風貌
──太宰治のこと
小山清



 ──私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いていた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいうべきものを囁かれる事が実にしばしばあったのである。私はそれを信じた。私の発見というのは、そのように、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおっしゃったとか、私はそれには、ほとんど何もこだわるところが無かったのである。それは当然の事で、私などには、それにこだわる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かった。「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」という妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いていた。
(太宰治「津軽」)


 私は昭和二十三年の六月十六日に、「ダザイオサムシンダ」という電報を受取った。私は北海道の夕張炭坑にいた。そこでは、その翌日の新聞に初めて記事が出た。死体はまだ見つからぬという記事であったが、私は死んだと思った。十八日の朝夕張を立った。二十日の朝上野に着いて駅前で新聞を買った。死体が発見されたという記事が掲載してあった。三鷹の家に着いて、飾ってある、あの暗い眼差しをした太宰さんの写真を見た。

 私は一年半、太宰さんに会っていなかった。二十二年の一月の末に、私は北海道へ行った。私は太宰さんがはじめ甲府に、その後金木に疎開中、ずっと独りで三鷹の家に留守番をしていた。二十年四月から二十一年十一月までの期間である。二十一年の十一月の中旬に、太宰さんは金木を引き上げて、また三鷹の家に戻った。私は二月ほど同居して、北海道へ行った。行く前の晩、三鷹の映画館で一緒に映画を見た。翌朝、出かける時には、雑誌記者の客が来ていた。「では、行ってきます。」と云って、私は玄関に出た。そのとき奥さんがふと思いつかれて、ちり紙の束を私に渡した。私は障子のかげで、「躯に気をつけて。」と云う太宰さんの声だけを聞いた。それが最後になった。

 同居していた二月の間に、奥さんの親戚にあたる少年で入院した人がいて、手が足りないため私が附添として行き、しばらく病院生活をしたことがある。同室の附添人に面白い年寄りの女の人がいたが、私が冗談を云うと、腹を抱えて笑った。三鷹の家に帰ってから、私が土産話のようにその話をして、「僕がここを先途とバカなことを考えて話をすると、みんな大笑いをするんです。」と云ったら、太宰さんは目を光らせて、「君は僕たちをちっとも笑わせてくれないじゃないか。笑わせてくれよ。」と口を尖らせた。十年の師に対して、私がいつも飼われたばかりの犬のような顔をしているのが、物足りない気がしたのであろう。私が附添をしていた少年は、入院してから目方を量る度毎に体重が増えていき、食慾もあって、その後の経過は順調であった。私が「やっぱり板前がいいせいでしょうね。」と自慢顔をしたら、太宰さんは顔を綻ばせて、「いや、それは必ずや抵抗療法というものに違いない。小山の板前じゃ思いやられるよ。」と応酬した。二人で夜帰ってくる道で、「家庭ホームというものはいいものだよ。」と私に云ったこともある。

 北海道へ行ってから、私は長い間便りをしなかった。私の筆不精からであったが、一つは躯を悪くして生活が順調に行っていなかったので、つい便りをする気にならなかった。

 しばらく御無沙汰をしていたが、太宰さんの許に預けてきた私の原稿の一つが、ある雑誌に採用になった時、太宰さんから葉書をもらった。その稿料を送るについて、私の住所を確めるものであった。「塚より外に住むばかり」という文句があった。私は電報為替で至急送金してくれるように電報を打った。「コウビン」としたが、それっきり手紙も葉書も出さなかった。電報為替が来ないので、私は重ねて催促の電報を打った。それには「ヤマイ」と書いた。日を置いて、太宰さんからは為替を封入した書留が届いた。

 それは、私が北海道へ行った年の八月のことであった。私は夕張炭坑の坑夫になっていたのだが、五月からずっと仕事には出ず休んでいた。心臓が悪いので、労働に堪えられなかった。病名は「僧帽弁閉鎖不完全症」という大層なものであった。病院通いはしていたが、いつになれば働ける躯になれるというものではなかった。私はいつか麻雀賭博に耽けるようになった。病みつきになってしまって、毎日町の麻雀屋に入り浸った。私は配給になった衣服などを売ったり、借金をしたり、無理算段をして続けた。私は元手の金が欲しくて、夢中になっていたのである。初めて採用になった原稿であり、また初めて得た稿料であったが、私はそれほど嬉しくなかった。私にはそれを嬉しく思う心の余裕がなかった。太宰さんにもまたその雑誌の編集者にも、お礼は云わずじまいであった。送ってもらった稿料は焼石に水のようにすぐ消えてしまった。

 その後十一月の末に、同じ寮にいた少年で廃業して内地へ帰るのがいて、三鷹に寄るついでもあったので、私は手紙を託す気になった。その手紙で、北海道へ行ってからの身の上を初めて知らせた。また私のつもりでは、少年の口からこちらの様子を聞いてもらえると思っていた。けれども、少年は太宰さんに会わなかったようである。単に留守宅に手紙を置いてきたに、止まったようである。いまから思えば、それも無理からぬことである。手紙に喀血したと私は書いたが、それは喀血と云うほどのものではなかった。血の唾が出たのを誇張して云ったのである。物と交換するのだからと云って、きざみ(煙草)を送ってくれとも書いた。

 少年が立った翌日、未知の青年から手紙が来たが、それは私の原稿がまた一つ採用されたのを知らせてくれたものであった。私はそのときは嬉しかった。自分の書いたものが陽の目を見ていく嬉しさを味った。私は太宰さんに追いかけて葉書を出した。お礼を云い、それから、稿料を立替えて送ってくれなどまた書いた。私は困ってもいたから。私は麻雀は義理悪く勝負の負債を残したまま止めてしまっていたが、相変らず仕事には出ず休んでいた。日を置いて、太宰さんから返事の葉書が来た。それを見ると、太宰さんも大変な様子であった。稿料のことは雑誌社に至急送るように云ったと書いてあり、これにも亦、塚より外に住むばかりとしてあった。私が北海道にいる間に太宰さんからもらった便りは以上の二通だけである。

 逝くなられたので上京したとき、三鷹の家で、机のわきにある馴染の小抽出の中に、私宛の出さずにしまった葉書のあるのを見つけた。私が電報を打った当時のものであるが、夢は枯野の状態という文句がある。

 夕張は山の炭坑町なので、雑誌など思うようには手に入らず、太宰さんのその後の作品もろくに読んでいないので、簡単な葉書の文面だけでは様子も知れなかった。太宰さんはふだん軽く冗談のような物云いをするので、こちらもつい軽く聞き流してしまうことがある。もらった葉書のどっちにも判で押したように、塚より云々としてあるのを見て、私は変な気持がした。無心除けのお呪いではないかと僻んだことを考えたりした。二度目の葉書には、病気になった上に、女の問題がいろいろからみ合い、文字どおり半死半生の現状也など書いてあったが、私はそれを半分は惚気だと思った。それでも私は心配にならないことはなかったが、遠く離れ過ぎていて、飛んでいくというわけにも行かなかった。私は「塚より」も「病気」も「半死半生」も、それを文字どおりに取らなかった。割引して軽く考えていた。いまにして思えば、太宰さんとしては、相当弱音を吐いていたわけなのである。青年の手紙には、太宰さんが私の病気を心配していると書いてあった。電文の「ヤマイ」を心に懸けていてくれたものと見える。その後の「喀血」も文字どおりに取ったようである。二度目の葉書には「恢復を祈っている」と書いてあった。

 太宰さんの許にある私の原稿がまた一つ売れて、私は編集者から手紙をもらった。二十三年の五月の中頃であった。その頃私はどうやら一息ついていた。私はその三月から、坑内に新設された道具番に職を得て、働きに出ていた。労働をする仕事ではないので、私にもやれたのである。この分ならばもう一、二年は頑張れると思い、そのつもりになっていた。私はあんな僻地にまで行って、一年を有耶無耶のうちに過ごしてしまったが、それでも新しく出直したいと思っていた。私はその便りを太宰さんにしようと思いながら、筆不精からつい億劫にしていた。私は少年に託した手紙では、自分の躯ではこちらに長くいるというわけには行かないので、来年の九月頃までには内地に帰りたいと伝えていたのだ。太宰さんから来た葉書には、それに対する返事としては、東京の生活難は、いよいよひどい、貸間の権利金一万円などと言っているとだけしか書いてなかった。私は編輯者から手紙をもらった機会に、また便りをしようと思いながら、また出しそびれてしまった。気不精、筆不精というものは仕方のないものである。出しそびれているうちに電報が来た。

 私は遠く離れていたので、太宰さんの最後の時期の生活を全然知らない。上京して、逝くなられる前の写真を見たが、どれも、なんて悲しい顔をしているんだろうと思った。

 死ぬ前に一度会いたかった。

 太宰さんの仕事部屋には、私の原稿を包んだ紙包が残っていた。表には北海道の住所と私の名が書いてあった。私にとっては未知の女性の筆になるものであった。見覚えのあるものではなかった。

 私は太宰さんが逝くなられた年の十月の始めに、東京に帰ってきた。少年に託した手紙で、太宰さんに云ったような工合になった。

 私は東京に帰ってきて、昨年の十一月まで、板橋区のはずれの成増に住んでいた。裏はすぐ小川を隔てて埼玉に隣りしているような閑静な処である。いい天気の日など窓をあけて外を眺め、ああこんな日は三鷹訪問なんだがと思う。外を歩くとあちこちに新築家屋が見られる。こぢんまりした三間位の家が多い。庭先に山吹の花なんか咲いているのを見かけると、私はと胸を突かれる。しめきった障子の静かなたたずまいに気を惹かれ、すぐには去り難い思いのすることがある。太宰さんを訪ねるようになった頃の三鷹の家のことが思われてならないのである。

 私が初めて太宰さんを三鷹の家に訪ねたのは、太宰さんが甲府から三鷹へ移った翌年で、昭和十五年の十一月の中旬であった。ちょうど太宰治さんが新潟の高等学校から招かれて、講演に行く直前であった。

 私はその頃、下谷の竜泉寺町にある新聞店の配達をしていた。太宰さんを訪ねる前の晩、私は吉原の馴染の女の許へ行った。部屋で女の来るのを待っている時間に、私は唐突に明日太宰治を訪ねようと心をきめた。そのとき女は少し私を待たせすぎたのである。私は前に、砂子屋で発行した「女生徒」の奥附に甲府の御崎町の住所がしるしてあるのを見て、甲府へ行ってみようかと思ったこともある。その後、新聞の消息欄で三鷹へ移られたことを知り、その住所を書きとめて置いた。私にはよそゆきと云っては久留米絣の袷があるきりであったが、それはいつも質屋の蔵に入っていた。私は太宰さんを初めて訪ねるに際して、その袷を着て行きたいと思ったが、質受けの金の都合がつかなかった。止むを得ず、ふだんのジャンパー着のままで出かけた。私は思いたったことは短気に実行せずにはいられない性分なのである。三鷹で下りると、駅前に同業のA新聞の店があったので、早速そこでおおよその道順を訊いた。それでも、尋ねあてるまでにはかなりまごついた。

 玄関の戸をあけて、「ごめん下さい。」と云うと、すぐ太宰さんが立ちあらわれた。蓬髪、長身であった。「初めてお伺いした者ですが、ちょっとお目にかかりたくて。」と云うと、かるくうなずいて、「お上がり。」と云った。私は上がった。私が黙っていると、「三鷹ですか?」と云った。「いいえ、下谷です。」と私は云った。太宰さんは少し怪訝な面持をした。そして、下谷には砂子屋と云う本屋がありますねと私がそれを知っているかどうかを確めるような調子で云った。それから、「尾崎一雄がいますね。」と云った。下谷には尾崎一雄がいるのに、なんで下谷の住人がはるばると三鷹くんだりまでやってくるのかという口ぶりであった。私が持参の原稿を取り出したら、太宰さんは興覚め顔をした。それでも、私の原稿が鉛筆書きなのを見て、自分も鉛筆を用いたことがある、しかし鉛筆は疲れるような気がするとも云った。話のとぎれた瞬間に、太宰さんは一旦傍に置いた私の原稿を取り上げて、書き出しの二、三行を読み、うなずいて、「いいものかも知れない。」と云って、また傍に置いた。しかし太宰さんが読んだのは私の文章ではなかった。私は自分の作品のエピグラフに、かつて愛誦していた「絵なき絵本」の一章を抜萃していたのである。私はちょっと可笑しさを感じたが、べつに断りはしなかった。後で知れることである。「原稿を読んだら、葉書をあげますから、そのときまた来給え。」と太宰さんは云って、私に所書を書かさせた。私がY新聞内と書きかけたら、太宰さんは顔色を曇らせたように見えた。ともかく太宰さんが一寸表情をしたのが、俯むいている私にもわかった。私のジャンパーの胸部にはY新聞のマークが着いていたのである。

 玄関を上がると、すぐの六畳間が太宰さんの書斎であった。奥さんは黒いうわっぱりのようなものを着ていた。茶を出すと隣室へ引っ込まれた。後は私がいる間顔を出されなかった。私は太宰さんの家庭から、つつましやかな印象をうけた。「平凡」に主人公が先輩の小説家を初めて訪ねる日のことが書いてある。庭先に襁褓おしめの乾してあるのを見て、主人公は心中、先輩を侮るような気持を起こすのだが、初対面には、とかくこんな意識が働くのではなかろうか。深く咎めだてをする性質のものでもないであろう。その後二、三度訪問して、私は太宰さんの生活が必ずしもわびしいものでないことを知った。

 その日太宰さんの机の上には、田中貢太郎訳の「聊斎志異」の原文の箇所がひらかれてあった。飜訳をしているのかと問うと、飜案をしているという答であった。飜案という言葉は使わなかったが。「黄英」に取材した「清貧譚」を執筆されていたのである。原文を読んでいると色々空想が湧いてきて楽しいと云った。「清貧譚」はまもなく「新潮」に発表された。太宰さんの特色がよく窺われる作品であろう。私の好みを云えば、太宰さんの作品の中でも好きな方である。思うに、この頃は太宰さんとしても新しく結婚して再び東京に来て新居を営み、一生懸命の時であったのだろう。また楽しい時でもあったろう。「清貧譚」などもその間の消息を伝えてくれる作品の一つだと思う。太宰さんの気持の上では「清福」の一時期ではなかったろうか。躯も健康であったし、気分も明るかった。住居も綺麗であった。三鷹の家も逝くなられる前は爆撃で痛めつけられたあとで、雨漏りはするし、そのうえ太宰さんが金木にいた間は私という野蛮な留守番が住み荒らしてしまっていたので、むざんな有様であったが、この頃は建てて間もなかったし、新居の感じに溢れていた。

 一週間ばかり立ってから、私は太宰さんから葉書が来るのを待ちきれなくて、出かけて行った。その二、三日前に酉の市があって、私は鷲神社のお札を買った。太宰さんに進呈するつもりであった。天井などに差して置く、あのお札である。三鷹に下りて太宰さんの家へ行く途中で、私は気がさして捨ててしまった。私はまた、木下杢太郎の「支那伝説集」を携行していた。さきの日机上に「聊斎志異」のひらかれてあるのを見て、参考になればと思ったのである。しかしこれも亦少しく殊更な気がする。

 太宰さんの家の近くの生籬のつづいている道で、向うからいそぎ足でやってくる、二重廻を着た太宰さんに逢った。太宰さんは、入隊した友人にこれから面会に行くところだと云った。そして、葉書を出したが、見たかと云った。行き違いになったのである。太宰さんは一旦私の原稿を取りに家に引き返した。私は「支那伝説集」を渡した。太宰さんは玄関に入って、「おい、小山君の原稿をくれ。」と云った。私は外に立っていたが、奥さんがなにか云ったのに対して、「うん。そこで逢った。」と太宰さんは云った。駅へ行く道々、話した。太宰さんは、あれからすぐ新潟の高等学校から講演を頼まれたので出かけて、ついでに佐渡へ行って、帰ってきたばかりのところだと云った。私への葉書には、周囲を愛してということを特に強調しておいたと云った。それから笑いながら、「こないだ僕はいいものかも知れないと云ったけれど、あれはアンデルセンの文章だったね。でも君の文章に移行してからも、ガタ落ちというわけでもなかったから、安心したんだ。」と云った。また、「君は心理の方は相当行き届いているけれど、描写の伴わぬ恨みがある。君が描写の技巧をマスターしたら、鬼に鉄棒だ。」と云った。私の原稿は二十歳を越したばかりの少年の手記の形式になっていた。太宰さんは私が見かけが非常に若く見えるところから、私の年もちょうどその位に思い込んでいるようであった。太宰さんは途中で鮨屋に寄った。あの「鴎」に出てくる鮨屋である。太宰さんは友人へのお土産に鮨を一円誂えた。鮨屋の主人はすぐは工合悪いようなことを云ったが、太宰さんは「そこを曲げて。」と押し強く云った。そのときの太宰さんのへんに粘り強い声音がその後しばらく私の耳に、残った。私たちは鮨の出来上がる間、椅子に腰かけて話した。私が描写が拙いのは生活が流動していないせいでしょうかと訊くと、うん、それもあるとうなずいた。太宰さんは印象の正確を期することが肝腎だと云ったのである。京都に君と同じ年頃の青年がいて原稿を送って来たが、五年勉強してそれからまた見せてくれと云ってやったと云い、「君はこれから、いろんな目にあうよ。僕の過去は地獄の思いだった。」と云った。私はこのときも自分が三十歳に成るということを云いそびれた。太宰さんは私が手にしていた原稿を取って、パラパラとめくって、ある箇所を指摘し、「僕はこういう雰囲気は好きだよ。」と云った。ともかく私の原稿が、太宰さんに私というものを幾分か伝えることの出来たのを私は知った。三鷹駅のプラットホームで、太宰さんは私をかえりみて、「今日は不幸中の幸だったね。」と云った。短い間だが、会えてよかったという意味である。立川行の電車が来て、太宰さんは電車に乗る間際に、「思案に余ることがあったら、いつでも相談に来給え。」と云った。

 帰ると、行き違いになった葉書が来ていた。原稿を、さまざま興味深く拝読いたしました。生活を荒さず、静かに御勉強をおつづけ下さい。いますぐ大傑作を書こうと思わず、気長に周囲を愛して御生活下さい。それだけが、いまの君に対しての、私の精一ぱいのお願いであります。こんな文面であった。私の原稿は家庭になじまず自分のうちに閉じ籠っている少年の手記で、私はそれに「わが師への書」という題をつけていた。

 翌年の六月の中旬のこと、私はふいに三鷹へ行きたくなって、夕刊の配達を済ますと、飛んで行った。三鷹に着いたらもう夜になっていた。太宰さんは校正刷に目を通していた。帽子掛に皮のケースに入ったカメラがぶるさがっているのが目に着いた。隣室から赤子の泣き声が聞え、床の間には井伏としるした祝物が飾ってあった。園子さんが生れたのである。手伝いのばあやさんがきていたようであった。すぐ家を出て、駅前にある「きくや」という馴染のトンカツ屋へ行く道すがら、来てもらった産婆の家の前を通ると、あの特徴のある口ぶりで、「深夜一時かどを叩いた。」そんなふうに云って私におしえた。その後は訪ねると襁褓の乾してあるのが目に着くようになった。四、五日して太宰さんから、こんな葉書が来た。貴稿は拝読いたしました。一、二箇所、貴重な描写がありました。恥じる事は、ありません。後半、そまつ也。滅茶だ。次作を期待しています。雰囲気や匂いを意図せず、的確という事だけを心掛けるといいと思います。(それから、人間は皆醜態のものですよ。)その日太宰さんは別れ際に私の手を握って、「僕の友人として恥ずかしくない者になれ。」と云った。帰ってから私は太宰さんに葉書を出し、「僕はこれからあまり醜態を演じないようにしようと思います。別れ際のあなたの言葉を思う故に。」と書いた。太宰さんは別れ際には、いつも新派の台詞のようなことを云った。殺し文句の一種のようであるが、なにか云わずにはいられなかったようである。呑み屋のおかみにこんなことを云ったこともある。「僕は小山が淋しそうにしているのを見ると、どうしていいかわからなくなるんだよ。」私が三鷹を訪ねるときは、いつもなかば駈込み訴えの気持であった。訪ねられる方としては、かなわなかったかも知れない。花屋であざみの花束を買ってくれたこともある。その日太宰さんの許に置いてきた原稿については、読んでみてこんどは少し酷評をするかも知れないよと云われ、私も、見せない方がよかったかも知れないと云ったのである。太宰さんは、君がいい作品を書いたら、賞代りに一緒に旅行しようと云って、「僕がいいと云えば、天下無敵だよ。」と云った。私が真顔で「そう思っています。」と云ったら、そういう私の顔を見て、太宰さんは急にそわそわし、便所に立った。

 その頃私は三鷹へ行くと、よく高梨一男さんと一緒になった。私は新聞配達という職業柄あまり暇がないので、たまにしか行かなかったせいか、ほかの客と顔を合わせる機会も少く、顔見知りの人も殆んどなかったが、どういう因縁か、高梨さんとはよく落ち合った。どっちかが先に来ていて、顔が合うのである。おかしい位であった。太宰さんも、おやまた会ったねという顔をした。高梨さんはその後「駈込み訴え」の限定版を出した人である。目鼻だちの整った、なかなかの美男子であった。太宰さんの話に依ると、あるカフェーの女給が高梨さんの顔に見とれて、客の許に持っていく料理の皿を取り落し、ためにその客はプライドを傷つけられること甚しく、遂にはやけ酒に及んだと云う。そういう閑話の持主であったが、しかしなかなか笑わない人であった。三鷹の帰りはいつも終電車間際になる。一緒にがらんとした車中の人になるのだが、乗っている間高梨さんは一言も口をきかない。こっちがなにか話しかけると、必要なことだけは答える。しかしそれっきりであった。まるで私を親の仇とでも思っているような様子であった。園子さんが生れたとき、高梨さんは赤ん坊を入れる籠を祝った。園子さんを抱いている太宰さんの手つきを見て、高梨さんが「まだ板につかないね。」とひやかしたら、太宰さんは「永遠に板につかない。」と云った。真面目な口調であった。鴨居には佐藤春夫氏が園子さんの誕生を祝った自筆の桃の絵が額に入れて懸けてあった。太宰さんの話に依ると、佐藤先生は、どうせ太宰のことだから額に入れてやったところで懸けもしまいからと云って、絵だけを贈物にされたということである。太宰さんは「佐藤さんもひどいじゃないか。」と云っていた。この桃の絵は現在も太宰家の部屋に懸けてある。佐藤さんのことでは太宰さんはいつか私に、「僕は佐藤さんに対しては、地震加藤のつもりでいるんだ。」と云ったことがある。小山の奴、余計なことを云うと、太宰さんは云うかも知れない。余計と云えば、この文章自体が既に余計なものである。

 余計ついでに書けば、太宰さんの上歯は義歯であった。そしてその義歯の製作に歯医者通いをしていたのが、ちょうど園子さんの生れた年の夏のことであった。その頃S君という少年が太宰さんの許に手紙をよこした。太宰さんはその手紙を私に見せて、素直な人のようだが、君逢って見ないかと云った。手紙の様子では、十九か二十の年頃である。私が年が違い過ぎるなと云ったら、太宰さんはちょっと疎ましい顔つきをした。太宰さんはS君に宛てて私を紹介する葉書を書いて私に見せた。「小山君は立派な人ですから」という文句が見えた。そのS君が竜泉寺町の私の店に訪ねてきた。S君は年は十九で、太宰治の作品を読むことを、その孤独な生活の唯一の慰めにしているような少年であった。私が太宰さんのことを作品の通りの人ですと云ったら、じゃ、いい人でしょうね、親しみのある人でしょうねとS君は云った。S君のような人の胸には、太宰治の作品が真っ直ぐに入っていくのであろう。太宰さんからはこんな葉書が来た。「S君と逢って下さったそうで、そうして、S君が素直な人だったそうで、何よりと思います。義務としてつき合わず、愛情が感ぜられたら、これからも、時たま遊んでやるといいと思います。私は、ひきつづき歯の療治で、ゆううつです。」S君とは時々逢っていたが、戦争末期に応召して、その後の消息は絶えた。

 私は三鷹を訪ねて、太宰さんの家の近くのあの生籬のつづいている道に出ると、胸がどきどきし、うやうやしくなった。用意してきたはな紙を出してはなをかんだりした。なんべん訪ねても、慣れるということがなかった。その後独り留守番をするようになったとき、外出から帰ってきて、その辺りに来かかると、当時の自分のことが思われて、現在その家をわがもの顔に住み荒らしている自分がかえりみられたりした。芋食って破れかぶれの庵の留守。当時私はそんな生活をしていた。

 私は太宰さんと会って、太宰さんの人柄が、またその生活が、作品と一枚のものであることを知った。太宰さんはまた非常に率直な人であった。いつ死んでも悔いのないように、好きな人にはこだわりなく好きだと云っておけと云っていたが、すべてにそんなところがあった。見ていてはらはらするほど率直なところがあった。その後、田中英光君に会ったとき、田中君は「太宰さんは傘張剣法だから好きさ。」と云った。私が太宰さんは僕たちにとって Last man だと云ったら、田中君は Last one だと訂正した。太宰さんが甲府を焼け出されて金木へ行く前、三鷹の家で太宰さん、亀井さん、田中君、私の四人で別離の小宴を催した。亀井さんだけ早く帰った。こういう席で一人早く座を立つのは貧乏くじを引くようなものである。亀井さんは後に残った三人の間でいまのはやり言葉で云えば吊し上げになった。太宰さんは津軽人の所謂ごたくを並べていた。私が「亀井さんには面と向かって、おれが死んだら、全集の編輯を頼むなんて云っている癖に。」と難詰したら、太宰さんは真顔で、「僕はほんとに亀井君に全集の編輯を頼むつもりだよ。亀井君だって、いいところもあれば、悪いところもあるさ。」と云った。太宰さんは私に向かって、「おれは小山には云うことがあるんだ。」と云った。私が「わかっていますよ。わかっていますよ。」と云ったら、「これから、田中と信じあって行け。」と云った。田中君はああいう豪傑だから忘れてしまったかも知れない。太宰さんは私にこんなことを云ったことがある。「『教育勅語』に友達の間柄のことを、どう云ってあると思う? 朋友相信じなんだ。」「惜別」を書かれていた頃のことである。そしてこのことは「惜別」に書いてある。「惜別」のある箇所にはまた、人の顔色ばかり窺っている、奴隷の表情をした魯迅のことが書いてある。田中君のある作品に私のことを「むかし藤村の書生をしていたとかいう、小川君という老文学書生が」というふうに書いてある。私はむかし島崎先生に大変お世話になったことがあるが、書生をしていたというわけではない。私はあれを読んで、田中君も、もう少し書きようがありそうなものだという気がした。田中君が逝くなられてから、亀井さんの追悼の文章のなかに、「太宰の最大の愛弟子が後を追った」というように云ってあった。おそらく田中君にとって、最上の手向けの言葉であろう。田中君が第三者の口から一番云ってもらいたかった言葉である。

 私がしばらく御無沙汰をしていると太宰さんは安否を問うて来た。筑摩書房で出した、チエホフとゴルキイの往復書簡を送ってくれたこともある。この本は「風の便り」を書く上に参考にされたのではないかと思う。こんな風の便りが舞い込んだこともある。「どうして居りますか。毎日、すこしずつでも書いて居りますか。君自身を、大事にして下さい。信じて、成功しなければならぬ。別に三鷹へ、わざわざ来なくてもいいから、すこしずつでも書きすすめていて下さい。(一日に一行でも)」たまには顔を見せろというのであろう。私は三鷹に留守番中、金木にいる太宰さんに、初めて無心をしたことがある。太宰さんから小切手が送られてきたが、二つに折った小切手の間からスズランの花が出てきた。太宰さんは風邪臥床中のようで、「庭にいまスズランが咲いていて、園子がとって来て、私の枕元に置いて行きました、同封します。」と書いてあった。けれども折角送られてきた小切手は、すぐには使用不可能であった。私は早速太宰さんに送り返したが、そのとき私は真似をして、三鷹の家の庭先に咲いていたなにやら紫色の花を小切手の間に挿んで送った。太宰さんから葉書が来たが、返送の小切手は挿入された花びらの紫色にすっかり染まってしまって文字が読めなくなっていて、これでは通用しないかも知れぬ、よくよく呪われたる小切手だねと書いてあった。とかく人真似というものは、形式ばかりで精神の伴わぬ仕業は、こんな結果をもたらすようである。

 昭和二十年の三月十日に私は竜泉寺町で罹災して、三鷹に駈込み訴えをした。太宰さんは即座に一緒に勉強しようと云ってくれた。奥さんと子供さんたちは奥さんのお里の甲府の家に疎開することになった。その前の晩太宰さんは私を相手にのんでいたが、ふと傍にいた奥さんに「みち子、お前ものめ。」と云って盃をさされた。そして盃を口にあてている奥さんに向かって、「離れてつくということがある。」と云われた。四月二日未明に三鷹界隈に米機の来襲があった。偶々来合わせた田中英光君と三人で防空壕に避難して命拾いをした。三鷹の役場に罹災証明書をもらいに行く途中で、私は太宰さんに甲府に行かれたらどうかと提案してみた。太宰さんは賛成したが、若しも私が云い出さなかったならば、あるいは三鷹に止まったかも知れない。吉祥寺の亀井さんのお宅に四、五日御厄介になった後、甲府へ行く太宰さんを送って私も行き、一週間ほど滞在して、物情騒然たる東京の生活をよそに、のんびりした盆地の春を満喫してきた。一日甲府市外の青柳というところに、そこで床屋さんをしている熊王徳平さんを訪ねて、一晩泊めていただき、翌日鶏を二羽お土産にもらって水門町のお宅に帰ってきた。太宰さんと二人で鶏の羽毛を挘っているところへ、その頃甲府市外の甲運村に疎開されていた井伏さんが訪ねて来られた。玄関で奥さんと応待している井伏さんの声が聞えてくるので、私が「井伏さんって、声のきれいな人ですね。」と云ったら、太宰さんは後で座敷へ通ってから早速「小山君がね、井伏先生は声が大変お綺麗ですと云っていますよ。」と取りつがれた。井伏さんは「うん。僕はむかし歌沢をやったことがあるから。」と冗談を云った。その座敷には富士山の噴火口の大きな写真が額になっていた。太宰さんが座にいない時、井伏さんはあれは富士山でしょうと私に云った。話のつぎ穂に云われたのであろう。太宰さんが奥さんと見合いをされたのは、おそらくこの客間であろう。「富嶽百景」では、井伏さんが「あ、富士。」と嘆声をもらされて、太宰さんもその額を仰ぎ見て、ゆっくり首を戻す瞬間に見合い相手の娘さんをちらりと見て、心中「きめた。」と叫ぶ。あそこはなかなかいいところである。その頃甲府のお宅では奥さんの妹さんが椎茸を栽培していた。なかなかお上手で多大の収穫があった。私たちは椎茸と鶏を食べながら酒をのんだ。井伏さんはとさかを箸ではさんで、「これは腎臓の秘薬だ。」と云った。私が「岩野泡鳴の如きものですね。」と云ったら、一笑された。

 それから私たちは甲府の下町にある梅ヶ枝という旅館に行った。ここは井伏さんの行きつけのところである。井伏さんはおかみに「なにか液体のようなものを。」と云い憎くそうに云った。井伏さんは卓袱台の上を手の平でさすりながら、うつむいて小声で云ったのである。私は井伏さんっておかしみのある人だなと思った。当時「液体のようなもの」には手軽にはお目にかかれなかった。おかみには難色が見えた。その座敷は長火鉢などもあって、おかみのプライベイト・ルームのようであった。井伏さんはそこにあった映画雑誌を手持ち無沙汰そうにめくっていた。すると昔から現代までの「金色夜叉」映画のいろんな場面の写真を掲載した頁が出てきた。井伏さんは「金色夜叉はいいねえ。鈴木伝明の間貫一はよかった。」と云った。太宰さんも「金色夜叉はいつ見てもいい。」と相槌を打った。おかみもそれに口を挿んだ。私たちの間には一しきり金色夜叉礼讃の話がもてた。私は前に太宰さんから、井伏さんと太宰さんとで、やはり甲府のある家で、その家の飼育している鶏を褒めたという話を聞いていた。「いや、それから井伏さんと二人でほめたの、ほめないのって。」とそんなふうに太宰さんは私に話した。鶏をほめたのだって、たいして芸のある話ではないが、そのときの金色夜叉礼讃に至っては、それ以上に迂遠きわまる話である。それでもよくしたもので、おかみは女中さんを走らせて、「液体のようなもの」を都合してくれたのだから妙である。その夜井伏さんの口から、太宰さんの「姥捨」に出てくる女の人が、遠い土地で逝くなったという話をきいた。身のまわりにはハンドバッグ一つしか残っていなかったそうである。太宰さんには初耳のようであった。井伏さんは「そうか。君は知らなかったのか。」そんなふうに云われた。それから井伏さんは「作家というものは、身うちを食ってしまうよ。」と云った。井伏さんは梅ヶ枝に泊ることになって、二人で水門町のお宅に帰る途中、太宰さんは「井伏さんって、興奮させるところのある人だろ。」と云った。私はうなずいた。

 翌日はちょうど武田神社のお祭りの日にあたっていた。井伏さんと三人でお花見に行った。土地の人はみんな着流しでぞろぞろ歩いていた。頭上高くB二九が一機、白い尾を長く曳いて飛行していたが、地上の人たちにとっては、さっぱり脅威の的にならないようであった。小高い丘の上で持参の弁当をひろげた。井伏さんは堀端で遊んでいる子供の群を見下して、「子供って、みんなああして遊んでいるね。僕たちの子供のときと変らないね。ほら、ああいう風に石なんかを投げて。」と云った。太宰さんが田山花袋は年若な女を見ると、全身を掻きむしりたくなったそうだと云うと、井伏さんはにこりともせず、「大げさなことを云う人だね。」と云った。太宰さんは私をかえりみて、一寸表情をした。井伏さんにして、このユウモアが通じなかったのはおかしいという面持をしたのである。その頃私たちは、なにかと云えば、お互いに乃公は全身を掻きむしりたくなったと云っては、笑い合っていたのである。その日井伏さんは南方に従軍されたときの服装らしく、皮の長靴をはいていた。井伏さんは沢のようなところに足をふみ入れて、なにやら摘草をされていたようであった。少し離れていて、そういう井伏さんの容子を見て、太宰さんは「井伏さんって、やさしい人だね。」と私の耳にささやいた。

 太宰さんが逝くなられてから、井伏さんは「旧知の煩らわしさ」という言葉を発明された。師友に先立たれてしまうのは、心残りなことである。後にのこされた者の恨みはやり場がない。私にしても言い分のあるような、ないような気持である。生きていて顔を合わせる折があれば、なにも云うことはないのである。井伏さんの最近の作品に、テグスをつくるために、栗の木の虫を見つけに行こうと云う太宰さんのことが書いてある。そのくだりをここに引用させていただく。

「『虫は僕がつかまえます。』と太宰は云った。『はじめ、細い木の枝か何かを箸にして、虫をつかまえるんです。そいつを持って帰るうちに、次第に僕たち虫に慣れて来ます。』

『しかし、虫をむしる段になると、ちょっと難色があるね。』

『いえ、大丈夫です。さあ、この虫をむしれ、お前、この虫をむしれ、と大声で僕に云って下さい。僕は、決死の勇をふるって、むしります。目をつぶって、むしります。』

 太宰としては妙な破目に立ちいたったのである。自分でも虫の処理など出来ると思って云っているのではない。もし私が太宰といっしょに虫をとりに行ったとすれば、太宰の口真似で云うと『おもてに快楽をよそおい、内には恨み骨髄』というところだろう。のちのちまで、何かにつけては、思い出して口惜しがる筈である。いま私は、あのとき太宰の『おつきあい』に、私がおつきあいしていたら、どんなものだったろうと考える。三鷹のちょっと先きの栗林で青虫を見つけ、一ぴきではいけない十ぴきばかり持って帰ったとする。それを太宰がむしるのだ。彼は眉根をしかめ、固く目をつぶって、唇は青ざめている。ふうふう息を弾ませている。あの細い指で青虫を二つにむしるのだ。彼が卒倒しなければ幸いである。二ひき目をむしる段になると、いま正に泣きだしそうである。」

 なんという執拗な愛情であろう。

 桜桃忌の席上で井伏さんは云った。「私は太宰には情熱をかけました。」私は井伏さんのほかに太宰治の師のいないことを確信している。

 武田神社へ行ったあくる日、私は三鷹へ帰った。太宰さんは、「君の手はいやにねばっこいね。」と云いながら、私の手を握って、「離れてつくということがある。」と私にも云った。

(「風雪」昭和二五年七月号)

底本:「日日の麺麭・風貌 小山清作品集」講談社文芸文庫、講談社

   2005(平成17)年1110日第1刷発行

底本の親本:「小山清全集」筑摩書房

   1999(平成11)年1110日増補新装版第1刷発行

初出:「風雪 第四巻第七号」六興出版社

   1950(昭和25)年71日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

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校正:酒井裕二

2019年528日作成

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