わが師への書
小山清
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それは一冊の古ぼけたノートである。表紙には「わが師への書」と書いてある。あけると扉にあたる頁に「朝を思い、また夕を思うべし。」と書いてある。内容は一人の少年が「わが師」へ宛てて書き綴った手紙の形式になっている。これも青春の独白の一つであろう。以下その中の若干をここに抄録する。
先生、僕、ふと思うのですが、先生は鳥打帽がお似合いではないかしら。なんだかそんな風に思えてなりません。唐突にこんなことを云って、可笑しな奴だとお思いですか。でも、僕、いつも先生のことを想うときには、先生はきっと鳥打帽が似合うに違いないと独断してしまうのです。鳥打帽の似合うお年寄りは、僕好きです。僕はいまとても嬉しいのです。到頭先生に話しかけることが出来たということが。僕は至って小胆者で人と朝晩の挨拶を交わすことさえ満足に出来ない奴です。先生だからこそ、しょっぱなからこんな風に始められたのです。僕は先生には何んでも聴いて戴けるような気がします。僕はみんな話します。僕がどんな奴だか、追々お分りになるでしょう。
中学校の入学試験の際、口頭試問で将来の志望を問われた時、医者になりたいと僕は答えました。家の親戚に親切なお医者さんがいたのです。僕は子供心にそういう人になりたいと思いました。死んだ母もそれを望んでおりました。その後教会に行くようになってから、牧師になりたいと願うようになりました。信仰を失ってからは小学校の先生になろうかと思ったりしました。いまは、……無能無才、ただこの一筋につながる気持です。辺幅を飾らず、器量争わず、人を嘲わず、率直に「私」を語る心こそ詩人のものだと思います。僕の好きな一人の詩人の名を云ってみましょうか。ハンス・クリスティアン・アンデルセン。
死んだ母は僕に身分に不相応な小遣いをくれたものでした。僕はろくに読みもしない癖にいろんな本を買ったものでした。アンデルセンの自叙伝の英訳本もそのうちの一つでした。僕はおぼつかない語学の力で読んで行きました。表紙は浅黄色で、まん中にアンデルセンの首があって、そのまわりに天使や動物や花や玩具の絵が一ぱい描いてありました。背は濃い緑色で上の方に金文字で〝Andersen by himself〟と印刷してありました。小型のいい本でした。母の死後僕はそれを他の本と一緒に売り払ってしまいました。僕はいまひどく惜しい気がしています。……あの本があったらなあ、あの可憐な、慎ましい魂は僕の心を慰め、勇気を与えてくれるであろうに、一刀三礼、僕は心を籠めて訳してゆくものを。最初の一頁はいまでも暗誦しています。アンデルセンはその生涯を綴るに際して、こういう一行からはじめました。
〝My life is a lovely story, happy and full of incident.〟
「私の生涯はひとつの可憐なお伽噺です、幸福な、そして思い出多い。」
僕の行末がどうなろうと、わずかに彼に倣うことを得、一篇の貧しき自叙伝といくつかの fairly-tale を生涯の終りに遺すことが出来るならば!
医者、牧師、小学校の先生、……思えばいじらしき限りです。僕などが人の為に何を尽せるものですか。僕の心の何処を探ってみても、僕が何かを為たということの証は見出し得ますまい。僕はいままでに何ひとつしたことがないのです。親に傅ずいたこともない。師に仕えたこともない。友のために図ったこともない。手紙ひとつ心を籠めて認めたことはないのです。生来拙いというだけならば、自ら慰めもしようものを、人よ憐れめ、僕には誠がないのです。僕があのイエスの譬話にある怠惰なる下僕に自らを擬して、「自分はもてる一ミナをもとられてしまった。」と云ったとしたら、それはあまりに愚かなことでしょうか。僕のような者にも、自分の若さというものが、まとまって胸に浮んでくるような期が来るでしょうか。来し方の輪郭が自分でふりかえられる齢をもつことがかなうでしょうか。
先生、僕のような者でも詩人になれるでしょうか?
先生、今日僕は家の者と大喧嘩をやってしまいました。僕は祖母の背中をどやしつけました。なに、つまらぬことからです。祖母が死んだ母の悪口を云ったからです。祖母が悲鳴をあげたので、兄が飛んできて、兄と僕は掴み合いをしました。果は近所の人達が出てきて僕達を止めました。実はそんなに珍しいことでもないのです。僕は時々やらかすのです。近所の人達にも大分お世話になっています。この近辺では、僕はある種の通り者になっています。兄はまた孝行者の名を得ています。事実兄は孝行者なのです。
先生、へんなことを伺うようですが、先生の星廻りは何んですか? 僕は亥の生れです。亥ノ八白、これが僕の運の星です。なにやら語呂が藪井竹庵に似て、昔の医者の名のようですね。僕の本名の弱々しげなのにひきかえて、なんと悪びれぬ面魂をしていることよ。わが運勢よ、竹庵先生が治療の手腕に似て、強引に逞しくあれ! 人は僕のことを「ばか図々しい。」と云います。「さっぱりお感じがない。」と云います。僕も自分に云います、「お前は猪ではなくて、豚だ。」と。僕はなんとも臆面がない。誰にでも見つける、しおらしさというものを僕は持ち合せていないかも知れません。恥知らずになると極端に恥知らずになります。そういう時、僕はどんな侮蔑の眼にもたじろぎません。名は体を現わすと云いますが、亥ノ八白とは僕にしっくりはまった名前かも知れませんね。実は僕、気に入っているのです。でも、先生、いま僕はたじろがないどころではないのです。いま僕は人にうしろ指一本さされたくなく、陰口一つきかれたくない気持なのです。神妙に暮したい気持で一ぱいなのです。おとなしい、内気な、女の人から同情されるような、そして同じような内気な心の娘からそっと思われるような、(先生、笑わないで下さい)そういう若者になりたい、そんな気もしているのです。なんだか、ひどく引込み思案になってしまいました。もともと僕は意気地なしなのです。人と和解するためならば、僕はその人の足の塵をはらうことも辞しないでしょう。
僕はすべてに誇りが持てないのです。自信がないのです。
僕は現在二階の二畳の部屋に寝起きしています。父の稽古部屋の隣りです。(僕の父は浄瑠璃のお師匠さんです)母の箪笥が置いてあり、僕のものでは小さい机が一つあるきりですが、それに僕を加えると部屋は一ぱいになってしまいます。夜僕はここに蒲団を敷いて眠ります。結構寝られます。ここで僕はわずかに夜の時間を楽しみます。稽古の客の帰った後の二、三時間を。調和ある時々。本を読んだり、先生とお話しをしたり……。
緑雨はこんな手紙を書いていますね。
「そうだ、こんな天気のいい時だと憶い起し候は、小生のいささか意に満たぬ事あれば、いつも綾瀬の土手に参りて、折り敷ける草の上に果は寝転びながら、青きは動かず白きは止まらぬ雲を眺めて、故もなき涙の頻りにさしぐまれたる事に候。兄さん何して居るのだと舟大工の子の声を懸け候によれば其時の小生は兄さんに候……。」
今日はいい天気だったので、昼飯を食べてから、堀切の方まで散歩しました。菖蒲園なども開いていて、遊山の人の姿も見られました。小菅の刑務所の見える堤に、遊山の人からは少し離れて、仰向けに寝て休みました。浅草の方の空に浮んでいる気球広告を眺めていたら、頭のわきに立った人がありました。兄さん何して居るのだ? 巡査でした。不審訊問なのでした。僕を不良とでも思ったらしいのです。「女子供が遊びにくるので、悪い奴がくるという話なんだが。」こんなことを云いました。僕は水神にいる親戚の名も告げました。すると「無心にでもきたんじゃないのか。」と云いました。立ち去るきわに「自分でもへんだと思わないかい。」と云って、さげすむような笑いを見せました。それは自分の思い過ごしを弁解するもののようにも、また僕を憫れむもののようにもとれました。僕は吐胸を突かれる気がしました。僕は自分のなりをかえりみました。僕はふだん大抵中学時代の制服を着て、朴歯の下駄を履いています。大して胡散臭いこともないじゃないか、と自分に云ってみました。
でも僕はどこかへんなのですね。人相もよくないのですね。僕は前にも咎められたことがあるのです。浅草公園で人にまじり、活動館の前に立って陳列の写真を覗き込んでいたら、その向いの交番に呼び込まれましたっけ。僕にはいつの頃からか、活動館の陳列の写真を見るとき、憑かれたように見入ってしまう癖がついてしまいました。放心していて掏摸に袂を切られたこともあります。また本屋の店頭で立ち読みをしていた時、知った人に肩を叩かれたことがあります。その人は云いました。「そんなに睨みつけていたら、本に孔があいてしまうぜ。」活動館の前や本屋の店先に突立っている時の僕の姿は、人が見たら、随分みすぼらしく、へんなのかも知れませんね。
巡査が去ってから僕はまた堤にしゃがんで、水や蘆を眺めながらぼんやりしていましたが、だんだん気持が滅入ってきました。そして憤ろしさが込み上げてきました。いまのさき巡査に対してはどんな感情も抱かず、素直に応えていたのですが、そのことがまた堪えられない気持でした。自分はふだん理不尽に辱しめられることが多い……僕はこの時もまたそういう、そしてそれはもう巡査を対象としたものではない感情にとらわれました。そして果は、自分は駄目だ、そういう己に返る無力感をまたも堪えねばなりませんでした。僕は参った気持で帰途につきました。かりそめの不審訊問が僕に毎度の憂鬱を呼び起したのです。
堀切橋を渡って鐘紡のあたりまできた時には、僕の気持も少しなおってきました。友達が欲しいという思いが胸に湧きました。すると僕の気持は吐け口を見つけたようにその思いに注がれました。友達は持てるぞ、友達は持てるぞ、そんなことを思い、心は楽しくさえなってきました。白髭橋の袂でふと見かけた古道具屋で、僕は古ぼけた額を一つ買って帰りました。その中におさめてある複製の絵と、またその額の古風で単純なのが気に入ったのです。絵は父と母と子を描いたものです。おそらく異国のすぐれた古人の筆でしょう。そのことに暗い僕には何もわかりませんが。ある上流の家庭を写したものでしょう。壮年の父母と若い息子(僕より一つ二つ幼いでしょう)を配した画面からは、良家の行儀正しさとでもいうべきものが伝わってきます。威厳に満ちた父、優しい母、そして二人の間に、父の、母の面影のしのばれる、初々しい感じの若者。静かなもの、正しいもの、暖いもの、優しいものが感ぜられます。その時の僕の和んできた気持はこの絵に惹かれたのです。値段も安かったので買って帰りました。箪笥の上に飾ってあるのがそれです。さきほど兄が見て「何んだい?」と云ったので、「外国のさる由緒正しい家族の絵だ。」と云ったら、解ったような顔をしていました。
額の中の人達は僕の独りを助けてくれることでしょう。
今朝起きぬけにわが家の新聞をひろげたら、運勢の欄が眼につきました。
楽しき一行、これを見て訪問の心を起した人もあったことでしょう。しかし僕には訪ねる友もありません。図書館へ行けというほどの辻占かも知れぬ、しばらく御無沙汰しているから、僕はそんなことを思いながら、新刊書の広告など見て行きました。あの短かな紹介文というものには、ふしぎに惹かれますね。著者が力量、精進のほどを伝えて妙、まあそんな気もします。著者の言葉の引照してあるのもありました。「余は正しき良心と誤りなき反省とをもって、この書を綴った。」どうも自分には刺戟が強いと思われました。「正しき良心」と「誤りなき反省」、僕は広告面を眺めながら己の無為が省みられ、どの書物もが僕に向ってそう云っているように思われました。なにかとりのこされたようなさみしい気持になりました。青春むなしく逝くを悲しむ。そうした感情が、呪文のようにも、また悔恨のようにも、苛立たしく、切なく胸のうちを通りぬけて行きました。朝飯を食べながら、僕は自分の貧しさを呑み下す気持でした。そのとき、ひとひらの風の便りが舞い込みました。しかも水茎の跡すなおなる玉章。御披露します。
「この朝夕を如何にお暮しですか。またひどく屈託なさっているのではありません? 貴方は御自分でお考えになるよりは、ずっと自由な生れつきなのに、なにかというと考え込んでおしまいになるのね。屈託げな御容子が見えるようだわ。貴方の御機嫌をとってくれる人は、誰もいないのですか。私だとて、優しさとお世辞は持っていますわ。でも、私は辛抱づよいの。遠く見て、いつも幼い心で歩いて行きたいのです。独り屋根裏部屋に住んでいたアンデルセンの許へ、夜毎その窓辺に訪れて、さまざまのことを語り明かした、あの月、あれは私。私は貴方の不器用な天使。貴方のよろめく姿と私の心と、なんとよく似ていること。でも私はなによりも貴方の声がききたいのです。どこまでも自分の人生を語りつづけて行く貴方の声がききたいのです。沈黙ってしまうようではいけません。いつでも自分の心を語れるようでなくては。生活に臆病にならないで。幼いハンスが独りで世の中へ出て行った時に、どんなに素直で勇敢であったかを思って下さい。貴方が心さみしく助力というものを欲しいとお思いになった時には、私のことを思って下すってもよろしいわ。貴方の志を嗤わない者が、貴方を疎む心になど決してならない者が、一人いることを思って下さい。あのね、いつかきっとお逢い出来ると思っています。ではお元気でお暮しなさいませ。さよなら。」
「先生、僕のような者でも詩人になれるでしょうか?」
「なれるとも。心配しなくともいいよ。君は人相に善いところがあるよ。」
「でも、僕は駄目なのです。何も持っていないのです。」
「どんな小さな草の芽でも、花の咲く時のないものはない。どんな人でも自分に持って生れたもののない人はないのだよ。あのゲエテやトルストイのような人達でも、先ず自分の持つものを粗末にしないところから出発したというじゃないか。そして長い生涯の間には他人と交換したものでもそれを自分のものにすることが出来て行ったというじゃないか。」
「僕が子供と遊んでいるのを見たら、人よ、せめて陰口をきいてくれ。子供は何も知らないからと。僕が花を摘んだら、さげすみの眼で見てくれ。僕が花で僕の部屋を飾るのを。」
否。
「僕はイエスが子供が好きなように、子供が好きなのだ。イエスが野の百合を愛したように、僕はすべて可憐なものに心を惹かれるのだ。」
先生、こんなものが書けました。読んで下さい。
僕の妹は今年六歳に成る。おそ生れだ。頸も細く、顔なんか小さく、一掴みになりそうで頼りないなあって気になる。紅いちゃんちゃんなんか着ている姿には、なにか猿の子を聯想させる幼い獣めいた感じがある。妹を抱いて毛深い襟もとに僕は生な愛着をそそられるのだった。
去年の夏、母が死んだ。母の死は僕にとって生れて初めてのものだった。僕は滅茶苦茶な心で母の死に面接した。傍らには母を失くした妹がいる。が、僕はこの幼いものの生命に母の死が何んであったかを知り得ない。僕は母の死に面接したまま、祖父の死を、弟の死を送った幼い頃の自分のことを思った。
今年の春、妹のとこへ新しい母が来た。妹は「お母ちゃん、お母ちゃん。」と云って懐いている。
妹も同じ年頃のものと遊ぶように成っている。弱虫で年下の友達によく泣かされる。僕は妹の泣き声をよく聞かされる。僕はまた、遊びの輪から離れて小さな顔を歪ませている妹をよく見かける。
御飯の座などで兄が、「ジョン公の方がおとなしく云うこと聞いて可愛いいや。」と云うと、「ジョン公の方が可愛いいって云ったあ。」と云って泣く。「あたいを可愛がってくれない。」と云って泣く。きつく叱ると、「ぶったあ。」と云って泣く。妹にはひどくこたえるのだ。大人達の無神経は妹の泣き声の一心を感じないのだ。僕のような弟を持ち、妹とて子供らしい意地をあらわしはじめた……兄の言葉に兄の気持が感ぜられるだけ、僕は癇癪が起きるのだった。
妹はか弱くなった……そういう僕はこの五月徴兵検査を受けた。しばらく逢わなかった人は「大きく成ったね。」と云う。生きて行く上に多少意識的になってきた気持で、僕は妹の身を心配する。……自分を育てるものは自分の他にない、妹だって自分でやってゆくようになるんだ。
夜、電燈の下に家内のものが集った座などで、僕は妹を抱いて、ふっと妹を案じる心になって、
「早く大きくなってくれよ。」
妹にでもなく、そう自分の気持を云ってみるのだ。
僕の神経も疲れている。僕は幼いもの達の喧嘩を夢にまで見てしまった。夢の中で僕は妹に加勢し、躊躇することなく、相手の女の子の顔を踏んづけた。
今日は朝から小雨が降っています。このしずけさにいてお便りをしたためます。
隣りの稽古部屋から「吉田屋」をさらう声が聞えてきます。声の主はAさんといって、家へ見える連中さんでは旧い人です。僕のほんの子供の時分から見えています。Aさんはいい声なので僕は家にいれば聞くようにしているのです。それにこの、恋風や、……からはじまる夕霧の出は好きなのです。
先生は浄瑠璃はお好きですか? 僕は父が教えてくれれば習いたいのですが、習えるどころではありません。この間父にどうして浄瑠璃などを習ったのかと訊いたら、「好きだったから。」と一言云いました。気のない返事でした。でも、詩人志願の息子はそれだけでも嬉しく、満足に思いました。
いまのさき父に伴いて朝湯に行って来ました。父は眼が見えないものですから、昼前の湯屋の混雑しないうちに行くようにしているのです。帰ってから稽古部屋で父に「蘭斎歿後」を読んできかせました。一緒に湯に行くことと本を読んできかせること、これはこのほどふと始めた日課のようなものですが。(いつまで続きますことか)読みながら「どう?」と訊いたら、「うん、おもしろい。」と云いました。父の興を惹いたようでした。父はどういう心で聴くのでしょうか。この日課を始めた時、僕はまず「破戒」を読んできかせました。次に「多情仏心」を。父はいずれも興がって聴きました。しかし父は自分から求めることはしません。いつも僕が押しつけるのです。いつまで続きますことか。
父は今年四十七歳になるのですが、どういう心でいるのでしょうか、僕のことをどんな風に思っているのでしょう? 僕の父はほんとに黙っている人なのです。父は僕に対しては多く頑な無関心な態度でいて、うち解けてくれることもすくないのです。それに父はあまり僕を好きではないらしいようです。僕がこんな風に思ったりするのも、一つは父が盲目なため、小さい時から常に人にかえりみられてきて、一家の主としても、父親としても、自ら配慮するということのなく、配慮される人であるためでもありましょう。父親というものは息子に対してどんな気持を持っているのでしょう? 世間の年頃の息子を持った父親の心というものはどんなものなのでしょうね。先生、僕がこんな風な考え方をするのはへんですかしら。僕が父にもっと親しみを抱いていたら、おそらくこんなことは思いますまい。
僕の父は滅法善い人です。やさしい、善い心の人なのです。人に立ち交ったこともなく、世間というものを知りません。父が浄瑠璃などを習うようになったのは、盲目になったためからでしょうが、生れつき父の躯には好きなものへの血が流れていたのだと僕には思えます。父の周囲、僕の一家もまた芝居、音曲などの好きな連中の集りですが、父を除いては誰も粗い気質の人達ばかりです。一家のこの方の趣味にしてからが、もっと人柄に浸み込んだものであったなら、僕の家庭の空気にも、もっと柔かな、砕けたものが流れ込んでいたことでしょう。そういうものを持っているのは、陰気な黙りがちな父だけなのです。家にはいま六つになる妹がいますが、父は時にそんな幼いものを相手に、玩具の三味線などを手にして、おどけて見せることがあります。そんな時の父には、巧まない、瓢逸なところが見られます。僕はまだ子供の時分、夜の明け方ごろになると、隣りの父の寝床に這い込んでいっては、よく父に「お話して、お話して。」とねだったものでした。すると父は、いつでも「うん。よし、よし。」と云って、寄席できいてきた、落語や講談の話をしてきかせてくれました。僕の記憶には、父の話振りが、なかなかユウモラスな、上手なものとして残っています。父はまた自ら畳の上に仰向けになって、揃えた足の裏を子供の僕の帯のへんにあて、僕に手足を動かさせては亀の子の真似をさせたりしました。また、自分の背に僕を仰向けに背負って、「千手観音。」だと云って戯れたりしました。子供の僕は父の背で、「千手観音、拝んでおくれ。」などと云ったりしました。僕はこの遊びが好きで、よく父にせがんだものでしたが。もし父が並の躯であったなら、父のこういう為人はもっと外部にあらわれて、広く、暖く、家庭を包んだことでしょう。
父が浄瑠璃を習うようになったのは、十三、四の頃からだといいます。周囲の者が父の為に図り、また父にも少年としての決心があったことでしょう。三十年余もこの道に親しんできたわけになりますが、そういう人として父はいまどんな心でいるのでしょうか。僕も自分の拙さを忘れて、自ら好める道に進もうとしている者です。そういう僕はやはり父のうちに一人の芸人を見たいのです。もしも父が僕の道の先輩であるならば、僕は父の書いたもののうちに、動じない父の心を見出すことも出来得たでしょうに。悲しいことに、浄瑠璃のことには、僕は自分のうちに自ら恃むどんな情熱も見出し得ません。僕は父の語るのを聴き、口惜しい思いをします。父の芸のいいものであることだけは僕にも解るので、それだけ、芸人としての父に心許なさの感ぜられるのが、淋しい気がします。僕はもっともっと浄瑠璃に心を傾けることで、拠りどころを見出しているような父を見たいのです。そうでなければ、父という人はあまりに淋しい人です。この間ラジオで父の先輩の人がその道の話をしたのを聴きました。その人は云いました。「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。」芸に就く者の心のほどを感じ、僕の年若な心が父に望むものが、決して大人から笑われるようなものでないことを確めました。また父の語物のうちで僕がよく知っているものを、さる人が放送したのを聴きましたが、その時僕は父の方が立派だと思わないわけには行きませんでした。父もそれを聴いて、ちょうど見えていた連中さんと話していましたが、恃むところのある口振りでした。僕は隣りの二畳にいてそれをきき、流石に興奮を催すこともあるのだなと思い、愉快でした。父はふだん大変ぼけた善人で、僕は淋しく、歯がゆいのです。僕は父のために檜舞台と喝采が欲しいのではありません。(ああ、もしその喝采をきくならば、僕はどんなに嬉しいことでしょう)ただ、芸のことと、己の道のことにつき、父の心に自若たるものを望むのです。芸のことと、己の道のこと、それはまた僕の行手にある問題なのですから。ここにフィリップの言葉があります。「芸術家とは、つねに自らに耳を傾け、自分の聴くことを自分の隅っこで率直な心で書きつける熱心な労働者なのだ。僕は、自分の思いどおりの木靴を作るために働く村の木靴工と、人生を自分が見るがままに物語る作家との間に、差別を認めない。」こういう言葉は僕を励ましてくれます。父の芸の道に於て、僕には父をどう輔けようもなく、そのことを思うと、いつも淋しい気持にとらわれます。
僕はこの頃思うのです。僕達兄弟の中で、誰よりも僕が一番父に似ている、と。かく云えば、おそらく家の者や知人の顰笑を買うことでしょうが。また僕は思うのです。僕達兄弟の中で誰よりも死んだ母に似ているのは、僕だと。僕の眼が死んだ母の眼に似て怖いということ、これはふだん誰もが口にしていることです。これらはみな、なにがなしにそう思うのです。なんだかそう思えるのです。父の、母の、稀なやさしい善い心を僕はもらうことが出来ませんでした。ただ一つ僕に親譲りの顕著なる特質があります。それは母に似てひどく汗っかきなことです。死んだ母はまれな汗っかきでした。夏になると、実に玉の汗をかきました。母の働く性質を、その濃情を語りがおに、汗は満ち溢れ、流れました。母はハンカチはいつもぐしょぐしょでした。先生、僕も汗っかきなのです。とても母には及びませんが。僕は人から随分汗っかきだねと云われると、いつでも「ええ、親譲りでね。」と答えます。僕には愉快なのです。僕は自分が陰性な厭な奴だと思うので、自分にそんな、人に隠せないものがあるというのが、ひどく嬉しいのです。汗っかきということは、悪い感じのものではありませんね。父はよく独りで稽古部屋にいて、指を噛んだり、膝頭を叩いたりして、見えぬ眼をむいて、なにやら唸っていることがあります。なにに興じ、なににわれを忘れているのでしょうか。僕もよく二畳の部屋にいて、指の背を噛みながら、止めどない想いに耽ります。これは父に似たのかも知れませんね。
先生、昨日僕は久し振りに図書館へ行きました。そして漱石の書簡集を読んだのです。あれには師から弟子へ宛てたものが、沢山集めてありますね。年若い弟子を持った師の心が、躍如として僕の胸に迫りました。そして読んでいる僕の心にふいに活きかえって思い出された一つの言葉がありました。それは、芥川龍之介の死後一友人が生前芥川がその人に告げた言葉として、その追悼の文辞の中に録した言葉なのです。芥川はその人にこう云ったといいます。「君が漱石先生に逢っていたら、君と僕との間柄も、もっと違ったものになっていただろう。」と。漱石に逢いたかったという思いが僕の胸に湧きました。
先生、僕も恥知らずでは生きて行けません。「お前は間違っている。こうしなさい。それはこういうことなのだ。くよくよすることはいらない。」
僕は僕を叱る声がききたいのです。僕の疑惑と逡巡を断ち切ってくれる言葉が欲しいのです。
影は妹のごとくやさしく
幸福が私と肩を並べて歩いた。
僕は散歩の途上、わが身をかえりみては、よくこの詩を口ずさみ、歩調をととのえようと試みるのです。幸福は、やさしき人のことを思う故にはあらず、われにかしずきくれる、はしき妹のわが家にあるにあらず、独り木下蔭をゆくとき、道のべに佇むとき、ふとわが身を訪れる、なごみゆく心……空の色、樹木のたたずまい、道ゆく人の顔、さては蹲る犬の眼差し。僕は眼を惹く限りのものに眼を止めては、調和ある心を得ようと努めるのですが、僕の朴歯の歩みは依然としてぎごちないのです。
影は妹のごとくやさしく
幸福が私と肩を並べて歩いた。
ああ、親しい心の時よ。心のうちにこの詩を呪文のごとく唱えつつ、僕は慰まぬ散歩を続けて行くのです。
先生、ふと口をついて出たようなこの詩を僕は好きなのですが、どうお思いですか? 誰の詩だか御存知ですか? 首をかしげている先生の顔が見えるようです。この詩は、さあ、誰の詩だと云ったらいいでしょうね。「影は妹のごとくやさしく」これは「侘しすぎる」の清吉がふと思い出て口ずさむ文句なのです。「幸福が私と肩を並べて歩いた」これはヴェルレエヌの詩の一行です。「侘しすぎる」を読み、この句を見出して、清吉のようにこれをくりかえし、くりかえししていたら、僕の心にヴェルレエヌの詩が思い浮んだのです。僕は二つの句を並べて口ずさんでみました。「影は妹のごとくやさしく」誰の云った句かは知りませんが、こう並べてみると、ある心持が感ぜられますね。「いい句だ、ほんとうの淋しさにあった人の云った句だ。」と清吉は思うのですが、「幸福が私と肩を並べて歩いた」ヴェルレエヌもまた不幸な人だったのですね。それでこの二つの別々の言葉が一人の人の口から吐かれたような親しさを呼ぶのですね。
影は妹のごとくやさしく
幸福が私と肩を並べて歩いた。
和やかなもの、秘かなもの、親しいもの、楽しさがその人を訪れたことが感ぜられますね。
先生、今朝明け方、僕は夢を見たのですよ。僕が女の人の肩を抱いて、道を歩いていた夢なのです。ただ、それだけの夢なのです。その女の人とどんな話を交したわけでもないのです。ただ、ね、先生、その時の僕の心は楽しかったのです。満されていたのです。僕が現実では一度も味わったことのない心地で僕はいたのです。夢の中で僕は完全に幸福だったのです。夢がさめてからもその感動は残っていました。僕はいつまでもその楽しさの後味を味わっていようとつとめました。その時の僕の気持は、あの詩に感ぜられるものよりは、もっと濃いものだったかも知れません。
その女の人はある映画女優にも、また以前家に稽古に来たことのある娘さんにも似ていました。僕はその映画女優に惹かれたこともなければ、またその娘さんのことを心に思ったこともないのですが。ただ僕は夢の中で僕が味わった甘美な気持を忘れることはないでしょう。現実では僕はそれを知らないのですから。
僕にはずっと前にも、これに似た夢の経験があるのです。その夢では、僕は少年時代の友と背を並べて歩いていました。そしてその時も同じ様に僕の心はわりなき楽しさに浸っていたのです。抑制、気づかい、そういうものから心はまったく自由にされ、云いがたき楽しさのみがありました。
先生、僕はどうしてこんな夢を見るのでしょうね。どうして現実の生活が僕にくれたことのないものを、夢の中では経験することが出来るのでしょう。
現実では僕の手はまだ一人の友の肩も抱いたことはないのです。
日頃本を開き、「仲よし」とか「気の合う」とか「好いた同士」とかいう活字が眼に映ると、僕は心がうぶな娘の心のようにときめくのを感じます。また、路上や電車の中などで、中学生などの親密な狎れあいを眼にするとき、僕の胸は消しがたき淋しさに襲われます。
僕はこれまで女の友達など持つ機会もなくて過ぎてきたせいか、わが身に恋人を想像することよりも、一人の友の腕を欲する心の方が、いまも強いのです。僕はどうやら、子分肌、弟分肌に生れついているようで、人に頼る気持がいつまで経っても抜けずにいます。その癖傲慢な奴で、ちっとも可愛げなどはないのですが。僕は長い間、一人のよき兄貴が欲しい思いでしたが、いまは兄貴という人よりも、温和な同年の友のことを想像します。
先生、好きな友のことを語らせて下さい。さあ、どういう風に話したらいいかしら。
友は僕よりは脊は少し低く、しかし躯つきは、僕よりもがっちりしているのです。人は友を初めて見た時、へんに跼蹐としたものを感ずるのですが、見ているうちに、それがまるっきり反対なものであることを知ります。友の顔はよく見ると、のびのびとしたものなのです。どちらかというと、怖いむっとした顔つきなのですが、若々しい感じがあって、怖い眼つきにまたやさしいところがあるのです。全体の感じは、岩だとか、熊だとかいう言葉を想わせるのですが、またいつも柔和なものが感ぜられるのです。人は友に対しては奔る熱情よりも、潜む静かな力を感ずるのです。才気煥発して衆目をあつめるなどいうことは、友の柄ではないのです。生活上の種々なことに於て、人に譲歩する寛い心を持っているので、些末なことで人と争ったり、人をへこましたりすることを好みません。ですから時に友の寛容を愚鈍と見誤った小人共が、友を以てくみし易しと見て、失敬なこともするのですが、でも友はそんな連中を叩き伏せることなどはしないのです。いつか自然と友の周囲からは、無意味なひやかしなどは影を消してゆくのです。とりわけて兄貴肌というわけでもないのですが、温和なむらのない心が自然と好感をよび、同年の者よりは長者の信頼を得るような、そんな有為な感を抱かせる人柄なのです。しかもその心はまれな無邪気と率直さを持っているのです。
この友と僕は中学時代にめぐりあった、と、まあそんな風に想像してみましょう。
僕は中学の三学年を二度学びました。その二度目の春、一人の馴染みもない仲間の中に、地方の中学校から転校してきたこの友と僕は、二人の新入生として机を並べたのです。最初の日の博物の時間でした。出席簿を見て生徒の名を呼んでいった先生が、僕の番にきた時、顔をあげて、「おや、君は落第したのか?」と思わず口走ったのでした。僕は曖昧な笑いを浮べました。一瞬、教室に笑声が起りました。僕はそっと隣りの生徒の顔を見ました。その朝校庭でその生徒の顔を見た時から、心を惹かれていたのでした。その生徒は教科書の上に眼を落していましたが、笑いを忍んでいる風は見えませんでした。僕はその無心さに聡明なものを感じました。
友はなまけ者の僕と違って、まじめに勉強しました。しかし、どの科目に特別秀るということもなかったのです。ただ、剣道部の秋の試合に示した、友の沈着な技量は僕達を驚かしました。この地味な新入生がそんな卓抜なものを持っていようとは、それは誰にも思いがけなかったことなのでした。友の好ましい為人はだんだんに僕達の間に知られてきました。しかし、友は決してはにかみやではなかったのですが、無口な質だったので、誰とでもすぐ親しくなるという風ではなかったのでした。とりわけて遊び友達というものもありませんでした。ただ一人、仲よしがありました。それは僕なのです。はにかみやでそして傲慢な僕が友の一人の仲よしなのでした。新入生として机を並べたことが、自然と僕達を近づけたのですが、僕達はすぐとお互いの間に素直に通じあうもののあるのを感じました。初対面の時の直感はいつも心にあって、二人の間で裏切られたことはありませんでした。また、友の敏感な心はすぐに僕のへんな泣きどころを感知してしまったのでした。友のやさしい眼が僕に対して大人びた光りを帯びるようなことがありました。それは僕を狼狽させるものでした。しかし、僕は友が好きだったので、それに僕は素直なところもあるので、友に対して自分をかまえるようなことはしませんでした。友の心が僕を包むのをおぼえることもありました。地理の宿題で大変綿密な地図を描かせられたことがありました。面倒がりやの僕は中途でそれを放擲してしまったのですが、友はそのために徹夜して僕の分まで仕上げてくれました。
或る日午休みの時のことでした。友と僕ともう一人の同級生との三人で、校舎の窓の下に倚りかかって雑談をしていました。午後のはじめの授業は教練だったので、僕達はゲートルを着けていました。ふと友が僕の足を見て、ゲートルの巻き方の下手くそなのを笑いました。僕はひどく不器用でゲートルが満足に巻けたことはなかったのでした。しかし友も決して上手な方ではなかったのでした。僕は友のゲートルに注意して、その、巻き方の正式でないのをなじりました。それから僕達の間にゲートルの正式な巻き方について争論が起りました。一瞬、僕達は熱中しました。その時、もう一人の同級生が、「君達はいつでもすぐ喧嘩をするんだね。仲がいいから喧嘩するんだね。」と云いました。僕達はそんなに口論をしたことはないのですが、この同級生の言葉をきくと、友は頬をあからめ、校舎に背を強くこすりつけて、はにかんだような顔をしました。僕にはわかりました。友には嬉しかったのです、僕と仲がいいと人に云われたことが。僕は決して早熟な少年ではなかったのですが、ただ僕の胸には自分が厭な奴だという思いが早くから兆していました。僕は人と親しみあうことも少く、独りの気持には慣れていました。僕は友の顔を見て、ああこの友は僕という人間をほんとに好きなんだなと思いました。僕はこの時初めて人の顔に、自分に対する偽りのない好感を見たのです。ああ、僕は単なる軽挙妄動の徒に過ぎないのに。一介の破廉恥漢に過ぎないのに。
先生、実は最初このノートに向った時、僕は迷ったのです。誰の胸に「僕はね、僕はね。」と云い送ろうかと。僕の胸のうちには三人の人がいるのです。先生に、この友に、そしてもう一人、或る女の人と。その女の人は僕の親しい身寄りの人で、僕の赤ん坊の時分から僕を知っていて、いつまでも僕の成長を見護っていてくれる心を持っている人なのです。大柄な、髪のゆたかな、なんでも承知しているような、やさしい愁い顔の人なのです。僕はその人を「おばさん。」と呼びます。
「男の子は頑張らなくては駄目。最後からでも歩いて行きなさい。」
その人は時にきびしく、時にやさしく、それから、笑ってはいけません、時々お小遣いをくれるのです。
僕は随分迷ったのですが、でも僕の心は強く先生の方に惹かれました。
僕は学校にいた時分、時々授業をエスケープしては、よく隣りの海軍墓地へ、境の柵を乗り越えては入り込みました。墓地の奥の方には広い草地があって、僕はそこまで出かけて行っては、独りの時を送りました。
瑠璃色の水 空に流れ
気澄みて 涼しく
われ ひともとの桜樹の蔭に立ち
その実摘み 押しつぶし
葡萄色 掌を濡すを楽しむ。
僕は草のうえに坐ってこんな詩を詠んだりしました。そしていつも先生のことを思い、傍らに先生を想像しました。先生はやさしい眼差しで僕を見ました。そして僕の話すのを静かに聴いてくれました。「心配しなくともいいよ。」先生の眼は僕に向って、こう云っているように思われました。
底本:「落穂拾い・犬の生活」ちくま文庫、筑摩書房
2013(平成25)年3月10日第1刷発行
底本の親本:「小山清全集」筑摩書房
1999(平成11)年11月10日発行
初出:「東北文学 第三巻第十一号」河北新報社
1948(昭和23)年11月1日発行
入力:kompass
校正:酒井裕二
2019年2月22日作成
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