クロイツェル・ソナタ
KREITSEROVA SONATA
トルストイ
米川正夫訳

『されど我なんじらに告げむ、およそおんなを見て色情を起す者は、心の中すでに姦淫したるなり。』

(マタイ伝第五章二十八節)



『弟子イエスにいいけるは、もし人妻においてかくの如くば娶らざるにしかず。イエス彼等にいいけるは、このことばは人みな受納るること能わず。たださずけられたる者のみこれをなし得べし。』

(マタイ伝第十九章十、十一節)


 早春のことであった。わたしたちはもう二昼夜も旅行をつづけていた。短距離旅行の人は、汽車を出たり入ったりしていたが、わたしのように汽車の出たところから乗り通しているものは、三人しかなかった。それは、半ば男物めいた外套を着て小さな帽子を被り、疲れきったような顔をして、煙草をぷか〳〵吹かす、あまり美しくない相応な年配の婦人と、きちんとした真新しい身の廻りのものを持った、四十恰好の話ずきなその道づれと、ただ一人孤独を守っている背の高くない紳士であった。この紳士はものごしが妙に突発的で、まだそう年寄りでもないらしいのに、房々と渦巻いた髪の毛には早くも白髪が見えはじめ、異様に輝く眼はものからものへと素ばやく走っていた。

 彼は一流の仕立屋の作ったらしい、アストラカン皮の襟をつけた古い外套を着、同じくアストラカン皮の背の高い帽子を被っていた。ボタンを外したとき、その外套の下から、袖無外套と刺繍のあるロシヤ式のルバーシカが見えていた。この人の変ったところは、時々咳払いともつかず、またちょっと出しかけてすぐ途切れた笑いともつかぬ、奇妙な音を発することであった。

 この紳士は旅行の間じゅう、つとめてほかの乗客の仲間に入ったり、近づきになったりするのを避けるようにしていた。隣席の人が話しかけると、手短かにぶっきら棒の返事をしたり、本を読んだり、窓の外を見ながら煙草を吹かしたり、古い袋の中から食いものを取り出して、茶を飲んだり何か食べたりしていた。

 わたしは、この人が自分で自分の孤独に苦しんでいるように思われたので、幾度か話しかけようとしたが、いつも両方から視線が出会う度に(わたしたちははすかいに向き合って坐っていたので、そういう機会は度々あった)、彼は眼をそらして本を読み始めるか、または窓の外を眺めるかするのであった。

 二日目の晩、ある大きな駅に汽車が停ったとき、この神経質な紳士は熱い湯を汲みに行き、自分で茶をれ始めた。きちんとした身廻りの品を持った紳士は(後で弁護士だと知れた)、道づれの男物めいた外套を着た煙草好きの婦人と一緒に、停車場へ茶を飲みに出かけた。

 この紳士と婦人のいない留守に、四五人の人が車中へはいって来た。その中には、皺の深い顔を綺麗に剃った、背の高い商人あきんどらしい老人が交っていた。彼は高価なアメリカ貂の外套を着て、大きな眼庇のついたラシャの帽子を被っていた。商人は婦人と弁護士の真向いに腰を下ろし、同じくこの駅で乗り込んだ手代らしい若者と、すぐに話を始めた。

 わたしはその筋向うに腰かけていた。まだ汽車はじっとしているし、それに人も傍を通らないので、二人の話を切れ切れに聞くことが出来た。商人はまず冒頭のっけに、自分は僅か一停車場しか隔てていない、我が領地へ出かけるのだといいだした。それから、いつものお決りで物価のことや、商売あきないのことや、モスクワの景気がどうだこうだ、という話をはじめた。やがて、ニジニ・ノヴゴロッドのいちの話も出た。手代は二人とも知合いのさる豪商が、その市で大散財をやったことを喋りだしたが、老人はそれをしまいまでいい終らせないで、昔クナヴィンでやった豪遊の話をはじめた。それには彼自身も加わっていたというのである。見受けたところ、それがご自慢らしく、自分がこの知合いの豪商と一緒に、大きな声では話せないようなことを、そのクナヴィンでし出かした顛末を、さも嬉しそうに物語りだした。すると手代は、汽車じゅうへ響き渡るような声でから〳〵と笑いだした。すると、老人も黄色い歯を二本剥き出して、同じように笑いだした。

 わたしは大して面白い話もなかろうと見切りをつけて、汽車の出るまでプラットフォームを散歩しようと立ちあがった。すると、戸口のところで、何やら生き生きした調子で歩きながら話し合っている弁護士と婦人に行きあった。

『もう間に合いませんよ。』と気さくな弁護士は私に向ってこういった。『もうすぐ二度目のベルが鳴りますよ。』(ロシヤの汽車は第三
鈴と同時に出発する

 果して、わたしがまだ列車のはずれまで到着しないうちに、ベルの音が響き渡った。帰って見ると、婦人と弁護士との間で話がはずんでいた。老商人はいかつい眼つきで前を見つめながら無言のまま二人の向いに坐って、ときどき不賛成らしく口をもぐ〳〵させていた。

『それからね、その女はいきなりご亭主をつかまえて、』ちょうどわたしが傍を通り過ぎたとき、弁護士は微笑を含みながらいっていた。『わたしはあなたと一緒に暮らすことは出来ません、また暮らしたいとも思いません、なぜって‥‥』

 それから彼はさきを話しつづけたが、わたしはもう聞き分けることができなかった。わたしのうしろからほかの乗客たちが通り過ぎるし、車掌がやって来るし、労働組合の荷運び人夫が駈け込むしして、ややしばらく騒ぎがつづいたために、話が聞えなかったのである。やがてあたりも静まって、弁護士の声が再びわたしの耳に入った時には、会話は個人的の場合から転じて、もはや一般的な考察に移っていた。

 弁護士は、目下離婚問題がヨーロッパ全体の輿論を喚起して、ロシヤでもそうした場合が次第に頻繁に生じつつある、という話をしていた。弁護士は自分の声ばかりが聞えているのに気づき、話を打ち切って、老人の方へ振り返った。

『昔はそんなことはなかったでしょうね?』と彼は気持のいい微笑を浮べて訊ねた。

 老人は何やら答えようとしたが、ちょうどおりふし汽車が動きだしたので、彼は帽子を取って十字を切り、小声で祈祷を唱えはじめた。弁護士はそっぽへ眼をそらせて、礼儀をただして待っていた。祈祷が済んで三度十字を切ると、老人は帽子を真直に眼深に被り、居住いを正しながらいいだした。

『以前にもあるにゃありましたが、少のうございましたよ、あなた。』と彼はいうのであった。『今のご時世じゃ、そういうことが起らずにはいませんさ。あまり教育が進み過ぎましたでな。』

 汽車は次第に速力を早めながら、レールの継ぎ目でがたん〳〵音を立てるので、どうも話が聞き取りにくかった。しかし、これは面白いと思ったので、わたしは近くへ席を変えた。わたしの隣にいる眼の鋭い神経質な人も、やはり興味を覚えたと見えて、席から起ちはしなかったが、じっと耳を傾けていた。

『一体どうして教育が悪いんですの?』ほんの心もち微笑を浮べながら、婦人はいった。『では、花嫁花聟が、お互に相手を見たこともないのに結婚していた、あの昔の風がいいとおっしゃるんですか?』と彼女はつづけたが、それは多くの婦人によくある癖で、相手の言葉に答えたのでなく、相手のいいそうなと思われる言葉に答えたのである。

『二人が愛し合っているか、それとも愛し合うようになるかさえも分らないのに、行き当りばったりの人と結婚して、そして一生苦しんだものです。それをあなたはいいとおっしゃるんですの?』明かにわたしと弁護士に話を向けながら、かんじんの話相手たる老人にはほとんど注意を払わないで、彼女はこういった。

『どうもあまり教育が進み過ぎましたよ。』軽蔑したように婦人を見つめながら、その問には答えず商人は繰り返した。

『あなたは夫婦間の不和と教育との関係を、どういう風に説明なさいますかね?』ほんの心もち微笑を浮べながら、弁護士は訊ねた。

 商人は何かいおうとしたが、婦人がそれを遮り、

『いいえ、そういう時代は過ぎ去りました。』といった。けれど、弁護士はそれを押し留めて、

『いや、あの方に一つ意見をはかせて上げて下さい。』

『教育の結果は馬鹿げたことばかりですよ。』と老人はきっぱりいいきった。

『お互に愛してもいないものを一緒にして、そのあとで仲が悪いといって驚くんですからね。』弁護士やわたしや、手代の方まで振り向きながら、婦人はせき込んでそういった。手代は席を立って、椅子の背に肘をもたせながら、にこ〳〵して会話に耳を傾けていた。

『主人の考え通りにつがわせることが出来るのは、動物だけですわ。人間はそれ〴〵自分のすき好みがありますからね。』と、明かに商人を皮肉るつもりらしく、婦人はこういった。

『奥さん、そんなことをおっしゃるもんじゃありません。』と老人は言葉を返した。『動物は畜生ですが、人間には掟が授けられていますでな。』

『じゃ、愛のない人間とどうして暮らすことが出来ます?』相も変らず婦人は自分の意見を発表しようとあせっていた。恐らく彼女は、それを非常に新しい説だと思っていたのだろう。

『もとはそういうことを詮索しなかったものですて。』と諭すような調子で老人はいった。『それはついこの頃になって始まったことですよ。ちょっとでもどうかすると、女房はすぐ「わたしあなたのところを出て行きます」といいだす。百姓など、そんなことをする柄でもないくせに、近頃そういうことが田舎でも流行り出しましたよ。「さあ、これがお前のシャツと股引だよ。わたしはヷシカと一緒に行くんだ。あの人の頭髪あたまの方が、お前よりよっぽど房々しているんだもの」まあ、こういう有様ですよ。しかし、女には何より一番におそれがなくちゃならんて。』

 手代はやっとのことで微笑を抑えながら、弁護士と、婦人と、それからわたしの顔を見やった。そして、一座の形勢いかんによって、当人の言葉を冷笑するなり、賛成するなり出来るように心構えをしていた。

『おそれとはなんですの?』と婦人は訊ねた。

『なんでもない、自分の夫を恐れなけりゃならん! つまり、そのおそれなんですて。』

『まあ、お爺さん、そんな時代は過ぎてしまいましたよ。』いくぶん憤怒の色さえ浮べながら、婦人はこういった。

『いいや奥さん、この時代は過ぎ去るわけにゆきませんて。女が、イヴが男の肋骨で創られてからこのかた、世の終りまで永劫そのままで通すんですよ。』と老人はいかにも厳かな調子でいい、勝ち誇ったように首を振ったので、手代は途端に、勝利は老人の方へ落ちたと決めてしまって、大きな声で笑いだした。

『ええ、それは男の方はみんなそういう風に論じなさいますよ。』と婦人は屈する色なく、わたしたちを見廻しながらいった。『自分では自由を握りながら、女は家の中へ押し籠めておこうとなさるんですわ。多分ご自分たちにすべてを許していらっしゃるんでしょうよ。』

『許しなどは誰も与えるものはありません。しかし、男の放埓は何も好くない結果をわが家に持ち込みはしないが、女はまるで脆い器みたいなもんだでなあ。』と商人は説きつづけた。胸に浸み込むような商人の語調は、明かに聴手を征服したのである。わけても、婦人はすっかり圧倒されたような気がしたが、それでもまだ降参しなかった。

『そりゃそうですわ。でも、まあ、考えてごらんなさい。女だって人間ですから、男の人と同じように、感情というものを持っていますわ。もし夫を愛していなかったら、その女は一体どうしたらいいんでしょう?』

『愛していないんですと?』と商人は眉や脣を動かしながら、厳しい声で繰り返した。『多分愛するようになるでしょうよ!』この意想外な論法は、殊のほか手代の気に入ってしまったので、彼は賛意を表わすために妙な響をたてた。

『いいえ、愛するようになりゃしません。』と婦人はいった。『もし愛がなかったら、無理じいをするわけにはゆきませんからねえ。』

『では、もし妻が夫に背いたら、その時はどうしますか?』と弁護士が訊ねた。

『そういうことはあるまじきことですよ。』と老人はいった。『そういうことは、よく監督しなきゃなりませんて。』

『でも、ひょっとそういうことになったらどうします? 実際よくあるやつですからね。』

『どこかよそではあるかも知れませんが、わしらの仲間では決してありません。』と老人は答えた。

 一同は口をつぐんだ。手代はちょっと身動きして、また少しそばへ寄り、ほかのものに負けたくないらしい様子で、にた〳〵笑いをしながら口をきった。

『さよう、わっしたちの仲間の若い男のところでも、一つ外聞の悪いことがおこりましたよ。やっぱしはっきり筋道を立てるのはむずかしゅうござんすが、こいつもある女に引っかかったんです。女房に貰って見たところ、それが淫乱なやつでしてね、早速いたずらを始めたんですよ。ところで、その男は中々しっかりした、頭のいい若い衆でした。女のやつ、はじめは店のものとくっつき合ったのです。亭主は理を尽していい聞かせたが、中々きこうとはしないで、ありったけの馬鹿を尽すじゃありませんか。しまいには、亭主の金まで盗み出すようになりました。で、男は女房を撲りなどしましたが、どうでしょう、女はだんだん悪くなる一方です。失礼なお話ですが、とうとう邪教のユダヤ人と乳繰り合ったのです。一体男の方じゃどうすればいいんでしょう? とどのつまり、女を棄ててしまって、そのまま独身で暮らしています。女の方は諸所方々うろつき廻っていますがね。』

『だから、その男は馬鹿なんだ。』と老人はいった。『もしはなから、女に勝手な真似をさせないで、うんと腹にしみるように懲らしめておいたら、女房もひきつづき無事に暮らしていたろうに、はじめから気ままをさせちゃいけない。野良の馬と家の中の女房に心を許すなでな。』

 このとき車掌がやって来て、次の停車場の切符を請求した。老人は自分の切符を渡した。

『さよう、女というものは、手遅れにならんうちに懲らしめておかんと、すっかり滅茶々々になってしまいますて。』

『そうですね、しかしあなたは先ほど自分で、妻のある男がクナヴィンの市場で大騒ぎした話をなすったが、あれは一体どういうんです?』とわたしは我慢しきれないで問いかけた。

『それはまた話が別でさあ。』といって、老人は黙り込んでしまった。

 汽笛の音が響きわたったとき、商人は腰掛の下から袋を取り出し、外套の前を掻き合せた後、ちょっと帽子をもちあげて、車掌台の方へ出て行った。



 老人が出て行くが早いか、幾たりかの人が一どきに話しはじめた。

『旧式な親爺さんですなあ。』と手代はいった。

『まるで家長専制の権化ですわ。』と婦人はいった。『なんて野蛮な婦人観、結婚観でしょう!』

『いや、全くわれ〳〵ロシヤ人は欧州人の結婚観に遠く及ばないですよ。』と弁護士が嘆じた。

『ああいう人たちに分らない、しかもいちばん肝腎なことは、』と婦人がつづけた。『ほかでもありません、愛のない結婚は結婚でないということです。ただ愛ばかりが結婚を神聖にするので、愛に聖化された結婚のみが、はじめて真の結婚といえるのです。』

 手代は、この賢い人たちの会話を出来るだけ沢山おぼえておいて、あとあと自分でも使ってやろうという肚で、にや〳〵笑いながら聴いていた。

 婦人の話の最中に、わたしのうしろで、引きちぎったような笑声か、それとも啜り泣きとも思われるような声がしたので、一同うしろを振り返って見ると、そこには、例の眼をぎら〳〵輝かしている、胡麻塩頭をした一人旅の紳士が控えていた。彼はこの会話に興味を感じたらしく、いつの間にかわたしたちの方へ寄って来たのである。彼は腰掛の背に両手を載せて、一方ならず興奮しているさまであった。その顔は赧らみ、片頬の筋がひく〳〵引っ吊っていた。

『それは一体どういう愛なんですか?‥‥結婚を聖化する愛というのは?』と彼は吃りながら訊ねた。

 相手の興奮している様子を見てとったので、婦人は出来るだけもの柔かに、噛んで含めるように返事した。

『真の愛ですの‥‥その愛が男と女の間にあったら、結婚も可能になるわけですの。』と婦人はいった。

『そう、しかし真の愛という言葉を、どう解釈したらいいのでしょう?』と眼つきの鋭い紳士は、まずい愛想笑いを浮べながら、臆病そうに問い返した。

『愛がどんなものかってことは、誰でも知っていますわ。』もうこの人との話は切り上げたいらしい様子で、婦人は答えた。

『でも、わたしは知らないんです。』と紳士はいった。『あなたのお言葉が何を意味するか、まずそれを決めてかからなけりゃなりません‥‥』

『なんですって? そりゃごく簡単ですわ。』と婦人はいったが、それでもちょっと考え込んで、『愛とは、一人の男なり女なりを、大勢の中から選択して、そのほかのものを絶対に顧みないことです。』と彼女はいった。

『その選択は、どのくらいつづいたらいいのでしょう? 一月ですか? 二時間ですか、それとも半時間ですか?』と胡麻塩の紳士はいって、笑いだした。

『いいえ、失礼ですが、あなたはどうやら、見当ちがいなことをいってらっしゃるようですわ。』

『いや、わたしはあなたと同じことをいってるんです。』

『この方のいわれるのは、』弁護士は婦人を指さしながら割り込んだ。『第一に、結婚は愛着から(もしなんなら愛といっても構いません)生れなければなりません。もしこの愛着が現に存在するならば、その時はじめて、結婚は一種神聖なものとなるのです。で、こういう自然な愛着心(もしなんなら愛といってもいいです)に基礎を置いてない結婚は、なんら精神的、義務的分子を含んでいない、とこうおっしゃるのです。わたしの解釈は間違っていませんか?』と彼は婦人の方へ振り向いた。

 婦人は軽くうなずいて、今の自分の思想の釈明を是認する心を示した。

『次に‥‥』と弁護士は言葉をつづけようとした。神経質な紳士は、早くもその双眼を火のように燃やしながら、やっとのことで虫を抑えつけている様子であったが、とうとう弁護士に皆までいわせず口をきった。

『いや、わたしのいうのもそれと同じことです。つまり、一人の女を大勢の中から選択して、そのほかを顧みないことです。けれど、その選択はどのくらいつづくべきものか、それをお訊ねしているのです。』

『どのくらいつづくかですって? それは永い間ですわ、時によると一生涯つづきます。』と婦人は肩をすくめながら答えた。

『しかし、それはただ小説の中だけで、実人生には決して存在しません。人生では、この一人のために他を顧みないということが、珍しい分で一二年、まあ大抵は二三箇月しかつづかないです。時とすると、二三週間か、二三日、どうかすると、二三時間しかつづかないことがあります。』見受けたところ、彼は自分の意見が一同を驚かすのを承知して、それに満足しているらしかった。

『ああ! あなた何をおっしゃるのです? いや、いけません‥‥失礼ですが、違います‥‥』とわたしたち三人は声を揃えていいだした。手代でさえも何か不賛成らしい響を発した。

『ええ、分っています。』と胡麻塩の紳士は、わたしたちの声を圧倒しながら叫んだ。『あなたは存在しているように見なされていることをいっておられるのですが、わたしは実際存在していることをいってるんです。どんな男でも美しい女を見る度に、あなた方のいわゆる愛を感じていますよ。』

『まあ、恐ろしい、あなたは何をおっしゃるんです。だって、全く人間の間には愛と呼ばれる感情があって、それが二三箇月や二三年でなく、一生つづいているじゃありませんか?』

『ありません、ありませんとも。もし仮りに男が一生涯、一人の女に愛着を感じるとしても、女は、まあ、大抵ほかの男に愛着を感じるでしょうよ。以前もそうだったし、現在もその通りなんです。』といって、彼は巻煙草入を取り出し吸い始めた。

『しかし、相互に愛し合う場合もあり得ます。』と弁護士はいった。

『ありません、あり得ないです。』と彼は反駁した。『豌豆を積んだ車の中で、目じるしをつけておいた二つの豆粒が、一緒に並んでいるということが、あり得ないと同じ理窟です。それにこの場合、単にありそうなことというだけにとどまらない、最も正確なのは飽満ということです。一生涯ただ一人の女を愛するなんていうことは、一本の蝋燭が生涯、燃えるというのに同じです。』貪るように煙草を吸い込みながら彼はこういった。

『けれど、あなたは肉の愛ばかり論じていらっしゃいますが、一体あなたは理想の一致とか、精神的近似とかいうものを基礎とした愛を、お認めになりませんか?』と婦人はいった。

『精神的近似ですって! 理想の一致ですって?』と、例の持ち前の妙な音を出しながら、彼は繰り返した。『しかし、そうとすれば、何も一緒に寝なければならんという必要がないじゃありませんか(どうか無作法なものいいを許して下さい)。そうすると、つまり、理想の一致のために、人は一緒に寝るということになります。』といって、彼は神経的に笑いだした。

『けれど、失礼ですが、』と弁護士はいった。『事実はあなたの説に反しています。われ〳〵は夫婦関係が存在しているのを見ます。人類ぜんたいが、少くともその大多数が結婚生活を営んで、その永い結婚生活を正しく終えるのも、少からず目撃するじゃありませんか。』

 胡麻塩の紳士はまた笑いだした。

『あなたはさっきまで、結婚は愛を基礎とするとおっしゃりながら、わたしが肉的愛以外の愛の存在に疑をさし挾むと、今度は結婚が存在するという事実によって、愛の存在を証明しようとなさる。いや、現代の結婚は詐欺以外の何ものでもありません!』

『いや、待って下さい。』と弁護士はいった。『わたしはただ結婚が過去においても存在していたし、また今日も存在している、といったまでのことです。』

『存在しています! しかし、なぜ存在しているのでしょう? 結婚が存在してもいたし、また現に存在しているのは、ただ結婚の中に一種神秘的なあるものを認める人たちの間だけです。それは神に対する義務を感じさせる神秘なのです。そういう人たちの間には結婚も存在しています。ところが、われ〳〵の間では、結婚の中に交接以外なにものも認めないで結婚しますから、詐欺でなければ凌辱という結果が生じるのです。それでも、詐欺である間はまだ我慢が出来ます。夫婦はただ人を欺いて、自分たちは一夫一婦の生活をしているように見せかけながら、その実、多妻主義か多夫主義の生活を送っているだけです。それは悪いこととはいい条、でもまだよろしい。ところが、よく世間であるように、夫婦が一生同棲しなければならぬという外面的な義務を背負い、早くも二月目から互に憎み合って、別れたい別れたいと考えながら、それでいて、とにかくその日を暮らしてゆくというに到っては、すでに恐ろしい地獄です。そのために人間はやけ酒を呷ったり、ピストルで額を射ち抜いたり、自分をも相手をも苦しめたり、毒したりするようになるのです。』彼の言葉は次第に早口になって、誰にも言葉を入れる隙を与えず、だん〳〵烈しく熱してくるのであった。一同はなんだか間が悪くなった。

『そう、無論、ずいぶん際どいエピソードも、夫婦生活にはありがちですからね。』無作法に熱してゆく議論を打ち切ろうと思って、弁護士はそういった。

『あなたはどうやら、わたしが何者かお分りになったようですね?』と静かな落ちついたらしい調子で胡麻塩の紳士は訊ねた。

『いや、まだその悦びを有しませんが。』

『なに、大した悦びでもありませんよ。わたしはポズドヌイシェフです──ちょうど今あなたのいわれた際どいエピソードをおこした男です。つまり、自分の女房を殺したというエピソードをね。』すばやくわたしたちを一人々々見廻しながら、彼はいった。

 誰もが咄嗟の間に、なんといっていいか分らず、みんなおし黙っていた。

『いや、どっちでも同じことです。』例の妙な音を発しながら、彼はいった。『ですが、失礼しました! あっ!‥‥いや、もうお邪魔はしますまい。』

『どういたしまして、飛んでもない‥‥』自分でも何が「飛んでもない」のか分らないで、弁護士はこう答えた。

 けれど、ポズドヌイシェフはそれには耳も貸さず、くるりとくびすを転じると、そのまま自分の席へ帰ってしまった。弁護士と婦人とは、ひそ〳〵話を始めた。わたしは、ポズドヌイシェフと並んで坐っていたが、何をいっていいか考えつけないままに、じっと黙り込んでいた。本を読もうにも、暗くて駄目だったので、わたしは目を閉じて、眠いようなふりをした。こうして、次の停車場まで無言のままで通した。

 この停車場で、弁護士と婦人とは別の車へ移った。それは、前から車掌に談判しておいたのである。手代は腰掛の上にうまく陣どって、寝入ってしまった。ポズドヌイシェフは、依然煙草をふかしつづけながら、前の停車場で淹れた茶を飲んでいた。

 わたしが眼を開いて、彼を見やったとき、彼はいきなり断乎とした、いらだたしげな調子でわたしに声をかけた。

『あなたはわたしの本性をお知りになったので、わたしと一緒に坐っているのが不愉快かも知れませんね? それなら、わたしはほかへ行きますが。』

『おお、そんなことはありません。飛んでもない。』

『それじゃ、一ついかがです? 少し濃いですが。』

 彼はわたしに茶を注いでくれた。

『あの男はいろんなことをいっている‥‥しかも、みんな嘘なんです‥‥』と彼はいった。

『それはなんのことですか?』とわたしは訊いた。

『や、例のことです。あの人たちのいう愛だとか、その愛がいかなるものか、というようなことですよ。あなたお眠くはありませんか?』

『一向に眠くないです。』

『では、一つどういうわけでわたしがその愛のお蔭で、ああいう事件をし出かしたか、あなたにお聞かせしましょう。』

『どうぞ、もしあなたに苦痛でなかったら。』

『いや、わたしは黙っているのが苦痛なんです。まあお茶をおあがんなさい‥‥それとも、あまり濃すぎますか?』

 いかにもお茶はビールのようだったが、わたしは一杯飲み干してしまった。ちょうどこのとき車掌が通り過ぎた。彼は毒々しげな眼つきで、それをじっと見送っていた。やがて車掌が出て行ってから、ようやく話を始めた。



『それじゃ、一つお話ししましょう‥‥ですが、あなたは本当に聞きたいのですか?』

 わたしは非常に聞きたいのだと繰り返した。彼はしばらく無言の後、両手で顔をこすって、話しはじめた。

『お話しするとすれば、はじめからすっかりお話ししなきゃなりません。それから、わたしがどうして結婚したか、また結婚以前どういう人間であったか、それもお話しする必要があります。

『結婚前のわたしは、みなとご多分に洩れぬ、つまり、われ〳〵の階級にいるすべての人と同じような生活をしていました。わたしは地主で、学士で、貴族会長でした。結婚前まではすべての人と同じように、つまり放縦に暮らしていました。そして、われ〳〵仲間の誰でもと同じように、放縦な生活をしながら、こういう生活が必要なのだと信じきっていました。わたしは心の中で、おれは愛すべき男だ、道徳的な人間だ、と考えていたものでした。わたしは何も女たらしでもなければ、変態な趣味も持っていず、多くの同年の人たちのように、それをもって人生のおもな目的とするようなこともなく、ただ健康のためとして、自分の地位と体面を傷つけない程度の放縦に身を委ねたのです。ついては、子供を生んだり、心から愛着を感じたりして、わたしを束縛するおそれのある女を避けるようにしました。もっとも、子供も生れ、愛着もあったのかも知れませんが、わたしはそういうものがまるでないように振舞いました。つまり、これをわたしは道徳的行為と思っていたのみならず、それを誇ってさえもいたのです‥‥』

 彼は言葉をやすめて、いつも何か新しい思想が浮んだ時の癖になっているらしい、例の奇妙な音を発した。

『にも拘らず、その中に最もいとうべきことが含まれているのです。』と彼は叫んだ。『実際、放縦なるものは、何も肉的な事柄の中に含まれているわけではありません。いかなる肉的醜行も放縦ではないのです。放縦──真の放縦は、肉体関係を結んだ婦人に対する、道徳的義務を免れようとする点に存するのです。この回避を、わたしは自分で手柄のように思っていました。ある時、わたしは女に金をやるのが遅れて、ひどく苦しんだことがあるのを覚えています。その女はどうやら、わたしに惚れて身を委せたらしいのです。で、わたしはその女に金を送って、自分は精神的に少しもお前と関係がないぞ、ということを匂わしてから、やっとはじめて安心したものです‥‥あなたはそんなに頭を振らないで下さい。まるでわたしと同意見だというように。』だしぬけに彼はわたしに呶鳴りつけた。『ええ、わたしはそういうことは百も承知ですよ。男というものはみな(もし幸いにして、あなたが極めて稀な除外例でなかったら、あなたもやはりそうです)、かつてわたしがいだいていたような見解をいだいているんですよ。が、まあ、どうでもいいや。どうかお赦し下さい。』と彼は語を次いだ。『しかし、問題はそれが恐ろしいということです──恐ろしい。実に恐ろしい!』

『何が恐ろしいのです?』とわたしは訊いた。

『女と女に対する関係について、われ〳〵が陥っている迷妄の深淵です。どうも落ちついてこういう話をすることが出来ません。それは、何もあの人のいったように、わたしの身にあのエピソードがおこったからではなく、つまり、あのエピソードがおこって以来、わたしの眼が開いて、すべてのものを別な光で見るようになったためです。何もかも裏返しです、何もかも裏返しです。』

 彼は巻煙草を吸いつけ、自分の膝の上に肘突きしながら、話しだした。

 わたしは闇の中で、彼の顔を見ることが出来なかったが、その胸に浸み入るような快い声は、汽車の轟音の陰から聞えるのであった。



『さよう、さんざん苦しみ抜いた挙句、やっとそのおかげで、わたしは一切の根源を悟りました。かくあらねばならぬものを悟りました。それ故、わたしは現在あるものの恐ろしさを、充分さとったのです。

『そこで、よろしいですか、わたしはあのエピソードに到達するまでの伏線が、どういう風に、またいつはじまったか、お話ししましょう。それがはじまったのは、ちょうどわたしが数え年の十六になった年です。その頃、わたしはまだ中学校におりますし、兄は大学の一年生でした。わたしはまだ女を知らなかったのですが、しかし、自分の周囲にいるすべての不幸な子供と同じように、もう無垢な少年ではなかったのです。もう一年くらい前から、わたしはよからぬ子供らに堕落させられていました。早くも女がわたしを悩ませはじめました。それは実に誰というのではなく、一種の甘いあるものとしての女、一般に女というものの赤裸々な姿なのです。わたしの独り居は純潔なものではありませんでした。わたしは、今の子供の九十九パーセントまでがしているように、自分で自分をさいなんだのです。わたしは恐れ、苦しみ、祈りながら、やはりだん〳〵堕ちてゆきました。わたしはもう想像においても、実際においても腐敗していたのですが、しかし、最後の一歩はまだ踏み出しませんでした。わたしは一人で身を瀆していましたが、まだ他人には手をかけなかった。

『ところが、その頃、兄の友達に一人の陽気な大学生がいました。それはいわゆる「愛すべき好漢で」──つまり恐ろしいやくざ者で、わたしたちに酒を飲んだり、カルタを弄んだりすることを教えた男ですが、あるとき酒盛りの後で、あすこへ行こうと勧めました。で、わたしたちは出かけたのです。兄もやはりまだ無垢だったのですが、この晩に堕落したのです。わたしも十五やそこいらの小僧子の癖に、自分で、自分のすることが少しも分らないで、自分で自分を瀆し、また一人の女を瀆す加勢をしたのです。ところで、わたしのしたようなことが悪い行いだという話は、年長者の誰からも聞いた覚えがありません。また今日でも所詮聞かれないでしょう。もっとも、それは十戒の中にもありますが、しかし十戒なるものは、試験で神父に答えるために必要なだけで、それもラテン語の仮定文章に ut を使うというおきてほど、やかましい必要は決してないのです。

『で、わたしは常日頃、その意見を尊重している年長者から、それが悪事だという言葉をまるで聞いたことがありませんでした。それどころか、わたしは自分の尊敬している人たちから、いいことだという意見を聞いたのです。わたしは一度それをやれば、煩悶や内部争闘が静まるという説を聞きました。聞きもし読みもしました。また、それは健康のためになるという話も、年長者たちから聞かされました。友達にいたっては、それは一種の勲功てがらである、男らしい立派な行為であるという。こういったわけで、いいことよりほか何一つ発見できなかったのです。病気伝染のおそれですか? それもちゃんと予防法が講じられています。親切な政府はその点を心配して、妓楼の正しい営業法を監督し、中学生たちの淫佚を保護してくれます。それに、医者たちも給料を貰って、それを監視しています。当然な話で、彼らは淫蕩も時として健康のために有益である、と主張しています。つまり、医者たちこそが規則ただしい淫蕩を樹立しているのです。現にわたしは、こういう意味で息子たちの健康を心配している母親たちを、親しく知っています。そして、科学も彼らを娼家へ差し向けている有様なのです。』

『なぜ科学が?』とわたしは反問した。

『じゃ、医者はぜんたい何者です? 科学の司僧じゃありませんか。ところで、健康に必要だといって、青年を堕落させているのは誰ですか? ほかならぬ彼らなのです。

『もし梅毒の治療に費されている努力の百分の一でも、淫蕩の根絶に費されたなら、梅毒などはとうに名前さえ忘れられてしまったでしょう。ところが、実際はこれらの努力が、淫佚の撲滅に向けられずに、かえってその奨励──つまり、淫佚の安全を保証する方面に注がれている。が、しかしそれは問題じゃありません。問題はどこにあるかといえば、単にわれ〳〵の階級ばかりでなく、各階級を通じて(農民階級をも含むのです)、十人のうち九人までが、わたしと同じような恐ろしいことを経験するという事実です。つまり、ある特定の婦人の美が持っている自然な誘惑に捉えられて堕落したのでないという事実です。どうして、女などは少しもわたしを誘惑しはしなかった。ただ単に周囲の社会が、この堕落であるところの事実を目して、あるいは極めて正当な、健康上有益な行為であるとし、またあるものは単に恕し得るのみか、きわめて自然で無邪気な青年の娯楽であると見なす──そういう状況のために、わたしは堕落したのです。

『わたしも、それを堕落だなどとは思いませんでした。わたしはただ単純に半ば快楽であり、半ば必然の要求である淫蕩に身を委ねはじめました(そうです、これは一定の年齢に必ず生じて来る要求であると、多くの人から聞かされていました)。それはちょうどわたしが酒を飲んだり、煙草を吸ったりしはじめたのと、同じような心もちでした。が、それでもこの最初の堕落の中には、何か特別な感動を誘うものがありました。今でも覚えていますか、わたしはすぐその場で、部屋も出て行かないうちに、悲しい気もちがして、泣き出したいほどでした。それは自分の失われたる童貞や、永久に亡ぼされた対女性関係を思う哀惜の情なのです。

『さよう、女に対する自然で率直な関係は、永久に滅ぼされてしまいました。婦人に対する純真な態度はそれ以来なくなったのです。またあるべき筈がない。わたしは普通に遊蕩児と呼ばれているものになってしまいました。遊蕩児になるということは、アヘン常用者や、酒飲みや、煙草すいの状態に似た、一種の生理状態を意味するのです。アヘン常用者や、酒飲みや、煙草すいが、もうノーマルな人間でないと同様に、自分の快楽のために一人以上の女を知った男は、すでにノーマルな人間でなく、永久にそこなわれた人間、すなわち遊蕩児なのです。アヘン常用者や酒飲みが、顔つきや身ぶりですぐ見分けられるように、遊蕩児もすぐ見分けがつきます。遊蕩児は節制することも、闘うことも出来ますが、しかし単純で、明快で、清浄で、兄妹のような対女性関係は決してありえない。若い女を眺めたり見廻したりする眼つきによって、たちまち遊蕩児を見分けることが出来ます。で、わたしも遊蕩児となり、そのままずっと進んでいったのです。これこそわたしを破滅させた原因なのでした。



『ええ、そうです。それからだん〳〵と深みへはまって行き、ありとあらゆる醜行をし尽しました。ああ! この方面における自分の忌わしい行為の数々を思い出すと、ぞっとしてしまいます! わたしがいわゆる童貞であったために、友達からさんざん冷かされていた時分のことを、今さらたまらないほど懐しく思い出しますよ。模範的な青年とか、将校とか、パリ育ちの若紳士とか、そういう連中の話を聞くと、じつにたまらなくなります! こういう連中にしても、わたしにしても、三十という男盛りの淫乱ものが、女について種々様々な恐ろしい犯罪を、幾百となく背負っていながら、しかも綺麗に磨き上げて、鬚を剃り、香水をぷん〳〵匂わせ、さっぱりしたシャツを着込み、燕尾服か軍服をつけて、客間や舞踏会へ入って行くところは、じつに純潔の権化です──素敵です!

『まあ一つ、あるべきことと現在あることを比較してみて下さい。あるべきことと云うのは、別じゃありません。もし社交界でこうした紳士が、わたしの妹か娘のそばへ寄って来たら、当人の生活を知っているわたしは、必ずそのそばへ行って、彼を片隅へ呼んだ上、小さい声でこういうのが当然なのです。「君、僕は君がどういう生活を送っているかも、また誰とどんな風に夜を過しているかも、みんな承知している。ここは君の来るべき場所ではない。ここは純潔無垢な少女がいるところだから、帰りたまえ!」これが当然あるべき筈のことなのです。ところが、実際にあることはこうなのです。そういう紳士がやって来て、わたしの妹か娘を抱きながらダンスでもすると、もしその人が金持で立派な縁戚でもあろうものなら、わたしたちはその男がいろんな淫売婦どもの後で、家の娘にもお手をかけて下さるかも知れない、とこう思って大恐悦なんです。たとえ病気の痕跡が残っていたってかまうものか──この頃では中々治療法が巧くなったから、といった調子なのです。ええ、勿論です、現にわたしも知っていますが、上流社会の令嬢が両親のために、ご承知の病気をわずらっている男のところへ、大悦びで縁づかされた例が幾つもあります。おお! おお、なんという忌わしいことでしょう! こうした陋劣と虚偽が暴露される時が、いつか来ないでは済むものか!』

 彼は幾度か例の奇妙な響を立て、茶に手をかけた。茶は恐ろしく濃かったけれど、それを薄めようにも湯がなかった。わたしは自分の飲み干した二杯の茶で、殊に興奮させられたような心もちがした。恐らく彼も茶が利いたのであろう。次第々々に興奮の度を増して、その声はだん〳〵と音楽的に表情が強くなっていった。絶間なくポーズを変えて、帽子を脱いだり被ったりし、その顔はわたしたちを包む薄闇の中で、奇妙に変ってゆくのであった。

『まあ、こういう風で、わたしは三十の年まで暮らしましたが、その間も早く結婚して高潔清浄な家庭生活を営もう、という意志を、片時も忘れたことはありませんでした。この目的をもってわたしは、この目的にふさわしい娘を物色したものです。』と彼は語りつづけた。『わたしは放蕩のけがれの中に蠢動しゅんどうしながら、それと同時に、己れに価するくらい純潔な娘を物色したのですからねえ。

『わたしは大勢の娘を撥ねつけました。それはなんのせいでもない、ただその娘たちの純潔さが、わたしに取って不足だったからです。そのうちにやっとわたしは、自分にとって恥かしくないだけの女を見つけました。それはかつて非常に裕福であったけれど、今ではすっかり財政難に陥っているペンザ県の地主を親に持つ、二人娘の一人だったのです。

『ある晩、わたしたちは小舟に乗って、舟遊びに出かけました。そして、夜になって、月の光に照らされながら帰って来ましたが、わたしは彼女と並んで坐り、そのすらりとした姿や、きっちり身に合った短い上衣や、房々と垂れた髪の毛などに見とれているうち、突然これがそうだと決めてしまいました。わたしはこの晩、自分の感じたり考えたりすることを、彼女が残りなく了解してくれるような気がしました。そして、わたしの感じたり考えたりすることが、きわめて高尚なことのように思われたのです。ところが本当は、ただきっちり緊った上衣や髪の結い方が、殊に彼女に似合っていたために、わたしは彼女と一緒にたった一日すごした後で、もう一歩ふかく接近したいという欲望を感じたに過ぎません。

『時おり、美は善であるというイリュージョンが、完全に人の心を領することがあります。なんという驚くべきことでしょう。美しい女が馬鹿なことをいっても、それが馬鹿なことには聞えず、賢いことみたいに思われるものです。美しい女が下劣なことをいったりしても、何か愛嬌のあることのような気がします。ところで、その女が馬鹿なことも下劣なことも喋らないけれど、しかしそれが美人であったら、われ〳〵は途端に譬えようもない賢女で、貞女だと思い込んでしまうのです。

『わたしは有頂天になって家へ帰ると、あの娘は道徳的完成の極致である、従って、おれの妻たる資格があると決めてしまい、翌日さっそく結婚を申し込みました。

『全くなんという思想の混乱でしょう! 単にわれ〳〵の社会ばかりでなく、不幸にして農民の間でも、結婚前に十度くらい、甚だしきはドン・ジュアンのように百度も千度も結婚しない男は、ほとんど千人に一人もないという有様です。

『もっとも、今では若い人たちの中で、童貞というものは笑いごとでなく、偉大なことだと感じもし、悟りもしている純潔な人があるようです。それは話には聞きますし、実際わたしの眼にも見当ります。

『神よ、なにとぞ彼らを護りたまえ! しかし、わたしたちの時代には、そういうのは万人に一人もありませんでした。彼らはみんなそれを知っている癖に、知らないふりをしているのです。小説には主人公の感情や、彼の逍遙する池や灌木の眺めが、詳しく描写してあります。ところが、ある少女にたいする彼の愛を描きながら、この興味ある主人公が以前いかなる行為をしたか、ということはまるで書いてありません。彼が女郎屋を訪問したこと、小間使や女中や人妻に関係したことなどは、一言半句もいってないのです。たとえそんなぶしつけな小説があったとしても、そういうことを誰より一番に知っておかなければならぬ人、すなわち若い娘の手に触れさせないのです。

『はじめのうちは娘に対して、町々村々の生活の半ばを充たしている淫佚が、ぜん〳〵存在していないようなふりをして見せます。

『それから、われ〳〵は漸次この仮面に馴れて来て、しまいにはあのイギリスのように、われ〳〵は道徳的な人間で、道徳的な世界に住んでいるのだと、自分から本当に信じるようになります。不幸な娘たちは、全く真面目にそれを信じているのです。不仕合せなわたしの妻もそれを信じました。今でも覚えていますが、あるとき許婚時代に、わたしは彼女に日記を見せました。それを見ると、わたしの過去がほんの少しばかりでも分るのでした。殊に、最近にあった恋愛関係がはっきり分りました。第三者の口から彼女に知らされるおそれがあったので、わたしは是非なく妻に話さなければならぬと思ったのです。彼女がはじめてそれを知り、事情を悟ったときの恐怖と、絶望と、失神を、今でもよく覚えています。わたしはその時、彼女がわたしを棄てようと思ったのを看て取りました。ああ、どうして彼女はわたしを棄ててくれなかったのでしょう!‥‥』

 彼は例の奇妙な音をたて、また茶を一口ぐっと飲んで、しばらく口をつぐんだのであった。



『いや、しかしその方がいいのです、その方がいいのです!』と彼は叫んだ。『それがわたしの受ける当然の酬いです! しかし、そんなことが問題じゃありません。わたしがいおうと思ったのは、こういう場合、欺かれているのは、ただ不幸な娘たちばかりだということです。

『母親にいたっては、そんなことはよく承知しています。殊に、自分の夫に教育された母親は、百も承知しているのです。男の純潔を信ずるようなふりをしながら、実際はまるで違ったことをしているのだ。彼らは自分や娘のために男を釣るには、どんな鈎を使ったらいいか、ということもよく心得ていますからね。

『われ〳〵男ばかりはそれを知りません。つまり、知ろうと思わないから知らないのです。ところが、女の方は違います。われ〳〵のいわゆる高尚な詩的恋愛も、精神的の美点を基礎としないで、肉体上の接近とか、または髪の結いぶりとか、着物の色合や裁ち方や、そういうものに左右されることを承知しています。試みに、男を囚にすることを畢生の目的としている弄媚女コケットに、こう訊いてご覧なさい──自分の誘惑しようとしている男の前で、自分の虚偽とか、残酷とか、または一歩すすんで放縦をあばかれるのと、それから仕立のまずい醜い着物をきてその男の前へ出るのと、二つのうちどちらを選ぶか? とこう訊かれたら、誰でも第一の方を取るに決まっています。彼女は、われ〳〵が高尚な感情なぞといっているのは、みんなでたらめで、実際はただ肉体のみが必要なのだ、だからあらゆる陋劣な行いは赦しても、服装上の醜い没趣味な mauvais ton(悪趣
)は赦してくれない、ということを呑み込んでいるのです。

『コケットはそれを意識的に知っていますが、無垢な少女は無意識的に知っているのです──ちょうど動物がそれを知っているのと同じように。

『こういう理由から、あの忌わしいジャーシイを着たり、トゥルニュール(着物を脹らますため
に用いる糊づけの布
)を使ったり、肩や手や胸まで剥き出しにするのです。女──わけても男子学校を卒業した女は、高尚な事物に関する色々な話が単なる話にとどまって、じっさい男に必要なのは肉体と、その肉体を極めて不正直な、とはいえ美しい光に照らし出して見せるすべてのものだ、ということを充分心得ています。で、それが実地に行われるのです。もしわれ〳〵にとって第二の天性となっているこの醜悪にたいする習慣性を抛って、破廉恥にみちた上流社会の生活をありのままに眺めたならば、それは全く一つの大きな淫売宿です‥‥あなたは不同意ですか? じゃ、一つわたしがそれを証明しましょう。』と彼はわたしを遮りながらいった。『われ〳〵の社会にいる婦人は、淫売宿の女どもよりも別な興味によって生きてる、とこうおっしゃるんですね。ところが、わたしはそうでないというのです。一つそれを証明しましょう。もし人間が生活の目的や、内容の点からいってちがっているとすれば、その相違は外面にも影響して、外面もちがって来なければなりません、しかし、まあ、人から軽蔑されているあの不幸な女たちと、最上流の貴婦人と見較べてご覧なさい。どっちもおなじ服装、おなじ裁ち方、おなじ香水、おなじように剥き出しにした腕、肩、胸、おなじように突き出したトゥルニュール、同じような宝石やぴか〳〵した高価なものに対する烈しい愛着、おなじような娯楽、ダンス、音楽、唱歌‥‥向うがあらゆる方法を尽して男を誘惑しようとすれば、こっちもやはり同じことをしているのです。



『そうです、こういう風でわたしもこのジャーシーや、垂らした髪や、トゥルニュールに釣られたのです。

『が、わたしを釣るのは造作もないことでした。なぜなら、わたしはまるで温室の中の胡瓜みたいに、無理にも恋する若い男を作り上げるような境遇に成長したのですからね。じっさい、われ〳〵が肉体的にぜん〳〵無為な生活をしながら、刺激性の食物を過度に摂取しているのは、組織的な性欲挑発でなくてなんでしょう。あなたがびっくりなさろうとなさるまいと、事実はその通りなのです。全くわたしもつい近頃までそれに気がつかなかったのですが、今こそ分りました。それだから、誰一人これに気がつかないで、そら、さっきの奥さんのような馬鹿げたことをいってるのが、わたしにとっては苦しくてたまらないです。

『さよう、ある年の春、わたしの領地の付近で、百姓たちが鉄道線路の土手で仕事をしましたが、若い農民の普通の食物は、パンとクワス(ライ麦より製したロシ
ヤ独特の弱酒精飲料
)と玉葱ですが、それでも元気で達者に生きています。そして、軽い野良仕事をやるのです。ところが、鉄道工事へ出かけると、その食料もカーシャと肉一斤となります。その代り三十プード(一プード
は約四貫
)の手車を曳いて、十六時間の労働でこの肉を消化する。それが彼らにちょうどいいのです。ね、ところが、われ〳〵は、毎日二斤ずつの肉や、鳥や、魚や、その他あらゆる興奮性の食物をたべていますが、一体これがどこへ行くのでしょう? みんな肉欲の過剰になるのです。もしその方面へいってしまえば、つまり、この有難い安全弁が開かれていれば、すべては泰平無事なのです。ところが、一時わたしのやったようにその安全弁を閉じると、すぐに興奮が始まります。それは、われ〳〵の人工的生活のプリズムを通して飛び切り清浄な恋──時としてプラトニック・ラブと云ったような形式をとって現われてきます。で、わたしもすべての人と同じように恋をしたのです。

『しかも、すべての条件は眼の前に揃っていました──歓喜も、感激も、詩趣も‥‥ところが本当のところわたしの恋は、一方、母夫人と仕立屋の活動の所産であり、いま一方からいうと、わたしがのらくらしながら、過剰な食物を摂取した結果にほかならぬのであります。もし一方においてボート遊びや、腰をぎゅう〳〵締め上げた服を作る仕立屋がなく、妻が無恰好な上衣カボートを着て、じっと家に坐っており、いま一方わたしがノーマルな状況で生活し、労働に必要なだけの食物を摂取して、そのうえ、例の卓効ある安全弁が開かれていたならば(ちょうどその時どういうわけか、たまたまこの安全弁が閉っていたのです)、わたしは恋に陥ることもなく、ああいうことも一切おこらなくて済んだのでしょう。



『ところが、そういったわけで、ちょうどわたしの身心の状態もお誂え向きでしたし、妻の着物もよく似合うし、舟遊びも成功したのです。それまで二十度くらい失敗したものが、今度は成功しました。まあ、いわば係蹄わなのようなものです。わたしは冗談をいってるんじゃありません。じっさい、今でも結婚は、まるで係蹄にでも掛けるようにして成立するんですからね。一体自然の順序はどんな風でしょう? 娘が一人前になったから嫁にやらなければならない。もし娘が醜婦でなかったら、結婚を望んでいる男は大勢いるんだから、なんの造作もなさそうです。昔はその通りにやっていたものです。また全人類の間でそういう風にやっていましたし、現にやってもいるのです。シナ人、回教徒、それからロシヤの農民、少くとも人類の九十九パーセントまではそうやっているのです。ただ百分の一か、あるいはそれよりももっと少数のわれ〳〵堕落した分子が、それではいかんというので、新しい方法を考え出しました。ところで、その新しい方法なるものはなんでしょう。ほかでもありません。娘がじっと坐っていると、男たちがまるで市場へでも行くようにやって来て、選択するのです。すると、娘はおとなしく待ちながら心の中で、「ねえ、あなた、わたしにして下さいな! いいえ、わたしよ! あの女でなくてわたしを取って頂戴。ほら、わたしの肩はこんなに美しいわよ。」と思っているけれど、口に出していう元気がない。ところが、男は歩き廻って見物しながら、大得意なのです。「ちゃんと承知してるよ、そううか〳〵ひっかかるものか」といったような心もちでね。そして、歩き廻って見物しながら、これはみんな自分のために催されたことだと思って、頗る得意でいる。そのうち、ついうっかりして──ぱったりかかってしまう、という段どりです!』

『じゃ、どうしたらいいのです?』とわたしはいった。『一体女の方から申し込みでもするのですか?』

『いや、わたしもどうしていいか分りません。ただ、しかし、平等をとなえるくらいなら、本当の平等でなくちゃなりません。もし仲人など入れるのが卑屈だというなら、これはそれより千層倍も卑屈です。前の場合では、権利も機会も平等ですが、こっちの方になると、女はまるで市場の奴隷か、さもなくば係蹄につけたおとりです。もし試みに、どこかの母親か娘に向って、お前さんたちはただ男を釣ることばかり仕事にしているといって、真相をすっぱ抜いてごらんなさい、それこそ大変、どんなに腹をたてるか知れたものじゃない。ところが、彼らは真実そればかりやっているのです、ほかに仕事はありゃしません。時とすると、まるで若い、可哀そうな、罪のない少女が、それを一生懸命にやっているのを見ると、全く空恐ろしくなってきます。それも公然とやるのならまだしも、相変らずすべてが詐欺なんですからね。「ああ『種の起原』、なんて面白い本でしょうね! ああ、リリーはたいへん絵が好きなのでございますよ! あなた展覧会にいらっしゃいますか? 全くためになりますわね? 時に三頭立馬車トロイカのドライブは? お芝居は? シンフォニイは? ああ、なんて立派なことでしょう! うちのリリーは音楽に夢中なのでございますよ。どうしてあなたはそれに賛成して下さらないんですの? ああ舟遊びは!‥‥」こういう言葉の意味は、要するに一つなのです。「さあ、わたしを選んで頂戴、わたしを、うちのリリーを! いいえ、わたしを! まあちょっとためすだけでも!‥‥」おお、なんて忌わしいことでしょう! なんという虚偽でしょう!』と彼は言葉を結んだ。そして、最後の茶をぐっと飲み干すと、茶碗や急須を片づけにかかった。



『ねえ、あなた、』茶と砂糖を袋の中へしまいながら、彼はまたいいだした。『いま世界じゅうのものが苦しんでいる婦人の専制は、すべてこれから起ったのです。』

『婦人の専制って?』とわたしはいった。『すべての権利も優越も、男子側にあるじゃありませんか。』

『そう、そう、それなんですよ。』と彼はわたしを遮った。『わたしもちょうどそのことをあなたにいおうと思ったのです。その事実こそ、女が一方では屈辱のどん底まで落されながら、いま一方では専制を逞ましゅうするという、異常な現象を闡明してくれるのです。ユダヤ人が金権によって、自分の受けた迫害に酬いようとする、ちょうどそれと同じことを女もやっているのです。「ああ、お前さん方はわれ〳〵を商人以外のものにしたくないのですね? よろしい、こちとらは商人としてお前さん方を支配してやりましょう。」とこうユダヤ人はいいます。「ああ、あなた方はわたしたちをただ肉欲の対象のみにしようと思ってらっしゃるんですね? よろしい、わたしたちは肉欲の対象として、あなた方を奴隷にしてあげましょう。」とこう女はいうのです。

『婦人が権利を剥奪されているというのは、選挙権を持たないとか、陪審判事になれぬとかいうことじゃない(そんなことに携わるのは、決して権利じゃありません)。つまり、性的関係において男子と対等でないということなのです。自分の希望によって男を利用したり、男を拒絶したり、自分が男を選択して被選択者の位置に立たない、というような権利を所有しないことなのです。あなたは、そんなことを考えるのは醜悪だとおっしゃるんですか? よろしい! それでは男にもそんな権利を所有させないようにしなきゃなりません。ところが、今日、婦人は男の所有しているこの権利を剥奪されています。で、この権利に対する代償として、女は男の肉感に働きかけ、その肉感を通して男を征服し、結局、表面的には男が選択するように見えるけれど、そのじつ女が選択するようにしてしまうのです。一度この方法を会得すると、それを濫用して、人々にたいして恐ろしい権力を獲得するのです。』

『しかし、その特殊な権力はどこにあるのでしょう?』とわたしが訊いた。

『どこにその権力があるかって? いたるところにあります。あらゆるものの中にあります。一つどこでもいいから、大きな町の商店めぐりをやってご覧なさい。そこには幾百金にも価するような品物が並んでいます──いや、そこにどれだけ人間の労力が費されているか、到底評価することは出来ません。さて、ところで、考えてご覧なさい、こういう商店の九分通りまで、男の使う品物はほとんど何一つ売っていません。人間生活の贅沢品はすべて女が需要し、女が維持しているのです。

『まあ、すべての工場を数えてご覧なさい。その大多数は役にも立たぬ装飾品や、馬車や、家具や、女の玩具を製造しているのです。幾百万の人間、数代にわたる哀れな奴隷は、ただ〳〵女の欲望のためのみに、こうした懲役みたいな工場労働で、身を亡ぼしているのです。女はさながら女王のように、全人類の九分どおりまでを捕虜にして、烈しい労働を強い、奴隷状態に置いているのです。それもみんな婦人が屈辱を受け、男子と同等の権利を剥奪されたがために起ったことなのです。で、女はわれ〳〵の肉感に働きかけ、われ〳〵をその網の中へ捕えることによって、復讐をしているのです。ええ、みんなそのためです。

『女は自分で自分を、男の肉感に働きかける恐ろしい武器と変じてしまったので、男は落ちついて冷静に女に対することが出来ない。男は女の傍へ近寄るや否や、忽ちその妖気に撃たれて、ぼうっとしてしまうのです。わたしは以前でも、舞踏服を着て飾りたてた貴婦人を見ると、いつも間の悪いような、息のつまるような気がしましたが、今ではなんのことはない、恐ろしいです。まるで他人にとって危険な、法律に反したものでも見るような気がして、大きな声で巡査を呼び、危険に対する保護を求めたくなるのです。こんな危険物を取りかたづけてくれと要求したくなるのです。

『ああ、あなたは笑ってらっしゃるんですね!』と彼はわたしに呶鳴りつけた。『これは決して冗談じゃありません。わたしは世間の人がこれを悟る時が来る、しかも存外早く来るということを確信しています。その時には、社会生活の安静を破る行為、すなわち肉感を挑発するような肉体装飾の許されている社会が、どうして存在し得たろうかと、驚くに相違ありません(今のわれ〳〵の社会では、それが女性に許されているんですからね)。全くこれは公園や往来に、ありとあらゆる係蹄をかけて置くのと同じことです──いや、それよりもっと悪いです! どうして賭博は禁止されているのに、女が肉感を挑発するような服装が禁止されないのでしょう? その方が幾千倍も危険です!


一〇


『まあそういったような訳で、わたしも俘になったのです。世間でいう「恋におちた」のです。わたしは彼女を完成の極致だと想像していたのみならず、この婚約時代には、自分自身をもやはり完成の極致であると信じていました。じっさいどんなやくざ者でも、捜して見れば、何かの点で自分より劣ったやくざものを発見し、得意になったり自惚れたりする理由を、考え出せるものですからね。わたしがそうだったのです。わたしは金と結婚したのではありません。金銭の欲は少しも交っていませんでした。つまり、知人の多くが金や、ひきを目当てに結婚したのとはわけが違います──わたしは金持で、妻は貧乏だったのです。それが一つ、それからいま一つわたしが誇りとしたのは、ほかの者はこれから先も結婚前と同様、依然たる多妻生活をつづけるつもりで結婚したものですが、わたしは結婚したら一夫一婦主義を守ろうという、固い決心をいだいていました。そのためわたしの得意さは、方図が知れないくらいでした。そうです、わたしは恐ろしい豚みたいな人間でありながら、我こそは天使であると思い込んでいたのです。

『婚約時代はほんの僅かな間でしたが、この時分のことを思い出すと、今でも羞恥を感じずにいられません! 何たる忌わしいことでしょう! いかにも二人の愛は精神的なもので、肉的なものではないと解釈されていましたが、もし本当に精神的の愛、精神的の融合であるとしたら、この精神的融合は言葉や、会話で表現されるべきはずなのです。ところが、そんなことは些かもない。よくわたしたちが二人きりになると、話をするに恐ろしく骨が折れるのです。それはまあ一種のシジフス(神の秘密を人間に伝えたため、地獄で
巨岩を山上へ押し上ぐべく命ぜられる
)の労働でした。何か話題を考えついても、それをいってしまうと、また黙り込んで、新しく考え出さなければならない。まるで話すことがなかったのです。わたしたちを待ち設けている結婚後の生活や、さま〴〵な設備や計画や、そういうものについて話し得べきことは、もはや話してしまって、その後はもう何をいっていいか分らない始末です。もしわたしたちが獣であったら、もうお互に話などする必要のないことを、ちゃんとわきまえていたでしょうが、しかしわたしたちは話をしなければならないのに、しかも話の種がないのです。なぜといって、話では解決することの出来ないものが、身心を領していたからであります。その上、おまけに菓子を食べたり、ご馳走を腹いっぱいつめ込んだりする見苦しい習慣、さま〴〵な忌わしい結婚の支度、それから住居、寝室、寝床、婦人上衣カボート、ガウン、下着や化粧などの品定め‥‥

『まあ、考えてもご覧なさい、もしあの老人がいったように、古い家長制度にのっとって結婚するならば、羽根布団も、持参金も、寝床もみんな結婚という神秘に相当する枝葉末節に過ぎません。ところが、われ〳〵の社会では、結婚する人の十中の九までが、神秘などということを信じないばかりでなく、自分らの行っていることが一種の義務行為である、ということを信じていないのです。そして、結婚前に実践上の結婚をしていない男は、百人の中にやっと一人あるかなしで、おまけに結婚後も何かいい折があれば、妻に背こうと思っていない男も、五十人の中に一人あるかなしという有様です。また教会へ行くことは、単に女を領有する特殊な一条件のように見なしている──こういう社会にあっては、今いったような枝葉末節が、恐るべき意味を生じてくるのです。つまり、要点はただこれのみにあり、ということになるのです。換言すれば、一種の売買ということになってきます。人々は放蕩者に無垢の少女を売り渡して、その売買を一定の形式で誤魔化しているのです。


一一


『みんなこういう風に結婚するのです。わたしもご同様そういう風に結婚しました。そうして、例のやかましい蜜月がはじまりました。こいつたるや、ただ名前だけ聞いても、なんという下劣な名前でしょう!』と彼は毒々しく叱咜した。『わたしは一度パリで見世物の小屋を、片っぱしから見て廻ったことがありますが、あるとき看板につられて、鬚の生えた女と海犬というのを見ました。入って見ると、それは化粧した男が女の着物をきているまでの話だし、犬は海象セイウチの皮を被せられて、水を入れた湯槽の中を泳いでいるのです。いやはや、つまらないものでした。ところがわたしが外へ出ると、見世物師が恭しく見送って出て、出口のところで、群衆に向ってわたしを指さしながら、「見る値うちがあるかないか、まあ、一つこの旦那に訊いてごらん。さあ、いらっしゃい、いらっしゃい、お一人前一フラン!」というのです。わたしは、見る値うちなんかないというのが極りが悪かったですが、恐らく見世物師もそこを狙ったのでしょう。蜜月のけがらわしさをさん〴〵味わいながら、他人の幻を破ろうとしない人たちの心理も、やはりそういう風なのでしょう。わたしもほかの人には誰にもそのことをいわなかったのですが、今ではどうしてこのことについて真実を語ってはならないのか合点がゆきません。それどころか、大いに真実を語らなければならないと思います。

『蜜月は本当にばつの悪い、恥かしい、けがらわしい、みじめなものでした。が、何より第一に退屈、たまらないほど退屈でした! それはちょうど、わたしが煙草をのむ稽古をしていた時分に経験したのと、いささか似寄った気もちでした。その時わたしは胸がむかむかして、生唾が湧いてくるのを呑み込み呑み込みしながら、めっぽう愉快でたまらないような顔つきをしていました。喫煙の快感もこの方の快楽と同じようなもので、もし快感があるとすれば、それは後から生じるのです。この行為から快楽を受けるためには、まず夫は妻にこの悪行を教え込まなければなりません。』

『どうして悪行なんでしょう?』とわたしはいった。『だって、これはきわめて自然な人間の本性じゃありませんか。』

『自然な?』と彼はいった。『自然なですって? いや、わたしはお説に正反対です。わたしはそれが自然でないという信念に到達したのです。そうです。徹頭徹尾不自然です。試みに子供に訊いてご覧なさい。まだ堕落しない娘に訊いてごらんなさい。

『あなたは自然だとおっしゃるんですね!

『自然なのは食べることです。食べるということは悦ばしく、軽やかで愉快で、そしてはじめから少しも恥かしくない。然るに、これは忌わしく、恥かしく、苦しいことです。いや、これは不自然です! まだ傷つけられていない処女は、いつでもこれを憎んでいます、それはわたしの固く信ずるところです。』

『じゃどうして、』とわたしはいった。『どうして人類はつづいてゆくのです?』

『そう、本当にどうかして人類が滅亡しなければいいですねえ!』もうさん〴〵聞き飽きた不誠実な反対説を待ち設けていたかのように、彼は毒々しい皮肉な調子でいった。『もし出産の節減を宣伝するのに、英国の貴族たちが食い肥るためという名目を借りれば、それはお構いないのです。出産の節減を宣伝するのに、快楽を増すためという名目を借りれば、それもお構いなしというのです。ところが、もし世道人心のために生殖を節せよなどと、かりに一ことでも口に出してごらんなさい──さあそれこそ大変な騒ぎです! 人間が豚となるまいと欲するために、人類が滅亡しはせぬだろうかというわけでね。だが、ちょっとご免なさい、わたしはあのあかりが不愉快なんですが、蔽いをしても構いませんか?』と彼はあかりを指さしながらいった。

 わたしがそんなことはどうだって同じだというと、彼は急いで──彼は何をするのでもそうであった──腰掛の上にあがって、毛織の窓掛をあかりの上へ被せた。

『それにしても、』とわたしはいった。『もしみんながそれを自分にとって法則と認めれば、人類は絶滅するわけですね。』

 彼はすぐには返事しなかった。

『あなたは、人類が永久に存続するもののようにおっしゃいますね?』再び私の真向いに腰を下して、両足をうんと踏み拡げ、その上に低く肘杖を突きながら、彼はこういった。『一体なんのために人類は存続すべきなのでしょう?』

『なんのためって、そうしなかったら、われ〳〵人間てものが、いなくなってしまうじゃありませんか?』

『じゃ、なぜわれ〳〵がいなくならないのです?』

『なぜって、それは生きるためですよ。』

『じゃ、なんのために生きるのです? もしなんの目的もなかったら、もし単に生活のためのみの生活が与えられたのだとすれば、何も生きている必要がないじゃありませんか。もしそうだとすれば、ショウペンハウエルや、ハルトマンや、すべての仏教徒の説は正しいことになります。また仮りに人生に目的があるにもせよ、その目的が到達された時には、人生は終結すべきはずです。まあ、そういうことになるんです。』明かに自分の思想を尊重しているらしく、あり〳〵と興奮の色を浮べながら彼はいった。

『全くそういうことになるのです。いいですか‥‥ところで、もし人類の目的が、幸福とか、善とか、愛とか、まあ、なんでも構いません、といったようなものだとすれば──もし人類の目的が昔の予言にある通り、すべての人間の愛によって一体となり、つるぎを鎌に打ち直すといったようなことにあるとすれば、そも〳〵この目的の到達を妨げるのはなんでしょう? 情欲なのです。もろ〳〵の情欲の中でもっとも著しく、悪性で、頑強なのは性の愛です。肉の愛です。ですから、もしすべての情欲が亡ぼされて、その中でいちばん強烈な肉の愛をも根絶させることが出来れば、昔の予言は実現されて、人々は一体となり、人類の目的は到達されて、もはや人間は生きている目的がなくなるわけです。

『人類が生存する限り、人間の前には儼然として理想が控えています。勿論、その理想は兎や豚のように、出来るだけたくさん繁殖しようということでもなければ、猿やパリ人みたいに、出来るだけ巧妙に性欲の快味を享楽しようということでもなく、禁欲と純潔によって達し得られる善の理想です。人々は過去においても、それに向って突進しましたし、また現在でもその突進をつづけています。ところで、それがどんな結論になるか見てごらんなさい。

『ほかじゃありません、肉の愛はつまり、有難い安全弁であるという結論になるのです。もし現在生きている世代が、この目的に到達しなかったとすれば、それは単に情欲が存在するためなのです。殊にその中でも、最も強烈な肉の愛が存在するためなのです。ところが、性欲も存在し新しき世代も存在するとすれば、従って次の世代において目的に到達するという可能も存在するわけです。もし次の世代も目的を達することが出来なかったら、またさらにその次の世代というように繰り返されて、ついには予言が実現され、人々が一体となる時が来るのです。

『もしそうでないとしたら、全体どんなことになるでしょう? かりに神様がある目的を達するために人類を創造し、しかも性欲を持たぬ mortal(死すべ
きもの
)なものとして作ったとしたら、どうでしょう。もし人間が mortal で性欲を持たないとしたら、彼らはしばらくのあいだ生きた後で、目的を達することなしに死んでしまうでしょう。で、神は自分の目的を達するために、新しい人間を創造しなければならないわけです。ところで、もし人類が不死のものであるとすれば(もっとも、謬りを正して完成に近づくということは、同一の人間にとっては非常に困難なわざで、新しき世代が古い世代の欠点を正しながら、完成の域に進む方が遙かに容易なのですけれど)、まあ、何千年かたって目的を達するものと仮定しましょう。しかし、もしそうなれば、一体なんのために彼らは生存するのでしょう? 彼らをどこへ始末したらいいのでしょう? ですから、やはり人間は現在のままでいるのが一番いいわけです‥‥

『けれど、こういう表白形式は、あなたのお気に入らないかも知れませんね、あなたはたぶん進化論者なのでしょう。が、それにしても、やはり同じ結論に到達しますよ。動物の中でも最高種であるところの人間は、他の動物と競争してこの地位を保つために、あたかも蜜蜂の群のように、結合しなければならないので、決して際限なしに繁殖すべきじゃありません。ちょうどあの蜜蜂みたいに、中性を養成する必要があります。つまり、やはり禁欲に向って努力すべきで、今の社会組織ぜんたいが傾いている如く、情欲を煽りたてるべきじゃありません。』

 彼はしばらく言葉をつぐんだ。

『人類が滅亡するんですって? けれども、どんな風にこの世界を眺めている人にしたって、誰一人これを疑うわけにゆきません。これは死と同様に疑うべからざる事実です。だって、どんな教会の教えによって見ても、世界の終りが来ることになっていますし、すべての科学も同じことを教えています。してみると、道徳上の教義が同じことを説くからといって、何も不思議なことはないじゃありませんか。』

 彼はこういった後で、長いことおし黙っていた。吸いかけの煙草を一本のんでしまうと、さらに袋の中から新しいのを取り出し、古い汚れた煙草入へしまうのであった。

『あなたの心もちはよく分りますよ。』とわたしはいった。『それに似たようなことをクエーカー(結婚、兵役を否定し、
共産主義を奉ずる宗派
)も言っていますよ。』

『そうです、そうです、彼らの説は正しいのです。』と彼はいった。『性欲は、よしんばどんなに道具だてをして誤魔化しても、依然として悪に相違ないです。われ〳〵はそれと戦うべきなので、現代の社会におけるが如く、奨励などすべきものではありません。およそ女を見て色情をおこすものは、心のうちすでに姦淫したるなりという聖書の言葉は、ただに他人の妻に対して適用されるばかりでなく、主として己れの妻に適用しなければならないのです。


一二


『ところが、われ〳〵の世界では、ちょうどそれがあべこべなのです。たとえ誰か独身時代に禁欲ということを考えていたにしろ、いったん結婚してしまうと、どんな人でももう禁欲の必要はないと考える。結婚のあとで若い男女が両親の許可を得て、誰はばかるものもない差向いの旅に上るということは、つまり淫縦の公認にほかならないのです。けれども、道徳上の法律は、もしこれを犯すものがあれば、自らそれに対して報復をするものです。わたしは蜜月を楽しいものにしようと、ずいぶん努力してみましたが、なんの結果も得られませんでした。しじゅう嫌悪と、羞恥と、倦怠を感じつづけたのみです。しかし、間もなくそれが嵩じて、やり切れないほど苦しくなってきました。

『こういうことが始まったのは、ごく急でした。なんでも三日目か四日目かに、わたしは妻が淋しそうにしているのを見つけたので、どうしたのか訊きながら、そっと抱きしめようとしました。それが妻の希望し得る一切であるように考えたのです。ところが、妻はわたしの手を押しのけて、泣き出しました。一体どういうわけなのか、妻はそれをいい現わすことが出来ませんでした。ただなんとなくもの悲しく、苦しかったのです。おそらく彼女の疲憊した神経が、二人の関係の汚らわしい真相を、彼女の心に吹き込んだのでしょう。が、妻はそれをいい現わすすべを知らなかったのです。わたしがなおも追究すると、彼女は母に離れて淋しいのだ、とかなんとかいいました。わたしはそれが本当でないような気がしたので、母のことは黙殺して、いろ〳〵訊ねて見ました。妻にしてみれば、ただ〳〵苦しいのであって、母のことは口実に過ぎないということをわたしはそのとき悟らなかったのです。けれど、妻はわたしが母の件を黙殺したのは、畢竟妻を信じないからだと云い、さっそく腹をたてはじめました。そして、今こそ分った、あなたはわたしを愛していらっしゃらないのです、などという。わたしが妻の気紛れを咎めると、彼女の顔は突然さっと変って、今までの憂愁がいらだたしげな表情に代りました。そして、彼女は思い切って毒々しい言葉で、わたしのエゴイズムと、残忍さを責めだしたのです。わたしはふと妻の顔を見やりましたが、その顔ぜんたいが極度の冷淡と敵意──というより、むしろ憎悪の色を浮べているではありませんか。

『今でも覚えていますが、わたしはそれを見てぞっとしました。なんだ? 一体どうしたというのだ? と、胸に問いました。愛は霊と霊との結合であるはずなのに、それがこんなことになってしまった! こんなことがあるはずはない。これはあの娘ではないのだ! わたしは彼女を宥めようとしてみましたが、しかし、なんとしても突き破ることの出来ない、冷たい、毒々しい敵意の壁にぶっつかったのです。で、わたしは自分で自分をふり返る暇もなく、一緒にかっとなってしまいました。二人はお互にさんざん口汚く罵りあいました。

『この最初のいさかいの与えた印象は、恐ろしいものでした。わたしはそれをいさかいと呼びましたが、しかし本当のいさかいではなく、単に現実において二人の間に横たわっていた深淵が、暴露されたまでの話でした。恋の泉が肉欲の満足によって涸れ尽し、二人は互に真の関係に立って、面と面を向け合わせたのです。つまり、出来るだけ多くの満足を相手から引き出そうとしている、まるで縁もゆかりもない二人のエゴイストの関係なのです。わたしは、二人の間に起ったことをいさかいと呼びましたが、それはいさかいでなくして、単に性欲が中絶したために、二人の現実の関係が暴露したに過ぎません。わたしはこの冷たいかたき同士のような関係が、二人のノーマルな関係であることを悟らなかったのです。それと云うのも、そのかたき同士のような関係が、再びわたしたちの間に立ち昇った肉欲の蒸気のために、つまり恋のために、隠されたからです。

『で、わたしはちょっと夫婦喧嘩をしたものの、もうすぐ仲直りが出来たから、二度とこんなことは起らないと思いました。けれど、同じくこの蜜月の間に、まもなく再び飽満の時期が来て、二人はまたもやお互に入り用でなくなり、再びいさかいが持ち上りました。この再度のいさかいは、最初のものよりもさらに強い衝動ショックをわたしに与えました。「してみると、この前のいさかいも偶然ではなくて、実際こうあるべきだったので、また将来においてもこうあるべきだろう。」と心に思いました。第二のいさかいがわたしに強いショックを与えたいま一つの理由は、それが極めて些細なことから起ったためであります。それはなんでも金のことでした。わたしは妻のために決して金を惜しんだことはありませんし、また惜しむべきはずがなかったのです。はっきり覚えていませんが、なんでも妻がどうした拍子にやら、変に話を脇の方へ持っていって、結局わたしのいった言葉が、金の威光で妻を支配しようという意志の表白になってしまったのです。妻にいわせれば、わたしは金の上に自分一個の絶対の権利を築こうとしているのだそうです。とにかく、それはわたしにも彼女にも不似合な、たまらなく馬鹿げた、下劣な話でした。

『わたしがむかむかっとして、妻の無作法を責めると、妻もわたしを責め返す──という風で、また喧嘩に花が咲きました。再び彼女の言葉にも、またその顔や眼の表情にも、以前あれほどわたしをぞっとさせた残忍な、冷たい敵意の色を読みとることが出来ました。わたしは兄弟や、友達や、父親などと喧嘩した覚えがありますが、しかしそれらの場合には、この場合のように一種特別な、毒々しい憎悪は金輪際ありませんでした。けれど、しばらくたつと、またもやこの相互の憎悪は恋ごころ、すなわち肉欲によって隠されました。で、わたしはまた〳〵この二つのいさかいを、今後匡正することの出来る謬りであると考えて、自ら慰めていました。しかし、やがて第三、第四のいさかいが起ったとき、わたしは到頭これは決して偶然でなくて、かくあるべきものであり、また将来もこの通りに違いない、と悟りました。そして、自分の前途に待ち設けている生活を想って、慄然としたのであります。その上、わたしはもう一つ恐ろしい想念に苦しめられました。ほかでもありません、結婚前に期待していたとは一向に似ても似つかぬ、見苦しい夫婦生活をしているのはわたし一人きりで、ほかの夫婦間にはこんなことなんか無さそうだ、とこう思ったのです。その当時わたしは、これが一般人間の運命であって、すべての人がわたし同様、これを自分一人だけの不幸と考えて、このまたと類のない恥ずべき不幸を、単に他人ばかりでなく自分自身にすら蔽い隠し、自分で自分にすら白状しないでいるのだ、ということを知らなかったのです。

『この不幸は、結婚後数日ならずしてはじまり、次第に激烈に残忍になってゆきながら、絶えまなくつづきました。心の深い奥底では、わたしはもう最初の二三週間ごろから、おれの身は破滅だ、前に期待していたのとはがらりと違ったことが出来てしまった、結婚は幸福どころでなく、何か非常に苦しい厭なものだ──とこう感じたのですが、しかしわたしはほかの人たちと同じように、自分でそれを認めたくなかったのです(もしあのカタストロフがなかったら、今でも認めなかったかも知れません)。そして、他人のみならず自分自身にさえ隠したのです。

『今にして思えば、どうしてわたしは自分の本当の状態が分らなかったのかと、驚かされるほどです。いさかいが極めて些細なことから始まって、すんでしまった後では、一体何が原因もとだったか、思い出されなかったという一事に徴しても、それは容易に悟ることが出来たはずなんですがねえ。つまり、二人の間に絶えず存在している敵意に対して、何か相当な口実を作って当てはめるのは、理智の力で追っつかないことだったのです。けれど、仲直りの口実の不充分なことと云ったら、さらに驚くべきものがありました。時とすると言葉や、弁解や、さては涙さえ口実となることがありましたが、しかし時とすると。‥‥ああいま思い出すのも忌わしいくらいですが、滅茶苦茶に烈しい言葉を浴せかけあった後で、とつぜん無言のまま顔を見合せて、にっこり笑って、それから接吻、抱擁‥‥ちょっ、何と云うけがらわしいことだろう! どうしてわたしはその当時、このけがらわしさが充分のみ込めなかったのでしょう‥‥』


一三


 二人の旅客がはいって来て、向いのベンチに陣取りはじめた。彼はこの二人が落ちつくまで口をつぐんでいたが、ごた〳〵いう騒ぎが静まるや否や、さっそく話しつづけた。それは一分間も自分の思想の連鎖を失わないでいるという風であった。

『ところで、何よりも一ばん忌わしいのは、』と彼は口を切った。『理論の上では、愛とは一種理想的な、高尚なものと見なされているのに、実際においては、話すのも思い出すのもけがらわしく恥かしいような、一種忌わしい下劣なものに過ぎないということです。全く自然がこれをけがらわしく恥かしいように造ったのも、あえて偶然ではないのです。ところで、もしけがらわしく恥かしいものなら、そのとおりに解釈すべきではありませんか。ところが、まるで反対に、人々はこのけがらわしく恥かしいものを、美しい高尚なもののように装っているのです。一体わたしの愛の第一の徴候はなんでしたろう? ほかでもありません、自分の中に蓄積された動物性の過剰を恥じもしないで、それに身を委せてしまい、しかもそのうえ、妻の精神生活はいうも更なり、肉体的生活のことさえ少しも考えようとしなかった点にあるのです。

『わたしは、二人がお互にいだいている憎悪の念は、果してどこから生じたのかと驚いたものですが、それはもう分りきったことなのです。この憎悪の念はとりも直さず、動物性に圧伏された人間のプロテストだったのです。

『二人が互にいだき合っていた憎悪を、わたしは不思議に感じましたが、実際それはほかになんとも仕方のないことだったのです。この憎悪はつまり、犯罪の共謀者がお互にいだく憎悪にほかならなかったのです。互に教唆しあったこと、共に犯罪に関係したことに対する憎悪なのです。全く、妻は可哀そうに、一箇月目から妊娠してしまったのに、わたしたちの豚みたいな関係はつづいていたんですもの、どうしてこれが犯罪でないといわれましょう。

『あなたは、話が横道へそれたとお思いかも知れませんが、決してそうじゃありません! わたしはずっと引きつづいて、女房殺しの話をしているのです。公判のとき裁判官がわたしに、何をもって、どんな風にして妻を殺したかと訊ねるのです。馬鹿者めら! あの連中はわたしがあの時、十月の五日に、ナイフをもって妻を殺したのだと思ってるんです。わたしが彼女を殺したのは、あの時じゃありません、ずっと以前です。ちょうどすべての人間が現在自分の妻を殺しているようにね。ええ、みんなです。みんなですとも‥‥』

『一体どうしたのですか?』とわたしは訊ねた。

『まあ、こんなに明々白々たる事実を、誰一人知ろうとしないのは、なんという驚くべきことでしょう。これは医者たちがちゃんと承知していて、大いに世を警めなければならないはずだのに、彼らは知らん顔をして、口を緘しているのです。ことはすこぶる簡単です。男と女は動物と同じように、肉の愛の後で受妊が生じ、それにつづいて哺育ということになります。それは二つながら、女にとっても幼児にとっても、肉の愛が非常に有害なときなのです。ところで、男と女とは同数であるべきものですから、その結果どういうことになるでしょうか? それは極めて明白なことであって、それからして一つの結論を抽き出すのに、大した叡智を要さないように思われます。その結論というのは、動物でさえ実行していることで、つまり禁欲なのです。しかるに、事実はそれと反対で、科学は非常な進歩を遂げた結果、血の中を走り廻っている白血球だとかなんだとか、役にもたたぬ馬鹿げたものを発見している癖に、これだけのことが理解できないのです。少くとも、科学がこの問題を口にしているのを、一度も聞いたことがありません。

『そこで、女にとっては、ただ二つしか遁げ路がないのです。第一には自分を不具にして、男が常に落ちついて享楽を得るために、女としての能力、すなわち母としての能力を絶滅してしまうのです。少くとも、必要に応じて漸次破壊して行くのです。第二の遁げ路は──もっとも、これは遁げ路ということが出来ないくらいですが、いきなり乱暴に自然の法則を侵すのです。この方法はすべてのいわゆる潔白な家庭で行われています。つまり、女は自己の自然性に反して、同時に妊婦とも、保姆とも、情婦ともなるのです。一言にして尽せば、どんな動物でも墜ちて行かないような状態に陥るのです。けれど、ついには力尽きて、そのためにわれ〳〵の社会ではヒステリイとなり、農民の間では狐憑きクリクーシカとなります。まあ、注意してご覧なさい、この狐憑きクリクーシカというものは、純潔な処女には決してなく、ただ既婚の農婦ばかりです。しかも、亭主と一緒に暮らしている農婦ばかりです。

『これがロシヤの状態ですが、ヨーロッパだってそれと同じです。すべての婦人病院は、自然の法則を犯した女でいっぱいなのです。しかし、こうした狐憑きクリクーシカやマルコウ氏(一八二五年─九三年、有
名なる仏の神経病理学者
)病の患者などは本当の不具者ですが、女の半不具者は世界じゅうに充ち満ちています。まあ、考えてもごらんなさい、女が妊娠したり、生れた、子供をはぐくんだりする時、いかばかり偉大な事業がその内部で成就されていることか! それはつまり、われ〳〵を継承し、われ〳〵に代るべきものが成長しているのですからね。しかも、その神聖な仕事を侵害するものがある──それは一体何者でしょう? 考えても恐ろしいくらいです! それでいながら、婦人の解放や権利を云々している。それはちょうど、食人種が捕虜を食用として肥らしておきながら、同時に、彼らの権利や自由を心配していると説くのと同一轍です。』

 これらすべての言葉は耳新しく、わたしに甚大なショックを与えた。

『では、どうなんです? もしそうだとすれば、』とわたしはいった。『妻を愛し得るのは、二年に一度くらいということになりますが、男というものは‥‥』

『そう、男にとってはぜひ女が必要なのです。』と彼は遮った。『この点でも、かの愛すべき科学の使徒たちが、みんなを瞞着してしまいました。まあ、人間に向って、お前にはウォートカが必要だ、煙草やアヘンが必要だ、と吹き込んでごらんなさい、こういうものがことごとく必要欠くべからざるものとなります。で、結局、神様は人間に何が必要であるかをご存じなく、そのために賢人たちと相談しないで、まずいことをしておしまいになった、ということになって来ます。ね、いいですか、どうも平仄ひょうそくが巧く合わない。男にとっては、自分の情欲を満足させることが是非とも必要だ、とこう彼は決めてしまったのですが、それには子供を生んで育てるという邪魔がはいって、この要求を満足さすことを妨げる。一体どうしたらいいだろう? まあ、賢人たちに相談してみよう、なんとか巧くやってくれるだろう、といったような始末です。すると、賢人たち、すなわち医者たちは、いいことを考えついてくれました。ああ! いつになったらあの詐欺師の賢人たちが、光栄の冠を引っぺがれることか? もうその時が来ているのです! 全く彼らのおかげで、こういうことになってしまったのだ! 人々が発狂したり、自殺したりするのも、みんなこのためなんだ。ええ、そうですとも、ほかに理由がありません。動物は、子孫が自分たちの種族を永続さしてくれることを知っているかのように、この点において一定の法則を守っています。ただ人間のみは、そんなことを知ろうとも思わず、ただ出来るだけ多くの快楽を得ることのみに汲々としています。しかも、それで人間は自然界の王でござる、などと自称してるんですからね!

『まあ、考えてもごらんなさい、動物はただ子孫を挙げ得る時に交尾するのみですが‥‥けがらわしい自然界の王は、ただ快楽を得んがために、時をえらばず行うばかりか、この猿みたいな仕事を、愛と云う創造的美にまで押し上げているのです。そして、この愛の名において(その実、唾棄すべき醜行のために)、人類の半分を破滅させているのです。真理と幸福に向う人類の運動において補助者たるべきすべての女を、自己の満足のために、補助者どころか敵にしているのです。一つ注意してごらんなさい、いたるところで人類の進行を阻害しているのは何でしょう? 女です。では、どうして女がそういう風になってしまったのか? ただ〳〵このためなんです。そうですよ、そうですよ。』

 彼は幾度かこう繰り返し、ごそ〳〵と身動きして明かに気を静めようと思うらしく、煙草を取り出して、吹かし始めた。


一四


『まあ、こういった次第で、わたしは豚みたいな生活をしていました。』と彼は再び以前の調子で語をつづけた。『が、何よりいけないのは、わたしがこういう汚い生活をしていながら、単にほかの女に誘惑を感じないというだけの理由で、自分は潔白な家庭生活を営んでいる、自分は道徳的な人間である、自分には少しも罪はない、二人の間にいさかいが起るのは、それは妻が悪いのだ、妻の性格が悪いのだ、とそう考えていたのです。

『勿論、悪かったのは彼女ではありません。彼女はほかのすべての女、大多数の女と同じような人間だったのです。彼女はわれ〳〵の社会における、婦人の位置が要求するような教育を受けたのです。したがって、生活を保障された階級の婦人たちが、すべて一様に例外なしに受けるような教育を受けたので、ほかに仕方がなかったのです。いま新しい婦人教育ということを頻りに論じていますが、みんな空虚な言葉に過ぎません。婦人の教育は、一般の人々がいだいている真の偽らざる婦人観に伴なって、それに相当したものがあり得るのみです。

『で、女子の教育は、いつでも婦人に対する男の見解に一致するものです。われ〳〵は男がいかに女を見ているかを、よく承知しています。つまり Wein, Weibe und Gesang(酒と女
と歌
)で、現に詩人たちも詩の中でこう歌っています。さま〴〵の恋歌や素裸のヴィーナスやフリーネ(大彫刻家の女神像のモデルと
なった有名なアテネの娼婦
)の像をはじめとして、すべての詩歌、すべての絵画彫刻をとって検討してご覧なさい、女が快楽の具だということが分ります。トルバでも、グラチェフカでも、優美を極めた舞踏会でも、どこにいても、女は常にさようなものとして現われています。

『ところで、悪魔はなんという狡智を弄していることでしょう。もし単に快楽と満足に過ぎないとすれば、女は快楽の具である、甘い一片の肉である、と決めてしまったらよかりそうなもんですが、中々そうじゃありません。まず昔の騎士は婦人を神聖視すると宣言していましたが(神聖視してはいましたが、それでもやはり快楽の具として見ていたのです)、今では婦人を尊敬すると広言しているのです。あるものは女に席を譲ってやったり、ハンカチを拾ってやったりするし、またあるものは婦人があらゆる公職についたり、政治に参与することを認める、といっています。そういう風なことはなんでもしていますが、しかし婦人を眺める眼は依然として同じことです。女は快楽の具であり、その肉体は快楽の方法であります。そして、女の方でもそれを承知しているのです。これは奴隷制度と少しも変ることがありません。奴隷制度とは、少数のものが多数のものの、自由意志によらぬ労力を、利用することにほかならぬのです。それ故、奴隷状態をなくするためには、人々が自由意志によらぬ他人の労力を利用することを望まず、それを罪悪でなければ羞恥と見なすようにならなければなりません。しかるに、人々はただ奴隷制度の外面形式を廃止して、奴隷の売買を行うことが出来ないようにすると、もうそれで奴隷制度がなくなったように空想し、自分でもそうと信じ込んで、奴隷状態が依然として存続するのが眼に入らないのです、それとも、見ようと思わないのかも知れません。そうです。存続しています。なぜといって、人々は前と同じように、他人の労力を利用するのを好み、かつそれを当然な善いことだと考えているからです。ところで、彼らがそれをいいことだと考えはじめるや否や、常にほかのものよりさらに狡猾な強い人間が現われて来て、巧みにそれを実行に移すものです。

『婦人の解放についても、それと同じことがいえます。婦人の奴隷状態というのは、すなわち男が女を快楽の具として利用することを望み、かつそれを非常に善いことだと信じていることなのです。

『いや、いま現に婦人の解放は行われて、男子と同等の権利が与えられています。が、女を快楽の具として見ることは、依然として変りません。そして、女は子供の時分からそういう教育を受け、輿論によってもそれを助長されています。だから、女は依然としてああいう卑屈で淫蕩な女奴隷ですし、男は依然としてああいう淫蕩な奴隷所有者なのです。

『一方、学校や議会では女を解放しながら、また一方では女を快楽の対象として眺めています。もし今わが国で女が教え込まれているように、こういう風に自分自身を見ることを教えられたら、女は永久に低級な生物として終ってしまいます。つまり、医者の悪党の助けを借りて避妊法を行い動物なみどころか、品物なみに堕落した淫売婦となりきってしまうか、それとも多くの場合見受けられるように、不幸なヒステリイ患者、精神病者となり果てて、精神的発達の望みは全然なく、現在あるがままの女として終るかです。

『女学校も専門学校もそれを変えることが出来ません。これを変えることが出来るのは、男の女に対する見かた、及び女の自分自身に対する見かたの変化ばかりです。この見かたが変化するのは、ただ女が童貞の状態を最高の状態と考えるようになった時だけです。ところが、今ではこの最高の状態が、恥辱のように見なされているのですからね。これが実現されない間は、女をどんなに教育してみたところで、結局すべての娘の理想は、選択の可能を有せんがために、出来るだけ多くの男、というより牡を、自分の傍へ引き寄せることに存するでしょう。

『一人の娘は数学をよく知っているとか、また一人の娘は竪琴が弾けるとかいったって、この状態を変化させることは出来ません。女は男を俘虜とした時にはじめて幸福であり、自分の唯一の希望を達したわけなのです。それ故、女のおもなる目的は男を俘にすることです。それは現在でもそうだし、未来においてもやはりその通りでしょう。これはわれ〳〵の社会で処女の生活の中に認められますが、結婚後にも依然としてつづくのです。処女時代には選択のためにこれが必要ですが、結婚後には夫に対して権力をふるうために入用なのです。

『これを一時中絶するか、または少しでも圧伏し得るものがただ一つあります。それは子供です。ただし、それも女が不具でない場合、すなわち自分で乳を飲ます場合に限ります。が、ここでもまたぞろ医者が邪魔を入れるのです。

『わたしの妻は二度目からは、五人の子供を自分の乳で育てたいといって、本当の自分の乳を飲ませましたが、はじめての子供の時に体を悪くしました。例の有難い医者たちは、無作法に妻を裸にして、体じゅういじり廻した挙句(わたしはそれに対して礼をいい、金を払わなければならなかったのです)、あなたは自分で乳を飲ましてはいけない、と診断しました。で、彼女ははじめの間、その娼婦性を救ってくれる唯一の方法を奪われたのです。子供は乳母が育てることになりました。つまり、一人の女の貧困と無知とを利用して、わが子の傍から引き離し、自分の子供のものとしたのです。そのために、わたしたちはその女にレースの付いた頭巾を被せてやりました。けれど、問題はそんなことじゃありません。妻がこうして妊娠と育児の義務から放たれている間に、以前ねむっていた例の娼婦性が、烈しい力をもって彼女のうちに現われた、そこが問題なのです。そして、わたしの内部にもそれに応じて、嫉妬の苦痛がとくべつ強い力をもって現われてきたのです。この苦痛は結婚生活の間、終始一貫してわたしを苦しめ通しました。じっさい、わたしのような夫婦生活をしているものは、つまり背徳的な生活をしている夫は、誰でもこれにさいなまれないわけにゆかないのです。


一五


『結婚生活の間じゅう、わたしが嫉妬の苛責を受けないでいたことは、ほとんど一度もありませんでした。けれど、その苛責が特に劇しくなる時期がありました。そういう時期の一つは、妻が初めて子供を産んだ後で、医師に哺乳を禁じられたときです。その時分、わたしはとくべつ烈しく嫉妬を感じました。第一の原因は、理由なしに規則正しい生活の進行が破られた時に見られる、母親特有の不安を妻が感じていたからです。第二の原因は、妻がたとえ無意識的とはいいながら、母としての道徳的な義務を、なんの苦もなく棄て去ったのを見て、妻としての義務をも同じように平然として抛棄するだろう、という結論に到達したからです。特に妻は全く健康で、親切な医者たちが禁止したにも拘らず、次に生れた子供たちに自分の乳を飲ませて、立派に育て上げたのですから、わたしはます〳〵その結論を確めた訳です。』

『ですが、あなたは医者がお嫌いですね。』彼が医者の話をする度に、その声に特に毒々しそうな響を帯びるのに気がついて、わたしは言葉を挾んだ。

『それは好き嫌いの問題じゃありません。彼らはわたしの一生を亡ぼしたのです。そして、現に数千数万の人々の生涯を亡ぼしているのです。だから、わたしは原因と結果を結び付けずにいられません。そりゃわたしだって、彼らが弁護士や何かと同じように、金を儲けたいのは承知しています。だから、わたしは自分の収入の半分を悦んで彼らにやってしまいます。また誰だって、彼らが何をしているかが分ったら、自分の全収入の半分を悦んで、彼らにやってしまうでしょう。ただし、彼らがわれ〳〵の家庭生活に立ち入ったり、われ〳〵のそばへ余り近く寄って来ないという条件つきなのです。

『わたしは統計をとってみたことがありませんが、彼らが所詮無事に分娩は覚つかないといって、母親の腹の中で子供を殺したり(そのくせ、母親は後で楽々と産をするのです)、なんとかの手術という名前を借りて母親を殺したりした例は、幾十となく知っています。じっさいそういう例は数えきれないほどあるのです。ところが、こうした殺人行為は、宗教裁判の殺人と同じように、誰ひとり数えてみようとしません。なぜなら、それは人類の幸福のためだと信じられているからです。全く、彼らによって行われる犯罪は、到底数え上げることが出来ません。けれど、こうした犯罪も、彼らが婦人を通じて世界へ注入する物質主義の道徳的頽廃に比べたら、お話にならないほど些々たるものです。

『もし人間がただ〳〵医師の命令のみを守っていたら、到るところに伝染病の蔓延している世の中ですから、人類の融合どころか、離散に向って努力しなければなりません。すべての人は、彼らの忠告に従って、別々に離れ離れに坐っていて、口から石炭酸の撒布器を放さずにいなければなりません(もっとも、これも役に立たないことが分って来たのですが)。しかし、そんなことはいいますまい。これくらいのことはまだしもなんです。彼らのおもなる害毒は人間、殊に女を堕落さすということなんです。

『今の世の中では、「君はよくない生活をしている、もっといい生活をしなければならない」などという言葉は、自分に向っても、他人に向ってもいうことが出来なくなりました。もし悪い生活を送っているならば、それは神経系統とか何かの作用が、アブノーマルになったがためだ、従って、医者のところへ行かなければならぬ、ということになる。すると、医者は三十五コペイカの処方を書いてくれる。薬は薬屋にあるから、われ〳〵はそれを飲みさえすればいいのだ!

『ところが、生活はます〳〵悪くなる、その時はまた薬を飲んで、また医者に診察して貰う。なか〳〵巧い仕掛けですよ!

『しかし、これが問題じゃないのです。わたしがお話ししたいと思ったのは、妻が立派に自分の乳で子供を育て上げたということと、この妊娠と授乳とがわたしを嫉妬の苦痛から救ってくれた唯一のものだ、ということなんです。もしこのことがなかったら、大団円はもっと早く来たに相違ありません。子供がわたしをも妻をも救ってくれたのです。八年の間に彼女は五人の子供を生んで、いちばん上の子をのけたほか、みんな自分の乳で大きくしたのです。』

『それは今どこにいるのですか、あなたのお子さんたちは?』とわたしは訊いた。

『子供たちですか?』と彼はおびえたように問い返した。

『ご免下さい、ことによったら、そんなことを思い出すのはお苦しいかも知れませんね。』

『いや、なんでもありません。子供たちは妻の姉弟が引き取りました。その二人がわたしに渡してくれないのです。わたしは自分の財産を引き渡してしまったのですが、子供はどうしても返して貰えないのです。だって、わたしは一種の気ちがいですからね。ちょうど今わたしは子供らと別れて来たところなんです。見せるだけは見せてくれましたが、どうしても渡してくれない。そうでなかったら、わたしはあの子らが、両親みたいな人間にならないように教育してやるんですがねえ。しかし、世間の人は、やっぱりご同様の人間に仕立て上げなければ承知しないのです。いやはや、なんとも仕方がありません! 皆がわたしを信じないで、子供たちを寄越してくれないのも無理はありません。それに、わたしもあの子らを教育する力があるかどうか、分らないのです。おそらく駄目だろうと思います。わたしは廃墟なんですものね、不具者なんですものね。ただ一つのものがわたしの中にあります。わたしは知っている。ほかの人がまだまだ容易に悟ることが出来ないものを、わたしはすでに知っているのです。そう、これは確かです。

『そうです、子供らは自分の周囲にいるすべての人と同様な、野蛮人として生活しています。わたしは彼らに会いました。三度会いました。けれど、彼らのために何一つしてやることが出来ないのです。が、構いません。わたしはいま南の方の郷里へ帰っていくところなのです。そこには小さな家と庭があります。

『そう、わたしの知っていることをすべての人が知るのは、まだ〳〵急なことには行きません。太陽や諸遊星の中に鉄が沢山あるかだの、どんな金属があるのだろうかだの、そういうことは間もなく知れるでしょう。けれど、われ〳〵の醜行をあばいて見せるものは、なか〳〵知れますまい。むずかしい、恐ろしくむずかしいです!

『あなたがこうして聞くだけでも聞いて下さるので、わたしはあなたに感謝しているのです。』


一六


『ところで、あなたはいま子供のことを思い出させて下さいました。この子供のことについても、なんと恐ろしい偽りが世に行われていることでしょう。子供は神の祝福である、子供は悦びである、なんていうのはみんな嘘です。それは昔の話で、今そんなことはまるっきりありゃしません。子供は苦しみです、それだけのことです。大多数の母親は本当にそう感じていますし、時とすると、不用意の間に露骨にそういっています。われ〳〵中流の富裕な社会に属する大多数の母親に訊ねてごらんなさい、みんな子供が病気して死にはしないかという心配のために、子供など持ちたいと思わない、もしまた生んでしまったものなら、かかわり合いになって苦しみをしないために、自分で育てたくない、とこういうに相違ありません。子供があの可愛らしい手や、足や、体ぜんたいの美しさで母親に与える快感や満足は、彼女の経験する苦痛よりも少いのです。病気とか死亡とかいうことは、言をもちいるまでもなく、病気したり死んだりしやしないかというその気苦労だけでも大変なものですからね。

『で、利害をはかりにかけて見ると、結局、利の方が少いので、従って、子供を持つのは望ましくないということになる。母親たちはそれを大胆に露骨に口に出しています。なんといってもこれらの感情は、自分たちの子供に対する愛情のために、語を変えていえば、他人に誇ることの出来る美しい立派な感情のために生じるのだ、とそう考えているからです。ところが、その実、こういうものの考えかたは明白に愛を否定して、単に自分のエゴイズムを裏書しているに過ぎない、そこに気がつかないのです。彼らにとっては、子供の愛らしさから生ずる満足感が、子供を思う恐怖の心から生ずる苦痛に及ばないのです。だからこそ、将来愛すべきはずの子供がいらないというのです。彼らは愛するもののために自己を犠牲にするのでなく、自己のために愛すべきはずのものを犠牲にするのです。

『これが愛でなくてエゴイズムだということは明瞭です。けれど、われ〳〵貴族階級の生活においては、例の医者たちのおかげで、母親が子供のためにさん〴〵苦労をし抜いていることを思い出すと、富裕な家庭の母親のエゴイズムを責めるのは、なんとなく憚られるような気がします。はじめ子供が三四人あって、妻の身心がすべて子供のために奪われつくしていた、その頃の妻の生活や境遇を思い出すと、今でもぞっとするくらいです! わたしたち自身の生活というものはまるでありませんでした。それは何かしら永久な、絶えまない危険のようなものでした。やっと一難をのがれたかと思うと、またぞろ一難が押し寄せて来る。そこで、また死物狂いの努力をして、もう一度切り抜ける。まるでしじゅう沈みかけた船にでも乗っているような心もちでした。

『どうかすると、これは妻がわたしを征服するために、わざと子供のことで心配しているようなふりをしているのではないか、というような気がすることさえありました。これは実に巧い話で、一切の問題をごく簡単に、妻に有利なように解決してしまうのでした。わたしは時々こういう場合に妻のすることなすことが、すべてわざとらしく感じられました。が、そうではないのです。妻自身も、子供とその健康と病気のことでは恐ろしく苦しんで、絶えまなき刑罰を受けているのでした。それはわたしにとっても、彼女にとっても、全く一つの拷問でした。じっさい、妻は苦しまないわけにゆかなかったのです。子供にたいする愛着、哺乳、愛撫、保護の動物的要求は、大多数の婦人にあるように、わたしの妻にもあったのです。けれど、動物と同じように、思考したり判断したりする能力には欠けていないのです。

『牝雞は、自分の雛っ子がどうなるだろうか、などと心配もしなければ、雛っ子を侵すおそれのあるさま〴〵な病気も知りませんし、また人間が病や死から救い得ると信じているような、さま〴〵な医療方法も知りません。そこで、子供は牝雞にとって苦痛ではない。彼女は自分の雛のために、自分の性質に相応した悦ばしいことをしてやるのです。こういうわけで、子供は牝雞にとって悦びなのです。もし雛っ子が病気にかかれば、母鳥のする仕事ははっきり決っています。つまり暖めたり、餌をやったりするばかり。つまり、これだけのことをすれば、牝雞は必要なことを全部したことになるのです。もし雛が死んでしまっても、どうして死んだかだの、どこへ行ったのか、などと不審をおこしはしません。しばらくこッこッと鳴いていますが、すぐやめてしまい、以前どおりの生活をつづけます。

『けれど、われ〳〵社会の不幸な婦人たちやわたしの妻にとっては、まるで話が違います。病気をどういう風に直すか、というようなことはさておいて、どういう風に子供を育て、大きくしたらいいかについて、妻はあらゆる方面から種々雑多な意見を聴きもし、また本でも読みました。しかもその意見がしょっちゅう変るのです。食べものはこれこれのものをこんな風にしてやれというかと思うと、いや、そんなものをそんな風にしてやってはいけない、こんな具合にするのが本当だといいだす。そのほか着物、飲みもの、入浴、睡眠、散歩、空気、すべてこういうことについてわたしたちは(といっても、おもに妻ですが)、ほとんど毎週あたらしい規則を読んだり聞いたりしました。まるでつい昨日あたりから、子供というものが生れはじめたかなんぞのような有様で、食べ物のやりかたでも、入浴のさせかたでも、みんな間違っていなければ時期が悪い、ということになって来ます。そして、子供が病気でもすると、みんなわたしたちが悪い、わたしたちのやり方が間違っていた、ということになってしまうのでした。

『でも、それはまだ子供が丈夫な間の話で、それさえなか〳〵の苦痛ですが、もし病気でもしようものなら、それこそおしまいです。もうまるでこの世からなる地獄です。ところで、病気は癒すことの出来るもので、世の中にはそういう学問があり、そういう人間、すなわち医者なるものがあって、その人たちは病気を癒すことを知っている、と世間では考えています。しかし、それを知っているのはことごとくの医者ではなく、第一流の名医に限られている。で、もし子供が病気したら、この治療術を知っている第一流の名医にかからなければならぬ、そうすれば、子供は救われたことになる。が、もしこの医師をつかまえることが出来ないか、それとも、この名医の住んでいる所に住まっていなかったら、もう子供は駄目なのである。これは何も妻一人に限った信仰ではなく、われ〳〵の社会における婦人ぜんたいの迷信なのです。ですから、彼女はあらゆる方面から、ただこういう話ばかり聞き込むのです。「エカチェリーナ・イワーノヴナのところでは、お子供衆が二人も亡くなられました。それは早くイヷン・ザハールイッチを呼ばなかったからですわ。ところが、マリヤ・イワーノヴナの上の女の子は、イヷン・ザハールイッチのおかげで命を助かりました。ペトロフさんのところではお医者の勧めで、早く方々の病院へ別れ々々に入院さしたので、子供らは命拾いをしましたが、別々に離さなかった子供は死んでしまいました。またあのひとのお子さんはたいへん病身でしたが、お医者の忠告を聞いて、南の方へ移転なすったので、子供の命をお助けになりました。」

『自分が動物的の愛をもって結びつけられている子供の生命が、イヷン・ザハールイッチのいうことを手遅れにならないうちに知るかどうか、それしきのことで左右されているのですもの、どうして女は生涯苦しんだり、興奮したりせずにいられましょう。ところで、イヷン・ザハールイッチが何をいいだすかは、誰ひとり知るものがありません。かんじんのご当人には、尚更もって分らないのです。なぜなら、彼は自分が何も知らなければ、何も助けることが出来ず、ただいかにも何か知っているように、常しじゅう世間の人に信じて貰いたいがために、口から出まかせを並べたてているのを、自分でよく承知しているからです。もし妻がぜん〳〵動物であったならばあれほどまでに苦しみはなかったでしょう。また彼女がぜん〳〵人間であったならば、神に対する信仰があるから、すべて信仰を期する人のいうように、「神様の授けて下すったものを、神様がお召しになったのだ。神様からのがれることは出来ない」といいもし、考えもしたに相違ありません。

『こういう子供相手の生活は妻にとって(したがってわたしにとっても)、悦びでなく苦痛でした。どうして苦しまないわけにゆきましょう。妻はひっきりなしに苦しんでいました。やっと何かの嫉妬の一幕か、それともあり触れた夫婦喧嘩がおさまって、やっとこれから生活らしい生活をして、読書もし、思索もしようと考えながら、何かの仕事に取りかかるが早いか、突然ヷーシャが嘔気がするとか、マーシャが血便をしたとか、アンドリューシャに発疹が出来たとかいう報告が来る、ともうおしまいです。生活も何もあったものではない。どこへ飛んで行ったらいいだろう、どの医者を呼んで来よう、どこへ隔離したものかしらん? という心配がはじまる。そして、やれ、灌腸器だ、検温器だ、調剤だ、医者だという騒ぎです。これがやっと済んだか済まないかに、もう何かほかのことが始まるのです。規律ただしいしっかりした家庭生活というものはまるでなく、前にもいったように、仮想の危険や実際の危険からのがれる努力があるのみでした。現代の大多数の家庭では、ちょうどこの通りなことをしているのですが、わたしの家庭ではそれが殊に劇しかったのです。なぜって、わたしの妻は子煩悩で軽信家でしたから。

『こういうわけで、子供の存在はわたしたちの生活を改善するどころか、かえって毒するくらいでした。そのほか、子供はわたしたちにとって、新しい不和の導因でした。子供が出来て、それがだんだん大きくなるにつれて、ます〳〵頻繁に、子供そのものがいさかいの方法ともなり、対象ともなってきました。いや、単にいさかいの対象となったばかりでなく、争闘の武器ともなったのです。ちょうどわたしたちは子供をもって互に闘い合ったような形でした。めい〳〵自分の好きな子供、すなわち戦闘の武器があって、わたしはおもに長男のヷーシャを得物にし、妻は娘のリーザを道具にして戦いました。そればかりでなく、子供が成長して、それ〴〵性格がはっきりして来ると、彼らが同盟者となるほどにまで立ち到りました。つまり、わたしたちがめい〳〵誰かを自分の側へ引き入れるのです。可哀そうに子供らはそれがために恐ろしく苦しんだものですが、しじゅう喧嘩ばかりしているわたしたちは、子供らのことを考えるどこの騒ぎでなかったのです。女の子はわたしの味方でしたが、長男は母に似てその秘蔵子でしたから、わたしはしょっちゅうこの子を憎らしく感じたものです。


一七


『まあ、こんな風に暮らしていたのです。二人の関係はだん〳〵かたき同士のようになって来て、ついには意見の相違が敵意を生むのではなくて、敵意が意見の相違を惹き起すようになりました。妻が何をいおうと、わたしは前からそれに反対するし、妻の方でもやはりそれと同じことなのです。

『結婚してから四年目には、いつの間にやら双方から、お互に理解し合ったり一致することは所詮のぞめない、ということに決定されてしまいました。わたしたちは最後まで、徹底的に話し合うことをやめて、どんな単純な事柄でも(殊に子供のことについて)、二人は必ず自分自身の意見を固持するようになりました。いま思い出してみると、わたしが一生懸命に主張した意見は、決して曲げることが出来ないほど貴重なものではありませんでしたが、ただ妻が反対の意見だったので、それを譲るのはつまり妻に譲歩することになるからでした。妻の方でもその通りなのです。彼女はいつもわたしに比較して、自分の方が正しいと信じている様子でしたし、わたしもまた妻の前へ出ると、さながら自分が聖人ででもあるように思われるのでした。二人きりさし向いになると、わたしたちはいつも決まって黙り込んでしまうか、それとも、動物でさえ出来るに相違ないと思われるような会話を交換するのみでした。

『たとえば「いま何時だね? もう寝る時分だよ」とか「今日の晩食はなんだね?」とか、「どこへ出かけましょう?」とか、「新聞に何が書いてあるかね?」とか、「お医者さまを迎えにやらなきゃなりませんわ? マーシャが喉を痛めましたの」といったようなものです。こんな風に、お話にならないほど狭くなった会話の範囲は、ほんの毛筋ほどでも外へ踏み出そうものならすぐ途端に喧嘩の火の手が上るのです。コーヒーだとか、テーブル・クロースだとか、四輪馬車だとか、カルタ遊びだとか、すべてわたしにとっても妻にとっても、なんら重大な意味を持っていないようなつまらないことから衝突が起り、さも憎々しそうな口をきき合うのです。少くとも、わたしの腹の中では妻に対する憎悪が、しょっちゅう煮えくり返るのでした! わたしはどうかすると妻が茶を飲んだり、足をぶら〳〵させたり、匙を口へ持って行ったり、ちゅう〳〵音をさして汁を吸い込んだりするのを見て、そういうつまらないことを、この上ない悪事みたいに憎んだものです。

『当時わたしは少しも気がつきませんでしたが、こうした憎悪の期間は、われ〳〵が愛と呼んでいるものの期間に相当して、ぜん〳〵規則的に同じくらいな程度で襲って来ました。憎悪の期間の次には、愛の期間がつづくのです。猛烈な愛の期間が終ると、今度は長い憎悪の期間が来るのです。愛の表現が比較的弱いと、憎悪の期間も短いというわけ。その時分わたしたちは、こういう愛も憎悪も同じ動物的感情であって、ただそれが両極端に位していることを悟らなかったのです。もしわたしたちが自分の位置を了解したならば、こういう生活をするのは恐ろしいことだったでしょうが、わたしたちはそれを了解もしなければ、悟りもしなかったのです。この中に人間の救いもあれば刑罰もあるのです。つまり、不規則な生活をしていながら、自分の眼をくらまして、恐るべき己れの境遇を見まいとするのです。

『わたしたちもこの通りに暮らしていたのです。妻はいつも一生懸命、忙しそうに家政のことや、家の整理や、自分や子供の着物や、子供の教育、健康などで世話を焼いていますし、わたしはまたわたしで、自分の仕事を持っていました。つまり、飲酒や、勤務や、狩猟や、カルタなどです。わたしたちは夫婦とも、しじゅう忙しそうにしていました。そして、お互に心の中で、忙しければ忙しいだけ、ます〳〵相手に意地悪くすることが出来る、とこう感じていたのです。

「お前はそうしてしかめっ面をしていたらいいだろう。」と妻を見ながら、わたしは心に思ったものです。「ところがわたしはお前の乱痴気さわぎで一晩じゅう苦しめられた挙句、今日は会議に出なければならないのだ。」「あなたは結構なものですわ。」と妻は考えるだけでなく、口にさえ出していうのでした。「わたしは夜っぴて、赤ちゃんの世話で寝られませんでしたわ。」

『催眠術とか、精神病とか、ヒステリイ症とかいうこの頃の新しい理論は、単に馬鹿げたことであるのみならず、有害な忌わしいたわごとです。シャルコー博士がわたしの妻を見たら、きっとヒステリイだというでしょうし、わたしのことはアブノーマルだというに相違ありません。そして、悪くしたら、治療に着手するかも知れませんが、しかし治療などしたって仕方がないのです。

『こうして、わたしたちは絶えず迷霧の中に暮らして、自分たちがどんな状態にいるか知らないでいたのです。もし例の出来事がおこらなかったら、わたしは同じような状態で年をとって、死ぬ間際にも、「俺はいい一生を送った、まあ、格別いい一生でなかったにしろ、結局、悪い方じゃなかった、世間の人と同じようなものだ。」と考えたことでしょう。そして、自分がどんなに忌わしい虚偽と、不幸の深淵でもがいていたかを悟らなかったでしょう。

『わたしたちはちょうど一つの鎖で繋がれて、互に憎み合っている二人の囚人みたいなものでした。互に相手の生活を毒し合いながら、しかもそれを見ないように努めていたのです。その頃まだわたしは、世間の夫婦の九十九パーセントまでが、わたし同様、地獄の中に生活している、それよりほかに仕様がないのだ、ということを知らなかったのです。その頃まだわたしは、人の身の上でも、わが身の上でも、そういうことは夢にも知らなかったのです。

『ですが、規則的な生活にも、不規則な生活にも、恐ろしい暗合があるのは、実に不思議なくらいですよ。両親の生活がお互同士のおかげで、たまらないようになって来たちょうどその時分、子供の教育のために都会の生活が必要となって来ました。そこで、都会へ移住しなければならないこととなったのです。』

 彼は口をつぐんだ。そして、また二度ばかり例の奇妙な音を発したが、今度はもうまるで押しこらえた歔欷の声にそっくりであった。汽車はとある停車場に近づいていた。

『何時でしょう?』と彼は訊いた。

 わたしは時計を覗いて見た、もう二時である。

『あなた疲れたでしょう?』と彼は訊ねた。

『いや、しかし、あなたこそお疲れでしょう?』

『わたしは息がつまりそうです。ちょっと失礼ですが一廻りして、水を少し飲んで来ましょう。』

 こういって、彼はふら〳〵しながら、客車を通り抜け、向うへ出て行った。わたしは彼の物語ったことを残らず繰り返してみながら、ただ一人じっと坐っていた。余り考え込んでいたものだから、彼が反対の戸口から帰って来たのに、少しも気がつかなかった。


一八


『いや、どうも夢中になって、余計なことばかり喋っています。』と彼は語りはじめた。『わたしは、いろ〳〵考えて考え抜いた結果、多くの事物を新しい眼で眺めるようになったので、それをすっかりお話ししたかったのです。

『で、わたしたちは都会で生活を始めました。都会では人間が百年くらい暮らしても、自分がとっくに死んで朽ち果ててしまったことに、気がつかずにおられるのです。つまり、しじゅう忙しいものですから、自分で自分を分析してみる暇がないからです。仕事、社交上の関係、健康、芸術、子供らの健康、その教育──それから、今日は誰と誰の訪問を受けなければならず、明日は誰と誰のところへ行かなければならない。また一方では、誰それの芝居を見て、誰それの音楽を聞かなければならない、といった有様です。じっさい、都会ではどんな瞬間にでも、必ず見落し聞き落してならないような名手が、一人──いや時によると、二人も三人も何かやっていますからね。それかと思うと、また時には、自分や家内の誰彼の病気もなおさなければならず、時には家庭教師や、復習の相手や、保姆や、そういうものの心配もしなければなりません。それでいて、生活はまるっきり空っぽなんです。

『まあ、こういう風に暮らして、共棲生活の苦痛を感ずることは段々少くなりました。その上に、はじめの間は素晴らしい仕事がありました──ほかでもない、新しい町の新しい住居を整頓したり、飾ったりすることでした。それから、今一つの仕事は町から村へ、村から町へとしじゅう往復することなのです。

『一冬はこうして暮らしましたが、二度目の冬に、またこんなことが起りました。それは一見して、ごくつまらない、誰の眼にも立たないようなことでしたが、これこそあのカタストロフを引き起す原因となったのです。

『妻は健康がすぐれなかったので、医者たちは分娩を禁じて、その方法を教えました。わたしは実に忌わしいことに思ったので、ずいぶんそれに反対したものですが、しかし妻は軽率にも頑として主張してやまないので、わたしもついに屈伏してしまいました。豚のような生活の唯一の存在理由たる子供が奪い去られて、生活は一層忌わしいものとなりました。

『百姓や労働者の立場では、育て上げるのに骨は折れるものの、子供が必要なのです。だから、彼らの夫婦関係は存在理由を有することになります。ところが、われ〳〵子持の人間にとっては、その上にもう子供の必要はない。それは余計な心配であり、余計なものいりであり、遺産相続人の競争者であって、つまり子供は重荷なのです。こうなると、わたしたちの豚みたいな生活を弁護するものが、まるでなくなってしまうわけです。わたしたちは人工的に子供の出来るのを避けたり、または子供というものを一種の不幸と見なしたり、自分たちの不注意の結果と考えたりする。これなどはさらに醜悪なことです。

『全く弁護の余地がありません。けれど、われ〳〵は弁護の必要を認めないほど、道徳的に堕落してしまったのです。

『現代の教育ある社会の大多数は、なんら良心の苛責を感ずることなしに、この淫蕩生活に沈湎しているのです。

『じっさい、苛責などありようはずがない。なぜといって、われ〳〵の社会には良心などまるでないからです。仮りにしいて良心と呼ぶものがあるとすれば、それは輿論と刑法くらいなものです。ところが、この場合はどっちに対しても違反とはなりません。輿論など恥じることは少しもありません。マリヤ・パーヴロヴナも、イヷン・ザハールイッチも、みんなこれをやっているじゃないか。そうでもしないと、いたずらに貧乏人を繁殖さして、われ〳〵の社会生活をせち辛くするばかりではないか。また刑法を憚ったり、恐れたりすることもいらない。子供を井戸や池の中へ投げるのは、だらしのない田舎娘や兵隊の女房たちのすることで、そういうものは勿論、監獄へぶち込まなければならないが、われ〳〵はなんでも手遅れにならないうちに、きれいに片づけてしまうのだから。

『こうして、またもや二年ばかり暮らしました。忌々しい医者たちの授けた方法は、目に見えて效能を現わしはじめ、妻は体も肥えて来れば、縹緻きりょうもよくなって、さながら晩夏に見られる名残の美とでもいうような趣を呈したのです。彼女は自分でもそれに気がつき、おやつしに夢中になりはじめました。そして、何かしら一種挑発的な、人を不安にするような美が現われてきました。彼女の体には、もう子供を生まなくなった、充分に栄養の廻った、癇の強い三十女の有する力が、充分に感じられるのでした。妻の外貌は不安の気を惹き起して、彼女が男たちの中を通り過ぎでもすると、必ずその視線を引きつけるのでした。彼女はちょうど、長いこと何もしないでうまいものを食べながら、じっと厩の中に繋がれていた馬が、とつぜん手綱を切って放されたようなものです。わが国の婦人の九十九パーセントまでが、てんで手綱をつけられていないのと同じく、彼女にもそういう束縛が一切なかったのです。わたしもそれを直感して、空恐ろしくなりました。』


一九


 彼はとつぜん立ちあがって、窓のすぐ傍へ席をかえた。

『ご免なさい。』と彼はいって、じっと眼を窓外に放ちながら、三分間ばかりは無言のままで坐っていた。やがて、重々しく吐息をつき、再びわたしの前へ座を占めた。彼の顔はまるで別人のようになり、その眼はいかにもみじめで、ほとんど奇怪なといっていいくらい一種異様な微笑が、脣のあたりに皺を寄せているのであった。

『わたしは少し疲れましたが、でもお話ししましょう。まだ時間は沢山あります、まだ夜が明けはじめないようですから、そこで、』と彼は煙草に火をつけ、話し始めた。

『妻は子供を生まなくなってから、ずっと肥えてきました。そして、あの病気──子供のことで絶間なく苦しむという病気も、だん〳〵恢復して来ました。いや、恢復するというよりは、むしろ急に泥酔状態から目ざめた、といった方がいいでしょう。ふと気がついてみると、自分のすっかり忘れていたさま〴〵な悦びに充ちた、広い世界が眼に入ったのです。自分はこの広い世界に暮らすすべを知らなかったのだ。この世界がどういうものか一向わからなかったのだ。「なんとかしてのがさないようにしなければ! いったん時が去ったら、もうとり返しがつかない!」と妻が考えた、というよりむしろ感じたのが、わたしにはよく分りました。またどうしてこう考えたり感じたりせずにおられましょう。彼女はこの人生で注意に価するものは、ただ恋愛あるのみという風に教育を受けて来たのですもの。

『妻は結婚して後、この愛から少しは何ものかを得ましたけれど、しかし約束され期待されたものとはぜん〳〵違うばかりでなく、失望、煩悶の数々を味わされた上に、まるで思いもかけなかった苦痛を嘗めさせられたのです──それはつまり、大勢の子供でした。この苦しみが妻を疲弊させてしまったのですが、折も折、その時おせっかいな医者のおかげで、子供は生まないでも済むということを知ったのです。彼女は悦んでそれを実地に試験してみ、再び自分の知っていた唯一のもの、すなわち愛のために甦ったわけです。

『しかし、嫉妬やその他あらゆる憎悪に汚された夫との恋愛は、もはや彼女の求めるところではありませんでした。彼女は何かもっと違った、小ざっぱりした、新しい愛を心に描いていました。少くとも、わたしにはそう察しられました。そこで、妻は何やら待ち設けるように、あたりを見廻しはじめた。わたしはそれに気がついて、心配しないではいられませんでした。それからは始終のべつ幕なしに、こういうことがありました。妻はいつもの如く、第三者を通じてわたしと話をしながら(といって、その実わきの人と話をするのです)、わたしにはまるで注意を払おうとせず、母親の心配などというものは嘘の皮に過ぎない、子供のために自分の生活を犠牲にするのは馬鹿げている、若い間に人生を享楽しなければならない、などと大胆に主張して、一時間前にまるで反対なことをいったのは、けろりと忘れたような風をしているのです。彼女はだんだん子供の世話を見なくなり、以前のように死物狂いになることなどは、全然なくなってしまいました。そして、自分ではそれを隠すようにしていましたが、自分の容貌や、自分の快楽や、自分の勉強や、すべて自分のことのみに注意するようになりました。以前はまるで抛擲してしまっていたピアノを、また夢中になって稽古しはじめました。このピアノからして一切がはじまったのです。』

 彼は再び疲れたような眼を窓の方へそむけた。が、すぐまたわれとわが心を抑えつけたような風で、語をつづけた。

『そうです、そこへあの男が現われたのです。』彼はちょっと詰まった様子で、二度ばかり鼻で例の奇妙な音をたてた。

 彼はこの男の名を呼んだり、思い出したり、噂をしたりするのが、苦しくてたまらないらしかった。けれど、彼は勇を鼓して、自分の邪魔をする障碍物を思い切って破り棄てたような語調で、断乎として語をつづけた。

『その男はつまらないやつでした。少くも、わたしの眼に映ったところではね。それは、彼がわたしの生活にああいう役廻りを演じたからではなく、要するに、彼がじっさいそういう人間だったからです。もっとも、彼がつまらない人間だったということは、ただ〳〵妻がいかに頼みにならぬ女であったかを証明するに過ぎません。もし彼でなければ、誰かほかの男だったのです。それは疑う余地がありません。』彼は再び口をつぐんだ。『そう、その男は音楽家でした、ヴァイオリニストでした。しかし専門の音楽家ではなく、半ば専門、半ば社交界の人間でした。

『彼の父は、わたしの父の隣村に住んでいる地主でしたが、すっかり家産を傾けてしまったので、子供らは(男の子ばかり三人あったのです)みなそれ〴〵身の決まりをつけました。ところが、いちばん末の子に当るこの男だけは、パリにいる名付親のところへやられ、音楽の才があったところから、その地の音楽学校へ入れて貰いました。そして、ヴァイオリニストとしてそこを卒業し、方々の音楽会に出演するようになりました。この男は‥‥』何か手ひどい悪口をいいたかったのを我慢したらしく、彼は早口にこういった。『いや、向うではどんな暮らしをしていたか知りません。知っているのは、ただその年に彼がロシヤへ帰って、わたしの家へ現われたということだけです。

扁桃アメンドのような恰好をしたうるおいのある眼、微笑を含んだ赤い脣、油をてか〳〵つけた鼻髭、最新流行の刈込をした頭、婦人たちのいわゆる「好いたらしい」といったような厭らしさを持った綺麗な顔、醜くはないが弱々しい体格、そしてまるで女のように臀部が特に発達していました。ホッテントット人種もやはり臀部が発達していて、やはり音楽的な人種だそうですね。彼は出来るだけ馴れ馴れしく話しかけようとするたちの男ですが、しかしなかなか敏感なところがあって、ちょっとでも具合が悪いと、すぐ手綱をしめるだけの用意がありました。しじゅう自分の外面の品位を保つことに注意して、ボタンの付いた短靴にも、けば〳〵しい色をしたネクタイにも、すべてあらゆるものに、一種特別なパリっ子らしい面影が見えていました。それはパリにいる外国人が摂取するやつで、その新奇な点が必ず女の心を動かすのです。彼の言語動作には、わざと取ってつけたような快活さがありました。それから、よくあるやつですが、すべて妙に匂わせるような断片的な物のいいぶりをして、まるでこんなことは皆ご存じでしょうから、いい足りないところはご自分でよろしくお察しを、とでもいうような具合なのです。

『つまり、この男とその音楽が、一切の原因となったのです。裁判の時、この事件はすべて嫉妬から起ったもの、というように解釈されていましたが、しかしそんなことは少しもありません。いや、少しもないとはいえないかも知れません。つまり、そうでもあり、またそうでもなし、なんです。公判ではわたしが欺かれたる夫であって、自分の汚されたる名誉を恢復するために殺人をした、とこう決定されました(あの連中は、こんな風ないい方をするんですからね)。つまり、そのおかげでわたしを無罪にしてくれたのです。わたしは法廷で、真の意味を明かにしようと努めましたが、彼らはわたしが妻の名誉を恢復しようと望んでいるのだ、とこうってしまいました。

『この音楽家と妻との関係がどんなものであったにしろ、それはわたしにとってなんの意味をも持っていません。また妻にとっても同様です。意味のあることは、今まであなたにお話しした事柄、つまりわたしの醜劣な行為です。一切のことは、すでにあなたにお話しした恐ろしい深淵が、わたしたちの間に横たわっていたがために起ったのです。じっさい、相互の憎悪心は恐ろしいまでに緊張して、ほんのちょっとした導火線でも危機を醸し出すのに充分でした。わたしたち二人の間の争いは、このころ何かしら恐ろしいほどのものとなって、それが同じように緊張した動物的の情欲と交互におこるために、むしろもの凄いくらいでした。

『もしあの男が現われなかったら、誰かほかの男が現われたでしょう。もし嫉妬が動機とならなかったら、何かほかの動機が現われたに相違ありません。わたしはどこまでもこう主張します──かつてわたしが過したような生活を送っているすべての夫は、淫蕩三昧に耽るか、離婚するか、それとも自殺するか、またはそれとも、わたしのように自分の妻を殺すか、そのうちのどれかを選ぶよりほか仕方がありません。もしそういう羽目にならない人があったら、それは極めて稀有な例外です。じっさい、わたしはああいう最後の手段をとる前に、幾度も自殺の瀬戸際まで行ったものですし、妻もやはり毒を仰ぎかけたことがあります。


二〇


『ええ、それは本当でした。しかもカタストロフのちょっと前なんです。

『わたしたちはしばらく休戦といったような形で暮らしていて、何もそれを破る原因などなかったのですが、突然こんな会話が始まりました。「今度の展覧会でこれこれの犬が賞牌を取った。」とわたしがいいますと、妻は「賞牌じゃありません、褒状です。」という。そこで喧嘩がはじまったのです。対象はあれからこれと飛び移って、烈しい非難や詰責がはじまるのです。「いや、それはもう前から分りきってる、いつでもそうなのだ。」「でも、あなたがそうおっしゃったわ‥‥」「いや、わたしはそんなことをいやしない。」「じゃ、わたしが嘘をついていることになりますわね。」今にもすぐ自分を殺すか、相手を殺すかしなければ承知できないような、恐ろしい争いがはじまりそうな気配が感じられました。もうはじまるのは分っていて、それを火のように恐れているのですから、じっと我慢したらいいのですが、憤怒がわたしの全幅を領してしまったのです。妻も同じくらい、いや、もっと恐ろしいくらいな心の状態になって、わざとわたしの言葉を一々曲解し、まるで違った意味をつけてゆくのです。妻の一言々々は毒を含んでいて、しかも彼女はどこがわたしの最も痛いところかよく心得ているので、そこを狙ってはりをさすのです。争いの進行につれて、それがます〳〵ひどくなる。で、わたしは「黙れ!」とか何とか、そういう風のことを呶鳴りつけました。

『妻は部屋から飛び出して、子供部屋の方へ走って行きました。わたしはよく腑に落ちるように話そうと思い、妻の手を取って引き留めようと努力しました。が、妻はわたしが痛いことでもするような風を装って、「坊や、嬢や、お父さんがわたしをぶちなさるよ!」と喚くではありませんか。わたしが「嘘をつけ!」と呶鳴ると、「だって、これはもう一度や二度ではありません!」とかなんとか、そういったことを叫ぶのです。子供らがそこへ駈けつけると、妻はそれを宥めるので、わたしは「空々しい真似をするな!」といいました。すると彼女は「あなたには何もかも空々しいように見えるのです。自分で人を殺しても、空々しい真似をするとおっしゃるでしょうよ。わたし今こそ分りました。あなたはつまり、それを望んでいらっしゃるんだわ!」「おお、本当に貴様くたばってくれればいいに!」とわたしは叫びました。

『今でも覚えていますが、この恐ろしい言葉はわたしをぎょっとさせました。わたしは自分がこんな恐ろしい、下司な言葉を口にすることが出来ようとは、夢にも思い設けませんでしたから、それが口を辷り出た途端、我ながら呆れ果てました。わたしはこの恐ろしい言葉を呶鳴りつけると、そのまま書斎へ逃げこんで、椅子に腰を下ろし、煙草をふかしていました。ふと妻が玄関へ出て、どこかへ出かける支度をしているもの音が聞えました。

『「どこへ行くのだ!」と訊きましたが、妻は返事しない。「ふん、勝手にしやがれ!」わたしは書斎へ帰りながらそう独りごちて、また横になって、煙草をふかし始めました。どうして彼女に復讐してやろうか、どうして彼女をのがれようか、どうしてすっかり新規蒔き直しにしようかというさま〴〵な計画が、幾千となく脳裡に浮んでくるのです。わたしはそういうことばかり考えながら、やたらにぽか〳〵煙草をふかしました。一つ彼女の傍をのがれて、アメリカへでも身を隠そうかとも思いました。しまいにはわたしが彼女のくびきから脱して、何ともいえない心もちになり、まるっきり新しい、別な美しい女と一緒になった時の有様まで空想するのです。しかし、彼女のやくを脱するには、彼女が死ぬか、それとも離縁するかだが、さてどういう風にしたものかと考えました。わたしは自分の頭が滅茶々々にこんぐらかってしまい、必要もない見当ちがいなことばかり考えているのに気がついて、それを意識したくなさに、やたらに煙草をふかすのでした。

『ところが、家の中の生活は遠慮なく流れて行きます。保姆がやって来て「奥様はどちらへ? いつお帰りになりましょうか?」と訊くし、ボーイは「お茶を出しましょうか?」と訊ねる。食堂へ行って見ると、子供たち──殊にもう物ごころついてきた長女リーザが、不審そうな、なじるような眼つきでわたしを眺めるのでした。わたしたちは黙って茶を飲んでいましたが、妻はいっかな帰って来ません。夜はだん〳〵更けて来たけれど、彼女はやはり帰らない。すると、二つの感情が交る交る、わたしの心を占めるのでした。一つは妻が結局また帰って来るくせに、家を留守にしてわたしや子供を苦しめるという憎悪の念で、いま一つは、もしかしたら彼女は帰って来ないで、我とわが身に手を下すかも知れない、という恐怖の念でした。いっそ迎えに行こうか? しかし、どこを探したらいいのだ? 姉妹きょうだいのところか? けれど、姉妹のところへ行って訊ねるのは馬鹿げている。まあ、勝手にするがいい、もし人を苦しめたいなら、自分も苦しむのが当り前だ。もし迎えにでも行こうものなら、それみたことかというに違いない。そして、この次ぎにはもっと形勢が悪化するだろう。だが、万一、彼女が姉妹のところにいないで、何か早まったことをしたら‥‥いや、すでにしてしまったとしたら?‥‥

『十一時が打ち、十二時が打ちました! わたしは寝室へ行きませんでした。そんなところに一人で寝て待っているのも、馬鹿々々しい話ですからね。わたしはそのまま書斎で横になることにしました。何か手紙を書くか、本を読むかして、気を紛らしたいとは思いましたが、何も出来ません。わたしはたった一人書斎に坐って、煩悶したり、憤慨したり、聞き耳を立てたりしました。三時、四時──妻は帰って来ません。明け方ちかくうと〳〵しましたが、眼がさめて見ても、彼女はいないのです。

『家の中はすべて以前通りに動いていましたが、誰もがけげんそうな顔つきをして、みんな「これはあなたから起ったことです」といいたげに、なじるような眼つきでわたしを見やるのでした。ところが、わたしの肚の中では依然として、妻がひとを苦しめるという憤怒の念と、彼女の上を案じる胸騒ぎとが、相争っているのでした。

『朝の十一時ごろに、妻の姉が使者としてやって来、いつものお定りの文句が始まるのでした。「あれはいま恐ろしい有様になっていますよ。まあ、一体どうしたんですの?」「どうもしやしませんよ。」こういって、わたしは妻の性格のたまらないことを話し、自分は別に何もしなかったのだと言明しました。

「だけど、これをこのままうっちゃっておくわけには行かないじゃありませんか?」と姉はいいます。

「それは一切あれの勝手です。わたしの知ったことじゃありません。」とわたしは答える。「わたしの方から進んで、何もするわけにゆきません。離縁するなら離縁するがいいです。」

義姉あねはなんら獲るところなしに帰って行きました。わたしは自分の方からは決して何もしない、とさもえらそうに広言をはきましたが、義姉が帰ったあとで部屋を出ると、子供のおびえたような、みじめな姿が眼に入りました。わたしはもう先に折れて出てもいい、という気になりましたが、さてどういう風にしたものか分らない。で、また歩き廻ったり、煙草をふかしたりして、朝食の時にはウォートカと葡萄酒を飲みました。すると、もうそれだけで、自分が無意識に望んでいたこと──つまり、自分の立場の馬鹿々々しさ、卑劣さを見なくなるのに充分でした。

『三時頃に妻は帰って来ました。わたしを見ても、ものもいわないのです。わたしは彼女がを折ったのだと思ったから、自分は妻の烈しい非難に釣り出されて、つい心にもないことを口に出したのだ、といおうとしますと、妻は相も変らずいかつい、恐ろしく疲れたような顔つきをして、わたしはそんないいわけを聞きに来たのではない。ただ子供を連れに来たのだ、わたしたちはとても一緒に暮らすことが出来ない、とこう出るじゃありませんか。わたしはそれに対して、悪いのは俺じゃなくて、俺に前後を忘れさせたお前だといいかけると、彼女は厳しい勝ち誇ったような顔をして、わたしをじろりと眺めた後、「もう口をきくのをお止めなさい、あとで後悔なさいますよ。」と来るのです。わたしが、そんな喜劇は我慢できないというと、妻は何やら大きな声で喚きながら(何かよく聞き取れませんでした)、自分の居間へ飛んで行き、それから鍵をかちりと鳴らす音が聞えました。彼女は居間に閉じこもってしまったのです。わたしは扉を押しましたが、返事がないので、ぷり〳〵して向うへ行ってしまいました。

『三十分ほどたつと、リーザが涙ながら走って来ました。「どうしたんだい? 何かあったの?」「お母さんの声が少しも聞えないんですもの。」そこで、わたしたちは妻の居間へ行って、力いっぱい戸を揺すぶってみました。すると、栓がうまくはまっていなかったので、戸は両方へさっと開きました。寝台の傍へ寄って見ると、彼女はスカートを着け、踵の高い靴を穿いたまま、窮屈そうに寝台の上にてい、テーブルの上にはアヘンの入っていた罎が、からになって転がっていました。大騒ぎをして、漸く息を吹き返させました。それから涙、和解という順序です。が、それは本当の和解ではありませんでした。両方とも、心の中には古い憎悪の念が潜んでいて、しかもその上に、いさかいのために嘗めさせられた苦痛に対する憤激が加わっていたのです。二人とも、この苦痛を互に相手のせいだと思っていました。けれど、これらすべての悶着を、なんとかして解決してしまわなければならない。そこで、生活は再び旧の如く流れて行くのでした。

『このような有様で、こんな風のいさかいが──時にはもっと悪性のいさかいが、しじゅう起りました。一週に一度くらいのこともあれば、一月に一度のこともあり、時には毎日おこることもありました。しかも、それがいつも同じことなのです。一度など、わたしは外国旅行の免状を貰ったこともあります──ところが、喧嘩が二日ばかりつづくうちに、またもや不徹底な弁解と、不徹底な和解が成立して、わたしはついに思いとまったのです。


二一


『ちょうどあの男が現われた時、わたしたちの関係は、まあ、こういったようなものでした。あの男──その苗字はトルハチェーフスキイといいました──は、モスクワへつくと早速わたしの家へやって来ました。それは朝のことでした。わたしは会ってやることにしました。わたしたち二人はかつて以前「君僕」の間がらだったので、彼は「君」と「あなた」の中間くらいな言葉をつかいながら、「君僕」の関係を維持しようと努めましたが、わたしがいきなり「あなた」調で始めたものですから、彼はすぐそれに従いました。彼は、一眼見るなり、わたしの気に入りませんでした。けれど、不思議なことには、何かしら一種不可解なフェータルな力がわたしを引きずって、この男を突き離し遠ざけるどころか、かえって引き寄せるようにさえし向けたのです。じっさい、冷たい調子で彼と言葉を交した後、妻にも紹介しないで別れてしまえば、これほど簡単なことはなかったはずなんです。ところが、わたしはそうしないで、まるでわざとのように、彼の演技のことを持ち出し、彼がヴァイオリンを棄てたという話を聞いたが、それは本当かと訊ねたのです。彼はそれどころか、今は以前より盛んに弾いていると答えて、わたしが以前弾いていたことなども追懐しました。わたしはそれに対して、自分はもう弾かないけれど、妻はよく弾くと答えました。なんたる不思議なことでしょう! わたしが彼に会った最初の日、否、最初の一時間にわたしが彼に採った態度は、まるでああいうことが起った後で初めて採りそうなはずだと思われるような態度だったのです。彼にたいするわたしの態度の中には、何か妙に緊張したようなところがありました。わたしは自分や相手のいった一言一句に注意を払って、その中に重大な意味を感じるのでした。

『わたしは妻を紹介しました。話はすぐ音楽の上へ移って、彼は妻に伴奏の労をとろうと申出ました。妻はその頃しじゅうそうでしたが、その日も非常に優美で誘惑的で、人の心を騒がすような美しさを持っていました。彼は見受けたところ、一眼で妻の気に入ったようでしたが、そのほかに、妻はヴァイオリンと合奏する満足を得るのが、非常に嬉しかったのです。全く彼女は一度、そのためにわざ〳〵劇場からヴァイオリニストを傭って来たほど、合奏がすきだったので、彼女の顔にはあり〳〵と、その悦びが現われていました。けれど、わたしの顔を見ると、妻はすぐさまわたしの心もちを察して、顔の表情を変えました。そして、例のだましっこが始まったのです。

『わたしはさも愉快だというようなふりをして、気もちのいい微笑を浮べました。彼は、堕落した男の誰もが美しい女を見るような眼つきで、妻を眺めていましたが、うわべはただ話が面白いような顔をしていました。が、本当は、そんな話は彼にとって、何よりつまらないことだったのです。妻は平然たる顔つきをしようと苦心しましたが、いかにも嫉妬家やきもちやらしく不誠実な微笑を浮べたわたしの顔──彼女にとって珍しくないわたしの顔と、彼の肉感的な顔とは、明かに妻を興奮させたらしいのです。わたしは、まだ初めて顔を合わせたばかりの時から、彼女の眼が異様に輝きはじめたのに気がつきました。そして、これはわたしの嫉妬のせいかも知れませんが、彼と妻との間には、一種の電流のようなものが通い出し、それが同じようなまなざしや、微笑を呼び起すのでした。妻が赧くなれば彼も赧くなり、妻がほほ笑めば彼もほほ笑むというような具合でした。わたしたちは音楽だとか、パリだとか、そのほかなんのかのと、くだらないことばかり喋りました。やがて彼は暇を告げて立ちあがりました。びく〳〵慄える腿に帽子を当て、微笑を浮べながら、まるでわたしたちがどうするだろうかと待ち設けるように、わたしと妻を見較べて立っていました。わたしは今でも、この瞬間を覚えています。なぜなら、この瞬間、わたしは彼に今晩来てくれといわないでも、別に差支えなかったからです。それをいわなかったら、何も起らないで済んだでしょう。けれど、わたしはその時、彼と妻とを見やりながら、心の中で独りごちました。「わしがお前にやきもちをやいているだの、またお前を恐れてるだのと考えると間違うぞ!」わたしは心の中で彼にこういいながら、晩にはどうか都合して、ヴァイオリンを持って来て、妻と一緒に合奏してくれと招待したのです。

『妻はびっくりしたように、わたしをちらと見ると、さっと顔を赤らめました。そして、まるでおびえたような調子で、自分はそんなに上手には弾けないから、といって辞退をはじめました。この辞退がなおわたしをいら〳〵させるので、わたしは余計にいい張りました。やがて鳥みたいにぴょん〳〵跳ねるような足取りで、彼がわたしたちの傍を離れて行った時、わたしはそのうしろ頭や、両方へ分けた黒い髪からくっきり際だっている白い頸筋を、じっと見つめたのです。そのときの奇妙な心もちを、わたしは忘れることが出来ません。この男の同席が苦痛であったのを、わたしは自認しないわけにはゆきませんでした。今後、決してあの男を見ないようにしようと思えば、それは俺の一存で自由になるのだ、とわたしは考えました。けれど、そういうことをするのは、すなわちわたしが彼を恐れていることを自白するにひとしいのでした。いや、俺はあの男など恐れてはいない、それはあまりに卑屈だ、とわたしは独りごちました。で、その時も玄関の控室で、わざと妻へ聞えよがしに、ぜひ今夜にも早速ヴァイオリンを持ってお出で下さい、といい張ったものです。彼は必ずと約束して立ち去りました。

『晩に、彼はヴァイオリンを持って来ました。で、二人は合奏し始めましたが、演奏はしばらく巧く揃いませんでした。二人がほしいという譜はないし、ちょうど手許にある譜は、妻には準備なしでは弾けないのでした。わたしは音楽が大好きでしたから、二人の演奏に同感して、彼に譜台を立ててやったり、楽譜をめくってやったりしました。でも、二人はどうやらこうやら弾き終りました。それは何かしら言葉なしの歌と、モツァルトのソナタでした。彼の演技は素晴らしいものでした。彼は普通トーンと呼ばれるものを完全に備えている上、その性格にはまるで似ても似つかぬ、繊細で上品な趣味がありました。

『勿論、彼は妻よりも遙かに上手でしたから、妻の演奏を助け導いていましたが、同時に慇懃にその演奏を賞讃するのでした。彼の態度は極めて立派でした。彼はただ音楽にのみ気をとられているような風で、動作も単純で自然でした、ところが、わたしは一晩じゅう、音楽に気をとられているようなふりこそしていましたが、その実、絶えず嫉妬に悩まされていたのです。

『彼の視線が妻の視線に行きあった最初の一瞬間、彼ら二人の中に潜んでいた獣が、自分たちの位置や社会の節制を乗り越えて、「いいですか?」と聞くと、「ええ、ええ、いいですとも!」と答えたのに、わたしは気がつきました。彼は、モスクワ女たるわたしの妻がかくも魅惑を持っていようとは、夢さら思い設けなかったので、それを非常に満足に思っている様子が、あり〳〵と見え透いていました。なぜなら、妻が同意だということは、彼にとって少しも疑う余地がなかったからです。ただ問題は、厭な亭主が邪魔をしなければ、ということだけなのです。もしわたし自身が純潔な人間でしたら、そういうことは分らなかったでしょうが、わたしは世間の大多数の人と同じように、まだ結婚しない以前は女のことをその通りに考えていたので、わたしは彼の腹の中が書いた文字でも見るように、よく分るのでした。

『殊にわたしが苦しんだのは、妻はわたしに対して不断のいらだたしさよりほか、なんらの感情をも抱いていないことが、はっきり分っていたからです。この感情は時々、馴れきった性欲によって中絶されるに過ぎません。ところが、この男は外見の優美な点からいっても、また特に紛れもない音楽上の天才からいっても、合奏のために生じた心と心の接触からいっても、音楽、殊にヴァイオリンが感じ易い人の胸に与える影響からいっても、この男は単に虫が好くというくらいの程度ではなく、少しの動揺もなしに妻を征服しつくすということは、疑いをさし挾む余地もないくらいでした。彼は妻を揉みくたにし、繩のようにくる〳〵捩じ上げて、自由自在に翻弄するに相違ないのです。わたしはそれを見ないわけにゆきませんから、恐ろしく苦しみました。

『が、それにもかかわらず、いやあるいは、むしろそのためかも知れませんが、ある力がわたしの意志に反して、彼を鄭重に款待するばかりでなく、愛想のいい態度さえ示すように、わたしを強制したのです。つまりこれは、自分が彼を恐れていないことを示すために、彼や妻にして見せた仕草なのか、また自らを欺くために、自分に見せた姿勢なのか、そこはわたしには分りません。ただわたしは最初からして、彼に平気な態度をとることが出来なかったのです。わたしは彼を即座に打ち殺したい欲望につかまれないため、彼に優しくしなければならなかったのです。わたしは晩餐の時、彼に高価な酒を飲ませたり、彼の技に感心したり、とくべつ優しい微笑を浮べて彼と話をしたり、次の日曜日に食事に招待して、また妻との合奏を頼んだりしました。わたしは知人の中で音楽ずきの誰彼を呼んで、彼の演奏を聞かせようとまで言いました。まあ、こんな風でその晩は終りました。』

 こういいながら、ポズドヌイシェフは烈しい興奮に堪え兼ねて、体の位置を変え、例の独特な響を発した。

『この男の同席がわたしにどんな影響を与えたか、それは実に不思議なくらいです。』明かに平静たらんと努力しながら、彼は再び語り始めた。『その後二日目か三日目に、展覧会から帰って控室へはいると、とつぜん何か石みたいに重いものが、わたしの胸へのしかかるような気持がするじゃありませんか。しかし、わたしはそれが何であったか、自分でもはっきり分りません。ただ控室を通り抜けながら、何やらあの男のことを思い出さすようなあるものを発見したのです。やっと書斎まで来たとき、それがなんであったか分ったので、はっきり確めるために、控室へ引っ返して見ました。果せるかな、わたしは謬りませんでした。それはあの男の外套でした。お分りでしょう、流行の外套なのです(すべて彼のことというと、自分ではっきり意識こそしませんけれど、わたしは並々ならぬ注意ぶかさをもって気をつけるのでした)。召使に訊いて見ると、案のじょう、彼が来ているのです。わたしは客間を避けながら、子供の勉強部屋を通り、広間の方へ行きました。勉強部屋では、娘のリーザが本に向っていますし、乳母は赤ん坊を抱いて、何かの蓋をくる〳〵廻していました。広間の戸は閉めてありましたが、そこからは規則ただしい arpeggio(神速
和絃
)と、妻と男の声が聞えました。わたしは耳を澄ましましたが、はっきり聞き分けることが出来ませんでした。

『明かに、ピアノの音は二人の言葉を掻き消すために、わざと発しられているものに相違ない‥‥ことによったら接吻の音を消すためかも‥‥ああ! なんという考えがその折わたしの心中に生じたことでしょう! わたしはその時、自分の内部に棲んでいた野獣のことを思い出す度に、今でもぞっとするほどです! 心臓は俄然収縮して、一時に停ったかと思うと、今度はまるで鉄槌で叩くように、烈しく鼓動をはじめました。おもな感情は、いつも腹をたてた時と同様、自分自身にたいする憐愍の情でした。ああ、子供の前で! 乳母のいるところで! とわたしは考えました。きっとわたしはもの凄い形相をしていたのでしょう。リーザさえも、奇妙な眼つきでわたしを見つめるのでした。「一体どうしたらいいのだ?」とわたしは自問自答しました。「はいろうか? いや、はいるわけにはゆかん、おれは何をし出かすか分りゃしない。けれど、また出て行くわけにもゆかない。乳母がさも俺の立場を承知しているように、おれの顔を眺めているではないか。でも、はいらないわけにゃゆかん。」とわたしは独りごち、さっと戸を開けました。

『彼はピアノの前に坐って、上へ反った大きな白い指で、例の arpeggio を弾いていました。妻はピアノの片隅に立って、拡げた譜に向っていました。彼女は一番にわたしを見つけて(あるいは聞きつけたのかも知れません)、わたしの顔をちらと見ました。びっくりしたのか、びっくりしないようなふりをしたのか、それとも本当にびっくりしなかったのか、ともあれ彼女はびくともしないで、ただ顔を赤くしたばかり、それもちょっと後のことでした。

「まあ、あなたが帰っていらっして本当に嬉しいわ。わたしたちは日曜日に何を弾くか、まだ相談が決まらないんですの。」もしわたしたちが二人きりだったら、こんな風にはいわなかったろうと思われるような調子で、そういいました、それさえあるに、妻が自分と彼とのことを「わたしたち」といったのが、わたしをむっとさせました。わたしは無言で彼に挨拶しました。

『彼はわたしの手を握って、すぐに微笑を浮べながら(それがわたしには冷笑に見えました)、わたしに向って、日曜日の準備のために譜を持って来たのだが、何を弾くかということについて、二人の意見が一致しないで困る、といいました。つまり、むずかしい古典的なベエトーヴェンのソナタにするか、それとも、ちょっとした軽いものにするか、という点なのです。すべてが極めて自然で単純なので、何一ついさかいの種にするところがありません。と同時に、しかしわたしは、それはみんな嘘だ、二人はおれをだます方法をちゃんと申し合せたのだ、ということを固く確信したのです。

『やきもちやにとって(われ〳〵の社会では、誰も彼もが嫉妬漢なのです)もっとも苦痛な点は、男と女に過度で危険な接近を許す一定の社交界の条件です。もし舞踏会における接近や、医師と女患者との接近や、芸術、殊に音楽上の共同作業に必要な接近などを妨げようと思ったら、人のもの笑いにならなければなりません。人が差し向いで最も高尚な芸術たる音楽に従事するとなれば、そのためにはある程度までの接近が必要であって、その接近にはなんら非難すべき点はない。ただ愚かなやきもちやの夫が、何かしら好ましくないことのように思うだけです。ところが、こうした共同作業、殊に音楽の合奏などが仲介となって、われ〳〵の社会における姦淫の大部分が生じていることは、みな人のよく承知しているところです。

『見受けたところ、わたしの顔に浮んでいた混乱の表情は、彼ら二人をも混乱させたらしい。わたしは長い間、てんで口をきくことができませんでした。わたしはちょうど、逆さにされた瓶のようなものでした。水が余り一杯なために、かえって流れ出さないのです。わたしは彼を思うさま罵って、追っ払ってやりたかったのですが、しかしやはり愛想よく、優しくしなければならぬと感じ、その通りにしました。すべて賛成だというような風をしたのです。つまり、彼の同席がわたしにとって苦しければ苦しいだけ、かえってます〳〵愛想よく彼に応対させる、あの奇怪な感情に動かされたわけなのです。わたしは彼に向って、自分はあなたの選択を信用するし、妻にもそれを勧めるといいました。彼は、わたしがびっくりしたような顔をしてはいって来て、むっつり黙り込んでいた顔の不愉快な印象を掻き消すのに必要なだけ坐っていましたが、やがて明日の弾きものも決まったという顔をして、帰って行きました。わたしはいま彼ら二人の心を占めているものに比べると、明日なにを弾くかというようなことは、どっちになっても大したことはないのだ、と固く信じ込みました。

『わたしはかくべつ慇懃に彼を控室まで見送りました。(ああ、家庭ぜんたいの平和を乱し、その幸福を亡ぼしに来た男を、どうして見送らないわけにゆきましょう!)わたしはかくべつ愛想よく彼の白い柔い手を握りました。


二二


『この日いちにち、わたしは彼女にものをいいませんでした──出来なかったのです。妻が傍にいると、堪え難い憎悪が湧き起り、自分でも何をし出かすか分らないほどでした。食事のとき、彼女は子供らを前に置いて、いつ旅に出るかとわたしに訊きました。わたしは、次の週に郡貴族会の集会に出席しなければならなかったのです。わたしはいつ幾日いくかと答えました。妻は、旅行用に何かいるものはありませんかと訊ねましたが、わたしは何もいわないで、無言のまま食事を終え、同じく無言のまま書斎へ引っ込んでしまいました。その頃、殊に最近、彼女は決してわたしの部屋へはいって来なかったのです、わたしは書斎の長椅子に横になって、ぷり〳〵怒っていました。すると、突然、聞き馴れた足音がするじゃありませんか。そのとき思いがけなく恐ろしい醜い想念がわたしの頭に浮んで来ました。彼女はちょうどあのユリヤの妻のように、すでに犯した罪を隠そうと思って、そのためにこんな時ならぬ時にやって来るのではあるまいか?

「一体あれは俺のところへ来るのだろうか?」近づく妻の足音を聞きながら、わたしはこう考えました。もしわたしのところへ来るのだったら、こっちの想像が当ったわけです。すると、妻に対する名状し難い憎悪が、心の中にむら〳〵と湧きあがってきました。ああ、だん〳〵近づいて来る。ひょっと、ここを通り過ぎて広間へ行くのではないかしらん? いや、違う、戸がぎいと軋んで、背の高い美しい彼女の姿が戸口に現われました。その顔や眼の中には、臆病な、媚びるような表情が窺われました。彼女はそれを隠そうとしているけれど、わたしにはまざ〳〵と見えるばかりでなく、その意味さえ分っているのでした。わたしはほとんど息がつまりそうでした──長い間じっと息をこらえて、妻の顔を眺めつづけながら、煙草入を取ってふかし始めました。

「まあ、これは何てことでしょう。人がわざ〳〵話しに来るのに、あなたは煙草なんかお始めになるんですもの。」彼女はわたしのそば近く長椅子に腰を下ろして、わたしに凭れかかるようにしました。わたしは妻に触らないように体を引きました。

「わたし分ってますわ。あなたは日曜日の音楽会がお気に入らないんでしょう?」と彼女はいいました。

「決して気に入らなかないよ。」とわたしは答えました。

「それがわたしに分らないとお思いになって?」

「いや、それが分ったらお芽出たいよ。ところが、わたしに分っているのは、ただお前が淫乱女じみた真似をするということだけだ‥‥お前はなんでもけがらわしいことが面白いのだが、わたしはそれが恐ろしいのだ!」

「まあ、そんな辻待馭者みたいな言葉で悪口をおつきになるのなら、わたし行きますわ。」

「行くがいい、だが、これだけは心得ておけ、お前にとって家庭の名誉が大切でないにせよ、わたしにとって大切なのはお前じゃなくって(お前なんかどうでも勝手にしろ)、家庭の名誉なのだ。」

「まあ、なんですって、なんですって!」

「出てうせろ、お願いだから出て行け!」

『妻は何のことか分らないようなふりをしたのか、それとも本当に分らなかったのか、とにかく侮辱を感じて腹をたてましたが、しかし出て行こうともせず、部屋の真ん中に立ちどまりました。

「あなたは本当にたまらない人ね。」と彼女はいいはじめました。「あなたみたいな性質では、天使のような人だって、一緒に暮らすことが出来ませんわ。」といって、いつものように、出来るだけ強くわたしの急所を突くつもりで、かつてわたしが妻の姉と喧嘩した時のことを持ち出しました(それはある時、わたしが前後を忘れて、姉にうんと乱暴なことをいったのです。妻は、それがわたしにとって苦しいことを知っているので、そこへちくりと針を刺すのでした)。

「あれ以来、あなたがどんなことをなすっても、わたし驚きゃしません、当り前だと思いますわ。」と妻はいうのでした。

「ああ、こいつはかえってあべこべにおれを侮辱して、怒らせて、おれの顔に泥を塗って、そしておれを悪者にしようとしてるんだな。」と考えると、今までついぞ経験したことのないような恐ろしい憤怒が、わたしの全幅を領するのでした。

『わたしはこの時はじめてこの憤怒を、腕力で示してやりたくなりました。わたしは飛びあがって、彼女に詰め寄りました。けれど、今でも覚えていますが、飛びあがったその瞬間に、わたしは自分の怒りを自覚して、こういう感情に曳かれて行くのは、果していいことかと自問しましたが、すぐにそれはいいことだ、妻を脅すのにききめがあると自答して、憤怒を制する代りに、かえってよけい油を注ぎながら、だん〳〵烈しく燃えあがってゆくのに、喜びを感じはじめたのであります。

「出てうせろ、でないと貴様を殺してしまうぞ!」妻の傍へ近寄って、その手をつかみながら、わたしはこう呶鳴りました。こういいながら、わたしはわざと毒々しい声の調子を強めたので、その形相はさぞ〳〵恐ろしかったに相違ありません。なぜといえば、妻はすっかり慴えてしまって、部屋を出て行くだけの力さえなく、ただ「ヷーシャ、どうしたんです、一体まあ、なんだってそんな?」というばかりでした。

「出て行け!」わたしはよけい大きな声で喚きました。「お前がいると、俺はます〳〵気ちがいのようになるばかりだ。おれは何をし出かすか分らないぞ!」

『いったん自分の狂憤に出口を与えると、わたしは貪るようにその感情に酔いれました。わたしはこの狂憤の最高度を示すような、何か非凡なことをやりたくて、たまらなくなりました。わたしは妻を打って打って、打ち殺してしまいたくてたまらなかったのですが、しかしそれは出来ないと承知しているものですから、なんとかしてその狂憤の情を働かすために、テーブルの上から文鎮を取って、もう一度「出て行け」と呶鳴りながら、妻の横を狙って地べたへ叩きつけました。わたしは実に巧くわきの方を狙ったのです。その時、妻はとう〳〵部屋を出て行きましたが、戸口のところでちょっと立ちどまりました。その時、わたしはまだ彼女が見ている間に(つまり、妻に見せようがためにしたことなのですが)、テーブルの上から蝋燭立だの、インキ壺など、手当り次第のものをとって、床の上へ投げつけながら「出て行け! 行ってしまえ! おれは何をし出かすか分らんぞ!」と喚きつづけました。彼女が出て行くと、わたしはすぐにやめてしまいました。

『一時間ばかりして、乳母がわたしの部屋へやって来て、奥さんがヒステリイを起していらっしゃいますと告げるので、わたしはさっそく行って見ました。すると、彼女は泣いたり笑ったりして、何一つものをいうことが出来ず、全身をびく〳〵慄わせているのです。それは芝居でなく、本当に病気なのでした。

『明け方になって、彼女はやっと落ちつきました。そして、わたしたちは例の愛と呼ばれている感情の力によって、仲直りしたのです。

『朝、仲直りがすんだ後で、わたしはトルハチェーフスキイに嫉妬を感じていたのだ、と妻に自白しました。すると、妻は少しもきまりの悪そうな風をしないで、ごく〳〵自然な態度で笑い出しました。あんな男に心を惹かれるおそれがあるなどとは、考えただけでもおかしいほどだ、と彼女はいうのでした。

「あんな男が立派な淑女の心に、どんな感情を呼び起すことが出来ますか。ただ音楽の与えてくれる満足感だけですわ。もしなんなら、わたしあの人に一生あわないようにしてもよござんす。日曜日だって、大勢お客様が呼んでありますけれど、わたしが病気だからといって、ことわり状を出して下されば、それでもうおしまいですわ。ただひょっと誰か──殊にあの人が、自分はあの家庭にとって危険な人物だ、などと考えやしないかと思うと、ぞっとしますの。わたしはそんなことを考えさすには、あまりに誇りを持ち過ぎています。」

『全くそれは嘘ではありません。妻は自分で自分の言葉を信じていたのです。彼女はこうした言葉によって、彼に対する軽蔑の念をひき起し、彼の誘惑から自分を防禦しようと望んだのですが、しかしそれは成功しませんでした。すべてがみな彼女の意志に反して進みました。殊にあの忌わしい音楽が、否応のない力をもって迫ったのです。こうして、一切は無事に納まって、日曜日には客が集まり、二人は再び合奏をしたのです。


二三


『わたしが非常に虚栄心が強かったことは、いうまでもないと思います。もしわれ〳〵の日常生活に虚栄心がなかったら、わたしたちは生きてゆくことが出来なくなります。で、日曜日にわたしは趣向を凝らして、宴会と音楽夜会の準備にかかりました。わたしは自分で、宴会に要るものをいろ〳〵と買い整えて、客を呼んだのであります。

『六時頃に客はぜんぶ集まって、あの男も燕尾服を着込み、上品なダイヤモンドのカフス釦をつけてやって来ました。彼は妙にざっくばらんな態度をとり、何もかも承知しました。分りましたというような愛嬌笑いを浮べながら、さも忙しそうに応対しました。お分りでしょう、そら、人が何をしても、いっても、それは拙者が期待していたと同じことです、というような一種特別な表情なのです。わたしは、彼の持っているだらしのない見苦しいものを、すべて一つ残さず異様な満足感をいだきながら見てとりました。なぜなら、これらすべてのものは、彼が非常に低いレヴェルにたっていて、妻も自分でいったように、自らいやしゅうしてそこまで降りて行くことはとても出来ない、ということを立派に証明しているので、わたしもすっかり安心したわけでした。わたしはもう嫉妬などすることを自分に許しませんでした。それは第一に、この苦しみを充分味わいつくしてしまったので、ちょっと休息の必要があったのと、第二に、わたしが妻の誓いを信じたいと思ったのみならず、本当にそれを信じたからなのです。しかし、嫉妬はしなかったとはいうものの、わたしはやはり彼や妻に対して、自然な態度がとれませんでした。で、食事の間じゅうも、音楽がはじまるまでの夜会の前半も、わたしは依然として、彼ら両人の動作や視線に注意していました。

『晩餐会は、世間並の晩餐会と同じように、退屈なわざとらしいものでした。で、音楽はかなり早目にはじまりました。ああ、わたしはこの晩の光景を、どんな細かいことでも、あますところなく覚えています。彼がヴァイオリンを入れて来た箱を開き、どこかの婦人に刺繍してもらった蔽いをとり、楽器を取り出して、調子を合わせはじめたのを、よく覚えています。また、妻がわざとらしい平然とした表情で、ピアノに向って腰を下ろした様子も、覚えています。わたしはその平然たる表情の蔭に、非常な気おくれを隠しているのを見てとりました──それは主として、自分の技倆に対する気おくれなのです。彼女がわざとらしい様子でピアノに向うと、例の通りピアノの方では la の音を出し、ヴァイオリンの方ではピチカトを出して調子を合わせ、それから譜を前に拡げました。さてそれから、今でも思い出しますが、二人はちらと互に目配せして、席に着く聴衆の方をふり返り、何やら互にいったと思うと、演奏は始まりました。彼はまず最初の和音を出しました。すると、彼の顔は急に真面目な、厳めしい、気もちの好い表情になったのです。そして、自分の音に耳を傾けながら、彼は用心ぶかい手つきで絃を引っ掻きました。すると、ピアノがそれに答えて、ついに合奏がはじまったのです‥‥』

 ポズドヌイシェフは言葉をとめ、幾度もつづけて例の奇妙な音を発した。やがて、またいい出そうとしたが、急に鼻を鳴らして、再び口をつぐんだ。

『二人はベエトーヴェンのクロイツェル・ソナタを弾いたのです。』と彼は語りつづけた。『あなたは最初のプレストをご存じですか? ご存じですって ううッ。』と彼は叫んだ。『あのソナタは実に恐ろしい曲です。殊にこの初めの部分が‥‥それに全体として、音楽というやつは恐ろしいものです! 一体あれはなんというものでしょう? わたしは合点がゆきません。ぜんたい音楽とはなんでしょう? 音楽とは一体何をするものでしょう? またなぜ現在しているようなことをするのでしょう?

『音楽は霊魂を高めるような働きをする、と人はいいますが、それはノンセンスです、でたらめです! 音楽は恐ろしい作用をします(わたしは自分一箇のことをいっているのですよ)、決して霊魂を高めるような働きではありません。音楽は霊魂を高めも低めもしません、ただ魂をいら〳〵さす働きを持っているのです。なんてったらいいでしょう? 音楽は自分を忘れさせ、自分の位置を忘れさせます。人間を駆って自分のものでない、何かしら別な位置へ連れて行きます。人は音楽の力に釣られて、じっさい自分の感じないことを感じ、自分の理解しないことを理解し、自分の出来ないことも出来るような気がするのです。わたしはこれを次のように説明しましょう──音楽は欠伸あくびと同じ作用をするのです。人は眠くもないのに、人が欠伸をしているのを見ると欠伸がしたくなる。笑うわけなど少しもないのに、人が笑うのを聞くと、自然笑いだします。

『音楽はそれを作った人と同じ心境へ、否応なしに人を連れていってしまいます。その人の魂は作曲者の魂と溶合して、作曲者とともに一つの心境から他の心境へと移ってゆきます。しかし、それは果してなんのためでしょう? わたしには分りません。無論、作曲した人は──かりにこのクロイツェル・ソナタを例に取れば、ベエトーヴェンですな──なぜ自分がそういう心境に到ったかがよく分っていて、その心境が彼にある一定の行動をとらしたのですから、その心境たるや、彼にとって意味のあることです。が、他人にとってはぜん〳〵無意味です。つまり、それがために、音楽はただ人をいら〳〵させるだけで、解決をつけてくれない。そりゃ勿論、マーチが吹奏されて、兵士が足並そろえて進む場合は、音楽の目的が達しられたのです。舞踏曲が奏せられて、人がダンスをすれば、これも音楽の目的が達しられたのです。また弥撒ミサが歌われて人が聖餐を受ければ、それも同様、音楽の目的が達しられたわけです。ところが、そのほかの場合では、単に人をいら〳〵させるばかりで、しかもその焦躁の中で何をしたらいいかということは、皆目わからないんですからね。シナでは音楽は国家の事業となっていますが、それは全くそうあるべきことなのです。一体どんな人間でも勝手放題に相手のものに(時にはまた一時に大勢の人に)催眠術をかけて、その後で自分のしたい放題なことをする、なんてことを許していいものでしょうか? しかも何より恐ろしいのは、どんな背徳漢でも、この催眠術師になれるという点なのです。

『この恐ろしい武器が、誰彼の差別なく手に入れられるのです! たとえば、このクロイツェル・ソナタ、殊に最初のプレストですね、一体あれをデコルテを着た婦人たちの間で、普通の客間の中で弾いてもいいものでしょうか? あのプレストを弾いて、後でお客の相手をし、それからアイスクリームを食べたり、新しい市井の風評を語り合ったりしていいものでしょうか? ああいう曲は、一定の厳粛な意味のある場合にのみ奏すべきで、しかもその音楽に相当した一定の行為を必要とする時に限ります。つまり、演奏された音楽の呼びおこす気分に従って、行為しなければなりません。その反対に、行為をもって表現されないエネルギイや感情を、やたらに時と場所を考えずに呼びさましたら、それは恐るべき反応を示さないではおきません。

『少くとも、わたしにはこの曲が恐ろしい作用を及ぼしました。わたしはなんだか、今まで少しも知らなかった新しい感情や、新しいポシビリティが開示されたような気がしました。「ああ、これなんだ。今までおれが考えたり生活したりしていたのとは、まるで別なのだ。なるほどこれだ。」と、そういう声がわたしの胸の中で聞えました。わたしの悟った新しいものがなんであるかは、わたし自身にもはっきり分りませんでしたが、しかしこの新しい心境の意識たるや、実に悦ばしいものでした。すべての人が(それは無論、妻もあの男も一括しての話です)、まるで別な光に照らし出されたような気がしました。

『このプレストの後で、二人は見事ではあるが、極めて平凡な新味のないアンダンテに、俗悪なヴァリエーションをつけて弾き進みました。そしてフィナーレに到ると、もはや全く力抜けがしていました。それから、二人は客の乞いによって、エルンストのエレジイや、そのほかいろ〳〵の小曲を弾きました。それらはみなよく出来ましたが、しかし最初の曲に比べると、百分の一の印象をもわたしに与えませんでした。つまり、最初の曲が与えた印象を背景として演奏されたからです。

『わたしは一晩じゅう、軽々とした楽しい気分で過しました。わたしはこの晩みたいな妻の様子を、かつて見たことがありませんでした。演奏している間のあの輝かしい眼、あの厳めしくものものしい表情、それから演奏を終った時のぐったりと萎れたような体つき、弱々しい憐れな幸福らしい微笑──わたしはそういうものをことごとく見てとりましたけれど、別に大して意味を認めませんでした。ただ妻もわたしと同じ心もちを経験したのだ、妻の心にもわたしと同じように、まだ味わったことのない新しい感情が啓示され、回想されたのだ、とこんな風に解釈しただけでした。夜会は無事にすみ、一同はそれぞれ散じて行きました。

『トルハチェーフスキイは、二日後にわたしが郡貴族会の集会に出かけなければならぬことを知っていたので、別れしなにわたしに向って、今度またモスクワへ来たときに、もう一ど今夜の悦びを繰り返したい、といいました。わたしはこの言葉からして、この男は自分の留守の間に家へ来るわけに行かないと思ってるな、と結論しました。それがわたしには愉快でした。

『聞いて見ると、彼がモスクワを去るまでに、わたしは田舎から帰って来られないので、二人はもう会うことが出来ない、ということが分りました。

『わたしははじめて、真の悦びをもって彼の手を握り、その演奏を感謝しました。彼も同様、正式に妻に別れを告げましたが、二人の別れの挨拶は、わたしの眼に極めて自然な、極めて礼儀ただしいものに映りました。何もかも結構ずくめです。わたしも妻も、心から今日の夜会に満足したのであります。


二四


『二日の後、わたしは妻と別れを告げて、この上なく穏かな、はれ〴〵した気もちで、郡部へ向けて出発しました。

『田舎にはいつも仕事が山のようにあって、ぜん〳〵特殊な生活、特殊の小世界をなしていました。わたしは二日間ぶっつづけに十時間ずつ会議に列なっていました。翌日、会議の席へ妻の手紙が届き、わたしはすぐその場で読んで見ました。

『妻は子供のことや、叔父さんのことや、乳母のことや、買物のことなど書いていましたが、その中にごく当り前のことかなんぞのように、トルハチェーフスキイが用事のついでに約束の譜を持って来て、また合奏をしようと申し入れたけれど、断わってしまった、と書いているのでした。

『わたしは、彼が譜を持って来ると約束したことなどは覚えていません。わたしはあの時、彼が正式に当座の別れをしたと思っていたので、この事実はわたしに不快なショックを与えました。しかし、仕事が山ほどつかえていて、考えごとなどしている暇はなかったので、わたしは晩、宿へ帰ったときに、やっとはじめて手紙を読み返して見ました。

『トルハチェーフスキイがわたしの留守にもう一ど来たと云うことのほかに、手紙の調子ぜんたいが妙にわざとらしく思われました。物狂おしい嫉妬の獣は檻の中で呻きだして、外へ飛び出しそうになりましたが、わたしはその獣が恐ろしかったので、大急ぎで戸を閉めてしまいました。「この嫉妬というやつは、なんていやらしい感情だろう!」とわたしは独りごちました。「妻の手紙以上に、自然な書き方がほかにあるものか?」

『わたしは床について、明日の仕事のことを考え始めました。わたしはいつもこの会議に来た時、場所が変ったために長いこと寝られないのが常でしたが、この時は非常に早く寝ついてしまいました。ところが、こういうことはえてあるものですが、わたしはとつぜん電気のショックでも受けたように、眼をさましました。つまり、妻のことや、妻に対する自分の肉体の愛のことや、トルハチェーフスキイのことや、妻と彼との間はもう一切が終っている、というような想念をいだいて、眼をさましたのです。恐怖と憤怒とが、わたしの心臓をしめつけました。が、わたしは自分で自分に諄々と説いて聞かせるのでした。「なんという馬鹿げたことだ。そんなことはなんの根柢もありゃしない。なんにもない、また何もなかったのだ。まあ、どうして俺はこんな恐ろしいことを想像して、妻や自分を侮辱するような真似が出来るんだろう。一方はまるでお座敷芸人同然のヴァイオリン弾きで、くだらないやつとして知られた男だ。ところが、一方は身分のある婦人で、尊敬すべき一家の母で、しかもおれの妻じゃないか! なんたる馬鹿々々しい話だ!」と一方ではこう考えるのです。

「どうしてそれがあり得ないのだろう?」また一方ではこういう想念も浮んで来ました。「これほど単純な分りきったことが、あり得ないはずがないじゃないか。つまり、俺があれと結婚したのもこれがためだ。俺があれと一緒に暮らしているのも、これがためだ。俺があれを必要としていたのも、要するにこれがためだから、従ってほかの者だって、あの音楽師だって、やはりそれが必要なのだ。あの男は未婚で、健康で(あの男がカツレツの中の軟い骨をぱり〳〵と咬み砕き、酒のはいったコップを貪るように赤い脣でくわえた様子を、俺は今でもちゃんと覚えている)、食い肥って、のっぺりしていて、単に無規律というばかりでなく、明かに手当り次第の快楽を味わってやれ、という規律によって動いている男だ。それに、二人の間には音楽という、最も洗練された情欲の連鎖がある。この上あの男を躊躇さすべき何ものがあるというのか! ところで、妻はどうだ? あれは果してどんな女だろう? あの女は謎だ、以前もそうだったし、また今でもその通りだ。俺はあれの本性が分らない。ただ分っているのは、あれが動物だということだけだ。動物は何ものをも抑制することが出来ない、またすべきものでもないのだ。」

『わたしは漸く今になって、あの晩二人がクロイツェル・ソナタの後で、何か恐ろしく情熱的な小曲を演奏した時の顔を思い出しました。それは誰の作か覚えていませんが、何かしら下司なくらい肉感的な曲でした。「どうしておれは平気で出発が出来たろう?」二人の顔を思い出しながら、わたしはかく独りごちました。「あの晩、二人の間で一切が成立したのは、火をみるより明かではなかったか? あの晩、二人の間に少しの隔てもなかったばかりか、そういうことのあった後で、二人のもの(殊に妻)が、一種の羞恥を感じたくらいだ。それが一体見えなかったのか?」今でも覚えていますが、わたしがピアノの傍へ寄ったとき、妻は真赤になった顔から汗を拭きながら、弱々しく、憐れっぽい、幸福げな微笑を浮べました。二人はもうその時から、互に視線を避けていました。ただ夜食の席で、彼が妻に水を注いでやった時、二人はちらと顔を見合わせて、ほんの心持にっと笑ったのです。今わたしは何げなく捕えた二人の視線と、あるかなきかの微笑を思い出して、慄然としました。

「そうだ、万事終ったのだ。」と一つの声がこうわたしに囁くと、もう一つの声はまるで反対のことを告げるのでした。「これはお前が何かにかれたのだ、そんなことがあるはずはない。」わたしは暗闇の中で寝ていると、息がつまりそうになったので、ぱっとマッチをすりました。すると、黄色い壁紙を張ったこの小さな部屋の中にいるのが、なんだか恐ろしいような気がするのでした。わたしは煙草に火をつけて、いつも解決の出来ない矛盾の圏内を、始終どう〳〵廻りをするときに必ずやる癖ですが、ぽか〳〵ふかし始めました。そして自分の理性を晦まして、矛盾を見ないために、幾本も幾本も立てつづけにふかすのでした。

『わたしは一晩中、まんじりともしませんでした。そして、朝の五時頃に、到頭これ以上こういう緊張した心の状態に堪えることが出来ない、もうすぐ出発しようと決心して、わたしは寝床を出ると、身の廻りの用を足してくれる番人を起し、馬車を呼びにやりました。会議の方へは急用のためモスクワへ帰らなければならないから、誰かほかの会員にわたしの代りをさして貰いたいという届を出して、八時にはもう四輪馬車に乗って出かけました。』


二五


 車掌がはいって来た。わたしたちの蝋燭が燃え尽きたのを見て、別に新しいのと取り替えもせずに消してしまった。外はもう白みはじめた。ポズドヌイシェフは、車掌が車の中にいる間じゅう、重々しく息をつきながら無言でいた。やっと車掌が出て行った時、彼ははじめて自分の物語りをつづけた。車室の薄闇の中に、窓ガラスのがた〳〵揺れる音と、規則ただしい手代の鼾が聞えるばかりであった。暁の薄明の中では、もうポズドヌイシェフの顔が少しも見えず、次第に興奮の度を増してゆく悩ましげな彼の声が聞えるばかりであった。

『道のりは馬車の間が三十五露里、鉄道が八時間ばかりでした。馬車の旅は実に素晴らしいものでした。それは太陽の燦然と輝く冷たい秋の朝で、あなたもご存じでしょうが、油を引いたような道の上に、車のゴム輪の痕が綺麗に印せられる頃なのです。道は坦々としているし、あたりは輝かしい光に充ちているし、空気は人の心を引き立てるような具合で、四輪馬車に乗って旅するのは、いい気もちでした。夜が明けて出発すると、わたしの心もちはずっと軽くなりました。馬や、野や、道行く人などを見ているうちに、わたしは自分がどこへ行ってるのか忘れるくらいでした。時々、自分はただなんということなく旅行しているので、あのような帰宅を促した事情などはまるで存在しないような気がすることさえありました。わたしはこうして自己忘却に陥るのが、殊に嬉しかったのです。そして、今どこへ行ってるかということを思い出した時には、「その時になって見れば分ることだ、考えるのはよそう。」と独りごつのでした。

『ちょうど半分道くらいのところで、一つの事件が起ってわたしの足を停め、一層わたしの気を紛らしてくれました。というのは、馬車がこわれて、修繕しなければならなくなったのです。この破損は大変な意味を持っていました。つまりそのために、わたしは急行列車に間に合わず、普通列車で行かなければならなかったので、モスクワへついたのは予定の午後五時よりずっと遅れて、夜中の十二時になり、家へ乗りつけたのは、すでに一時前だったのです。田舎馬車を探しに行ったり、修繕したり、金を払ったり、駅逓で茶を飲んだり、庭番と話をしたり、こういうことが、ひとしおわたしの気を紛らしてくれました。黄昏たそがれごろにはすっかり修繕が出来上って、またわたしは出かけました。夜の旅は昼間よりもさらにようございました。なつかしい新月、かすかに凍った空気、昼間より一段よくなった道路、馬、陽気な馭者──わたしはいい心もちで旅行をつづけながら自分を待ち設けていることなどは、いっさい考えませんでした。しかしことによったら、自分を待ち設けているものを知っていたので、生の悦びに別れを告げるため、余計そういう心もちを楽しんだのかも知れません。けれど、こうした穏かな心もちは──自分の感情を圧伏する可能は、馬車旅行とともに終りを告げました。

『汽車の中へはいると同時に、すべては一変してしまいました。この八時間の汽車旅行は、わたしが一生忘れることの出来ない恐ろしいものでした。それは、汽車に乗るとともに、早くも目的地に着いたような気がしたためか、それとも全体に鉄道が、人を興奮さすような働きを持っているのか知りませんが、とにかく汽車に乗ると同時に、わたしはもう自分の想像を制御することが出来なくなりました。想像は異常な鮮明さをもって次から次へと、わたしの嫉妬心を燃やすような画面を描きはじめました。それはみんな、留守中に向うで起ったことなのです。つまり、妻がわたしに背いたことなのです。わたしはこういう画面を心の眼で眺めながら、憤懣と憎悪と、それから我とわが屈辱を貪り啜るような、一種異様な心もちに燃えたって、どうしてもその画面から眼を放すことも出来なければ、それを呼び起さずにいることも出来ないのでした。のみならず、こういう想像の画面を見ていればいるほど、ます〳〵その真実を信じて来るのです。その画面の鮮かな生々しさが、わたしの想像の真実であることを説明しているように思われました。それはまるで、何かの悪魔がわたしの意に反して、この上なく恐ろしい想像を考えつき、わたしにそれを教えてくれるのかと思われるばかりでした。わたしはふと、久しい以前にトルハチェーフスキイの兄が、話したことを思い出しました。そして、この話をトルハチェーフスキイと妻に当てはめながら、それでもって自分の胸を引っ掻いては、一種病的な歓喜を覚えるのでした。

『それはずいぶん前のことでしたが、わたしはふいと思い出したのです。ある時トルハチェーフスキイの兄は、不潔な場所に出入するかという問に対して、「身分のある人間は、病気伝染のおそれのある、不潔なけがらわしい場所へ出入しない。そんなことをしなくても、いつだって立派な婦人を見つけることが出来るではないか。」と答えたものですが、その通りに弟のトルハチェーフスキイも、今わたしの妻を発見したわけなのです。「もっとも、あれはもう若盛りといえないし、横歯が一本抜けて、幾分ぶよ〳〵しはじめた気味がある。」と、わたしは彼の立場になって考えて見ました。「しかし、どうも仕方がない、眼の前にあるものは利用しなければならない。」そうだ、あの男が妻を情婦にするのは、一種の譲歩をしているわけだ(とわたしは心に思いました)。それは妻には衛生上の危険がないし‥‥

『いや、そんなことがあってたまるものか! わたしはぞっとして、また考え直しました。そんなことはない、決してない! そんなことを想像する根拠は更々ない。現に妻はおれに向って、あなたがあんな男に嫉妬すると考えただけでも屈辱ですわ、といったではないか。そうだ、しかしあれは嘘つきだ、しじゅう嘘ばかりついている! とわたしは叫びました。そうして、またもや前と同じことを新規まきなおしなのです。

『その車室の中には、乗客がたった二人しかいませんでした。それは年寄りの夫婦づれで、二人とも恐ろしく無口でしたが、それさえとある停車場で降りてしまい、わたしは一人ぼっちになりました。わたしはまるで檻の中の獣でした。飛びあがって窓の傍へ寄ってみたり、汽車を急がせようとあせりながら、よろ〳〵と歩きだしたりしましたが、汽車はちょうどこの列車と同じように、ベンチや窓ガラスをがた〳〵震わせているばかりでした。』

 ポズドヌイシェフは飛びあがって、幾足か歩きだしたが、また腰を下ろした。

『ああ、わたしはこの汽車が恐ろしい、じつに恐ろしい、汽車に乗ると、なんともいえない恐怖に襲われます。全く恐ろしい!』と彼は語をつづけた。『で、わたしはほかのことを考えるようにしよう、と独りごちました。まあ、一つ、きょう自分が茶を飲んだ駅逓の亭主のことでも考えよう。すると、わたしの想像の中に、長い頤髯を生やした庭番と、その孫の姿が浮んで来ました。それは家のヷーシャと同い年の子です。家のヷーシャ? あの子は、ヴァイオリン弾きが母を接吻しているところを見たであろう? 可哀そうに、あの子の心の中はどうであったか? しかし、あれはそんなことをなんとも思いはしない! あれが愛しているのは‥‥と、またしても同じ想念が湧いて来るのです。いけない、いけない、それでは一つ、病院参観のことを考えよう。そうだ、昨日ある病人が盛んに医者の不平を訴えたっけ。ところが、その医者はちょうどトルハチェーフスキイと同じような鬚を生やしていた。だが、あいつはなんという図々しい‥‥あいつはモスクワを出発するなどといったが、あの時二人がかりでおれをだましたのだ。こういう具合で、またぞろはじまるのです。何を考え始めても、すぐあの男に結びついてしまうのです。

『わたしは恐ろしく苦しみました。おもな苦しみは無知と、疑惑と、自己分裂にありました。つまり、彼女を愛すべきか、憎むべきか分らないという点にあったのです。その苦しみは、何かしら異様な感情でした。自己の屈辱と相手の勝利を意識する憎悪感もありましたが、しかしとにかく、彼女に対して烈しい憎しみを覚えたのです。「このまま自殺なんかして、あれを打っちゃっておくことは出来ない。たとえ幾分たりともあれを苦しませてやらなきゃならない。俺がどのくらい苦しい思いをしたか、悟らせてやらなきゃならない。」とわたしは心の中で考えました。

『わたしは気を紛らすために、停車ごとに外へ出てみました。ある停車場の食堂で、人が酒を飲んでいるのを見ると、わたしもすぐウォートカを飲みました。わたしのすぐ傍に、一人のユダヤ人が立って、同じようにっていましたが、頻りに話しかけるのです。わたしはただただ二等車に一人ぼっちでいたくなさに、彼と一緒に、向日葵ひまわりの殻の一ぱい吹き散らされた、煙草の烟のもう〳〵している、汚い三等車へ行き、彼の傍に並んで腰を下ろしました。彼はのべつ喋りたてて、いろんな笑話を話して聞かせましたが、わたしはそれを聞いているくせに、なんの話か少しも分りません。依然として自分のことばかり考えていたからです。彼はそれに気がついて、注意を促したので、わたしはぷいと立ち、また自分の車台はこへ帰りました。

「よく考えなきゃならん。」とわたしは考えました。「一体おれの考えることは正しいのだろうか、こんなに苦しむ根拠があるのだろうか?」わたしは落ちついて考えようと思って、腰を下ろしましたが、落ちついてよく考える代りに、またもや同じことが繰り返されるばかりでした。つまり、批判ではなく、例のさまざまな画面と想像が浮んで来るのでした。「おれは今までどのくらいこれと同じような苦しみをしたろう。」以前によくあった似寄りの嫉妬心の発作を思い出して、わたしは自分で自分にこういいました。「が、結局、いつも何ごともなしに終ったではないか。今度もそれと同じように、ことによったら、いや、確かにあれは穏かに眠っているに相違ない。それから、眼をさまして、俺の帰りを悦んでくれる。その話ぶりや眼つきによって、何も変ったことはなかったのだ、あれはみんな馬鹿げた妄想だった、と直覚する──ああ、もしそうだったら、どんなにいいだろう!」

「いや、しかしそういうことは、今まであまり度々あり過ぎた。今度はもうそうじゃないだろう。」とまた別の声が囁いて、またしても懊悩がはじまるのです。

『ああ、こういうところに刑罰は隠れているのでした! わたしは、若い人の好色を根絶するためには、梅毒病院などへ参観にやるよりも、わたしの魂を覗かした方がいいと思います。この魂を八つ裂きにしている悪魔の群を、見せてやりたいと思います! 実際、何より恐ろしいのは、今まで妻の体が自分のものであるか何ぞのように、それに対する絶対完全な自分の所有権を認めていながら、同時に「この体を領有することは不可能だ、これは自分の体でないから、彼女はそれを自分の好きなようにすることが出来る、そしてまた、おれの望み通りにしたくないと思っているのだ。」と感じていた点であります。わたしは彼女にもまた彼にも、どうすることも出来ないのです。彼は絞首台の前に立った窖番あなぐらばんのヷンカ(国民伝説、主人の妻と通
じて刑罰を受けた下男
)みたいに、砂糖のような甘い口に接吻した云々と歌うのだろう。いや、それよりもっと上手うわてを行くだろう。ところが、妻に対してはなおのこと何も出来ない。あの女がまだ何もしないけれど、心の中でしたいと思っていたら、また、わたしが彼女のしたいと思ってることを知っていたら、それは余計いけない、それよりはいっそ背いてしまった方がましだ、そうすれば、こちらはちゃんと分っていて、迷いというものがなくなるわけだ。わたしは自分が何を望んでいるのか、分りませんでした。ただ妻が必ず望むに相違ないことを望まないように、と望んでいたのです。これはもう全く狂気の沙汰でした!


二六


『終点の一つ手前の駅で、車掌が切符を集めに来たとき、わたしは自分の荷物を纏めて、ブレーキのところへ出ました。もう僅かの間だ、解決はもう眼の前に迫っていると思うと、なおのこと興奮の度が増してくるのでした。わたしは急に寒けを覚え、歯がかち〳〵鳴るほど慄えはじめました。わたしは器械的に、群衆と一緒に停車場を出、辻馬車を傭ってそれに乗り込み、家路をさして出かけました。わたしはまばらな通行人や、街灯が映し出す自分の馬車の影が、時にうしろへ時に前へ動くのを眺めながら、何も考えないで進みました。四五町ほど来たとき、足が寒くなったので、わたしは汽車の中で毛の靴下を脱ぎ、鞄の中へ入れたのを思い出しました。鞄はどこだろう? 馬車の中かしらん? その通りでした。ところで、籠はどこだ? その時わたしは、すっかり手荷物のことを忘れてしまったのを、思い出しました。思い出して、チッキを出して見てから、そのためにわざ〳〵引っ返すこともないと決め、そのまま先へ行きました。

『わたしは今どんなに苦心しても、その時の心もちを思い出すことが出来ません。何を考えたか? 何を望んだか? 少しも分らないのです。ただ、これから何かしら恐ろしい、生涯の一大事が行われるのだ、という意識のあったことだけは覚えています。一体あの一大事が起ったのは、わたしがこういうことを考えたがためか、それとも、こう考えたのが正しい予感であったか、それはどっちともいえません。しかし、ああいうことが持ちあがったればこそ、その以前のことがわたしの追想の中で、陰欝な色合いを帯びたのかも知れません。

『わたしは玄関口まで馬車を乗りつけました。もう一時前でした。入口の階段のそばには、窓に灯りがついているのから察して、客があると思ったらしく、二三の辻馬車が待っていました(その灯りのついた窓は、わたしのアパートメントの広間と客間でした)。なぜ自分の家にこんなに遅くまで灯りがついているのか、そんなことは考えようともせず、わたしは依然として、何か恐ろしいものを期待するような心もちで、入口の階段を昇って、ベルを鳴らしました。人がよくて、勤勉で、そして恐ろしく馬鹿な、従僕のエゴールが戸を開けました。まず第一にわたしの眼に映ったのは、控室の外套掛に、ほかの着物と一緒に懸っている外套でした。わたしは驚かなければならぬはずでしたが、かねてこれを待ち設けていたこととて、少しも驚きませんでした。「果せるかなだ!」とわたしは心に思いました。エゴールに、誰が来ているかと訊くと、彼はトルハチェーフスキイの名をいいました。まだ誰かほかに来ているかと訊くと、誰もいらっしゃいませんとの答えでした。今でも覚えていますが、エゴールがこう答えた時の調子といったら、まるでほかにまだ誰かいはしないかという疑問を一掃して、わたしを喜ばせようとでも思ったような具合でした。「そうか、そうか、」とわたしは、自分にいい聞かすように呟きました。「して、子供らは?」「神様のおかげでみなご丈夫で、もう前におやすみになりました。」

『わたしは充分息をつくことも出来なければ、顎の慄えを留めることも出来ませんでした。「してみると、おれの考えた通りではなかったのだ。以前はよく不幸が持ちあがったと思っても、いつも無事で、もと〳〵通りに済んだが、今度こそはいよ〳〵もと〳〵通りではない。おれがあれほど想像し抜いて、単に想像に過ぎないと思っていたことが、いよ〳〵現実となってしまったのだ。ああ、あれがすっかり‥‥」

『わたしはほとんど声を上げて、慟哭しないばかりでしたが、すぐに悪魔はこう囁きました。「なんだ、センチメンタルなやつめ、いくらでも泣くがいい。その間に二人はゆっくりと別れてしまって、証跡がなくなるだろう。そうしたら、お前は一生涯まよって苦しむだろう。」すると、自分自身を憐れむ念は忽ち消えてしまい、今度こそおれの苦しみも終って、あの女を罰することが出来る、あの女をのがれることが出来る、自分の憤怒を自由に働かすことが出来る、という奇怪な歓喜の情が湧き起ったのです。わたしは本当に自分の憤怒の鎖を切って、野獣になりました、恐ろしい狡獪な野獣になりました。「もういい、もういい。」客間へ行こうとしたエゴールに向って、わたしはいいました。「それより、ひとつご苦労だが、お前大急ぎで馬車を傭って、停車場へ行ってくれ。ここにチッキがあるから、手荷物を貰って来い、さあ、早く。」

『エゴールは自分の外套を取りに行きましたが、わたしは彼が二人を驚かしはせぬかと気づかって、彼をその小部屋まで送り、外套を着終るまで、じっと待っていました。一間ひとまへだてた客間では話し声と、ナイフや皿のがちゃ〳〵鳴る音がしていました。二人は食事をしていて、ベルの音が聞えなかったのです。「ただどうか今出てくれなければいいが。」とわたしは考えました。エゴールは、アストラカンの小羊の襟をつけた外套をきて、出かけて行きました。わたしは彼を送り出すと、すぐその後を閉めてしまいました。いよ〳〵自分は一人になった、これから仕事を始めなければならぬ、こう考えると、わたしは息のつまるような気がしました。しかし、どんな風にするかは、まだ分らなかったのです。わたしはただ今度こそ万事終った、妻の潔白についてはもう疑いの余地がない、自分は今すぐ彼女を罰して、関係を絶ってしまわなければならぬ、ということが分っているだけでした。

『以前はまだ心に動揺があって、「ひょっとしたら、それは本当でないかも知れない、おれが間違っているのかも知れない」と考えましたが、今はもうそんな懸念はありませんでした。最早一切が截然と決しられてしまったのです。夫の眼を忍んで、夜中に男とさし向いでいるとは! これはもう何もかも忘れ果てた仕打だ! だが、ことによったら、これはわざと企らんだ大胆不敵な犯罪かも知れぬ、つまり、この大胆さを無実の証拠にしようと思っているのかも知れない。しかし、すべては明瞭だ、もう疑いの余地はない、わたしはただ彼らが逃げてしまって、また何か新しい偽りを考えつき、それによって明白な証跡と、論証の可能を奪いはしないかと、そればかり心配したのです。で、少しも早く彼らを押えてやろうと思い、爪先立ちで、二人のいる広間をさして行きましたが、しかし客間は通らず、廊下と子供部屋を抜けて行きました。

『第一の子供部屋では、子供たちが寝ているし、次の間には乳母が休んでいました。彼女はもぞもぞと身を動かして、目をさましそうにしました。わたしは、乳母がこのていたらくを見て考えそうなことを、心に浮べました。すると、いいようもない自己憐愍の心が襲って来て、涙を抑えることが出来ませんでした。わたしは子供らを起さないように、爪先立ちで廊下へ走り出て、自分の書斎へはいると、そのまま長椅子の上へ身を投げて、泣きだしました。

『おれは潔白な人間だ、立派に両親の間に生まれた男だ、おれは生涯、家庭の幸福を夢想してきた男だ、おれは今までかつて妻に背いたことのない男だ‥‥それだのに、まあ、どうだろう! あの女は五人の子供までなした身でありながら、脣が紅いからといって、あの音楽師を抱擁するとは!

『いや、あれは人間じゃない! 牝犬だ。忌わしい牝犬だ! 今までずっとあんなに愛しているように見せかけた子供たちの寝ている次の間で‥‥そして、あんな手紙をおれに寄越すとは! よくああまで図々しく空が使えたものだ! しかし、おれに何が分るものか! ひょっとしたら、始終こういうことがあったのかも知れない。もうずっと前から、下男どもとくっついて、子供を拵え、それをみんな俺の子ということにしているのかも知れない。

『もしおれがあす到着したら、あの女は例の如く髪を結って、ものうげな優美な媚態しなをして、あの華奢の腰をくねらせながら(あの可愛い、それと同時に憎むべき顔が眼に見えるようだ)、おれを出迎えたことだろう、そうすれば、この嫉妬の野獣はおれの胸へ永久に残って、いつまでも責めさいなむに相違ない。ああ、乳母は何と思うだろう‥‥またエゴールにしても‥‥それから可愛いリーゾチカも! あのはもうものが分るのだ。ああ、なんという図ぶとさだ! なんという嘘のつきようだ! なんという獣のような情欲だ(俺にはそれがちゃんと分ってる)──とわたしは腹の中で叫びました。

『わたしは起きあがろうとしましたが、それが出来ないのです。心臓は烈しく鼓動して、ほとんどじっと立っていられないほどでした。ああ、おれは心臓麻痺で死んでしまう、あの女が俺を殺してしまうだろう。それがあの女の望むところなのだ。あれは人を殺すことくらい、なんとも思ってはいない。だが、それでは余りあの女に都合が好すぎる、そんなお恵みを進上してたまるものか。俺はここにぼんやり坐っているのに、あいつらは隣の部屋で食ったり、笑ったりしているじゃないか‥‥なるほど、妻はもう若盛りではないけれど、あの男もまんざら厭ではないのだ。なんといっても、あれは美人だし、少くとも、あの男の大切な健康のために安全だからなあ。ああ、どうして俺はあの時、あいつを絞め殺してしまわなかったのだ!

『わたしは、一週間前に妻を書斎から追い出して、その後でいろんなものをぶっつけた時のことを思い出して、こういいました。わたしはその時の心もちを、まざ〳〵と思い浮べました。いや、単に思い浮べたばかりでなく、あの時と同じく、打ったり、壊したりしたい要求を感じたのです。そのとき、何かして動きたくてたまらなくなり、ただその行動に必要なもののほかは、すべての考量がすっかり頭の中から飛び出してしまったのを、わたしは今でも憶えています。わたしはまるで野獣か、それとも危険の時に肉体的興奮に襲われた人のような状態になってしまいました。そういう時、人はただ一定の目的を念頭に置きながら、正確にあわてず騒がず、しかも一分間も無駄にしないように動くものです。

『まず第一にやったのが、靴を脱ぐことでした。それから、靴下一つになって、長椅子の置いてある壁の方へ近寄りました。そこには銃や、匕首あいくちなどが掛けてあったのです。わたしはまだ一度も使ったことのない、鋭利なダマスク製の曲った匕首をとって、鞘を払いました。今でも覚えていますが、鞘が椅子のうしろへ落ちたので、わたしは「あとで捜さなければならん、失くなってしまうから」と考えたものです。それから、今までしじゅう着ていた外套を脱ぎ、靴下一つでそっと歩きながら、現場をさして赴きました。


二七


『こうしてそっと忍び寄りながら、わたしはだしぬけに戸を開けました。わたしは今でも二人の顔の表情を知っています。わたしが今でもその表情を憶えているのは、それが苦しいほどの快感を与えてくれたからです。それは恐怖の表情でした。そして、これぞわたしの望むところだったのです。二人がわたしを見つけたとき、一瞬間その顔に浮んだ物狂おしい恐怖の表情を、わたしは一生忘れることが出来ません。彼はテーブルに向って坐っていたらしいのですが、わたしを見つけるや否や(あるいは、わたしの足音を聞きつけたのかも知れません)、いきなり跳りあがって、戸棚の方へ背を向けて突っ立ちました。彼の顔には、疑う余地のない恐怖の表情が現われていました。妻の顔にもやはり恐怖の表情がありましたが、しかしそれと同時に、また別な表情が浮んでいました。もしそれが恐怖の表情ばかりでしたら、ああいう悲劇は起らなかったかも知れませんが、彼女の顔にはまだそのほかに、落胆の表情が現われていました。少くとも、最初の一瞬間、そういう風に思われました。それはつまり、自分の歓楽を乱され、彼との幸福を破られたのを、不満に思ったらしい表情なのでした。いま自分の幸福を妨げてさえくれなかったら、そのほかには何も望みはない、といったような風つきでした。しかし、この二つの表情は、両方ともほんの一刹那、彼らの顔に現われたきりです。男の顔に現われた恐怖の表情はすぐに「まだ騙せるかしらん、どうだろう? もし出来れば、もう始めなければならない。そうでなかったら、何かほかのことがおっぱじまるだろう。一体どうしたものだろう? ‥‥」という質問の表情に変りました。彼は訊ねるような眼つきで、妻を見やったものです。わたしが妻をちらと見やったとき、その顔に浮んでいた落胆と忌々しさの表情は、男を気づかう表情に変りました。少くともわたしにはそう思われたのです。

『わたしは匕首をうしろに隠しながら、ちょっと一瞬間、戸口に立ちどまりました。

『この刹那、彼はにっこり笑って、滑稽なほど平気な調子で口をきりました。

「今わたしたちは音楽をやっていたところなんですよ‥‥」

「まあ、思いがけないこと、」と妻も彼の調子に従いながら、同時にいい出しました。けれど、どちらもしまいまでいいおわることが出来ませんでした。ほかでもない、一週間前に経験したのと同じ物狂おしい憤怒が、わたしの全幅を領したのです。再びわたしは破壊と暴力と、狂憤の歓喜との要求を感じ、それに身を委せてしまったのです。で、二人ともしまいまでいいおわることが出来ませんでした。つまり、彼の恐れた「あるほかのこと」が始まって、二人のいった言葉を、一度にすっかり引きち切ってしまったのです。わたしは依然として匕首を隠しながら、妻を目がけて跳りかかりました。それは、彼女の乳の下に当る脇腹を突こうとするわたしの行動が、彼に妨げられないためなのです。わたしは最初からこの場所を狙っていたのです。ちょうどわたしが妻に飛びかかった瞬間に、彼はそれと気がつき、思いがけなくもわたしの腕を掴んで、「あなたどうしたのです、正気におなんなさい! おい、みんな来てくれ!」と叫びました。

『わたしは手を振りほどいて、無言のまま彼に飛びかかりました。彼の眼がわたしの眼に出会うと、突然その顔ばかりか、脣までも麻布のように白くなり、眼は一種特別の光を帯びて来ました。そして、これもやはり思いがけないことでしたが、彼は突然ピアノの下へもぐり込んで、戸口をさして逃げ出しました。わたしはその跡を追おうとしましたが、その時わたしの左手に何か重いものがぶら下りました。それは妻だったのです。わたしは振りほどこうとしましたが、彼女はます〳〵重くぶらさがって、わたしを放そうとしないのです。思いがけない妨害と、重みと、忌わしい彼女の接触感とは、いよ〳〵わたしの憤怒を燃え立たせました。わたしは自分が本当の気ちがいで、恐ろしい形相をしているに相違ないと感じ、それに喜びを覚えました。わたしは力任せに左手を振り払って、肘で妻の顔をうんと突きました。彼女はきゃっと叫んで、わたしの腕を放しました。

『わたしは彼の後を追おうとしましたが、靴下一つで自分の妻の情夫を追い廻すのは滑稽だろう、と気がつきました。わたしは滑稽に見えるのが望みでなく、恐ろしく見られたかったのです。わたしは恐ろしい憤怒の状態に陥っているにもかかわらず、しじゅう自分がどんな印象を人に与えるかということを考えて、幾分その印象に引き廻されたような傾きさえあったのです。で、わたしは妻の方へ引っ返しました。彼女は長椅子に倒れて、わたしに突かれた眼を手で押えながら、じっとわたしを見ている。その顔には、わたしという敵に対する恐怖と、憎悪が浮んでいました。それは、ちょうど鼠おとしにかかった鼠が、その鼠おとしを持ちあげられた時に、見せるような表情でした。少くとも、わたしはこの恐怖と憎悪の念以外、何ものも彼女から発見することが出来ませんでした。それは、ほかの男に対する恋が呼びさました恐怖と憎悪なのです。しかしそれでも、もし彼女が黙っていたなら、まだわたしは自制して、ああいうことをし出かさなかったかも知れません。けれど、彼女は突然、匕首を持ったわたしの手をつかまえながら、こういい出したのです。

「正気になって下さい! あなたどうしたんです? 何事ですの? なんにもありゃしません、なんにも、なんにもありません。わたし誓います!」

 わたしはまだ〳〵躊躇したかも知れないのですが、彼女の最後の言葉は反響を呼び起しました(わたしはその言葉によって、何もかも出来てしまったのだという、反対の結論を得たのです)。反響はわたしの気分に相当したものでなければなりません。ところで、わたしの気分は絶えず漸次強音クレッセンドで高まっており、まだこれから先も同じ調子で昂進してゆくべき性質をもっていました。憤怒にもやはり独自の法則があります。

「嘘をつくな、ふてくされめ!」とわたしは喚きながら、左の手で彼女をつかみました。が、彼女は挘ぎ放してしまいました。その時、わたしは匕首を放そうとしないで、左手で妻の喉をつかみ、仰向けに転がして、絞めつけにかかりました。ああ、なんという固い頸だったでしょう‥‥彼女は両手でわたしの手をつかんで、喉から挘ぎ放そうとしました。すると、わたしはこれのみを待ち構えていたと云わんばかりに、彼女の脇腹の肋骨の下へ、力任せに匕首を突き立てました。

『よく人は狂憤の発作に駆られたとき、自分で自分のしたことに覚えがないといいますが、あれは出たらめです、嘘です。わたしは何もかも覚えていました。そして、一秒間も自己を忘れはしませんでした。心の中に憤怒の炎を掻きたてれば掻きたてるほど、意識の光はます〳〵鮮かに照らして、わたしは自分のすることを、何一つ見落すわけにゆきませんでした。およそいかなる瞬間にも、自分のしていることが分っていました。前もって自分のすることが分っていた、ということは出来ませんが、現在やっている瞬間には、自分が何をしているか分っていました(二三秒くらい前から分っていたような気もちさえします)。それはまるで後になって、おれはあの時やめようと思えばやめられたのだといって、後悔させるためのように感じられるほどです。わたしは、自分が肋骨の下を突いていることも、匕首が入って行くだろうということも知っていました。わたしがこの動作をした瞬間、自分は何かしら、今までかつてやったことのない、恐ろしいことをしている、これは恐ろしい結果を来たすに相違ない、ということを承知していました。しかし、その意識はまるで電光の如く閃いただけで、その意識の後にすぐ行為がつづき、その行為もまた非常に明瞭に意識されました。今でも覚えていますが、わたしはちょっと一瞬間、コルセットと、それからまだ何やらほかに固いものの抵抗を感じました。けれど、すぐ匕首は柔いものの中へ沈んでゆきました。彼女は両手で匕首をつかまえましたが、ただ手を傷つけただけで、支えることが出来なかったのです。

 わたしはその後、監獄の中で、精神的転換が成就した後に、長い間この一瞬間のことを考えました。出来るだけいろんなことを思い出して、いろ〳〵考量してみたのです。なんでも、この行為に先だつ僅か一瞬間、一刹那の間に、「おれは女を、か弱い女を、現在自分の妻を殺そうとしている、いや、殺してしまった!」という、恐ろしい意識を感じたのを憶えています。この意識の恐ろしさをはっきり覚えているので、わたしはこう推断することが出来ます。いや、むしろぼんやり憶い起すことさえ出来ます──わたしは匕首を突き込むと同時に、その行為を償おう、中止してしまおうというつもりで、すぐにその匕首を抜いたのです。わたしは一秒間ほど、これが一体どうなるだろう、取り返しがつくだろうかと思って、ぼんやり身動きもせずっていました。

 彼女は急に飛びあがって、「ばあや、旦那様がわたしを殺した!」と叫びました。

『騒ぎを聞きつけた乳母が、戸口に現われました。わたしは、なんだか本当にならないような気もちで、相変らず待ち設けるように突っ立っていました。けれど、ちょうどその時コルセットの下から、さっと血が迸り出ました。わたしはやっとはじめて、もう取り返しはつかないと悟り、なに、そんな必要はない、これこそおれの望むところだ、おれは是非こうしなければならなかったのだ、と決めてしまいました。わたしは妻がどうと倒れ、乳母が「あれ!」と叫びながら駈け寄るのを待って、すぐ匕首を棄てて部屋を出ました。

「あわててはいけない、これからどうしたらいいか考えなきゃならん。」わたしは彼女も乳母も振り返らないで、そう思いました。乳母は大きな声を立てて、小間使を呼んでいました。わたしは廊下づたいに歩いて行き、小間使を乳母のところへやった後、自分の部屋へ赴きました。「さて、これからどうしたらいいのだろう?」と自分で自分に訊いて見ましたが、すぐ分りました。書斎へ入ると、わたしはいきなり壁の方へ近寄って、そこからピストルを下ろしました。見ると、ちゃんと装填してありますから、それをテーブルの上へ置きました。それから、匕首の鞘を長椅子のうしろから拾い上げて、長椅子の上に腰を下ろしました。

『長いこと、わたしはこうして坐っていました。何一つ考えもしなければ、何一つ思い出しもしませんでした。ただあちらで何やら、ばた〳〵騒ぐ物音を聞いただけです。誰やら馬車を乗りつけたと思うと、しばらくしてまた誰か来たような風でした。やがて人の足音がして、エゴールが停車場から取って来た籠を、書斎へ運んで来ました。まるでそんなものが誰かに入り用ででもあるかのように!

「お前は様子を聞いたろうな?」とわたしはいいました。「一つ庭番のところへ行って、警察へ知らせるようにいって来い。」彼は何もいわずに、行ってしまいました。わたしは立ちあがって戸を閉めた後、煙草とマッチを取り出して、ふかしはじめました。けれど、一本すい終らないうちに、眠けがさして来て、倒れてしまいました。わたしは確か二時間くらい寝たでしょう。夢にわたしたちは夫婦仲がよく、ちょっと喧嘩もしたけれど、すぐ仲直りをして、幾分なにか邪魔をするものがありながら、とにかく親しく暮らしているところを見ました。

『ふと戸を叩く音に眼がさめました。「警察だな!」とわたしは眼をさましながら考えました。「どうやら俺はあれを殺したらしい。しかし、ことによったら、いま戸を叩いているのは妻で、何ごともなかったのかも知れない。」また戸を叩く音がしました。わたしは返事をしないで、疑問を解こうとしていました。「これは本当にあったことだろうか? そうだ、本当にあったのだ」わたしはコルセットの抵抗と、刃物のぷすりと入って行った時の感触を思い出すと、背筋に冷水を浴びせられたような気がしました。「そうだ、本当にあったのだ。今度は自分の番だ。」とわたしは考えました。けれど、こう思いながらも、わたしは決して自殺などしない、ということを知っていました。が、それでも立ちあがって、ピストルを手に取りました。しかし、奇妙なことに、以前わたしは幾度も自殺しかけたことがあって、現につい前日も汽車の中で、それが造作もないことに感じられたのですが、それはつまり、妻に恐ろしい激動を与えることが出来ると考えたからで、今は自殺することが出来ないばかりか、そんなことを考えることさえも出来ませんでした。「なぜそんなことをするんだ?」と自分で自分に訊いてみましたが、答はありませんでした。

『またもや戸を叩く音が聞えました。「そうだ、まずはじめに誰が叩いてるのか、それを知る必要がある。まだ大丈夫、間に合う。」わたしはピストルを置いて、その上に新聞をかぶせ、戸口へ近寄って、掛金を外しました。それはあの妻の姉に当る人のいい馬鹿後家でした。

「ヷーシャ! あれはまあどうしたんです?」といったと思うと、いつも用意の出来ているこの女もち前の涙が、ぽろ〳〵こぼれました。

「なんの用です?」とわたしは乱暴な調子で訊ねました。わたしは何もこの女に対して、乱暴な口をきく必要など認めなかったのですが、それより以外の調子を考えつくことが出来なかったのです。

「ヷーシャ、あれは死にかかってます! イワン・ザハールイッチがそうおっしゃいました。」

『イワン・ザハールイッチは妻のかかりつけの医師で、万事につけての相談相手だったのです。「一体あの男が来てるんですか?」わたしは訊きました。すると、妻に対する憎悪がまた油然と湧き起って来ました。「それで、一体どうしたんです?」「ヷーシャ、あれのところへ行って頂戴。ああ、なんて恐ろしいことだろう。」と彼女はいいました。「あれのところへ行く必要があるだろうか?」という疑問を、わたしは自分で自分に発してみました。とすぐに、行って見なければならない、と自答しました。わたしのように、夫が妻を殺したときには、必ずその傍へ行って見なければならぬ、それはおそらく、いつでもそうすることになっているのだろう。「もしそれが慣例だとすれば、行って見なければなるまい。」とわたしは腹の中で考えました。「もしそうとすれば、こちらの方はいつだって間に合うのだ。」わたしは例の自殺の計画のことを考えながら、義姉あねのあとについて行きました。「さあ、これからいろんな文句や、しかめっ面が始まるんだろう。だが、おれはそんなものに引き込まれはしないから。」とわたしは考えました。「ちょっと待って下さい。」とわたしは義姉を呼び止めて、「靴なしで歩くのは馬鹿げているから、せめて上靴でも穿かして下さい。」


二八


『すると、不思議なことではありませんか! わたしが書斎を出て、見馴れた部屋々々を通り抜けて行くとき、またもや「何事もなかったのだ」という空頼みのこころが起りました。けれども、例の忌わしい医者の薬──ヨードフォルムや石炭酸の匂が、不意にわたしの眼をさましました。いや、何もかも本当にあったことなのだ。廊下づたいに子供部屋の前を通ったとき、わたしはリーザンカが眼にとまりました。彼女は慴えたような眼つきで、わたしを眺めているのです。わたしは子供が五人ともそこにいて、みんながわたしの顔を見ているような気もちさえしました。わたしが戸の傍へ近寄りますと、小間使が中から扉をあけて、外へ出て行きました。

『まず第一にわたしの眼に映ったのは、椅子の上に置いてある彼女の着物です。薄鼠色の地が、血のために真黒になっていました。わたしたちのダブルベッドには、わたしの寝る方に(その方が看護の便がよかったので)、妻が膝を立てて横になっていました。彼女は下着のボタンを外して、枕だけで掛布もなく、体を恐ろしく急に傾斜させながら寝ているのです。傷口には何やら当ててありました。部屋の中には、ヨードフォルムの重苦しい匂が漂っていました。何よりも真先に、そして何よりも一番強くわたしの心を打ったのは、眼の下から鼻へかけて打身うちみのために蒼くなり、一面に脹れあがった彼女の顔でした。それは、妻がわたしを留めようとした時、わたしの肘で突かれた結果なのです。美しさはもはや全くなくなって、何かしら厭らしいようなものが感じられました。わたしは閾の上に立ちどまりました。

「傍へ行っておやんなさい、傍へ。」と義姉がわたしにいうのです。

「ああ、きっとあれは懺悔がしたいのだろう」とわたしは考えました。「赦すべきだろうか? そうだ、あれはもう死にかかっているのだから、赦してやってもいい。」努めて寛大な心がけになろうとして、わたしはこう思いました。わたしはぴったり傍へ寄りました。彼女はやっとのことで、わたしの方へ眼を上げました(片々は打身ではれあがっていました)。そして、苦しそうに、吃り吃りいい出すのでした。

「とう〳〵本望を達しましたね、わたしを殺して‥‥」彼女の顔には肉体の苦痛と、さし迫った死の影を透して、昔から見馴れた冷かな動物的な憎悪が現われたのです。「それでも‥‥子供らは‥‥あなたに渡しませんよ‥‥あちら(義姉のことです)に引き取って貰います‥‥」

『わたしにとって最も重大なこと、つまり自分の不貞の罪は、口にする価値がないとでも思っているような風なのです。

「さあ‥‥ご自分のしたことを見て‥‥充分お楽しみなさい。」と妻は戸口の方を見ながらいい、啜り上げて泣きだしました。戸口のところには、義姉が子供らを連れて立っていたのです。「ええ、あなたはこういうことをなすったのです。」

『わたしは子供らを見、それから打身のために見る影もなくなった彼女の顔を眺めました。と、その時はじめて、わたしは自分自身をも、自分の権利をも、自分の誇りをも忘れて、はじめて彼女の中に人間を発見したのです。そしてわたしを侮辱した一切のことも、わたしの嫉妬も、実につまらないことに思われると同時に、わたしの所業が非常に重大なことだと分ったので、わたしは彼女の手を顔に押しつけて、「赦してくれ!」といいたいほどでした。が、それをする勇気はありませんでした。

『彼女はもう先を話しつづける力がないらしく、目を閉じたままじっと黙っていました。やがてその醜い顔が慄えて皺が寄りました。彼女は弱々しくわたしを押しのけて、

「なぜこんなことになったのだろう? なぜ‥‥」

「赦してくれ。」とわたしはいいました。

「赦せですって? そんなの、みんなつまらないことですわ!‥‥ただわたし死にたくない!」と彼女は叫んで、半ば身を起しました。熱病やみらしく光る眼が、ひたとわたしの方へ注がれました。「ああ、あなたは本望を達したのです!‥‥わたしはあなたを憎みます!‥‥ああ! ああ!」もう譫言に変ったらしく、彼女は何かものに慴えたように、こう叫ぶのでした。

「お射ちなさい! わたしは怖かあないから!‥‥だけど、みんな殺してしまうがいい!‥‥ああ、あっちへ行け! 行ってしまえ!‥‥」

 こうした譫言は絶えずつづいて、彼女はもう誰ひとり見分けることが出来なくなってしまいました。その日の午近い頃、彼女は息を引き取りました。わたしはその前、八時頃に警察へ引かれ、そこから監獄へ移されました。そこで公判を待ちながら、十一箇月間くらしている間に、わたしは自分自身と自分の過去を熟考した末、とう〳〵一切を悟ったのです。もっとも、幾らか悟りかけたのは三日目でした。三日目にわたしは連れて行かれたのです‥‥あすこへ‥‥』

 彼は何かいおうとしたが、こみ上げて来る啜り泣きをこらえることが出来ず、言葉を止めてしまった。やがて勇気を鼓して、また語りつづけた。

『わたしがやっと分りはじめたのは、葬式のとき、棺に納められた妻の死骸を見た瞬間です‥‥』

 彼は急に歔欷の声を立てたが、すぐに急いで言葉を次いだ。

『妻の死骸を見た時に、わたしはやっとはじめて、自分のしたことがすっかり分りました。わたしは悟りました──これは自分が殺したのだ、生きて動いて暖かった彼女が、こんな蝋細工みたいに冷たく動かなくなったのは、自分のしたことなのだ、しかもこれはいつになっても、どこへ行っても、何をもっても償うことが出来ないのだ、ということが分ったのです。これは自分で経験しない人には、金輪際わかることじゃありません‥‥う! う! う!』彼は幾度かこう呻いて、それきり静まり返ってしまった。

 わたしたちは長いあいだ押し黙り、坐っていた。彼は無言のまま体を慄わせながら、啜り上げて泣いていた。その顔は妙に細長くなって、口はいっぱいに拡がっていた。

『そうです。』とつぜん彼はいいだした。『もしわたしが今だけ物が分っていたら、すっかり事情が違っていたでしょうがねえ。わたしはどんなことがあっても、あれと結婚しなかったでしょう‥‥また生涯結婚しなかったでしょう。』

 再びわたしたちは長いこと黙っていた。

『いや、どうも失礼しました‥‥』彼はわたしから顔をそむけて、毛布にくるまりながら、腰掛の上に横になった。わたしが、下車しなければならない駅へ着いたとき(それは朝の八時であった)、私は彼の傍へ別れを告げに近寄った。けれど、寝ていたのか、それとも寝たふりをしていたのか、彼は身動きもしなかった。わたしは手を伸して彼に触った。すると、彼は眼を開けたが、寝ていた様子もなかった。

『さよなら。』と私は手を差し出しながらいった。彼はわたしの方に手を伸しながら、ほんの心持にっと笑った。けれど、その笑いがいかにもみじめで、わたしは泣き出したいくらいであった。

『いや、失礼しました。』と彼は自分の長物語を結んだ時と同じ言葉を、もう一ど繰り返した。


あとがき


 わたしはこれまで未知の人々から沢山の手紙を貰ったし、また今でも貰っている。それはほかでもない、かつてわたしが『クロイツェル・ソナタ』という題に含まれている問題について、どんな風に考えているか、簡単明瞭に説明してほしいというのである。で、わたしは今それをやってみようと思う。つまり、わたしがこの物語でいおうと思ったことの本質と、その中から抽き出すことの出来る推論とを、出来るだけ簡単な言葉で表明しようと思うのである。


 第一にわたしが言いたかったのは、現今の社会にあらゆる階級を通じて、一つの信念が牢乎ろうことして根を張っており、しかも偽りの科学によって維持されている、ということである。ほかでもない、男子に金銭の支払以外なんらの義務を負わせない結婚外の性交が、きわめて自然な、したがって奨励すべきことだ、という信念なのである。

 この信念が極度に固い根を張って、一般に普及したため、両親は医師の勧告に従って、その子のために淫蕩の機会を設けるまでに立ち到った。人民の道徳性の健全に留意するところに存在の意義を有している政府さえ、進んで遊蕩の機関を設けている。すなわち、疑わしい男子の自然的要求なるもののために、肉体的にも精神的にも亡びなければならぬ特殊な婦人の階級を公認している。こうして、独身の男子はいささかも良心の苛責を受けることなく、平然として遊蕩に耽っているのである。

 わたしは、これをよくないことだといいたかったのである。なぜならば、一部の人の健康のために、他人の肉体と霊魂を亡ぼす必要がある、などという道理はあり得ないからである。それは一部の人の健康のために、他人の血を飲む必要があるというにひとしい。

 この事実から抽き出すことの出来る結論は、この迷妄と虚偽に譲歩してはならぬ、ということだと思う。そうするためには、第一として、怪しげな科学がいかほど維持に努めても、背徳的な教義を信じてはならない。また、第二としては、子供という当然の結果を回避したり、女にその苦しい結果をぜんぶ背負わせてしまったり、または妊娠を予防したりするような性交を行ってはならぬ、ということを理解する必要がある。こういうふうな性交は、最も単純な道徳的要求を蹂躙する陋劣な行為であるがために、下劣な生活を送ることを潔しとしない独身者は、決してそれを行ってはならぬ、このことを理解する必要がある。

 ところで、この禁欲を守るためには、自然な生活状態を送るほか、飲酒、暴食、肉食を慎み、労働に甘んじ(それは疲労を来たす真の労働で、体操やなんぞのような遊戯的労働ではない)、かついかなる人でも、母や、妹や、親族や、友人の妻との性交を許容し得ないと同じように、他の婦人と交わる可能があるなどということを、単に心の中だけでも考えないようにしなければならぬ。

 ところで、禁欲が可能であるのみならず、むしろ放縦よりも健康のために危険や害毒が少いという証拠は、どのような男子でも自分の周囲に無数に発見できるはずである。

 これが第一である。

 第二にわたしがいおうと思ったのは、われ〳〵の社会において、性交を健康保持の必要条件および快楽と見なしているのみならず、人生における詩的にして崇高な幸福であるかの如く認めている結果として、夫婦間の破倫行為が各階級を通じて(農民階級においては特に兵役のために)極めてあり触れた日常茶飯事となっている点である。

 私はこれを善くないことと思う。そこで、この事実から生ずる結論は、そういうことをしてはならぬということである。

 ところで、これをしないようにするためには、肉的恋愛に対する見方が一変しなければならぬ。家庭においても、社会の輿論によっても、すべての男女の教育法を改めて、結婚前であれ、またその後であれ、恋愛およびそれに伴う肉的関係を、現在の如く詩的な崇高な心境と考えることをやめ、人間にとって恥ずべき動物的状態と見なすようにしなければならぬ。結婚の際に立てた貞操の誓を犯すときは、少くとも金銭契約の破棄や商業上の詐欺と同様、社会の輿論をもって罰すべきであって、今日おこなわれているように、小説や、詩や、歌や、オペラなどで讃美渇仰すべきでない。

 これが第二である。

 第三として、われ〳〵の社会においては、やはり肉的恋愛に対する誤った解釈の結果として、出産ということが本来の意義を失い、夫婦関係の目的となり存在意義となる代りに、愉快な恋愛関係を継続する障碍物となってしまった。したがって、結婚者の間においても、非結婚者の間においても、医学の使徒たちの忠言によって、婦人から生殖能力を奪う方法が普及しはじめた。そして、以前は決して見られなかったこと(今でも家長制度の行われている農民の家庭内では、そういうことはないのである)が、当り前の習慣となって来た。それはほかでもない、妊娠中、または哺乳中に、夫婦関係をつづけることである。私はこれもよくないことと思う。

 避妊法の実施はよくないことである。第一として、それは肉的恋愛の代償となるはずの、子供に対する配慮や労苦をまぬがれしめるからである。第二に、それは最も人間の良心に反した行為──殺人に類似したことだからである。また妊娠哺乳中の不節制も、よくない行為である。なぜなら、それは婦人の肉体的の力、殊に精神的の力を破滅さすからである。

 この事実から生ずる結論は、そういう行為をしてはならない、ということである。またこれをしないようにするためには、未婚者の場合において、人間の品位を保つ必然条件たる禁欲が、既婚者の場合においてなおいっそう必要であることを理解しなければならない。

 これが第三である。

 第四として、われ〳〵の社会においては、子供を快楽の妨害と見なすか、さもなければ不幸な偶然と目し、または予定の数を超えない限り、一種の快楽であると考えられているために、子供らは理性と愛に富んだ創造物として、人間のなすべき人生上の目的に適応するように教育されず、ただ彼らが両親に与え得る快楽を主眼として教育されている。その結果として、人間の子供は動物の子とおなじように教育される。そして、両親のおもな注意は、人間として恥かしからぬ活動に適するように子供を教育することでなく、出来るだけ子供にうまいものを食わせ、背丈を大きくして、きれいな、色の白い、ほどよく肥えた、美しい子供にしよう、という点にのみ向けられている。それをまた、医学と呼ばれる虚偽の科学が後援するのである(下層社会においてそれが行われないのは、単に必要上余儀なくされているだけで、考え方は同じことである)。

 こういう風に甘やかされた子供の体内には、すべて餌の充分な動物と同じように、烈しい力を持った性欲が不自然に目ざめて来て、これらの子供の少年期における苦痛の原因となるのである。着物、読書、見世物、音楽、舞踏、うまい食物、それから小箱に貼った画から、小説や詩歌にいたるまで、すべて生活上のあらゆる条件が、なおいっそうこの性欲を刺戟して、そのために最も恐るべき悪行や疾病が、少年男女成育中の普通現象となり、果ては成年期にまで禍根を残すことがしば〳〵ある。

 私はそれをもよくないことと思う。ところで、この事実から生ずる結論は、人間の子供を動物の子と同様に育てるのをやめて、人間の子の教育のためには、美しく磨き上げた肉体のほかに、もっと別な目的を樹立しなければならぬ。

 これが第四である。

 第五として、われ〳〵の社会では、畢竟、肉欲をもととしている男女間の恋愛が、人間の努力の最も高尚な詩的目的にまで押し上げられている。それは、われ〳〵の社会におけるすべての芸術や詩歌が証明している。そのために、若い人たちは自分の生涯の貴重な時期を、恋愛関係、または結婚に対する最良の対象物を物色したり、探求したり、領有したりすることに浪費し、また婦人や処女は男を誘惑して、恋愛関係か、あるいは結婚に引き入れることに費している有様である。

 このために、人々の貴重な精力は、単に非生産的なばかりでなく、むしろ有害な仕事に浪費されている。われ〳〵の社会における恐ろしい奢侈の大部分は、これから生まれたものである。従って、男子は放縦をこととし、女子は肉欲を唆ることを職業とする乱淫な婦人の流行を真似て、かの肉体の一部分を露出する風を恥としないのである。

 私はこれをもよくないことと思う。

 これがよくないことであるわけは、ほかでもない、既婚者にせよ、未婚者にせよ、愛の対象と結合することを望むのは、たとえそれがいかに詩化されていても、人間の努力に価しない目的だからである。それはちょうど、美味な食物を豊富に獲ることが、多くの人には最上の幸福の如く思われているけれど、人間の努力に価しない目的であるのと同様である。

 ところで、この前提から抽き出し得る結論は、肉的恋愛が何か特に高尚なものであると考えることをやめて、人間として価値のある目的は、人類に対する奉仕にしても、祖国に対する奉仕にしても、科学に対する奉仕にしても、芸術に対する奉仕にしても(神に対する奉仕はいうまでもない)、すべてわれ〳〵が人間として価値ある目的と見なしているものは、それが何であるかを問わず、結婚によると否とにかかわらず、恋愛の対象との結合によって達しられるものは一つもない、ということを悟らなければならぬ。それどころか、かえって、恋したり、その恋人と一緒になったりすることは、詩や散文がいかに反対の事実を証明しようと努めても、決して価値ある目的の貫徹を助けてくれるのみならず、常にそれを妨げるものである。

 これが第五である。

 右はわたしが短篇『クロイツェル・ソナタ』においていおうと思ったことの要点である。わたしはそれをいい得たつもりなのである。右に挙げた罪悪の匡正方法については、論議することも出来るけれど、所詮この結論に同意しないわけにはゆかない、とまで感じられたのである。わたしがそう感じたわけは第一に、これらの断定が、常に放縦から漸次純潔へと向いつつある人類の進化と、完全に一致しているからである。またそれは、社会の道徳意識や、われ〳〵の良心とも一致している。なぜなら、われ〳〵は常に放縦を非難して、純潔を尊敬するからである。また第二に、右の論断は、福音書の教えから生ずる必然的な推論だからでもある。実際、われ〳〵はこの福音書の教えを宣べ拡めている。少くとも無意識的に、われ〳〵の道徳観念の基礎と認めているのである。

 しかし、事実はそうでなかった。

 もっとも、結婚前にも、結婚後にも、淫蕩に耽ってはならないとか、または人工的に出産を避けてはならないとか、子供を大人の娯楽物としてはいけないとか、恋愛を人生至上のものとしてはならないとか、そういうわたしの論断を真正面から反駁するものはない。つまり、純潔が放蕩に優るということは、誰ひとり非難するものがないのである。けれど『もし禁欲が結婚より優れているならば、人はまさにその優れたことをなすべきである。ところが、もし人がそれを実行するならば、人類は滅亡しなければならぬ。それゆえ、人類の滅亡が人類の理想となるということは、あり得べからざる話だ。』とこういうのである。

 しかし、人類の滅亡ということは、人間にとって何もこと新しい思想ではない。宗教家にとっては、信仰のドグマであり、科学者にとっては、太陽の冷却という観察から推して、必ず到着しなければならぬ結論である。が、そういうことは今いわないとしても、この反駁の中には、昔から世界に瀰漫びまんしている大きな誤謬がある。人々は『もし人間が絶対の純潔という理想に達したならば、彼らは滅亡してしまわねばならぬ。従って、この理想は間違ったものである。』という。けれども、こういう人たちは故意に、または偶然に、種類の異なった二つのもの、すなわち、規範と理想とを混同しているのである。

 純潔は規範や命令ではなく、理想である──というより、むしろ理想の一条件である。理想なるものは、ただ観念・思考のうちにおいてのみ実現が可能であって、ただ永遠の極みにおいてのみその到達が予想され、従って、接近の可能もまた無限である時にのみ、はじめて理想と呼ばれることが出来る。もし理想が到達せられたのみならず、その実現を想像することが出来たならば、その理想はすでに理想でなくなったのである。地上に神の王国を建設せんとするキリストの理想も、畢竟かようなものであった。またすべての人々は神の教えに化せられて、剣は鋤に、槍は鎌に鍛え直され、獅子は小羊とともに伏し、すべての生物は愛によって結合する時が来るであろうと、多くの予言者たちが予言した理想も、やはりかようなものである。

 全人生の意義は挙げてことごとく、この理想を指して進むことに存している。従って、全体としてのキリスト教の理想、並びにその理想の一条件たる純潔に向って精進することは、決して生活の可能を奪わない。否、それどころか、このキリスト教的理想の欠乏こそ、人類の進歩を破滅に帰し、従って、生活の可能をも破壊するものである。

 人間が純潔に向って懸命に精進したならば、人類が滅亡するであろうとの論法は、あたかも人間が生存競争の代りに、敵味方あらゆる人類に対する愛の実現に向って極力精進したならば、全人類は滅亡してしまうであろう、という論法に類似している(また実際、この論法を用いているのである)。さような論法は、道徳的指導の二方法の差別をわきまえぬために生じる。

 旅人に道を教えるのに二つの方法があるのと同じように、真理を求める人を道徳的に指導するにも、二つの方法がある。一つの方法は、その人が途中出会うべき事物を教示して、それを頼りに進ませるのである。

 いま一つの方法によると、旅行者は一つの羅針盤を持っていて、それによって方向を定める。それゆえ、彼は常に一定不変の方向を見、従って、正路を踏みはずした時も、ただちにこれを知ることが出来るのである。

 第一の道徳的指導方法は、外面的規範の仮定である。すなわち、人はなすべき、またなすべからざる行為について、一定の表徴を示されるわけである。

『安息日を守れ、割礼を受けよ、盗むなかれ、酒類を喫するなかれ、生けるものを殺すなかれ、貧しき人々に十分の一を与えよ、日に五たび身を潔めて神に祈れ』等の如き、すべて婆羅門教、仏教、回教、ユダヤ教、その他の外面的教義の規定がこれである。

 第二の方法は、決して到達することの出来ない完成の境地を人に示すことである。ただし、その際、人はその境地に対する精進の心を、自己のうちに意識することを要する。その人は理想を示されたわけであるから、それと比較して、常に自分の迷誤の程度を知ることが出来るのである。

『汝の心と魂と智慧のすべてをもって、汝の神を愛し、汝の隣人を汝みずからの如く愛せよ──天なる汝の父の如く完かれ。』

 これがキリストの教えである。

 外面的教義が実行されたかどうかを点検するのは、その教義と行為との合致を見ることである。そして、この合致は可能なのである。

 キリスト教の教義実行の試験は、完全の理想とどのくらい隔っているかによって、明かにすることが出来る。それは、理想への接近の程度は目に見えず、ただ完全との隔りが見えるのみだからである。

 外面的法則を守る人は、柱に縛りつけられた灯火の中に立っている人である。彼はこの光の中に立っているが故に明るい、従って、もはや先へ行く必要はないのである。キリストの教えを奉じている人は、長短の相違こそあれ、棒の先に提灯をつけて行く人である。灯火は常に彼の前方に在って、常に自分の後からついて来るように人をそそのかしながら、人を牽きつける新しい明るい世界を展げて見せる。

 パリサイ人は、自分がすべての掟を履行するといって、神に感謝している。

 富める若者も、やはり少年の頃よりすべての掟を実行して、このうえ何が不足なのか分らないといっている。実際、彼らはそれよりほかに考え方がないのである。彼らの前方には、もはや精進をつづけるべき目標がない──十分の一は与えたし、安息日も守っているし、両親も敬っているし、姦淫も偸盗も殺人もしない。その上なにが必要であるか? ところが、キリスト教を信じるものにとっては、完成の一階段を昇る度ごとに、もう一つ上の階段へ昇ろうという要求が生まれて来る、いま一つ昇ると、さらにまた上の階段が展けて、果てしがない。キリストの掟を信ずるものは、いつでも収税吏のような状態にある。彼は自分の過ぎて来た道を見返らずに、まだこれから歩かなければならぬ道のみを前方に見るが故に、常に己れを不完全なもののように感じている。

 キリストの教えと他の宗教の相違はここに存する──それは要求の相違ではなく、人を導く方法の相違である。キリストは人生に対してなんらの定義をも下さず、なんらの制度をも定めず、従って、結婚というものも制定しなかったのである。しかし、キリスト教の特質を解せずして、外面的の教義に馴れ、パリサイ人の如く自らをただしきものと感じたい人々が、キリスト教の精神に逆らって、キリストの言葉から外面的の教義を作り出し、これをもって真のキリストの理想に関する教えにすり変えてしまったのである。

 自称キリスト教会の教義は、キリストの教えに従わず、人生の状態に応じて、キリストの精神にもとる外面的定義と規律を制定した。その教義規範は政治、司法、軍事、教会、礼拝、結婚等に関して設けられたものである。

 キリストは単に結婚の制度を設けなかったのみならず、その外的教義のみの解釈に従えば、かえって結婚を否定してさえいる。彼は『汝の妻を棄ててわれに従え』といっているにかかわらず、自称キリスト教会の教義は、結婚をキリスト教的制度として設定した。詳言すれば、彼らが規定した外的条件によると、恋愛はキリスト教徒にとってぜん〳〵罪悪でなくして、正当のものだと主張するのである。

 ところが、真のキリスト教には、結婚制度の生ずべき何らの根柢がないから、結局、現代の人々は一方の岸を離れはしたものの、まだ彼岸に到着せぬという形になってしまった。つまり、じっさいにおいて、教会の与えた結婚の定義も信じなければ、それと同時に、絶対の純潔へ向って精進せよという、キリストの理想も前方に見当らないから、結婚問題に関しては、いっさい無方針なのである。つまり、このために、一見不思議な現象が生じるのである。ほかでもない、ユダヤ教徒や、ラマ教徒や、その他、キリスト教徒よりも遙かに低い宗教的レヴェルに立っている宗徒が、結婚に関して正確な外面的定義を有しているため、彼らの家庭の基礎ならびに夫婦間の貞操が、いわゆるキリスト教徒よりも比較にならぬほど堅固なのである。

 彼らの間には、ある限度を超えない蓄妾制度、一夫多妻制度、一婦多夫制度が、厳として一定しているが、われ〳〵の社会にいたっては、言語に絶した淫蕩や、蓄妾や、多妻多夫が、なんらの制限もなく存在して、それが一夫一婦主義の空しい仮面の下に隠れているのである。

 現代の人々は、単に結婚せんとするものの一部分に対して、僧侶が一定の儀式を行うからという理由のみで、自分たちは一夫一婦の生活をしていると、心から無邪気に(または表面だけ)信じているのである。

 キリスト教的結婚なるものはあり得べきでもないし、またかつてあったこともない。それはちょうど、キリスト教の教会内礼拝、教会的礼拝(マタイ伝六章五─十二、ヨハネ伝四章十二)、キリスト教の教師教父(マタイ伝二十三章八─十二)、キリスト教的財産、キリスト教的軍隊、法廷、政府が、いかなる時にもあり得べからず、またかつて存在したこともないのと同様である。第一世紀、二世紀頃のキリスト教徒は、このように解釈していたのである。

 キリスト教徒の理想は、神と隣人に対する愛である。神と隣人への奉仕のために、自己を犠牲にすることである。然るに、肉的恋愛すなわち結婚は、自分自身への奉仕であるからして、いかなる場合においても、神と隣人への奉仕の障碍であり、従って、キリスト教の見地から観れば、堕落であり、罪悪である。

 たとえ結婚する人が、人類の存続を目的とする場合でも、結婚は神と隣人への奉仕を助けることにはならない。そのような人は、子供の生命を創り出すために結婚するよりも、むしろわれ〳〵の周囲で物質の糧(精神の糧とはいうまい)の不足のために亡びている数百万の子供の命を維持し、救助した方が、遙かに手っ取り早いわけだ。

 ただ現存せる子供の生命が洩れなく保証されている、ということを確かに突き留めた場合にのみ、キリスト教徒は堕落や罪悪の意識なしに結婚することが出来る。

 われ〳〵の全生活へ浸み込んで、われ〳〵の道徳観の基礎となっているキリストの教えを、ぜんぜん拒否することは出来る。しかし、いったんこの教えを受け入れる以上、それが絶対の純潔をさし示していることを認めぬわけにゆかない。

 福音書の中には、なんら他に解釈の方法のないほど明白に、次のことが述べられている。

 第一、既婚の男子は他の女を獲んがために離婚してはならぬ。一たび結婚した以上、その女と永久に暮らさなければならぬ。(マタイ伝五章三十一、三十二、十九章八)

 第二、一般に既婚者、未婚者の別を問わず、すべて女を快楽の対象と見なすのは罪悪である。(マタイ伝五章二十八、二十九)

 第三、未婚者はぜん〳〵結婚しない方がよい。すなわち、全く純潔を保つに如くはない。(マタイ伝十九章十─十二)

 多数の人にとってこの思想は奇怪な、矛盾したもののように感じられるであろう。また事実これは矛盾している。けれど、自家撞着という意味でなく、これらの思想がわれ〳〵の生活ぜんたいに矛盾しているというのである。全く、自然とわれ〳〵の心中には『一体どちらが正しいのだろう?──この思想か、それとも、自分自身をも含む数百万の人間の生活か?』という疑念が湧いてくる。わたしも、いま現に表白しつつある信念に到着した時、この感じを最も強く経験した。わたしは自分の思想の流れが、自分をかような結論へ導いて来ようとは、夢にも思い設けなかった。わたしは自分自身の結論に慄然とし、それを信じたくないと思ったくらいである。けれど、信じないわけにゆかなかった。いかにこれらの結論がわれ〳〵の生活組織全体に矛盾していても、またわたしが前に考えたり、いったりしたことに反対しても、これを認めないわけにはゆかないのであった。

『しかし、それはすべて道理のあることかも知れないが、ただキリストの教えにだけしか関係のない一般的考察で、この教えを奉じない人には、なんの権威もないものである。しかし、人生は依然として人生であるからして、ただ単に到達しがたいキリストの理想を示すのみで、最も大きな不幸の原因たる、きわめて痛切で一般的な問題について、なんらの指導もなしに世人を放擲するわけにゆかない。』

『若い情熱に充ちた人は、初めちょっとこの理想に没頭するかも知れないが、すぐ持ちこたえられなくなり、足を踏み辷らしてしまう。すると、もう一切の規律を無視して顧ることなく、極端な放縦に身を委ねるに相違ない!』

 とこう普通に人々は考えるのである。

『キリストの理想は到底達しがたいが故に、実人生において、われ〳〵の指導となることは出来ない。勿論、その理想を語ったり、空想したりすることは出来るけれど、生活においては実践しがたいものである。だから、むしろそんなものは棄てた方がよい。われ〳〵に必要なのは理想ではなくて、規律である。われ〳〵の社会の道徳力の平均レヴェルに基づいた、われ〳〵の力相応の指導者である。結婚せんとする者の一人(われ〳〵の社会では通常男)が、すでに多くの女と関係しているにもかかわらず、堂々と挙げられる教会結婚も結構だし、離婚を許可する結婚もよかろうし、届出結婚も可なりだし、それからまた同じことなら一歩進んで、日本風に期限を切った結婚も構わない。ついでに、女郎屋まで押し進めて行っても差支えないではないか。』

 こういう人たちは、それでも街上の淫蕩よりはまだしもだと説くのである。ここがつまり、困るところなので、いったん自分の弱さのために理想を引き下げると、もうどの辺で踏みとどまっていいか、限界が分らなくなるのである。

 しかし、この考え方はそも〳〵の始めから間違っている。まず第一に、無限なる完成の理想が人生の指導者となり得ないというのが間違っている。ちょっと一目その理想を見て手を振りながら、おれには到底達することが出来ないから、こんなものは必要がないといったり、自分の弱い心が望むところまで理想を引き下げたりする、それが間違っているのである。

 そういう風な考え方をするのは、ちょうど航海者が『おれは羅針盤の指す方向に行くことが出来ないから、いっそ羅針盤、すなわち理想を捨ててしまおう』とか、『羅針盤を見るのをよそう』とか、『目下、自分の船の進路に相当した方向へ、羅針盤の針を固定してしまおう、自分の弱さに相応なだけ理想を引き下げよう』などというのと同じ理窟である。

 キリストから与えられた完全な理想は、空想でもなければ、修辞的説教に属する事柄でもなく、人間の精神生活において最も必要な、すべての人の手に達し易い指導である。それはあたかも、羅針盤が必要にして、かつ手に入れ易いものであると同様である。ただ羅針盤を信ずるが如く、キリストの理想をも信じなければならぬ。人がどんな境遇にある場合でも、なすべきこととなすべからざる行為について、最も正確な指示を受けようと思ったら、いつもキリストから与えられた理想の教え一つで充分である。

 しかし、それにしても、この教えを──ただこの教えのみを信じなければならぬ。ありとあらゆるその他の教えを信じることをやめなければならぬ。それはちょうど、航海者がただ羅針盤のみを信じて、きょろ〳〵あたりを見廻すようなことなく、眼に入るものをことごとく手引きにはしないと同じ道理である。

 航海者が羅針盤を頼りとするにも呼吸があるように、キリストの教えを頼りとするのにも、やはり呼吸がいる。そのためには、何より第一に、自己の位置を了解しなければならぬ。そして、恐れげなしに、自分がどのくらい与えられたる理想の標準から離れているかを、正確に判定する勇気が必要である。人はいかなる理想の段階に立っていても、常にこの理想に近寄る可能がある。同時に、自分はすでに理想に到達したから、最早これより以上すすむことは出来ない、などといい得るような境地は決して存在しないのである。

 広い範囲におけるキリスト教の理想、また狭い範囲における純潔の理想への精進は、かくのごとき性質のものである。もし性問題について、無垢な幼年時代から、禁欲を守らない結婚期に至るまで、人さま〴〵の異なる状態を想像するならば、この二つの境地をつなぐ階段の一つ一つにおいて、キリストの教えとその啓示する理想は、常になすべきこととなすべからざることに関する、明瞭正確な指導となるであろう。

 純潔な青年子女はどうしたらいいか? ほかでもない、誘惑を避けて自らの純潔を守り、自己の力をことごとく神と人への奉仕に献げ得るために、ます〳〵思想と希望との純潔を守るべきである。

 ではすでに誘惑に陥って、一定の対象のない恋か、さもなければある一人に対する恋にうつつを抜かし、そのために神や人に奉仕する可能の幾分かを失った青年男女は、どうしたらいいか? やはり同じことである。そういう行為は決して誘惑をまぬがれる道でなく、かえってそれを強めるばかりだということを理解して、堕落に至る道を避け、少しでも余計に神や人に奉仕する可能を得るために、ます〳〵純潔に向って精進しなければならない。

 しからば、この争闘に打ち負けて、堕落した人はどうしたらいいだろうか? ほかでもない、今日一般に結婚という式さえ挙げれば、自分の堕落が正当な快楽になると考えているが、そういう考え方をしないのみならず、また相手を変えて幾度でも繰り返し得る偶然の快楽と見なしたり、釣り合わぬ相手と結婚式の手続きを履まずに堕落した場合のみ、これを不幸事として歎くような習慣を抛って、この最初の堕落はただ一度きりのものである、これは生涯やぶることの出来ない真の結婚である、と観じなければならぬ。

 かくして、結婚生活にはいることは、それから生ずる結果、すなわち子供の出産によって、神と人とに対する奉仕の新しい形式──比較的範囲の狭い形式を作り出すことである。結婚前の人間は、極めて雑多な形式によって、直接神と人に奉仕することが出来るけれど、結婚生活にはいるということは、人間の活動の範囲を狭めて、神と人に対する未来の奉仕者たるべき子孫の返還と養育を、人間から要求するようになる。

 では、すでに結婚生活を営んで、その境遇上やむを得ず、子女の返還養育という方法による奉仕を履行している男女の一組は、どうしたらよいか?

 やはり同じことである。相ともに協力して誘惑をのがれ、自己を清浄にし、神と人への奉仕を妨げる関係を廃し、肉的愛情に代えるに純潔な兄妹の関係をもってして、罪悪を中絶するように精進すべきである。

 それゆえ、キリストの理想があまりに高遠で、あまりに完全で、あまりに到達が困難だからといって、それをわれ〳〵の手引きとすることが出来ないと称するのは、間違っている。われ〳〵がそれを手引きとすることが出来ないのは、ただわれ〳〵自らを欺いているからである。

『キリストの理想以外にもっと実現し易い掟がほしい。そうしないと、われ〳〵はキリストの理想に到達することが出来ないで、堕落の淵に沈んでしまう』というのは、つまり『キリストの理想はあまりに高遠すぎる』というのではなく、『われ〳〵はそのようなものを信じないから、その理想によって自分の行為を決定したくない』ということなのである。

『われ〳〵は一ど堕落したら、もう淫蕩の淵に沈んでしまう』というのは、つまり結局『身分ちがいの女を堕落の相手にするのは、罪悪ではなくて娯楽であり、一時の無分別であって、何も結婚と称するものによって償う義務はない』と頭から決めてかかることである。もし堕落は罪悪であるけれど、それは永久不離の結婚と、それから生ずる子供の養育という事業によって償い得る、いな、必ず償わなければならぬということを了解したならば、堕落は決して淫佚に耽る原因となり得ないわけである。

 もし農夫が種を蒔いて成功しなかったとき、それを蒔きつけと見なさず、更に第二、第三の畑に蒔いた上で、結局はじめて発芽したところを本当の蒔きつけと認めるならば、その農夫は多くの土地と種子をそこなった上に、決して永久に種子の蒔き方を学び得ないであろう。それと同じわけであるから、ひたすら純潔を理想であると決めて、当人の人物や相手の人となりのなんたるを問わず、すべていったん堕落した以上、それをもって一生に一度きりの離れがたき結婚であると見なせばキリストの与えた手引きが充分用に足りるのみならず、実現の可能な唯一のものであることが、明白になるであろう。

『人間は弱いものであるから、力相応の問題を与えなければならぬ』と人々はいうが、それはちょうど、『わたしの手は弱くて真直な線、すなわち二つの点の間の一番短い線を引くことが出来ない。だから、わたしは真直な線を引きたいのだけれど、楽をするために曲りくねった線を手本にする。』というのと同じである。

 手が弱ければ弱いだけ、ますます完全な手本が必要なのである。

 いったんキリストの理想の教えを知った以上、それを知らないようなふりをして、外面的な規定をもってそれに代えることは出来ない。キリストの教えが人類に啓示されたのは、ちょうど現今の人類の年齢が、この理想によって導かれるのに適当なためである。人類はすでに外面的な宗教の掟を守る時代を過ぎてしまって、唯一人そのようなものを信じなくなったのである。

 キリストの教えは人類を指導し得る唯一無二の教えである。キリストの理想を外面的規定に代えることは出来もしないし、またなすべきことでもない。われ〳〵はその純真を傷つけないで、じっと目の前に捧げていなければならぬ。殊にまずそれを信じなければならぬ。

 航海者がまだ岸へ近いところにいる間は、『あの丘や、岬や、塔などを標準にしろ』ということが出来るが、やがてそのうち、船が岸を遠ざかった時には、その指導者となり得るものは、またなるべきものは、ただ方向を示す天体と羅針盤あるのみである。しかも、その二つともわれ〳〵に与えられているのだ。

底本:「クロイツェル・ソナタ」岩波文庫、岩波書店

   1928(昭和3)年915日第1刷発行

   1957(昭和32)年225日第29刷改版発行

   1979(昭和54)年310日第50刷発行

※誤植を疑った箇所を、「クロイツェル・ソナタ」岩波文庫、岩波書店、1950(昭和25)年1220日第19刷発行の表記にそって、あらためました。

※「だん〳〵」と「だんだん」、「さま〴〵」と「さまざま」、「とう〳〵」と「とうとう」、「さん〴〵」と「さんざん」、「ただ〳〵」と「ただただ」、「まだ〳〵」と「まだまだ」、「われ〳〵」と「われわれ」の混在は、底本通りです。

入力:阿部哲也

校正:岡村和彦

2019年1028日作成

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