銭形平次捕物控
凧の糸目
野村胡堂
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すべて恋をするものの他愛なさ、──八五郎はそれをこう説明するのでした。
「ね、親分、──笑わないで下さいよ──あっしはもう」
「どうしたえ、臍が痒いって図じゃないか」
「臍も踵も痒くなりますよ。二年越し惚れて惚れて惚れ抜いた同士が、口説きも口説かれもせず、思い詰めた揚句の果、男の方も女の方もどっと患いついたなんて古風な話が、今時の江戸にあるんだから──」
「それが可笑しいと言うのか、お前は?」
「止して下さいよ。大家さんが意見する時の顔そっくりですぜ。そんな尤もらしい顔は親分に似合いませんよ」
「似合わなくて気の毒だが、あいにく俺の顔は、これ一つしかないよ」
銭形平次と八五郎の話は、馬鹿馬鹿しく空廻りしながら、急所急所の要領を掴んで行くのでした。
「でもね、親分。恋患いとか片思いとか、昔から唄の文句にもあるが、惚れた同士が共倒れに患いついて、明日の命も知れないなんざ、馬鹿馬鹿しいと思いませんかね」
「思うよ。もっとも、羅生門河岸を一と廻りすると請合い五六人の岡惚れを拵える八五郎だって、考えようじゃ馬鹿馬鹿しくなるが──」
「一々あっしを引合いに出さずに、まず話を聴いて下さい」
八五郎の話には、何やら含みがあって、ただの恋物語でもなさそうです。
「黙って聴くとも。お前も話の途中で、妙なところが痒くならないように──」
銭形平次は、お静の持って来た徳利を一本、銅壺の中にポンと入れて、膳の支度を待つあいだ、神妙に八五郎の話を聴く気になった様子です。
「場所は螢沢の畑の中」
「千駄木坂下町だね。恐しく淋しいところだ。野駈けに若い女でも見かけると、昼狐の化けたのと間違える」
「無駄が多いね、親分」
「ホイ、これはお前のお株を横取りしちゃ済まねえ」
「その螢沢の畑の中、藪と流れを挾んで、立派な家が二軒建っていると思って下さい」
「思うよ──どうせ俺たちが借りて住むような家じゃなかろう」
「西の方の二階屋は本町の呉服問屋朝倉屋三五兵衛の寮で、倅の竜吉というのが、学問に凝って商売が嫌い、義理の兄の福之助夫婦と、中年者の女中を一人に小僧を一人使って住んでいるうちに、暇と贅沢が嵩じて、恋の病となった」
「…………」
「東の方の平屋は、浪人立花久三郎の家だ。娘お妙と甥の富坂松次郎の三人暮し、母親がないから、武家の娘でもお妙坊は近所の百姓の娘と同じように育った──」
「それが?」
平次は話のテンポの遅いのに業を煮やして口を容れました。
「十八ともなると、どんな御粗末な風をさせても、女の子は綺麗にもなるし、品を作ることも覚える。ましてお妙坊は生れながらの美しい娘で、色白で、背がスラリとして、眼が大きくて、唇が赤くて──親分、どうです、眼の前に綺麗な娘がチラつくでしょう」
「馬鹿野郎、白の雌犬だってチラつくものか」
「弱ったね。ともかく、若くて滅法綺麗になると、女の子はこう妙に物を思うでしょう」
「そうしたものかな」
「千駄木の螢沢と来た日にゃ、林と田圃と葱畑と、馬小屋ばかりだ。弁当持ちで探して歩いたって、ろくなひき蛙もいねえ。ましてお妙の物思いの相手になるようなのは──」
「向うの二階家に、朝倉屋の息子がいると言ったじゃないか」
「えらいッ親分。銭形の親分はさすがに見透しだ。畑と藪を越して、二階の窓と階下の窓と、朝夕顔を合せてるうちに、二人はニッコリ笑ったり、首を振って見せたり」
「そんなに近いのか」
「遠いけれど、二人とも若いから眼が良い」
「そしてお互いに思い思われて、相対ずくで患いついたという話だろう、武家の娘と町人の倅だ。親達はやかましいことを言って、一緒にしてくれない──と言った話だろう」
「恐しく先をくぐりましたね親分、まさにそのとおり。銭形の親分の鑑定に狂いはないが、此処に一つ困ったことが起った」
八五郎の話はようやく本題に入りそうです。
「朝倉屋の倅は恋患いと言っても、実は癆症で、これは寝たり起きたりと言いたいが、実は寝ている方が多い容体。浪人立花久三郎の娘お妙さんは、足が少し悪くて、あまり外へは出られないが、ただのブラブラ病いで、これはたいしたことはない。毎日床の上に坐って、正月が近いから、羽子つきの稽古だ──」
「家の中で羽子つきをやるのかえ」
「お妙さんと来たら、羽子の名人ですよ。もっとも、それが向うの二階家の朝倉屋の寮から見えるから、独り羽子も思いのほか弾みがつくわけでしょう」
「八五郎の前だが──その話は面白くないよ。それッきり何処まで行っても恋患いの所作なら、もう少し日が長くなってから聴こうじゃないか」
平次はとうとうしびれをきらしました。十九になる息子と、十八になる娘の恋患いの話などは、どう潤色したところで、大の男の話の種にはなりそうもありません。
「これから面白くなるんですよ、親分。──その息子と娘は、いつの間にやら、手紙をやり取りするようになった。文使いは朝倉屋の方は丁稚の定吉で、浪人立花の方は、お妙の従弟で、これは十六になった富坂松次郎というので。十六にはなったが、知恵の遅い、団栗みたいな背の低い不景気な男──朝倉屋の丁稚の定吉は十四だが背も高く、弁舌もうまく、こっちの方が年も上に見える」
「…………」
「向うの家の窓の中で、お妙が床の上へ坐ったまま、赤い襦袢の袖をチラチラさせて、羽子をついてるのを見ると、朝倉屋の倅の竜吉も我慢が出来なくなった。二年越し床に寝たっきりで、正月が来ても凧を揚げる楽しみもなかったのが、どんなに口惜しかったことでしょう。竜吉はフト思いついて、定吉に古い凧を持出させ、その糸目を直して二階の窓から凧を揚げることを考えた」
「…………」
平次は黙ってしまいました。十九と十八の若い恋人たちが、その恋のハケ口に困じ果てて、病床の中で羽子をついたり、病室の窓から凧を飛ばして僅かに慰め合う、あわれ深い姿を思いやって、ひどくしんみりしてしまったのです。
「螢沢の畑の中の二軒家、正月近い淋しい空に、羽子の音が響いたり、窓から凧が揚がったりするのを、土地の人は小さい声で哀れがっていましたよ──こちとらの阿魔ッ子や倅だったら、手っ取り早く新田の田吾作にでも口をきかして、三日経たないうちに一緒にしてやるのに、二本差や大店に生れた娘や息子は、さぞつまらなかろう──って」
「ひどく悟ったことを言うじゃないか」
「これからが大変で──」
「お前の大変には驚かないが──酒はもうなくなったとさ。ロレツが怪しくなるからこの辺でおつもりとしようじゃないか」
「ヘエ、どうぞ御自由に」
「あれ、八の野郎が変な挨拶をしているよ。もう一本欲しいって謎だろう」
「この話はただで聴かしては勿体ないですよ。何しろ、朝倉屋の三五兵衛の倅、何不自由なく育った十九の竜吉が、凧糸を首に巻いて、自殺していたんだから、可哀想じゃありませんか」
「凧糸を首に巻いて──」
「その凧糸に羽子が一つ挾んであったとしたら、どんなものです」
「羽子を?」
「竜吉がせがんでやっと、文使いの定吉に貰わせた羽子と聴くと、親分でも、ちょいとホロリとするでしょう」
「凧の糸は細いものだよ。あれを巻いて、人間は首を縊れるかえ、八」
「そう思うのは素人量見で──凧は自分の名の竜の字を書いた六枚張り、この辺は畑ばかりだから、この節の西北の風が吹く時、小僧の定吉に外で手伝わせると、二階からでもよく飛びますよ」
「で?」
「糸だって撚をかけた逞ましい麻糸だ。それを腕と拳とにかけて輪がねたまま竜吉の枕許に置いてあった。その輪がねた糸を自分の首へ潜らせ、傍にあった火鉢から、鉄の火箸を二本抜いて、輪がねた凧糸に突っ込み、自分で四つ五つ捻っている。これなら誰でも死ねるでしょう、親分」
「火箸をどこへ突っ込んでいた。前か、後ろか、右か、左か」
「え──と、右ですよ。そのうえ凧糸へ水をフッかけて滑りを留めていたのは念入りでしょう」
「…………」
「動けない病人だが、よく工夫したものですね。可哀想に──」
「首に巻いた凧糸は、何本くらいになっていた」
「三四十本、──どうかしたら五六十本あったかも知れません」
八五郎の答えはひどく頼りないものでしたが、ともかくも少ない数でなかったことは確かです。
「ずいぶん変った死にようだが、どうも腑に落ちないことがあるよ」
「ヘエ?」
「それは何時のことだ」
「今日の昼少し前だったそうで。下女のお北が、昼の膳を持って行って見つけ、大変な騒ぎになったが、その時はもういけなかったそうですよ」
「外の者は?」
「丁稚の定吉は使いに行って留守、腹異いの姉のお専はお勝手に、その配偶の福之助は、階下の自分の部屋にいたそうです。この男はお専が好きで一緒になったが、芸事に凝って商売が身につかず、年中おさらいや素人芝居や、金のいることばかり追い廻して歩くので、朝倉屋の主人三五兵衛に愛想をつかされ、義理の弟の竜吉のお守ということにして、螢沢の寮に体の良い島流しになっている厄介な男です」
「…………」
平次は黙って考え込んでおりました。
「外になにかありませんか」
「あるよ。その寮へ兄夫婦や奉公人に気がつかないようにして、出入りすることは出来ないか」
「そんなことはたぶん出来ないと思いますが」
「多分か──」
「だって畑の中の一軒家でしょう。どこから来たって、二三町先から姿が見えますよ」
「それから竜吉は右利きか左利きか」
「首の右の方の凧糸に火箸を突っ込んで捻っているから、間違いない右利きですよ」
「お前に訊いてるのじゃない。螢沢へ行って、朝倉屋の三五兵衛にでも訊いて来るんだ」
「ヘエ」
「もう一つ、二つ、──竜吉の側に水がなかったか──竜吉が死んでいたとき、凧がどこにあったか──畑の向うの浪人立花なんとかいう人の家には、誰と誰がいたか──この寒いのに、娘のお妙はやっぱり窓を開けて羽子をついていたか──これだけ訊いて来るんだ」
「ヘエ──」
八五郎の長談義も、結局急所急所が外れていたため、もういちど、螢沢へ行って確かめて来るほかはなかったのです。
その翌る日の夕方から、平次はまた五合ばかり用意して、八五郎の報告を待ちました。この江戸の片ほとり、千駄木と日暮里の間の、低湿な藪地と、起伏の多い畑地の間の、二軒家に起った、病弱な倅の自殺事件は、ひどく平次の好奇心を刺戟した様子です。
八五郎が来たのは、もう暗くなってから。お静はお勝手で何やらやっておりますが、平次は、手伝い心に雨戸をしめたり、二三度舌打ちをしたり、銅壺のお湯の加減を見たり、さんざん待ちくたびれた頃。
「いや、馬鹿な目に逢って遅くなりましたよ、親分」
などと八五郎が、荷物を積み過ぎた駄馬のような鼻息で、一陣の風とともに戻って来ました。
その一陣の風が、少しばかりアルコール臭かったのを、平次は気がつかないはずもありません。
「馬鹿な目というのは、酒倉の番人でもさせられたのか」
「皮肉を言っちゃいけません。螢沢の朝倉屋の寮の方は、たった四半刻(三十分)で調べが済みましたが、池の端まで帰って来ると、湯島の吉の野郎に逢って、久振りだから一杯つき合いねえと──」
「どっちが言ったんだ」
「あっしの方で、お天気はよしお小遣はふんだんにあるし」
「昨日百二三十文しかなかったじゃないか」
「気味が悪いなア、親分。あっしの懐ろをいつの間に読んだんで?」
「間抜けだなア、酔って帰るとき、敷居際で江戸一番の野暮な財布を落すと、中身は皆んな縁側に飛び出したじゃないか」
「あ、そうそう」
「俺は一日いっぱいお前を待っていたんだぜ、──万一だよ、朝倉屋の倅の倉吉が右利きだったり、浪人者の立花という人の娘お妙さんが、昨日から今日へかけて様子が変だったり、竜吉の枕許に水がなかったりしたら、気の毒だが、竜吉は自害したのではなくて、人に殺されたのだよ」
「あ、そのとおりです、親分」
「なんだと」
「竜吉は右利きで、枕許には水がなかったし、立花さんの娘お妙さんには、竜吉が死んだことを誰も知らせないはずなのに、昨日の昼頃から、ひどい沈みようで、誰が話しかけても口をきかず、それから物も食わないそうですよ」
「八、こいつは厄介なことになったらしいよ。お前じゃ少し心細い。湯島の吉を誘って、仕事の途中で呑み歩くような心掛けじゃ」
「ヘエ、相済みません」
「明日は螢沢まで俺が行ってみよう」
「ヘエ、親分が?」
八五郎にはまだ、この事件の重大さが呑込めない様子です。
螢沢へ着いたのは、昼近いころ、平次は八五郎に案内させて、まず朝倉屋の寮に向いました。
冬枯の畑の起伏も面白く、林には冬の小鳥が人懐そうに鳴いて、江戸の町の真中から来ると、命も伸びそうです。ここで有徳の町人の倅が殺されたというのは平次の鑑定も嘘のような気がしてなりません。
少しばかりの木立に沿い、枯草の土手を繞らして建てられた朝倉屋の寮は、さすがにこの辺の風物を支配して、なんとなく豊かな感じがしております。
「銭形の親分だそうで、私朝倉屋の三五兵衛ですが」
出迎えた主人の三五兵衛は、はなはだ不服そうです。病身ではあったが、きわめて無害で善良な存在だった倅の竜吉が、人手にかかって死んだと言われては、店の名前に取っても甚だ面白くなかったのでしょう。
年の頃四十七八。倅の竜吉の痩せ形の病弱なのに比べて、大町人らしい恰幅の、血色の良い男で、話の調子などもハキハキしております。
家はさして贅沢という程でなくとも、なんとなくありあまって、落着き払った生活振りを思わせます。
「お気の毒なことで。少し腑に落ちないことがありますから、いちおう調べさして下さい。万一人手にかかって死んだものなら、そのままにしてしまっては、仏様も浮ばれないことでしょう」
そう言われると、まさにそのとおりです。本当に倅の竜吉が人手にかかって殺されたものなら──と、万一の疑いが事実らしくなると、父親の胸にはやはり、復讐の欲望が火と燃えないわけには行きません。
平次はいちおう家の外観を見て廻りました。せいぜい四十五六坪の家ですが、冬のことで、窓も雨戸も閉めているところが多く、そのうえ冬囲いが家の北から西へ伸びて、家の後ろに走る土手に連なり、その外は千駄木の方へ木立になって、白昼でも、ずいぶん人眼につかぬように、町の方から近づかれないことはありません。
腹違いの姉のお専は、二十六七の派手な女でした。こんな田園的な風物の中では、化粧の濃さが気になります。芸好みの道楽者の福之助を、好きで配偶にしたというだけあって、この女にはなんとなく、気の知れない仇っぽさと、浮気らしいところの匂うのは、はじめて応対する平次にまで、焦立たしい媚を感じさせるのでした。
身扮は赤いもののチラつく、思いのほかの派手さで、青ずんだ袷が、ひどく特色的です。
お専の亭主の福之助は、背が高くて色白で、少し鼻声で物を言う男。芸事ならなんでも心得ていそうですが、その代り何をやらしても御飯の足しになるものはなく、お専に生け捕られて朝倉屋に入っても、主人三五兵衛の気に入らなくて、単なる冷飯食いに過ぎない待遇です。それをたいした恥とも思わず、ノラリクラリと暮して、一向平気でいられるのがこの男の取柄でもあったのでしょう。
「福之助さんとか言ったね。昨日の昼前、お前さんは何処にいたんだ」
「ヘエ、自分の部屋におりました。二階の梯子段の下の六畳で、三味線の具合が悪くて、ちょいと弾いておりましたが──」
「昼前だぜ」
「この辺は立止って三味線を聴いてくれる人もありません」
どうも少しピントが外れそうな人柄です。
「坊っちゃんと、お前さんは、仲が好かったのかな」
「どうも、竜吉は学問の方に凝っているし、私は遊芸の方が好きなので、あまり仲が好いとは申兼ねましたが」
「内儀さんは?」
平次は振り返って、女房のお専に訊ねました。
「姉弟ですもの、良いも悪いもありゃしません」
そう言って無用に品を作るお専の方は、亭主の福之助よりいくらか人間が賢こそうでもあります。
平次は八五郎をつれて、二階へ登ってみました。主人三五兵衛、福之助、お専夫婦は、遠慮して階下に留まり、何やらヒソヒソと囁やいている様子です。
二階は六畳が二た間。その奥の方は倅の竜吉の部屋で大方取片付けてはありますが、隅の方に三つ四つ本箱が重ねてあり、物の本などが机の上に積んであるのも哀れです。
「凧は此処にありました──床はよく窓の外が見えるように、この辺で。凧糸は昨日あっしがそう言って、もとのようにしてあります。この糸を輪がねたのへ首を通して、火箸を入れてこじると、人間は死ねるでしょうか──もっとも糸へ水をかけて、ヨリが戻らないようにはしてありましたが」
八五郎はそう言いながら、部屋の隅に片付けてあった凧糸を持って来て見せるのです。
糸は麻を撚った、確りしたもので、腕と拳とで輪がねた罠は、直径七八寸。これに首を突っ込んで絞めるためには、火箸でも挾んで、相当締めつけなければならなかったでしょう。
平次はそれらのものをひと通り見ると、窓に立って東の方をはるかに眺めやりました。美しく晴れた冬の日です。小さい藪と、畑のゆるい起伏を越して、浪人立花久三郎の家は、思ったよりも近々と見えます。娘お妙が、床の上で羽子をついたというのは、あの白々とした窓でしょう。今日は障子が締って、なんにも見せてはくれません。
「八、下女のお北というのを呼んでくれないか」
八五郎は、あたふたと階下へ降りましたが、まもなく四十五六の着実そうな中年女をつれて戻って来ました。
「私は北と申しますが、なんか御用で──」
慇懃な態度はひどく粗朴ですが、平次の巧みな質問に引出されて、自分の在所は目黒、ここには、七八年奉公していること、御主人三五兵衛は結構な人だが、養子の福之助は道楽者の癖にしみっ垂れで高慢で、まことに仕えにくいこと、御新造のお専は悧巧そうな馬鹿で、きりょうは相当以上だが亭主の言いなり放題になること、死んだ坊っちゃんの竜吉は、身体が弱かったが良い人で、立花様のお嬢様と、想い想われている仲を、生きている内は一緒にもなれず、親しく口をきく折もなかったことを、そればかりは可哀想と、この四十過ぎの女は本当に泣くのです。
竜吉の死んだのを発見した時の驚き、それも八五郎が報告してくれたほかにはなんにもなく、丁稚の定吉は賢こい子だが、人摺れがして少し悪賢こくはないか──などと言い添えます。
なおも部屋の中を探した平次は、机の抽斗から、綺麗に重ねて半紙に包んで、紐までかけた手紙を二十四本も見つけ出しました。
「なんです、それは?」
差しのぞく八五郎の前へ手を振って、
「お前の見るものじゃない」
そっと自分の懐中に隠しました。それはやるせない処女心を、たどたどしい筆に托した恋文で、言うまでもなく畑の向うの立花久三郎の娘お妙が、精いっぱいの思いで竜吉の手もとに届けたものでしょう。
「あれは誰だ」
首を挙げた平次は、畑の中を此方へ近づいて来る二人の少年を指しました。
「背の高いのは此家の丁稚の定吉で、背の低いのは、立花様の甥の松次郎ですよ」
ちょっと見はどちらも十四五と見えますが、背の低い、よく肥った松次郎の方は、年が二つ上と聴いております。身扮も定吉は小気のきいた丁稚姿で、松次郎は粗末ながら武家の子らしく、短かいのを一本差して、小倉の袴を裾短かに穿いております。
二人は此方をチラリと見ましたが、そのままきわめて無関心に階下へ入った様子。主人の三五兵衛と、何やら声高に話しているのが、二階まで筒抜けに聞えます。
平次はいちおう定吉と松次郎に逢いましたが、二階から見た印象と少しも変らず、定吉は口賢こい才気走った少年で、十四というにしては、身体の発達もよく、性格的にもひどくませております。
「あのとき私は町まで買物に行って、日本橋のお店で、お昼を頂いて帰りました。坊っちゃんが死んでいるとは夢にも知らず──」
などと年齢にしてはよく舌が動きます。
立花家の甥の富坂松次郎はどん栗に袴をはかせたような少年で、十六とはどうしても見えないほど発育が悪く、ニキビの盛大なのと、口の角のあたりを白くしているのが、妙にこの男を愚鈍らしく見せます。
「私は家にいたよ。霞網を借りに百姓家へ行くつもりで出かけて来ると、この家が騒ぎだ。畑の中の小道を此方へ小戻りして驚いたよ。竜吉さんが死んでいるというから──」
どこか連絡の悪い修辞法が、この少年の賢こくないところを説明しているようです。
二人の少年から、たいしたことを聴き出せないとわかると、平次と八五郎は連れ立って、畑の中の道を、東の方に見える立花家へ辿りました。
葱の青さ、抜き捨てた大根の白さなど、ところどころに色彩の変化はありますが、だいたいは霜解と空っ風に荒された畑地で、歩くと不気味な足跡が一つ一つ印されるような土地です。
「ところで親分」
「なんだえ、八」
八五郎はフト思いついたらしく平次に尋ねました。
「竜吉という倅は、本当に人に殺されたんでしょうか。あっしはまた、病身で気が小さい息子だから、自分で首を縊って死んだような気がしてならないんですが」
「いちおうは尤もな疑いだが、俺はまだ、たった一つお前にも言わないことがあったんだ」
「ヘエ」
「検屍弁覧という本にも書いてあるし、立派な医者も言ってることだが──人間は自分の手では、自分の首を絞めて死ねないものだということだよ」
「ヘエ」
「嘘だと思うなら、手拭かなにかで、お前の手でお前の首を締めてみるがよい。苦しくなって夢中になって、いよいよ命がなくなるという時は、気持が茫としてしまって、自分で絞めている手拭を離すそうだよ」
「?」
「だから首を吊る者は、かならず長押か梁か、木の枝にブラ下がって、茫となって絞め手を緩めないようにするのだ。もっとも箪笥の抽手で首を縊ったためしもあり、自分の足で首を絞めた繩を吊って夢中になってもその繩が緩まない工夫をする者もあるそうだが、そんなのはまだ俺も見たことがない」
「でも、竜吉を絞めた凧糸は、火箸を罠に突っ込んで、ギュウギュウ締めてありましたよ」
「そこが、人にやられたのか、自分でやったことか、見わけのむずかしいところだ。俺は、火箸を罠に突っ込んでギュウギュウ締めて死ぬのだって、自分の手ではむずかしかろうと思うよ──苦しくなって茫としたとき、少し手を緩めると、火箸はすぐ戻るから、本人は息を吹き返すことになるだろう」
「そんなものですかね」
二人の話は結論に入る前に、もう立花家のお勝手に立っておりました。
低い生垣越しに見ると、西側の部屋の障子が少し開いて、若い娘の姿がチラリと動きます。それはたぶん、娘のお妙の好奇な顔でしょう。八五郎が形容した色の白さが、底に青澄んだ光を蔵した白さで、叡智か情熱か、ともかく異常なものを持った顔色です。
眼は大きくて、印象的に澄んでおりました。病弱のせいか、頬は細っそりと痩せ、唇の赤さだけが、熟れたグミのように眼立つのは、虫のついた果物が、早く色づくと同じような不健康な魅力でした。
「御免下さい」
平次は静かに訪ずれると、奥で何やら言い争っておりましたが、しばらく経ってから、
「なんじゃ、用事は?」
五十前後のやかましそうな浪人者が、お勝手いっぱいに、通せん坊をするように立ち塞がりました。たぶん娘のお妙と、なにか一と悶着のあった様子です。
「私は町方の御用を承わっている、神田の平次と申すものですが、ちょいと、お嬢様にお目にかかって、伺いたいことがありますので」
「…………」
継ぎ穂もなく苦りきっているのへ、平次は重ねて、
「実はお向いの朝倉屋の倅が亡くなったことについて、少しばかりお訊ね申したいので」
注を入れました。
「何? 御用聞? 銭形平次とかいうのはお前か──なんであろうと、朝倉屋は朝倉屋、拙者立花久三郎は立花久三郎だ。なんの拘わりも因縁も付き合いもない。娘に逢おうなどとは以てのほかだ。帰れ帰れ」
まことに剣もほろろの挨拶です。
が、この父親の、世間体を兼ねた強気一点張りの応答も、そっと袖を引く手にたじろぎました。
紫陽花のような感じのする娘お妙が、不自由な足を引摺ってお勝手へ出て来ると、父親の袂を引いて、その我武者羅な強気を牽制しながら、
「あの、竜吉さんは、本当に人手にかかって亡くなったのでしょうか」
涙を含んだ大きい眼が、平次を見上げて、父親の蔭からまたたくのです。
「お妙、引っ込んでいるがよい。お前の出る幕ではない」
父親は袂を払って激しい言葉で叱りつけますが、そのあらぬ方を見た眼もまた、妙にうるんでおりました。
「でも、それだけは聞かして下さい。竜吉さんは、本当に人に殺されたのでしょうか」
処女の頬はもう濡れて、グミの唇が、激しい悲しみに、捻れたように歪むのです。
「お父様、お願い。この人に、少し物を訊かして下さい──竜吉さんは本当に、人手にかかって死んだのでしょうか」
重ねてお妙は、父親の腕にすがりつき、刀を抜こうとする手を拒んで、その前へ廻るのでした。
身体の不自由さは、長いあいだこの娘の生活を暗くしてしまって、陽の目を見ることの少い顔色は、不気味なほど蒼白くなっておりますが、それがまた、若さと情熱にかき立てられて、不思議な美しさを発散するのです。
「朝倉屋の竜吉は、気の毒ながら人に殺されましたよ。それについてお嬢さん、少しお話し下さいませんか」
平次は父親の忿怒の隙を狙って、この娘から、なにかを引出そうとしているのです。
「勝手にするがよい、恥知らず奴」
父親──立花久三郎は、娘の一生懸命さに圧倒されたものか、諦めた様子で袖を払いました。竜吉が生きていればこそ、嫁にやる、やらないの争いも続けたのですが、相手が死んでしまっては、あまり頑固らしいことを言い張るのも、妙に後ろめたかったのでしょう。
「どんな様子でした、竜吉さんの最期は」
父親がいなくなると、お妙は平次に縋りつきそうにするのです。畑を隔てて、遠く遠く恋人と顔を見合せながら、とうとう契る折もなかった十八娘は、もう恥も外聞も忘れて、最期の様子を聴くことに夢中だったのです。
平次と八五郎は、代る代る言葉を尽して、竜吉の様子を話しました。
「凧糸で首を巻いて──あの羽子を挾んで──」
熱心に、吸いついたような熱心さで、細かく細かく訊き返しながら、お妙はぬぐいも敢えぬ涙に濡れるのです。
「気の毒なことに、下女のお北が、少し早目のお昼の膳を運んで行ったときは、もう手の尽しようもなかったのですよ」
平次は、娘の涙を縫って、ようやく語り終りました。
「下女のお北は、どんな着物を着ていました?」
お妙は不思議なことを訊きました。
「地味な、焦げ茶色の、木綿物の縞の袷でした」
平次は答えます。
「他に女の方は?」
「姉のお専だけ、身扮は青色小紋の、派手な袷」
「…………」
「それがどうしました、お嬢さん」
お妙は黙ってしまいました。深刻な悲しみがこの少女から、気兼も遠慮も、そして涙までも押し流してしまった様子です。が、しばらくすると、
「お昼少し前、──昼のお膳を持って行って──すると竜吉さんが殺されたのは巳刻半(十一時)私が羽子を突いていたころ、──松次郎さんをお使いにやって間もなくか知ら──」
「松次郎さんを、どこへ使いに出しました」
「…………」
お妙はそれに答えず、あらぬことを考えている様子です。
「ところでお嬢さん、──この手紙は、竜吉の机の引出しから持って来ましたが、これで、皆んなでしょうね」
平次は懐中から、可愛らしい絵封筒に入ったのや、天地紅の半切に書いて、そのまま結び文にしたのを取揃えて、二十四本の手紙をお妙の前に出して見せました。
「まア」
お妙は熱いものに触りでもしたように、出しかけた手をそっと引っ込めます。
「勘定してみて下さい。たいてい日を揃えてあるようですが──」
「…………」
平次に重ねて言われると、自分の書いた手紙を二十四通、膝の上に置いて、身体を斜めにしたまま、極り悪そうに勘定しておりましたが、
「一本だけ足りないようです。一昨日松次郎が持って行ったのが──」
そう言うのがせいぜいです。
「松次郎がまだ行かなかったのでしょう」
平次は慰め顔になりました。霞網を借りに行ったはずの松次郎は、恐らくお妙の文使いが本当の目的だったことでしょう。
「その松次郎は?」
「朝倉屋へ行っていたようですが」
「私が逢いたがっていたと──そう言って下さいな」
お妙のそう言うのを、平次はうなずいて引下がりました。
平次はその足ですぐ、もういちど朝倉屋に引返しました。
「どこへ行くんです、親分」
八五郎はその後ろから、少しあわて気味に跟いて来るのです。
「あのお嬢さんの手紙が一本、どこかにあるはずだよ」
「それから?」
「もういちどあの凧の糸を見よう」
平次は言葉少なに応えて急ぎました。
朝倉屋に着いて、福之助とお専に黙礼した平次は、いきなり二階へ登って行くと、そこには小僧の定吉と、浪人立花久三郎の甥松次郎が、何やらしめやかに話しながら、竜吉の死骸を看ているのです。
「二人で何をしているんです」
平次は少しとがめる調子になります。
「坊っちゃん一人じゃ淋しかろう──って、松次郎さんが言うんですよ」
小僧の定吉でした。
「朝倉屋の主人は?」
「用事があって日本橋の店へ帰りましたよ。番頭さんでもよこして、何彼の支度もしたいんですって」
「兄さん夫婦もいるじゃないか」
「薄情なものですね。死人は気味が悪いって、二人とも寄りつきませんよ」
小僧の定吉は思いのほかに皮肉でした。富坂松次郎は、それを黙って聴いているだけです。
「ちょいと用事があるが、二人とも、階下へ行って貰いたい──」
「それじゃ、しばらく頼みますよ」
定吉といっしょに立上がる松次郎を、少しやり過して平次は呼び留めました。
「松次郎さん、ちょいと」
「私にか?」
松次郎は振り返りました。あまり賢こくなさそうでも、武家の子だけに、何処か折目の正しいところがあります。
「立花さんのお嬢さんが、竜吉へやる手紙の文使いを頼んでいたそうですね」
「…………」
松次郎は、黙って白い眼をしております。
「手紙は二十四本、一々竜吉の受取った順でしまってありましたが、一昨日の一本だけが見当らないのはどうしたことでしょう」
「知らぬ──と言ったら」
「そんなことはありません。立花様のお嬢様が、たしかに松次郎さんにお頼みしたと、こう申します」
「…………」
「人一人の命にかかわる、大事のことです。拝見できませんか」
平次は少し執拗に追及するのでした。
「不本意だが、お目にかけよう。これだよ──お妙さんの名前に拘わると思って、私の手にあるうちに、揉みくちゃにして捨てようと思ったが──」
従姉の名前のために、そう考えたのも無理のないことですが、それにしても、今までに運んで来た、二十四本の恋文の始末をつけなければ、最後の一通を隠しおわせたところでなんの足しにもなりません。
松次郎はその間に自分の懐中を探っておりましたが、やがて、絵封筒から抜いた、揉みくちゃの手紙を出すと、ポイと平次の方に投って、トントントンと定吉の後を追います。
「ひどく揉みくちゃですね、親分」
「そのうえ念入りに千切ってあるよ、──可哀想に、竜吉はこの手紙も読まずに死んだことだろうが」
文句は悲しく甘いだけのこと、素より大の男の読むようなものではありませんが、半切へ書いた長い手紙が、挘り取ったように捻切られたうえ、最初の半分ほどは滅茶苦茶になって、所々破けたところもあり、よじられて小皺が寄って、見る影もなく痛んだところもあるのです。
「ところで、この死骸を見ると、竜吉の身体はよっぽど悪かったらしいな」
骨と皮になった少年の死骸から、痛々しそうに平次は眼を反けました。
「?」
八五郎は、平次の思惑を測り兼ねて、ジッと見上げました。
「これだけ弱っていると、自分の首に巻いた凧糸の罠を、自分の手で絞って死ねるだろうか」
「…………」
「手拭や紐で、自分の首を絞めては、どうしても死ねないのが本当だ──これは前に言った。でも、箪笥の引手でもよい、逞ましい火箸でも構わない、そんなものを使って絞めさえすれば、自分で自分の命を絶てないこともないというのが、首縊りの言い伝えだが、この竜吉というのは、病み呆けて、力も元気もうせ果てている。自分の首に巻いた凧糸を、火箸や棒切れで絞って、本当に死ねるだろうか。水は一箇所だけ付いていたはずだ、──糸が皆んな濡れていたわけじゃない、──いや一箇所も──火箸を首の右の方で突っ込んで絞ったとすると、そのあべこべの、左の方だったと思う、水は──」
「どこにもありませんよ、親分」
「その土瓶が空っぽになっていたはずだ。病人はときどき水を欲しがるから、その土瓶の中には、少しは水が残っていたはずだと思う。竜吉が死んだとき──自殺だか、人に殺されたかわからぬが──ともかくその水を首へ巻いた凧糸へ、土瓶の口から直かにこぼしたに違いあるまい」
「自分の首へ凧糸を巻いて、その凧糸の上から、存分に水を滴し込んだというわけでしょう、──冷たいことだね」
「それからもう一つ、松次郎がお妙の手紙を持って、誰にも見つからずに来る道があるに違いないと思う。お前は少し身体が重くて、文使いの所作には不向きだが、その窓から出て庇を渡り、冬囲いの柱を伝わって外へ──土手の蔭を林へ抜け、畑の途中から道を取って返して、向うの道の途中まで行ってみてくれ」
「ヘエ、こいつはわけもありませんよ。誰も見てさえいなければ」
八五郎はもう、足袋を脱いで懐中へ入れると、物々しくも十手を横哺えに、窓から庇へ、スルリと滑って出ました。
その夜、竜吉の姉のお専が、小用に起きて帰りが遅いので、夫の福之助が手燭を持って探しに行くと、便所の前の板敷に、長々と伸びているのが見つかりました。
が、見つけたのが思いのほか早かったのと、手当てが行届いたせいか、お専はまもなく息を吹返しました。幸い夫の福之助が、ノラクラ者のくせに、若いとき医者の玄関に住込んでいたことがあり、応急手当のひと通りくらいは、心得があったのです。
急報を受けて、平次と八五郎が駈けつけたのは、翌る朝の辰刻半(九時)頃、その時はもうお専は、すっかり元気を取戻し、日頃の媚態へ輪をかけたような表情で、事細かに昨夜の一埒を話してくれました。
「びっくりしました。いきなり暗の中から飛び出した者が、私の首へなんか引っかけてギュウギュウ締めるんですもの。夢中になって藻掻いたが、手掛りもなんにもありゃしません。そのうち気が遠くなって、──眼を開いた時は、うちの人と定吉とお北が、大きな声で呼んでいました。──まだ喉のあたりが、変な気持ですよ。喉の仏様でも、どうかしたんじゃありませんか知ら」
この饒舌の中からは、平次もなんの手掛りも掴めません。
「なんで首を締めたんだ」
「これですよ──仏様の始末で、階下へ置いたので」
お専の亭主福之助が取出したのは、なんと一日前弟の竜吉を殺した、あの凧の糸ではありませんか。
「…………」
平次も思わず黙り込んでしまいました。あまりの無気味さ、畳の上へほうると、ゾロリととぐろを巻く凧糸の輪がねた一とかたまりは、糸目から外して、二度人の命を狙った兇器だったのです。
「私も油断しました。でも、子刻(十二時)過ぎに小用に起きたんですから少しはぼんやりしていたことでしょう。首へそれを投げかけられた時はなんか──手拭掛けが首へ絡まったくらいに思っていたんです。すると、払いのける前に、それがギュウギュウ締ったから驚くじゃありませんか」
お専のような達者な年増が、首に凧糸を引掛けられて、ギュウギュウ締められるのは、あまり賢こいことではありません。
「八、こんどは凧糸は濡れていないようだな」
「濡らさなくたって、これならよく締めつけられますよ。曲者もだんだん巧者になるから」
「いや、竜吉殺しとは別の人間かも知れないよ。いずれにしても、亭主の福之助と、小僧の定吉と下女のお北に一番疑いがかかるわけだ──外へ出てみよう、此処は外からでも楽に入れる」
畑の中にある朝倉屋の寮は、ろくに締りというものをしていないので、外からでも楽に入れるのが一つの特色です。
「八、あの足跡をどう思う」
畑の土は長いあいだの霜柱で脹れ上がって、そのうえ春になってからの天気続きによく乾いておりました。その乾ききった土──柔かく脹れ上がった土の上へ、点々として下駄の跡が、向うの道へ続いているのです。
「昨日まではなかった足跡ですね」
「そのとおりだ」
「ひどくよろけていますが、男下駄の跡じゃありませんか」
「もう少し気のつくことはないか、八」
「さア」
八五郎の観察は、そのくらいのところで行詰ってしまいました。
「よく見るがよい、下駄の跡が行きと帰りと二た筋あるが、往き帰りとも、一方が深くて一方が浅いだろう」
「ヘエ」
「一方の足に力が入って、一方の足は浮くような歩き方だ」
「…………」
「もう一つ、足跡と足跡の間が、右と左が違っている。浅い方が幅が狭くて、深い方が幅が広い。そしてその幅を揃えるのに、ときどき立留って足を引摺っている──」
「跛者だ──親分」
「そのとおりだよ、──この辺に足の悪いのは?」
「あの浪人者の娘──でも男下駄は変ですね」
「女が男下駄を履いて悪いという法はないよ」
「なるほどね、──すると、お専の喉を絞めた曲者は、わかっているじゃありませんか。行ってみましょうか」
「いや、早合点しちゃいけない」
平次はたいして急ぐ様子もなく、寛々とした足取りで、浪人者立花久三郎の家に近づきました。
もう昼近い日射しです。娘のお妙がたった一人、縁側でしょんぼりと、朝倉屋の方を見ているのが、八五郎の太い神経にも、わびしく映ったのでしょう。
「あの娘がね、親分。あんな顔で」
「黙っていろ」
たしなめて平次は、庭木戸を押しあけました。
「お嬢さん」
「あ、平次親分、向うから来るのがよく見えましたよ」
「お父様と、松次郎さんは?」
「二人とも留守ですよ」
娘の顔には、昨日の絶望的な色はありませんが、大きい屈託が、その弱い身体を押しひしぐらしく、日蔭の花のような痛々しさと、言うに言われぬ、病的な美しさを感じさせるのです。
「ちょうどよいあんばいで──少し伺いたいことがあるんですが」
「…………」
娘は黙って、縁側に座布団を二つ持出しました。娘の方にも、なにか聴きたいことがある様子です。
「昨夜朝倉屋の内儀が殺されかけました。御存じでしょうね」
「松次郎さんが、そんなことを申しておりました」
お妙は静かに答えて、少しも取乱した様子はありません。
「ところで、そのことについて、お嬢さんに打ち明けてもらいたいのですが」
「?」
「昨夜、お嬢さんは、畑の中を朝倉屋の寮へいらっしゃいましたね、──道のないところに、足跡がついておりましたよ」
平次は至って平坦な調子で、こう言いきったのは、不意の言葉から受ける、相手の反応が見たかったのです。
「え、参りました、──子刻(十二時)少し前でした」
お妙の答えにはなんのわだかまりもありません。
「…………」
平次は黙って先を促しました。
「一度──私は竜吉さんに別れを惜みたかったのです。丈夫な頃、逢ったきり、もう一年も話をしたことはありません」
「…………」
「昼では父が見張っていて、私を外へ出してはくれません。思いきって暗くなった畑の中を、真っすぐに参りました。朝倉屋はいつでもろくな戸締りをしないことがわかっております。そっと二階へ登って、あの人の死に顔に逢って参りました。お灯明はありましたが、お気の毒なことにお通夜をする人もなく、皆んな銘々の部屋へ引取って休んでいる様子でございました」
お妙はせぐり上げる涙に、ときどき絶句しながら、思いのほか雄弁にこう続けるのです。誰に打ち明けることも出来なかった激情が、平次という同情者を得て、相手の身分かまわずに爆発したものでしょう。
十八の処女、病弱な上に足の悪い娘が、二町ばかり隔てた畑の中を、言い交した若い恋人の死骸に、最後の別れを惜みに通った光景は、本人の口から聴くと、また格別の無気味さです。
「その時、その時ですよ、お嬢さん。朝倉屋の内儀──竜吉の姉のお専には逢わなかったのですか」
「逢いました」
「?」
「私が二階の部屋で、竜吉さんの死骸に別れを惜しんでいるとき、階下で変な物音がしておりましたが、帰りに梯子段の下を覗くと、遠い通夜の灯りで、あの人が板の間に倒れているのを見ました」
お妙の言葉は、あまりに平静であまりにも無造作に聴えます。
「どうしてその時、大きな声を出さなかったので?」
「…………」
「お嬢さんが、朝倉屋の内儀殺しの疑いを受けても、あの畑の中の足跡を残しては、弁解の道がなくなりますよ」
平次はようやく此処までお妙を追い詰めたのです。その返事一つでは八五郎が飛びかかって、このか弱い処女に繩をうったかも知れません。
「では、皆んな申しましょう、──これだけは、誰にも漏らさないはずでしたが──」
お妙は陽を避けて、斜に平次と対しました。病弱な娘は、その知恵も、心情も、世の常の娘よりは発達が早いらしく、──虫喰いの果物が、早く色づくのと同様、この娘には十八か十九とは思えぬ、考え深さと美しさが、不具らしい成熟を遂げているのでした。
「聴きましょう、お嬢さん」
「竜吉さんと、あのお姉さんは、姉弟と言っても母親が違い、日頃仲が悪かったことは御存じでしょうね」
「…………」
「内儀さんは弟と仲が好いように申しておりました。でも、竜吉さんのお手紙には、姉さんを怨む言葉のないことはなかったのです」
「…………」
「その竜吉さんは、長い病気で姉夫婦にどんなに持て余されていたことでしょう。でも、腹違いとは言っても、本当の姉のお専さんが、弟を殺す気になったとはなんとしたことでしょう」
「姉が弟を?」
平次もこの言葉にはさすがに胆を潰しました。
「私はこの眼で、この部屋から、確かに見ました。青い袷を着た女の人が、竜吉さんの側へ寄って、後向きになって、たぶん私の手紙でしょう──何やら読んでいるところへ、首へ白いものを引っ掛けたのです──私はまさか、姉が弟を殺すところとも知らず、そのまま他のことに気を取られて、眼を外らしてしまいました。しばらく経って向うの家の二階を見ると、何やらただならぬ騒ぎで、人が登ったり降りたり、外へ飛び出したりしておりました。そしてしばらく経って松次郎さんが、竜吉さんが死んだと教えてくれたのです」
「それはお嬢さん、あなたの夢ではなかったでしょうね」
「皆んな本当のことです。毎日毎日向うの二階を眺めているので、私の眼は、遠眼鏡のように遠見がききます、竜吉さんを殺したのは、青い袷を着た、女の人に間違いもありません」
「…………」
「昨夜、竜吉さんに別れを惜みに行った時、その人が梯子の下に倒れて気を失っておりました。首には凧糸が巻いてありました、──私はその人を──竜吉さんを殺した相手を、呼び生けなければならなかったでしょうか」
お妙は顔を挙げて、涙に曇った眼で、ジッと平次を見詰めるのです。
「親分、お専を殺しかけたのは、やっぱりあの娘じゃありませんか」
もういちど朝倉屋へ引返す途中、八五郎はこんなことを言い出すのです。
「いや、違う、あの病身の娘に、達者過ぎるほど達者なお専の首が締められるわけはない。それに、畑の足跡は、跛足ではあるが、往きも帰りも少しも乱れてはいない、若い娘が人一人殺して、あんな同じ足取りで歩けるはずはないだろう」
「なるほどね」
「俺には、竜吉を殺した下手人も、お専を絞めた曲者も、大抵わかったような気がするよ。ともかく、もういちどお専に逢ってみるとしよう」
平次と八五郎が訪ねて行くと、ちょうど竜吉の弔いの支度で家の中はゴタゴタしており、近所の衆の中には、定吉などと一緒に、雑用をしている松次郎の姿も見えます。
平次は定吉を呼んで、ちょいと内儀のお専に、顔を拝借したいと言うと、
「あら、銭形の親分さん」
などと、お専は品を作りながら、物蔭に待っている平次のところへやって来ました。
「内儀さん、少し訊きたいことがあるんだが──」
「あら、そんなに改まって──私はまアどうしましょう、こんな風をして」
などと、昨夜眼を廻して、諸人に醜体を見せたことなどはもう忘れております。
「外じゃないが、竜吉が死んだ時──死骸を見つけた時だよ、──内儀さんは、どんな着物を着ていたのだえ」
「この袷ですよ、──私はこの青い小紋が大好きで──」
「真実かえ、こいつは大事のことなんだが、少しの間も脱がなかったのだな」
「そう言えば、ほんの半刻ばかり、脱いで二階の陽当りの良い欄干へ乾していましたよ。お勝手で水仕事をして、袖のところを少し濡らして、その乾く間だけ、黒っぽい縞の袷を着ていましたが」
「乾した場所は?」
「東側の縁の外で」
「そこは畑の向うの立花さんの家からは見えないだろうな」
「見えませんよ。この家は少し東の方へ向いているから」
「それで、青い小紋の袷と着換えたのは何時だ」
「竜吉が死んだ騒ぎの後、いろいろの人が来るので、黒い縞の袷を脱いで、また青い小紋と替えました、──その時はもう袖口の濡れも干いたので」
「その黒い袷と着換えたのを、誰か知ってる者はないのか」
「お北は、──あら、その黒い縞の方もよく似合うじゃありませんか、などとお世辞を言っていました。竜吉が死んでることを見つける少し前です」
お専の応えには、なんの渋滞もありません。
「八、曲者の正体はわかったよ」
平次の声は自信が充ちました。
「誰です、親分」
八五郎は弾みきっております。
「あれだ、畑の中を、飛んで行く奴」
「あ、あの野郎」
「気をつけろ、刃物を持っているから」
「なんの」
八五郎は疾風の如く飛んで行くと、畑を突っきって逃げて行く男の後ろから、無手と組みつきました。
平次が駈けつけるまでもなく、争いは簡単に埒があきました。八五郎に繩を打たれて引っ立てられたのは、憤怒と絶望に歪む、富坂松次郎の顔だったのです。
*
下手人の松次郎は、浪人と言っても武士の子だったので、いちおう厄介な手続きを済ませ、平次と八五郎が神田に引揚げたのは、もう夜でした。
「どうしてあの松次郎が下手人とわかったんです」
八五郎は晩酌につき合いながら、平次の解説をせがみます。
「松次郎は従姉のお妙に夢中だったのさ。折があったら竜吉を殺そうと狙っていたことだろう。殺して置いて、自殺と見せかけようとした。凧糸で首を絞めただけでは、自殺は出来ないが、火箸を突っ込んで捻ると、ずいぶん死ねないこともあるまい。うまい術を考えたものだよ、──もっともそれも丈夫な人間に出来ることで、病身の竜吉には先ずむずかしいと見なければなるまい。それに自分の首へ巻いた凧糸を、火箸で捻るとしても、右利きの竜吉が、首の右側でやったのは変じゃないか。これは右利きなら、左側の首の方が楽だ」
「なるほどね」
八五郎は自分の首のあたりに手をやって試してみたりしました。
「それから、土瓶の水をわざわざ凧糸の一方に滴らすのも変じゃないか。やってみるがよい、凧糸を皆んな濡らしてやるなら楽だが、首へ巻いた凧糸に土瓶で水を滴らすのは、ずいぶんイヤな心持だぜ──、春といってもまだ薄寒いし、そんなことをしたって、なんの役にも立たないじゃないか、ただ自殺と見せかけるだけのことだ」
「…………」
「それから、松次郎はお妙に頼まれた恋文をまだ竜吉に渡さなかったと言っているが、その二十五本目の恋文は、半分千切れて、繩かなんかで絞ったようになっているじゃないか。竜吉がその恋文を読んでいるところを、松次郎がいきなり背後から首へ凧糸の輪をかけて絞めたんだ。読んでいた手紙もメチャメチャになったが、証拠を残したくないので、死骸からむしり取って行ったのだろう──凧糸に羽子を挾んだのは、竜吉の床の側にあった羽子を使って、自害と見せかけた細工だ」
「…………」
「そして竜吉に逢わなかったと言ってるが、土手と林と冬囲いにかくれて、庇から二階へ誰にも見られずに入れるし、仕事は手っ取り早く片付いたに違いない。もっとも、その前に東側の欄干からお専の青い袷を外して来て、上から羽織ったのは賢こいやり方だ。お妙ほどの悧巧な娘も、竜吉殺しの下手人をお専と思い込んでしまった」
「お専を殺そうとしたのは?」
「やっぱり松次郎さ。お妙の後をつけて朝倉屋へ行き、お妙が二階で死骸に逢っている間に、下に隠れていたことだろう。その辺に凧の糸の輪がねたのがあって、お専は小用場から出て来て、後ろ向きになって手を洗ってる──」
「…………」
「松次郎は、女物の袷を羽織って、竜吉を殺した現場を、お専に見られたと思い込んでいたことだろう。お専はぼんやりで、そんな細かいことに気のつく女ではないが、これは松次郎が自分の知恵に負けたのだ。独り角力を取って背負投げを喰ったようなものだ。幸いお専は助かったが、竜吉は可哀想に──」
平次は暗然とするのです。幸いほかの者に怪我がなかったのが、せめてもこの事件の慰めでした。
底本:「銭形平次捕物控(九) 全十冊」角川文庫、角川書店
1958(昭和33)年6月20日初版発行
1968(昭和43)年3月30日11版発行
初出:「サンデー毎日」毎日新聞社
1950(昭和25)年12月17日号~31日号
入力:結城宏
校正:江村秀之
2018年3月26日作成
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