のふたりの重役も、むろん同罪だろう。かれらもじきにつかまるにきまっている。
希代の異常犯罪者三人三様の思いをのせて、バスはもう、警視庁の赤レンガの見えるお堀端にさしかかっていた。
底本:「影男」江戸川乱歩文庫、春陽堂書店
1988(昭和63)年3月10日新装第1刷発行
1993(平成5)年11月20日新装第3刷発行
初出:「面白倶楽部」
1955(昭和30)年1月号~12月号
※「自動的」と「自働的」の混在は、底本通りです。
入力:入江幹夫
校正:高橋直樹
2019年7月9日作成
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