おじさんの話
小山清



 昭和二十年の三月上旬に、B29が東京の下町を襲撃した際に、私は一人の年寄と連れ立って逃げた。その年寄のことを、なが年私はおじさんと呼んでいる。おじさんはそのとき、折りわるく持病の神経痛が出て跛をひいていたので、私は手を引いて逃げたのである。二人ともに身一つで逃げた。おじさんはいちど私のことをいのちの恩人だと云ったことがあるが、そんなに感謝されるいわれはなにもない。

 私達はともにある新聞販売店に勤めていて、そこの主任が出征し、その家族が疎開したあとの留守宅を守っていたのである。店員も皆んな戦争にとられて、店に寝泊りしているのはおじさんと私のほかにはなく、配達は小学生が勤労奉仕でやってくれているような状態であった。そして私も店に寝泊りはしていたが、徴用されて軍需工場に通っている身の上であった。

 私が下谷の竜泉寺町にあったその店に住み込んだのは、日華の戦争がはじまる少しまえのことであった。そして私は若い店員たちの中に、一人まじっている年寄りのおじさんを見た。おじさんの主な役目は紙分けであった。紙分けというのは、本社から輸送してきた新聞を、区域別に購読者の数に応じて分けることを云うのである。おじさんが分けてくれた新聞を、私たち配達はそれぞれ肩紐でしょい込んで、配達に出かけていくのであった。

 冬の朝などでも、おじさんは暗いうちから起き出して、通りに面した窓際にある事務机の前に頑張っている。本社から廻ってくる輸送のトラックが店の前に横づけされるのを待機しているのである。ジャンパーの上に汚れた縕袍どてらを羽織って、脹雀ふくらすずめのように着ぶくれたその恰好には、乞食の親方のような貫禄がある。向う鉢巻で、机の上に頬杖をついて、こっくり、こっくりしていることもある。

 どうかしておじさんが寝過ごしていると、トラックから、

「竜泉寺、竜泉寺。」

 と呼ぶのが聞える。おじさんは「おう。」というような寝呆け声を出して跳ね起き、それからパタン、パタンというゴム裏草履の音をさせて梯子段を下りていく。私たち配達はそれを夢うつつで聞きながら、またひとしきり眠りを貪るのである。紙分けの途中で、おじさんが梯子段の口に顔を出して、

「おう。諸君、紙が来たぞ。起きよ。起きよ。」

 と声を掛ける。けれども、それで起きる奴などはいない。私達がそれでも一人、二人と不承不承のように起き出して配達に出かけていくのは、おじさんが紙分けをすまして、また自分の寝床にもぐり込む頃なのである。そして私達が配達から帰ってくる頃には、ひと眠りして起きたおじさんが、既に店の掃除をすましているのである。

 私はその店にながく住みついたが、おじさんとはとりわけ親しくなった。配達の出入りの多い中で、お互いが古顔であった。親と子ほどに年がちがう。私は元来人づきの悪い、頑な性分で、すぐ人と気まずくなってしまうのだが、おじさんとはそんなことがなかった。私達はつまらないことで、よくいさかいをしたものだが、そのために互いの気持にこだわりが出来るようなことはなかった。ひとえに、おじさんの寛容な人柄のせいである。

 おじさんは能登の七尾の人で、三十位のときに国を飛び出して東京へ来て、それ以来この職業に携わってきたのだという。明治十年の生れだと云うから、私達にとっては大先輩に当るわけである。またおじさんはかつて、小石川のどこやらの裏店に住んでいた、雌伏時代の菊池寛のもとに配達をしたことがあるそうである。おじさんの業界に尽瘁することも久しい。私は心中ひそかに、おじさんのために、こんな墓誌銘をさえ考案しているのだが。

「ここに配達夫礼次郎の墓あり。潔白なる生涯のしるし、肩紐と地下足袋を彫る。」

 礼次郎というのはおじさんの名前である。かつて総理大臣をした人に、おじさんと同じ名前の人がいたように思う。いまなお矍鑠としているおじさんに対して、あらかじめ死後のことを懸念するというわけのものではない。

 国にいたときおじさんはなにをしていたか、それはつい聞いていない。身の上話などはあまりしない人だが、いちどかつておかみさんだった人のことを、「怪しからぬことがあったから。」と云ったことがある。よくはわからぬが、国を飛び出したのも、そんなことが原因のようである。

 私達が女の話をはじめても、それに加わるようなことはまずなかった。おじさんと一緒に道を歩いていて、通りすがりの女のことを、私が、

「悪くないじゃないか。」

 と云ったら、おじさんは顔を背けて、苦々しそうに唾を吐いた。

「おじさんはなかなか好男子だから、若いときはもてただろうなあ。」

 と私達が冗談を云えば、

「おう、もてたもんだよ。」

 と他意なく笑った。

 それにしても、おじさんは、国を出てから三十年にもなるわけであった。

 おじさんは矍鑠としていた。病気をして寝込むなんてことも殆どなかった。それでも戦争の終る頃には、神経痛が出て歩行困難になり、よそめにもめっきり衰えが見えたこともあったけれども、それは寄る年波のせいもあろうが、主として当時の栄養不足が原因であったろう。気象もしっかりしていて、どうしてなかなか若い者に負けてはいなかった。またおじさんには、おじさんのような境遇にある年寄が持っていそうな厭味が少しもなかった。人におもねったり、主人に取入ったりするようなところが少しもなかった。誰に対しても、一対一で向っていた。それだけに頑固で人に譲らぬところがあったけれども。そして、そういうおじさんの心意気はその風貌姿勢にあらわれていて、なんとなく飄々とした脱俗味ユウモアさえ感じられた。

 おじさんと一緒に銭湯に行ったとき、冬のことであったが、湯船の中でおじさんが、──はじめはこちらの体が冷えているから、まずぬるい方の湯に這入って、あとであつい方の湯に這入ればいいという、そんな至極当り前のことをもっともらしい顔をして講釈したとき、いっしょに湯に漬っていたいい年の男が、いかにも感に堪えたような顔をしておじさんを見て、

「あなたさまは、ひそかに世の中のために御心労なさっていられる、○○先生のような方ではないでしょうか。」

 と云った。○○先生というのはおそらく心学とか道学とかいうものの先生なのであろうが、そのときおじさんは、あたかもその○○先生であるかの如き顔をして澄ましていた。その男も一寸頭のおかしいような顔をしていたが、それにしてもおじさんには、そんなふうに買い被られるだけの人品はたしかにあった。湯船の中ではみんな裸で、おじさんにしても新聞屋の記号マークのついたジャンパーなどは着込んでいないから、本来の値打が輝いていたのであろう。

 おじさんの頭はもうだいぶ禿げ上っていたが、それでも鬢や後頭部にはまだ多少は毛が残っていた。鼻は高く大きくて、若いときは実際に好男子であったに違いない。背筋などもしゃんとしていて、おじさんの気概のほどが見えた。

 いちどおじさんが店の朋輩と、とっくみあいの喧嘩をしたのを見たことがある。将棋をさしていたのだが、思いがけず、腕力沙汰になった。相手は店の者の中でも、気の荒い乱暴な男であったが、おじさんも屈せず応酬していた。すぐ留められたが、窓ガラスが毀れ、おじさんの額や唇から血が出た。見ていて、「元気だなあ。」という気がした。

 朝刊の配達から帰って、朝飯を食べると、私たち配達はまたひと眠りするが、おじさんは朝飯をすますと、なにやら一帳羅のような着物に着かえて、これもまた色の変った中折帽を被り、手頸に小さな袋をぶらさげて、日本橋の蠣殻町の方へ出かけていく。蠣殻町というところは株屋のあるところである。日曜祭日で株屋が休みの日か、雨降りの日以外は、一日も欠かさずに出かけていく。おじさんはべつに株屋の番頭をしているわけではない。これはおじさんにとっては道楽と云うべきか、これもまた商売と云うべきか、または病いと云うべきか、ともかく熱心なものであった。病いならば、もはや膏肓に入る感じであった。よくは知らないが、おじさんは行った先で同好の士と、その日の株の上り下りにことよせて、御法度の賭けごとをするわけなのである。

 おじさんはなにやらいっぱい書き込みをしてある手擦れのした手帳や、色鉛筆で図表の引いてある、これもまたいい加減けば立った方眼紙を持っていた。これはいわばおじさんの商売道具のようなもので、おじさんが手頸にぶらさげて持参する袋の中の代物は、すなわちこれであった。おじさんはときおり、老眼鏡や虫眼鏡をたよりにして、鉛筆をなめなめ、むずかしい顔つきをして、手帳や方眼紙を覗いていた。

「近頃はどうかね。儲かるかね。」

 と訊くと、

「さっぱり儲からないよ。」

 とにがそうに笑いながら云う。私はべつに賭博好きというわけではないが、それでも、おじさんの止められない気持は、察しのつかないことはない。

 着物に着かえ、わずかに残っている頭髪に湿りをくれて櫛でなでつけ、几帳面に帽子を被って出かけていくおじさんの姿は、いかにもいそいそとしていて、まるで堅気の勤人のように見えた。配達から帰ってきて、出かけるばかりのおじさんとぶつかり、「御出勤かね。」と云うと、おじさんは「うん。」とも云わずに、真面目くさった顔つきをして、草履を突っかけて出ていく。往きはおじさんは徒歩でいく。朝の新鮮な空気のなかを、竜泉寺町から千束町に出て、浅草の観音さまの境内を抜けていくのである。これはおじさんの日課の散歩のようなものである。

「いい運動になるよ。体にいいんだよ。」

 とおじさんは云う。おじさんが達者なのは、ひとつはこの毎朝の規則立った運動のせいであろう。かえりはおじさんも電車に乗ってくる。その頃、ちょうど三の輪から水天宮行の電車が出ていたので、便利であった。昼まえ、南千住の「浜の家」という弁当屋が私達の昼飯を届けてくれる頃には、おじさんは店に帰ってきていた。朝刊配達後眠りを貪った私達も、その時分になると、ぼつぼつ起き出しはじめるのである。

 或る日のこと、おじさんがなかなか帰って来なかった。

「おや、おじさん、まだ帰って来ないのかね?」

 とふと誰やらが云い出して、はじめておじさんの帰りのおそいことに、皆んな気がついた。それでも夕刊までには帰ってくるだろうと思っていたが、時計の針は進んでも、おじさんはなかなか帰って来なかった。どうしたのだろうと、私達も訝り心配しはじめた。こんなことは初めてであったし、ふだんおじさんは決してルーズな人ではなかったから。

「まさか、おじさん、しょっぱんしたわけじゃないだろうな。」

 と私達は冗談を云った。新聞屋仲間では、無断退店することをしょっぱんすると云い、またその当人のことは「パン吉」と呼んだ。新聞屋なみに卑下した用語である。しょっぱんする際には、誰にしろ、店に対して多少の不義理をしていくわけであるから、その後めたさが自ずと語感にあらわれたわけであろう。この頃は、渡り者の配達で、しょっぱんの前科のない者は殆どいなかった。だから私達は、誰かがまえの晩に廓へ遊びに出かけて、つい朝刊の配達に帰ってくるのがおくれたような場合でも、すぐ疑ぐったものだ。けれども、おじさんはこの店に対してしょっぱんしなければならない因縁は、なにもなかった。念のために、おじさんの行李が入れてある押入れを覗いてみたが、改めるまでもなく持ち出されてはいなかった。おじさんの出勤先でか、若しくはその帰途かで、なにか事故が起きたのに違いなかった。

「自動車にでも轢かれたのではないかしら?」

 私はそんなばかな心配をした。到頭、おじさんが帰らないうちに、夕刊のトラックの方が先に来てしまった。私達が配達から戻っても、まだおじさんは帰ってきていなかった。ようやく私達も一つの結論に落着いた。おじさんは出勤先での御法度の賭けごとが祟って、その筋の御厄介になったのに違いないと。それでも私達は、いまにもおじさんが間の悪そうな顔をして、ひょっこり帰って来そうな気がした。その夜、私達はおじさんの帰りを空しく待ち明かした。

 あくる日、店の主任はおじさんの出勤先へ出かけて行ったが、やがて帰ってきての話では、やはりおじさんはその処の警察署の御厄介になっているのであった。その日十人あまりの者が一網打尽にされたそうである。おじさんはそれでも二週間ばかり拘留された。警察側としては、一寸お灸をすえたわけなのだろう。おじさんの留守の間は、私が代って紙分けをした。

「おじさん、いまごろ、どうしているだろうなあ。」

 私達は店の板の間で、朝刊や夕刊をそろえながら、よくおじさんの噂話をした。同じ屋根の下に寝起きをし、同じ釜の飯を食っている者同士の親しみが誰の心にもあった。

 おじさんが釈放された日には、私が迎えに行った。おじさんは元気で、そんなに窶れても、汚れてもいなかった。警察署を出てから、私達は水天宮の近くの蕎麦屋に寄った。

「ここの蕎麦はうまいよ。おれはいつもここで食べるんだよ。」

 とおじさんは云った。おじさんは面目ながって、もう店へは帰れないと気の弱いことを云った。

「諸君に迷惑をかけた。」

「なにも気にすることはないさ。運が悪かっただけじゃないか。紙分けはやっぱりおじさんでないと駄目だ。」

 朝刊の紙分けで、私はいちど大間違いをしでかして、朋輩から文句を云われた。

主任おやじがしてくれていたのか。」

「いや、おれがやっていた。」

「それはすまなかったね。」

 おじさんは私にさきに帰ってくれ、自分は夕方帰る、昼間はどうもきまりが悪いからと、連れ立って帰ることをしぶったが、私はおじさんがひょっと弱気を出して、このまま店へ帰らなくなるような不安な気もしたので、性急におじさんを連れて帰ろうとした。おじさんは一寸さっぱりしていくからと云って、床屋に寄った。私も一緒に這入って、おじさんがひげを剃ってもらっている間を、所在なく待っていた。私はなんだか自分が、おじさんの附馬ででもあるかのような気がした。その店は小汚なく、古風な感じで、肩がこらなかった。私は壁に貼ってあるポスターの中の、豊満な体をした支那美人に、うっかり見とれたりした。

 水天宮の都電の停留場のところで電車を待っている間に、おじさんは不意に、

「一寸そこまで行ってくるから。」

 と云いすてて、私になにも云いかける隙を与えずに、足早にすぐ目の前にある水天宮の境内へ這入っていった。流石におじさんの後を追うわけにもいかなかった。それにおじさんがこのまま私を撒くとは思えなかった。私はそこに佇んで、おじさんが戻ってくるのを待った。やがて電車を四、五台見送った時分に、おじさんは戻ってきた。その顔を見て、私は合点がいった。──おじさん、一寸覗いてきたな。おじさんのおなかのなかの勝負の虫は、もはや活溌に動きはじめて、おじさんは先刻からしびれをきらしていたのに違いなかった。

 店に帰ってから、それでもおじさんは二、三日は神妙にしていた。店の間の羽目板に背をもたせて、生まあくびをしているおじさんの様子には、陸に上った河童のような気の毒さがあった。

「おじさん、だいぶ辛抱がつづくね。」

 と云ったら、おじさんは苦笑いして、「人の悪いことを云うぜ。」と云うような目つきをした。辛抱はしていても、思いは遠く水天宮の空の方へ行っているようであった。そのうちまたいつからともなく、おじさんの御出勤がはじまった。おじさんの日常はまったく旧にかえった。店の方としては、警察の方がおじさんの身柄を拘束しない限りは、なにも不都合なことはなかった。そしてその後しばらくは無事であったが、ようやく戦争の旗色が悪くなってきた頃に、或る日またおじさんは帰って来なかった。こんどは私が警察へ様子を見に行った。刑事部屋へいって、おじさんの名前を告げて、様子を訊くと、刑事はとぼけた顔をして、

「知らんね。いるかも知れない。いないかも知れない。」

 と云った。私が困惑して、

「年寄なんですが。」

 となおも念を押して尋ねると、刑事は呑み込みの悪い男だなと云わんばかりの表情で私の顔を見て、

「だから、いるかも知れない、いないかも知れないと云っているじゃないか。」

 と云って、暗示的な含み笑いをした。私もようやく、おじさんが無事にまた当処に御厄介になっていることを承知することが出来た。このときは、おじさんは二十九日間拘留された。こんどは誰も迎えに行かなかったが、釈放された日に、おじさんは独りぶらりと店に帰ってきた。そしてやがてほとぼりがさめると、また相変らず、おじさんの御出勤がはじまった。

 店でのおじさんの仕事は、紙分けのほかには、毎日の仕事としては、私たち配達が区域さきで勧誘してきた購読者の住所氏名を店の帳簿に記入することと、店の間の壁に貼ってある購読者拡張の統計表に、配達が勧誘してきた購読者の数を表にして書き込むことであった。それをおじさんは毎日几帳面にやっていた。私達の勧誘の成績がいい日は、おじさんとしても張合があるようであった。私達が勧誘の仕事から帰ってきて、店の間の事務机の前に陣取っているおじさんの目の前に、ジャンパーのポケットから、まるで札束でも取り出すようにして、購読者拡張用のカードを置くと、おじさんは上機嫌な顔をして、

「御苦労さん。有難う。」と威勢をつけて云うのが、きまりであった。また、私達が勧誘の仕事を懶けたりしてか、または骨を折っても一軒もお得意を獲得できなかったりして、

「おじさん、きょうはノー・カードだよ。」

 と云うと、おじさんも目に見えてしょんぼりした顔になって、

「そうですか。」と元気のない声で、丁寧な口をきいた。またときには、その日の勧誘が徒労に終ってがっかりして帰ってきた私達の目の前に、おじさんの方から、

「へえ、申込みだよ。」

 と云って、カードを出してくれることもあった。それはお得意の方から、わざわざ店に購読の申込みにきたものであった。私達の店では、申込みの分もその区域の配達の所得になり、自分が勧誘したものと同じように、私達はカード料にありつけたのであった。

 おじさんの仕事はそのほかには、毎月区域別に新しい定数台帳を作製することと、領収証の綴込をやはり区域の数だけこしらえることであった。おじさんは定数台帳を作製するのに新聞の折込広告を利用した。方々の商店や飲食店などから持ち込んでくる広告ビラの中から、それぞれその幾分かをとり除けて置いて、毎月の定数台帳の材料にした。これはどこの店でもやっていることであった。広告ビラというものは大抵大きさが一定している。その中の広告文の印刷してない、裏側の方が真白な紙をえらんで、裏側を表に二つ折りにしたやつを三拾枚なり四拾枚なりまとめて綴じると、定数台帳が一冊分出来上るのである。おじさんは手先の器用なたちで、観世縒りなども上手だった。おじさんが観世縒りでしっかり綴じてくれた台帳に、私たち配達はめいめい区域のお得意の名前を書き込むのであった。月のおしまい頃になると、おじさんのお手製になる翌月の新しい定数台帳が、もうすっかり完成していて、店の間の羽目板に打ちつけてある釘の頭に、区域の号数順にぶらさげてある。月が変って月はなお得意の数が落着くと、私達はその月の定数をきめ、そして台帳に記入するわけなのだが、つい億劫にしてそのままにして置くと、おじさんは店の黒板に、たとえば、

「四号、七号。定数台帳に記入して下さい。」

 というように大書するのである。私達の店の区域は八つに分れていて、一号から八号まであったのだから、二人だけが記入していないわけである。この黒板の注意書きを見て、七号が記入したとすると、黒板の字は次のように変わる。

「四号。至急、定数台帳に記入すべし。」

 実は四号と云うのは私が配達していた区域の名称であるから、いまなお台帳に記入しないでおじさんに世話を焼かせている人間は私ということになるのだが、私は横着な男だから、おじさんにこんな風な相談を持ちかける。

「ねえ、おじさん。すまないが書いてくれないか。」

 いい年をして大の男が甘ったれた口つきをして云うのである。おじさんはそういう私の顔を見て、苦りきった顔をする。

「駄目だねえ、君は。自分で書きねえ。書きねえ。」

 私は甘ったれた人間の常として、おじさんの苦りきった顔つきのなかにも、なお私に対する多分の好意が籠っているのを抜け目なく見てとって、すかさずそこにつけ込むのである。

「そんなことを云わずに書いてくれよ。頼むよ。」

「なぜ自分で書かないんだ。」

「だって、面倒くさいんだもの。」

 チェッとおじさんは舌打ちをするが、もう半分以上私の頼みを容れる気になっている。

「しょうがねえな。出しねえ。出しねえ。」

 とおじさんは云う。おじさんは、それに傚って私に代って台帳に記入するところの原本を出しねえと云っているのである。私は待っていましたとばかり、先月の定数台帳をおじさんの目の前にひろげる。それのところどころには今月から新規に購読するようになったお得意の名前が書き入れてあり、また先月までで購読をやめたお得意の名前の上には墨で棒が引いてある。

「この通りに写せばいいんだね。」

 とおじさんは念を押して、さてやおらペンを取り上げて、私に代り記入してくれるのである。私はと云えば、年寄にそんな面倒くさい仕事を押しつけて置いて、その間を浅草公園へ出かけて、割引の映画を見たりして過ごした。私が浅草から帰ってくる頃には、店の間は電気も消えてしんとしている。私はくらがりの中で、四号の定数台帳を釘からはずして、中を覗いてみる。くらがりの中でも、白いところに黒く書いてあるのはわかる。流石になんだかすまないような気になる。私は定数台帳をもとに戻して二階に上る。六畳と四畳半の間の襖をとりはらったところに、屈強の男達が思い思いの向きに寝ている。まだ帰って来ないのもいる。おじさんの寝床は梯子段の下り口に一番近いところにある。おじさんはもう白河夜船である。私はおじさんの隣りの自分の寝床に這入って、買ってきた塩豆を齧りながら、知合の本屋から借りてきた探偵小説を読む。五、六頁も読むと眠くなってきて、そこで私も眠るのである。

 私は領収証も、よくおじさんに書いてもらった。もっともこの方は私ばかりではなく、ほかにもそうしてもらっている不精者や横着者がいた。ひとつはおじさんが自分から進んで証券書きを引き受けてくれたから。証券の方は定数台帳と違って、先に購読者の名前を記入してから綴込むのだったから、記入の方がすまないと、いつまでも領収証をまとめることが出来ないわけであった。そして領収証がまとまらないと、集金の方が自然おくれるわけであった。おじさんは本社から夕刊を包装して送ってくる紙でカバーをつくって、領収証を綴込んでいた。

 おじさんはだいたい勝負事の好きなたちなのだろう。碁や将棋なども強かった。店でおじさんの右に出るものはいなかった。竜泉寺町の都電の停留場の際にミルク・ホールがあって、そこの親爺が将棋好きなところから、そこには将棋の盤がいくつか置いてあって、近所の閑人たちが寄ってきては勝負をあらそっていた。おじさんも一時通っていた。けれども、それも一時のことであった。おじさんは大抵夜は早く寝てしまった。私達は皆んな夜更しの習慣がついていたが、おじさんだけは、ひとつは朝早く起きなければならないせいもあろうが、八時ごろにはひとりさっさと寝てしまった。おじさんは煙草はまるでやらず、酒はすこしは呑んだが、それもなにかの折りに店の者たちと一緒に呑むだけで、自分から呑み屋へ出かけて行って、ほろ酔い機嫌で帰ってくるというようなことなどはなかった。それでも、おじさんの酒はいい酒で、呑むとすぐいい機嫌になって、それこそ酔った泥鰌のようにぐんにゃりして、眠ってしまった。浅草へ出かけて行って、映画を見たり浪花節をきいてきたりすることもなかった。むかし蔵前のA新聞の店にいたときは、近くに浪花節の常設の小屋があって、常住そこから折込広告を持ち込んできて無料入場券などもよく手に入ったので、その頃は毎晩のように浪花節をききにいったものだとおじさんは云った。云うまでもなく、おじさんはもう女遊びをするという年ではなかった。おじさんの楽しみと云えば、やはり蠣殻町へ通うことであったろう。

 あるとき店へ中年の堅気な感じの男の人がおじさんを尋ねてきた。おじさんは着物を着かえてその人と連れ立って出て行った。おじさんを尋ねて誰かが来たことは、それが最初であり、また最後であった。その人がどういう人か、またどんな用件でおじさんを尋ねてきたのか、私達もべつに詮索しなかったし、またおじさんも帰ってきてからどんな話もしなかったが、おじさんの郷里の人だということだけが私達にもわかった。そのことがあってからしばらくしてから、二年ばかり経ってからだったが、戦争もはげしくなってきて店の者も殆ど戦争にとられて店の様子も寂しくなった頃であったが、あるときふとおじさんが、いつも胴巻に挟んでいる大きな蝦蟇口から、一葉の写真をとりだして私に示した。それは若い、三十前後の女の人の写真であった。

「おれの娘だよ。」

 とおじさんは云った。そしておじさんは話した。いつぞや男の人が尋ねてきたとき、娘に会ったのだと。おじさんが国を飛び出したときは、娘さんはまだ母親のはらのなかにいた。娘さんも既に片附いて人妻であるが、三十年も昔の父親に、まだ見たこともない父親に会いにきたのである。してみると、娘さんはその生い立ちの途上で、生れ出る前に自分を捨てた父親のほかには、父親を求めることが出来なかったものと見える。同郷のかつてのおじさんの知合の男が東京見物をするのに伴いてきたのか、それとも、わざわざおじさんに会わせるために、その男が娘さんに附添ってきたのか。やはりなにかことのついでがあったのだろう。それにしてもおじさんも娘さんも、三十年ぶりに親子の対面をしたわけである。

「靖国神社へ行ったよ。」とおじさんは云った。

「二拾円呉れてやった。けちな真似もできないからね。奮発したよ。」

 とおじさんは云った。

 写真はそのとき娘さんがおじさんに渡したものであろう。

 戦争がはげしくなるにつれて、前述のように店員は戦争にとられていなくなり、私も軍需工場に徴用された。それでも私の徴用先はつい近くの三河島にあったので、私は店に寝泊りして通うことができた。その頃新聞の方も専売から合配に変っていて、配達は近くの小学校の生徒たちが交代でやってくれていた。そのなかには、私の馴染みのお得意の息子たちもいた。おじさんは相変らず紙分けをやり、世話の焼ける少年配達夫の面倒を見ていた。ある日、工場から帰ってきた私に、おじさんがにやにや笑いながら云った。

「近いうちにいいことがあるよ。」

「いいことって、おれにかい?」

「うん。」

「なんのことだい?」

「思い当ることはないのか。」

「思い当ることなんかあるものか。」

「おめでたい話だよ。」

「へえ?」

 私にはどうも合点がいかなかった。けげんそうにしている私に、おじさんはわけを話してくれた。その日、興信所の調査員が来て、私のことをいろいろおじさんから聴取していったというのであった。

「心配することはいりません。おめでたい話です。」

 と調査員は云ったという。興信所の話でおめでたいと云えば、さしずめ縁談だろう。けれども私にはさっぱり思い当ることなどはなかった。一体どこの誰が、そんなおめでたい話で、私の身許調査などをする気になったのだろう。若しもそれが本当だとすれば、それこそ降って湧いたような話だ。それにしても、興信所の調査員がやって来たことだけは事実である。おじさんはまじめくさった顔をして私を見て、

「おれはこう考えるんだがね。きみがもと配達していた区域に娘はいないか?」

「娘なんか幾人もいるさ。」

「いや、一人あればいいんだよ。その娘がきみのことを見染めたんだ。」

 おじさんの話によれば、こうであった。──私がもと配達していた区域のある家庭で、そこのひとり娘がいつからともなく気が欝いで、食事もすすまず、夜もろくろく眠らない。日ましに体は細る一方。両親は心配して医者に見せたが、どこも悪いところはない、これは私の専門外だと云う。そこで母親がこっそり娘を問い糺したところ、娘の云うことには、実は私はとうからあの配達さんのことを……。私は噴き出してしまった。まるで落語に出てくる横町の隠居が与太郎をからかうような話だ。

「冗談を云っちゃいけねえ。おじさんも人が悪いな。」

「冗談なもんか。ほかに考えようがないじゃないか。娘が病人になっては両親としても抛っておけないから、そこで興信所に頼んできみの身許しらべということになったんだ。」

 そう云われると、若しかしたらそうかも知れないという気がして、私はかつて配達した区域の娘たちの顔を、あれこれと思い浮べてみた。角の煙草屋の娘かしら。それとも横町の豆腐屋だろうか。土手下に土蔵のある大きな門構えの家があったが、あそこに年頃の娘がいなかったかしら。……私も阿呆な証拠には、自分がなんだか男のシンデレラにでもなったような気がしてきた。

「どうだ。まんざら胸に覚えのない話でもないだろう。」

 それは私だってなにも木石というわけではないから、人知れず憎からず思った娘の一人や二人はないわけではなかったが、けれどもそれは私だけの話で、先方は御存知ない。私が首をかしげて半信半疑な顔をしていると、おじさんも思案顔をしていたが、

「いや、これは娘じゃないかも知れぬ。親の方から出た話かも知れんぞ。」

「というと、どういうことになるんだ。」

「養子だよ。きみを養子に欲しいんだ。どっちにしろ悪くない話だ。きみは見込まれたんだから。」

「新聞配達を見込むなんて、そんなもの好きな人がいるのかね。」

「そこが見込むということじゃないか。」

「だけど養子なんて、あまり芳しくないな。むかしからよく小糠三合なんて云うじゃないか。だいぶ値段を安く踏まれているぜ。」

「ばかを云っちゃいけねえ。むかしから養子に行った人には大人物がいるんだ。修身の教科書に名前の載っているような人には養子が多い。大石内蔵之助だって、伊能忠敬だって、みんな養子だ。つまり誰しも養子をするからには、大人物を養子にして、家運の隆盛をはかるんだ。生半可な人間は養子にしてもらえねえ。くさすのは養子になれなかった奴のひがみだ。」

「ばかに養子のことを弁護するじゃないか。まさかおじさんは養子じゃないだろうな。」

「おれは養子になれなかったくちだよ。」

「だけどおじさん、家運の隆盛はいいが、養家先が豆腐屋だったりしたら、ひでえことになるぜ。豆腐屋の早起きは新聞屋どこじゃないからな。それに冬だからって懐手をしているわけにはいかねえ。越後の高田町でも、豆腐屋だけは両掌を出しているというじゃないか。おれは生れつき皮膚が弱いから、冬場は水の中に掌を入れると、ひびがきれて困るんだ。」

「どうもきみは大人物にはなれないな。」

「ところでおじさん、調査員にはどう云ってくれたね。」

「心配しなくともいいよ。そこは日頃の誼しみがあるから、悪くは云わねえよ。うまく云っといたよ。松葉屋にお馴染がいるなんてことは伏せておいた。」

 その夜私は寝床のなかに這入っても、なにやら胸騒ぎがして、なかなか寝つかれなかった。親に見込まれたという話よりは、やはり娘に見染められたという話の方が身に染みた。自分がこうしてねっからうだつが上がらないのに、おめおめと生きながらえているのは一体なんのためだろうなどと、そんな日頃あまり考えつけないことを考えたりした。やはりなにかを待っているのだろう。なにかを待っているとすれば、そのなにかとはなんだろう。やはりそれはどこやらの内気な娘から、実はというその人の本心を一言ききたいことではないかしらと思ったら、私はなんだか胸がいっぱいになってきた。一体どこの娘だろう。そんないまどき流行らない恋煩いをしている娘というのは。

 けれども、この話はそれっきりであった。その後なんの音沙汰もなかった。つまり破談ということになったのだろう。シンデレラは心がけのいい娘であった。だから奇蹟が実現したのだ。私は叩けばいくらでも埃の出る男である。おじさんはうまく云い繕ってくれたとしても、よそから這入った情報が芳しくなかったに違いない。私は当座は銭の三百文も落したような気がしたが、日が立つにつれて、なにやら後味の甘さだけが心に残った。処も知らぬ、名も知らぬ、顔も知らない娘さんのことが、ふと私の心頭を掠めることがしばしばであった。凡そ掴みどころのない、頼りない、若しかしたらまるっきり迷妄であるかも知れない話。けれどもそれが淡いとも云えないほどの淡さで私の心に残っていて、一瞬私をして夢見心地にさせるのである。私はいまでもときどき、こんな阿呆なことを思ったりするのだ。親から云い含められて娘さんは思いをひるがえし、他家へ嫁いで子供までなし、いまは幸福な家庭を形づくってもはや昔のことは忘れているが、それでもときたま、子供の襁褓を洗濯しながらふと憶い出したりする、あの配達さん、いまごろどうしているかしら。

 食糧事情がひどくなるとともに、おじさんも私もやたらに腹をすかした。二人寄れば食物の話ばかりしていた。二人共に大食いで口の賤しい方だったから。云うまでもなく配給量だけでは足らないので、なんとか手蔓を求めては食物を手に入れて、その不足分を補っていた。あるとき私は何枚かの外食券が手に這入ったので、それを米屋へ持参して米と交換してもらったのだが、その際米屋の人がなにを思い違いしたのか、その外食券の一ヶ月分ほどの分量の米を私に渡してよこした。米を量っているのをそばで見ていても、その間違っていることはわかったのだが、私はしめたと思い、なに食わぬ顔で米をもらって帰ってきた。私はその米を押入へ仕舞い込んで、毎日徴用先の会社から帰ってくると、少しずつ取り出して煮て食べていた。私は三度の食事は工場の食堂で食べていたのだ。私は押入のなかの米を、私が勤めに出かけている留守の間に誰かが、と云ってもおじさんのほかには誰もいないのだから、つまりおじさんがこっそり取り出して食べはしまいかと思って、随分心配した。どうせ天から授かったような米なのだから、半分おじさんに分けてやろうかと思ったが、惜しくてとても出来なかった。ある日、工場の外註先に用事があって工場から外出したときに、その帰途店に立ち寄ったところ、店の間の事務机の前に腰かけていたおじさんが、思いがけない時刻にあらわれた私の姿を見て、周章てて奥へ引っ込んだ。へんに思っておじさんの後に続くと、おじさんは台所から二階へ通ずる梯子段を上っていった。台所にある瓦斯焜炉がふと目についたが、それにはその上にたったいままでなにかが載せてあった形跡が見える。私はさてはと思い、おじさんの後を追って二階へ上ると、おじさんはおじさん専用の半間の押入になにやら入れていそいで戸を閉めたところらしく、白ばっくれた間の悪い顔をして、

「よう、きょうはばかに帰りが早いじゃないか。」

 と云った。私はすぐ会社へ戻らなければならないのだと云い、私達は一寸の間よそごとを話したが、おじさんが階下へ下りた隙に、押入を覗いてみたら、布団の上に焚きたての御飯の這入った小鍋がちょこんと載っていた。私は癪にさわって、食べてしまってやろうかと思ったが、流石にそれも出来かねた。

 空襲の夜、おじさんと私は三河島の省線のガード下まで逃げて、そこで大勢の避難民と一緒に夜を明した。夜が明けてから、三の輪にある同業の店を尋ねた。やがておじさんはその店に身を置くことになり、私は郊外の三鷹町にある友人が疎開した後の家の留守番に這入り込んだ。私は三鷹から三河島の工場まで通ったが、それから空襲が頻繁になって、几帳面には通って来られなくなった。おじさんは三の輪の店で一区域受持って配達するようになった。神経痛が出たときも、足を引きずって配達していた。私はときどき、おじさんの許に泊り込んだ。あるときおじさんの相伴をして、ビールの券にありつくために、国民酒場の前の行列の中に這入った。おじさんはビールを呑むわけではなく、そうして行列してビールの引換券を手に入れては売って金にしていたのである。そういう行列の中には生ビール一杯呑むだけではおさまらなくて、呑まない連中に頼み込んで並んでもらい、券を余分に手に入れようとしている呑み手がいたのである。私が行列に並んでいると、その男がそばに寄ってきてそっと耳うちをした。

「券をもらったらおれに渡してくれよ。お父さんともう話がすんでいるんだから。」

 そう云ってその男は、私の三人ばかり前の方に並んでいるおじさんの姿を頤でしゃくってみせた。私をおじさんの息子のように思ったらしかった。取引がすむと、おじさんはもう一ぺん行列に並ぶから、私に先へ店へ帰って待っているように云った。店で待っていると、やがておじさんは帰ってきて、私に最前の分前をくれた。

 終戦になってから私は工場をやめたときにもらった退職金でしばらくは暮らした。そのうちそれもなくなった。友人も疎開先から戻ってきて、留守番の必要もなくなったので、私はふとその気になって、北海道の炭坑へ行った。私はおじさんにいとま乞いもしないで北海道へ行ってしまった。その前に私はおじさんを騙すようなことをしていたので、つい行きにくく足が遠くなっていたのである。おじさんが持っていたビール二本を金に換えてやると云って、持って行ってそのまま猫ばばをきめ込んでしまったのである。私は炭坑に二年いたが、私はそこで、おじさんはもう死んでしまったろうと思った。私が炭坑へ行く前には、おじさんはもうすっかり衰えて元気がなく、余命幾許もなく見え、その店の主人などからも厄介視されていたのである。

 私はまた東京に帰ってきた。ある日、三の輪の店へ行くと、主人はおじさんはもうだいぶ前に、一年以上も前に店を出て、いまはその消息はわからないと云った。私はもうきっとおじさんは死んでしまったのだろうと思った。野垂れ死をしたかも知れないと思った。

 ある日、用事で駒込の方へ行き、とある外食券食堂に這入ったら、そこにおじさんがいた。思いがけなく、めぐり逢うことが出来たのである。私は神さまのお導きだと思った。おじさんは元気であった。私は自分に後めたいことがあるものだから、不吉なことばかり想像したのだろう。おじさんはこの近くのある大工さんの家に同居していると云った。話をきくと、おじさんは相変らず昔のように、毎日ひるは蠣殻町へ出かけているのであった。暮らしの方は外食券の売買とモク拾いでどうにかやっているようであった。この食堂の客は殆どが日傭労務者のようで、ここがおじさんの商売の場所であった。私がおじさんと話している間にも、おじさんから外食券と煙草を分けてもらう者が何人かいた。

 それからまた、私はとき折りおじさんに逢いに行った。晩飯時にその食堂へ行けば、おじさんに逢うことが出来た。時間が少し早いときはおじさんの同居先を尋ねて、連れ立って食堂へ行った。おじさんを同居させている大工さんというのが、他人の家に同居している境遇で、つまりおじさんは大工さんが借りている六畳間にいっしょにいるのであった。大工さんは妻子のある人だから、大工さんもよくおじさんを置いているわけであった。おじさんは大工さんに同居代を一ヶ月百円はらっているそうである。おじさんは朝五時頃に起きて、大工さんの家族がまだ寝ているうちに家を出て、すぐ食堂へ行く。そして朝飯を食い、傍ら商売もして、それから省線を利用して蠣殻町へ出かけて行く。そこで例の事をやったり、またさる伝手から商売の外食券を仕入れたりする。おじさんは道を歩きながらも、しょっちゅう落ちている煙草の吸いさしに注意して、携帯している頭陀袋の中に拾い込む。一日でかなりの収穫がある。三時頃家に帰ってきて、拾い集めてきた吸いさしを材料にして、巻煙草の製造をする。そして出来たやつを、これも道で拾った空箱に詰めて、晩飯時になった食堂へ出かけて行くのである。五時頃から七時過ぎまでいると、かなり商売が繁昌する。おじさんは煙草一箱につき拾円儲け、また外食券一枚につき二円儲けた。煙草は一箱買う人もあり、また三本くれという人もあり、また一本だけ買う人もあった。おじさんよりは少し年の若い、やはり年寄の人が、「食券二枚に、煙草を一本くれませんか。」と云っているのを見た。その人は食後の一服をすると、おじさんに「おさきへ。」と挨拶して出て行った。おじさんの生活方法は、これをしも闇と云わなければならないかも知れないが、私には全く非難の余地がないように見えた。おじさんは日曜日には、蠣殻町の方が休みなので、上野の山まで足をのばして、素人野球を見物して時間つぶしをしているようであった。大工さんの家には、努めてただ寝るだけにしているようであった。あるとき私はこんなおじさんにさえ借銭の申込みをした。私にはおじさんから不機嫌な顔をされ断られても仕方のない弱身があるのだが、おじさんは私の申出を容れてくれた。おじさんはかつて私がおじさんを騙したことを、忘れているかのように見えた。私はほっとして随分気持がらくになった。おじさんが私を赦してくれていることがわかったから。

 おじさんが行っている食堂の客は、殆どが常連で、皆んな朝に夕にここに寄って顔を合わしているのであった。皆んな素朴な生業なりわいの人ばかりであった。一日の仕事をすましてここに集り、食事をして歓談のひとときを過ごして、それからそれぞれ宿へ引き上げているようであった。一椀の飯に、一杯の汁に、一日の憩いと解放を感ずることの出来る人たちであった。こういう人たちの間におじさんが生活の道を見出していることが、おじさんの人柄にふさわしいように私には思えるのであった。ここに集る人たちの間では、おじさんが最年長者のようであった。

 ある日、食堂へ行ったら、おじさんの姿は見えなかった。食堂のおかみさんに、おじさんがもう帰ったのか、それともまだ来ないのか訊くと、おじさんは昨日この先の病院へ入院したという話であった。大腸カタル、若しかしたら疫痢えきりかも知れませんよとおかみさんは云った。どんな具合でしょうかと訊くと、なにしろ年寄ですからねえと云った。私は病院の所在をおかみさんからきいて、すぐ病院へ行った。おじさんの病室には四つ寝台が置いてあって、みんな塞っていたが、おじさんのほかは二、三歳の小児ばかりで、それぞれ母親らしい人が附添っていた。おじさんの病気は大腸カタルであったが、医者は年寄のことだし、万一ということがあるから、身寄の人に来てもらった方がいいと云った。身寄はない人ですと私は云った。おじさんはだいぶ弱っていたが、私には大丈夫だという感じがした。看護婦になにからなにまで、下のものの世話までしてもらっているとおじさんは気の毒そうに云った。その後十日ばかりして行ったときには、おじさんはもうかなり元気になっていた。

「きのう看護婦が風呂に入れてくれたよ。さっぱりしたよ。」とおじさんは嬉しそうに云った。「情けないもんだね。足腰が立たないんだよ。」

「それは体に力がないからだよ。物が食べられるようになれば、力が出てくるから歩けるようになるよ。」

「看護婦がおれを負って風呂へ連れていってくれるんだよ。まるで娘のように面倒を見てくれるよ。」

 それからおじさんはいかにもおじさんらしいことを云った。

「ねえ、きみ、とても腹がへってかなわないんだよ。毎日お粥ばかりなんだ。氷砂糖を買ってきてくれないか。おれはそれをしゃぶっていようと思うんだ。」

「いまが大事なときじゃないか。辛抱しなよ。」

 おじさんが氷砂糖を欲しがるのは、口ざみしいためばかりではなく、寝台に寝てばかりいて一日が長くて退屈なので、それでもしゃぶって気を紛らわしたいらしいのだった。私は看護婦に訊いてみたが、差支えないと云うので、病院の売店から氷砂糖を買ってきた。おじさんは早速それを頬ばった。病室の附漆のお母さんか誰かが口に入れているのを見て、おじさんは子供のように欲しくなったのかも知れなかった。

 おじさんの病状は、その後まったく順調で、日ましによくなっていった。それでもおじさんは一月あまり入院していた。食堂のおかみさんがいちど見舞いに来てくれたそうである。その後しばらく私はおじさんに御無沙汰していたが、殆ど一年ぶり位に尋ねたら、おじさんは元気なくしょんぼりしていた。

「きみに愛想を尽かされちゃったし。」

 とおじさんは気の弱いことを云った。それは私の方こそ、おじさんに云わなければならない言葉であった。人が人に愛想を尽かすなどということは、果して出来ることだろうか。若し誰かから愛想を尽かされていい人間がいるとしたなら、それは私のことだろう。

 話をきくと、その後おじさんの商売の方は下火になる一方で、食券も煙草も殆ど需要がなくなったようであった。それでも食券の方はまだいくらか利用する人もあるようだったが、煙草の方はとうに自由販売になった現在、いまさらしけモクを喫う人はいないに違いなかった。蠣殻町の方も、たまにしか行かないようだった。日傭労務者の登録を受けるには、おじさんは少し年を取り過ぎていた。

「養老院へ行けなんて云う人もいるんだが、気が進まないんだよ。」とおじさんは云った。「もう少し前だったら、日傭にもらくになれたんだが、その時分はこっちの商売が繁昌したもんだから、つい登録する気にもならなかったんだよ。それにいまいるところも退かなきゃならないんだよ。いま、おかみさんが大きなおなかをしていてね、子供が生れるまでにほかに部屋を見つけてくれって云われているんだ。気の毒なんだよ。随分長い間世話になったよ。おれが父親おやじのような気がするって云うんだ。」おじさんは目に見えて困窮していた。私はと云えば、私はまた人から借金して暮していて、いまだに陽の目を見ない小説を書いている身の上であった。住居の方もある牛乳屋の二階にお情けで置いてもらっている状態であった。

 その後またしばらくおじさんの許を尋ねなかった。するとある日、めずらしくおじさんから私のもとに葉書が来た。見ると、就職ならびに転居の知らせであった。

「目に青葉山ほととぎす初かつおの季節に相成りました。元気でご活躍のことと思います。その節は一方ならぬご配慮にあずかり忝く存じます。この度当寺院に住込みました。健康も至極良好でありますからご安心下さい。おひまの折りに是非一度ご光来下さるようお待ち申します。谷中○○寺内、野辺地礼次郎、追伸、五重塔を目じるしにお出になりその辺にてお尋ねになればすぐわかります。」

 右のような文面であった。私はまずなにはともあれほっとした。この文面から察すると、新しい環境はおじさんにとって快適なものであるらしく、おじさんはまったく満足しているように見受けられた。この葉書は私に友人の近況をこの目で見届けたい心を起こさせた。私は早速谷中まで出かけて行った。省線日暮里駅で下りて、五重塔を目あてにして歩いていき、とある花屋で訊くとすぐわかった。この辺は関東の大地震の災害をも、また戦災をもまぬかれていて、一体の家並はひどく古めかしかった。○○寺はわりと小体な寺院であった。門構えも瀟洒で俗でなかった。私はまずその見かけに一目惚れをした。住職も必ずや奥床しい心根の、清貧に安んずる人に違いないという気がした。

 庫裏の入口のわきに、一もとの栗の木があって、折から花をいっぱいつけていて、その匂いがはげしく鼻を刺戟した。私は案内を乞うた。

「ごめん下さい。ごめん下さい。」

 いらえはない。奥の方からかすかに琴の音がきこえてきた。

「ごめん下さい。」

 琴の音が止んだ。待つ間ほどなく、洋装の娘さんがあらわれた。

「野辺地さんのしるべ辺の者ですが。」

「あ、おじさんですか。おじさんは一寸出かけておりますけど。」

 おじさんは当寺に於ても、もはやおじさんと呼ばれているようであった。

「それでは後ほどまたお伺いします。」

「いいえ、すぐに戻って参りますから、よろしかったら、お待ちになって下さい。」

「それでは待たさせていただきます。」

 私がそこの式台のはしに腰をかけようとしたら、娘さんは、

「あの、こちらでお待ち下さい。」

 と云いつつ、下駄を突っかけて庫裏の外に出た。私は娘さんの後に従った。庫裏の横手に物置小屋のような軒の低い小家があって、娘さんはその軒下をくぐりながら、私をかえりみて、

「どうぞ、こちらでお待ちになって下さい。」

 とくりかえした。小家の内部は六坪ほどで、座敷と土間とから成っていた。座敷の畳数は四畳半で、格子のある窓際に小机が据えてあり、小机の下には座布団があった。壁には見覚えのあるおじさんの襯衣やズボンがかかっていた。察するところ、おじさんはここで寝起きしているのだろう。娘さんは座布団を取って私にすすめ、

「どうぞ、おらくになさって下さい。」と云うと、立ち去った。

 私は上框に腰かけたが、さて手持無沙汰であった。こんなとき、煙草のみならば懐中から煙草を取り出して一服するわけなのだろう。土間の片隅には鍬やシャベルや炭俵や七輪や手桶などが置いてあった。羽目板にはよきほどのところに棚が打ちつけてあって、棚の上には炊事道具その他が置いてあった。この棚は最近そこに設けられた形跡が見える。けだしおじさんの細工になるものだろう。

 私は座敷に上り机の前に坐ってみた。机の上には硯箱が置いてある。硯箱を持ち上げてみると、千字文と半紙の束があった。半紙には手習いの跡がある。手習いなんかはじめたところを見ると、よくは様子はわからないが、おじさんはだいぶ閑日月を楽しんでいるらしい。私はいっそ羨ましい気がした。窓からは涼しいほどの風が吹いてくる。窓の向うには初夏の光を浴びた木立も涼しげな、この寺の墓地が見える。私は小家を出て墓地の中を歩いた。私がおじさんのために墓誌銘を考案したのは、この散策の最中に於いてである。私が頭の中でどうやら墓誌銘を仕上げたとき、風に送られてまた琴の音がきこえてきた。つづいて歌声もきこえてきた。


いとしのこがらがさ

きょうもとおれかし

やさしのこがらがさ

きょうもとおれかし


 私はきき惚れた。私がまた小家に戻って、所在なさに机に向い手習いをはじめていると、娘さんがお茶を持ってきてくれた。

「どうも、お待たせしてすみません。妹が今年からこの先の幼稚園にあがりまして、それでおじさんに送り迎えをしてもらっているんです。もう戻ると思います。」

「おじさんはいつからこちらに御世話になっているんですか。」

「まだ一月ほどですわ。」

「僕はおじさんからまだなにもきいていないんですが、どういう御縁からですか。」

「私共で前から仕事を頼んでいる大工さんからおじさんの話をききまして、ちょうど私共でも人手が欲しかったもんですから。」

「おじさん体はどうですか。葉書には元気なように書いてありましたが。おじさんはお役に立ちますか。」

「ええ。よく働いてくれますわ。父も喜んでおりますわ。それに父は碁が好きなもんですから、おじさんが来てからいい相手が出来たって、それは喜んでおりますのよ。」

「それはよかったなあ。」

「それにおじさんはいい人ですわ。妹もよく懐いていますのよ。」

「さっき琴を彈いていられたのはあなたですか。」

「ええ。」

「あの曲は古いものですか。」

「いいえ。曲は古いものではありません。室町小唄に私の琴の先生が節づけしたものです。」

「いいですね。」

「ええ。私も好きなもんですから。」

 そこへおじさんが女の子を連れて帰ってきた。色白な澄んだ目をした可愛い子だった。姉さんによく似ていた。

 その日おじさんからきいた話によると、この寺の家族は住職と娘二人だけで、母親は去年亡くなり、十九になる姉娘が主婦の代りを勤めているということであった。「養子になる気はないかね。」とおじさんは冗談を云った。私はまだ住職の顔は知らない。

(「新潮」昭和二八年七月号)

底本:「日日の麺麭・風貌 小山清作品集」講談社文芸文庫、講談社

   2005(平成17)年1110日第1刷発行

底本の親本:「小山清全集」筑摩書房

   1999(平成11)年1110日増補新装版第1刷発行

初出:「新潮 第五十巻七号」新潮社

   1953(昭和28)年71日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:kompass

校正:酒井裕二

2019年1124日作成

青空文庫作成ファイル:

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