西行の眼
下村湖人



憤怒に打ち克つもの、それはただ慈心のみである。世に、対立を超越したものほど、尊く、高く、かつ強きものはない。


 平安朝もおわりに近いころ、北面の武士から、年わかくして仏門にはいった二人の偉丈夫があった。その一人は佐藤義清のりきよ、もう一人は遠藤盛遠もりとおである。義清は二十三歳、盛遠は十八歳で剃髪した。前者は一所不住の歌人西行さいぎょう、後者は高雄神護寺の荒行者文覚もんがくである。

 おなじく仏門にはいっても、二人の心境は、火と水のようにちがっていた。文覚が、燃ゆるがごとき情熱と、怒濤のごとき意力とをもって自己を鍛錬しつつ、つねに世の動きに関心を持ち、頼朝のために院宣を請うたり、天皇廃立の不軌を企てたりしたのに反して、西行は、豪宕ごうとうの性をもちながら、一杖一笠、しずかに自然を友として嘯咏自適、あたかも銀盤に秋水をたたえたような清純な生涯をおくったのである。

 文覚にいわせると、西行は仏門の賊であった。「沙門のくせに、行雲流水を友として、四方に周遊し、吟咏に日を送って、衆生済度の心を失っているのは怪しからぬ。」というのが、彼の腹であった。そして、いつも口癖のように、「西行に会ったら、頭をたたき割ってやる。」と豪語していた。

 一方、西行は、文覚のことを別に何とも思っていなかった。ただ、高雄に文覚という荒行者がいるそうだ、旅のついでに逢えたら逢おう、ぐらいに考えているだけであった。そして、文覚が、まだ見たこともない自分を、腹に据えかねていようなどとは、夢にも思っていなかったのである。

 ところが、二人が出っくわす機会がついにやって来た。ある秋のゆうべ、西行は、その巨大なからだを寒そうな衣につつんで、のっそりと神護寺の門をくぐったのである。

 西行の訪れたのを知った文覚の胸には、たちまちきな臭い煙が渦巻いた。今日こそは、いよいよ西行をぶちのめす機会が来た、と彼は思ったのである。

 やがて二人は一室に対座した。

 文覚は、かつて伊豆に流されていたころ、頼朝にはじめて面接した時のように、目をいからしてじっと西行を見据えた。その瞳からは、焼けつくような炎がほとばしった。

 これに対して、西行の眼は、水のように澄んでいた。文覚の眼から出た炎は、西行の眼の近くまで行くと、ひとりでに熱気を失った。しばらくするうちに、文覚は、自分の眼そのものまでがつめたくなって行くのを感じた。いや、冷たくなるというよりは、何か眼に見えない柔かいもので、自分の顔から、一切の毒気と熱気とを拭い去られるような、心地よさを感じた。同時に、彼の胸のなかに渦巻いていた黄臭い煙も、何処へやら消えうせて行った。そして、室にみなぎるものは、秋のゆうべの、うっすらとしたしずかな光のみであった。

 かなり永い間、二人はその寂光のなかに、二つの温かい石像のように坐っていた。

 やがて文覚はしずかに眼を落し、頭をたれて、西行に仏の道を問うた。それから二人のほがらかな話声が永いこと室外にもれて、文覚の弟子たちの耳をそばだてさした。

 西行が、再び瓢然として、その寒そうな姿を神護寺の門外に運び去った時、弟子たちは、かねての豪語にも似ぬ文覚の態度をなじった。

 文覚の答は、しかし簡単であった。

「西行はわしに殴られるような男ではない。わしこそ、うんと西行に殴って貰わねばならぬのじゃ。」


 仏門にはいったからには、西行のように、一切の名利を捨てて一所不住の生活をするのが本筋なのか、それとも、人間であるからには、文覚のように、あくまでも人を動かし、世と戦うことを忘れてはならないのか、それは、しばらく別として、ここでわれわれの考えて見たいのは、二人の魂の落ちつくどころである。火のような文覚の眼と、水のような西行の眼が、何を意味するかである。

 文覚には強い自我があった。彼は、あくまでも自分を忘れることが出来なかった。そこが彼をして、自己克服のために、すさまじい荒行を行わしめた理由でもあり、彼の偉さもまたその点にあったのである。が、結局、彼は西行ほどに徹底して自己を克服することができなかった。彼は、彼の周囲に対してつねに怒を感じた。自己を確立せんとする心は、たえず自己と他人とを対立せしめた。こうして彼は、西行の頭を叩き割ろう、とさえ思ったのである。彼の眼は、おのずと赤黒く燃えあがらざるを得なかった。

 西行にも、無論、自我はあった。しかし、彼の自我は天地と共に生きる自我であった。草木虫魚とともに喜び、かつ悲しむ自我であった。それはいつも、水のようにさらさらとながれていた。ちょっと見ると力がないようでも、それは大地にしみ徹る自在無礙なるものであった。そこに、彼の眼が水晶のように静かに澄みきっていたわけがあるのである。

 こうして、文覚の眼はついに西行の眼に克服されたが、それは、怒り、争い、打ち克たんとするものの心が、怒りと争いと勝敗とを超越したものの心に対して、如何に弱いものであるかを物語るものでなくて何であろう。


 考えて見ると、今の日本は、文覚の徒が多過ぎる時代である。右を見ても、左を見ても、小文覚がうようよしている。それらのある者は、どこやらの赤い法衣を着ており、またある者は、どこやらの黒い法衣を着ている。そして彼らの眼は、一ように火のように燃え立って、あたりにいる者の頭を叩き割ろうとしている。彼等は静けさを好まない。静かに中道を歩もうとする者でさえ、かれらの怒りをさけることが出来ないのである。

 こうした時世では、西行の眼を持つ人が、一人でも多く現われることが望ましい。

 無論、今の世に、西行の眼を持つ人が全くいないのではない。しかし、悲しいことには、えせ文覚の徒があまりに多過ぎ、しかも彼等は西行の眼をしみじみと見ようとはしない。文覚ほどの修行を積んでいない彼等は、非常に無知であり、しかも卑怯である。彼等は西行の眼に十分ものをいわせるまえに、はやくも敵呼ばわりをする。そして背後から、西行の眼をもった人たちの頭を叩き割ろうと企らむのである。

 だから、西行の眼はもっともっと多くなければならない。でなければ、尊い人間の道がすたれる。日本はこの数年来、似て非なる文覚の徒の出現によって、すでにある程度の修羅場と化してしまった。そして、危険はさらに刻々加わろうとしている。われわれは、愛国や民衆の名において、人間の道をけがす奇怪な人物が各所に横行しているのを、ただ茫然と見まもっていてはならない。われわれは、人間の道を護るために、何としても、彼等の胸から、有毒な炎を消し去る工夫をしなければならない。そして、そのために必要なものはまさしく西行の眼である。


争はぬ心となりて野を行くや木々ことごとく日にかがよへり

かにかくに小さきままに生きてあれば天つ光はゆたかなるかも

 この二首は、人道の真精神に即せんとするわたくしの心願を歌ったものである。常に人に打克たんとする醜いこころを捨てて、地にみなぎる寂光のなかに、小さきままにしずかに自己の道を歩むことこそ、真に人間をして光あらしめる道ではあるまいか。

 わたくしは、文覚の情熱と、意力と、荒行との尊さを知らないものではない。ただ、その憤怒に燃ゆる胸と眼との赤黒い炎に、いいしれぬ憂いを感ずるものである。

 同時に、わたくしはかたく信ずる。──怒れる者の心はほんとうの強さを持たない。静寂のなかに、無限の抱擁力と暖かさとをたたえた西行の眼こそは、ついに世に打克つであろう。

 西行の眼を持つ青年がいたるところに現われ、そして、それぞれの家庭と郷土とにおいて、静かに文覚の徒の眼を見つめることを、私は心から祈ってやまないものである。

底本:「仏教の名随筆 2」国書刊行会

   2006(平成18)年710日初版第1刷発行

底本の親本:「下村湖人全集5」国土社

   1975(昭和50)年1025日初版発行

初出:「青年」

   1933(昭和8)年6

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2018年127日作成

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