風媒
林芙美子




 早苗はまるでデパートで買物でもするひとのやうに産院をまはつては、赤ん坊を貰ひに歩いてゐた。色が白くて、血統がよくて、器量のいゝ、そして健康な女の子をほしいと思つてゐた。

 今日も、ごう〳〵と寒い風の吹くなかをバスにゆられながら、早苗は三條までやつて來て、疏水の近くにある梅園産院と云ふのへ寄つてみた。底冷えのする寒い路地の中を小走りに歩きながら、早苗はいろ〳〵な胸算用をしてゐるのである。

 産院は格子のはまつた暗い家で、陰氣臭いかまへであつたが、格子を開けると、右手の廊下の向うには、思ひがけない小ざつぱりした茶庭があつた。背の高い小笹に白い手拭がさげてあつて、くつきりと清潔さうで、いままでに見たどの産院よりも豐かな感じである。早苗は、何となくよい子供がさづかりさうな、そんなふくふくした、氣持ちになるのであつた。

 案内を乞ふと、前だれがけの日本髮の娘が出て來て、今まで水仕事をしてゐたのか、赤く濡れた手を敷居ぎはへついて「おこしやす」と云つた。

「あのう、昨日、新聞でみまして上りましたのどすけど……」

 早苗はシールの肩掛をはづして笑顏でたづねた。娘は片笑窪をみせて一寸おじぎをするとそのまゝ奧へ引つこんで行つてしまつたけれども、暫くして出て來ると前よりも丁寧に膝をついた。

「どうぞお上りやして……」

 早苗はさう云はれると吻つとした氣持ちで、土間の片隅にきちんと下駄をそろへてぬぎ、廣い敷臺の上へ上つた。

 通された部屋は庭向きの六疊間で、狹い床の間には如意と書いた古い軸がさがつてゐた。

 天井が低くて、廂が深く突き出てゐるせゐか部屋の中が暗かつた。小さい庭の景色は、まるで繪をみてゐるやうに明るくて、何となく落ちついた感じである。庭の向うには、新しい矢來垣がめぐらしてあり、その向うは隣家の勝手にでもなつてゐるのか、水をつかふ音がしきりにしてゐた。

 暫く呆んやりして庭の景色を眺めてゐると、さつきの娘が茶を運んで來て、すぐその後から、背のひくい丸々と肥えた中年の女が賑やかに兩袖をぱた〳〵させて這入つて來た。

「まア、お待たせいたしまして、昨日から今日にかけて、澤山おひとが見えましてなア、あれこれとたてこんでゐまして、ほんとに、えらいことお待たせいたしました」

 顎が二重にくびれてゐて、胸も腹もずんどうにつきでてゐる、まるでくゝり枕のやうな胴體を、卓子へ凭れるやうにして女は坐つた。この、人のよささうな女主人を眺め、早苗はまるで昔からの親しい人にでも逢ふやうな氣持ちで氣輕にあいさつをのべた。

「もう、お話はおきまりになりましたのどすか?」

「いゝえ、あなた、帶に短し襷に長しで、まだはつきりしたことはきまつてはをりませんけども、まア、お一人二人、心當りだけの處でして……」

「本當に澤山の人なんでございませうね。──私も、もう駄目ぢやないかと思ひましたのどすけど、物は當つて碎けろと云ふこともありますので……」

 さう云つて、女主人の顏を眺めながら、早苗は此分では、あるひは子供は貰へないかも知れないとおもひ、ふつと如意と書いてある軸の方を眺めた。

「いゝお住居ですこと……こんな賑やかな處で、とても靜かでよろしゆおすなア、お庭もきれいどすなア……」

 おせじでなく、早苗は本當に綺麗な庭だと思つた。少しばかり茶もやつてゐたので、石のたゝずまひも判り、庭木の一本々々にも、深い趣味が感じられて、ぬるい茶を飮みながら、早苗はこんな家の世話で子供を貰へたら、長い間知人になつて貰へていゝだらうと思つた。

「お一人、山科の四ノ宮にお住ひのお金持の方で、是非子供がほしいおつしやつて、それは熱心にお出でになるのどすけど、赤ちやんの親御さんの方が、あまり氣が進まん云ははりましてねえ、あんまり金持でなうても、のんびりと子供を可愛がつてくれはる家にやりたい云ふことです。──子供さんを産むとすぐお母さんがお亡くなりになつて、旦那さん一人でどうしてもそだてること出來んおつしやつて、よくよくのことですなア。──氣樂な家へ貰うてもらひたい云やはりまして、まア、焦らんとよくお人を選んでからにせんととおもてます……」

 早苗は聞いてゐて段々その赤ん坊に魅力を持ちはじめてゐた。

「私も、そんなお宅の赤ちやんなら、心から頂きたいと思ひますわ。私も主人を亡くして子供もありませんし、少しばかりの財産ですけれども、子供でもそだててのんびり暮らしたいおもひまして、この頃急に赤ちやんを尋ねて歩いてゐます──ふしだらをして産んだのでない、正しい家の赤ちやんを何とかして貰ひたいおもひまして……」

 早苗はさう云つて、自分でも何となく涙ぐましい氣持ちになつてゐる。早苗は今年二十九だつたけれども、本當は一度も結婚をした事はないのだ。こんな年齡になつて、一度も結婚をしないと云ふ事は何となく信じて貰へさうにも思はれなかつたので、早苗はわざと嘘をついた。

 天涯孤獨で、去年の春、たつた一人の老父もうしなひ、叔父が一人ゐるはずだつたけれども、早苗が小さい時にアメリカに行つてしまひ、長い間音信がないのである。

 亡くなつた父は官吏で、少しばかりの恩給もあつたし、今住んでゐる家も地所も現在は自分のもので、ずつと長い間、早苗は家の經濟すべてを任されてゐるのであつた。女學校へ行つてゐる時から、家での一ヶ月の電氣代も知つてゐたし、父の着物を買ふについて、男物の呉服類も、およその値段は知つてゐるのであつた。娘のころから財政を任されてゐたせゐか、何彼につけて早苗は勘定高くてつましい性質であつた。生れながらの本性も吝嗇ではあつたのだらうけれども、茶を一つ習ふにしても、生涯のうちで何時落ちぶれないともかぎらないと云ふ不安で、そんな、そなへの爲の茶道であるせゐか、早くゆるしを得たがる早苗は、よく師匠から皮肉を云はれた。

 早苗は十人並で、別に人に不快を與へるやうな動作があるわけでもなかつたのだけれども、金錢のことになると、若い女に似合はずがつちりしてゐて、何となく冷たいものを人に感じさせるのである。

 早苗は、世間の娘達とは反對に、非常に人ぎらひでもあつた。

 父が亡くなつてからはなほさら、自分のまはりに城壁をめぐらし、たつた一人の生活を少しも淋しいとは思はなかつたのだけれども、一ヶ月ばかり風邪をこじらせて寢ついてからと云ふもの、どのやうな心境の變化を來たしたものなのか、早苗は急に子供を貰つて育てたいと思ひ始めたのである。



 産院の女主人は、良人を亡くしたと云ふ、しみじみとした早苗の話をきき、やがてさつきの娘を呼んで、赤ん坊を抱いて來るやうにと云ひつけた。娘はすぐ、白いマントにくるまつた赤ん坊を抱きかゝへて這入つて來た。とても可愛い赤ん坊である。兩頬がたれたやうにぷくんと盛り上つてゐて、小さい上唇が富士山の形に突き出てゐる。平べつたい鼻の上には針のさきでついたやうな黒子が一つあつた。色が白くて、眼が大きくて青く澄んでゐた。よだれで濡れた唇を、女主人はガーゼで拭いてやりながら、

「おや、ハナコさんお目覺めですか、まア、大きいお目々して、えゝ女子さんぶりやこと……」

 さう云つて、抱きとるとすぐ頬ずりをするのであつたけれども、くゝり枕のやうなずんぐりした胴體から、赤ん坊がぴよこんとはみ出たかたちで、その恰好が何となく可笑しかつた。

「ハナコさんて可愛い名前ですね」

「えゝ、ハナコのハは木の葉の葉を書きます。奈は奈良の奈、いゝ名前ですなア……」

 早苗は、卓子の横へにじり寄つて、女主人の横から赤ん坊をのぞきこんだ。赤ん坊はくにやくにやと首や體を左右上下に動かしながら、無心に早苗の方を見てにつと笑つた。早苗は吃驚して赧くなつた。

「まア、何て可愛い……ほんまにえゝお子さんどすなア、私を見て笑うてはりますがな……」

 早苗は嬉しくて胸がどきどきしてきた。

「えゝもうあなた、このひとのお父ちやんも毎日會社の復りにお寄りになつて、いつとき遊んでお出でになりますのどすえ、可愛いて可愛いてどもならん云ははりまして……里子にでもしようか云うての時もありますのどすけど……」

「葉奈子さんは、そして牛乳どすか?」

「はア、重湯も少々上げます。丈夫なお子さんで、とても世話のいらん赤ちやんどす。──葉奈子さん、あなた、何がそんなに可笑しいのどす? えゝ笑ひ顏して、えゝ御機嫌やなア……」

 女主人が赤ん坊を持ち上げると、赤ん坊は咽喉を鳴らすやうにしてくつくつと笑つてゐる。

 早苗は思はず手を出して赤ん坊を抱かして貰つた。乳臭い匂ひがふつと鼻さきをかすめると、早苗はいままでの一人居の淋しさが一時に潮のやうに胸に押しよせて來て、切ない氣持ちになるのであつた。赤ん坊は暫く機嫌よく眼をくりくりさせてゐたけれど、そのうち段々顏をしかめ出して來てゐる。

 早苗は小學生時代に母を亡くしてゐたので、母の愛情と云ふものを知らなかつた。父は母と死別して以來、釣や碁に熱心で、女のことで問題をおこすやうなことは一度もなかつたし、父も仲々のしまつた人だつたせゐか、家の中は何一つ波風もたゝず、まるで湖水のやうに清らかな靜かな生活がいままでずつと續いてゐたのである。父の友人と云つてもほんの一人か二人位で、それも、深くつきあつてゐる程度ではない人達なので、早苗は、全くの一人ぽつちであつた。蕪村の句であつたらうか、けふのみの春をあるいてしまひけり、と云ふのがあつたけれども、早苗は實に呆氣なく青春の日を歩きすごしてしまつてゐたのだと云つていゝ。



 早苗はいよいよ子供を貰ふ事になつた。

 二月の四日が丁度父の亡くなつた日で、父を追福するためもあつてか、早苗は此日に赤ん坊の父親の笹原と會ふことに約束がきまつた。早苗は此一週間と云ふもの、眠れないほど赤ん坊の事を考へてゐる。自分の寢床のそばに小さい蒲團を敷いて寢かせる子供の事を考へると、胸が熱くなつて來る。子守も一人やとはねばならぬ。牛乳も二合づつは取らなければならない。着物も少しはつくらなければならない……。何時も用事を頼む植木屋へ赤ん坊を貰ふ話をしに行くと、年を取つた植木屋は笑つてゐて早苗の話を信じなかつた。

「冗談ぢやない、お孃さんは子供さんを貰ふ前に御養子でもお迎へになるのが順序です」

 さう云つて、植木屋は早苗に本氣でそんな事を考へてゐるのかと訊きかへした。早苗は子供のことで胸がいつぱいだつたので、植木屋の云ふことが妙に肚へをさまらない氣持ちで、結婚なんかしたくないのだとむきになつて云つた。

 下手に金つかひの荒いひとを貰つて、こんな小さな家でもなくなつてしまへばどうにもならない事だと、早苗は、「私は結婚なんかいやらしい事は考へてゐません」とぷりぷりして云ふのである。大柄で、一寸、男書生と云つた感じの早苗には、つひぞ結婚話がなくて、植木屋も、早苗が子供を貰ふと云ふ事をきいて、始めてあゝ何處かをたづねて養子を探してあげるのだつたと心で苦笑するのであつた。


 四日の日は朝から雪が降つてゐた。

 早く起きて、爐には鳩居堂で求めた梅ヶ香を焚き、床には山上憶良の歌を、昔父が手習ひで書いてゐたのを軸にしてさげた。銀も黄金も玉も何せむに、まされる寶子に如かめやも。早苗は赤ん坊の父親がこれを見てひそかに滿足してくれるであらうと思ひ、父の書いた文字を愉しく眺めてゐる。床には花屋で求めた白と黄の菊を活けて、銀と黄金の意味を表さうとした。

 梅園産院の女主人と、赤ん坊の父親が早苗の家をたづねて來たのは十一時頃であつた。赤ん坊の父親はまだ若くて、背の高い氣品のある男であつた。笹原雄三と云ふ名刺を出した。早苗は二人を爐の切つてある客間へ通して菓子を出したり茶を出したりした。

 笹原は無口であまりしやべらなかつた。梅園産院の肥つた女主人が一人で庭を讃めたり、茶器を讃めたりしてゐる。今日は女主人は小豆色の濃い紋付を着て、眼鏡をかけて來てゐた。

 早苗は大島絣の着物に、風通織のやうな紫の帶を締めてゐた。雄三は如何にも退屈さうに爐ぶちのそばへ坐つて煙草を吸つてゐる。大學教授だとかで、洋服もダブルのきちんとしたものを身につけてさつぱりした樣子をしてゐたけれども、床の間の軸をふつと眼にすると、癖でするのか、照れくささうな表情で、子供のやうに自分の耳を引つぱつてゐた。

「まア、お一人でお住ひで、こんな處ですと淋しおすなア……」

 産院の女主人が寒さうに茶を飮みながら、周圍を無遠慮に眺めてゐる。木口はよかつたけれども、何となく色氣のない家構へである。雪見障子の外は狹い縁側で、おもとの鉢が三ツ四ツ置いてあつた。

 庭には小さい空濠がつくつてあつて、銅製の鶴が築山のそばに置いてある。山紅葉も木犀も白い枝を寒さうに張つてゐて、庭の眺めは雪のせゐか寒々としてみえた。早苗は木乃伊のやうだつた生活から、何か新しい第一歩へ踏み出す熱情で全身が熱くほてつてゐる。

 晝になつたので、早苗は自分の手料理で食事を二人へ出した。雪が降つて寒いので、父がよく好きで早苗につくらしてゐた鯨の味噌汁をつくつた。白味噌の汁に、鯨の白い皮を刻みこんで、青いかぶらを小指の長さに切つて入れる。これを熱く煮込んで大きな椀に入れて出した。栗のふくめ煮、鰤のてり燒き、外米に油揚を煮込んだ揚ご飯、こんなものでも仕出し屋からとれば、大變なつひえだと思つて、早苗はみんな自分でつくつて出した。

 笹原は早苗に給仕をして貰ひながら、この女性はどうした人なのだらうと思つてゐる。一度結婚をした事のある女性だと云ふのに、少しもうるほひがなかつたし、第一女らしい匂ひが少しも感じられない。膳ごしらへだの、ご飯のつけかたなどを見てゐると、何となく頭のいゝ中學生の炊事を見てゐるやうな、てきぱきした處がある。

 笹原の經驗では、女性のかうした味氣なさと云ふものは、結婚をした女性としてはまれに見る冷たさだなと、さつきから早苗の樣子をぢつと眺めてゐた。

 御飯の濟んだあと、ふつと玄關に人の訪れた氣配がしたので、早苗はすぐ座を立つて行つたが、暫くすると、

「私のところは、たつた一人なのですから、そんなに皆樣と同じやうには出來ませんし、お砂糖かて、ほんの少ししか配けて貰へないのでせう、私の方からは何度もお金を出してますし、もうかんべんしてほしい思ひます」

 と、早苗の艶のない聲高な話聲がきこえて來た。



 雪の日、二人が復つて行つてから、また二三日は經つた。すぐ、向うから連れて來る筈になつてゐる赤ん坊を、梅園産院の女主人は仲々連れて來てはくれなかつた。

 早苗はもどかしく思ひ、梅園産院へ電話を度々かけてみたけれども、女主人の返事は妙にあいまいで、少しも熱意が受取れなかつた。

「もう少し待つてくれ云ははりまして、うちでも弱つてますのどすけど……何ですなア、やつぱり、氣が向かんおもてなさるのやないか云うてますのどすえ」

「でも、あなた、本當はもう、とつくに戴いてることなンですもの……籍の方やかて、すぐ入れさして貰ひたい思うてますのに……」

 何となく埓のあかないやうな返事なので、早苗はぷりぷりして、笹原の方へ直接に電話をかけてみた。あんまり早苗が怒つてゐるやうなので、笹原も、夜分にでも來て下さいませんかと、思ひあまつたやうな返事であつた。

 その夜、早苗は銀閣寺のそばの笹原の家に出向いて行つた。裏には疏水の狹い流れがあつて、洒落た入母屋づくりの家々がつゞき、處々の垣根ぞひにはまだ雪が凍つて殘つてゐた。疏水の流れの音が淙々と爽かに流れてゐる。星が飛んでゐるやうに澤山光つてゐた。

 早苗が片側開きの格子戸に手をかけると、着物姿の笹原がすぐ出て來て、

「よく判りましたねえ、どうぞむさくるしい處ですけれどお上り下さい」

 と氣安く云つてくれた。

 這入つてゆくと、廊下にも座敷にも本がぎつしり飾つてあつた。臺所へ行く處には水色の短い暖簾がさがつてゐて、何となくなごやかな家庭である。書齋へ通ると、机の上には赤ん坊の寫眞が硝子の額の中で笑つてゐた。本箱の上にも欄間の處にも花や風景を描いた油繪がかけてある。床の間には蓄音機とレコードのアルバムが積み重ねてあつた。

「もう、ぢき引越しをするものですから散らかしてゐます……」

 笹原はさう云つて、臺所へ湯をわかしに立つて行つた。笹原の坐つてゐた派手な座蒲團が急にまぶしく早苗の眼の中へ這入つて來た。何と云ふ美しい座蒲團であらう。

 軈て、紅茶道具を無雜作にさげて來た笹原は、默つたままゆつくりゆつくり紅茶を淹れてゐる。早苗は何となく暖かい慰められるやうなものを感じてゐた。

「和田さんはまだ結婚なすつたことはないンださうぢやありませんか、どうして未亡人だなンて嘘をおつしやつたンですか?」

 笹原がふつと顏を上げて早苗を眺めた。早苗は突然な言葉だつたので、暫くは返事のしやうもなくうつむいて默つてゐる。

「産院の人が、何でも失禮ですけれどあなたの御生活を調べたのださうです……まだ、一度も結婚されたことのない方で、──そのやうな方に子供を差し上げても、軈ては、かへつて御迷惑になるだらうと云ふので、折角、欲しがつて下さるのに惡いのですが、私の方から、一應お斷り下さいと申し出ておいたのですがね」

「……」

 早苗は赧くなつてゐた。笹原は白いミルク入れを持つて、早苗の前へ突き出しながら、

「ミルクを入れませうか?」

 と優しくたづねてゐる。

「はア、有難うございます」

 早苗は紅茶なんかどうでもよかつた。火の少ない火鉢に手をかざしてゐたけれども、その手はがたがた震へてゐる。机の上の赤ん坊の寫眞が皮肉な微笑をしてゐるやうに見えた。

「僕は、子供の事に就いては、非常に頭を痛めてゐますし、子供を手放すに就いても、色々と考へてゐるのですが、將來、自分の子供が物質的に非運な目にあひ、どんなに落魄しても、そんな事は、かへつて子供の將來を強くする事だらうと樂觀してゐるのです。──ですが、精神的に全生涯が參つてしまふやうな非運さにはおとしたくないと思つてあれこれ考へてゐるのですがねえ。何しろ、私の家族には、あの子供を信頼して託せると云ふ處が一軒もないものですから、いつそ、幸福な御家庭に貰つて戴かうと考へたのです。正直を云ひますと良人を亡くされて、孤獨でゐられると云ふ、しかも、割合豐かに暮らしてをられると云ふので、僕は和田さんのやうな方にあの子供を託せたならば、どんなにすくすくとあの子供が養育される事かと非常によろこんでゐたのですがねえ、──産院の報告によると、あなたはまだ一度も結婚をされた事のない、素晴らしく意志の固いお孃さんだと云ふことをうかゞつて、僕は、やつぱり、あの子供は御縁がないと考へて斷つて戴いたのです」

「どうして、私が、まだ獨身だつたと云ふのがいけないのでございませうか?」

「それはいかん! 駄目ですよ、生涯、お獨りだと云ふ事にはゆかないでせうし──きつと、あの子供を貰つて不幸だとお思ひになる時があると思ひます」

「いゝえ、そんな事はありません。──私は、父とたつた二人で長い事暮らして來たのですし、本當に、一生涯、結婚しようなぞとは夢にも考へてはをりませんもの……結婚の事なんか、私の生活には何の利益でもありません」

 早苗は笑つて云つた。

「利益?」

「えゝ、私は、結婚つて云ふ事、何だか變だと思ひますわ。こんなに元氣に、きちんとした一人の生活をつゞけられてゆける私が、また、別なひとをわが家に迎へて、無理な生活をするなンて、可笑しいと思ひます」

 笹原は飮みかけた紅茶茶碗を宙に浮かしたまゝ大きい眼をしてぢつと早苗の顏を眺めてゐた。笑つてゐる早苗の顏は何となく陰慘に見えて、變に反感さへおきて來る。

「あなたのやうな女性がすべてだつたら、人類は滅びてしまひますね」

「えゝ、もう、滅びてもかまひませんわ。私は私ですもの……私は私だけで滅んでいゝのです」

「あなたは失戀でもした事があるンですか?」

「まア! ひどい事おつしやいますね」

「あはゝゝ……こんなことを云つたつて仕方がない、──いや、一生涯女が獨りで暮らすと云ふことは、何か、あなたは別な夢をみてゐるンですよ。結婚と云ふことに就いて、變なことだとか、利益だとか、さつきからおつしやつてゐますが、いつたい何が變なンですか? 少しも變なことはないので、かへつて、變だと思ひこんでゐるあなたが變ですよ。──犬や猫ぢやあるまいし、女の愛、男の愛と云ふものは、そんな、あなたの考へてゐるやうな、板煎餅みたいにぽりぽりしたものぢやありませんよ。──お父さんと長らく暮らしてをられた方が、どうして、男の氣持や、男の愛情を優しく知らうとはなさらなかつたのですかねえ」

「えゝ、もう、そんな話は澤山です……私は、どうしても赤ちやんを貰ひたいおもてるのですから……」

「さうですねえ、あなたは、赤ん坊を貰つて、どんな風に養育しようと思つてゐられるのですか?」

「どんな風につて、私は私の思ひ通りに立派に養育します」

「年頃になつて、結婚とか、戀愛の問題が起きたら?」

 早苗は、いつとき默つてゐた。

 寢ても起きても考へる事は、子供が大きくなつて、支那の宮殿の繪を見るやうに、何も彼もその子供が自分の用事を達してくれる場面しか浮んでは來ないのである。

 女學校へ行かして、それから教師にでもする道を考へておけば、月々の收入もはいつて來るであらうし、一生涯、二人でさゝやかに暮らしてゆけると空想をしてゐた。

 赤ん坊が大きくなつて、戀愛をするとか、結婚をするとか、そんな事は早苗は考へてもみなかつたのである。

「この世の中には、匂ひがあり、音樂があり、色彩があり、美醜いづれも愉しい世界がふくざつに擴がつてゐるのですよ、人間の心次第でどのやうな欲求も持てるのです。──一人の女を道具のやうに養育することは出來ませんからねえ……」

 道具のやうにと云はれて、早苗は始めて、笹原の顏をぢつと眺めた。笹原は光をたゝへた眼で暫く早苗を眺めてゐたが、その眼の光のなかには、早苗の閉ざされてゐた扉の奧の琴線にふれる何かの熱情がこもつてみえた。いままで衰弱しきつてゐた、早苗の中の女性の本能が、竹に火がついたやうに熾にぱちぱちと彈けてゐる。

「銀も黄金も、でしたかねえ、僕は、あの歌を讀んで、よろこびよりもむしろ淋しさの方が胸に來たのです。──無人境のやうな、あなたの家に、あの小さい生命を託す氣にはなれなかつた……」

 早苗は、眼にいつぱい涙を溜めてゐた。長い間沈潜されてゐた女の感情が、ふつふつとたぎつて來てゐる。笹原は、ふつと立ちあがると、早苗の前にある冷えた紅茶茶碗を取つて、障子の外へ捨てに行つた。

「熱いのを淹れませう」

 笹原はさう云つて、湯をわかしに臺所へ出て行つたけれど、早苗は急に激しい哀しみにおそはれてきて、躯をふるはせながら、齒をかみしめて涙をこらへてゐた。

 臺所で湯のわきこぼれる音がしてゐる。

 早苗は部屋のなかに、さまざまなものの散らかつてゐる、かうしたところにぢつと坐つてゐたかつた。やがて湯を持つて來た笹原は、早苗の紅茶茶碗を湯であたゝめて、またそれを障子の外へ捨てに行き、とぽとぽと音をさせて、湯氣の立ちのぼる熱い紅茶を靜かに淹れてゐる。その姿は無心で、四圍にものの散らかつてゐることは、少しも念頭にはない如く……。

 早苗は急に四圍いちめん、男の匂ひでむせるやうな息苦しいものを感じて悶絶しさうであつた。

底本:「林芙美子全集 第五巻」文泉堂出版

   1977(昭和52)年420日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:しんじ

校正:阿部哲也

2019年528日作成

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